武王が殷を克って二年、天下は未だ集まらず、武王が病に罹り、快方に向かわなかった。群臣は恐れ、太公・召公が卜を繆った。周公は言った、『未だ我が先王を憂い悲しませることはできぬ』。周公はここにおいて自ら質とならんとし、三つの壇を設け、周公は北面して立ち、璧を戴き圭を秉り、太王・王季・文王に告げた。史が策に祝して曰く、『惟れ爾の元孫王發、勤労して疾に阻まれる。もし爾ら三王に天に対し負子の責有らば、旦を以て王發の身に代えん。旦は巧みに能くし、多材多芸にして、よく鬼神に事うる。乃ち王發は旦の如く多材多芸ならず、鬼神に事える能わず。乃ち帝庭に命ぜられ、四方を敷佑し、用いて能く汝の子孫を下地に定め、四方の民は畏敬せざるは無し。天の降す葆命を墜とすこと無く、我が先王も亦永く依帰する所あらん。今我其れ元亀に命を即けん、爾我を許さば、我其の璧と圭を以て帰り、以て爾の命を俟たん。爾我を許さざれば、我乃ち璧と圭を屏けん』。周公は既に史に命じて策に太王・王季・文王に告げさせ、武王發に代わらんと欲し、ここにおいて乃ち三王に即いて卜した。卜人皆が吉と曰い、書を発して之を見れば、確かに吉であった。周公は喜び、籥を開き、乃ち書を見て吉に遇う。周公は入って武王を賀して曰く、『王其れ害無からん。旦新たに三王より命を受け、惟れ長終を是れ図る。茲の道能く予一人を念う』。周公は其の策を金縢の匱中に蔵し、守る者に誡めて敢えて言わしめなかった。明日、武王は瘳えた。
その後、武王が既に崩じ、成王は幼く、彊葆(きょうほう、襁褓)の中にあった。周公は天下が武王の崩じたことを聞いて畔かんことを恐れ、周公は乃ち阼を践み、成王に代わって摂政し、国事を執り行った。管叔及びその諸弟が国中に流言して曰く、『周公将に成王に不利ならんとす』。周公は乃ち太公望・召公奭に告げて曰く、『我が辟けずして摂政を行う所以の者は、天下が周に畔き、以て我が先王太王・王季・文王に告ぐる無からんことを恐るるなり。三王の天下を憂い労すること久しく、今にして後に成る。武王は早く終わり、成王は幼し、将に周を成さんとす。我が之が為に此の若くする所以なり』。ここにおいて遂に成王を相け、而して其の子の伯禽をして代わりに魯に封ぜられんことを就かしめた。周公は伯禽に戒めて曰く、『我は文王の子、武王の弟、成王の叔父なり、我天下に於いて亦賤しからず。然れども我は一たび沐するに三たび髪を捉え、一たび飯するに三たび哺を吐き、起きて士を待つも、猶天下の賢人を失わんことを恐る。子の魯に之くや、慎んで国を以て人に驕ること無かれ』。
管叔・蔡叔・武庚等は果たして淮夷を率いて反した。周公は乃ち成王の命を奉じ、師を興して東伐し、大誥を作った。遂に管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を放った。殷の余民を収め、以て康叔を衛に封じ、微子を宋に封じて、殷の祭祀を奉ぜしめた。淮夷及び東土を寧んじ、二年にして畢く定まった。諸侯皆周を宗とし服した。
天は祉福を降し、唐叔は禾を得たり、異母にして同穎、これを成王に献ず、成王は唐叔に命じて以て周公に東土に於いて餽らしむ、餽禾を作る。周公既に禾を受く、天子の命を嘉し、嘉禾を作る。東土以て集まる、周公帰りて成王に報じ、乃ち詩を作りて王に貽す、之を命じて鴟鴞と曰う。王も亦未だ敢て周公を訓えず。
成王七年二月乙未、王朝して周より歩み、豊に至り、太保召公をして先ず之れを雒に相土せしむ。其の三月、周公往きて成周雒邑を営み、居るを卜し、曰く吉と、遂に之を国とす。
