史記

巻九十一 黥布列傳 第三十一

黥布

原文黥布

黥布は六の人なり、姓は英氏。秦の時に布衣たり。少年の時、客有りて相して曰く、「刑に當たりて王たらん」と。壮に及び、法に坐して黥せらる。布欣然として笑ひて曰く、「人我を相して刑に當たりて王たらんとす、幾くんぞ是れに近からんや」と。聞く者有りて、共に俳笑す。布已に論せられて麗山に輸せらる。麗山の徒数十萬人、布皆其の徒長豪桀と交通し、乃ち其の曹偶を率ゐて、之を亡ぼし江中に群盜と為る。

原文黥布者,六人也,姓英氏。秦時為布衣。少年,有客相之曰:「當刑而王。」及壯,坐法黥。布欣然笑曰;「人相我當刑而王,幾是乎?」人有聞者,共俳笑之。布已論輸麗山,麗山之徒數十萬人,布皆與其徒長豪桀交通,乃率其曹偶,亡之江中為群盜。

陳勝の起るや、布乃ち番君に見え、其の衆と秦に叛き、兵を聚めて数千人。番君其の女を以て妻と為す。章邯の陳勝を滅ぼし、呂臣の軍を破るや、布乃ち兵を引いて北し秦の左右校を撃ち、之を清波に破り、兵を引いて東す。項梁の江東會稽を定むるを聞き、江を渉りて西す。陳嬰は項氏世々楚の将たるを以て、乃ち兵を以て項梁に属す。淮南を渡り、英布・蒲将軍も亦兵を以て項梁に属す。

原文陳勝之起也,布乃見番君,與其眾叛秦,聚兵數千人。番君以其女妻之。章邯之滅陳勝,破呂臣軍,布乃引兵北擊秦左右校,破之清波,引兵而東。聞項梁定江東會稽,涉江而西。陳嬰以項氏世為楚將,乃以兵屬項梁,渡淮南,英布、蒲將軍亦以兵屬項梁。

項梁が淮水を渡って西進し、景駒・秦嘉らを撃つと、英布は常に軍功第一であった。項梁が薛に至り、陳王(陳勝)が確かに死んだと聞くと、そこで楚の懐王を立てた。項梁は武信君と号し、英布は当陽君とされた。項梁が定陶で敗死すると、懐王は都を彭城に移し、諸将の英布らも皆、彭城に拠って兵を集めた。この時、秦が急に趙を包囲したので、趙はたびたび人をやって救援を請うた。懐王は宋義を上将とし、范曾を末将とし、項籍を次将とし、英布と蒲将軍を皆将軍として、すべて宋義に属させ、北へ趙を救わせた。項籍が河上で宋義を殺すと、懐王はそこで項籍を上将軍に立て、諸将は皆項籍に属した。項籍は英布に先に黄河を渡って秦を撃たせた。英布はたびたび有利な戦いをしたので、項籍はそこで全軍を率いて黄河を渡り英布に従い、ついに秦軍を破り、章邯らを降伏させた。楚軍は常に勝利し、その功績は諸侯の中で第一であった。諸侯の兵が皆楚に服属したのは、英布がたびたび少数で大軍を破ったからである。

原文項梁涉淮而西,擊景駒、秦嘉等,布常冠軍。項梁至薛,聞陳王定死,迺立楚懷王。項梁號為武信君,英布為當陽君。項梁敗死定陶,懷王徙都彭城,諸將英布亦皆保聚彭城。當是時,秦急圍趙,趙數使人請救。懷王使宋義為上將,范曾為末將,項籍為次將,英布、蒲將軍皆為將軍,悉屬宋義,北救趙。及項籍殺宋義於河上,懷王因立籍為上將軍,諸將皆屬項籍。項籍使布先渡河擊秦,布數有利,籍迺悉引兵涉河從之,遂破秦軍,降章邯等。楚兵常勝,功冠諸侯。諸侯兵皆以服屬楚者,以布數以少敗眾也。

