鄭桓公

鄭桓公の友は、周の厲王の末子にして宣王の庶弟である。宣王が立つこと二十二年、友は初めて鄭に封ぜられた。封ぜられて三十三年、百姓は皆その恩恵を蒙りこれを愛した。幽王はこれをもって司徒とした。周の民を和合させ集めると、周の民は皆喜び、河・雒の間の人はその恩恵を慕った。司徒となって一年、幽王が褒后の故に、王室の政治は多く邪に陥り、諸侯の中にはこれに叛く者もあった。ここにおいて桓公は太史伯に問うて曰く、「王室には多くの変故がある。私はどこに逃れて死を免れようか」と。太史伯対えて曰く、「ただ雒の東土、河・済の南に住むべし」と。公曰く、「何故か」と。対えて曰く、「その地は虢・鄶に近く、虢・鄶の君は貪欲で利を好み、百姓はこれに附かない。今公が司徒となられ、民は皆公を愛しております。公が誠をもってそこに住まんことを請えば、虢・鄶の君は公がまさに権勢を用いんとするのを見て、軽々しく公に土地を分け与えましょう。公が誠にそこに住まわれれば、虢・鄶の民は皆公の民となります」と。公曰く、「私は南の江上に至らんと欲するが、どうか」と。対えて曰く、「昔、祝融が高辛氏の火正となり、その功は大きかったが、その子孫は周代において興隆した者はなく、楚がその後裔です。周が衰えれば、楚は必ず興ります。楚が興ることは、鄭の利益ではありません」と。公曰く、「私は西方に住まんと欲するが、どうか」と。対えて曰く、「その民は貪欲で利を好み、長く住むことは難しい」と。公曰く、「周が衰えたら、どの国が興るか」と。対えて曰く、「斉・秦・晋・楚でしょうか。そもそも斉は姜姓、伯夷の後裔であり、伯夷は堯を助けて典礼を司りました。秦は嬴姓、伯翳の後裔であり、伯翳は舜を助けて百物を懐柔しました。そして楚の先祖も、皆かつて天下に功績がありました。周の武王が紂を克った後、成王が叔虞を唐に封じましたが、その地は険阻であり、これによって有徳の者が周の衰えと併せて現れれば、必ず興るでしょう」と。桓公曰く、「善い」と。ここにおいてついに王に言上し、その民を東に遷して雒の東に住まわせた。すると虢・鄶は果たして十邑を献じ、ついに国とした。

原文鄭桓公友者,周厲王少子而宣王庶弟也。宣王立二十二年,友初封于鄭。封三十三歳,百姓皆便愛之。幽王以爲司徒。和集周民,周民皆説,河雒之閒,人便思之。爲司徒一歳,幽王以褒后故,王室治多邪,諸侯或畔之。於是桓公問太史伯曰:「王室多故,予安逃死乎?」太史伯對曰:「獨雒之東土,河濟之南可居。」公曰:「何以?」對曰:「地近虢、鄶,虢、鄶之君貪而好利,百姓不附。今公爲司徒,民皆愛公,公誠請居之,虢、鄶之君見公方用事,輕分公地。公誠居之,虢、鄶之民皆公之民也。」公曰:「吾欲南之江上,何如?」對曰:「昔祝融爲髙辛氏火正,其功大矣,而其於周未有興者,楚其後也。周衰,楚必興。興,非鄭之利也。」公曰:「吾欲居西方,何如?」對曰:「其民貪而好利,難久居。」公曰:「周衰,何國興者?」對曰:「齊、秦、晉、楚乎?夫齊,姜姓,伯夷之後也,伯夷佐堯典禮。秦,嬴姓,伯翳之後也,伯翳佐舜懷柔百物。及楚之先,皆嘗有功於天下。而周武王克紂後,成王封叔虞于唐,其地阻險,以此有德與周衰并,亦必興矣。」桓公曰:「善。」於是卒言王,東徙其民雒東,而虢、鄶果獻十邑,竟國之。

二年、犬戎が驪山の下で幽王を殺し、併せて桓公をも殺した。鄭人は共にその子の掘突を立て、これが武公である。

原文二歳,犬戎殺幽王於驪山下,并殺桓公。鄭人共立其子掘突,是爲武公。

鄭武公

原文鄭武公

武公十年、申侯の女を娶って夫人とし、武姜と称した。太子の寤生を生むが、生むのに難産であり、生まれてからも夫人はこれを愛さなかった。後に少子の叔段を生み、段は生むのが容易であったので、夫人はこれを愛した。二十七年、武公が病んだ。夫人は公に請い、段を太子に立てんと欲したが、公は聞き入れなかった。この年、武公は卒去し、寤生が立ち、これが荘公である。

原文武公十年,娶申侯女爲夫人,曰武姜。生太子寤生,生之難,及生,夫人弗愛。後生少子叔段,段生易,夫人愛之。二十七年,武公疾。夫人請公,欲立段爲太子,公弗聽。是歳,武公卒,寤生立,是爲莊公。

鄭の荘公

原文鄭莊公

荘公元年、弟の段を京に封じて太叔と号した。祭仲が言うには、「京は国都より大きく、庶子を封ずるに適さない」と。荘公は言う、「武姜がそれを望むので、私は奪うことができない」と。段は京に至り、甲兵を繕い治め、その母武姜と謀って鄭を襲おうとした。二十二年、段は果たして鄭を襲い、武姜が応となった。荘公は兵を発して段を伐ち、段は逃走した。京を伐つと、京の人々は段に背き、段は出奔して鄢に走った。鄢は潰え、段は出奔して共に奔った。ここにおいて荘公はその母武姜を城潁に遷し、誓って言うには、「黄泉に至らざれば、相見えざるべし」と。歳余を居て、すでに悔いて母を思った。潁谷の考叔が公に献上するものがあり、公は食を賜うた。考叔は言う、「臣には母がおります。どうか君の賜うた食を臣の母に賜わりますように」と。荘公は言う、「私は甚だ母を思うが、盟に背くことを憎む。どうしたものか」と。考叔は言う、「地を穿って黄泉に至れば、すなわち相見えるでしょう」と。ここにおいて遂にそれに従い、母と会った。

