陳完は、陳の厲公他の子である。完が生まれたとき、周の太史が陳に立ち寄り、陳厲公は完を占わせたところ、観の卦から否の卦を得た。「これは観国の光と為し、王に賓たるに利あり。これは陳に代わって国を有するであろうか。ここにあらずして異国にあるであろうか。この身にあらず、その子孫にあるであろう。もし異国にあれば、必ずや姜姓であろう。姜姓は、四嶽の後なり。物は両大なること能わず、陳衰えれば、これ昌えるであろう」。
厲公は、陳の文公の少子であり、その母は蔡の女である。文公が卒すると、厲公の兄鮑が立ち、これが桓公である。桓公と他は母を異にする。桓公が病むと、蔡人が他をして桓公鮑と太子免を殺させて他を立て、厲公とした。厲公が立つと、蔡女を娶った。蔡女は蔡人と淫通し、しばしば帰国し、厲公もまたしばしば蔡に行った。桓公の少子林は厲公がその父と兄を殺したことを怨み、蔡人に命じて厲公を誘い殺させた。林は自ら立ち、これが莊公である。故に陳完は立つことができず、陳の大夫となった。厲公の殺されたのは、淫行によって国を出たためであり、故に『春秋』に「蔡人陳他を殺す」とあり、これを罪するのである。
莊公が卒すると、弟の杵臼を立て、これが宣公である。宣公二十一年、その太子御寇を殺した。御寇は完と仲が良く、禍が己に及ぶことを恐れ、完は故に斉に奔った。斉の桓公は卿としようとしたが、辞して言うには、「羈旅の臣、幸いに負檐を免かれるを得るは、君の恵みなり、敢えて高位に当たらざるなり」。桓公は工正とした。斉の懿仲は完に妻せんと欲し、これを占うと、占いに曰く、「是れ鳳皇蜚に于り、和鳴鏘鏘たりと謂う。媯の後、将に姜に育たん。五世其れ昌え、正卿に并び、八世の後、之と京ぶる莫からん」。遂に完に妻した。完の斉に奔ったのは、斉桓公の立つこと十四年であった。
完が卒し、諡して敬仲と為す。仲は稚孟夷を生む。敬仲の斉に如くや、陳の字を以て田氏と為す。
田文子
田稚孟夷は湣孟莊を生み、田湣孟莊は文子須無を生む。田文子は齊の莊公に仕える。晉の大夫欒逞が晉にて亂を起こし、齊に奔って來ると、齊莊公は彼を手厚く賓客として遇した。晏嬰と田文子が諫めたが、莊公は聽き入れなかった。文子が卒し、桓子無宇を生む。
田桓子
田桓子無宇は力強く、齊の莊公に仕えて、甚だ寵愛を受けた。無宇が卒し、武子開と釐子乞を生む。
田釐子
田釐子乞は斉の景公に仕えて大夫となり、民より賦税を収めるには小斗を用いて受け取り、民に粟を貸し与えるには大斗を用いて、民に陰徳を行い、景公はこれを禁じなかった。これにより田氏は斉の衆心を得て、宗族はますます強くなり、民は田氏を思慕した。晏子はたびたび景公に諫めたが、景公は聞き入れなかった。やがて晏子は晋に使いし、叔向と私語して言った、「斉国の政はついに田氏に帰するであろう」。
晏嬰が卒した後、范氏・中行氏が晋に背いた。晋が急に攻めたので、范氏・中行氏は斉に粟を請うた。田乞は乱を起こさんと欲し、諸侯に党を結ぼうとして、景公に説いて言った、「范氏・中行氏はたびたび斉に徳があり、斉は救わざるを得ません」。斉は田乞を使わしてこれを救い、粟を輸送させた。
景公の太子が死に、後に寵姫の芮子があり、子の荼を生んだ。景公が病み、その相の国恵子と高昭子に命じて子の荼を太子とした。景公が卒すると、両相の高氏・国氏は荼を立てた。これが晏孺子である。田乞は喜ばず、景公の他の子の陽生を立てようとした。陽生は平素より乞と親しかった。晏孺子が立つと、陽生は魯に奔った。田乞は偽って高昭子・国恵子に仕え、毎日代わって参乗し、言った、「初め諸大夫は孺子を立てようとしませんでした。孺子が既に立ち、君がこれを相となさると、大夫は皆自ら危うく思い、乱を謀っています」。また諸大夫を欺いて言った、「高昭子は恐るべきです。未だ発せざるうちに先んじましょう」。諸大夫はこれに従った。田乞・鮑牧と諸大夫は兵を率いて公室に入り、高昭子を攻めた。昭子はこれを聞き、国恵子とともに公を救った。公の師は敗れた。田乞の衆は国恵子を追い、恵子は莒に奔り、ついに返って高昭子を殺した。晏孺子は魯に奔った。
