史記

巻九十九 劉敬叔孫通列傳 第三十九

劉敬

原文劉敬

劉敬は斉の人である。漢五年、隴西に戍守し、洛陽を過ぎたところ、高帝がそこにおられた。婁敬は輓輅を脱ぎ、その羊裘を衣て、斉人の虞将軍に会い言うには、「臣は上に謁して便宜の事を言いたい」と。虞将軍は彼に鮮やかな衣服を与えようとしたが、婁敬は言う、「臣は帛を衣れば、帛を衣て見る。褐を衣れば、褐を衣て見る。終に敢えて衣を易えません」と。ここにおいて虞将軍は入って上に言上した。上は召し入れて会い、食を賜うた。

原文劉敬者,齊人也。漢五年,戍隴西,過洛陽,高帝在焉。婁敬脫輓輅,衣其羊裘,見齊人虞將軍曰:「臣願見上言便事。」虞將軍欲與之鮮衣,婁敬曰:「臣衣帛,衣帛見;衣褐,衣褐見:終不敢易衣。」於是虞將軍入言上。上召入見,賜食。

やがて婁敬に問うと、婁敬は説いて言うには、「陛下が洛陽に都せられるのは、まさか周室と隆盛を比べようとなさるのでしょうか」と。上は言う、「そうだ」と。婁敬は言う、「陛下が天下を取られたのは周室と異なります。周の先祖は后稷より始まり、堯が邰に封じ、徳を積み善を累ねること十余世。公劉は桀を避けて豳に住んだ。太王は狄の伐つが故に、豳を去り、馬箠を杖いて岐に居し、国人は争ってこれに従った。文王が西伯となって、虞芮の訟を断ち、初めて天命を受け、呂望・伯夷が海浜より来たりてこれに帰した。武王が紂を伐つに、期せずして孟津の上で会した八百諸侯は皆、紂は伐つべしと言い、遂に殷を滅ぼした。成王が即位し、周公の属が傅相となり、乃ち成周洛邑を営み、これを以て天下の中となし、諸侯四方より貢職を納め、道里均しくなった。徳有れば則ち王たるに易く、徳無ければ則ち亡ぶに易い。凡そここに居る者は、周に務めて徳を以て人を致さしめ、険阻に依拠せしめず、後世に驕奢を以て民を虐げしめんことを欲しなかった。周の盛んなる時には、天下和洽し、四夷風に郷い、義を慕い徳を懐き、附離して并せて天子に事え、一卒も屯せず、一士も戦わず、八夷大国の民、賓服せざるはなく、その貢職を効した。周の衰えるに及んで、分かれて両つとなり、天下朝するものなく、周は制することができなかった。その徳薄きにあらず、形勢弱きなり。今、陛下は豊沛より起こり、卒三千人を収め、これを以て径ちに往きて蜀漢を巻き、三秦を定め、項羽と滎陽に戦い、成皋の口を争い、大戦七十、小戦四十、天下の民をして肝脳地に塗らしめ、父子中野に暴骨するもの数え勝えず、哭泣の声絶えず、傷痍の者起たず、而して成康の時に隆盛を比べようとなさるのは、臣窃かに侔わざると思います。且つ秦の地は山を被り河を帯び、四塞以て固しと為し、卒然急有れば、百万の衆具えるべし。秦の故に因り、甚だ美しき膏腴の地を資とす、これ所謂天府なる者なり。陛下関に入りてこれに都せば、山東乱るるも、秦の故地は全うして有つべし。人と闘うに、その亢を搤み、その背を拊せずんば、その勝ちを全うすること能わず。今、陛下関に入りて都せば、秦の故地を案ずるは、これ亦た天下の亢を搤みてその背を拊するなり」と。