原文莊公元年,封弟段於京,號太叔。祭仲曰:「京大於國,非所以封庶也。」莊公曰:「武姜欲之,我弗敢奪也。」段至京,繕治甲兵,與其母武姜謀襲鄭。二十二年,段果襲鄭,武姜爲内應。莊公發兵伐段,段走。伐京,京人畔段,段出走鄢。鄢潰,段出奔共。於是莊公遷其母武姜於城潁,誓言曰:「不至黃泉,毋相見也。」居歳餘,已悔思母。潁谷之考叔有獻於公,公賜食。考叔曰:「臣有母,請君食賜臣母。」莊公曰:「我甚思母,惡負盟,柰何?」考叔曰:「穿地至黃泉,則相見矣。」於是遂從之,見母。

二十四年、宋の繆公が卒し、公子馮が鄭に奔った。鄭は周の地を侵し、禾を取った。二十五年、衞の州吁がその君桓公を弑して自立し、宋とともに鄭を伐った。馮の故である。二十七年、初めて周の桓王に朝した。桓王はその禾を取ったことを怒り、礼をしなかった。二十九年、荘公は周が礼をしなかったことを怒り、魯と祊・許田を交換した。三十三年、宋は孔父を殺した。三十七年、荘公は周に朝せず、周の桓王は陳・蔡・虢・衞を率いて鄭を伐った。荘公は祭仲・髙渠彌とともに兵を発して自らを救い、王の師は大敗した。祝聸が王の臂を射て中てた。祝聸は従って追撃しようと請うたが、鄭伯はこれを止めて言うには、「長を犯すことすら難しいのに、況んや敢えて天子を陵ぐことなどできようか」と。そこで止めた。夜、祭仲に命じて王の疾を問わせた。

原文二十四年,宋繆公卒,公子馮奔鄭。鄭侵周地,取禾。二十五年,衞州吁弒其君桓公自立,與宋伐鄭,以馮故也。二十七年,始朝周桓王。桓王怒其取禾,弗禮也。二十九年,莊公怒周弗禮,與魯易祊、許田。三十三年,宋殺孔父。三十七年,莊公不朝周,周桓王率陳、蔡、虢、衞伐鄭。莊公與祭仲、髙渠彌發兵自救,王師大敗。祝聸射中王臂。祝聸請從之,鄭伯止之,曰:「犯長且難之,況敢陵天子乎?」乃止。夜令祭仲問王疾。

三十八年、北戎が斉を伐った。斉は使いをやって救いを求め、鄭は太子忽に兵を将いて斉を救わせた。斉の釐公は彼に妻を娶らせようとしたが、忽は謝して言うには、「我が国は小国であり、斉の敵ではありません」と。時に祭仲がともにいて、娶るよう勧めて言うには、「君には内寵が多く、太子に大いなる援けがなければ立たないでしょう。三公子はいずれも君となるべき方です」と。いわゆる三公子とは、太子忽、その弟の突、次いで弟子亹である。

原文三十八年,北戎伐齊,齊使求救,鄭遣太子忽將兵救齊。齊釐公欲妻之,忽謝曰:「我小國,非齊敵也。」時祭仲與倶,勸使取之,曰:「君多内寵,太子無大援將不立,三公子皆君也。」所謂三公子者,太子忽,其弟突,次弟子亹也。

四十三年、鄭の荘公が卒した。初め、祭仲は甚だ荘公に寵愛され、荘公は彼を卿とした。公は彼に鄧の女を娶らせ、太子忽を生んだ。故に祭仲は彼を立てた。これが昭公である。

原文四十三年,鄭莊公卒。初,祭仲甚有寵於莊公,莊公使爲卿;公使娶鄧女,生太子忽,故祭仲立之,是爲昭公。

荘公はまた宋の雍氏の娘を娶り、厲公突を生んだ。雍氏は宋で寵愛を受けていた。宋の荘公は祭仲が忽を立てたと聞くと、人をやって祭仲を誘い出して捕らえ、言った。「突を立てなければ、死ぬことになる。」また突を捕らえて賂を求めた。祭仲は宋に許諾し、宋と盟を結んだ。突を連れて帰り、彼を立てた。昭公忽は祭仲が宋の要求で弟の突を立てたと聞き、九月丁亥、忽は出奔して衛に逃れた。己亥、突が鄭に到着し、立てられ、これが厲公である。

原文莊公又娶宋雍氏女,生厲公突。雍氏有寵於宋。宋莊公聞祭仲之立忽,乃使人誘召祭仲而執之,曰:「不立突,將死。」亦執突以求賂焉。祭仲許宋,與宋盟。以突歸,立之。昭公忽聞祭仲以宋要立其弟突,九月(辛)[丁]亥,忽出奔衞。己亥,突至鄭,立,是爲厲公。

鄭厲公

原文鄭厲公

厲公四年、祭仲が国政を専断した。厲公はこれを憂い、密かにその婿の雍糾に祭仲を殺させようとした。糾の妻は祭仲の娘であり、これを知り、その母に言った。「父と夫とどちらが親しいか。」母は言った。「父は一人だけだが、夫は誰でもなれるものだ。」娘はそこで祭仲に告げ、祭仲は逆に雍糾を殺し、市でこれを戮した。厲公は祭仲をどうすることもできず、糾を怒って言った。「謀りごとを婦人に及ぼすとは、死ぬのは当然だ。」夏、厲公は出奔して辺境の邑である櫟に居を定めた。祭仲は昭公忽を迎え、六月乙亥、再び鄭に入り、即位した。

原文厲公四年,祭仲專國政。厲公患之,陰使其婿雍糾欲殺祭仲。糾妻,祭仲女也,知之,謂其母曰:「父與夫孰親?」母曰:「父一而已,人盡夫也。」女乃告祭仲,祭仲反殺雍糾,戮之於市。厲公無柰祭仲何,怒糾曰:「謀及婦人,死固宜哉!」夏,厲公出居邊邑櫟。祭仲迎昭公忽,六月乙亥,復入鄭,卽位。

秋、鄭の厲公突は櫟の人々を頼りにその大夫単伯を殺し、ついにそこに居を定めた。諸侯は厲公が出奔したと聞き、鄭を伐ったが、勝てずに去った。宋は厲公にかなりの兵を与え、自ら櫟を守らせたので、鄭もこのため櫟を伐たなかった。

