史記
巻七 項羽本紀 第七
項羽
項籍は、下相の人であり、字は羽という。初めて挙兵した時、年は二十四歳であった。その叔父は項梁であり、梁の父はすなわち楚の将軍項燕で、秦の将軍王翦に殺された者である。項氏は代々楚の将軍となり、項に封ぜられたので、姓を項氏とした。
項籍が若い時、文字を学んだが成就せず、やめて、剣術を学んだが、また成就しなかった。項梁は彼を怒った。籍は言った。「文字は名や姓を記すのに足るだけである。剣は一人の敵に過ぎず、学ぶに足らぬ。万人の敵を学ぼう。」そこで項梁は籍に兵法を教えた。籍は大いに喜び、その大意を知ったが、また最後まで学ぼうとしなかった。項梁はかつて櫟陽で逮捕状が出されたことがあり、そこで蘄の獄掾曹咎に手紙を書いて櫟陽の獄掾司馬欣に届けさせ、この事によって事件が収まった。項梁は人を殺し、籍と共に仇を避けて呉中に身を寄せた。呉中の賢士大夫は皆、項梁の下に出入りした。呉中に大きな徭役や葬儀がある度に、項梁は常に主催者となり、密かに兵法を用いて賓客や子弟を統率した。これによって彼らの能力を知った。秦の始皇帝が会稽に巡遊し、浙江を渡った時、梁と籍は共に見物した。籍は言った。「あの者を取って代わることができる。」梁は彼の口を押さえ、「むやみに言うな、族誅されるぞ。」と言った。梁はこのことで籍を非凡な者と見なした。籍の身長は八尺余り、力は鼎を持ち上げることができ、才気は人に優れていた。呉中の子弟でさえ、すでに籍を畏れていた。
秦の二世皇帝元年七月、陳涉らが大沢で挙兵した。その九月、会稽郡守の通が梁に言った。「長江以西は皆、反乱している。これも天が秦を滅ぼす時である。私は聞く、先んずれば人を制し、後れれば人に制せられると。私は兵を起こしたい。あなたと桓楚に将軍となってもらいたい。」この時、桓楚は逃亡して沢の中にいた。梁は言った。「桓楚は逃亡しており、人がその所在を知る者はない。ただ籍だけが知っている。」梁は出て行き、籍に剣を持って外で待つよう戒めた。梁は再び入り、郡守と座って言った。「籍を召し出し、桓楚を召し出す命令を受けさせてください。」郡守は「よろしい」と言った。梁は籍を呼び入れた。しばらくして、梁は籍に目配せして言った。「実行せよ。」そこで籍は剣を抜いて郡守の首を斬った。項梁は郡守の首を持ち、その印綬を佩いた。門下の者は大いに驚き、混乱した。籍が撃ち殺した者は数十百人に及んだ。一府中は皆、恐れ伏し、敢えて立ち上がる者はいなかった。梁はそこで以前から知っていた豪吏を召し出し、大事を起こす理由を諭し、ついに呉中の兵を挙げた。人をやって下の県を収めさせ、精兵八千人を得た。梁は呉中の豪傑を部署して 校尉 ・候・司馬とした。一人の者が任用されず、梁に自分から言った。梁は言った。「以前、ある葬儀であなたに某の事を主催させたが、うまくできなかった。これであなたを任用しないのだ。」一同は皆、服した。そこで梁は会稽郡守となり、籍は裨将となって、下の県を巡行して平定した。
広陵の人召平はこの時、陳王のために広陵を巡行していたが、まだ平定できなかった。陳王が敗走したと聞き、秦兵がまたまさに来ると聞くと、長江を渡り、陳王の命令を偽って、梁を楚王の上柱国に任命した。言うには、「江東はすでに平定された。急いで兵を率いて西進し、秦を撃て。」項梁はそこで八千人を率いて長江を渡り西進した。陳嬰がすでに東陽を平定したと聞き、使者を遣わして連合して共に西進したいと伝えた。陳嬰は、もと東陽の令史で、県中に住み、平素から信義があり謹直で、長者と称されていた。東陽の若者たちがその県令を殺し、数千人が集まり、首領を立てようとしたが、適任者がいなかったので、陳嬰に請うた。嬰はできないと辞退したが、ついに強いて嬰を長に立てた。県中で従う者は二万人を得た。若者たちは嬰をすぐに王に立てようとした。異軍として蒼頭 (青い頭巾) を目印に特に起こそうとした。陳嬰の母が嬰に言った。「私があなたの家の嫁になってから、あなたの先祖に貴い者がいたと聞いたことがない。今、突然に大いなる名声を得るのは不吉である。どこかに属する方がよい。事が成ればなお侯に封ぜられることができ、事が敗れても逃亡しやすく、世間から名指しで非難されることもない。」嬰はそこで王となることを敢えてしなかった。その軍吏に言った。「項氏は代々将軍の家柄で、楚に名声がある。今、大事を挙げようとするのに、将軍がその人でなければならない。私は名族に頼れば、秦を滅ぼすことは必ずできる。」そこで一同はその言葉に従い、兵を項梁に属させた。項梁が淮水を渡ると、黥布・蒲将軍もまた兵を率いて属した。合わせて六七万人、下邳に駐屯した。
