周公旦
周公旦は、周の武王の弟である。文王が在世の時より、旦は子として孝行で、仁に篤く、他の諸子とは異なっていた。武王が即位すると、旦は常に武王を補佐し、政事に参与することが多かった。武王九年、東征して盟津に至った時、周公は従って補佐した。十一年、紂を討ち、牧野に至り、周公は武王を助け、牧誓を作った。殷を破り、商の宮殿に入った。既に紂を殺した後、周公は大鉞を把り、召公は小鉞を把って、武王を挟み、社に釁を行い、天と殷の民に紂の罪を告げた。箕子の囚を釈放した。紂の子武庚祿父を封じ、管叔・蔡叔にその傅とさせ、殷の祭祀を継がせた。功臣や同姓の戚族を遍く封じた。周公旦を少昊の故墟たる曲阜に封じ、これを魯公とした。周公は封地に赴かず、留まって武王を補佐した。
武王が殷を克って二年、天下は未だ集まらず、武王が病に罹り、快方に向かわず、群臣は恐れた。太公・召公が卜を繆ろうとした。周公は言った、『未だ我が先王を憂い悲しませることはできぬ』。周公はここにおいて自らを人質と為さんとし、三つの壇を設け、周公は北面して立ち、璧を戴き圭を秉り、太王・王季・文王に告げた。史が策に祝して言うには、『惟れ爾の元孫たる王發、勤労して疾に阻まれたり。若し爾ら三王、天に負子の責ありとせば、旦を以て王發の身に代えよ。旦は巧みにして能あり、多材多藝にして、よく鬼神に事え奉る。乃ち王發は旦の 如 く多材多藝ならず、鬼神に事え奉る能わず。乃ち帝庭に命ぜられ、四方を敷佑し、用いて能く汝の子孫を下地に定め、四方の民、敬畏せざるは無し。天の降す葆命を墜すこと無く、我が先王も亦永く依帰する所あらん。今我其れ元亀に命を即けん、爾我を許さば、我其の璧と圭を以て帰り、以て爾の命を俟たん。爾我を許さざれば、我乃ち璧と圭を屏う』。周公が既に史に命じて策に太王・王季・文王に告げ、武王發に代わらんと欲することを、ここにおいて乃ち三王に即いて卜した。卜人は皆吉と言い、書を発して之を見れば、確かに吉であった。周公は喜び、籥を開き、乃ち書が吉に遇うたことを見た。周公は入って武王を賀して言った、『王其れ害無からん。旦新たに三王より命を受け、惟れ長終を是れ図る。茲の道能く予一人を念う』。周公は其の策を金縢の匱中に蔵し、守る者に敢えて言うなと誡めた。明日、武王は癒えた。
その後、武王が既に崩御し、成王は幼く、彊葆 (襁褓) の中にあった。周公は天下が武王の崩御を聞いて叛かんことを恐れ、周公は乃ち践祚して成王に代わり摂政し、国政を執り行った。管叔と其の諸弟が国中に流言して言うには、『周公将に成王に不利ならんとす』。周公は乃ち太公望・召公奭に告げて言った、『我が辟かずして摂政する所以の者は、天下が周に叛き、以て我が先王たる太王・王季・文王に告ぐる無からんことを恐れるが故なり。三王の天下を憂い労すること久しく、今に至って而后に成る。武王早く終わり、成王幼し、将に周を成さんとす、我が之が為に此の若き所以なり』。ここにおいて遂に成王を相い、而して其の子伯禽をして代わりに魯に封ぜられるに就かしめた。周公は伯禽に戒めて言った、『我は文王の子、武王の弟、成王の叔父なり、我天下に於いて亦賤しからず。然るに我は一たび沐するに三たび髪を捉え、一たび飯するに三たび哺を吐き、起きて以て士を待つも、猶天下の賢人を失わんことを恐る。子の魯に之くや、慎んで国を以て人に驕ること無かれ』。
