秦が大梁を滅ぼした時、張耳は外黄に家を構えていた。高祖が布衣であった時、しばしば張耳に従って遊び、数か月客となった。秦が魏を滅ぼして数年後、すでにこの二人が魏の名士であると聞き、購求して張耳には千金、陳餘には五百金を懸けた。張耳と陳餘はそこで姓名を変え、ともに陳に行き、里の監門となって自ら食を営んだ。二人は向かい合っていた。里吏がかつて過ちがあって陳餘を笞打った時、陳餘は起ち上がろうとしたが、張耳は彼を踏みとどまらせ、笞を受けるようにさせた。吏が去ると、張耳は陳餘を引いて桑の木の下に行き、これを責めて言うには、「初め我が公に言ったことはどうであったか。今、小さな辱めを見て一吏のために死のうとするのか」と。陳餘はこれを然りとした。秦の詔書が二人を購求すると、二人もまた逆に門者を用いて里中に令を下させた。
陳渉が蘄で挙兵し、陳に入るに至り、兵数万を擁した。張耳と陳餘は陳渉に謁見した。渉とその左右の者は平生よりしばしば張耳と陳餘の賢さを聞いており、未だ会ったことはなかったが、会うや大いに喜んだ。
陳中の豪傑と父老はそこで陳渉を説いて言うには、「将軍は身に堅い甲冑を被り鋭い武器を執り、士卒を率いて暴秦を誅し、楚の社稷を再び立て、亡びた国を継ぎ絶えた家を存えさせ、功徳は王となるに相応しい。かつ天下の諸将を監臨するには、王とならなければならぬ。願わくは将軍が楚王として立たれんことを」と。陳渉はこの二人に問うと、二人は答えて言うには、「そもそも秦は無道であり、人の国家を破り、人の社稷を滅ぼし、人の後世を絶ち、百姓の力を疲れさせ、百姓の財を尽くす。将軍は目を瞋らせ胆を張り、万死を顧みず一生を顧みない計らいを為し、天下のために残賊を除かんとされる。今、初めて陳に至って王となるのは、天下に私を示すことである。願わくは将軍は王とならず、急ぎ兵を率いて西に向かい、人を遣わして六国の後を立て、自ら党を樹て、秦の敵を増やすがよい。敵が多ければ力は分散し、衆と与すれば兵は強くなる。このようにすれば野に交兵なく、県に守城なく、暴秦を誅し、咸陽を拠点として諸侯に令する。諸侯は亡びて再び立てられ、徳をもってこれに服すれば、このようにして帝業は成る。今、ただ陳で王となるのは、天下が離散することを恐れる」と。陳渉は聞き入れず、遂に王として立った。
陳餘はまた陳王に説いて言う、「大王は梁・楚を挙げて西に向かい、務めは関中に入ることにありますが、まだ河北を収めるには至りません。臣はかつて趙に遊学し、その豪傑と地形を知っています。願わくは奇兵を請うて北に趙の地を攻略させてください」と。ここにおいて陳王は、以前から親しくしていた陳の人武臣を将軍とし、邵騷を護軍とし、張耳・陳餘を左右校尉として、兵卒三千人を与え、北に趙の地を攻略させた。
武臣らは白馬から黄河を渡り、諸県に至り、その豪傑を説いて言う、「秦は乱政と虐刑をもって天下を残賊すること数十年である。北には長城の役があり、南には五嶺の戍があり、外内騷動し、百姓は罷敝し、頭会箕斂して軍費を供し、財は匱え力は尽き、民は聊生するものがない。これに苛法峻刑を重ね、天下の父子をして相安んぜしめない。陳王は奮臂して天下に倡始し、楚の地に王たり、方二千里、響応せざるなく、家自ら怒りをなし、人自ら鬬い、各々その怨みを報いその讎を攻め、県はその令丞を殺し、郡はその守尉を殺す。今や大楚を張り、陳に王たり、呉廣・周文に将卒百万を率いさせて西に秦を撃たしむ。この時に当たって封侯の業を成さざるは、人豪にあらず。諸君、試みに相与にこれを計らんか。そもそも天下は同心して秦を苦しむこと久しい。天下の力を因って無道の君を攻め、父兄の怨みを報い、割地有土の業を成すは、これ士の一時である」と。豪傑は皆その言を然りとす。ここにおいて行って兵を収め、数万人を得、武臣を号して武信君とす。趙の十城を下すも、残りは皆城を守り、下らざるものなし。
