魏の先祖

魏の先祖は、畢公髙の後裔である。畢公髙は周と同姓であった。武王が紂を討伐したとき、髙は畢に封ぜられ、ここに畢姓となった。その後封を絶ち、庶人となり、ある者は中国にあり、ある者は夷狄にいた。

原文魏之先,畢公髙之後也。畢公髙與周同姓。武王之伐紂,而髙封於畢,於是爲畢姓。其後絶封,爲庶人,或在中國,或在夷狄。

畢萬

原文畢萬

その末裔に畢萬という者がおり、晉の獻公に仕えた。獻公の十六年、趙夙が御者となり、畢萬が車右となり、霍・耿・魏を討伐してこれを滅ぼした。耿を趙夙に封じ、魏を畢萬に封じて大夫とした。卜偃が言うには、『畢萬の後は必ず大いになろう。萬は満つる数、魏は大いなる名である。これをもって賞を始めるとは、天が開いたのである。天子は兆民といい、諸侯は萬民という。今、大なる名を命じ、満つる数に従う、必ずや衆を得るであろう』。初め、畢萬が晉に仕えることを占うと、屯の比に遇った。辛廖がこれを占って言うには、『吉である。屯は固く、比は入る、吉の大なることこれより大なるはなく、必ず蕃昌するであろう』。

原文其苗裔曰畢萬,事晉獻公。獻公之十六年,趙夙爲御,畢萬爲右,以伐霍、耿、魏,滅之。以耿封趙夙,以魏封畢萬,爲大夫。卜偃曰:『畢萬之後必大矣,萬,滿數也;魏,大名也。以是始賞,天開之矣,天子曰兆民,諸侯曰萬民。今命之大,以從滿數,其必有衆。』初,畢萬卜事晉,遇屯之比。辛廖占之,曰:『吉。屯固比入,吉孰大焉,其必蕃昌。』

畢萬が封ぜられて十一年、晉の獻公が卒し、四子が争って更に立ち、晉は乱れた。しかし畢萬の子孫はますます大いになり、その国名に従って魏氏と称した。武子を生んだ。

原文畢萬封十一年,晉獻公卒,四子爭更立,晉亂。而畢萬之世彌大,從其國名爲魏氏。生武子。

魏武子

原文魏武子

魏武子は魏の諸子として晋の公子重耳に仕えた。晋の献公の二十一年、武子は重耳に従って出奔した。十九年後に帰国し、重耳が晋の文公として即位すると、魏武子に魏氏の後嗣たる封邑を継がせ、大夫に列し、魏の地を治めさせた。悼子を生む。

原文魏武子以魏諸子事晉公子重耳。晉獻公之廿一年,武子從重耳出亡。十九年反,重耳立爲晉文公,而令魏武子襲魏氏之後封,列爲大夫,治於魏。生悼子。

魏悼子

原文魏悼子

魏悼子は治所を霍に移した。魏絳を生む。

原文魏悼子徙治霍。生魏絳。

魏昭子

原文魏昭子

魏絳は晉の悼公に仕えた。悼公三年、諸侯を会合させた。悼公の弟楊干が行列を乱したので、魏絳は楊干を辱めた。悼公は怒って言った、『諸侯を合わせて栄誉としようとしたのに、今わが弟を辱めるとは』。魏絳を誅殺しようとした。ある者が悼公を説得し、悼公は思いとどまった。ついに魏絳を政務に任用し、戎や翟を和睦させ、戎や翟は親しく帰附した。悼公の十一年に言った、『わしが魏絳を用いてから、八年のうちに九度諸侯を合わせ、戎や翟を和睦させたのは、そなたの力である』。楽器を賜い、三度辞退して、その後受け取った。安邑に移って治めた。魏絳が卒去し、諡して昭子といった。魏嬴を生んだ。嬴は魏獻子を生んだ。

原文魏絳事晉悼公。悼公三年,會諸侯。悼公弟楊干亂行,魏絳僇辱楊干。悼公怒曰:『合諸侯以爲榮,今辱吾弟!』將誅魏絳。或説悼公,悼公止。卒任魏絳政,使和戎、翟,戎、翟親附。悼公之十一年,曰:『自吾用魏絳,八年之中,九合諸侯,戎、翟和,子之力也。』賜之樂,三讓,然後受之。徙治安邑。魏絳卒,諡爲昭子。生魏嬴。嬴生魏獻子。

魏獻子

原文魏獻子

獻子は晉の昭公に仕えた。昭公が卒去すると六卿が強くなり、公室は卑小となった。

原文獻子事晉昭公。昭公卒而六卿彊,公室卑。

晉の頃公の十二年、韓宣子が老いたので、魏獻子が國政を執った。晉の宗室の祁氏と羊舌氏が互いに憎み合い、六卿がこれを誅し、その邑をことごとく取り尽くして十県とし、六卿はそれぞれその子をこれ(の大夫)に任じた。獻子は趙簡子、中行文子、范獻子とともに晉の卿となった。

原文晉頃公之十二年,韓宣子老,魏獻子爲國政。晉宗室祁氏、羊舌氏相惡,六卿誅之,盡取其邑爲十縣,六卿各令其子爲之大夫。獻子與趙簡子、中行文子、范獻子并爲晉卿。

その後十四年で孔子が魯の相となった。後四年、趙簡子は晉陽の乱のため、韓や魏とともに范氏や中行氏を攻撃した。魏獻子は魏侈を生んだ。魏侈は趙鞅とともに范氏や中行氏を攻撃した。

原文其後十四歳而孔子相魯。後四歳,趙簡子以晉陽之亂也,而與韓、魏共攻范、中行氏。魏獻子生魏侈。魏侈與趙鞅共攻范、中行氏。

魏桓子

原文魏桓子

魏侈の孫を魏桓子と曰う。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分かつ。

原文魏侈之孫曰魏桓子,與韓康子、趙襄子共伐滅知伯,分其地。

魏文侯

原文魏文侯

桓子の孫を文侯都と曰う。魏文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と同時なり。

原文桓子之孫曰文侯都。魏文侯元年,秦靈公之元年也。與韓武子、趙桓子、周威王同時。

六年、少梁に城す。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出ださしむ。十六年、秦を伐ち、臨晉・元裏を築く。

原文六年,城少梁。十三年,使子撃圍繁、龐,出其民。十六年,伐秦,筑臨晉元裏。

十七年、中山を伐ち、子の撃をしてこれを守らせ、趙の倉唐に傅わらしむ。子の撃、朝歌において文侯の師たる田子方に逢い、車を引いて避け、下りて謁す。田子方、礼を為さず。子の撃、因って問うて曰く、『富貴なる者は人に驕るか、且つ貧賤なる者は人に驕るか』と。子方曰く、『また貧賤なる者のみ人に驕るなり。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失い、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失う。貧賤なる者は、行い合わず、言用いられざれば、則ち楚・越に去ること、履を脱ぐが若きなり、何ぞ其れ之と同くせんや』と。子の撃、悦ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽を築く。

