楚の先祖は帝顓頊(高陽)より出づ。高陽は黄帝の孫、昌意の子なり。高陽は稱を生み、稱は巻章を生み、巻章は重黎を生む。重黎は帝嚳(高辛)に仕へて火正(火官)の職に居り、大いに功有り、能く天下を光融す。帝嚳は命じて祝融と曰ふ。共工氏乱を作す。帝嚳は重黎をして之を誅せしむるも、尽さず。帝乃ち庚寅の日に重黎を誅し、其の弟呉回を以て重黎の後と為し、復た火正に居らしめ、祝融と為す。
呉回は陸終を生む。陸終は子六人を生む。坼剖して産まれたり。其の長一は昆吾、二は參胡、三は彭祖、四は會人、五は曹姓、六は季連、羋姓、楚は其の後なり。昆吾氏は夏の時に嘗て侯伯と為り、桀の時に湯之を滅ぼす。彭祖氏は殷の時に嘗て侯伯と為り、殷の末世に彭祖氏を滅ぼす。季連は附沮を生み、附沮は穴熊を生む。其の後中微(中ごろ衰微)し、或は中国に在り、或は蠻夷に在り、其の世を紀す能はず。
周の文王の時、季連の苗裔(末裔)を鬻熊と曰ふ。鬻熊は子の如く文王に事へ、蚤く卒す。其の子曰く熊麗。熊麗は熊狂を生み、熊狂は熊繹を生む。熊繹は周の成王の時に当たり、文王・武王の勤労の後嗣を挙げ、熊繹を楚蠻に封じ、子男の田を以て封じ、羋氏を姓とし、丹陽に居らしむ。楚子熊繹は魯公伯禽・衞康叔の子牟・晉侯燮・齊太公の子呂伋と倶に成王に事ふ。
熊繹は熊艾を生み、熊艾は熊亶を生み、熊亶は熊勝を生む。熊勝は弟の熊楊を以て後と為す。熊楊は熊渠を生む。
熊渠が子を生んで三年の時、周の夷王の代にあたり、王室は衰微し、諸侯の中には朝せず、互いに攻伐する者もあった。熊渠は江漢の間の民の和を大いに得て、兵を興して庸・楊蠆を伐ち、鄂に至った。熊渠は言う、「我は蛮夷なり、中国の号諡に与からず」と。そこで長子の康を句亶王とし、中子の紅を鄂王とし、少子の執疵を越章王と立てた。皆、江上の楚蛮の地にあった。周の厲王の代に至り、暴虐であったので、熊渠は楚を伐たれることを畏れ、王号をも去った。
その後、熊毋康となったが、毋康は早く死んだ。熊渠が卒すると、子の熊摯紅が立った。摯紅が卒すると、その弟が弑して代わりに立ち、熊延と称した。熊延は熊勇を生んだ。
熊勇
熊勇の六年、周人が乱を起こし、厲王を攻めたので、厲王は彘に出奔した。熊勇の十年、卒し、弟の熊嚴が後を継いだ。
熊嚴
熊嚴の十年、卒す。子四人あり、長子は伯霜、中子は仲雪、次子は叔堪、少子は季徇。熊嚴卒し、長子伯霜代はりて立つ、是を熊霜と爲す。
熊霜
熊霜元年、周の宣王初めて立つ。熊霜六年、卒す、三弟爭ひて立つ。仲雪死す。叔堪は亡び、濮に避難す。而して少弟季徇立つ、是を熊徇と爲す。熊徇十六年、鄭の桓公初めて鄭に封ぜらる。二十二年、熊徇卒す、子熊咢立つ。熊咢九年、卒す、子熊儀立つ、是を若敖と爲す。
楚の若敖
若敖二十年、周の幽王犬戎に爲に弑せられ、周東に徙り、而して秦の襄公始めて諸侯に列せらる。二十七年、若敖卒す、子熊坎立つ、是を霄敖と爲す。
楚の霄敖
霄敖六年、卒す。子の熊眴立つ。是を蚡冒と爲す。
楚の蚡冒
蚡冒十三年、晉始めて亂る。曲沃の故を以てなり。蚡冒十七年、卒す。蚡冒の弟熊通、蚡冒の子を弑して代はりて立つ。是を楚武王と爲す。
楚武王
武王十七年、晉の曲沃の莊伯が主國たる晉の孝侯を弑す。十九年、鄭伯の弟段亂を爲す。二十一年、鄭、天子の田を侵す。二十三年、衞其の君桓公を弑す。二十九年、魯其の君隱公を弑す。三十一年、宋の太宰華督其の君殤公を弑す。三十五年、楚、隨を伐つ。隨曰く、「我罪無し」と。楚曰く、「我蠻夷なり。今諸侯皆叛を爲して相侵し、或ひは相殺す。我敝甲有り、以て中國の政を觀んと欲し、王室に請ひて吾が號を尊ばしめん」と。隨人、之が爲に周に至り、楚を尊ばんことを請ふ。王室聽かず、還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終る。成王、吾が先公を舉ぐ。乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蠻夷皆率ひて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊ばんのみ」と。乃ち自ら立つて武王と爲り、隨人と盟して去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周、隨侯を召し、楚を立てて王と爲したるを數ふ。楚怒り、隨が己に背けるを以て、隨を伐つ。武王師中に卒し、兵罷む。子の文王熊貲立つ。始めて郢に都す。
楚の文王
文王二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王は取り易し」と。鄧侯許さず。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜へて歸る。已にして之を釋つ。楚彊く、江漢の閒の小國を陵ぐ。小國皆之を畏る。十一年、齊の桓公始めて霸たり。楚亦始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて之を滅ぼす。十三年、卒す。子の熊艱立つ。是を莊敖と爲す。
楚の莊敖
莊敖五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲、隨に奔る。隨と與に襲ひて莊敖を弑し、代はりて立つ。是を成王と爲す。
楚の成王
成王惲元年、初めて即位し、徳を布き恵を施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜い、曰く「爾の南方夷越の乱を鎮め、中国を侵すことなかれ」と。ここにおいて楚の地千里。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完に兵を以て之を御せしめ、桓公と盟す。桓公数たび周の賦の王室に入らざるを以て責む。楚之を許し、乃ち去る。十八年、成王兵を以て北に許を伐つ。許の君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。楚王怒りて曰く「我を召す、我将に好往して之を襲い辱めん」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執り辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南に楚に朝す。楚の成王北に宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷す。襄公遂に病創して死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯客の礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請い以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将いて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざる故なり。