成王長じ、政を聴く能う。是に於いて周公乃ち政を成王に還し、成王朝に臨む。周公の成王に代わりて治むるや、南面して倍依を以て諸侯に朝す。及七年の後、政を成王に還し、北面して臣位に就き、匔匔として畏るるが如し。
初め、成王少き時、病み、周公乃ち自ら其の蚤を揃えて河に沈め、以て神に祝して曰く、『王少くして識なく、神命を奸む者は乃ち旦なり。』亦其の策を府に蔵す。成王病みて瘳ゆ。成王用事するに及び、人或いは周公を譖す、周公楚に奔る。成王府を発し、周公の禱書を見て、乃ち泣き、周公を反す。
周公帰る、成王の壮にして、治に淫佚あるを恐れ、乃ち多士を作り、毋逸を作る。毋逸に称して、『人として父母たり、業を為すこと至長久、子孫驕奢にして之を忘れ、以て其の家を亡ぼす、人として子たる者慎まざる可けんや。昔殷王中宗に在り、厳にして恭敬に天命を畏れ、自ら度りて民を治め、震懼して敢て荒寧せず、故に中宗国を饗くること七十五年。其の高宗に在り、久しく外に労し、小人と与にし、其の即位するに及び、乃ち亮闇有り、三年言わず、言えば乃ち讙し、敢て荒寧せず、密かに殷国を靖め、小大に至るまで怨み無し、故に高宗国を饗くること五十五年。其の祖甲に在り、義ならずして惟王たり、久しく小人として外に在り、小人の依る所を知り、能く小民を保施し、寡を侮らず、故に祖甲国を饗くること三十三年。』多士に称して曰く、『湯より帝乙に至るまで、率いて祀り明徳せざる無く、帝天に配せざる無し。今後の嗣王紂に在り、誕に其の佚を淫し、天及び民の従うを顧みず。其の民皆誅す可し。(周多士)文王は日中昃るも食する暇無く、国を饗くること五十年。』此れを作りて以て成王を誡む。
成王が豊に在りし時、天下は既に安んじ、周の官政は未だ次序を得ず、ここに周公は周官を作り、官を別ちてその宜しきを定め、立政を作りて以て百姓を便ならしむ。百姓悦ぶ。
周公、豊に在りて病み、将に没せんとし、曰く、『必ず我を成周に葬れ、以て吾が成王を離れざるを明らかにせん。』と。周公既に卒し、成王も亦譲り、周公を畢に葬り、文王に従わしむ。以て予小子の周公を臣とせざるを明らかにせんとす。
周公卒して後、秋の未だ穫らざるに、暴風雷雨有り、禾は斯く偃し、大木は斯く抜かる。周国大いに恐る。成王と大夫と朝服を以て金縢の書を開く。王乃ち周公の自ら以て功と為し武王に代わらんとした説を得たり。二公及び王乃ち史・百執事に問う。史・百執事曰く、『信に有り、昔周公我に命じて敢えて言う勿れとす。』と。成王書を執りて泣き、曰く、『今より後其れ繆卜無からんか。昔周公は王家に勤労し、惟れ我が幼き人知るに及ばず。今、天威を動かして以て周公の徳を彰わす。惟れ朕小子其れ迎えん、我が国家の礼も亦之に宜しきべし。』と。王郊に出づれば、天乃ち雨し、風反り、禾尽く起つ。二公国人に命じ、凡そ大木の偃したるを、尽く起して之を筑く。歳則ち大いに熟す。ここに成王乃ち魯に命じて文王を郊祭するを得しむ。魯に天子の礼楽有るは、以て周公の徳を襃するなり。
伯禽
周公卒し、子伯禽は固より已に前に封を受けしが、是を魯公と為す。魯公伯禽の初めに封を受けて魯に之く、三年にして後に周公に政を報ず。周公曰く、『何ぞ遅きや。』と。伯禽曰く、『其の俗を変え、其の礼を革め、喪三年にして然る後に之を除く、故に遅し。』と。太公も亦斉に封ぜられ、五月にして周公に政を報ず。周公曰く、『何ぞ疾きや。』と。曰く、『吾其の君臣の礼を簡にし、其の俗に従いて為すなり。』と。後に至り伯禽の政を報ずる遅きを聞き、乃ち嘆いて曰く、『嗚呼、魯の後世は其れ北面して斉に事えんか。夫れ政は簡ならず易ならざれば、民近き有らず。平易にして民に近ければ、民必ず之に帰す。』と。
