周公旦

周公旦は、周の武王の弟である。文王の在世の時より、旦は子として孝行で、仁に篤く、他の諸子とは異なっていた。武王が位すると、旦は常に武王を輔佐し、政つかに参与することが多かった。武王九年、東征して盟津に至った時、周公は従って補佐した。十一年、紂王を討ち、牧野に至った時、周公は武王を助け、牧誓を作った。殷を破り、商の宮殿に入った。既に紂王を殺した後、周公は大鉞を執り、召公は小鉞を執って、武王を挟み、社にちぬり、天と殷の民に紂の罪を告げた。箕子の囚われを解いた。紂の子の武庚祿父を封じ、管叔・蔡叔にそのとさせ、殷の祭祀を継がせた。功臣や同姓の戚族を遍く封じた。周公旦を少昊の故墟である曲阜に封じ、これを魯公とした。周公は封国に赴かず、留まって武王を補佐した。

武王が殷を克って二年、天下は未だ集まらず、武王が病に罹り、快方に向かわなかった。群臣は恐れ、太公・召公が卜をあやまった。周公は言った、『未だ我が先王を憂い悲しませることはできぬ』。周公はここにおいて自らひととならんとし、三つの壇を設け、周公は北面して立ち、璧を戴き圭をり、太王・王季・文王に告げた。史が策に祝して曰く、『惟れ爾の元孫王發、勤労して疾に阻まれる。もし爾ら三王に天に対し負子のせめ有らば、旦を以て王發の身に代えん。旦は巧みに能くし、多材多芸にして、よく鬼神に事うる。乃ち王發は旦の如く多材多芸ならず、鬼神に事える能わず。乃ち帝庭に命ぜられ、四方を敷佑ふゆうし、用いて能く汝の子孫を下地に定め、四方の民は畏敬せざるは無し。天の降す葆命ほうめいとすこと無く、我が先王も亦永く依帰する所あらん。今我其れ元亀に命を即けん、爾我を許さば、我其の璧と圭を以て帰り、以て爾の命をたん。爾我を許さざれば、我乃ち璧と圭をしりぞけん』。周公は既に史に命じて策に太王・王季・文王に告げさせ、武王發に代わらんと欲し、ここにおいて乃ち三王に即いて卜した。卜人皆が吉と曰い、書を発してを見れば、確かに吉であった。周公は喜び、かぎを開き、乃ち書を見て吉に遇う。周公は入って武王を賀して曰く、『王其れ害無からん。旦新たに三王より命を受け、惟れ長終を是れ図る。茲の道能く予一人を念う』。周公は其の策を金縢の匱中に蔵し、守る者に誡めて敢えて言わしめなかった。明日、武王はえた。

原文武王克殷二年,天下未集,武王有疾,不豫,群臣懼,太公、召公乃繆卜。周公曰:『未可以戚我先王。』周公於是乃自以爲質,設三壇,周公北面立,戴璧秉圭,告于太王、王季、文王。史策祝曰:『惟爾元孫王發,勤勞阻疾。若爾三王是有負子之責於天,以旦代王發之身。旦巧能,多材多藝,能事鬼神。乃王發不如旦多材多藝,不能事鬼神。乃命于帝庭,敷佑四方,用能定汝子孫于下地,四方之民罔不敬畏。無墜天之降葆命,我先王亦永有所依歸。今我其即命於元龜,爾之許我,我以其璧與圭歸,以俟爾命。爾不許我,我乃屏璧與圭。』周公已令史策告太王、王季、文王,欲代武王發,於是乃即三王而卜。卜人皆曰吉,發書視之,信吉。周公喜,開籥,乃見書遇吉。周公入賀武王曰:『王其無害。旦新受命三王,維長終是圖。茲道能念予一人。』周公藏其策金縢匱中,誡守者勿敢言。明日,武王有瘳。

その後、武王が既に崩じ、成王は幼く、彊葆(きょうほう、襁褓)の中にあった。周公は天下が武王の崩じたことを聞いてそむかんことを恐れ、周公は乃ちを践み、成王に代わって摂政し、国事を執り行った。管叔及びその諸弟が国中に流言して曰く、『周公将に成王に不利ならんとす』。周公は乃ち太公望・召公奭に告げて曰く、『我がけずして摂政を行う所以の者は、天下が周に畔き、以て我が先王太王・王季・文王に告ぐる無からんことを恐るるなり。三王の天下を憂い労すること久しく、今にして後に成る。武王は早く終わり、成王は幼し、将に周を成さんとす。我が之が為に此の若くする所以なり』。ここにおいて遂に成王をたすけ、而して其の子の伯禽をして代わりに魯に封ぜられんことを就かしめた。周公は伯禽に戒めて曰く、『我は文王の子、武王の弟、成王の叔父なり、我天下に於いて亦賤しからず。然れども我は一たびもくするに三たび髪を捉え、一たび飯するに三たびを吐き、起きて士を待つも、猶天下の賢人を失わんことを恐る。子の魯に之くや、慎んで国を以て人に驕ること無かれ』。

原文其後武王既崩,成王少,在彊葆之中。周公恐天下聞武王崩而畔,周公乃踐阼代成王攝行政當國。管叔及其群弟流言於國曰:『周公將不利於成王。』周公乃告太公望、召公奭曰:『我之所以弗辟而攝行政者,恐天下畔周,無以告我先王太王、王季、文王。三王之憂勞天下久矣,於今而后成。武王蚤終,成王少,將以成周,我所以爲之若此。』於是卒相成王,而使其子伯禽代就封於魯。周公戒伯禽曰:『我文王之子,武王之弟,成王之叔父,我於天下亦不賤矣。然我一沐三捉髮,一飯三吐哺,起以待士,猶恐失天下之賢人。子之魯,慎無以國驕人。』

管叔・蔡叔・武庚等は果たして淮夷を率いて反した。周公は乃ち成王の命を奉じ、師を興して東伐し、大誥を作った。遂に管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を放った。殷の余民を収め、以て康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて、殷の祭祀を奉ぜしめた。淮夷及び東土をやすんじ、二年にしてことごとく定まった。諸侯皆周をむねとし服した。

原文管、蔡、武庚等果率淮夷而反。周公乃奉成王命,興師東伐,作大誥。遂誅管叔,殺武庚,放蔡叔。收殷餘民,以封康叔於衛,封微子於宋,以奉殷祀。寧淮夷東土,二年而畢定。諸矦咸服宗周。

天は祉福を降し、唐叔は禾を得たり、異母にして同穎、これを成王に献ず、成王は唐叔に命じて以て周公に東土に於いて餽らしむ、餽禾を作る。周公既に禾を受く、天子の命を嘉し、嘉禾を作る。東土以て集まる、周公帰りて成王に報じ、乃ち詩を作りて王に貽す、之を命じて鴟鴞と曰う。王も亦未だ敢て周公を訓えず。

原文天降祉福,唐叔得禾,異母同穎,獻之成王,成王命唐叔以餽周公於東土,作餽禾。周公既受命禾,嘉天子命,作嘉禾。東土以集,周公歸報成王,乃爲詩貽王,命之曰鴟鸮。王亦未敢訓周公。