田乞は人を魯に使いして、陽生を迎えさせた。陽生が斉に至ると、田乞の家に匿った。諸大夫に請うて言った、「常の母に魚菽の祭りがあり、幸いに来て会飲してほしい」。田氏で会飲した。田乞は陽生を嚢の中に盛り、座の中央に置いた。嚢を開き、陽生を出して言った、「これぞ斉の君である」。大夫は皆伏して謁した。盟してこれを立てようとしたとき、田乞は偽って言った、「私は鮑牧と謀って共に陽生を立てたのである」。鮑牧は怒って言った、「大夫は景公の命を忘れたのか」。諸大夫は悔いようとしたので、陽生は頓首して言った、「可ならばこれを立て、不可ならばやめよ」。鮑牧は禍が己に及ぶことを恐れ、また言った、「皆景公の子である。どうして不可であろうか」。ついに田乞の家で陽生を立てた。これが悼公である。そして人を使わして晏孺子を駘に遷し、孺子の荼を殺した。悼公が既に立つと、田乞は相となり、斉の政を専らにした。
四年、田乞が卒し、子の常が代わって立った。これが田成子である。
田成子
鮑牧は斉の悼公と不和があり、悼公を弑した。斉人は共にその子壬を立て、これが簡公である。田常(成子)と監止がともに左右の相となり、簡公を補佐した。田常は内心監止を妬み害そうとしたが、監止は簡公に寵愛され、権力を除くことができなかった。そこで田常は再び釐子の政を修め、大斗で貸し出し、小斗で回収した。斉人はこれを歌って言った、「嫗よ、芑を采るも、帰するは田成子に!」斉の大夫が朝するとき、御鞅が簡公に諫めて言った、「田氏と監氏は併存できません、君はそのいずれかを選ばれるべきです。」君は聞き入れなかった。
子我という者は、監止の同族であり、常に田氏と不和があった。田氏の疎族である田豹が子我に仕えて寵愛された。子我は言った、「私は田氏の嫡流をことごとく滅ぼし、豹をもって田氏の宗を代わらせたい。」豹は言った、「私は田氏では疎遠な者です。」(子我は)聞き入れなかった。やがて豹は田氏に告げて言った、「子我が田氏を誅滅しようとしています、田氏が先手を打たなければ、禍が及びます。」子我は公宮に宿泊していた。田常兄弟四人が車に乗って公宮へ赴き、子我を殺そうとした。子我は門を閉ざした。簡公は婦人と檀台で酒を飲み、田常を撃とうとした。太史の子餘が言った、「田常は敢えて乱を為そうとするのではなく、害を除こうとしているのです。」簡公はやめた。田常が出て、簡公が怒ったと聞き、誅殺されることを恐れ、出奔しようとした。田子行が言った、「ぐずぐずすることは、事を害するものである。」田常はそこで子我を撃った。子我はその徒党を率いて田氏を攻めたが、勝てず、出奔した。田氏の徒党が追撃して子我と監止を殺した。
簡公は出奔した。田氏の徒党が徐州で簡公を追い捕らえた。簡公は言った、「早く御鞅の言に従っていれば、この難に遭わなかったものを。」田氏の徒党は簡公が再び立って自分たちを誅することを恐れ、遂に簡公を殺した。簡公は立って四年で殺された。そこで田常は簡公の弟驁を立て、これが平公である。平公が即位すると、田常が相となった。
田常は簡公を殺した後、諸侯が共に己を誅することを恐れ、尽く魯・衛の侵した地を返還し、西では晋・韓・魏・趙氏と約し、南では呉・越の使者と通じ、功を修め賞を行い、百姓に親しんだ。これによって斉は再び安定した。
田常、齊の平公に言う、「徳施は人の欲する所なり、君其れ之を行え。刑罰は人の悪む所なり、臣請う之を行わん」と。之を行うこと五年、齊國の政皆田常に帰す。田常是に於て鮑・晏・監止及び公族の彊き者を尽く誅し、而して齊を割きて安平より以東瑯邪に至るまで、自ら封邑と為す。封邑は平公の食する所より大なり。