原文已而問婁敬,婁敬說曰:「陛下都洛陽,豈欲與周室比隆哉?」上曰:「然。」婁敬曰:「陛下取天下與周室異。周之先自后稷,堯封之邰,積德累善十有餘世。公劉避桀居豳。太王以狄伐故,去豳,杖馬箠居岐,國人爭隨之。及文王為西伯,斷虞芮之訟,始受命,呂望、伯夷自海濱來歸之。武王伐紂,不期而會孟津之上八百諸侯,皆曰紂可伐矣,遂滅殷。成王即位,周公之屬傅相焉,乃營成周洛邑,以此為天下之中也,諸侯四方納貢職,道裏均矣,有德則易以王,無德則易以亡。凡居此者,欲令周務以德致人,不欲依阻險,令後世驕奢以虐民也。及周之盛時,天下和洽,四夷鄉風,慕義懷德,附離而并事天子,不屯一卒,不戰一士,八夷大國之民莫不賓服,效其貢職。及周之衰也,分而為兩,天下莫朝,周不能制也。非其德薄也,而形勢弱也。今陛下起豐沛,收卒三千人,以之徑往而卷蜀漢,定三秦,與項羽戰滎陽,爭成皋之口,大戰七十,小戰四十,使天下之民肝腦涂地,父子暴骨中野,不可勝數,哭泣之聲未絕,傷痍者未起,而欲比隆於成康之時,臣竊以為不侔也。且夫秦地被山帶河,四塞以為固,卒然有急,百萬之眾可具也。因秦之故,資甚美膏腴之地,此所謂天府者也。陛下入關而都之,山東雖亂,秦之故地可全而有也。夫與人鬬,不搤其亢,拊其背,未能全其勝也。今陛下入關而都,案秦之故地,此亦搤天下之亢而拊其背也。」

高帝が群臣に問うと、群臣は皆山東の出身であり、周が数百年続いたのに対し、秦は二世で滅んだと争って言い、周の地に都するに如かずと主張した。帝は疑い決断できなかった。留侯が関中に入るのが便利であると明言するに及んで、即日車駕を西に向けて関中に都した。

原文高帝問群臣,群臣皆山東人,爭言周王數百年,秦二世即亡,不如都周。上疑未能決。及留侯明言入關便,即日車駕西都關中。

そこで帝は言った、「もと秦の地に都すべしと言ったのは婁敬である。『婁』とはすなわち『劉』である」。劉の姓を賜い、郎中に任じ、奉春君と号した。

原文於是上曰:「本言都秦地者婁敬,『婁』者乃『劉』也。」賜姓劉氏,拜為郎中,號為奉春君。

漢七年、韓王信が反逆し、高帝は自ら往きてこれを撃った。晋陽に至り、信が匈奴と共に漢を撃たんとしていると聞き、帝は大いに怒り、人を匈奴に使わした。匈奴はその壮士や肥えた牛馬を隠し、ただ老弱および痩せた家畜だけを見せた。使者十輩が来て、皆匈奴は撃つべしと言った。帝は劉敬を再び往かせて匈奴に使わし、還って報告して言うには、「両国が相撃つときは、これは誇示して長所を見せるべきである。今臣が往きてみると、ただ痩せ衰えた老弱を見るのみで、これは必ず短所を見せ、奇兵を伏せて利を争おうとするのである。愚かには匈奴は撃つべからずと考える」。この時漢兵はすでに句注を越え、二十余万の兵はすでに行軍を始めていた。帝は怒り、劉敬を罵って言った、「斉の虜め!口先で官を得ておきながら、今になって妄言して我が軍を沮むとは」。敬を械にかけて広武に繋いだ。遂に往き、平城に至ると、匈奴は果たして奇兵を出して高帝を白登に囲み、七日してようやく解かれた。高帝は広武に至り、敬を赦して言った、「我は公の言を用いなかったため、平城に困った。我はすでに前に撃つべしと言った十輩の使者を皆斬った」。そこで敬に二千戸を封じ、関内侯とし、建信侯と号した。

原文漢七年,韓王信反,高帝自往擊之。至晉陽,聞信與匈奴欲共擊漢,上大怒,使人使匈奴。匈奴匿其壯士肥牛馬,但見老弱及羸畜。使者十輩來,皆言匈奴可擊。上使劉敬復往使匈奴,還報曰:「兩國相擊,此宜夸矜見所長。今臣往,徒見羸瘠老弱,此必欲見短,伏奇兵以爭利。愚以為匈奴不可擊也。」是時漢兵已踰句注,二十餘萬兵已業行。上怒,罵劉敬曰:「齊虜!以口舌得官,今乃妄言沮吾軍。」械系敬廣武。遂往,至平城,匈奴果出奇兵圍高帝白登,七日然後得解。高帝至廣武,赦敬,曰:「吾不用公言,以困平城。吾皆已斬前使十輩言可擊者矣。」乃封敬二千戶,為關內侯,號為建信侯。

高帝が平城から罷め帰ると、韓王信は胡に亡走した。この時、冒頓が単于となり、兵は強く、控弦の士三十万を擁し、しばしば北辺を苦しめた。帝はこれを憂え、劉敬に問うた。劉敬は言った、「天下初めて定まり、士卒は兵に疲れており、まだ武力で服することはできません。冒頓は父を殺して代わり立ち、群母を妻とし、力を以て威とし、まだ仁義で説くことはできません。ただ計略をもって久遠に子孫を臣とすることだけができますが、しかし陛下にはなされないのではないかと恐れます」。帝は言った、「確かにできるならば、どうしてできないことがあろう!どうすればよいか」。劉敬は答えて言った、「陛下が真に適長公主を以て妻とし、厚く奉って贈れば、彼は漢の適女が送られ厚遇されることを知り、蛮夷は必ず慕って閼氏とし、生んだ子は必ず太子となり、単于を代わるでしょう。なぜか。漢の重い幣を貪るからです。陛下が歳時に漢の余り彼の乏しいものを数多く問い遺わし、ついでに弁士を使い礼節を以て風諭させればよい。冒頓が生きている間は、固より子婿となり、死ねば外孫が単于となります。かつて外孫が敢えて大父と礼を抗うことを聞いたことがありましょうか。兵は戦わずして漸次に臣とすることができます。もし陛下が長公主を遣わすことができず、宗室や後宮の者を詐って公主と称させれば、彼も知って、貴び近づけず、益がありません」。高帝は言った、「善い」。長公主を遣わそうとした。呂后は日夜泣いて言った、「妾にはただ太子と一女があるのみで、どうしてこれを匈奴に棄てられましょうか!」。帝はついに長公主を遣わすことができず、家人の子を取って長公主と名付け、単于に妻とさせた。劉敬をして往かせ和親の約を結ばせた。

原文高帝罷平城歸,韓王信亡入胡。當是時,冒頓為單于,兵彊,控弦三十萬,數苦北邊。上患之,問劉敬。劉敬曰:「天下初定,士卒罷於兵,未可以武服也。冒頓殺父代立,妻群母,以力為威,未可以仁義說也。獨可以計久遠子孫為臣耳,然恐陛下不能為。」上曰:「誠可,何為不能!顧為柰何?」劉敬對曰:「陛下誠能以適長公主妻之,厚奉遺之,彼知漢適女送厚,蠻夷必慕以為閼氏,生子必為太子。代單于。何者?貪漢重幣。陛下以歲時漢所餘彼所鮮數問遺,因使辯士風諭以禮節。冒頓在,固為子婿;死,則外孫為單于。豈嘗聞外孫敢與大父抗禮者哉?兵可無戰以漸臣也。若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐稱公主,彼亦知,不肯貴近,無益也。」高帝曰:「善。」欲遣長公主。呂后日夜泣,曰:「妾唯太子、一女,柰何棄之匈奴!」上竟不能遣長公主,而取家人子名為長公主,妻單于。使劉敬往結和親約。

劉敬が匈奴から帰り、ついでに言うには、「匈奴の河南の白羊・楼煩王は、長安に近いところで七百里、軽騎であれば一日一夜で秦中に至ることができます。秦中は新たに破られ、民少なく、地は肥え豊かで、益々実を入れることができます。そもそも諸侯が初めに起こった時、斉の諸田、楚の昭・屈・景でなければ興ることができませんでした。今陛下は関中に都していても、実は人が少ない。北は胡寇に近く、東には六国の族があり、宗族は強く、一日に変事があれば、陛下もまた高枕して臥すことは得られません。臣は願わくば陛下が斉の諸田、楚の昭・屈・景、燕・趙・韓・魏の後、および豪傑名家を関中に徙せられますように。事がなければ、胡に備えることができ、諸侯に変事があれば、またこれを率いて東伐するに足ります。これは本を強くし末を弱くする術です」。帝は言った、「善い」。そこで劉敬をして言うところの者十余万口を関中に徙させた。

原文劉敬從匈奴來,因言「匈奴河南白羊、樓煩王,去長安近者七百里,輕騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益實。夫諸侯初起時,非齊諸田,楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都關中,實少人。北近胡寇,東有六國之族,宗彊,一日有變,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙齊諸田,楚昭、屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中。無事,可以備胡;諸侯有變,亦足率以東伐。此彊本弱末之術也」。上曰:「善。」乃使劉敬徙所言關中十餘萬口。

叔孫通

原文叔孫通

叔孫通は薛の人である。秦の時に文学をもって徴用され、待詔博士となった。数年後、陳勝が山東で挙兵し、使者がこれを報告すると、二世皇帝は博士や諸儒生を召して問うて言うには、「楚の戍卒が蘄を攻めて陳に入ったが、諸卿はどう思うか」。博士や諸生三十余人が進み出て言うには、「人臣に将たるべからず、将たれば即ち反なり、罪は死にして赦さず。願わくは陛下急ぎ兵を発してこれを撃たれよ」。二世は怒り、顔色を変えた。叔孫通が進み出て言うには、「諸生の言うことは皆違う。そもそも天下は一家に合わさり、郡県の城を毀ち、その兵器を熔かし、天下に再び用いないことを示した。かつ明主が上に在り、法令が下に備わり、人々に職を奉じさせ、四方が輻輳しているのに、どうして敢えて反する者があろうか。これはただ群盗の鼠窃狗盗に過ぎず、どうして歯牙の間に置くに足りよう。郡守や尉が今捕らえて論ずれば、何の憂いがあろう」。二世は喜んで言うには、「善い」。すべての諸生に問うと、諸生はある者は反乱と言い、ある者は盗賊と言った。ここにおいて二世は御史に命じて、諸生のうち反乱と言った者を調べて吏に下し、言うべきでないことを言ったとし、盗賊と言った者は皆罷免させた。そして叔孫通に帛二十匹、衣一襲を賜い、博士に拝した。叔孫通が宮を出て、宿舎に戻ると、諸生が言うには、「先生はどうしてへつらうようなことを言われたのですか」。通は言うには、「公は分かっていない、私は危うく虎口を脱せぬところであった」。そこで逃亡して去り、薛に行ったが、薛はすでに楚に降っていた。項梁が薛に来た時、叔孫通はこれに従った。定陶で敗れると、懐王に従った。懐王が義帝となり、長沙に遷されると、叔孫通は留まって項王に仕えた。漢二年、漢王が五諸侯を率いて彭城に入ると、叔孫通は漢王に降った。漢王が敗れて西に向かうと、ついに漢に従った。

原文叔孫通者,薛人也。秦時以文學徵,待詔博士。數歲,陳勝起山東,使者以聞,二世召博士諸儒生問曰:「楚戍卒攻蘄入陳,於公如何?」博士諸生三十餘人前曰:「人臣無將,將即反,罪死無赦。願陛下急發兵擊之。」二世怒,作色。叔孫通前曰:「諸生言皆非也。夫天下合為一家,毀郡縣城,鑠其兵,示天下不復用。且明主在其上,法令具於下,使人人奉職,四方輻輳,安敢有反者!此特群盜鼠竊狗盜耳,何足置之齒牙閒。郡守尉今捕論,何足憂。」二世喜曰:「善。」盡問諸生,諸生或言反,或言盜。於是二世令御史案諸生言反者下吏,非所宜言。諸言盜者皆罷之。乃賜叔孫通帛二十匹,衣一襲,拜為博士。叔孫通已出宮,反舍,諸生曰:「先生何言之諛也?」通曰:「公不知也,我幾不脫於虎口!」乃亡去,之薛,薛已降楚矣。及項梁之薛,叔孫通從之。敗於定陶,從懷王。懷王為義帝,徙長沙,叔孫通留事項王。漢二年,漢王從五諸侯入彭城,叔孫通降漢王。漢王敗而西,因竟從漢。

叔孫通は儒服を着ていたが、漢王はこれを憎んだ。そこでその服を変え、短衣を着た。楚の製で、漢王は喜んだ。

原文叔孫通儒服,漢王憎之;乃變其服,服短衣,楚製,漢王喜。

叔孫通が漢に降った時、儒生の弟子百余人を従えていたが、通は彼らを進言することはなく、専らかつての群盗や壮士ばかりを進言して推挙した。弟子たちは皆ひそかに罵って言うには、「先生に仕えて数年、幸いにも漢に降ることに従えたのに、今、臣らを進めることができず、専ら大猾ばかりを言うのは、どうしてですか」。叔孫通はこれを聞くと、彼らに言うには、「漢王は今まさに矢石を蒙って天下を争っている最中だ。諸生はどうして戦えようか。だからまず将を斬り旗を搴つ士を言うのだ。諸生は暫く私を待て、私は忘れはしない」。漢王は叔孫通を博士に拝し、稷嗣君と号した。

原文叔孫通之降漢,從儒生弟子百餘人,然通無所言進,專言諸故群盜壯士進之。弟子皆竊罵曰:「事先生數歲,幸得從降漢,今不能進臣等,專言大猾,何也?」叔孫通聞之,乃謂曰:「漢王方蒙矢石爭天下,諸生寧能鬬乎?故先言斬將搴旗之士。諸生且待我,我不忘矣。」漢王拜叔孫通為博士,號稷嗣君。

漢五年、すでに天下を併せ、諸侯が共に漢王を定陶で皇帝として尊んだ時、叔孫通はその儀礼と称号を定めた。高帝は秦の苛酷な儀法をすべて取り去り、簡易なものとした。群臣が酒を飲んで功を争い、酔っては妄りに叫び、剣を抜いて柱を撃つので、高帝はこれを憂いた。叔孫通は上(皇帝)がますますこれを厭っていることを知り、上に説いて言うには、「そもそも儒者は進取をともにすることは難しいが、守成をともにすることはできる。臣は願わくは魯の諸生を徴し、臣の弟子と共に朝儀を起こしたい」。高帝は言うには、「難しくはないか」。叔孫通は言うには、「五帝は楽を異にし、三王は礼を同じくせず。礼とは、時世と人情に因ってそれに節文を加えるものである。故に夏・殷・周の礼が因襲し損益したところが知られるのは、互いに繰り返さないからである。臣は願わくは古礼と秦の儀礼を少しずつ採り合わせてこれを作り上げたい」。上は言うには、「試みにこれを為せ。分かりやすくし、我が行いうる程度のものにせよ」。

原文漢五年,已并天下,諸侯共尊漢王為皇帝於定陶,叔孫通就其儀號。高帝悉去秦苛儀法,為簡易。群臣飲酒爭功,醉或妄呼,拔劍擊柱,高帝患之。叔孫通知上益厭之也,說上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願徵魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」高帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮。禮者,因時世人情為之節文者也。故夏、殷、周之禮所因損益可知者,謂不相復也。臣願頗采古禮與秦儀雜就之。」上曰:「可試為之,令易知,度吾所能行為之。」

ここにおいて叔孫通は使いを遣わして魯の諸生三十余人を召し出した。魯に二人の儒生がいて行くことを肯んぜず、言うには、「公が仕えた君主はすでに十人に及び、皆面従して諂い親貴を得た。今、天下は初めて定まり、死者は未だ葬られず、傷者は未だ起たず、また礼楽を起こそうとする。礼楽の起こる所以は、徳を積むこと百年にして後に興すことができるのである。私は公のなすところを忍びない。公のなすところは古に合わず、私は行かない。公は往け、我を汚すな」と。叔孫通は笑って言うには、「お前たちは真に鄙陋な儒者だ、時の変化を知らない」と。

原文於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人。魯有兩生不肯行,曰:「公所事者且十主,皆面諛以得親貴。今天下初定,死者未葬,傷者未起,又欲起禮樂。禮樂所由起,積德百年而後可興也。吾不忍為公所為。公所為不合古,吾不行。公往矣,無汙我!」叔孫通笑曰:「若真鄙儒也,不知時變。」

そこで召し出した三十人と共に西へ向かい、および皇帝の側近で学問をする者とその弟子百余人とで野外に綿蕞を設けた。これを習うこと一月余り、叔孫通は言うには、「上は試しにご覧になれます」と。上はすでにご覧になり、礼を行わせて言うには、「私はこれができる」と。そこで群臣に習わせ、十月の会に合わせた。

原文遂與所徵三十人西,及上左右為學者與其弟子百餘人為綿蕞野外。習之月餘,叔孫通曰:「上可試觀。」上既觀,使行禮,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄,會十月。