原文十七年,伐中山,使子撃守之,趙倉唐傅之。子撃逢文侯之師田子方於朝謌,引車避,下謁。田子方不爲禮。子撃因問曰:『富貴者驕人乎?且貧賤者驕人乎?』子方曰:『亦貧賤者驕人耳。夫諸侯而驕人則失其國,大夫而驕人則失其家。貧賤者,行不合,言不用,則去之楚、越,若脱屣然,柰何其同之哉!』子撃不懌而去。西攻秦,至鄭而還,筑雒陰、合陽。

二十二年、魏・趙・韓、列ねて諸侯と為る。

原文廿二年,魏、趙、韓列爲諸侯。

二十四年、秦、我を伐ち、陽狐に至る。

原文廿四年,秦伐我,至陽狐。

二十五年、子の撃、子の罃を生む。

原文廿五年,子撃生子罃。

文侯、子夏に経芸を受け、段干木を客とし、其の閭を過ぐるに、嘗て軾せざることなし。秦、嘗て魏を伐たんと欲す。或る人曰く、『魏の君は賢人を礼し、国人仁を称え、上下和合す、未だ図るべからず』と。文侯、此れによりて諸侯に誉を得る。

原文文侯受子夏經藝,客段干木,過其閭,未嘗不軾也。秦嘗欲伐魏,或曰:『魏君賢人是禮,國人稱仁,上下和合,未可圖也。』文侯由此得譽於諸侯。

任じて西門豹に鄴を守らせたところ、河内は治まったと称された。

原文任西門豹守鄴,而河内稱治。

魏の文侯が李克に言った。『先生はかつて寡人に教えて「家が貧しければ良妻を思い、国が乱れれば良相を思う」と言われた。今、宰相に任ずるのは魏成子か翟璜のいずれかであるが、二人はどうか』。李克が答えて言った。『臣は聞く。卑しい者は尊い者を謀らず、疎遠な者は親しい者を謀らない。臣は宮門の外にいる者であり、命に当たることはできません』。文侯が言った。『先生、事に臨んでは譲るな』。李克が言った。『君がよく観察されないからです。平時にその親しむ者を見、富んでその与える者を見、達してその挙げる者を見、窮してその為さざるところを見、貧しくてその取らざるところを見る。この五つで十分に定めることができます。どうして克を待つ必要がありましょうか』。文侯が言った。『先生は宿舎にお戻りなさい。寡人の宰相は決まった』。李克は小走りに出て、翟璜の家を通りかかった。翟璜が言った。『今、君が先生を召して宰相を占わせたと聞いたが、果たして誰がなったのか』。李克が言った。『魏成子が宰相となった』。翟璜は憤然として顔色を変えて言った。『耳目で見聞きした限り、臣は魏成子に何の劣るところがあろうか。西河の守は、臣が推挙した者である。君は内に鄴を憂い、臣は西門豹を推挙した。君が中山を伐とうと謀り、臣は楽羊を推挙した。中山を攻め落とした後、守らせる者がいないと、臣は先生を推挙した。君の子に傅がいないと、臣は屈侯鮒を推挙した。臣はどうして魏成子に劣るというのか』。李克が言った。『そもそも子が君に克を推挙したのは、まさか徒党を組んで大官を求めようとしたわけではあるまい。君が問うて宰相を置くに当たり「成か璜か、二人はどうか」と言われた。克は答えて「君がよく観察されないからです。平時にその親しむ者を見、富んでその与える者を見、達してその挙げる者を見、窮してその為さざるところを見、貧しくてその取らざるところを見る。この五つで十分に定めることができます。どうして克を待つ必要がありましょうか」と言った。これによって魏成子が宰相となることを知ったのである。そもそも子はどうして魏成子と比べられようか。魏成子は食禄千鐘のうち、十分の九を外に使い、十分の一を内に用いた。それゆえ東方に卜子夏・田子方・段干木を得た。この三人は、君はいずれも師としている。子が推挙した五人については、君はいずれも臣としている。子はどうして魏成子と比べられようか』。翟璜は逡巡して再拝し、言った。『璜は鄙人です。答えを誤りました。どうか終生弟子とならせてください』。

原文魏文侯謂李克曰:『先生嘗教寡人曰「家貧則思良妻,國亂則思良相」。今所置非成則璜,二子何如?』李克對曰:『臣聞之,卑不謀尊,疎不謀戚。臣在闕門之外,不敢當命。』文侯曰:『先生臨事勿讓。』李克曰:『君不察故也。居視其所親,富視其所與,達視其所舉,窮視其所不爲,貧視其所不取,五者足以定之矣,何待克哉!』文侯曰:『先生就舍,寡人之相定矣。』李克趨而出,過翟璜之家。翟璜曰:『今者聞君召先生而卜相,果誰爲之?』李克曰:『魏成子爲相矣。』翟璜忿然作色曰:『以耳目之所睹記,臣何負於魏成子?西河之守,臣之所進也。君内以鄴爲憂,臣進西門豹。君謀欲伐中山,臣進樂羊。中山以拔,无使守之,臣進先生。君之子无傅,臣進屈侯鮒。臣何以負於魏成子!』李克曰:『且子之言克於子之君者,豈將比周以求大官哉?君問而置相「非成則璜,二子何如」?克對曰:「君不察故也。居視其所親,富視其所與,達視其所舉,窮視其所不爲,貧視其所不取,五者足以定之矣,何待克哉!」是以知魏成子之爲相也。且子安得與魏成子比乎?魏成子以食祿千鐘,什九在外,什一在内,是以東得卜子夏、田子方、段干木。此三人者,君皆師之。子之所進五人者,君皆臣之。子惡得與魏成子比也?』翟璜逡巡再拜曰:『璜,鄙人也,失對,願卒爲弟子。』