夏、宋を伐つ。宋晋に告急す。晋宋を救う。成王罷めて帰る。将軍子玉戦を請う。成王曰く「重耳亡して外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所、当たるべからず」と。子玉固く請う。乃ち之に少師を与えて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。
四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとす。令尹子上に語る。子上曰く「君の歯未だならず、而して又内寵多し。絀くは乃ち乱なり。楚国の挙は常に少者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声、忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後又子職を立てて太子商臣を絀かんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず、其の傅潘崇に告げて曰く「何を以てか其の実を得ん」と。崇曰く「王の寵姫江羋を饗して敬せざれ」と。商臣之に従う。江羋怒りて曰く「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲する」と。商臣潘崇に告げて曰く「信なり」と。崇曰く「能く之に事えんか」と。曰く「能わず」と。「能く亡去せんか」と。曰く「能わず」と。「能く大事を行わんか」と。曰く「能し」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食わんことを請いて死せんとす。聴かず。丁未、成王自ら絞殺さる。商臣代わりて立ち、是を穆王と為す。
楚の穆王
穆王が立つと、その太子の宮室を潘崇に与え、太師と為して国事を掌らしめた。穆王三年、江を滅ぼす。四年、六と蓼を滅ぼす。六と蓼は、皋陶の後裔である。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の莊王侶が立つ。
楚の莊王
莊王が即位して三年、号令を出さず、日夜楽しみを為し、国中に令して曰く、「敢えて諫める者有らば死して赦さず」と。伍挙が入って諫める。莊王は左に鄭の姫を抱き、右に越の女を抱き、鐘鼓の間に坐す。伍挙曰く、「願わくは進みて隠語を申さん」と。曰く、「鳥有りて阜に在り、三年飛ばず鳴かず、是れ何の鳥ぞや」と。莊王曰く、「三年飛ばざれば、飛べば天を衝かん。三年鳴かざれば、鳴けば人を驚かさん。挙は退け、吾れ之を知れり」と。数ヶ月居て、淫楽ますます甚だし。大夫の蘇從乃ち入って諫む。王曰く、「若は令を聞かざるか」と。対えて曰く、「身を殺して以て君を明らかにせんは、臣の願いなり」と。ここに於いて乃ち淫楽を罷め、政を聴き、誅する者数百人、進める者数百人、伍挙・蘇從を以て政に任じ、国人大いに説ぶ。是の歳、庸を滅ぼす。六年、宋を伐ち、五百乗を獲る。
八年、陸渾の戎を伐ち、遂に洛に至り、兵を周の郊に観る。周の定王、王孫満を使わして楚王を労わる。楚王、鼎の小大軽重を問う。対えて曰く、「徳に在りて鼎に在らず」と。莊王曰く、「子、九鼎を阻むること無かれ。楚国、鉤の喙を折りて以て、以て九鼎を為すに足る」と。王孫満曰く、「嗚呼、君王其れ之を忘れたるか。昔、虞夏の盛んなりし時、遠方皆至り、金を九牧に貢ぎ、鼎を鋳て物を象り、百物之が為に備わり、民をして神姦を知らしむ。桀に乱徳有りて、鼎は殷に遷る。載祀六百。殷の紂暴虐にして、鼎は周に遷る。徳の休明なれば、小と雖も必ず重し。其の姦回昏乱なれば、大と雖も必ず軽し。昔、成王、鼎を郟鄏に定め、世を卜すること三十、年を卜すること七百、天の命ずる所なり。周の徳は衰うと雖も、天命は未だ改まらず。鼎の軽重は、未だ問うべからず」と。楚王乃ち帰る。
九年、若敖氏を相とす。人或いは之を王に讒え、誅せられるを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。
十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒は其の君を弑したる故に、之を誅すなり。既に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す、申叔時斉に使いして来たり、賀せず。王問う、対えて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田に径る、田主其の牛を取る。径る者は則ち直からず、之を取る牛亦た甚だしからずや。且つ王は陳の乱を以て諸侯を率いて之を伐ち、義を以て之を伐ちて其の県を貪る、亦た何を以て復た天下に令せんや」と。荘王乃ち陳の後を復国せしむ。
十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之を克つ。皇門より入る、鄭伯肉袒して羊を牽きて以て逆え、曰く、「孤天に不つ、能く君に事へず、君用て怒を懐き、以て敝邑に及ぶ、孤の罪なり。敢へて命を惟るに聴かざらんや。賓を南海に之かしめ、若し臣妾を以て諸侯に賜はば、亦た惟だ命を聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶えずして、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり、敢て望む所に非ず。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許す勿れ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る、必ず能く其の民を信用す、庸ぞ絶つ可けんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾ひ、兵を引いて三十里去りて舎り、遂に之に平を許す。潘尪盟に入り、子良質に出づ。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ひ、大いに晋師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。
二十年、宋を囲む、楚の使を殺したるを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食ひ、骨を析きて炊く。宋の華元出でて情を告ぐ。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒す、子の共王審立つ。
楚の共王
共王十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ、共王鄭を救ふ。晋兵と鄢陵に戦ひ、晋楚に敗れ、共王の目に中る。共王将軍の子反を召す。子反酒を嗜み、従者の豎陽穀酒を進めて酔はす。王怒り、子反を射殺し、遂に兵を罷めて帰る。
三十一年、共王卒去し、子の康王招が立つ。