伯禽が即位した後に、管・蔡らが反乱を起こし、淮夷・徐戎もまた共に挙兵して叛いた。そこで伯禽は軍を率いて肸においてこれを討ち、肸誓を作り、曰く、『汝らの甲冑を整えよ、敢えて善からざることなかれ。敢えて牛馬の檻を傷つけるなかれ。馬牛が風に走り、臣妾が逃亡しても、敢えて追い越して逐うことなかれ、謹んでこれを返せ。敢えて寇掠し、垣を越えるなかれ。魯人の三郊三隧は、汝らの芻茭・糗糧・楨榦を備えよ、敢えて及ばざることなかれ。我は甲戌の日に築いて徐戎を征する、敢えて及ばざることなかれ、大刑あり。』と。この肸誓を作り、遂に徐戎を平定し、魯を定めた。
春秋以前の諸公
魯公伯禽卒し、子の考公酋立つ。
考公四年にして卒し、弟の熙を立て、是を煬公と謂う。煬公は茅闕門を築く。
六年にして卒し、子の幽公宰立つ。
幽公十四年、幽公の弟の沸が幽公を殺して自ら立ち、これが魏公である。
魏公は五十年で卒し、子の厲公擢が立つ。
厲公は三十七年で卒し、魯人はその弟の具を立て、これが獻公である。
獻公は三十二年で卒し、子の真公濞が立つ。
真公十四年、周の厲王が無道で、彘に奔り出で、共和が行政す。二十九年、周の宣王が即位す。
武公九年の春、武公は長子の括と少子の戲を伴い、西の周の宣王に朝見した。宣王は戲を寵愛し、戲を魯の太子に立てようとした。周の樊仲山父が宣王に諫めて言うには、『長を廃して少を立てるは、順ならず。順ならざれば、必ず王命に背く。王命に背けば、必ずこれを誅す。故に令を出すには順ならざるべからざるなり。令行われずんば、政立たず。行わるれども順ならざれば、民上を棄てん。下上に事え、少長に事うるは、順たる所以なり。今、天子諸侯を建て、その少を立つるは、民に逆を教うるなり。もし魯これに従わば、諸侯これに倣い、王命将に壅かれるあらん。もし従わずしてこれを誅せば、これ自ら王命を誅するなり。これを誅するも失、誅せざるも失、王其れこれを図らん』。宣王聴かず、ついに戲を立てて魯の太子とす。夏、武公帰りて卒す。戲立ち、これ懿公なり。
懿公九年、懿公の兄括の子伯御が魯の人々とともに懿公を攻め弑し、伯御を立てて君とした。
伯御即位して十一年、周の宣王魯を伐ち、その君伯御を殺し、魯の公子で諸侯を導き順ならしめることのできる者を問うて、魯の後継とせんとした。樊穆仲が言うには、『魯の懿公の弟稱は、肅恭にして明神に仕え、耆老を敬い事う。賦事し刑を行うに、必ず遺訓に問い、固実に諮り、問うところを干せず、諮るところを犯さず』。宣王曰く、『然り、能くその民を訓治すべし』。乃ち稱を夷宮に立て、これ孝公なり。是より後、諸侯多く王命に畔く。
孝公二十五年、諸侯周に畔き、犬戎幽王を殺す。秦始めて諸侯に列せらる。
二十七年、孝公卒す。子弗湟立ち、これ惠公なり。
恵公三十年、晋人がその君昭侯を弑す。四十五年、晋人がまたその君孝侯を弑す。
四十六年、恵公卒す。長庶子の息が国を摂り当たり、君事を行ふ。是を隠公と爲す。
初め、恵公の適夫人に子無し。公の賤妾聲子、子の息を生む。息長ずるに及び、宋に娶るを爲す。宋女至りて好し。恵公奪ひて自ら之を妻とす。子の允を生む。宋女を登用して夫人と爲し、允を以て太子と爲す。恵公の卒するに及び、允少きが故に、魯人共に息をして政を摂らしむ。即位を言はず。
魯の隠公
隠公五年、棠にて漁を観る。八年、鄭と天子の太山の邑たる祊及び許田を易ふ。君子之を譏る。
