史記

巻五十二 齊悼惠王世家 第二十二

劉肥

原文劉肥

齊悼惠王劉肥は、高祖の長庶男(庶子の長男)である。その母は外婦(正妻でない妻)であり、曹氏という。高祖六年、肥を立てて齊王とし、七十城を食邑とし、斉の言葉を話す民はすべて齊王に属せしめた。

原文齊悼惠王劉肥者,高祖長庶男也。其母外婦也,曰曹氏。高祖六年,立肥為齊王,食七十城,諸民能齊言者皆予齊王。

齊王は、孝惠帝の兄である。孝惠帝二年、齊王は入朝した。惠帝は齊王と宴飲し、家人の如く対等の礼をとった。呂太后は怒り、齊王を誅殺せんとした。齊王は脱出できぬことを恐れ、その内史勳の計を用い、城陽郡を献じて、魯元公主の湯沐邑と為すことを請うた。呂太后は喜び、ようやく辞して国に就くことを得た。

原文齊王,孝惠帝兄也。孝惠帝二年,齊王入朝。惠帝與齊王燕飲,亢禮如家人。呂太后怒,且誅齊王。齊王懼不得脫,乃用其內史勳計,獻城陽郡,以為魯元公主湯沐邑。呂太后喜,乃得辭就國。

悼恵王は即位して十三年、恵帝六年に卒した。子の襄が立ち、これが哀王である。

原文悼惠王即位十三年,以惠帝六年卒。子襄立,是為哀王。

哀王元年、孝恵帝が崩じ、呂太后が制を称し、天下の事は皆高后に決せられた。二年、高后はその兄の子の酈侯呂臺を立てて呂王とし、斉の済南郡を割いて呂王の奉邑とした。

原文哀王元年,孝惠帝崩,呂太后稱制,天下事皆決於高后。二年,高后立其兄子酈侯呂臺為呂王,割齊之濟南郡為呂王奉邑。

哀王三年、その弟の章が漢に入り宿衛し、呂太后は朱虚侯に封じ、呂禄の女を以て妻とさせた。後四年、章の弟の興居を東牟侯に封じ、皆長安中に宿衛した。

原文哀王三年,其弟章入宿衛於漢,呂太后封為朱虛侯,以呂祿女妻之。後四年,封章弟興居為東牟侯,皆宿衛長安中。

哀王八年、高后は斉の瑯邪郡を割き、営陵侯劉澤を立てて瑯邪王とした。

原文哀王八年,高后割齊瑯邪郡立營陵侯劉澤為瑯邪王。

その明年、趙王の友が入朝し、邸に幽死した。三趙王は皆廃された。高后は諸呂を立てて諸呂を三王とし、権を擅にし事を用いた。

原文其明年,趙王友入朝,幽死于邸。三趙王皆廢。高后立諸呂諸呂為三王,擅權用事。

朱虚侯は二十歳にして、気力あり、劉氏が職を得ざるを憤る。嘗て入りて高后の燕飲に侍す。高后、朱虚侯劉章をして酒吏たらしむ。章自ら請ひて曰く、「臣は将種なり。請ふ軍法を以て酒を行はんことを」と。高后曰く、「可なり」と。酒酣なるに及び、章進みて飲み歌舞す。已にして曰く、「請ふ太后の為に耕田の歌を言はん」と。高后は彼を児子の如くに畜ひ、笑ひて曰く、「顧みて爾の父は田を知るのみ。若は生まれながらにして王子たり、安んぞ田を知らんや」と。章曰く、「臣之を知る」と。太后曰く、「試みに我が為に田を言へ」と。章曰く、「深く耕し密に種し、苗を立てて疎ならんと欲す。其の種に非ざる者は、鉏を以て之を去る」と。呂后黙然たり。頃くして、諸呂の一人酔ひて、酒を亡ふ。章追ひ、剣を抜きて之を斬り、還りて報じて曰く、「酒を亡ふる者一人有り。臣謹みて法を行ひて之を斬る」と。太后の左右皆大驚す。既に其の軍法を許せるを業とし、以て罪する無し。因りて罷む。是より後、諸呂朱虚侯を憚り、大臣と雖も皆朱虚侯に依り、劉氏益々彊し。

