范睢
范睢は魏の人であり、字は叔という。諸侯に遊説し、魏王に仕えようとしたが、家が貧しく自ら資するものがないので、まず魏の中大夫須賈に仕えた。
須賈が魏の昭王の命で斉に使いしたとき、范睢はこれに従った。数か月留まったが、返答を得られなかった。斉の襄王は范睢の弁舌が優れていると聞き、人をやって范睢に金十斤と牛酒を賜わったが、范睢は辞退して受け取らなかった。須賈はこれを知り、大いに怒り、范睢が魏国の内情を斉に告げたのでこの贈り物を得たのだと思い、范睢に牛酒を受け取らせ、金は返させた。帰国後、心の中で范睢を怒り、魏の宰相に告げた。魏の宰相は、魏の諸公子で、魏齊という。魏齊は大いに怒り、舎人に命じて范睢を鞭打たせ、肋骨を折り歯を砕かせた。范睢は死んだふりをし、すぐに簀に巻かれ、厠の中に置かれた。酒を飲んでいた賓客たちは酔って、次々に范睢に小便をかけ、わざと辱めて後の戒めとし、みだりにものを言う者がないようにした。范睢は簀の中から看守に言った。「あなたが私を出してくれたら、必ず厚くお礼をします。」看守はそこで簀の中の死人を捨てに出してくれるよう願い出た。魏齊は酔って、「よかろう。」と言った。范睢は脱出することができた。後で魏齊は後悔し、また召し出して探させた。魏の人鄭安平はこれを聞き、そこで范睢を連れて逃亡し、身を隠し、姓名を改めて張祿と名乗った。
この時、秦の昭王は謁者王稽を魏に遣わした。鄭安平は卒に偽り、王稽に仕えた。王稽が問うて曰く、「魏に賢人で共に西遊できる者はあるか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生がおり、君に会いたがり、天下の事を語ろうとしている。その人は仇を持っているので、敢えて昼に会うことができない」と。王稽曰く、「夜に共に来い」と。鄭安平は夜に張禄と共に王稽に会った。語り未だ尽きず、王稽は范雎が賢者であることを知り、謂って曰く、「先生は三亭の南で我を待て」と。私かに約して去った。
王稽は魏を辞して去り、范雎を車に載せて秦に入った。湖に至り、車騎が西から来るのを望見した。范雎曰く、「彼来る者は誰か」と。王稽曰く、「秦の相穣侯が東に県邑を行くのである」と。范雎曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内に入れることを悪むと。これは恐らく我を辱めんとするであろう。我は寧ろ暫く車中に匿れよう」と。しばらくして、穣侯果たして至り、王稽を労い、因って車に立って語って曰く、「関東に何か変はあるか」と。曰く、「無し」と。又た王稽に謂って曰く、「謁君は諸侯の客子と共に来たのではないか。益無く、徒らに人の国を乱すのみである」と。王稽曰く、「敢えてしません」と。即ち別れて去った。范雎曰く、「吾聞く、穣侯は智士なりと。その事を見るに遅し。先程は車中に人あることを疑い、索うることを忘れたのである」と。ここにおいて范雎は下車して走り、曰く、「これは必ず後悔するであろう」と。十余里を行くに、果たして騎を遣わして還り車中を索うるも、客無く、乃ち已んだ。王稽は遂に范雎と共に咸陽に入った。
既に使者としての報告を終え、因って言うて曰く、「魏に張禄先生あり、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵の危うきにあり、臣を得れば則ち安んず。然れども書を以て伝うるべからず』と。臣故に載せて来たりしなり」と。秦王信ぜず、舎して食わしむるに草具を用い、命を待つこと歳余り。
この時、昭王は既に立って三十六年であった。南は楚の鄢・郢を抜き、楚の懐王は秦に幽死した。秦は東に斉を破った。湣王嘗て帝を称したが、後にこれを去った。数たび三晋を困らせた。天下の弁士を厭い、信ずる所無し。
穣侯、華陽君は、昭王の母宣太后の弟なり。而して涇陽君・高陵君は皆な昭王の同母弟なり。穣侯相たり、三人の者は更に将たり、封邑有り、太后の故を以て、私家の富は王室に重し。及んで穣侯が秦の将たり、将に韓・魏を越えて斉の綱・寿を伐たんとし、以て其の陶の封を広めんと欲す。范雎乃ち上書して曰く、
ここにおいて秦の昭王は大いに喜び、王稽に謝し、伝車を用いて范睢を召し寄せた。
范睢はここにして離宮において謁見を得、永巷を知らぬふりをしてその中に入った。王が来ると宦者が怒り、彼を追い立てて言うには、「王がおいでだ」。范睢はわざと間違えて言うには、「秦にどうして王がおられよう。秦にはただ太后と穰侯がおられるだけだ」と。これをもって昭王を憤慨させようとした。昭王は至り、彼が宦者と言い争っているのを聞き、すなわち迎え入れて謝して言うには、「寡人は身をもってご教示を受けるべきであったのに長らく及ばず、たまたま義渠の事が急であり、寡人は朝夕太后に自ら請うていた。今、義渠の事はすでに済み、寡人はようやくご教示を受けることができた。ひそかに愚鈍であることを憂え、謹んで賓主の礼を執る」。范睢は辞譲した。この日、范睢の謁見を見た者は、群臣の中で粛然として顔色を変えなかった者はなかった。