管・蔡・武庚等は果たして淮夷を率いて反した。周公は乃ち成王の命を奉じ、師を興して東伐し、大誥を作った。遂に管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を放った。殷の余民を収め、以て康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて、殷の祭祀を奉ぜしめた。淮夷東土を寧んじ、二年にして畢く定まった。諸侯皆周に服して宗とした。
天が祉福を降す、唐叔が禾を得た。異なる母から同じ穎の禾、之を成王に献じた。成王は唐叔に命じて以て周公に東土に於いて餽らしめ、餽禾を作った。周公が既に禾の命を受け、天子の命を嘉し、嘉禾を作った。東土は以て集まり、周公は帰って成王に報じ、乃ち詩を作って王に貽し、之を鴟鴞と命じた。王も亦敢えて周公を訓えず。
成王七年二月乙未、王朝して周より歩み出で、豊に至り、太保召公をして先ず雒に之きて土を相わしめしむ。其の三月、周公往きて成周雒邑を営み、居るを卜し、吉と曰い、遂に之を国とした。
成王が成長し、政を聴く能うに至った。ここにおいて周公は乃ち政を成王に還し、成王は朝に臨んだ。周公が成王に代わって治めた時は、南面して倍依に背きて諸侯に朝した。七年後に至り、政を成王に還し、北面して臣位に就き、匔匔として畏るるが如くであった。
初め、成王が幼少の時、病み、周公は乃ち自ら其の蚤 (爪) を揃えて之を河に沈め、以て神に祝して言った、『王幼くして未だ識ること有らず、神命を奸むる者は乃ち旦なり』。亦其の策を府に蔵した。成王の病は癒えた。成王が政を用いるに及び、人或いは周公を譖え、周公は楚に奔った。成王が府を発し、周公の禱書を見て、乃ち泣き、周公を返した。
周公帰り、成王が壮に成長し、治めに淫佚する所あらんことを恐れ、乃ち多士を作り、毋逸を作った。毋逸に称えて言う、『人として父母たるは、業を為すこと至って長久なり、子孫驕奢にして之を忘れ、以て其の家を 亡 ぼす、人として子たる者、慎まざるべけんや。昔殷王中宗の在りし時、厳しく恭しく敬して天命を畏れ、自ら度りて民を治め、震懼して敢えて荒寧せず、故に中宗は国を饗くること七十五年。其の高宗に在りし時は、久しく外に労し、小人と与にし、其の即位するや、乃ち亮闇有り、三年言わず、言えば乃ち讙び、敢えて荒寧せず、密かに殷国を靖め、小大に至るまで怨み無く、故に高宗は国を饗くること五十五年。其の祖甲に在りし時は、義ならずして惟れ王たり、久しく外に小人たり、小人の依る所を知り、能く小民を保施し、寡を侮らず、故に祖甲は国を饗くること三十三年』。多士に称えて言う、『湯より帝乙に至るまで、率いて祀り明徳せざるは無く、帝天に配せざるは無し。今後の嗣王紂に在りては、誕に淫佚し、天及び民の従うを顧みず。其の民皆誅すべし』。 (周多士) 『文王は日中より日昃に至るも食する暇無く、国を饗くること五十年』。此れを作りて以て成王を誡む。
成王が豊に在りし時、天下已に安んじ、周の官政未だ次序せず、ここにおいて周公は周官を作り、官其の宜しきを別ち、立政を作りて、以て百姓を便ならしむ。百姓悦んだ。
周公が豊に在りし時、病み、将に没せんとし、言った、『必ず我を成周に葬れ、以て吾が敢えて成王を離れざるを明らかにせん』。周公が既に 卒 すと、成王も亦譲り、周公を畢に葬り、文王に従わせ、以て予小子敢えて周公を臣とせざるを明らかにした。