原文朱虛侯年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入待高后燕飲,高后令朱虛侯劉章為酒吏。章自請曰:「臣,將種也,請得以軍法行酒。」高后曰:「可。」酒酣,章進飲歌舞。已而曰:「請為太后言耕田歌。」高后兒子畜之,笑曰:「顧而父知田耳。若生而為王子,安知田乎?」章曰:「臣知之。」太后曰:「試為我言田。」章曰:「深耕穊種,立苗欲疏,非其種者,鉏而去之。」呂后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之,而還報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之。」太后左右皆大驚。業已許其軍法,無以罪也。因罷。自是之後,諸呂憚朱虛侯,雖大臣皆依朱虛侯,劉氏為益彊。

其の明年、高后崩ず。趙王呂禄上將軍と為り、呂王産相国と為り、皆長安中に居り、兵を聚めて以て大臣を威し、乱を為さんと欲す。朱虚侯章は呂禄の女を以て婦と為し、其の謀を知る。乃ち人をして陰に出でて其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめんと欲し、朱虚侯・東牟侯を内応と為し、以て諸呂を誅し、因りて斉王を立てて帝と為さんとす。

原文其明年,高后崩。趙王呂祿為上將軍,呂王產為相國,皆居長安中,聚兵以威大臣,欲為亂。朱虛侯章以呂祿女為婦,知其謀,乃使人陰出告其兄齊王,欲令發兵西,朱虛侯、東牟侯為內應,以誅諸呂,因立齊王為帝。

斉王既に此の計を聞き、乃ち其の舅父駟鈞・郎中令祝午・中尉魏勃と陰謀して兵を発す。斉相召平之を聞き、乃ち卒を発して王宮を衛す。魏勃召平を紿して曰く、「王兵を発せんと欲すと雖も、漢の虎符の験有るに非ざるなり。而して相君王を囲むは、固より善し。勃請ふ君が為に兵を将ひて王を衛はん」と。召平之を信じ、乃ち魏勃をして兵を将ひて王宮を囲ましむ。勃既に兵を将ひ、相府を囲ましむ。召平曰く、「嗟乎、道家の言『断つべくして断たざれば、反つて其の乱を受く』とは、是れなり」と。遂に自殺す。是に於て斉王駟鈞を以て相と為し、魏勃を将軍と為し、祝午を内史と為し、悉く国中の兵を発す。祝午をして東に詐りて琅邪王に告げしめて曰く、「呂氏乱を作す。斉王兵を発して西して之を誅せんと欲す。斉王自ら兒子を以てし、年少にして兵革の事に習はず。願くは国を挙げて大王に委ぬ。大王は自ら高帝の将たり、戦事に習ふ。斉王兵を離るる敢へず。臣をして大王を請はしめ、幸ひに臨菑に之きて斉王に事を計り見えしめ、併せて斉兵を将ひて西し関中の乱を平げしめん」と。琅邪王之を信じ、然りと以為ひ、(西)[迺]ち馳せて斉王に見ゆ。斉王魏勃等と因りて琅邪王を留め、而して祝午をして尽く琅邪国を発して其の兵を併せ将はしむ。

原文齊王既聞此計,乃與其舅父駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平聞之,乃發卒衛王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王,固善。勃請為君將兵衛衛王。」召平信之,乃使魏勃將兵圍王宮。勃既將兵,使圍相府。召平曰:「嗟乎!道家之言『當斷不斷,反受其亂』,乃是也。」遂自殺。於是齊王以駟鈞為相,魏勃為將軍,祝午為內史,悉發國中兵。使祝午東詐瑯邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以兒子,年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王自高帝將也,習戰事。齊王不敢離兵,使臣請大王幸之臨菑見齊王計事,并將齊兵以西平關中之亂。」瑯邪王信之,以為然,(西)[迺]馳見齊王。齊王與魏勃等因留瑯邪王,而使祝午盡發瑯邪國而并將其兵。

琅邪王劉澤既に欺かれて見え、国に反ることを得ず。乃ち斉王に説きて曰く、「斉悼恵王は高皇帝の長子なり。本を推して言へば、而して大王は高皇帝の適長孫なり。立つべし。今諸大臣狐疑して未だ定むる所無し。而して澤は劉氏に於て最も長年なり。大臣固より澤を待ちて計を決す。今大王臣を留むるは為す無きなり。我をして関に入りて事を計らしむるに如かず」と。斉王然りと以為ひ、乃ち益々車を具へて琅邪王を送る。

原文瑯邪王劉澤既見欺,不得反國,乃說齊王曰:「齊悼惠王高皇帝長子,推本言之,而大王高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最為長年,大臣固待澤決計。今大王留臣無為也,不如使我入關計事。」齊王以為然,乃益具車送瑯邪王。