この時、秦嘉はすでに景駒を楚王に立て、彭城の東に駐屯し、項梁を拒もうとしていた。項梁は軍吏に言った。「陳王が先に事を起こし、戦いが不利で、その所在を聞かない。今、秦嘉は陳王に背いて景駒を立てた。逆無道である。」そこで進軍して秦嘉を撃った。秦嘉の軍は敗走し、胡陵まで追撃した。嘉は引き返して一日戦い、嘉は死に、軍は降伏した。景駒は逃走して梁の地で死んだ。項梁はすでに秦嘉の軍を併合し、胡陵に駐屯し、軍を率いて西進しようとした。章邯の軍が栗に至ると、項梁は別将の朱雞石・餘樊君を遣わして戦わせた。餘樊君は戦死した。朱雞石の軍は敗れ、逃亡して胡陵に走った。項梁はそこで兵を率いて薛に入り、雞石を誅殺した。項梁は以前に項羽を別働隊として襄城を攻めさせたが、襄城は堅守して落ちなかった。すでに陥落させると、皆を生き埋めにした。戻って項梁に報告した。項梁は陳王が確かに死んだと聞き、諸別将を召し集めて薛で会議し事を計った。この時、沛公もまた沛で挙兵し、そこへ赴いた。
居鄛の人范増は、年七十、平素は家に居り、奇計を好んだ。項梁のところへ行き説いて言った。「陳勝の敗北はもとより当然である。そもそも秦が六国を滅ぼしたが、楚は最も罪がなかった。懐王が秦に入って帰らなかったので、楚人は今に至るまでこれを憐れんでいる。故に楚の南公は言う『楚たとえ三戸たりとも、秦を滅ぼす者は必ず楚である』と。今、陳勝が先に事を起こしたが、楚の後裔を立てずに自ら王となったので、その勢いは長く続かない。今、あなたが江東から起こり、楚で蜂起した将軍たちが皆、争ってあなたに付こうとするのは、あなたが代々楚の将軍であり、楚の後裔を再び立てることができるからである。」そこで項梁はその言葉を正しいとし、楚の懐王の孫の心を民間に求めさせた。彼は人に雇われて羊を飼っていた。彼を立てて楚の懐王とし、民衆の望みに従った。陳嬰を楚の上柱国とし、五県を封じ、懐王と共に盱台に都した。項梁は自ら武信君と号した。
数か月を経て、兵を率いて亢父を攻め、斉の田栄・司馬龍且の軍と共に東阿を救援し、東阿で秦軍を大破した。田栄はすぐに兵を率いて帰還し、その王の假を追放した。假は逃亡して楚に走った。假の相の田角は逃亡して趙に走った。角の弟の田閒はもと斉の将軍で、趙にいて敢えて帰らなかった。田栄は田儋の子の市を立てて斉王とした。項梁はすでに東阿の下の軍を破り、ついに秦軍を追撃した。数度使者を遣わして斉の兵を促し、共に西進したいと伝えた。田栄は言った。「楚が田假を殺し、趙が田角・田閒を殺せば、その時に兵を起こそう。」項梁は言った。「田假は同盟国の王であり、困窮して私に従ってきた。殺すに忍びない。」趙もまた斉に売り込むために田角・田閒を殺さなかった。斉はついに兵を起こして楚を助けようとしなかった。項梁は沛公及び項羽を別働隊として城陽を攻めさせ、これを屠った。西進して濮陽の東で秦軍を破り、秦兵は濮陽に収まった。沛公・項羽はそこで定陶を攻めた。定陶はまだ落ちず、去って、西へ地を略して雝丘に至り、秦軍を大破し、李由を斬った。引き返して外黄を攻めたが、外黄はまだ落ちなかった。
