張耳、陳餘
張耳は大梁の人である。その若い時分、魏の公子無忌に客として仕えた。張耳はかつて亡命して外黄に遊んだ。外黄の富人の娘は甚だ美しく、下僕に嫁いだが、夫を捨てて去り、父の客のもとに身を寄せた。父の客は平素より張耳を知っていたので、娘に言うには、「必ずや賢い夫を求めるなら、張耳に従え」と。娘はこれを聞き入れ、遂に離縁を請い決して、張耳に嫁いだ。張耳はこの時、身軽に遊歴しており、女の家は厚く張耳に奉給したので、張耳はこの故に千里の客を招くことができた。そこで魏に仕えて外黄の令となった。名声はこれによってますます賢いとされた。陳餘もまた大梁の人であり、儒術を好み、しばしば趙の苦陘に遊んだ。富人の公乗氏はその娘を陳餘の妻としたが、これもまた陳餘が凡人でないことを知っていたのである。餘は年少で、張耳を父のように事え、二人は互いに刎頸の交わりを結んだ。
秦が大梁を滅ぼした時、張耳の家は外黄にあった。高祖が布衣であった時、かつてしばしば張耳に従って遊び、数か月客となった。秦が魏を滅ぼして数年後、すでにこの二人が魏の名士であると聞き、購求して張耳には千金、陳餘には五百金を懸けた。張耳・陳餘はそこで姓名を変え、ともに陳に行き、里の監門となって自ら食を営んだ。二人は向かい合っていた。里吏がかつて過ちがあって陳餘を笞打った時、陳餘は起ち上がろうとしたが、張耳は彼を踏みとどまらせ、笞を受けるようにさせた。吏が去ると、張耳は陳餘を桑の木の下に引き寄せて責めて言うには、「初めに私が貴公に言ったことはどうであったか。今、小さな辱めを見て一吏のために死のうとするのか」と。陳餘はこれを然りとした。秦の詔書が二人を購求すると、二人もまた逆に門者を用いて里中に命令させた。
陳渉が蘄で挙兵し、陳に入るまで、兵数万であった。張耳・陳餘が陳渉に謁見した。渉とその左右の者は平生からしばしば張耳・陳餘の賢さを聞いており、未だ会ったことはなかったが、会うや大いに喜んだ。
陳中の豪傑・父老はそこで陳渉を説いて言うには、「将軍は身に堅甲を被り鋭鋒を執り、士卒を率いて暴秦を誅し、楚の社稷を再び立て、亡びた国を継ぎ絶えた家を存続させる。功徳は王となるに相応しい。かつ天下の諸将を監臨するには、王とならなければならぬ。願わくは将軍が楚王として立てられんことを」と。陳渉はこの二人に問うた。二人は答えて言うには、「そもそも秦は無道を行い、人の国家を破り、人の社稷を滅ぼし、人の後世を絶ち、百姓の力を疲弊させ、百姓の財を尽くした。将軍は目を瞋らし胆を張り、万死を顧みず一生を顧みない計らいを出し、天下のために残賊を除かんとしている。今、初めて陳に至って王となるのは、天下に私心を示すことである。願わくは将軍は王とならず、急ぎ兵を率いて西進し、人を遣わして六国の後裔を立て、自ら党を樹て、秦の敵を増やすべきである。敵が多ければ力は分散し、衆と与れば兵は強くなる。このようにすれば野に交兵なく、県に守城なく、暴秦を誅し、咸陽を拠点として諸侯に令する。諸侯は滅びてから立てられるので、徳をもって服すれば、このようにして帝業は成るのである。今、ただ陳で王となるのは、天下が離散することを恐れる」と。陳渉は聞き入れず、遂に王として立った。
陳餘はそこでまた陳王を説いて言うには、「大王は梁・楚を挙げて西進し、務めは関に入ることにありますが、未だ河北を収めるには至っておりません。臣はかつて趙に遊び、その豪傑及び地形を知っております。願わくは奇兵を請うて北進し趙の地を攻略させてください」と。ここにおいて陳王は、以前から親しい陳の人武臣を将軍とし、邵騷を護軍とし、張耳・陳餘を左右の 校尉 とし、兵卒三千人を与えて、北進して趙の地を攻略させた。
