巻046

陳完

陳完は、陳の厲公他の子である。完が生まれたとき、周の太史が陳を訪れ、陳厲公は完を占わせたところ、観の卦から否の卦を得て、「これは国の光を観るということで、王に賓たるに利あり。これは陳に代わって国を持つであろうか。ここではなくて異国にあるであろうか。この身ではなく、その子孫にあるであろう。もし異国にあれば、必ず姜姓であろう。姜姓は四嶽の後である。物は両大なること能わず、陳が衰えるとき、これが栄えるであろう」と言った。

厲公は、陳の文公の少子であり、その母は蔡の女である。文公が卒すると、厲公の兄鮑が立ち、これが桓公である。桓公と他とは異母であった。桓公が病むと、蔡人が他をして桓公鮑と太子免を殺させて他を立て、厲公とした。厲公が立つと、蔡女を娶った。蔡女は蔡人と淫通し、しばしば帰国し、厲公もまたしばしば蔡に行った。桓公の少子林は厲公がその父と兄を殺したことを怨み、蔡人に命じて厲公を誘い殺させた。林は自立し、これが莊公である。ゆえに陳完は立つことができず、陳の大夫となった。厲公の殺されたのは、淫行によって国を出たためであり、故に『春秋』に「蔡人、陳他を殺す」とあり、これを罪しているのである。

莊公が卒すると、弟の杵臼を立て、これが宣公である。宣公二十一年、その太子御寇を殺した。御寇は完と仲が良く、禍が己に及ぶことを恐れ、完は故に斉に奔った。斉の桓公は卿にしようとしたが、辞して言うには、「羈旅の臣、幸いに負檐を免れるを得るは、君の恵みなり、敢えて高位に当たらざるなり」と。桓公は工正とした。斉の懿仲が完に妻を娶らせようとし、これを占うと、占いに曰く、「是れ鳳皇の飛ぶを謂い、和鳴鏘鏘たり。媯の後、将に姜に育たん。五世其れ昌え、正卿に へい び、八世の後、之と京ぶる莫からん」と。ついに完に妻を娶らせた。完が斉に奔ったとき、斉桓公が立って十四年であった。

完が卒し、諡して敬仲という。仲は稚孟夷を生む。敬仲が斉に来たとき、陳の字を田氏とした。

田文子

田稚孟夷は湣孟莊を生み、田湣孟莊は文子須無を生む。田文子は斉の莊公に仕えた。 しん の大夫欒逞が しん で乱を起こし、斉に奔って来ると、斉莊公は手厚く客とした。晏嬰と田文子が諫めたが、莊公は聞き入れなかった。文子が卒し、桓子無宇を生む。

田桓子

田桓子無宇は力があり、斉の莊公に仕え、甚だ寵愛された。無宇が卒し、武子開と釐子乞を生む。

田釐子

田釐子乞は斉の景公に仕えて大夫となり、民から賦税を収めるには小斗で受け取り、民に稟するには大斗で与え、民に陰徳を行い、景公は禁じなかった。これにより田氏は斉の衆心を得、宗族はますます強くなり、民は田氏を思った。晏子はたびたび景公に諫めたが、景公は聞き入れなかった。後に しん に使いし、叔向に私語して言うには、「斉国の政はついに田氏に帰するであろう」と。

晏嬰が卒した後、范氏・中行氏が しん に背いた。 しん が急に攻めると、范氏・中行氏は斉に粟を請うた。田乞は乱を起こそうとし、諸侯に党を樹てようとして、景公に説いて言うには、「范氏・中行氏はたびたび斉に徳あり、斉は救わざるべからず」と。斉は田乞を使わしてこれを救い、粟を輸送させた。

