樊噲
舞陽侯樊噲は、沛の人である。屠狗(犬を屠る)を業とし、高祖と共に隠れていた。
初めに高祖に従って豊より起ち、沛を攻め落とす。高祖が沛公となると、噲を舍人とした。胡陵・方與を攻撃し、還って豊を守り、泗水監を豊の下で撃ち、これを破る。再び東進して沛を平定し、泗水守を薛の西で破る。司馬夷と碭の東で戦い、敵を退け、首十五級を斬り、爵位国大夫を賜う。常に従い、沛公に従って章邯の軍を濮陽で撃ち、城を攻めて先に登り、首二十三級を斬り、爵位列大夫を賜う。再び常に従い、城陽を攻めて先に登る。戸牖を下し、李由の軍を破り、首十六級を斬り、上閒の爵を賜う。東郡守尉を成武で攻囲し、敵を退け、首十四級を斬り、捕虜十一人を捕え、爵位五大夫を賜う。秦軍を撃ち、亳の南に出る。河閒守の軍を杠里で破る。趙賁の軍を開封の北で撃ち破り、敵を退けて先に登り、候一人を斬り、首六十八級、捕虜二十七人を捕え、爵位卿を賜う。楊熊の軍を曲遇で攻め破る。宛陵を攻め、先に登り、首八級を斬り、捕虜四十四人を捕え、爵位封号賢成君を賜う。長社・轘轅を攻め、河津を絶ち、東に秦軍を尸で攻め、南に秦軍を犨で攻める。南陽守齮を陽城で破る。東に宛城を攻め、先に登る。西に酈に至り、敵を退け、首二十四級を斬り、捕虜四十人を捕え、重ねて封を賜う。武関を攻め、霸上に至り、都尉一人を斬り、首十級、捕虜百四十六人を捕え、降卒二千九百人を得る。
項羽は戯下に在って、沛公を攻めんと欲した。沛公は百余騎を従えて項伯に因って項羽に面会し、関を閉ざした事はないと謝した。項羽が既に軍士に饗応し、酒に中った時、亜父は沛公を殺さんと謀り、項荘に命じて剣を抜いて座中で舞わしめ、沛公を撃たんとしたが、項伯が常にこれを蔽った。この時、独り沛公と張良のみが入って坐すことを得、樊噲は営外に在って、事の急なるを聞き、乃ち鉄盾を持って営中に入り到った。営衛が噲を止めたが、噲は直ちに撞き入り、帳下に立った。項羽は之を目して、誰ぞと問うた。張良曰く、「沛公の参乗樊噲なり。」項羽曰く、「壮士なり。」之に卮酒と彘肩を賜う。噲は既に酒を飲み、剣を抜いて肉を切り食らい、之を尽くした。項羽曰く、「復た能く飲むか。」噲曰く、「臣は死すら尚お辞せず、豈に独り卮酒のみを言わんや。且つ沛公先に入り咸陽を定め、師を暴して霸上に在り、以て大王を待つ。大王今日至り、小人の言を聴き、沛公と隙を有つ。臣は天下解け、心大王を疑わんことを恐る。」項羽は黙然たり。沛公は廁に如き、樊噲を麾いて去らしむ。既に出でて、沛公は車騎を留め、独り一馬に騎り、樊噲等四人と歩いて従い、間道より山下を帰り走りて霸上の軍に至り、而して張良をして項羽に謝せしむ。項羽も亦因って遂に已み、沛公を誅するの心無かりき。是の日、樊噲の奔り入りて営し項羽を譙譲する微き無くんば、沛公の事幾くんか殆うからん。
明日、項羽は入りて咸陽を屠り、沛公を立てて漢王と為す。漢王は噲に爵を賜いて列侯と為し、号して臨武侯と曰う。郎中に遷り、漢中に入るに従う。
