淮陰の屠殺場の若者で韓信を侮辱する者がいた。言うには、『お前は背丈は大きいが、刀剣を帯びるのが好きなだけで、内心は臆病なのだ。』と。大勢の前で辱めて言った。『韓信、死ねるなら私を刺せ。死ねないなら、私の股の下をくぐれ。』そこで韓信はじっと彼を見つめ、うつむいて股の下をくぐり、這った。市中の人々は皆韓信を笑い、臆病だと思った。
項梁が淮水を渡った時、韓信は剣を杖にしてこれに従い、麾下にいたが、名を知られることはなかった。項梁が敗れると、また項羽に属し、項羽は彼を郎中とした。たびたび策を以て項羽に干謁したが、項羽は用いなかった。漢王が蜀に入った時、韓信は楚を逃れて漢に帰ったが、名を知られることはなく、連囂となった。法に坐して斬られることとなり、その仲間十三人は皆既に斬られ、次に韓信の番となった。韓信は仰ぎ見て、ちょうど滕公(夏侯嬰)を見かけ、言った。『上(漢王)は天下を成そうとしないのか。どうして壮士を斬るのか。』滕公はその言葉を奇異に思い、その容貌を雄壮だと思い、釈放して斬らなかった。彼と語り、大いに喜んだ。上に言上し、上は彼を治粟都尉に拝したが、上は彼を奇異とは思わなかった。
韓信はたびたび蕭何と語り、蕭何は彼を奇異に思った。南鄭に至ると、諸将のうち道中で逃亡する者が数十人いた。韓信は蕭何らが既にたびたび上に言上したのに、上が自分を用いないと推し量り、すぐに逃亡した。蕭何は韓信が逃亡したと聞き、上に報告する暇もなく、自ら追った。ある人が上に言った。『丞相の蕭何が逃亡しました。』上は大いに怒り、左右の手を失ったかのようであった。一二日経って、蕭何が上に謁見に来ると、上は怒りながらも喜び、蕭何を罵って言った。『お前が逃亡したのは、どういうことか。』蕭何は言った。『臣は敢えて逃亡したのではありません。臣は逃亡者を追ったのです。』上は言った。『お前が追った者は誰か。』蕭何は言った。『韓信です。』上はまた罵って言った。『諸将の逃亡者は数十人もいるのに、公は誰も追わなかった。韓信を追うとは、嘘であろう。』蕭何は言った。『諸将は容易に得られます。韓信のような者に至っては、国士無双です。王が必ずや長く漢中に王たろうとされるなら、韓信を用いることはありません。必ずや天下を争おうとされるなら、韓信でなければ共に事を計る者はありません。ただ王の策がどう決まるかによるだけです。』王は言った。『私も東へ行きたいのだ。どうして鬱々とここに長く居られようか。』蕭何は言った。『王の計略が必ず東進されるなら、韓信を用いれば、韓信は留まります。用いなければ、韓信は結局逃亡するでしょう。』王は言った。『私は公のために将としよう。』蕭何は言った。『たとえ将とされても、韓信は必ず留まりません。』王は言った。『大将としよう。』蕭何は言った。『幸いです。』そこで王は韓信を召してこれを拝しようとした。蕭何は言った。『王は平素傲慢で礼がなく、今大将を拝するのに小児を呼ぶようでは、これが韓信の去った理由です。王が必ずや彼を拝しようとされるなら、良き日を選び、斎戒し、壇場を設け、礼を整えて、初めて可能です。』王はこれを許諾した。諸将は皆喜び、人々それぞれが大将を得たと思った。大将を拝するに至って、それが韓信であったので、一軍皆驚いた。
韓信は拝礼を終え、上座に着いた。漢王が言うには、『丞相(蕭何)がしばしば将軍のことを言っていたが、将軍は何をもって寡人に計策を教えようとするか』。韓信は辞して、そこで漢王に問うて言うには、『今、東に向かって天下の権を争う者は、まさに項王ではないか』。漢王は言う、『その通りだ』。韓信は言う、『大王は自ら考えてみられよ、勇猛・強悍・仁愛・剛強の点で、どちらが項王に勝るか』。漢王はしばしば沈黙した後、言うには、『及ばない』。韓信は再拝して賀し言うには、『ただ韓信もまた大王が及ばないと考える。しかし臣はかつて彼に仕えたことがある。項王の為人について申し上げよう。項王は怒鳴りつければ千人も皆萎縮するが、賢将を任用して任せることはできず、これはただの匹夫の勇に過ぎない。項王は人に接する時は恭敬で慈愛に満ち、言葉は丁寧であり、人が病気になれば涙を流して飲食を分け与える。