史記
巻三十二 斉太公世家 第二
斉の太公呂尚
太公望呂尚は、東海の辺りの人である。その先祖は嘗て四嶽となり、禹を助けて水土を 平 定することに大いに功績があった。虞・夏の時代に呂に封ぜられ、あるいは申に封ぜられ、姓は姜氏であった。夏・商の時代に、申・呂は或いは庶子の子孫に封ぜられ、或いは庶人となり、尚はその末裔である。本来の姓は姜氏であるが、その封地の姓に従ったので、呂尚と称するのである。
呂尚は嘗て困窮し、年老いていたが、漁釣をもって周の西伯に近づいた。西伯が狩りに出ようとした時、占うと、「獲るものは龍でもなく彨でもなく虎でもなく羆でもない。獲るものは霸王の補佐である」と言った。そこで周の西伯が狩りをすると、果たして渭水の北で太公に出会い、語り合って大いに喜び、「我が先君太公が『聖人が周に来る時、周は興るであろう』と言っていた。あなたこそ本当にそれなのか。我が太公があなたを望んで久しい」と言った。 故 に彼を「太公望」と号し、車に乗せて共に帰り、師と為した。
ある説では、太公は博識で、嘗て紂に仕えた。紂が無道であったので、去った。諸侯を遊説したが、遇う所なく、遂に西に帰って周の西伯に仕えた。ある説では、呂尚は処士で、海辺に隠れていた。周の西伯が羑里に拘禁された時、散宜生・閎夭が元より彼を知っており、呂尚を招いた。呂尚もまた「西伯が賢者であり、また老人を養うことを善くすると聞く。何故行かないのか」と言った。三人は西伯のために美女や珍しい物を求め、紂に献上して、西伯を贖い出した。西伯は出ることができ、国に帰った。呂尚が周に仕えた経緯は異なるが、要するに文王・武王の師となったのである。
周の西伯昌が羑里を脱して帰ると、呂尚と密かに謀り、徳を修めて商の政治を傾けようとした。その事柄は多く兵権と奇計に関わり、故に後世の兵法や周の陰謀権術を語る者は皆、太公を本謀の祖と仰いだ。周の西伯の政治は平穏となり、虞と芮の争いを裁断すると、詩人は西伯が天命を受けたことを称えて文王と呼んだ。崇・密須・犬夷を討ち、豊邑を大いに作った。天下の三分の二が周に帰したのは、太公の謀計による所が多い。
文王が崩じ、武王が即位した。九年、武王は文王の事業を継ごうとし、東征して諸侯が集まるかどうかを観ようとした。軍が進発する時、師尚父は左手に黄鉞を杖し、右手に白旄を把って誓い、「蒼兕よ蒼兕よ、お前の衆庶を総べ、お前の舟楫と共にせよ。後れた者は斬るぞ」と言った。遂に盟津に至った。諸侯で期せずして会した者は八百諸侯であった。諸侯は皆、「紂を討つべきである」と言った。武王は「まだいけない」と言った。軍を返し、太公と共にこの太誓を作った。
二年経って、紂が王子比干を殺し、箕子を囚えた。武王が紂を討とうとし、亀の兆を占うと、吉ではなく、風雨が激しく至った。群公は皆恐れたが、ただ太公が強く武王を勧めたので、武王は遂に出発した。十一年正月甲子の日、牧野で誓い、商の紂を討った。紂の軍は大敗した。紂は逃げ戻り、鹿台に登ったので、遂に追って紂を斬った。翌日、武王は社の前に立ち、群公が明水を捧げ、衛康叔の封が采席を敷き、師尚父が犠牲を牽き、史佚が策祝して、神に紂の罪を討ったことを告げた。鹿台の銭を散じ、鉅橋の粟を発して、貧民を救済した。比干の墓を封じ、箕子の囚を釈放した。九鼎を移し、周の政治を修め、天下と共に 更 始した。師尚父の謀による所が多い。
ここにおいて武王は既に商を平定して天下に王たり、師尚父を斉の営丘に封じた。東に向かって国に就く途 中 、道中に宿り、行き方が遅かった。旅館の主人が「私は機会は得難く失い 易 いと聞く。客は寝るのが大変安らかだが、恐らく国に就く者ではないだろう」と言った。太公はこれを聞き、夜中に衣を着て出発し、夜明け前に国に着いた。萊侯が攻めて来て、営丘を争った。営丘は萊に隣接していた。萊人は夷であり、丁度紂の乱の後で周は初めて安定したばかりで、遠方を統べることができなかったので、太公と国を争ったのである。
太公が国に着くと、政治を整え、その習俗に従い、礼儀を簡略化し、商工業の業を通じさせ、魚塩の利を便利にしたので、人民多く斉に帰し、斉は大国となった。周の成王が幼少の時、管叔・蔡叔が乱を起こし、淮夷が周に叛いたので、召康公に命じて太公に「東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまで、五侯九伯、実にこれを征伐することができる」と言わせた。斉はこれによって征伐の権を得て、大国となった。都は営丘である。
太公の 卒 してから百有余年、子の丁公呂伋が立った。丁公が卒すると、子の乙公得が立った。乙公が卒すると、子の癸公慈母が立った。癸公が卒すると、子の哀公不辰が立った。
斉の哀公
哀公の時、紀侯が周に哀公を讒言したので、周は哀公を烹り、その弟の靜を立てた。これが胡公である。胡公は都を薄泵に移したが、これは周の夷王の時代であった。
哀公の同母の弟の山が胡公を怨み、その党と共に営丘の人々を率いて襲撃し、胡公を攻め殺して自ら立ち、献公と為った。
斉の献公
献公元年、胡公の諸公子をことごとく追放し、薄姑より都を遷し、臨菑に治めた。
九年、献公卒し、子の武公寿が立つ。
斉の武公
武公九年、周の厲王出奔し、 彘 に居す。十年、王室乱れ、大臣行政し、号して「共和」という。二十四年、周の宣王初めて立つ。
二十六年、武公卒し、子の厲公無忌が立つ。
斉の厲公
厲公暴虐なり、故に胡公の諸公子また斉に入り、斉人これ (胡公子) を立てんと欲し、乃ち (胡公子と) 与 に厲公を攻め殺す。胡公子もまた戦死す。斉人は乃ち厲公の子赤を立てて君と為し、是を文公と為す。而して厲公を誅殺したる者七十人を誅す。
斉の文公
文公十二年卒し、子の成公脱が立つ。成公九年卒し、子の荘公購が立つ。
斉の荘公
荘公二十四年、犬戎幽王を殺し、周東に雒に徙る。秦始めて諸侯に列せらる。五十六年、晋その君昭侯を 弑 す。
六十四年、荘公卒し、子の釐公禄甫が立つ。
斉の釐公
釐公九年、魯の隠公初めて立つ。十九年、魯の桓公その兄隠公を 弑 し、自ら立って君と為る。
二十五年、北戎が斉を伐つ。鄭は太子忽を遣わして斉を救わしめんとし、斉は彼に妻を娶らせようとした。忽は言う、「鄭は小さく斉は大きし、我が匹敵する所にあらず」と。遂にこれを辞した。
三十二年、釐公の同母弟夷仲年死す。その子を公孫無知といい、釐公はこれを愛し、その秩服奉養を太子に比せしむ。
三十三年、釐公卒し、太子諸兒立つ。是を襄公と為す。
斉の襄公
襄公元年、初め太子たりし時、嘗て無知と鬬い、及び立つや、無知の秩服を 絀 く。無知怨む。
四年、魯の桓公と夫人斉に 如 く。斉の襄公は故より嘗て密かに魯の夫人と通ず。魯の夫人とは、襄公の女弟なり、釐公の時に嫁して魯桓公の婦と為り、桓公の来たりしに及びて襄公復たこれを通ず。魯の桓公之を知り、夫人を怒る。夫人以て斉の襄公に告ぐ。斉の襄公魯の君と飲し、之を酔わしめ、力士彭生をして魯の君の車に抱き上げしめ、因りて 拉 ぎて魯の桓公を殺す。桓公車を下りて則ち死す。魯人以て 譲 むるも、斉の襄公は彭生を殺して魯に謝す。
八年、紀を伐ち、紀は其の邑を去りて遷る。
十二年、初め、襄公は連称・管至父をして葵丘に 戍 らしめ、瓜の時に往き、瓜の及んで代わるべしとす。往きて戍ること一歳、卒に瓜の時に至るも公代わるを発せず。或いは代わるを請うも、公許さず。故に此の二人怒り、公孫無知に因りて乱を謀る。連称に従妹公の宮に在りて寵無く、之をして襄公を 間 わしめ、「事成らば女を以て無知の夫人と為さん」と言う。冬十二月、襄公姑棼に游び、遂に沛丘に猟す。彘を 見 る。従者曰く「彭生なり」と。公怒り、之を射る。彘人立して啼く。公懼れ、車より墜ちて足を傷つけ、 屨 を失う。 反 りて主屨の者茀を鞭つこと三百。茀宮を出づ。而して無知・連称・管至父等公の傷つけるを聞き、乃ち遂に其の衆を率いて宮を襲う。主屨の茀に逢う。茀曰く「 且 く入りて宮を驚かすなかれ、宮を驚かせば未だ易く入るべからず」と。無知信ぜず、茀之に 創 を示す。乃ち之を信ず。宮外に待ち、茀をして先に入らしむ。茀先に入り、即ち襄公を戸の間に匿す。良久しくして、無知等恐れ、遂に宮に入る。茀反って宮中及び公の幸臣と与に無知等を攻むるも、勝たず、皆死す。無知宮に入り、公を求むるも得ず。或る者人足を戸の間に見る。発きて視れば、乃ち襄公なり。遂に之を 弑 し、而して無知自立して斉の君と為る。
斉の桓公
桓公元年春、斉の君無知雍林に游ぶ。雍林の人嘗て無知に怨み有り、其の游び往くに及び、雍林の人襲い殺す無知を。斉の大夫に告げて曰く「無知襄公を 弑 し自立す。臣謹んで誅を行えり。唯だ大夫公子の当に立つべき者を更め立つるを、唯だ命を是れ聴かん」と。
初め、襄公の魯桓公を酔わしめ殺し、其の夫人を通じ、誅殺すること 数 当たらず、婦人に淫し、大臣を数欺く。群弟禍の及ぶを恐れ、故に次弟糾は魯に奔る。其の母は魯の女なり。管仲・召忽之に傅く。次弟小白は莒に奔る。鮑叔之に傅く。小白の母は衛の女なり、釐公に寵有り。小白少より善く大夫高傒を好む。及び雍林の人無知を殺し、君を立つるを議す。高・国先んじて陰に小白を莒に召す。魯無知の死するを聞き、亦た兵を発して公子糾を送り、而して管仲をして別に兵を将いて莒の道を遮らしめ、小白の帯鉤に中つ。 小白 詳 りて死す。管仲人をして馳せて魯に報ぜしむ。魯の糾を送る者行くこと益々遅し。六日にして斉に至れば、則ち小白已に入り、高傒之を立てる。是を桓公と為す。
桓公の鉤に中るや、詳りて死して以て管仲を誤らしめ、已にして温車の中に載せて馳行す。亦た高・国の内応有り。故に先に入り立つことを得、兵を発して魯を 距 ぐ。秋、魯と乾時に戦い、魯の兵敗走す。斉の兵掩い絶つ魯の帰る道を。斉魯に書を 遺 りて曰く「子糾は兄弟なり、忍びず誅す。請う魯自ら之を殺せ。召忽・管仲は 讎 なり。請う得て甘心に 醢 にせん。然らずんば、将に魯を囲まん」と。魯人之を患え、遂に子糾を笙瀆に殺す。召忽自殺し、管仲は囚わるるを請う。桓公の立つや、兵を発して魯を攻め、心管仲を殺さんと欲す。鮑叔牙曰く「臣幸いに君に従うことを得、 君竟 に以て立つ。君の尊きこと、臣以て君を増すこと無し。君将に斉を治めんとせば、即ち高傒と叔牙と足るなり。 君且 に霸王たらんと欲せば、管夷吾に非ざれば不可なり。夷吾の居る国国重し、失うべからず」と。是に於いて桓公之に従う。乃ち詳りて管仲を召して甘心せんと欲するを為し、実は之を用いんと欲す。管仲之を知る。故に往くを請う。鮑叔牙迎えて管仲を受け、堂阜に及びて桎梏を脱がし、斎祓して桓公に見ゆ。桓公厚く礼して以て大夫と為し、政に任ず。
桓公既に管仲を得て、鮑叔・隰朋・高傒と与に斉国の政を修め、五家の兵を連ね、軽重魚塩の利を設け、以て貧窮を 贍 い、賢能に禄し、斉人皆説ぶ。
二年、郯を伐ち滅ぼす。郯子莒に奔る。初め、桓公亡き時、郯を過ぎしに、郯礼無かりし故に之を伐つ。
五年、魯を伐つ。魯将師敗る。魯の荘公遂邑を献じて以て平がんことを請う。桓公許し、魯と会して柯に盟す。魯将に盟せんとす。曹沬匕首を以て壇上に於いて桓公を 劫 し、曰く「魯の侵地を反えせ」と。桓公之を許す。已にして曹沬匕首を去り、北面して臣位に就く。桓公後悔し、魯に地を与えずして曹沬を殺さんと欲す。管仲曰く「夫れ劫して之を許し而して信を 倍 き之を殺すは、 愈 さに一小快のみ。而して信を諸侯に棄て、天下の援を失う。不可なり」と。是に於いて遂に曹沬の三敗して亡せし所の地を魯に与う。諸侯之を聞き、皆斉を信じて附かんと欲す。七年、諸侯桓公と甄に会す。而して桓公是に於いて始めて覇たるなり。
十四年、陳の厲公の子の完、号して敬仲という者が、斉に奔って来た。斉の桓公は卿にしようとしたが、完は辞譲した。そこで工正とした。これが田成子常の祖である。
二十三年、山戎が燕を伐ち、燕は斉に急を告げた。斉の桓公は燕を救い、ついで山戎を伐ち、孤竹に至って還った。燕の荘公は桓公を送って斉の境に入った。桓公は言った。「天子でなければ、諸侯が互いに送るのに境を出ることはない。私は燕に対して無礼であってはならない。」そこで溝を分かち、燕君の至った所を燕に割譲し、燕君に命じて召公の政を復興させ、周に貢ぎ物を納めさせ、成王・康王の時のようさせた。諸侯はこれを聞き、皆斉に従った。
二十七年、魯の湣公の母は哀姜といい、桓公の妹である。哀姜は魯の公子慶父と淫通し、慶父は湣公を 弑 し、哀姜は慶父を立てようとしたが、魯人は代わりに釐公を立てた。桓公は哀姜を召し出して殺した。
二十八年、衛の文公に狄の乱があり、斉に急を告げた。斉は諸侯を率いて楚丘に城を築き、衛君を立てた。
二十九年、桓公は夫人の蔡姫と船中で戯れた。蔡姫は水に慣れており、公を揺さぶった。公は恐れて止めさせたが、止めず、船から出て怒り、蔡姫を帰らせたが、縁を絶たなかった。蔡も怒り、その娘を嫁がせた。桓公はこれを聞いて怒り、軍を起こして伐ちに行った。
三十年の春、斉の桓公は諸侯を率いて蔡を伐ち、蔡は潰えた。ついで楚を伐った。楚の成王は軍を起こして問うた。「何故わが地に足を踏み入れるのか。」管仲が答えて言った。「昔、召康公が我が先君の太公に命じて言われた。『五侯九伯、汝が実にこれを征伐し、以て周室を輔けよ。』と。我が先君に賜った領地は、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢ぐ包茅が入らず、王の祭祀が整わない。これをもって責めに来たのである。昭王が南征して還らなかった。これをもって問うのである。」楚王は言った。「貢ぎ物が入らなかったことはあった。これが寡人の罪である。どうして供しないことがあろうか。昭王が出て還らなかったことについては、君は水辺に問うがよい。」斉軍は進んで陘に駐屯した。夏、楚王は屈完を遣わして兵を率いさせ斉を防がせた。斉軍は退いて召陵に駐屯した。桓公は屈完にその軍勢を誇示した。屈完は言った。「君が道をもって臨むならばよい。もしそうでなければ、楚は方城を以て城とし、江・漢を以て溝となす。君どうして進むことができようか。」そこで屈完と盟して去った。陳を過ぎるとき、陳の袁濤涂が斉を欺き、東方から出るよう言ったが、気づかれた。秋、斉は陳を伐った。この年、晋は太子申生を殺した。
三十五年の夏、葵丘で諸侯と会合した。周の襄王は宰孔を遣わして桓公に文武の胙肉・彤弓矢・大路を賜り、拝礼しないよう命じた。桓公はこれに従おうとしたが、管仲が「不可」と言ったので、下がって拝礼し賜物を受けた。秋、再び葵丘で諸侯と会合し、ますます驕りの色があった。周は宰孔を会合に遣わした。諸侯の中にはかなり叛く者がいた。晋侯は病気で遅れ、宰孔に会った。宰孔は言った。「斉侯は驕っている。弟 (晋侯) は行かないがよい。」晋侯はこれに従った。この年、晋の献公が卒し、裏克が奚斉・卓子を殺した。秦の穆公は夫人を以て公子夷吾を晋の君に入れた。桓公はここにおいて晋の乱を討ち、高梁に至り、隰朋を遣わして晋君を立てさせ、還った。
この時、周室は衰微し、ただ斉・楚・秦・晋が強かった。晋は初めて会合に加わったが、献公が死に、国内が乱れた。秦の穆公は僻遠にあり、中国の会盟に与からなかった。楚の成王は初めて荊蛮を収めてこれを有し、夷狄として自ら置いた。ただ斉のみが中国の会盟を主催し、桓公はその徳を宣揚することができたので、諸侯は賓客として会合した。ここにおいて桓公は称して言った。「寡人は南に伐って召陵に至り、熊山を望んだ。北に山戎・離枝・孤竹を伐った。西に大夏を伐ち、流沙を渡った。馬の蹄を束ね車を懸けて太行に登り、卑耳山に至って還った。諸侯は寡人に背く者はいない。寡人は兵車の会合が三度、乗車の会合が六度、九たび諸侯を合わせ、天下を一たび正した。昔、三代が天命を受けた時、これとどう異なるところがあろうか。私は泰山に封じ、梁父に禅じたい。」管仲が 固 く諫めたが、聞き入れなかった。そこで桓公に、遠方の珍しい怪物が至らなければ封禅できないと説き、桓公はやめた。
三十八年、周の襄王の弟の帯が戎・翟と謀って周を伐とうとした。斉は管仲を遣わして周のために戎を平定させた。周は上卿の礼で管仲を遇そうとしたが、管仲は頓首して言った。「臣は陪臣です。どうして敢えて!」三たび辞譲し、下卿の礼を受けて謁見した。三十九年、周の襄王の弟の帯が奔って来た。斉は仲孫を遣わして王に請い、帯のために謝罪させた。襄王は怒り、聞き入れなかった。
四十一年、秦の穆公が晋の恵公を虜にし、また帰した。この年、管仲・隰朋が皆卒した。管仲が病んだとき、桓公が問うた。「群臣の中で誰を相とすべきか。」管仲は言った。「臣を知るは君に如くものはありません。」公が言った。「易牙はどうか。」答えて言った。「子を殺して君に 適 う。人情に非ず、不可です。」公が言った。「開方はどうか。」答えて言った。「親を背いて君に適う。人情に非ず、近づき難い。」公が言った。「豎刀はどうか。」答えて言った。「自ら宮刑して君に適う。人情に非ず、親しみ難い。」管仲が死ぬと、桓公は管仲の言を用いず、ついに近くにこの三人を用い、三人は権力を専らにした。
四十二年、戎が周を伐ち、周は斉に急を告げた。斉は諸侯に命じてそれぞれ卒を発して周を守らせた。この年、晋の公子重耳が来た。桓公は妻を与えた。
四十三年。初め、斉の桓公の夫人は三人いた。王姫・徐姫・蔡姫といい、皆子がなかった。桓公は女色を好み、内寵が多く、夫人同様の者が六人いた。長衛姫は無詭を生み、少衛姫は恵公元を生み、鄭姫は孝公昭を生み、葛嬴は昭公潘を生み、密姫は懿公商人を生み、宋華子は公子雍を生んだ。桓公は管仲とともに孝公を宋の襄公に託し、太子とした。雍巫 (易牙) は衛共姫 (長衛姫) に寵愛され、宦官の豎刀を通じて厚く桓公に献上し、これも寵愛され、桓公は無詭を立てることを許した。管仲が卒すると、五公子は皆立つことを求めた。冬十月乙亥、斉の桓公が卒した。易牙が入り、豎刀とともに内寵を頼りに群吏を殺し、公子無詭を立てて君とした。太子昭は宋に奔った。
桓公が病むと、五公子はそれぞれ党を立てて争って立とうとした。桓公が卒すると、ついに互いに攻撃し合い、このため宮中は空となり、誰も棺に納めることを敢えてしなかった。桓公の死体は床上に六十七日あり、屍の虫が戸から出た。十二月乙亥、無詭が立つと、ようやく棺に納め赴告した。辛巳の夜、殯した。
斉の孝公
桓公には十余りの子があったが、その後に立った者は五人である。無詭は立って三月で死に、謚はない。次が孝公、次が昭公、次が懿公、次が恵公である。孝公元年三月、宋の襄公は諸侯の兵を率いて斉の太子昭を送り、斉を伐った。斉人は恐れ、その君無詭を殺した。斉人は太子昭を立てようとしたが、四公子の徒が太子を攻撃し、太子は宋に走った。宋はついに斉人の四公子と戦った。五月、宋は斉の四公子の軍を破り、太子昭を立てた。これが斉の孝公である。宋は桓公と管仲が太子に託したから、これが来て征伐したのである。乱のため、八月になってようやく斉の桓公を葬った。
六年の春、斉は宋を伐った。その理由は、斉と同盟しなかったからである。夏、宋の襄公が卒去した。七年、晋の文公が立った。
十年、孝公が卒去した。孝公の弟の潘は、衛の公子の開方に依って孝公の子を殺し、潘を立てた。これが昭公である。昭公は桓公の子であり、その母は葛嬴という。
斉の昭公
昭公元年、晋の文公が城濮において楚を破り、諸侯と践土で会合し、周に朝して、天子が晋に伯たることを命じた。六年、翟が斉を侵した。晋の文公が卒去した。秦の兵が殽で敗れた。十二年、秦の穆公が卒去した。
十九年五月、昭公が卒去し、子の舍が斉の君として立った。舍の母は昭公に寵愛されず、国人も誰も畏れなかった。昭公の弟の商人は、桓公の死後に争って立とうとしたが果たせず、密かに賢士と交わり、百姓に親しみ愛したので、百姓は喜んだ。昭公が卒去し、子の舍が立ったが、孤弱であったので、商人は十月に墓の上で斉の君の舍を 弑 し、商人が自ら立った。これが懿公である。懿公は桓公の子であり、その母は密姫という。
斉の懿公
懿公四年の春、初め、懿公が公子であった時、丙戎の父と狩猟をし、獲物を争って勝てなかった。即位すると、丙戎の父の足を断ち、丙戎を御者とした。庸職の妻が美しかったので、公は彼女を宮中に入れ、庸職を驂乗とした。五月、懿公が申池に遊んだ時、二人が浴し、戯れた。職が「足を断たれた者の子よ」と言うと、戎が「妻を奪われた者よ」と言った。二人は共にこの言葉を恥じ、怨んだ。公と竹林に遊ぶことを謀り、二人は車上で懿公を 弑 し、竹の中に棄てて逃げ去った。
懿公が立った時、驕慢で、民は附かなかった。斉人はその子を廃し、衛から公子の元を迎えて立てた。これが恵公である。恵公は桓公の子である。その母は衛の女で、少衛姫といい、斉の乱を避けて衛にいた。
斉の恵公
恵公二年、長翟が来たので、王子城父が攻めてこれを殺し、北門に埋めた。晋の趙穿がその君の霊公を 弑 した。
十年、恵公が卒去し、子の頃公無野が立った。初め、 崔杼 は恵公に寵愛されたが、恵公が卒去すると、高氏・国氏がその逼迫を恐れてこれを逐い、崔杼は衛に奔った。
斉の頃公
頃公元年、楚の荘王が強盛で、陳を伐った。二年、鄭を囲み、鄭伯が降伏したが、後に鄭伯を復国させた。
六年の春、晋が郤克を斉に遣わした。斉は夫人に帷中でこれを見させた。郤克が階を上ると、夫人がこれを笑った。郤克は「この報いをせずには、再び河を渡らない」と言った。帰国して斉を伐つことを請うたが、晋侯は許さなかった。斉の使者が晋に至ると、郤克は斉の使者四人を河内で捕らえて殺した。八年、晋が斉を伐った。斉は公子の彊を晋に質として送り、晋の兵は去った。十年の春、斉が魯と衛を伐った。魯と衛の大夫が晋に赴いて軍を請うたが、皆郤克に依った。晋は郤克に車八百乗を以て中軍の将とし、士燮が上軍を将い、欒書が下軍を将いて、魯と衛を救い、斉を伐った。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下で合した。癸酉、礱に陣した。逄丑父が斉の頃公の車右となった。頃公は「駆けよ、晋軍を破って会食しよう」と言った。郤克を射て傷つけ、血が履にまで流れた。克は壁に戻ろうとしたが、その御者が「私は初めから入り、二度傷ついたが、敢えて痛みを言わず、士卒を恐れさせまいとした。どうか子はこれを忍ばれよ」と言った。そこで再び戦った。戦いが斉に不利になると、丑父は斉侯が捕らえられるのを恐れ、場所を替え、頃公を車右とした。車が木に引っかかって止まった。晋の小将の韓厥が斉侯の車前に伏して「寡君が臣を使わして魯と衛を救わしむ」と言い、戯れた。丑父は頃公に下りて飲み物を取らせ、その隙に逃げ去らせ、自軍に入らせた。晋の郤克は丑父を殺そうとした。丑父は「君に代わって死んで戮せられるなら、後の人臣でその君に忠なる者はなくなるであろう」と言った。克はこれを赦し、丑父は遂に逃げ帰って斉に至った。ここにおいて晋軍は斉を追って馬陵に至った。斉侯は宝器を以て謝罪しようとしたが、聞き入れられず、必ず克を笑った者である蕭桐叔子を得よと命じ、斉に東畝を命じた。これに対して「叔子は斉の君の母である。斉の君の母は晋の君の母と同じである。子はどう処置されるのか。且つ子は義を以て伐つとしながら、後に暴を為すのは、それでよいのか」と答えた。そこでようやく許し、魯と衛の侵した地を返還することを命じた。
十一年、晋は初めて六卿を置き、鞌の戦いの功を賞した。斉の頃公が晋に朝し、晋の景公を王として尊ぼうとしたが、晋の景公は敢えて受けず、帰国した。帰国して頃公は苑囿を弛め、賦斂を薄くし、孤児を救い疾病を問い、積聚を虚しくして民を救ったので、民も大いに喜んだ。諸侯に厚く礼した。ついに頃公が卒去するまで、百姓は附き、諸侯は犯さなかった。
十七年、頃公卒す、子の霊公環立つ。
齊の霊公
霊公九年、 晉 の欒書其の君厲公を 弑 す。十年、 晉 の悼公齊を伐ち、齊公子光を質として 晉 に遣わす。十九年、子光を立てて太子と為し、高厚之を傅く、諸侯に令して鐘離に会して盟わしむ。二十七年、 晉 中行獻子を使わして齊を伐たしむ。齊の師敗れ、霊公臨菑に走り入る。晏嬰霊公を止む、霊公従わず。曰く「君亦勇無きかな」と。 晉 の兵遂に臨菑を囲み、臨菑城を守りて敢えて出でず、 晉 郭中を焼きて去る。
二十八年、初め、霊公魯の女を娶り、子光を生み、以て太子と為す。仲姬、戎姬。戎姬寵愛せらる。仲姬子牙を生み、之を戎姬に 属 す。戎姬請うて以て太子と為さんことを、公之を許す。仲姬曰く「不可なり。光の立つや、諸侯に列せり、今故無くして之を廃せば、君必ず之を悔いん」と。公曰く「我に在るのみ」と。遂に太子光を東し、高厚をして牙を傅きて太子と為さしむ。霊公疾有り、崔杼故太子光を迎えて之を立て、是を莊公と為す。莊公戎姫を殺す。五月壬辰、霊公卒す、莊公即位し、太子牙を句竇の丘に執り、之を殺す。八月、崔杼高厚を殺す。 晉 齊の乱を聞き、齊を伐ち、高唐に至る。
齊の莊公
莊公三年、 晉 の大夫欒盈齊に奔る、莊公厚く客として之を待つ。晏嬰・田文子諫む、公聴かず。四年、齊の莊公欒盈を使わし、間を以て 晉 の曲沃に入りて内応と為し、兵を以て之に随い、太行に上り、孟門に入る。欒盈敗れ、齊の兵還り、朝歌を取る。
六年、初め、棠公の妻美し、棠公死す、崔杼之を娶る。莊公之を通ず、数たび崔氏に如く、崔杼の冠を以て人に賜う。待者曰く「不可なり」と。崔杼怒り、其の 晉 を伐つに因り、 晉 と合謀して齊を襲わんと欲すと雖も間を得ず。莊公嘗て宦者賈挙を笞つ、賈挙復た侍し、崔杼の為に公に間して以て怨みを報ゆ。五月、莒子齊に朝す、齊甲戌を以て之を饗す。崔杼病を称して事を視ず。乙亥、公崔杼の病を問い、遂に崔杼の妻に従う。崔杼の妻室に入り、崔杼と自ら戸を閉じて出でず、公柱を擁して歌う。宦者賈挙公の従官を遮りて入り、門を閉じ、崔杼の徒兵を持ちて中より起つ。公臺に登りて解くことを請う、許さず。盟わんことを請う、許さず。廟に於いて自殺せんことを請う、許さず。皆曰く「君の臣杼疾有りて、命を聴く能わず。公宮に近し。陪臣争いて趣くに淫する者有り、二命を知らず」と。公牆を踰ゆ、射ちて公の股に中つ、公反って墜ち、遂に之を 弑 す。晏嬰崔杼の門外に立ちて曰く「君社稷の為に死すれば則ち之に死し、社稷の為に亡びれば則ち之に亡びん。若し己が為に死し己が為に亡びるに為らば、其の私暱に非ざれば、誰か敢えて之を任せん」と。門開きて入り、公の尸に枕して哭し、三たび踴りて出づ。人崔杼に謂いて曰く「必ず之を殺すべし」と。崔杼曰く「民の望む所なり、之を捨てて民を得ん」と。
丁丑、崔杼莊公の異母弟杵臼を立て、是を景公と為す。景公の母は、魯の叔孫宣伯の女なり。景公立ち、崔杼を以て右相と為し、慶封を以て左相と為す。二相乱の起こるを恐れ、乃ち国人と盟して曰く「崔慶に与せざる者は死す」と。晏子天を仰ぎて曰く「嬰の獲ざる所は、唯だ君に忠にして社稷に利ある者に従うのみ」と。肯て盟わず。慶封晏子を殺さんと欲す、崔杼曰く「忠臣なり、之を捨てよ」と。齊の太史書して曰く「崔杼莊公を 弑 す」と、崔杼之を殺す。其の弟復た書す、崔杼復た之を殺す。少弟復た書す、崔杼乃ち之を捨つ。
齊の景公
景公元年、初め、崔杼子成及び彊を生み、其の母死し、東郭の女を娶り、明を生む。東郭の女其の前夫子無咎と其の弟偃をして崔氏を相わしむ。成罪有り、二相急ぎ之を治め、明を立てて太子と為す。成崔[杼]に老いんことを請う、崔杼之を許す、二相聴かず、曰く「崔は宗邑なり、不可なり」と。成・彊怒り、慶封に告ぐ。慶封崔杼と郤有り、其の敗るるを欲す。成・彊無咎・偃を崔杼の家に殺し、家皆奔り亡ぶ。崔杼怒り、人無く、一宦者をして御せしめ、慶封に見ゆ。慶封曰く「請う子が為に之を誅せん」と。崔杼の 仇 盧蒲嫳をして崔氏を攻めしめ、成・彊を殺し、崔氏を尽く滅ぼす、崔杼の婦自殺す。崔杼帰る所無く、亦自殺す。慶封相国と為り、権を専らにす。
三年十月、慶封出でて獵す。初め、慶封既に崔杼を殺し、益々驕り、酒を嗜み獵を好み、政令を聴かず。慶舍政を用う、已に内郤有り。田文子桓子に謂いて曰く「乱将に作らんとす」と。田・鮑・高・欒氏相与に慶氏を謀る。慶舍甲を発して慶封の宮を囲む、四家の徒共に撃ちて之を破る。慶封還り、入るを得ず、魯に奔る。齊人魯を譲る、封呉に奔る。呉之に朱方を与え、其の族を聚めて之に居らしむ、齊に在りし時に富む。其の秋、齊人徙めて莊公を葬り、崔杼の尸を市に僇して以て衆を説かしむ。
九年、景公晏嬰をして 晉 に之かしめ、叔向と私語して曰く「齊の政卒に田氏に帰せん。田氏大徳無しと雖も、公権を以て私と為し、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公 晉 に如き、平公に見え、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公復た 晉 に如き、昭公に見ゆ。二十六年、魯の郊に獵し、因りて魯に入り、晏嬰と俱に魯の礼を問う。三十一年、魯の昭公季氏の難を辟けて、齊に奔る。齊千社を以て之を封ぜんと欲す、子家昭公を止む、昭公乃ち齊に請うて魯を伐ち、鄆を取って以て昭公を居らしめんとす。
三十二年、彗星見ゆ。景公柏寢に坐し、嘆じて曰く「堂堂たり、誰か此れ有らん」と。群臣皆泣く、晏子笑う、公怒る。晏子曰く「臣群臣の諛ること甚だしきを笑う」と。景公曰く「彗星東北に出づ、齊の分野に当たる、寡人憂いと為す」と。晏子曰く「君高臺深池、賦斂得ざるが如く、刑罰勝えざるを恐る、茀星将に出でん、彗星何をか懼れん」と。公曰く「禳うべきか」と。晏子曰く「神をして祝いて来たらしむることを得ば、亦禳いて去らしむることを得べし。百姓苦しみ怨むること万数を以てす、而して君一人をして之を禳わしむ、安んぞ衆口に勝たんや」と。是の時景公宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈し、賦を厚くし刑を重くするを好む、故に晏子此を以て之を諫む。
四十二年、呉王闔閭楚を伐ち、郢に入る。
四十七年、魯の陽虎其の君を攻む、勝たず、齊に奔り、齊に請うて魯を伐たしめんとす。鮑子景公を諫む、乃ち陽虎を囚う。陽虎亡るるを得、 晉 に奔る。
四十八年、魯の定公と夾谷で好会した。犁鉏が言うには、「孔丘は礼を知るが臆病である。萊人に楽を奏させ、魯君を捕らえて志を得るよう請う」と。景公は孔丘が魯の相となるのを害し、その覇を恐れたので、犁鉏の計に従った。会合の際、萊の楽を進めたところ、孔子は階を上り、有司に命じて萊人を捕らえ斬らせ、礼をもって景公を譲った。景公は慚じ、魯の侵した地を返して謝し、罷め去った。この年、晏嬰が卒した。
五十五年、范氏・中行氏が晋においてその君に背き、晋が急に攻めたので、来て粟を請うた。田乞は乱を為さんとし、逆臣に党を樹てようとして、景公に説いて言うには、「范氏・中行氏は数々斉に徳あり、救わざるべからず」と。そして乞を使わして救い、粟を輸送させた。
五十八年の夏、景公の夫人燕姬の適子が死んだ。景公の寵妾芮姫が子の荼を生んだ。荼は幼く、その母は賤しく、行いがなかった。諸大夫はその嗣となることを恐れ、諸子の長賢なる者を選んで太子とすべしと願い言った。景公は老いて、嗣の事を言うのを厭い、また荼の母を愛し、これを立てようとしたが、口に出すのを憚り、諸大夫に謂って言うには、「楽しみを為すのみ、国に何ぞ君なきを患えんや」と。秋、景公は病み、国恵子・高昭子に命じて少子の荼を太子とし、群公子を逐い、萊に遷した。景公が卒すると、太子の荼が立ち、これが晏孺子である。冬、未だ葬らず、群公子は誅を畏れ、皆出亡した。荼の諸異母兄の公子寿・駒・黔は衛に奔り、公子駔・陽生は魯に奔った。萊人はこれを歌って言うには、「景公死すとも埋むるに与からず、三軍の事とも謀るに与からず、師よ師よ、胡ぞ党のこれに与からんや」と。
斉の晏孺子
晏孺子元年の春、田乞は高氏・国氏に偽って事え、毎朝、乞は驂乗し、言うには、「子は君を得て、大夫は皆自ら危うく、謀って乱を為さんと欲す」と。また諸大夫に謂って言うには、「高昭子は畏るべし、未だ発せざるに及び、先んずべし」と。大夫はこれに従った。六月、田乞・鮑牧は乃ち大夫とともに兵を以て公宮に入り、高昭子を攻めた。昭子はこれを聞き、国恵子とともに公を救った。公の師は敗れ、田乞の徒はこれを追い、国恵子は莒に奔り、遂に反して高昭子を殺した。晏圉は魯に奔った。八月、斉の 秉 意茲。田乞は二相を敗り、乃ち人をして魯に使い、公子陽生を召した。陽生は斉に至り、ひそかに田乞の家に匿れた。十月戊子、田乞は諸大夫に請うて言うには、「常の母に魚菽の祭あり、幸いに来り会飲せん」と。会飲し、田乞は陽生を橐の中に盛り、座の中央に置き、橐を発いて陽生を出し、言うには、「これ乃ち斉の君なり」と。大夫は皆伏して謁した。将に大夫と盟してこれを立てんとし、鮑牧は酔い、乞は大夫を誣って言うには、「吾は鮑牧と謀りて共に陽生を立てん」と。鮑牧は怒って言うには、「子は景公の命を忘れたか」と。諸大夫は相視て悔いんと欲し、陽生前に進み、頓首して言うには、「可ならばこれを立て、否なれば已めよ」と。鮑牧は禍の起こるを恐れ、乃ち復た言うには、「皆景公の子なり、何を以て不可ならんや」と。乃ち盟し、陽生を立て、これが悼公である。悼公は宮に入り、人をして晏孺子を駘に遷させ、幕下においてこれを殺し、孺子の母の芮子を逐った。芮子はもと賤しく、孺子は幼かったので、権なく、国人はこれを軽んじた。
斉の悼公
悼公元年、斉は魯を伐ち、讙・闡を取った。初め、陽生は魯に亡命し、季康子はその妹を以てこれに妻せしめた。帰って即位するに及び、これを迎えさせた。季姫は季魴侯と通じ、その情を言うので、魯は敢えて与えず、故に斉は魯を伐ち、竟に季姫を迎えた。季姫は寵愛され、斉は復た魯の侵した地を帰した。
鮑子は悼公と郤あり、善からず。四年、呉・魯は斉の南方を伐った。鮑子は悼公を 弑 し、呉に赴告した。呉王夫差は軍門外で三日哭し、将に海より入り斉を討たんとした。斉人はこれを敗り、呉の師は乃ち去った。晋の趙鞅は斉を伐ち、頼に至りて去った。斉人は共に悼公の子の壬を立て、これが簡公である。
斉の簡公
簡公四年の春、初め、簡公は父の陽生とともに魯に在ったとき、監止が寵愛された。即位するに及び、政を為さしめた。田成子はこれを憚り、朝において頻りに顧みた。御鞅が簡公に言うには、「田氏・監氏は併せて用いるべからず、君はその中より選ばれよ」と。聴かなかった。子我が夕方、田逆が人を殺し、これに逢い、遂に捕らえて入った。田氏は方に睦まじく、囚人を病ませて守囚者に酒を遺わし、酔わせて守者を殺し、逃亡を得た。子我は諸田を陳宗において盟した。初め、田豹は子我の臣とならんと欲し、公孫に豹を言わせたが、豹に喪ありて止んだ。後に卒に臣と為し、子我に幸せられた。子我が謂って言うには、「吾は田氏を尽く逐いて汝を立てん、可ならんや」と。対えて言うには、「我は田氏より遠し。且つその違う者は数人に過ぎず、何ぞ尽く逐かんや」と。遂に田氏に告げた。子行が言うには、「彼は君を得て、先んぜざれば、必ず子に禍いせん」と。子行は公宮に舎した。
夏五月壬申、成子兄弟四乗して公の所に往く。子我は幄に在り、出てこれを迎え、遂に入り、門を閉じた。宦者がこれを御すと、子行が宦者を殺した。公は婦人と檀台において酒を飲み、成子は諸寢に遷した。公は戈を執って将にこれを撃たんとし、太史の子餘が言うには、「利ならざるに非ず、害を除かんとするなり」と。成子は出て庫に舎し、公の猶お怒るを聞き、将に出んとして言うには、「何れの所に君無からんや」と。子行が剣を抜いて言うには、「需は事の賊なり。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所は田宗の如く有らん」と。乃ち止んだ。子我は帰り、徒を属して闈と大門を攻めたが、皆勝たず、乃ち出た。田氏はこれを追った。豊丘人が子我を執って告げ、郭関においてこれを殺した。成子は将に大陸子方を殺さんとし、田逆が請うて免じた。公の命を以て道において車を取り、雍門より出た。田豹がこれに車を与えたが、受けず、言うには、「逆は余のために請い、豹は余に車を与う、余に私あり。子我に事えてその讎に私す、何を以て魯・衛の士に見えんや」と。
庚辰、田常は簡公を俆州において執した。公は言うには、「余早く御鞅の言に従わば、此に及ばざりしものを」と。甲午、田常は簡公を俆州において 弑 した。田常は乃ち簡公の弟の驁を立て、これが平公である。
斉の平公
平公が即位すると、田常がこれを相し、斉の政を専らにし、斉の安平以東を割いて田氏の封邑とした。
平公八年、越が呉を滅ぼした。二十五年に卒し、子の宣公積が立った。
斉の宣公
宣公は五十一年に卒し、子の康公貸が立つ。田会が廩丘に反す。
斉の康公
康公の二年、韓・魏・趙が始めて諸侯に列せられる。十九年、田常の曾孫田和が始めて諸侯となり、康公を海濱に遷す。
二十六年、康公卒す。呂氏は遂にその祀を絶つ。田氏はついに斉国を有ち、斉の威王となり、天下に強し。
評論
太史公曰く、斉に適き、泰山より瑯邪に属なり、北は海に 被 わる。膏壌二千里、その民は闊達にして 匿知 多し、その天性なり。太公の聖を以て、国の本を建て、桓公の盛を以て、善政を修め、以て諸侯の会盟を為し、伯と称する、亦た宜ならずや。洋洋たるかな、固に大国の風なり。
【索隠述賛】太公は周を佐け、実に陰謀を秉る。既に東海を表し、乃ち営丘に居る。小白は覇を致し、九たび諸侯を合す。内寵に溺るるに及び、 釁 は 鍾 に虫流る。荘公は徳を失い、崔杼は仇を作す。陳氏は専政し、貨を厚くし収めを軽くす。悼・簡は禍に 遘 い、田・闞は 儔 に非ず。 渢渢 たる余烈、一変何に由る。