ここにおいて兵を引きいて東北に范陽を撃つ。范陽の人蒯通、范陽令を説いて言う、「窃かに公の将に死せんとするを聞く、故に弔う。然りといえども、公が通を得て生くるを賀す」と。范陽令曰く、「何を以てこれを弔うか」と。対えて曰く、「秦の法は重く、足下は范陽令として十年、人の父を殺し、人の子を孤にし、人の足を断ち、人の首に黥すこと、数え勝えず。然るに慈父孝子、敢えて倳刃を公の腹中にすることなきは、秦の法を畏るるが故なり。今、天下大乱し、秦の法行われず。然らば則ち慈父孝子、将に倳刃を公の腹中にしてその名を成さんとす。これ臣の公を弔う所以なり。今、諸侯秦に畔き、武信君の兵将に至らんとす。而して君は范陽を堅守すれば、少年は皆争って君を殺し、武信君に下らんとす。君、急ぎ臣をして武信君に見えしめよ。禍を転じて福と為すべし、今に在り」と。
范陽令はここにおいて蒯通をして武信君に見えしめて言わしむ、「足下は必ずや戦勝して然る後に地を略し、攻め得て然る後に城を下さんとす。臣窃かにこれを過ちと為す。誠に臣の計を聴かば、攻めずして城を降し、戦わずして地を略し、檄を伝えて千里定まるを得べし。可ならんか」と。武信君曰く、「何を謂うか」と。蒯通曰く、「今の范陽令は、宜しくその士卒を整頓して守戦すべき者なり。怯懦にして死を畏れ、貪婪にして富貴を重んず。故に先んじて降らんと欲するも、君が秦の置きし吏と為して、前十城の如く誅殺せらるるを畏るるなり。然るに今、范陽の少年もまた方にその令を殺し、自ら城を以て君に距まんとす。君、何ぞ臣に侯印を齎し、范陽令を拝せしめざる。范陽令は則ち城を以て君に下らん。少年もまた敢えてその令を殺さじ。范陽令に朱輪華轂に乗じ、駆馳して燕・趙の郊を行かしめよ。燕・趙の郊、これを見て皆曰わん、『これ范陽令、先に下れる者なり』と。即ち喜び、燕・趙の城は戦わずして降るべし。これ臣の所謂、檄を伝えて千里定まる者なり」と。武信君その計に従い、ここにおいて蒯通を因って范陽令に侯印を賜う。趙の地、これを聞き、戦わずして城を下す者三十余城。
邯鄲に至ると、張耳・陳餘は周章の軍が関中に入り、戲まで進んで退いたことを聞き、また諸将が陳王のために地を徇うも、多くは讒言によって罪を得て誅殺されたと聞き、陳王が自分たちの策を用いず、将とせず校尉としたことを怨んだ。そこで武臣を説いて言うには、「陳王は蘄に起こり、陳に至って王となったが、必ずしも六国の後を立てるのではない。将軍は今三千人をもって趙の数十城を下し、ただ河北に介在している。王とならなければこれを鎮めることはできない。しかも陳王は讒言を聞き、返報すれば、禍を免れない恐れがある。またその兄弟を立てるに如かず。もしそうでなければ、即ち趙の後を立てよ。将軍は時を失うな。時は間隙なく、息をつく暇もない。」武臣はこれに従い、遂に趙王に立てられた。陳餘を大将軍とし、張耳を右丞相とし、邵騷を左丞相とした。
人をやって陳王に報じると、陳王は大いに怒り、武臣らの家をことごとく族誅しようとし、兵を発して趙を撃とうとした。陳王の相国房君が諫めて言うには、「秦が未だ滅びないのに武臣らの家を誅するのは、これまた一つの秦を生むことである。むしろこれに因って賀し、急いで兵を率いて西進し秦を撃たせるがよい。」陳王はこれを然りとし、その計に従い、武臣らの家族を宮中に移して監禁し、張耳の子敖を成都君に封じた。
陳王は使者を趙に遣わして賀し、兵を発して西進し関中に入るよう命じた。張耳・陳餘は武臣を説いて言うには、「王が趙に王たることは、楚の本意ではなく、ただ計略をもって王を賀しているに過ぎない。楚が秦を滅ぼせば、必ず兵を趙に加えるであろう。願わくは王は西に兵を向けず、北は燕・代を徇い、南は河内を収めて自ら広められたい。趙は南は大河を拠り、北に燕・代を有する。楚たとえ秦に勝つも、必ずや趙を制することを敢えてしないであろう。」趙王はこれを然りとし、よって西に兵を向けず、韓広をして燕を略させ、李良をして常山を略させ、張黶をして上党を略させた。