成王七年二月乙未、王朝して周より歩み、豊に至り、太保召公をして先ず之れを雒に相土せしむ。其の三月、周公往きて成周雒邑を営み、居るを卜し、曰く吉と、遂に之を国とす。

原文成王七年二月乙未,王朝步自周,至豐,使太保召公先之雒相土。其三月,周公往營成周雒邑,卜居焉,曰吉,遂國之。

成王長じ、政を聴く能う。是に於いて周公乃ち政を成王に還し、成王朝に臨む。周公の成王に代わりて治むるや、南面して倍依を以て諸侯に朝す。及七年の後、政を成王に還し、北面して臣位に就き、匔匔として畏るるが如し。

原文成王長,能聽政。於是周公乃還政於成王,成王臨朝。周公之代成王治,南面倍依以朝諸矦。及七年後,還政成王,北面就臣位,匔匔如畏然。

初め、成王少き時、病み、周公乃ち自ら其の蚤を揃えて河に沈め、以て神に祝して曰く、『王少くして識なく、神命を奸む者は乃ち旦なり。』亦其の策を府に蔵す。成王病みて瘳ゆ。成王用事するに及び、人或いは周公を譖す、周公楚に奔る。成王府を発し、周公の禱書を見て、乃ち泣き、周公を反す。

原文初,成王少時,病,周公乃自揃其蚤沈之河,以祝於神曰:『王少未有識,奸神命者乃旦也。』亦藏其策於府。成王病有瘳。及成王用事,人或譖周公,周公奔楚。成王發府,見周公禱書,乃泣,反周公。

周公帰る、成王の壮にして、治に淫佚あるを恐れ、乃ち多士を作り、毋逸を作る。毋逸に称して、『人として父母たり、業を為すこと至長久、子孫驕奢にして之を忘れ、以て其の家を亡ぼす、人として子たる者慎まざる可けんや。昔殷王中宗に在り、厳にして恭敬に天命を畏れ、自ら度りて民を治め、震懼して敢て荒寧せず、故に中宗国を饗くること七十五年。其の高宗に在り、久しく外に労し、小人と与にし、其の即位するに及び、乃ち亮闇有り、三年言わず、言えば乃ち讙し、敢て荒寧せず、密かに殷国を靖め、小大に至るまで怨み無し、故に高宗国を饗くること五十五年。其の祖甲に在り、義ならずして惟王たり、久しく小人として外に在り、小人の依る所を知り、能く小民を保施し、寡を侮らず、故に祖甲国を饗くること三十三年。』多士に称して曰く、『湯より帝乙に至るまで、率いて祀り明徳せざる無く、帝天に配せざる無し。今後の嗣王紂に在り、誕に其の佚を淫し、天及び民の従うを顧みず。其の民皆誅す可し。(周多士)文王は日中昃るも食する暇無く、国を饗くること五十年。』此れを作りて以て成王を誡む。

原文周公歸,恐成王壯,治有所淫佚,乃作多士,作毋逸。毋逸稱:『爲人父母,爲業至長久,子孫驕奢忘之,以亡其家,爲人子可不慎乎!笔昔在殷王中宗,嚴恭敬畏天命,自度治民,震懼不敢荒寧,故中宗饗國七十五年。其在髙宗,久勞于外,爲與小人,作其即位,乃有亮闇,三年不言,言乃讙,不敢荒寧,密靖殷國,至于小大無怨,故髙宗饗國五十五年。其在祖甲,不義惟王,久爲小人于外,知小人之依,能保施小民,不侮寡,故祖甲饗國三十三年。』多士稱曰:『自湯至于帝乙,無不率祀明德,帝無不配天者。在今後嗣王紂,誕淫厥佚,不顧天及民之從也。其民皆可誅。』(周多士)『文王日中昃不暇食,饗國五十年。』作此以誡成王。

成王が豊に在りし時、天下は既に安んじ、周の官政は未だ次序を得ず、ここに周公は周官を作り、官を別ちてその宜しきを定め、立政を作りて以て百姓を便ならしむ。百姓悦ぶ。

原文成王在豐,天下已安,周之官政未次序,於是周公作周官,官別其宜,作立政,以便百姓。百姓說。

周公、豊に在りて病み、将に没せんとし、曰く、『必ず我を成周に葬れ、以て吾が成王を離れざるを明らかにせん。』と。周公既に卒し、成王も亦譲り、周公を畢に葬り、文王に従わしむ。以て予小子の周公を臣とせざるを明らかにせんとす。

原文周公在豐,病,將沒,曰:『必葬我成周,以明吾不敢離成王。』周公既卒,成王亦讓,葬周公於畢,從文王,以明予小子不敢臣周公也。

周公卒して後、秋の未だ穫らざるに、暴風雷雨有り、禾は斯く偃し、大木は斯く抜かる。周国大いに恐る。成王と大夫と朝服を以て金縢の書を開く。王乃ち周公の自ら以て功と為し武王に代わらんとした説を得たり。二公及び王乃ち史・百執事に問う。史・百執事曰く、『信に有り、昔周公我に命じて敢えて言う勿れとす。』と。成王書を執りて泣き、曰く、『今より後其れ繆卜無からんか。昔周公は王家に勤労し、惟れ我が幼き人知るに及ばず。今、天威を動かして以て周公の徳を彰わす。惟れ朕小子其れ迎えん、我が国家の礼も亦之に宜しきべし。』と。王郊に出づれば、天乃ち雨し、風反り、禾尽く起つ。二公国人に命じ、凡そ大木の偃したるを、尽く起して之を筑く。歳則ち大いに熟す。ここに成王乃ち魯に命じて文王を郊祭するを得しむ。魯に天子の礼楽有るは、以て周公の徳を襃するなり。

原文周公卒後,秋未穫,暴風雷雨,禾斯偃,大木斯拔。周國大恐。成王與大夫朝服以開金縢書,王乃得周公所自以爲功代武王之說。二公及王乃問史、百執事,史、百執事曰:『信有,昔周公命我勿敢言。』成王執書以泣,曰:『自今後其無繆卜乎!昔周公勤勞王家,惟予幼人弗及知。今天動威以彰周公之德,惟朕小子其迎,我國家禮亦宜之。』王出郊,天乃雨,反風,禾盡起。二公命國人,凡大木所偃,盡起而筑之。歲則大孰。於是成王乃命魯得郊祭文王。魯有天子禮樂者,以襃周公之德也。

伯禽

原文伯禽

周公卒し、子伯禽は固より已に前に封を受けしが、是を魯公と為す。魯公伯禽の初めに封を受けて魯に之く、三年にして後に周公に政を報ず。周公曰く、『何ぞ遅きや。』と。伯禽曰く、『其の俗を変え、其の礼を革め、喪三年にして然る後に之を除く、故に遅し。』と。太公も亦斉に封ぜられ、五月にして周公に政を報ず。周公曰く、『何ぞ疾きや。』と。曰く、『吾其の君臣の礼を簡にし、其の俗に従いて為すなり。』と。後に至り伯禽の政を報ずる遅きを聞き、乃ち嘆いて曰く、『嗚呼、魯の後世は其れ北面して斉に事えんか。夫れ政は簡ならず易ならざれば、民近き有らず。平易にして民に近ければ、民必ず之に帰す。』と。