秦王は左右の者を退け、宮中は空しく人無し。秦王は跪いて請うて曰く、「先生は何を以てか幸ひに寡人を教え給うか」と。范睢曰く、「唯唯」と。しばらく有りて、秦王また跪いて請うて曰く、「先生は何を以てか幸ひに寡人を教え給うか」と。范睢曰く、「唯唯」と。かくの如きこと三たびす。秦王跪いて曰く、「先生つひに幸ひに寡人を教え給わざるか」と。范睢曰く、「敢えて然るに非ざるなり。臣聞く、昔者呂尚の文王に遇えるや、身は漁父たりて渭濱に釣るのみ。かくの如きは、交疏なり。既に説きて立ちて太師と為り、載せて俱に帰る者は、其の言深きなり。故に文王遂に功を呂尚に収めて卒に天下に王たる。向使ひ文王呂尚を疏んじて深き言を与えざりせば、是れ周に天子の徳無く、文武其の王業を成すに与かる無からん。今臣は羈旅の臣なり、王に交疏にして、願わくは陳ぶる所は皆君を匡むるの事、人の骨肉の間に処り、願わくは愚忠を效さんと欲すれども未だ王の心を知らず。此れ王三たび問いて敢えて対えざる所以なり。臣畏るる有りて敢えて言わざるに非ず。臣知る、今日前に之を言いて明日後に誅せらるるを、然れども臣敢えて避けざるなり。大王臣の言を行なうを信ぜば、死は以て臣の患と為すに足らず、亡は以て臣の憂と為すに足らず、漆を身に為して厲と為し髪を被いて狂と為すも以て臣の恥と為すに足らず。且つ五帝の聖も焉んぞ死せず、三王の仁も焉んぞ死せず、五伯の賢も焉んぞ死せず、烏獲・任鄙の力も焉んぞ死せず、成荊・孟賁・王慶忌・夏育の勇も焉んぞ死せず。死者は、人の必ず免れざる所なり。必然の勢に処りて、少しく秦に補う有るべし、此れ臣の大願する所なり、臣又何ぞ患えんや。伍子胥は橐に載せられて昭関を出で、夜行き晝伏し、陵水に至り、其の口を糊するに以て無く、厀行き蒲伏し、稽首し肉袒し、腹を鼓し篪を吹き、呉市に食を乞い、卒に呉国を興し、闔閭をして伯たらしむ。臣を得て謀を尽くすこと伍子胥の如くせしめ、之に幽囚を加え、終身復た見えざらしむとも、是れ臣の説行なわるるなり、臣又何ぞ憂えん。箕子・接輿は漆を身に為して厲と為し、髪を被いて狂と為すも、主に益無し。仮使ひ臣を得て箕子と行を同じくせしめ、以て賢とする所の主に補う有らしむるを得ば、是れ臣の大栄なり、臣何の恥か有らん。臣の恐るる所は、独り臣の死したる後に、天下の臣の忠を尽くして身死するを見、因りて是れを以て口を杜ぎ足を裹き、肯て秦に向かわざるを恐るるのみ。足下は上には太后の厳を畏れ、下には姦臣の態に惑わされ、深宮の中に居りて、阿保の手を離れず、終身迷惑し、姦を昭らかにする者無し。大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危す、此れ臣の恐るる所なり。若し夫れ窮辱の事、死亡の患は、臣敢えて畏れず。臣死して秦治まらば、是れ臣の死する生くるに賢るるなり」と。秦王跪いて曰く、「先生は是れ何の言ぞ。夫れ秦国は辟遠にして、寡人は愚不肖なり、先生乃ち幸ひに辱く此れに至るは、是れ天の寡人を以て先生を慁しめて先王の宗廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くを得るは、是れ天の先王を幸ひし、而して其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞかくの如きを言う。事大小無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願わくは先生悉く以て寡人を教え、寡人を疑うこと無かれ」と。范睢拝し、秦王も亦拝す。
范雎曰く、「大王の国は、四方に要害を以て固く、北には甘泉・谷口あり、南は涇・渭を帯び、右に隴・蜀、左に関・阪あり、奮撃百万、戦車千乗、利あれば則ち出て攻め、利なければ則ち入りて守る。これ王者の地なり。民は私闘に怯えて公戦に勇む。これ王者の民なり。王はこの二つを併せて之を有つ。夫れ秦卒の勇、車騎の衆を以て諸侯を治むるは、譬えば韓盧を施して蹇兔を搏つが若し。霸王の業は致すべし。然るに群臣その位に当たる者なし。今に至るまで関を閉ざすこと十五年、敢えて山東に兵を窺わざるは、是れ穣侯の秦の為に謀りて忠ならず、而して大王の計に失あるが故なり」と。秦王跽いて曰く、「寡人願わくは失計を聞かん」と。