還りて三秦を定め、別に西丞を白水の北に撃ち、雍の軽車騎を雍の南に於いて破る。雍・斄城を攻むるに従い、先に登る。章平の軍を好畤に撃ち、城を攻め、先に登り陣に陷り、県令・丞各一人を斬り、首十一級、虜二十人、郎中騎将に遷る。秦の車騎を壤東に撃つに従い、敵を却け、将軍に遷る。趙賁を攻め、郿・槐裏・柳中・咸陽を下す。廃丘を灌ぎ、最と為る。櫟陽に至り、食邑として杜の樊郷を賜う。項籍を攻むるに従い、煮棗を屠る。王武・程処の軍を外黄に於いて撃ち破る。鄒・魯・瑕丘・薛を攻む。項羽、漢王を彭城に敗り、尽く魯・梁の地を復た取る。噲は還りて滎陽に至り、平陰二千戸を益し食み、将軍として広武を守る。一歳、項羽は引きて東す。高祖に従い項籍を撃ち、陽夏を下し、楚の周将軍の卒四千人を虜う。項籍を陳に囲み、大いに之を破る。胡陵を屠る。
項籍が既に死ぬと、漢王は帝となり、噲が堅守して戦功があったので、食邑を八百戸増やした。高帝に従って反乱した燕王臧荼を攻め、荼を虜とし、燕の地を平定した。楚王韓信が反乱すると、噲は従って陳まで至り、信を捕らえ、楚を平定した。さらに爵を列侯に賜り、諸侯と符を剖き、世々絶えることなく、舞陽を食み、舞陽侯と号し、以前に食んでいた所は除かれた。将軍として高祖に従い、代で反乱した韓王信を攻めた。霍人より以遠から雲中まで、絳侯らと共にこれを平定し、食邑を千五百戸増やした。ついで陳豨と曼丘臣の軍を撃ち、襄国で戦い、柏人を破り、先に登り、清河・常山合わせて二十七県を降して平定し、東垣を残滅し、左丞相に遷った。無終・広昌で綦毋卹・尹潘の軍を破って捕らえた。代の南で豨の別将である胡人の王黄の軍を破り、ついで参合で韓信の軍を撃った。軍の率いる卒が韓信を斬り、豨の胡騎を横谷で破り、将軍趙既を斬り、代の丞相馮梁・守孫奮・大将王黄・将軍・太仆解福ら十人を虜とした。諸将と共に代の郷邑七十三を平定した。その後、燕王盧綰が反乱すると、噲は相国として盧綰を撃ち、その丞相を薊の南で破り、燕の地を平定し、合わせて県十八、郷邑五十一を定めた。食邑を千三百戸増やし、舞陽五千四百戸を食むことと定めた。従軍して、首級百七十六を斬り、二百八十八人を虜とした。別働して、軍七つを破り、城五つを下し、郡六つを定め、県五十二を定め、丞相一人、将軍十二人、二千石以下三百石まで十一人を得た。
噲は呂后の女弟である呂須を婦とし、子の伉を生んだので、そのため諸将の中で最も親しかった。
先に黥布が反乱した時、高祖はかつて病が甚だ重く、人に会うのを嫌い、禁中に臥し、戸を守る者に詔して群臣を入れることを許さなかった。群臣の絳侯・灌嬰らは敢えて入る者なく、十余日して、噲はついに戸を押し開いて直ちに入り、大臣らがこれに従った。上はただ一人の宦者を枕にして臥していた。噲らが上を見て涙を流して言うには、「初め陛下は臣らと豊沛より起こり、天下を定められましたが、何と壮んでいられたことか。今、天下は既に定まったのに、また何と疲れ果てておられることか。かつ陛下は病が甚だ重く、大臣は震え恐れています。臣らに会って事を計らず、ただ一人の宦者とだけお別れになろうとなさるのですか。かつ陛下はただ趙高の事をご覧にならないのですか」と。高帝は笑って起き上がった。
その後、盧綰が反乱すると、高帝は噲を使わして相国として燕を撃たせた。この時、高帝は病が甚だ重く、ある者が噲が呂氏に与していると悪く言うと、すなわち上に一日宮車晏駕あらば、則ち噲は兵をもって戚氏・趙王如意の類を尽く誅滅せんと欲す、と。高帝はこれを聞いて大いに怒り、すなわち陳平を使わして絳侯を載せて将を代えさせ、しかして即ち軍中で噲を斬らせた。陳平は呂后を畏れ、噲を捕らえて長安に詣でた。至ると高祖は既に崩じており、呂后は噲を釈放し、爵邑を復させた。
