史記

巻六十 三王世家 第三十

大司馬たる臣去病、昧死して再拝し疏を上り皇帝陛下に白す。陛下過ぎに聴き、臣去病を行間に待罪せしむ。辺塞の思慮に専らなるべく、中野に骸を暴きて報ゆる無く、乃ち敢えて他議を惟みて以て用事者に干すは、誠に陛下の天下を憂労し、百姓を哀憐して自ら忘れ、膳を虧け楽を貶し、郎員を損ずるを見るなり。皇子天に頼り、衣を勝ちて趨拝する能く、今に至るまで号位師傅の官無し。陛下恭譲して恤れず、群臣私に望むも、敢えて職を越えて言わず。臣窃に犬馬の心に勝えず、昧死して願わくは陛下有司に詔し、盛夏の吉時に因りて皇子の位を定めしめん。唯だ陛下幸いに察せんことを。臣去病昧死して再拝し以て皇帝陛下に聞こゆ。三月乙亥、御史たる臣光、尚書令を守り未央宮に奏す。制して曰く、『御史に下せ』と。

原文「大司馬臣去病昧死再拜上疏皇帝陛下:陛下過聽,使臣去病待罪行閒。宜專邊塞之思慮,暴骸中野無以報,乃敢惟他議以干用事者,誠見陛下憂勞天下,哀憐百姓以自忘,虧膳貶樂,損郎員。皇子賴天,能勝衣趨拜,至今無號位師傅官。陛下恭讓不恤,群臣私望,不敢越職而言。臣竊不勝犬馬心,昧死願陛下詔有司,因盛夏吉時定皇子位。唯陛下幸察。臣去病昧死再拜以聞皇帝陛下。」三月乙亥,御史臣光守尚書令奏未央宮。制曰:「下御史。」

六年三月戊申朔、乙亥、御史たる臣光、尚書令・丞非を守り、御史に下す書到る。言う、丞相たる臣青翟・御史大夫たる臣湯・太常たる臣充・大行令たる臣息・太子少傅たる臣安、宗正の事を行い、昧死して言上す。大司馬去病上疏して曰く、『陛下過ぎに聴き、臣去病を行間に待罪せしむ。辺塞の思慮に専らなるべく、中野に骸を暴きて報ゆる無く、乃ち敢えて他議を惟みて以て用事者に干すは、誠に陛下の天下を憂労し、百姓を哀憐して自ら忘れ、膳を虧け楽を貶し、郎員を損ずるを見るなり。皇子天に頼り、衣を勝ちて趨拝する能く、今に至るまで号位師傅の官無し。陛下恭譲して恤れず、群臣私に望むも、敢えて職を越えて言わず。臣窃に犬馬の心に勝えず、昧死して願わくは陛下有司に詔し、盛夏の吉時に因りて皇子の位を定めしめん。唯だ願わくは陛下幸いに察せんことを』と。制して『御史に下せ』と曰う。臣謹みて中二千石・二千石たる臣賀等と議す。古え地を裂き国を立て、諸侯を并せ建てて以て天子を承けしむるは、宗廟を尊び社稷を重んずる所以なり。今臣去病上疏し、其の職を忘れず、因りて以て恩を宣べ、乃ち天子の卑譲自貶して以て天下を労するを道い、皇子の未だ号位有らざるを慮う。臣青翟・臣湯等、義を奉じ職を遵うべく、愚憧にして事に逮わず。方今盛夏の吉時、臣青翟・臣湯等、昧死して皇子たる臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さんことを請う。昧死して立つ所の国名を請う。

原文六年三月戊申朔,乙亥,御史臣光守尚書令、丞非,下御史書到,言:丞相臣青翟、御史大夫臣湯、太常臣充、大行令臣息、太子少傅臣安行宗正事昧死上言:大司馬去病上疏曰:『陛下過聽,使臣去病待罪行閒。宜專邊塞之思慮,暴骸中野無以報,乃敢惟他議以干用事者,誠見陛下憂勞天下,哀憐百姓以自忘,虧膳貶樂,損郎員。皇子賴天,能勝衣趨拜,至今無號位師傅官。陛下恭讓不恤,群臣私望,不敢越職而言。臣竊不勝犬馬心,昧死願陛下詔有司,因盛夏吉時定皇子位。唯願陛下幸察。』制曰『下御史』。臣謹與中二千石、二千石臣賀等議:古者裂地立國,并建諸侯以承天于,所以尊宗廟重社稷也。今臣去病上疏,不忘其職,因以宣恩,乃道天子卑讓自貶以勞天下,慮皇子未有號位。臣青翟、臣湯等宜奉義遵職,愚憧而不逮事。方今盛夏吉時,臣青翟、臣湯等昧死請立皇子臣閎、臣旦、臣胥為諸侯王。昧死請所立國名。」