景公の太子が死に、後に寵姫芮子があり、子の荼を生んだ。景公が病み、その相の国恵子と髙昭子に命じて子荼を太子とした。景公が卒すると、両相の髙氏・國氏が荼を立て、これが晏孺子である。田乞は喜ばず、景公の他の子の陽生を立てようとした。陽生は平素より乞と親しかった。晏孺子が立つと、陽生は魯に奔った。田乞は髙昭子・國恵子に偽って仕え、毎日代参乗して言うには、「初め諸大夫は孺子を立てることを欲しなかった。孺子が既に立ち、君がこれを相するも、大夫は皆自ら危うく思い、乱を謀っている」と。また大夫たちに欺いて言うには、「髙昭子は畏るべし、未だ発せざるに先んぜよ」と。諸大夫はこれに従った。田乞・鮑牧と大夫たちは兵を率いて公室に入り、髙昭子を攻めた。昭子はこれを聞き、國恵子とともに公を救った。公の師は敗れた。田乞の衆は國恵子を追い、恵子は莒に奔り、ついに返って髙昭子を殺した。晏圉は魯に奔った。

田乞は人を魯に使いし、陽生を迎えた。陽生が斉に至ると、田乞の家に匿った。諸大夫に請うて言うには、「常の母に魚菽の祭りあり、幸いに来り会飲せんことを」と。田氏で会飲した。田乞は陽生を嚢の中に盛り、座の中央に置いた。嚢を開き、陽生を出して言うには、「これ乃ち斉の君なり」と。大夫たちは皆伏して謁した。将に盟してこれを立てんとし、田乞は誣って言うには、「吾は鮑牧と謀りて共に陽生を立てたのである」と。鮑牧は怒って言うには、「大夫は景公の命を忘れたか」と。諸大夫は悔いようとしたが、陽生は頓首して言うには、「可ならばこれを立て、不可ならば已めよ」と。鮑牧は禍が己に及ぶことを恐れ、また言うには、「皆景公の子なり、何を以て不可ならんや」と。ついに田乞の家で陽生を立て、これが悼公である。乃ち人を使わして晏孺子を駘に遷し、孺子荼を殺した。悼公が立つと、田乞は相となり、斉の政を専らにした。

四年、田乞が卒し、子の常が代わって立ち、これが田成子である。

田成子

鮑牧は斉の悼公と不和となり、悼公を しい した。斉人は共にその子壬を立て、これが簡公となった。田常 (成子) と監止がともに左右の相となり、簡公を補佐した。田常は内心監止を妬み害そうとしたが、監止は簡公に寵愛され、権力を除くことができなかった。そこで田常は再び釐子の政治を修め、大斗で貸し出し、小斗で回収した。斉人はこれを歌って言った。「おばあさんよ、芑を採って、田成子のもとに帰ろう!」斉の大夫が朝見したとき、御鞅が簡公に諫めて言った。「田氏と監氏は併存できません。君はどちらかを選ばれるべきです。」君は聞き入れなかった。

子我という者は、監止の同族であり、常に田氏と不和であった。田氏の疎族である田豹が子我に仕えて寵愛を受けていた。子我が言った。「私は田氏の嫡流を全て滅ぼし、豹をもって田氏の宗家を代わらせたい。」豹は言った。「私は田氏では疎遠な者です。」と聞き入れなかった。やがて豹は田氏に告げて言った。「子我が田氏を誅滅しようとしています。田氏が先手を打たなければ、禍が及びます。」子我は公宮に宿泊していた。田常兄弟四人が車に乗って公宮へ赴き、子我を殺そうとした。子我は門を閉ざした。簡公は婦人と檀台で酒を飲み、田常を撃とうとした。太史の子餘が言った。「田常は敢えて乱を起こすのではなく、害を除こうとしているのです。」簡公はやめた。田常が退出し、簡公が怒ったと聞き、誅殺されることを恐れ、逃亡しようとした。田子行が言った。「ぐずぐずすることは、事を害するものだ。」田常はそこで子我を撃った。子我はその徒党を率いて田氏を攻めたが、勝てず、逃亡した。田氏の徒党が追撃して子我と監止を殺した。

簡公は出奔した。田氏の徒党が徐州で簡公を追い捕らえた。簡公は言った。「早く御鞅の言葉に従っていれば、この難に遭わなかったものを。」田氏の徒党は簡公が再び立って自分たちを誅殺することを恐れ、遂に簡公を殺した。簡公が立って四年で殺された。そこで田常は簡公の弟驁を立て、これが平公となった。平公が即位すると、田常が相となった。

