史記

卷四十七 孔子世家 第十七

孔子は魯の昌平郷陬邑に生まれた。その先祖は宋の人で、孔防叔という。防叔は伯夏を生み、伯夏は叔梁紇を生んだ。紇は顔氏の女と野合して孔子を生み、尼丘に祈って孔子を得た。魯の襄公二十二年に孔子は生まれた。生まれて頭の上が窪んでいたので、それゆえ名を丘といった。字は仲尼、姓は孔氏である。

原文孔子生魯昌平鄉陬邑。其先宋人也,曰孔防叔。防叔生伯夏,伯夏生叔梁紇。紇與顏氏女野合而生孔子,禱於尼丘得孔子。魯襄公二十二年而孔子生。生而首上圩頂,故因名曰丘云。字仲尼,姓孔氏。

丘が生まれて叔梁紇は死に、防山に葬られた。防山は魯の東にあり、これによって孔子はその父の墓の所在を疑ったが、母はそれを隠していたのである。孔子が子供の頃遊ぶとき、常に俎豆を並べ、礼の容儀を設けた。孔子の母が死ぬと、五父の衢に仮葬したが、これはおそらく慎重を期したのであろう。郰人の輓父の母が孔子に父の墓を教えたので、その後で防に合葬したのである。

原文丘生而叔梁紇死,葬於防山。防山在魯東,由是孔子疑其父墓處,母諱之也。孔子為兒嬉戲,常陳俎豆,設禮容。孔子母死,乃殯五父之衢,蓋其慎也。郰人輓父之母誨孔子父墓,然後往合葬於防焉。

孔子は喪中で麻の帯をしていたが、季氏が士を饗応するのに、孔子も行こうとした。陽虎が退けて言うには、「季氏が士を饗応するのであって、敢えてあなたを饗応するのではない」と。孔子はこれによって退いた。

原文孔子要絰,季氏饗士,孔子與往。陽虎絀曰:「季氏饗士,非敢饗子也。」孔子由是退。

孔子が十七歳の時、魯の大夫孟釐子が病みて死に臨み、その嗣子懿子に誡めて曰く、「孔丘は聖人の後裔にして、宋にて滅びたり。その祖弗父何は初めて宋を有して、その嗣を厲公に譲る。正考父に至りては戴公・武公・宣公を佐け、三命して茲に益々恭し。故に鼎の銘に云う、『一命して僂み、再命して傴み、三命して俯す。牆に循ひて走り、亦た敢えて余を侮る者莫し。饘を是にし、粥を是にして、以て余が口を餬す』と。その恭しきこと是の如し。吾聞く、聖人の後裔は、世に当たらざるも、必ず達者ありと。今、孔丘は年少にして禮をみやびむ。その達者なるか。吾即ち没せんとす。なんぢ必ず之を師とせよ」と。釐子の卒するに及び、懿子と魯人南宮敬叔と往きて禮を學びしなり。是の歳、季武子卒し、平子代はりて立つ。

原文孔子年十七,魯大夫孟釐子病且死,誡其嗣懿子曰:「孔丘,聖人之後,滅於宋。其祖弗父何始有宋而嗣讓厲公。及正考父佐戴、武、宣公,三命茲益恭,故鼎銘云:『一命而僂,再命而傴,三命而俯,循牆而走,亦莫敢余侮。饘於是,粥於是,以餬余口。』其恭如是。吾聞聖人之後,雖不當世,必有達者。今孔丘年少好禮,其達者歟?吾即沒,若必師之。」及釐子卒,懿子與魯人南宮敬叔往學禮焉。是歲,季武子卒,平子代立。

孔子は貧しく且つ賤しかりき。長ずるに及び、嘗て季氏の史となり、料量平らかなり。嘗て司職の吏となりて畜蕃息せしむ。是に由りて司空となる。已にして魯を去り、齊に斥けられ、宋・衞に逐はれ、陳蔡の間に困しむ。是に於て魯に反る。孔子の長さ九尺六寸、人皆之を「長人」と謂ひて異とす。魯復た善く待遇す。是に由りて魯に反る。

原文孔子貧且賤。及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯,斥乎齊,逐乎宋、衞,困於陳蔡之間,於是反魯。孔子長九尺有六寸,人皆謂之「長人」而異之。魯復善待,由是反魯。

魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ、孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車・兩馬・一豎子を俱にせしめ、周に適きて禮を問ふ。蓋し老子を見しと云ふ。辭して去らんとす。老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴者は人を送るに財を以てし、仁人は人を送るに言を以てすと。吾は富貴たること能はず。竊に仁人の號をかし、子を送るに言を以てす。曰く、『聰明深察にして死に近き者は、人を議するを好む者なり。博辯廣大にして其身を危うくする者は、人の惡を發する者なり。人子たる者は己有ること毋れ。人臣たる者は己有ること毋れ』と」と。孔子、周より魯に反る。弟子稍々益々進む。

原文魯南宮敬叔言魯君曰:「請與孔子適周。」魯君與之一乘車,兩馬,一豎子俱,適周問禮,蓋見老子云。辭去,而老子送之曰:「吾聞富貴者送人以財,仁人者送人以言。吾不能富貴,竊仁人之號,送子以言,曰:『聰明深察而近於死者,好議人者也。博辯廣大危其身者,發人之惡者也。為人子者毋以有己,為人臣者毋以有己。』」孔子自周反于魯,弟子稍益進焉。

是の時、晉の平公淫にして、六卿權を擅にし、東してこれ侯を伐つ。楚の靈王兵強く、中國を陵轢す。齊は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附すれば則ち晉怒り、晉に附すれば則ち楚來りて伐つ。齊に備へざれば、齊の師魯を侵す。

原文是時也,晉平公淫,六卿擅權,東伐諸侯;楚靈王兵彊,陵轢中國;齊大而近於魯。魯小弱,附於楚則晉怒;附於晉則楚來伐;不備於齊,齊師侵魯。

魯の昭公の二十年、而して孔子蓋し年三十なり。齊の景公と晏嬰と來りて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔、秦の穆公國小にして處辟なり。其の霸たるは何ぞや」と。對へて曰く、「秦は國小なれども、其の志大なり。處は辟なれども、行ひ中正なり。身を挙げて五羖を以てし、之に大夫の爵を授け、纍紲の中より起し、與に語ること三日、之に政を授く。此を以て之を取れば、王と為すも可なり。其の霸たるは小なり」と。景公說ぶ。

原文魯昭公之二十年,而孔子蓋年三十矣。齊景公與晏嬰來適魯,景公問孔子曰:「昔秦穆公國小處辟,其霸何也?」對曰:「秦,國雖小,其志大;處雖辟,行中正。身舉五羖,爵之大夫,起纍紲之中,與語三日,授之以政。以此取之,雖王可也,其霸小矣。」景公說。

孔子三十五歳の時、季平子と郈昭伯が闘鶏のことで魯の昭公に罪を得、昭公は軍を率いて平子を撃つと、平子は孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻め、昭公の軍は敗れて斉に奔り、斉は昭公を乾侯に置いた。その後しばらくして、魯は乱れた。孔子は斉に赴き、高昭子の家臣となり、景公に通じようとした。斉の太師と音楽について語り、韶の音を聞いてこれを学び、三ヶ月間肉の味を知らず、斉人はこれを称えた。

原文孔子年三十五,而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公,昭公率師擊平子,平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公,昭公師敗,奔於齊,齊處昭公乾侯。其後頃之,魯亂。孔子適齊,為高昭子家臣,欲以通乎景公。與齊太師語樂,聞韶音,學之,三月不知肉味,齊人稱之。

景公が孔子に政治を問うと、孔子は言った、「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」。景公は言った、「善いかな。もしも君が君でなく、臣が臣でなく、父が父でなく、子が子でないならば、たとえ粟があっても、私はどうして食うことができようか」。他日また改めて孔子に政治を問うと、孔子は言った、「政治は財を節することにあり」。景公は喜び、尼谿の田を孔子に封じようとした。晏嬰が進み出て言った、「儒者は滑稽で法に軌すべからず、倨傲で自らに順い、下と為すべからず、喪を崇めて哀を遂げ、産を破り葬を厚くし、俗と為すべからず、遊説して貸を乞い、国と為すべからず。大賢の息んで以来、周室は既に衰え、礼楽は欠けて間あり。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼を繁くし、趨詳の節を重ね、累世してもその学を殫くすことができず、当年でもその礼を究めることができない。君がこれを用いて斉の俗を移そうとされるのは、細民を先にする所以ではない」。後に景公は孔子を敬って見るも、その礼を問わなかった。ある日、景公は孔子を留めて言った、「季氏の如く子を奉ずることは、我にはできない」。季氏と孟氏の間でこれを持てなした。斉の大夫が孔子を害そうとしたので、孔子はこれを聞いた。景公は言った、「我は老いた、用いることができない」。孔子は遂に行き、魯に帰った。

