鄭桓公の友は、周の厲王の末子にして宣王の庶弟である。宣王が立つこと二十二年、友は初めて鄭に封ぜられた。封ぜられて三十三年、百姓は皆その恩恵を蒙りこれを愛した。幽王はこれをもって司徒とした。周の民を和合させ集めると、周の民は皆喜び、河・雒の間の人はその恩恵を慕った。司徒となって一年、幽王が褒后の故に、王室の政治は多く邪に陥り、諸侯の中にはこれに叛く者もあった。ここにおいて桓公は太史伯に問うて曰く、「王室には多くの変故がある。私はどこに逃れて死を免れようか」と。太史伯対えて曰く、「ただ雒の東土、河・済の南に住むべし」と。公曰く、「何故か」と。対えて曰く、「その地は虢・鄶に近く、虢・鄶の君は貪欲で利を好み、百姓はこれに附かない。今公が司徒となられ、民は皆公を愛しております。公が誠をもってそこに住まんことを請えば、虢・鄶の君は公がまさに権勢を用いんとするのを見て、軽々しく公に土地を分け与えましょう。公が誠にそこに住まわれれば、虢・鄶の民は皆公の民となります」と。公曰く、「私は南の江上に至らんと欲するが、どうか」と。対えて曰く、「昔、祝融が高辛氏の火正となり、その功は大きかったが、その子孫は周代において興隆した者はなく、楚がその後裔です。周が衰えれば、楚は必ず興ります。楚が興ることは、鄭の利益ではありません」と。公曰く、「私は西方に住まんと欲するが、どうか」と。対えて曰く、「その民は貪欲で利を好み、長く住むことは難しい」と。公曰く、「周が衰えたら、どの国が興るか」と。対えて曰く、「斉・秦・晋・楚でしょうか。そもそも斉は姜姓、伯夷の後裔であり、伯夷は堯を助けて典礼を司りました。秦は嬴姓、伯翳の後裔であり、伯翳は舜を助けて百物を懐柔しました。そして楚の先祖も、皆かつて天下に功績がありました。周の武王が紂を克った後、成王が叔虞を唐に封じましたが、その地は険阻であり、これによって有徳の者が周の衰えと併せて現れれば、必ず興るでしょう」と。桓公曰く、「善い」と。ここにおいてついに王に言上し、その民を東に遷して雒の東に住まわせた。すると虢・鄶は果たして十邑を献じ、ついに国とした。
二年、犬戎が驪山の下で幽王を殺し、併せて桓公をも殺した。鄭人は共にその子の掘突を立て、これが武公である。
鄭武公
武公十年、申侯の女を娶って夫人とし、武姜と称した。太子の寤生を生むが、生むのに難産であり、生まれてからも夫人はこれを愛さなかった。後に少子の叔段を生み、段は生むのが容易であったので、夫人はこれを愛した。二十七年、武公が病んだ。夫人は公に請い、段を太子に立てんと欲したが、公は聞き入れなかった。この年、武公は卒去し、寤生が立ち、これが荘公である。
鄭の荘公
荘公元年、弟の段を京に封じて太叔と号した。祭仲が言うには、「京は国都より大きく、庶子を封ずるに適さない」と。荘公は言う、「武姜がそれを望むので、私は奪うことができない」と。段は京に至り、甲兵を繕い治め、その母武姜と謀って鄭を襲おうとした。二十二年、段は果たして鄭を襲い、武姜が内応となった。荘公は兵を発して段を伐ち、段は逃走した。京を伐つと、京の人々は段に背き、段は出奔して鄢に走った。鄢は潰え、段は出奔して共に奔った。ここにおいて荘公はその母武姜を城潁に遷し、誓って言うには、「黄泉に至らざれば、相見えざるべし」と。歳余を居て、すでに悔いて母を思った。潁谷の考叔が公に献上するものがあり、公は食を賜うた。考叔は言う、「臣には母がおります。どうか君の賜うた食を臣の母に賜わりますように」と。荘公は言う、「私は甚だ母を思うが、盟に背くことを憎む。どうしたものか」と。考叔は言う、「地を穿って黄泉に至れば、すなわち相見えるでしょう」と。ここにおいて遂にそれに従い、母と会った。
二十四年、宋の繆公が卒し、公子馮が鄭に奔った。鄭は周の地を侵し、禾を取った。二十五年、衞の州吁がその君桓公を弑して自立し、宋とともに鄭を伐った。馮の故である。二十七年、初めて周の桓王に朝した。桓王はその禾を取ったことを怒り、礼をしなかった。二十九年、荘公は周が礼をしなかったことを怒り、魯と祊・許田を交換した。三十三年、宋は孔父を殺した。三十七年、荘公は周に朝せず、周の桓王は陳・蔡・虢・衞を率いて鄭を伐った。荘公は祭仲・髙渠彌とともに兵を発して自らを救い、王の師は大敗した。祝聸が王の臂を射て中てた。祝聸は従って追撃しようと請うたが、鄭伯はこれを止めて言うには、「長を犯すことすら難しいのに、況んや敢えて天子を陵ぐことなどできようか」と。そこで止めた。夜、祭仲に命じて王の疾を問わせた。
三十八年、北戎が斉を伐った。斉は使いをやって救いを求め、鄭は太子忽に兵を将いて斉を救わせた。斉の釐公は彼に妻を娶らせようとしたが、忽は謝して言うには、「我が国は小国であり、斉の敵ではありません」と。時に祭仲がともにいて、娶るよう勧めて言うには、「君には内寵が多く、太子に大いなる援けがなければ立たないでしょう。三公子はいずれも君となるべき方です」と。いわゆる三公子とは、太子忽、その弟の突、次いで弟子亹である。
四十三年、鄭の荘公が卒した。初め、祭仲は甚だ荘公に寵愛され、荘公は彼を卿とした。公は彼に鄧の女を娶らせ、太子忽を生んだ。故に祭仲は彼を立てた。これが昭公である。
荘公はまた宋の雍氏の娘を娶り、厲公突を生んだ。雍氏は宋で寵愛を受けていた。宋の荘公は祭仲が忽を立てたと聞くと、人をやって祭仲を誘い出して捕らえ、言った。「突を立てなければ、死ぬことになる。」また突を捕らえて賂を求めた。祭仲は宋に許諾し、宋と盟を結んだ。突を連れて帰り、彼を立てた。昭公忽は祭仲が宋の要求で弟の突を立てたと聞き、九月丁亥、忽は出奔して衛に逃れた。己亥、突が鄭に到着し、立てられ、これが厲公である。
鄭厲公
厲公四年、祭仲が国政を専断した。厲公はこれを憂い、密かにその婿の雍糾に祭仲を殺させようとした。糾の妻は祭仲の娘であり、これを知り、その母に言った。「父と夫とどちらが親しいか。」母は言った。「父は一人だけだが、夫は誰でもなれるものだ。」娘はそこで祭仲に告げ、祭仲は逆に雍糾を殺し、市でこれを戮した。厲公は祭仲をどうすることもできず、糾を怒って言った。「謀りごとを婦人に及ぼすとは、死ぬのは当然だ。」夏、厲公は出奔して辺境の邑である櫟に居を定めた。祭仲は昭公忽を迎え、六月乙亥、再び鄭に入り、即位した。
秋、鄭の厲公突は櫟の人々を頼りにその大夫単伯を殺し、ついにそこに居を定めた。諸侯は厲公が出奔したと聞き、鄭を伐ったが、勝てずに去った。宋は厲公にかなりの兵を与え、自ら櫟を守らせたので、鄭もこのため櫟を伐たなかった。
鄭昭公
昭公二年、昭公が太子であった時、父の莊公は高渠彌を卿にしようとしたが、太子の忽はこれを憎み、莊公は聞き入れず、ついに渠彌を卿に用いた。昭公が即位すると、渠彌は昭公が自分を殺すことを恐れ、冬十月辛卯、渠彌は昭公と狩猟に出て、野で昭公を射殺した。祭仲と渠彌は厲公を迎え入れることを敢えず、かわりに昭公の弟の子亹を立てて君とした。これが子亹である。諡号はない。
子亹元年七月、齊の襄公が諸侯を首止で会合させた。鄭の子亹はこれに赴き、高渠彌が補佐として従った。祭仲は病気と称して行かなかった。その理由は、子亹は齊の襄公が公子であった時、かつて争いを起こし、互いに仇敵となっていたからである。諸侯の会合に際し、祭仲は子亹に行かないよう請うた。子亹は言った、「齊は強く、厲公は櫟にいる。もし行かなければ、齊は諸侯を率いて我を伐ち、厲公を国内に迎え入れようとするだろう。私は行くに如かず。行ったとしても、どうして必ず辱められようか。また、どうしてそこまでなることがあろうか」と。ついに行った。そこで祭仲は齊が彼らをともに殺すことを恐れ、病気と称したのである。子亹が到着すると、齊侯に謝罪しなかったので、齊侯は怒り、甲兵を伏せて子亹を殺した。高渠彌は逃れて帰国し、帰ると祭仲と謀り、子亹の弟の公子嬰を陳から召し出して立てた。これが鄭子である。この年、齊の襄公は彭生を使わし、酔わせて魯の桓公を拉殺させた。
鄭子八年、齊の管至父らが乱を起こし、その君襄公を弑した。十二年、宋の長萬がその君湣公を弑した。鄭の祭仲が死んだ。
十四年、かつて鄭を出奔した厲公の突が櫟にいたが、人を遣わして鄭の大夫甫假を誘い出し脅迫し、入国させることを条件とした。假は言った、「私を放免してください。私が君のために鄭子を殺し、君を迎え入れましょう」と。厲公は彼と盟約を結び、そこで彼を放免した。六月甲子、假は鄭子とその二人の子を殺し、厲公の突を迎えた。突は櫟から再び入国して即位した。初め、内蛇と外蛇が鄭の南門の中で争い、内蛇が死んだ。それから六年後、厲公は果たして再び入国した。入国すると、その伯父の原を責めて言った、「私は国外に亡命していたのに、伯父は私を迎え入れる意思がなかった。あまりにもひどい」と。原は言った、「君に仕えて二心を持たぬことが、人臣の職分です。原は罪を知りました」と。そこで自殺した。厲公はそこで甫假に言った、「あなたは君に仕えて二心を持っていた」と。そこで彼を誅した。假は言った、「重い恩徳は報いられぬ。まことにその通りだ」と。
厲公の突の後元年、齊の桓公が初めて覇を唱えた。
五年、燕・衛と周の恵王の弟穨が王を伐ち、王は温に出奔し、弟穨を立てて王とした。六年、恵王は鄭に急を告げ、厲公は兵を発して周の王子穨を撃つが、勝たず、ここにおいて周の恵王とともに帰り、王は櫟に居した。七年の春、鄭の厲公と虢叔が王子穨を襲って殺し、恵王を周に入れた。
鄭文公
秋、厲公卒し、子の文公踕立つ。厲公は初めに立つこと四歳、亡れて櫟に居し、櫟に居すること十七歳、復た入り、立つこと七歳、亡れることと合わせて凡そ二十八年。
二十四年、文公の賤妾に燕姞という者がおり、天が蘭を与える夢を見て、言うには、「我は伯鯈である。我は汝の祖なり。これをもって汝の子とせよ、蘭には国香あり」と。夢を文公に告げると、文公は彼女を寵幸し、草蘭を与えて符とした。ここにおいて子を生み、名を蘭と曰う。
三十六年、晋の公子重耳が過ぎるが、文公は礼をしなかった。文公の弟叔詹が言うには、「重耳は賢く、かつまた同姓なり、困窮して君を過ぐるに、礼なかるべからず」と。文公は言う、「諸侯の亡公子にして過ぐる者は多し、安んぞ能く尽く礼せんや」と。詹は言う、「君もし礼せざれば、すなわちこれを殺せ。殺さざれば、すなわち国に反らしめよ、鄭の憂いとならん」と。文公は聴かなかった。
三十七年の春、晋の公子重耳が国に帰り、即位した。これが文公である。秋、鄭が滑に入り、滑は命を聴いたが、やがて衛に味方したので、ここにおいて鄭は滑を伐った。周の襄王は伯服をして滑を請わせた。鄭の文公は、恵王が櫟に亡命していた時に、文公の父厲公が恵王を入れたのに、恵王が厲公に爵禄を賜わなかったことを怨み、また襄王が衛や滑に味方したことを怨んだので、襄王の請を聴かず、伯服を囚えた。王は怒り、翟人とともに鄭を伐ったが、勝たなかった。冬、翟が襄王を攻め伐ち、襄王は出奔して鄭に逃れた。鄭の文公は王を氾に住まわせた。三十八年、晋の文公が襄王を成周に入れた。
四十一年、楚を助けて晋を撃った。晋の文公が(かつて鄭を)過ぎた時に無礼であったので、晋に背いて楚を助けたのである。四十三年、晋の文公と秦の穆公がともに鄭を囲み、その楚を助けて晋を攻めた者を討ち、また文公が(鄭を)過ぎた時の無礼のためでもあった。初め、鄭の文公には三人の夫人があり、寵愛する子が五人いたが、皆罪によって早く死んだ。公は怒り、群公子をことごとく追い払った。子蘭は晋に奔り、晋の文公に従って鄭を囲んだ。当時、蘭は晋の文公に仕えて甚だ謹んでおり、文公に愛幸されたので、ひそかに晋に通じ、鄭に入って太子となることを求めた。晋はここにおいて叔詹を得て殺そうとした。鄭の文公は恐れ、叔詹に言うことができなかった。詹はこれを聞き、鄭君に言うには、「臣が君に申し上げたのに、君は臣の言を聴かれず、晋がついに患いとなりました。しかし晋が鄭を囲むのは、詹のためです。詹が死んで鄭国が赦されるならば、詹の願いです」と。そこで自殺した。鄭人は詹の屍を晋に与えた。晋の文公は言った、「必ず一度鄭君に会い、辱めてから去ろう」と。鄭人はこれを憂い、そこで人をやってひそかに秦に言わせた、「鄭を破れば晋を益すことになり、秦の利益ではありません」と。秦の兵は引き上げた。晋の文公は蘭を入れて太子とさせようとし、鄭に告げた。鄭の大夫石癸が言うには、「私は聞く、姞姓は后稷の元妃であり、その後に必ず興る者があると。子蘭の母は、その後裔です。また夫人の子はすでにみな死に、残る庶子で蘭ほど賢い者はありません。今、囲みが急であり、晋がこれを請うているのですから、これより大きな利益があろうか」と。そこで晋に許諾し、盟を結び、ついに子蘭を立てて太子とした。晋の兵はここにおいて引き上げて去った。
四十五年、文公が卒し、子の蘭が立った。これが繆公である。
鄭の繆公
繆公元年の春、秦の繆公が三将に兵を将いて鄭を襲おうとさせ、滑に至った時、鄭の商人弦高が十二頭の牛で軍を労うと偽ったので、秦の兵は至らずに帰ったが、晋が崤でこれを破った。初め、往年鄭の文公が卒した時、鄭の司城繒賀が鄭の内情を売ったので、秦の兵が来たのである。三年、鄭は兵を発して晋に従い秦を伐ち、汪で秦の兵を破った。
往年、楚の太子商臣がその父成王を弑して代わりに立った。二十一年、宋の華元とともに鄭を伐った。華元は羊を殺して士卒に食わせたが、その御者羊斟に与えなかったので、羊斟は怒って鄭に馳せ入り、鄭は華元を囚えた。宋は華元を贖い、元もまた亡去した。晋は趙穿を使わして兵をもって鄭を伐った。
鄭の霊公
霊公元年の春、楚が霊公に黿を献じた。子家と子公が霊公に朝せんとすると、子公の食指が動いた。子家に謂って曰く、「他日、指が動けば、必ず異物を食す」と。入りて、霊公が黿羹を進めるのを見るや、子公は笑って曰く、「果たして然り」と。霊公、その笑う故を問うと、具に霊公に告げた。霊公は之を召したが、独り羹を与えなかった。子公は怒り、その指を染めて、之を嘗めて出た。公は怒り、子公を殺さんとした。子公は子家と謀りて先んじた。夏、霊公を弑した。鄭人は霊公の弟去疾を立てんとしたが、去疾は譲って曰く、「必ず賢を以てするならば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てするならば、則ち公子堅は長なり」と。堅は、霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。ここにおいて乃ち子堅を立てた。是を襄公と為す。
鄭の襄公
襄公が立つと、尽く繆氏を去らんとした。繆氏とは、霊公を殺した子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去るならば、我は将に之を去らん」と。乃ち止めた。皆を以て大夫と為した。
襄公元年、楚は鄭が宋の賂を受け華元を放ったことに怒り、鄭を伐つ。鄭は楚に背き、晋と親しむ。五年、楚また鄭を伐ち、晋来たりてこれを救う。六年、子家卒す。国人またその族を逐う。霊公を弑したるを以てなり。
七年、鄭晋と鄢陵に盟す。八年、楚の荘王、鄭が晋と盟したるを以て、来たりて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒掔羊して迎え、曰く「孤辺邑に事ふること能はずして、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ぼさしむ。孤が罪なり。敢へて命を惟ふに聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜はんとも、亦惟命を聴く。若し君王厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀みて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た得て改めて君王に事へしめば、孤が願ひなり。然れども敢へて望む所に非ず。敢へて腹心を布く。惟命を聴く」と。荘王却ること三十里にして後に舎す。楚の群臣曰く「郢より此に至るまで、士大夫亦久しく労せり。今国を得て之を舎つ、如何」と。荘王曰く「伐つ所為は、服せざるを伐つなり。今已に服せり。尚何をか求めん」と。卒に去る。晋楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来たり両端を持す。故に遅し。比して河に至るに、楚兵已に去る。晋の将率或は渡らんと欲し、或は還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反って楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来たりて鄭を伐つ。其の晋に反りて楚に親しむを以てなり。
十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋晋に告急す。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君に諫めて曰く「天方に楚を開く。未だ伐つべからず」と。乃ち壮士を求めて霍人の解揚、字は子虎を得、楚を誆ひ、宋をして降る毋からしむ。鄭を過ぐ。鄭楚と親しむ。乃ち解揚を執へて楚に献ず。楚王厚く賜ひて約し、其の言を反らしめ、宋をして趣て降らしめんとす。三たび要して乃ち許す。是に於て楚解揚を楼車に登らしめ、呼ばしめて宋に告げしむ。遂に楚の約に負ひて其の晋君の命を致して曰く「晋方に国兵を悉くして以て宋を救はんとす。宋急なりと雖も、愼んで楚に降る毋かれ。晋兵今至らん」と。楚の荘王大いに怒り、将に之を殺さんとす。解揚曰く「君能く命を制するを義と為し、臣能く命を承くるを信と為す。吾が君の命を受けて出づ。死有りて隕つること無し」と。荘王曰く「若の我に許す所、已にして之に背く。其の信安くにか在る」と。解揚曰く「王に許す所以は、吾が君の命を成さんと欲するなり」と。将に死せんとし、顧みて楚軍に謂ひて曰く「人臣たる者は忠を尽くして死を得るを忘るる無かれ」と。楚王の諸弟皆王に諫めて之を赦さしむ。是に於て解揚を赦して帰らしむ。晋之を爵して上卿と為す。
十八年、襄公卒す。子の悼公沸立つ。
鄭の悼公
悼公元年、鄦公が楚において鄭を悪しざまに言うと、悼公は弟の睔を楚に遣わして自ら訴えた。訴えは理に合わず、楚は睔を囚えた。ここにおいて鄭の悼公は来て晋と和睦し、ついに親しくした。睔は楚の子反に私的に取り入り、子反は睔を鄭に帰すよう言った。
二年、楚が鄭を伐つと、晋の兵が来て救った。この年、悼公が卒し、その弟の睔を立てた。これが成公である。
鄭の成公
成公三年、楚の共王が「鄭の成公は孤に徳がある」と言い、人を遣わして来て盟を結んだ。成公は密かにこれと盟を結んだ。秋、成公が晋に朝すると、晋は「鄭が密かに楚と和睦した」と言い、これを執った。欒書をして鄭を伐たせた。四年の春、鄭は晋の包囲を憂い、公子如はついに成公の庶兄の繻を立てて君とした。その四月、晋は鄭が君を立てたと聞き、ついに成公を帰した。鄭の人々は成公の帰還を聞き、また君の繻を殺し、成公を迎えた。晋の兵は去った。
十年、晋との盟に背き、楚と盟を結んだ。晋の厲公は怒り、兵を発して鄭を伐った。楚の共王が鄭を救った。晋と楚は鄢陵で戦い、楚の兵は敗れ、晋は楚の共王の目を射て傷つけ、ともに引き上げて去った。十三年、晋の悼公が鄭を伐ち、兵を洧上に置いた。鄭は城を守り、晋もまた去った。
十四年、成公が卒し、子の惲が立つ。これが釐公である。
鄭釐公
釐公五年、鄭の相たる子駟が釐公に朝したが、釐公は礼を以て遇さなかった。子駟は怒り、厨人に命じて薬を以て釐公を殺させ、諸侯に赴告して「釐公が急病で卒した」と告げた。釐公の子の嘉を立てた。嘉は時に五歳、これが簡公である。
鄭簡公
簡公元年、諸公子が謀りて相たる子駟を誅さんと欲したが、子駟はこれを覚り、反って諸公子をことごとく誅した。二年、晋が鄭を伐ち、鄭はこれと盟し、晋は去った。冬、また楚と盟した。子駟は誅されることを畏れ、故に両方に親しんで晋・楚に従った。三年、相たる子駟は自ら立って君たらんと欲した。公子の子孔が尉止に命じて相たる子駟を殺させ、これに代わった。子孔もまた自ら立たんと欲した。子産が言うには、「子駟が為すべからざることを為した故に誅したのである。今またこれを倣うのは、これ乱が時を以て息むこと無きなり」と。ここにおいて子孔はこれに従い、鄭簡公の相となった。
四年、晋は鄭が楚と盟したことを怒り、鄭を伐ち、鄭はこれと盟した。楚の共王は鄭を救い、晋の兵を破った。簡公は晋と和睦しようとしたが、楚はまた鄭の使者を囚えた。
十二年、簡公は相の子孔が国権を専らにすることを怒り、これを誅し、子産を以て卿とした。十九年、簡公は晋に赴き衛君の帰還を請い、子産に六邑を封じた。子産は辞譲し、その三邑を受けた。二十二年、呉は延陵季子を鄭に使いさせ、子産に会って旧交の如くし、子産に謂って曰く、「鄭の執政者は奢侈であり、難が将に至らんとし、政は将に子に及ぼう。子が政を為すには、必ず礼を以てすべし。然らずんば、鄭は将に敗れん」と。子産は季子を厚く遇した。二十三年、諸公子は寵を争い相殺し、また子産を殺さんとした。公子の或る者諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以は子産なり。殺すなかれ」と。乃ち止めた。
二十五年、鄭は子産を晋に使いさせ、平公の疾を問うた。平公曰く、「卜して曰く実沈・臺駘が祟り為すと。史官知る者なし。敢えて問う」と。対えて曰く、「高辛氏に二子あり。長を閼伯と曰い、季を実沈と曰う。曠林に居り、相能わず、日に干戈を操りて以て相征伐す。后帝はこれを善しとせず、閼伯を商丘に遷し、辰を主とす。商人は是に因る。故に辰は商星と為す。実沈を大夏に遷し、参を主とす。唐人は是に因り、夏・商に服事す。その季世を唐叔虞と曰う。武王の時に当たり、邑姜が方に大叔を娠やし、帝が夢に己に謂う、『余、而が子を命じて虞と為し、乃ちこれに唐を与え、参に属してその子孫を蕃育せしむ』と。及び生まるるに、その掌に文ありて『虞』と曰う。遂に以てこれを命ず。及び成王、唐を滅ぼして大叔をここに国す。故に参は晋星と為す。是よりこれを観れば、則ち実沈は参の神なり。昔、金天氏に裔子ありて昧と曰い、玄冥の師と為り、允格・臺駘を生む。臺駘よくその官を業とし、汾・洮を宣べ、大沢を障り、以て太原に処る。帝用てこれを嘉し、これに汾川を国す。沈・姒・蓐・黄は実にその祀を守る。今、晋は汾川を主としてこれを滅ぼす。是よりこれを観れば、則ち臺駘は汾・洮の神なり。然れども是の二者は君の身を害せず。山川の神は、則ち水旱の災に禜す。日月星辰の神は、則ち雪霜風雨の時にあらざるに禜す。若し君の疾は、飲食哀楽女色の生ずる所なり」と。平公及び叔向曰く、「善いかな、博物の君子なり」と。子産に厚く礼を為した。
二十七年夏、鄭の簡公は晋に朝した。冬、楚の霊王の強きを畏れ、また楚に朝し、子産これに従う。二十八年、鄭君病み、子産を使わして諸侯と会せしめ、楚の霊王と申に盟し、斉の慶封を誅した。
三十六年、簡公卒す。子の定公寧立つ。秋、定公は晋の昭公に朝した。
鄭の定公
定公元年、楚の公子棄疾がその君霊王を弑して自ら立ち、平王となった。諸侯に徳を行わんと欲し、霊王の侵した鄭の地を鄭に帰した。
四年、晉の昭公が卒し、その六卿強く、公室卑し。子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てすべし、立つ所以を忘るるなかれ」と。六年、鄭に火あり、公、之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。
八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晉と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺し、建の子勝、呉に奔る。
十一年、定公、晉に如く。晉、鄭と謀り、周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。
十三年、定公卒去し、子の獻公蠆立つ。
鄭獻公
獻公十三年卒去し、子の聲公勝立つ。是の時に當たり、晉の六卿強く、鄭を侵奪し、鄭遂に弱し。
鄭聲公
聲公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡くすが如し。子産は、鄭の成公の少子なり。人に爲りて仁愛人を愛し、君に事へて忠厚なり。孔子嘗て鄭を過ぎ、子産と兄弟の如くすと云ふ。子産の死を聞くに及んで、孔子爲に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。
八年、晋の范氏・中行氏が晋に叛き、鄭に急を告げたので、鄭はこれを救った。晋が鄭を伐ち、鉄において鄭軍を破った。
十四年、宋の景公が曹を滅ぼした。二十年、斉の田常がその君簡公を弑し、常は斉において相となった。二十二年、楚の恵王が陳を滅ぼした。孔子卒す。
三十六年、晋の知伯が鄭を伐ち、九邑を取った。
三十七年、声公卒し、子の哀公易立つ。
鄭哀公
哀公八年、鄭の人哀公を弑して声公の弟丑を立て、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭の人幽公の弟駘を立て、是を繻公と為す。
鄭繻公
繻公十五年、韓景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京を城す。
十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍にて敗る。二十年、韓・趙・魏列ねて諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。
二十五年、鄭の君其の相子陽を殺す。二十七年、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為し、是を鄭君と為す。鄭君乙立つこと二年、鄭の負黍反し、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。
二十一年、韓の哀侯が鄭を滅ぼし、その国を併合した。
太史公曰く
太史公曰く、語に之れ有り、「権利を以て合する者は、権利尽きて而して交わり疎し」と、甫瑕是れなり。甫瑕は鄭子を劫殺して厲公を内れたるも、厲公終に背きて之を殺せり、此れ晋の裏克と何ぞ異ならん。節を守ること荀息の如きも、身死して能く奚齊を存せず。変の従来する所、亦多故有り。
索隠述賛
厲王の子、封を鄭に得たり。職を代わり司徒たり、緇衣詠に在り。虢・鄶邑を献じ、祭祝命を専にす。莊既に王を犯し、厲亦命に奔る。櫟に居りて克く入り、蘭を夢みて慶を毓つ。伯服生囚せられ、叔瞻屍聘す。釐・簡の後、公室競わず。負黍還るも、韓哀日に盛ん。