制して曰く、『蓋し聞く、周は八百を封じ、姫姓并び列なり、或いは子・男・附庸たりと。礼に「支子は祭らざるなり」と云う。諸侯を并せ建てて以て社稷を重んずる所以と云うは、朕聞かざる所なり。且つ天は君の為に民を生ずるに非ざるなり。朕の徳無き、海内未だ洽わず、乃ち未だ教え成らざる者を以て強いて君とし城を連ねしむれば、即ち股肱何をか勧めん。其れ更に議して以て列侯に家せしめよ』と。

原文制曰:「蓋聞周封八百,姬姓并列,或子、男、附庸。禮『支子不祭』。云并建諸侯所以重社稷,朕無聞焉。且天非為君生民也。朕之不德,海內未洽,乃以未教成者彊君連城,即股肱何勸?其更議以列侯家之。」

三月丙子、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯、昧死して言う。臣謹みて列侯臣嬰齊・中二千石二千石臣賀・諫大夫博士臣安等と議して曰く、伏して聞く、周は八百を封じ、姫姓並び列なり、天子を奉承す。康叔は祖考を以て顕れ、伯禽は周公を以て立ち、咸に建国諸侯と為り、相傅を以て輔と為す。百官憲を奉じ、各その職を遵び、而して国統備はれり。窃かに以為う、諸侯を並び建つるは社稷を重んずる所以なるは、四海の諸侯各その職を以て貢祭を奉ず。支子宗祖の祭を奉ずるを得ざるは、礼なり。封建して藩国を守らしむるは、帝王の徳を扶け化を施す所以なり。陛下天統を奉承し、聖緒を明らかに開き、賢を尊び功を顕はし、滅を興し絶を継ぐ。蕭文終の後を酂に続け、群臣平津侯等を褒め厲す。六親の序を昭かにし、天施の属を明らかにし、諸侯王封君に私恩を推して子弟に戸邑を分つことを得しめ、号を錫し尊く建つること百余国。而して皇子を家して列侯と為すは、則ち尊卑相踰え、列位序を失ひ、以て万世に統を垂るべからず。臣請う、臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さんことを。」三月丙子、未央宮に奏す。

原文三月丙子,奏未央宮。「丞相臣青翟、御史大夫臣湯昧死言:臣謹與列侯臣嬰齊、中二千石二千石臣賀、諫大夫博士臣安等議曰:伏聞周封八百,姬姓并列,奉承天子。康叔以祖考顯,而伯禽以周公立,咸為建國諸侯,以相傅為輔。百官奉憲,各遵其職,而國統備矣。竊以為并建諸侯所以重社稷者,四海諸侯各以其職奉貢祭。支子不得奉祭宗祖,禮也。封建使守藩國,帝王所以扶德施化。陛下奉承天統,明開聖緒,尊賢顯功,興滅繼絕。續蕭文終之後於酂,褒厲群臣平津侯等。昭六親之序,明天施之屬,使諸侯王封君得推私恩分子弟戶邑,錫號尊建百有餘國。而家皇子為列侯,則尊卑相踰,列位失序,不可以垂統於萬世。臣請立臣閎、臣旦、臣胥為諸侯王。」三月丙子,奏未央宮。

制して曰く、「康叔親属十有りて而も独り尊きは、徳有るを褒むるなり。周公天命を祭りて郊す、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公毛せざるは、賢不肖の差なり。『高山之を仰ぎ、景行之に向ふ』、朕甚だ之を慕ふ。未だ成らざるを抑へる所以は、家して列侯と為す可きなり。」

原文制曰:「康叔親屬有十而獨尊者,褒有德也。周公祭天命郊,故魯有白牡、騂剛之牲。群公不毛,賢不肖差也。『高山仰之,景行向之』,朕甚慕焉。所以抑未成,家以列侯可。」

四月戊寅、未央宮に奏す。「丞相臣青翟・御史大夫臣湯、昧死して言う。臣青翟等列侯・吏二千石・諫大夫・博士臣慶等と議し、昧死して皇子を立てて諸侯王と為さんことを奏請す。制して曰く、『康叔親属十有りて而も独り尊きは、徳有るを褒むるなり。周公天命を祭りて郊す、故に魯に白牡・騂剛の牲有り。群公毛せざるは、賢不肖の差なり。「高山之を仰ぎ、景行之に向ふ」、朕甚だ之を慕ふ。未だ成らざるを抑へる所以は、家して列侯と為す可きなり。』臣青翟・臣湯・博士臣将行等、伏して聞く、康叔親属十有り、武王体を継ぎ、周公成王を輔け、其の八人皆祖考の尊を以て大国に建つ。康叔の年幼く、周公三公の位に在り、而して伯禽国に拠ること魯に於ては、蓋し爵命の時、未だ成人に至らず。康叔後ち禄父の難を捍ぎ、伯禽淮夷の乱を殄す。昔五帝制を異にし、周爵五等、春秋三等、皆時に因りて尊卑を序す。高皇帝乱世を撥ちて諸の正に反し、至徳を昭かにし、海内を定め、諸侯を封建し、爵位二等。皇子或は繦緥に在りて立てて諸侯王と為り、天子を奉承し、万世の法則と為り、易ふべからず。陛下躬親仁義し、聖徳を体行し、文武を表裏す。慈孝の行ひを顕はし、賢能の路を広む。内に徳有るを褒め、外に彊暴を討つ。極めて北海に臨み、西は月氏に溱し、匈奴・西域、挙国師を奉ず。輿械の費、民に賦せず。御府の蔵を虚しくして元戎を賞し、禁倉を開きて貧窮を振ひ、戍卒の半を減ず。百蛮の君、風に郷かざる莫く、流を承けて意に称ふ。遠方殊俗、重訳して朝し、沢方外に及ぶ。故に珍獣至り、嘉穀興り、天応甚だ彰はり。今諸侯の支子諸侯王に封ぜられ、而して皇子を家して列侯と為すは、臣青翟・臣湯等窃かに伏して孰く之を計るに、皆以て尊卑序を失ひ、天下をして失望せしむ、不可なりと為す。臣請う、臣閎・臣旦・臣胥を立てて諸侯王と為さんことを。」四月癸未、未央宮に奏す。留中して下さず。

