巻079

史記

巻七十九 范睢蔡澤列傳 第十九

范睢

范睢は魏の人なり、字は叔。諸侯に遊説し、魏王に仕えんと欲すれども、家貧しくして自ら資するに足らず、乃ち先ず魏の中大夫須賈に事ふ。

須賈、魏昭王の為に斉に使いするに、范睢従ふ。数ヶ月留まるも、報を得ず。斉襄王、睢の弁口なるを聞き、乃ち人をして睢に金十斤及び牛酒を賜はらしむ。睢辞謝して敢へて受けず。須賈之を知り、大いに怒り、睢が魏国の陰事を斉に告げたるを以て、故に此の饋を得たりと為し、睢に其の牛酒を受けしめ、其の金を還さしむ。既に帰りて、心に睢を怒り、以て魏の相に告ぐ。魏の相は、魏の諸公子にして、魏齊と曰ふ。魏齊大いに怒り、舎人をして睢を笞撃せしめ、脅を折り歯を摺る。睢死せるに詳ひ、即ち簀を以て巻き、廁中に置く。賓客の飲む者酔ひ、更に睢に溺し、故に僇辱して以て後に懲らしめ、妄言する者無からしめんとす。睢簀中より守者に謂ひて曰く、「公能く我を出ださば、我必ず厚く公に謝せん。」守者乃ち出だして簀中の死人を棄てんことを請ふ。魏齊酔ひて曰く、「可なり。」范睢出づるを得。後魏齊悔ひ、復た召して之を求む。魏人鄭安平之を聞き、乃ち遂に范睢を操りて亡び、伏匿し、名姓を更めて張祿と曰ふ。

此時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平卒と詐り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人、与に倶に西に游ぶべき者有るか。」鄭安平曰く、「臣の里中に張祿先生有り、君に見えんと欲し、天下の事を言はんとす。其の人仇有り、敢へて昼に見えず。」王稽曰く、「夜に与に倶に来れ。」鄭安平夜に張祿と王稽に見ゆ。語未だ究まらず、王稽范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生我を三亭の南に待て。」と。私に約して去る。

王稽魏を辞して去り、過ぎて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来るを見る。范睢曰く、「彼来る者は誰ぞ。」王稽曰く、「秦の相穰侯、東に行きて県邑す。」范睢曰く、「吾聞く、穰侯秦の権を専にし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ我を辱めんことを恐る、我寧ろ且く車中に匿れん。」有りて頃く、穰侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車に立って語りて曰く、「関東に何の変有るか。」曰く、「無し。」又た王稽に謂ひて曰く、「謁君得無や諸侯の客子と倶に来らん乎。益無く、徒らに人の国を乱すのみ。」王稽曰く、「敢へず。」即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穰侯は智士なり、其の事を見るに遅し。郷者車中に人の有るを疑ひ、之を索むるを忘れたり。」是に於て范睢下車して走り、曰く、「此れ必ず之を悔まん。」十余里を行く、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無く、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。

已に使いを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張祿先生有り、天下の辯士なり。曰く『秦王の国は累卵に危し、臣を得れば則ち安し。然れども以て書伝ふべからず』と。臣故に載せて来る。」秦王信ぜず、舎して草具を食はしむ。命を待つこと歳余。

是の時に当たり、昭王既に立ちて三十六年。南に楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東に斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後之を去る。数へて三晋を困らす。天下の辯士を厭ひ、信ずる所無し。

穰侯、華陽君は、昭王の母宣太后の弟なり。而して涇陽君、高陵君は皆昭王の同母弟なり。穰侯相たり、三人の者は更に将たり、封邑有り、太后の故を以て、私家の富王室に重し。穰侯の秦の将たるに及び、且つ韓・魏を越えて斉の綱寿を伐たんと欲し、以て其の陶の封を広めんと欲す。范睢乃ち上書して曰く、

是に於て秦の昭王大いに説び、乃ち王稽に謝し、伝車を以て范睢を召さしむ。

是に於て范睢乃ち離宮に見ゆるを得、永巷を知らざるに詳ひて其の中に入る。王来たりて宦者怒り、之を逐ひて曰く、「王至る!」范睢繆ひて為して曰く、「秦安んぞ王を得ん。秦独り太后・穰侯有るのみ。」欲して以て昭王を感怒せしめんとす。昭王至り、其の宦者と争言するを聞き、遂に延ね迎へ、謝して曰く、「寡人宜しく身を以て命を受くること久し、会ふに義渠の事急なり、寡人旦暮自ら太后に請ふ。今義渠の事已に畢り、寡人乃ち命を受くを得。窃かに閔然として敏ならず、敬ひて賓主の礼を執れり。」范睢辞譲す。是の日范睢の見ゆるを観る者、群臣洒然として色を変へ容を易ふる者莫し。