十一年の冬、公子揮がへつらって隠公に言うには、『百姓は君に従いやすくしております。君はそのまま即位なさるがよい。私に子允を殺させてください。君は私を宰相に任じてください』と。隠公は言うには、『先君の命がある。私は允が幼かったゆえ、摂政として代わったのである。今や允は成長した。私は今まさに菟裘の地を営んで老いを過ごそうとしている。允に政権を授けよう』と。揮は子允に聞かれて逆に誅殺されることを恐れ、かえって隠公を子允に讒して言うには、『隠公はそのまま即位しようとし、子を除こうとしている。子はこれを図られよ。私に隠公を殺させてください』と。子允は承諾した。十一月、隠公が鐘巫を祭り、社圃で斎戒し、蒍氏の館に宿った。揮は人を遣わして蒍氏において隠公を殺し、子允を立てて君とした。これが桓公である。
魯の桓公
桓公元年、鄭が璧をもって天子の許田と交換した。
二年、宋から賄賂として贈られた鼎を太廟に入れた。君子はこれを譏った。
三年、揮をして斉に使いさせて婦を迎え、夫人とした。
六年、夫人は子を生み、桓公と同じ日であったので、名を同と曰う。同が成長し、太子となった。
十六年、曹に会し、鄭を伐ち、厲公を入れた。
十八年の春、公は行い有らんとし、遂に夫人と斉に如く。申繻諫めて止むも、公聴かず、遂に斉に如く。斉の襄公、桓公の夫人と通ず。公、夫人に怒る。夫人以て斉侯に告ぐ。夏四月丙子、斉の襄公、公を饗す。公酔い、公子彭生に魯の桓公を抱かしめ、因りて彭生に命じて其の脅を摺らしむ。公、車に死す。魯人、斉に告げて曰く、『寡君、君の威を畏れ、敢えて寧居せず、来たりて好礼を修む。礼成りて反せず、咎に帰す所無し。請う、彭生を得て諸侯に丑を除かん』と。斉人、彭生を殺して魯に説く。太子同を立てる。是れを荘公と為す。荘公の母夫人、因りて斉に留まり、敢えて魯に帰らず。
魯の荘公
荘公五年の冬、衛を伐ち、衛の恵公を内れた。
八年、斉の公子糾が来奔した。九年、魯は子糾を斉に納れようとしたが、桓公に後れ、桓公は兵を発して魯を撃ち、魯は急いで子糾を殺した。召忽は死んだ。斉は魯に管仲を生け捕りでよこすよう告げた。魯の施伯が言うには、『斉が管仲を得ようとするのは、彼を殺すためではなく、用いようとするのであり、用いれば魯の患いとなろう。殺してその屍を与えるに如かず』。荘公は聞き入れず、ついに管仲を囚えて斉に与えた。斉人は管仲を宰相とした。
十三年、魯の荘公は曹沬とともに斉の桓公と柯で会い、曹沬は斉の桓公を脅迫し、魯の侵された土地を求め、盟約を結んでから桓公を釈放した。桓公は約束を破ろうとしたが、管仲が諫めたので、ついに魯の侵された土地を返した。
十五年、斉の桓公は初めて覇を唱えた。
二十三年、荘公は斉に赴いて社を観た。
三十二年、初め、荘公が台を築いて党氏に臨み、孟女を見て、悦び愛し、夫人に立てることを許し、臂を割いて盟した。孟女は子の斑を生んだ。斑が成長し、梁氏の女を悦び、見に行った。圉人の犖が墻の外から梁氏の女と戯れていた。斑は怒り、犖を鞭打った。荘公はこれを聞き、『犖は力がある。殺してしまうならまだしも、鞭打って放っておくことはできない』と言った。斑は殺す機会を得なかったが、ちょうど荘公が病気になった。