原文四月戊寅,奏未央宮。「丞相臣青翟、御史大夫臣湯昧死言:臣青翟等與列侯、吏二千石、諫大夫、博士臣慶等議:昧死奏請立皇子為諸侯王。制曰:『康叔親屬有十而獨尊者,褒有德也。周公祭天命郊,故魯有白牡、騂剛之牲。群公不毛,賢不肖差也。「高山仰之,景行向之」,朕甚慕焉。所以抑未成,家以列侯可。』臣青翟、臣湯、博士臣將行等伏聞康叔親屬有十,武王繼體,周公輔成王,其八人皆以祖考之尊建為大國。康叔之年幼,周公在三公之位,而伯禽據國於魯,蓋爵命之時,未至成人。康叔後捍祿父之難,伯禽殄淮夷之亂。昔五帝異制,周爵五等,春秋三等,皆因時而序尊卑。高皇帝撥亂世反諸正,昭至德,定海內,封建諸侯,爵位二等。皇子或在繦緥而立為諸侯王,奉承天子,為萬世法則,不可易。陛下躬親仁義,體行聖德,表裏文武。顯慈孝之行,廣賢能之路。內褒有德,外討彊暴。極臨北海,西(湊)[溱]月氏,匈奴、西域,舉國奉師。輿械之費,不賦於民。虛御府之藏以賞元戎,開禁倉以振貧窮,減戍卒之半。百蠻之君,靡不鄉風,承流稱意。遠方殊俗,重譯而朝,澤及方外。故珍獸至,嘉穀興,天應甚彰。今諸侯支子封至諸侯王,而家皇子為列侯,臣青翟、臣湯等竊伏孰計之,皆以為尊卑失序,使天下失望,不可。臣請立臣閎、臣旦、臣胥為諸侯王。」四月癸未,奏未央宮,留中不下。

丞相たる臣青翟、太僕たる臣賀、行御史大夫事たる太常臣充、太子少傅たる臣安行宗正事、昧死して言す。臣青翟等、前に大司馬たる臣去病の上疏を奏す。その疏に言う、皇子には未だ号位無し。臣謹みて御史大夫たる臣湯、中二千石、二千石、諫大夫、博士たる臣慶等と共に昧死して皇子たる臣閎等を立てて諸侯王と為さんことを請う。陛下は文武の功を譲り、躬自ら切にし、皇子の未だ教えられざるを及ぶ。群臣の議、儒者はその術を称し、或いはその心を誖す。陛下は固く辞して許さず、皇子をして家せしめて列侯と為す。臣青翟等、窃かに列侯たる臣寿成等二十七人と議し、皆曰く、尊卑の序を失うと為す。高皇帝は天下を建て、漢の太祖と為り、子孫を王とし、支輔を広くす。先帝の法則を改めず、以て至尊を宣ぶる所以なり。臣請う、史官をして吉日を択ばしめ、礼儀を具えて上らしめ、御史をして輿地図を奏せしめ、他のこと皆な前に故事の如くせんと。制して曰く、可なり。

原文「丞相臣青翟、太仆臣賀、行御史大夫事太常臣充、太子少傅臣安行宗正事昧死言:臣青翟等前奏大司馬臣去病上疏言,皇子未有號位,臣謹與御史大夫臣湯、中二千石、二千石、諫大夫、博士臣慶等昧死請立皇子臣閎等為諸侯王。陛下讓文武,躬自切,及皇子未教。群臣之議,儒者稱其術,或誖其心。陛下固辭弗許,家皇子為列侯。臣青翟等竊與列侯臣壽成等二十七人議,皆曰以為尊卑失序。高皇帝建天下,為漢太祖,王子孫,廣支輔。先帝法則弗改,所以宣至尊也。臣請令史官擇吉日,具禮儀上,御史奏輿地圖,他皆如前故事。」制曰:「可。」