秦王は左右の者を退け、宮中は空しく人無し。秦王は跪いて請うて曰く、「先生は何を以てか幸ひに寡人を教えんとするか」と。范睢曰く、「唯唯」と。しばらく有りて、秦王また跪いて請うて曰く、「先生は何を以てか幸ひに寡人を教えんとするか」と。范睢曰く、「唯唯」と。かくの如きこと三たびす。秦王跪いて曰く、「先生は終に幸ひに寡人を教えざるか」と。范睢曰く、「敢えて然るに非ざるなり。臣聞く、昔者呂尚の文王に遇えるや、身は漁父と為りて渭濱に釣るのみ。かくの如きは、交疏なり。既に説きて立ちて太師と為り、載せて俱に帰る者は、其の言深きなり。故に文王遂に功を呂尚に収めて卒に天下に王たる。向使文王呂尚を疏んじて深き言を与えざらんには、是れ周に天子の徳無く、而して文武其の王業を成すに与る者無からん。今臣は羈旅の臣なり、王と交疏く、而して願わくは陳ねんとする者は皆君を匡すの事、人の骨肉の間に処り、願わくは愚忠を效さんと欲すれども未だ王の心を知らず。此れ王三たび問いて敢えて対えざる所以なり。臣畏るる有りて敢えて言わざるに非ず。臣知る、今日前に之を言いて明日後に誅せらるるを、然れども臣敢えて避けず。大王臣の言を行なうを信ぜば、死は以て臣の患と為すに足らず、亡は以て臣の憂と為すに足らず、漆を身に塗りて癩と為り髪を被きて狂と為るも以て臣の恥と為すに足らず。且つ五帝の聖なるも焉んぞ死せず、三王の仁なるも焉んぞ死せず、五伯の賢なるも焉んぞ死せず、烏獲・任鄙の力も焉んぞ死せず、成荊・孟賁・王慶忌・夏育の勇も焉んぞ死せず。死者は、人の必ず免れざる所なり。必然の勢に処り、以て秦に少しく補う有らんは、此れ臣の大願とする所なり、臣又何ぞ患えんや。伍子胥は嚢に載せられて昭関を出で、夜行き晝伏し、陵水に至り、以て其の口を糊する無く、膝行蒲伏し、稽首肉袒し、腹を鼓き篪を吹き、呉市に乞食し、卒に呉国を興し、闔閭をして伯たらしむ。臣をして謀を尽くすことを得しめて伍子胥の如くし、之に幽囚を加え、終身復た見えざらしむるも、是れ臣の説行なわるるなり、臣又何ぞ憂えん。箕子・接輿は漆を身に塗りて癩と為り、髪を被きて狂と為り、主に益無し。仮使臣をして箕子と行ないを同じくすることを得しめ、以て賢とする所の主に補う有らんは、是れ臣の大栄とする所なり、臣何の恥有らん。臣の恐るる所の者は、独り臣の死したる後に、天下臣の忠を尽くして身死するを見、因りて是れを以て口を杜み足を裹み、肯て秦に向かわざるを恐るるのみ。足下は上は太后の厳を畏れ、下は姦臣の態に惑わされ、深宮の中に居り、阿保の手を離れず、終身迷惑し、姦を昭らかにする者無し。大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危す、此れ臣の恐るる所の耳。若し夫れ窮辱の事、死亡の患は、臣敢えて畏れず。臣死して秦治まらば、是れ臣の死する生くるに賢れるなり」と。秦王跪いて曰く、「先生は是れ何の言ぞ。夫れ秦国は辟遠にして、寡人は愚不肖なり、先生乃ち幸ひに辱しみて此れに至るは、是れ天の寡人以て先生を慁え先王の宗廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、是れ天の先王を幸ひし、而して其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言かくの如くならん。事大小無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願わくは先生悉く以て寡人を教え、寡人を疑うこと無かれ」と。范睢拝し、秦王も亦拝す。

范睢曰く、「大王の国は、四塞以て固と為し、北に甘泉・谷口有り、南は涇・渭を帯び、右は隴・蜀、左は関・阪、奮撃百万、戦車千乗、利なれば則ち出でて攻め、利あらざれば則ち入りて守る、此れ王者の地なり。民は私闘に怯えて公戦に勇む、此れ王者の民なり。王は此の二者を併せて之れ有つ。夫れ秦卒の勇、車騎の衆を以て、諸侯を治むるは、譬えば韓盧を施して蹇兔を搏つが若く、霸王の業致す可く、而して群臣其の位に当たる者莫し。今に至るまで関を閉ざすこと十五年、敢えて山東に兵を窺わざるは、是れ穣侯の秦の為に謀る忠ならざるに因り、而して大王の計に失する所有るなり」と。秦王跪いて曰く、「寡人は願わくは失計を聞かん」と。