田常は簡公を殺した後、諸侯が共に己を誅伐することを恐れ、尽く魯と衛に侵した土地を返還し、西では晋の韓・魏・趙氏と盟約を結び、南では呉・越の使者と通じ、功績を修め賞を行い、百姓に親しんだ。この故に斉は再び安定した。

田常は斉の平公に言った。「徳を施すことは人の欲するところです。君はこれを行われよ。刑罰は人の憎むところです。臣がこれを行います。」これを五年行うと、斉国の政は全て田常に帰した。田常はそこで尽く鮑氏・晏氏・監止および公族の有力者を誅殺し、斉を割いて安平以東から琅邪までを自らの封邑とした。封邑は平公の食む所より大きかった。

田常はそこで斉国中の女子で身長七尺以上の者を選んで後宮とし、後宮は数百に及び、賓客や舎人に後宮への出入りを禁じなかった。田常が卒する時までに、七十余人の男子があった。

田常が卒すると、子の襄子盤が代わって立ち、斉の相となった。常は成子と諡された。

田襄子

田襄子が斉の宣公の相となると、三晋が知伯を殺し、その地を分けた。襄子はその兄弟や宗人を尽く斉の都邑の大夫とし、三晋と使者を通わせ、かつ斉国を有するようになった。襄子が卒すると、子の莊子白が立った。

田莊子

田莊子は斉の宣公の相となった。宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲んだ。翌年、魯・葛および安陵を伐った。その翌年、魯の一城を取った。莊子が卒すると、子の太公和が立った。

田斉太公

田太公は斉の宣公の相となった。宣公四十八年、魯の城を取った。翌年、宣公は鄭人と西城で会した。衛を伐ち、毋丘を取った。宣公五十一年に卒し、田会が廩丘で反乱を起こした。

宣公が卒すると、子の康公貸が立った。貸が立って十四年、酒と婦人に耽り、政務を聴かなかった。太公はそこで康公を海上に遷し、一城を食ませて、その先祖の祭祀を奉じさせた。翌年、魯が斉の平陸で斉を破った。

三年、太公 (田和) は魏の文侯と濁沢で会し、諸侯となることを求めた。魏の文侯は使者を遣わして周の天子及び諸侯に言上し、斉の相田和を諸侯に立てることを請うた。周の天子はこれを許した。康公 (姜斉の康公) の十九年、田和は斉侯に立てられ、周室に列し、紀元を建てた。

田斉の桓公

斉侯太公和が立って二年、和が卒し、子の桓公午が立った。桓公午の五年、秦・魏が韓を攻め、韓は斉に救援を求めた。斉の桓公は大臣を召して謀りて曰く、「早く救うのと遅く救うのと、どちらがよいか」。騶忌が曰く、「救わないに如かず」。段干朋が曰く、「救わなければ、韓はやがて屈服して魏に入るであろう、救うに如かず」。田臣思が曰く、「過ちなり、君の謀りは。秦・魏が韓・楚を攻めれば、趙は必ずこれを救う、これは天が燕を斉に与えるなり」。桓公曰く、「善し」。乃ち密かに韓の使者に告げてこれを遣わした。韓は自ら斉の救援を得たと思い、因って秦・魏と戦った。楚・趙はこれを聞き、果たして兵を起こしてこれを救った。斉は因って兵を起こして燕国を襲い、桑丘を取った。

六年、衛を救う。桓公卒し、子の威王因斉が立った。この年、故斉の康公卒し、後嗣絶えて無く、奉邑は皆田氏に入った。

斉の威王

斉の威王元年、三晋 (韓・魏・趙) は斉の喪に乗じて来たりて我が霊丘を伐つ。三年、三晋は晋の後を滅ぼしてその地を分かつ。六年、魯は我を伐ち、陽関に入る。晋は我を伐ち、博陵に至る。七年、衛は我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙は我を伐ち、甄を取る。