韓広が燕に至ると、燕人は韓広を立てて燕王とした。趙王は張耳・陳餘とともに北進し燕の境界の地を略した。趙王が隙を見て出たところ、燕軍に捕らえられた。燕の将はこれを囚え、趙の地の半分を分け与えるならば王を帰すと言った。使者が行くたびに、燕はこれを殺して地を求めた。張耳・陳餘はこれを憂えた。賤役の卒がその舎中に告げて言うには、「私が公のために燕を説き、趙王とともに車に載せて帰ろう。」舎中の者は皆笑って言うには、「使者は十数人往ったが、皆死んだ。お前はどうして王を得ることができようか。」卒は走って燕の陣壁に行った。燕の将がこれに会うと、卒は燕の将に問うて言うには、「臣が何を欲するか知っているか。」燕の将は言う、「お前は趙王を得たいのだろう。」卒は言う、「張耳・陳餘がどのような人か知っているか。」燕の将は言う、「賢人である。」卒は言う、「その志が何を欲するか知っているか。」燕の将は言う、「その王を得たいのだろう。」趙の養卒は笑って言う、「君はこの二人の欲することを知らない。武臣・張耳・陳餘は馬箠を杖として趙の数十城を下した。これもまた各々南面して王たろうと欲するのであって、どうして卿相として終わることを欲しようか。臣と主とは同日に論ずべきではない。ただその勢い初めて定まり、未だ敢えて三分して王となることをせず、また年少・年長の序に従って先に武臣を王に立て、以て趙の人心を保持したのである。今趙の地は既に服した。この二人もまた趙を分けて王たろうと欲するが、時が未だ許さないのである。今君は趙王を囚えた。この二人は名は趙王を求めているが、実は燕に殺させ、この二人が趙を分けて自立しようとしているのである。一つの趙をもってすら尚お燕を軽んじている。ましてや二人の賢王が左提右挈し、王を殺した罪を責めれば、燕を滅ぼすことは容易である。」燕の将はこれを然りとし、よって趙王を帰し、養卒が御者となって帰った。
李良は既に常山を平定し、帰還して報告すると、趙王は再び李良に太原攻略を命じた。石邑に至ったところ、秦兵が井陘を塞ぎ、前進することができなかった。秦の将軍は偽って二世皇帝が李良に書を送ったと称し、封をせずに言うには、「李良はかつて我に仕えて顕著な寵遇を得た。李良が誠に趙に背いて秦に帰順するならば、李良の罪を赦し、李良を貴ぶであろう。」李良は書を得て、疑い信じなかった。そこで邯鄲に帰還し、さらに兵の増派を請うた。邯鄲に至らぬうち、道中で趙王の姉が酒宴から帰るのに出会い、百余騎を従えていた。李良はこれを見て、王であると思い、道端に伏して謁した。王の姉は酔っており、彼が将軍であることを知らず、騎兵を遣わして李良に礼を述べさせた。李良は平素より尊貴であったので、立ち上がり、従官たちの前で恥じ入った。従官の一人が言うには、「天下は秦に叛き、能ある者が先に立つ。そもそも趙王は平素より将軍の下にあり、今、女児(王の姉)が将軍のために車を下りようとしない。どうか追いかけて殺させてください。」李良は既に秦の書を得て、もとより趙に背こうとしていたが、決断できずにいた。このことで怒り、人を遣わして道中で王の姉を追撃して殺させ、ついにその兵を率いて邯鄲を襲撃した。邯鄲は知るところなく、ついに武臣と邵騷を殺した。趙の人々で張耳と陳餘の耳目となっている者が多かったため、彼らは脱出することができた。その兵を収容し、数万人を得た。食客が張耳に説いて言うには、「両君は旅の身であり、趙に頼ろうとするのは難しい。独立して趙の後継者を立て、義をもってこれを助ければ、功を成すことができる。」そこで趙歇を求め出して、趙王に立て、信都に居らせた。李良が進軍して陳餘を撃つと、陳餘は李良を破り、李良は敗走して章邯のもとに帰った。