原文周公卒,子伯禽固已歬受封,是爲魯公。魯公伯禽之初受封之魯,三年而後報政周公。周公曰:『何遲也?』伯禽曰:『變其俗,革其禮,喪三年然後除之,故遲。』太公亦封於齊,五月而報政周公。周公曰:『何疾也?』曰:『吾簡其君臣禮,從其俗爲也。』及後聞伯禽報政遲,乃嘆曰:『嗚呼,魯後世其北面事齊矣!夫政不簡不易,民不有近;平易近民,民必歸之。』

伯禽が即位した後に、管・蔡らが反乱を起こし、淮夷・徐戎もまた共に挙兵して叛いた。そこで伯禽は軍を率いて肸においてこれを討ち、肸誓を作り、曰く、『汝らの甲冑を整えよ、敢えて善からざることなかれ。敢えて牛馬の檻を傷つけるなかれ。馬牛が風に走り、臣妾が逃亡しても、敢えて追い越して逐うことなかれ、謹んでこれを返せ。敢えて寇掠し、垣を越えるなかれ。魯人の三郊三隧は、汝らの芻茭・糗糧・楨榦を備えよ、敢えて及ばざることなかれ。我は甲戌の日に築いて徐戎を征する、敢えて及ばざることなかれ、大刑あり。』と。この肸誓を作り、遂に徐戎を平定し、魯を定めた。

原文伯禽即位之後,有管、蔡等反也,淮夷、徐戎亦并興反。於是伯禽率師伐之於肸,作肸誓,曰:『陳爾甲胄,無敢不善。無敢傷牿。馬牛其風,臣妾逋逃,勿敢越逐,敬復之。無敢寇攘,踰墻垣。魯人三郊三隧,峙爾芻茭、糗糧、楨榦,無敢不逮。我甲戌筑而征徐戎,無敢不及,有大刑。』作此肸誓,遂平徐戎,定魯。

春秋以前の諸公

原文春秋之前諸公

魯公伯禽卒し、子の考公酋立つ。

原文魯公伯禽卒,子考公酋立。

考公四年にして卒し、弟の熙を立て、是を煬公と謂う。煬公は茅闕門を築く。

原文考公四年卒,立弟熙,是謂煬公。煬公筑茅闕門。

六年にして卒し、子の幽公宰立つ。

原文六年卒,子幽公宰立。

幽公十四年、幽公の弟の沸が幽公を殺して自ら立ち、これが魏公である。

原文幽公十四年,幽公弟沸殺幽公而自立,是爲魏公。

魏公は五十年で卒し、子の厲公擢が立つ。

原文魏公五十年卒,子厲公擢立。

厲公は三十七年で卒し、魯人はその弟の具を立て、これが獻公である。

原文厲公三十七年卒,魯人立其弟具,是爲獻公。

獻公は三十二年で卒し、子の真公濞が立つ。

原文獻公三十二年卒,子真公濞立。

真公十四年、周の厲王が無道で、彘に奔り出で、共和が行政す。二十九年、周の宣王が即位す。

原文真公十四年,周厲王無道,出奔彘,共和行政。二十九年,周宣王即位。

武公九年の春、武公は長子の括と少子の戲を伴い、西の周の宣王に朝見した。宣王は戲を寵愛し、戲を魯の太子に立てようとした。周の樊仲山父が宣王に諫めて言うには、『長を廃して少を立てるは、順ならず。順ならざれば、必ず王命に背く。王命に背けば、必ずこれを誅す。故に令を出すには順ならざるべからざるなり。令行われずんば、政立たず。行わるれども順ならざれば、民上を棄てん。下上に事え、少長に事うるは、順たる所以なり。今、天子諸侯を建て、その少を立つるは、民に逆を教うるなり。もし魯これに従わば、諸侯これに倣い、王命将に壅かれるあらん。もし従わずしてこれを誅せば、これ自ら王命を誅するなり。これを誅するも失、誅せざるも失、王其れこれを図らん』。宣王聴かず、ついに戲を立てて魯の太子とす。夏、武公帰りて卒す。戲立ち、これ懿公なり。

原文武公九年春,武公與長子括,少子戲,西朝周宣王。宣王愛戲,欲立戲爲魯太子。周之樊仲山父諫宣王曰:『廢長立少,不順;不順,必犯王命;犯王命,必誅之:故出令不可不順也。令之不行,政之不立;行而不順,民將棄上。夫下事上,少事長,所以爲順。今天子建諸矦,立其少,是教民逆也。若魯從之,諸矦效之,王命將有所壅;若弗從而誅之,是自誅王命也。誅之亦失,不誅亦失,王其圖之。』宣王弗聽,卒立戲爲魯太子。夏,武公歸而卒,戲立,是爲懿公。

懿公九年、懿公の兄括の子伯御が魯の人々とともに懿公を攻め弑し、伯御を立てて君とした。

原文懿公九年,懿公兄括之子伯御與魯人攻弒懿公,而立伯御爲君。

伯御即位して十一年、周の宣王魯を伐ち、その君伯御を殺し、魯の公子で諸侯を導き順ならしめることのできる者を問うて、魯の後継とせんとした。樊穆仲が言うには、『魯の懿公の弟稱は、肅恭にして明神に仕え、耆老を敬い事う。賦事し刑を行うに、必ず遺訓に問い、固実に諮り、問うところを干せず、諮るところを犯さず』。宣王曰く、『然り、能くその民を訓治すべし』。乃ち稱を夷宮に立て、これ孝公なり。是より後、諸侯多く王命に畔く。

原文伯御即位十一年,周宣王伐魯,殺其君伯御,而問魯公子能道順諸矦者,以爲魯後。樊穆仲曰:『魯懿公弟稱,肅恭明神,敬事耆老;賦事行刑,必問於遺訓而咨於固實;不干所問,不犯所(知)[咨]。』宣王曰:『然,能訓治其民矣。』乃立稱於夷宮,是爲孝公。自是後,諸矦多畔王命。

孝公二十五年、諸侯周に畔き、犬戎幽王を殺す。秦始めて諸侯に列せらる。

原文孝公二十五年,諸矦畔周,犬戎殺幽王。秦始列爲諸矦。

二十七年、孝公卒す。子弗湟立ち、これ惠公なり。

原文二十七年,孝公卒,子弗湟立,是爲惠公。

恵公三十年、晋人がその君昭侯を弑す。四十五年、晋人がまたその君孝侯を弑す。

原文惠公三十年,晉人弒其君昭矦。四十五年,晉人又弒其君孝矦。

四十六年、恵公卒す。長庶子の息が国を摂り当たり、君事を行ふ。是を隠公と爲す。

原文四十六年,惠公卒,長庶子息攝當國,行君事,是爲隱公。

初め、恵公の適夫人に子無し。公の賤妾聲子、子の息を生む。息長ずるに及び、宋に娶るを爲す。宋女至りて好し。恵公奪ひて自ら之を妻とす。子の允を生む。宋女を登用して夫人と爲し、允を以て太子と爲す。恵公の卒するに及び、允少きが故に、魯人共に息をして政を摂らしむ。即位を言はず。