楚の康王
康王立つこと十五年にして卒し、子の員が立ち、是を郟敖と為す。
楚の郟敖
康王は弟の公子圍・子比・子皙・棄疾を寵愛す。郟敖三年、其の季父(末の叔父)たる康王の弟公子圍を以て令尹と為し、兵事を主どらしむ。四年、圍は鄭に使いし、道中に王の疾を聞きて還る。十二月己酉、圍入りて王の疾を問い、絞めて之を弑し、遂に其の子莫及び平夏を殺す。使いをして鄭に赴かしむ。伍挙問うて曰く、「誰か後と為さん」と。対えて曰く、「寡大夫圍なり」と。伍挙更めて曰く、「共王の子圍長たるなり」と。子比は晋に奔り、而して圍立ち、是を霊王と為す。
楚の霊王
霊王三年六月、楚は使者を遣わして晋に告げ、諸侯と会合せんと欲す。諸侯は皆楚に会して申に至る。伍挙曰く、「昔、夏の啓に鈞臺の饗あり、商の湯に景亳の命あり、周の武王に盟津の誓あり、成王に岐陽の閒あり、康王に豊宮の朝あり、穆王に塗山の会あり、斉の桓に召陵の師あり、晋の文に践土の盟あり。君は其れ何を用いんとするか」と。霊王曰く、「桓公を用いん」と。時に鄭の子産在り。ここにおいて晋・宋・魯・衛は往かず。霊王既に盟し、驕色有り。伍挙曰く、「桀は有仍の会を為し、有緡之に叛く。紂は黎山の会を為し、東夷之に叛く。幽王は太室の盟を為し、戎・翟之に叛く。君其れ終わりを慎め」と。
七月、楚は諸侯の兵を以て呉を伐ち、朱方を囲む。八月、之を克ち、慶封を囚え、其の族を滅ぼす。封を以て徇し曰く、「斉の慶封が其の君を弑し其の孤を弱くし、以て諸大夫と盟するに效ふなかれ」と。封反して曰く、「楚の共王の庶子囲が其の君兄の子員を弑して之に代わり立つに如くは莫し」と。ここにおいて霊王は(棄)疾をして之を殺さしむ。
七年、章華臺に就き、内亡人をして之を実ぜしむるを令す。八年、公子棄疾をして兵を将いて陳を滅ぼさしむ。十年、蔡侯を召し、酔いて之を殺す。棄疾をして蔡を定めしめ、因りて陳蔡公と為す。
十一年、徐を伐ちて以て呉を恐れしむ。霊王は乾豀に次ぎて之を待つ。王曰く、「斉・晋・魯・衛、其の封は皆宝器を受く、我独り不なり。今吾使者を周に使わして鼎を求め以て分と為さんとす、其れ我に予くや」と。析父対えて曰く、「其れ君王に予くべし。昔我が先王熊繹は荊山に辟き、蓽露藍蔞を以て草莽に処り、山林を跋渉して以て天子に事え、唯是の桃弧棘矢を以て王事に共す。斉は王の舅なり。晋及び魯・衛は王の母弟なり。楚は是を以て分無くして彼は皆之を有つ。周は今四国と服事して君王に従わんとし、将に唯命の是れ従わんとす。豈に敢えて鼎を愛せんや」と。霊王曰く、「昔我が皇祖の伯父昆吾は旧許是れ宅せり。今鄭人は其の田を貪り、我に予えず。今我之を求めんとす、其れ我に予くや」と。対えて曰く、「周は鼎を愛せず、鄭安んぞ敢えて田を愛せん」と。霊王曰く、「昔諸侯は我を遠ざけて晋を畏る。今吾大いに陳・蔡・不羹を城し、賦皆千乗なり。諸侯我を畏るや」と。対えて曰く、「畏るる哉」と。霊王喜びて曰く、「析父は古事を善く言う」と。
十二年(紀元前529年)の春、楚の霊王は乾谿に遊楽し、去ることができなかった。国人は苦役に苦しんだ。初め、霊王は申で兵を会合させ、越の大夫常寿過を辱め、蔡の大夫観起を殺した。起の子従は亡命して呉におり、呉王に楚を討つよう勧め、間者として越の大夫常寿過をそそのかして乱を起こさせ、呉の間者となった。公子棄疾の命を偽って公子比を晋から召し出させ、蔡に至り、呉・越の兵とともに蔡を襲おうとした。公子比に棄疾に会わせ、鄧で盟を結ばせた。そこで入って霊王の太子禄を殺し、子比を立てて王とし、公子子皙を令尹とし、棄疾を司馬とした。先に王宮を掃除し、観従は師を率いて乾谿に至り、楚の衆に命じて言った、「国に王がおられる。先に帰る者は、爵位・邑・田宅を回復する。後れる者は移す」。楚の衆は皆潰走し、霊王を去って帰った。
霊王は太子禄の死を聞くと、自ら車下に身を投げて言った、「人の子を愛するのもまたこのようであるか」。侍者は言った、「甚だしいです」。王は言った、「余は人の子を多く殺した、これに及ばないことがあろうか」。右尹は言った、「郊外で待って国人の動向を聞きましょう」。王は言った、「衆怒は犯すべからず」。言った、「また大県に入って諸侯に師を乞いましょう」。王は言った、「皆叛いた」。また言った、「また諸侯に奔って大国の慮りを聞きましょう」。王は言った、「大福は再び来ず、ただ辱めを取るのみ」。ここにおいて王は舟に乗って鄢に入ろうとした。右尹は王が自分の計を用いないと推し量り、ともに死ぬことを恐れ、また王を去って逃亡した。
霊王はここにおいて独り山中を彷徨い、野人は敢えて王に入る者はいなかった。王が行く途中、かつての鋗人(炊事係)に会い、言った、「我のために食を求めよ、我はすでに三日食わない」。鋗人は言った、「新王が法を下し、敢えて王に従う者をかくまう者は、罪三族に及び、また食を得ることもない」。王はその股を枕にして臥した。鋗人はまた土をもって自らに代え、逃げ去った。王が目覚めて見えず、遂に飢えて起き上がれなかった。芋尹申無宇の子申亥は言った、「我が父は二度王命を犯したが、王は誅さず、恩どれほど大なるか」。そこで王を求め、釐沢で飢えた王に会い、奉じて帰った。夏五月癸丑、王は申亥の家で死に、申亥は二人の娘を従えて死に、ともに葬った。
この時、楚はすでに比を立てて王としたが、霊王が再び来ることを恐れ、また霊王の死を聞かないので、観従が初王比に言った、「棄疾を殺さなければ、国を得てもなお禍を受ける」。王は言った、「余は忍びない」。従は言った、「人が王を忍ぶでしょう」。王は聞かず、そこで去った。棄疾が帰った。国人は毎夜驚いて言った、「霊王が入った」。乙卯の夜、棄疾は船人を使わして江上から走り呼ばせて言った、「霊王が至った」。国人はますます驚いた。また曼成然を使わして初王比と令尹子皙に告げさせて言った、「王が至った。国人が君を殺そうとしている、司馬がまさに至ろうとしている。君は早く自ら図れ、辱めを取るな。衆怒は水火の如く、救うべからず」。初王と子皙は遂に自殺した。丙辰、棄疾が即位して王となり、名を熊居と改めた。これが平王である。
楚平王
平王は詐謀をもって二王を弑して自ら立つと、国人及び諸侯の叛くを恐れ、乃ち百姓に恵みを施す。陳・蔡の地を復して其の後を立てること旧の如くし、鄭に侵した地を帰す。国中を存恤し、政教を修む。呉は楚の乱の故により、五率を獲て帰る。平王、観従に謂いて曰く、「恣に爾の欲する所にせよ」と。卜尹たらんことを欲す。王、之を許す。
初め、共王に寵子五人あり、適立する者なく、乃ち群神を望祭し、神に請ひて之を決せしめ、社稷を主たるべからしむ。而して陰に巴姫と璧を室内に埋め、五公子を召して斎して入らしむ。康王は之を跨ぎ、霊王は肘を以て之に加へ、子比・子皙は皆之を遠くす。平王は幼く、其上に抱きて拝し、紐を圧す。故に康王は長を以て立ち、其の子に至りて之を失ふ。囲は霊王となり、身に及びて弑せらる。子比は王と為ること十余日、子皙は立つことを得ず、又倶に誅せらる。四子は皆絶えて後無し。独り棄疾のみ後に立ち、平王と為り、竟に楚の祀を継ぎ、其の神符の如し。