然れども左右に窃聴する者多し、范睢恐れ、未だ内を言うことを敢えず、先ず外事を言いて、以て秦王の俯仰を観る。因りて進みて曰く、「夫れ穣侯の韓・魏を越えて斉の綱寿を攻むるは、計に非ざるなり。少しく師を出すも則ち以て斉を傷つけるに足らず、多く師を出すも則ち秦に害有り。臣意うに王の計は、少しく師を出して韓・魏の兵を悉くせんと欲するならん、則ち義ならざるなり。今与国の親しまざるを見るに、人の国を越えて攻むるは、可ならんや。其の計に於いて疏なり。且つ昔斉湣王南に楚を攻め、軍を破り将を殺し、再び地を千里辟け、而して斉は尺寸の地を得る者無し、豈に地を得んと欲せざらんや、形勢能く有する能わざるなり。諸侯斉の罷獘、君臣の和せざるを見て、兵を興して斉を伐ち、大いに之を破る。士辱し兵頓き、皆其の王を咎めて曰く、『誰か此の計を為す者ぞ』と。王曰く、『文子之を為す』と。大臣乱を作し、文子出走す。斉を攻めて大いに破る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やすに因るなり。此れ所謂賊に兵を借し盗に糧を齎す者なり。王は遠く交わりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば亦王の尺なり。今此れを釈きて遠く攻むるは、亦繆からずや。且つ昔者中山の国地は方五百里、趙独り之を吞み、功成り名立ちて利附き、天下之を害する能う者莫し。今夫れ韓・魏は、中国の処にして天下の枢なり、王其れ覇たらんと欲せば、必ず中国に親しみ以て天下の枢と為し、以て楚・趙を威すべし。楚強ければ則ち趙に附き、趙強ければ則ち楚に附き、楚・趙皆附かば、斉必ず懼る。斉懼れば、必ず卑辞重幣を以て秦に事えん。斉附かば而して韓・魏因りて虜と為す可し」と。昭王曰く、「吾れ魏に親しまんと欲すること久し、而して魏は多変の国なり、寡人は親しむ能わず。請う魏に親しまんとするを奈何と問わん」と。対えて曰く、「王は卑詞重幣を以て之に事えよ。不可ならば、則ち地を割きて之に賂えよ。不可ならば、因りて兵を挙げて之を伐て」と。王曰く、「寡人は敬みて命を聞く」と。乃ち范睢を客卿に拝し、兵事を謀らしむ。卒に范睢の謀を聴き、五大夫綰をして魏を伐たしめ、懐を抜く。後二歳、邢丘を抜く。

客卿范睢復た昭王に説いて曰く、「秦韓の地形は、相錯綜して繡の如し。秦の韓を有つは、譬えば木の蠹を有するが若く、人の心腹の病を有するが若し。天下変無ければ則ち已む、天下変有らば、其れ秦の患と為る者韓より大なるは孰れかあらん。王は韓を収むるに如かず」と。昭王曰く、「吾れ固より韓を収めんと欲す、韓聴かず、之が為に奈何とせん」と。対えて曰く、「韓安んぞ聴かざるを得んや。王兵を下して 滎陽 けいよう を攻めば、則ち鞏・成皋の道通ぜず。北に太行の道を断てば、則ち上党の師下らず。王一たび兵を興して 滎陽 けいよう を攻めば、則ち其の国断たれて三と為らん。夫れ韓必ず亡ぶを見れば、安んぞ聴かざらんや。若し韓聴かば、而して覇事因りて慮る可し」と。王曰く、「善し」と。且つ韓に使を発せんと欲す。

范睢は日に日に親しくされ、また数年も用いられて説いたので、隙を窺って説いて言うには、「臣が山東にいた時、斉に田文がいるとは聞いたが、斉に王がいるとは聞かなかった。秦に太后・穰侯・華陽・高陵・涇陽がいるとは聞いたが、秦に王がいるとは聞かなかった。国を専断するのを王といい、利害を決するのを王といい、生殺の威を制するのを王という。今、太后は勝手に振る舞って顧みず、穰侯は使者を出しても報告せず、華陽・涇陽らは裁断を下して憚らず、高陵は進退を請わない。四貴が揃って国が危うくならないことは、かつてない。この四貴のために下にいるのが、いわゆる王がないということである。そうであれば権力が傾かないはずがなく、命令がどうして王から出ることがあろうか。臣は聞く、国をよく治める者は、内にはその威を固め、外にはその権を重んじるという。穰侯の使者は王の重みを握り、諸侯を裁断し、天下に符を割き、征伐して国を討つに、敢えて聞かない者はない。戦勝して攻め取れば利益は陶に帰し、国の疲弊は諸侯に及ぶ。戦いに敗れれば百姓に怨みを結び、災いは社稷に帰する。『詩』に『木の実の繁る者はその枝を披き、その枝を披く者はその心を傷つく。その都を大にする者はその国を危うくし、その臣を尊ぶ者はその主を卑しむ』という。崔杼・淖歯が斉を管轄し、王の股を射、王の筋を引き抜き、廟の梁に吊るして、一夜で死なせた。李兌が趙を管轄し、主父を沙丘に囚え、百日にして餓死させた。今、臣は聞く、秦の太后・穰侯が権力を握り、高陵・華陽・涇陽がこれを補佐し、ついに秦王はない、これも淖歯・李兌の類である。そもそも三代が国を亡ぼした所以は、君が政権を授け、酒に耽り馳せて狩猟し、政事を聴かなかった。その授けた者は、賢を妬み能を嫉み、下を抑え上を蔽い、私利を成し、主のためを計らず、主は覚悟せず、故にその国を失った。今、有秩以上から諸大吏に至るまで、下は王の左右に及ぶまで、相国の人でない者はない。王が朝廷に孤立しているのを見て、臣はひそかに王のため恐れる、万世の後、秦国を持つ者は王の子孫ではないであろう」。昭王はこれを聞いて大いに恐れ、「善い」と言った。そこで太后を廃し、穰侯・高陵・華陽・涇陽君を関外に追放した。秦王は范睢を相に任じた。穰侯の印を収め、陶に帰らせ、県官に命じて車牛を提供して移住させたこと、千乗余りに及んだ。関に至ると、関はその宝器を検査したが、宝器の珍奇なものは王室より多かった。