四月丙申、未央宮に奏す。太僕たる臣賀、行御史大夫事、昧死して言す。太常たる臣充の言う、卜に入るに四月二十八日乙巳、諸侯王を立つる可し。臣昧死して輿地図を奏し、立てんとする国の名を請う。礼儀は別に奏す。臣昧死して請う。

原文四月丙申,奏未央宮。「太仆臣賀行御史大夫事昧死言:太常臣充言卜入四月二十八日乙巳,可立諸侯王。臣昧死奏輿地圖,請所立國名。禮儀別奏。臣昧死請。」

制して曰く、皇子閎を立てて斉王と為し、旦を燕王と為し、胥を広陵王と為す。

原文制曰:「立皇子閎為齊王,旦為燕王,胥為廣陵王。」

四月丁酉、未央宮に奏す。六年四月戊寅朔、癸卯、御史大夫湯より丞相に下し、丞相より中二千石に下し、二千石より郡太守・諸侯相に下し、丞書は事に従い下して当に用うべき者に及ぶ。律令の如し。

原文四月丁酉,奏未央宮。六年四月戊寅朔,癸卯,御史大夫湯下丞相,丞相下中二千石,二千石下郡太守、諸侯相,丞書從事下當用者。如律令。

維れ六年四月乙巳、皇帝、御史大夫湯を使わし、廟にて子閎を立てて斉王と為す。曰く、於戲、小子閎よ、この青社を受くべし。朕は祖考を承け、古を稽へて爾が国家を建て、東土に封じ、世々漢の藩輔と為さん。於戲、念えよ。朕が詔を懐き、惟れ命は常ならず。人の徳を好むは、克く明らかに光らす。義を図らずんば、君子をして怠らしむ。爾が心を悉くし、允にその中を執れ、天禄永く終わらん。それ愆有りて臧からざれば、乃ち爾が国に凶にして、爾が躬に害あらん。於戲、国を保ち民を艾う、敬せざるべけんや。王其れこれを戒めよ。

原文「維六年四月乙巳,皇帝使御史大夫湯廟立子閎為齊王。曰:於戲,小子閎,受茲青社!朕承祖考,維稽古建爾國家,封于東土,世為漢藩輔。於戲念哉!抱朕之詔,惟命不于常。人之好德,克明顯光。義之不圖,俾君子怠。悉爾心,允執其中,天祿永終。厥有愆不臧,乃凶于而國,害于爾躬。於戲,保國艾民,可不敬與!王其戒之。」

六年四月乙巳の日、皇帝は御史大夫の湯をして廟に遣わし、子の旦を立てて燕王とせしむ。詔して曰く、ああ、小子旦よ、この玄社を受けよ。朕は祖考を承け、古を稽へて、爾が国家を建て、北土に封じ、世々漢の藩輔たらしむ。ああ、葷粥氏は老を虐げて獣の心あり、侵犯寇盗し、姦巧を以て辺萌に加ふ。ああ、朕は将率を命じて往きて其の罪を征せしむ。万夫長、千夫長、三十有二の君皆来り、期に降りて師に奔る。葷粥は域を徙し、北州以て綏かなり。爾が心を悉くし、怨を作すことなかれ、徳を卹ふることなかれ、乃ち備を廃することなかれ。教士に非ざれば従征することを得ず。ああ、国を保ち民を艾む、敬はざるべけんや。王其れ之を戒めよ。

原文「維六年四月乙巳,皇帝使御史大夫湯廟立子旦為燕王。曰:於戲,小子旦,受茲玄社!朕承祖考,維稽古,建爾國家,封于北土,世為漢藩輔。於戲!葷粥氏虐老獸心,侵犯寇盜,加以姦巧邊萌。於戲!朕命將率徂征厥罪,萬夫長,千夫長,三十有二君皆來,降期奔師。葷粥徙域,北州以綏。悉爾心,毋作怨,毋卹德,毋乃廢備。非教士不得從徵。於戲,保國艾民,可不敬與!王其戒之。」

六年四月乙巳の日、皇帝は御史大夫の湯をして廟に遣わし、子の胥を立てて広陵王とせしむ。詔して曰く、ああ、小子胥よ、この赤社を受けよ。朕は祖考を承け、古を稽へて爾が国家を建て、南土に封じ、世々漢の藩輔たらしむ。古人に言有り、『大江の南、五湖の間、其の人軽心なり。揚州は疆を保つも、三代の要服にして、政に及ばず』と。ああ、爾が心を悉くし、戦戦兢兢として、乃ち恵み乃ち順ひ、侗として好んで軾ることなかれ、宵人に邇ることなかれ、法に維り則に維れ。『書』に云ふ、『臣は威を作さず、福を作さず、後羞有ること靡し』と。ああ、国を保ち民を艾む、敬はざるべけんや。王其れ之を戒めよ。