しかし、人に功績があって爵位を封ずべき時には、印綬の角が擦り切れるまで弄び、惜しんで与えようとしない。これがいわゆる婦人の仁である。項王は天下を覇とし諸侯を臣としながらも、関中に居らず彭城に都した。義帝との約束に背き、自分の親愛する者を王としたので、諸侯は不平である。諸侯は項王が義帝を追いやって江南に置いたのを見て、皆それぞれ自分の主君を追いやって善地に自ら王となった。項王の通過した所は残滅されない所はなく、天下は多く怨み、百姓は親しみ付かない。ただ威勢の強さに脅かされているだけである。名は覇者と雖も、実は天下の心を失っている。故に言う、その強さは弱くなりやすいと。今大王が真にその道に反するならば、天下の武勇を任用すれば、何ものか誅せざるものがあろうか。天下の城邑をもって功臣を封ずれば、何ものか服さざるものがあろうか。義兵をもって東帰を思う士に従えば、何ものか散らざるものがあろうか。かつ三秦王(章邯・司馬欣・董翳)は秦の将であり、秦の子弟を数年率いて、殺し亡ぼした者は数え切れず、またその衆を欺いて諸侯に降り、新安に至っては、項王は詐りをもって秦の降卒二十余万を坑った。ただ章邯・司馬欣・董翳だけが逃れた。秦の父兄はこの三人を怨み、痛みは骨髓に徹している。今、楚は強威をもってこの三人を王としたが、秦の民は誰も愛さない。大王が武関に入った時は、秋毫も害することなく、秦の苛法を除き、秦の民と約して、法は三章のみである。秦の民は大王が秦を王とされることを得たいと願わない者はない。諸侯の約によって、大王は関中に王たるべきであり、関中の民は皆これを知っている。大王が職を失って漢中に入られた時、秦の民は恨まない者はなかった。今大王が兵を挙げて東に向かえば、三秦は檄を伝えるだけで平定できるであろう』。ここにおいて漢王は大いに喜び、自ら韓信を得るのが遅かったと思った。そこで韓信の計を聴き、諸将に攻撃すべき所を部署した。
八月、漢王は兵を挙げて東に出て陳倉を攻め、三秦を平定した。漢の二年、関を出て、魏・河南を収め、韓王・殷王は皆降った。斉・趙と合して共に楚を撃った。四月、彭城に至り、漢兵は敗れて散り帰った。韓信は再び兵を収めて漢王と滎陽で会し、再び楚を京・索の間で撃ち破った。この故に楚兵は遂に西進することができなかった。
漢が彭城で敗れて退いた時、塞王司馬欣・翟王董翳は漢を逃れて楚に降り、斉・趙もまた漢に背き楚と和した。六月、魏王豹は帰って親族の病気を見舞うと謁して言い、国に至るや、即ち河関を絶って漢に背き、楚と約して和した。漢王は酈生を使わして魏王豹を説かせたが、下らなかった。その八月、韓信を左丞相として魏を撃たせた。魏王は蒲阪に兵を盛んにし、臨晋を塞いだ。韓信はそこで疑兵を増やし、船を並べて臨晋を渡ろうとする様子を見せ、伏兵を夏陽から木製の甕や瓶で軍を渡らせ、安邑を襲撃した。魏王豹は驚き、兵を引いて韓信を迎え撃った。韓信は遂に魏王豹を虜とし、魏を平定して河東郡とした。漢王は張耳を韓信と共に遣わし、兵を引いて東に向かい、北して趙・代を撃たせた。後九月、代の兵を破り、夏説を閼与で生け捕りにした。韓信が魏を下し代を破ると、漢はすぐに人をやってその精兵を収めさせ、滎陽に送って楚に対抗させた。
韓信と張耳は数万の兵を率いて、東進し井陘を下り趙を撃たんとした。趙王及び成安君陳餘は漢が自らを襲わんとしていると聞き、兵を井陘口に集め、号して二十万と称した。広武君李左車が成安君に説いて言うには、『漢将韓信が西河を渡り、魏王を虜とし、夏説を擒らえ、新たに閼與で血を喋り、今また張耳を輔佐として、趙を下さんと議していると聞く。これは勝ちに乗じて国を遠く離れて戦うもので、その鋒鋭は当たるべからず。臣は聞く、千里糧を饋れば、士に飢色あり、樵蘇して後に爨けば、師宿飽せずと。今井陘の道は、車方軌を得ず、騎成列をなさず、数百里を行けば、その勢い糧食必ずその後に在らん。願わくは足下、臣に奇兵三万人を仮し、間道よりその輜重を絶たしめよ。足下は深く溝を穿ち高く壘を築き、堅く営して戦わざれ。