琅邪王既に行く。斉遂に兵を挙げて西し呂国の済南を攻む。是に於て斉哀王諸侯王に書を遺して曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王を斉に王とす。悼恵王薨ず。恵帝留侯張良をして臣を立てて斉王と為さしむ。恵帝崩ず。高后用事し、春秋高く、諸呂の擅に高帝の立てし所を廃し、又三趙王を殺し、梁・燕・趙を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉国を分けて四と為すを聴く。忠臣諫を進むるも、上惑乱して聴かず。今高后崩ず。皇帝春秋富み、未だ天下を治むること能はず。固より大臣諸(将)[侯]に恃む。今諸呂又擅に尊官を尊び、兵を聚め威を厳しくし、列侯忠臣を劫し、制を矯めて以て天下を令し、宗廟危き所以なり。今寡人兵を率ひ入りて王たるべからざる者を誅せん」と。

原文瑯邪王既行,齊遂舉兵西攻呂國之濟南。於是齊哀王遺諸侯王書曰:「高帝平定天下,王諸子弟,悼惠王於齊。悼惠王薨,惠帝使留侯張良立臣為齊王。惠帝崩,高后用事,春秋高,聽諸呂擅廢高帝所立,又殺三趙王,滅梁、燕、趙以王諸呂,分齊國為四。忠臣進諫,上惑亂不聽。今高后崩,皇帝春秋富,未能治天下,固恃大臣諸(將)[侯]。今諸呂又擅自尊官,聚兵嚴威,劫列侯忠臣,矯制以令天下,宗廟所以危。今寡人率兵入誅不當為王者。」

漢は斉が兵を発して西に向かうと聞き、相国呂産はかくて大将軍灌嬰を遣わして東にこれを撃たしめた。灌嬰が滎陽に至ると、謀って言うには、「諸呂が兵を率いて関中に居り、劉氏を危うくして自ら立たんと欲す。我今斉を破って還り報ずれば、これは呂氏の資を益すことなり」と。かくて兵を留めて滎陽に屯し、使者を遣わして斉王及び諸侯に諭し、これと連和し、以て呂氏の変を待ちて共にこれを誅さんとす。斉王これを聞き、かくて西にその故の済南郡を取る。また兵を斉の西界に屯して約を待つ。

原文漢聞齊發兵而西,相國呂產乃遣大將軍灌嬰東擊之。灌嬰至滎陽,乃謀曰:「諸呂將兵居關中,欲危劉氏而自立。我今破齊還報,是益呂氏資也。」乃留兵屯滎陽,使使喻齊王及諸侯,與連和,以待呂氏之變而共誅之。齊王聞之,乃西取其故濟南郡,亦屯兵於齊西界以待約。

呂禄・呂産は関中に乱を起こさんと欲す。朱虚侯と太尉勃・丞相平らこれを誅す。朱虚侯まず呂産を斬る。ここにおいて太尉勃らはかくて諸呂をことごとく誅し得たり。而して瑯邪王もまた斉より長安に至る。

原文呂祿、呂產欲作亂關中,朱虛侯與太尉勃、丞相平等誅之。朱虛侯首先斬呂產,於是太尉勃等乃得盡誅諸呂。而瑯邪王亦從齊至長安。

大臣議して斉王を立てんと欲す。而して瑯邪王及び大臣は言う、「斉王の母家の駟鈞は悪逆にして、虎にして冠する者なり。方に呂氏の故を以てほとんど天下を乱さんとす。今また斉王を立てば、これは復た呂氏たらんと欲するなり。代王の母家の薄氏は君子の長者なり。且つ代王はまた親しく高帝の子にして、今に現存し、且つ最も長なり。子を以てすれば則ち順い、善人を以てすれば則ち大臣安んず」と。ここにおいて大臣はかくて謀りて代王を迎え立てんとし、而して朱虚侯を遣わして呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。

原文大臣議欲立齊王,而瑯邪王及大臣曰:「齊王母家駟鈞,惡戾,虎而冠者也。方以呂氏故幾亂天下,今又立齊王,是欲復為呂氏也。代王母家薄氏,君子長者;且代王又親高帝子,於今見在,且最為長。以子則順,以善人則大臣安。」於是大臣乃謀迎立代王,而遣朱虛侯以誅呂氏事告齊王,令罷兵。