武臣らは白馬から黄河を渡り、諸県に至り、その豪傑を説いて言うには、「秦は乱政と虐刑をもって天下を残賊すること数十年である。北には長城の役があり、南には五嶺の戍があり、外内騒動し、百姓は疲弊し、頭会箕斂して軍費を供し、財は匱竭し力は尽き、民は聊生するものがない。これに苛法峻刑を重ね、天下の父子をして互いに安んじさせない。陳王は奮臂して天下に先駆け、楚の地に王となり、方二千里、響応せざるはなく、家自ら怒り、人自ら闘い、各々その怨みに報いその仇を攻め、県はその令丞を殺し、郡はその守尉を殺した。今や大楚を張り、陳に王となり、呉広・周文に将卒百万を率いさせて西進し秦を撃たせている。この時に当たって封侯の業を成さざるは、人豪にあらず。諸君、試みに相ともにこれを計らわれよ。そもそも天下は心を同じくして秦に苦しむこと久しい。天下の力を因って無道の君を攻め、父兄の怨みに報い、地を割き土を持つ業を成す、これ士の一時である」と。豪傑は皆その言葉を然りとした。そこで行って兵を収め、数万人を得、武臣を号して武信君とした。趙の十城を下したが、その他は皆城を守って下ろうとしなかった。
そこで兵を率いて東北に進み范陽を撃った。范陽の人蒯通が范陽令を説いて言うには、「ひそかに聞くに、公は将に死なんとす、故に弔う。そうではあるが、公が通を得て生きることを賀す」と。范陽令は言う、「どうして弔うのか」と。答えて言うには、「秦の法は重く、足下は范陽令となって十年、人の父を殺し、人の子を孤にし、人の足を断ち、人の首に黥を入れ、数えきれないほどである。しかし慈父孝子は敢えて刃を公の腹に突き立てようとしないのは、秦の法を恐れるからである。今、天下大乱し、秦の法は行われない。そうすれば慈父孝子は将に刃を公の腹に突き立ててその名を成さんとしている。これ臣が公を弔う所以である。今、諸侯は秦に叛いている。武信君の兵が将に至らんとしているのに、君は范陽を堅守する。少年たちは皆争って君を殺し、武信君に降らんとしている。君は急ぎ臣を武信君に見遣り、禍を転じて福とすることができる。今がその時である」と。
范陽令はそこで蒯通を武信君に見遣らせて言うには、「足下は必ずや戦勝して後に地を略し、攻め落として後に城を下すとお考えでしょうが、臣はひそかに過ちであると思います。誠に臣の計を聴けば、攻めずして城を降し、戦わずして地を略し、檄を伝えて千里を定めることができます。いかがでしょうか」と。武信君は言う、「どういうことか」と。蒯通は言う、「今の范陽令は、本来その士卒を整頓して守戦すべき者ですが、臆病で死を恐れ、貪欲で富貴を重んじるので、先んじて降伏したいと思っています。しかし君が秦によって置かれた吏であるとして、前の十城のように誅殺されることを恐れているのです。しかし今、范陽の少年たちもまたまさにその令を殺し、自ら城を以て君に抵抗しようとしています。君はどうして臣に侯印を持たせ、范陽令を拝し、范陽令をして城を以て君に下らせないのですか。そうすれば少年たちもまたその令を殺すことはできません。范陽令に朱輪華轂の車に乗せ、燕・趙の郊を駆け巡らせて見せれば、燕・趙の郊の人々はこれを見て、皆『これ范陽令、先に下った者だ』と言い、喜ぶでしょう。燕・趙の城は戦わずして降伏できます。これ臣の言う、檄を伝えて千里を定めるというものです」と。武信君はその計に従い、そこで蒯通を使者として范陽令に侯印を賜った。趙の地でこれを聞き、戦わずして城を下すもの三十余城。