章邯は兵を率いて邯鄲に至り、その民をすべて河内に移し、その城郭を平らげた。張耳と趙王歇は鉅鹿城に逃げ込んだ。王離がこれを包囲した。陳餘は北へ常山の兵を収容し、数万人を得て、鉅鹿の北に軍を置いた。章邯は鉅鹿の南、棘原に軍を置き、甬道を築いて黄河に連ね、王離に食糧を補給した。王離の兵は食糧が豊富で、急いで鉅鹿を攻めた。鉅鹿城中は食糧が尽き兵が少なく、張耳はたびたび人を遣わして前方の陳餘を召し寄せたが、陳餘は自ら兵力が少なく、秦に敵わないと推し量り、前進しようとしなかった。数か月後、張耳は大いに怒り、陳餘を怨み、張黶と陳澤を遣わして陳餘を責めさせて言うには、「初め我は公と刎頸の交わりを結んだ。今、王と耳は朝夕に死ぬばかりであるのに、公は数万の兵を擁しながら、救おうとしない。どうして互いに死を共にすると言えようか。もし必ず信義を守るというなら、どうして秦軍に赴いて共に死なないのか。それに、十に一二は生き残る可能性もある。」陳餘は言う、「我は前進しても結局趙を救うことができず、ただ軍勢を全滅させるだけだと推量する。また、余が共に死なないのは、趙王と張君のために秦に報復しようとするためである。今、必ず共に死ぬというなら、それは肉を餓虎に委ねるようなもので、何の益があろうか。」張黶と陳澤は言う、「事態は既に切迫している。要は共に死んで信義を立てることである。どうして後のことを考えていられようか。」陳餘は言う、「我が死んでも無益であると思う。必ずや公の言う通りにせよ。」そこで五千人を張黶と陳澤に与え、先に秦軍を攻撃させたが、至って皆滅びた。
この時、燕・斉・楚は趙の危急を聞き、皆救援に来た。張敖もまた北へ代の兵を収容し、一万余りを得て来たが、皆陳餘の陣営の傍らに壁を築いて駐屯し、秦を撃とうとはしなかった。項羽の兵はたびたび章邯の甬道を断ち切り、王離の軍は食糧に乏しくなった。項羽はすべての兵を率いて黄河を渡り、ついに章邯を破った。章邯は兵を率いて退却し、諸侯軍はようやく鉅鹿を包囲する秦軍を撃つことができ、ついに王離を虜にした。渉閒は自殺した。ついに鉅鹿を存続させたのは、楚の力によるものである。
ここにおいて趙王歇と張耳はやっと鉅鹿から脱出し、諸侯に礼を述べた。張耳は陳餘と会見し、趙を救おうとしなかったことを責め、また張黶と陳澤の所在を尋ねた。陳餘は怒って言った、「張黶と陳澤は必ず死ぬことを以て臣を責めましたので、臣は彼らに五千の兵を率いて先に秦軍を試させましたが、皆が没して出て来ませんでした」。張耳は信じず、彼らを殺したのだと思い、幾度も陳餘に問いただした。陳餘は怒って言った、「君が臣をここまで深く疑うとは思いませんでした。まさか臣が将軍の地位を重んじて去ると思われたのですか」。そこで印綬を解いて外し、張耳に押し付けて与えた。張耳も驚いて受け取らなかった。陳餘は立ち上がって厠に行った。客の一人が張耳に説いて言った、「臣は聞きます、『天が与えるのに取らなければ、かえってその咎を受ける』と。今、陳将軍が君に印を与えるのに、君が受け取らなければ、天に背いて不吉です。急いでこれを取るがよい」。張耳はそこでその印を佩び、その麾下の兵を収めた。そして陳餘が戻ると、張耳が譲らないのを恨み、そのまま急いで出て行った。張耳はそこでその兵を収めた。陳餘はただ麾下で親しい数百人と共に河上の沢中で漁猟した。ここにおいて陳餘と張耳は遂に隙間ができた。
趙王歇は再び信都に居を定めた。張耳は項羽に従って諸侯と共に関中に入った。漢元年二月、項羽が諸侯王を立てるにあたり、張耳は普段から交遊が広く、多くの人が彼のために言葉を添えた。項羽もまた平素から幾度も張耳の賢さを聞いていたので、趙を分割して張耳を常山王に立て、信都を治めさせた。信都は名を改めて襄国とした。
陳餘の食客の多くが項羽に説いて言った、「陳餘と張耳は一体となって趙に功がありました」。項羽は陳餘が従って関中に入らなかったため、彼が南皮にいるのを聞くと、すぐに南皮の傍ら三県を以て彼を封じ、そして趙王歇を代に移して王とした。
