扁鵲
扁鵲は、勃海郡鄭の人であり、姓は秦氏、名は越人である。若い時、人の客舎の長を務めていた。客舎の客であった長桑君が通りかかると、扁鵲は彼を特に異人と見なし、常に丁重にもてなした。長桑君もまた扁鵲が普通の人ではないと知っていた。出入りすること十数年、そこで扁鵲を呼んで二人きりで座り、ひそかに語って言うには、「私は秘伝の処方を持っているが、年老いたので、あなたに伝えたい。あなたは漏らしてはならない」と。扁鵲は「謹んで承知しました」と言った。そこで彼は懐中の薬を扁鵲に取り出して言うには、「これを上池の水で飲むと、三十日で物事がわかるようになるだろう」と。そして彼の秘伝の処方の書をすべて扁鵲に与えた。忽然として見えなくなり、おそらく人ではなかったのであろう。扁鵲は彼の言葉に従って薬を三十日間飲むと、垣の向こう側の人々が見えるようになった。これをもって病気を見ると、五臓の癥結がすべて見え、ただ診脈を名目とするだけであった。医者として、ある時は斉に、ある時は趙にいた。趙にいた時は扁鵲と名乗った。
晉の昭公の時、諸大夫が強くて公族が弱く、趙簡子が大夫として国事を専断していた。簡子が病気になり、五日間人事不省となったので、大夫たちは皆恐れ、そこで扁鵲を召した。扁鵲が入って病気を診察し、出てくると、董安于が扁鵲に尋ねた。扁鵲は言うには、「血脈は正常です。何を怪しむことがありましょうか。昔、秦の穆公がかつてこのようになり、七日目に目覚めました。目覚めた日に、公孫支と子輿に告げて言うには、『私は天帝の所へ行き、とても楽しかった。私が長くいたのは、ちょうど学ぶべきことがあったからだ。天帝が私に告げて言うには、「晉国はまさに大乱し、五代の間安らかでない。その後、覇者が出るが、年老いる前に死ぬ。その覇者の子がやがてあなたの国の男女の区別をなくさせるであろう」と』。公孫支はこれを書き記して蔵し、秦の策書はここに出たのである。献公の乱、文公の覇、そして襄公が殽で秦軍を破り、帰って放縦淫らに耽ったこと、これらはあなたの聞くところである。今、主君の病気はこれと同じであり、三日を出ずに必ず快方に向かい、快方に向かえば必ず何かを言うでしょう」と。
二日半を経て、簡子は目覚め、諸大夫に告げて言うには、「私は天帝の御所に至り、大いに楽しみ、百神と鈞天に遊び、広楽九奏の万舞を観たが、三代の楽とは似ておらず、その音は心を動かすものがあった。一頭の熊が私を捕らえようとしたので、天帝は私にこれを射るよう命じられた。私は熊を射て、熊は死んだ。羆が来たので、また射ると、羆に当たり、羆は死んだ。天帝は大いに喜び、二つの笥を賜ったが、どちらにも副えの物があった。私は子供が天帝の側にいるのを見た。天帝は一匹の翟犬を私に託し、『お前の子が壮年になった時にこれを賜え』と言われた。天帝は私に告げて言われた、『晋国はやがて世を経て衰え、七代で滅びる。嬴姓(秦)が范魁の西で周人を大いに破るが、それもまた所有することはできぬであろう』と。」董安于はこの言葉を受け、書き記して蔵した。扁鵲の言葉を簡子に告げると、簡子は扁鵲に田四万畝を賜った。
その後、扁鵲が虢を通りかかった。虢の太子が死んだ。扁鵲は虢の宮門の下に至り、方術を好む中庶子に問うて言うには、「太子は何の病にかかり、国中で穰(除災の祭)を行うことが他の何事よりも盛んなのか?」中庶子が言うには、「太子は血気が時に応じず、交錯して泄れることができず、外に暴発したため、中害となったのです。精神が邪気を止めることができず、邪気が畜積して泄れることができない。それゆえ陽は緩やかで陰は急となり、故に突然に蹷(気絶)して死んだのです。」扁鵲が言うには、「その死は今からどのくらいの時か?」「鶏鳴(夜明け前)から今に至るまでです。」