然るに左右窃かに聴く者多し。范雎恐れ、未だ内を言うことを敢えず、先ず外事を言いて、以て秦王の俯仰を観る。因りて進みて曰く、「夫れ穣侯、韓・魏を越えて斉の綱寿を攻むるは、計に非ざるなり。師を少しく出せば則ち斉を傷つくるに足らず、師を多く出せば則ち秦に害あり。臣、王の計を意うに、師を少しく出して韓・魏の兵を悉くせんと欲するならんか、則ち義ならざるなり。今、与国との親しまざるを見るに、人の国を越えて攻むるは、可ならんや。其れ計に於いて疏なり。且つ昔、斉の湣王南に楚を攻め、軍を破り将を殺し、再び地を千里辟くも、而して斉は尺寸の地を得ること無し。豈に地を得んと欲せざらんや、形勢能く有することあたわざるなり。諸侯斉の罷獘、君臣の和せざるを見て、兵を興して斉を伐ち、大いに之を破る。士辱し兵頓き、皆其の王を咎めて曰く、『誰か此の計を為す者ぞ』と。王曰く、『文子之を為す』と。大臣乱を作り、文子出走す。斉を攻めて大いに破るる所以の者は、其れ楚を伐ちて韓・魏を肥やすが故なり。此れ所謂賊に兵を借りて盗に糧を齎す者なり。王は遠く交わりて近く攻むるに如かず。寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば亦た王の尺なり。今此れを釈きて遠く攻むるは、亦た繆からずや。且つ昔者、中山の国地の方五百里、趙独り之を吞み、功成り名立ちて利附き、天下能く之を害する者莫し。今夫れ韓・魏は、中国の処にして天下の枢なり。王其れ覇たらんと欲せば、必ず中国に親しみて以て天下の枢と為し、以て楚・趙を威すべし。楚強ければ則ち趙に附き、趙強ければ則ち楚に附く。楚・趙皆附かば、斉必ず懼る。斉懼れば、必ず卑辞重幣を以て秦に事えん。斉附かば而して韓・魏因りて虜とすべし」と。昭王曰く、「吾魏に親しまんと欲すること久し。然るに魏は多変の国なり。寡人親しむ能わず。請う魏に親するを奈何にせん」と。対えて曰く、「王卑辞重幣を以て之に事え。不可ならば、則ち地を割きて之に賂う。不可ならば、因りて兵を挙げて之を伐つ」と。王曰く、「寡人命を聞くことを敬す」と。乃ち范雎を拝して客卿と為し、兵事を謀らしむ。卒に范雎の謀を聴き、五大夫綰をして魏を伐たしめ、懐を抜く。後二歳、邢丘を抜く。
客卿范雎復た昭王に説いて曰く、「秦韓の地形、相錯えること繡の如し。秦の韓を有つは、譬えば木の蠹を有するが若く、人の心腹の病を有するが若し。天下変無ければ則ち已む。天下変有れば、其れ秦の患いと為るや、孰か韓より大なるものあらん。王は韓を収むるに如かず」と。昭王曰く、「吾固より韓を収めんと欲す。韓聴かず、之を為すを奈何にせん」と。対えて曰く、「韓安んぞ聴かざるを得んや。王兵を下して滎陽を攻めば、則ち鞏・成皋の道通ぜず。北に太行の道を断てば、則ち上党の師下らず。王一たび兵を興して滎陽を攻めば、則ち其の国断たれて三と為らん。夫れ韓必ず亡ぶを見れば、安んぞ聴かざるを得ん。若し韓聴かば、而して覇事因りて慮うべし」と。王曰く、「善し」と。且つ将に韓に使を発せんと欲す。
范睢は日に日に親しくされ、数年を経て再び説き、機会を窺って言うには、「臣が山東にいた時、斉には田文がいるとは聞いたが、王がいるとは聞かなかった。秦には太后・穰侯・華陽・高陵・涇陽がいるとは聞いたが、王がいるとは聞かなかった。国を専断するのを王といい、利害を決するのを王といい、生殺の威を制するのを王という。今、太后は勝手に振る舞って顧みず、穰侯は使者を出しても報告せず、華陽・涇陽らは裁断を下して憚らず、高陵は進退を請わない。四貴が揃って国が危うくならないことは、かつてない。この四貴の下にいるのでは、いわゆる王無き状態である。ならば権力が傾かず、命令が王から出るようになるだろうか。臣は聞く、国をよく治める者は、内にその威を固め、外にその権を重んじるという。穰侯の使者は王の重みを握り、諸侯を裁断し、天下に符を割き、征伐して国を討つに、敢えて従わぬ者はない。戦勝して攻め取れば利益は陶に帰し、国の疲弊は諸侯に及ぶ。戦いに敗れれば民に怨みを結び、災いは社稷に帰する。『詩』に『木の実の繁る者はその枝を披き、枝を披く者はその心を傷つく。都を大きくする者は国を危うくし、臣を尊ぶ者は主を卑しむ』とある。崔杼・淖歯が斉を管轄し、王の股を射、王の筋を引き抜き、廟の梁に吊るして一晩で死なせた。李兌が趙を管轄し、主父を沙丘に囚え、百日にして餓死させた。今、臣が聞くところでは、秦の太后・穰侯が権力を握り、高陵・華陽・涇陽がこれを補佐し、ついに秦王は無きに等しい。これもまた淖歯・李兌の類である。そもそも三代が国を亡ぼした所以は、君が政権を授け、酒に耽り馳せて狩猟し、政事を聴かず、授けられた者が賢を妬み能を嫉み、下を抑え上を蔽い、私利を成し、主のためを計らず、主が悟らなかったため、国を失ったのである。今、有秩以上から諸大吏に至り、下は王の左右に及ぶまで、相国の人でない者はない。王が朝廷に孤立しているのを見て、臣はひそかに王のため恐れる。万世の後、秦国を持つ者は王の子孫ではないであろう」。昭王はこれを聞いて大いに懼れ、「善し」と言った。ここにおいて太后を廃し、穰侯・高陵・華陽・涇陽君を関外に追放した。秦王は范睢を相に任じた。穰侯の印を収め、陶に帰らせ、県官に命じて車牛を供給して移住させた。千乗余りに及んだ。関に至ると、関はその宝器を検閲したが、宝器の珍奇なものは王室より多かった。