灌嬰は滎陽に在り、魏勃が本より斉王に反を教えしと聞き、既に呂氏を誅し、斉の兵を罷むるや、使者を遣わして召し責問す。勃曰く、「火事の家は、豈に暇あらんや先ず大人に言いて後に火を救わんや」と。因りて退き立ち、股戦いて慄き、言う能わざるを恐るるが如く、終に他言無し。灌将軍熟視して笑い曰く、「人は魏勃を勇者と謂うも、妄りの庸人なるのみ。何をか為す能わんや」と。かくて魏勃を罷む。魏勃の父は善く鼓琴するを以て秦皇帝に見ゆ。及び魏勃の少時、斉の相曹参に見えんと欲す。家貧しく以て自ら通ずる無く、乃ち常に独り早夜に斉相の舎人の門外を掃う。相舎人怪しみて、物と以為い、而してこれを伺い、勃を得たり。勃曰く、「相君に見えんと願うも、因る所無し。故に子のために掃い、以て見えんと欲す」と。ここにおいて舎人は勃を曹参に見えしめ、因りて以て舎人と為す。一たび参の御を為し、事を言う。参以て賢と為し、これを斉悼恵王に言う。悼恵王召見し、則ち内史に拝す。初め、悼恵王は自ら二千石を置くことを得たり。及び悼恵王卒して哀王立つや、勃は用事し、斉の相よりも重し。

原文灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王反,既誅呂氏,罷齊兵,使使召責問魏勃。勃曰:「失火之家,豈暇先言大人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能為乎!」乃罷魏勃。魏勃父以善鼓琴見秦皇帝。及魏勃少時,欲求見齊相曹參,家貧無以自通,乃常獨早夜埽齊相舍人門外。相舍人怪之,以為物,而伺之,得勃。勃曰:「願見相君,無因,故為子埽,欲以求見。」於是舍人見勃曹參,因以為舍人。一為參御,言事,參以為賢,言之齊悼惠王。悼惠王召見,則拜為內史。始,悼惠王得自置二千石。及悼惠王卒而哀王立,勃用事,重於齊相。

王既に兵を罷めて帰り、而して代王来たりて立つ。是を孝文帝と為す。

原文王既罷兵歸,而代王來立,是為孝文帝。

孝文帝元年、高后の時に斉から割いた城陽・瑯邪・済南の郡をことごとく斉に返し、瑯邪王を燕に移して王とし、朱虚侯・東牟侯に各二千戸を加封した。

原文孝文帝元年,盡以高后時所割齊之城陽、瑯邪、濟南郡復與齊,而徙瑯邪王王燕,益封朱虛侯、東牟侯各二千戶。

この年、斉の哀王が卒し、太子(側)[則]が立ち、これが文王である。

原文是歲,齊哀王卒,太子(側)[則]立,是為文王。

斉の文王元年、漢は斉の城陽郡をもって朱虚侯を城陽王とし、斉の済北郡をもって東牟侯を済北王とした。

原文齊文王元年,漢以齊之城陽郡立朱虛侯為城陽王,以齊濟北郡立東牟侯為濟北王。

二年、済北王が反し、漢はこれを誅殺し、その地は漢に入った。

原文二年,濟北王反,漢誅殺之,地入于漢。

後二年、孝文帝は斉の悼恵王の子罷軍ら七人をことごとく列侯に封じた。

原文後二年,孝文帝盡封齊悼惠王子罷軍等七人皆為列侯。

齊の文王は立つこと十四年にして卒し、子がなく、国は除かれ、その地は漢に入る。

原文齊文王立十四年卒,無子,國除,地入于漢。

その後一年、孝文帝は封じた悼恵王の子を以て斉を分けて王とし、斉の孝王将閭は悼恵王の子の楊虚侯を以て斉王となった。故に斉の別郡は尽く以て悼恵王の子を王とす:子の志は済北王となり、子の辟光は済南王となり、子の賢は菑川王となり、子の卬は膠西王となり、子の雄渠は膠東王となり、城陽・斉と合わせて凡そ七王。

原文後一歲,孝文帝以所封悼惠王子分齊為王,齊孝王將閭以悼惠王子楊虛侯為齊王。故齊別郡盡以王悼惠王子:子志為濟北王,子辟光為濟南王,子賢為菑川王,子卬為膠西王,子雄渠為膠東王,與城陽、齊凡七王。