原文秋,鄭厲公突因櫟人殺其大夫單伯,遂居之。諸侯聞厲公出奔,伐鄭,弗克而去。宋頗予厲公兵,自守於櫟,鄭以故亦不伐櫟。

鄭昭公

原文鄭昭公

昭公二年、昭公が太子であった時、父の莊公は高渠彌を卿にしようとしたが、太子の忽はこれを憎み、莊公は聞き入れず、ついに渠彌を卿に用いた。昭公が即位すると、渠彌は昭公が自分を殺すことを恐れ、冬十月辛卯、渠彌は昭公と狩猟に出て、野で昭公を射殺した。祭仲と渠彌は厲公を迎え入れることを敢えず、かわりに昭公の弟の子亹を立てて君とした。これが子亹である。諡号はない。

原文昭公二年,自昭公爲太子時,父莊公欲以髙渠彌爲卿,太子忽惡之,莊公弗聽,卒用渠彌爲卿。及昭公卽位,懼其殺己,冬十月辛卯,渠彌與昭公出獵,射殺昭公於野。祭仲與渠彌不敢入厲公,乃更立昭公弟子亹爲君,是爲子亹也,無謚號。

子亹元年七月、齊の襄公が諸侯を首止で会合させた。鄭の子亹はこれに赴き、高渠彌が補佐として従った。祭仲は病気と称して行かなかった。その理由は、子亹は齊の襄公が公子であった時、かつて争いを起こし、互いに仇敵となっていたからである。諸侯の会合に際し、祭仲は子亹に行かないよう請うた。子亹は言った、「齊は強く、厲公は櫟にいる。もし行かなければ、齊は諸侯を率いて我を伐ち、厲公を国内に迎え入れようとするだろう。私は行くに如かず。行ったとしても、どうして必ず辱められようか。また、どうしてそこまでなることがあろうか」と。ついに行った。そこで祭仲は齊が彼らをともに殺すことを恐れ、病気と称したのである。子亹が到着すると、齊侯に謝罪しなかったので、齊侯は怒り、甲兵を伏せて子亹を殺した。高渠彌は逃れて帰国し、帰ると祭仲と謀り、子亹の弟の公子嬰を陳から召し出して立てた。これが鄭子である。この年、齊の襄公は彭生を使わし、酔わせて魯の桓公を拉殺させた。

原文子亹元年七月,齊襄公會諸侯於首止,鄭子亹往會,髙渠彌相,從,祭仲稱疾不行。所以然者,子亹自齊襄公爲公子之時,嘗會鬬,相仇,及會諸侯,祭仲請子亹無行。子亹曰:「齊彊,而厲公居櫟,卽不往,是率諸侯伐我,内厲公。我不如往,往何遽必辱,且又何至是!」卒行。於是祭仲恐齊并殺之,故稱疾。子亹至,不謝齊侯,齊侯怒,遂伏甲而殺子亹。髙渠彌亡歸,歸與祭仲謀,召子亹弟公子嬰於陳而立之,是爲鄭子。是歳,齊襄公使彭生醉拉殺魯桓公。

鄭子八年、齊の管至父らが乱を起こし、その君襄公を弑した。十二年、宋の長萬がその君湣公を弑した。鄭の祭仲が死んだ。

原文鄭子八年,齊人管至父等作亂,弒其君襄公。十二年,宋人長萬弒其君湣公。鄭祭仲死。

十四年、かつて鄭を出奔した厲公の突が櫟にいたが、人を遣わして鄭の大夫甫假を誘い出し脅迫し、入国させることを条件とした。假は言った、「私を放免してください。私が君のために鄭子を殺し、君を迎え入れましょう」と。厲公は彼と盟約を結び、そこで彼を放免した。六月甲子、假は鄭子とその二人の子を殺し、厲公の突を迎えた。突は櫟から再び入国して即位した。初め、内蛇と外蛇が鄭の南門の中で争い、内蛇が死んだ。それから六年後、厲公は果たして再び入国した。入国すると、その伯父の原を責めて言った、「私は国外に亡命していたのに、伯父は私を迎え入れる意思がなかった。あまりにもひどい」と。原は言った、「君に仕えて二心を持たぬことが、人臣の職分です。原は罪を知りました」と。そこで自殺した。厲公はそこで甫假に言った、「あなたは君に仕えて二心を持っていた」と。そこで彼を誅した。假は言った、「重い恩徳は報いられぬ。まことにその通りだ」と。

原文十四年,故鄭亡厲公突在櫟者使人誘劫鄭大夫甫假,要以求入。假曰:「捨我,我爲君殺鄭子而入君。」厲公與盟,乃捨之。六月甲子,假殺鄭子及其二子而迎厲公突,突自櫟復入卽位。初,内蛇與外蛇鬬於鄭南門中,内蛇死。居六年,厲公果復入。入而讓其伯父原曰:「我亡國外居,伯父無意入我,亦甚矣。」原曰:「事君無二心,人臣之職也。原知罪矣。」遂自殺。厲公於是謂甫假曰:「子之事君有二心矣。」遂誅之。假曰:「重德不報,誠然哉!」

厲公の突の後元年、齊の桓公が初めて覇を唱えた。

原文厲公突後元年,齊桓公始霸。

五年、燕・衛と周の恵王の弟穨が王を伐ち、王は温に出奔し、弟穨を立てて王とした。六年、恵王は鄭に急を告げ、厲公は兵を発して周の王子穨を撃つが、勝たず、ここにおいて周の恵王とともに帰り、王は櫟に居した。七年の春、鄭の厲公と虢叔が王子穨を襲って殺し、恵王を周に入れた。

原文五年,燕、衞與周惠王弟穨伐王,王出奔温,立弟穨爲王。六年,惠王告急鄭,厲公發兵撃周王子穨,弗勝,於是與周惠王歸,王居于櫟。七年春,鄭厲公與虢叔襲殺王子穨而入惠王于周。