秦は范睢を応に封じ、応侯と号した。この時は、秦の昭王四十一年である。
范睢が秦の相となると、秦では張禄と称したが、魏は知らず、范睢はすでに久しく死んだと思っていた。魏は秦が東に韓・魏を伐たんとするのを聞き、須賈を秦に遣わした。范睢はこれを聞き、微行して、ぼろ衣を着て邸に歩いて行き、須賈に会った。須賈はこれを見て驚き、「范叔はもとより無事であったか」と言った。范睢は「そうです」と言った。須賈は笑って、「范叔は秦で説き事があるのか」と言った。范睢は「いいえ、睢は先日魏の相に罪を得たので、ここに逃げて来たのです。どうして敢えて説き事などできましょうか」と言った。須賈は「今、叔は何事をしているのか」と言った。范睢は「臣は人の雇われ人です」と言った。須賈は哀れに思い、留めて座らせ飲食し、「范叔はかくも貧しいのか」と言い、そこで一つの綈袍を取って賜った。須賈はそこで問うて言った、「秦の相の張君を、公は知っているか。私は聞く、王に寵愛され、天下の事はすべて相君が決めると。今、私の事の去就は張君にある。そなたには相君に通じた客がいるのか」。范睢は「主人がよく知っています。ただ睢も謁見できますので、睢が張君に君を会わせて差し上げましょう」と言った。須賈は「私の馬は病み、車軸は折れている。大車と四頭立ての馬でなければ、私は固より出かけられない」と言った。范睢は「主人から大車と四頭立ての馬を借りて差し上げましょう」と言った。
范雎は帰って大車と駟馬を取ると、須賈のためにこれを御して、秦の相府に入った。府中でこれを見ると、知っている者は皆避けて隠れた。須賈はこれを怪しんだ。相の邸宅の門に至り、須賈に謂うには、「我を待たれよ、我は君のために先に入り相君に通じよう」と。須賈は門下で待ち、車を支えて久しくして、門下に問うて曰く、「范叔が出て来ないのは、何故か」と。門下曰く、「范叔などはいない」と。須賈曰く、「先ほど我と共に車に乗って入った者である」と。門下曰く、「それは我が相の張君である」と。須賈は大いに驚き、自ら売られたことを知り、乃ち肉袒して膝行し、門下の人に因って謝罪した。ここにおいて范雎は盛んに帷帳を張り、侍る者甚だ多く、これを見た。須賈は頓首して死罪を言い、曰く、「賈は君が自ら青雲の上に至ることを思いもよらず、賈は敢えて再び天下の書を読まず、敢えて再び天下の事に関わらぬ。賈には湯鑊の罪あり、請うて自ら胡貉の地に屏するを、唯君の死生をこれに任す」と。范雎曰く、「汝の罪は幾つあるか」と。曰く、「賈の髪を抜きて賈の罪に継ぎても、未だ足らざるべし」と。范雎曰く、「汝の罪は三つあるのみ。昔、楚の昭王の時に申包胥が楚のために呉軍を退けた。楚王はこれに荊五千戸を封ぜんとしたが、包胥は辞して受けず、丘墓を荊に寄せるが故であった。今、睢の先人の丘墓もまた魏にある。公は前に睢が斉に外心ありとして魏齊に睢を悪しざまに言った。これ公の罪の一である。魏齊が我を厠中で辱めた時、公は止めなかった。これ罪の二である。更に酔って我に小便をかけた。公は何と忍びたることか。これ罪の三である。然れども公の死なずに済んだ所以は、綈袍を贈りて恋々たる、故人の意あるが故に、公を釈するのである」と。乃ち謝して罷めさせた。入って昭王に言い、須賈を帰らせた。
須賈が范雎に辞去しようとすると、范雎は大いに供具を設け、諸侯の使者をことごとく招き、堂上に坐らせ、飲食は甚だ設けられた。そして須賈を堂下に坐らせ、その前に莝豆を置き、二人の黥徒に挟ませて馬のように食わせた。数えて曰く、「我のために魏王に告げよ、急ぎ魏齊の首を持って来い。然らざれば、我は将に大梁を屠らん」と。須賈は帰り、これを以て魏齊に告げた。魏齊は恐れ、亡走して趙に逃れた。平原君の所に匿れた。