孝惠六年、樊噲卒す。謚して武侯と為す。子の伉が侯を代わる。而して伉の母の呂須もまた臨光侯と為り、高后の時に事を用いて権を専らにし、大臣ことごとくこれを畏れた。伉が侯を代わって九年、高后崩ず。大臣は諸呂・呂須の眷属を誅し、よって伉を誅した。舞陽侯は中絶すること数か月。孝文帝が既に立つと、すなわちまた噲の他の庶子である市人を封じて舞陽侯とし、故の爵邑を復した。市人が立つこと二十九年で卒す。謚して荒侯と為す。子の他広が侯を代わる。六年、侯家の舍人が他広に罪を得て、これを怨み、すなわち上書して言うには、「荒侯市人は病んで人と為す能わず、その夫人にその弟と乱れさせて他広を生ませた。他広は実は荒侯の子に非ず、後を代わるべからず」と。詔して吏に下す。孝景中六年、他広は侯を奪われて庶人と為り、国除かれた。
酈商
曲周侯酈商は、高陽の人である。陳勝が挙兵した時、商は若者を集めて東西に人を略奪し、数千人を得た。沛公が地を攻略して陳留に至った時、六月余りして、商は将卒四千人を率いて岐において沛公に属した。沛公に従って長社を攻め、先陣を切り、爵を賜って信成君と封ぜられた。沛公に従って緱氏を攻め、河津を断ち、秦軍を洛陽の東で破った。宛・穰を攻め落とし、十七県を平定した。別将として旬関を攻め、漢中を平定した。
項羽が秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王とした。漢王は商に爵信成君を賜い、将軍として隴西都尉とした。別将として北地・上郡を平定した。雍将軍を焉氏で破り、周類の軍を栒邑で破り、蘇駔の軍を泥陽で破った。武成六千戸を食邑として賜った。隴西都尉として項籍の軍を撃つことに従い五月、鉅野より出で、鐘離眛と戦い、激しく闘い、梁の相国の印を受け、食邑四千戸を加増された。梁の相国として将軍となり、項羽を撃つことに従うこと二歳三月、胡陵を攻めた。
項羽が既に死に、漢王が帝となった。その秋、燕王臧荼が反逆したので、商は将軍として荼を撃つことに従い、龍脱で戦い、先陣を切って陣に突入し、荼の軍を易の下で破り、敵を退け、右丞相に遷り、爵列侯を賜い、諸侯と符を剖き、世々絶えることなく、涿五千戸を食邑とし、号して涿侯といった。右丞相として別に上谷を平定し、ついで代を攻め、趙の相国の印を受けた。右丞相・趙の相国として別に絳侯らとともに代・鴈門を平定し、代の丞相程縦・守相郭同・将軍以下六百石に至る十九人を得た。帰還し、将軍として太上皇の衛となり一歳七月。右丞相として陳豨を撃ち、東垣を破壊した。また右丞相として高帝に従って黥布を撃ち、その前拒を攻め、両陣を陥れ、布の軍を破ることができ、食邑を曲周五千一百戸に改め、以前に食したものを除く。合わせて別に軍を三度破り、郡六・県七十三を降して平定し、丞相・守相・大将各一人、小将二人、二千石以下六百石に至る十九人を得た。