原文「維六年四月乙巳,皇帝使御史大夫湯廟立子胥為廣陵王。曰:於戲,小子胥,受茲赤社!朕承祖考,維稽古建爾國家,封于南土,世為漢藩輔。古人有言曰:『大江之南,五湖之閒,其人輕心。楊州保疆,三代要服,不及以政。』於戲!悉爾心,戰戰兢兢,乃惠乃順,毋侗好軼,毋邇宵人,維法維則。《書》云:『臣不作威,不作福,靡有後羞。』於戲,保國艾民,可不敬與!王其戒之。」

太史公曰く、古人に言有り、「之を愛すれば其の富まんことを欲し、之を親しめば其の貴からんことを欲す」と。故に王者は壃土を画き国を建て、子弟を封立するは、親親を褒め、骨肉を序し、先祖を尊び、支体を貴び、同姓を天下に広むる所以なり。是を以て形勢強くして王室安し。古より今に至るまで、由来する所久し。異有るに非ざれば、故に論箸せず。燕斉の事は、采るに足る者無し。然れども三王を封立するに、天子恭譲し、群臣義を守り、文辞爛然として、甚だ観るべし。是を以て之を世家に附す。

原文太史公曰:古人有言曰「愛之欲其富,親之欲其貴」。故王者壃土建國,封立子弟,所以褒親親,序骨肉,尊先祖,貴支體,廣同姓於天下也。是以形勢彊而王室安。自古至今,所由來久矣。非有異也,故弗論箸也。燕齊之事,無足采者。然封立三王,天子恭讓,群臣守義,文辭爛然,甚可觀也,是以附之世家。

褚先生曰く、臣幸ひに文学を以て侍郎と為り、好んで太史公の列伝を覧観す。伝中に三王世家の文辞観るべしと称すれど、其の世家を求め終に得ること能はず。窃かに長老の故事を好む者に従ひ其の封策書を取り、其事を編列して之を伝へ、後世をして賢主の指意を観ることを得しむ。

原文褚先生曰:臣幸得以文學為侍郎,好覽觀太史公之列傳。傳中稱三王世家文辭可觀,求其世家終不能得。竊從長老好故事者取其封策書,編列其事而傳之,令後世得觀賢主之指意。

蓋し聞く、孝武帝の時、同日にして倶に三子を拝して王と為す。一子を斉に封じ、一子を広陵に封じ、一子を燕に封ず。各子の才力智能及び土地の剛柔、人民の軽重に因り、策を為して以て之を戒む。王に謂ひて曰く、「世々漢の藩輔と為り、国を保ち民を治む、敬はざるべけんや。王其れ之を戒めよ」と。夫れ賢主の作する所は、固より浅聞の者の能く知る所に非ず、博聞彊記の君子に非ざれば其の意を究竟すること能はず。其の次序分絶、文字の上下、簡の参差長短に至るまで、皆意有り、人之を知ること能はざる所なり。謹みて其の真草の詔書を論次し、左方に編す。覧者をして自ら其の意を通じ之を解説せしむ。

原文蓋聞孝武帝之時,同日而俱拜三子為王:封一子於齊,一子於廣陵,一子於燕。各因子才力智能,及土地之剛柔,人民之輕重,為作策以申戒之。謂王:「世為漢藩輔,保國治民,可不敬與!王其戒之。」夫賢主所作,固非淺聞者所能知,非博聞彊記君子者所不能究竟其意。至其次序分絕,文字之上下,簡之參差長短,皆有意,人莫之能知。謹論次其真草詔書,編于左方。令覽者自通其意而解說之。

王夫人は趙の人であり、衛夫人と共に武帝の寵愛を受け、子の閎を生んだ。閎がまさに王に立てられようとした時、その母が病み、武帝自ら見舞いに行って尋ねた。「子は王となるが、どこに封じたいと思うか。」王夫人は言った。「陛下がおられれば、妾が何を申し上げることがありましょうか。」帝は言った。「そうではあるが、心の中で望むところはあるだろう。どこに王として封じられたいか。」王夫人は言った。「雒陽に封じていただきたいと願います。」武帝は言った。「雒陽には武庫と敖倉があり、天下の要衝であり、漢国の大都会である。先帝以来、子を雒陽に王として封じた者はない。雒陽を除けば、残りは全て可能である。」王夫人は答えなかった。武帝は言った。「関東の国で斉より大きいものはない。斉は東は海に面し城郭は大きく、古くは臨菑だけで十万戸あり、天下の肥沃な地で斉より盛んなものはない。」王夫人は手で頭を打ち、謝して言った。「大変幸いです。」王夫人が死ぬと帝はこれを痛み、使者を遣わして拝礼させて言った。「皇帝謹んで太中大夫明を使者とし、璧一つを奉り、夫人を斉王太后となすことを賜う。」子の閎は斉王となったが、年少で子がなく、立った後、不幸にも早く死に、国は絶え、郡となった。天下の人は斉は王にふさわしくなかったと言う。