漢の七年、長楽宮が完成し、諸侯群臣は皆十月に朝賀した。儀礼は、まず夜明け前に、謁者が礼を治め、順序に従って殿門に導き入れる。廷中には車騎・歩卒を陳べて宮を衛り、兵を設け旗幟を張る。伝言して「はしれ」と。殿下の郎中は陛を挟み、陛は数百人。功臣・列侯・諸将軍・軍吏は順に西方に陳し、東に向く。文官・丞相以下は東方に陳し、西に向く。大行が九賓を設け、臚伝する。ここにおいて皇帝の輦が房より出で、百官は職を執り警を伝え、諸侯王以下から吏六百石までを導き順に奉賀させる。諸侯王以下、振恐し肅敬せざる者はなかった。礼が終わるに至り、また法酒を置く。侍坐して殿上にいる者は皆伏して首を抑え、尊卑の順に従って起ち上がり寿を上る。觴が九巡し、謁者が「酒を罷めよ」と告げる。御史が法を執り、儀に如かざる者を挙げては即ち引き去らせる。朝賀が終わり酒宴を置くまで、敢えて喧嘩して礼を失う者はなかった。ここにおいて高帝は言うには、「私は今日に至って皇帝の貴さを知った」と。そこで叔孫通を太常に拝し、金五百斤を賜う。

原文漢七年,長樂宮成,諸侯群臣皆朝十月。儀:先平明,謁者治禮,引以次入殿門,廷中陳車騎步卒衛宮,設兵張旗志。傳言「趨」。殿下郎中俠陛,陛數百人。功臣列侯諸將軍軍吏以次陳西方,東鄉;文官丞相以下陳東方,西鄉。大行設九賓,臚傳。於是皇帝輦出房,百官執職傳警,引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀。自諸侯王以下莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上皆伏抑首,以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「罷酒」。御史執法舉不如儀者輒引去。竟朝置酒,無敢讙譁失禮者。於是高帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也。」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。

叔孫通は因って進み言うには、「諸弟子・儒生が臣に随うこと久しく、臣と共に儀礼を作りました。願わくは陛下、彼らを官せられんことを」と。高帝は皆これを郎とした。叔孫通が出ると、皆五百斤の金を諸生に賜うた。諸生は乃ち皆喜んで言うには、「叔孫生は誠に聖人なり、当世の要務を知る」と。

原文叔孫通因進曰:「諸弟子儒生隨臣久矣,與臣共為儀,願陛下官之。」高帝悉以為郎。叔孫通出,皆以五百斤金賜諸生。諸生乃皆喜曰:「叔孫生誠聖人也,知當世之要務。」

漢の九年、高帝は叔孫通を太子太傅に転じた。漢の十二年、高祖は趙王如意を以て太子と替えようとした。叔孫通は上を諫めて言うには、「昔、晋の献公は驪姫の故に太子を廃し、奚斉を立てた。晋国が乱れること数十年、天下の笑いとなった。秦は早く扶蘇を定めず、趙高に詐りて胡亥を立てさせるに任せ、自ら滅祀を招いた。これは陛下が親しくご覧になったことである。今、太子は仁孝、天下皆これを聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖を食い、どうして背けようか。陛下が必ずや適(嫡)を廃して少を立てようとされるなら、臣は先んじて誅せられんことを願い、頸の血を以て地を汚さん」と。高帝は言うには、「公はやめよ、私はただ戯れただけだ」と。叔孫通は言うには、「太子は天下の本、本が一度揺らげば天下振動する。どうして天下を以て戯れと為すことができましょうか」と。高帝は言うには、「私は公の言うことを聞こう」と。及び上が酒宴を設け、留侯が招いた客が太子に従って入見するのを見て、上は乃ち遂に太子を替える志を無くした。

原文漢九年,高帝徙叔孫通為太子太傅。漢十二年,高祖欲以趙王如意易太子,叔孫通諫上曰:「昔者晉獻公以驪姬之故廢太子,立奚齊,晉國亂者數十年,為天下笑。秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之;呂后與陛下攻苦食啖,其可背哉!陛下必欲廢適而立少,臣願先伏誅,以頸血汙地。」高帝曰:「公罷矣,吾直戲耳。」叔孫通曰:「太子天下本,本一搖天下振動,柰何以天下為戲!」高帝曰:「吾聽公言。」及上置酒,見留侯所招客從太子入見,上乃遂無易太子志矣。