初め、子比の晋より帰るや、韓宣子、叔向に問ひて曰く、「子比其れ済さむか」と。対へて曰く、「就かざらん」と。宣子曰く、「悪を同じくすれば相ひ求め、市賈の如し、何を為して就かざらん」と。対へて曰く、「同じく好む者無くんば、誰か悪を同じくせん。国を取るに五難あり。寵有りて人無きは一なり。人有りて主無きは二なり。主有りて謀無きは三なり。謀有りて民無きは四なり。民有りて徳無きは五なり。子比は晋に在ること十三年、晋・楚の従者通ずるを聞かず、人無しと謂ふべし。族尽き親叛く、主無しと謂ふべし。釁無くして動く、謀無しと謂ふべし。羈たりて終世す、民無しと謂ふべし。亡びて愛徴無し、徳無しと謂ふべし。王虐にして忌憚無く、子比五難を渉りて君を弑せんとす、誰か之を済さむ。楚国を有つ者は、其れ棄疾か。陳・蔡を君とし、方城外は之に属す。苛慝作らず、盗賊伏隠し、私欲違はず、民に怨心無し。先神之を命じ、国民之を信ず。羋姓に乱有らば、必ず季実立ち、楚の常なり。子比の官は則ち右尹なり。其の貴寵を数ふれば則ち庶子なり。神の命ずる所を以てすれば則ち又之を遠くす。民に懐くる者無し、将た何を以てか立たん」と。宣子曰く、「斉桓・晋文も是に非ずや」と。対へて曰く、「斉桓は衛姫の子なり、釐公に寵有り。鮑叔牙・賓須無・隰朋有りて以て輔と為し、莒・衛有りて以て外主と為し、高・国有りて以て内主と為す。善に従ふこと流るるが如く、恵を施すこと倦まず。国を有つ、亦宜ならずや。昔我が文公は、狐季姫の子なり、献公に寵有り。学を好みて倦まず。生まれて十七年、士五人あり、先大夫子餘・子犯有りて以て腹心と為し、魏犫・賈佗有りて以て股肱と為し、斉・宋・秦・楚有りて以て外主と為し、欒・郤・狐・先有りて以て内主と為す。亡ぶこと十九年、志を守ること弥篤し。恵・懷民を棄つ、民従ひて之に与す。故に文公国を有つ、亦宜ならずや。子比は民に施すこと無く、外に援無し。晋を去れば晋送らず、楚に帰れば楚迎へず。何を以てか国を有たん」と。子比果して終はらず、卒に立つ者は棄疾なり、叔向の言の如し。
平王二年、費無忌をして秦に如かしめ、太子建の為に婦を取らしむ。婦好し。来たりて未だ至らず、無忌先づ帰り、平王に説きて曰く、「秦女好し、自ら娶るべし、太子の為に更に求めよ」と。平王之を聴き、卒に自ら秦女を娶り、熊珍を生む。更に太子の為に娶る。是の時、伍奢は太子太傅と為り、無忌は少傅と為る。無忌は太子に寵せられず、常に太子建を讒悪す。建の時年十五、其の母は蔡女なり、王に寵せられず、王稍く益々建を疎外す。
六年、太子建をして城父に居らしめ、辺境を守らしむ。無忌また日夜太子建を王に讒して曰く、「無忌秦女を入れてより、太子怨み、亦王に望みなき能はず、王少しく自ら備へよ。且つ太子城父に居り、兵を擅にし、外交諸侯し、且つ入らんと欲す」と。平王其の傅伍奢を召して之を責む。伍奢無忌の讒するを知り、乃ち曰く、「王何ぞ小臣を以て骨肉を疎んずるや」と。無忌曰く、「今制せざれば、後悔す」と。是に於て王遂に伍奢を囚ふ(而して其の二子を召して以て父の死を免ぜんことを告ぐ)。乃ち司馬奮揚をして太子建を召さしめ、之を誅せんと欲す。太子之を聞き、亡びて宋に奔る。
無忌曰く、「伍奢に二子有り、殺さざれば楚国の患ひと為らん。蓋し其の父を免じて以て之を召せば、必ず至らん」と。是に於て王使をして奢に謂はしめて曰く、「能く二子を致さば則ち生く、能はざれば将に死せん」と。奢曰く、「尚は至らん、胥は至らじ」と。王曰く、「何ぞや」と。奢曰く、「尚の人と為り、廉にして節に死し、慈孝にして仁、召されて父を免ぜらるるを聞けば、必ず至り、其の死を顧みず。胥の人と為り、智にして謀を好み、勇にして功を矜り、来たらば必ず死すと知れば、必ず来たらず。然れども楚国の憂ひと為る者は必ず此の子なり」と。是に於て王人をして之を召さしめて曰く、「来たれ、吾爾が父を免ぜん」と。伍尚伍胥に謂ひて曰く、「父免ぜられて奔らざれば、不孝なり。父戮せられて報ひざれば、謀無きなり。能く事を任ずるを度るは、知なり。子其れ行け、我其れ死に帰らん」と。伍尚遂に帰る。伍胥弓を彎げ矢を属け、出でて使者を見て曰く、「父罪有り、何を以て其の子を召すや」と。将に射んとす、使者還り走り、遂に出でて呉に奔る。伍奢之を聞きて曰く、「胥亡びたり、楚国危うきかな」と。楚人遂に伍奢及び尚を殺す。
十年、楚の太子建の母居巣に在り、呉に開く。呉公子光をして楚を伐たしめ、遂に陳・蔡を敗り、太子建の母を取りて去る。楚恐れ、郢を城す。初め、呉の辺邑卑梁と楚の辺邑鐘離の小童桑を争ひ、両家交り怒り相攻め、卑梁人を滅ぼす。卑梁大夫怒り、邑兵を発して鐘離を攻む。楚王之を聞きて怒り、国兵を発して卑梁を滅ぼす。呉王之を聞きて大いに怒り、亦兵を発し、公子光をして建の母の家に因りて楚を攻めしめ、遂に鐘離・居巣を滅ぼす。楚乃ち恐れて郢を城す。
十三年、平王卒す。将軍子常曰く、「太子珍少く、且つ其の母は乃ち前太子建の娶る所に当るなり」と。令尹子西を立てんと欲す。子西は平王の庶弟なり、義有り。子西曰く、「国に常法有り、更に立てば則ち乱る、之を言へば則ち誅を致さん」と。乃ち太子珍を立て、是を昭王と為す。
楚昭王
昭王元年、楚の民衆は費無忌を喜ばず、彼が讒言して太子建を亡き者にし、伍奢父子と郤宛を殺したことを以てした。宛の同族の伯氏の子及び子胥は皆呉に奔り、呉の兵はしばしば楚を侵し、楚人は無忌を甚だしく怨んだ。楚の令尹子常は衆を喜ばせるために無忌を誅し、衆は乃ち喜んだ。
四年、呉の三公子が楚に奔り、楚は彼らを封じて呉を防がせた。五年、呉は楚の六・潛を伐って取った。七年、楚は子常をして呉を伐たせたが、呉は豫章において楚を大いに破った。
十年の冬、呉王闔閭・伍子胥・伯嚭が唐・蔡とともに楚を伐ち、楚は大敗し、呉兵は遂に郢に入り、平王の墓を辱めた。これは伍子胥の故である。呉兵の来るに当たり、楚は子常に兵を以てこれを迎えさせ、漢水を挟んで陣した。呉は子常を伐ち破り、子常は亡走して鄭に奔った。楚兵は走り、呉は勝に乗じてこれを逐い、五戦して郢に及んだ。己卯の日、昭王は出奔した。庚辰の日、呉人は郢に入った。
昭王の亡命の途次、雲夢に至った。雲夢の者は彼が王であることを知らず、王を射て傷つけた。王は鄖に走った。鄖公の弟の懐が言うには、「平王は我が父を殺した。今、我がその子を殺すのは、また良からずや」と。鄖公はこれを止めたが、しかし彼が昭王を弑することを恐れ、乃ち王とともに出奔して随に赴いた。呉王は昭王が往ったと聞き、即ち進んで随を撃ち、随の人に謂って言うには、「周の子孫で江漢の間に封ぜられた者は、楚がことごとく滅ぼした」と。昭王を殺さんとした。王の従臣の子綦は乃ち深く王を匿い、自ら王と為り、随の人に謂って言うには、「我を呉に与えよ」と。随の人は呉に与えることを卜したが、吉でなかったので、乃ち呉王に謝して言うには、「昭王は亡命しており、随にはおりません」と。呉は自ら入って索めることを請うたが、随は聴かず、呉もまた罷み去った。