鄭文公

原文鄭文公

秋、厲公卒し、子の文公踕立つ。厲公は初めに立つこと四歳、亡れて櫟に居し、櫟に居すること十七歳、復た入り、立つこと七歳、亡れることと合わせて凡そ二十八年。

原文秋,厲公卒,子文公踕立。厲公初立四歳,亡居櫟,居櫟十七歳,復入,立七歳,與亡凡二十八年。

二十四年、文公の賤妾に燕姞という者がおり、天が蘭を与える夢を見て、言うには、「我は伯鯈である。我は汝の祖なり。これをもって汝の子とせよ、蘭には国香あり」と。夢を文公に告げると、文公は彼女を寵幸し、草蘭を与えて符とした。ここにおいて子を生み、名を蘭と曰う。

原文二十四年,文公之賤妾曰燕姞,夢天與之蘭,曰:「余爲伯鯈。余,爾祖也。以是爲而子,蘭有國香。」以夢告文公,文公幸之,而予之草蘭爲符。遂生子,名曰蘭。

三十六年、晋の公子重耳が過ぎるが、文公は礼をしなかった。文公の弟叔詹が言うには、「重耳は賢く、かつまた同姓なり、困窮して君を過ぐるに、礼なかるべからず」と。文公は言う、「諸侯の亡公子にして過ぐる者は多し、安んぞ能く尽く礼せんや」と。詹は言う、「君もし礼せざれば、すなわちこれを殺せ。殺さざれば、すなわち国に反らしめよ、鄭の憂いとならん」と。文公は聴かなかった。

原文三十六年,晉公子重耳過,文公弗禮。文公弟叔詹曰:「重耳賢,且又同姓,窮而過君,不可無禮。」文公曰:「諸侯亡公子過者多矣,安能盡禮之!」詹曰:「君如弗禮,遂殺之;弗殺,使卽反國,爲鄭憂矣。」文公弗聽。

三十七年の春、晋の公子重耳が国に帰り、即位した。これが文公である。秋、鄭が滑に入り、滑は命を聴いたが、やがて衛に味方したので、ここにおいて鄭は滑を伐った。周の襄王は伯服をして滑を請わせた。鄭の文公は、恵王が櫟に亡命していた時に、文公の父厲公が恵王を入れたのに、恵王が厲公に爵禄を賜わなかったことを怨み、また襄王が衛や滑に味方したことを怨んだので、襄王の請を聴かず、伯服を囚えた。王は怒り、翟人とともに鄭を伐ったが、勝たなかった。冬、翟が襄王を攻め伐ち、襄王は出奔して鄭に逃れた。鄭の文公は王を氾に住まわせた。三十八年、晋の文公が襄王を成周に入れた。

原文三十七年春,晉公子重耳反國,立,是爲文公。秋,鄭入滑,滑聽命,已而反與衞,於是鄭伐滑。周襄王使伯服請滑。鄭文公怨惠王之亡在櫟,而文公父厲公入之,而惠王不賜厲公爵祿,又怨襄王之與衞滑,故不聽襄王請而囚伯服。王怒,與翟人伐鄭,弗克。冬,翟攻伐襄王,襄王出奔鄭,鄭文公居王于氾。三十八年,晉文公入襄王成周。

四十一年、楚を助けて晋を撃った。晋の文公が(かつて鄭を)過ぎた時に無礼であったので、晋に背いて楚を助けたのである。四十三年、晋の文公と秦の穆公がともに鄭を囲み、その楚を助けて晋を攻めた者を討ち、また文公が(鄭を)過ぎた時の無礼のためでもあった。初め、鄭の文公には三人の夫人があり、寵愛する子が五人いたが、皆罪によって早く死んだ。公は怒り、群公子をことごとく追い払った。子蘭は晋に奔り、晋の文公に従って鄭を囲んだ。当時、蘭は晋の文公に仕えて甚だ謹んでおり、文公に愛幸されたので、ひそかに晋に通じ、鄭に入って太子となることを求めた。晋はここにおいて叔詹を得て殺そうとした。鄭の文公は恐れ、叔詹に言うことができなかった。詹はこれを聞き、鄭君に言うには、「臣が君に申し上げたのに、君は臣の言を聴かれず、晋がついに患いとなりました。しかし晋が鄭を囲むのは、詹のためです。詹が死んで鄭国が赦されるならば、詹の願いです」と。そこで自殺した。鄭人は詹の屍を晋に与えた。晋の文公は言った、「必ず一度鄭君に会い、辱めてから去ろう」と。鄭人はこれを憂い、そこで人をやってひそかに秦に言わせた、「鄭を破れば晋を益すことになり、秦の利益ではありません」と。秦の兵は引き上げた。晋の文公は蘭を入れて太子とさせようとし、鄭に告げた。鄭の大夫石癸が言うには、「私は聞く、姞姓は后稷の元妃であり、その後に必ず興る者があると。子蘭の母は、その後裔です。また夫人の子はすでにみな死に、残る庶子で蘭ほど賢い者はありません。今、囲みが急であり、晋がこれを請うているのですから、これより大きな利益があろうか」と。そこで晋に許諾し、盟を結び、ついに子蘭を立てて太子とした。晋の兵はここにおいて引き上げて去った。

原文四十一年,助楚撃晉。自晉文公之過無禮,故背晉助楚。四十三年,晉文公與秦穆公共圍鄭,討其助楚攻晉者,及文公過時之無禮也。初,鄭文公有三夫人,寵子五人,皆以罪蚤死。公怒,溉逐群公子。子蘭奔晉,從晉文公圍鄭。時蘭事晉文公甚謹,愛幸之,乃私於晉,以求入鄭爲太子。晉於是欲得叔詹爲僇。鄭文公恐,不敢謂叔詹言。詹聞,言於鄭君曰:「臣謂君,君不聽臣,晉卒爲患。然晉所以圍鄭,以詹,詹死而赦鄭國,詹之願也。」乃自殺。鄭人以詹尸與晉。晉文公曰:「必欲一見鄭君,辱之而去。」鄭人患之,乃使人私於秦曰:「破鄭益晉,非秦之利也。」秦兵罷。晉文公欲入蘭爲太子,以告鄭。鄭大夫石癸曰:「吾聞姞姓乃后稷之元妃,其後當有興者。子蘭母,其後也。且夫人子盡已死,餘庶子無如蘭賢。今圍急,晉以爲請,利孰大焉!」遂許晉,與盟,而卒立子蘭爲太子,晉兵乃罷去。

