韓原武子

韓の先祖は周と同姓、姓は姫氏。その後裔が晋に仕え、韓原に封ぜられ、韓武子と称した。武子の後三世に韓厥あり、封地の姓に従って韓氏となった。

原文韓之先與周同姓,姓姬氏。其後苗裔事晉,得封於韓原,曰韓武子。武子後三世有韓厥,從封姓爲韓氏。

韓獻子

原文韓獻子

韓厥は、晋の景公の三年、晋の司寇屠岸賈が乱を起こさんとし、霊公の賊趙盾を誅せんとした。趙盾は既に死んでいたが、その子趙朔を誅せんとした。韓厥は賈を止めたが、賈は聴かなかった。厥は趙朔に告げて逃亡させた。朔は言った、「あなたは必ずや趙の祭祀を絶やさず、死んでも恨みはない」と。韓厥はこれを許諾した。賈が趙氏を誅した時、厥は病と称して出なかった。程嬰・公孫杵臼が趙の孤児趙武を匿ったことは、厥は知っていた。

原文韓厥,晉景公之三年,晉司寇屠岸賈將作亂,誅靈公之賊趙盾。趙盾已死矣,欲誅其子趙朔。韓厥止賈,賈不聽。厥告趙朔令亡。朔曰:「子必能不絶趙祀,死不恨矣。」韓厥許之。及賈誅趙氏,厥稱疾不出。程嬰、公孫杵臼之藏趙孤趙武也,厥知之。

景公十一年、厥は郤克と共に兵車八百乗を率いて斉を伐ち、鞍において斉の頃公を破り、逢丑父を捕らえた。この時晋は六卿を置き、韓厥は一卿の位にあり、献子と号した。

原文景公十一年,厥與郤克將兵八百乘伐齊,敗齊頃公于鞍,獲逢丑父。於是晉作六卿,而韓厥在一卿之位,號爲獻子。

晉の景公十七年、病み、卜ふに大業の遂げざる者祟る有りと。韓厥、趙成季の功を稱し、今後に祀る無からんことを以て景公を感ぜしむ。景公問ひて曰く、「尚ほ世有るか」と。厥ここに趙武を言ひて、故の趙氏の田邑を復た與へ、趙氏の祀を續けしむ。

原文晉景公十七年,病,卜大業之不遂者爲祟。韓厥稱趙成季之功,今後無祀,以感景公。景公問曰:「尚有世乎?」厥於是言趙武,而復與故趙氏田邑,續趙氏祀。

晉の悼公の七年、韓獻子老ゆ。獻子卒す、子の宣子代はる。宣子州に徙り居す。

原文晉悼公之(十)[七]年,韓獻子老。獻子卒,子宣子代。宣子徙居州。

韓宣子

原文韓宣子

晉の平公十四年、呉の季札晉に使して曰く、「晉國の政卒に韓・魏・趙に歸せん」と。晉の頃公十二年、韓宣子趙・魏と共に祁氏・羊舌氏の十縣を分つ。晉の定公十五年、宣子趙簡子と范・中行氏を侵伐す。宣子卒す、子の貞子代り立つ。貞子平陽に徙り居す。

原文晉平公十四年,呉季札使晉,曰:「晉國之政卒歸於韓、魏、趙矣。」晉頃公十二年,韓宣子與趙、魏共分祁氏、羊舌氏十縣。晉定公十五年,宣子與趙簡子侵伐范、中行氏。宣子卒,子貞子代立。貞子徙居平陽。