威王は初め即位して以来、政治を行わず、政を卿大夫に委ね、九年の間、諸侯並びに伐ち、国人治まらず。ここにおいて威王は即墨大夫を召してこれに語りて曰く、「子が即墨に居るより、誹謗の言日々至る。然れども吾人をして即墨を視しむるに、田野開け、民人足り、官に留まる事無く、東方以て寧し。これは子が吾が左右に事えて誉を求めざるなり」。これに万家を封ず。阿大夫を召して語りて曰く、「子が阿を守るより、称誉の言日々聞こゆ。然れども使者をして阿を視しむるに、田野開けず、民貧苦す。昔、趙が甄を攻めしとき、子は救う能わず。衛が薛陵を取るを、子は知らず。これは子が幣をもって吾が左右を厚くして誉を求むるなり」。この日、阿大夫を烹にし、及び左右で嘗て誉めた者を皆併せて烹にす。遂に兵を起こして西に趙・衛を撃ち、魏を濁沢に敗って恵王を囲む。恵王は観を献じて和解を請う。趙人は我が長城を帰す。ここにおいて斉国震懼し、人々敢えて非を飾らず、務めてその誠を尽くす。斉国大いに治まる。諸侯これを聞き、敢えて兵を斉に致す者二十余年無し。

騶忌子が鼓琴をもって威王に見え、威王悦びてこれを右室に捨ておく。須臾、王鼓琴す。騶忌子戸を推し入りて曰く、「善いかな鼓琴」。王勃然として悦ばず、琴を去り剣を按じて曰く、「夫子は容を見て未だ察せざるに、何を以てその善きを知るや」。騶忌子曰く、「夫れ大絃濁くして春の温なるは、君なり。小絃廉折して清きは、相なり。攫むこと深く、釈むること愉なるは、政令なり。鈞諧して鳴り、大小相益し、回邪して相害せざるは、四時なり。吾れ是を以てその善きを知るなり」。王曰く、「善く音を語る」。騶忌子曰く、「何ぞ独り音を語るのみならんや、国を治め人民を安んずるは皆その中に在り」。王また勃然として悦ばず曰く、「若夫れ五音の紀を語るは、信に未だ夫子の如き者有らざるなり。若夫れ国を治め人民を安んずるは、又何ぞ絲桐の間に為さんや」。騶忌子曰く、「夫れ大絃濁くして春の温なるは、君なり。小絃廉折して清きは、相なり。攫むこと深くして釈むること愉なるは、政令なり。鈞諧して鳴り、大小相益し、回邪して相害せざるは、四時なり。夫れ復して乱れざるは、以て治まって昌える所以なり。連なりて径なるは、以て存亡する所以なり。故に曰く、琴音調いて天下治まる。夫れ国を治め人民を安んずるは、五音の如きもの無きなり」。王曰く、「善し」。

騶忌子見えて三月にして相印を受く。淳于髡これを見て曰く、「善く説くかな。髡に愚かなる志有り、願わくば前に陳ぜん」。騶忌子曰く、「謹んで教えを受く」。淳于髡曰く、「全きを得れば全く昌え、全きを失えば全く亡ぶ」。騶忌子曰く、「謹んで令を受け、請う謹んで前を離れざらん」。淳于髡曰く、「狶膏棘軸は、以て滑らかにする所以なり、然れども方穿を運ぶ能わず」。騶忌子曰く、「謹んで令を受け、請う謹んで左右に事えん」。淳于髡曰く、「弓膠昔干は、以て合する所以なり、然れども疎罅を傅合する能わず」。騶忌子曰く、「謹んで令を受け、請う謹んで万民に自ら附せん」。淳于髡曰く、「狐裘たとえ破れとも、黄狗の皮を以て補うべからず」。騶忌子曰く、「謹んで令を受け、請う謹んで君子を択び、小人をその間に雑えざらん」。淳于髡曰く、「大車較べずんば、その常任を載する能わず。琴瑟較べずんば、その五音を成す能わず」。騶忌子曰く、「謹んで令を受け、請う謹んで法律を修め姦吏を督めん」。淳于髡説き畢り、趨り出で、門に至り、その仆に面して曰く、「是の人者、吾れこれに微言五つを語るに、その我に応えること響の声に応うるが若し、是の人必ず封ぜられんこと久しからず」。朞 (一年) を居るに、下邳に封ぜられ、号して成侯と曰う。