荘公には三人の弟があり、長兄を慶父といい、次を叔牙といい、次を季友といった。荘公は斉の女を娶って夫人とし、哀姜といった。哀姜には子がなかった。哀姜の妹を叔姜といい、子の開を生んだ。荘公には嫡子がなく、孟女を愛し、その子の斑を立てようと欲した。荘公が病に罹り、弟の叔牙に後嗣を問うた。叔牙は言った、『一代は父子相続、一代は兄弟相継ぐのが、魯の常例でございます。慶父がおりますから、後嗣とすることができます。君は何を憂えられますか』。荘公は叔牙が慶父を立てようとしているのを憂い、退いて季友に問うた。季友は言った、『どうか死をもって斑を立てさせてください』。荘公は言った、『先ほど叔牙は慶父を立てようとしたが、どうしたものか』。季友は荘公の命を以て叔牙に鍼巫氏の家で待つよう命じ、鍼季に命じて叔牙を脅して鴆毒を飲ませ、言った、『これを飲めば後を奉じて祭祀を継ぐことができる。そうでなければ、死して後を絶つであろう』。叔牙はついに鴆を飲んで死んだ。魯はその子を立てて叔孫氏とした。八月癸亥、荘公が卒去すると、季友はついに子の斑を立てて君とした。荘公の命の通りである。喪に侍り、党氏に宿った。
先に慶父は哀姜と私通し、哀姜の妹の子の開を立てようと欲していた。荘公が卒去して季友が斑を立てると、十月己未、慶父は圉人の犖を使わして魯の公子斑を党氏で殺させた。季友は陳に奔った。慶父はついに荘公の子の開を立てた。これが湣公である。
魯の湣公
湣公二年、慶父と哀姜の私通はますます甚だしくなった。哀姜は慶父と謀って湣公を殺し慶父を立てようとした。慶父は卜齮を使わし、武闈において湣公を襲撃して殺させた。季友はこれを聞き、陳より湣公の弟の申と邾に行き、魯に請うてこれを内に入れさせようとした。魯人は慶父を誅しようとした。慶父は恐れ、莒に奔った。ここにおいて季友は子の申を奉じて入国し、これを立てた。これが釐公である。
魯の釐公
釐公もまた荘公の少子である。哀姜は恐れて邾に奔った。季友は賂を用いて莒に赴き慶父を求め、慶父は帰国したが、人を遣わして慶父を殺させようとした。慶父は出奔を請うたが、聴き入れられず、そこで大夫奚斯を行かせて泣きながら往かせた。慶父は奚斯の声を聞いて、自ら自殺した。齊の桓公は哀姜が慶父と乱を為して魯を危うくしたと聞き、邾に召し寄せてこれを殺し、その屍を以て帰り、魯においてこれを戮した。魯の釐公は請うてこれを葬った。
季友の母は陳の女であり、故に亡命して陳に在った。陳は故に季友及び子申を送るのを助けた。季友の生まれようとする時、父の魯桓公が人をしてこれを卜させたところ、『男子なり。その名は「友」と曰い、両社の間にあって、公室の輔けとならん。季友亡きときは、則ち魯昌えず』と。生まれるに及んで、掌に文ありて『友』とあり、遂にこれを以て名づけ、成季と号した。その後季氏となり、慶父の後は孟氏となった。
釐公元年、汶陽の鄪を以て季友に封じた。季友は相となった。
九年、晉の裏克がその君奚齊・卓子を殺した。齊の桓公は釐公を率いて晉の乱を討ち、髙梁に至って還り、晉の恵公を立てた。十七年、齊の桓公卒した。二十四年、晉の文公即位した。
魯の文公
三十三年、釐公卒す、子興立つ、是を文公と爲す。
文公元年、楚の太子商臣其の父成王を弑し、代りて立つ。三年、文公晉の襄父に朝す。
十一年十月甲午、魯翟を咸にて敗る、長翟喬如を獲る、富父終甥其の喉を舂き、戈を以て之を殺し、其の首を子駒の門に埋め、以て宣伯を命ず。
初め、宋武公の世、鄋瞞宋を伐つ、司徒皇父師を帥いて之を御し、以て翟を長丘にて敗り、長翟緣斯を獲る。晉の路を滅ぼすに、喬如の弟棼如を獲る。齊惠公二年、鄋瞞齊を伐つ、齊の王子城父其の弟榮如を獲り、其の首を北門に埋む。衛人其の季弟簡如を獲る。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。
十五年、季文子晉に使す。