二十六年、虢山が崩れ、河を塞いだ。

原文廿六年,虢山崩,壅河。

三十二年、鄭を伐った。酸棗に城を築いた。注において秦を破った。三十五年、斉が伐って我が襄陵を取った。三十六年、秦が我が陰晉を侵した。

原文卅二年,伐鄭。城酸棗。敗秦于注。卅五年,齊伐取我襄陵。卅六年,秦侵我陰晉。

三十八年、秦を伐ち、我が武下で敗れ、その将の識を得た。この年、文侯が卒し、子の撃が立ち、これが武侯である。

原文卅八年,伐秦,敗我武下,得其將識。是歳,文侯卒,子撃立,是爲武侯。

魏武侯

原文魏武侯

魏武侯の元年、趙の敬侯が初めて立つ。公子朔が乱を起こし、勝たず、魏に奔り、魏とともに邯鄲を襲う。魏は敗れて去る。

原文魏武侯元年,趙敬侯初立,公子朔爲亂,不勝,奔魏,與魏襲邯鄲,魏敗而去。

二年、安邑・王垣に城す。

原文二年,城安邑、王垣。

七年、斉を伐ち、桑丘に至る。九年、翟が澮において我を敗る。呉起を使わして斉を伐たしめ、霊丘に至る。斉の威王が初めて立つ。

原文七年,伐齊,至桑丘。九年,翟敗我于澮。使呉起伐齊,至靈丘。齊威王初立。

十一年、韓・趙とともに晋の地を三分し、その後を滅ぼす。

原文十一年,與韓、趙三分晉地,滅其後。

十三年、秦の献公は櫟陽を県とす。十五年、趙を北藺にて破る。

原文十三年,秦獻公縣櫟陽。十五年,敗趙北藺。

十六年、楚を伐ち、魯陽を取る。武侯卒し、子の罃立つ、是を恵王と為す。

原文十六年,伐楚,取魯陽。武侯卒,子罃立,是爲惠王。

魏の恵王

原文魏惠王

恵王元年、初め、武侯の卒せし時、子の罃と公中緩と太子たるを争う。公孫頎、宋より趙に入り、趙より韓に入り、韓の懿侯に謂いて曰く、『魏の罃と公中緩と太子たるを争う、君も亦之を聞くか。今魏の罃は王錯を得、上党を挟み、固より半国なり。因りて之を除かば、魏を破るは必ずなり、失うべからざるなり』と。懿侯悦び、乃ち趙の成侯と軍を合し兵を併せて以て魏を伐ち、濁沢に戦う。魏氏大敗し、魏君囲まる。趙、韓に謂いて曰く、『魏君を除き、公中緩を立て、地を割きて退かば、我れ且つ利あらん』と。韓曰く、『不可なり。魏君を殺せば、人必ず暴と曰わん。地を割きて退かば、人必ず貪と曰わん。両分するに如かず。魏を分かつて両と為せば、宋・衛に強からず、則ち我れ終に魏の患い無からん』と。趙聴かず。韓悦ばず、其の少卒を以て夜去る。恵王の身死せず、国分かれざる所以の者は、二家の謀和せざるなり。若し一家の謀に従わば、則ち魏必ず分かるべし。故に曰く『君終に適子無くんば、其の国は破るべし』と。

原文惠王元年,初,武侯卒也,子罃與公中緩爭爲太子。公孫頎自宋入趙,自趙入韓,謂韓懿侯曰:『魏罃與公中緩爭爲太子,君亦聞之乎?今魏罃得王錯,挾上黨,固半國也。因而除之,破魏必矣,不可失也。』懿侯説,乃與趙成侯合軍并兵以伐魏,戰于濁澤,魏氏大敗,魏君圍。趙謂韓曰:『除魏君,立公中緩,割地而退,我且利。』韓曰:『不可。殺魏君,人必曰暴;割地而退,人必曰貪。不如兩分之。魏分爲兩,不彊於宋、衞,則我終无魏之患矣。』趙不聽。韓不説,以其少卒夜去。惠王之所以身不死,國不分者,二家謀不和也。若從一家之謀,則魏必分矣。故曰『君終无適子,其國可破也』。

二年、魏、韓を馬陵にて破り、趙を懐にて破る。三年、斉、我を観にて破る。五年、韓と宅陽に会す。武堵に城す。秦に敗たる。六年、伐ちて宋の儀台を取る。九年、伐ちて韓を澮にて破る。秦と少梁に戦い、我が将公孫痤を虜にし、龐を取らる。秦の献公卒し、子の孝公立つ。

原文二年,魏敗韓于馬陵,敗趙于懷。三年,齊敗我觀。五年,與韓會宅陽。城武堵。爲秦所敗。六年,伐取宋儀臺。九年,伐敗韓于澮。與秦戰少梁,虜我將公孫痤,取龐。秦獻公卒,子孝公立。

十年、趙の皮牢を伐ち取る。彗星現る。十二年、星昼に墜ち、声有り。

原文十年,伐取趙皮牢。彗星見。十二年,星晝墜,有聲。

十四年、趙と鄗に会す。十五年、魯・衞・宋・鄭の君来朝す。十六年、秦の孝公と杜平に会す。宋の黄池を侵すも、宋復た之を取る。

原文十四年,與趙會鄗。十五年,魯、衞、宋、鄭君來朝。十六年,與秦孝公會(社)[杜]平。侵宋黃池,宋復取之。

十七年、秦と元裏に戦い、秦我が少梁を取る。趙の邯鄲を囲む。十八年、邯鄲を抜く。趙斉に救いを請う、斉田忌・孫臏を使わして趙を救わしめ、魏を桂陵に敗る。

原文十七年,與秦戰元裏,秦取我少梁。圍趙邯鄲。十八年,拔邯鄲。趙請救于齊,齊使田忌、孫臏救趙,敗魏桂陵。

十九年、諸侯我が襄陵を囲む。長城を築き、固陽を塞ぐ。

原文十九年,諸侯圍我襄陵。筑長城,塞固陽。

二十年、趙に邯鄲を帰し、漳水上に盟す。二十一年、秦と彤に会す。趙の成侯卒す。二十八年、斉の威王卒す。中山君魏に相たり。

原文廿年,歸趙邯鄲,與盟漳水上。廿一年,與秦會彤。趙成侯卒。廿八年,齊威王卒。中山君相魏。

三十年、魏が趙を伐つ。趙は斉に危急を告ぐ。斉の宣王、孫子の計を用い、趙を救い魏を撃つ。魏は遂に大いに師を興し、龐涓をして将と為し、太子申をして上將軍と為さしむ。外黄を過ぐるに、外黄の徐子、太子に謂ひて曰く、『臣に百戦百勝の術有り』と。太子曰く、『聞くことを得んや』と。客曰く、『固より之を効さんことを願ふ』と。曰く、『太子自ら将として斉を攻め、大勝して莒を并ばば、則ち富は魏を有するに過ぎず、貴は王と為るに益さず。若し戦ひて斉に勝たずば、則ち万世魏無からん。此れ臣が百戦百勝の術なり』と。太子曰く、『諾、請ふ公の言に従ひて還らん』と。客曰く、『太子還らんと欲ふと雖も、得ざるべし。彼太子を勧めて戦攻せしめ、汁を啜らんと欲する者衆し。太子還らんと欲ふと雖も、恐らく得ざるべし』と。太子因りて還らんと欲ふ。其の御曰く、『将に出でて還らば、北と同じ』と。太子果たして斉人と戦ひ、馬陵に於て敗る。斉、魏の太子申を虜とし、將軍涓を殺す。軍遂に大破す。