昭王の郢を出たとき、申包胥をして秦に救援を請わしめた。秦は車五百乗を以て楚を救い、楚もまた余りの散兵を収め、秦とともに呉を撃った。十一年六月、稷において呉を破った。時に呉王の弟の夫概は呉王の兵が傷つき敗れたのを見て、乃ち亡帰し、自立して王と為った。闔閭はこれを聞き、兵を引いて楚を去り、帰って夫概を撃った。夫概は敗れ、楚に奔った。楚は彼を堂谿に封じ、号して堂谿氏と為した。
楚の昭王は唐を滅ぼし、九月、郢に帰還した。十二年、呉が再び楚を伐ち、番を取る。楚は恐れ、郢を去り、北に遷って都を鄀に定めた。
十六年、孔子が魯の相となる。二十年、楚は頓を滅ぼし、胡を滅ぼす。二十一年、呉王闔閭が越を伐つ。越王句踐が呉王を射傷し、遂に死す。呉はこれより越を怨み、西の楚を伐たず。
二十七年の春、呉が陳を伐つ。楚の昭王はこれを救い、軍を城父に駐める。十月、昭王は軍中に病み、赤雲ありて鳥の如く、日に夾みて飛ぶ。昭王、周の太史に問う。太史曰く、「これは楚王に害あり。然れども将相に移すべし」と。将相、この言を聞き、乃ち自ら身を以て神に禱らんことを請う。昭王曰く、「将相は孤が股肱なり。今禍を移さんとすれど、豈にこの身を去らんや」と。聴かず。卜して河が祟りと為る。大夫、河に禱らんことを請う。昭王曰く、「吾が先王封を受くるより、望むところは江・漢を過ぎず。而して河は罪を得る所にあらず」と。止めて許さず。孔子、陳に在りてこの言を聞き、曰く、「楚の昭王は大道に通ず。その国を失わざるは、宜なるかな」と。
昭王、病甚だ篤し。乃ち諸公子・大夫を召して曰く、「孤不佞、再び楚国の師を辱しむ。今乃ち天寿を以て終わるを得るは、孤の幸いなり」と。その弟の公子申に王たることを譲るも、肯ぜず。又た次弟の公子結に譲るも、亦肯ぜず。乃ち又た次弟の公子閭に譲る。五たび譲りて、乃ち後に王たることを許す。将に戦わんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王、病甚だ篤く、その子を捨てて群臣に譲る。臣の王を許す所以は、以て王の意を広めんがためなり。今君王卒す。臣豈に敢えて君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せて塗を閉じ、越女の子章を迎えて立てる。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。
楚の恵王
恵王二年、子西は故平王の太子建の子勝を呉より召し、巣大夫となし、号して白公と曰う。白公は兵を好み士を下し、仇を報ぜんと欲す。六年、白公は兵を請いて令尹子西に鄭を伐たしめんとす。初め、白公の父建は鄭に亡命し、鄭これを殺せり、白公は呉に亡走し、子西ふたたびこれを召せり、故にこれをもって鄭を怨み、これを伐たんと欲す。子西は許すも未だ兵を発せず。八年、晋鄭を伐ち、鄭楚に急を告ぐ、楚子西を使わして鄭を救わしめ、賂を受け去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞らとともに令尹子西・子綦を朝に襲い殺し、因って恵王を劫し、これを高府に置き、これを弑せんと欲す。恵王の従者屈固、王を負いて亡走し昭王夫人の宮に至る。白公自立して王と為る。月余りして、葉公来たりて楚を救うに会し、楚恵王の徒とともに白公を攻め、これを殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳、陳を滅ぼしてこれを県とす。
十三年、呉王夫差強く、斉・晋を陵し、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平ぐ。是の時、越は既に呉を滅ぼすも江・淮の北を正す能わず、楚東に侵し、地を広めて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子簡王中立つ。
楚簡王
簡王元年、北伐して莒を滅ぼす。八年、魏文侯・韓武子・趙桓子始めて諸侯に列せらる。
二十四年、簡王卒し、子声王当立つ。
楚の聲王
聲王六年、盗が聲王を殺し、子の悼王熊疑が立つ。
楚の悼王
悼王二年、三晉が楚を伐ち来たり、乘丘に至って還る。四年、楚は周を伐つ。鄭は子陽を殺す。九年、韓を伐ち、負黍を取る。十一年、三晉が楚を伐ち、我が大梁・楡関に敗る。楚は秦に厚く賂り、之と平らぐ。二十一年、悼王卒し、子の肅王臧が立つ。
楚の肅王
粛王四年、蜀が楚を伐ち、茲方を取る。ここにおいて楚は捍関を為して以て之を距く。十年、魏我が魯陽を取る。十一年、粛王卒す、子無し、其の弟熊良夫を立てる、是を宣王と為す。
楚宣王
宣王六年、周の天子秦の献公を賀す。秦始めて復た彊く、而して三晉益大なり、魏の恵王・齊の威王尤も彊し。三十年、秦衞の鞅を商に封じ、南に楚を侵す。是の年、宣王卒す、子威王熊商立つ。
楚威王
威王六年、周の顕王文武の胙を秦の恵王に致す。
七年、斉の孟嘗君の父田嬰が楚を欺いたので、楚の威王は斉を討ち、徐州においてこれを破り、斉に必ず田嬰を追放せしめんとした。田嬰は恐れ、張丑が偽って楚王に言うには、「王が徐州において戦勝されたのは、田盻子を用いなかったからです。盻子は国に功があり、百姓がこれを用います。嬰子はこれを善しとせず、申紀を用いました。申紀は、大臣は附かず、百姓は用いませんので、王はこれを勝たれたのです。今、王が嬰子を追放されれば、嬰子が追放されれば、盻子は必ず用いられます。再びその士卒を糾合して王と遭遇すれば、必ずや王のためにはならぬでしょう」と。楚王はこれにより追放しなかった。
十一年、威王が卒し、子の懐王熊槐が立つ。魏は楚に喪あるを聞き、楚を伐ち、我が陘山を取る。
楚の懐王
懐王元年、張儀が初めて秦の恵王に相となる。四年、秦の恵王が初めて王を称す。
六年、楚は柱国昭陽に兵を将いて魏を攻めしめ、襄陵においてこれを破り、八邑を得た。また兵を移して斉を攻めんとした。斉王はこれを患う。陳軫がちょうど秦の使者として斉にいた。斉王が言うには、「これをどうしたらよいか」と。陳軫は言う、「王は憂うることなかれ、罷めさせてみせましょう」と。すなわち昭陽の軍中に往きて見え、言うには、「楚国の法を聞きたい。軍を破り将を殺す者は何をもってこれを貴ぶか」と。昭陽は言う、「その官は上柱国とし、上爵の執珪に封ずる」と。陳軫は言う、「これより貴きものはあるか」と。昭陽は言う、「令尹である」と。陳軫は言う、「今、君はすでに令尹となられた。これは国の冠の上である。臣に譬えをさせてほしい。人がその舎人に一卮の酒を遺わした者がいた。舎人ら互いに言うには、『数人でこれを飲んでも、遍く行き渡らぬ。どうか地に蛇を画き、蛇の先に成った者が独りこれを飲もう』と。一人が言う、『我が蛇が先に成った』と。酒を挙げて起ち上がり、言う、『我れこれに足を為すことができよう』と。その足を為すに及んで、後に成った者がその酒を奪い取りて飲み、言う、『蛇はもとより足無し。今これに足を為すは、これは蛇にあらず』と。今、君は楚に相として魏を攻め、軍を破り将を殺し、功これより大なるは莫し。冠の上にはこれに加うるべからず。今また兵を移して斉を攻めんとする。斉を攻めてこれに勝てば、官爵はこれに加わらず。これを攻めて勝たざれば、身は死に爵は奪われ、楚に毀り有らん。これが蛇に足を為すという説である。兵を引き去りて以て斉に徳を施すに若かず。これ満ちたるを保つ術である」と。昭陽は言う、「善し」と。兵を引き去った。