原文初,惠公適夫人無子,公賤妾聲子生子息。息長,爲娶於宋。宋女至而好,惠公奪而自妻之。生子允。登宋女爲夫人,以允爲太子。及惠公卒,爲允少故,魯人共令息攝政,不言即位。

魯の隠公

原文魯隱公

隠公五年、棠にて漁を観る。八年、鄭と天子の太山の邑たる祊及び許田を易ふ。君子之を譏る。

原文隱公五年,觀漁於棠。八年,與鄭易天子之太山之邑祊及許田,君子譏之。

十一年の冬、公子揮がへつらって隠公に言うには、『百姓は君に従いやすくしております。君はそのまま即位なさるがよい。私に子允を殺させてください。君は私を宰相に任じてください』と。隠公は言うには、『先君の命がある。私は允が幼かったゆえ、摂政として代わったのである。今や允は成長した。私は今まさに菟裘の地を営んで老いを過ごそうとしている。允に政権を授けよう』と。揮は子允に聞かれて逆に誅殺されることを恐れ、かえって隠公を子允に讒して言うには、『隠公はそのまま即位しようとし、子を除こうとしている。子はこれを図られよ。私に隠公を殺させてください』と。子允は承諾した。十一月、隠公が鐘巫を祭り、社圃で斎戒し、蒍氏の館に宿った。揮は人を遣わして蒍氏において隠公を殺し、子允を立てて君とした。これが桓公である。

原文十一年冬,公子揮諂謂隱公曰:『百姓便君,君其遂立。吾請爲君殺子允,君以我爲相。』隱公曰:『有先君命。吾爲允少,故攝代。今允長矣,吾方營菟裘之地而老焉,以授子允政。』揮懼子允聞而反誅之,乃反譖隱公於子允曰:『隱公欲遂立,去子,子其圖之。請爲子殺隱公。』子允許諾。十一月,隱公祭鐘巫,齊于社圃,館于蒍氏。揮使人殺隱公于蒍氏,而立子允爲君,是爲桓公。

魯の桓公

原文魯桓公

桓公元年、鄭が璧をもって天子の許田と交換した。

原文桓公元年,鄭以璧易天子之許田。

二年、宋から賄賂として贈られた鼎を太廟に入れた。君子はこれを譏った。

原文二年,以宋之賂鼎入於太廟,君子譏之。

三年、揮をして斉に使いさせて婦を迎え、夫人とした。

原文三年,使揮迎婦于齊爲夫人。

六年、夫人は子を生み、桓公と同じ日であったので、名を同と曰う。同が成長し、太子となった。

原文六年,夫人生子,與桓公同日,故名曰同。同長,爲太子。

十六年、曹に会し、鄭を伐ち、厲公を入れた。

原文十六年,會于曹,伐鄭,入厲公。

十八年の春、公は行い有らんとし、遂に夫人と斉に如く。申繻諫めて止むも、公聴かず、遂に斉に如く。斉の襄公、桓公の夫人と通ず。公、夫人に怒る。夫人以て斉侯に告ぐ。夏四月丙子、斉の襄公、公を饗す。公酔い、公子彭生に魯の桓公を抱かしめ、因りて彭生に命じて其の脅を摺らしむ。公、車に死す。魯人、斉に告げて曰く、『寡君、君の威を畏れ、敢えて寧居せず、来たりて好礼を修む。礼成りて反せず、咎に帰す所無し。請う、彭生を得て諸侯に丑を除かん』と。斉人、彭生を殺して魯に説く。太子同を立てる。是れを荘公と為す。荘公の母夫人、因りて斉に留まり、敢えて魯に帰らず。

原文十八年春,公將有行,遂與夫人如齊。申繻諫止,公不聽,遂如齊。齊襄公通桓公夫人。公怒夫人,夫人以告齊矦。夏四月丙子,齊襄公饗公,公醉,使公子彭生抱魯桓公,因命彭生摺其脅,公死于車。魯人告于齊曰:『寡君畏君之威,不敢寧居,來修好禮。禮成而不反,無所歸咎,請得彭生除丑於諸矦。』齊人殺彭生以說魯。立太子同,是爲莊公。莊公母夫人因留齊,不敢歸魯。

魯の荘公

原文魯莊公

荘公五年の冬、衛を伐ち、衛の恵公を内れた。

原文莊公五年冬,伐衛,內衛惠公。

八年、斉の公子糾が来奔した。九年、魯は子糾を斉に納れようとしたが、桓公に後れ、桓公は兵を発して魯を撃ち、魯は急いで子糾を殺した。召忽は死んだ。斉は魯に管仲を生け捕りでよこすよう告げた。魯の施伯が言うには、『斉が管仲を得ようとするのは、彼を殺すためではなく、用いようとするのであり、用いれば魯の患いとなろう。殺してその屍を与えるに如かず』。荘公は聞き入れず、ついに管仲を囚えて斉に与えた。斉人は管仲を宰相とした。

原文八年,齊公子糾來奔。九年,魯欲內子糾於齊,後桓公,桓公發兵擊魯,魯急,殺子糾。召忽死。齊告魯生致管仲。魯人施伯曰:『齊欲得管仲,非殺之也,將用之,用之則爲魯患。不如殺,以其尸與之。』莊公不聽,遂囚管仲與齊。齊人相管仲。

十三年、魯の荘公は曹沬とともに斉の桓公と柯で会い、曹沬は斉の桓公を脅迫し、魯の侵された土地を求め、盟約を結んでから桓公を釈放した。桓公は約束を破ろうとしたが、管仲が諫めたので、ついに魯の侵された土地を返した。

原文十三年,魯莊公與曹沬會齊桓公於柯,曹沬劫齊桓公,求魯侵地,已盟而釋桓公。桓公欲背約,管仲諫,卒歸魯侵地。

十五年、斉の桓公は初めて覇を唱えた。

原文十五年,齊桓公始霸。

二十三年、荘公は斉に赴いて社を観た。

原文二十三年,莊公如齊觀社。

三十二年、初め、荘公が台を築いて党氏に臨み、孟女を見て、悦び愛し、夫人に立てることを許し、臂を割いて盟した。孟女は子の斑を生んだ。斑が成長し、梁氏の女を悦び、見に行った。圉人の犖が墻の外から梁氏の女と戯れていた。斑は怒り、犖を鞭打った。荘公はこれを聞き、『犖は力がある。殺してしまうならまだしも、鞭打って放っておくことはできない』と言った。斑は殺す機会を得なかったが、ちょうど荘公が病気になった。

原文三十二年,初,莊公筑臺臨黨氏,見孟女,說而愛之,許立爲夫人,割臂以盟。孟女生子斑。斑長,說梁氏女,往觀。圉人犖自墻外與梁氏女戲。斑怒,鞭犖。莊公聞之,曰:『犖有力焉,遂殺之,是未可鞭而置也。』斑未得殺,會莊公有疾。