周公卒後の秋、未だ穫らず、暴風雷雨有り、禾斯くの如く偃し、大木斯くの如く抜かる。周国大いに恐れた。成王と大夫が朝服を以て金縢の書を開き、王は乃ち周公が自ら功と為し武王に代わらんとした 説 を得た。二公及び王は乃ち史・百執事に問う、史・百執事曰く、『信じ有り、昔周公我に命じて敢えて言う勿れと』。成王は書を執りて泣き、曰く、『今より後其れ繆卜無からんや。昔周公王家に勤労す、惟れ予幼き人及び知らず。今天威を動かして以て周公の徳を彰す、惟れ朕小子其れ迎えよ、我が国家の礼も亦之に宜しきべし』。王郊に出づると、天乃ち雨し、風反り、禾尽く起つ。二公は国人に命じ、凡そ大木の偃したる所、尽く起して之を筑かしむ。歳は則ち大いに熟した。ここにおいて成王は乃ち魯に文王を郊祭することを得せしむ。魯に天子の礼楽有るは、周公の徳を襃するが故なり。
伯禽
周公が卒すると、子の伯禽は既に先に封を受けており、これが魯公である。魯公伯禽が初めて魯に封ぜられた時、三年経ってから周公に政を報告した。周公が言うには、『何故遅いのか』。伯禽は言うには、『その俗を変え、その礼を改め、喪は三年経ってから除くので、遅くなったのである』。太公もまた斉に封ぜられ、五月で周公に政を報告した。周公が言うには、『何故速いのか』。言うには、『私は君臣の礼を簡略にし、その俗に従って行ったのである』。後に伯禽の政の報告が遅いと聞いて、乃ち嘆いて言うには、『嗚呼、魯の後世は北面して斉に事えるであろう!政は簡略でなければ易ならず、民は近づくことがない。平易で民に近ければ、民は必ずこれに帰する』。
伯禽が即位した後、管・蔡らが反乱し、淮夷・徐戎もまた共に起こって反した。ここにおいて伯禽は師を率いて肸においてこれを伐ち、肸誓を作り、言うには、『汝らの甲冑を整え、敢えて善からざることなかれ。敢えて牿を傷つけるなかれ。馬牛が風に走り、臣妾が逃げ去っても、敢えて越えて追いかけるなかれ、敬ってこれを返せ。敢えて寇掠し、牆垣を踰えるなかれ。魯人の三郊三隧は、汝らの芻茭・糗糧・楨榦を備え、敢えて及ばざることなかれ。我は甲戌の日に筑を征して徐戎を征伐する、敢えて及ばざることなかれ、大刑有り』。この肸誓を作り、遂に徐戎を平らげ、魯を定めた。
春秋以前の諸公
魯公伯禽が卒し、子の考公酋が立つ。
考公四年に卒し、弟の熙を立て、これを煬公という。煬公は茅闕門を築く。
六年に卒し、子の幽公宰が立つ。
幽公十四年、幽公の弟の沸が幽公を殺して自ら立ち、これを魏公という。
魏公五十年に卒し、子の厲公擢が立つ。
厲公三十七年に卒し、魯人はその弟の具を立て、これを獻公という。
獻公三十二年に卒し、子の真公濞が立つ。
真公十四年、周厲王が無道で、彘に奔り出で、共和が行政する。二十九年、周宣王が即位する。
武公九年の春、武公は長子の括と少子の戲を伴い、西のかた周の宣王に朝した。宣王は戲を愛し、戲を立てて魯の太子とせんと欲した。周の樊仲山父が宣王に諫めて言うには、『長を廃して少を立てるは、順ならず。順ならざれば、必ず王命を犯す。王命を犯せば、必ずこれを誅す。故に令を出すには順ならざるべからざるなり。令行われずんば、政立たず。行えて順ならざれば、民将に上を棄てん。下が上に事え、少が長に事うるは、順たる所以なり。今、天子諸侯を建て、その少を立つるは、民に逆を教うるなり。若し魯これに従わば、諸侯これに效い、王命将に壅かれる有らん。若し従わずしてこれを誅せば、これ自ら王命を誅するなり。これを誅するも失い、誅せざるも失い、王其れこれを図らん』。宣王は聴かず、遂に戲を立てて魯の太子とした。夏、武公は帰って卒し、戲が立ち、これを懿公という。
懿公九年、懿公の兄の括の子の伯御が魯人と共に懿公を攻めて 弑 し、伯御を立てて君とした。
伯御が即位して十一年、周宣王が魯を伐ち、その君伯御を殺し、魯の公子で諸侯を導き順ならしめることのできる者を問うて、魯の後継とせんとした。樊穆仲が言うには、『魯の懿公の弟の稱は、肅恭にして明神に仕え、耆老を敬い事える。賦事し刑を行うに、必ず遺訓に問い、固実に諮り、問う所に干せず、諮る所に犯さず』。宣王が言うには、『然り、能くその民を訓治するなり』。乃ち稱を夷宮に立て、これを孝公という。これより後、諸侯多く王命に畔く。