韓貞子、簡子、莊子

原文韓貞子、簡子、莊子

貞子が卒し、子の簡子が代わる。簡子が卒し、子の莊子が代わる。莊子が卒し、子の康子が代わる。

原文貞子卒,子簡子代。簡子卒,子莊子代。莊子卒,子康子代。

韓康子

原文韓康子

康子は趙襄子・魏桓子と共に知伯を敗り、その地を分かち、地は益々大となり、諸侯よりも大きくなった。康子が卒し、子の武子が代わる。

原文康子與趙襄子、魏桓子共敗知伯,分其地,地益大,大於諸侯。康子卒,子武子代。

韓武子

原文韓武子

武子の二年、鄭を伐ち、その君幽公を殺す。十六年、武子が卒し、子の景侯が立つ。

原文武子二年,伐鄭,殺其君幽公。十六年,武子卒,子景侯立。

韓の景侯

原文韓景侯

景侯虔の元年、鄭を伐ち、雍丘を取る。二年、鄭、我が負黍に敗る。

原文景侯虔元年,伐鄭,取雍丘。二年,鄭敗我負黍。

六年、趙・魏とともに列して諸侯となることを得る。

原文六年,與趙、魏倶得列爲諸侯。

九年、鄭、我が陽翟を囲む。景侯卒す。子の列侯取立つ。

原文九年,鄭圍我陽翟。景侯卒,子列侯取立。

韓の列侯

原文韓列侯

列侯三年、聶政が韓の相俠累を殺す。九年、秦が我が宜陽を伐ち、六邑を取る。十三年、列侯卒す。子の文侯立つ。是の歳、魏の文侯卒す。

原文列侯三年,聶政殺韓相俠累。九年,秦伐我宜陽,取六邑。十三年,列侯卒,子文侯立。是歳魏文侯卒。

韓の文侯

原文韓文侯

文侯二年、鄭を伐ち、陽城を取る。宋を伐ち、彭城に到り、宋の君を執る。七年、齊を伐ち、桑丘に至る。鄭、晉に叛く。九年、齊を伐ち、靈丘に至る。十年、文侯卒す。子の哀侯立つ。

原文文侯二年,伐鄭,取陽城。伐宋,到彭城,執宋君。七年,伐齊,至桑丘。鄭反晉。九年,伐齊,至靈丘。十年,文侯卒,子哀侯立。

韓の哀侯

原文韓哀侯

哀侯元年、趙・魏と晉國を分つ。二年、鄭を滅ぼし、因りて都を鄭に徙す。

原文哀侯元年,與趙、魏分晉國。二年,滅鄭,因徙都鄭。

六年、韓の厳がその君哀侯を弑し、子の懿侯が立つ。

原文六年,韓嚴弒其君哀侯。而子懿侯立。

韓の懿侯

原文韓懿侯

懿侯二年、魏が我が馬陵に敗る。五年、魏の恵王と宅陽に会す。九年、魏が我が澮に敗る。十二年、懿侯卒し、子の昭侯が立つ。

原文懿侯二年,魏敗我馬陵。五年,與魏惠王會宅陽。九年,魏敗我澮。十二年,懿侯卒,子昭侯立。

韓の昭侯

原文韓昭侯

昭侯元年、秦が我が西山に敗る。二年、宋が我が黄池を取る。魏が朱を取る。六年、東周を伐ち、陵観・邢丘を取る。

原文昭侯元年,秦敗我西山。二年,宋取我黃池。魏取朱。六年,伐東周,取陵觀、邢丘。

八年、申不害が韓の相となり、術を修め道を行い、国内は治まり、諸侯は侵伐して来なかった。

原文八年,申不害相韓,修術行道,國内以治,諸侯不來侵伐。

十年、韓の姫がその君悼公を弑した。十一年、昭侯は秦に赴いた。二十二年、申不害が死んだ。二十四年、秦が来て我が宜陽を抜いた。

原文十年,韓姬弒其君悼公。十一年,昭侯如秦。二十二年,申不害死。二十四年,秦來拔我宜陽。

二十五年、旱魃があり、高門を造営した。屈宜臼が言うには、「昭侯はこの門から出ることはないであろう。何故か。時ならぬからである。私の言う時とは、時日のことではなく、人には元より利と不利の時がある。昭侯は嘗て利を得た時があったが、高門を造営しなかった。往年秦が宜陽を抜き、今年は旱魃である。昭侯はこの時に民の急を恤れず、却ってますます奢る。これを『時絀くして贏を挙ぐ』というのである。」二十六年、高門が完成し、昭侯が卒去し、果たしてこの門から出ることはなかった。子の宣恵王が立った。

原文二十五年,旱,作髙門。屈宜臼曰:「昭侯不出此門。何也?不時。吾所謂時者,非時日也,人固有利不利時。昭侯嘗利矣,不作髙門。往年秦拔宜陽,今年旱,昭侯不以此時卹民之急,而顧益奢,此謂『時絀舉贏』。」二十六年,髙門成,昭侯卒,果不出此門。子宣惠王立。