邯鄲に至ると、張耳・陳餘は周章の軍が関に入り、戲で退いたことを聞き、また諸将が陳王のために地を徇くも、多くは讒言によって罪を得て誅殺されたと聞いた。陳王が自分たちの策を用いず、将とせず 校尉 としたことを怨んだ。そこで武臣を説いて言うには、「陳王は蘄で起ち、陳に至って王となった。必ずしも六国の後裔を立てたわけではない。将軍は今、三千人で趙の数十城を下し、独り河北に介在している。王とならなければこれを鎮めることができない。かつ陳王は讒言を聴き、返報すれば、禍を免れない恐れがある。またその兄弟を立てる方が良い。そうでなければ、即ち趙の後裔を立てよ。将軍は時を失うな。時の間は息をつく暇もない」と。武臣はこれを聴き、遂に趙王として立った。陳餘を大将軍とし、張耳を右丞相とし、邵騷を左丞相とした。
人を遣わして陳王に報告すると、陳王は大いに怒り、武臣らの家を全て族滅しようとし、兵を発して趙を撃とうとした。陳王の相国房君が諫めて言うには、「秦は未だ滅びずして武臣らの家を誅するのは、これまた一つの秦を生むことです。むしろこれに因ってこれを賀し、急ぎ兵を率いて西進し秦を撃たせる方が良いでしょう」と。陳王はこれを然りとし、その計に従い、武臣らの家族を宮中に移して監禁し、張耳の子敖を成都君に封じた。
陳王 (陳勝) は使者を趙に派遣して祝賀させ、兵を西に向かわせて関中に入るよう命じた。張耳と陳餘は武臣に説いて言うには、「王が趙を王たるは、楚 (陳勝) の本意ではなく、ただ計略をもって王を祝賀するのみである。楚が既に秦を滅ぼせば、必ずや兵を趙に加えるであろう。願わくは王は西に兵を向けず、北は燕・代を巡行し、南は河内を収めて自ら広がられよ。趙が南に大河を拠り、北に燕・代を有すれば、楚たとえ秦に勝つも、必ずや趙を制することを敢えてせぬであろう」と。趙王はこれを然りとし、よって西に兵を向けず、かえって韓広をして燕を攻略させ、李良をして常山を攻略させ、張黶をして上党を攻略させた。
韓広が燕に至ると、燕の人々はよって広を立てて燕王とした。趙王はそこで張耳・陳餘とともに北に進んで燕の境界の地を攻略した。趙王が隙を見て外出したところ、燕軍に捕らえられた。燕の将軍は彼を囚禁し、趙の地の半分を分け与えることを条件に、王を帰そうとした。使者が行くたびに、燕はすぐに彼を殺して地を要求した。張耳と陳餘はこれを憂えた。雑役兵 (廝養卒) が一人、その宿舎の中で告げて言うには、「私が公のために燕を説き、趙王とともに車に乗せて帰って参らせよう」と。宿舎の者たちは皆笑って言うには、「使者は十数人も行ったが、すぐに死んだ。お前はどうして王を得ることができようか」と。そこで (その兵は) 燕の陣営に走った。燕の将軍が彼に会うと、 (兵は) 燕の将軍に問うて言うには、「臣が何を欲するかご存知ですか」と。燕の将軍は言うには、「お前は趙王を得たいのだろう」と。 (兵は) 言うには、「君は張耳・陳餘がどのような人かご存知ですか」と。燕の将軍は言うには、「賢人である」と。 (兵は) 言うには、「彼らの志が何を欲するかご存知ですか」と。 (燕将は) 言うには、「その王を得たいのだろう」と。趙の雑役兵はそこで笑って言うには、「君はこの二人の欲することを知らぬ。そもそも武臣・張耳・陳餘は馬箠を杖として趙の数十城を下した。これもまた各々南面して王たらんと欲するのであって、どうして卿相として終わることを欲しようか。そもそも臣と主とはどうして同日に論じられようか、ただその情勢が初めて定まったばかりで、まだ三つに分かれて王たることを敢えてせず、また年少・年長の順に先ず武臣を立てて王とし、もって趙の人心を保ったのである。