商は孝惠帝・高后の時に仕え、商は病み、政務を執らなかった。その子の寄は、字を況といい、呂祿と親しかった。高后が崩ずると、大臣は諸呂を誅殺しようとしたが、呂祿は将軍として北軍に駐屯し、太尉の周勃は北軍に入ることができなかった。そこで人をして酈商を脅迫させ、その子の況に呂祿を欺かせた。呂祿はこれを信じ、故に況と出遊し、太尉の周勃はようやく入って北軍を占拠することができ、ついに諸呂を誅殺した。この年、商は卒し、諡して景侯といった。子の寄が侯を代わった。天下は酈況が交わりを売ったと称した。
孝景帝前元三年、呉・楚・齊・趙が反乱を起こすと、上は寄を将軍とし、趙の城を包囲したが、十月たっても陥落させられなかった。俞侯欒布が齊を平定して来たのを得て、ようやく趙の城を落とし、趙を滅ぼし、王は自殺し、国は除かれた。孝景帝中元二年、寄が平原君を娶って夫人にしようとしたので、景帝は怒り、寄を吏に下し、罪ありとして侯を奪った。景帝はそこで商の他の子の堅を封じて繆侯とし、酈氏の後を継がせた。繆靖侯が卒すると、子の康侯遂成が立った。遂成が卒すると、子の懷侯世宗が立った。世宗が卒すると、子の侯終根が立ち、太常となったが、法に坐し、国は除かれた。
夏侯嬰
汝陰侯夏侯嬰は、沛の人である。沛の厩の司御を務めた。使者や賓客を送って帰るたびに、沛の泗上の亭を通り過ぎると、高祖と語り、一日中話し込むことが常であった。嬰はやがて試補で県吏となり、高祖と親しく交わった。高祖がふざけて嬰を傷つけると、ある者が高祖を告発した。高祖は当時亭長であり、人を傷つけた罪は重く、故意に嬰を傷つけなかったと申告したが、嬰がそれを証言した。後に獄事が覆って再審され、嬰は高祖の罪に連座して一年余り拘禁され、数百回も鞭打たれたが、ついにこのことで高祖を免罪させた。
高祖が初めて徒属を率いて沛を攻めようとしたとき、嬰は当時県令史として高祖の使者となった。上(高祖)が沛を降したその日、高祖が沛公となると、嬰に爵七大夫を賜り、太僕とした。胡陵を攻撃するのに従い、嬰は蕭何とともに泗水監平を降し、平は胡陵を以て降伏したので、嬰に爵五大夫を賜った。碭の東で秦軍を撃つに従い、済陽を攻め、戸牖を落とし、雍丘の下で李由の軍を破り、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速であったので、爵執帛を賜った。常に太僕として車を奉じて従い、東阿・濮陽の下で章邯の軍を撃ち、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速で、これを破り、爵執珪を賜った。また常に車を奉じて従い、開封で趙賁の軍を、曲遇で楊熊の軍を撃った。嬰は従って六十八人を捕虜とし、八百五十人の兵卒を降し、印一匱を得た。そこでまた常に車を奉じて従い、雒陽の東で秦軍を撃ち、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速であったので、爵を賜り封ぜられて滕公に転じた。そこでまた車を奉じて従い南陽を攻め、藍田・芷陽で戦い、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速で、霸上に至った。項羽が到着し、秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王とした。漢王は嬰に爵列侯を賜い、号して昭平侯とし、再び太僕とし、蜀・漢に入るに従った。