項籍が兵を率いて西進し新安に至ると、また英布らに命じて夜襲し、章邯配下の秦兵二十余万人を生き埋めにした。関中に入ろうとしたが入れず、また英布らに命じてまず間道から関下の軍を破らせ、ついに入ることができ、咸陽に至った。英布は常に軍の先鋒であった。項王が諸将を封じると、英布を九江王に立て、六を都とした。

原文項籍之引兵西至新安,又使布等夜擊阬章邯秦卒二十餘萬人。至關,不得入,又使布等先從閒道破關下軍,遂得入,至咸陽。布常為軍鋒。項王封諸將,立布為九江王,都六。

漢元年四月、諸侯は皆、麾下を解散してそれぞれ封国に赴いた。項氏は懐王を義帝に立て、都を長沙に移したが、密かに九江王英布らに命じてこれを襲撃させた。その八月、英布は将を遣わして義帝を襲撃させ、郴県まで追って殺害した。

原文漢元年四月,諸侯皆罷戲下,各就國。項氏立懷王為義帝,徙都長沙,乃陰令九江王布等行擊之。其八月,布使將擊義帝,追殺之郴縣。

漢二年、斉王田栄が楚に背くと、項王は斉を撃ちに赴き、九江に兵を徴発した。九江王英布は病と称して行かず、将に数千の兵を率いさせて行かせた。漢が彭城で楚を破ると、英布はまた病と称して楚を助けなかった。項王はこれによって英布を怨み、たびたび使者を遣わして責め立てて召し出したが、英布はますます恐れて行こうとしなかった。項王はちょうど北では斉・趙を憂え、西では漢を患い、味方するのは九江王だけであり、また英布の才能を多く評価していたので、親しく用いたかった。このため攻撃しなかったのである。

原文漢二年,齊王田榮畔楚,項王往擊齊,徵兵九江,九江王布稱病不往,遣將將數千人行。漢之敗楚彭城,布又稱病不佐楚。項王由此怨布,數使使者誚讓召布,布愈恐,不敢往。項王方北憂齊、趙,西患漢,所與者獨九江王,又多布材,欲親用之,以故未擊。

漢三年、漢王は楚を撃ち、彭城にて大戦し、利あらず、梁の地を出て、虞に至り、左右に謂ひて曰く、「彼等の如き者は、天下の事を計るに足らず」と。謁者随何進みて曰く、「審らかにせず、陛下の謂ふ所」と。漢王曰く、「誰か能く我が為に淮南に使いし、之をして兵を発して楚に倍かせ、項王を斉に留めしむること数ヶ月、我が天下を取ることを以て百全と為すべし」と。随何曰く、「臣請ふ、之を使はしむ」と。乃ち二十人と俱にし、淮南に使す。至りて、太宰に因りて之を主とす、三日見ゆるを得ず。随何因りて太宰に説きて曰く、「王の何を見ざるは、必ず楚を以て彊しと為し、漢を以て弱しと為す、此れ臣の以て使と為す所以なり。何をして見ゆるを得しめ、言ふこと是なれば、是れ大王の聞かんと欲する所なり。言ふこと非なれば、何等二十人をして斧質に伏して淮南の市にて、以て王の漢に倍きて楚に与ふることを明らかにせしむべし」と。太宰乃ち之を王に言ふ、王之を見る。随何曰く、「漢王臣を使はして敬して書を大王の御者に進む、窃かに怪しむ大王の楚と何ぞ親しきや」と。淮南王曰く、「寡人北に郷ひて臣事す」と。随何曰く、「大王と項王と俱に列して諸侯と為り、北に郷ひて臣事すは、必ず楚を以て彊しと為し、以て国を託すべしとす。項王斉を伐つに、身に板筑を負ひ、以て士ついの先と為す、大王宜しく淮南の衆を悉くし、身自ら之を将ひ、楚軍の前鋒と為すべし、今乃ち四千人を発して以て楚を助く。夫れ北面して人に臣事する者は、固より是の如きか。夫れ漢王彭城に戦ふに、項王未だ斉を出でざるなり、大王宜しく淮南の兵を騒がし淮を渡り、日夜会戦して彭城の下にすべし、大王万人の衆を撫すも、一人も淮を渡る者無く、垂拱して其の孰れか勝つかを観る。夫れ人に国を託する者は、固より是の如きか。大王空名を提げて楚に郷ひ、而して厚く自ら託せんと欲す、臣窃かに大王の取らざるを為す。然れども大王楚に背かざるは、漢を以て弱しと為すなり。夫れ楚兵雖も彊し、天下之に不義の名を負はす、其の盟約を背きて義帝を殺すを以てなり。然れども楚王戦勝を恃みて自ら彊しと為し、漢王諸侯を収め、還りて成皋・滎陽を守り、蜀・漢の粟を下し、溝を深くし壁壘し、卒を分かち守りて徼に乗り塞ぐ、楚人兵を還し、梁の地を間にし、敵国に深入すること八九百里、戦はんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能はず、老弱糧を転じて千里の外にす。楚兵滎陽・成皋に至れば、漢堅守して動かず、進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くを得ず。故に曰く楚兵恃むに足らずと。楚をして漢に勝たしめば、則ち諸侯自ら危懼して相救ふ。夫れ楚の彊きは、適足りて以て天下の兵を致すのみ。故に楚は漢に如かず、其の勢見易し。今大王万全の漢に与せずして自ら危亡の楚に託す、臣窃かに大王の惑ふを為す。臣淮南の兵を以て以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ず。夫れ大王兵を発して楚に倍かば、項王必ず留まらん。数ヶ月留まらば、漢の天下を取ることを以て万全と為すべし。臣請ふ大王と与に剣を提げて漢に帰らん、漢王必ず地を裂きて以て大王を封ぜん、又況んや淮南は、淮南必ず大王有すべし。故に漢王敬して使臣を使はして愚計を進む、願はくは大王の留意せんことを」と。淮南王曰く、「命に奉ぜんことを請ふ」と。陰に許して楚に畔きて漢に与す、未だ泄らすを敢へず。