十八年二月、文公卒す。文公に二妃あり。長妃は斉の女にして哀姜と為り、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、寵愛せられ、子俀を生む。俀は密かに襄仲に事え、襄仲之を立てんと欲す。叔仲曰く、不可なりと。襄仲斉の恵公に請う。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲子悪及び視を殺して俀を立て、是を宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎ、曰く、『天よ、襄仲道ならずして、適を殺し庶を立てる』と。市人皆哭す。魯人これを『哀姜』と謂う。魯ここより公室卑しく、三桓強し。
魯の宣公
宣公俀十二年、楚の荘王強く、鄭を囲む。鄭伯降り、之を復国す。
十八年、宣公卒す。子成公黒肱立ち、是を成公と為す。季文子曰く、『我をして適を殺し庶を立てて大援を失わしむる者は、襄仲なり』と。襄仲宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会すに宣公卒す。季文子之を怨み、帰父斉に奔る。
魯の成公
成公二年の春、斉が伐って我が隆を取る。夏、公は晋の郤克とともに斉の頃公を砹に破り、斉は我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬わず。魯、晋に背き楚と合せんと欲す。或る者諫めて、乃ちせず。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯、之を諱る。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。
十六年、宣伯、晋に告げ、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。
十八年、成公卒す。子の午立つ。是を襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。
魯の襄公
襄公元年、晋、悼公を立つ。往年の冬、晋の欒書其の君厲公を弒す。四年、襄公、晋に朝す。
五年、季文子が卒した。家には帛を衣とする妾なく、厩には粟を食む馬なく、府には金玉なく、三君を相した。君子曰く、『季文子は廉忠なり』と。
九年、晋とともに鄭を伐つ。晋の悼公、衛において襄公に冠礼を行い、季武子これに従い、礼を相する。
十一年、三桓氏、三軍に分かれる。
十二年、晋に朝す。十六年、晋の平公即位す。二十一年、晋の平公に朝す。
二十二年、孔丘生まる。
二十五年、斉の崔杼がその君・荘公を弑し、その弟・景公を立てた。
二十九年、呉の延陵季子が魯に使いし、周の楽を問い、その意を尽くして知り、魯人はこれを敬した。
三十一年六月、襄公卒す。その九月、太子卒す。魯人は斉帰の子・裯を立てて君と為し、これ即ち昭公である。
魯の昭公
昭公は年十九にして、なお童心有り。穆叔は立たせんと欲せず、曰く、『太子死せば、母弟有れば立てるべし、即ち長を立つるに非ず。年鈞しければ賢を択び、義鈞しければ則ちこれを卜す。今裯は適嗣に非ず、且つ又喪に居りて意は戚に在らずして喜色有り、若し果たして立てば、必ず季氏の憂いと為らん』と。季武子は聴かず、遂にこれを立てる。葬に及ぶまでに、三たび衰を易う。君子曰く、『是れ終わらざるなり』と。