彼は前に戦うを得ず、退きて還るを得ず、我が奇兵その後を絶てば、野に掠むる所無からしめ、十日を至らずして、両将の頭を戯下に致すべし。願わくは君、臣の計に留意せよ。否なれば、必ず二子に禽らるるあらん』と。成安君は儒者にして、常に義兵は詐謀奇計を用いずと称し、言うには、『吾は兵法に聞く、十なればこれを囲み、倍すれば則ち戦うと。今韓信の兵は数万と号すも、その実は数千に過ぎず。千里を能くして我を襲うも、亦已に罷極せり。今かくの如く避けて撃たざれば、後に大なる者あらん、何を以てかこれに加えん!則ち諸侯、吾を怯しと謂い、軽々しく来たりて我を伐たん』と。広武君の策を聴かず、広武君の策を用いなかった。
韓信は人を遣わして間視させ、その用いられざるを知り、還りて報ずれば、則ち大いに喜び、乃ち敢えて兵を引きて遂に下った。井陘口に至らざること三十里、止まって宿営した。夜半に伝発し、軽騎二千人を選び、人ごとに一つの赤幟を持たせ、間道より山に蔽れて趙軍を望み、誡めて言うには、『趙、我が走るを見れば、必ず壁を空くして我を逐わん。若し疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜き、漢の赤幟を立てよ』と。その裨将に令して飱を伝えさせ、言うには、『今日趙を破りて会食せん』と。諸将は皆な信ぜず、詳らかに応じて言うには、『諾』と。軍吏に謂って言うには、『趙は已に先んじて便地を据えて壁と為し、且つ彼は未だ我が大将の旗鼓を見ず、未だ肯て前行を撃たず、我が阻険に至りて還るを恐るるなり』と。信は乃ち万人をして先行せしめ、出でて、水を背にして陣した。趙軍は望見して大いに笑った。平旦、信は大将の旗鼓を建て、鼓行して井陘口を出づ。趙は壁を開いてこれを撃ち、大戦すること良久し。ここにおいて信・張耳は詳らかに鼓旗を棄て、水上の軍に走った。水上の軍は開いてこれを入れ、復た疾く戦う。趙は果たして壁を空くして漢の鼓旗を争い、韓信・張耳を逐う。韓信・張耳は已に水上の軍に入り、軍は皆な殊死に戦い、敗るべからず。信の出だしたる奇兵二千騎は、共に趙の壁を空くして利を逐うを待ち、則ち馳せ入って趙の壁に至り、皆な趙の旗を抜き、漢の赤幟二千を立てた。趙軍は已に勝てず、信等を得ること能わず、還りて壁に帰らんと欲するも、壁は皆な漢の赤幟にして、大いに驚き、漢が皆な已に趙王の将を得たるかと以為い、兵は遂に乱れ、遁走した。趙の将はこれを斬るも、禁ずる能わざりき。ここにおいて漢兵は夾撃し、大いに趙軍を破り虜とし、成安君を泜水上に斬り、趙王歇を禽らえた。
信は乃ち軍中に令して広武君を殺すなからしめ、能く生得する者あれば千金を購わんとした。ここにおいて広武君を縛して戯下に致す者有り、信は乃ちその縛を解き、東郷に坐し、西郷に対し、師事した。諸将は首虜を献げ、畢く賀し、因って信に問うて言うには、『兵法には右は山陵に倍し、前左は水澤にすと。今者将軍、臣等に令して反って水を背にして陣せしめ、趙を破りて会食せんと言う。臣等は服せず。然るに竟に以て勝てり。これは何の術ぞや』と。信は言うには、『これは兵法に在り、顧みるに諸君察せざるのみ。兵法に曰わざるや、「之を死地に陥れて後に生かし、之を亡地に置いて後に存す」と。且つ信は素より士大夫を拊循するを得ず、これは所謂「市人を駆りて之を戦わしむ」るもの、その勢い之を死地に置かずんば、人々をして自ら戦わしむるを得ず。今之を生地に与えれば、皆な走らん、寧んぞ尚お得て之を用いんや』と。諸将は皆な服して言うには、『善し。臣の及ぶ所に非ざりき』と。