孝公二十五年、諸侯周に畔き、犬戎が幽王を殺す。秦始めて諸侯の列に並ぶ。
二十七年、孝公卒去り、子の弗湟立つ、是を惠公と爲す。
惠公三十年、 晉 人其の君昭矦を弒す。四十五年、 晉 人又た其の君孝矦を弒す。
四十六年、惠公卒去り、長庶子の息國に攝り當たり、君事を行ふ、是を隱公と爲す。
初め、惠公の適夫人に子無く、公の賤妾聲子、子の息を生む。息長ず、爲に宋に娶る。宋女至りて好し、惠公奪ひて自ら之を妻とす。子の允を生む。宋女を登して夫人と爲し、允を以て太子と爲す。惠公の卒するに及び、允少きが故に、魯人共に息を令して政を攝らしめ、即位を言はず。
魯隱公
隱公五年、棠にて漁を觀る。八年、鄭と天子の太山の邑たる祊及び許田を易ふ、君子之を譏る。
十一年冬、公子揮諂へて隱公に謂ひて曰く、『百姓君に便す、君其れ遂に立たん。吾君が爲に子允を殺さんことを請ふ、君我を以て相と爲せ。』隱公曰く、『先君の命有り。吾允の少きが爲に、故に攝り代はる。今允長ず、吾方に菟裘の地を營みて而して老いんとし、以て子允に政を授けん。』揮懼れて子允聞きて反つて之を誅せんことを、乃ち反つて隱公を子允に譖りて曰く、『隱公遂に立たんと欲し、子を去らんとす、子其れ之を圖れ。子が爲に隱公を殺さんことを請ふ。』子允諾す。十一月、隱公鐘巫を祭り、社圃に齊ひ、蒍氏に館す。揮人をして蒍氏に於て隱公を殺さしめ、而して子允を立てて君と爲す、是を桓公と爲す。
魯桓公
桓公元年、鄭璧を以て天子の許田を易ふ。
二年、宋の賂の鼎を以て太廟に入る、君子之を譏る。
三年、揮をして齊に婦を迎へしめて夫人と爲す。
六年、夫人生子す、桓公と同日なり、故に名づけて同と曰ふ。同長ず、太子と爲す。
十六年、曹に會し、鄭を伐ち、厲公を入る。
十八年春、公將に行有らんとし、遂に夫人と齊に如く。申繻諫めて止む、公聽かず、遂に齊に如く。齊襄公桓公の夫人に通ず。公夫人に怒る、夫人以て齊矦に告ぐ。夏四月丙子、齊襄公公を饗す、公醉ふ、公子彭生をして魯桓公を抱かしめ、因りて彭生に命じて其の脅を摺らしむ、公車に死す。魯人齊に告げて曰く、『寡君君の威を畏れ、敢へて寧居せず、來りて好禮を修む。禮成りて反せず、咎むる所歸する無し、彭生を得て諸矦に丑を除かんことを請ふ。』齊人彭生を殺して以て魯に說ぶ。太子同を立てる、是を莊公と爲す。莊公の母夫人因りて齊に留まり、敢へて魯に歸らず。
魯莊公
荘公五年の冬、衛を伐ち、衛の恵公を 内 れた。
八年、斉の公子糾が来奔した。九年、魯は子糾を斉に内れようとしたが、桓公に後れ、桓公は兵を発して魯を撃ち、魯は急ぎ、子糾を殺した。召忽は死す。斉は魯に管仲を生け捕りで致すよう告げた。魯の施伯が曰く、『斉は管仲を得んと欲するも、之を殺さんとするにあらず、将に之を用いんとす。之を用いれば則ち魯の患いとならん。殺すに如かず。其の尸を以て之に与えよ』と。荘公は聴かず、遂に管仲を囚えて斉に与えた。斉人は管仲を相とした。
十三年、魯の荘公と曹沬が斉の桓公と柯に 会 し、曹沬は斉の桓公を 劫 し、魯の侵地を求め、既に盟して桓公を釈した。桓公は約を背かんと欲したが、管仲が諫め、卒に魯の侵地を帰した。
十五年、斉の桓公、初めて覇をなす。
二十三年、荘公、斉に如きて社を観る。