秦は范睢を応に封じ、応侯と号した。この時は、秦の昭王四十一年である。

范睢が秦の相となると、秦では張禄と称したが、魏は知らず、范睢はすでに久しく死んだと思っていた。魏は秦が東に韓・魏を伐とうとしていると聞き、魏は須賈を秦に派遣した。范睢はこれを聞き、微行し、ぼろの衣を着て閑歩して邸に行き、須賈に会った。須賈はこれを見て驚いて言うには、「范叔はもとより無事であったか」。范睢は言うには、「そうです」。須賈は笑って言うには、「范叔は秦で説くところがあるのか」。言うには、「いいえ。睢は先日魏の相に罪を得たので、故に逃亡してここに至ったのであって、どうして敢えて説くことがあろうか」。須賈は言うには、「今、叔は何事をしているのか」。范睢は言うには、「臣は人に雇われて働いています」。須賈はこれを哀れに思い、留めて座らせ飲食し、言うには、「范叔はかくも貧しいのか」。そこで一つの綈袍を取ってこれを賜った。須賈はそこで問うて言うには、「秦の相の張君、貴公はご存知か。私は王に寵愛され、天下の事はすべて相君が決めると聞く。今、私の事の去留は張君にある。貴公には相君に通じた客がいるのか」。范睢は言うには、「主人がよく知っています。ただ睢も謁見できますので、睢が張君に貴公をお目にかけましょう」。須賈は言うには、「私の馬は病気で、車軸は折れ、大車駟馬でなければ、私は固より出ません」。范睢は言うには、「主人から貴公のために大車駟馬を借りましょう」。

范睢は帰って大車駟馬を取り、須賈のためにこれを御し、秦の相府に入った。府中でこれを見ると、知っている者は皆避けて隠れた。須賈はこれを怪しんだ。相の邸の門に至り、須賈に言うには、「待っていてください、私が貴公に代わって先に入り相君に取り次ぎます」。須賈は門下で待ち、車をしばらく持っていたが、門下に問うて言うには、「范叔が出てこないのは、どうしたのか」。門下は言うには、「范叔などいません」。須賈は言うには、「さきほど私と乗って入った者です」。門下は言うには、「それは我が相の張君です」。須賈は大いに驚き、自ら売られたと知り、そこで肉袒して膝行し、門下の人を通じて謝罪した。そこで范睢は盛大に帷帳を張り、侍者は甚だ多く、これに会った。須賈は頓首して死罪を言い、言うには、「賈は貴君が自ら青雲の上に至ることができるとは思いもよらず、賈は再び天下の書を読まず、再び天下の事に関与しません。賈には湯鑊の罪がありますので、胡貉の地に自ら退き、貴君の生死をお任せします」。范睢は言うには、「汝の罪はいくつあるか」。言うには、「賈の髪を抜いて賈の罪をつないでも、まだ足りません」。范睢は言うには、「汝の罪は三つだけだ。昔、楚の昭王の時に申包胥が楚のために呉軍を退けたので、楚王はこれに荊五千戸を封じたが、包胥は辞して受けず、荊に丘墓を託したからである。今、睢の先人の丘墓も魏にあるのに、貴公は先に睢が斉に外心があるとして魏斉に睢を悪く言った、これが貴公の罪の一つである。魏斉が私を厠で辱めた時、貴公が止めなかった、これが罪の二つである。さらに酔って私に小便をかけた、貴公はどうしてそんなに忍びないのか、これが罪の三つである。しかし貴公が死なずに済んだ所以は、綈袍を恋々とし、故人の情けがあったからで、故に貴公を釈放する」。そこで謝して罷めさせた。入って昭王に言い、須賈を帰国させた。

須賈が范睢に別れを告げると、范睢は盛大に供え物を設け、諸侯の使者をことごとく招き、堂上に座らせ、飲食を大いに設けた。そして須賈を堂下に座らせ、その前に刍豆を置き、二人の黥徒に挟ませて馬のように食べさせた。数えて言うには、「私のために魏王に告げよ、急いで魏斉の首を持って来い。そうでなければ、私は大梁を屠るであろう」。須賈は帰り、魏斉に告げた。魏斉は恐れ、趙に逃亡した。平原君の所に匿れた。

范睢が相となると、王稽が范睢に言うには、「知ることができないことが三つあり、どうしようもないことも三つある。宮車が一日晏駕すること、これが事の知ることができない一である。君が卒然に捐館すること、これが事の知ることができない二である。使臣が卒然に溝壑に填ること、これが事の知ることができない三である。宮車が一日晏駕すれば、君は臣を恨んでも、どうしようもない。君が卒然に捐館すれば、君は臣を恨んでも、またどうしようもない。使臣が卒然に溝壑に填れば、君は臣を恨んでも、またどうしようもない」。范睢は快く思わず、そこで入って王に言うには、「王稽の忠がなければ、臣を函谷関内に入れることはできなかった。大王の賢聖がなければ、臣を貴ぶことはできなかった。今、臣の官は相に至り、爵は列侯にあるのに、王稽の官はまだ謁者に止まっているのは、臣を内に入れた本意ではない」。昭王は王稽を召し、河東守に任じ、三年間上計をしなかった。また鄭安平を任用し、昭王はこれを将軍とした。范睢はそこで家財を散じ、かつて困窮した者にことごとく報いた。一飯の徳も必ず償い、睚眥の怨みも必ず報いた。