項梁は東阿より起こり、西に向かい、 (北) [比]して定陶に至り、再び秦軍を破り、項羽らはまた李由を斬り、ますます秦を軽んじ、驕りの色があった。宋義はすなわち項梁に諫めて言うには、「戦に勝って将驕り兵惰る者は敗れる。今、兵は少し惰っている。秦の兵は日々増し、臣は君のためにこれを畏れる」と。項梁は聞き入れなかった。すなわち宋義をして斉に使いさせた。道中で斉の使者高陵君顕に遇い、言うには、「公は武信君に会おうとするか」と。曰く、「然り」と。曰く、「臣は武信君の軍必ず敗れると論ずる。公はゆっくり行けばすなわち死を免れ、急いで行けばすなわち禍に及ぶであろう」と。秦は果たして悉く兵を起こして章邯を増強し、楚軍を撃ち、定陶においてこれを大破し、項梁は死んだ。沛公・項羽は外黄を去って陳留を攻めたが、陳留は堅守して下すことができなかった。沛公・項羽は相謀って言うには、「今、項梁の軍は破れ、士卒は恐れている」と。すなわち呂臣の軍とともに兵を率いて東に向かった。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍した。
章邯はすでに項梁の軍を破ると、楚の地の兵は憂うるに足らずとみなし、すなわち河を渡って趙を撃ち、これを大破した。この時、趙歇は王となり、陳餘は将となり、張耳は相となり、皆鉅鹿城に走り入った。章邯は王離・涉閒に命じて鉅鹿を包囲させ、章邯はその南に軍し、甬道を築いてこれに粟を輸送した。陳餘は将となり、数万の兵卒を率いて鉅鹿の北に軍した。これいわゆる河北の軍である。
楚の兵はすでに定陶において破られ、懐王は恐れ、盱臺より彭城に移り、項羽・呂臣の軍を合わせて自らこれを将とした。呂臣を 司徒 とし、その父呂青を令尹とした。沛公を碭郡長とし、武安侯に封じ、碭郡の兵を将とした。
初め、宋義の遇った斉の使者高陵君顕が楚軍にあり、楚王に会って言うには、「宋義は武信君の軍必ず敗れると論じ、数日居るうちに、軍は果たして敗れた。兵は未だ戦わずして先に敗徴を見る。これは兵を知る者というべきである」と。王は宋義を召して事を計り、大いにこれを悦び、よって上將軍に任じ、項羽を魯公とし、次将とし、范増を末将として、趙を救わせた。諸別将は皆宋義に属し、卿子冠軍と号した。安陽に行き至り、四十六日留まって進まなかった。項羽は言う、「私は聞く、秦軍が趙王を鉅鹿に囲むと。速やかに兵を率いて河を渡り、楚は外より撃ち、趙は内より応じれば、秦軍を破ることは必ずである」と。宋義は言う、「そうではない。牛を搏つ蝱は以て蟣蝨を破るべからず。今、秦が趙を攻め、戦に勝てば兵は罷み、我はその敝れに乗ずる。勝たなければ、我は兵を率いて鼓行して西に向かい、必ず秦を挙げるであろう。故に秦と趙を先に闘わせるに如かず。堅きを被り鋭きを執るは、義は公に如かず。坐して策を運らすは、公は義に如かず」と。よって軍中に令を下して言うには、「猛きこと虎の如く、很 (頑な) なること羊の如く、貪なること狼の如く、強くして使うべからざる者は、皆これを斬る」と。すなわちその子宋襄をして斉の相たらしめ、身をもってこれを無塩まで送り、酒を飲み高会した。天寒く大雨、士卒は凍え飢えた。項羽は言う、「将として力を 戮 て秦を攻めんとし、久しく留まって行かず。今年は饑饉で民は貧しく、士卒は芋菽を食い、軍に現糧なし。しかるに酒を飲み高会し、兵を率いて河を渡り趙の食に因り、趙と力を併せて秦を攻めず、乃ち『その敝れに乗ず』と言う。秦の強さをもって、新たに造られた趙を攻めれば、その勢い必ず趙を挙げるであろう。趙が挙がって秦は強くなる。何の敝れを乗ずるというのか。かつ国兵は新たに破られ、王は坐して席を安んぜず、境内を掃 (尽く) して専ら将軍に属す。国家の安危、この一挙に在り。今、士卒を 恤 まずしてその私に 徇 う。社稷の臣にあらず」と。項羽は朝に上將軍宋義に謁し、すなわちその帳中において宋義の頭を斬り、出でて軍中に令して言うには、「宋義は斉と謀り楚に反す。楚王は密かに羽にこれを誅せよと命じた」と。この時、諸将は皆慴服し、敢えて枝梧する者なし。皆言う、「初めて楚を立てたるは、将軍の家なり。今、将軍は乱を誅す」と。すなわち相ともに共に羽を立てて仮の上將軍とした。人をして宋義の子を追わせ、斉に及んでこれを殺した。桓楚をして懐王に命を報ぜしめた。懐王はよって項羽を上將軍とし、当陽君・蒲将軍は皆項羽に属した。