今や趙の地は既に服した。この二人もまた趙を分かち王たらんと欲しているが、時がまだ許さぬのである。今、君は趙王を囚禁した。この二人は名目上は趙王を求めているが、実は燕に殺させて、この二人が趙を分かち自立せんと欲しているのである。そもそも一つの趙をもってすら尚燕を軽んじるのに、ましてや二人の賢王が左右から提携し、王殺しの罪を責めれば、燕を滅ぼすのは容易である」と。燕の将軍はこれを然りとし、よって趙王を帰し、雑役兵が御者となって帰った。
李良は既に常山を平定し、帰還して報告した。趙王は再び李良をして太原を攻略させた。石邑に至ると、秦兵が井陘を塞ぎ、前進できなかった。秦の将軍が偽って二世皇帝が人を遣わして李良に書を送ったと称し、封をせずに言うには、「李良はかつて我に仕えて顕職・寵愛を得た。李良が誠に趙に背き秦に帰すれば、李良の罪を赦し、李良を貴ぶ」と。李良は書を得て、疑い信じなかった。そこで邯鄲に帰還し、さらに兵を請うた。着かぬうちに、道中で趙王の姉が外出して酒宴から帰るのに出会い、百余騎を従えていた。李良は遠望し、王と思い、道端に伏して謁した。王の姉は酔っており、彼が将軍であることを知らず、騎兵を遣わして李良に礼を言わせた。李良は平素より尊貴であったので、立ち上がり、その従官たちに恥じ入った。従官の一人が言うには、「天下は秦に背き、能ある者が先に立つ。かつ趙王は平素より将軍の下にあった。今、女児 (王の姉) が将軍のために車を下りない。請う、追いかけて殺そう」と。李良は既に秦の書を得て、もとより趙に背かんと欲していたが、決心がつかず、これによって怒り、人を遣わして道中で王の姉を追いかけて殺させ、そこでその兵を率いて邯鄲を襲撃した。邯鄲は知らず、ついに武臣と邵騷を殺した。趙の人々で張耳・陳餘の耳目となっている者が多かったので、彼らは故に脱出することができた。その兵を収集し、数万人を得た。食客が一人、張耳に説いて言うには、「両君は旅人でありながら、趙に付かんと欲するのは難しい。ただ趙の後裔を立て、義をもってこれを扶ければ、功を成すことができる」と。そこで趙歇を求め得て、立てて趙王とし、信都に居らせた。李良が進軍して陳餘を撃つと、陳餘は李良を破り、李良は敗走して章邯に帰した。
章邯は兵を率いて邯鄲に至り、その民を皆河内に移住させ、その城郭を平らげた。張耳は趙王歇とともに鉅鹿城に逃げ込んだ。王離がこれを包囲した。陳餘は北に進んで常山の兵を収集し、数万人を得て、鉅鹿の北に軍を駐めた。章邯は鉅鹿の南の棘原に軍を駐め、甬道を築いて黄河に連ね、王離に糧食を送った。王離の兵は食糧が多く、急いで鉅鹿を攻めた。鉅鹿城中は食糧が尽き兵が少なく、張耳はたびたび人を遣わして前方の陳餘を召し寄せたが、陳餘は自ら兵力が少なく、秦に敵わないと推し量り、敢えて前進しなかった。数か月後、張耳は大いに怒り、陳餘を怨み、張黶と陳澤を遣わして陳餘を責めて言わせたには、「初め我は公と刎頸の交わりを結んだ。今、王と耳は旦夕に死なんとしているのに、公は数万の兵を擁しながら、相救おうとせぬ。どうして互いのために死ぬことがあろうか。もし必ず信義を守るなら、どうして秦軍に赴いて共に死なぬのか。しかも十に一二は助かるかもしれぬ」と。陳餘は言うには、「我は前進しても結局趙を救えず、ただ軍勢を全滅させるだけだと推量する。かつ余が共に死なぬのは、趙王と張君のために秦に報いんと欲するからである。今、必ず共に死ねば、あたかも肉を餓虎に委ねるが如くで、何の益があろうか」と。張黶と陳澤は言うには、「事は既に急である。要は共に死んで信義を立てることにある。どうして後のことを慮ることができようか」と。陳餘は言うには、「我が死んでも結局無益だと思われる。必ずや公の言う通りにせよ」と。そこで五千人の兵を張黶と陳澤に与えて先に秦軍を攻撃させたが、至って皆滅びた。