四十五年、文公が卒し、子の蘭が立った。これが繆公である。

原文四十五年,文公卒,子蘭立,是爲繆公。

鄭の繆公

原文鄭繆公

繆公元年の春、秦の繆公が三将に兵を将いて鄭を襲おうとさせ、滑に至った時、鄭の商人弦高が十二頭の牛で軍を労うと偽ったので、秦の兵は至らずに帰ったが、晋が崤でこれを破った。初め、往年鄭の文公が卒した時、鄭の司城繒賀が鄭の内情を売ったので、秦の兵が来たのである。三年、鄭は兵を発して晋に従い秦を伐ち、汪で秦の兵を破った。

原文繆公元年春,秦繆公使三將將兵欲襲鄭,至滑,逢鄭賈人絃髙詐以十二牛勞軍,故秦兵不至而還,晉敗之於崤。初,往年鄭文公之卒也,鄭司城繒賀以鄭情賣之,秦兵故來。三年,鄭發兵從晉伐秦,敗秦兵於汪。

往年、楚の太子商臣がその父成王を弑して代わりに立った。二十一年、宋の華元とともに鄭を伐った。華元は羊を殺して士卒に食わせたが、その御者羊斟に与えなかったので、羊斟は怒って鄭に馳せ入り、鄭は華元を囚えた。宋は華元を贖い、元もまた亡去した。晋は趙穿を使わして兵をもって鄭を伐った。

原文往年楚太子商臣弒其父成王代立。二十一年,與宋華元伐鄭。華元殺羊食士,不與其御羊斟,怒以馳鄭,鄭囚華元。宋贖華元,元亦亡去。晉使趙穿以兵伐鄭。

鄭の霊公

原文鄭靈公

霊公元年の春、楚が霊公に黿を献じた。子家と子公が霊公に朝せんとすると、子公の食指が動いた。子家に謂って曰く、「他日、指が動けば、必ず異物を食す」と。入りて、霊公が黿羹を進めるのを見るや、子公は笑って曰く、「果たして然り」と。霊公、その笑う故を問うと、具に霊公に告げた。霊公は之を召したが、独り羹を与えなかった。子公は怒り、その指を染めて、之を嘗めて出た。公は怒り、子公を殺さんとした。子公は子家と謀りて先んじた。夏、霊公を弑した。鄭人は霊公の弟去疾を立てんとしたが、去疾は譲って曰く、「必ず賢を以てするならば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てするならば、則ち公子堅は長なり」と。堅は、霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。ここにおいて乃ち子堅を立てた。是を襄公と為す。

原文靈公元年春,楚獻黿於靈公。子家、子公將朝靈公,子公之食指動,謂子家曰:「佗日指動,必食異物。」及入,見靈公進黿羹,子公笑曰:「果然!」靈公問其笑故,具告靈公。靈公召之,獨弗予羹。子公怒,染其指,嘗之而出。公怒,欲殺子公。子公與子家謀先。夏,弒靈公。鄭人欲立靈公弟去疾,去疾讓曰:「必以賢,則去疾不肖;必以順,則公子堅長。」堅者,靈公庶弟,去疾之兄也。於是乃立子堅,是爲襄公。

鄭の襄公

原文鄭襄公

襄公が立つと、尽く繆氏を去らんとした。繆氏とは、霊公を殺した子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去るならば、我は将に之を去らん」と。乃ち止めた。皆を以て大夫と為した。

原文襄公立,將盡去繆氏。繆氏者,殺靈公、子公之族家也。去疾曰:「必去繆氏,我將去之。」乃止。皆以爲大夫。

襄公元年、楚は鄭が宋の賂を受け華元を放ったことに怒り、鄭を伐つ。鄭は楚に背き、晋と親しむ。五年、楚また鄭を伐ち、晋来たりてこれを救う。六年、子家卒す。国人またその族を逐う。霊公を弑したるを以てなり。

原文襄公元年,楚怒鄭受宋賂縱華元,伐鄭。鄭背楚,與晉親。五年,楚復伐鄭,晉來救之。六年,子家卒,國人復逐其族,以其弒靈公也。

七年、鄭晋と鄢陵に盟す。八年、楚の荘王、鄭が晋と盟したるを以て、来たりて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒掔羊して迎え、曰く「孤辺邑に事ふること能はずして、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ぼさしむ。孤が罪なり。敢へて命を惟ふに聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜はんとも、亦惟命を聴く。若し君王厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀みて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た得て改めて君王に事へしめば、孤が願ひなり。然れども敢へて望む所に非ず。敢へて腹心を布く。惟命を聴く」と。荘王却ること三十里にして後に舎す。楚の群臣曰く「郢より此に至るまで、士大夫亦久しく労せり。今国を得て之を舎つ、如何」と。荘王曰く「伐つ所為は、服せざるを伐つなり。今已に服せり。尚何をか求めん」と。卒に去る。晋楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来たり両端を持す。故に遅し。比して河に至るに、楚兵已に去る。晋の将率或は渡らんと欲し、或は還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反って楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来たりて鄭を伐つ。其の晋に反りて楚に親しむを以てなり。

原文七年,鄭與晉盟鄢陵。八年,楚莊王以鄭與晉盟,來伐,圍鄭三月,鄭以城降楚。楚王入自皇門,鄭襄公肉袒掔羊以迎,曰:「孤不能事邊邑,使君王懷怒以及獘邑,孤之罪也。敢不惟命是聽。君王遷之江南,及以賜諸侯,亦惟命是聽。若君王不忘厲、宣王,桓、武公,哀不忍絶其社稷,錫不毛之地,使復得改事君王,孤之願也,然非所敢望也。敢布腹心,惟命是聽。」莊王爲卻三十里而後舍。楚群臣曰:「自郢至此,士大夫亦久勞矣。今得國捨之,何如?」莊王曰:「所爲伐,伐不服也。今已服,尚何求乎?」卒去。晉聞楚之伐鄭,發兵救鄭。其來持兩端,故遲,比至河,楚兵已去。晉將率或欲渡,或欲還,卒渡河。莊王聞,還撃晉。鄭反助楚,大破晉軍於河上。十年,晉來伐鄭,以其反晉而親楚也。

十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋晋に告急す。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君に諫めて曰く「天方に楚を開く。未だ伐つべからず」と。乃ち壮士を求めて霍人の解揚、字は子虎を得、楚を誆ひ、宋をして降る毋からしむ。鄭を過ぐ。鄭楚と親しむ。乃ち解揚を執へて楚に献ず。楚王厚く賜ひて約し、其の言を反らしめ、宋をして趣て降らしめんとす。三たび要して乃ち許す。是に於て楚解揚を楼車に登らしめ、呼ばしめて宋に告げしむ。遂に楚の約に負ひて其の晋君の命を致して曰く「晋方に国兵を悉くして以て宋を救はんとす。宋急なりと雖も、愼んで楚に降る毋かれ。晋兵今至らん」と。楚の荘王大いに怒り、将に之を殺さんとす。解揚曰く「君能く命を制するを義と為し、臣能く命を承くるを信と為す。吾が君の命を受けて出づ。死有りて隕つること無し」と。荘王曰く「若の我に許す所、已にして之に背く。其の信安くにか在る」と。解揚曰く「王に許す所以は、吾が君の命を成さんと欲するなり」と。将に死せんとし、顧みて楚軍に謂ひて曰く「人臣たる者は忠を尽くして死を得るを忘るる無かれ」と。楚王の諸弟皆王に諫めて之を赦さしむ。是に於て解揚を赦して帰らしむ。晋之を爵して上卿と為す。

原文十一年,楚莊王伐宋,宋告急于晉。晉景公欲發兵救宋,伯宗諫晉君曰:「天方開楚,未可伐也。」乃求壯士得霍人解揚,字子虎,誆楚,令宋毋降。過鄭,鄭與楚親,乃執解揚而獻楚。楚王厚賜與約,使反其言,令宋趣降,三要乃許。於是楚登解揚樓車,令呼宋。遂負楚約而致其晉君命曰:「晉方悉國兵以救宋,宋雖急,愼毋降楚,晉兵今至矣!」楚莊王大怒,將殺之。解揚曰:「君能制命爲義,臣能承命爲信。受吾君命以出,有死無隕。」莊王曰:「若之許我,已而背之,其信安在?」解揚曰:「所以許王,欲以成吾君命也。」將死,顧謂楚軍曰:「爲人臣無忘盡忠得死者!」楚王諸弟皆諫王赦之,於是赦解揚使歸。晉爵之爲上卿。

十八年、襄公卒す。子の悼公沸立つ。

原文十八年,襄公卒,子悼公沸立。

鄭の悼公

原文鄭悼公

悼公元年、鄦公が楚において鄭を悪しざまに言うと、悼公は弟の睔を楚に遣わして自ら訴えた。訴えは理に合わず、楚は睔を囚えた。ここにおいて鄭の悼公は来て晋と和睦し、ついに親しくした。睔は楚の子反に私的に取り入り、子反は睔を鄭に帰すよう言った。

原文悼公元年,鄦公惡鄭於楚,悼公使弟睔於楚自訟。訟不直,楚囚睔。於是鄭悼公來與晉平,遂親。睔私於楚子反,子反言歸睔於鄭。

二年、楚が鄭を伐つと、晋の兵が来て救った。この年、悼公が卒し、その弟の睔を立てた。これが成公である。

原文二年,楚伐鄭,晉兵來救。是歳,悼公卒,立其弟睔,是爲成公。

鄭の成公

原文鄭成公

成公三年、楚の共王が「鄭の成公は孤に徳がある」と言い、人を遣わして来て盟を結んだ。成公は密かにこれと盟を結んだ。秋、成公が晋に朝すると、晋は「鄭が密かに楚と和睦した」と言い、これを執った。欒書をして鄭を伐たせた。四年の春、鄭は晋の包囲を憂い、公子如はついに成公の庶兄の繻を立てて君とした。その四月、晋は鄭が君を立てたと聞き、ついに成公を帰した。鄭の人々は成公の帰還を聞き、また君の繻を殺し、成公を迎えた。晋の兵は去った。

原文成公三年,楚共王曰「鄭成公孤有德焉」,使人來與盟。成公私與盟。秋,成公朝晉,晉曰「鄭私平於楚」,執之。使欒書伐鄭。四年春,鄭患晉圍,公子如乃立成公庶兄繻爲君。其四月,晉聞鄭立君,乃歸成公。鄭人聞成公歸,亦殺君繻,迎成公。晉兵去。

十年、晋との盟に背き、楚と盟を結んだ。晋の厲公は怒り、兵を発して鄭を伐った。楚の共王が鄭を救った。晋と楚は鄢陵で戦い、楚の兵は敗れ、晋は楚の共王の目を射て傷つけ、ともに引き上げて去った。十三年、晋の悼公が鄭を伐ち、兵を洧上に置いた。鄭は城を守り、晋もまた去った。

原文十年,背晉盟,盟於楚。晉厲公怒,發兵伐鄭。楚共王救鄭。晉楚戰鄢陵,楚兵敗,晉射傷楚共王目,倶罷而去。十三年,晉悼公伐鄭,兵於洧上。鄭城守,晉亦去。

十四年、成公が卒し、子の惲が立つ。これが釐公である。

原文十四年,成公卒,子惲立。是爲釐公。

鄭釐公

原文鄭釐公

釐公五年、鄭の相たる子駟が釐公に朝したが、釐公は礼を以て遇さなかった。子駟は怒り、厨人に命じて薬を以て釐公を殺させ、諸侯に赴告して「釐公が急病で卒した」と告げた。釐公の子の嘉を立てた。嘉は時に五歳、これが簡公である。

原文釐公五年,鄭相子駟朝釐公,釐公不禮。子駟怒,使廚人藥殺釐公,赴諸侯曰「釐公暴病卒」。立釐公子嘉,嘉時年五歳,是爲簡公。

鄭簡公

原文鄭簡公

簡公元年、諸公子が謀りて相たる子駟を誅さんと欲したが、子駟はこれを覚り、反って諸公子をことごとく誅した。二年、晋が鄭を伐ち、鄭はこれと盟し、晋は去った。冬、また楚と盟した。子駟は誅されることを畏れ、故に両方に親しんで晋・楚に従った。三年、相たる子駟は自ら立って君たらんと欲した。公子の子孔が尉止に命じて相たる子駟を殺させ、これに代わった。子孔もまた自ら立たんと欲した。子産が言うには、「子駟が為すべからざることを為した故に誅したのである。今またこれを倣うのは、これ乱が時を以て息むこと無きなり」と。ここにおいて子孔はこれに従い、鄭簡公の相となった。

原文簡公元年,諸公子謀欲誅相子駟,子駟覺之,反盡誅諸公子。二年,晉伐鄭,鄭與盟,晉去。冬,又與楚盟。子駟畏誅,故兩親晉、楚。三年,相子駟欲自立爲君,公子子孔使尉止殺相子駟而代之。子孔又欲自立。子産曰:「子駟爲不可,誅之,今又效之,是亂無時息也。」於是子孔從之而相鄭簡公。

四年、晋は鄭が楚と盟したことを怒り、鄭を伐ち、鄭はこれと盟した。楚の共王は鄭を救い、晋の兵を破った。簡公は晋と和睦しようとしたが、楚はまた鄭の使者を囚えた。

原文四年,晉怒鄭與楚盟,伐鄭,鄭與盟。楚共王救鄭,敗晉兵。簡公欲與晉平,楚又囚鄭使者。

十二年、簡公は相の子孔が国権を専らにすることを怒り、これを誅し、子産を以て卿とした。十九年、簡公は晋に赴き衛君の帰還を請い、子産に六邑を封じた。子産は辞譲し、その三邑を受けた。二十二年、呉は延陵季子を鄭に使いさせ、子産に会って旧交の如くし、子産に謂って曰く、「鄭の執政者は奢侈であり、難が将に至らんとし、政は将に子に及ぼう。子が政を為すには、必ず礼を以てすべし。然らずんば、鄭は将に敗れん」と。子産は季子を厚く遇した。二十三年、諸公子は寵を争い相殺し、また子産を殺さんとした。公子の或る者諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以は子産なり。殺すなかれ」と。乃ち止めた。

原文十二年,簡公怒相子孔專國權,誅之,而以子産爲卿。十九年,簡公如晉請衞君還,而封子産以六邑。子産讓,受其三邑。二十二年,呉使延陵季子於鄭,見子産如舊交,謂子産曰:「鄭之執政者侈,難將至,政將及子。子爲政,必以禮;不然,鄭將敗。」子産厚遇季子。二十三年,諸公子爭寵相殺,又欲殺子産。公子或諫曰:「子産仁人,鄭所以存者子産也,勿殺!」乃止。

二十五年、鄭は子産を晋に使いさせ、平公の疾を問うた。平公曰く、「卜して曰く実沈・臺駘が祟り為すと。史官知る者なし。敢えて問う」と。対えて曰く、「高辛氏に二子あり。長を閼伯と曰い、季を実沈と曰う。曠林に居り、相能わず、日に干戈を操りて以て相征伐す。后帝はこれを善しとせず、閼伯を商丘に遷し、辰を主とす。商人は是に因る。故に辰は商星と為す。実沈を大夏に遷し、参を主とす。唐人は是に因り、夏・商に服事す。その季世を唐叔虞と曰う。武王の時に当たり、邑姜が方に大叔を娠やし、帝が夢に己に謂う、『余、而が子を命じて虞と為し、乃ちこれに唐を与え、参に属してその子孫を蕃育せしむ』と。及び生まるるに、その掌に文ありて『虞』と曰う。遂に以てこれを命ず。及び成王、唐を滅ぼして大叔をここに国す。故に参は晋星と為す。是よりこれを観れば、則ち実沈は参の神なり。昔、金天氏に裔子ありて昧と曰い、玄冥の師と為り、允格・臺駘を生む。臺駘よくその官を業とし、汾・洮を宣べ、大沢を障り、以て太原に処る。帝用てこれを嘉し、これに汾川を国す。沈・姒・蓐・黄は実にその祀を守る。今、晋は汾川を主としてこれを滅ぼす。是よりこれを観れば、則ち臺駘は汾・洮の神なり。然れども是の二者は君の身を害せず。山川の神は、則ち水旱の災に禜す。日月星辰の神は、則ち雪霜風雨の時にあらざるに禜す。若し君の疾は、飲食哀楽女色の生ずる所なり」と。平公及び叔向曰く、「善いかな、博物の君子なり」と。子産に厚く礼を為した。

原文二十五年,鄭使子産於晉,問平公疾。平公曰:「卜而曰實沈、臺駘爲祟,史官莫知,敢問?」對曰:「髙辛氏有二子,長曰閼伯,季曰實沈,居曠林,不相能也,日操干戈以相征伐。后帝弗臧,遷閼伯于商丘,主辰,商人是因,故辰爲商星。遷實沈于大夏,主參,唐人是因,服事夏、商,其季世曰唐叔虞。當武王邑姜方娠大叔,夢帝謂己:『余命而子曰虞,乃與之唐,屬之參而蕃育其子孫。』及生有文在其掌曰『虞』,遂以命之。及成王滅唐而國大叔焉。故參爲晉星。由是觀之,則實沈,參神也。昔金天氏有裔子曰昧,爲玄冥師,生允格、臺駘。臺駘能業其官,宣汾、洮,障大澤,以處太原。帝用嘉之,國之汾川。沈、姒、蓐、黃實守其祀。今晉主汾川而滅之。由是觀之,則臺駘,汾、洮神也。然是二者不害君身。山川之神,則水旱之菑禜之;日月星辰之神,則雪霜風雨不時禜之;若君疾,飲食哀樂女色所生也。」平公及叔向曰:「善,博物君子也!」厚爲之禮於子産。

二十七年夏、鄭の簡公は晋に朝した。冬、楚の霊王の強きを畏れ、また楚に朝し、子産これに従う。二十八年、鄭君病み、子産を使わして諸侯と会せしめ、楚の霊王と申に盟し、斉の慶封を誅した。