原文景公問政孔子,孔子曰:「君君,臣臣,父父,子子。」景公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾豈得而食諸!」他日又復問政於孔子,孔子曰:「政在節財。」景公說,將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:「夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順,不可以為下;崇喪遂哀,破產厚葬,不可以為俗;游說乞貸,不可以為國。自大賢之息,周室既衰,禮樂缺有間。今孔子盛容飾,繁登降之禮,趨詳之節,累世不能殫其學,當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗,非所以先細民也。」後景公敬見孔子,不問其禮。異日,景公止孔子曰:「奉子以季氏,吾不能。」以季孟之間待之。齊大夫欲害孔子,孔子聞之。景公曰:「吾老矣,弗能用也。」孔子遂行,反乎魯。

孔子四十二歳の時、魯の昭公が乾侯で卒し、定公が立った。定公が立って五年の夏、季平子が卒し、桓子が嗣いで立った。季桓子が井戸を穿って土の缶を得、中に羊の如きものあり、仲尼に「狗を得た」と問うた。仲尼は言った、「丘の聞く所によれば、羊である。丘は聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊であると」。

原文孔子年四十二,魯昭公卒於乾侯,定公立。定公立五年,夏,季平子卒,桓子嗣立。季桓子穿井得土缶,中若羊,問仲尼云「得狗」。仲尼曰:「以丘所聞,羊也。丘聞之,木石之怪夔、罔閬,水之怪龍、罔象,土之怪墳羊。」

呉が越を伐ち、会稽を堕として骨節を車に専らにしたものを得た。呉は使者を遣わして仲尼に問うた、「骨はどれが最大か」。仲尼は言った、「禹が群神を会稽山に致した時、防風氏が後れて至り、禹はこれを殺して戮したが、その節は車に専らにした、これが最大である」。呉の客が言った、「誰が神か」。仲尼は言った、「山川の神は天下を綱紀するに足り、その守る者は神となり、社稷は公侯となり、皆王者に属する」。客が言った、「防風は何を守ったか」。仲尼は言った、「汪罔氏の君が封・禺の山を守り、釐姓である。虞・夏・商では汪罔、周では長翟、今では大人という」。客が言った、「人の長さはどれほどか」。仲尼は言った、「僬僥氏は三尺、短の至りである。長者はその十倍を超えず、数の極みである」。ここにおいて呉の客は言った、「善いかな聖人よ」。

原文吳伐越,墮會稽,得骨節專車。吳使使問仲尼:「骨何者最大?」仲尼曰:「禹致羣神於會稽山,防風氏後至,禹殺而戮之,其節專車,此為大矣。」吳客曰:「誰為神?」仲尼曰:「山川之神足以綱紀天下,其守為神,社稷為公侯,皆屬於王者。」客曰:「防風何守?」仲尼曰:「汪罔氏之君守封、禺之山,為釐姓。在虞、夏、商為汪罔,於周為長翟,今謂之大人。」客曰:「人長幾何?」仲尼曰:「僬僥氏三尺,短之至也。長者不過十之,數之極也。」於是吳客曰:「善哉聖人!」

桓子の寵臣に仲梁懷という者がおり、陽虎と隙があった。陽虎は懷を逐おうとしたが、公山不狃がこれを止めた。その秋、懷はますます驕り、陽虎は懷を執った。桓子は怒り、陽虎はそこで桓子を囚え、盟してこれを釈した。陽虎はこれによってますます季氏を軽んじた。季氏もまた公室に僭し、陪臣が国政を執ったので、魯では大夫以下皆正道から僭離した。故に孔子は仕えず、退いて詩書礼楽を修め、弟子はますます衆く、遠方より至り、業を受けざる者はなかった。

原文桓子嬖臣曰仲梁懷,與陽虎有隙。陽虎欲逐懷,公山不狃止之。其秋,懷益驕,陽虎執懷。桓子怒,陽虎因囚桓子,與盟而醳之。陽虎由此益輕季氏。季氏亦僭於公室,陪臣執國政,是以魯自大夫以下皆僭離於正道。故孔子不仕,退而脩詩書禮樂,弟子彌衆,至自遠方,莫不受業焉。

定公八年、公山不狃は季氏のもとで意を得ず、陽虎に因って乱を為し、三桓の嫡子を廃し、更にその庶孽で陽虎が平素より善しとしていた者を立てようとし、遂に季桓子を執えた。桓子はこれを欺き、脱するを得た。定公九年、陽虎は勝たず、斉に奔った。この時、孔子は五十歳であった。

原文定公八年,公山不狃不得意於季氏,因陽虎為亂,欲廢三桓之適,更立其庶孽陽虎素所善者,遂執季桓子。桓子詐之,得脫。定公九年,陽虎不勝,奔于齊。是時孔子年五十。

公山不狃は費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召させた。孔子は道を循りて久しく、溫溫として試みる所なく、己を用いる者無く、曰く「蓋し周の文武は豊鎬より起って王たり、今費は小なりと雖も、儻いは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路は説ばず、孔子を止む。孔子曰く「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用いば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。

原文公山不狃以費畔季氏,使人召孔子。孔子循道彌久,溫溫無所試,莫能己用,曰:「蓋周文武起豐鎬而王,今費雖小,儻庶幾乎!」欲往。子路不說,止孔子。孔子曰:「夫召我者豈徒哉?如用我,其為東周乎!」然亦卒不行。

その後、定公は孔子を以て中都の宰と為し、一年にして四方皆之を則とした。中都の宰より司空となり、司空より大司寇となった。

原文其後定公以孔子為中都宰,一年,四方皆則之。由中都宰為司空,由司空為大司寇。

定公十年の春、斉と平(和)す。夏、斉の大夫黎鉏、景公に言う曰く「魯、孔丘を用う、其の勢斉を危うくす」と。乃ち使いをして魯に告げて好会を為さんとし、夾谷に会す。魯の定公、且つ乗車を以て好に往かんとす。孔子、相の事を摂り、曰く「臣聞く、文事有る者は必ず武備有り、武事有る者は必ず文備有り。古者諸侯は疆を出づるに、必ず官を具えて従う。左右の司馬を具うるを請う」と。定公曰く「諾」と。左右の司馬を具う。斉侯と夾谷に会し、壇位を為し、土階三等、会遇の礼を以て相見え、揖譲して登る。献酬の礼畢りて、斉の有司趨りて進みて曰く「四方の楽を奏せんことを請う」と。景公曰く「諾」と。ここに於いて旍・旄・羽・袚・矛・戟・剣・撥、鼓噪して至る。孔子趨りて進み、階をのぼりて登り、一等を尽くさず、袂を挙げて言う曰く「吾が両君、好会を為すに、夷狄の楽、何ぞ此れに為さん。有司に命ぜんことを請う」と。有司之を退けんとすれども去らず、則ち左右を視て晏子と景公とに及ぶ。景公心に怍じ、麾して之を去らしむ。有る頃、斉の有司趨りて進みて曰く「宮中の楽を奏せんことを請う」と。景公曰く「諾」と。優倡侏儒、戯れを為して前に進む。孔子趨りて進み、階を歴りて登り、一等を尽くさず、曰く「匹夫にして諸侯を営惑する者は罪誅に当たる。有司に命ぜんことを請う」と。有司法を加う、手足異処す。景公懼れて動き、義若かざるを知り、帰りて大いに恐れ、其の群臣に告げて曰く「魯は君子の道を以て其の君を輔く、而して子独り夷狄の道を以て寡人を教う、魯君に罪を得しむるに至る。之を奈何せん」と。有司進みて対えて曰く「君子は過有れば則ち質を以て謝し、小人は過有れば則ち文を以て謝す。君若し之を悼む有らば、則ち質を以て謝せよ」と。ここに於いて斉侯乃ち侵したる魯の鄆・汶陽・龜陰の田を帰して以て過を謝す。

原文定公十年春,及齊平。夏,齊大夫黎鉏言於景公曰:「魯用孔丘,其勢危齊。」乃使使告魯為好會,會於夾谷。魯定公且以乘車好往。孔子攝相事,曰:「臣聞有文事者必有武備,有武事者必有文備。古者諸侯出疆,必具官以從。請具左右司馬。」定公曰:「諾。」具左右司馬。會齊侯夾谷,為壇位,土階三等,以會遇之禮相見,揖讓而登。獻酬之禮畢,齊有司趨而進曰:「請奏四方之樂。」景公曰:「諾。」於是旍旄羽袚矛戟劍撥鼓噪而至。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,舉袂而言曰:「吾兩君為好會,夷狄之樂何為於此!請命有司!」有司卻之,不去,則左右視晏子與景公。景公心怍,麾而去之。有頃,齊有司趨而進曰:「請奏宮中之樂。」景公曰:「諾。」優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,曰:「匹夫而營惑諸侯者罪當誅!請命有司!」有司加法焉,手足異處。景公懼而動,知義不若,歸而大恐,告其羣臣曰:「魯以君子之道輔其君,而子獨以夷狄之道敎寡人,使得罪於魯君,為之奈何?」有司進對曰:「君子有過則謝以質,小人有過則謝以文。君若悼之,則謝以質。」於是齊侯乃歸所侵魯之鄆、汶陽、龜陰之田以謝過。