原文王夫人者,趙人也,與衛夫人并幸武帝,而生子閎。閎且立為王時,其母病,武帝自臨問之。曰:「子當為王,欲安所置之?」王夫人曰:「陛下在,妾又何等可言者。」帝曰:「雖然,意所欲,欲於何所王之?」王夫人曰:「願置之雒陽。」武帝曰:「雒陽有武庫敖倉,天下衝阸,漢國之大都也。先帝以來,無子王於雒陽者。去雒陽,餘盡可。」王夫人不應。武帝曰:「關東之國無大於齊者。齊東負海而城郭大,古時獨臨菑中十萬戶,天下膏腴地莫盛於齊者矣。」王夫人以手擊頭,謝曰:「幸甚。」王夫人死而帝痛之,使使者拜之曰:「皇帝謹使使太中大夫明奉璧一,賜夫人為齊王太后。」子閎王齊,年少,無有子,立,不幸早死,國絕,為郡。天下稱齊不宜王云。

いわゆる「この土を受く」とは、諸侯王で初めて封ぜられる者は必ず天子の社で土を受け、帰ってこれを立てて国社とし、歳時にこれを祀るのである。春秋大伝に言う。「天子の国には泰社がある。東方は青、南方は赤、西方は白、北方は黒、上方は黄である。」故に東方に封ぜられる者は青土を取り、南方に封ぜられる者は赤土を取り、西方に封ぜられる者は白土を取り、北方に封ぜられる者は黒土を取り、上方に封ぜられる者は黄土を取る。それぞれその色の物を取り、白茅で包み、封じて社とする。これが天子より初めて封を受ける者である。これを主土という。主土とは、社を立ててこれを奉ることである。「朕は祖考を承く」とは、祖は先、考は父である。「維れ稽古」とは、維ははかること、思うこと、稽はあたること、古の道に順うべきことをあてはめることである。

原文所謂「受此土」者,諸侯王始封者必受土於天子之社,歸立之以為國社,以歲時祠之。春秋大傳曰:「天子之國有泰社。東方青,南方赤,西方白,北方黑,上方黃。」故將封於東方者取青土,封於南方者取赤土,封於西方者取白土,封於北方者取黑土,封於上方者取黃土。各取其色物,裹以白茅,封以為社。此始受封於天子者也。此之為主土。主土者,立社而奉之也。「朕承祖考」,祖者先也,考者父也。「維稽古」,維者度也,念也,稽者當也,當順古之道也。

斉の地は変詐多く、礼義に習熟しない。故にこれを戒めて言う。「朕の詔を恭しくし、ただ命は常ならざるべからず。人の徳を好むは、能く明らかに光らす。義を図らずして、君子を怠慢ならしむることなかれ。心を悉くし、信を執りて其中にし、天禄は長く終わらん。過ち有りて善からざれば、乃ち国に凶あり、而して身を害せん」。斉王が国に就くや、左右の者が礼義をもって支え、不幸にも中年にして早く世を去った。しかし身を全うして過ちなく、その策書の意の如くであった。

原文齊地多變詐,不習於禮義,故戒之曰「恭朕之詔,唯命不可為常。人之好德,能明顯光。不圖於義,使君子怠慢。悉若心,信執其中,天祿長終。有過不善,乃凶于而國,而害于若身」。齊王之國,左右維持以禮義,不幸中年早夭。然全身無過,如其策意。

伝に「青采は藍より出でて、質は藍より青し」と言うのは、教えがそうさせるのである。遠くかなたの賢主よ、明らかに独り見る:斉王には内を慎むことを戒め、燕王には怨みを作らず、徳を修めざることを戒め、広陵王には外を慎み、威と福を作さざることを戒めた。

原文傳曰「青采出於藍,而質青於藍」者,教使然也。遠哉賢主,昭然獨見:誡齊王以慎內;誡燕王以無作怨,無修德;誡廣陵王以慎外,無作威與福。

広陵は呉越の地にあり、その民は精悍で軽躁である。故にこれを戒めて言う。「江湖の間、その人は心軽し。楊州は疆を葆ち、三代の時は、迫って要し中国の俗服に従わしめ、大いに政教に及ばず、意をもってこれを御するのみ。侗として佚を好むことなく、宵人に邇ることなく、維れ法を是れ則とせよ。長く佚楽・馳騁・弋獵・淫康を好み、小人に近づくことなかれ。常に法度を念えば、則ち羞辱無からん」。三江・五湖には魚塩の利、銅山の富があり、天下の仰ぐところである。故にこれを戒めて言う。「臣は福を作さず」とは、財幣を行い、厚く賞賜して、声譽を立て、四方の帰する所とならしめないことである。また「臣は威を作さず」とは、軽率によって義に背かせないことである。

原文夫廣陵在吳越之地,其民精而輕,故誡之曰「江湖之閒,其人輕心。楊州葆疆,三代之時,迫要使從中國俗服,不大及以政教,以意御之而已。無侗好佚,無邇宵人,維法是則。無長好佚樂馳騁弋獵淫康,而近小人。常念法度,則無羞辱矣」。三江、五湖有魚鹽之利,銅山之富,天下所仰。故誡之曰「臣不作福」者,勿使行財幣,厚賞賜,以立聲譽,為四方所歸也。又曰「臣不作威」者,勿使因輕以倍義也。

時に孝武帝崩じ、孝昭帝初めて立ち、先朝の廣陵王胥に、厚く金錢財幣を賞賜し、直ちに三千餘萬、地を百里益し、邑を萬戸とす。

原文會孝武帝崩,孝昭帝初立,先朝廣陵王胥,厚賞賜金錢財幣,直三千餘萬,益地百里,邑萬戶。

時に昭帝崩じ、宣帝初めて立ち、恩に緣りて義を行ひ、本始元年の中に、漢の地を裂き、盡く以て廣陵王胥の四子を封ず:一子を朝陽侯と爲し;一子を平曲侯と爲し;一子を南利侯と爲し;最も少子弘を愛し、立つて以て高密王と爲す。

原文會昭帝崩,宣帝初立,緣恩行義,以本始元年中,裂漢地,盡以封廣陵王胥四子:一子為朝陽侯;一子為平曲侯;一子為南利侯;最愛少子弘,立以為高密王。

其の後胥果たして威福を作し、楚王の使者と通ず。楚王宣言して曰く、「我が先元王は、高帝の少弟なり、三十二城を封ぜらる。今地邑益〻少なし、我廣陵王と共に兵を發せんと欲す云ふ。[立つ]廣陵王を上と爲し、我復た楚の三十二城に王たらん、元王の時が如く。」事發覺し、公卿有司罰誅を行ふを請ふ。天子骨肉の故を以て、忍びずして法を胥に致すに、詔書を下して廣陵王を治むること無く、獨り首惡の楚王を誅す。傳に曰く「蓬麻の中に生ずれば、扶けずして自ら直し;白沙泥中に在れば、之と皆黑し」とは、土地の教化之を然らしむるなり。其の後胥復た祝詛謀反し、自殺し、國除かる。

原文其後胥果作威福,通楚王使者。楚王宣言曰:「我先元王,高帝少弟也,封三十二城。今地邑益少,我欲與廣陵王共發兵云。[立]廣陵王為上,我復王楚三十二城,如元王時。」事發覺,公卿有司請行罰誅。天子以骨肉之故,不忍致法於胥,下詔書無治廣陵王,獨誅首惡楚王。傳曰「蓬生麻中,不扶自直;白沙在泥中,與之皆黑」者,土地教化使之然也。其後胥復祝詛謀反,自殺,國除。

燕の土は墝埆にして、北は匈奴に迫り、其の人民勇にして慮少なし、故に之を誡めて曰く「葷粥氏孝行無くして禽獸の心あり、以て竊盜し邊民を侵犯す。朕將軍を詔して往きて其の罪を征せしむ、萬夫長、千夫長、三十有二君皆來り、旗を降し師に奔る。葷粥域を徙めて遠處にし、北州以て安し」と。「悉く若の心にせよ、怨を作すこと無かれ」とは、從俗して怨望せしむること無からしむるなり。「德を俷すること無かれ」とは、王德に背かしむること無からしむるなり。「備を廢すること無かれ」とは、武備に乏しきこと無く、常に匈奴に備ふるなり。「教士に非ざれば徵に從ふことを得ず」とは、禮義を習はざれば側に在ることを得ざるを言ふなり。

原文燕土墝埆,北迫匈奴,其人民勇而少慮,故誡之曰「葷粥氏無有孝行而禽獸心,以竊盜侵犯邊民。朕詔將軍往征其罪,萬夫長,千夫長,三十有二君皆來,降旗奔師。葷粥徙域遠處,北州以安矣」。「悉若心,無作怨」者,勿使從俗以怨望也。「無俷德」者,勿使(上)[王]背德也。「無廢備」者,無乏武備,常備匈奴也。「非教士不得從徵」者,言非習禮義不得在於側也。

時に武帝年老ひ長じ、而して太子不幸に薨じ、未だ立つる所無く、而して旦使いをして來り上書せしめ、身を請ひて長安に宿衛に入らしむ。孝武其の書を見て、地を擊ち、怒りて曰く、「子を生みては當に之を齊魯禮義の鄉に置くべし、乃ち之を燕趙に置けば、果たして爭心有り、譲らざるの端見ゆ。」是に於て使いをして即ち其の使者を闕下に斬らしむ。

原文會武帝年老長,而太子不幸薨,未有所立,而旦使來上書,請身入宿衛於長安。孝武見其書,擊地,怒曰:「生子當置之齊魯禮義之鄉,乃置之燕趙,果有爭心,不讓之端見矣。」於是使使即斬其使者於闕下。

武帝が崩御し、昭帝が即位した初め、旦は果たして怨みを抱き、大臣たちを恨んだ。自ら長子として立つべきと考え、斉王の子劉澤らと謀って叛逆を企て、口にした、「わしの弟がどうして在位できようか。今立っているのは大将軍の子である」と。兵を起こそうとしたが、事が発覚し、誅殺されるべきところであった。昭帝は恩情により寛大に忍び、抑えて表沙汰にしなかった。公卿が大臣に命じて請願させ、宗正と太中大夫公戸滿意、御史二人を派遣し、ともに燕へ使いとして赴かせ、諭し説得させた。燕に到着すると、それぞれ別の日に、順番に王を責めた。宗正は、宗室諸劉の属籍を主管する者であり、先に王に会い、列をなして昭帝が実は武帝の子であることを説いた。侍御史がさらに王に会い、正法をもって責め、問うた、「王が兵を起こそうとした罪名は明白であり、これに坐すべきである。漢家には正法があり、王がわずかな小罪を犯しても、即座に法を執行して断ずるのみで、どうして王を寛大に扱えようか」と。文法をもって驚かせ動揺させた。王の気持ちはますます萎え、心に恐れを抱いた。公戸滿意は経術に通じ、最後に王に会い、古今の通義を称え引き、国家の大礼を述べ、文章は雅正であった。王に謂う、「古より天子は必ず内に異姓の大夫を置き、以て骨肉を正すのであり、外に同姓の大夫を置き、以て異族を正すのである。周公が成王を輔け、その二人の弟を誅したゆえに、治まったのである。武帝が在世の時は、尚お王を寛大に扱うことができた。今昭帝が即位したばかりで、年少であり、春秋に富み、まだ政に臨まず、大臣に委任している。古より誅罰は親戚に阿らず、故に天下は治まったのである。今まさに大臣が政を輔け、法を奉じて直行し、敢えて阿る所なく、王を寛大に扱うことはできない恐れがある。王は自ら謹むべきであり、自ら身を死なせ国を滅ぼし、天下の笑いものとなることなかれ」と。ここにおいて燕王旦は恐れ懼れて服罪し、叩頭して過ちを謝した。大臣は骨肉を和合させようとし、法をもって傷つけることを難しくした。

原文會武帝崩,昭帝初立,旦果作怨而望大臣。自以長子當立,與齊王子劉澤等謀為叛逆,出言曰:「我安得弟在者!今立者乃大將軍子也。」欲發兵。事發覺,當誅。昭帝緣恩寬忍,抑案不揚。公卿使大臣請,遣宗正與太中大夫公戶滿意、御史二人,偕往使燕,風喻之。到燕,各異日,更見責王。宗正者,主宗室諸劉屬籍,先見王,為列陳道昭帝實武帝子狀。侍御史乃復見王,責之以正法,問:「王欲發兵罪名明白,當坐之。漢家有正法,王犯纖介小罪過,即行法直斷耳,安能寬王。」驚動以文法。王意益下,心恐。公戶滿意習於經術,最後見王,稱引古今通義,國家大禮,文章爾雅。謂王曰:「古者天子必內有異姓大夫,所以正骨肉也;外有同姓大夫,所以正異族也。周公輔成王,誅其兩弟,故治。武帝在時,尚能寬王。今昭帝始立,年幼,富於春秋,未臨政,委任大臣。古者誅罰不阿親戚,故天下治。方今大臣輔政,奉法直行,無敢所阿,恐不能寬王。王可自謹,無自令身死國滅,為天下笑。」於是燕王旦乃恐懼服罪,叩頭謝過。大臣欲和合骨肉,難傷之以法。

その後、旦はまた左将軍上官桀らと謀反し、宣言した、「わしは太子に次ぐ者であり、太子がいないなら、わしが立つべきであるのに、大臣たちが共にわしを抑えつけている」などと。大将軍霍光が政を輔け、公卿大臣と議して曰く、「燕王旦は過ちを改め悔い正さず、悪を行って変わらない」と。ここにおいて法を整えて直断し、罰を執行して誅した。旦は自殺し、国は除かれ、その策の指すところのようになった。有司が旦の妻子を誅することを請うた。孝昭帝は骨肉の親情により、法に致すに忍びず、旦の妻子を寛赦し、免じて庶人とした。伝に曰く「蘭根と白芷と、滫の中に漸せば、君子近づかず、庶人服さず」とは、漸す所以のものである。

原文其後旦復與左將軍上官桀等謀反,宣言曰「我次太子,太子不在,我當立,大臣共抑我」云云。大將軍光輔政,與公卿大臣議曰:「燕王旦不改過悔正,行惡不變。」於是修法直斷,行罰誅。旦自殺,國除,如其策指。有司請誅旦妻子。孝昭以骨肉之親,不忍致法,寬赦旦妻子,免為庶人。傳曰「蘭根與白芷,漸之滫中,君子不近,庶人不服」者,所以漸然也。

宣帝が即位した初め、恩を推し広めて徳を宣べ、本始元年中に燕王旦の二人の子をことごとく再び封じた。一人の子を安定侯とし、燕の故太子建を立てて広陽王とし、以て燕王の祭祀を奉ぜしめた。

原文宣帝初立,推恩宣德,以本始元年中盡復封燕王旦兩子:一子為安定侯;立燕故太子建為廣陽王,以奉燕王祭祀。