孝惠帝の時、中郎将となった。単于がかつて書を送って呂后を侮辱し、無礼であったので、呂后は大いに怒り、諸将を召してこれを議した。上將軍の樊噲は言った、「臣は十万の兵を得て、匈奴の中を横行したい」。諸将は皆、呂后の意に阿って「その通り」と言った。季布は言った、「樊噲は斬るべきである。そもそも高帝は四十万余りの兵を率いられて、平城に困窮された。今、噲はどうして十万の兵で匈奴の中を横行できようか、面と向かって欺いている。かつて秦は胡(匈奴)に事を構えたために、陳勝らが蜂起した。今なお創痍は癒えていないのに、噲はまた面と向かって諂い、天下を揺るがそうとしている」。この時、殿上は皆恐れ、太后は朝議を罷め、ついに匈奴を撃つことを再び議することはなかった。
季布は河東太守となった。孝文帝の時、その賢者であると言う者があり、孝文帝は召し出して、御史大夫にしようとした。また、その勇猛で酒に任せて近づきがたいと言う者もあった。都に至ると、邸に一月留め置かれ、謁見もなく罷めさせられた。季布はそこで進み出て言った、「臣は功もないのに寵を受け、河東で罪を待つ身です。陛下は理由もなく臣を召されましたが、これは必ず臣をもって陛下を欺く者がいたからです。今、臣が至っても何の職務も受けず、罷めさせられますのは、これは必ず臣を毀謗する者がいたからです。陛下が一人の称賛によって臣を召し、一人の誹謗によって臣を去らせられるのでは、臣は天下に識見ある者が聞いて、陛下を窺う材料とされることを恐れます」。上は黙然として恥じ、しばらくして言った、「河東は朕の股肱の郡である。それゆえ特に君を召しただけだ」。季布は辞去して任地に赴いた。
楚の人曹丘生は弁士にして、しばしば権勢を招き金銭を顧みる。貴人趙同等に事え、竇長君と善し。季布これを聞き、書を寄せて竇長君を諫めて曰く、「吾聞く、曹丘生長者に非ず、通ずる勿れ」と。曹丘生の帰るに及び、書を得て季布に請わんと欲す。竇長君曰く、「季将軍は足下を説かず、足下往く無かれ」と。固より書を請い、遂に行く。人をして先ず書を発せしむ。季布果たして大いに怒り、曹丘を待つ。曹丘至り、即ち季布に揖して曰く、「楚人の諺に曰く『黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず』と。足下何を以てか此の声を梁楚の間に得たるや。且つ僕は楚人、足下も亦た楚人なり。僕は足下の名を天下に游揚す、顧みて重からずや。何ぞ足下の僕を距るの深きや」と。季布乃ち大いに説び、引入れ、数ヶ月留め、上客と為し、厚く之を送る。季布の名の所以に益々聞こゆるは、曹丘の之を揚げたるなり。
季布の弟季心は、気概関中を蓋い、人に遇うこと恭謹、任侠を為し、方数千里、士皆争って之が為に死す。嘗て人を殺し、之に亡れて呉に至り、袁絲に従いて匿る。長く袁絲に事え、弟として灌夫・籍福の属を畜う。嘗て中司馬と為り、中尉郅都も敢えて礼を加えざるを得ず。少年多く時時窃かに其の名を籍して行う。是の時に当たり、季心は勇を以て、布は諾を以て、関中に著聞す。
季布の母弟丁公は、楚の将と為る。丁公は項羽に為って高祖を彭城西に逐い窘しめ、短兵接す。高祖急ぎ、顧みて丁公に曰く、「両賢豈に相い戹せんや」と。ここにおいて丁公兵を引いて還る。漢王遂に解けて去る。項王の滅ぶに及び、丁公謁見して高祖に遇う。高祖は丁公を以て軍中に徇し、曰く、「丁公は項王の臣と為りて忠ならず、項王をして天下を失わしむる者は、乃ち丁公なり」と。遂に丁公を斬り、曰く、「後世をして人臣と為る者に丁公に效う無からしめん」と。
欒布
欒布は梁の人なり。初め梁王彭越が家人たりし時、嘗て布と游ぶ。窮困し、傭を賃いて斉に於いて酒人の保と為る。数年、彭越去りて巨野中に盗と為り、布は人の為に略売せられ、奴と為りて燕に在り。其の家主の為に仇を報い、燕の将臧荼挙げて以て都尉と為す。臧荼後燕王と為り、布を以て将と為す。臧荼の反するに及び、漢燕を撃ち、布を虜う。梁王彭越之を聞き、乃ち上に言い、布を贖いて以て梁の大夫と為さんことを請う。
斉に使いして、未だ還らず、漢は彭越を召し、謀反を責めて、三族を夷す。已にして彭越の首を梟げて雒陽の下にし、詔して曰く、「敢えて収視する者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布は斉より還り、彭越の首の下に事を奏し、祠して之を哭す。吏、布を捕へて以て聞かす。上、布を召し、罵りて曰く、「若は彭越と反せんとするか。吾、人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠して之を哭す、越と反する明かなり。趣へて之を亨せよ」と。方に提げて湯に趣かんとするに、布顧みて曰く、「願はくは一言して死せん」と。上曰く、「何を言はん」と。布曰く、「方に上の彭城に困り、滎陽・成皋の間に敗れたる時、項王の以て遂に西せざる所以は、徒だ彭王の梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるに在り。是の時に当たりて、彭王一たび顧みて、楚に与すれば則ち漢破れ、漢に与すれば則ち楚破る。且つ垓下の会に、微かに彭王あらざれば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王は符を剖ち封を受くるも、亦之を万世に伝へんと欲す。今陛下梁に一たび兵を徴するに、彭王病みて行かず、而して陛下は疑ひて以て反と為し、反形未だ見えざるに、苛小を以て案じて之を誅滅す。臣、功臣の人人自ら危ふきを恐る。今彭王已に死す、臣は生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈き、都尉に拝す。
孝文の時、燕の相となり、将軍に至る。布乃ち称して曰く、「窮困にして身を辱しめ志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報ひ、怨有る者は必ず法を以て之を滅す。呉楚の反する時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕斉の間皆欒布の為に社を立て、号して欒公社と曰ふ。
景帝の中五年に薨ず。子の賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令に如かず、国除かる。
太史公曰く、項羽の気を以てし、而して季布は勇を以て楚に顕はれ、身軍に屨み旗を搴ぐ者数たび矣、壮士と謂ふ可し。然るに刑戮に被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下きや。彼必ず自ら其の材を負ふ、故に辱を受けても羞ぢず、未だ足らざるを用ひんと欲するなり、故に終に漢の名将と為る。賢者は誠に其の死を重んず。夫れ婢妾賤人の感慨して自殺する者は、能く勇なるに非ず、其の計画復た之する無きのみ。欒布の彭越を哭し、湯に趣くこと帰るが如きは、彼誠に処る所を知り、自ら其の死を重んぜざるなり。往古の烈士と雖も、何を以てか加へん。
索隠述賛
季布と季心は、梁・楚の地に名声を轟かせた。百金の約束を重んじ、十万の兵を以て敵を防ぐ。河東の守に出でて、股肱の臣として信頼された。欒布は彭越のために哭し、禁令を犯して捕虜となった。鼎に赴くも冤罪にあらず、誠に処する所を知っていたのである。