斉の孝王十一年、呉王濞・楚王戊が反し、兵を興して西に向かい、諸侯に告げて曰く「漢の賊臣晁錯を誅して以て宗廟を安んぜん」と。膠西・膠東・菑川・済南は皆勝手に兵を発して呉・楚に応ず。斉と与らんと欲すれども、斉の孝王は狐疑し、城を守って聴かず、三国の兵共に斉を囲む。斉王は路中大夫を使わして天子に告げしむ。天子復た路中大夫をして還り斉王に告げしむ:「善く堅守せよ、吾が兵今呉・楚を破れり」と。路中大夫至るに、三国の兵は臨菑を囲むこと数重、入るに従うこと無し。三国の将、路中大夫を劫して盟せしめ、曰く「若し反って言え、漢已に破れりと、斉はすみやかに三国に下れ、然らずんば且つ屠られんことを見ん」と。路中大夫既に之を許し、城下に至り、斉王を望み見て曰く「漢已に兵百万を発し、太尉周亜夫を使わして呉・楚を撃破せしめ、方に兵を引いて斉を救わんとす、斉は必ず堅守して下るなかれ」と。三国の将、路中大夫を誅す。

原文齊孝王十一年,吳王濞、楚王戊反,興兵西,告諸侯曰「將誅漢賊臣晁錯以安宗廟」。膠西、膠東、菑川、濟南皆擅發兵應吳楚。欲與齊,齊孝王狐疑,城守不聽,三國兵共圍齊。齊王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還告齊王:「善堅守,吾兵今破吳楚矣。」路中大夫至,三國兵圍臨菑數重,無從入。三國將劫與路中大夫盟,曰:「若反言漢已破矣,齊趣下三國,不且見屠。」路中大夫既許之,至城下,望見齊王,曰:「漢已發兵百萬,使太尉周亞夫擊破吳楚,方引兵救齊,齊必堅守無下!」三國將誅路中大夫。

斉は初め囲み急なりしとき、密かに三国と謀を通じ、約未だ定まらず、たまたま路中大夫の漢より来たるを聞き、喜び、其の大臣に及んで乃ち復た王を勧めて三国に下るなからしむ。居ること無何しばらく、漢の将欒布・平陽侯等の兵斉に至り、三国の兵を撃破し、斉の囲みを解く。已にして復た聞く、斉初め三国と謀有りしを、将に兵を移して斉を伐たんと欲すと。斉の孝王懼れ、乃ち薬を飲みて自殺す。景帝之を聞き、以て斉は首に善く、迫劫せられて謀有るも、其の罪に非ざるなりと為し、乃ち孝王の太子寿を立てて斉王と為し、是を懿王と為し、斉の後を継がしむ。而して膠西・膠東・済南・菑川王は咸く誅滅せられ、地は漢に入る。済北王を徙して菑川に王たらしむ。斉の懿王は立つこと二十二年にして卒し、子の次景立つ、是を厲王と為す。

原文齊初圍急,陰與三國通謀,約未定,會聞路中大夫從漢來,喜,及其大臣乃復勸王毋下三國。居無何,漢將欒布、平陽侯等兵至齊,擊破三國兵,解齊圍。已而復聞齊初與三國有謀,將欲移兵伐齊。齊孝王懼,乃飲藥自殺。景帝聞之,以為齊首善,以迫劫有謀,非其罪也,乃立孝王太子壽為齊王,是為懿王,續齊後。而膠西、膠東、濟南、菑川王咸誅滅,地入于漢。徙濟北王王菑川。齊懿王立二十二年卒,子次景立,是為厲王。

斉の厲王、其の母を紀太后と曰う。太后は其の弟の紀氏の女を取って厲王の后と為す。王は紀氏の女を愛せず。太后は其の家の寵を重んぜんと欲し、其の長女の紀翁主をして王宮に入り、其の後宮を正し、王に近づくことを得しめず、紀氏の女を愛せしめんと欲す。王因りて其の姉の翁主と姦す。