韓宣恵王

原文韓宣惠王

宣恵王五年、張儀が秦の相となる。八年、魏が我が将韓挙を敗った。十一年、君は王と号した。趙と区鼠で会した。十四年、秦が伐って我が鄢を敗った。

原文宣惠王五年,張儀相秦。八年,魏敗我將韓舉。十一年,君號爲王。與趙會區鼠。十四,秦伐敗我鄢。

十六年、秦は我が修魚を破り、濁沢において韓の将鯁・申差を虜獲した。韓氏は危急に陥り、公仲が韓王に言うには、「同盟国は頼りになるものではありません。今、秦が楚を伐たんと欲すること久しい。王は張儀を介して秦と和を結び、一名都を賄賂として贈り、甲兵を備え、これとともに南進して楚を伐つがよい。これは一を以て二を得る計略です」と。韓王は「善し」と言い、公仲の出立を戒め、西の秦に購(和)を求めんとした。楚王はこれを聞いて大いに恐れ、陳軫を召して告げた。陳軫は言う、「秦が楚を伐たんと欲すること久しい。今また韓の名都一つを得て甲兵を備える。秦と韓が兵を併せて楚を伐てば、これは秦が祈り祀って求める所です。今や既にこれを得た以上、楚国は必ず伐たれましょう。王は臣の言うことを聞き、国境の内を戒め、軍を起こして韓を救うと宣言し、戦車を道路に満たし、信頼できる臣を派遣し、その車を多くし、その幣(贈り物)を重くして、韓に王が己を救うことを信じさせよ。たとえ韓が我が言を聞かずとも、韓は必ず王の恩徳を感じ、先陣を切って秦に従って来ることはないであろう。これで秦と韓は不和となる。兵がたとえ来ても、楚は大いに病むことはない。もし韓が我が言を聞いて秦との和を絶てば、秦は必ず大いに怒り、韓を深く怨むであろう。韓が南で楚と交わるならば、必ず秦を軽んじる。秦を軽んじれば、その秦への応対は必ず恭しくない。これによって秦・韓の兵を利用して楚国の禍患を免れるのです」と。楚王は「善し」と言い、国境の内を戒め、軍を起こして韓を救うと宣言した。戦車を道路に満たし、信頼できる臣を派遣し、その車を多くし、その幣を重くした。韓王に言うには、「不穀の国は小さいが、既に悉く兵を発した。大国には秦に対して思いのままに振る舞ってほしい。不穀は楚を以て韓に殉じよう」と。韓王はこれを聞いて大いに喜び、公仲の出立を止めた。公仲は言う、「なりません。実を以て我を伐つ者は秦であり、虚名を以て我を救う者は楚です。王が楚の虚名に頼って、強秦の敵を軽々しく絶つならば、王は必ず天下の大笑いとなるでしょう。かつ楚と韓は兄弟の国ではなく、また平素から約束して秦を伐つことを謀ったわけでもありません。既に伐つ形勢があるのに、兵を発して韓を救うと言うのは、これは必ず陳軫の謀略です。かつ王は既に人を秦に報じており、今行わなければ、これは秦を欺くことです。強秦を軽んじて欺き、楚の謀臣を信じるならば、恐らく王は必ず後悔されるでしょう」と。韓王は聞かず、遂に秦との関係を絶った。秦はこれにより大いに怒り、甲兵を増やして韓を伐ち、大戦となったが、楚の救援は韓に至らなかった。十九年、秦は我が岸門を大いに破った。太子倉を秦に人質として送り和を結んだ。

原文十六年,秦敗我修魚,虜得韓將鯁、申差於濁澤。韓氏急,公仲謂韓王曰:「與國非可恃也。今秦之欲伐楚久矣,王不如因張儀爲和於秦,賂以一名都,具甲,與之南伐楚,此以一易二之計也。」韓王曰:「善。」乃警公仲之行,將西購於秦。楚王聞之大恐,召陳軫告之。陳軫曰:「秦之欲伐楚久矣,今又得韓之名都一而具甲,秦韓并兵而伐楚,此秦所禱祀而求也。今已得之矣,楚國必伐矣。王聽臣爲之警四境之内,起師言救韓,命戰車滿道路,發信臣,多其車,重其幣,使信王之救己也。縱韓不能聽我,韓必德王也,必不爲鴈行以來,是秦韓不和也,兵雖至,楚不大病也。爲能聽我絶和於秦,秦必大怒,以厚怨韓。韓之南交楚,必輕秦;輕秦,其應秦必不敬:是因秦、韓之兵而免楚國之患也。」楚王曰:「善。」乃警四境之内,興師言救韓。命戰車滿道路,發信臣,多其車,重其幣。謂韓王曰:「不穀國雖小,已悉發之矣。願大國遂肆志於秦,不穀將以楚殉韓。」韓王聞之大説,乃止公仲之行。公仲曰:「不可。夫以實伐我者秦也,以虚名救我者楚也。王恃楚之虚名,而輕絶彊秦之敵,王必爲天下大笑。且楚韓非兄弟之國也,又非素約而謀伐秦也。已有伐形,因發兵言救韓,此必陳軫之謀也。且王已使人報於秦矣,今不行,是欺秦也。夫輕欺彊秦而信楚之謀臣,恐王必悔之。」韓王不聽,遂絶於秦。秦因大怒,益甲伐韓,大戰,楚救不至韓。十九年,大破我岸門。太子倉質於秦以和。

二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を破り、丹陽において八万の首を斬った。この年、宣恵王が卒し、太子倉が立ち、これが襄王である。

原文二十一年,與秦共攻楚,敗楚將屈丐,斬首八萬於丹陽。是歳,宣惠王卒,太子倉立,是爲襄王。

韓襄王

原文韓襄王

襄王四年、秦の武王と臨晋で会った。その秋、秦は甘茂を使わして我が宜陽を攻めた。五年、秦は我が宜陽を抜き、六万の首を斬った。秦の武王が卒した。六年、秦は再び我に武遂を与えた。九年、秦は再び我が武遂を取った。十年、太子嬰が秦に朝して帰った。十一年、秦は我を伐ち、穰を取った。秦と共に楚を伐ち、楚の将唐眛を破った。

原文襄王四年,與秦武王會臨晉。其秋,秦使甘茂攻我宜陽。五年,秦拔我宜陽,斬首六萬。秦武王卒。六年,秦復與我武遂。九年,秦復取我武遂。十年,太子嬰朝秦而歸。十一年,秦伐我,取穰。與秦伐楚,敗楚將唐眛。

十二年、太子嬰が死んだ。公子咎と公子蟣蝨が太子の位を争った。当時、蟣蝨は楚に人質として在った。蘇代が韓咎に言うには、「蟣蝨は楚に亡命しており、楚王は彼を帰国させたいと強く願っています。今、楚の兵十余万が方城の外におります。公は何故楚王に雍氏の傍らに万室の都を築かせようと勧めないのですか。韓は必ず兵を起こしてこれを救おうとし、公は必ずその将となるでしょう。公は韓と楚の兵を以て蟣蝨を奉じて帰国させれば、彼が公の言を聞くことは必ずであり、必ず楚と韓の封を以て公に報いるでしょう」と。韓咎はその計に従った。

原文十二年,太子嬰死。公子咎、公子蟣蝨爭爲太子。時蟣蝨質於楚。蘇代謂韓咎曰:「蟣蝨亡在楚,楚王欲内之甚。今楚兵十餘萬在方城之外,公何不令楚王筑萬室之都雍氏之旁,韓必起兵以救之,公必將矣。公因以韓楚之兵奉蟣蝨而内之,其聽公必矣,必以楚韓封公也。」韓咎從其計。

楚が雍氏を包囲したので、韓は秦に救援を求めた。秦はまだ兵を発さず、公孫昧を韓に遣わした。公仲が言うには、「あなたは秦がまさに韓を救うと思われるか」と。答えて言うには、「秦王の言葉には『南鄭・藍田の道を請い、楚に出兵して公を待たん』とありますが、おそらく合致しないでしょう」と。公仲が言うには、「あなたは果たしてそう思われるか」と。答えて言うには、「秦王は必ずや張儀の故智を踏襲するでしょう。楚の威王が梁を攻めたとき、張儀は秦王に言いました、『楚とともに魏を攻めれば、魏は屈服して楚に入り、韓はもともとその与国です、これは秦を孤立させることになります。兵を出して両者を到らせるに如かず、魏と楚が大戦すれば、秦は西河の外を取って帰ることができます』と。今その状況は表面上は韓と約するが、実は密かに楚と親善しています。公が秦を待って到らせれば、必ず軽々しく楚と戦うでしょう。楚は密かに秦が用いないことを知れば、必ずやすやすと公と相支え合うでしょう。公が戦って楚に勝てば、遂に公とともに楚に乗じ、三川に施して帰るでしょう。公が戦って楚に勝たなければ、楚は三川を塞いでこれを守り、公は救うことができません。ひそかに公のために憂えます。司馬庚が三度郢に往復し、甘茂が昭魚と商於で会い、その言葉は璽を収めることですが、実は約束がある類いです」と。公仲は恐れて言うには、「それではどうすればよいか」と。言うには、「公は必ず韓を先にして秦を後とし、自身を先にして張儀を後とすべきです。公は急いで国を以て斉・楚と合するに如かず、斉・楚は必ず国を公に委ねるでしょう。公の憎むところは張儀ですが、実はなお秦を無視するわけでもありません」と。ここにおいて楚は雍氏の包囲を解いた。

原文楚圍雍氏,韓求救於秦。秦未爲發,使公孫昧入韓。公仲曰:「子以秦爲且救韓乎?」對曰:「秦王之言曰『請道南鄭、藍田,出兵於楚以待公』,殆不合矣。」公仲曰:「子以爲果乎?」對曰:「秦王必祖張儀之故智。楚威王攻梁也,張儀謂秦王曰:『與楚攻魏,魏折而入於楚,韓固其與國也,是秦孤也。不如出兵以到之,魏楚大戰,秦取西河之外以歸。』今其狀陽言與韓,其實陰善楚。公待秦而到,必輕與楚戰。楚陰得秦之不用也,必易與公相支也。公戰而勝楚,遂與公乘楚,施三川而歸。公戰不勝楚,楚塞三川守之,公不能救也。竊爲公患之。司馬庚三反於郢,甘茂與昭魚遇於商於,其言收璽,實類有約也。」公仲恐,曰:「然則柰何?」曰:「公必先韓而後秦,先身而後張儀。公不如亟以國合於齊楚,齊楚必委國於公。公之所惡者張儀也,其實猶不無秦也。」於是楚解雍氏圍。

蘇代はまた秦の太后の弟の羋戎に言った、「公叔伯嬰は秦・楚が蟣蝨を内に入れることを恐れています、公はどうして韓のために楚に質子を求められないのですか。楚王が聴き入れて質子を韓に入れれば、公叔伯嬰は秦・楚が蟣蝨を事としないことを知り、必ず韓を以て秦・楚と合するでしょう。秦・楚が韓を挟んで魏を窘めれば、魏氏は斉と合することを敢えてせず、これは斉を孤立させることになります。公はまた秦のために楚に質子を求め、楚が聴き入れなければ、怨みは韓に結ばれるでしょう。韓が斉・魏を挟んで楚を包囲すれば、楚は必ず公を重んじるでしょう。公が秦・楚の重みを挟んで韓に徳を積めば、公叔伯嬰は必ず国を以て公を待つでしょう」と。ここにおいて蟣蝨はついに韓に帰ることができなかった。韓は咎を立てて太子とした。斉・魏の王が来た。

原文蘇代又謂秦太后弟羋戎曰:「公叔伯嬰恐秦楚之内蟣蝨也,公何不爲韓求質子於楚?楚王聽入質子於韓,則公叔伯嬰知秦楚之不以蟣蝨爲事,必以韓合於秦楚。秦楚挾韓以窘魏,魏氏不敢合於齊,是齊孤也。公又爲秦求質子於楚,楚不聽,怨結於韓。韓挾齊魏以圍楚,楚必重公。公挾秦楚之重以積德於韓,公叔伯嬰必以國待公。」於是蟣蝨竟不得歸韓。韓立咎爲太子。齊、魏王來。

十四年、斉・魏の王とともに秦を撃ち、函谷に至って軍を駐めた。十六年、秦は我が河外及び武遂を与えた。襄王が卒し、太子の咎が立ち、これが釐王である。

原文十四年,與齊、魏王共撃秦,至函谷而軍焉。十六年,秦與我河外及武遂。襄王卒,太子咎立,是爲釐王。

韓釐王

原文韓釐王

釐王三年、公孫喜に周・魏を率いて秦を攻めさせた。秦は我が軍二十四万を破り、喜を伊闕で虜にした。五年、秦は我が宛を抜いた。六年、秦に武遂の地二百里を与えた。十年、秦は我が師を夏山で破った。十二年、秦の昭王と西周で会い、秦を佐けて斉を攻めた。斉が敗れ、湣王が出亡した。十四年、秦と両周の間で会した。二十一年、暴捐に魏を救わせたが、秦に敗れられ、捐は開封に走った。