三十二年、初め、荘公は台を築いて党氏に臨み、孟女を見て、説びて之を愛し、立って夫人と為すを許し、 臂 を割いて以て盟した。孟女、子斑を生む。斑長じて、梁氏の女を説び、往きて観る。 圉人 の 犖 、 墻 の外より梁氏の女と 戯 る。斑怒り、犖を鞭つ。荘公之を聞きて曰く、『犖は力有り。遂に之を殺すは、是れ未だ鞭ちて置くべからざるなり』と。斑未だ殺すを得ず、会荘公疾有り。
荘公に三弟有り、長を慶父と曰い、次を叔牙と曰い、次を季友と曰う。荘公、斉の女を取って夫人と為し、哀姜と曰う。哀姜に子無し。哀姜の 娣 を叔姜と曰い、子開を生む。荘公に適嗣無く、孟女を愛し、其の子斑を立てんと欲す。荘公病みて、弟の叔牙に嗣を問う。叔牙曰く、『一に継ぎ一に及ぶは、魯の常なり。慶父在り、嗣と為すべし。君何ぞ憂えん』と。荘公、叔牙の慶父を立てんと欲するを患い、退いて季友に問う。季友曰く、『請う、死を以て斑を立てん』と。荘公曰く、『 曩 に叔牙、慶父を立てんと欲せり。 奈何 』と。季友、荘公の命を以て牙に命じ鍼巫氏に待たしめ、鍼季に劫して叔牙に鴆を飲ませしめ、曰く、『此を飲まば則ち後有りて祀を奉ぜん。然らずんば、死して且つ後無からん』と。牙遂に鴆を飲んで死す。魯其の子を立てて叔孫氏と為す。八月癸亥、荘公卒す。 季友竟 に子斑を立てて君と為し、荘公の命の如し。喪に侍し、党氏に 舎 る。
先に慶父は哀姜と私通し、哀姜の娣の子開を立てんと欲せり。荘公の卒するに及び季友斑を立てしとき、十月己未、慶父、圉人の犖を使わしめて魯の公子斑を党氏に殺さしむ。季友、陳に奔る。慶父竟に荘公の子開を立て、是を湣公と為す。
魯の湣公
湣公二年、慶父と哀姜の通ずること益々甚だし。哀姜、慶父と謀りて湣公を殺し慶父を立てんとす。慶父、卜齮を使わしめて武闈に於いて湣公を襲殺せしむ。季友之を聞き、陳より湣公の弟申と邾に如き、魯に請いて之を内れしめんと求む。魯人慶父を誅せんと欲す。慶父恐れ、莒に奔る。ここにおいて季友、子申を奉じて入り、之を立て、是を釐公と為す。
魯の釐公
釐公も亦た荘公の少子なり。哀姜恐れ、邾に奔る。季友、賂を以て莒に如き慶父を求め、慶父帰る。人を使わしめて慶父を殺さしめんとす。慶父、奔らんことを請うも聴かず、乃ち大夫の奚斯を行かせて哭しながら往かしむ。慶父奚斯の音を聞き、乃ち自殺す。斉の桓公、哀姜と慶父の乱を以て魯を危うくするを聞き、邾より之を召して殺し、其の尸を以て帰り、魯に於いて之を戮す。魯の釐公請いて之を葬る。
季友の母は陳の女、故に亡いて陳に在り、陳故に佐けて季友及び子申を送る。季友の将に生まんとするや、父の魯桓公人を使わして之を卜せしむ。曰く、『男なり。其の名は「友」と曰い、両社に 間 まり、公室の輔と為らん。季友亡ば、則ち魯昌えず』と。生まるるに及び、文有り掌に「友」と在り、遂に以て之を名づけ、号して成季と為す。其の後季氏と為り、慶父の後は孟氏と為るなり。
釐公元年、汶陽の鄪を以て季友に封ず。季友相と為る。
九年、 晉 の裏克其の君奚斉・卓子を殺す。斉の桓公、釐公を率いて 晉 の乱を討ち、髙梁に至りて還り、 晉 の恵公を立てる。十七年、斉の桓公卒す。二十四年、 晉 の文公即位す。
魯の文公
三十三年、釐公卒し、子の興立つ、是を文公と爲す。
文公元年、楚の太子商臣其の父成王を 弑 し、代りて立つ。三年、文公 晉 の襄父に朝す。
十一年十月甲午、魯翟を咸にて敗り、長翟喬如を獲る、富父終甥其の喉を舂き、戈を以て之を殺し、其の首を子駒の門に埋め、以て宣伯に命ず。
初め、宋の武公の世、鄋瞞宋を伐つ、 司徒 皇父師を帥いて之を御し、翟を長丘にて敗り、長翟緣斯を獲る。 晉 の路を滅ぼすに、喬如の弟棼如を獲る。齊の惠公二年、鄋瞞齊を伐つ、齊の王子城父其の弟榮如を獲り、其の首を北門に埋む。衛人其の季弟簡如を獲る。鄋瞞是よりして遂に亡ぶ。