「収められたか?」「未だです。その死はまだ半日にも満たないのです。」(扁鵲は言う、)「私、斉の勃海の秦越人と申す者で、家は鄭にありますが、未だに精光(太子の御容光)を拝し、御前に侍謁したことはありません。太子が不幸にも死なれたと聞き、私が生き返らせることができます。」中庶子が言うには、「先生はまさかでたらめを言っているのではありませんか?どうして太子が生き返ると言えるのですか!私が聞くところでは、上古の時、医に俞跗という者がおり、病を治すのに湯液や醴灑を用いず、鑱石や撟引、案扤や毒熨を用い、一たび(患部を)撥ねれば病の応(兆候)が現れ、五蔵の輸(経穴)に因り、皮を割き肌を解き、脈を訣(分け)筋を結び、髓脳を搦(取り)、荒(横隔膜)を揲(押さえ)幕(腹膜)を爪(探り)、腸胃を湔浣(洗い)、五蔵を漱滌(清め)、精を練り形を易えたと申します。先生の方がもしこのようであれば、太子は生き返らせることができるでしょう。このようでないのに生き返らせようとするなら、咳く嬰児にさえ告げることはできません。」終日、扁鵲は天を仰いで嘆息して言うには、「あなたの為す方術は、管をもって天を窺うがごとく、隙間から文様を見るようなものです。越人の為す方術は、脈を切ることも、色を望むことも、声を聴くことも、形を写すことも待たず、病の所在を言い当てます。病の陽(表徴)を聞けば、その陰(裏の原因)を論じ得、病の陰を聞けば、その陽を論じ得る。病の応は大表(体表)に現れ、千里を出ずして(遠く離れていても)、決断すること極めて多く、曲げて止めることはできません。あなたが私の言葉を誠実でないと思うなら、試みに(私を)入れて太子を診させてください。必ずやその耳鳴りと鼻の張りを聞き知り、その両股をたどって陰部に至るまで、まだ温かさが残っているはずです。」
中庶子は扁鵲の言葉を聞き、目は眩然として瞬きせず、舌は撟然として上がらず、ついに扁鵲の言葉を持って入り、虢君に報告した。虢君はこれを聞いて大いに驚き、中闕に出て扁鵲に会い、言うには、「ひそかに高義(高尚な医術)を聞いてから久しいですが、未だに御前に拝謁したことはありませんでした。先生が小国にお通りになり、幸いにも(太子を)挙げて(救って)くだされば、偏国(辺境の国)の寡臣(私)はこの上もなく幸せです。先生がいれば生き返り、先生がいなければ棄てられて溝壑に埋められ、長く終わり(永眠し)、帰ることができません。」言葉が終わらないうちに、ため息をつき胸を押さえ、魂精が泄れ横たわり、涙を流して長く潸然とし、忽忽として睫毛に(涙を)受け、悲しみ自ら止めることができず、容貌が変わり改まった。扁鵲が言うには、「太子の病は、いわゆる『尸蹷』というものです。陽が陰の中に入り、胃を動かし繵縁(絡みつき)、経維の絡(経脈や絡脈)の中に入り、別れて三焦・膀胱に下る。それゆえ陽脈は下って遂(進み)、陰脈は上って争い、会気(気の交わる所)が閉塞して通じず、陰は上り陽は内に行く。下内は鼓動しても起きず、上外は絶えて使役されず、上には絶陽の絡があり、下には破陰の紐がある。陰を破り陽を絶つので、色はすでに廃れ脈は乱れ、故に形は静かで死んだようになる。太子はまだ死んではいません。陽が陰に入り支蘭蔵(臓腑の間の隔たり)に至る者は生き、陰が陽に入り支蘭蔵に至る者は死ぬ。凡そこの数事は、皆五蔵が蹙中(急に中を塞がれる)する時に突然に起こるものです。良工(名医)はこれを取り(治し)、拙者は疑い危うくするのです。」