原文卅年,魏伐趙,趙告急齊。齊宣王用孫子計,救趙撃魏。魏遂大興師,使龐涓將,而令太子申爲上將軍。過外黃,外黃徐子謂太子曰:『臣有百戰百勝之術。』太子曰:『可得聞乎?』客曰:『固願效之。』曰:『太子自將攻齊,大勝并莒,則富不過有魏,貴不益爲王。若戰不勝齊,則萬世无魏矣。此臣之百戰百勝之術也。』太子曰:『諾,請必從公之言而還矣。』客曰:『太子雖欲還,不得矣。彼勸太子戰攻,欲啜汁者衆。太子雖欲還,恐不得矣。』太子因欲還,其御曰:『將出而還,與北同。』太子果與齊人戰,敗於馬陵。齊虜魏太子申,殺將軍涓,軍遂大破。

三十一年、秦・趙・斉、共に我を伐つ。秦の将商君、我が將軍公子卬を詐りて其の軍を襲ひ奪ひ、之を破る。秦、商君を用ふるに及び、東の地は河に至る。而して斉・趙、数我を破る。安邑は秦に近し。是に於て治を大梁に徙す。公子赫を以て太子と為す。

原文卅一年,秦、趙、齊共伐我,秦將商君詐我將軍公子卬而襲奪其軍,破之。秦用商君,東地至河,而齊、趙數破我,安邑近秦,於是徙治大梁。以公子赫爲太子。

三十三年、秦の孝公卒す。商君、秦を亡れて魏に帰る。魏怒りて入れず。三十五年、斉の宣王と平阿の南に会す。

原文卅三年,秦孝公卒,商君亡秦歸魏,魏怒,不入。卅五年,與齊宣王會平阿南。

惠王、数軍旅に被り、礼を卑くし幣を厚くして賢者を招く。鄒衍・淳于髡・孟軻皆梁に至る。梁の惠王曰く、『寡人不佞、兵三たび外に折れ、太子虜と為り、上将死し、国以て空虚なり。先君の宗廟社稷を羞づるに以てす。寡人甚だ之を丑ず。叟千里を遠しとせず、辱くも幸ひに獘邑の廷に至る。将に何を以てか吾が国を利せん』と。孟軻曰く、『君は是の如く利を言ふべからず。夫れ君利を欲すれば則ち大夫利を欲し、大夫利を欲すれば則ち庶人利を欲す。上下利を争へば、国則ち危し。人君と為るは、仁義のみ。何を以てか利を為さん』と。

原文惠王數被於軍旅,卑禮厚幣以招賢者。鄒衍、淳于髡、孟軻皆至梁。梁惠王曰:『寡人不佞,兵三折於外,太子虜,上將死,國以空虚,以羞先君宗廟社稷,寡人甚丑之,叟不遠千里,辱幸至獘邑之廷,將何利吾國?』孟軻曰:『君不可以言利若是。夫君欲利則大夫欲利,大夫欲利則庶人欲利,上下爭利,國則危矣。爲人君,仁義而已矣,何以利爲!』

三十六年、復た斉王と甄に会す。是の歳、惠王卒す。子の襄王立つ。

原文卅六年,復與齊王會甄。是歳,惠王卒,子襄王立。

魏の襄王

原文魏襄王

襄王元年、諸侯と徐州に会し、相王たり。父の恵王を追尊して王とす。

原文襄王元年,與諸侯會徐州,相王也。追尊父惠王爲王。

五年、秦、我が龍賈の軍四万五千を雕陰に破り、我が焦・曲沃を囲む。秦に河西の地を与う。

原文五年,秦敗我龍賈軍四萬五千于雕陰,圍我焦、曲沃。予秦河西之地。

六年、秦と応に会す。秦、我が汾陰・皮氏・焦を取る。魏、楚を伐ち、陘山にて之を破る。七年、魏、尽く上郡を秦に入る。秦、我が蒲陽を降す。八年、秦、我が焦・曲沃を帰す。

原文六年,與秦會應。秦取我汾陰、皮氏、焦。魏伐楚,敗之陘山。七年,魏盡入上郡于秦。秦降我蒲陽。八年,秦歸我焦、曲沃。

十二年、楚、我が襄陵に敗る。諸侯の執政、秦の相張儀と齧桑に会す。十三年、張儀、魏に相たり。魏に女子有りて丈夫に化す。秦、我が曲沃・平周を取る。

原文十二年,楚敗我襄陵。諸侯執政與秦相張儀會齧桑。十三年,張儀相魏。魏有女子化爲丈夫。秦取我曲沃、平周。

十六年、襄王卒去り、子の哀王立つ。張儀復た秦に帰る。

原文十六年,襄王卒,子哀王立。張儀復歸秦。

魏の哀王

原文魏哀王

哀王元年、五国共に秦を攻むるも、勝たずして去る。

原文哀王元年,五國共攻秦,不勝而去。

二年、斉我が観津に敗る。五年、秦樗里子を使わして我が曲沃を伐ち取り、犀首を岸門に走らしむ。六年、秦来たりて公子政を立てて太子と為す。秦と臨晋に会す。七年、斉を攻む。秦と燕を伐つ。

原文二年,齊敗我觀津。五年,秦使樗里子伐取我曲沃,走犀首岸門。六年,秦(求)[來]立公子政爲太子。與秦會臨晉。七年,攻齊。與秦伐燕。

八年、衛を伐ち、列城二を抜く。衛君之を患う。如耳衛君に見えて曰く、『魏の兵を罷め、成陵君を免ずることを請わん、可ならんや』と。衛君曰く、『先生果たして能わば、孤世々以て衛を以て先生に事えんことを請わん』と。如耳成陵君に見えて曰く、『昔者魏趙を伐ち、羊腸を断ち、閼与を抜き、趙を斬るを約し、趙分かれて二と為り、亡びざる所以の者は、魏従の主と為るなり。今衛已に亡ぶに迫れり、将に西して秦に事えんことを請わんとす。其れ秦を以て衛を醳すに与るよりは、魏を以て衛を醳すに如かず、衛の魏に徳するは必ず終に窮まり無からん』と。成陵君曰く、『諾』と。如耳魏王に見えて曰く、『臣衛に謁す有り。衛は故に周室の別なり、其れ小国と称するも、宝器多し。今国難に迫るも而して宝器出でざる者は、其の心攻衛し衛を醳すに王を以て主と為さずと為す故に、宝器出づるも必ず王に入らざるなり。臣窃かに之を料るに、先に衛を醳すを言う者は必ず衛を受くる者なり』と。如耳出で、成陵君入り、其の言を以て魏王に見ゆ。魏王其の説を聴き、其の兵を罷め、成陵君を免じ、終身見えず。