三秦を平定して還り、項籍を撃つに従った。彭城に至ると、項羽が漢軍を大破した。漢王は敗れ、不利となり、馳せ去った。孝惠帝と魯元公主を見つけ、車に載せた。漢王は焦り、馬は疲れ、敵が後ろに迫る中、しばしば二児を蹴落として棄てようとしたが、嬰は常に拾い上げ、ついに載せ続け、ゆっくり進んで(子供を)抱きかかえてからようやく馳せた。漢王は怒り、行く途中で嬰を斬ろうとしたことが十余度あったが、ついに脱出し、孝惠帝と魯元公主を豊に送り届けた。
漢王が既に滎陽に至り、散兵を収めて再び振るい、嬰に祈陽を食邑として賜う。再び常に奉車として従い項籍を撃ち、陳まで追い、遂に楚を平定し、魯に至り、茲氏を食邑として加増する。
漢王が帝として立つ。その秋、燕王臧荼が反し、嬰は太僕として従い荼を撃つ。翌年、従って陳に至り、楚王信を捕らえる。汝陰に食邑を改め、符を剖きて世々絶えざるものとす。太僕として従い代を撃ち、武泉・雲中に至り、千戸を食邑として加増する。因って従い韓信の軍を胡騎と共に晋陽の傍で撃ち、これを大破す。北を追って平城に至り、胡に囲まれ、七日間通ずるを得ず。高帝は使者を遣わして厚く閼氏に遺わし、冒頓は囲みの一角を開く。高帝は出でて馳せんと欲すれども、嬰は固く徐行し、弩は皆満を持して外向き、遂に脱するを得る。嬰に細陽千戸を食邑として加増す。再び太僕として従い胡騎を句注の北で撃ち、これを大破す。太僕として胡騎を平城の南で撃ち、三たび陣を陥し、功多く、奪いし邑五百戸を賜う。太僕として陳豨・黥布の軍を撃ち、陣を陥して敵を退け、千戸を食邑として加増し、汝陰六千九百戸を定食とし、前の食邑を除く。
嬰は上(高祖)が初め沛で挙兵して以来、常に太僕たり、遂に高祖の崩御に至るまで。太僕として孝惠帝に事う。孝惠帝及び高后は、嬰が下邑の間にあって孝惠・魯元を脱出させた功を徳とし、乃ち嬰に県北の第の第一を賜い、「我に近し」と曰い、以て尊び異にする。孝惠帝崩御し、太僕として高后に事う。高后崩御し、代王の来朝するに当たり、嬰は太僕として東牟侯と共に宮を清め、少帝を廃し、天子の法駕を以て代王を代邸に迎え、大臣と共に立てて孝文皇帝と為し、再び太僕となる。八年にして卒し、謚して文侯と為す。子の夷侯灶立つ、七年にして卒す。子の共侯賜立つ、三十一年にして卒す。子の侯頗は平陽公主を尚す。立つこと十九年、元鼎二年、父の御婢と姦する罪に坐し、自殺し、国除かる。
灌嬰
潁陰侯灌嬰は、睢陽の繒を販う者なり。高祖が沛公と為り、地を略して雍丘の下に至る時、章邯が項梁を敗ち殺し、而して沛公は軍を碭に還す。嬰は初め中涓として従い、東郡尉を成武に於いて及び秦軍を扛裏に於いて撃ち破り、疾く鬬い、爵七大夫を賜う。従い秦軍を亳南・開封・曲遇に攻め、戦い疾く力を尽くし、爵執帛を賜い、号して宣陵君と為す。従い陽武より西は雒陽に至るまでを攻め、秦軍を尸の北に破り、北は河津を絶ち、南は南陽守齮を陽城の東に破り、遂に南陽郡を定む。西に入り武関し、藍田に戦い、疾く力を尽くし、霸上に至り、爵執珪を賜い、号して昌文君と為す。
沛公が漢王に立てられると、嬰を郎中に任じ、漢中に入るに従い、十月、中謁者に任じられた。三秦を平定するため還るに従い、櫟陽を下し、塞王を降した。還って章邯を廢丘に包囲したが、陥落させなかった。東に出て臨晉關を出て、殷王を撃ち降し、その地を平定した。項羽の将龍且と魏の相項他軍を定陶の南で撃ち、激戦してこれを破った。嬰に列侯の爵を賜い、昌文侯と号し、杜平郷を食邑とした。