原文漢三年,漢王擊楚,大戰彭城,不利,出梁地,至虞,謂左右曰:「如彼等者,無足與計天下事。」謁者隨何進曰:「不審陛下所謂。」漢王曰:「孰能為我使淮南,令之發兵倍楚,留項王於齊數月,我之取天下可以百全。」隨何曰:「臣請使之。」乃與二十人俱,使淮南。至,因太宰主之,三日不得見。隨何因說太宰曰:「王之不見何,必以楚為彊,以漢為弱,此臣之所以為使。使何得見,言之而是邪,是大王所欲聞也;言之而非邪,使何等二十人伏斧質淮南市,以明王倍漢而與楚也。」太宰乃言之王,王見之。隨何曰:「漢王使臣敬進書大王御者,竊怪大王與楚何親也。」淮南王曰:「寡人北鄉而臣事之。」隨何曰:「大王與項王俱列為諸侯,北鄉而臣事之,必以楚為彊,可以讬國也。項王伐齊,身負板筑,以為士卒先,大王宜悉淮南之眾,身自將之,為楚軍前鋒,今乃發四千人以助楚。夫北面而臣事人者,固若是乎?夫漢王戰於彭城,項王未出齊也,大王宜騷淮南之兵渡淮,日夜會戰彭城下,大王撫萬人之眾,無一人渡淮者,垂拱而觀其孰勝。夫讬國於人者,固若是乎?大王提空名以鄉楚,而欲厚自讬,臣竊為大王不取也。然而大王不背楚者,以漢為弱也。夫楚兵雖彊,天下負之以不義之名,以其背盟約而殺義帝也。然而楚王恃戰勝自彊,漢王收諸侯,還守成皋、滎陽,下蜀、漢之粟,深溝壁壘,分卒守徼乘塞,楚人還兵,閒以梁地,深入敵國八九百里,欲戰則不得,攻城則力不能,老弱轉糧千里之外;楚兵至滎陽、成皋,漢堅守而不動,進則不得攻,退則不得解。故曰楚兵不足恃也。使楚勝漢,則諸侯自危懼而相救。夫楚之彊,適足以致天下之兵耳。故楚不如漢,其勢易見也。今大王不與萬全之漢而自讬於危亡之楚,臣竊為大王惑之。臣非以淮南之兵足以亡楚也。夫大王發兵而倍楚,項王必留;留數月,漢之取天下可以萬全。臣請與大王提劍而歸漢,漢王必裂地而封大王,又況淮南,淮南必大王有也。故漢王敬使使臣進愚計,願大王之留意也。」淮南王曰:「請奉命。」陰許畔楚與漢,未敢泄也。