定公十三年の夏、孔子、定公に言う曰く「臣に甲を蔵する無く、大夫に百雉の城有ること毋かれ」と。仲由をして季氏の宰と為し、将に三都を墮(毀)たんとす。ここに於いて叔孫氏先ず郈を墮つ。季氏将に費を墮たんとす。公山不狃・叔孫輒、費人を率いて魯を襲う。公と三子、季氏の宮に入り、武子の台に登る。費人之を攻むるも克たず、入りて公の側に及ぶ。孔子、申句須・樂頎に命じて下りて之を伐たしむ。費人北す。国人之を追い、諸を姑蔑に敗る。二子斉に奔る。遂に費を墮つ。将に成を墮たんとす。公歛處父、孟孫に謂いて曰く「成を墮たば、斉人必ず北門に至らん。且つ成は孟氏の保鄣なり、成無きは是れ孟氏無きなり。我将に墮たじ」と。十二月、公成を囲むも克たず。

原文定公十三年夏,孔子言於定公曰:「臣無藏甲,大夫毋百雉之城。」使仲由為季氏宰,將墮三都。於是叔孫氏先墮郈。季氏將墮費,公山不狃、叔孫輒率費人襲魯。公與三子入于季氏之宮,登武子之臺。費人攻之,弗克,入及公側。孔子命申句須、樂頎下伐之,費人北。國人追之,敗諸姑蔑。二子奔齊,遂墮費。將墮成,公歛處父謂孟孫曰:「墮成,齊人必至于北門。且成,孟氏之保鄣,無成是無孟氏也。我將弗墮。」十二月,公圍成,弗克。

定公十四年、孔子五十六歳、大司寇より行ひて相事を攝る。喜色有り。門人曰く、「君子は禍至れば懼れず、福至れば喜ばずと聞く」と。孔子曰く、「是の言有り。『其の貴を以て人に下るを樂しむ』と曰はざるか」と。是に於て魯大夫の政を亂す者少正卯を誅す。國政に與りて聞くこと三月、羔豚を粥ぐ者は賈を飾らず、男女の行者は塗に別れ、塗に遺物を拾はず、四方の客邑に至る者は有司に求めず、皆之を以て歸らしむ。

原文定公十四年,孔子年五十六,由大司寇行攝相事,有喜色。門人曰:「聞君子禍至不懼,福至不喜。」孔子曰:「有是言也。不曰『樂其以貴下人』乎?」於是誅魯大夫亂政者少正卯。與聞國政三月,粥羔豚者弗飾賈;男女行者別於塗;塗不拾遺;四方之客至乎邑者不求有司,皆予之以歸。

齊人聞きて懼れ、曰く、「孔子政を爲せば必ず霸たらん、霸たれば則ち吾が地近し、我之を爲して先づ并ばれん。盍ぞ地を致さざる」と。黎鉏曰く、「請ふ先づ嘗て之を沮まんとす、之を沮みて不可ならば則ち地を致す、庸ぞ遲からんや」と。是に於て齊國中の女子の好なる者八十人を選び、皆文衣を衣て康樂を舞はしめ、文馬三十駟、魯君に遺る。女樂文馬を魯城南高門外に陳べ、季桓子微服して往きて再三觀、將に受けんとす、乃ち魯君に語りて周道游を爲し、往きて終日觀、政事に怠る。子路曰く、「夫子は以て行くべし」と。孔子曰く、「魯今且に郊せんとす、如し膰を大夫に致さば、則ち吾猶ほ以て止まるべし」と。桓子遂に齊の女樂を受け、三日政を聽かず、郊し、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行く、屯に宿る。而して師己送り、曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾が歌は夫れ可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口は、以て出走すべく、彼の婦の謁は、以て死敗すべし。蓋し優哉游哉、維れ以て歲を卒らん」と。師己反り、桓子曰く、「孔子亦た何の言有りや」と。師己實を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するは羣婢の故なるかな」と。

原文齊人聞而懼,曰:「孔子為政必霸,霸則吾地近焉,我之為先并矣。盍致地焉?」黎鉏曰:「請先嘗沮之;沮之而不可則致地,庸遲乎!」於是選齊國中女子好者八十人,皆衣文衣而舞康樂,文馬三十駟,遺魯君。陳女樂文馬於魯城南高門外,季桓子微服往觀再三,將受,乃語魯君為周道游,往觀終日,怠於政事。子路曰:「夫子可以行矣。」孔子曰:「魯今且郊,如致膰乎大夫,則吾猶可以止。」桓子卒受齊女樂,三日不聽政;郊,又不致膰俎於大夫。孔子遂行,宿乎屯。而師己送,曰:「夫子則非罪。」孔子曰:「吾歌可夫?」歌曰:「彼婦之口,可以出走;彼婦之謁,可以死敗。蓋優哉游哉,維以卒歲!」師己反,桓子曰:「孔子亦何言?」師己以實告。桓子喟然嘆曰:「夫子罪我以羣婢故也夫!」

孔子遂に衞に適く、子路の妻兄顏濁鄒の家に主る。衞靈公孔子に問ふ、「魯に居て祿を得ること幾何」と。對へて曰く、「粟六萬を奉る」と。衞人も亦粟六萬を致す。居ること頃之、或ひは孔子を衞靈公に譖ふ。靈公公孫余假をして一出一入せしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、十月居りて、衞を去る。

原文孔子遂適衞,主於子路妻兄顏濁鄒家。衞靈公問孔子:「居魯得祿幾何?」對曰:「奉粟六萬。」衞人亦致粟六萬。居頃之,或譖孔子於衞靈公。靈公使公孫余假一出一入。孔子恐獲罪焉,居十月,去衞。

將に陳に適かんとし、匡を過ぐ。顏刻僕と爲り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入る、彼の缺よりなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と爲す。陽虎嘗て匡人に暴ふ、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子狀陽虎に類す、焉に拘ること五日、顏淵後る。子曰く、「吾汝を以て死せりと爲す」と。顏淵曰く、「子在り、回何ぞ敢て死せん」と。匡人孔子を拘ふること益急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に沒す、文は茲に在らずや。天の將に斯の文を喪はんとするや、後死者は得て斯の文に與からず。天の未だ斯の文を喪はざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子從者をして衞に於て甯武子の臣たらしめ、然る後に去ることを得。

原文將適陳,過匡,顏刻為僕,以其策指之曰:「昔吾入此,由彼缺也。」匡人聞之,以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人,匡人於是遂止孔子。孔子狀類陽虎,拘焉五日,顏淵後,子曰:「吾以汝為死矣。」顏淵曰:「子在,回何敢死!」匡人拘孔子益急,弟子懼。孔子曰:「文王既沒,文不在茲乎?天之將喪斯文也,後死者不得與于斯文也。天之未喪斯文也,匡人其如予何!」孔子使從者為甯武子臣於衞,然後得去。

去りて即ち蒲を過ぐ。月餘り、衞に反る、蘧伯玉の家に主る。靈公の夫人に南子有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子辱しめずして寡君と兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君を見る。寡小君見んことを願ふ」と。孔子辭謝し、已むを得ずして之を見る。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。夫人帷の中より再拜し、環珮玉の聲璆然たり。孔子曰く、「吾鄉は見ざらんと爲すも、之を見て禮答ふ」と。子路說ばず。孔子之に誓ひて曰く、「予の不なる所は、天之を厭はん、天之を厭はん」と。衞に居ること月餘り、靈公夫人と車を同ふし、宦者雍渠參乘と爲り、出で、孔子をして次乘たらしめ、招搖して市を過ぎしむ。孔子曰く、「吾德を好むこと色を好むが如き者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衞を去り、曹を過ぐ。是歲、魯定公卒す。

原文去即過蒲。月餘,反乎衞,主蘧伯玉家。靈公夫人有南子者,使人謂孔子曰:「四方之君子不辱欲與寡君為兄弟者,必見寡小君。寡小君願見。」孔子辭謝,不得已而見之。夫人在絺帷中。孔子入門,北面稽首。夫人自帷中再拜,環珮玉聲璆然。孔子曰:「吾鄉為弗見,見之禮答焉。」子路不說。孔子矢之曰:「予所不者,天厭之!天厭之!」居衞月餘,靈公與夫人同車,宦者雍渠參乘,出,使孔子為次乘,招搖市過之。孔子曰:「吾未見好德如好色者也。」於是醜之,去衞,過曹。是歲,魯定公卒。

孔子は曹を去り宋に赴き、弟子とともに大樹の下で礼を習った。宋の司馬桓魋が孔子を殺そうとし、その樹を抜いた。孔子は去った。弟子が言うには、「速やかにすべきです」。孔子は言った、「天が私に徳を生じさせたのだ、桓魋が私をどうすることができようか」。