ここにおいて韓信は廣武君に問うて曰く、『我は北に燕を攻め、東に齊を伐たんと欲するが、如何にすれば功有らんか』。廣武君は辞謝して曰く、『臣聞く、敗軍の将は以て勇を言うべからず、亡国の大夫は以て存を図るべからずと。今臣は敗亡の虜なり、何ぞ以て大事を権めんに足らんや』。信曰く、『我聞く、百里奚は虞に居て虞は亡び、秦に在りて秦は覇たり、虞に於いて愚なるに非ずして秦に於いて智なるに非ざるなり、用いらるると用いられざると、聴くことと聴かざるとなり。誠に成安君に足下の計を聴かしめば、信が如き者も亦已に禽と為らん。足下を用いざるを以ての故に、信は侍るを得たり』。因りて固く問いて曰く、『我は心を委ねて計に帰せんと欲す、願わくは足下辞する勿れ』。廣武君曰く、『臣聞く、智者も千慮に必ず一失有り、愚者も千慮に必ず一得あり。故に曰く「狂夫の言も、聖人之を択ぶ」と。顧みるに臣の計は未だ必ずしも用いるに足るを恐る、願わくは愚忠を効さん。夫れ成安君は百戦百勝の計有りしも、一旦にして之を失い、軍は鄗下に敗れ、身は泜上に死せり。今将軍は西河を渉り、魏王を虜にし、夏說を閼與に禽え、一挙にして井陘を下し、終朝を待たずして趙の二十万の衆を破り、成安君を誅す。名は海内に聞こえ、威は天下を震わし、農夫は耕を輟め耒を釈き、褕衣甘食し、耳を傾けて命を待つ者無からざるは、此の若きは将軍の長ずる所なり。然れども衆は労し卒は罷れ、其の実は用い難し。今将軍は倦獘の兵を挙げ、之を燕の堅城の下に頓せんと欲し、戦わんと欲すれば久しくして力抜く能わざるを恐れ、情は見え勢は屈し、日を曠り糧竭きて、弱き燕も服せず、齊は必ず境を距けて以て自ら彊からん。燕齊相持して下らずば、則ち劉項の権は未だ分かるる所有らざるなり。此の若きは将軍の短ずる所なり。臣愚かなり、窃に以て亦過ちたりと為す。故に善く兵を用うる者は、短を以て長を撃たず、長を以て短を撃つ』。韓信曰く、『然らば則ち何れの由よりせん』。廣武君対えて曰く、『方今将軍の為に計るに、甲を案じ兵を休め、趙を鎮め其の孤を撫で、百里の内に、牛酒日々至り、以て士大夫を饗し兵を醳し、北に首して燕路にし、然る後に弁士を遣わして咫尺の書を奉じ、其の長ずる所を燕に暴かしめば、燕は必ず敢えて聴従せざるを得ざるべし。燕已に従わば、諠言者をして東に齊に告げしめよ、齊は必ず風に従いて服せん、智者有りと雖も、亦齊の為に計るを知らざるべし。是くの如くせば、則ち天下の事皆図るべし。兵は固より先ず声して後に実有る者あり、此れ之を謂うなり』。韓信曰く、『善し』。其の策に従い、使を発して燕に使わしむると、燕は風に従いて靡けり。乃ち使を遣わして漢に報じ、因りて張耳を立てて趙王と為し、以て其の国を鎮撫せんことを請う。漢王之を許し、乃ち張耳を立てて趙王と為す。
楚は数たび奇兵をして河を渡り趙を撃たしむ。趙王耳・韓信は往来して趙を救い、因りて行きて趙の城邑を定め、兵を発して漢に詣らしむ。楚は方に漢王を滎陽に急囲す。漢王は南に出で、宛・葉の間に之き、黥布を得て、成皋に走り入る。楚又復た急に之を囲む。六月、漢王は成皋を出で、東に河を渡り、独り滕公と俱に、張耳の軍する修武に従う。至りて、伝舎に宿る。晨に自ら漢使と称し、馳せて趙の壁に入る。張耳・韓信未だ起たず、即ち其の臥内に上り其の印符を奪い、以て麾して諸将を召し、之を易置す。信・耳起きて、乃ち漢王の来たるを知り、大いに驚く。漢王は両人の軍を奪い、即ち張耳に令して趙の地を備守せしむ。韓信を拝して相国と為し、趙の兵の未だ発せざる者を収めて齊を撃たしむ。
韓信は兵を率いて東進し、未だ平原を渡らざるに、漢王が酈食其を使者として遣わし、既に斉を説き下したと聞き、韓信は止まらんとした。范陽の弁士蒯通が韓信に説いて曰く、『将軍は詔を受けて斉を撃たんとし、しかるに漢は独り間使を発して斉を下す。果たして詔ありて将軍を止むるや。何を以て行かざるを得んや。かつ酈生は一介の士に過ぎず、軾に伏して三寸の舌を掉ち、斉の七十余城を下す。将軍は数万の衆を将い、歳余にして乃ち趙の五十余城を下す。将として数年、反って一介の豎儒の功に如かざるか』と。ここにおいて韓信は然りとし、その計に従い、遂に河を渡った。斉は既に酈生の言を聴き、即ち留まって酒宴に耽り、漢に対する守備を解いた。韓信は因って斉の歴下の軍を襲い、遂に臨菑に至った。斉王田広は酈生が己を売ったと思い、乃ちこれを烹にし、高密に走り、使者を楚に使わして救援を請うた。韓信は既に臨菑を平定し、遂に東進して田広を追い高密の西に至った。楚もまた龍且を将とし、号して二十万と称し、斉を救った。