この時、燕・斉・楚は趙の危急を聞き、皆来て救った。張敖もまた北に進んで代の兵を収集し、一万余人を得て来たが、皆陳餘の傍らに陣を構え、敢えて秦を撃たなかった。項羽の兵はたびたび章邯の甬道を断ち切り、王離の軍は食糧に乏しくなった。項羽は悉く兵を率いて黄河を渡り、ついに章邯を破った。章邯は兵を率いて退却し、諸侯軍はようやく敢えて鉅鹿を包囲する秦軍を撃ち、ついに王離を虜とした。渉閒は自殺した。ついに鉅鹿を存続させたのは、楚の力によるものである。
ここにおいて趙王歇と張耳はようやく鉅鹿から出ることができ、諸侯に礼を言った。張耳は陳餘と会い、趙を救おうとしなかったことを責め、また張黶と陳澤の所在を問うた。陳餘は怒って言うには、「張黶と陳澤は必ず死すべしと臣を責めたので、臣は五千人の兵を率いさせて先に秦軍を攻撃させたが、皆滅びて出て来なかった」と。張耳は信じず、彼らを殺したと思い、たびたび陳餘に問うた。陳餘は怒って言うには、「君が臣をここまで深く疑うとは思わなかった。まさか臣が将軍の地位を重んじて去ると思っているのか」と。そこで印綬を解き外し、張耳に押し付けて与えた。張耳もまた驚いて受け取らなかった。陳餘は立ち上がって厠に行った。食客が一人、張耳に説いて言うには、「臣は聞く、『天が与えて取らねば、かえってその咎を受ける』と。今、陳将軍が君に印を与えるのに、君が受け取らねば、天に背いて不祥である。急いで取られよ」と。張耳はそこでその印を佩び、その麾下の兵を収集した。そして陳餘が戻ると、彼もまた張耳が譲らないのを怨み、そこで急いで出て行った。張耳はついにその兵を収集した。陳餘はただ麾下の親しい者数百人とともに河上の沢中で漁猟した。これによって陳餘と張耳はついに隙間が生じた。
趙王歇は再び信都に居た。張耳は項羽に従って諸侯とともに関中に入った。漢元年 (前206年) 二月、項羽が諸侯王を立てるにあたり、張耳は平素より交遊が広く、多くの人が彼のために言葉を添えた。項羽もまた平素よりたびたび張耳の賢さを聞いていたので、そこで趙を分けて張耳を立てて常山王とし、信都を治めさせた。信都は名を改めて襄国とした。
陳餘の食客の多くが項羽に説いて言うには、「陳餘と張耳は一体となって趙に功があった」と。項羽は陳餘が従って関中に入らなかったため、彼が南皮にいると聞き、すぐに南皮の傍ら三県をもって彼を封じ、かえって趙王歇を代に移して王とさせた。
張耳が趙国に赴くと、陳餘はますます怒り、言った、「張耳と余とは功績が同じであるのに、今張耳は王となり、余だけが侯に留められている。これは項羽が公平でないからだ」と。やがて斉王田栄が楚に背くと、陳餘は夏説を遣わして田栄を説かせた、「項羽は天下の宰たるに公平でなく、諸将をみな善地に王とし、故王を悪地に移して王としている。今趙王は代に居らされている。願わくは王よ、臣に兵を貸し給え。南皮を以て防ぎとせんことを請う」と。田栄は趙に与党を樹てて楚に反せんと欲し、兵を遣わして陳餘に従わせた。陳餘は因って三県の兵を悉く率いて常山王張耳を襲った。張耳は敗れて走り、諸侯の中で帰るべき者がないと思い、「漢王は我と旧交があり、しかも項羽は強く、我を立ててくれた。我は楚に行かん」と言った。甘公が言った、「漢王が関に入った時、五星が東井に聚まった。東井は秦の分野である。先に至る者は必ず覇者となる。楚は強しといえども、後には必ず漢に属するであろう」と。故に張耳は漢に走った。漢王もまた三秦を平定し、章邯を廃丘に囲んでいた。張耳が漢王に謁すると、漢王は厚く遇した。