また中謁者として従い碭を降下させ、彭城に至った。項羽が撃ち、漢王を大いに破った。漢王は逃れて西に向かい、嬰は従って還り、雍丘に軍を置いた。王武と魏公申徒が反したので、従って撃ち破った。黄を攻め下し、西に兵を収め、滎陽に軍を置いた。楚の騎兵が多く来たので、漢王は軍中で(車)騎将となるべき者を選んだが、皆かつて秦の騎士であった重泉の人李必・駱甲が騎兵に習熟しており、今は校尉であるから騎将とすべしと推した。漢王が彼らを任じようとすると、必と甲は言った、「臣らはもと秦の民であり、軍が臣らを信じないことを恐れます。大王の左右の騎に優れた者を傅けていただきたい」。灌嬰は年少であったが、しばしば力戦していたので、灌嬰を中大夫に任じ、李必・駱甲を左右校尉とし、郎中騎兵を率いて楚の騎兵を滎陽の東で撃ち、大いにこれを破らせた。詔を受けて別に楚軍の後方を撃ち、その糧道を絶ち、陽武から襄邑に至った。項羽の将項冠を魯の下で撃ち、破り、率いた卒が右司馬・騎将各一人を斬った。柘公王武を撃ち破り、燕の西に軍を置き、率いた卒が楼煩の将五人、連尹一人を斬った。王武の別将桓嬰を白馬の下で撃ち、破り、率いた卒が都尉一人を斬った。騎兵を率いて河南を渡り、漢王を雒陽に送り届け、北に遣わして相国韓信の軍を邯鄲で迎えさせた。還って敖倉に至り、嬰は御史大夫に遷った。
三年、列侯として杜平郷を食邑とした。御史大夫として詔を受け、郎中騎兵を率いて東に相国韓信に属し、歴下で斉軍を撃ち破り、率いた卒が車騎将軍華毋傷及び将吏四十六人を捕虜にした。臨菑を降下させ、斉の守相田光を得た。斉の相田横を嬴・博まで追撃し、その騎兵を破り、率いた卒が騎将一人を斬り、騎将四人を生け捕りにした。嬴・博を攻め下し、千乗で斉の将軍田吸を破り、率いた卒が吸を斬った。東に韓信に従って高密で龍且と留公旋を攻め、ついに龍且を斬り、右司馬・連尹各一人、楼煩の将十人を生け捕りにし、自ら副将周蘭を生け捕りにした。
斉の地が既に平定されると、韓信は自立して斉王となり、嬰を別将として楚の将公杲を魯の北で撃たせ、破った。転じて南に向かい、薛郡長を破り、自ら騎将一人を捕虜にした。傅陽を攻め、前に進んで下相より東南の僮・取慮・徐に至った。淮を渡り、その城邑をことごとく降し、広陵に至った。項羽が項聲・薛公・郯公を使わして淮北を再び平定させた。嬰は淮北を渡り、下邳で項聲・郯公を撃ち破り、薛公を斬り、下邳を下し、平陽で楚の騎兵を撃ち破り、ついに彭城を降し、柱国項佗を捕虜にし、留・薛・沛・酂・蕭・相を降した。苦・譙を攻め、再び副将周蘭を得た。漢王と頤郷で会した。従って陳の下で項籍の軍を撃ち、破り、率いた卒が楼煩の将二人を斬り、騎将八人を捕虜にした。食邑二千五百戸を増して賜った。
項籍が垓下で敗れて去ると、嬰は御史大夫として詔を受け、車騎を率いて別に項籍を東城まで追撃し、破った。率いた卒の五人が共に項籍を斬り、皆列侯の爵を賜った。左右司馬各一人を降し、卒一万二千人を得て、その軍の将吏をことごとく得た。東城・歴陽を下した。江を渡り、呉郡長を呉の下で破り、呉の守を得て、ついに呉・豫章・会稽郡を平定した。還って淮北を平定し、合わせて五十二県であった。