范睢が秦の相となって二年、秦の昭王の四十二年、東に韓の少曲・高平を伐ち、これを抜いた。

秦の昭王は魏斉が平原君の所に在ることを聞き、范雎の為に必ず其の仇を報ぜんと欲し、乃ち詳らかに好書を作りて平原君に遺して曰く、「寡人は君の高義を聞く、願はくは君と布衣の友たらん、君幸ひに寡人を過ぐれば、寡人は君と十日の飲を為さんことを願ふ」と。平原君は秦を畏れ、且つ然りと以為ひて、秦に入りて昭王に見ゆ。昭王は平原君と数日飲み、昭王は平原君に謂ひて曰く、「昔周の文王は呂尚を得て以て太公と為し、斉の桓公は管夷吾を得て以て仲父と為せり、今范君も亦た寡人の叔父なり。范君の仇は君の家に在り、願はくは人をして帰りて其の頭を取り来らしめよ、然らずんば、吾は君を関より出さじ」と。平原君曰く、「貴きにして交はる者は、賤しきが為なり、富みて交はる者は、貧しきが為なり。夫れ魏斉は、勝が友なり、在らば固より出さじ、今又た臣が所に在らず」と。昭王は乃ち趙王に書を遺して曰く、「王の弟は秦に在り、范君の仇魏斉は平原君の家に在り。王人をして疾く其の頭を持ち来らしめよ、然らずんば、吾兵を挙げて趙を伐たん、又た王の弟を関より出さじ」と。趙の孝成王は乃ち卒を発して平原君の家を囲み、急なり、魏斉は夜に亡出し、趙の相虞卿に見ゆ。虞卿は趙王の終に説くべからざるを度り、乃ち其の相印を解き、魏斉と亡れ、間行し、諸侯に急に抵るべきもの莫きを念ひ、乃ち復た大梁に走り、信陵君に因りて楚に走らんと欲す。信陵君之を聞き、秦を畏れ、猶 して未だ肯て見んとせず、曰く、「虞卿は何如なる人ぞ」と。時に侯嬴旁に在り、曰く、「人固より未だ知り易からず、人を知るも亦た未だ易からざるなり。夫れ虞卿は屩を躡ぎ簦を檐ぎて、一たび趙王に見え、白璧一雙、黄金百鎰を賜ひ、再見して、上卿に拝せられ、三見して、卒に相印を受け、萬戸侯に封ぜらる。此の時に当たりて、天下争ひて之を知らんとす。夫れ魏斉は窮困して虞卿に過ぐ、虞卿は敢へて重き爵禄の尊を重んぜず、相印を解き、萬戸侯を捐てて間行す。士の窮を急ぎて公子に帰す、公子曰く『何如なる人』と。人固より知り易からず、人を知るも亦た未だ易からざるなり」と。信陵君大いに慚じ、車を駕して野に出て之を迎ふ。魏斉は信陵君の初め難く之を見んとするを聞き、怒りて自ら剄す。趙王之を聞き、卒に其の頭を取りて秦に予ふ。秦の昭王は乃ち平原君を出して趙に帰す。

昭王四十三年、秦は韓の汾陘を攻め、之を抜き、因りて河上の広武に城す。

後五年、昭王は応侯の謀を用ゐ、反間を縦して趙を売る、趙其の故を以て、馬服子をして廉頗に代はりて将たらしむ。秦は大いに趙を長平に破り、遂に邯鄲を囲む。已にして武安君白起と隙有り、言ひて之を殺す。鄭安平を任じ、趙を撃たしむ。鄭安平は趙に囲まるる所と為り、急なり、兵二万人を以て趙に降る。応侯は槁を席にして罪を請ふ。秦の法、人を任じて任ずる所善からざる者は、各其の罪を以て之を罪す。是に於て応侯の罪は三族を収むるに当たる。秦の昭王は応侯の意を傷つけんことを恐れ、乃ち国中に下令して、「敢へて鄭安平の事を言ふ者有らば、其の罪を以て之を罪せん」と。而して相国応侯に食物を賜ふこと日に益して厚くし、以て其の意に順適せしむ。後二歳、王稽は河東の守と為り、諸侯と通じ、法に坐して誅せらる。而して応侯は日に益して以て懌ばず。

昭王は朝に臨みて嘆息す、応侯進みて曰く、「臣聞く『主憂へば臣辱しめられ、主辱しめられば臣死す』と。今大王中朝にして憂ふ、臣敢へて其の罪を請ふ」と。昭王曰く、「吾楚の鉄劍利にして倡優拙しと聞く。夫れ鉄劍利なれば則ち士勇なり、倡優拙なれば則ち思慮遠し。夫れ遠き思慮を以て勇士を御するに、吾楚の秦を図るを恐る。夫れ物素より具はらざれば、以て卒に応ずべからず、今武安君既に死し、而して鄭安平等畔き、内に良将無くして外に敵国多し、吾是を以て憂ふ」と。以て応侯を激勵せんと欲す。応侯懼れ、出づる所を知らず。蔡澤之を聞き、往きて秦に入る。