張耳が国に行くと、陳餘はますます怒り、言った、「張耳と余の功は同等である。今、張耳は王となり、余だけが侯とは、これは項羽が公平でない」。そして斉王田栄が楚に背くと、陳餘は夏説を使者として田栄に説かせて言った、「項羽は天下の宰として公平でなく、諸将を皆良い地に王とし、故王を悪い地に移して王としています。今、趙王は代に居られます。願わくは王、臣に兵を貸し与え、南皮を以て防壁とさせてください」。田栄は趙に与党を樹てて楚に反することを欲し、そこで兵を遣わして陳餘に従わせた。陳餘はそこで三県の兵を悉く動かして常山王張耳を襲撃した。張耳は敗れて逃走し、諸侯の中で帰るべき所がないと思い、「漢王は私と旧知の間柄であり、しかも項羽はまた強く、私を立ててくれた。私は楚に行こうと思う」と言った。甘公が言った、「漢王が関中に入った時、五星が東井に集まりました。東井は秦の分野です。先に至った者は必ず覇者となります。楚はたとえ強くとも、後には必ず漢に属するでしょう」。故に張耳は漢に走った。漢王もまた三秦を平定して戻り、ちょうど章邯を廃丘に包囲していた。張耳が漢王に謁見すると、漢王は手厚く遇した。
陳餘は既に張耳を破り、趙の地をことごとく回復し、趙王を代から迎えて、再び趙王とした。趙王は陳餘に恩を感じ、彼を代王に立てた。陳餘は趙王が弱く、国が初めて定まったばかりであると考え、国に行かず、留まって趙王を補佐し、そして夏説を相国として代を守らせた。
漢の二年、東に楚を撃つに当たり、使者を趙に告げて、共に倶にせんと欲す。陳餘曰く、「漢、張耳を殺さば乃ち従わん」と。ここにおいて漢王、張耳に類する者を求めて之を斬り、其の頭を持ちて陳餘に遺わす。陳餘乃ち兵を遣わして漢を助く。漢の彭城の西に敗るるや、陳餘亦た復た張耳の死せざるを覚り、即ち漢に背く。
漢の三年、韓信既に魏の地を定め、張耳を遣わして韓信と倶に趙の井陘を撃ち破り、陳餘を泜水の上に斬り、趙王歇を襄国に追い殺す。漢、張耳を立てて趙王と為す。漢の五年、張耳薨じ、謚して景王と為す。子の敖嗣ぎ立ちて趙王と為る。高祖の長女魯元公主は趙王敖の后と為る。
漢の七年、高祖、平城より趙を過ぐるに、趙王朝夕に袒韛を蔽い、上より食を進め、礼甚だ卑しく、子婿の礼有り。高祖、箕踞して詈り、甚だ慢易す。趙相の貫高・趙午等、年六十余、故に張耳の客なり。生平気を為し、乃ち怒りて曰く、「吾が王は孱王なり」と。王に説きて曰く、「夫れ天下の豪桀并び起これども、能ある者は先ず立つ。今、王、高祖に事えて甚だ恭し。而るに高祖は礼無し。請う、王の為に之を殺さん」と。張敖、其の指を齧みて血を出だし、曰く、「君何ぞ言うことの誤れるや。且つ先人国を亡ぼし、高祖に頼りて復た国を得、徳は子孫に流る。秋豪も皆高祖の力なり。願わくは君、復た口より出だすこと無かれ」と。貫高・趙午等十余人皆相謂いて曰く、「乃ち吾等非なり。吾が王は長者にして、徳に倍かず。且つ吾等は義、辱しめられず。今、高祖の我が王を辱しむるを怨み、故に之を殺さんと欲す。何ぞ乃ち王を汚さんとするや。事成れば王に帰し、事敗れば独り身坐するのみ」と。
漢の八年、上、東垣より還り、趙を過ぐ。貫高等乃ち人を柏人に壁し、之を要して廁に置かんとす。上、過ぎて宿らんと欲し、心動き、問うて曰く、「県名は何と為す」と。曰く、「柏人なり」と。「柏人とは、人に迫るなり」と。宿らずして去る。
漢の九年、貫高の怨家其の謀を知り、乃ち上変して之を告ぐ。ここにおいて上、皆倶に趙王・貫高等を逮捕す。十余人皆争いて自ら剄せんとす。貫高独り怒罵して曰く、「誰か公をして之を為さしむる。今、王は実に謀無し。而るに倶に王を捕う。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん者ぞ」と。乃ち轞車に膠致し、王と倶に長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち詔して趙の群臣賓客、敢えて王に従う者有らば皆族すと。貫高と客の孟舒等十余人、皆自ら髡鉗し、王家の奴と為り、従いて来る。貫高至りて、獄に対し、曰く、「独り吾が属之を為す。王は実に知らず」と。吏治め、榜笞数千、刺剟すれども、身に撃つべき者無く、終に復た言わず。呂后数え言う、張王は魯元公主の故を以て、此れ有るに宜しからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に据わらしめば、豈に汝が女に少なからんや」と。聴かず。廷尉、貫高の事の辞を以て聞く。上曰く、「壮士なり。誰か知る者、私を以て之を問え」と。中大夫の泄公曰く、「臣の邑子、素より之を知る。此れ固より趙国に名義を立て、侵さずして然諾を為す者なり」と。上、泄公をして節を持たしめ、之を箯輿の前に問わしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公、労苦すること平生の驩の如くし、与に語り、張王に果たして計謀有りや否やを問う。高曰く、「人情、寧ろ各々其の父母妻子を愛せざる者あらんや。今、吾が三族皆以て論じて死す。豈に王を以て吾が親に易えんや。顧みるに王は実に反せず。独り吾等之を為すのみ」と。具に本指の所以為す者、王の知らざる状を道う。ここにおいて泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。
上(高祖)は賢しとす貫高が人となり然諾を立て得るを、泄公を使わして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出づ」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審に出づるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上は足下を多とす、故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せざる所以は一身に余無き者、張王の反せざるを白さんが為なり。今王已に出づ、吾が責め已に塞がる、死して恨み無し。且つ人臣として簒殺の名有らば、何の面目を以て復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰いで骯(こう、咽喉)を絶ち、遂に死す。此の時に当たり、名天下に聞ゆ。
張敖已に出で、魯元公主を尚る故を以て、封ぜられて宣平侯と為る。是に於て上は張王の諸客を賢しとし、鉗奴(首枷の奴隷)として張王に従ひ関に入りし者、諸侯の相・郡守と為らざる者無し。孝惠・高后・文帝・孝景の時に及びては、張王の客の子孫皆二千石を得る。
張敖は、高后六年に薨ず。子の偃は魯元王と為る。母呂后の女なる故を以て、呂后之を封じて魯元王と為す。元王弱く、兄弟少なし、乃ち張敖の他姫の子二人を封ず:寿は楽昌侯と為り、侈は信都侯と為る。高后崩じ、諸呂道無く、大臣之を誅し、而して魯元王及び楽昌侯・信都侯を廃す。孝文帝即位し、故魯元王偃を復た封じて南宮侯と為し、張氏を継がしむ。
贊
太史公曰く、張耳・陳餘は、世伝の称する所の賢者なり。其の賓客廝役も、天下の俊桀に非ざるは莫く、居る国卿相を取らざるは無し。然れども張耳・陳餘始め約(貧賤)に居る時は、相然り信じて以て死せんとす、豈顧問せんや。国に拠り権を争ふに及びて、卒に相滅亡す、何ぞ郷に相慕ひ用ふるの誠、後に相倍くの戾るや。豈勢利を以て交はるに非ずや。名譽高しと雖も、賓客盛んなりと雖も、由る所殆ど大伯・延陵季子と異なるかな。
索隠述賛
張耳と陳餘は、天下の豪俊である。年齢を忘れて旅に寄り、刎頸の交わりを信じた。耳が鉅鹿を包囲すると、餘は兵を進めなかった。張は既に望みを深くし、陳は乃ち印を去った。勢利に傾き奪い、隙末に釁を成す。