漢王が皇帝に立てられると、嬰に益して邑三千戸を賜う。その秋、車騎将軍として従い燕王臧荼を撃ち破る。明年、従って陳に至り、楚王信を捕らう。還りて符を剖き、世々絶ゆることなく、潁陰二千五百戸を食み、潁陰侯と号す。
車騎将軍として従い代にて反する韓王信を撃ち、馬邑に至り、詔を受けて別に楼煩以北の六県を降し、代の左相を斬り、胡騎を武泉の北に破る。また従い韓信の胡騎を晋陽の下に撃ち、将うる卒の胡の白題将一人を斬る。詔を受けて燕・趙・齊・梁・楚の車騎を併せ将い、胡騎を硰石に撃ち破る。平城に至り、胡に囲まれる。従って軍を還し東垣に至る。
従い陳豨を撃ち、詔を受けて別に豨の丞相侯敞の軍を曲逆の下に攻め、これを破り、卒は敞及び特将五人を斬る。曲逆・盧奴・上曲陽・安國・安平を降す。東垣を攻め下す。
黥布反す。車騎将軍として先に出で、布の別将を相にて攻め、これを破り、亞将・楼煩将三人を斬る。また進みて布の上柱国の軍及び大司馬の軍を撃ち破る。また進みて布の別将肥誅を破る。嬰自ら左司馬一人を生け捕り、将うる卒はその小将十人を斬り、北を追って淮上に至る。食邑二千五百戸を益す。布既に破れ、高帝帰り、令を定めて嬰に穎陰五千戸を食ませ、前の食邑を除く。凡そ従いて二千石二人を得、別に軍十六を破り、城四十六を降し、国一を定め、郡二、県五十二を得、将軍二人、柱国・相国各一人、二千石十人を得たり。
嬰、布を破りて帰るより後、高帝崩ず。嬰は列侯として孝惠帝及び呂太后に事う。太后崩ず。呂祿ら趙王を以て自ら将軍と為し、長安に軍し、乱を為す。齊哀王これを聞き、兵を挙げて西し、且つ入りて王たるべからざる者を誅せんとす。上將軍呂祿らこれを聞き、乃ち嬰を大将と為し、将軍として往きてこれを撃たしむ。嬰行きて滎陽に至り、乃ち絳侯らと謀り、因りて兵を滎陽に屯し、齊王に風して呂氏を誅する事を以てす。齊兵止まりて前まず。絳侯ら既に諸呂を誅す。齊王兵を罷め帰る。嬰も亦兵を罷め自ら滎陽より帰り、絳侯・陳平と共に代王を立てて孝文皇帝と為す。孝文皇帝ここに於て嬰に三千戸を益し封じ、黄金千斤を賜い、太尉に拝す。
三年、絳侯周勃が丞相を免ぜられて封国に赴き、嬰が丞相となり、太尉の官を廃した。この年、匈奴が大いに北地・上郡に侵入したので、丞相嬰に騎兵八万五千を率いて匈奴を撃たしめた。匈奴が去り、済北王が反したので、詔して嬰の兵を罷めしめた。後一年余りして、嬰は丞相のまま卒し、謚して懿侯と曰う。子の平侯阿が侯を代わった。二十八年で卒し、子の彊が侯を代わった。十三年、彊は罪あり、封は二年絶えた。元光三年、天子は灌嬰の孫の賢を臨汝侯に封じ、灌氏の後を継がしめた。八年、賄賂を行った罪に坐し、国除となった。
評論
太史公曰く、吾れ豊沛に適き、其の遺老に問い、故き蕭何・曹参・樊噲・滕公(夏侯嬰)の家及び其の素行を観るに、聞く所異なるかな。方に其の鼓刀して狗を屠り繒を売りし時、豈に自ら驥の尾に附き、名を漢廷に垂れ、徳子孫に流れんことを知らんや。余は他広と通じ、高祖功臣の興りし時の此の如きを言う。
【索隱述贊】聖賢影響し、雲蒸し龍変ず。狗を屠り繒を販り、城を攻め野に戦う。義を扶けて西上し、封を受け南面す。酈況は交を売り、舞陽は内援す。滕灌更に王たり、奕葉繁衍す。