范雎が既に相となると、王稽が范雎に謂うには、「事には知り得ぬことが三つあり、如何ともし難いこともまた三つある。宮車一日晏駕すること、これ事の知り得ぬ一である。君が卒然に館舎を捐つること、これ事の知り得ぬ二である。使臣が卒然に溝壑に填まること、これ事の知り得ぬ三である。宮車一日晏駕すれば、君は臣を恨むとも、如何ともし難い。君が卒然に館舎を捐てば、君は臣を恨むとも、また如何ともし難い。使臣が卒然に溝壑に填まれば、君は臣を恨むとも、また如何ともし難い」と。范雎は快からず、乃ち入って王に言うには、「王稽の忠なくば、臣を函谷関に内す能わず。大王の賢聖なくば、臣を貴ぶ能わず。今、臣の官は相に至り、爵は列侯に在る。王稽の官は尚だ謁者に止まる。これ臣を内したるの意に非ざるなり」と。昭王は王稽を召し、河東守に拝し、三歳上計せしめず。又、鄭安平を任じ、昭王はこれを将軍と為す。范雎はここに家財物を散じ、尽く以て嘗て困厄したる者に報いた。一飯の徳も必ず償い、睚眥の怨みも必ず報いた。
范雎が秦の相となって二年、秦の昭王の四十二年、東に韓の少曲・高平を伐ち、これを抜いた。
秦の昭王は魏斉が平原君のところにいることを聞き、范雎のために必ずその仇を報じようと欲し、そこで偽って好意的な書簡を平原君に送って言った、「寡人は君の高義を聞き、君と布衣の友たらんことを願う。君幸いに寡人を訪ねてくれれば、寡人は君と十日間の酒宴を共にしたい」。平原君は秦を畏れ、またその通りだと思い、秦に入って昭王に会った。昭王は平原君と数日間酒を飲み、昭王は平原君に言った、「昔、周の文王は呂尚を得て太公とし、斉の桓公は管夷吾を得て仲父とした。今、范君もまた寡人の叔父である。范君の仇は君の家にある。人をやってその首を持ち帰らせてほしい。そうでなければ、寡人は君を関から出さない」。平原君は言った、「貴い身分で交わりを結ぶのは、賤しい時のためであり、富んで交わりを結ぶのは、貧しい時のためである。そもそも魏斉は勝(平原君)の友である。いるならば、決して出さないし、今また臣のところにはいない」。昭王はそこで趙王に書簡を送った、「王の弟が秦におり、范君の仇の魏斉が平原君の家にいる。王は人をやって急いでその首を持って来させよ。そうでなければ、わが兵を挙げて趙を伐ち、また王の弟を関から出さない」。趙の孝成王は兵を発して平原君の家を包囲した。危急に及び、魏斉は夜逃げ出し、趙の相である虞卿に会った。虞卿は趙王が結局説得できないと見極め、その相印を解き、魏斉と共に逃亡し、ひそかに行き、諸侯の中で急難を頼れる者はないと考え、再び大梁へ走り、信陵君を頼って楚へ逃げようとした。信陵君はこれを聞き、秦を畏れ、躊躇して会おうとせず、言った、「虞卿とはどのような人物か」。その時、侯嬴が傍らにいて言った、「人はそもそも容易に知り難く、人を知ることもまた容易ではない。そもそも虞卿は草鞋を履き、笠を担いで、一度趙王に会えば白璧一対を賜り、黄金百鎰を賜った。二度目には上卿に任ぜられ、三度目にはついに相印を受け、万戸侯に封ぜられた。この時、天下は争って彼を知ろうとした。魏斉が窮地に陥って虞卿を訪ねると、虞卿は重い爵禄の尊さを顧みず、相印を解き、万戸侯を捨ててひそかに行った。士の窮状を救って公子のもとに帰ってきたのに、公子は『どのような人物か』と言われる。人はそもそも容易に知り難く、人を知ることもまた容易ではない」。信陵君は大いに恥じ、車を走らせて郊外に出迎えた。魏斉は信陵君が初め会うのを難くしたと聞き、怒って自刎した。趙王はこれを聞き、ついにその首を取って秦に与えた。秦の昭王はそこで平原君を出して趙に帰らせた。
昭王四十三年、秦は韓の汾陘を攻め、これを抜き、河上の広武に城を築いた。
その後五年、昭王は応侯の謀を用い、反間の計を放って趙を売り、趙はその故をもって、馬服子(趙括)に廉頗に代わって将とさせた。秦は長平で趙を大破し、ついに邯鄲を包囲した。やがて武安君白起と不和があり、讒言してこれを殺させた。鄭安平を任用し、趙を攻撃させた。鄭安平は趙に包囲され、危急に陥り、兵二万人を率いて趙に降った。応侯は藁の上に座って罪を請うた。秦の法では、人を任用してその任用した者が不善である場合、それぞれその罪によって任用者を罰する。ここにおいて応侯の罪は三族を収めるに当たった。秦の昭王は応侯の気持ちを傷つけるのを恐れ、国中に令を下した、「敢えて鄭安平の事を言う者は、その罪によって罰する」と。そして相国応侯に賜る食物を日増しに厚くして、その気持ちを和らげようとした。後二年、王稽が河東太守となり、諸侯と内通し、法に坐して誅殺された。そして応侯は日増しに快く思わなくなった。