原文八年,伐衞,拔列城二。衞君患之。如耳見衞君曰:『請罷魏兵,免成陵君可乎?』衞君曰:『先生果能,孤請世世以衞事先生。』如耳見成陵君曰:『昔者魏伐趙,斷羊腸,拔閼與,約斬趙,趙分而爲二,所以不亡者,魏爲從主也。今衞已迫亡,將西請事於秦。與其以秦醳衞,不如以魏醳衞,衞之德魏必終无窮。』成陵君曰:『諾。』如耳見魏王曰:『臣有謁於衞。衞故周室之別也,其稱小國,多寶器。今國迫於難而寶器不出者,其心以爲攻衞醳衞不以王爲主,故寶器雖出必不入於王也。臣竊料之,先言醳衞者必受衞者也。』如耳出,成陵君入,以其言見魏王。魏王聽其説,罷其兵,免成陵君,終身不見。

九年、秦王と臨晉に会す。張儀・魏章は皆魏に帰る。魏の相田需死す。楚は張儀・犀首・薛公を害す。楚の相昭魚、蘇代に謂ひて曰く、『田需死す。吾れ張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者あるを恐る。』代曰く、『然らば相たらんと欲する者は誰ぞ、而して君之を便とす。』昭魚曰く、『吾れ太子の自ら相たるを欲す。』代曰く、『請ふ君が爲に北せん、必ず之を相せしめん。』昭魚曰く、『奈何。』對へて曰く、『君其れ梁王たらんと爲せ、代請ふ君を説かん。』昭魚曰く、『奈何。』對へて曰く、『代や楚より來る。昭魚甚だ憂ひて曰く、「田需死す。吾れ張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者あるを恐る。」代曰く、「梁王は長主なり、必ず張儀を相せず。張儀相たらば、必ず秦を右とし魏を左とせん。犀首相たらば、必ず韓を右とし魏を左とせん。薛公相たらば、必ず齊を右とし魏を左とせん。梁王は長主なり、必ず便とせざらん。」王曰く、「然らば寡人孰をか相せん。」代曰く、「太子の自ら相たるに若かず。太子の自ら相たるは、是の三人者皆太子を以て常の相に非ざるとなし、皆將に務めて其の國を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せん。魏の彊きを以て、而して三萬乘の國之を輔くるに、魏必ず安からん。故に曰く、太子の自ら相たるに若かずと。」』遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たる。

原文九年,與秦王會臨晉。張儀、魏章皆歸于魏。魏相田需死,楚害張儀、犀首、薛公。楚相昭魚謂蘇代曰:『田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。』代曰:『然相者欲誰而君便之?』昭魚曰:『吾欲太子之自相也。』代曰:『請爲君北,必相之。』昭魚曰:『柰何?』對曰:『君其爲梁王,代請説君。』昭魚曰:『柰何?』對曰:『代也從楚來,昭魚甚憂,曰:「田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。」代曰:「梁王,長主也,必不相張儀。張儀相,必右秦而左魏。犀首相,必右韓而左魏。薛公相,必右齊而左魏。梁王,長主也,必不便也。」王曰:「然則寡人孰相?」代曰:「莫若太子之自相。太子之自相,是三人者皆以太子爲非常相也,皆將務以其國事魏,欲得丞相璽也。以魏之彊,而三萬乘之國輔之,魏必安矣。故曰莫若太子之自相也。」』遂北見梁王,以此告之。太子果相魏。

十年、張儀死す。十一年、秦の武王と應に会す。十二年、太子秦に朝す。秦來りて我が皮氏を伐つ。未だ拔かずして解く。十四年、秦來りて武王后を歸す。十六年、秦我が蒲反・陽晉・封陵を拔く。十七年、秦と臨晉に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、齊・韓と共に秦軍を函谷に敗る。

原文十年,張儀死。十一年,與秦武王會應。十二年,太子朝於秦。秦來伐我皮氏,未拔而解。十四年,秦來歸武王后。十六年,秦拔我蒲反、陽晉、封陵。十七年,與秦會臨晉。秦予我蒲反。十八年,與秦伐楚。廿一年,與齊、韓共敗秦軍函谷。

廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予ひて和す。哀王卒す。子昭王立つ。

原文廿三年,秦復予我河外及封陵爲和。哀王卒,子昭王立。

魏昭王

原文魏昭王

昭王元年、秦我が襄城を拔く。二年、秦と戰ふ。我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦將白起我が軍を伊闕に敗る廿四萬。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐を以て重し。七年、秦我が城大小六十一を拔く。八年、秦昭王西帝と爲り、齊湣王東帝と爲る。月餘りにして、皆復た王と稱し帝を歸す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を拔く。

原文昭王元年,秦拔我襄城。二年,與秦戰,我不利。三年,佐韓攻秦,秦將白起敗我軍伊闕廿四萬。六年,予秦河東地方四百里。芒卯以詐重。七年,秦拔我城大小六十一。八年,秦昭王爲西帝,齊湣王爲東帝,月餘,皆復稱王歸帝。九年,秦拔我新垣、曲陽之城。

十年、斉は宋を滅ぼし、宋王は我が温で死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、済西にてこれを破り、湣王は出奔す。燕のみが臨菑に入る。秦王と西周に会す。

原文十年,齊滅宋,宋王死我温。十二年,與秦、趙、韓、燕共伐齊,敗之濟西,湣王出亡。燕獨入臨菑。與秦王會西周。

十三年、秦は我が安城を抜く。兵は大梁に至り、去る。十八年、秦は郢を抜き、楚王は陳に遷る。

原文十三年,秦拔我安城。兵到大梁,去。十八年,秦拔郢,楚王徙陳。

十九年、昭王卒去す。子の安釐王立つ。

原文十九年,昭王卒,子安釐王立。

魏安釐王

原文魏安釐王

安釐王元年、秦は我が二城を抜く。二年、また我が二城を抜き、軍は大梁の下に至り、韓来りて救う。秦に温を与えて和す。三年、秦は我が四城を抜き、四万の首を斬る。四年、秦は我及び韓・趙を破り、十五万人を殺し、我が将芒卯を走らす。魏の将段干子、秦に南陽を与えて和することを請う。蘇代、魏王に謂いて曰く、『璽を欲する者は段干子なり、地を欲する者は秦なり。今、王、地を欲する者に璽を制せしめ、璽を欲する者に地を制せしむ。魏氏の地尽きざれば則ち已むを知らず。且つ夫れ地を以て秦に事うるは、譬えば薪を抱きて火を救うが如し。薪尽きざれば、火滅びず』と。王曰く、『是れ則ち然り。然りと雖も、事始めて已に行わる。更ふべからず』と。対えて曰く、『王独り夫れ博の梟を貴ぶ所以を見ざるか。便なれば則ち食ひ、不便なれば則ち止む。今、王「事始めて已に行はる。更ふべからず」と曰ふ。是れ何ぞ王の智を用ふるが梟を用ふるに如かざるや』と。