斉王広と龍且は軍を併せて韓信と戦おうとしたが、未だ合戦せず。或る人が龍且に説いて曰く、『漢兵は遠く鬬い窮して戦う、その鋒鋭は当たるべからず。斉・楚は自らその地に居て戦う、兵は敗散し易し。深く壁を守るに如かず、斉王にその信臣を使わし、亡びた城を招かしむるに、亡城その王の在るを聞き、楚の来りて救うを知れば、必ず漢に反らん。漢兵は二千里の客居、斉の城皆これに反すれば、その勢い食を得ること無く、戦わずして降すべし』と。龍且曰く、『吾平生韓信の為人を知る、易く与するのみ。かつ斉を救いて戦わずしてこれを降す、吾何の功かあらん。今戦いてこれを勝てば、斉の半ばを得べし、何を以て止まんや』と。遂に戦い、韓信と濰水を挟んで陣す。韓信は乃ち夜に人をして万余の嚢を作らしめ、沙を満盛し、水の上流を塞ぎ、軍を率いて半ば渡り、龍且を撃ち、佯って勝たず、還って走る。龍且果たして喜びて曰く、『固より信の怯なるを知る』と。遂に韓信を追って水を渡る。韓信は人をして塞ぎたる嚢を決めしむ、水大いに至る。龍且の軍の大半渡るを得ず、即ち急ぎ撃ち、龍且を殺す。龍且の水東の軍散走し、斉王広は亡去す。韓信は遂に敗軍を追って城陽に至り、皆楚の卒を虜にした。
漢の四年、遂に皆降伏して斉を平定した。人をして漢王に言わせて曰く、『斉は偽詐多く変じ、反覆の国なり、南は楚に辺す、仮王を以てこれを鎮めざれば、その勢い定まらず。願わくは仮王たるに便なり』と。この時、楚は方に漢王を滎陽に急囲す、韓信の使者至り、書を発す、漢王大いに怒り、罵って曰く、『吾ここに困す、旦暮に汝の来たりて我を佐くるを望む、乃ち自ら王たらんと欲するか』と。張良・陳平は漢王の足を躡み、因って耳に附いて語りて曰く、『漢方に利あらず、寧くんぞ信の王たるを禁ぜんや。因ってこれを立て、善く遇し、自ら守らしむるに如かず。然らずんば、変生ず』と。漢王も亦悟り、因って復た罵って曰く、『大丈夫諸侯を定むれば、即ち真の王たるのみ、何を以て仮たるを為さんや』と。乃ち張良を遣わし往かせて韓信を立てて斉王とし、その兵を徴して楚を撃たしめた。
楚は既に龍且を失い、項王恐れて、盱眙の人武涉をして往きて斉王信を説かしめて曰く、『天下共に秦を苦しむこと久しく、相与に力を勠して秦を撃つ。秦は既に破れ、功を計り地を割き、土を分けて之を王とし、以て士卒を休む。今漢王復た兵を興して東し、人の分を侵し、人の地を奪い、既に三秦を破り、兵を引いて関を出で、諸侯の兵を収めて以て東し楚を撃つ。其の意は天下を尽く吞まざる者は休まざるなり。其の厭足を知らざること是の如く甚だし。且つ漢王は必ずしもならず、身項王の掌握中に居ること数たびなり。項王憐れみて之を活かす、然るを得て脱すれば、輒ち約を倍き、復た項王を撃つ。其の親信すべからざること此の如し。今足下自ら以て漢王と厚き交わりを為すと雖も、之が為に力を尽くし兵を用うるも、終には之が禽と為る所たらん。足下の以て須臾を得て今に至る所以は、項王の尚ほ存するを以てなり。当今二王の事、権は足下に在り。足下右に投ずれば則ち漢王勝ち、左に投ずれば則ち項王勝つ。項王今日亡びば、則ち次に足下を取らん。足下は項王と故有り、何ぞ漢に反して楚と連和し、参分天下して之を王とせざる。今此の時を釈て、而して自ら漢に必して楚を撃たんとす、且つ智者と為る者は固より此の如くならんや。』韓信謝して曰く、『臣項王に事うるも、官は郎中に過ぎず、位は執戟に過ぎず、言は聴かれず、画は用いられず、故に楚を倍きて漢に帰す。漢王我が上将軍の印を授け、我に数万の衆を与え、衣を解きて我に衣せしめ、食を推して我に食わしめ、言は聴かれ用いられ、故に吾以て此に至るを得たり。夫人深く親信我をす、我之を倍くは不祥なり、死すと雖も易えず。幸いに信が為に項王に謝せよ。』