昭王が朝廷で嘆息すると、応侯が進み出て言った、「臣は聞きます、『主君が憂えれば臣は辱めを受け、主君が辱めを受ければ臣は死ぬ』と。今、大王が朝廷で憂えておられます。臣は敢えてその罪を請います」。昭王は言った、「わしは聞く、楚の鉄剣は鋭いが、俳優は拙いと。鉄剣が鋭ければ士は勇み、俳優が拙ければ思慮は遠大になる。遠大な思慮をもって勇士を統御するなら、わしは楚が秦を謀ることを恐れる。物事は普段から備えていなければ、突然の事態に対応できない。今、武安君は既に死に、鄭安平らは背き、内には良将がおらず、外には敵国が多い。わしはこのゆえに憂えるのだ」。応侯を激励しようとしたのである。応侯は恐れ、どうしてよいかわからなかった。蔡沢はこれを聞き、秦に入って行った。
蔡澤
蔡澤は燕の人である。諸侯に遊学して仕官を求めたが、大小多くを歴訪しても、遇されなかった。そこで唐挙に相を請うた。曰く、「先生が李兌の相を見て『百日の内に国柄を執る』と言ったと聞くが、果たしてあったか」と。曰く、「あった」と。曰く、「臣のような者はどうか」と。唐挙は熟視して笑い、「先生は曷鼻、巨肩、魋顔、蹙齃、膝攣である。聖人は相がないと聞くが、まさに先生のことではなかろうか」と言った。蔡澤は唐挙が自分をからかっていると知り、乃ち言った。「富貴は我が自ら持つところ、我が知らざる所は寿である。願わくばそれを聞きたい」と。唐挙が曰く、「先生の寿は、今より以後四十三歳である」と。蔡澤は笑って謝して去り、その御者に謂って曰く、「我は梁を持ち歯を刺して肥え、馬を躍らせて疾く駆け、黄金の印を懐にし、紫の綬を腰に結び、人主の前に揖譲し、肉を食らい富貴となる。四十三年で足りる」と。趙に去り、逐われる。韓・魏に至り、途上で釜鬲を奪われる。応侯が鄭安平・王稽を任用し、皆秦において重罪を負い、応侯は内心慚じていると聞き、蔡澤は乃ち西に入って秦に向かった。
将に昭王に謁見せんとし、人を使わして宣言させ、応侯を感怒させようとして曰く、「燕の客蔡澤は、天下の雄俊にして弘弁の智士である。彼が一度秦王に謁見すれば、秦王は必ずや君を困らせて君の位を奪うであろう」と。応侯は聞いて曰く、「五帝三代の事、百家の説、我は既に知っている。衆口の弁論も、我は皆これを摧く。これどうして我を困らせて我が位を奪うことができようか」と。人をやって蔡澤を召す。蔡澤が入ると、則ち応侯に揖す。応侯は元より快からず、及び彼に会うと、又傲慢であった。応侯は因って彼を譲って曰く、「子は嘗て宣言して我に代わって秦の相たらんと欲したと聞くが、果たしてあったか」と。対えて曰く、「然り」と。応侯曰く、「請う、その説を聞かん」と。蔡澤曰く、「ああ、君は何と見るのが遅いことか。夫れ四時の順序は、成功したる者は去る。人の生において百体堅強、手足便利、耳目聡明にして心聖智ならんことは、豈に士の願いではなかろうか」と。応侯曰く、「然り」と。蔡澤曰く、「質仁にして義を秉り、道を行い徳を施し、天下に志を得、天下が楽み敬愛して尊慕し、皆君王と為さんことを願うならば、豈に弁智の期する所ではなかろうか」と。応侯曰く、「然り」と。蔡澤復た曰く、「富貴顕栄、万物を理め成し、各々その所を得せしめ、性命寿長、その天年を終えて夭傷せず、天下その統を継ぎ、その業を守り、これを伝えて窮まり無く、名実純粋にして、沢は千里に流れ、世々これを称えて絶えること無く、天地と終始するならば、豈に道德の符であり聖人の所謂吉祥善事ではなかろうか」と。応侯曰く、「然り」と。
蔡澤曰く、「若し夫れ秦の商君、楚の呉起、越の大夫種の、その卒然たる(最期の)有様もまた願うべきか」と。応侯は蔡澤が説をもって己を困らせんと欲することを知り、復た謬って曰く、「何を以て不可とせん。夫れ公孫鞅が孝公に事えたるは、身を極めて二心無く、公に尽くして私を顧みず、刀鋸を設けて姦邪を禁じ、賞罰を信じて治を致し、腹心を披き、情素を示し、怨咎を蒙り、旧友を欺き、魏の公子卬を奪い、秦の社稷を安んじ、百姓を利し、遂に秦のために将を禽え敵を破り、地を攘うこと千里。呉起が悼王に事えたるは、私をして公を害せしめず、讒をして忠を蔽わしめず、言は苟も合うことを取らず、行いは苟も容れることを取らず、危険の為に行いを易えず、義を行なうに難を避けず、然して霸主強国たらしめ、禍凶を辞さず。大夫種が越王に事えたるは、主は困辱するも、忠を悉くして懈らず、主は絶亡するも、能を尽くして離れず、成功して矜らず、貴富にして驕怠せず。この三子の如きは、固より義の至り、忠の節である。是の故に君子は義のために難に死し、死を見ること帰するが如くす。生けて辱しめらるるは死して栄ゆるに如かず。士は固より身を殺して名を成すあり。義の在る所と雖も、死すとも恨む所無し。何を以て不可とせんや」と。
蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の盛福なり。君明にして臣直なるは、国の福なり。父慈にして子孝なるは、夫信にして妻貞なるは、家の福なり。故に比干は忠なれども殷を存すること能わず、子胥は智なれども呉を完うすること能わず、申生は孝なれども晋国乱る。是れ皆忠臣孝子有りながら、国家滅び乱るる者は、何ぞや。明君賢父無くして之を聴くことなきが故なり。故に天下其の君父を僇辱と為し、其の臣子を憐れむ。今、商君・呉起・大夫種の臣たるは、是なり。其の君は、非なり。故に世三子の功を致すを称えながら、徳を見ざるは、豈に世に遇わずして死するを慕わざるや。夫れ死を待ちて後に忠を立て名を成すべきを以てするは、是れ微子仁に足らず、孔子聖に足らず、管仲大に足らざるなり。夫人の功を立つるは、豈に成全を期せざらんや。身と名と倶に全き者は、上なり。名法ぶべきにして身死する者は、其の次なり。名僇辱に在りて身全き者は、下なり」と。ここにおいて応侯善しと称す。
蔡澤は少し隙を得て、因みに言う、「商君・呉起・大夫種は、その人臣として忠を尽くし功を致すことについては願わしいものではあるが、閎夭が文王に仕え、周公が成王を補佐したことは、これまた忠聖ではなかったと言えようか。君臣の論で言えば、商君・呉起・大夫種の願わしさは、閎夭・周公と比べてどうであろうか」と。応侯は言う、「商君・呉起・大夫種は及ばない」と。蔡澤は言う、「では、君の主君は慈仁にして忠臣を任用し、旧故を惇厚にし、その賢智と有道の士とは膠漆の如く、義をもって功臣に背かず、秦の孝公・楚の悼王・越王と比べてどうであろうか」と。応侯は言う、「どうであるか分からない」と。蔡澤は言う、「今の主君が忠臣を親しむことは、秦の孝公・楚の悼王・越王を超えず、君が智を設けて、主君のために安危を修め政を治め、乱を治め兵を強くし、患を批き難を折り、地を広げ穀を殖やし、国を富ませ家を足らしめ、主君を強くし、社稷を尊び、宗廟を顕わし、天下に敢えてその主君を欺き犯す者なく、主君の威は海内を震わせ、功は万里の外に彰け、声名光輝は千世に伝わる、君は商君・呉起・大夫種と比べてどうであろうか」と。応侯は言う、「及ばない」と。蔡澤は言う、「今の主君が忠臣を親しみ旧故を忘れぬことは孝公・悼王・句踐に及ばず、しかるに君の功績と愛信親幸はまた商君・呉起・大夫種に及ばない。しかしながら君の禄位貴盛、私家の富は三子を過ぎているのに、身を退かぬのは、恐らく患いは三子より甚だしいであろう、ひそかに君の危うきを思う。語に曰く『日中なれば則ち移り、月満ちれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰う、これ天地の常の数である。進退盈縮、時とともに変化する、これ聖人の常の道である。故に『国に道あれば則ち仕え、国に道なれば則ち隠る』と。聖人は曰く『飛龍天に在り、大人を見るに利あり』と。『義に非ずして富み且つ貴きは、我において浮雲の如し』と。今、君の怨みは既に報いられ、恩は既に報いられ、意は至ったが、変計が無いのは、ひそかに君の取らざる所と思う。そもそも翠・鵠・犀・象は、その処勢死を遠ざけぬにあらず、しかるに死する所以は、餌に惑うからである。蘇秦・智伯の智は、辱を避け死を遠ざけるに足らぬにあらず、しかるに死する所以は、貪利に惑いて止まぬからである。ここをもって聖人は礼を制し欲を節し、民に取るに度あり、これを使うに時を以てし、これを用いるに止めあり、故に志溢れず、行驕らず、常に道と倶にして失わず、故に天下承けて絶えず。昔、斉の桓公は九たび諸侯を合し、一たび天下を匡うし、葵丘の会に至って、驕矜の志あり、畔く者九国あり。呉王夫差は兵天下に敵無く、勇強をもって諸侯を軽んじ、斉・晋を陵ぎ、故に遂に身を殺し国を亡ぼす。夏育・太史噭は叱呼して三軍を駭かすも、しかるに身は庸夫に死す。これらは皆、至盛に乗じて道理に返らず、卑退に居り儉約に処せぬ患いである。そもそも商君は秦の孝公のために法令を明らかにし、姦の本を禁じ、爵を尊び必ず賞し、罪あれば必ず罰し、権衡を平らかにし、度量を正しくし、軽重を調え、阡陌を決裂し、もって生民の業を静めてその俗を一にし、民を勧めて耕農し土を利し、一室に二事無く、田に力を尽くし積み蓄え、戦陳の事を習わしむ。ここをもって兵動けば地広く、兵休めば国富み、故に秦は天下に敵無く、威を諸侯に立て、秦国の業を成す。功は既に成ったが、遂に車裂きにされる。楚の地は方数千里、戟を持つ者百万、白起は数万の師を率いて楚と戦い、一戦にして鄢・郢を挙げて夷陵を焼き、再戦して南は蜀・漢を併す。また韓・魏を越えて強趙を攻め、北は馬服を阬い、誅屠すること四十余万の衆、ことごとく長平の下に尽くし、流血川を成し、沸く声雷の如く、遂に邯鄲を囲み、秦に帝業あらしむ。楚・趙は天下の強国にして秦の仇敵なり、これより後、楚・趙皆慴伏して敢えて秦を攻めざるは、白起の勢いである。