楚の使者在り、方に急に英布を責めて兵を発せしめ、伝舎に舎す。随何直に入り、楚の使者の上坐に坐りて曰く、「九江王已に漢に帰す、楚何を以てか兵を発するを得ん」と。布愕然たり。楚の使者起つ。何因りて布に説きて曰く、「事已に搆へり、遂に楚の使者を殺すべく、帰らしむる無く、而して疾く漢に走りて力を併せよ」と。布曰く、「使者の教の如く、因りて兵を起こして之を撃たんのみ」と。是に於て使者を殺し、因りて兵を起こして楚を攻む。楚項声・龍且を使はして淮南を攻めしむ、項王留まりて下邑を攻む。数ヶ月、龍且淮南を撃ち、布の軍を破る。布兵を引きて漢に走らんと欲す、楚王之を殺さんことを恐る、故に間行して何と俱に漢に帰る。

原文楚使者在,方急責英布發兵,舍傳舍。隨何直入,坐楚使者上坐,曰:「九江王已歸漢,楚何以得發兵?」布愕然。楚使者起。何因說布曰:「事已搆,可遂殺楚使者,無使歸,而疾走漢并力。」布曰:「如使者教,因起兵而擊之耳。」於是殺使者,因起兵而攻楚。楚使項聲、龍且攻淮南,項王留而攻下邑。數月,龍且擊淮南,破布軍。布欲引兵走漢,恐楚王殺之,故閒行與何俱歸漢。

淮南王が到着すると、上は床に踞って足を洗いながら、布を召し入れて会見した。布は大いに怒り、来たことを後悔し、自殺しようと思った。出て宿舎に就くと、帳幕や車駕、飲食や従官が漢王の居所と同じであったので、布はまた大いに喜び、期待以上であった。そこで人を九江に入らせた。楚は既に項伯に九江の兵を収めさせ、布の妻子をことごとく殺していた。布の使者は旧臣や寵臣を多く得て、数千の兵を率いて漢に帰した。漢はさらに兵を分けて布とともに北進し、兵を収めて成皋に至った。四年七月、布を立てて淮南王とし、項籍を撃つことに協力させた。

原文淮南王至,上方踞床洗,召布入見,布(甚)大怒,悔來,欲自殺。出就舍,帳御飲食從官如漢王居,布又大喜過望。於是乃使人入九江。楚已使項伯收九江兵,盡殺布妻子。布使者頗得故人幸臣,將眾數千人歸漢。漢益分布兵而與俱北,收兵至成皋。四年七月,立布為淮南王,與擊項籍。

漢の五年、布は人を九江に入れ、数県を得た。六年、布は劉賈とともに九江に入り、大司馬周殷を誘い、周殷は楚に背き、ついに九江の兵を挙げて漢とともに楚を撃ち、垓下でこれを破った。

原文漢五年,布使人入九江,得數縣。六年,布與劉賈入九江,誘大司馬周殷,周殷反楚,遂舉九江兵與漢擊楚,破之垓下。

項籍が死に、天下が定まると、上は酒宴を設けた。上は随何の功績をけなし、何を腐儒と言い、天下のために腐儒を用いる必要があるかと言った。随何が跪いて言うには、「陛下が兵を率いて彭城を攻められた時、楚王はまだ斉を去っておられませんでした。陛下が歩卒五万人、騎兵五千を発せられたとして、淮南を取ることができたでしょうか」と。上は言った、「できなかったであろう」と。随何は言った、「陛下は何に二十人を付けて淮南に使いさせられ、到着して、陛下の意のままにさせました。これは何の功績が歩卒五万人、騎兵五千よりも優れているということです。それなのに陛下は何を腐儒と言い、天下のために腐儒を用いる必要があるかと言われるのは、どうしてでしょうか」と。上は言った、「私はちょうどそなたの功績を考えていたところだ」と。そこで随何を護軍中尉とした。布はついに符を割って淮南王となり、六に都し、九江・廬江・衡山・豫章の郡はみな布に属した。

原文項籍死,天下定,上置酒。上折隨何之功,謂何為腐儒,為天下安用腐儒。隨何跪曰:「夫陛下引兵攻彭城,楚王未去齊也,陛下發步卒五萬人,騎五千,能以取淮南乎?」上曰:「不能。」隨何曰:「陛下使何與二十人使淮南,至,如陛下之意,是何之功賢於步卒五萬人騎五千也。然而陛下謂何腐儒,為天下安用腐儒,何也?」上曰:「吾方圖子之功。」乃以隨何為護軍中尉。布遂剖符為淮南王,都六,九江、廬江、衡山、豫章郡皆屬布。

七年、陳に朝した。八年、雒陽に朝した。九年、長安に朝した。

原文七年,朝陳。八年,朝雒陽。九年,朝長安。

十一年、高后が淮陰侯を誅したので、布は内心恐れた。夏、漢が梁王彭越を誅し、これを醢にし、その醢を盛って諸侯に遍く賜った。淮南に至ると、淮南王はちょうど狩猟中で、醢を見て、大いに恐れ、ひそかに人に命じて兵を集めさせ、傍らの郡の警戒の急を知らせを待った。

原文十一年,高后誅淮陰侯,布因心恐。夏,漢誅梁王彭越,醢之,盛其醢遍賜諸侯。至淮南,淮南王方獵,見醢,因大恐,陰令人部聚兵,候伺旁郡警急。

布が寵愛する姫が病に罹り、医者を求めた。医者の家は中大夫賁赫の家と向かい合っており、姫はしばしば医者の家に通った。賁赫は自ら侍中であると思い、厚く贈り物をして、姫に従って医者の家で酒を飲んだ。姫が王に侍る時、何気ない会話の中で、赫が長者であると褒めた。王は怒って言った、「お前はどこからそれを知ったのか」。姫は詳しく状況を説明した。王は彼女が赫と乱行を働いたのではないかと疑った。赫は恐れ、病気と称した。王はますます怒り、赫を捕らえようとした。赫は変事を告げ、駅伝に乗って長安へ向かった。布は人をやって追わせたが、追いつかなかった。赫が到着し、変事を上奏し、布が謀反の兆しがあるので、未発のうちに誅殺すべきであると述べた。上(皇帝)はその上書を読み、蕭相国に話した。相国は言った、「布がこのようなことをするはずがありません。仇怨による妄りな誣告を恐れます。赫を捕らえて訊問し、人を遣わして密かに淮南王を検証させてください」。淮南王の布は赫が罪を負って逃亡し、変事を上告したのを見て、もとより国の陰事を言いふらされたのではないかと疑っていた。漢の使者がまた来て、かなり検証を行ったので、遂に赫の一族を誅し、兵を起こして反乱した。反乱の上書が聞こえると、上は賁赫を赦し、将軍とした。

原文布所幸姬疾,請就醫,醫家與中大夫賁赫對門,姬數如醫家,賁赫自以為侍中,乃厚餽遺,從姬飲醫家。姬侍王,從容語次,譽赫長者也。王怒曰:「汝安從知之?」具說狀。王疑其與亂。赫恐,稱病。王愈怒,欲捕赫。赫言變事,乘傳詣長安。布使人追,不及。赫至,上變,言布謀反有端,可先未發誅也。上讀其書,語蕭相國。相國曰:「布不宜有此,恐仇怨妄誣之。請擊赫,使人微驗淮南王。」淮南王布見赫以罪亡,上變,固已疑其言國陰事;漢使又來,頗有所驗,遂族赫家,發兵反。反書聞,上乃赦賁赫,以為將軍。

上は諸将を召して問うた、「布が反乱した。これに対してどうするか」。皆が言った、「兵を発してこれを撃てば、あの小僧を穴埋めにするだけです。何ができましょうか」。汝陰侯の滕公(夏侯嬰)は故楚の令尹を召してこれを問うた。令尹は言った、「これはもとより反乱すべきことです」。滕公が言った、「上は地を裂いて彼を王とし、爵を分けて彼を貴ばせ、南面して立つ万乗の主とした。その反乱はどういうわけか」。令尹は言った、「往年彭越を殺し、前年韓信を殺しました。この三人は、同じ功績を持ち一体の者です。自ら禍が身に及ぶことを疑い、故に反乱するのです」。滕公は上に言上した、「臣の客に故楚の令尹薛公という者がおります。この人物には籌策の計略があります。お尋ねください」。上はそこで薛公を召し出して問うた。薛公は答えて言った、「布の反乱は怪しむに足りません。もし布が上計を出せば、山東は漢の所有ではなくなります。中計を出せば、勝敗の数は未だ知るべからず。下計を出せば、陛下は枕を安くして臥すことができます」。上が言った、「上計とは何か」。令尹が答えて言った、「東に呉を取り、西に楚を取り、斉を併せて魯を取り、檄を伝えて燕・趙を固め、その地を固守すれば、山東は漢の所有ではなくなります」。「中計とは何か」。「東に呉を取り、西に楚を取り、韓を併せて魏を取り、敖倉の粟を拠り所とし、成皋の口を塞げば、勝敗の数は未だ知るべからず」。「下計とは何か」。「東に呉を取り、西に下蔡を取り、重きを越に帰し、身は長沙に帰れば、陛下は枕を安くして臥すことができ、漢には事がありません」。上が言った、「この計はどれを出すだろうか」。令尹が答えて言った、「下計を出すでしょう」。上が言った、「なぜ上計・中計を捨てて下計を出すのか」。令尹は言った、「布はもと麗山の徒(刑徒)であり、自ら万乗の主に至りました。これは皆、身のためであり、後世や百姓のことを慮る者ではありません。故に下計を出すと言うのです」。上は言った、「善い」。薛公に千戸を封じた。そこで皇子の長を立てて淮南王とした。上は遂に兵を発し、自ら将となって東進し、布を撃った。

原文上召諸將問曰:「布反,為之柰何?」皆曰;「發兵擊之,阬豎子耳。何能為乎!」汝陰侯滕公召故楚令尹問之。令尹曰:「是故當反。」滕公曰:「上裂地而王之,疏爵而貴之,南面而立萬乘之主,其反何也?」令尹曰:「往年殺彭越,前年殺韓信,此三人者,同功一體之人也。自疑禍及身,故反耳。」滕公言之上曰:「臣客故楚令尹薛公者,其人有籌筴之計,可問。」上乃召見問薛公。薛公對曰:「布反不足怪也。使布出於上計,山東非漢之有也;出於中計,勝敗之數未可知也;出於下計,陛下安枕而臥矣。」上曰:「何謂上計?」令尹對曰:「東取吳,西取楚,并齊取魯,傳檄燕、趙,固守其所,山東非漢之有也。」「何謂中計?」「東取吳,西取楚,并韓取魏,據敖庾之粟,塞成皋之口,勝敗之數未可知也。」「何謂下計?」「東取吳,西取下蔡,歸重於越,身歸長沙,陛下安枕而臥,漢無事矣。」上曰:「是計將安出?」令尹對曰:「出下計。」上曰:「何謂廢上中計而出下計?」令尹曰:「布故麗山之徒也,自致萬乘之主,此皆為身,不顧後為百姓萬世慮者也,故曰出下計。」上曰:「善。」封薛公千戶。乃立皇子長為淮南王。上遂發兵自將東擊布。

布が初めて反乱した時、その将に言った、「上(皇帝)は老いて、兵事を厭っている。必ず来られないだろう。諸将を使わしても、諸将の中で恐れるのは淮陰侯(韓信)と彭越だけだったが、今は皆すでに死んだ。残りは畏れるに足らない」。故に遂に反乱した。果たして薛公が籌策した通り、東進して荊を撃ち、荊王の劉賈は敗走して富陵で死んだ。その兵を全て奪い取り、淮を渡って楚を撃った。楚は兵を発し、徐・僮の間で戦い、三軍に分かれて、互いに救援し合って奇策としようとした。ある者が楚の将に説いて言った、「布は兵を用いるのが巧みで、民はもとより彼を畏れています。かつ兵法に、諸侯がその地で戦うのは散地(守りにくい地)とあります。今別れて三軍とすれば、彼が我が一軍を破れば、残りは皆逃げ去り、どうして互いに救援できましょうか」。聞き入れなかった。布は果たしてその一軍を破り、他の二軍は散り散りに逃げた。

原文布之初反,謂其將曰:「上老矣,厭兵,必不能來。使諸將,諸將獨患淮陰、彭越,今皆已死,餘不足畏也。」故遂反。果如薛公籌之,東擊荊,荊王劉賈走死富陵。盡劫其兵,渡淮擊楚。楚發兵與戰徐、僮閒,為三軍,欲以相救為奇。或說楚將曰:「布善用兵,民素畏之。且兵法,諸侯戰其地為散地。今別為三,彼敗吾一軍,餘皆走,安能相救!」不聽。布果破其一軍,其二軍散走。

かくて西進し、上(高祖)の兵と蘄西の會甀で遭遇した。英布の兵は極めて精鋭であり、上は庸城に陣を布き、英布の軍の陣立てが項籍の軍のようであるのを見て、上はこれを嫌った。英布と互いに望見し、遠くから英布に言うには、「何を苦にして反するのか」と。英布は言う、「帝たらんと欲するのみ」と。上は怒ってこれを罵り、かくて大戦となった。英布の軍は敗れて走り、淮水を渡り、数度戦いを止めて防いだが利あらず、百余りの者と江南へ走った。英布は以前より番君(呉芮)と婚姻関係にあったので、その縁故で長沙哀王(呉回)が人を遣わして英布を欺き、偽って共に逃亡するふりをし、越の地へ走るよう誘い、英布はそれゆえに信じてこれに従い番陽へ至った。番陽の人が英布を茲郷の民家で殺し、かくて黥布は滅びた。

原文遂西,與上兵遇蘄西會甀。布兵精甚,上乃壁庸城,望布軍置陳如項籍軍,上惡之。與布相望見,遙謂布曰:「何苦而反?」布曰:「欲為帝耳。」上怒罵之,遂大戰。布軍敗走,渡淮,數止戰,不利,與百餘人走江南。布故與番君婚,以故長沙哀王使人紿布,偽與亡,誘走越,故信而隨之番陽。番陽人殺布茲鄉民田舍,遂滅黥布。

皇子の長を立てて淮南王とし、賁赫を期思侯に封じ、諸将率の多くは功績によって封ぜられた。

原文立皇子長為淮南王,封賁赫為期思侯,諸將率多以功封者。

評論

原文評論

太史公曰く、英布なる者は、その祖先は春秋に見える楚が滅ぼした英・六、すなわち皋陶の後裔であろうか。身に刑法を被りながら、その抜きん出て興るや何と急激であったことか。項氏が坑殺した者は千万の数に上るが、英布は常にその先頭に立ち虐げを行った。功績は諸侯の冠たり、これによって王となるを得たが、また身が世の大いなる辱めを受けることを免れなかった。禍の起こりは愛姫より生じ、嫉妬が患いを生み、ついに国を滅ぼすに至った。

原文太史公曰:英布者,其先豈春秋所見楚滅英、六,皋陶之後哉?身被刑法,何其拔興之暴也!項氏之所阬殺人以千萬數,而布常為首虐。功冠諸侯,用此得王,亦不免於身為世大僇。禍之興自愛姬殖,妒媢生患,竟以滅國!

【索隠述賛】九江にて初めて卜筮し、刑に当たりて王たらんとす。既に徒役の中より免れ、江上に盗を聚む。再び楚卒を雄とし、頻りに秦将を破る。病みて羽に疑われ、帰りて漢の杖節を受く。賁赫、毀られしを見、卒に無妄の災いを致す。

原文【索隱述贊】九江初筮,當刑而王。既免徒中,聚盜江上。再雄楚卒,頻破秦將。病為羽疑,歸受漢杖。賁赫見毀,卒致無妄。