昭公三年、晋に朝して河に至る。晋の平公は謝してこれを還らしむ。魯はこれを恥づ。四年、楚の霊王、諸侯を申に会す。昭公は病と称して往かず。七年、季武子卒す。八年、楚の霊王、章華台を成し、昭公を召す。昭公往きて賀す。昭公に宝器を賜う。已にして悔い、復た詐りてこれを取る。十二年、晋に朝して河に至る。晋の平公は謝してこれを還らしむ。十三年、楚の公子棄疾、其の君霊王を弑し、代わりて立つ。十五年、晋に朝す。晋これを留めて晋の昭公を葬らしむ。魯はこれを恥づ。二十年、斉の景公、晏子と竟に狩し、因りて魯に入り礼を問う。二十一年、晋に朝して河に至る。晋は謝してこれを還らしむ。
二十五年春、鸜鵒来たりて巣くう。師己曰く、『文成の世の童謡に曰く「鸜鵒来たりて巣くう、公は乾侯に在り。鸜鵒入りて処る、公は外野に在り」。』
季氏と郈氏、鶏を鬬わす。季氏は鶏の羽に芥を付け、郈氏は金の距を用う。季平子怒りて郈氏を侵す。郈昭伯も亦た平子を怒る。臧昭伯の弟会、偽りて臧氏を讒し、季氏に匿わる。臧昭伯、季氏の人を囚う。季平子怒りて臧氏の老を囚う。臧・郈氏、難を以て昭公に告ぐ。昭公、九月戊戌に季氏を伐ち、遂に入る。平子、台に登りて請いて曰く、『君、讒を以て臣の罪を察せずして、これを誅せんとす。沂上に遷らんことを請う。』許さず。鄪に囚われんことを請う。許さず。五乗を以て亡なんことを請う。許さず。子家駒曰く、『君其れこれを許すべし。政は季氏より出づること久しく、徒と為る者衆し。衆は将に謀を合わさんとす。』聴かず。郈氏曰く、『必ずこれを殺すべし。』叔孫氏の臣戾、其の衆に謂いて曰く、『季氏無きと有ると、孰れか利かん。』皆曰く、『季氏無きは是れ叔孫氏無きなり。』戾曰く、『然り、季氏を救え。』遂に公の師を敗る。孟懿子、叔孫氏の勝つを聞き、亦た郈昭伯を殺す。郈昭伯は公の使たりし故に、孟氏これを得たり。三家共に公を伐ち、公遂に奔る。己亥、公斉に至る。斉の景公曰く、『千社を致して君を待たんことを請う。』子家曰く、『周公の業を棄てて斉に臣たらんとするは、可ならんや。』乃ち止む。子家曰く、『斉の景公は信無し。早く晋に之くに如かず。』従わず。叔孫、公の還るを見て、平子を見る。平子頓首す。初め昭公を迎えんと欲す。孟孫・季孫後悔し、乃ち止む。
二十六年春、斉魯を伐ち、鄆を取りて昭公をここに居らしむ。夏、斉の景公将に公を内れんとし、魯の賂を受けざるを令す。申豊・汝賈、斉の臣高龁・子将に粟五千庾を許す。子将、斉侯に言いて曰く、『群臣魯君に事うること能わず、異有り。宋の元公、魯の為に晋に如き、これを内れんことを求む。道に卒す。叔孫昭子、其の君を内れんことを求む。病無くして死す。天の魯を棄つるを知らず。抑くは魯君鬼神に罪有らんか。願わくは君且く待たんことを。』斉の景公これに従う。
二十八年、昭公晋に如き、入らんことを求む。季平子晋の六卿に私す。六卿季氏の賂を受け、晋君を諫む。晋君乃ち止み、昭公を乾侯に居らしむ。二十九年、昭公鄆に如く。斉の景公人をして昭公に書を賜わしめ、自ら『主君』と謂う。昭公これを恥じ、怒りて乾侯を去る。三十一年、晋昭公を内れんと欲し、季平子を召す。平子布衣跣行し、六卿に因りて謝罪す。六卿為に言いて曰く、『晋昭公を内れんと欲すも、衆従わず。』晋人止む。三十二年、昭公乾侯に卒す。魯人共に昭公の弟宋を立てて君と為す。是を定公と為す。
魯の定公
定公が立つと、趙の簡子が史墨に問うて曰く、『季氏は亡ぶか』と。史墨対えて曰く、『亡びず。季友は魯に大功あり、鄪を受けて上卿となり、文子・武子に至るまで、世々その業を増す。魯の文公卒し、東門遂が適を殺し庶を立てしより、魯君ここに国政を失う。政は季氏に在り、今に至るまで四君なり。民君を知らず、何をもって国を得んや。是をもって君は器と名とを慎み、以て人に仮すべからず』と。