蔡澤

蔡澤は、燕の人なり。学を遊ばして諸侯に干るに小大甚だ衆し、遇はれず。而して唐挙に従ひて相せられ、曰く、「吾先生の李兌を相するに、曰く『百日の内に国秉を持す』と有りと聞く、之あるか」と。曰く、「之あり」と。曰く、「若し臣の如き者は何如」と。唐挙孰く視て笑ひて曰く、「先生は曷鼻、巨肩、魋顔、蹙齃、膝攣なり。吾聖人は相せずと聞く、殆ど先生か」と。蔡澤は唐挙の之を戯るるを知り、乃ち曰く、「富貴は吾の自ら有する所、吾の知らざる所は寿なり、願はくは之を聞かん」と。唐挙曰く、「先生の寿は、今より以往する者四十三歳」と。蔡澤笑ひて謝して去り、其の御者に謂ひて曰く、「吾は粱を持し歯を刺して肥え、馬を躍らせて疾く駆け、黄金の印を懐き、紫綬を要に結び、人主の前に揖譲し、肉を食ひ富貴し、四十三年足れり」と。趙に去りて、逐はる。韓・魏に之きて、途に於て釜鬲を奪はるるに遇ふ。応侯の鄭安平・王稽を任ずるが皆秦に重罪を負ふと聞き、応侯内に慚じ、蔡澤は乃ち西して秦に入る。

将に昭王に見えんとし、人をして宣言して以て応侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡澤は、天下の雄俊弘辯の智士なり。彼一たび秦王に見えれば、秦王必ず君を困らしめて君の位を奪はん」と。応侯聞きて曰く、「五帝三代の事、百家の説、吾既に之を知り、衆口の辯、吾皆之を摧く、是れ悪んぞ能く我を困らしめて我が位を奪はんや」と。人をして蔡澤を召さしむ。蔡澤入る、則ち応に揖す。応侯固より快からず、及び之を見れば、又た倨なり、応侯因りて之を譲りて曰く、「子嘗て宣言して我に代はりて秦に相せんと欲すとす、寧ろ之あるか」と。対へて曰く、「然り」と。応侯曰く、「請ふ其の説を聞かん」と。蔡澤曰く、「吁、君何ぞ之を見ることの晩きや。夫れ四時の序は、成功する者は去る。夫れ人生百體堅彊にして、手足便利、耳目聡明にして心聖智ならんことは、豈に士の願はざる所ならんや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡澤曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ徳を施し、志を得て天下に於て、天下楽み敬愛して尊慕し、皆願はくは以て君王と為さんとす、豈に辯智の期する所ならんや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡澤復た曰く、「富貴顕栄し、万物を理め成して、各其の所を得しめ、性命寿長にして、其の天年を終へて夭傷せず、天下其の統を継ぎ其の業を守り、之を伝へて窮まり無く、名実純粋にして、沢千里に流れ、世々之を称して絶ゆること無く、天地と終始せん、豈に道德の符にして聖人の所謂吉祥善事なる者ならんや」と。応侯曰く、「然り」と。

蔡澤曰く、「若し夫れ秦の商君、楚の吳起、越の大夫種、其の卒然たるも亦た願ふべきか」と。應侯は蔡澤の己を困らせんとして説かんとするを知り、復た謬りて曰く、「何を以てか不可ならん。夫れ公孫鞅の孝公に事ふるや、身を極めて二慮無く、公に盡して私を顧みず、刀鋸を設けて姦邪を禁じ、賞罰を信じて治を致し、腹心を披き、情素を示し、怨咎を蒙り、舊友を欺き、魏の公子卬を奪ひ、秦の社稷を安んじ、百姓を利し、卒に秦の禽將となり敵を破り、地を攘ふること千里なり。吳起の悼王に事ふるや、私をして公を害するを得ざらしめ、讒をして忠を蔽ふを得ざらしめ、言は苟合を取らず、行は苟容を取らず、危き爲に行ひを易へず、義を行ふに難を避けず、然して霸主彊國たらしむるも、禍凶を辭せざりき。大夫種の越王に事ふるや、主は困辱すと雖も、忠を悉くして解かず、主は絕亡すと雖も、能を盡くして離れず、成功して矜らず、貴富にして驕怠せず。若し此の三子の者は、固より義の至り、忠の節なり。是の故に君子は義の爲に死難し、死を視ること歸るが如し、生けて辱しめらるるは死して榮ゆるに如かず。士は固より身を殺して名を成す有り、義の在る所と雖も、死すと雖も恨む所無し。何を以てか不可ならんや」と。

蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の盛福なり。君明にして臣直なるは、國の福なり。父慈にして子孝なるは、夫信にして妻貞なるは、家の福なり。故に比干は忠なれども殷を存する能はず、子胥は智なれども吳を完うする能はず、申生は孝なれども しん 國亂る。是れ皆忠臣孝子有りながら國家滅亂するは、何ぞや。明君賢父無くして之を聽く有らざればなり。故に天下其の君父を僇辱と爲して其の臣子を憐れむ。今商君・吳起・大夫種の人臣と爲るは、是なり。其の君は、非なり。故に世三子の功を致すを稱へて德を見ざるは、豈に世に遇はざるを慕ひて死するをや。夫れ死を待ちて後に忠を立て名を成すべきを以てするは、是れ微子仁に足らず、孔子聖に足らず、管仲大に足らざるなり。夫人の功を立つるは、豈に成全を期せざらんや。身と名と俱に全き者は、上なり。名は法ぶべきも身死する者は、其の次なり。名は僇辱に在りて身全き者は、下なり」と。是に於て應侯善しと稱す。

蔡澤は少し隙を得て、言うには、「商君・呉起・大夫種は、人臣として忠を尽くし功を致す点では願わしい人物ではあるが、閎夭が文王に仕え、周公が成王を補佐したことと比べれば、彼らもまた忠聖ではなかったか。君臣の関係から論ずれば、商君・呉起・大夫種の願わしさは、閎夭・周公と比べてどうか」と。応侯は言う、「商君・呉起・大夫種は及ばない」と。蔡澤は言う、「では、君の主君は慈仁にして忠臣を任用し、旧故を惇厚にし、賢智と有道の士を膠漆の如く親しくし、義をもって功臣に背かぬが、秦の孝公・楚の悼王・越王と比べてどうか」と。応侯は言う、「どうであるか知らない」と。蔡澤は言う、「今の主君が忠臣を親しむことは、秦の孝公・楚の悼王・越王を超えず、君が智を設けて主君の安危を修め政を治め、乱を治め兵を強くし、患を批き難を折き、地を広げ穀を殖やし、国を富ませ家を足らしめ、主君を強くし、社稷を尊び、宗廟を顕わし、天下に敢えてその主君を欺き犯す者なく、主君の威は海内を震わせ、功は万里の外に彰け、声名光輝は千世に伝わるが、君は商君・呉起・大夫種と比べてどうか」と。応侯は言う、「及ばない」と。蔡澤は言う、「今の主君が忠臣を親しみ旧故を忘れぬことは孝公・悼王・句踐に及ばず、しかるに君の功績と愛信親幸はまた商君・呉起・大夫種に及ばない。しかしながら君の禄位貴盛、私家の富は三子を過ぎている。しかも身を退かざるは、恐らく患いは三子より甚だしいであろう。窃かに君の危うきを思う。語に曰く『日中なれば則ち移り、月満ちれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰う、これ天地の常の数なり。進退盈縮、時に変化に従う、これ聖人の常の道なり。故に『国に道あれば則ち仕え、国に道なれば則ち隠る』と。聖人は曰く『飛龍天に在り、大人を見るに利あり』と。『義に非ずして富み且つ貴きは、我において浮雲の如し』と。今、君の怨みは既に報いられ、徳は既に報いられ、意は至る所に至った。しかるに変計なきは、窃かに君の取らざる所と為す。そもそも翠・鵠・犀・象は、その勢いに処すること死を遠ざけざるに非ざるも、而して死する所以は、餌に惑うが故なり。蘇秦・智伯の智は、辱を避け死を遠ざけるに足らざるに非ざるも、而して死する所以は、利を貪りて止まざるに惑うが故なり。ここを以て聖人は礼を制し欲を節し、民に取るに度有り、之を使うに時を以てし、之を用いるに止め有り。故に志溢れず、行驕らず、常に道と倶にして失わず、故に天下承けて絶えず。昔、斉の桓公は九たび諸侯を合し、一たび天下を匡う。葵丘の会に至りて驕矜の志有り、畔く者九国。呉王夫差は兵天下に敵無く、勇強にして諸侯を軽んじ、斉・晋を陵ぐ。故に遂に身を殺し国を亡ぼすに至る。夏育・太史噭は叱呼して三軍を駭かすも、然して身は庸夫に死す。これ皆、至盛に乗じて道理に返らず、卑退に居り儉約に処せざる患いなり。そもそも商君は秦の孝公のために法令を明らかにし、姦の本を禁じ、爵を尊び必ず賞し、罪有れば必ず罰し、権衡を平らかにし、度量を正しくし、軽重を調え、阡陌を決裂し、以て生民の業を静めその俗を一にし、民を勧めて耕農し土を利し、一室に二事無く、力田して積み稸し、戦陳の事を習わしむ。ここを以て兵動けば地広く、兵休めば国富む。故に秦は天下に敵無く、威を諸侯に立て、秦国の業を成す。功は既に成ったるも、遂に車裂きに処せらる。楚の地は方数千里、戟を持つ者百万、白起は数万の師を率いて楚と戦い、一戦にして鄢・郢を挙げて夷陵を焼き、再戦して南は蜀・漢を併す。又、韓・魏を越えて強趙を攻め、北は馬服を阬い、誅屠すること四十余万の衆、尽く之を長平の下にし、流血川を成し、沸声雷の若く、遂に邯鄲を囲み入り、秦をして帝業有らしむ。楚・趙は天下の強国にして秦の仇敵なり。是より後、楚・趙皆慴伏して敢えて秦を攻めざるは、白起の勢いなり。身の服する所七十余城、功は既に成ったるも、遂に剣を賜いて杜郵に死す。呉起は楚の悼王のために法を立て、大臣の威重を卑減し、無能を罷め、無用を廃し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚国の俗を一にし、游客の民を禁じ、耕戦の士を精しくし、南は楊越を収め、北は陳・蔡を併し、横を破り従を散じ、馳説の士をして其の口を開く所無からしめ、朋党を禁じて百姓を励まし、楚国の政を定め、兵は天下を震わせ、威は諸侯を服す。功は既に成ったるも、卒に枝解せらる。大夫種は越王のために深謀遠計をめぐらし、会稽の危を免れ、亡を以て存と為し、辱に因りて栄と為し、草を墾き邑に入り、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率い、上下の力を専らにし、句践の賢を輔け、夫差の讎を報い、卒に勁呉を擒う。越をして覇を成さしむ。功は既に彰け信ぜられたるも、句践終に負いて之を殺す。この四子は、功成りて去らざる故に、禍此に至る。これ所謂、信じて詘することができず、往きて返ることのできざる者なり。范蠡は之を知り、超然として世を辟け、長く陶朱公と為る。君独り夫れ博する者を見ざるか。或いは大いに投ぜんと欲し、或いは功を分かたんと欲す。これ皆、君の明知する所なり。今、君は秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でず、坐して諸侯を制し、利は三川に施り、以て宜陽を実にし、羊腸の険を決し、太行の道を塞ぎ、又、范・中行の途を斬り、六国をして合従を得ざらしめ、棧道千里、蜀・漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所得たり、君の功極まれり。これ亦た秦の功を分かつの時なり。是の如くにして退かざれば、則ち商君・白公・呉起・大夫種の如くなるなり。吾之を聞く、『水に鑑る者は面の容を見、人に鑑る者は吉と凶を知る』と。書に曰く『成功の下は、久しく処るべからず』と。四子の禍、君何れにか居らん。君何ぞ此の時に因りて相印を帰し、賢者に譲りて之を授け、退きて巖に居り川を観ずること有らざらんや。必ず伯夷の廉有り、長く応侯と為るべし。世々孤を称え、而して許由・延陵季子の譲り有り、喬松の寿有らんことは、禍を以て終わるに比べてどうか。即ち君は何れにか居らん。忍びて自ら離るる能わず、疑いて自ら決する能わざれば、必ず四子の禍有らん。《易》に曰く『亢龍悔い有り』と。これは上りて下ること能わず、信じて詘すること能わず、往きて自ら返ること能わざる者を言うなり。願わくは君熟く之を計らんことを」と。応侯は言う、「善し。吾聞く、『欲して足るを知らざれば、其の欲する所以を失い、有りて止むを知らざれば、其の有する所以を失う』と。先生幸いに教う、睢敬んで命を受く」と。ここに於いて乃ち入を延いて坐せしめ、上客と為す。