原文孔子去曹適宋,與弟子習禮大樹下。宋司馬桓魋欲殺孔子,拔其樹。孔子去。弟子曰:「可以速矣。」孔子曰:「天生德於予,桓魋其如予何!」

孔子は鄭に赴き、弟子と互いに離れ失い、孔子はひとり郭の東門に立った。鄭の人が子貢に言うには、「東門に人がいる、その額は堯に似、その項は皋陶に類し、その肩は子産に類するが、しかし腰から下は禹より三寸足りない。重なり連なって喪家の狗のようだ」。子貢は実情を孔子に告げた。孔子は欣然として笑い、「形状は末のことだ。しかして喪家の狗に似ていると言うのは、その通りだ、その通りだ」。

原文孔子適鄭,與弟子相失,孔子獨立郭東門。鄭人或謂子貢曰:「東門有人,其顙似堯,其項類皋陶,其肩類子產,然自要以下不及禹三寸。纍纍若喪家之狗。」子貢以實告孔子。孔子欣然笑曰:「形狀,末也。而謂似喪家之狗,然哉!然哉!」

孔子はついに陳に至り、司城貞子の家に寄寓した。一年余りして、呉王夫差が陳を伐ち、三邑を取って去った。趙鞅が朝歌を伐った。楚が蔡を囲み、蔡は呉に遷った。呉が越王句踐を会稽で破った。

原文孔子遂至陳,主於司城貞子家。歲餘,吳王夫差伐陳,取三邑而去。趙鞅伐朝歌。楚圍蔡,蔡遷于吳。吳敗越王句踐會稽。

隼が陳の廷に集まって死に、楛の矢がそれを貫き、石の砮、矢の長さは尺と咫ある。陳の湣公は使者を遣わして仲尼に問わせた。仲尼は言った、「隼は遠くから来たのだ、これは肅慎の矢である。昔、武王が商を克ち、九夷百蠻に道を通じ、それぞれその方の賄をもって来貢させ、職業を忘れさせなかった。ここにおいて肅慎は楛矢石砮を貢ぎ、長さは尺と咫ある。先王はその令徳を昭かにしようとし、肅慎の矢を大姫に分け与え、虞胡公に配して陳に封じた。同姓には珍玉を分け与えて親を展べ、異姓には遠職を分け与えて服することを忘れさせなかった。ゆえに陳に肅慎の矢を分け与えたのである」。故府に求めてみると、果たしてそれを得た。

原文有隼集于陳廷而死,楛矢貫之,石砮,矢長尺有咫。陳湣公使使問仲尼。仲尼曰:「隼來遠矣,此肅慎之矢也。昔武王克商,通道九夷百蠻,使各以其方賄來貢,使無忘職業。於是肅慎貢楛矢石砮,長尺有咫。先王欲昭其令德,以肅慎矢分大姬,配虞胡公而封諸陳。分同姓以珍玉,展親;分異姓以遠職,使無忘服。故分陳以肅慎矢。」試求之故府,果得之。

孔子が陳に居ること三年、晋と楚が強を争い、互いに陳を伐ち、および呉が陳を侵し、陳は常に寇に被された。孔子は言った、「帰ろう、帰ろう。我が党の小子は狂簡にして、進取してその初めを忘れない」。ここにおいて孔子は陳を去った。

原文孔子居陳三歲,會晉楚爭彊,更伐陳,及吳侵陳,陳常被寇。孔子曰:「歸與歸與!吾黨之小子狂簡,進取不忘其初。」於是孔子去陳。

蒲を通り過ぎたところ、公叔氏が蒲で叛いたため、蒲の人々が孔子を引き留めた。弟子に公良孺という者がおり、私の車五輛で孔子に従っていた。その人は背が高く賢く、勇力があり、言うには、「私はかつて夫子に従って匡で難に遭い、今またここで難に遭うとは、これも運命である。私と夫子が再び難に遭うなら、むしろ戦って死のう」と。戦いは非常に激しかった。蒲の人々は恐れ、孔子に言うには、「もし衛に行かなければ、あなたを出してやろう」と。彼らと盟約を結び、孔子を東門から出した。孔子はそこで衛に行った。子貢が言うには、「盟約は背いてよいのか」と。孔子は言うには、「強要された盟約である、神は聞き入れない」と。

原文過蒲,會公叔氏以蒲畔,蒲人止孔子。弟子有公良孺者,以私車五乘從孔子。其為人長賢,有勇力,謂曰:「吾昔從夫子遇難於匡,今又遇難於此,命也已。吾與夫子再罹難,寧鬬而死。」鬬甚疾。蒲人懼,謂孔子曰:「苟毋適衞,吾出子。」與之盟,出孔子東門。孔子遂適衞。子貢曰:「盟可負耶?」孔子曰:「要盟也,神不聽。」

衛の霊公は孔子が来たと聞き、喜び、郊外に出迎えた。問うて言うには、「蒲を討つことはできるか」と。答えて言うには、「できます」と。霊公は言うには、「我が大夫たちはできないと言う。今の蒲は、衛が晋や楚に備えるための地である。衛をもってこれを討つのは、いささかできないのではないか」と。孔子は言うには、「その男子には死を覚悟する志があり、婦人には西河を守る志がある。私が討つべき者はせいぜい四、五人に過ぎません」と。霊公は言うには、「よかろう」と。しかし蒲を討たなかった。

原文衞靈公聞孔子來,喜,郊迎。問曰:「蒲可伐乎?」對曰:「可。」靈公曰:「吾大夫以為不可。今蒲,衞之所以待晉楚也,以衞伐之,無乃不可乎?」孔子曰:「其男子有死之志,婦人有保西河之志。吾所伐者不過四五人。」靈公曰:「善。」然不伐蒲。

霊公は老いて、政事に倦み、孔子を用いなかった。孔子は慨然として嘆いて言うには、「もし私を用いる者がいれば、一年で効果があり、三年で成果をあげるであろう」と。孔子は去った。

原文靈公老,怠於政,不用孔子。孔子喟然歎曰:「苟有用我者,朞月而已,三年有成。」孔子行。

仏肸が中牟の宰となった。趙の簡子が范氏・中行氏を攻め、中牟を討った。仏肸が叛き、人をやって孔子を召した。孔子は行こうとした。子路が言うには、「由が夫子から聞いたところでは、『その身自ら不善を行う者には、君子は入らない』と。今仏肸が自ら中牟で叛いているのに、先生が行こうとされるのは、どういうことか」と。孔子は言うには、「そのような言葉はある。しかし、堅いものは磨いても薄くならないとは言わないか。白いものは染めても黒くならないとは言わないか。私はどうして瓢箪であろうか、どうして掛けておいて食べられないことがあろうか」と。

原文佛肸為中牟宰。趙簡子攻范、中行,伐中牟。佛肸畔,使人召孔子。孔子欲往。子路曰:「由聞諸夫子,『其身親為不善者,君子不入也』。今佛肸親以中牟畔,子欲往,如之何?」孔子曰:「有是言也。不曰堅乎,磨而不磷;不曰白乎,涅而不淄。我豈匏瓜也哉,焉能繫而不食?」

孔子が磬を撃っていた。篑を担いで門の前を通り過ぎた者がいて、言うには、「心があるな、磬を撃つのは! 硜硜とした音よ、己を知る者もいないが、それでやめてしまうのか」と。

原文孔子擊磬。有荷蕢而過門者,曰:「有心哉,擊磬乎!硜硜乎,莫己知也夫而已矣!」

孔子が琴を師襄子に学び、十日たっても進まなかった。師襄子が言うには、「もう先に進んでよい」。孔子は言う、「丘はすでにその曲を習ったが、まだその数(節奏・度数)を得ていない」。しばらくして、師襄子が言う、「すでにその数を習った、先に進んでよい」。孔子は言う、「丘はまだその志(精神)を得ていない」。しばらくして、師襄子が言う、「すでにその志を習った、先に進んでよい」。孔子は言う、「丘はまだその人となりを得ていない」。しばらくして、孔子は穆然として深く思いをめぐらす様子があり、怡然として高く望み遠く志す様子があった。そして言う、「丘はその人となりを得た。黯として黒く、幾然として長く、眼は望羊の如く、四方の国を王たるが如し。文王でなくて誰がこれを為しえようか!」師襄子は席を避けて再拝し、言う、「師はおそらく『文王操』と言っていた」。

原文孔子學鼓琴師襄子,十日不進。師襄子曰:「可以益矣。」孔子曰:「丘已習其曲矣,未得其數也。」有間,曰:「已習其數,可以益矣。」孔子曰:「丘未得其志也。」有間,曰:「已習其志,可以益矣。」孔子曰:「丘未得其為人也。」有間,有所穆然深思焉,有所怡然高望而遠志焉。曰:「丘得其為人,黯然而黑,幾然而長,眼如望羊,如王四國,非文王其誰能為此也!」師襄子辟席再拜,曰:「師蓋云文王操也。」