高帝が崩御し、孝恵帝が即位すると、叔孫生に言った、「先帝の園陵と寝廟のことは、群臣の誰も習熟していない」。叔孫通を太常に転任させ、宗廟の儀法を定めさせた。やがて漢の諸儀法が次第に定まるにつれ、そのすべては叔孫生が太常として論じ著述したものであった。

原文高帝崩,孝惠即位,乃謂叔孫生曰:「先帝園陵寢廟,群臣莫(能)習。」徙為太常,定宗廟儀法。及稍定漢諸儀法,皆叔孫生為太常所論箸也。

孝恵帝が東の長楽宮に朝見するため、また間を置いて往き来するたびに、しばしば蹕(清め)を行っては人を煩わせたので、複道を作ることとし、ちょうど武庫の南に築き始めた。叔孫生が奏事し、機会を請うて言った、「陛下はどうしてご自身で複道を高帝の寝廟の上に築き、衣冠(高祖の遺衣)が毎月高廟に出遊される道の上を通られるのですか。高廟は漢の太祖です。どうして後世の子孫に宗廟の道の上を乗り行かせようとなさるのですか」。孝恵帝は大いに恐れ、「急いでこれを壊せ」と言った。叔孫生は言った、「人主に過ちある挙動はありません。今すでに作ってしまい、百姓は皆それを知っています。今これを壊せば、過ちある挙動があったことを示すことになります。願わくは陛下、渭水の北に原廟を建て、衣冠を毎月そこに出遊させ、宗廟をより広く多くされることこそ、大孝の根本です」。上はそこで有司に詔して原廟を建立させた。原廟が建てられたのは、複道のためであった。

原文孝惠帝為東朝長樂宮,及閒往,數蹕煩人,乃作複道,方筑武庫南。叔孫生奏事,因請閒曰:「陛下何自筑複道高寢,衣冠月出游高廟?高廟,漢太祖,柰何令後世子孫乘宗廟道上行哉?」孝惠帝大懼,曰:「急壞之。」叔孫生曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之,今壞此,則示有過舉。願陛下原廟渭北,衣冠月出游之,益廣多宗廟,大孝之本也。」上乃詔有司立原廟。原廟起,以複道故。

孝恵帝がかつて春に離宮に出遊したとき、叔孫生は言った、「古には春に果物を嘗めることがありました。今ちょうど櫻桃が熟しております。献上することができます。願わくは陛下が出遊され、それに因って櫻桃を取り、宗廟に献ぜられますように」。上はそこでこれを許した。諸果物の献上はこれによって興った。

原文孝惠帝曾春出游離宮,叔孫生曰:「古者有春嘗果,方今櫻桃孰,可獻,願陛下出,因取櫻桃獻宗廟。」上乃許之。諸果獻由此興。

評論

原文評論

太史公が言う。諺に「千金の裘は、一狐の腋にあらず。台榭の椽は、一本の枝にあらず。三代の際は、一士の智にあらず」と。まことにその通りである。高祖は微細より起こり、海内を定め、謀計と用兵は、尽きていると言えよう。しかしながら劉敬が輓輅を脱ぎ捨てて一説を進め、万世の安泰を建てた。智はどうして専有できようか。叔孫通は世に迎合し時務を量り、礼を制定し進退し、時とともに変化し、ついに漢家の儒宗となった。「大直は詘くが若く、道は固より委蛇なり」。蓋しこれを謂うのであろうか。

原文太史公曰:語曰「千金之裘,非一狐之腋也;臺榭之榱,非一木之枝也;三代之際,非一士之智也。」信哉!夫高祖起微細,定海內,謀計用兵,可謂盡之矣。然而劉敬脫輓輅一說,建萬世之安,智豈可專邪!叔孫通希世度務,制禮進退,與時變化,卒為漢家儒宗。「大直若詘,道固委蛇」,蓋謂是乎?

【索隠述賛】大廈は多くの木材に依り、裘衣は一匹の狐の皮にあらず。委輅(車)を献じて説を述べ、釂蕝(酒を注ぎ茅を敷く)して書を陳ぶ。皇帝始めて貴きを成し、車駕西都に至る。既に太子を安んじ、また匈奴と和す。奉春(婁敬)、稷嗣(叔孫通)、その功図るべし。

原文【索隱述贊】廈藉眾幹,裘非一狐。委輅獻說,釂蕝陳書。皇帝始貴,車駕西都。既安太子,又和匈奴。奉春、稷嗣,其功可圖。