威王二十三年、趙王と平陸に会す。二十四年、魏王と郊で田猟をして会す。魏王問うて曰く、「王も亦た宝有りや」。威王曰く、「無し」。梁王曰く、「若し寡人の国小なりと雖も、尚お径寸の珠、車の前後各十二乗を照らす者十枚有り、奈何ぞ万乗の国にして宝無からんや」。威王曰く、「寡人の宝と為す所以は王と異なる。吾が臣に檀子なる者有り、これに南城を守らしむれば、則ち楚人は敢えて東取に寇と為さず、泗上の十二諸侯皆来朝す。吾が臣に子 (盼子) なる者有り、これに高唐を守らしむれば、則ち趙人は敢えて東して河に漁せず。吾が吏に黔夫なる者有り、これに徐州を守らしむれば、則ち燕人は北門に祭り、趙人は西門に祭り、徙りて従う者七千余家。吾が臣に種首なる者有り、これに盗賊を備えしむれば、則ち道に遺物を拾わず。将に千里を照らさんとす、豈に特だ十二乗のみならんや」。梁の恵王慚じ、懌せずして去る。

二十六年、魏の恵王邯鄲を囲む。趙、斉に救援を求む。斉の威王、大臣を召して謀りて曰く、「趙を救うのと救わざるのと、どちらがよいか」。騶忌子曰く、「救わざるに如かず」。段干朋曰く、「救わざれば則ち義ならず、且つ利ならず」。威王曰く、「何ぞや」。対えて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を併せば、その斉に於ける何の利か有らん。且つ夫れ趙を救いてその郊に軍すれば、是れ趙伐たずして魏全きなり。故に南に襄陵を攻めて以て魏を獘 (疲弊) せしむるに如かず。邯鄲抜けて魏の獘に乗ず」。威王その計に従う。

その後、成侯騶忌と田忌善からず。公孫閲、成侯忌に謂いて曰く、「公何ぞ謀って魏を伐たざる。田忌必ず将と為らん。戦勝して功有らば、則ち公の謀り中るなり。戦勝せずんば、前に死するか後に敗れるか、而して命は公に在り」。ここにおいて成侯、威王に言い、田忌をして南に襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉、因って兵を起こして魏を撃ち、これを桂陵に大いに敗る。ここにおいて斉最も諸侯に強く、自ら王と称し、以て天下に令す。

三十三年、その大夫牟辛を殺す。

三十五年、公孫閲また成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめず、曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声威天下に鳴る。大事を為さんと欲す、亦吉か不吉か』と」と。卜者出づるや、因りて人をして其の卜を為しし者を捕へしめ、其の辞を王の所にて験せしむ。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ひて臨淄を襲ひ攻め、成侯を求め、勝たずして奔る。

三十六年、威王卒し、子の宣王辟彊立つ。

齊の宣王

宣王元年、秦商鞅を用ふ。周伯を秦の孝公に致す。

二年、魏趙を伐つ。趙韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王田忌を召して故位に復せしむ。韓氏斉に救を請ふ。宣王大臣を召して謀りて曰く、「蚤く救ふは孰れか晩く救ふに与に若くや」と。騶忌子曰く、「救はざるに如かず」と。田忌曰く、「救はざれば、則ち韓将に折れて魏に入らん、蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘せざるに之を救ふは、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受くるなり、顧みて反つて韓に命を聴かんとす。且つ魏に国を破らんの志有り、韓亡ぶを見て、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親を結びて晩く魏の獘を承くれば、則ち重利を得て尊名を得べし」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰に韓の使者に告げて之を遣す。韓因りて斉を恃み、五戦勝たずして、東に国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、之を馬陵に大いに敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜ふ。其の後三 しん の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟して去る。

七年、魏王と平阿の南に会す。明年、また甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王す。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏を灌ぎ、兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。

宣王文学游説の士を喜び、自ら騶衍・淳于髡・田駢・接子・愼到・環淵の徒七十六人の如き、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論す。是を以て斉の稷下学士復た盛んにして、且つ数百千人なり。