田常乃ち齊國中の女子長七尺以上を選びて後宮と為し、後宮は百を以て数え、而して賓客舍人の後宮に出入する者を禁ぜず。田常の卒するに及び、七十余男有り。
田常卒し、子の襄子盤代わりに立ち、齊に相たり。常は諡して成子と為す。
田襄子
田襄子既に齊の宣公に相たり、三晉知伯を殺し、其の地を分つ。襄子其の兄弟宗人をして尽く齊の都邑大夫と為さしめ、三晉と使を通じ、且つ以て齊國を有たんとす。襄子卒し、子の莊子白立つ。
田莊子
田莊子は斉の宣公に相として仕えた。宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。翌年、魯・葛及び安陵を伐つ。翌年、魯の一城を取る。莊子卒し、子の太公和立つ。
田齊太公
田太公は斉の宣公に相として仕えた。宣公四十八年、魯の城を取る。翌年、宣公は鄭の人と西城で会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年卒し、田会が廩丘より反す。
宣公卒し、子の康公貸立つ。貸立つこと十四年、酒と婦人に淫し、政を聴かず。太公は乃ち康公を海上に遷し、一城を食ませ、以て其の先祀を奉ぜしむ。翌年、魯は斉を平陸に敗る。
三年、太公は魏の文侯と濁沢で会し、諸侯となることを求めた。魏の文侯は使者を遣わして周の天子及び諸侯に言上し、斉の相田和を諸侯に立てるよう請うた。周の天子はこれを許した。康公の十九年、田和は斉侯に立てられ、周室に列し、紀元を始めた。
田斉桓公
斉侯太公和が立って二年、和が卒し、子の桓公午が立つ。桓公午の五年、秦・魏が韓を攻め、韓は斉に救援を求めた。斉の桓公は大臣を召して謀りて曰く、「早く救うのと遅く救うのとではどちらがよいか」。騶忌曰く、「救わざるに如かず」。段干朋曰く、「救わざれば、韓はやがて折れて魏に入るであろう、救うに如かず」。田臣思曰く、「過ちなり君の謀りは。秦・魏が韓・楚を攻めれば、趙は必ずこれを救う、これは天が燕を斉に与えるなり」。桓公曰く、「善し」。乃ち密かに韓の使者に告げてこれを遣わす。韓は自ら斉の救援を得たと思い、よって秦・魏と戦う。楚・趙これを聞き、果たして兵を起こしてこれを救う。斉はよって兵を起こして燕国を襲い、桑丘を取る。
六年、衛を救う。桓公卒し、子の威王因斉が立つ。この年、故斉の康公卒し、後絶えて無く、奉邑は皆田氏に入る。
斉威王
斉の威王元年、三晉は斉の喪に乗じて来たりて我が霊丘を伐つ。三年、三晉は晉の後を滅ぼして其の地を分かつ。六年、魯は我を伐ち、陽関に入る。晉は我を伐ち、博陵に至る。七年、衞は我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙は我を伐ち、甄を取る。
威王初めに即位して以来、政治を行わず、政を卿大夫に委ね、九年の間、諸侯並びに伐ち、国人治まらず。ここにおいて威王は即墨大夫を召して之に語りて曰く、「子の即墨に居るより、毀言日々に至る。然れども吾人をして即墨を視しむるに、田野開け、民人給し、官に留事無く、東方以て寧し。是れ子の吾が左右に事えて以て誉を求めざるなり」と。之に万家を封ず。阿大夫を召して語りて曰く、「子の阿を守るより、誉言日に聞ゆ。然れども使をして阿を視しむるに、田野開けず、民貧苦す。昔者趙甄を攻むるも、子能く救わず。衞薛陵を取るも、子知らず。是れ子の幣を以て吾が左右を厚くして以て誉を求むるなり」と。是の日、阿大夫を烹り、及び左右嘗て誉むる者皆並びに之を烹る。遂に兵を起こし西に趙・衞を撃ち、魏を濁沢に敗りて恵王を囲む。恵王観を献じて以て和解を請う。趙人我が長城を帰す。ここにおいて斉国震懼し、人々敢えて非を飾らず、務めて其の誠を尽くす。斉国大いに治まる。諸侯之を聞き、敢えて兵を斉に致すこと二十余年無し。
騶忌子鼓琴を以て威王に見ゆ。威王説びて之を右室に捨つ。須臾にして、王琴を鼓す。騶忌子戸を推し入りて曰く、「善いかな琴を鼓すこと!」王勃然として説ばず、琴を去り剣を按じて曰く、「夫子容を見て未だ察せず、何を以て其の善きを知るや?」騶忌子曰く、「夫れ大絃濁くして春の温なる者は、君なり。小絃廉折にして清き者は、相なり。攫むこと深く、醳すこと愉なる者は、政令なり。鈞諧して鳴り、大小相益し、回邪して相害せざる者は、四時なり。吾是を以て其の善きを知るなり」と。王曰く、「善く音を語る」と。騶忌子曰く、「何ぞ独り音を語るのみならんや、夫れ国家を治め人民を弭するは皆其の中に在り」と。王又勃然として説ばずして曰く、「若夫れ五音の紀を語るは、信に未だ夫子の如き者有らざるなり。若夫れ国家を治め人民を弭するは、又何ぞ為さんや絲桐の間を?」騶忌子曰く、「夫れ大絃濁くして春の温なる者は、君なり。小絃廉折にして清き者は、相なり。攫むこと深くして之を捨つること愉なる者は、政令なり。鈞諧して鳴り、大小相益し、回邪して相害せざる者は、四時なり。夫れ復して乱れざる者は、以て治昌する所以なり。連にして径なる者は、以て存亡する所以なり。故に曰く、琴音調いて天下治まる、と。夫れ国家を治め人民を弭する者は、五音の如きもの無きなり」と。王曰く、「善し」と。
騶忌子は謁見して三月にして相印を受けた。淳于髡これを見て曰く、「善く説くかな。髡に愚かな志あり、願わくは諸を前に陳べん」と。騶忌子曰く、「謹んで教えを受く」と。淳于髡曰く、「全きを得れば全く昌え、全きを失えば全く亡ぶ」と。騶忌子曰く、「謹んで命を受け、請う謹んで前を離れざらん」と。淳于髡曰く、「狶膏棘軸は、滑らかにする所以なり、然れども方穿を運ぶ能わず」と。騶忌子曰く、「謹んで命を受け、請う謹んで左右に事えん」と。淳于髡曰く、「弓膠昔干は、合する所以なり、然れども疎罅を傅合する能わず」と。騶忌子曰く、「謹んで命を受け、請う謹んで自ら萬民に附せん」と。淳于髡曰く、「狐裘は雖も敝るるも、黄狗の皮を以て補うべからず」と。騶忌子曰く、「謹んで命を受け、請う謹んで君子を択び、小人を其の間に雑うること毋からしめん」と。淳于髡曰く、「大車は較せざれば、其の常任を載する能わず、琴瑟は較せざれば、其の五音を成す能わず」と。騶忌子曰く、「謹んで命を受け、請う謹んで法律を修め姦吏を督せん」と。淳于髡説畢り、趨り出で、門に至り、而して其の僕に面して曰く、「是の人者、吾之に微言五つを語るも、其の我に応ゆること響の声に応するが若し、是の人必ず封ぜられんこと久しからず」と。朞を居りて、下邳に封ぜられ、号して成侯と曰う。
威王二十三年、趙王と平陸に会す。二十四年、魏王と郊に会田す。魏王問うて曰く、「王も亦た宝有りや」と。威王曰く、「無し」と。梁王曰く、「若し寡人の国小なりと雖も、尚お径寸の珠、車の前後各十二乗を照らす者十枚有り、奈何ぞ万乗の国を以てして宝無からんや」と。威王曰く、「寡人の宝と為す所以は王と異なり。吾臣に檀子なる者有り、使いて南城を守らしむれば、則ち楚人敢えて寇として東取せず、泗上の十二諸侯皆来朝す。吾臣に肜子なる者有り、使いて高唐を守らしむれば、則ち趙人敢えて東して河に漁せず。吾吏に黔夫なる者有り、使いて徐州を守らしむれば、則ち燕人は北門を祭り、趙人は西門を祭り、徙りて従う者七千余家。吾臣に種首なる者有り、使いて盗賊を備えしむれば、則ち道に遺物を拾わず。将に千里を照らさんとす、豈に特に十二乗のみならんや」と。梁恵王慚じ、懌ばずして去る。
二十六年、魏恵王邯鄲を囲む。趙、斉に救いを求む。斉威王大臣を召して謀りて曰く、「趙を救うと救わざると孰れか」と。騶忌子曰く、「救わざるに如かず」と。段干朋曰く、「救わざれば則ち義ならず、且つ利ならず」と。威王曰く、「何ぞや」と。対えて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を并せば、其の斉に於けるや何の利か有らん。且つ夫れ趙を救いて其の郊に軍すれば、是れ趙伐たずして魏全きなり。故に南に襄陵を攻めて以て魏を獘らすに如かず。邯鄲抜けて魏の獘に乗ず」と。威王其の計に従う。
其の後、成侯騶忌と田忌善しからず。公孫閲成侯忌に謂いて曰く、「公何ぞ謀りて魏を伐たざる。田忌必ず将たらん。戦勝して功有らば、則ち公の謀中るなり。戦勝せずば、前に死せずんば則ち後に北ぐるなり。而して命は公に在り」と。是に於いて成侯威王に言い、田忌をして南に襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉因りて兵を起こし魏を撃ち、大いに之を桂陵に敗る。是に於いて斉最も諸侯に彊く、自ら王と称し、以て天下に令す。
三十三年、其の大夫牟辛を殺す。
三十五年、公孫閲また成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめず、曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声威天下に鳴る。大事を為さんと欲す、亦吉か不吉か』と」と。卜者出づるや、因りて人をして之を卜する者を捕へしめ、其の辞を王の所に験す。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ひて臨淄を襲ひ攻め、成侯を求め、勝たずして奔る。
三十六年、威王卒す。子の宣王辟彊立つ。
齊の宣王
宣王元年、秦は商鞅を用ふ。周は伯を秦の孝公に致す。
二年、魏は趙を伐つ。趙は韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王は田忌を召して故位に復せしむ。韓氏は斉に救を請ふ。宣王は大臣を召して謀りて曰く、「早く救ふと晩く救ふとは孰れか与にす」と。騶忌子曰く、「救はざるに如かず」と。田忌曰く、「救はざれば、則ち韓将に折れて魏に入らん、早く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘せざるに之を救ふは、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受くるなり、顧みて反つて韓の命を聴くのみ。且つ魏には国を破らんとする志有り、韓亡ぶを見れば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親を結びて晩く魏の獘を承くれば、則ち重利を得て尊名を得べし」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰に韓の使者に告げて之を遣す。韓は因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、而して東に国を斉に委ぬ。斉は因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、之を馬陵に大いに敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜ふ。其の後三晉の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟して去る。
七年、魏王と平阿の南で会した。翌年、また甄で会した。魏の恵王が卒した。翌年、魏の襄王と徐州で会し、諸侯が相王たることを定めた。十年、楚が我が徐州を囲んだ。十一年、魏とともに趙を伐ち、趙が河水を決して斉・魏を灌ぎ、兵は罷んだ。十八年、秦の恵王が王を称した。
宣王は文学遊説の士を喜び、騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒七十六人の如きを自ら招き、皆に列第を賜り、上大夫と為して、治めずして議論させた。ここにおいて斉の稷下の学士また盛んとなり、且つ数百千人に及んだ。
十九年、宣王卒し、子の湣王地立つ。
斉の湣王
湣王元年、秦が張儀を使わして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、秦より婦を迎う。七年、宋とともに魏を攻め、観澤にてこれを敗る。
十二年、魏を攻む。楚は雍氏を囲み、秦は屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣、公に謁せんことを願ふ。其の事を爲すこと甚だ完く、楚をして公に利せしめ、成れば福と爲り、成らずとも亦た福と爲らん。今者臣、門に立ちしに、客有りて言ふこと有り、魏王、韓馮・張儀に謂ひて曰く、『煮棗將に拔けんとし、齊兵又進む。子來りて寡人を救はば則ち可なり。救はざれば、寡人拔くこと能はざらん』と。此れ特だ轉辭なり。秦・韓の兵東せずして、旬餘有れば、則ち魏氏轉た韓をして秦に從はしめ、秦は張儀を逐ひ、交臂して齊楚に事へん。此れ公の事の成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞして東せざらしむる」と。對へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辭は、必ず韓王に謂ひて『馮以爲ふ魏と爲す』と曰はざらん。必ず曰く『馮將に秦韓の兵を以て東し齊宋を卻け、馮因りて三國の兵を摶ち、屈丐の獘に乘じ、南に楚に割き、故地必ず盡く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辭は、必ず秦王に謂ひて『儀以爲ふ魏と爲す』と曰はざらん。必ず曰く『儀且に秦韓の兵を以て東し齊宋に距れ、儀將に三國の兵を摶ち、屈丐の獘に乘じ、南に楚に割き、名は亡國を存し、實は三川を伐ちて歸らん。此れ王業なり』と。公、楚王をして韓氏に地を與へしめ、秦をして制和せしめ、秦王に謂ひて曰く『請ふ韓に地を與へ、而して王以て三川に施し、韓氏の兵を用ゐずして地を楚に得しめよ』と。韓馮の東兵の辭、且つ秦に何と謂はん。曰く『秦兵を用ゐずして三川を得、楚韓を伐ちて以て魏を窘しむ。魏氏敢へて東せず。是れ齊を孤にするなり』と。張儀の東兵の辭、且つ何と謂はん。曰く『秦韓地を欲して兵案有り。聲威魏より發す。魏氏の齊楚を失はざらんと欲する者、資有り』と。魏氏轉た秦韓をして齊楚に事へ爭はしめ、楚王欲して地を與ふること無く、公、秦韓の兵を用ゐずして地を得しむるは、一大德有りなり。秦韓の王、韓馮・張儀に劫せられて東兵し、以て魏に徇服せしめ、公常に左券を執りて以て秦韓に責む。此れ其の公に善くして張子を惡むこと多資なるなり」と。
十三年、秦の惠王卒す。二十三年、秦と與に楚を重丘に撃ちて敗る。二十四年、秦、涇陽君を齊に質とす。二十五年、涇陽君を秦に歸す。孟嘗君薛文、秦に入り、即ち秦に相と爲る。文亡去す。二十六年、齊、韓魏と與に共に秦を攻め、函谷に至りて軍す。二十八年、秦、韓に河外を與へて以て和し、兵罷む。二十九年、趙其の主父を殺す。齊、趙を佐けて中山を滅ぼす。
三十六年、王は東帝となり、秦の昭王は西帝となった。蘇代が燕より来たり、斉に入り、章華の東門において謁見した。斉王曰く、「ああ、善い、汝が来た!秦が魏冉を使わして帝号を致すが、汝はどう思うか」と。対えて曰く、「王の臣に問うことは急であり、而して患いの由来する所は微かである。願わくは王はこれを受けながら備えて称することなかれ。秦がこれを称すれば、天下は安んじ、王が乃ちこれを称すれば、後れはない。且つ帝の名を譲り争うも、傷つくことはない。秦がこれを称すれば、天下はこれを憎み、王は因って称せずして、以て天下を収めよ。これは大いなる資けである。且つ天下に両帝を立てば、王は天下を以て斉を尊ぶか、秦を尊ぶか」と。王曰く、「秦を尊ぶ」と。曰く、「帝を釈てれば、天下は斉を愛するか、秦を愛するか」と。王曰く、「斉を愛し秦を憎む」と。曰く、「両帝が立って約して趙を伐つは、桀宋を伐つの利に比べてどうか」と。王曰く、「桀宋を伐つが利である」と。対えて曰く、「夫れ約は均しいが、然るに秦と帝を為して天下は独り秦を尊び斉を軽んじ、帝を釈てれば天下は斉を愛し秦を憎み、趙を伐つは桀宋を伐つに如かず。故に願わくは王は明らかに帝を釈てて以て天下を収め、約を倍き秦を賓け、重きを争わず、而して王はその間を以て宋を挙げよ。夫れ宋を有てば、衛の陽地は危うく、済西を有てば、趙の阿東国は危うく、淮北を有てば、楚の東国は危うく、陶・平陸を有てば、梁の門は開かず。帝を釈ててこれに貸すに桀宋を伐つ事を以てすれば、国は重くして名は尊く、燕楚は形に服し、天下敢えて聴かざるは莫し。これは湯武の挙げる所である。秦を敬うを以て名と為し、而して後に天下をしてこれを憎ましむ。これは所謂卑きを以て尊きと為す者である。願わくは王は熟慮せよ」と。ここにおいて斉は帝を去り復た王と為り、秦も亦た帝位を去った。
三十八年、宋を伐った。秦の昭王怒って曰く、「吾は宋を愛するは新城・陽晋を愛するに同じ。韓聶は吾が友であるのに、吾が愛する所を攻めるとは、何ぞや」と。蘇代が斉のために秦王に謂いて曰く、「韓聶の宋を攻むるは、王の為にする所以である。斉が強く、之に宋を以て輔ければ、楚魏必ず恐れ、恐れて必ず西して秦に事えん。これは王一兵も煩わさず、一士も傷つけず、事無くして安邑を割くのである。これは韓聶の王に祷る所である」と。秦王曰く、「吾は斉の知り難きを患う。一に従い一に衡う、その説は何ぞや」と。対えて曰く、「天下の国は斉をして知らしめんか。斉は宋を攻むるを以てし、その秦に事えるを知るは万乗の国を以て自ら輔うるのであり、西して秦に事えざれば則ち宋の治め安からん。中国の白頭游敖の士は皆智を積みて斉秦の交を離れんと欲し、式に伏し軼を結び西に馳する者は、一人として斉を善しと言う者無く、式に伏し軼を結び東に馳する者は、一人として秦を善しと言う者無し。何ぞ則ち、皆斉秦の合するを欲せざるなり。何ぞ晋楚の智にして斉秦の愚や!晋楚合すれば必ず斉秦を議し、斉秦合すれば必ず晋楚を図る。請うこれに因りて事を決せん」と。秦王曰く、「諾」と。ここにおいて斉は遂に宋を伐ち、宋王出でて亡び、温にて死す。斉は南に楚の淮北を割き、西に三晋を侵し、以て周室を併せんと欲し、天子と為らんとした。泗上の諸侯鄒魯の君は皆臣と称し、諸侯恐懼した。
三十九年、秦来たりて伐ち、我が列城九つを抜く。
四十年、燕・秦・楚・三晋謀を合わし、各鋭師を出だして以て伐ち、我が済西に敗る。王解れて卻く。燕の将楽毅遂に臨淄に入り、斉の宝蔵器を尽く取りし。湣王出でて亡び、衛に至る。衛君宮を辟き之を捨て、臣と称して共に具す。湣王遜らず、衛人これを侵す。湣王去り、鄒・魯に走る。驕色有り、鄒・魯の君内れず、遂に莒に走る。楚淖歯を使わして兵を将いて斉を救わしめ、因って斉の湣王を相と為す。淖歯遂に湣王を殺し、燕と与に斉の侵地鹵器を分かつ。
湣王が殺害された際、その子の法章は姓名を変えて莒の太史敫の家の下僕となった。太史敫の娘は法章の容貌が非凡であると感じ、普通の人ではないと思い、哀れんでひそかに衣食を与え、密かに通じ合った。淖齒が莒を去った後、莒の人々と斉の亡命臣下が集まり湣王の子を探し、立てようとした。法章は自分が誅殺されることを恐れ、長い間を経て、ようやく「私は湣王の子である」と名乗り出た。そこで莒の人々は共に法章を立て、これが襄王である。莒城を守り、斉国中に布告した。「王はすでに莒に立った」。
斉の襄王
襄王が即位すると、太史氏の娘を王后に立て、これが君王后となり、子の建を生んだ。太史敫は言った。「娘は媒を介さず自ら嫁いだ。我が種族にあらず、我が世を汚すものだ」。生涯、君王后に会おうとしなかった。君王后は賢明で、会わないことを理由に人子の礼を失わなかった。
襄王は莒に五年いたが、田単が即墨をもって燕軍を撃破し、襄王を莒から迎え、臨菑に入った。斉の旧地はすべて回復して斉に属した。斉は田単を安平君に封じた。
十四年、秦が我が剛寿を攻撃した。十九年、襄王が卒去し、子の建が立った。
齊王建
王建の立つこと六年、秦が趙を攻め、齊と楚とがこれを救う。秦の計略は曰く、「齊と楚とが趙を救う。親しければ兵を退け、親しくなければ遂にこれを攻めん」と。趙に食なく、齊に粟を請う。齊は聴かず。周子曰く、「聴いて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かざれば則ち秦の兵退かず、是れ秦の計中りて齊楚の計過つなり。且つ趙の齊楚に於けるは、捍蔽なり、猶お歯の脣あるが如し。脣亡びて則ち歯寒し。今日趙を亡ぼせば、明日患ひ齊楚に及ばん。且つ趙を救うの務めは、宜しく漏甕を奉りて焦釜を沃くが若くすべし。夫れ趙を救うは高き義なり。秦の兵を退くるは顕はるる名なり。義を以て亡国を救ひ、威を以て彊秦の兵を退け、此れを務めずして粟を愛するを務むるは、国を計る者の過ちなり」と。齊王聴かず。秦、趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。
十六年、秦、周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦、東郡を置く。二十八年、王、秦に入朝す。秦王政、酒を咸陽に置く。三十五年、秦、韓を滅ぼす。三十七年、秦、趙を滅ぼす。三十八年、燕、荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦、燕を破り、燕王亡走して遼東に至る。明年、秦、魏を滅ぼし、秦兵歴下に次ぐ。四十二年、秦、楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。
四十四年、秦兵齊を撃つ。齊王、相后勝の計を聴き、戦はずして兵を以て秦に降る。秦、王建を虜にし、之を共に遷す。遂に齊を滅ぼして郡と為す。天下壹に秦に并ばれ、秦王政、号を立てて皇帝と為る。初め、君王后賢にして、秦に事へ謹み、諸侯と信あり、齊亦た東辺海上に在り、秦日夜三晉・燕・楚を攻む。五国各自ら秦に救はれんとし、以て故に王建の立つこと四十余年兵を受けず。君王后死し、后勝齊に相たり、多く秦の間の金を受け、多く賓客をして秦に入らしむ。秦又多く金を与ふ。客皆反間と為り、王を勧めて従を去り秦に朝せしめ、攻戦の備を修めず、五国の秦を攻むるを助けず。秦以て故に五国を滅ぼすを得たり。五国既に亡び、秦兵卒に臨淄に入る。民敢へて格つ者莫し。王建遂に降り、共に遷さる。故に齊人、王建の蚤く諸侯と合従して秦を攻めず、姦臣賓客に聴きて其の国を亡ぼすを怨み、之を歌ひて曰く、「松や柏や、建の共に住む者は客や」と。建の客を用ふるの詳ならざるを疾むなり。
太史公曰く
太史公が曰く、蓋し孔子は晩年に易を好んだ。易の術たるや、幽明遠く、通人達才でなければ誰が注意を払うことができようか。周の太史が田敬仲完の卦を占い、十世の後まで占った。また完が斉に奔った時、懿仲が卜って同じことを言った。田乞及び常が二君を犯し、斉国の政を専らにしたのは、必ずしも事勢が漸く然らしめたのではなく、蓋し兆祥に従い厭うが如きものである。
索隠述賛
田完は難を避けて大姜に奔る。始めは羈旅を辞し、終には鳳皇となる。物は両盛んなる莫く、代は五つにして其れ昌える。二君は比べて犯し、三晋は強を争う。和は始めて命を擅にし、威は遂に王を称す。祭は急に燕・趙し、弟は康・莊に列す。秦は東帝を仮し、莒は法章を立てる。王建は国を失い、松柏蒼蒼たり。