燕と韓の君主が初めて王を称す。秦は張儀を遣わして楚・斉・魏と会し、齧桑にて盟す。
十一年、蘇秦が山東の六国を約して共に秦を攻め、楚の懐王が従長となる。函谷関に至り、秦が兵を出して六国を撃つと、六国の兵は皆引き返して帰り、斉のみ後れた。十二年、斉の湣王が趙・魏の軍を伐ち破り、秦もまた韓を伐ち破り、斉と長たるを争う。
十六年、秦は斉を伐たんと欲し、楚が斉と従親しているため、秦の恵王はこれを患い、張儀を免相すと宣言し、張儀をして南に楚王に謁見せしめ、楚王に謂いて曰く、「弊邑の王の最も悦ぶ者は大王に先んずるものなく、儀の最も願うところ門闌の廝たる者も大王に先んずるものなし。弊邑の王の最も憎む者は斉王に先んずるものなく、儀の最も憎む者も斉王に先んずるものなし。然るに大王はこれと和す、これによりて弊邑の王は王に事えることを得ず、儀もまた門闌の廝たることを得ざらしむ。王が儀のために関を閉ざして斉を絶ち、今使者をして儀に従い西に秦の楚に分かつ商於の地、方六百里を取らしめば、かくの如くすれば則ち斉は弱し。これ北に斉を弱め、西に秦に徳あり、商於を私して富と為す、この一計にして三利倶に至るなり」と。懐王大いに悦び、相璽を張儀に置き、日に酒を置き、「吾が商於の地を得ることを復す」と宣言す。群臣皆賀すれども、陳軫のみ弔す。懐王曰く、「何の故ぞ」と。陳軫対えて曰く、「秦の王を重んずる所以は、王の斉を有するによるなり。今地未だ得べからずして斉の交わり先に絶つ、これ楚の孤となるなり。夫れ秦また何ぞ孤国を重んぜんや、必ず楚を軽んずべし。且つ先に地を出だして後に斉を絶たば、則ち秦の計は為さず。先に斉を絶ちて後に地を責めば、則ち必ず張儀に欺かれるを見ん。張儀に欺かれるを見ば、則ち王必ずこれを怨む。これを怨めば、これ西に秦の患いを起こし、北に斉の交わりを絶つ。西に秦の患いを起こし、北に斉の交わりを絶てば、則ち両国の兵必ず至らん。臣故に弔す」と。楚王聴かず、因って一将軍をして西に封地を受けしむ。
張儀、秦に至り、佯って酔い車より墜ち、病と称して三月出でず、地を得ること能わず。楚王曰く、「儀は吾が斉を絶つことを以て尚ほ薄しとするか」と。乃ち勇士宋遺をして北に斉王を辱めしむ。斉王大いに怒り、楚の符を折りて秦に合す。秦斉交わり合し、張儀乃ち起ちて朝し、楚の将軍に謂いて曰く、「子何ぞ地を受けざる。某より某に至るまで、広袤六里」と。楚の将軍曰く、「臣の命を見る所以は六百里、六里と聞かず」と。即ち帰りて懐王に報ず。懐王大いに怒り、師を興して将に秦を伐たんとす。陳軫また曰く、「秦を伐つは計に非ず。如かず因ってこれに一名都を賂し、これをして斉を伐たしむるに、是れ我れ秦に亡びて、斉に償いを取るなり、吾が国尚ほ全うすべし。今王既に斉に絶ちて秦に欺かれたるを責む、是れ吾れ秦斉の交わりを合して天下の兵を来たすなり、国必ず大いに傷つかん」と。楚王聴かず、遂に秦との和を絶ち、兵を発して西に秦を攻む。秦もまた兵を発してこれを撃つ。
十七年春、秦と丹陽に戦い、秦我が軍を大いに敗り、甲士八万を斬り、我が大将軍屈匄・裨将軍逢侯丑等七十余人を虜にし、遂に漢中の郡を取る。楚の懐王大いに怒り、乃ち国兵を悉くして復た秦を襲い、藍田に戦い、楚軍を大いに敗る。韓・魏、楚の困窮を聞き、乃ち南に楚を襲い、鄧に至る。楚聞き、乃ち兵を引いて帰る。
十八年、秦は使者を遣わして楚と再び親しくすることを約し、漢中の半分を分けて楚と和を結ぼうとした。楚王は言った、「張儀を得たいのであって、土地を得たいのではない」と。張儀はこれを聞き、楚に行くことを請うた。秦王は言った、「楚はそなたに恨みを晴らそうとしている、どうするか」と。張儀は言った、「臣はその側近の靳尚と親しく、靳尚はまた楚王の寵姫鄭袖に取り入ることができ、袖の言うことは聞かないことがない。かつて臣が以前に楚を欺いて商於の約を負わせ、今秦と楚は大戦を交え、悪しき関係にある。臣が自ら楚に面会して謝罪しなければ、和解はできない。しかも大王がおられる以上、楚は臣を捕らえることはできまい。誠に儀を殺して国に利あらば、それは臣の願いである」と。儀はついに楚に使した。
到着すると、懐王は会わず、張儀を囚えて殺そうとした。儀はひそかに靳尚に取り入り、靳尚は懐王に請うて言った、「張儀を拘束すれば、秦王は必ず怒る。天下が楚に秦がないのを見れば、必ず王を軽んじるでしょう」と。また夫人の鄭袖に言った、「秦王は張儀を大変愛しているのに、王が殺そうとしている。今、上庸の地六県を楚に贈り、美人を楚王に娶らせ、宮中の歌の上手な者をその腰元としようとしている。楚王は土地を重んじるから、秦の女は必ず貴ばれ、夫人は必ず斥けられるでしょう。夫人はむしろ張儀を釈放するよう言ったほうがよい」と。鄭袖はついに張儀のことを王に言って釈放させた。儀が出ると、懐王は儀を厚遇し、儀は楚王に説いて合従の約を破り秦と親しく結び、婚姻を約した。張儀が去った後、屈原が斉からの使者として来て、王に諫めて言った、「どうして張儀を誅殺しないのですか」と。懐王は後悔し、人をやって儀を追わせたが、及ばなかった。この年、秦の恵王が卒去した。
二十六年、斉の湣王は合従の長となろうと欲し、楚が秦と結ぶのを憎んで、使者を遣わして楚王に書を送り言った、「寡人は楚が尊名を明察しないことを憂える。今、秦の恵王が死に、武王が立ち、張儀は魏に走り、樗裏疾・公孫衍が用いられているのに、楚は秦に仕えている。樗裏疾は韓と親しく、公孫衍は魏と親しい。楚が必ず秦に仕えるなら、韓・魏は恐れ、必ずこの二人を通じて秦と和を求め、そうすれば燕・趙も秦に仕えるべきである。四国が争って秦に仕えれば、楚は郡県となってしまう。王はどうして寡人と力を合わせて韓・魏・燕・趙を収め、これと合従して周室を尊び、兵を収め民を休ませ、天下に号令しないのか。敢えて喜んで聞かない者はなく、そうすれば王の名は成る。王が諸侯を率いて共に伐てば、秦を破ることは必定である。王が武関・蜀・漢の地を取り、呉・越の富を私し江海の利を独占し、韓・魏が上党を割き、西は函谷に迫れば、楚の強さは百万にもなる。かつて王は張儀に欺かれて漢中の地を失い、藍田で兵を挫かれた。天下の者が王に代わって怒りを抱かない者はない。今になってまず秦に仕えようとするとは。願わくは大王よく計られよ」と。