荘公には三人の弟があり、長兄を慶父といい、次を叔牙といい、次を季友といった。荘公は斉の女を娶って夫人とし、哀姜といった。哀姜には子がなかった。哀姜の妹を叔姜といい、子の開を生んだ。荘公には嫡子がなく、孟女を愛し、その子の斑を立てようと欲した。荘公が病に罹り、弟の叔牙に後嗣を問うた。叔牙は言った、『一代は父子相続、一代は兄弟相継ぐのが、魯の常例でございます。慶父がおりますから、後嗣とすることができます。君は何を憂えられますか』。荘公は叔牙が慶父を立てようとしているのを憂い、退いて季友に問うた。季友は言った、『どうか死をもって斑を立てさせてください』。荘公は言った、『先ほど叔牙は慶父を立てようとしたが、どうしたものか』。季友は荘公の命を以て叔牙に鍼巫氏の家で待つよう命じ、鍼季に命じて叔牙を脅して鴆毒を飲ませ、言った、『これを飲めば後を奉じて祭祀を継ぐことができる。そうでなければ、死して後を絶つであろう』。叔牙はついに鴆を飲んで死んだ。魯はその子を立てて叔孫氏とした。八月癸亥、荘公が卒去すると、季友はついに子の斑を立てて君とした。荘公の命の通りである。喪に侍り、党氏に宿った。

原文莊公有三弟,長曰慶父,次曰叔牙,次曰季友。莊公取齊女爲夫人曰哀姜。哀姜無子。哀姜娣曰叔姜,生子開。莊公無適嗣,愛孟女,欲立其子斑。莊公病,而問嗣於弟叔牙。叔牙曰:『一繼一及,魯之常也。慶父在,可爲嗣,君何憂?』莊公患叔牙欲立慶父,退而問季友。季友曰:『請以死立斑也。』莊公曰:『曩者叔牙欲立慶父,柰何?』季友以莊公命命牙待於鍼巫氏,使鍼季劫飲叔牙以鴆,曰:『飲此則有後奉祀;不然,死且無後。』牙遂飲鴆而死,魯立其子爲叔孫氏。八月癸亥,莊公卒,季友竟立子斑爲君,如莊公命。侍喪,舍于黨氏。

先に慶父は哀姜と私通し、哀姜の妹の子の開を立てようと欲していた。荘公が卒去して季友が斑を立てると、十月己未、慶父は圉人の犖を使わして魯の公子斑を党氏で殺させた。季友は陳に奔った。慶父はついに荘公の子の開を立てた。これが湣公である。

原文先時慶父與哀姜私通,欲立哀姜娣子開。及莊公卒而季友立斑,十月己未,慶父使圉人犖殺魯公子斑於黨氏。季友奔陳。慶父竟立莊公子開,是爲湣公。

魯の湣公

原文魯湣公

湣公二年、慶父と哀姜の私通はますます甚だしくなった。哀姜は慶父と謀って湣公を殺し慶父を立てようとした。慶父は卜齮を使わし、武闈において湣公を襲撃して殺させた。季友はこれを聞き、陳より湣公の弟の申と邾に行き、魯に請うてこれを内に入れさせようとした。魯人は慶父を誅しようとした。慶父は恐れ、莒に奔った。ここにおいて季友は子の申を奉じて入国し、これを立てた。これが釐公である。

原文湣公二年,慶父與哀姜通益甚。哀姜與慶父謀殺湣公而立慶父。慶父使卜齮襲殺湣公於武闈。季友聞之,自陳與湣公弟申如邾,請魯求內之。魯人欲誅慶父。慶父恐,奔莒。於是季友奉子申入,立之,是爲釐公。

魯の釐公

原文魯釐公

釐公もまた荘公の少子である。哀姜は恐れて邾に奔った。季友は賂を用いて莒に赴き慶父を求め、慶父は帰国したが、人を遣わして慶父を殺させようとした。慶父は出奔を請うたが、聴き入れられず、そこで大夫奚斯を行かせて泣きながら往かせた。慶父は奚斯の声を聞いて、自ら自殺した。齊の桓公は哀姜が慶父と乱を為して魯を危うくしたと聞き、邾に召し寄せてこれを殺し、その屍を以て帰り、魯においてこれを戮した。魯の釐公は請うてこれを葬った。

原文釐公亦莊公少子。哀姜恐,奔邾。季友以賂如莒求慶父,慶父歸,使人殺慶父,慶父請奔,弗聽,乃使大夫奚斯行哭而往。慶父聞奚斯音,乃自殺。齊桓公聞哀姜與慶父亂以危魯,及召之邾而殺之,以其尸歸,戮之魯。魯釐公請而葬之。

季友の母は陳の女であり、故に亡命して陳に在った。陳は故に季友及び子申を送るのを助けた。季友の生まれようとする時、父の魯桓公が人をしてこれを卜させたところ、『男子なり。その名は「友」と曰い、両社の間にあって、公室の輔けとならん。季友亡きときは、則ち魯昌えず』と。生まれるに及んで、掌に文ありて『友』とあり、遂にこれを以て名づけ、成季と号した。その後季氏となり、慶父の後は孟氏となった。

原文季友母陳女,故亡在陳,陳故佐送季友及子申。季友之將生也,父魯桓公使人卜之,曰:『男也,其名曰「友」,閒于兩社,爲公室輔。季友亡,則魯不昌。』及生,有文在掌曰『友』,遂以名之,號爲成季。其後爲季氏,慶父後爲孟氏也。

釐公元年、汶陽の鄪を以て季友に封じた。季友は相となった。

原文釐公元年,以汶陽鄪封季友。季友爲相。

九年、晉の裏克がその君奚齊・卓子を殺した。齊の桓公は釐公を率いて晉の乱を討ち、髙梁に至って還り、晉の恵公を立てた。十七年、齊の桓公卒した。二十四年、晉の文公即位した。

原文九年,晉裏克殺其君奚齊、卓子。齊桓公率釐公討晉亂,至髙梁而還,立晉惠公。十七年,齊桓公卒。二十四年,晉文公即位。

魯の文公

原文魯文公

三十三年、釐公卒す、子興立つ、是を文公と爲す。

原文三十三年,釐公卒,子興立,是爲文公。

文公元年、楚の太子商臣其の父成王を弑し、代りて立つ。三年、文公晉の襄父に朝す。

原文文公元年,楚太子商臣弒其父成王,代立。三年,文公朝晉襄父。

十一年十月甲午、魯翟を咸にて敗る、長翟喬如を獲る、富父終甥其の喉を舂き、戈を以て之を殺し、其の首を子駒の門に埋め、以て宣伯を命ず。

原文十一年十月甲午,魯敗翟于咸,獲長翟喬如,富父終甥舂其喉,以戈殺之,埋其首於子駒之門,以命宣伯。

初め、宋武公の世、鄋瞞宋を伐つ、司徒皇父師を帥いて之を御し、以て翟を長丘にて敗り、長翟緣斯を獲る。晉の路を滅ぼすに、喬如の弟棼如を獲る。齊惠公二年、鄋瞞齊を伐つ、齊の王子城父其の弟榮如を獲り、其の首を北門に埋む。衛人其の季弟簡如を獲る。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。

原文初,宋武公之世,鄋瞞伐宋,司徒皇父帥師御之,以敗翟于長丘,獲長翟緣斯。晉之滅路,獲喬如弟棼如。齊惠公二年,鄋瞞伐齊,齊王子城父獲其弟榮如,埋其首於北門。衛人獲其季弟簡如。鄋瞞由是遂亡。

十五年、季文子晉に使す。

原文十五年,季文子使於晉。

十八年二月、文公卒す。文公に二妃あり。長妃は斉の女にして哀姜と為り、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、寵愛せられ、子俀を生む。俀は密かに襄仲に事え、襄仲之を立てんと欲す。叔仲曰く、不可なりと。襄仲斉の恵公に請う。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲子悪及び視を殺して俀を立て、是を宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎ、曰く、『天よ、襄仲道ならずして、適を殺し庶を立てる』と。市人皆哭す。魯人これを『哀姜』と謂う。魯ここより公室卑しく、三桓強し。

原文十八年二月,文公卒。文公有二妃:長妃齊女爲哀姜,生子惡及視;次妃敬嬴,嬖愛,生子俀。俀私事襄仲,襄仲欲立之,叔仲曰不可。襄仲請齊惠公,惠公新立,欲親魯,許之。冬十月,襄仲殺子惡及視而立俀,是爲宣公。哀姜歸齊,哭而過市,曰:『天乎!襄仲爲不道,殺適立庶!』市人皆哭,魯人謂之『哀姜』。魯由此公室卑,三桓彊。

魯の宣公

原文魯宣公

宣公俀十二年、楚の荘王強く、鄭を囲む。鄭伯降り、之を復国す。

原文宣公俀十二年,楚莊王彊,圍鄭。鄭伯降,復國之。

十八年、宣公卒す。子成公黒肱立ち、是を成公と為す。季文子曰く、『我をして適を殺し庶を立てて大援を失わしむる者は、襄仲なり』と。襄仲宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会すに宣公卒す。季文子之を怨み、帰父斉に奔る。

原文十八年,宣公卒,子成公黑肱立,是爲成公。季文子曰:『使我殺適立庶失大援者,襄仲。』襄仲立宣公,公孫歸父有寵。宣公欲去三桓,與晉謀伐三桓。會宣公卒,季文子怨之,歸父奔齊。

魯の成公

原文魯成公

成公二年の春、斉が伐って我が隆を取る。夏、公は晋の郤克とともに斉の頃公を砹に破り、斉は我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬わず。魯、晋に背き楚と合せんと欲す。或る者諫めて、乃ちせず。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯、之を諱る。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。

原文成公二年春,齊伐取我隆。夏,公與晉郤克敗齊頃公於砹齊復歸我侵地。四年,成公如晉,晉景公不敬魯。魯欲背晉合於楚,或諫,乃不。十年,成公如晉。晉景公卒,因留成公送葬,魯諱之。十五年,始與吳王壽夢會鐘離。

十六年、宣伯、晋に告げ、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。

原文十六年,宣伯告晉,欲誅季文子。文子有義,晉人弗許。

十八年、成公卒す。子の午立つ。是を襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。

原文十八年,成公卒,子午立,是爲襄公。是時襄公三歲也。

魯の襄公

原文魯襄公

襄公元年、晋、悼公を立つ。往年の冬、晋の欒書其の君厲公を弒す。四年、襄公、晋に朝す。

原文襄公元年,晉立悼公。往年冬,晉欒書弒其君厲公。四年,襄公朝晉。

五年、季文子が卒した。家には帛を衣とする妾なく、厩には粟を食む馬なく、府には金玉なく、三君を相した。君子曰く、『季文子は廉忠なり』と。

原文五年,季文子卒。家無衣帛之妾,廄無食粟之馬,府無金玉,以相三君。君子曰:『季文子廉忠矣。』

九年、晋とともに鄭を伐つ。晋の悼公、衛において襄公に冠礼を行い、季武子これに従い、礼を相する。

原文九年,與晉伐鄭。晉悼公冠襄公於衛,季武子從,相行禮。

十一年、三桓氏、三軍に分かれる。

原文十一年,三桓氏分爲三軍。

十二年、晋に朝す。十六年、晋の平公即位す。二十一年、晋の平公に朝す。

原文十二年,朝晉。十六年,晉平公即位。二十一年,朝晉平公。

二十二年、孔丘生まる。

原文二十二年,孔丘生。

二十五年、斉の崔杼がその君・荘公を弑し、その弟・景公を立てた。

原文二十五年,齊崔杼弒其君莊公,立其弟景公。

二十九年、呉の延陵季子が魯に使いし、周の楽を問い、その意を尽くして知り、魯人はこれを敬した。

原文二十九年,吳延陵季子使魯,問周樂,盡知其意,魯人敬焉。

三十一年六月、襄公卒す。その九月、太子卒す。魯人は斉帰の子・裯を立てて君と為し、これ即ち昭公である。

原文三十一年六月,襄公卒。其九月,太子卒。魯人立齊歸之子裯爲君,是爲昭公。

魯の昭公

原文魯昭公

昭公は年十九にして、なお童心有り。穆叔は立たせんと欲せず、曰く、『太子死せば、母弟有れば立てるべし、即ち長を立つるに非ず。年鈞しければ賢を択び、義鈞しければ則ちこれを卜す。今裯は適嗣に非ず、且つ又喪に居りて意は戚に在らずして喜色有り、若し果たして立てば、必ず季氏の憂いと為らん』と。季武子は聴かず、遂にこれを立てる。葬に及ぶまでに、三たび衰を易う。君子曰く、『是れ終わらざるなり』と。

原文昭公年十九,猶有童心。穆叔不欲立,曰:『太子死,有母弟可立,不即立長。年鈞擇賢,義鈞則卜之。今裯非適嗣,且又居喪意不在戚而有喜色,若果立,必爲季氏憂。』季武子弗聽,卒立之。比及葬,三易衰。君子曰:『是不終也。』

昭公三年、晋に朝して河に至る。晋の平公は謝してこれを還らしむ。魯はこれを恥づ。四年、楚の霊王、諸侯を申に会す。昭公は病と称して往かず。七年、季武子卒す。八年、楚の霊王、章華台を成し、昭公を召す。昭公往きて賀す。昭公に宝器を賜う。已にして悔い、復た詐りてこれを取る。十二年、晋に朝して河に至る。晋の平公は謝してこれを還らしむ。十三年、楚の公子棄疾、其の君霊王を弑し、代わりて立つ。十五年、晋に朝す。晋これを留めて晋の昭公を葬らしむ。魯はこれを恥づ。二十年、斉の景公、晏子と竟に狩し、因りて魯に入り礼を問う。二十一年、晋に朝して河に至る。晋は謝してこれを還らしむ。

原文昭公三年,朝晉至河,晉平公謝還之,魯恥焉。四年,楚靈王會諸矦於申,昭公稱病不往。七年,季武子卒。八年,楚靈王就章華臺,召昭公。昭公往賀,賜昭公寶器;已而悔,復詐取之。十二年,朝晉至河,晉平公謝還之。十三年,楚公子棄疾弒其君靈王,代立。十五年,朝晉,晉留之葬晉昭公,魯恥之。二十年,齊景公與晏子狩竟,因入魯問禮。二十一年,朝晉至河,晉謝還之。