扁鵲はそこで弟子の子陽に命じて鍼を研ぎ石を砥ぎ、外三陽五会の穴を取らせた。しばらくして、太子は蘇生した。そこで子豹に命じて五分割の温熨を行わせ、八減の剤を合わせて煮て、両脇の下を交互に温めた。太子は起き上がって坐った。さらに陰陽を調え、ただ湯薬を二十日間服用させて元の状態に戻した。それゆえ天下の人々は皆、扁鵲が死人を生かすことができると思った。扁鵲は言った、「越人(扁鵲の名)が死人を生かせるわけではない。これはもともと生きるべきものであり、越人がただそれを起こさせただけである」。
扁鵲が斉を訪れると、斉の桓侯は彼を賓客として遇した。朝廷に入って謁見し、言った、「君には腠理に病があります。治療しなければ深くなるでしょう」。桓侯は言った、「寡人には病はない」。扁鵲が退出すると、桓侯は側近に言った、「医者は利益を好むものだ。病のない者を相手にして功績にしようとする」。五日後、扁鵲が再び謁見し、言った、「君には血脈に病があります。治療しなければ深くなる恐れがあります」。桓侯は言った、「寡人には病はない」。扁鵲が退出すると、桓侯は不機嫌になった。五日後、扁鵲が再び謁見し、言った、「君には腸胃の間に病があります。治療しなければ深くなるでしょう」。桓侯は返事をしなかった。扁鵲が退出すると、桓侯は不機嫌になった。五日後、扁鵲が再び謁見し、桓侯を遠くから見ると退いて逃げ出した。桓侯は人をやってその理由を尋ねさせた。扁鵲は言った、「病が腠理にある時は、湯熨の及ぶところです。血脈にあれば、鍼石の及ぶところです。それが腸胃にあれば、酒醪の及ぶところです。それが骨髓にあれば、たとえ司命の神でもどうすることもできません。今やそれは骨髓にあります。臣はそれゆえに何も申し上げません」。五日後、桓侯は体に病が発し、人をやって扁鵲を召したが、扁鵲はすでに逃げ去っていた。桓侯はついに死んだ。
聖人が微かな兆しを予め知り、良医に早く事に当たらせることができれば、病は治癒し、身は生き延びることができる。人々が患うところは、病が多いことである。医者が患うところは、治療の道が少ないことである。それゆえ病には六つの不治がある。驕り高ぶって道理を論じない、これが第一の不治である。身を軽んじて財を重んじる、これが第二の不治である。衣食を適切にすることができない、これが第三の不治である。陰陽が乱れ、臓気が定まらない、これが第四の不治である。形が痩せ衰えて薬を服用できない、これが第五の不治である。巫を信じて医を信じない、これが第六の不治である。このうち一つでもあれば、重く治りにくいのである。
扁鵲の名声は天下に知れ渡った。邯鄲を通るとき、婦人を貴ぶと聞けば、すぐに帯下医となった。雒陽を通るとき、周の人が老人を愛すると聞けば、すぐに耳目痺医となった。咸陽に入って来るとき、秦の人が小児を愛すると聞けば、すぐに小児医となった。習俗に従って変化したのである。秦の太醫令李醯は、自分の技量が扁鵲に及ばないことを自覚し、人をやって彼を刺殺させた。今日に至るまで天下で脈を言う者は、扁鵲に由来するのである。
倉公
太倉公とは、斉の太倉長、臨菑の人であり、姓は淳于、名は意という。若くして医方術を好んだ。高后八年、同じ郡の元里の公乗陽慶に師事した。陽慶は七十余歳で、子がなく、意に従来の処方を全て捨てさせ、代わりに秘伝の処方をすべて授け、黄帝・扁鵛の脈書を伝え、五色による診病、人の死生を知り、疑わしきを決し、治療可能かを定め、および薬論を授けたが、非常に精妙であった。これを三年間受け、人の病を治し、死生を決するのに多く験があった。しかし諸侯の間を左右に行き遊び、家を家とせず、あるいは人の病を治さないこともあり、病家にはこれを怨む者が多かった。