後数日、朝に入り、秦の昭王に言うには、「客新たに山東より来る者有り、蔡澤と曰う。其の人弁士にして、三王の事・五伯の業・世俗の変に明らか、以て秦国の政を寄するに足る。臣の見る人甚だ衆し、及ぶ者莫く、臣は及ばず。臣敢えて以て聞かす」と。秦の昭王は召し見て、語らうこと有り、大いに之を説び、客卿に拝す。応侯は因りて病を謝し相印を帰さんことを請う。昭王は強いて応侯を起し、応侯は遂に病甐と称す。范睢相を免ぜられ、昭王は新たに蔡澤の計画を説び、遂に秦の相に拝し、東は周室を収む。

蔡澤、秦に相たりて数月、人或いは之を悪む。誅を懼れ、乃ち病を謝し相印を帰し、号して綱成君と為す。秦に居ること十余年、昭王・孝文王・莊襄王に事う。卒に始皇帝に事え、秦のため燕に使いしこと有り、三年にして燕は太子丹を質として秦に入らしむ。

評論

太史公が曰く、韓子は「長袖は舞を善くし、多錢は賈を善くす」と称えたが、誠にこの言は真なり。范睢・蔡澤は世に所謂一切の辯士であるが、然し諸侯に游説して白首に至るまで遇ふ所無きは、計策の拙きに非ず、説く所の力少きが為なり。及んで二人羈旅して秦に入り、踵を継いで卿相を取り、功を天下に垂るるは、固より彊弱の勢の異なるによる。然れども士も亦偶合有り、賢者多く此の二子の如く、意を尽くすを得ざるは、豈に勝て道はんや。然れども二子困らざれば、悪くして激せんや。

【索隠述賛】応侯始めて困し、載せに託して西し、説行き計立ち、貴く平らぎ寵稽る。秦に倚りて趙を市ひ、卒に魏齊に報ゆ。綱成辯智、范睢招き携ふ。勢利傾き奪ひ、一言蹊を成す。

この作品は全世界において公有領域に属する。何となれば作者の没後百年を経過し、且つ作品は1931年1月1日以前に出版されたからである。

原本を確認する(ウィキソース):史記 巻079