十五年、季文子 晉 に使す。
十八年二月、文公卒す。文公に二妃有り:長妃齊の女哀姜と爲り、子惡及び視を生む;次妃敬嬴、嬖愛せられ、子俀を生む。俀私に襄仲に事え、襄仲之を立たんと欲す、叔仲曰く不可と。襄仲齊の惠公に請う、惠公新に立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲子惡及び視を殺し俀を立てる、是を宣公と爲す。哀姜齊に歸り、哭きて市を過ぎ、曰く『天よ!襄仲道ならず、適を殺し庶を立つ!』と。市人皆哭く、魯人之を『哀姜』と謂う。魯此より公室卑く、三桓彊し。
魯の宣公
宣公俀十二年、楚の莊王彊く、鄭を圍む。鄭伯降り、復た之を國す。
十八年、宣公卒し、子の成公黑肱立つ、是を成公と爲す。季文子曰く『我をして適を殺し庶を立て大援を失わしむる者は、襄仲なり』と。襄仲宣公を立て、公孫歸父寵有り。宣公三桓を去らんと欲し、 晉 と謀り三桓を伐たんとす。會に宣公卒し、季文子之を怨み、歸父齊に奔る。
魯の成公
成公二年春、齊伐ち我が隆を取る。夏、公 晉 の郤克と與に齊の頃公を砹に敗る。齊復た我が侵地を歸す。四年、成公 晉 に如く、 晉 の景公魯を敬せず。魯 晉 を背き楚に合わんと欲す、或る人諫む、乃ちせず。十年、成公 晉 に如く。 晉 の景公卒し、因りて成公を留め葬を送らしむ、魯之を諱む。十五年、始めて吳王壽夢と鐘離に會す。
十六年、宣伯 晉 に告げ、季文子を誅せんと欲す。文子義有り、 晉 人許さず。
十八年、成公卒し、子の午立つ、是を襄公と爲す。是の時襄公三歳なり。
魯の襄公
襄公元年、晋は悼公を立てる。往年の冬、晋の欒書がその君厲公を 弑 す。四年、襄公は晋に朝す。
五年、季文子卒す。家には衣帛の妾無く、廄には食粟の馬無く、府には金玉無く、以て三君に相たり。君子曰く、『季文子は廉忠なり』と。
九年、晋とともに鄭を伐つ。晋の悼公、衛において襄公に冠せしめ、季武子従い、礼を行ふを相す。
十一年、三桓氏三軍に分かる。
十二年、晋に朝す。十六年、晋の平公即位す。二十一年、晋の平公に朝す。
二十二年、孔丘生まる。
二十五年、斉の崔杼その君莊公を 弑 し、その弟景公を立てる。
二十九年、呉の延陵季子魯に使いし、周楽を問ひ、其の意を尽くに知り、魯人敬す。
三十一年六月、襄公卒す。其の九月、太子卒す。魯人は斉帰の子裯を立てて君と為す、是を昭公と為す。
魯昭公
昭公年十九、猶ほ童心有り。穆叔立たんと欲せず、曰く、『太子死し、母弟有れば立て可し、即ち長を立つるに非ず。年鈞しければ賢を択び、義鈞しければ則ち之を卜す。今裯は適嗣に非ず、且つ又喪に居りて意戚に在らずして喜色有り、若し果たして立てば、必ず季氏の憂ひと為らん』と。季武子聴かず、卒に之を立てる。葬に比するに及びて、三たび衰を易ふ。君子曰く、『是れ終はらざるなり』と。
昭公三年、晋に朝して河に至る、晋の平公謝して之を還す、魯恥づ。四年、楚の霊王諸侯を申に会す、昭公病と称して往かず。七年、季武子卒す。八年、楚の霊王章華台に就き、昭公を召す。昭公往きて賀し、昭公に宝器を賜ふ。已にして悔ひ、復た詐りて之を取り返す。十二年、晋に朝して河に至る、晋の平公謝して之を還す。十三年、楚の公子棄疾その君霊王を 弑 し、代りて立つ。十五年、晋に朝す、晋之を留めて晋の昭公を葬らしむ、魯之を恥づ。二十年、斉の景公晏子と竟に狩し、因りて魯に入り礼を問ふ。二十一年、晋に朝して河に至る、晋謝して之を還す。