原文二十七年夏,鄭簡公朝晉。冬,畏楚靈王之彊,又朝楚,子産從。二十八年,鄭君病,使子産會諸侯,與楚靈王盟於申,誅齊慶封。

三十六年、簡公卒す。子の定公寧立つ。秋、定公は晋の昭公に朝した。

原文三十六年,簡公卒,子定公寧立。秋,定公朝晉昭公。

鄭の定公

原文鄭定公

定公元年、楚の公子棄疾がその君霊王を弑して自ら立ち、平王となった。諸侯に徳を行わんと欲し、霊王の侵した鄭の地を鄭に帰した。

原文定公元年,楚公子棄疾弒其君靈王而自立,爲平王。欲行德諸侯。歸靈王所侵鄭地于鄭。

四年、晉の昭公が卒し、その六卿強く、公室卑し。子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てすべし、立つ所以を忘るるなかれ」と。六年、鄭に火あり、公、之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。

原文四年,晉昭公卒,其六卿彊,公室卑。子産謂韓宣子曰:「爲政必以德,毋忘所以立。」六年,鄭火,公欲禳之。子産曰:「不如修德。」

八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晉と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺し、建の子勝、呉に奔る。

原文八年,楚太子建來奔。十年,太子建與晉謀襲鄭。鄭殺建,建子勝奔呉。

十一年、定公、晉に如く。晉、鄭と謀り、周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。

原文十一年,定公如晉。晉與鄭謀,誅周亂臣,入敬王于周。

十三年、定公卒去し、子の獻公蠆立つ。

原文十三年,定公卒,子獻公蠆立。

鄭獻公

原文鄭獻公

獻公十三年卒去し、子の聲公勝立つ。是の時に當たり、晉の六卿強く、鄭を侵奪し、鄭遂に弱し。

原文獻公十三年卒,子聲公勝立。當是時,晉六卿彊,侵奪鄭,鄭遂弱。

鄭聲公

原文鄭聲公

聲公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡くすが如し。子産は、鄭の成公の少子なり。人に爲りて仁愛人を愛し、君に事へて忠厚なり。孔子嘗て鄭を過ぎ、子産と兄弟の如くすと云ふ。子産の死を聞くに及んで、孔子爲に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。

原文聲公五年,鄭相子産卒,鄭人皆哭泣,悲之如亡親戚。子産者,鄭成公少子也。爲人仁愛人,事君忠厚。孔子嘗過鄭,與子産如兄弟云。及聞子産死,孔子爲泣曰:「古之遺愛也!」

八年、晋の范氏・中行氏が晋に叛き、鄭に急を告げたので、鄭はこれを救った。晋が鄭を伐ち、鉄において鄭軍を破った。

原文八年,晉范、中行氏反晉,告急於鄭,鄭救之。晉伐鄭,敗鄭軍於鐵。

十四年、宋の景公が曹を滅ぼした。二十年、斉の田常がその君簡公を弑し、常は斉において相となった。二十二年、楚の恵王が陳を滅ぼした。孔子卒す。

原文十四年,宋景公滅曹。二十年,齊田常弒其君簡公,而常相於齊。二十二年,楚惠王滅陳。孔子卒。

三十六年、晋の知伯が鄭を伐ち、九邑を取った。

原文三十六年,晉知伯伐鄭,取九邑。

三十七年、声公卒し、子の哀公易立つ。

原文三十七年,聲公卒,子哀公易立。

鄭哀公

原文鄭哀公

哀公八年、鄭の人哀公を弑して声公の弟丑を立て、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭の人幽公の弟駘を立て、是を繻公と為す。

原文哀公八年,鄭人弒哀公而立聲公弟丑,是爲共公。共公三年,三晉滅知伯。三十一年,共公卒,子幽公已立。幽公元年,韓武子伐鄭,殺幽公。鄭人立幽公弟駘,是爲繻公。

鄭繻公

原文鄭繻公

繻公十五年、韓景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京を城す。

原文繻公十五年,韓景侯伐鄭,取雍丘。鄭城京。

十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍にて敗る。二十年、韓・趙・魏列ねて諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。

原文十六年,鄭伐韓,敗韓兵於負黍。二十年,韓、趙、魏列爲諸侯。二十三年,鄭圍韓之陽翟。

二十五年、鄭の君其の相子陽を殺す。二十七年、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為し、是を鄭君と為す。鄭君乙立つこと二年、鄭の負黍反し、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。

原文二十五年,鄭君殺其相子陽。二十七,子陽之黨共弒繻公駘而立幽公弟乙爲君,是爲鄭君。鄭君乙立二年,鄭負黍反,復歸韓。十一年,韓伐鄭,取陽城。

二十一年、韓の哀侯が鄭を滅ぼし、その国を併合した。

原文二十一年,韓哀侯滅鄭,并其國。

太史公曰く

原文太史公曰

太史公曰く、語に之れ有り、「権利を以て合する者は、権利尽きて而して交わり疎し」と、甫瑕是れなり。甫瑕は鄭子を劫殺して厲公を内れたるも、厲公終に背きて之を殺せり、此れ晋の裏克と何ぞ異ならん。節を守ること荀息の如きも、身死して能く奚齊を存せず。変の従来する所、亦多故有り。

原文太史公曰:語有之,「以權利合者,權利盡而交疎」,甫瑕是也。甫瑕雖以劫殺鄭子内厲公,厲公終背而殺之,此與晉之裏克何異?守節如荀息,身死而不能存奚齊。變所從來,亦多故矣!

索隠述賛

原文索隱述贊

厲王の子、封を鄭に得たり。職を代わり司徒たり、緇衣詠に在り。虢・鄶邑を献じ、祭祝命を専にす。莊既に王を犯し、厲亦命に奔る。櫟に居りて克く入り、蘭を夢みて慶をそだつ。伯服生囚せられ、叔瞻屍聘す。釐・簡の後、公室競わず。負黍還るも、韓哀日に盛ん。

原文厲王之子,得封於鄭。代職司徒,緇衣在詠。虢、鄶獻邑,祭祝專命。莊既犯王,厲亦奔命。居櫟克入,夢蘭毓慶。伯服生囚,叔瞻屍聘。釐、簡之後,公室不競。負黍雖還,韓哀日盛。