文帝四年中、人が上書して意を告発し、刑罪により伝送されて西の長安に赴くこととなった。意には五人の娘がおり、付き従って泣いた。意は怒り、罵って言った。「子を生んでも男子を生まず、緊急の際に使える者がいない!」そこで末娘の緹縈は父の言葉を悲しみ、父に従って西へ向かった。上書して言う。「妾の父は吏であり、斉中ではその廉平を称えられておりましたが、今、法に坐して刑に当たります。妾はひそかに痛むのは、死者は再び生き返らず、刑を受けた者は再び元に戻らないことでございます。たとえ過ちを改めて自新しようとも、その道がなく、遂に叶いません。妾は身を官婢に入れて、父の刑罪を贖い、父が行いを改めて自新できるようにしたいと存じます。」上書が聞き届けられ、上はその志を悲しまれ、この歳中に肉刑の法も廃止された。
意が家に居た時、詔が下り、治した病で死生を験した者が何人いるか、その主たる者の名は誰かを召し問うた。
詔して故太倉長臣意に問う。「方技の長ずるところ、および治すことのできる病は何か。その書はあるか。皆どこで学を受けたか。学を受けて幾年か。かつて験があったのは、何県何里の人か。何の病か。医薬を施した後、その病の状は皆どのようであったか。詳しく悉く答えよ。」臣意対えて曰く。
臣意に問う。「診て治した病で、病名は多く同じであるのに診断が異なり、あるいは死に、あるいは死なないのは、なぜか。」対えて曰く。「病名は多く互いに類似しており、知ることができない。故に古の聖人はこれに脈法を作り、度量を起こし、規矩を立て、権衡を懸け、繩墨に案じ、陰陽を調え、人の脈を別けてそれぞれに名付け、天地と相応じ、人と参合させた。故に百病を別けてこれを異ならせ、数ある者はこれを異ならせることができ、数なき者はこれを同じくする。しかし脈法は全てを験することはできず、疾人を診て度をもってこれを異ならせ、初めて同じ名を別け、病の主たる所が居る場所を命ずることができる。今、臣意が診たものは、皆診籍がある。これを別ける所以は、臣意が師から受けた方が丁度完成し、師が死んだため、故に診たことを籍に表し、死生を決することを期し、失ったところ得たところを観て脈法に合うかを見たからである。故に今に至るまで知っているのである。」
臣意に問うて曰く、「病の死生を期する所、或いは期に応ぜざるは、何の故ぞ」と。対えて曰く、「これ皆飲食喜怒の節せざるか、或いは薬を飲むに当たらず、或いは鍼灸に当たらず、以て故に期に中らずして死するなり」と。
臣意に問う、「意の能く病の死生を知り、薬用の宜しき所を論ずるや、諸侯王大臣に嘗て意に問う者有りや否や。及び文王病む時、意に診治を求めざるは、何の故ぞ」と。対えて曰く、「趙王、膠西王、済南王、呉王皆人をして来たり臣意を召さしむ。臣意敢えて往かず。文王病む時、臣意家貧しく、人の為に病を治めんと欲す。誠に吏の以て除拘せんことを恐るるなり。故に名数を移し、左右家生を修めず、出でて国中を行き游び、善く方数為す者に事うること久し。事うること数師を見、悉く其の要事を受け、其の方書の意を尽くし、及び解論す。身は陽虚侯国に居り、因りて侯に事う。侯朝に入る。臣意之に従いて長安に至る。以て故に安陵の項処等の病を診ることを得たり」と。
臣意に問う、「文王の病を得て起たざる所以の状を知るや」と。臣意対えて曰く、「文王の病を見ず。然れども窃かに文王の喘ぎ、頭痛み、目明らかならざるを聞く。臣意心に之を論ずるに、以て病に非ざるなりと為す。肥えて精を蓄え、身体摇るぐことを得ず、骨肉相任ずることを得ざるを以て、故に喘ぐ。医に当たらずと為す。脈法に曰く『年二十は脈気趨くべく、年三十は疾歩すべく、年四十は安坐すべく、年五十は安臥すべく、年六十已上は気大いに董るべし』と。文王年未だ二十に満たず、方に脈気の趨くべきに在りて而も之を徐にす。天道四時に応ぜず。後に聞く、医の之を灸するや即ち篤しと。此れ病を論ずるの過ちなり。臣意之を論ずるに、以て神気争いて邪気入る。年少の能く復する所に非ざるなり。以て故に死す。所謂気なる者は、当に飲食を調え、晏日を択び、車歩し志を広くし、以て筋骨肉血脈に適し、以て気を瀉すべし。故に年二十、是れ『易眢』と謂う。法に砭灸に当たらず。砭灸は気の逐うに至る」と。