楚王はすでに秦と和を結ぼうとしていたが、斉王の書を見て、躊躇して決めかね、その議を群臣に下した。群臣はある者は秦と和すべしと言い、ある者は斉に従うべしと言った。昭雎は言った、「王はたとえ東で越から土地を取っても、恥を雪ぐには足りない。必ず秦から土地を取り、その後で諸侯に対して恥を雪ぐに足るのである。王は深く斉・韓と親しくして樗裏疾を重んじさせるのがよい。そうすれば王は韓・斉の重みを得て土地を求めることができる。秦が韓の宜陽を破ったのに、韓がなお秦に仕えるのは、先王の墓が平陽にあり、秦の武遂がそこから七十里のところにあるため、特に秦を恐れているからである。そうでなければ、秦が三川を攻め、趙が上党を攻め、楚が河外を攻めれば、韓は必ず滅びる。楚が韓を救っても、韓が滅びないようにすることはできないが、韓を存続させるのは楚である。韓がすでに秦から武遂を得て、河山を塞とすれば、恩に報いるに楚ほど厚いものはない。臣はこれが王に仕えることは必ず速やかであると思う。斉が韓を信じるのは、韓の公子眛が斉の相となっているからである。韓がすでに秦から武遂を得たなら、王は大いにこれを厚遇し、斉・韓の重みをもって樗裏疾を重んじさせよ。疾が斉・韓の重みを得れば、その主(秦王)は疾を棄てることはできない。今さらに楚の重みを加えれば、樗里子は必ず秦に言い、楚に侵された土地を返すであろう」と。ここにおいて懐王はこれを許し、ついに秦と合わず、斉と合して韓と親しくした。
二十四年、斉を背きて秦と合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち楚に厚く賂る。楚往きて婦を迎う。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟し、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与う。二十六年、斉・韓・魏、楚が其の従親に背きて秦に合するを負い、三国共に楚を伐つ。楚、太子をして秦に入り質とし、救いを請わしむ。秦乃ち客卿通を遣わし兵を将いて楚を救い、三国兵を引き去る。
二十七年、秦の大夫私に楚の太子と鬬い、楚の太子之を殺して亡帰す。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取って去る。二十九年、秦復た楚を攻め、楚を大いに破り、楚軍の死者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質とし、平を求めしむ。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王、楚王に書を遺して曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟し、太子質と為り、至って驩し。太子陵りて寡人の重臣を殺し、謝せずして亡去る。寡人誠に怒りに勝えず、兵をして君王の辺を侵さしむ。今君王乃ち太子をして斉に質とし、平を求めしむと聞く。寡人と楚は境を接し界を接す、故に婚姻を為し、相親しむ所久し。而るに今秦楚驩ばずんば、則ち以て諸侯に令する無からん。寡人願わくは君王と武関に会い、面して約し、盟を結びて去らん、寡人の願いなり。敢えて以て下執事に聞かしむ」と。楚の懐王、秦王の書を見て、之を患う。往かんと欲すれば、欺かれるを恐れ、往かざれば、秦の怒るを恐る。昭雎曰く、「王行く毋かれ、而して兵を発して自ら守らん。秦は虎狼、信ずべからず、諸侯を併せんの心有り」と。懐王の子子蘭、王に行かんことを勧めて曰く、「奈何ぞ秦の驩心を絶たんや」と。是に於いて往きて秦の昭王に会す。昭王詐りて一将軍に兵を伏せしめて武関に在らしめ、号して秦王と為す。楚王至れば、則ち武関を閉ざし、遂に西に従いて咸陽に至り、章台に朝し、蕃臣の如くし、亢礼を与えず。楚の懐王大いに怒り、昭子の言を用いざりしを悔ゆ。秦因りて楚王を留め、巫・黔中の郡を割かんことを要す。楚王盟せんと欲すれば、秦先ず地を得んと欲す。楚王怒りて曰く、「秦我を詐りて而又た彊いて我に地を以て要す」と。復た秦に許さず。秦因りて之を留む。
楚の大臣之を患い、乃ち相与に謀りて曰く、「吾が王秦に在りて還るを得ず、地を割かんことを要し、而して太子斉に質と為り、斉・秦謀を合わさば、則ち楚国無からん」と。乃ち懐王の子国に在る者を立てんと欲す。昭雎曰く、「王と太子倶に諸侯に困しめられ、而るに今又た王命に背きて其の庶子を立つるは、宜しからず」と。乃ち詐りて斉に赴く。斉の湣王其の相に謂いて曰く、「太子を留めて楚の淮北を求むるに若かず」と。相曰く、「不可なり。郢中王を立てば、是れ吾が空質を抱きて天下に不義を行わんとす」と。或いは曰く、「然らず。郢中王を立てば、因りて其の新王と市して曰く『我に下東国を与えよ、吾王の為に太子を殺さん、然らずんば、将に三国と共に之を立たん』と、然らば則ち東国必ず得べし」と。斉王卒に其の相の計を用いて楚の太子を帰す。太子横至り、立ちて王と為り、是れ頃襄王なり。乃ち秦に告げて曰く、「社稷の神霊に頼り、国に王有り」と。
楚の頃襄王
頃襄王横の元年、秦は懐王を要挟して土地を得ることができず、楚は王を立てて秦に対応したので、秦の昭王は怒り、兵を発して武関より出でて楚を攻め、大いに楚軍を破り、首級五万を斬り、析の十五城を取って去った。二年、楚の懐王は逃亡して帰国しようとしたが、秦はこれを察知し、楚への道を遮った。懐王は恐れ、間道より趙に走り、帰国を求めた。趙の主父は代にあり、その子の恵王が初めて立ち、王事を行っていたが、恐れて楚王を入れようとしなかった。楚王は魏に走ろうとしたが、秦が追い至り、遂に秦の使者と共に再び秦に赴いた。懐王は遂に病を発した。頃襄王の三年、懐王は秦にて卒した。秦はその喪を楚に帰した。楚人は皆これを憐れみ、親戚を悲しむが如くであった。諸侯はこれにより秦を正しからずとす。秦と楚は絶交した。
六年、秦は白起をして韓を伊闕に伐たしめ、大勝し、首級二十四万を斬った。秦は乃ち楚王に書を遺わして曰く、「楚、秦に背く。秦、将に諸侯を率いて楚を伐ち、一旦の命を争わんとす。願わくは王、士卒を飭し、一たび戦を楽しむを得んことを」と。楚の頃襄王はこれを患い、乃ち復た秦と平らかならんことを謀った。七年、楚は秦より婦を迎え、秦と楚は復た平らかになった。
十一年、斉と秦は各自帝と称した。月余りして、復た帝を帰して王とした。
十四年、楚の頃襄王と秦の昭王は宛に好会し、和親を結んだ。十五年、楚王は秦・三晉・燕と共に斉を伐ち、淮北を取った。十六年、秦の昭王と鄢に好会した。その秋、復た秦王と穰に会した。
十八年、楚に弱弓微繳を用いて帰雁の上に加えることを好む者あり、頃襄王聞き、召して之を問う。対えて曰く、「小臣の鶀雁を射、羅鸗を羅するを好むは、小矢の発するや、何ぞ足らんや大王に道うに。且つ楚の大を称し、大王の賢に因りて、弋る所は直に此のみに非ざるなり。昔者三王は弋を以て道德を為し、五覇は弋を以て戦国を為す。故に秦・魏・燕・趙は鶀雁なり、斉・魯・韓・衛は青首なり、騶・費・郯・邳は羅鸗なり。外其の余は則ち射るに足らざる者なり。鳥六双を見る、王を以て何をか取らん。王何ぞ聖人を以て弓と為し、勇士を以て繳と為し、時に張りて之を射ざる。此の六双は、得て囊載すべし。其の楽は朝昔の楽に非特ならず、其の獲は鳧雁の実に非特ならず。王朝に弓を張りて魏の大梁の南を射、其の右臂を加えて径に之を韓に属せしめば、則ち中国の路絶えて上蔡の郡壊れん。還りて圉の東を射、魏の左肘を解きて外に定陶を撃てば、則ち魏の東外棄てられて大宋・方与二郡は挙げられん。且つ魏二臂を断たれ、顛越せん、膺を以て郯国を撃てば、大梁は得て有すべし。