孔子はすでに衛で用いられず、西へ趙簡子に会おうとした。河に至って竇鳴犢・舜華の死を聞き、河に臨んで嘆いて言う、「美しいかな水よ、洋洋たるかな!丘がここを渡らないのは、天命であろうか」。子貢が趨って進み出て言う、「敢えて問う、何を言われるのですか」。孔子は言う、「竇鳴犢、舜華は、晋国の賢大夫である。趙簡子が未だ志を得ざる時は、この両人を待って後に政に従った。その既に志を得た時に至り、彼らを殺して政に従った。丘はこれを聞く、胎を刳き夭を殺せば麒麟は郊に至らず、沢を竭くし漁を涸らせば蛟龍は陰陽に合わず、巣を覆し卵を毀てば鳳凰は翔ばない。何となれば、君子はその類を傷つけることを諱むからである。夫れ鳥獣ですら不義に対しては尚おこれを避けることを知る。況んや丘においておや!」そこで還って陬郷に息み、陬操を作ってこれを哀しんだ。そして衛に戻り、蘧伯玉の家に入った。

原文孔子既不得用於衞,將西見趙簡子。至於河而聞竇鳴犢、舜華之死也,臨河而嘆曰:「美哉水,洋洋乎!丘之不濟此,命也夫!」子貢趨而進曰:「敢問何謂也?」孔子曰:「竇鳴犢,舜華,晉國之賢大夫也。趙簡子未得志之時,須此兩人而後從政;及其已得志,殺之乃從政。丘聞之也,刳胎殺夭則麒麟不至郊,竭澤涸漁則蛟龍不合陰陽,覆巢毀卵則鳳皇不翔。何則?君子諱傷其類也。夫鳥獸之於不義也尚知辟之,而況乎丘哉!」乃還息乎陬鄉,作為陬操以哀之。而反乎衞,入主蘧伯玉家。

ある日、霊公が兵陣について問うた。孔子は言う、「俎豆の事は則ち嘗てこれを聞いたが、軍旅の事は未だこれを学ばない」。明日、孔子と語り、飛ぶ雁を見て、仰ぎ視る。その色は孔子に在らず。孔子は遂に行き、また陳に如く。

原文他日,靈公問兵陳。孔子曰:「俎豆之事則嘗聞之,軍旅之事未之學也。」明日,與孔子語,見蜚鴈,仰視之,色不在孔子。孔子遂行,復如陳。

夏、衛の霊公が卒し、孫の輒を立てた。これが衛の出公である。六月、趙鞅が太子蒯聵を戚に内した。陽虎が太子に絻(喪冠)を着させ、八人が衰絰(喪服)を着て、衛からの迎えの者を偽り、泣きながら入り、遂にそこに居した。冬、蔡が州来に遷った。この年は魯の哀公三年であり、孔子の年は六十であった。斉が衛を助けて戚を囲んだ。衛の太子蒯聵がそこにいたためである。

原文夏,衞靈公卒,立孫輒,是為衞出公。六月,趙鞅內太子蒯聵于戚。陽虎使太子絻,八人衰絰,偽自衞迎者,哭而入,遂居焉。冬,蔡遷于州來。是歲魯哀公三年,而孔子年六十矣。齊助衞圍戚,以衞太子蒯聵在故也。

夏、魯の桓公・釐公の廟が焼け、南宮敬叔が火を救った。孔子は陳におり、これを聞いて言う、「災いは必ずや桓公・釐公の廟であろうか」。已にして果たしてその通りであった。

原文夏,魯桓釐廟燔,南宮敬叔救火。孔子在陳,聞之,曰:「災必於桓釐廟乎?」已而果然。

秋、季桓子病み、輦に乗って魯の城を見、喟然として嘆いて曰く、「昔この国は幾らか興らんとしたが、我が孔子に罪を得たるが故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣たる康子に謂ひて曰く、「我死せば、若必ず魯を相せん。魯を相せば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒す。康子代はりて立つ。既に葬りて、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔我が先君之を用ひて終はらず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひて、能く終はらずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「然らば誰を召して可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす。孔子曰く、「魯人求を召すは、小に之を用ふるに非ず、将に大に之を用ふるなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんかな帰らんかな。我が党の小子狂簡にして、斐然として章を成す。吾其れ何を以て之を裁せんとするを知らず」と。子貢孔子の帰らんと思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く、「即ち用ひらるれば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。

原文秋,季桓子病,輦而見魯城,喟然嘆曰:「昔此國幾興矣,以吾獲罪於孔子,故不興也。」顧謂其嗣康子曰:「我即死,若必相魯;相魯,必召仲尼。」後數日,桓子卒,康子代立。已葬,欲召仲尼。公之魚曰:「昔吾先君用之不終,終為諸侯笑。今又用之,不能終,是再為諸侯笑。」康子曰:「則誰召而可?」曰:「必召冉求。」於是使使召冉求。冉求將行,孔子曰:「魯人召求,非小用之,將大用之也。」是日,孔子曰:「歸乎歸乎!吾黨之小子狂簡,斐然成章,吾不知所以裁之。」子貢知孔子思歸,送冉求,因誡曰「即用,以孔子為招」云。

冉求既に去りて、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす。呉之を召すなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷り、後将に往かんとす。大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。

原文冉求既去,明年,孔子自陳遷于蔡。蔡昭公將如吳,吳召之也。前昭公欺其臣遷州來,後將往,大夫懼復遷,公孫翩射殺昭公。楚侵蔡。秋,齊景公卒。

明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ。孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公子路に孔子を問ふ。子路対へず。孔子之を聞きて曰く、「由、爾何ぞ対へて曰はざる、『其の人と為りや、道を学びて倦まず、人を誨へて厭はず、憤を発して食を忘れ、楽しみて以て憂ひを忘れ、老の将に至らんとするを知らず』と云爾」と。

原文明年,孔子自蔡如葉。葉公問政,孔子曰:「政在來遠附邇。」他日,葉公問孔子於子路,子路不對。孔子聞之,曰:「由,爾何不對曰『其為人也,學道不倦,誨人不厭,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至』云爾。」

葉を去りて、蔡に反る。長沮・桀溺耦して耕す。孔子以て隠者と為し、子路をして津を問はしむ。長沮曰く、「彼の輿を執る者は誰ぞ」と。子路曰く、「孔丘なり」と。曰く、「是れ魯の孔丘か」と。曰く、「然り」と。曰く、「是れ津を知るなり」と。桀溺子路に謂ひて曰く、「子は誰ぞ」と。曰く、「仲由なり」と。曰く、「子は孔丘の徒か」と。曰く、「然り」と。桀溺曰く、「悠悠たる者は天下皆是れなり。而して誰と以て之を易へん。且つ其の人を辟くるの士に従ふに、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや」と。耰して輟めず。子路以て孔子に告ぐ。孔子憮然として曰く、「鳥獣は与に同じく羣れすべからず。天下道有らば、丘与に易へざるなり」と。

原文去葉,反于蔡。長沮、桀溺耦而耕,孔子以為隱者,使子路問津焉。長沮曰:「彼執輿者為誰?」子路曰:「為孔丘。」曰:「是魯孔丘與?」曰:「然。」曰:「是知津矣。」桀溺謂子路曰:「子為誰?」曰:「為仲由。」曰:「子,孔丘之徒與?」曰:「然。」桀溺曰:「悠悠者天下皆是也,而誰以易之?且與其從辟人之士,豈若從辟世之士哉!」耰而不輟。子路以告孔子,孔子憮然曰:「鳥獸不可與同羣。天下有道,丘不與易也。」

他日、子路行きて、蓧を荷ふ丈人に遇ふ。曰く、「子夫子を見るや」と。丈人曰く、「四体勤めず、五穀分たず。孰か夫子と為らん」と。其の杖を植ゑて芸す。子路以て告ぐ。孔子曰く、「隠者なり」と。復た往くも、則ち亡し。

原文他日,子路行,遇荷蓧丈人,曰:「子見夫子乎?」丈人曰:「四體不勤,五穀不分,孰為夫子!」植其杖而芸。子路以告,孔子曰:「隱者也。」復往,則亡。

孔子が蔡に移って三年、呉が陳を伐った。楚が陳を救い、城父に軍を駐めた。孔子が陳と蔡の間に在ることを聞き、楚は人を遣わして孔子を聘した。孔子は往きて礼を拝せんとし、陳・蔡の大夫らが謀って曰く、「孔子は賢者にして、刺譏するところは皆諸侯の疾に中る。今久しく陳・蔡の間に留まるが、諸大夫の設行する所は皆仲尼の意に非ず。今楚は大国なり、来たりて孔子を聘す。孔子が楚に用いられれば、則ち陳・蔡の用事大夫は危うからん」と。ここにおいて乃ち相与に徒役を発して孔子を野に囲む。行くを得ず、糧を絶つ。従者病み、興る能う者なし。孔子は講誦し弦歌して衰えず。子路慍りて見えて曰く、「君子も亦窮すること有るか」と。孔子曰く、「君子は固より窮す、小人は窮すれば斯に濫る」と。

原文孔子遷于蔡三歲,吳伐陳。楚救陳,軍于城父。聞孔子在陳蔡之間,楚使人聘孔子。孔子將往拜禮,陳蔡大夫謀曰:「孔子賢者,所刺譏皆中諸侯之疾。今者久留陳蔡之間,諸大夫所設行皆非仲尼之意。今楚,大國也,來聘孔子。孔子用於楚,則陳蔡用事大夫危矣。」於是乃相與發徒役圍孔子於野。不得行,絕糧。從者病,莫能興。孔子講誦弦歌不衰。子路慍見曰:「君子亦有窮乎?」孔子曰:「君子固窮,小人窮斯濫矣。」

子貢の色作す。孔子曰く、「賜よ、爾は予を以て多く学びて之を識る者と為すか」と。曰く、「然り。非なるか」と。孔子曰く、「非なり。予は一以て之を貫く」と。

原文子貢色作。孔子曰:「賜,爾以予為多學而識之者與?」曰:「然。非與?」孔子曰:「非也。予一以貫之。」

孔子、弟子に慍る心有るを知り、乃ち子路を召して問いて曰く、「『詩』に云う『兕に匪ず虎に匪ず、率いて彼の曠野に在り』と。吾が道は非なるか。吾何を為して此に在るか」と。子路曰く、「意うらくは吾未だ仁ならざるか。人の我を信ぜざるなり。意うらくは吾未だ知ならざるか。人の我を行わざるなり」と。孔子曰く、「是れ有るか。由よ、譬え仁者にして必ず信ぜられば、安んぞ伯夷・叔齊有らん。知者にして必ず行われば、安んぞ王子比干有らん」と。

原文孔子知弟子有慍心,乃召子路而問曰:「《詩》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」子路曰:「意者吾未仁邪?人之不我信也。意者吾未知邪?人之不我行也。」孔子曰:「有是乎!由,譬使仁者而必信,安有伯夷、叔齊?使知者而必行,安有王子比干?」

子路出で、子貢入りて見ゆ。孔子曰く、「賜よ、『詩』に云う『兕に匪ず虎に匪ず、率いて彼の曠野に在り』と。吾が道は非なるか。吾何を為して此に在るか」と。子貢曰く、「夫子の道は至大なり、故に天下夫子を容るる莫し。夫子蓋し少しく貶せんか」と。孔子曰く、「賜よ、良農は能く稼ぐも能く穡を為さず、良工は能く巧みも能く順を為さず。君子は能く其の道を脩め、綱として之を紀し、統べて之を理むるも、能く容を為さず。今爾は爾が道を脩めずして容を求めんとす。賜よ、而が志遠からず」と。

原文子路出,子貢入見。孔子曰:「賜,《詩》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」子貢曰:「夫子之道至大也,故天下莫能容夫子。夫子蓋少貶焉?」孔子曰:「賜,良農能稼而不能為穡,良工能巧而不能為順。君子能脩其道,綱而紀之,統而理之,而不能為容。今爾不脩爾道而求為容。賜,而志不遠矣!」

子貢出で、顏回入りて見ゆ。孔子曰く、「回よ、『詩』に云う『兕に匪ず虎に匪ず、率いて彼の曠野に在り』と。吾が道は非なるか。吾何を為して此に在るか」と。顏回曰く、「夫子の道は至大なり、故に天下容るる莫し。然りと雖も、夫子推し行えば、容れられざるも何の病か、容れられざる然る後に君子を見る。夫れ道の脩まらざるは、是れ吾が醜なり。夫れ道既に大いに脩まりて用いられざるは、是れ国を有つ者の醜なり。容れられざるも何の病か、容れられざる然る後に君子を見る」と。孔子欣として然り笑いて曰く、「是れ有るかな顏氏の子。爾に財多からしめば、吾は爾が宰と為らん」と。

原文子貢出,顏回入見。孔子曰:「回,《詩》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」顏回曰:「夫子之道至大,故天下莫能容。雖然,夫子推而行之,不容何病,不容然後見君子!夫道之不脩也,是吾醜也。夫道既已大脩而不用,是有國者之醜也。不容何病,不容然後見君子!」孔子欣然而笑曰:「有是哉顏氏之子!使爾多財,吾為爾宰。」

ここにおいて子貢を楚に遣わす。楚の昭王は軍を起こして孔子を迎え、その後難を免れる。

原文於是使子貢至楚。楚昭王興師迎孔子,然後得免。

昭王は書社の地七百里を以て孔子に封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の使として諸侯に使わす者に子貢の如き者有るか」と。曰く、「無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「無し」と。「王の将帥に子路の如き者有るか」と。曰く、「無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三皇五帝の法を述べ、周公・召公の業を明らかにす。王若し之を用いば、則ち楚安んぞ世々堂堂として方数千里を得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たる。今孔丘、土壤を拠るを得、賢弟子を佐と為さば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。

原文昭王將以書社地七百里封孔子。楚令尹子西曰:「王之使使諸侯有如子貢者乎?」曰:「無有。」「王之輔相有如顏回者乎?」曰:「無有。」「王之將率有如子路者乎?」曰:「無有。」「王之官尹有如宰予者乎?」曰:「無有。」「且楚之祖封於周,號為子男五十里。今孔丘述三五之法,明周召之業,王若用之,則楚安得世世堂堂方數千里乎?夫文王在豐,武王在鎬,百里之君卒王天下。今孔丘得據土壤,賢弟子為佐,非楚之福也。」昭王乃止。其秋,楚昭王卒于城父。

楚の狂人接輿、歌いて孔子の傍らを過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶お追うべし。已んぬるかな已んぬるかな、今の政に従う者は殆うし」と。孔子下車し、之と言わんと欲す。趨りて去り、得て之と言うこと能わず。

原文楚狂接輿歌而過孔子,曰:「鳳兮鳳兮,何德之衰!往者不可諫兮,來者猶可追也!已而已而,今之從政者殆而!」孔子下,欲與之言。趨而去,弗得與之言。

ここにおいて孔子自ら楚より衛に反る。是の歳、孔子年六十三、而して魯の哀公六年なり。

原文於是孔子自楚反乎衞。是歲也,孔子年六十三,而魯哀公六年也。

其の明年、呉と魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭、季康子を召す。康子、子貢をして往かしむ。然る後に已むを得たり。

原文其明年,吳與魯會繒,徵百牢。太宰嚭召季康子。康子使子貢往,然後得已。

孔子が言うには、「魯と衛の政治は、兄弟のようである」と。この時、衛の君主輒の父は立つことができず、国外におり、諸侯はしばしばこれを責めた。そして孔子の弟子の多くは衛に仕えており、衛の君主は孔子を政に用いようとした。子路が言うには、「衛の君主が先生を待って政を行おうとしています。先生はまず何から始められますか」と。孔子が言うには、「必ずや名を正すことであろう」と。子路が言うには、「そんなことがあるのですか、先生の迂遠なことよ。どうして名を正すなどというのですか」と。孔子が言うには、「野卑だな、由よ。そもそも名が正しくなければ言葉は順わず、言葉が順わなければ事は成らず、事が成らなければ礼楽は興らず、礼楽が興らなければ刑罰は当たらず、刑罰が当たらなければ民は手足を置く所がない。そもそも君子は行うには必ず名づけられ、言うには必ず実行できるようにする。君子はその言葉について、いい加減にしないだけである」と。

原文孔子曰:「魯衞之政,兄弟也。」是時,衞君輒父不得立,在外,諸侯數以為讓。而孔子弟子多仕於衞,衞君欲得孔子為政。子路曰:「衞君待子而為政,子將奚先?」孔子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉,子之迂也!何其正也?」孔子曰:「野哉由也!夫名不正則言不順,言不順則事不成,事不成則禮樂不興,禮樂不興則刑罰不中,刑罰不中則民無所錯手足矣。夫君子為之必可名,言之必可行。君子於其言,無所苟而已矣。」

その翌年、冉有が季氏の将師となり、斉と郎で戦い、これを打ち破った。季康子が言うには、「あなたは軍旅のことについて、学んだのか、それとも天性なのか」と。冉有が言うには、「孔子に学びました」と。季康子が言うには、「孔子とはどのような人か」と。答えて言うには、「用いるに名分があり、これを百姓に広め、鬼神に質しても悔いがない。この道を求めることにおいては、たとえ千社を累ねても、夫子は利益とされません」と。康子が言うには、「私は彼を召したいが、よいか」と。答えて言うには、「召そうとされるなら、小人をもって彼を固めなければ、よいでしょう」と。一方、衛の孔文子が太叔を攻めようとし、仲尼に策を問うた。仲尼は知らないと辞し、退いて車に乗るよう命じて出発し、言うには、「鳥は木を選ぶことができるが、木がどうして鳥を選べようか」と。文子は固く引き止めた。ちょうど季康子が公華・公賓・公林を追放し、幣をもって孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。

原文其明年,冉有為季氏將師,與齊戰於郎,克之。季康子曰:「子之於軍旅,學之乎?性之乎?」冉有曰:「學之於孔子。」季康子曰:「孔子何如人哉?」對曰:「用之有名;播之百姓,質諸鬼神而無憾。求之至於此道,雖累千社,夫子不利也。」康子曰:「我欲召之,可乎?」對曰:「欲召之,則毋以小人固之,則可矣。」而衞孔文子將攻太叔,問策於仲尼。仲尼辭不知,退而命載而行,曰:「鳥能擇木,木豈能擇鳥乎!」文子固止。會季康子逐公華、公賓、公林,以幣迎孔子,孔子歸魯。

孔子が魯を去ってから、合わせて十四年で魯に帰った。

原文孔子之去魯凡十四歲而反乎魯。

魯の哀公が政を問うと、答えて言うには、「政は臣を選ぶことにある」と。季康子が政を問うと、言うには、「直きを挙げて枉れる者の上に置けば、枉れる者も直くなる」と。康子が盗みを患えると、孔子が言うには、「もしあなたが欲しがらなければ、賞しても盗まないだろう」と。しかし魯は結局孔子を用いることができず、孔子もまた仕えを求めなかった。

原文魯哀公問政,對曰:「政在選臣。」季康子問政,曰:「舉直錯諸枉,則枉者直。」康子患盜,孔子曰:「苟子之不欲,雖賞之不竊。」然魯終不能用孔子,孔子亦不求仕。

孔子の時代、周室は衰微し礼楽は廃れ、詩書は欠けていた。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の時代から、下は秦の繆公に至るまで、その事を編次した。言うには、「夏の礼は私が言うことができるが、杞では証拠とするに足りない。殷の礼は私が言うことができるが、宋では証拠とするに足りない。足りれば、私はそれを証拠とすることができるのだが」と。殷と夏の損益を見て、言うには、「後世たとえ百世でも知ることができる、一文一質によってである。周は二代を監み、郁郁として文なることよ。私は周に従う」と。ゆえに『書伝』・『礼記』は孔氏から出た。

原文孔子之時,周室微而禮樂廢,詩書缺。追跡三代之禮,序書傳,上紀唐虞之際,下至秦繆,編次其事。曰:「夏禮吾能言之,杞不足徵也。殷禮吾能言之,宋不足徵也。足,則吾能徵之矣。」觀殷夏所損益,曰:「後雖百世可知也,以一文一質。周監二代,郁郁乎文哉。吾從周。」故《書傳》、《禮記》自孔氏。

孔子が魯の大師に語って曰く、「楽はその知るべきなり。始めて作すときは翕如たり、これを縦つれば純如たり、皦如たり、繹如たりして、以て成る」と。「吾衛より魯に反りて、然る後に楽正し、雅頌各々その所を得たり」。

原文孔子語魯大師:「樂其可知也。始作翕如,縱之純如,皦如,繹如也,以成。」「吾自衞反魯,然後樂正,雅頌各得其所。」

古えには詩三千余篇あり、孔子に至りて、その重複を去り、礼義に施すべきものを取り、上は契・后稷を採り、中は殷周の盛りを述べ、幽厲の缺に至り、衽席に始まる。故に「関雎の乱を以て風の始めと為し、鹿鳴を小雅の始めと為し、文王を大雅の始めと為し、清廟を頌の始めと為す」と曰う。三百五篇、孔子皆これを弦歌して、韶・武・雅・頌の音に合わんことを求む。礼楽ここより得て述ぶるべきものあり、以て王道を備え、六芸を成す。

原文古者詩三千餘篇,及至孔子,去其重,取可施於禮義,上采契后稷,中述殷周之盛,至幽厲之缺,始於衽席,故曰「關雎之亂以為風始,鹿鳴為小雅始,文王為大雅始,清廟為頌始」。三百五篇孔子皆弦歌之,以求合韶武雅頌之音。禮樂自此可得而述,以備王道,成六藝。

孔子晩年に易を喜び、彖・繫・象・説卦・文言を序す。易を読みて、韋編三たび絶つ。曰く、「我に数年を仮せば、若し是の如くならば、我易に於いては則ち彬彬たらん」と。

原文孔子晚而喜易,序彖、繫、象、說卦、文言。讀易,韋編三絕。曰:「假我數年,若是,我於易則彬彬矣。」

孔子は詩・書・礼・楽を以て教え、弟子蓋し三千人、身に六芸を通ずる者は七十有二人。顔濁鄒の徒の如き、頗る業を受くる者甚だ衆し。

原文孔子以詩書禮樂敎,弟子蓋三千焉,身通六藝者七十有二人。如顏濁鄒之徒,頗受業者甚衆。

孔子は四つを以て教う:文・行・忠・信。四つを絶つ:意なく、必らずなく、固くなく、我なし。慎む所:斎・戦・疾。子は利と命と仁とを言うこと罕なり。憤せざれば啓せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、則ち復たせざるなり。

原文孔子以四敎:文、行、忠、信。絕四:毋意、毋必、毋固、毋我。所慎:齊、戰、疾。子罕言利與命與仁。不憤不啟,舉一隅不以三隅反,則弗復也。

彼が郷党においては、恭順にして言うことができないかのようである。宗廟朝廷においては、弁舌さわやかに言い、ただ謹み深いのみである。朝廷において、上大夫と語るときは、謹厳な様子であり、下大夫と語るときは、和やかな様子である。

原文其於鄉黨,恂恂似不能言者。其於宗廟朝廷,辯辯言,唯謹爾。朝,與上大夫言,誾誾如也;與下大夫言,侃侃如也。

公門に入るときは、身をかがめて謹み、進み出るときは、翼を広げたように整然としている。君主が召して賓客の接待を命ずれば、顔色が引き締まる。君主の命で召されれば、車を待たずに歩いて行く。

原文入公門,鞠躬如也;趨進,翼如也。君召使儐,色勃如也。君命召,不俟駕行矣。

魚が腐り、肉が傷み、切り方が正しくなければ、食べない。席が正しくなければ、座らない。喪に服する者の側で食事をするときは、飽きるまで食べたことがない。

原文魚餒,肉敗,割不正,不食。席不正,不坐。食於有喪者之側,未嘗飽也。

この日に哭すれば、歌わない。喪服を着た者や盲人を見れば、たとえ童子であっても必ず態度を改める。

原文是日哭,則不歌。見齊衰、瞽者,雖童子必變。

「三人で行けば、必ず我が師を得る。」「徳を修めず、学を講ぜず、義を聞いてもこれに従わず、不善を改めない、これが我が憂いである。」人に歌わせて、上手であれば、再び歌わせ、それから自分も合わせて歌う。

原文「三人行,必得我師。」「德之不脩,學之不講,聞義不能徙,不善不能改,是吾憂也。」使人歌,善,則使復之,然後和之。

夫子は語らざるなり、怪、力、亂、神を。

原文子不語:怪、力、亂、神。

子貢曰く、「夫子の文章は、聞くことを得べし。夫子の天道と性命とを言うは、聞くことを得ざるのみ」と。顏淵喟然として嘆じて曰く、「これを仰げば彌高く、これを鑽れば彌堅し。これを瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子は循循然として善く人を誘う、文を以て我を博くし、禮を以て我を約す、罷めんと欲するも能わず。既に我が才を竭くす、立つ所あるが如く、卓爾たり。これに従わんと欲すと雖も、由る蔑し」と。達巷黨の童子曰く、「大なるかな孔子、博學にして名を成す所なし」と。子これを聞きて曰く、「我何をか執らん。御を執らんか。射を執らんか。我は御を執らん」と。牢曰く、「子云う『試みられざる故に、藝なり』と」。

原文子貢曰:「夫子之文章,可得聞也。夫子言天道與性命,弗可得聞也已。」顏淵喟然嘆曰:「仰之彌高,鑽之彌堅。瞻之在前,忽焉在後。夫子循循然善誘人,博我以文,約我以禮,欲罷不能。既竭我才,如有所立,卓爾。雖欲從之,蔑由也已。」達巷黨人童子曰:「大哉孔子,博學而無所成名。」子聞之曰:「我何執?執御乎?執射乎?我執御矣。」牢曰:「子云『不試,故藝』。」

魯の哀公十四年の春、大野に狩す。叔孫氏の車子鉏商、獣を獲て、以て不祥と為す。仲尼これを見て曰く、「麟なり」と。これを取る。曰く、「河は圖を出さず、雒は書を出さず、吾已んぬるかな」と。顏淵死す、孔子曰く、「天予を喪す」と。西狩して麟を見るに及んで曰く、「吾が道窮まれり」と。喟然として嘆じて曰く、「我を知る者なきかな」と。子貢曰く、「何を為して子を知る者なきや」と。子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下學して上達す、我を知る者は其れ天か」と。

原文魯哀公十四年春,狩大野。叔孫氏車子鉏商獲獸,以為不祥。仲尼視之,曰:「麟也。」取之。曰:「河不出圖,雒不出書,吾已矣夫!」顏淵死,孔子曰:「天喪予!」及西狩見麟,曰:「吾道窮矣!」喟然嘆曰:「莫知我夫!」子貢曰:「何為莫知子?」子曰:「不怨天,不尤人,下學而上達,知我者其天乎!」

「その志を降さず、その身を辱めざるは、伯夷・叔齊か」と謂う。「柳下惠・少連は志を降し身を辱む」と謂う。「虞仲・夷逸は隱居して言を放ち、行は清に中り、廢は權に中る」と謂う。「我は則ち是れに異なり、可も無く不可も無し」。

原文「不降其志,不辱其身,伯夷、叔齊乎!」謂「柳下惠、少連降志辱身矣」。謂「虞仲、夷逸隱居放言,行中清,廢中權」。「我則異於是,無可無不可。」

子曰く、「弗か弗か、君子は沒世にして名の稱せられざるを病む。吾が道行われず、吾何を以て後世に自ら見えんや」と。乃ち史記に因りて春秋を作る、上は隱公に至り、下は哀公十四年に訖る、十二公なり。魯に據り、周に親しみ、殷を故とし、これを三代に運ぶ。その文辭を約して指博し。故に呉楚の君自ら王と稱すと雖も、春秋これを貶して「子」と曰い、踐土の會は實に周の天子を召すと雖も、春秋これを諱して「天王河陽に狩す」と曰う、この類を推して以て當世を繩とす。貶損の義は、後に王者有りて挙げてこれを開かん。春秋の義行なわれば、則ち天下の亂臣賊子懼る。

原文子曰:「弗乎弗乎,君子病沒世而名不稱焉。吾道不行矣,吾何以自見於後世哉?」乃因史記作春秋,上至隱公,下訖哀公十四年,十二公。據魯,親周,故殷,運之三代。約其文辭而指博。故吳楚之君自稱王,而春秋貶之曰「子」;踐土之會實召周天子,而春秋諱之曰「天王狩於河陽」:推此類以繩當世。貶損之義,後有王者舉而開之。春秋之義行,則天下亂臣賊子懼焉。

孔子が位にあって訴訟を聴くとき、文辞に人と共にすべきものあれば、独り有せず。『春秋』を作るに至っては、筆すべきは筆し、削るべきは削り、子夏の徒も一辞を賛すること能わず。弟子が『春秋』を受くるとき、孔子曰く、「後世丘を知る者は『春秋』により、丘を罪する者も亦た『春秋』による」と。

原文孔子在位聽訟,文辭有可與人共者,弗獨有也。至於為春秋,筆則筆,削則削,子夏之徒不能贊一辭。弟子受春秋,孔子曰:「後世知丘者以春秋,而罪丘者亦以春秋。」

明年、子路衛に死す。孔子病み、子貢見えんことを請う。孔子方に杖を負いて門に逍遙し、曰く、「賜、汝来ること何ぞ其れ晩きや」と。孔子因りて歎き、歌いて曰く、「太山壊つるか、梁柱摧くか、哲人萎ゆるか」と。因りて涕を以て下る。子貢に謂いて曰く、「天下道無きこと久し、能く予を宗とすること莫し。夏人は東階に殯し、周人は西階にし、殷人は両柱の間にす。昨暮予夢みて両柱の間に坐して奠するを見る、予始め殷人なり」と。後七日にして卒す。

原文明歲,子路死於衞。孔子病,子貢請見。孔子方負杖逍遙於門,曰:「賜,汝來何其晚也?」孔子因歎,歌曰:「太山壞乎!梁柱摧乎!哲人萎乎!」因以涕下。謂子貢曰:「天下無道久矣,莫能宗予。夏人殯於東階,周人於西階,殷人兩柱間。昨暮予夢坐奠兩柱之間,予始殷人也。」後七日卒。

孔子年七十三、魯の哀公十六年四月己丑を以て卒す。

原文孔子年七十三,以魯哀公十六年四月己丑卒。

哀公之を誄して曰く、「旻天弔わず、一老を愸遺せず、余一人をして位に在らしめ、煢煢として疚に在り。嗚呼哀哉、尼父、自律すること毋かれ」と。子貢曰く、「君其れ魯に没せざるか。夫子の言に曰く、『礼失えば則ち昬く、名失えば則ち愆る。志を失うを昬と為し、所を失うを愆と為す』と。生けるとき用いる能わず、死して之を誄するは、礼に非ず。『余一人』と称するは、名に非ず」と。

原文哀公誄之曰:「旻天不弔,不愸遺一老,俾屏余一人以在位,煢煢余在疚。嗚呼哀哉!尼父,毋自律!」子貢曰:「君其不沒於魯乎!夫子之言曰:『禮失則昬,名失則愆。失志為昬,失所為愆。』生不能用,死而誄之,非禮也。稱『余一人』,非名也。」

孔子は魯城の北泗上に葬られ、弟子皆三年の喪に服す。三年の心喪畢り、相訣して去るや、則ち哭き、各復た哀を尽くす。或いは復た留まる者あり。唯だ子貢は冢上に廬り、凡そ六年にして然る後に去る。弟子及び魯人冢に従いて家する者百有余室あり、因りて命じて孔里と曰う。魯は世々相伝えて歳時に以て孔子の冢を奉祠し、而して諸儒も亦た孔子の冢に於いて礼・郷飲・大射を講ず。孔子の冢は一頃大なり。故に居ます所の堂弟子の内は、後世廟に因りて孔子の衣冠・琴・車・書を蔵し、漢に至る二百余年絶えず。高皇帝魯に過ぎ、太牢を以て祠る。諸侯卿相至るや、常に先ず謁して然る後に政に従う。

原文孔子葬魯城北泗上,弟子皆服三年。三年心喪畢,相訣而去,則哭,各復盡哀;或復留。唯子貢廬於冢上,凡六年,然後去。弟子及魯人往從冢而家者百有餘室,因命曰孔里。魯世世相傳以歲時奉祠孔子冢,而諸儒亦講禮鄉飲大射於孔子冢。孔子冢大一頃。故所居堂弟子內,後世因廟藏孔子衣冠琴車書,至于漢二百餘年不絕。高皇帝過魯,以太牢祠焉。諸侯卿相至,常先謁然後從政。

孔子は鯉を生み、字は伯魚といった。伯魚は五十歳で、孔子より先に死んだ。

原文孔子生鯉,字伯魚。伯魚年五十,先孔子死。

伯魚は伋を生み、字は子思といい、六十二歳であった。かつて宋に困窮したことがある。子思は『中庸』を作った。

原文伯魚生伋,字子思,年六十二。嘗困於宋。子思作《中庸》。

子思は白を生み、字は子上といい、四十七歳であった。子上は求を生み、字は子家といい、四十五歳であった。子家は箕を生み、字は子京といい、四十六歳であった。子京は穿を生み、字は子高といい、五十一歳であった。子高は子慎を生み、五十七歳で、かつて魏の相となった。

原文子思生白,字子上,年四十七。子上生求,字子家,年四十五。子家生箕,字子京,年四十六。子京生穿,字子高,年五十一。子高生子慎,年五十七,嘗為魏相。

子慎は鮒を生み、五十七歳で、陳王(陳勝)の博士となり、陳の地で死んだ。

原文子慎生鮒,年五十七,為陳王涉博士,死於陳下。

鮒の弟の子襄は、五十七歳であった。かつて孝惠皇帝の博士となり、長沙太守に遷った。身長は九尺六寸あった。

原文鮒弟子襄,年五十七。嘗為孝惠皇帝博士,遷為長沙太守。長九尺六寸。

子襄は忠を生み、年五十七。忠は武を生み、武は延年及び安國を生む。安國は今皇帝の博士となり、臨淮太守に至り、早く卒す。安國は卬を生み、卬は驩を生む。

原文子襄生忠,年五十七。忠生武,武生延年及安國。安國為今皇帝博士,至臨淮太守,蚤卒。安國生卬,卬生驩。

太史公曰く、『詩』にこれ有り、「高山仰ぎ、景行を行く」と。至る能はざると雖も、然れども心はこれに郷往す。余、孔氏の書を読みて、其の人たるを想い見る。魯に適き、仲尼の廟堂・車服・禮器を観、諸生時に禮を其の家に習うを、余は祗回して留まりて去る能わざる云。天下の君王より賢人に至るまで衆し、當時は則ち栄え、没すれば則ち已む。孔子は布衣、十餘世を傳え、学者これを宗とす。天子・王侯より、中國に六藝を言う者は夫子に折中す、至聖と謂う可きかな。

原文太史公曰:《詩》有之:「高山仰止,景行行止。」雖不能至,然心鄉往之。余讀孔氏書,想見其為人。適魯,觀仲尼廟堂車服禮器,諸生以時習禮其家,余祗回留之不能去云。天下君王至於賢人衆矣,當時則榮,沒則已焉。孔子布衣,傳十餘世,學者宗之。自天子王侯,中國言六藝者折中於夫子,可謂至聖矣!

【索隱述贊】孔子の胄は、商國より出づ。弗父は能く譲り、正考は銘勒す。防叔は来奔し、鄒人掎足す。尼丘聖を誕し、闕里徳を生ず。七十堂に升り、四方則を取る。卯は兩観に誅せられ、攝相は夾谷す。鳳を歌うて遽かに衰え、麟を泣いて何ぞ促んなる!九流鏡を仰ぎ、萬古躅を欽む。

原文【索隱述贊】孔子之胄,出于商國。弗父能讓,正考銘勒。防叔來奔,鄒人掎足。尼丘誕聖,闕里生德。七十升堂,四方取則。卯誅兩觀,攝相夾谷。歌鳳遽衰,泣麟何促!九流仰鏡,萬古欽躅。