十九年、宣王卒し、子の湣王地立つ。

齊の湣王

湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。

十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲み、秦屈丐を敗る。蘇代田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁せん、其の事を為すこと甚だ完く、楚をして公に利あらしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為らん。今者臣門に立ちしに、客言ふ者有りて曰く魏王韓馮・張儀に謂ひて曰く『煮棗将に抜けんとし、斉兵又進む、子来りて寡人を救はば則ち可なり;寡人を救はざれば、寡人抜く能はじ』と。此れ特に転辞なり。秦・韓の兵東せず、旬余すれば、則ち魏氏韓を転じて秦に従ひ、秦張儀を逐ひ、交臂して斉楚に事へん、此れ公の事成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞして東せざらしめん」と。対へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辞は、必ず韓王に謂はずして『馮以て魏と為す』と、必ず曰く『馮将に秦韓の兵を以て東し斉宋を卻け、馮因りて三國の兵を摶ち、屈丐の獘に乗じ、南に楚に割かん、故地必ず尽く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辞は、必ず秦王に謂はずして『儀以て魏と為す』と、必ず曰く『儀且に秦韓の兵を以て東し斉宋に距れ、儀将に三國の兵を摶ち、屈丐の獘に乗じ、南に楚に割かん、名は亡国を存し、実は三川を伐ちて帰らん、此れ王業なり』と。公楚王をして韓氏に地を与へしめ、秦をして制和せしめ、秦王に謂ひて曰く『請ふ韓に地を与へ、而して王三川に施し、韓氏の兵を用ひずして地を楚に得せしめよ』と。韓馮の東兵の辞将に秦に何と謂はんや。曰く『秦兵を用ひずして三川を得、楚韓を伐ちて以て魏を窘しめ、魏氏敢へて東せず、是れ斉を孤にす』と。張儀の東兵の辞将に何と謂はんや。曰く『秦韓地を欲して兵案有り、声威魏より発し、魏氏の斉楚を失はざらんと欲する者資有り』と。魏氏秦韓を転じて争ひて斉楚に事へ、楚王欲して地を与ふる無く、公秦韓の兵を用ひずして地を得しむるは、一大徳有り。秦韓の王韓馮・張儀に劫せられて東兵して以て魏に徇服せしめ、公常に左券を執りて以て秦韓に責む、此れ其の公に善くして張子を悪む多資なり」と。

十三年、秦の恵王卒す。二十三年、秦と楚を重丘に撃ち破る。二十四年、秦涇陽君をして斉に質とせしむ。二十五年、涇陽君を秦に帰す。孟嘗君薛文秦に入り、即ち秦に相す。文亡び去る。二十六年、斉韓魏と共に秦を攻め、函谷に至りて軍す。二十八年、秦韓と河外を以て和し、兵罷む。二十九年、趙其の主父を殺す。斉趙を佐けて中山を滅ぼす。

三十六年、王東帝と為り、秦の昭王西帝と為る。蘇代燕より来たり、斉に入り、章華の東門に見ゆ。斉王曰く、「嘻、善し、子来る!秦魏冉をして帝を致さしむ、子以て何如と為す」と。対へて曰く、「王の臣を問ふこと卒にして、患の従来する所微なり、願はくは王之を受け而して備へず称するなかれ。秦之を称すれば、天下之を安んず、王乃ち之を称す、後無し。且つ帝の名を譲り争ふは、傷無し。秦之を称すれば、天下之を悪む、王因りて称せず、以て天下を収む、此れ大資なり。且つ天下両帝を立てば、王天下を以て斉を尊ぶか、秦を尊ぶか」と。王曰く、「秦を尊ぶ」と。曰く、「帝を釈すれば、天下斉を愛するか、秦を愛するか」と。王曰く、「斉を愛して秦を憎む」と。曰く、「両帝立ちて約して趙を伐つは、孰れか桀宋を伐つの利に与に若くや」と。王曰く、「桀宋を伐つ利なり」と。対へて曰く、「夫れ約鈞し、然るに秦と帝と為りて天下独り秦を尊びて斉を軽んじ、帝を釈すれば則ち天下斉を愛して秦を憎み、趙を伐つは桀宋を伐つに如かず、故に願はくは王明らかに帝を釈して以て天下を収め、約を倍きて秦を賓し、重を争はず、而して王其の閒に宋を挙げよ。夫れ宋有れば、 えい の陽地危うし;済西有れば、趙の阿東国危うし;淮北有れば、楚の東国危うし;陶・平陸有れば、梁門開かず。帝を釈して之に貸して桀宋を伐つの事を以てすれば、国重くして名尊く、燕楚形を以て服し、天下敢へて聴かざる莫し、此れ湯武の挙なり。秦を敬ふを以て名と為し、而して後ち天下をして之を憎ましむ、此れ所謂卑を以て尊と為す者なり。願はくは王孰く之を慮れ」と。是に於て斉帝を去りて復た王と為り、秦亦帝位を去る。

三十八年、宋を伐つ。秦の昭王怒りて曰く、「吾れ宋を愛すること新城・陽 しん と愛するに同じ。韓聶は吾が友なり、而るに吾が愛する所を攻むるは何ぞや」と。蘇代、齊のために秦王に謂ひて曰く、「韓聶の宋を攻むるは、以て王の為なり。齊強く、之を宋を以て輔くれば、楚魏必ず恐れ、恐れて必ず西して秦に事へん。是れ王一兵を煩はさず、一士を傷つけず、事無くして安邑を割かん。此れ韓聶の王に禱る所なり」と。秦王曰く、「吾れ齊の知り難きを患ふ。一に從ひ一に衡ふ、其の説如何」と。對へて曰く、「天下の國齊を知るべしと令せばや。齊以て宋を攻むれば、其の秦に事ふるを知りて萬乘の國自ら輔くるも、西して秦に事へざれば則ち宋治まらずして安からず。中國白頭の游敖の士皆智を積みて齊秦の交を離れんと欲し、式に伏し軼を結びて西に馳する者、未だ一人齊を善しと爲すを言ふ者無し。式に伏し軼を結びて東に馳する者、未だ一人秦を善しと爲すを言ふ者無し。何ぞ則ち、皆齊秦の合するを欲せざればなり。何ぞ しん 楚の智にして齊秦の愚や。 しん 楚合すれば必ず齊秦を議し、齊秦合すれば必ず しん 楚を圖らん。請ふ此を以て事を決せん」と。秦王曰く、「諾」と。是に於て齊遂に宋を伐つ。宋王出でて亡び、温に死す。齊南に楚の淮北を割き、西に三 しん を侵し、以て周室を へい せんと欲し、天子と爲らんとす。泗上の諸侯鄒魯の君皆臣と稱し、諸侯恐懼す。

三十九年、秦來たりて伐ち、我が列城九を拔く。

四十年、燕・秦・楚・三 しん 謀を合はせ、各鋭師を出だして以て伐ち、我を濟西に敗る。王解れて卻く。燕將樂毅遂に臨淄に入り、齊の寶藏器を盡く取る。湣王出でて亡び、 えい に之く。 えい 君宮を辟けて之を捨て、臣と稱して共具す。湣王遜らず、 えい 人之を侵す。湣王去りて鄒・魯に走る。驕色有り、鄒・魯の君内れず、遂に莒に走る。楚淖齒をして兵を將ひて齊を救はしめ、因りて齊の湣王を相せしむ。淖齒遂に湣王を殺し、燕と與に齊の侵地鹵器を分かつ。

湣王の殺遇せらるるや、其の子法章名姓を變じて莒の太史敫の家の庸と爲る。太史敫の女法章の狀貌を奇とし、以て恒人に非ずと爲し、憐みて常に竊に衣食し之に與し、而して私に通ず。淖齒既に莒を去りてより、莒中の人及び齊の亡臣相集ひて湣王の子を求め、之を立てんと欲す。法章其の己を誅するを懼れ、久しくして、乃ち敢へて自ら「我れ湣王の子なり」と言ふ。是に於て莒人共に法章を立て、是を襄王と爲す。以て莒城を保ちて齊國中に布告して曰く、「王已に莒に立つ」と。