二十五年春、鸜鵒来たりて巣くう。師己曰く、『文成の世の童謡に曰く「鸜鵒来たりて巣くう、公は乾侯に在り。鸜鵒入りて処る、公は外野に在り」。』

原文二十五年春,鸜鵒來巢。師己曰:『文成之世童謠曰「鸜鵒來巢,公在乾矦。鸜鵒入處,公在外野」。』

季氏と郈氏、鶏を鬬わす。季氏は鶏の羽に芥を付け、郈氏は金の距を用う。季平子怒りて郈氏を侵す。郈昭伯も亦た平子を怒る。臧昭伯の弟会、偽りて臧氏を讒し、季氏に匿わる。臧昭伯、季氏の人を囚う。季平子怒りて臧氏の老を囚う。臧・郈氏、難を以て昭公に告ぐ。昭公、九月戊戌に季氏を伐ち、遂に入る。平子、台に登りて請いて曰く、『君、讒を以て臣の罪を察せずして、これを誅せんとす。沂上に遷らんことを請う。』許さず。鄪に囚われんことを請う。許さず。五乗を以て亡なんことを請う。許さず。子家駒曰く、『君其れこれを許すべし。政は季氏より出づること久しく、徒と為る者衆し。衆は将に謀を合わさんとす。』聴かず。郈氏曰く、『必ずこれを殺すべし。』叔孫氏の臣戾、其の衆に謂いて曰く、『季氏無きと有ると、孰れか利かん。』皆曰く、『季氏無きは是れ叔孫氏無きなり。』戾曰く、『然り、季氏を救え。』遂に公の師を敗る。孟懿子、叔孫氏の勝つを聞き、亦た郈昭伯を殺す。郈昭伯は公の使たりし故に、孟氏これを得たり。三家共に公を伐ち、公遂に奔る。己亥、公斉に至る。斉の景公曰く、『千社を致して君を待たんことを請う。』子家曰く、『周公の業を棄てて斉に臣たらんとするは、可ならんや。』乃ち止む。子家曰く、『斉の景公は信無し。早く晋に之くに如かず。』従わず。叔孫、公の還るを見て、平子を見る。平子頓首す。初め昭公を迎えんと欲す。孟孫・季孫後悔し、乃ち止む。

原文季氏與郈氏鬬雞,季氏芥雞羽,郈氏金距。季平子怒而侵郈氏,郈昭伯亦怒平子。臧昭伯之弟會偽讒臧氏,匿季氏,臧昭伯囚季氏人。季平子怒,囚臧氏老。臧、郈氏以難告昭公。昭公九月戊戌伐季氏,遂入。平子登臺請曰:『君以讒不察臣罪,誅之,請遷沂上。』弗許。請囚於鄪,弗許。請以五乘亡,弗許。子家駒曰:『君其許之。政自季氏久矣,爲徒者眾,眾將合謀。』弗聽。郈氏曰:『必殺之。』叔孫氏之臣戾謂其眾曰:『無季氏與有,孰利?』皆曰:『無季氏是無叔孫氏。』戾曰:『然,救季氏!』遂敗公師。孟懿子聞叔孫氏勝,亦殺郈昭伯。郈昭伯爲公使,故孟氏得之。三家共伐公,公遂奔。己亥,公至于齊。齊景公曰:『請致千社待君。』子家曰:『棄周公之業而臣於齊,可乎?』乃止。子家曰:『齊景公無信,不如早之晉。』弗從。叔孫見公還,見平子,平子頓首。初欲迎昭公,孟孫、季孫後悔,乃止。

二十六年春、斉魯を伐ち、鄆を取りて昭公をここに居らしむ。夏、斉の景公将に公を内れんとし、魯の賂を受けざるを令す。申豊・汝賈、斉の臣高龁・子将に粟五千庾を許す。子将、斉侯に言いて曰く、『群臣魯君に事うること能わず、異有り。宋の元公、魯の為に晋に如き、これを内れんことを求む。道に卒す。叔孫昭子、其の君を内れんことを求む。病無くして死す。天の魯を棄つるを知らず。抑くは魯君鬼神に罪有らんか。願わくは君且く待たんことを。』斉の景公これに従う。

原文二十六年春,齊伐魯,取鄆而居昭公焉。夏,齊景公將內公,令無受魯賂。申豐、汝賈許齊臣髙龁、子將粟五千庾。子將言於齊矦曰:『群臣不能事魯君,有異焉。宋元公爲魯如晉,求內之,道卒。叔孫昭子求內其君,無病而死。不知天棄魯乎?抑魯君有罪于鬼神也?願君且待。』齊景公從之。

二十八年、昭公晋に如き、入らんことを求む。季平子晋の六卿に私す。六卿季氏の賂を受け、晋君を諫む。晋君乃ち止み、昭公を乾侯に居らしむ。二十九年、昭公鄆に如く。斉の景公人をして昭公に書を賜わしめ、自ら『主君』と謂う。昭公これを恥じ、怒りて乾侯を去る。三十一年、晋昭公を内れんと欲し、季平子を召す。平子布衣跣行し、六卿に因りて謝罪す。六卿為に言いて曰く、『晋昭公を内れんと欲すも、衆従わず。』晋人止む。三十二年、昭公乾侯に卒す。魯人共に昭公の弟宋を立てて君と為す。是を定公と為す。

原文二十八年,昭公如晉,求入。季平子私於晉六卿,六卿受季氏賂,諫晉君,晉君乃止,居昭公乾矦。二十九年,昭公如鄆。齊景公使人賜昭公書,自謂『主君』。昭公恥之,怒而去乾矦。三十一年,晉欲內昭公,召季平子。平子布衣跣行,因六卿謝罪。六卿爲言曰:『晉欲內昭公,眾不從。』晉人止。三十二年,昭公卒於乾矦。魯人共立昭公弟宋爲君,是爲定公。

魯の定公

原文魯定公

定公が立つと、趙の簡子が史墨に問うて曰く、『季氏は亡ぶか』と。史墨対えて曰く、『亡びず。季友は魯に大功あり、鄪を受けて上卿となり、文子・武子に至るまで、世々その業を増す。魯の文公卒し、東門遂が適を殺し庶を立てしより、魯君ここに国政を失う。政は季氏に在り、今に至るまで四君なり。民君を知らず、何をもって国を得んや。是をもって君は器と名とを慎み、以て人に仮すべからず』と。

原文定公立,趙簡子問史墨曰:『季氏亡乎?』史墨對曰:『不亡。季友有大功於魯,受鄪爲上卿,至于文子、武子,世增其業。魯文公卒,東門遂殺適立庶,魯君於是失國政。政在季氏,於今四君矣。民不知君,何以得國!是以爲君慎器與名,不可以假人。』

定公五年、季平子卒す。陽虎私に怒り、季桓子を囚え、盟を結びて、乃ちこれを捨つ。七年、斉我を伐ち、鄆を取り、以て魯の陽虎の邑とし、以て政に従わしむ。八年、陽虎尽く三桓の適を殺さんと欲し、而して更に其の善くする所の庶子を立て以てこれに代えんとす。季桓子を載せて将にこれを殺さんとす。桓子詐りて脱するを得。三桓共に陽虎を攻む。陽虎陽関に居す。九年、魯陽虎を伐つ。陽虎斉に奔り、已にして晋の趙氏に奔る。

原文定公五年,季平子卒。陽虎私怒,囚季桓子,與盟,乃捨之。七年,齊伐我,取鄆,以爲魯陽虎邑以從政。八年,陽虎欲盡殺三桓適,而更立其所善庶子以代之;載季桓子將殺之,桓子詐而得脫。三桓共攻陽虎,陽虎居陽關。九年,魯伐陽虎,陽虎奔齊,已而奔晉趙氏。