王繳を綪して蘭台に飲み、馬を西河に飲ましめ、魏の大梁を定めん、此れ一発の楽なり。若し王の弋に於ける誠に好みて厭わざれば、則ち宝弓を出だし、新繳を碆し、噣鳥を東海に射、還りて長城を蓋いて以て防と為し、朝に東莒を射、夕に浿丘を発し、夜に即墨を加え、顧みて午道を拠らば、則ち長城の東収まりて太山の北挙げられん。西は境を趙に結びて北は燕に達し、三国布鶴すれば、則ち従は約を待たずして成るべし。北は目を遊ばして燕の遼東に於き、南は登りて望む越の会稽、此れ再発の楽なり。若し夫れ泗上の十二諸侯は、左縈して右に之を払えば、一旦にして尽くすべし。今秦は韓を破りて以て長憂と為し、列城を得て敢えて守らず、魏を伐ちて功無く、趙を撃ちて顧みて病めば、則ち秦魏の勇力屈せり、楚の故地漢中・析・酈は得て復た有すべし。王宝弓を出だし、新繳を碆し、鄳塞に渉りて秦の倦むを待てば、山東・河内は得て一にすべし。民を労して衆を休め、南面して王と称せん。故に曰く秦は大鳥と為り、海内を負いて処り、東面して立ち、左臂は趙の西南に拠り、右臂は楚の鄢郢に傅わり、膺を以て韓魏を撃ち、頭を中国に垂れ、処る既に形便にし、勢に地利有り、翼を奮い鶴を鼓し、方三千里、則ち秦は未だ独り招きて夜に射るを得ざるなり」と。以て襄王を激怒せんと欲し、故に此の言を以て対う。襄王因りて召して語り、遂に言いて曰く、「夫れ先王は秦に欺かれて客死すること外に於いて、怨み此より大なるは莫し。今匹夫に怨み有りて尚お万乗に報ゆる有り、白公・子胥是れなり。今楚の地は方五千里、甲を帯ぶる者百万、猶ほ以て中野に踴躍するに足るに、坐して困を受く、臣窃に大王の取らざるを為す」と。是に於いて頃襄王は使を諸侯に遣わし、復た従を為し、以て秦を伐たんと欲す。秦之を聞き、兵を発して来たりて楚を伐つ。
楚は斉・韓と連合して秦を伐ち、ついで周を併呑せんと図った。周王赧は武公をして楚の相昭子に告げさせた、「三国が兵をもって周の郊外の地を割いて輸送を便利にし、南の宝器を楚に献じて楚を尊ぶというが、臣はそうは思わない。共主を弑し、世君を臣とすることは、大国は親しまず、衆をもって寡を脅すことは、小国は附かぬ。大国が親しまず、小国が附かねば、名実を得ることはできぬ。名実を得なければ、民を傷つけるに足りぬ。周を併呑せんとの名声は、号令をなす所以ではない」と。昭子が言うには、「周を併呑せんとの図りはない。しかしながら、周はどうして併呑できぬのか」と。答えて言うには、「軍は五倍ならざれば攻めず、城は十倍ならざれば囲まず。一周は二十の晋に当たる、公の知るところである。韓はかつて二十万の衆をもって晋の城下で辱しめを受け、鋭士は死に、中士は傷つき、しかも晋は陥ちなかった。公が百の韓もなくして周を併呑せんとすることは、天下の知るところである。両周に怨みを結んで騶魯の心を塞ぎ、斉との交わりを絶ち、天下に名声を失うことは、その事を行うに危うい。両周を危うくして三川を厚くすることは、方城の外は必ず韓に弱められよう。どうしてそうだと知るか。西周の地は、長きを絶ち短きを補っても、百里を過ぎない。天下の共主と名づけられ、その地を裂いても国を肥やすに足らず、その衆を得ても兵を勁くするに足らぬ。攻めなくとも、君を弑する名がある。しかしながら好事の君、攻撃を喜ぶ臣は、号令を発し兵を用いるに、未だ嘗て周を終始としなかったことはない。これは何故か。祭器がそこにあるのを見て、器の至らんことを欲し、君を弑する乱を忘れるからである。今、韓が器の楚にあることを以てすれば、臣は天下が器のために楚を讎とすことを恐れる。譬えを請う。虎の肉は臭く、その兵は身を利するも、人はなおこれを攻める。もし沢中の麋が虎の皮を蒙れば、人のこれを攻めることは必ず虎よりも万倍するであろう。楚の地を裂けば、国を肥やすに足り、楚の名を詘けば、主を尊ぶに足る。今、子が誅して天下の共主を残し、三代の伝器を居し、三翮六翼を呑み、世の主より高からんとすることは、貪でなくて何であろうか。『周書』に『起たんと欲すれば先んずるなかれ』とある。故に器が南にあれば兵が至るのである」と。ここにおいて楚の計は止んで行われなかった。
十九年、秦が楚を伐ち、楚軍は敗れ、上庸・漢北の地を秦に割いた。二十年、秦の将白起が我が西陵を抜く。二十一年、秦の将白起はついに我が郢を抜き、先王の墓夷陵を焼いた。楚の襄王は兵散じ、ついに再び戦わず、東北に保って陳城にあった。二十二年、秦は再び我が巫・黔中郡を抜く。
二十三年、襄王はついに東地の兵を収め、十余万を得、再び西進して秦の抜いた我が江傍の十五邑を取って郡とし、秦に距った。二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。再び秦と平らぎ、太子を入れて秦に質とす。楚は左徒をして秦において太子に侍らしむ。
三十六年、頃襄王病み、太子は亡れて帰る。秋、頃襄王卒す。太子熊元代わって立ち、これ考烈王と為す。考烈王は左徒を以て令尹と為し、呉に封じて春申君と号す。
楚の考烈王
考烈王元年、州を秦に納めて和を結ぶ。この時楚はますます弱くなる。
六年、秦が邯鄲を包囲し、趙が楚に危急を告げると、楚は将軍景陽を派遣して趙を救う。七年、新中に至る。秦兵は去る。十二年、秦の昭王が卒し、楚王は春申君を使わして秦に弔祠させる。十六年、秦の莊襄王が卒し、秦王趙政が立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐つが、利あらずして去る。楚は東に遷都して壽春とし、命じて郢と曰う。
二十五年、考烈王が卒し、子の幽王悍が立つ。李園が春申君を殺す。幽王三年、秦・魏が楚を伐つ。秦の相呂不韋が卒す。九年、秦が韓を滅ぼす。十年、幽王が卒し、同母弟の猶が代わって立ち、これが哀王である。哀王が立って二月余り、哀王の庶兄負芻の徒が哀王を襲って殺し、負芻を立てて王とする。この歳、秦が趙王遷を虜にする。
楚王負芻
王負芻元年、燕の太子丹が荊軻を使わして秦王を刺させる。二年、秦が将軍を使わして楚を伐ち、楚軍を大いに破り、十余城を亡くす。三年、秦が魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦が我が軍を蘄において破り、将軍項燕を殺す。
五年、秦の将軍王翦・蒙武はついに楚を破り、楚王負芻を虜とし、楚を滅ぼしてその地を楚郡と称したという。
太史公曰く
太史公曰く、楚の霊王が申にて諸侯を会し、斉の慶封を誅し、章華台を築き、周の九鼎を求めんとした時、その志は天下を小さく見ていた。そして申亥の家にて餓死し、天下の笑いものとなるに至った。操行を得ざるは悲しいかな。勢いというものは人に対して、慎まざるべけんや。棄疾は乱を以て立ち、秦の女を寵愛して淫らにせしは、甚だしいことよ、ほとんど再び国を亡ぼさんとした。
索隠述賛
鬻熊の後嗣、周より楚に封ぜらる。荊蛮に僻在し、蓽路藍縷たり。通じて覇たり、僭号して武と曰う。文は既に申を伐ち、成も亦許を赦す。子圉嫡を篡し、商臣父を殺す。天の禍未だ悔いず、奸に憑りて自ら恃む。昭は困して奔亡し、懷は迫られて囚虜と為る。頃襄・考烈、祚は南土に衰う。