臣意に問う、「師慶は安くにか之を受く。斉の諸侯に聞くや否や」と。対えて曰く、「慶の師受する所を知らず。慶家富み、善く医を為す。人の為に病を治むるを肯ぜず。当に此の故を以て聞かざるなり。慶又臣意に告げて曰く『慎んで我が子孫をして若の我が方を学ぶを知らしむる毋れ』と」と。
臣意に問う、「師慶は何を以て意に見えて意を愛し、意に方を悉く教えんと欲するや」と。対えて曰く、「臣意師慶の方善きを為すを聞かず。意の慶を知る所以は、意少時諸方事を好む。臣意其の方に試みるに、皆多く験あり、精良なり。臣意聞く、菑川の唐裏の公孫光古伝方を善く為すと。臣意即ち往きて之に謁す。見えて之に事うることを得、方化陰陽及び伝語法を受く。臣意悉く之を書して受く。臣意他に精方を受くることを尽くさんと欲す。公孫光曰く『吾が方は尽きたり。公の所を愛して為さざるに非ず。吾が身已に衰え、復た之に事うる所無し。是れ吾が年少の時に受くる所の妙方なり。悉く公に与う。人以て教うる毋れ』と。臣意曰く『事えて公の前に侍するを見ることを得、禁方を悉く得る、幸甚し。意死すとも妄りに人に伝えず』と。居ること間有りて、公孫光間処に在り。臣意深く方を論ず。言を見るに百世之を為すも精なりと。師光喜びて曰く『公必ず国工と為らん。吾に善くする者有り、皆疎なり。同産臨菑に処る。方を善く為す。吾若かず。其の方甚だ奇なり。世の聞く所に非ざるなり。吾年中の時、嘗て其の方を受けんと欲す。楊中倩肯ぜず、曰く「若は其の人に非ず」と。胥と公往きて之を見よ。当に公の方に喜ぶを知らん。其の人亦老いたり。其の家富みを給す』と。時に未だ往かず。会うに慶の子男殷馬を献ぜんとして来る。因りて師光馬を王の所に奏す。意以て故に殷と善くすることを得。光又意を殷に属して曰く『意数を好む。公必ず謹みて之に遇え。其の人聖儒なり』と。即ち書を為して以て意を陽慶に属す。以て故に慶を知る。臣意慶に事うること謹みたり。以て故に意を愛するなり」と。
臣意に問うて曰く、「吏民に嘗て事として意の方(医術)を学び、及び畢く意の方を得たる者ありや。何の県里の人ぞ」と。対えて曰く、「臨菑の人宋邑。邑は学び、臣意は五診を以て教うること歳余。済北王は太醫高期・王禹を遣わして学ばしめ、臣意は経脈の高下及び奇絡結を以て教え、当に論ずるに俞の居る所、及び気の当に上下出入する邪正逆順を以てし、以て鑱石に宜しくし、砭灸の処を定むること歳余。菑川王は時に太倉馬長馮信を遣わして方を正さしめ、臣意は案法の逆順を以て教え、薬法を論じ、五味及び和齊湯の法を定む。高永侯の家丞杜信、脈を喜び、来りて学び、臣意は上下経脈五診を以て教うること二歳余。臨菑召裏の唐安来りて学び、臣意は五診上下経脈、奇咳、四時に応ずる陰陽の重を以て教う。未だ成らずして、除して齊王の侍醫と為す」と。臣意に問う、「病を診して死生を決するに、能く全く失うこと無きか」と。臣意対えて曰く、「意の病人を治するや、必ず先ず其の脈を切(診)り、乃ち之を治す。敗逆の者は治すべからず、其の順の者を乃ち治す。心脈に精しからず、期する所の死生、治すべきを視るに、時時に之を失う。臣意は全くすること能わず」と。
太史公曰く
太史公曰く、女は美悪無く、宮に居れば妒まれ見わる。士は賢不肖無く、朝に入れば疑われ見わる。故に扁鵲は其の伎を以て殃を見、倉公は乃ち跡を匿して自ら隠れながら刑に当たる。緹縈尺牘に通じ、父以て後に寧んずるを得たり。故に老子曰く「美好なる者は不祥の器」と、豈に扁鵲等を謂うや。倉公の若き者は、謂うべし、之に近しと。