身の服する所七十余城、功は既に成ったが、遂に剣を賜い杜郵に死す。呉起は楚の悼王のために法を立て、大臣の威重を卑減し、無能を罷め、無用を廃し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚国の俗を一にし、游客の民を禁じ、耕戦の士を精しくし、南は楊越を収め、北は陳・蔡を併し、横を破り従を散じ、馳説の士にその口を開く所無からしめ、朋党を禁じて百姓を励まし、楚国の政を定め、兵は天下を震わし、威は諸侯を服す。功は既に成ったが、遂に枝解される。大夫種は越王のために深謀遠計し、会稽の危を免れ、亡を以て存と為し、辱に因りて栄と為し、草を墾きて邑に入り、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率い、上下の力を専らにし、句踐の賢を輔け、夫差の讎を報い、遂に勁呉を擒える。越をして覇を成さしむ。功は既に彰け信じられたが、句踐は終に背いてこれを殺す。この四子は、功成りて去らず、禍ここに至る。これ所謂、信じて詘することができず、往いて返ることができない者である。范蠡はこれを知り、超然として世を辟け、長く陶朱公と為る。君は独り博奕をする者を見ないか。或いは大いに投げんと欲し、或いは功を分かたんと欲する、これらは皆君の明らかに知る所である。今、君は秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でず、坐して諸侯を制し、利を三川に施し、もって宜陽を実にし、羊腸の険を決し、太行の道を塞ぎ、また范・中行の途を斬り、六国をして合従を得させず、棧道千里、蜀漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所は得られ、君の功は極まった。これまた秦の功を分かつ時である。この如くにして退かざれば、則ち商君・白公・呉起・大夫種のようになる。私は聞く、『水に鑑る者は面の容を見、人に鑑る者は吉と凶を知る』と。書に曰く『成功の下は、久しく処るべからず』と。四子の禍、君は何に居るのか。君は何ぞこの時に相印を帰し、賢者に譲ってこれを授けず、退いて巖に居り川を観、必ず伯夷の廉有り、長く応侯と為り、世々孤を称え、許由・延陵季子の譲り有り、喬松の寿を得んには、禍を以て終わることと比べてどうであろうか。即ち君は何に居るのか。忍んで自ら離れることができず、疑って自ら決することができなければ、必ず四子の禍がある。《易》に曰く『亢龍悔い有り』と、これは上って下ることができず、信じて詘することができず、往いて自ら返ることができない者を言うのである。願わくは君よくこれを計らわれよ」と。応侯は言う、「善い。私は聞く、『欲して足るを知らざれば、その欲する所以を失い、有りて止むを知らざれば、その有する所以を失う』と。先生幸いに教う、睢謹んで命を受く」と。ここにおいて乃ち入を延いて坐らせ、上客と為す。
数日後、朝廷に入り、秦の昭王に言うには、「客で新たに山東から来た者がおり、蔡澤と申します。その人は弁士で、三王の事跡、五伯の業績、世俗の変遷に明るく、秦国の政事を委ねるに足ります。臣が見た人は非常に多いですが、彼に及ぶ者はなく、臣は彼に及びません。敢えて申し上げます」と。秦の昭王は召し出して語らうと、大いに喜び、客卿に任じた。応侯(范睢)は病と称して相印の返上を請うた。昭王は強いて応侯を起用しようとしたが、応侯は遂に病と称して篭った。范睢は丞相を免ぜられ、昭王は新たに蔡澤の計画を喜び、遂に秦の丞相に任じ、東の周室を収めた。
蔡澤が秦の丞相となって数か月、ある人が彼を憎み、誅殺を恐れて、病と称して相印を返上し、綱成君と号した。秦に十数年留まり、昭王、孝文王、莊襄王に仕えた。始皇帝に仕えることとなり、秦の使者として燕に赴き、三年にして燕は太子丹を人質として秦に入れた。
評論
太史公曰く、韓子が「長袖は舞い善くし、多錢は商い善くす」と言うのは、誠にこの言葉は真なり。范睢、蔡澤は世に言うところの一切の弁士であるが、諸侯を遊説して白髪になるまで遇わなかったのは、計策が拙かったのではなく、説く力が少なかったのである。二人が旅人として秦に入り、踵を継いで卿相を取り、功を天下に垂れたのは、固より強弱の勢いが異なっていたからである。然れども士にも偶合あり、賢者は多くこの二子の如き者であって、意を尽くすを得ず、どうして言い尽くせようか。然れども二子が困窮しなければ、どうして奮起できたであろうか。
【索隱述贊】応侯始めて困し、車に託して西行し、説行き計立ち、貴きは平らぎ寵は稽かる。秦に倚りて趙を市い、卒いに魏齊に報ゆ。綱成弁智、范睢は招き携う。勢利傾き奪い、一言にして蹊を成す。