十年、定公斉の景公と夾谷に会す。孔子相の事を行ふ。斉魯君を襲わんと欲す。孔子礼を以て階を歴り、斉の淫楽を誅す。斉侯懼れ、乃ち止み、魯の侵地を帰し謝過す。十二年、仲由をして三桓の城を毀たしめ、其の甲兵を収む。孟氏城を堕すを肯ぜず、これを伐つも克たずして止む。季桓子斉の女楽を受け、孔子去る。

原文十年,定公與齊景公會於夾谷,孔子行相事。齊欲襲魯君,孔子以禮歷階,誅齊淫樂,齊矦懼,乃止,歸魯侵地而謝過。十二年,使仲由毀三桓城,收其甲兵。孟氏不肯墮城,伐之,不克而止。季桓子受齊女樂,孔子去。

十五年、定公卒す。子将立つ。是を哀公と為す。

原文十五年,定公卒,子將立,是爲哀公。

魯の哀公

原文魯哀公

哀公五年、斉の景公卒す。六年、斉の田乞其の君孺子を弑す。

原文哀公五年,齊景公卒。六年,齊田乞弒其君孺子。

七年、呉王夫差強く、斉を伐ち、繒に至り、百牢を魯に徴す。季康子子貢を使はして呉王及び太宰嚭を説き、礼を以て之を詘く。呉王曰く、『我れ文身たり、礼を責むるに足らず。』乃ち止む。

原文七年,吳王夫差彊,伐齊,至繒,徵百牢於魯。季康子使子貢說吳王及太宰嚭,以禮詘之。吳王曰:『我文身,不足責禮。』乃止。

呉、鄒の為に魯を伐ち、城下に至り、盟して去る。斉、我を伐ち、三邑を取る。十年、斉の南辺を伐つ。

原文吳爲鄒伐魯,至城下,盟而去。齊伐我,取三邑。十年,伐齊南邊。

斉、魯を伐つ。季氏冉有を用ひて功有り、孔子を思ふ。孔子衛より魯に帰る。斉の田常其の君簡公を俆州にて弑す。孔子之を伐たんことを請ふ、哀公聴かず。

原文齊伐魯。季氏用冉有有功,思孔子,孔子自衛歸魯。齊田常弒其君簡公於俆州。孔子請伐之,哀公不聽。

十五年、子服景伯を使者とし、子貢を介添えとして斉に赴かせたところ、斉は我が国に侵奪した土地を返還した。田常が初めて宰相となり、諸侯と親交を結ぼうとした。

原文十五年,使子服景伯、子貢爲介,適齊,齊歸我侵地。田常初相,欲親諸矦。

十六年、孔子が卒した。

原文十六年,孔子卒。

二十二年、越王句踐が呉王夫差を滅ぼした。

原文二十二年,越王句踐滅吳王夫差。

二十七年の春、季康子が卒した。夏、哀公は三桓を憂い、諸侯を頼ってこれを脅かそうとしたが、三桓もまた公が乱を起こすことを憂い、故に君臣の間には隙が多かった。公が陵阪に遊んだとき、街で孟武伯に遇い、『余が死に至るかどうか、問うてくれ』と言った。答えて言う、『知りません』。公は越を用いて三桓を伐とうとした。八月、哀公は陘氏のところへ行った。三桓が公を攻め、公は衛に奔り、去って鄒に行き、遂に越に行った。国人が哀公を迎えて復帰させたが、有山氏において卒した。子の寧が立ち、これが悼公である。

原文二十七年春,季康子卒。夏,哀公患三桓,將欲因諸矦以劫之,三桓亦患公作難,故君臣多閒。公游于陵阪,遇孟武伯於街,曰:『請問余及死乎?』對曰:『不知也。』公欲以越伐三桓。八月,哀公如陘氏。三桓攻公,公奔于衛,去如鄒,遂如越。國人迎哀公復歸,卒于有山氏。子寧立,是爲悼公。

魯悼公の後

原文魯悼公之後

悼公の時、三桓が勝り、魯は小侯の如く、三桓の家に卑しめられた。

原文悼公之時,三桓勝,魯如小矦,卑於三桓之家。

十三年、三晋は智伯を滅ぼし、その地を分けて有した。

原文十三年,三晉滅智伯,分其地有之。

三十七年、悼公卒し、子の嘉立つ、是を元公と爲す。

原文三十七年,悼公卒,子嘉立,是爲元公。

元公二十一年卒し、子の顯立つ、是を穆公と爲す。

原文元公二十一年卒,子顯立,是爲穆公。

穆公三十三年卒し、子の奮立つ、是を共公と爲す。

原文穆公三十三年卒,子奮立,是爲共公。

共公二十二年に卒す。子の屯立つ。是を康公と爲す。

原文共公二十二年卒,子屯立,是爲康公。

康公九年に卒す。子の匽立つ。是を景公と爲す。

原文康公九年卒,子匽立,是爲景公。

景公二十九年に卒す。子の叔立つ。是を平公と爲す。是の時、六國皆王と稱す。

原文景公二十九年卒,子叔立,是爲平公。是時六國皆稱王。

平公十二年、秦の惠王卒す。二十二年、平公卒す。子の賈立つ。是を文公と爲す。

原文平公十二年,秦惠王卒。二十二年,平公卒,子賈立,是爲文公。

文公七年、楚の懷王秦に死す。二十三年、文公卒す。子の讎立つ。是を頃公と爲す。

原文文公七年,楚懷王死于秦。二十三年,文公卒,子讎立,是爲頃公。

頃公の二年、秦が楚の郢を抜き、楚の頃王は東に陳に遷った。十九年、楚が我を伐ち、徐州を取る。二十四年、楚の考烈王が伐って魯を滅ぼす。頃公は亡び、下邑に遷り、家人となり、魯の祭祀は絶えた。頃公は柯にて卒す。

原文頃公二年,秦拔楚之郢,楚頃王東徙于陳。十九年,楚伐我,取徐州。二十四年,楚考烈王伐滅魯。頃公亡,遷於下邑,爲家人,魯絕祀。頃公卒于柯。

周公より頃公に至るまで、凡そ三十四世。

原文魯起周公至頃公,凡三十四世。

司馬遷評

原文司馬遷評

太史公曰く、余聞く、孔子の称して曰く『甚だしいかな、魯道の衰えたること!洙泗の間に龂龂たり』と。慶父及び叔牙・閔公の際を観るに、何ぞ其の乱れたること甚だしきや。隠桓の事、襄仲の適を殺し庶を立てしこと、三家北面して臣と為り、親しく昭公を攻め、昭公以って奔る。其の揖譲の礼に至りては則ち従うも、而して行う事何ぞ其れ戾れること甚だしきや。

原文太史公曰:余聞孔子稱曰『甚矣魯道之衰也!洙泗之閒龂龂如也』。觀慶父及叔牙閔公之際,何其亂也?隱桓之事;襄仲殺適立庶;三家北面爲臣,親攻昭公,昭公以奔。至其揖讓之禮則從矣,而行事何其戾也?