【索隱述贊】上池の祕術、長桑の伝うる所。始めて趙簡を候い、夢の鈞天を知る。言いて虢の嗣を占い、屍蹶起これより焉に起こる。倉公罪を贖い、陽慶賢を推す。效驗状多し、式りて篇に具う。
【正義】胃は大きさ一尺五寸、直径五寸、長さ二尺六寸、横一尺、水穀三斗五升を受け容れ、その中には常に穀二斗、水一斗五升を留める。小腸は大きさ二寸半、直径八分の少半、長さ三丈二尺、穀二斗四升、水六升三合の大半を受け容れる。回腸は大きさ四寸、直径一寸半、長さ二丈二尺、穀一斗、水七升半を受け容れる。広腸は大きさ八寸、直径二寸半、長さ二尺八寸、穀九升三合八分の一を受け容れる。ゆえに腸胃は凡そ長さ五丈八尺四寸、合わせて水穀八斗七升六合八分の一を受け容れる。これが腸胃の長短と水穀を受け容れる数である。肝の重さは四斤四両、左に三葉、右に四葉、凡そ七葉、魂を蔵することを主る。心の重さは十二両、中に七孔あり、三毛あり、精汁三合を盛り、神を蔵することを主る。脾の重さは二斤三両、扁平で広さ三寸、長さ五寸、散膏半斤あり、血を温め五蔵を主り、意を蔵することを主る。肺の重さは三斤三両、六葉と両耳、凡そ八葉、魂魄を蔵することを主る。腎は二枚あり、重さ一斤一両、志を蔵することを主る。胆は肝の短葉の間にあり、重さ三両三銖、精汁三合を盛る。胃の重さは二斤十四両、紆曲屈伸し、長さ二尺六寸、大きさ一尺五寸、直径五寸、穀二斗、水一斗五升を盛る。小腸の重さは二斤十四両、長さ三丈二尺、広さ二寸半、直径八分の少半、回り積もって十六曲、穀二斗四升、水六升三合の大半を盛る。大腸の重さは三斤十二両、長さ二丈一尺、広さ四寸、直径一寸半、臍に当たり、右に回って十六曲、穀一斗、水七升半を盛る。膀胱の重さは九両二銖、縦横九寸、溺九升九合を盛る。口の広さは二寸半。唇から歯までの長さは九分。歯より後ろから会厭までの深さは三寸半、大きさ五合を容れる。舌の重さは十両、長さ七寸、広さ二寸半。咽門の重さは十両、広さ二寸半、胃までの長さは一尺六寸。喉嚨の重さは十二両、広さ二寸、長さ一尺二寸、九節あり。肛門の重さは十二両、大きさ八寸、直径二寸の大半、長さ二尺八寸、穀九升三合八分の一を受け容れる。
手の三陽の脈は、手から頭まで長さ五尺、五に六を乗じて三丈となる。手の三陰の脈は、手から胸中まで長さ三尺五寸、三に六を乗じて一丈八尺、五に六を乗じて三尺、合わせて二丈一尺となる。足の三陽の脈は、足から頭まで長さ八尺、六に八を乗じて四丈八尺となる。足の三陰の脈は、足から胸まで長さ六尺五寸、六に六を乗じて三丈六尺、五に六を乗じて三尺、合わせて三丈九尺となる。人の両足の蹻脈は、足から目まで長さ七尺五寸、二に七を乗じて一丈四尺、二に五を乗じて一尺、合わせて一丈五尺となる。督脈・任脈は各々長さ四尺五寸、二に四を乗じて八尺、二に五を乗じて一尺、合わせて九尺となる。凡そ脈の長さは一十六丈二尺である。これが所謂十二経脈の長短の数である。寸口は、脈の大会するところ、手太陰の動くところである。人が一呼すれば脈は三寸行き、一吸すれば脈は三寸行き、呼吸して息が定まれば、脈は六寸行く。人は一日一夜に凡そ一万三千五百息する。脈は五十周して身を巡り、漏刻の水は百刻下る。営衛は陽に二十五度行き、陰に二十五度行く。一度を一周と為す。ゆえに五十度にして再び手太陰に会する。寸口とは、五蔵六府の終始するところである。故に寸口を法とするのである。
肺気は鼻に通じ、鼻が和すればすなわち臭香を知る。肝気は目に通じ、目が和すればすなわち白黒を知る。脾気は口に通じ、口が和すればすなわち穀味を知る。心気は舌に通じ、舌が和すればすなわち五味を知る。腎気は耳に通じ、耳が和すればすなわち五音を聞く。五蔵が和せざれば、すなわち九竅通ぜず。六府が和せざれば、すなわち留まって癰と為る。