陳餘は既に張耳を破り、趙の地をことごとく回復し、趙王を代から迎えて、再び趙王とした。趙王は陳餘に恩を感じ、代王に立てた。陳餘は趙王が弱く、国が初めて定まったばかりなので、国に赴かず、留まって趙王を補佐し、夏説を相国として代を守らせた。
漢の二年、東進して楚を撃つに当たり、使者を遣わして趙に告げ、共に従うことを求めた。陳餘は言った、「漢が張耳を殺せば従おう」と。そこで漢王は張耳に似た者を求めて斬り、その首を持たせて陳餘に贈った。陳餘は兵を遣わして漢を助けた。漢が彭城の西で敗れると、陳餘もまた張耳が死んでいないことに気づき、直ちに漢に背いた。
漢の三年、韓信が既に魏の地を平定し、張耳を遣わして韓信と共に趙の井陘を撃ち破り、陳餘を泜水のほとりで斬り、趙王歇を襄国に追い詰めて殺した。漢は張耳を立てて趙王とした。漢の五年、張耳が薨じ、諡して景王と為す。子の敖が嗣いで趙王となった。高祖の長女魯元公主が趙王敖の后となった。
漢の七年、高祖が平城から帰る途次、趙に立ち寄ると、趙王は朝夕に袒ぎて蔽い、自ら食を上し、礼甚だ卑しく、子婿の礼を尽くした。高祖は箕踞して罵り、甚だ侮慢に扱った。趙の相貫高・趙午ら六十余歳、もと張耳の食客であった者たちは、生来気概に富み、怒って言った、「我が王は弱き王なり」と。王を説いて言った、「天下の豪傑が並び起り、能ある者が先に立つ。今、王は高祖に甚だ恭しく仕えるのに、高祖は無礼である。王のためにこれを殺さんことを請う」と。張敖は指を噛んで血を出し、言った、「君たちは何と誤ったことを言うのか。そもそも先人は国を亡ぼし、高祖によって国を復することができた。その恩徳は子孫にまで及んでいる。秋毫の細事に至るまで皆高祖の力による。願わくは君たち、再び口に出すな」と。貫高・趙午ら十余人は互いに言った、「我々が間違っている。我が王は長者であり、恩徳に背かない。しかも我々は義のために辱めを受けぬ。今、高祖が我が王を辱めたことを怨み、故にこれを殺そうとするのであって、どうして王を汚すことがあろうか。事が成れば王に帰し、事が敗れれば我々だけで罪を受けるまでだ」と。
漢の八年、上 (高祖) が東垣から還る途次、趙に立ち寄ると、貫高らは柏人に人を壁間に潜ませ、便所に置いて待ち伏せした。上は通りかかり宿ろうとしたが、心が動き、問うた、「県の名は何というか」と。答えていう、「柏人です」と。「柏人とは、人に迫る (迫人) である」と。宿らずに去った。
漢の九年、貫高の怨みを持つ者がその謀を知り、変事を上告した。そこで上は趙王・貫高らをことごとく逮捕した。十余人は皆争って自刎しようとしたが、貫高だけは怒って罵った、「誰がお前たちにそうさせたのか。今、王は実は謀を知らないのに、王をも捕らえる。お前たちが皆死んでしまえば、誰が王が反していないことを明らかにする者があろうか」と。そこで檻車に膠で固めて閉じ込め、王と共に長安に詣でた。張敖の罪を審理した。上は詔して、趙の群臣賓客で敢えて王に従う者は皆族誅するとした。貫高と食客の孟舒ら十余人は、皆自ら髪を剃り首枷をはめ、王家の奴隷となって従った。貫高が到着し、獄吏の取り調べに対し言った、「ただ我々がやったことで、王は実は知らない」と。吏は数千回も鞭打ち、刺して焼きを入れ、体に打つところがなくなるほどだったが、終に言葉を変えなかった。