原文齊厲王,其母曰紀太后。太后取其弟紀氏女為厲王后。王不愛紀氏女。太后欲其家重寵,令其長女紀翁主入王宮,正其後宮,毋令得近王,欲令愛紀氏女。王因與其姊翁主姦。

斉に宦者徐甲あり、漢の皇太后に事へ入る。皇太后に愛女ありて修成君と曰ふ、修成君は劉氏に非ず、太后之を憐れむ。修成君に女あり名は娥とす、太后之を諸侯に嫁せんと欲す、宦者甲乃ち斉に使はんことを請ひ、必ず王をして上書して娥を請はしめんとす。皇太后喜び、甲をして斉に之かしむ。是の時斉人主父偃、甲の斉に使はれて后を取らんとする事を知り、亦た因りて甲に謂ひて曰く、「即ち事成らば、幸ひに偃の女願はくは王の後宮に充たんことを得んとすとを言へ」と。甲既に斉に至り、風に此の事を以てす。紀太后大いに怒りて曰く、「王に后あり、後宮備はれり。且つ甲は斉の貧人、急に乃ち宦者と為り、漢に事へ入り、補益無く、乃ち吾が王家を乱さんと欲す!且つ主父偃何を為す者ぞ?乃ち女を以て後宮に充たんと欲す!」徐甲大いに窮し、還りて皇太后に報じて曰く、「王已に娥を尚はんことを願ふ、然れども一害あり、燕王の如きを恐る」と。燕王は、其の子昆弟と姦し、新たに坐して死し、国を亡ぼす、故に燕を以て太后を感ぜしむ。太后曰く、「復た斉に女を嫁す事を言ふ無かれ」と。事浸潯として天子に聞こゆるを得ず。主父偃此より亦た斉と隙有り。

原文齊有宦者徐甲,入事漢皇太后。皇太后有愛女曰修成君,修成君非劉氏,太后憐之。修成君有女名娥,太后欲嫁之於諸侯,宦者甲乃請使齊,必令王上書請娥。皇太后喜,使甲之齊。是時齊人主父偃知甲之使齊以取后事,亦因謂甲:「即事成,幸言偃女願得充王後宮。」甲既至齊,風以此事。紀太后大怒,曰:「王有后,後宮具備。且甲,齊貧人,急乃為宦者,入事漢,無補益,乃欲亂吾王家!且主父偃何為者?乃欲以女充後宮!」徐甲大窮,還報皇太后曰:「王已願尚娥,然有一害,恐如燕王。」燕王者,與其子昆弟姦,新坐以死,亡國,故以燕感太后。太后曰:「無復言嫁女齊事。」事浸潯[不得]聞於天子。主父偃由此亦與齊有卻。

主父偃方に天子に幸せられ、事を用ふ、因りて言ふ、「斉の臨菑十万戸、市租千金、人衆殷富、長安よりも巨なり、此れ天子の親弟愛子に非ざれば此を王たるを得ず。今斉王は親属に於て益々疎し」と。乃ち従容として言ふ、「呂太后の時斉は反せんと欲し、呉楚の時孝王幾くんば乱を為さんとす。今聞く斉王其の姉と乱すと」と。是に於て天子乃ち主父偃を斉の相と為し、且つ其の事を正さしむ。主父偃既に斉に至り、乃ち急ぎて王の後宮の宦者、王の姉翁主の所に通ずる者を治め、其の辞証をして皆王を引かしむ。王年少く、大罪を懼れて吏に執はれ誅せらるるを、乃ち薬を飲みて自殺す。後を絶つ。

原文主父偃方幸於天子,用事,因言:「齊臨菑十萬戶,市租千金,人眾殷富,巨於長安,此非天子親弟愛子不得王此。今齊王於親屬益疏。」乃從容言:「呂太后時齊欲反,吳楚時孝王幾為亂。今聞齊王與其姊亂。」於是天子乃拜主父偃為齊相,且正其事。主父偃既至齊,乃急治王後宮宦者為王通於姊翁主所者,令其辭證皆引王。王年少,懼大罪為吏所執誅,乃飲藥自殺。絕無後。

是の時趙王、主父偃の一出して斉を廃するを懼れ、其の骨肉を漸く疎んずるを恐れ、乃ち上書して偃の金を受くる及び軽重の短を言ふ。天子亦た既に偃を囚ふ。公孫弘言ふ、「斉王憂ひを以て死して後無く、国漢に入る、偃を誅せざれば以て天下の望みを塞ぐ無し」と。遂に偃を誅す。

原文是時趙王懼主父偃一出廢齊,恐其漸疏骨肉,乃上書言偃受金及輕重之短。天子亦既囚偃。公孫弘言:「齊王以憂死毋後,國入漢,非誅偃無以塞天下之望。」遂誅偃。

斉厲王立ちて五年にして死し、後無く、国漢に入る。

原文齊厲王立五年死,毋後,國入于漢。

斉悼恵王の後尚ほ二国あり、城陽及び菑川なり。菑川の地は斉に比す。天子斉を憐れみ、悼恵王の冢園郡に在るが為に、臨菑の東を割きて悼恵王の冢園邑を環らしめて尽く菑川に与へ、以て悼恵王の祭祀を奉ぜしむ。