齊の襄王

襄王既に立ち、太史氏の女を立てて王后と爲し、是を君王后と爲す。子建を生む。太史敫曰く、「女媒を取らずして因りて自ら嫁ぐ、吾が種に非ず、吾が世を汙す」と。終身君王后を睹ず。君王后賢く、睹ざるを以ての故に人子の禮を失はず。

襄王莒に在ること五年、田單即墨を以て燕軍を攻め破り、襄王を莒に迎へ、臨菑に入る。齊の故地盡く復た齊に屬す。齊田單を封じて安平君と爲す。

十四年、秦我が剛壽を撃つ。十九年、襄王卒す。子建立つ。

齊王建

王建の立つこと六年、秦趙を攻む。齊楚之を救ふ。秦計りて曰く、「齊楚趙を救ふ、親しければ則ち兵を退け、親しからざれば遂に之を攻めん」と。趙食無く、齊に粟を請ふ。齊聽かず。周子曰く、「之を聽きて以て秦兵を退けしむるに如かず。聽かざれば則ち秦兵卻かず、是れ秦の計中りて齊楚の計過つなり。且つ趙の齊楚に於けるや、捍蔽なり、猶ほ齒の脣有るが如し。脣亡びて則ち齒寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ齊楚に及ばん。且つ趙を救ふの務は、宜しく漏甕を奉りて焦釜を沃くが若くすべし。夫れ趙を救ふは高義なり。秦兵を卻くは顯名なり。義を以て亡國を救ひ、威を以て彊秦の兵を卻く、此れを務めずして粟を愛するを務むるは、國を計る者の過ちなり」と。齊王聽かず。秦趙を長平に破ること四十餘萬、遂に邯鄲を圍む。

十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王秦に入り朝す。秦王政咸陽に酒を置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覺り、軻を殺す。明年、秦燕を破り、燕王亡びて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼし、秦兵歴下に次ぐ。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜とし、燕王喜を滅ぼす。

四十四年、秦兵齊を撃つ。齊王相后勝の計を聽き、戰はず、兵を以て秦に降る。秦王建を虜とし、之を共に遷す。遂に齊を滅ぼして郡と爲す。天下壹に秦に へい ばる。秦王政號を立てて皇帝と爲る。初め、君王后賢く、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり、齊亦た東邊海上に在り、秦日夜三 しん ・燕・楚を攻む。五國各秦に於て自ら救ふ。以ての故に王建の立つこと四十餘年兵を受けず。君王后死し、后勝齊に相たり、多く秦の閒の金を受け、多く賓客をして秦に入らしむ。秦又多く金を予ふ。客皆反閒と爲り、王を勸めて從を去りて秦に朝せしめ、攻戰の備を修めず、五國を助けて秦を攻めず。秦以ての故に五國を滅ぼすを得たり。五國已に亡び、秦兵卒に臨淄に入る。民敢へて格する者莫し。王建遂に降り、共に遷さる。故に齊人王建の蚤く諸侯と合從して秦を攻めず、姦臣賓客を聽きて以て其の國を亡ぼすを怨み、之を歌ひて曰く、「松や柏や、建をして共に住ましむるは客や」と。建の客を用ふるの詳ならざるを疾むなり。

太史公曰く

太史公曰く、蓋し孔子晩にして易を喜ぶ。易の術と爲るや、幽明遠し。通人達才に非ざれば孰か能く注意せんや。周の太史の田敬仲完に卦するに、十世の後に至るを占ふ。及ぶに完齊に奔る、懿仲之に卜するも亦た云ふ。田乞及び常の以て比して二君を犯し、齊國の政を專にするは、必ずしも事勢の漸く然るに非ず、蓋し厭ふべき兆祥に遵ふが若き云ふ。

索隱述贊

田完は難を避けて、大姜に奔る。始めは羈旅の身を辞し、終には鳳皇の如し。物は両盛なること莫く、代は五たび其れ昌えたり。二君は犯を比し、三 しん は強を爭う。和は始めて命を擅にし、威は遂に王を稱す。祭は燕・趙を急にし、弟は康・莊に列す。秦は東帝を假し、莒は法章を立てる。王建は國を失い、松柏蒼蒼たり。

原本を確認する(ウィキソース):史記 巻046