二十五年春、鸜鵒来たりて巣くふ。師己曰く、『文成の世の童謡に曰く「鸜鵒来たりて巣くふ、公は乾矦に在り。鸜鵒入りて処る、公は外野に在り」と。』
季氏と郈氏と鬬鶏す、季氏は鶏の羽に芥を付け、郈氏は金の距を付く。季平子怒りて郈氏を侵し、郈昭伯も亦平子を怒る。臧昭伯の弟会、偽りて臧氏を讒し、季氏に匿る。臧昭伯、季氏の人を囚ふ。季平子怒りて臧氏の老を囚ふ。臧・郈氏、難を以て昭公に告ぐ。昭公九月戊戌に季氏を伐ち、遂に入る。平子台に登りて請ひて曰く、『君讒を以て臣の罪を察せず、之を誅せんとす、沂上に遷らんことを請ふ』と。許さず。鄪に囚はれんことを請ふ、許さず。五乗を以て亡はんことを請ふ、許さず。子家駒曰く、『君其れ之を許すべし。政は季氏より出づること久しく、徒と為る者衆し、衆将に謀を合はさん』と。聴かず。郈氏曰く、『必ず之を殺すべし』と。叔孫氏の臣戾其の衆に謂ひて曰く、『季氏無きと有ると、孰れか利か』と。皆曰く、『季氏無きは是れ叔孫氏無きなり』と。戾曰く、『然り、季氏を救へ』と。遂に公の師を敗る。孟懿子叔孫氏の勝つを聞き、亦た郈昭伯を殺す。郈昭伯は公の使と為る、故に孟氏之を得たり。三家共に公を伐ち、公遂に奔る。己亥、公斉に至る。斉の景公曰く、『千社を致して君を待たんことを請ふ』と。子家曰く、『周公の業を棄てて斉に臣たらん、可ならんや』と。乃ち止む。子家曰く、『斉の景公信無し、早く晋に之くに如かず』と。従はず。叔孫公を見て還り、平子を見る、平子頓首す。初め昭公を迎へんと欲す、孟孫・季孫後悔し、乃ち止む。
二十六年春、斉魯を伐ち、鄆を取りて昭公を居らしむ。夏、斉の景公将に公を内れんとし、魯の賂を受けざるを令す。申豊・汝賈斉の臣髙龁・子将に粟五千庾を許す。子将斉侯に言ひて曰く、『群臣能く魯君に事ふること能はず、異有り。宋の元公魯の為に晋に如き、之を内れんことを求め、道に卒す。叔孫昭子其の君を内れんことを求め、病無くして死す。天の魯を棄つるを知らざるか、抑くは魯君鬼神に罪有るか。願くは君且く待たん』と。斉の景公之に従ふ。
二十八年、昭公は晋に赴き、帰国を求めた。季平子が晋の六卿に私的に働きかけ、六卿は季氏の賄賂を受け、晋君を諫めたので、晋君はこれを止め、昭公を乾侯に留め置いた。二十九年、昭公は鄆に赴いた。斉の景公が人を遣わして昭公に書を賜り、自らを「主君」と称した。昭公はこれを恥じ、怒って乾侯を去った。三十一年、晋は昭公を魯に入れようとし、季平子を召した。平子は布衣に跣行し、六卿に因って謝罪した。六卿が言上して曰く、「晋は昭公を入れようとするが、衆は従わない」と。晋人は止めた。三十二年、昭公は乾侯で卒去した。魯人は共に昭公の弟の宋を立てて君とし、これが定公である。
魯の定公
定公が立つと、趙の簡子が史墨に問うて曰く、「季氏は亡ぶか」と。史墨が対えて曰く、「亡びません。季友は魯に大功があり、鄪を受けて上卿となり、文子・武子に至るまで、代々その業を増しました。魯の文公が卒去すると、東門遂が適子を殺し庶子を立て、魯君はここに国政を失いました。政は季氏にあり、今に至るまで四君になります。民は君を知らず、どうして国を得られましょうか。それ故に君は器と名を慎み、人に仮すべからず」と。
定公五年、季平子が卒去した。陽虎は私怨を抱き、季桓子を囚え、盟を結んで、ようやくこれを釈放した。七年、斉が我が国を伐ち、鄆を取って、魯の陽虎の邑とし、政に従わせた。八年、陽虎は三桓の適子をことごとく殺し、代わりに自分が親しい庶子を立てようとした。季桓子を車に載せて殺そうとしたが、桓子は偽って脱出した。三桓が共に陽虎を攻め、陽虎は陽関に居た。九年、魯が陽虎を伐ち、陽虎は斉に奔り、やがて晋の趙氏に奔った。