原文安釐王元年,秦拔我兩城。二年,又拔我二城,軍大梁下,韓來救,予秦温以和。三年,秦拔我四城,斬首四萬。四年,秦破我及韓、趙,殺十五萬人,走我將芒卯。魏將段干子請予秦南陽以和。蘇代謂魏王曰:『欲璽者段干子也,欲地者秦也。今王使欲地者制璽,使欲璽者制地,魏氏地不盡則不知已。且夫以地事秦,譬猶抱薪救火,薪不盡,火不滅。』王曰:『是則然也。雖然,事始已行,不可更矣。』對曰:『王獨不見夫博之所以貴梟者,便則食,不便則止矣。今王曰「事始已行,不可更」,是何王之用智不如用梟也?』

九年、秦は我が懐を抜く。十年、秦の太子が魏に人質として在りて死す。十一年、秦は我が郪丘を抜く。

原文九年,秦拔我懷。十年,秦太子外質於魏死。十一年,秦拔我郪丘。

秦の昭王、左右に謂ひて曰く、『今の韓・魏は始めと孰れか彊き。』對へて曰く、『始めに如かず。』王曰く、『今の如耳・魏齊と孟嘗・芒卯と孰れか賢れる。』對へて曰く、『及ばず。』王曰く、『孟嘗・芒卯の賢を以て、彊き韓・魏を率ひて秦を攻むるも、猶ほ寡人を如何ともすること無きなり。今無能の如耳・魏齊を以て弱き韓・魏を率ひて秦を伐たば、其れ寡人を如何ともすること無き亦明らかなり。』左右皆曰く、『甚だ然り。』中旗、琴に馮りて對へて曰く、『王の天下を料るは過ちたり。晉の六卿の時に當たりて、知氏最も彊く、范・中行を滅ぼし、又韓・魏の兵を率ひて趙襄子を晉陽に圍み、晉水を決して以て晉陽の城を灌がんとす、湛へざる者三版。知伯水を行くに、魏桓子御し、韓康子參乘と爲る。知伯曰く、「吾始め水を以て人の國を亡ぼすべきを知らず、乃ち今之を知る。」汾水は以て安邑を灌がんとすべく、絳水は以て平陽を灌がんとすべし。魏桓子、韓康子に肘し、韓康子、魏桓子に履み、肘足車上に接するに、而して知氏の地分かれ、身死し國亡び、天下の笑ひと爲る。今秦の兵彊しと雖も、知氏に過ぐること能はず。韓・魏弱しと雖も、尚ほ其れ晉陽の下に在りしに賢れるなり。此れ方に其の肘足を用ふるの時なり、願はくは王の易ふること勿らんことを。』是に於て秦王恐る。

原文秦昭王謂左右曰:『今時韓、魏與始孰彊?』對曰:『不如始彊。』王曰:『今時如耳、魏齊與孟嘗、芒卯孰賢?』對曰:『不如。』王曰:『以孟嘗、芒卯之賢,率彊韓、魏以攻秦,猶无柰寡人何也。今以无能之如耳、魏齊而率弱韓、魏以伐秦,其无柰寡人何亦明矣。』左右皆曰:『甚然。』中旗馮琴而對曰:『王之料天下過矣。當晉六卿之時,知氏最彊,滅范、中行,又率韓、魏之兵以圍趙襄子於晉陽,決晉水以灌晉陽之城,不湛者三版。知伯行水,魏桓子御,韓康子爲參乘。知伯曰:「吾始不知水之可以亡人之國也,乃今知之。」汾水可以灌安邑,絳水可以灌平陽。魏桓子肘韓康子,韓康子履魏桓子,肘足接於車上,而知氏地分,身死國亡,爲天下笑。今秦兵雖彊,不能過知氏;韓、魏雖弱,尚賢其在晉陽之下也。此方其用肘足之時也,願王之勿易也!』於是秦王恐。

齊・楚相約して魏を攻む。魏、人をして秦に求救ましむるに、冠蓋相望むも、而して秦の救ひ至らず。魏人に唐雎と云ふ者有り、年九十餘なり、魏王に謂ひて曰く、『老臣請ふ西のかた秦王を説き、兵をして臣に先だちて出ださしめん。』魏王再拝し、遂に車を約して之を遣はす。唐雎到り、入りて秦王に見ゆ。秦王曰く、『丈人芒然として乃ち遠く此に至る、甚だ苦しきかな。夫れ魏の來りて救ひを求むること數たびなり、寡人魏の急なるを知れり。』唐雎對へて曰く、『大王既に魏の急なるを知りて救ひ發たざるは、臣竊に以爲へらく、策を用ふるの臣任無きなり。夫れ魏は一萬乘の國なり、然るに西面して秦に事へ、東藩と稱し、冠帶を受け、春秋に祠る所以の者は、秦の彊きを以て以て與と爲すに足るなり。今齊・楚の兵已に魏の郊に合せり、而して秦の救ひ發たざるは、亦將に其の未だ急ならざるを頼まんとす。之をして大いに急ならしめば、彼將に地を割きて從を約し、王尚ほ何の救ひか有らん。必ず其の急なるを待ちて之を救はば、是れ一の東藩たる魏を失ひて二の敵たる齊・楚を彊くするなり、則ち王何の利か有らん。』是に於て秦の昭王遽かに爲に兵を發して魏を救ふ。魏氏復た定まる。

原文齊、楚相約而攻魏,魏使人求救於秦,冠蓋相望也,而秦救不至。魏人有唐雎者,年九十餘矣,謂魏王曰:『老臣請西説秦王,令兵先臣出。』魏王再拜,遂約車而遣之。唐雎到,入見秦王。秦王曰:『丈人芒然乃遠至此,甚苦矣!夫魏之來求救數矣,寡人知魏之急已。』唐雎對曰:『大王已知魏之急而救不發者,臣竊以爲用策之臣无任矣。夫魏,一萬乘之國也,然所以西面而事秦,稱東藩,受冠帶,祠春秋者,以秦之彊足以爲與也。今齊、楚之兵已合於魏郊矣,而秦救不發,亦將賴其未急也。使之大急,彼且割地而約從,王尚何救焉?必待其急而救之,是失一東藩之魏而彊二敵之齊、楚,則王何利焉?』於是秦昭王遽爲發兵救魏。魏氏復定。

趙、人をして魏王に謂はしめて曰く、『我が爲に范痤を殺せ、吾請ふ七十里の地を獻らん。』魏王曰く、『諾。』吏をして之を捕へしむ。圍みて未だ殺さず。痤因りて屋に上り危に騎り、使者に謂ひて曰く、『死せる痤を以て市ふに與るに、生ける痤を以て市ふに如かず。痤の死する有らば、趙王に地を予へず、則ち王將に奈何せん。故に先づ割地を定むるに與るに如かず、然る後に痤を殺す。』魏王曰く、『善し。』痤因りて信陵君に上書して曰く、『痤は故き魏の免相なり、趙地を以て痤を殺さむとし、而して魏王之を聽く、彊き秦も亦將に趙の欲を襲はば、則ち君將に奈何せん。』信陵君王に言ひて之を出だす。

原文趙使人謂魏王曰:『爲我殺范痤,吾請獻七十里之地。』魏王曰:『諾。』使吏捕之,圍而未殺。痤因上屋騎危,謂使者曰:『與其以死痤市,不如以生痤市。有如痤死,趙不予王地,則王將柰何?故不若與先定割地,然後殺痤。』魏王曰:『善。』痤因上書信陵君曰:『痤,故魏之免相也,趙以地殺痤而魏王聽之,有如彊秦亦將襲趙之欲,則君且柰何?』信陵君言於王而出之。

魏王、秦の救ひ有るの故を以て、秦に親しみ韓を伐たんと欲し、以て故地を求めむとす。無忌、魏王に謂ひて曰く、

原文魏王以秦救之故,欲親秦而伐韓,以求故地。无忌謂魏王曰:

秦は戎翟と同様の習俗を持ち、虎狼の心があり、貪婪で利益を好み信義がなく、礼義德行を識らない。もし利益があれば、親戚兄弟を顧みず、禽獣の如きものである。これは天下の知るところであり、厚く施し徳を積んだわけではない。故に太后は母であるが、憂い死にし、穣侯は舅であるが、功はこれより大なるはなく、ついにこれを追放した。両弟は罪なく、再びその国を奪われた。これ親戚に対してこの如くである。ましてや仇讎の国に対してであろうか。今、王が秦と共に韓を伐ち、ますます秦の禍いに近づくのは、臣は甚だ惑うところである。而して王が識らざれば明らかでなく、群臣がこれを聞かせざれば忠ならず。

原文秦與戎翟同俗,有虎狼之心,貪戾好利无信,不識禮義德行。茍有利焉,不顧親戚兄弟,若禽獸耳,此天下之所識也,非有所施厚積德也。故太后母也,而以憂死;穰侯舅也,功莫大焉,而竟逐之;兩弟无罪,而再奪之國。此於親戚若此,而況於仇讎之國乎?今王與秦共伐韓而益近秦患,臣甚惑之。而王不識則不明,羣臣莫以聞則不忠。

今、韓氏は一女子をもって一弱主に奉じ、内に大乱があり、外に強秦・魏の兵を交えている。王はこれが滅びないと思われるか。韓が滅びれば、秦は鄭の地を有し、大梁・鄴と接する。王はこれが安泰と思われるか。王が故地を得ようと欲するなら、今、強秦の親を負うのは、王はこれが利益と思われるか。

原文今韓氏以一女子奉一弱主,内有大亂,外交彊秦魏之兵,王以爲不亡乎?韓亡,秦有鄭地,與大梁鄴,王以爲安乎?王欲得故地,今負彊秦之親,王以爲利乎?

秦は事なき国ではない。韓が滅びた後、必ずやさらに事を起こすであろう。さらに事を起こせば、必ず易きと利に就く。易きと利に就けば、必ずや楚と趙を伐たないであろう。これは何故か。山を越え河を渡り、韓の上党を絶って強趙を攻めるのは、これは閼与の事を繰り返すことになり、秦は必ずや行わない。もし河内を通り、鄴・朝歌を背にし、漳水・滏水を絶って、趙兵と邯鄲の郊で決戦するのは、これは知伯の禍いであり、秦はまた敢えてしない。楚を伐つには、渉谷を通り、三千里を行き、冥阨の塞を攻める。行くところ甚だ遠く、攻めるところ甚だ難く、秦はまた行わない。もし河外を通り、大梁を背にし、右(蔡左)[上蔡]・召陵を経て、楚兵と陳の郊で決戦するのは、秦はまた敢えてしない。故に曰く、秦は必ずや楚と趙を伐たず、また衛と斉を攻めないであろう。

原文秦非无事之國也,韓亡之後必將更事,更事必就易與利,就易與利必不伐楚與趙矣。是何也?夫越山踰河,絶韓上黨而攻彊趙,是復閼與之事,秦必不爲也。若道河内,倍鄴、朝謌,絶漳滏水,與趙兵決於邯鄲之郊,是知伯之禍也,秦又不敢。伐楚,道渉谷,行三千里。而攻冥阸之塞,所行甚遠,所攻甚難,秦又不爲也。若道河外,倍大梁,右(蔡左)[上蔡]、召陵,與楚兵決於陳郊,秦又不敢。故曰秦必不伐楚與趙矣,又不攻衞與齊矣。

そもそも韓が滅びた後、兵を出す日には、魏以外に攻めるものはない。秦はもとより懐・茅・邢丘を有し、垝津に城を築いて河内に臨めば、河内の共・汲は必ず危うくなる。鄭の地を有し、垣雍を得て、熒沢の水を決して大梁を灌げば、大梁は必ず滅びる。王の使者が出て過ち、安陵氏を秦に悪く言えば、秦がこれを誅しようと欲して久しい。秦の葉陽・昆陽は、舞陽と隣接し、使者の悪言を聞き、安陵氏に従ってこれを滅ぼし、舞陽の北を巡り、東は許に臨み、南国は必ず危うく、国は先ず害を受けるであろう。

原文夫韓亡之後,兵出之日,非魏无攻已。秦固有懷、茅、邢丘,城垝津以臨河内,河内共、汲必危;有鄭地,得垣雍,決熒澤水灌大梁,大梁必亡。王之使者出過而惡安陵氏於秦,秦之欲誅之久矣。秦葉陽、昆陽,與舞陽鄰,聽使者之惡之,隨安陵氏而亡之,繞舞陽之北,以東臨許,南國必危,國先害已。

そもそも韓を憎み安陵氏を愛さないのはよろしい。秦が南国を愛さないことを患いないのは、よろしくない。かつて、秦は河西の晋にあり、国は梁から千里離れ、河山をもってこれを遮り、周・韓をもってこれを隔てていた。林郷の軍以来今日に至るまで、秦は七たび魏を攻め、五たび囿中に入り、辺城はことごとく抜かれ、文臺は崩れ、垂都は焼かれ、林木は伐られ、麋鹿は尽き、国は続いて包囲された。また長駆して梁の北に至り、東は陶・衛の郊に至り、北は平・監に至った。秦に失ったものは、山南山北、河外、河内、大県数十、名都数百である。秦はなお河西の晋にあり、梁から千里離れていたのに、禍いはこのようであった。ましてや秦に韓がなく、鄭の地を有し、河山なくしてこれを遮り、周・韓なくしてこれを隔て、大梁から百里離れているならば、禍いは必ずやこれの百倍であろう。

原文夫憎韓不愛安陵氏可也,夫不患秦之不愛南國非也。異日者,秦在河西晉,國去梁千里,有河山以闌之,有周韓以閒之。從林鄕軍以至于今,秦七攻魏,五入囿中,邊城盡拔,文臺墮,垂都焚,林木伐,麋鹿盡,而國繼以圍。又長驅梁北,東至陶衞之郊,北至平監。所亡於秦者,山南山北,河外,河内,大縣數十,名都數百。秦乃在河西晉,去梁千里,而禍若是矣。又況於使秦无韓,有鄭地,无河山而闌之,无周、韓而閒之,去大梁百里,禍必百此矣。

かつて、韓に従うことが成らなかった時は、楚と魏が疑い、韓を得ることはできなかった。今、韓は三年にわたり兵を受けており、秦は講和を以てこれを撓め、韓は滅亡を識りながらも聴かず、趙に質を投じて、天下のために雁行して刃を頓えんことを請う。楚と趙は必ず兵を集めるであろう。皆、秦の欲が窮まりなきことを識っている。天下の国を尽く滅ぼし、海内を臣とせずば、必ずや休まないのである。是故に臣は願わくは王に従事し、王は速やかに楚と趙の約を受けて、韓の質を挟みて韓を存し、故地を求めよ。韓は必ずこれを献じるであろう。これにより士民は労せずして故地を得、その功は秦と共に韓を伐つよりも多く、しかも強秦と隣接する禍を免れるのである。

原文異日者,從之不成也,楚、魏疑而韓不可得也。今韓受兵三年,秦橈之以講,識亡不聽,投質於趙,請爲天下鴈行頓刃,楚、趙必集兵,皆識秦之欲无窮也,非盡亡天下之國而臣海内,必不休矣。是故臣願以從事王,王速受楚趙之約,(趙)[而]挾韓之質以存韓,而求故地,韓必效之。此士民不勞而故地得,其功多於與秦共伐韓,而又與彊秦鄰之禍也。

韓を存し魏を安んじて天下に利するは、これまた王の天時である。韓の上党を共・甯に通じ、安成に道を通じ、出入りに賦を課せば、これにより魏は韓の上党を質として重んじるのである。今その賦を得れば、国を富ますに足る。韓は必ず魏を徳とし、魏を愛し、魏を重んじ、魏を畏れるであろう。韓は必ず敢えて魏に背かず、これにより韓は即ち魏の県となる。魏が韓を得て県となすは、大梁を衛り、河外必ず安んずるであろう。今韓を存せざれば、二周・安陵は必ず危うく、楚・趙は大いに破れ、衛・齊は甚だ卑しくなり、天下は西に向かって秦に馳せ参じ、入朝して臣となるは久しからずして起こるであろう。

原文夫存韓安魏而利天下,此亦王之天時已。通韓上黨於共、甯,使道安成,出入賦之,是魏重質韓以其上黨也。今有其賦,足以富國。韓必德魏愛魏重魏畏魏,韓必不敢反魏,是韓則魏之縣也。魏得韓以爲縣,衞大梁,河外必安矣。今不存韓,二周、安陵必危,楚、趙大破,衞、齊甚卑,天下西鄕而馳秦,入朝而爲臣不久矣。

二十年、秦は邯鄲を囲み、信陵君無忌は将軍晉鄙の兵を矯奪して趙を救い、趙は全きを得た。無忌は因って趙に留まる。二十六年、秦の昭王卒す。

原文廿年,秦圍邯鄲,信陵君无忌矯奪將軍晉鄙兵以救趙,趙得全。无忌因留趙。廿六年,秦昭王卒。

三十年、無忌は魏に帰り、五国の兵を率いて秦を攻め、河外にこれを敗り、蒙驁を走らせた。魏の太子増は秦に質となっていたが、秦は怒り、魏の太子増を囚えんとした。ある者が増のために秦王に謂うには、「公孫喜は固より魏の相に謂いて曰く『請う、魏を以て疾く秦を撃たん。秦王怒り、必ず増を囚う。魏王また怒り、秦を撃てば、秦必ず傷つく』と。今、王が増を囚うるは、これ喜の計の当たる所なり。故に増を貴ぶに如かずして魏と合し、以て齊・韓にこれを疑わしめよ」と。秦は乃ち増を止む。

原文卅年,无忌歸魏,率五國兵攻秦,敗之河外,走蒙驁。魏太子增質於秦,秦怒,欲囚魏太子增。或爲增謂秦王曰:『公孫喜固謂魏相曰「請以魏疾撃秦,秦王怒,必囚增。魏王又怒,撃秦,秦必傷」。今王囚增,是喜之計中也。故不若貴增而合魏,以疑之於齊、韓。』秦乃止增。

三十一年、秦王政初めて立つ。

原文卅一年,秦王政初立。

三十四年、安釐王卒し、太子増立つ、是を景湣王と爲す。信陵君無忌卒す。

原文卅四年,安釐王卒,太子增立,是爲景湣王。信陵君无忌卒。

魏の景湣王

原文魏景湣王

景湣王元年、秦我が二十城を拔き、以て秦の東郡と爲す。二年、秦我が朝歌を拔く。衞野王に徙る。三年、秦我が汲を拔く。五年、秦我が垣・蒲陽・衍を拔く。十五年、景湣王卒し、子王假立つ。

原文景湣王元年,秦拔我廿城,以爲秦東郡。二年,秦拔我朝謌。衞徙野王。三年,秦拔我汲。五年,秦拔我垣、蒲陽、衍。十五年,景湣王卒,子王假立。

魏王假

原文魏王假

王假元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ、秦王之を覺ゆ。

原文王假元年,燕太子丹使荊軻刺秦王,秦王覺之。

三年、秦は大梁を灌漑し、王假を虜とし、遂に魏を滅ぼして郡縣となす。

原文三年,秦灌大梁,虜王假,遂滅魏以爲郡縣。

司馬遷評

原文司馬遷評

太史公曰く、吾れ故大梁の墟に適く。墟中の人曰く、『秦の梁を破るや、河溝を引いて大梁を灌ぎ、三月にして城壊れ、王降を請ひ、遂に魏を滅ぼす』と。説者皆曰く、魏は信陵君を用ひざる故を以て、國削弱して亡ぶに至ると。余以爲らく然らず。天方に秦をして海内を平らげしめんとす。其の業未だ成らず。魏たとひ阿衡の佐を得るとも、何ぞ益せんや。

原文太史公曰:吾適故大梁之墟,墟中人曰:『秦之破梁,引河溝而灌大梁,三月城壞,王請降,遂滅魏。』説者皆曰魏以不用信陵君故,國削弱至於亡,余以爲不然。天方令秦平海内,其業未成,魏雖得阿衡之佐,曷益乎?