原文齊悼惠王後尚有二國,城陽及菑川。菑川地比齊。天子憐齊,為悼惠王冢園在郡,割臨菑東環悼惠王冢園邑盡以予菑川,以奉悼惠王祭祀。

城陽景王劉章は、斉の悼恵王の子であり、朱虚侯として大臣らと共に諸呂を誅し、劉章自ら率先して未央宮において相国呂王産を斬った。孝文帝が即位すると、劉章に二千戸を加増し、金千斤を賜う。孝文二年、斉の城陽郡を以て劉章を立てて城陽王とした。二年間王位に在って卒し、子の劉喜が立ち、これが共王である。

原文城陽景王章,齊悼惠王子,以朱虛侯與大臣共誅諸呂,而章身首先斬相國呂王產於未央宮。孝文帝既立,益封章二千戶,賜金千斤。孝文二年,以齊之城陽郡立章為城陽王。立二年卒,子喜立,是為共王。

共王八年、淮南に移封された。四年後、再び城陽に戻って王となった。合わせて三十三年間在位して卒し、子の劉延が立ち、これが頃王である。

原文共王八年,徙王淮南。四年,復還王城陽。凡三十三年卒,子[建]延立,是為頃王。

頃王二十六年卒し、子の劉義が立ち、これが敬王である。敬王九年卒し、子の劉武が立ち、これが恵王である。恵王十一年卒し、子の劉順が立ち、これが荒王である。荒王四十六年卒し、子の劉恢が立ち、これが戴王である。戴王八年卒し、子の劉景が立ったが、建始三年に至り、十五歳で卒した。

原文頃王二十(八)[六]年卒,子義立,是為敬王。敬王九年卒,子武立,是為惠王。惠王十一年卒,子順立,是為荒王。荒王四十六年卒,子恢立,是為戴王。戴王八年卒,子景立,至建始三年,十五歲,卒。

済北王劉興居は、斉の悼恵王の子であり、東牟侯として大臣を助けて諸呂を誅したが、功績は少なかった。文帝が代より来たるに及んで、劉興居は言う、「太仆の灌嬰と共に宮中を清めることを請う」と。少帝を廃し、大臣らと共に孝文帝を尊んで立てた。

原文濟北王興居,齊悼惠王子,以東牟侯助大臣誅諸呂,功少。及文帝從代來,興居曰:「請與太仆嬰入清宮。」廢少帝,共與大臣尊立孝文帝。

孝文帝二年、斉の済北郡を以て劉興居を立てて済北王とし、城陽王と共に封じられた。二年間王位に在って、反逆した。初め大臣らが呂氏を誅した時、朱虚侯の功績は特に大きく、趙の地を尽くして朱虚侯を王とし、梁の地を尽くして東牟侯を王とすることを約した。孝文帝が即位すると、朱虚侯・東牟侯が初め斉王を立てようとしたと聞き、故にその功績を削った。二年に至り、諸子を王とするに当たり、斉の二郡を割いて劉章・劉興居を王とした。劉章・劉興居は自ら職を失い功を奪われたと思った。劉章が死に、劉興居は匈奴が大いに漢に入寇し、漢が多く兵を発し、丞相の灌嬰をしてこれを撃たせ、文帝自ら太原に幸し、天子自ら胡を撃つと聞き、遂に済北において兵を発して反逆した。天子これを聞き、丞相及び行軍を罷め、皆長安に帰した。棘蒲侯柴将軍をして済北王を撃破させ虜とし、王は自殺し、その地は漢に入り、郡となった。

原文孝文帝二年,以齊之濟北郡立興居為濟北王,與城陽王俱立。立二年,反。始大臣誅呂氏時,朱虛侯功尤大,許盡以趙地王朱虛侯,盡以梁地王東牟侯。及孝文帝立,聞朱虛、東牟之初欲立齊王,故絀其功。及二年,王諸子,乃割齊二郡以王章、興居。章、興居自以失職奪功。章死,而興居聞匈奴大入漢,漢多發兵,使丞相灌嬰擊之,文帝親幸太原,以為天子自擊胡,遂發兵反於濟北。天子聞之,罷丞相及行兵,皆歸長安。使棘蒲侯柴將軍擊破虜濟北王,王自殺,地入于漢,為郡。