呂后はたびたび、張王は魯元公主の縁故ゆえ、このようなことはあるはずがないと言った。上は怒って言った、「張敖が天下を握ったならば、お前の娘ごときはいくらでもいるだろう」と。聞き入れなかった。廷尉が貫高の取り調べの言葉を上聞すると、上は言った、「壮士だ。誰か知っている者は、私情を交えて尋ねてみよ」と。中大夫の泄公が言った、「臣の同郷の者で、平素から知っています。これはもとより趙国で名義を立て、約束を侵さぬ者として知られております」と。上は泄公に節を持たせて、貫高が乗る竹かごの前で尋ねさせた。 (貫高は) 仰ぎ見て言った、「泄公か」と。泄公は労苦をねぎらい、平生の歓びの如く語り、張王に果たして計謀があったかどうかを尋ねた。貫高は言った、「人情として、誰しも父母妻子を愛さない者があろうか。今、我が三族は皆死罪と論ぜられようとしている。どうして王のために我が親を代えようか。ただ、王は実は反していない、ただ我々がやったことだと明らかにしたいだけだ」と。ことごとく本来の意図、王が知らなかった様子を述べた。そこで泄公は入り、詳しく報告した。上は趙王を赦した。
上は貫高が人として約束を立てて守ることを賢しとし、泄公に詳しく告げさせて言った、「張王は既に釈放された」と。因って貫高をも赦そうとした。貫高は喜んで言った、「我が王は本当に出られたのか」と。泄公が「そうだ」と言うと、泄公は言った、「上は足下を重んじているので、足下を赦されるのだ」と。貫高は言った、「私が一身に余すところなく死ななかったのは、張王が反していないことを明らかにするためであった。今、王は既に出られた。我が責務は既に果たされた。死んでも恨みはない。しかも人臣として 簒 殺の名がある以上、何の面目あって再び上に仕えようか。たとえ上が我を殺さなくとも、我は心に愧じることがないだろうか」と。そこで仰向けになって喉を絶ち、遂に死んだ。この時、その名は天下に聞こえた。
張敖は釈放され、魯元公主を娶った縁故により、宣平侯に封ぜられた。そこで上は張王の諸客を賢しとし、首枷をはめた奴隷として張王に従って関に入った者は、諸侯の相や郡守とならぬ者はなかった。孝惠帝・高后・文帝・孝景帝の時代に至るまで、張王の食客の子孫は皆二千石の官を得た。
張敖は、高后六年に薨じた。子の偃が魯元王となった。母が呂后の娘である縁故で、呂后が魯元王に封じたのである。元王は弱く、兄弟も少なかったので、張敖の他の妾の子二人を封じた。寿を楽昌侯とし、侈を信都侯とした。高后が崩じ、諸呂が無道を行ったので、大臣がこれを誅し、魯元王及び楽昌侯・信都侯を廃した。孝文帝が即位すると、故魯元王の偃を南宮侯に封じ、張氏の後を継がせた。
贊
太史公曰く、張耳・陳餘は、世に伝えられるところの賢者と称される者である。その賓客や下僕に至るまで、天下の俊傑でない者はなく、彼らが居た国では卿相の位を取らぬ者はなかった。しかし張耳・陳餘が初め貧約の中にあった時は、互いに信じて死を誓い、何のためらいがあっただろうか。国を握り権を争うに及んで、遂に互いに滅ぼし合うに至った。かつて互いに慕い用いた誠実さと、後に互いに背き合った冷酷さは、何という違いか。これは勢利によって交わったからではなかろうか。名誉は高く、賓客は盛んではあったが、その由来は太伯や延陵季子とは異なるものであった。
索隠述贊
張耳・陳餘は天下の豪俊なり。年齢を忘れて旅にあり、刎頸の交わりを信じたり。耳は鉅鹿に囲まれ、餘は兵を進めず。張既に望み深く、陳乃ち印を去る。勢利に傾き奪い、隙末にして釁を成す。