定公五年、季平子卒す。陽虎私に怒り、季桓子を囚え、盟を結びて、乃ちこれを捨つ。七年、斉我を伐ち、鄆を取り、以て魯の陽虎の邑とし、以て政に従わしむ。八年、陽虎尽く三桓の適を殺さんと欲し、而して更に其の善くする所の庶子を立て以てこれに代えんとす。季桓子を載せて将にこれを殺さんとす。桓子詐りて脱するを得。三桓共に陽虎を攻む。陽虎陽関に居す。九年、魯陽虎を伐つ。陽虎斉に奔り、已にして晋の趙氏に奔る。
十年、定公斉の景公と夾谷に会す。孔子相の事を行ふ。斉魯君を襲わんと欲す。孔子礼を以て階を歴り、斉の淫楽を誅す。斉侯懼れ、乃ち止み、魯の侵地を帰し謝過す。十二年、仲由をして三桓の城を毀たしめ、其の甲兵を収む。孟氏城を堕すを肯ぜず、これを伐つも克たずして止む。季桓子斉の女楽を受け、孔子去る。
十五年、定公卒す。子将立つ。是を哀公と為す。
魯の哀公
哀公五年、斉の景公卒す。六年、斉の田乞其の君孺子を弑す。
七年、呉王夫差強く、斉を伐ち、繒に至り、百牢を魯に徴す。季康子子貢を使はして呉王及び太宰嚭を説き、礼を以て之を詘く。呉王曰く、『我れ文身たり、礼を責むるに足らず。』乃ち止む。
呉、鄒の為に魯を伐ち、城下に至り、盟して去る。斉、我を伐ち、三邑を取る。十年、斉の南辺を伐つ。
斉、魯を伐つ。季氏冉有を用ひて功有り、孔子を思ふ。孔子衛より魯に帰る。斉の田常其の君簡公を俆州にて弑す。孔子之を伐たんことを請ふ、哀公聴かず。
十五年、子服景伯を使者とし、子貢を介添えとして斉に赴かせたところ、斉は我が国に侵奪した土地を返還した。田常が初めて宰相となり、諸侯と親交を結ぼうとした。
十六年、孔子が卒した。
二十二年、越王句踐が呉王夫差を滅ぼした。
二十七年の春、季康子が卒した。夏、哀公は三桓を憂い、諸侯を頼ってこれを脅かそうとしたが、三桓もまた公が乱を起こすことを憂い、故に君臣の間には隙が多かった。公が陵阪に遊んだとき、街で孟武伯に遇い、『余が死に至るかどうか、問うてくれ』と言った。答えて言う、『知りません』。公は越を用いて三桓を伐とうとした。八月、哀公は陘氏のところへ行った。三桓が公を攻め、公は衛に奔り、去って鄒に行き、遂に越に行った。国人が哀公を迎えて復帰させたが、有山氏において卒した。子の寧が立ち、これが悼公である。
魯悼公の後
悼公の時、三桓が勝り、魯は小侯の如く、三桓の家に卑しめられた。
十三年、三晋は智伯を滅ぼし、その地を分けて有した。
三十七年、悼公卒し、子の嘉立つ、是を元公と爲す。
元公二十一年卒し、子の顯立つ、是を穆公と爲す。
穆公三十三年卒し、子の奮立つ、是を共公と爲す。
共公二十二年に卒す。子の屯立つ。是を康公と爲す。
康公九年に卒す。子の匽立つ。是を景公と爲す。
景公二十九年に卒す。子の叔立つ。是を平公と爲す。是の時、六國皆王と稱す。
平公十二年、秦の惠王卒す。二十二年、平公卒す。子の賈立つ。是を文公と爲す。
文公七年、楚の懷王秦に死す。二十三年、文公卒す。子の讎立つ。是を頃公と爲す。
頃公の二年、秦が楚の郢を抜き、楚の頃王は東に陳に遷った。十九年、楚が我を伐ち、徐州を取る。二十四年、楚の考烈王が伐って魯を滅ぼす。頃公は亡び、下邑に遷り、家人となり、魯の祭祀は絶えた。頃公は柯にて卒す。
周公より頃公に至るまで、凡そ三十四世。
司馬遷評
太史公曰く、余聞く、孔子の称して曰く『甚だしいかな、魯道の衰えたること!洙泗の間に龂龂たり』と。慶父及び叔牙・閔公の際を観るに、何ぞ其の乱れたること甚だしきや。隠桓の事、襄仲の適を殺し庶を立てしこと、三家北面して臣と為り、親しく昭公を攻め、昭公以って奔る。其の揖譲の礼に至りては則ち従うも、而して行う事何ぞ其れ戾れること甚だしきや。