後十二年(文帝十六年)、再び斉悼恵王の子安都侯志を以て済北王と為す。十一年、呉楚の反時に、志は堅く守り、諸侯と謀を合せず。呉楚既に平らぎ、志を徙して菑川に王たらしむ。

原文後十(二)[三]年,文帝十六年,復以齊悼惠王子安都侯志為濟北王。十一年,吳楚反時,志堅守,不與諸侯合謀。吳楚已平,徙志王菑川。

済南王辟光は、斉悼恵王の子、勒侯を以て孝文十六年に済南王と為る。十一年、呉楚と反す。漢之を撃ち破り、辟光を殺し、済南を以て郡と為し、地は漢に入る。

原文濟南王辟光,齊悼惠王子,以勒侯孝文十六年為濟南王。十一年,與吳楚反。漢擊破,殺辟光,以濟南為郡,地入于漢。

菑川王賢は、斉悼恵王の子、武城侯を以て文帝十六年に菑川王と為る。十一年、呉楚と反し、漢之を撃ち破り、賢を殺す。

原文菑川王賢,齊悼惠王子,以武城侯文帝十六年為菑川王。十一年,與吳楚反,漢擊破,殺賢。

天子因りて済北王志を徙して菑川に王たらしむ。志も亦斉悼恵王の子、安都侯を以て済北に王たり。菑川王反し、後無く、乃ち済北王を徙して菑川に王たらしむ。凡そ三十五年を立つて卒し、謚して懿王と為す。子建代わりて立ち、是を靖王と為す。二十年卒し、子遺代わりて立ち、是を頃王と為す。三十六年卒し、子終古立ち、是を思王と為す。二十八年卒し、子尚立ち、是を孝王と為す。五年卒し、子横立ち、建始三年に至り、十一歳、卒す。

原文天子因徙濟北王志王菑川。志亦齊悼惠王子,以安都侯王濟北。菑川王反,毋後,乃徙濟北王王菑川。凡立三十五年卒,謚為懿王。子建代立,是為靖王。二十年卒,子遺代立,是為頃王。三十六年卒,子終古立,是為思王。二十八年卒,子尚立,是為孝王。五年卒,子橫立,至建始三年,十一歲,卒。

膠西王卬は、斉悼恵王の子、昌平侯を以て文帝十六年に膠西王と為る。十一年、呉楚と反す。漢之を撃ち破り、卬を殺し、地は漢に入り、膠西郡と為る。

原文膠西王卬,齊悼惠王子,以昌平侯文帝十六年為膠西王。十一年,與吳楚反。漢擊破,殺卬,地入于漢,為膠西郡。

膠東王雄渠は、齊の悼惠王の子にして、白石侯として文帝十六年に膠東王となる。十一年、呉楚とともに反し、漢に撃破され、雄渠は殺され、地は漢に入り、膠東郡となる。

原文膠東王雄渠,齊悼惠王子,以白石侯文帝十六年為膠東王。十一年,與吳楚反,漢擊破,殺雄渠,地入于漢,為膠東郡。

太史公曰く、諸侯の大国は齊の悼惠王に過ぐるものなし。海内初めて定まり、子弟少なく、秦の尺土も封ぜざるを激しみ、故に同姓を大封し、以て萬民の心を填む。及び後に分裂するは、固より其の理なり。

原文太史公曰:諸侯大國無過齊悼惠王。以海內初定,子弟少,激秦之無尺土封,故大封同姓,以填萬民之心。及後分裂,固其理也。

【索隠述賛】漢は秦の制を矯ひ、屏を樹て自ら彊し。表海の大国、悉く齊王に封ず。呂后怒りを肆はし、乃ち城陽を献ず。哀王嗣ぎ立ち、其の力を量らず。硃虚は漢に仕へ、功大にして策長し。東牟賞を受け、乱を称して殃を貽す。膠東、濟北、雄渠、辟光。齊は七国と雖も、忠孝なる者は昌ふ。

原文【索隱述贊】漢矯秦制,樹屏自彊。表海大國,悉封齊王。呂後肆怒,乃獻城陽。哀王嗣立,其力不量。硃虛仕漢,功大策長。東牟受賞,稱亂貽殃。膠東、濟北,雄渠,辟光。齊雖七國,忠孝者昌。