武涉既に去り、齊人蒯通、天下の權韓信に在るを知り、奇策を爲して之を感動せんと欲し、相人を以て韓信に説きて曰く、『僕嘗て相人の術を受く。』韓信曰く、『先生相人何如。』對へて曰く、『貴賤は骨法に在り、憂喜は容色に在り、成敗は決斷に在り、此を以て之を參らすれば、萬に一を失はず。』韓信曰く、『善し。先生寡人を相ふるは何如。』對へて曰く、『願はくは少しく閒あらんことを。』信曰く、『左右去れ。』通曰く、『君の面を相ふれば、封侯に過ぎず、又危くして安からず。君の背を相ふれば、貴きこと乃ち言ふ可からず。』韓信曰く、『何をか謂ふ。』蒯通曰く、『天下初めて難を發するや、俊雄豪桀號を建てて壹呼すれば、天下の士雲合ひ霧集し、魚鱗襍遝し、熛至り風起る。此の時に當たりては、憂ひは秦を亡ぼすに在るのみ。今楚漢分爭し、天下の罪なき人の肝膽地に涂るるをして、父子中野に骸骨を暴くこと、數ふるに勝へず。楚人彭城より起り、鬬ひを轉じ北を逐ひ、滎陽に至り、利に乘じて席卷し、威天下を震はす。然れども兵京・索の閒に困り、西山に迫りて進む能はざるは、三年此に於けるなり。漢王數十萬の眾を將ひ、鞏・雒を距ち、山河の險を阻み、一日數戰し、尺寸の功無く、折れ北れて救はれず、滎陽に敗れ、成皋に傷き、遂に宛・葉の閒に走る、此れ所謂智勇俱に困れる者なり。夫れ銳氣險塞に挫かれ、而して糧食内府に竭き、百姓罷極し怨望し、容容として倚る所無し。臣料るに、其の勢ひ天下の賢聖に非ざれば固より能く天下の禍を息むる莫し。當今兩主の命は足下に縣る。足下漢を爲せば則ち漢勝ち、楚に與すれば則ち楚勝つ。臣腹心を披き、肝膽を輸し、愚計を效せんと願ふも、恐らくは足下用ふる能はざらん。誠に能く臣の計を聽かば、兩利にして俱に之を存するに若くは莫く、參分して天下し、鼎足して居らば、其の勢ひ敢へて先づ動く莫からん。夫れ足下の賢聖を以てし、甲兵の眾有り、彊齊に據り、燕・趙に從ひ、空虛の地を出でて其の後を制し、民の欲に因り、西鄉して百姓の爲に命を請はば、則ち天下風走り響應す、孰か敢へて聽かざらん。大を割き彊を弱めて、以て諸侯を立て、諸侯已に立ちて、天下服聽して德を齊に歸せしむ。齊の故を案ずるに、膠・泗の地有り、諸侯を德を以て懷けば、深く拱揖讓し、則ち天下の君王相率ひて齊に朝せん。蓋し聞く、天與ふるを取りざれば、反つて咎を受く、時至りて行はざれば、反つて殃を受くと。願はくは足下孰く之を慮らんことを。』
韓信が言うには、『漢王は私を非常に厚遇し、その車に私を乗せ、その衣を私に着せ、その食を私に食べさせてくださった。私は聞く、人の車に乗る者は人の患いを負い、人の衣を着る者は人の憂いを思い、人の食を食べる者は人のために死ぬものだと。私はどうして利に目がくらんで義に背くことができようか。』蒯生が言うには、『足下は自ら漢王に善く仕え、万世の業を建てようとお考えですが、臣はひそかに誤りであると思っております。初め常山王(張耳)と成安君(陳餘)が布衣であった時、互いに刎頸の交わりを結びましたが、後に張黶・陳澤の事件を争って、二人は互いに怨み合いました。常山王は項王に背き、項嬰の首を奉じて逃げ、漢王のもとに逃げ帰りました。漢王は兵を借りて東下し、成安君を泜水の南で殺し、首と足が別々の場所となり、ついに天下の笑いものとなりました。この二人の交わりは、天下で最も親密なものでした。しかしながらついに互いに捕らえられることになったのは、なぜでしょうか。患いは多欲から生じ、人の心は測りがたいからです。今、足下が忠信を行って漢王と交わろうとされるのは、必ずやあの二君の交わりよりも固くはならず、しかも事柄の多くは張黶・陳澤の事件よりも大きいのです。故に臣は、足下が必ず漢王が己を危うくしないとお考えになるのも、また誤りであると思います。大夫種と范蠡は滅亡寸前の越を存続させ、句踐を覇者とし、功を立て名を成しながら、身は死に、亡びました。野獣がすでに尽きれば、猟犬は煮られるのです。交友の点から言えば、張耳と成安君の間ほどのものではなく、忠信の点から言えば、大夫種・范蠡の句践に対するほどのものはありません。この二人の例で、十分にご覧いただけましょう。どうか足下には深くお考えいただきたい。かつ臣は聞きます、勇略が主君を震わせる者は身が危うく、功が天下を覆う者は賞せられないと。臣に大王の功略を申し上げましょう。足下は西河を渡り、魏王を虜とし、夏説を捕らえ、兵を率いて井陘を下り、成安君を誅し、趙を平定し、燕を脅かし、斉を定め、南では楚の兵二十万を打ち破り、東では龍且を殺し、西に向かって(漢に)報告されました。これはいわゆる、天下に二つとない功であり、世に出ないほどの謀略です。今、足下は主君を震わせる威を戴き、賞せられない功を抱えて、楚に帰れば楚人は信用せず、漢に帰れば漢人は震え恐れます。足下はこの身を持ってどこに安住されようというのですか。人臣の位にありながら主君を震わせる威を持ち、名が天下に高い。臣はひそかに足下の身を危うく思います。』韓信は謝して言った、『先生、しばらくお休みください。私が考えてみましょう。』
数日後、蒯通がまた説いて言った、『聞くことは事の兆候であり、計ることは事の機微である。聞き誤り計り損なって、長く安泰でいられる者は、稀である。聞き誤りが一二もない者は、言葉で惑わすことはできない。計り損ないが本末を失わない者は、言辞で混乱させることはできない。雑役夫の役目に従う者は、万乗の権力を失い、一石二石の俸禄を守る者は、卿相の地位を欠く。故に知者は決断して断行し、疑う者は事の害となる。毫釐の小さな計算にこだわり、天下の大計を失う。智恵では確かに知っていても、決断して敢行しないことは、百事の禍いである。故に言う、「猛虎が躊躇するよりは、蜂や蠍が刺す方がましである。騏驥が足踏みするよりは、駑馬が安歩する方がましである。孟賁が狐疑するよりは、凡夫が必ず到達する方がましである。舜や禹の智恵があっても、口を閉じて言わないよりは、唖や聾が指図する方がましである」。これは実行することが貴いということを言うのである。功は成し難くして敗れ易く、時は得難くして失い易い。時よ時よ、再び来たらず。どうか足下には詳しくお察しください。』韓信は躊躇して漢に背くに忍びず、また自ら功が多いと思い、漢はついに私から斉を奪うことはあるまいと考え、ついに蒯通を謝絶した。蒯通は説いて聞き入れられず、やがて狂気を装って巫祝となった。
漢王が固陵に困窮した時、張良の計を用い、斉王信を召し寄せ、ついに兵を率いて垓下で会合した。項羽がすでに破られた後、高祖は斉王の軍を襲って奪った。漢の五年正月、斉王信を楚王に移し、下邳を都とした。
信は国に到着すると、かつて食事を恵んでくれた漂母を召し出して千金を賜い、また下郷の南昌亭長には百銭を賜い、言った、『あなたは小人である。善行を最後まで貫かなかった。』かつて己を辱めて股くぐりをさせた少年を召し出し、これを楚の中尉に任じた。諸将相に告げて言った、『これは壮士である。私を辱めた時、私はどうして彼を殺せなかったことがあろうか。殺すに名目がなかったので、耐えてここに至ったのである。』
項王の亡将鐘離眛の家は伊廬にあり、平素より韓信と親しかった。項王の死後、彼は逃亡して韓信のもとに帰った。漢王(劉邦)は眛を怨み、彼が楚にいることを聞き、楚に詔して眛を捕らえさせた。韓信が初めて封国に赴き、県邑を巡行する際、兵を陳列して出入りした。漢六年、ある者が上書して楚王韓信の謀反を告げた。高帝は陳平の計を用い、天子が巡狩して諸侯を会合させることとし、南方に雲夢があるので、使者を発して諸侯に陳で会うよう告げさせた:『我れ将に雲夢に游ばん。』実は韓信を襲おうとしたのであるが、韓信は知らなかった。高祖がまさに楚に至らんとする時、韓信は兵を発して反逆しようとしたが、自ら罪なきを思い、上(高祖)に謁見しようとしたが、捕らえられることを恐れた。ある人が韓信に説いて言った:『眛を斬って上に謁すれば、上は必ず喜び、患い無からん。』韓信が眛に会って事を計ると、眛は言った:『漢が楚を撃ち取らぬ所以は、眛が公の所に在るが故なり。若し我を捕らえて漢に自ら媚びんと欲せば、我れ今日死すとも、公もまた手を随えて亡びん。』乃ち韓信を罵って言った:『公は長者に非ず!』遂に自ら剄した。韓信はその首を持ち、陳において高祖に謁した。上は武士に命じて韓信を縛らせ、後車に載せた。韓信は言った:『果たして人の言う如し、「狡兎死して良狗亨られ、高鳥尽きて良弓蔵められ、敵国破れて謀臣亡ぶ。」天下已に定まる、我れ固より亨らるべし!』上は言った:『人が公の反を告げた。』遂に械を以て韓信を繋いだ。雒陽に至り、韓信の罪を赦し、以て淮陰侯と為した。
韓信は漢王がその才能を畏れ憎むことを知り、常に病と称して朝従せず。韓信はここより日夜怨望し、居常に鞅鞅として、絳侯(周勃)・灌嬰らと同列に在ることを恥じた。韓信嘗て樊将軍噲を過ぐるに、噲は跪拝して送迎し、言に臣を称し、曰く:『大王乃ち肯て臣に臨まんとは!』韓信門を出でて、笑って曰く:『生きて乃ち噲らと伍を為すとは!』上は常に従容として韓信と諸将の能くする所を言い、各差有り。上問うて曰く:『我が如きは能く幾何を将いんや?』信曰く:『陛下は過ぎて十万を将いる能わず。』上曰く:『君に於いては何如?』曰く:『臣は多多にして益々善しとす耳。』上笑って曰く:『多多益善、何を為して我が禽えらるるや?』信曰く:『陛下は兵を将いる能わず、而して将を将いるに善し。此れ乃ち信の陛下に禽えらるる所以なり。且つ陛下の所謂天授、人力に非ざるなり。』
陳豨が鉅鹿守に拝せられ、淮陰侯に辞した。淮陰侯はその手を引き、左右を避けて之と庭に歩み、天を仰いで歎じて曰く:『子と与に言うべきか?子と与に言わんと欲する所あり。』豨曰く:『唯だ将軍の之を令するに従わん。』淮陰侯曰く:『公の居る所は、天下の精兵の処なり。而して公は、陛下の信幸の臣なり。人の公の畔くを言えば、陛下は必ず信ぜず。再び至れば、陛下乃ち疑わん。三たび至れば、必ず怒りて自ら将いん。吾れ公のために中より起こらば、天下図るべし。』陳豨は平素よりその能を知り、之を信じ、曰く:『謹んで教えを奉ぜん!』漢十年、陳豨果たして反す。上自ら将いて往き、韓信は病みて従わず。陰に人を豨の所に至らせ、曰く:『弟兵を挙げよ、吾れここより公を助けん。』韓信乃ち謀りて家臣と与に夜、詐りて詔して諸官の徒奴を赦し、発して以て呂后・太子を襲わんと欲す。部署已に定まり、豨の報を待つ。その舎人、韓信に罪を得、韓信囚え、之を殺さんと欲す。舎人の弟、上変(謀反の兆候を上告)し、韓信の反せんと欲する状を呂后に告ぐ。呂后召さんと欲すも、その党就かざるを恐れ、乃ち蕭相国と謀り、詐りて人をして上(皇帝)の所より来たる者と為し、豨已に得て死せりと言わしめ、列侯群臣皆賀す。相国(蕭何)韓信を紿いて曰く:『疾有りと雖も、彊いて入りて賀せよ。』韓信入る、呂后武士に命じて韓信を縛らせ、之を長楽宮の鐘室に斬る。韓信まさに斬られんとして曰く:『吾れ蒯通の計を用いざるを悔ゆ、乃ち児女子に詐かれる、豈に天ならずや!』遂に韓信の三族を夷す。
高祖は既に豨の軍より来たり、至りて、信の死するを見て、且つ喜び且つ之を憐れみ、問うて曰く、『信の死するや亦何をか言へる。』呂后曰く、『信言ふ、蒯通の計を用ゐざるを恨むと。』高祖曰く、『是れ斉の辯士なり。』乃ち詔して斉に蒯通を捕へしむ。蒯通至る、上曰く、『若は淮陰侯に反せしむるを教へし乎。』對へて曰く、『然り、臣固より之を教へき。豎子臣が策を用ゐざりし故に、自ら此に夷せらるるを令せり。彼の豎子臣が計を用ゐば、陛下安くんぞ之を夷することを得んや。』上怒りて曰く、『之を亨せよ。』通曰く、『嗟乎、冤なる哉亨すること。』上曰く、『若は韓信に反せしむ、何の冤ぞ。』對へて曰く、『秦の綱絶え維弛み、山東大いに擾ひ、異姓并び起り、英俊烏の集まるが如し。秦其の鹿を失ひ、天下共に之を逐ふ、是に於て高材疾足の者先づ之を得たり。蹠の狗堯に吠ゆ、堯仁ならざるに非ざれども、狗其の主に非ざるに因りて吠ゆ。是の時に當りて、臣獨り韓信を知るのみ、陛下を知らざりき。且つ天下の銳精鋒を把りて陛下の爲さんとする所を爲さんと欲する者甚だ衆し、顧みるに力能はざるのみ。又盡く之を亨すべきや。』高帝曰く、『之を置け。』乃ち通の罪を釋く。
太史公曰く、吾淮陰に如く、淮陰人余に爲に言ふ、韓信布衣たる時と雖も、其の志衆と異なりき。其の母死し、貧しくして以て葬る無く、然れども乃ち行きて高敞の地を營み、其の旁に萬家を置く可きを令せり。余其の母の冢を視るに、良く然り。假令韓信道を學び謙讓し、己が功を伐らず、其の能を矜らざれば、則ち庶幾からん、漢家の勳に於て周・召・太公の徒に比す可く、後世血食せん。此を出すを務めずして、天下已に集まるに及び、乃ち畔逆を謀り、宗族を夷滅す、亦宜ならずや。