十年、定公は斉の景公と夾谷で会し、孔子が相事を行った。斉は魯君を襲おうとしたが、孔子が礼を以て階を歴り、斉の淫楽を誅したので、斉侯は懼れ、やめて、魯の侵地を帰し、過ちを謝した。十二年、仲由を使わして三桓の城を毀たせ、その甲兵を収めた。孟氏は城を堕とすことを肯ぜず、これを伐ったが、勝たずに止めた。季桓子が斉の女楽を受け、孔子は去った。
十五年、定公が卒去し、子の将が立ち、これが哀公である。
魯の哀公
哀公五年、斉の景公が卒去した。六年、斉の田乞がその君の孺子を 弑 した。
七年、呉王夫差が強盛となり、斉を伐ち、繒に至り、魯に百牢を徴した。季康子が子貢を使わして呉王及び太宰嚭を説き、礼を以てこれを詘した。呉王曰く、「我は文身なり、礼を責むるに足らず」と。乃ち止んだ。
呉は鄒のために魯を伐ち、城下に至り、盟して去った。斉が我が国を伐ち、三邑を取った。十年、斉の南辺を伐った。
斉が魯を伐った。季氏は冉有を用いて功があり、孔子を思い、孔子は衛より魯に帰った。斉の田常がその君の簡公を俆州で 弑 した。孔子はこれを伐つことを請うたが、哀公は聴かなかった。
十五年、子服景伯・子貢を使者とし、斉に赴かせた。斉は我が侵地を帰した。田常が初めて相となり、諸侯と親しみたいと思った。
十六年、孔子が卒去した。
二十二年、越王句踐が呉王夫差を滅ぼした。
二十七年春、季康子が卒去した。夏、哀公は三桓を患い、諸侯を因ってこれを脅かそうとした。三桓もまた公が難を起こすことを患い、故に君臣の間に隙が多かった。公が陵阪に遊び、街で孟武伯に遇い、曰く、「余が死に及ぶことを問わんか」と。対えて曰く、「知りません」と。公は越を以て三桓を伐たんとした。八月、哀公は陘氏に赴いた。三桓が公を攻め、公は衛に奔り、去って鄒に赴き、遂に越に赴いた。国人が哀公を迎えて復帰させ、有山氏で卒去した。子の寧が立ち、これが悼公である。
魯の悼公の後、
悼公の時、三桓が勝り、魯は小侯の如く、三桓の家よりも卑しくなった。
十三年、三 晉 が智伯を滅ぼし、その地を分けて有した。
三十七年、悼公卒し、子の嘉が立ち、これが元公である。
元公二十一年に卒し、子の顯が立ち、これが穆公である。
穆公三十三年に卒し、子の奮が立ち、これが共公である。
共公二十二年に卒し、子の屯が立ち、これが康公である。
康公九年に卒し、子の匽が立ち、これが景公である。
景公二十九年に卒し、子の叔が立ち、これが平公である。この時六國は皆王と稱した。
平公十二年、秦の惠王卒す。二十二年、平公卒し、子の賈が立ち、これが文公である。
文公七年、楚の懷王秦に死す。二十三年、文公卒し、子の讎が立ち、これが頃公である。
頃公二年、秦楚の郢を抜く。楚の頃王東に陳に徙る。十九年、楚我を伐ち、徐州を取る。二十四年、楚の考烈王伐ちて魯を滅ぼす。頃公亡び、下邑に遷り、家人となり、魯は祀を絶つ。頃公柯に卒す。
魯周公より起こりて頃公に至るまで、凡そ三十四世。
司馬遷評
太史公曰く、余聞く、孔子の稱して曰く『甚だしいかな魯道の衰ゆるや!洙泗の閒龂龂たるが如し』と。慶父及び叔牙閔公の際を觀るに、何ぞ其の亂るるや斯くの甚だしき。隱桓の事、襄仲の適を殺し庶を立てる、三家北面して臣と爲り、親しく昭公を攻め、昭公以て奔る。其の揖讓の禮に至りては則ち從ふ、而して行事何ぞ其れ戾れるや。
この作品は全世界において公有領域に属する。何となれば、作者の没後百年を経過し、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたからである。