斉の太公呂尚
太公望呂尚は、東海の上人である。その先祖は嘗て四嶽となり、禹を佐けて水土を平らげること甚だ功有り。虞夏の際に呂に封ぜられ、或いは申に封ぜられ、姓は姜氏。夏商の時に至り、申・呂は或いは枝庶の子孫に封ぜられ、或いは庶人となり、尚はその後の苗裔である。本姓は姜氏、その封ぜられた姓に従う、故に呂尚と曰う。
呂尚は蓋し嘗て窮困し、年老いて、漁釣を以て周の西伯に奸む。西伯将に出て猟せんとし、之を卜す、曰く「獲る所は龍に非ず彨に非ず虎に非ず羆に非ず、獲る所は霸王の輔なり」と。是に於いて周の西伯猟し、果たして太公に渭の陽に遇う。之と語り大いに説び、曰く「吾が先君太公の曰く『聖人有って周に適せば、周以て興るべし』と。子真に是なるか。吾が太公子を望むこと久し」と。故に之を号して「太公望」と曰い、載せて俱に帰り、師と為し立つ。
或る者は言う、太公は博聞で、かつて紂に仕えた。紂が無道であったので、去った。諸侯を遊説したが、遇うる所なく、ついに西に帰って周の西伯に仕えた。或る者は言う、呂尚は処士で、海濱に隠れていた。周の西伯が羑里に拘禁された時、散宜生・閎夭が平素より呂尚を知って招いた。呂尚もまた「私は西伯が賢者であり、また老人を養うことを善くすると聞く。どうして行かぬことがあろうか」と言った。三人は西伯のために美女や珍物を求め、これを紂に献じて、西伯を贖い出した。西伯は出ることができ、国に帰った。呂尚が周に仕えた所以については異説があるが、要するに文王・武王の師となったのである。
周の西伯昌が羑里を脱して帰国すると、呂尚と陰謀をめぐらし、徳を修めて商の政を傾けようとした。その事柄は多く兵権と奇計に関わり、故に後世の兵法や周の陰謀権術を言う者は、皆太公を本謀として宗仰する。周の西伯の政治は平穏であり、虞と芮の争訟を裁断した時、詩人は西伯が天命を受けたことを称えて文王と言った。崇・密須・犬夷を伐ち、豊邑を大いに作った。天下三分のうち、その二が周に帰したのは、太公の謀計による所が多い。
文王が崩じ、武王が即位した。九年、武王は文王の業績を修めようとし、東征して諸侯の集まるか否かを観ようとした。師が出発する時、師尚父は左手に黄鉞を杖き、右手に白旄を把って誓い、言った、「蒼兕よ蒼兕よ、お前の衆庶を総べ、お前の舟楫とともに進め。後至する者は斬るぞ!」。こうして盟津に至った。諸侯で期せずして会した者は八百諸侯であった。諸侯は皆言った、「紂を伐つべきである」。武王は言った、「まだいけない」。師を返し、太公とともにこの太誓を作った。
二年経って、紂は王子比干を殺し、箕子を囚えた。武王が紂を伐たんとした時、亀卜をすると兆が不吉で、風雨が暴至した。群公はみな恐れたが、ただ太公が強く武王を勧めたので、武王はここに遂に行った。十一年正月甲子、牧野で誓い、商の紂を伐った。紂の師は敗績した。紂は反走し、鹿臺に登ったので、遂に追って紂を斬った。翌日、武王は社に立ち、群公が明水を奉じ、衛康叔封が采席を布き、師尚父が犠牲を牽き、史佚が策祝して、神に告げて紂の罪を討った。鹿臺の銭を散じ、鉅橋の粟を発して、貧民を救った。比干の墓を封じ、箕子の囚を釈した。九鼎を遷し、周の政を修め、天下とともに更始した。師尚父の謀による所が多い。
ここにおいて武王はすでに商を平定して天下に王たり、師尚父を斉の営丘に封じた。東に向かって国に就く途中、道中に宿り行くのが遅かった。旅館の主人が言った、「私は時は得難くして失い易いと聞く。客は寝るのが甚だ安らかであるが、およそ国に就く者ではあるまい」。太公はこれを聞き、夜に衣を着て出発し、夜明け前に国に至った。萊侯が来伐し、これと営丘を争った。営丘は萊に隣接する。萊人は夷であるが、ちょうど紂の乱に会い、周は初めて定まったばかりで、遠方を集めることができなかったので、このように太公と国を争ったのである。
太公が国に至り、政を修め、その俗に因り、礼を簡略にし、商工の業を通じ、魚塩の利を便ならしめたので、人民多く斉に帰し、斉は大国となった。周の成王が幼少の時、管叔・蔡叔が乱を起こし、淮夷が周に叛くと、召康公に命じて太公に言わせた。「東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまで、五侯九伯、実にこれを征伐するを得る。」斉はこれによって征伐する権を得て、大国となった。都は営丘に置いた。
太公の卒してから百有余年、子の丁公呂伋が立つ。丁公卒し、子の乙公得が立つ。乙公卒し、子の癸公慈母が立つ。癸公卒し、子の哀公不辰が立つ。
斉の哀公
哀公の時、紀侯が周に哀公を讒言したので、周は哀公を烹殺し、その弟の静を立てた。これが胡公である。胡公は都を薄泵に移したが、これは周の夷王の時であった。
哀公の同母の少弟の山は胡公を怨み、その党と共に営丘の人々を率いて襲撃し、胡公を攻め殺して自ら立ち、献公となった。
齊の獻公
獻公元年、胡公の諸子をことごとく逐い、因って薄泵より都を徙し、臨菑に治す。
九年、獻公卒す、子の武公壽立つ。
齊の武公
武公九年、周の厲王出奔し、彘に居る。十年、王室乱れ、大臣行政し、號して「共和」と曰ふ。二十四年、周の宣王初めて立つ。
二十六年、武公が卒し、子の厲公無忌が立つ。
齊の厲公
厲公は暴虐であったので、故胡公の子が再び斉に入り、斉人は彼を立てようとし、乃ち共に厲公を攻めて殺した。胡公の子も戦死した。斉人は乃ち厲公の子赤を立てて君とし、是を文公と為し、而して厲公を誅殺した者七十人を誅した。
齊の文公
文公十二年卒し、子の成公脫が立つ。成公九年卒し、子の莊公購が立つ。
斉の荘公
荘公二十四年、犬戎が幽王を殺し、周は東に雒へ遷る。秦は初めて諸侯の列に加わる。五十六年、晋がその君昭侯を弑す。
六十四年、荘公卒す。子の釐公祿甫立つ。
斉の釐公
釐公九年、魯の隠公初めて立つ。十九年、魯の桓公がその兄隠公を弑して自ら立って君となる。
二十五年、北戎が斉を伐つ。鄭は太子忽を遣わして斉を救わしめんとし、斉は彼に妻を娶らせんと欲す。忽曰く、「鄭は小さく斉は大なり、我が敵に非ず」と。遂にこれを辞す。
三十二年、釐公の同母弟夷仲年死す。其の子曰く公孫無知、釐公これを愛し、其の秩服奉養を太子に比せしむ。
三十三年、釐公卒し、太子諸兒立つ。是を襄公と為す。
齊襄公
襄公元年、初め太子たりし時、嘗て無知と鬬ふ。及び立つに及び、無知の秩服を絀く。無知怨む。
四年、魯の桓公が夫人とともに斉に赴いた。斉の襄公はかつて密かに魯の夫人と通じていた。魯の夫人とは、襄公の妹であり、釐公の時に嫁いで魯の桓公の夫人となったのであるが、桓公が来たので襄公は再び彼女と通じた。魯の桓公はこれを知り、夫人を怒った。夫人はこれを斉の襄公に告げた。斉の襄公は魯の君と酒を飲み、彼を酔わせ、力士の彭生に命じて魯の君を車に抱き上げさせ、その際に拉殺して魯の桓公を殺した。桓公が車から降りると既に死んでいた。魯人はこれを責めたので、斉の襄公は彭生を殺して魯に謝罪した。
八年、紀を討ち、紀はその邑から去った。
十二年、初め、襄公は連称と管至父を葵丘に戍守させ、瓜の熟する時に行かせ、次の瓜の熟する時に交代させると約束した。戍守に行って一年が経ち、瓜が熟しても公は交代の兵を発しなかった。ある者が交代を願い出たが、公は許さなかった。そこでこの二人は怒り、公孫無知と謀って乱を起こそうとした。連称に従妹が公の宮中にいたが、寵愛されていなかったので、彼女に襄公の隙を窺わせ、「事が成れば汝を無知の夫人とする」と言った。冬十二月、襄公は姑棼に遊び、ついで沛丘で狩りをした。猪を見ると、従者が「彭生です」と言った。公は怒り、これを射た。猪は人のように立ち上がって啼いた。公は恐れ、車から落ちて足を傷め、履を失った。帰って履の主管の茀を三百回鞭打った。茀は宮を出た。無知と連称と管至父らは公が傷ついたと聞き、そこでその配下を率いて宮を襲撃した。履の主管の茀に出会うと、茀は言った、「しばらく入って宮を驚かすな。宮を驚かすと容易に入れない。」無知は信じなかったが、茀が傷を見せると、ようやく信じた。宮外で待ち、茀に先に入らせた。茀が先に入ると、すぐに襄公を戸の間に匿った。しばらくして、無知らは恐れ、ついに宮に入った。茀は逆に宮中の者および公の幸臣とともに無知らを攻めたが、勝てず、皆死んだ。無知が宮に入り、公を求めたが見つからなかった。ある者が戸の間に人の足を見つけ、開けて見ると、それは襄公であった。そこでこれを弑し、無知は自ら立って斉の君となった。
斉の桓公
桓公元年の春、斉の君無知が雍林に遊んだ。雍林の人々はかつて無知に怨みを持っており、彼が遊びに行くと、雍林の人々が襲撃して無知を殺し、斉の大夫に告げて言った、「無知は襄公を弑して自ら立った。臣は謹んで誅した。ただ大夫が公子の中で立つべき者を改めて立てられよ。命のままに従う。」
初めに、襄公が酔って魯の桓公を殺し、その夫人と通じ、誅殺することが度々当を得ず、婦人に淫し、大臣を数々欺いたので、群弟は禍が及ぶことを恐れ、故に次弟の糾は魯に奔った。その母は魯の女である。管仲・召忽がこれを傅いた。次弟の小白は莒に奔り、鮑叔がこれを傅いた。小白の母は衛の女で、釐公に寵愛されていた。小白は少時より大夫の高傒と善くした。
桓公が鉤に中り、死んだふりをして管仲を誤らせ、やがて温車に載せて馳せ行き、また高氏・國氏が内応したので、先に入って立つことを得、兵を発して魯を距った。秋、魯と乾時に戦い、魯兵は敗走し、斉兵は魯の帰路を遮断した。斉は魯に書を送って言うには、「子糾は兄弟であるから、誅するに忍びず、魯に請うて自らこれを殺させたい。召忽・管仲は仇敵であるから、得て甘心に醢にしたい。然らざれば、魯を囲まん」と。魯人はこれを憂い、遂に子糾を笙瀆で殺した。召忽は自殺し、管仲は囚われることを請うた。桓公が立つと、兵を発して魯を攻め、心に管仲を殺さんとした。鮑叔牙が言うには、「臣は幸いに君に従うことを得て、君は遂に立たれた。君の尊さは、臣が君を増すところはない。君が斉を治めようとされるなら、高傒と叔牙とで足ります。君がまさに霸王たらんと欲せられるなら、管夷吾でなければなりません。夷吾の居る国は国重し、失うべからず」と。ここにおいて桓公はこれに従った。
桓公は管仲を得ると、鮑叔・隰朋・高傒とともに斉国の政を修め、五家の兵を連ね、軽重魚塩の利を設け、貧窮を贍い、賢能に禄を与え、斉人は皆喜んだ。
二年、郯を伐って滅ぼし、郯子は莒に奔った。初め、桓公が亡命していた時、郯に過ぎたが、郯が礼を失したので、これを伐ったのである。
五年、魯を伐ち、魯の将師は敗れた。魯の荘公は遂邑を献じて和を請うたので、桓公は許し、魯と柯で会して盟した。魯がまさに盟せんとする時、曹沬が匕首をもって壇上で桓公を劫し、「魯の侵された地を返せ」と言った。桓公はこれを許した。やがて曹沬は匕首を去け、北面して臣位に就いた。桓公は後悔し、魯に地を与えず曹沬を殺さんとした。管仲が言うには、「劫されて許しておきながら信を背いてこれを殺すのは、わずかな一時の快を増すのみで、諸侯に信を棄て、天下の援を失うことになり、不可です」と。ここにおいて遂に曹沬の三たび敗れて失った地を魯に与えた。諸侯はこれを聞き、皆斉を信じて附かんと欲した。七年、諸侯は甄で桓公と会し、ここにおいて桓公は初めて覇たった。
十四年、陳の厲公の子の完、号して敬仲という者が、斉に奔って来た。斉の桓公は卿にしようとしたが、完は辞退した。そこで工正に任じた。これが田成子常の祖先である。
二十三年、山戎が燕を伐ち、燕は斉に急を告げた。斉の桓公は燕を救い、ついで山戎を伐ち、孤竹に至って引き返した。燕の莊公は桓公を送って斉の境に入った。桓公は言った、「天子でなければ、諸侯が互いに送るのに境を出ることはない。私は燕に対して無礼であってはならない」と。そこで溝を分かち、燕君の至った所を燕に割譲し、燕君に命じて召公の政を復興させ、周に貢ぎ物を納めさせ、成王・康王の時代のようになった。諸侯はこれを聞いて、皆斉に従った。
二十七年、魯の湣公の母は哀姜といい、桓公の妹である。哀姜は魯の公子慶父と淫通し、慶父は湣公を弑した。哀姜は慶父を立てようとしたが、魯人は代わりに釐公を立てた。桓公は哀姜を召し出して殺した。
二十八年、衛の文公に狄の乱があり、斉に急を告げた。斉は諸侯を率いて楚丘に城を築き、衛君を立てた。
二十九年、桓公が夫人の蔡姫と船中で戯れた。蔡姫は水に慣れ、公を揺さぶった。公は恐れて止めさせたが、止めず、船から出て怒り、蔡姫を帰国させたが、縁を絶たなかった。蔡も怒って、その娘を嫁がせた。桓公はこれを聞いて怒り、軍を起こして伐ちに行った。
三十年の春、斉の桓公は諸侯を率いて蔡を伐ち、蔡は潰えた。ついで楚を伐った。楚の成王は師を興して問うて曰く、「何故に吾が地に渉るか」と。管仲対えて曰く、「昔、召康公は我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、汝実に之を征せ、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜い、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢ぐ包茅入らず、王の祭り具わず、是を以て来たりて責む。昭王の南征復せず、是を以て来たりて問う」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、これ有り、寡人の罪なり、敢えて共にせざらんや。昭王の出でて復せざるは、君其れ水濱に之を問え」と。斉の師は進みて陘に次ぐ。夏、楚王は屈完を使わして兵を将いて斉を捍がしめ、斉の師は退きて召陵に次ぐ。桓公はその衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君道を以てすれば則ち可なり。若し然らずんば、則ち楚は方城を以て城と為し、江・漢を以て溝と為さん。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟して去る。陳を過ぐるに、陳の袁濤塗、斉を詐りて、東方に出づるを令す。覚ゆ。秋、斉は陳を伐つ。是の歳、晋は太子申生を殺す。
三十五年の夏、葵丘にて諸侯と会す。周の襄王は宰孔を使わして桓公に文武の胙・彤弓矢・大路を賜い、拝せざるを命ず。桓公は之を許さんと欲す。管仲曰く「不可なり」と。乃ち下りて拝し賜を受く。秋、復た葵丘にて諸侯と会し、益々驕色有り。周は宰孔をして会せしむ。諸侯頗る叛く者有り。晋侯病み、後れ、宰孔に遇う。宰孔曰く、「斉侯驕れり、弟行く無かれ」と。之に従う。是の歳、晋の献公卒す。裏克は奚斉・卓子を殺す。秦の穆公は夫人を以て公子夷吾を入れて晋君と為す。桓公は是に於て晋の乱を討ち、高梁に至り、隰朋を使わして晋君を立てしめ、還る。
是の時に周室微なり。唯だ斉・楚・秦・晋のみ強し。晋は初め会に与るも、献公死し、国内乱る。秦の穆公は遠く辟き、中国の会盟に与らず。楚の成王は初めて荊蛮を収めて之を有ち、夷狄自ら置く。独り斉のみ中国の会盟を為し、而して桓公能く其の徳を宣ぶ。故に諸侯賓会す。是に於て桓公称して曰く、「寡人は南に伐ちて召陵に至り、熊山を望み、北に山戎・離枝・孤竹を伐ち、西に大夏を伐ち、流沙に渉り、馬を束ね車を懸けて太行に登り、卑耳山に至りて還る。諸侯寡人に違うこと莫し。寡人は兵車の会三、乗車の会六、九たび諸侯を合し、一たび天下を匡う。昔、三代の命を受くるも、何を以てか此れに異ならん。吾泰山に封じ、梁父に禅ぜんと欲す」と。管仲固く諫むも、聴かず。乃ち桓公に説いて遠方の珍怪物至りて乃ち封ずるを得と為す。桓公乃ち止む。
三十八年、周の襄王の弟帯、戎・翟と謀を合わして周を伐つ。斉は管仲を使わして周に於て戎を平らぐ。周は上卿の礼を以て管仲せんと欲す。管仲頓首して曰く、「臣は陪臣なり、安んぞ敢えんや」と。三たび譲り、乃ち下卿の礼を受けて見ゆ。三十九年、周の襄王の弟帯、来たりて斉に奔る。斉は仲孫を使わして王に請い、帯の為に謝す。襄王怒り、聴かず。
四十一年、秦の穆公は晋の恵公を虜にし、復た之を帰す。是の歳、管仲・隰朋皆卒す。管仲病む。桓公問うて曰く、「群臣誰か相たるべき者」と。管仲曰く、「臣を知るは君に如くは莫し」と。公曰く、「易牙は如何」と。対えて曰く、「子を殺して以て君に適うは、人情に非ず、不可なり」と。公曰く、「開方は如何」と。対えて曰く、「親を倍して以て君に適うは、人情に非ず、近づき難し」と。公曰く、「豎刀は如何」と。対えて曰く、「自ら宮して以て君に適うは、人情に非ず、親しみ難し」と。管仲死す。而して桓公は管仲の言を用いず、卒に近く三子を用う。三子権を専らにす。
四十二年、戎が周を伐ち、周は斉に急を告げ、斉は諸侯に命じて各々卒を発して周を戍らしめた。この歳、晋の公子重耳が来たり、桓公は彼に妻を娶らせた。
四十三年。初め、斉桓公の夫人は三人あり、王姫、徐姫、蔡姫と曰い、皆子無し。桓公は内を好み、内寵多く、夫人の如き者は六人あり、長衛姫は無詭を生み、少衛姫は恵公元を生み、鄭姫は孝公昭を生み、葛嬴は昭公潘を生み、密姫は懿公商人を生み、宋華子は公子雍を生んだ。桓公は管仲とともに孝公を宋襄公に属し、以て太子と為した。雍巫は衛共姫に寵愛され、宦者豎刀に因りて厚く桓公に献じて、亦寵愛され、桓公は彼に無詭を立てることを許した。管仲卒し、五公子皆立たんことを求む。冬十月乙亥、斉桓公卒す。易牙入り、豎刀とともに内寵に因りて群吏を殺し、而して公子無詭を立てて君と為す。太子昭は宋に奔る。
桓公病み、五公子各々党を樹てて争って立たんとす。桓公の卒するに及び、遂いに相攻ち、以て故に宮中空しく、敢えて棺する者無し。桓公の尸は床に在ること六十七日、尸虫戸より出づ。十二月乙亥、無詭立つ、乃ち棺して赴く。辛巳の夜、斂殯す。
斉孝公
桓公十有餘子あり、其の後立つ者を要するに五人あり、無詭は三月立って死し、謚無し、次は孝公、次は昭公、次は懿公、次は恵公。孝公元年三月、宋襄公諸侯の兵を率いて斉の太子昭を送りて斉を伐つ。斉人恐れ、其の君無詭を殺す。斉人将に太子昭を立てんとす、四公子の徒太子を攻め、太子は宋に走る、宋は遂に斉人の四公子と戦う。五月、宋は斉の四公子の師を敗りて太子昭を立て、是を斉孝公と為す。宋は桓公と管仲が之を太子に属したるを以て、故に来たりて之を征す。乱を以ての故に、八月にして乃ち斉桓公を葬る。
六年の春、斉は宋を伐った。それは宋が斉と同盟しなかったためである。夏、宋の襄公が卒した。七年、晋の文公が立った。
十年、孝公が卒し、孝公の弟の潘が衛の公子の開方に因って孝公の子を殺し、潘を立てた。これが昭公である。昭公は桓公の子であり、その母は葛嬴という。
斉の昭公
昭公元年、晋の文公が楚を城濮にて破り、諸侯と践土に会し、周に朝して、天子は晋に伯たることを命じた。六年、翟が斉を侵した。晋の文公が卒した。秦の兵は殽にて敗れた。十二年、秦の穆公が卒した。
十九年五月、昭公が卒し、子の舍が斉の君として立った。舍の母は昭公に寵愛されず、国人は誰も畏れなかった。昭公の弟の商人は桓公の死に際して争って立たんとしたが得られず、ひそかに賢士と交わり、百姓を愛撫して、百姓は喜んだ。昭公が卒し、子の舍が立つと、孤弱であったので、すなわち衆とともに十月に墓上で斉の君の舍を弑し、商人が自ら立った。これが懿公である。懿公は桓公の子であり、その母は密姫という。
斉の懿公
懿公四年の春、初め、懿公が公子であった時、丙戎の父と狩猟をし、獲物の取り合いに勝てなかった。即位すると、丙戎の父の足を切り落とし、丙戎を御者とした。庸職の妻が美しかったので、公は彼女を宮中に入れ、庸職を驂乗(副御者)とした。五月、懿公が申池に遊んだ時、二人(丙戎と庸職)が水浴びをし、戯れ合った。職が言う、「足を切られた者の子よ!」戎が言う、「妻を奪われた者よ!」二人はともにこの言葉を恥じ、怨みを抱いた。公と竹林に遊びに行くことを謀り、二人は車上で懿公を弑し、竹の中に遺棄して逃亡した。
懿公が立つと、驕慢で、民は従わなかった。斉人はその子を廃し、公子元を衛から迎えて立てた。これが恵公である。恵公は桓公の子である。その母は衛の女で、少衛姫といい、斉の乱を避けて衛にいた。
斉の恵公
恵公二年、長狄(長翟)が来寇し、王子城父がこれを攻め殺し、北門に埋めた。晋の趙穿がその君霊公を弑した。
十年、恵公卒去し、子の頃公無野立つ。初め、崔杼は恵公に寵愛されていたが、恵公が卒去すると、高氏・國氏はその逼迫を恐れ、彼を追放したので、崔杼は衛に奔った。
齊の頃公
頃公元年、楚の莊王強盛となり、陳を伐つ。二年、鄭を囲み、鄭伯降伏す。既にして鄭伯を国に復す。
六年の春、晉が郤克を斉に遣わすと、斉は夫人に帷中でこれを見させた。郤克が階を上ると、夫人はこれを笑った。郤克は言う、「この報いをせずんば、再び河を渡らず」と。帰国し、斉を伐つことを請うたが、晉侯は許さなかった。斉の使者が晉に至ると、郤克は斉の使者四人を河内で捕らえ、殺した。八年、晉が斉を伐つと、斉は公子彊を晉に人質として送り、晉の兵は去った。十年の春、斉は魯・衛を伐った。魯・衛の大夫が晉に赴き援軍を請うたが、皆郤克を頼った。晉は郤克に車八百乗を以て中軍の将とし、士燮に上軍を将とさせ、欒書に下軍を将とさせ、魯・衛を救い斉を伐たせた。六月壬申、斉侯の兵と靡笄の下で合う。癸酉、礱に陣す。逄丑父が斉の頃公の車右となる。頃公は言う、「駆けよ、晉軍を破って会食せん」と。郤克を射て傷つけ、血は履にまで流れた。克は引き返して陣壁に入ろうとしたが、その御者は言う、「我らが入った時、二度傷つけられたが、敢えて痛みを言わず、士卒を恐れさせまいとした。どうか子はこれを忍ばれよ」と。そこで再び戦った。戦い、斉が危急になると、丑父は斉侯が捕らえられるのを恐れ、場所を替え、頃公を車右とし、車は木に引っかかって止まった。晉の小将韓厥が斉侯の車前に伏し、「寡君が臣を使わして魯・衛を救わしむ」と言い、これを揶揄した。丑父は頃公に下りて飲み物を取らせ、その隙に逃亡させ、脱出して自軍に入った。晉の郤克は丑父を殺そうとした。丑父は言う、「君に代わって死んで戮せられるなら、後の人臣でその君に忠なる者はなくなるであろう」と。克はこれを赦し、丑父は遂に逃亡して斉に帰った。ここにおいて晉軍は斉を追って馬陵に至った。斉侯は宝器を以て謝罪することを請うたが、聞き入れられず、必ずや郤克を笑った者である蕭桐叔子を得よ、また斉に東畝を命ぜよ、と言った。これに対し、「叔子は斉の君の母である。斉の君の母もまた晉の君の母と同じである。子はどう処置されようか。かつ子は義を以て伐つとしながら、暴を以て後とされる。それでよろしいか」と答えた。ここにおいてようやく許し、魯・衛の侵した地を返還することを命じた。
十一年、晉は初めて六卿を置き、鞌の戦いの功を賞した。斉の頃公は晉に朝見し、晉の景公を王として尊ぼうとしたが、晉の景公は敢えて受けず、そこで帰国した。帰国して頃公は苑囿を弛め、賦斂を薄くし、孤児を救い病を問い、蓄積を空しくして民を救い、民もまた大いに喜んだ。諸侯に厚く礼を尽くした。ついに頃公が卒去するまで、百姓は帰附し、諸侯は侵犯しなかった。
十七年、頃公卒す、子の霊公環立つ。
齊の霊公
霊公九年、晉の欒書其の君厲公を弑す。十年、晉の悼公齊を伐つ、齊公子光をして晉に質せしむ。十九年、子光を立てて太子と為し、高厚之を傅く、諸侯に会して鐘離に盟せしむ。二十七年、晉中行獻子をして齊を伐たしむ。齊師敗れ、霊公臨菑に走入る。晏嬰霊公を止む、霊公従わず。曰く、「君亦勇無きかな!」と。晉兵遂に臨菑を囲み、臨菑城守して敢えて出でず、晉郭中を焚きて去る。
二十八年、初め、霊公魯の女を娶り、子光を生み、以て太子と為す。仲姬、戎姬。戎姬寵愛せらる、仲姬子牙を生み、之を戎姬に属す。戎姬請うて以て太子と為さんことを、公之を許す。仲姬曰く、「不可なり。光の立つ、諸侯に列す、今故無くして之を廃せば、君必ず之を悔いん。」と。公曰く、「我に在るのみ。」と。遂に太子光を東し、高厚をして牙を傅きて太子と為さしむ。霊公疾有り、崔杼故太子光を迎えて之を立て、是を莊公と為す。莊公戎姬を殺す。五月壬辰、霊公卒す、莊公即位し、太子牙を句竇の丘に執り、之を殺す。八月、崔杼高厚を殺す。晉齊の乱を聞き、齊を伐ち、高唐に至る。
齊の莊公
荘公三年、晋の大夫欒盈が斉に奔り、荘公は厚く客として遇した。晏嬰と田文子が諫めたが、公は聴かなかった。四年、斉の荘公は欒盈をして間隙を縫って晋の曲沃に入り内応させ、兵を率いてこれに随い、太行山を上り、孟門に入った。欒盈は敗れ、斉兵は引き返し、朝歌を取った。
六年、初め、棠公の妻は美しく、棠公が死ぬと、崔杼がこれを娶った。荘公は彼女と通じ、しばしば崔氏の家に行き、崔杼の冠を人に賜った。侍者が「いけません」と言った。崔杼は怒り、斉が晋を伐つ機会に乗じて、晋と謀りを合わせて斉を襲おうとしたが、間隙を得られなかった。荘公はかつて宦官の賈挙を鞭打ったことがあり、賈挙は再び侍することとなり、崔杼のために公の隙をうかがい怨みを報いた。五月、莒子が斉に朝し、斉は甲戌の日に饗応した。崔杼は病と称して政務を見なかった。乙亥の日、公が崔杼の病を問うと、ついでに崔杼の妻に近づいた。崔杼の妻が奥に入り、崔杼と共に戸を閉めて出てこないので、公は柱に寄りかかって歌った。宦官の賈挙が公の従官を遮って中に入り、門を閉め、崔杼の徒党が兵を持って中から立ち上がった。公は台に登って和解を請うたが、許されず;盟を請うたが、許されず;廟で自殺することを請うたが、許されなかった。皆が言うには、「君の臣である杼は重病で、命令を聴くことができません。公の宮殿に近いので、陪臣たちが争って淫らな者を捕らえようとしています。二つの命令は知りません。」公が牆を越えようとすると、矢が公の腿に当たり、公は逆に墜ち、遂にこれを弑した。晏嬰が崔杼の門の外に立ち、「君が社稷のために死ぬならばこれに殉じ、社稷のために亡びるならばこれに殉じる。もし己のために死に己のために亡びるのであれば、その私昵の者でなければ、誰が敢えてこれを引き受けようか。」と言った。門が開くと中に入り、公の屍を枕にして哭し、三たび踊り出て出た。人が崔杼に言った、「必ずこれを殺すべきです。」崔杼は言った、「民の望みである。これを赦せば民を得る。」
丁丑の日、崔杼は荘公の異母弟の杵臼を立てた。これが景公である。景公の母は、魯の叔孫宣伯の娘である。景公が立つと、崔杼を右相とし、慶封を左相とした。二相は乱が起こることを恐れ、国人と盟して言った、「崔氏・慶氏に与しない者は死す。」晏子が天を仰いで言った、「嬰が得られないのは、ただ君に忠であり社稷に利ある者に従うことだけである。」盟を肯んじなかった。慶封は晏子を殺そうとしたが、崔杼は言った、「忠臣である。これを赦せ。」斉の太史が「崔杼、荘公を弑す」と書いたので、崔杼はこれを殺した。その弟がまた書いたので、崔杼はまたこれを殺した。末の弟がまた書いたので、崔杼はついにこれを赦した。
斉の景公
景公元年、初め、崔杼は子の成と彊を生んだが、その母が死ぬと、東郭の女を娶り、明を生んだ。東郭の女はその前夫の子の無咎とその弟の偃に崔氏の家政を執らせた。成が罪を犯すと、二相(無咎と偃)は急いでこれを治め、明を太子に立てた。成は崔(杼の領地)で老いることを請うたが、崔杼はこれを許した。二相は聴かず、言った、「崔は宗廟の邑である。できない。」成と彊は怒り、慶封に告げた。慶封は崔杼と不和があり、その敗れることを望んでいた。成と彊は崔杼の家で無咎と偃を殺し、崔杼の家族は皆逃亡した。崔杼は怒ったが、人がいないので、一人の宦官に御させて、慶封に会った。慶封は言った、「あなたのためにこれを誅しましょう。」崔杼の仇である盧蒲嫳をして崔氏を攻めさせ、成と彊を殺し、崔氏をことごとく滅ぼした。崔杼の妻は自殺した。崔杼は帰る所がなく、また自殺した。慶封は相国となり、権力を専断した。
三年十月、慶封は狩猟に出た。初め、慶封は既に崔杼を殺し、ますます驕り、酒を嗜み狩猟を好み、政令を聴かなかった。慶舍が政を用い、既に内に隙があった。田文子が桓子に言うには、「乱が起こらんとする」と。田氏・鮑氏・高氏・欒氏が相謀って慶氏を図る。慶舍は甲兵を発して慶封の宮を囲み、四家の徒が共にこれを撃ち破った。慶封は還り、入るを得ず、魯に奔った。斉人は魯を責め、封は呉に奔った。呉はこれに朱方を与え、その族を聚めてここに住まわせ、斉に在りし時より富んだ。その秋、斉人は荘公を改葬し、崔杼の尸を市に戮して衆を説かしめた。
九年、景公は晏嬰をして晋に使わしめ、叔向と私語して曰く、「斉の政は終に田氏に帰すべし。田氏は大徳無きも、公権を以て私にし、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公は晋に如き、平公に謁し、燕を伐たんと欲す。十八年、公復た晋に如き、昭公に謁す。二十六年、魯の郊を狩り、因りて魯に入り、晏嬰と俱に魯の礼を問う。三十一年、魯の昭公は季氏の難を避け、斉に奔る。斉は千社を以て之を封ぜんと欲すも、子家が昭公を止め、昭公は乃ち斉に請うて魯を伐ち、鄆を取って昭公を住まわしむ。
三十二年、彗星見ゆ。景公は柏寝に坐し、嘆いて曰く、「堂堂たり、誰かこれ有らんや」と。群臣皆泣く、晏子笑う、公怒る。晏子曰く、「臣は群臣の諛い甚だしきを笑うなり」と。景公曰く、「彗星は東北に出で、斉の分野に当たる、寡人これを憂いと為す」と。晏子曰く、「君は高台深池を築き、賦斂は得ざるが如くし、刑罰は勝えざるを恐る、茀星将に出でんとす、彗星何ぞ懼れんや」と。公曰く、「禳ぐべけんや」と。晏子曰く、「神をして祝いて来たらしむるを得ば、亦禳ぎて去らしむるを得べし。百姓の苦怨は万数を以てす、而るに君一人をして之を禳がしむ、安んぞ衆口に勝えんや」と。是の時景公は宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈し、賦を厚くし刑を重くするを好む、故に晏子は此を以て之を諫む。
四十二年、呉王闔閭楚を伐ち、郢に入る。
四十七年、魯の陽虎其の君を攻むるも勝たず、斉に奔り、斉に請うて魯を伐たんとす。鮑子景公を諫む、乃ち陽虎を囚う。陽虎亡るを得、晋に奔る。
四十八年、魯の定公と好会して夾谷に会す。犁鉏曰く、「孔丘は礼を知るも怯なり。請う、萊人をして楽を為さしめ、因って魯君を執り、志を得べし」と。景公は孔丘の魯に相たるを害し、その覇を懼る。故に犁鉏の計に従う。会するや、萊楽を進む。孔子階を歴りて上り、有司をして萊人を執らしめて斬らしめ、礼を以て景公を譲る。景公慚じ、乃ち魯の侵地を帰して謝し、而して罷み去る。是の歳、晏嬰卒す。
五十五年、范・中行、其の君に反す於晉。晉攻むること急なり。来たりて粟を請う。田乞乱を為さんと欲し、党を逆臣に樹てんとし、景公に説いて曰く、「范・中行、数たび徳有り於齊、救わざるべからず」と。及んで乞をして救わしめ、之に粟を輸せしむ。
五十八年夏、景公の夫人燕姬の適子死す。景公の寵妾芮姬、子荼を生む。荼少く、其の母賤しく、行い無し。諸大夫其の嗣たるを恐れ、乃ち言う、「願わくは諸子の長賢なる者を択びて太子と為さん」と。景公老い、嗣事を言うを悪み、又荼の母を愛し、之を立てんと欲す。之を発する口を憚り、乃ち諸大夫に謂いて曰く、「楽を為すのみ。国何ぞ君無きを患えんや」と。秋、景公病み、国惠子・高昭子に命じて少子荼を立てて太子と為さしめ、群公子を逐い、之を萊に遷す。景公卒す。太子荼立ち、是を晏孺子と為す。冬、未だ葬らずして、群公子誅を畏れ、皆出亡す。荼の諸異母兄、公子壽・駒・黔は衛に奔り、公子駔・陽生は魯に奔る。萊人之を歌いて曰く、「景公死す乎、与に埋めず。三軍の事乎、与に謀らず。師乎師乎、胡ぞ党の之に有らんや」と。
齊の晏孺子
晏孺子元年春、田乞偽りて高・國に事う。毎朝、乞驂乗し、言う、「子君を得て、大夫皆自ら危うし、謀りて乱を作さんと欲す」と。又諸大夫に謂いて曰く、「高昭子は畏るべし。未だ発せざるに及び、之に先んぜん」と。大夫之に従う。六月、田乞・鮑牧乃ち大夫と兵を以て公宮に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国惠子と公を救う。公の師敗る。田乞の徒之を追う。国惠子莒に奔る。遂に反って高昭子を殺す。晏圉魯に奔る。八月、齊の秉意茲。田乞二相を敗り、乃ち人をして魯に之き公子陽生を召さしむ。陽生齊に至り、私かに田乞の家に匿る。十月戊子、田乞諸大夫に請いて曰く、「常の母に魚菽の祭有り。幸いに来たり会飲せん」と。会飲し、田乞陽生を盛るに橐中にし、坐の中央に置く。橐を発きて陽生を出だし、曰く、「此れ乃ち齊の君なり」と。大夫皆伏謁す。将に大夫と盟して之を立てんとす。鮑牧酔う。乞大夫を誣いて曰く、「吾鮑牧と謀りて共に陽生を立てん」と。鮑牧怒りて曰く、「子景公の命を忘れたるか」と。諸大夫相視みて悔いんと欲す。陽生前に進み、頓首して曰く、「可なれば則ち之を立て、否なれば則ち已まん」と。鮑牧禍の起るを恐れ、乃ち復た曰く、「皆景公の子なり。何を以て不可ならんや」と。乃ち盟し、陽生を立て、是を悼公と為す。悼公宮に入り、人をして晏孺子を駘に遷さしめ、之を幕下に殺し、而して孺子の母芮子を逐う。芮子故より賤しくして孺子少なし。故に権無く、国人之を軽んず。
齊の悼公
悼公元年、齊は魯を伐ち、讙・闡を取る。初め、陽生は魯に亡命しており、季康子はその妹を以て之に妻せしむ。帰国して即位するに及び、使を遣わして之を迎えしむ。季姬は季魴侯と通じ、その情を言う。魯は敢えて与えず、故に齊は魯を伐ち、遂に季姬を迎う。季姬は寵愛され、齊は復た魯の侵地を帰す。
鮑子は悼公と郤有り、善からず。四年、呉・魯は齊の南方を伐つ。鮑子は悼公を弑し、呉に赴告す。呉王夫差は軍門外にて三日哭し、将に海より入りて齊を討たんとす。齊人これを敗り、呉師は乃ち去る。晉の趙鞅は齊を伐ち、頼に至りて去る。齊人共に悼公の子壬を立て、是を簡公と為す。
齊の簡公
簡公四年春、初め、簡公は父の陽生と俱に魯に在りし時、監止寵有り。即位するに及び、政を為さしむ。田成子之を憚り、朝にて驟りに顧みる。御鞅簡公に言う、「田・監は并べるべからず、君其れ之を択ばんか」と。聴かず。子我夕す、田逆人を殺し、之に逢い、遂に捕えて入る。田氏方に睦み、囚をして病ましめ、守囚の者に酒を遺わし、酔いて守者を殺し、亡るを得る。子我諸田と陳宗に盟す。初め、田豹子我の臣たらんと欲し、公孫をして豹を言わしむ。豹喪有りて止む。後遂に臣と為し、子我に幸わる。子我謂いて曰く、「吾田氏を尽く逐いて女を立てん、可ならんか」と。対えて曰く、「我田氏より遠し。且つ其の違う者は数人に過ぎず、何ぞ尽く逐かんや」と。遂に田氏に告ぐ。子行曰く、「彼君を得たり。先んぜずんば、必ず子に禍せん」と。子行公宮に舎る。
夏五月壬申の日、成子兄弟は四乗の車で公の許へ赴く。子我は帷幄の中にあり、出て迎え、遂に入り、門を閉ざす。宦者これを防ぐも、子行が宦者を殺す。公は婦人と檀臺にて酒を飲み、成子は諸寢に遷す。公は戈を執ってこれを撃たんとす。太史子餘曰く、「利ならざるに非ず、害を除かんとすなり」と。成子は庫に出て宿す。公なお怒れるを聞き、出でんとして曰く、「何れの所に君無からんや」と。子行剣を抜きて曰く、「需は事の賊なり。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所は田宗の如き有らん」と。乃ち止む。子我帰り、徒を属して闈と大門を攻むるも、皆勝たず、乃ち出づ。田氏これを追う。豊丘人子我を執りて告ぐ。これを郭関に殺す。成子大陸子方を殺さんとす。田逆請うてこれを免す。公の命を以て道に車を取る。雍門より出づ。田豹これに車を与うるも、受けず、曰く、「逆余が為に請い、豹余に車を与う。余私あり。子我に事えて其の讎に私する有らば、何を以て魯・衛の士に見えんや」と。
庚辰の日、田常は簡公を俆州にて執す。公曰く、「余早く御鞅の言に従わば、此に及ばざりしものを」と。甲午の日、田常は簡公を俆州にて弑す。田常は乃ち簡公の弟驁を立てる。是を平公と為す。
齊の平公
平公即位す。田常之を相とし、齊の政を専らにす。齊の安平以東を割きて田氏の封邑と為す。
平公八年、越は呉を滅ぼす。二十五年に卒す。子の宣公積立つ。
斉の宣公
宣公は五十一年に卒し、子の康公貸が立つ。田会が廩丘に反す。
斉の康公
康公の二年、韓・魏・趙が始めて諸侯に列せられる。十九年、田常の曾孫田和が始めて諸侯となり、康公を海濱に遷す。
二十六年、康公卒す。呂氏は遂にその祀を絶つ。田氏はついに斉国を有ち、斉の威王となり、天下に強し。
評論
太史公が曰く、私は斉に行ったことがある。泰山から琅邪に連なり、北は海に至るまで、肥沃な土地が二千里に及び、その民は闊達で多くは知恵を隠している。これは天性である。太公の聖をもって国本を建て、桓公の盛をもって善政を修め、これをもって諸侯の会盟を為し、伯と称したのは、また宜しいことではないか。洋洋たるかな、まさに大国の風である。
【索隠述賛】太公は周を佐け、実に陰謀を秉る。既に東海に表れ、乃ち営丘に居る。小白は覇を致し、九たび諸侯を合す。及び内寵に溺れ、釁は鐘に虫流る。荘公は徳を失い、崔杼は仇を作る。陳氏は専政し、厚く貨を収め軽く収む。悼公・簡公は禍に遭い、田氏・闞氏は儔に非ず。渢渢たる余烈、一変何に由るか。