原文釐王三年,使公孫喜率周、魏攻秦。秦敗我二十四萬,虜喜伊闕。五年,秦拔我宛。六年,與秦武遂地二百里。十年,秦敗我師于夏山。十二年,與秦昭王會西周而佐秦攻齊。齊敗,湣王出亡。十四年,與秦會兩周閒。二十一年,使暴捐救魏,爲秦所敗,捐走開封。

二十三年、趙と魏が我が華陽を攻めた。韓は秦に急を告げたが、秦は救わなかった。韓の相国が陳筮に言うには、「事態は切迫している。貴公が病中であっても、一宿の行程を願いたい」と。陳筮は穣侯に会った。穣侯は言った、「事態は切迫しているのか。それで貴公を遣わしたのだな」と。陳筮は言った、「まだ切迫してはいない」と。穣侯は怒って言った、「これで貴公の主君の使者たることができようか。冠蓋が相望むほど、我が国に告げるのは甚だ急であるのに、貴公が来て『まだ急でない』と言うのは、どういうことか」と。陳筮は言った、「あの韓が切迫すれば、やがて変じて他に従うであろう。まだ切迫していないから、改めて来たのである」と。穣侯は言った、「貴公は王にお目通りせずともよい。今すぐ兵を発して韓を救おう」と。八日で到着し、趙と魏を華陽の下で破った。この年、釐王が卒去し、子の桓恵王が立った。

原文二十三年,趙、魏攻我華陽。韓告急於秦,秦不救。韓相國謂陳筮曰:「事急,願公雖病,爲一宿之行。」陳筮見穰侯。穰侯曰:「事急乎?故使公來。」陳筮曰:「未急也。」穰侯怒曰:「是可以爲公之主使乎?夫冠蓋相望,告敝邑甚急,公來言未急,何也?」陳筮曰:「彼韓急則將變而佗從,以未急,故復來耳。」穰侯曰:「公無見王,請今發兵救韓。」八日而至,敗趙、魏於華陽之下。是歳,釐王卒,子桓惠王立。

韓桓恵王

原文韓桓惠王

桓恵王元年、燕を伐った。九年、秦が我が陘を抜き、汾の傍らに城を築いた。十年、秦が我を太行で撃ち、我が上党郡守が上党郡を率いて趙に降った。十四年、秦が趙の上党を抜き、馬服子(趙括)の卒四十余万を長平で殺した。十七年、秦が我が陽城・負黍を抜いた。二十二年、秦の昭王が卒去した。二十四年、秦が我が城皋・滎陽を抜いた。二十六年、秦が我が上党を悉く抜いた。二十九年、秦が我が十三城を抜いた。

原文桓惠王元年,伐燕。九年,秦拔我陘,城汾旁。十年,秦撃我於太行,我上黨郡守以上黨郡降趙。十四年,秦拔趙上黨,殺馬服子卒四十餘萬於長平。十七年,秦拔我陽城、負黍。二十二年,秦昭王卒。二十四年,秦拔我城皋、滎陽。二十六年,秦悉拔我上黨。二十九年,秦拔我十三城。

三十四年、桓恵王が卒去し、子の王安が立った。

原文三十四年,桓惠王卒,子王安立。

韓王安

原文韓王安

王安の五年、秦が韓を攻め、韓は危急となり、韓非を使者として秦に遣わすと、秦は非を留め置き、ついにこれを殺した。

原文王安五年,秦攻韓,韓急,使韓非使秦,秦留非,因殺之。

九年、秦は王安を虜とし、その地をことごとく併せて潁州郡となす。韓はここに滅びた。

原文九年,秦虜王安,盡入其地,爲潁州郡。韓遂亡。

太史公曰く

原文太史公曰

太史公曰く、韓厥が晉の景公を感ぜしめ、趙の孤児の子武を継がしめて、程嬰・公孫杵臼の義を成し遂げたことは、これ天下の陰徳である。韓氏の功績は、晉においてその大きさを見ることはなかった。しかし趙・魏とともに終に諸侯となり十余世を保ったのは、まことに当然であろう。

原文太史公曰:韓厥之感晉景公,紹趙孤之子武,以成程嬰、公孫杵臼之義,此天下之陰德也。韓氏之功,於晉未睹其大者也。然與趙、魏終爲諸侯十餘世,宜乎哉!