項羽はすでに卿子冠軍を殺し、威は楚国に震い、名は諸侯に聞こえた。すなわち当陽君・蒲将軍に命じて卒二万を率いて河を渡らせ、鉅鹿を救わせた。戦い少し利あり、陳餘はまた兵を請うた。項羽はすなわち悉く兵を率いて河を渡り、皆船を沈め、釜甑を破り、廬舎を焼き、三日分の糧を持ち、以て士卒に必死を示し、一つの還る心もなからしめた。ここにおいて至ればすなわち王離を囲み、秦軍と遇い、九たび戦い、その甬道を絶ち、これを大破し、蘇角を殺し、王離を虜にした。涉閒は楚に降らず、自ら焼き殺した。この時、楚の兵は諸侯に冠たる。諸侯の軍で鉅鹿を救うために下った者は十余の壁あり、敢えて兵を 縦 にする者なし。楚が秦を撃つに及んで、諸将は皆壁上より観た。楚の戦士は一も以て十に当たらざるはなく、楚兵の呼聲は天を動かし、諸侯の軍は人々惴恐せざるはなかった。ここにおいてすでに秦軍を破り、項羽は諸侯の将を召して見、轅門に入ると、膝行して前に進まざるはなく、敢えて仰ぎ視る者なし。項羽はここより始めて諸侯の上將軍となり、諸侯は皆これに属した。
章邯は棘原に軍し、項羽は漳南に軍し、相持して未だ戦わず。秦軍は数たび退き、二世は人をして章邯を譲責せしめた。章邯は恐れ、長史欣をして事を請わしめた。咸陽に至り、司馬門に三日留まり、趙高は会わず、信じざるの心あり。長史欣は恐れ、還ってその軍に走り、敢えて故道に出ず、趙高は果たして人をしてこれを追わせたが、及ばなかった。欣は軍に至り、報じて言うには、「趙高は中で事を用い、下には為すべき者なし。今、戦いて勝つことができれば、高は必ず疾く我が功を妬む。戦いて勝つことができなければ、死を免れない。願わくは将軍よくこれを計らんことを」と。陳餘もまた章邯に書を遺して言うには、「白起は秦の将たり、南は鄢郢を征し、北は馬服を 阬 め、城を攻め地を略し、数うるに勝えず、而して竟に死を賜う。蒙恬は秦の将たり、北は戎人を逐い、榆中の地数千里を開き、竟に陽周に斬らる。何ぞや。功多きが故に、秦は尽く封ずることができず、よって法を以てこれを誅す。今、将軍は秦の将たりて三年、亡失する所十万を数え、而して諸侯は併起してますます多し。彼の趙高は素より 諛 うこと日久しく、今事急なれば、また二世のこれを誅すことを恐れ、故に法を以て将軍を誅して責めを塞ぎ、人をして将軍を更代せしめてその禍を脱れんとす。将軍は外に居ること久しく、内に 卻 くこと多し。功あれば亦誅され、功なければ亦誅される。且つ天の秦を亡ぼすは、愚智を問わず皆これを知る。今、将軍は内に直諫することができず、外は亡国の将たり、孤特独立して常に存せんと欲する。豈に哀しまざらんや。将軍何ぞ兵を還して諸侯と従 (縦) を為し、約して共に秦を攻め、その地を分かち王となり、南面して孤を称せざる。これと身を伏して鈇質に就き、妻子を戮にせらるるとは、孰れが善きか」と。章邯は狐疑し、密かに候始成をして項羽に使いさせ、約しようとした。約未だ成らず、項羽は蒲将軍に命じて日夜兵を率いて三戸を渡らせ、漳南に軍し、秦と戦い、再びこれを破った。項羽は悉く兵を率いて秦軍を汚水上に撃ち、これを大破した。
章邯は人をして項羽に見えさせ、約しようとした。項羽は軍吏を召して謀って言うには、「糧少なし。その約を聴かんと欲す」と。軍吏は皆言う、「善し」と。項羽はすなわち期を洹水の南、殷の虚の上と定めた。すでに盟し、章邯は項羽に会って涙を流し、趙高のことを言った。項羽はすなわち章邯を立てて雍王とし、楚軍中に置いた。長史欣を上將軍とし、秦軍を将いて前行と為した。
新安に到る。諸侯の吏卒は、昔徭役や屯戍で秦中を通った際に、秦中の吏卒が彼らをひどく扱ったことがあり、また秦軍が諸侯に降伏すると、諸侯の吏卒は勝ちに乗じて多くを奴隷や虜として使役し、軽んじて秦の吏卒を辱めた。秦の吏卒は多くがひそかに言うには、「章将軍らが我々を騙して諸侯に降伏させた。今、関を入れて秦を破ることができれば大いに善い。もしできなければ、諸侯は我々を虜として東に連れて行き、秦は必ず我々の父母妻子をことごとく誅するであろう」と。諸侯はその計略をかすかに聞き、項羽に告げた。項羽はそこで黥布と蒲将軍を召して計らって言うには、「秦の吏卒はなお多く、その心は服しておらず、関中に至って命令に従わなければ、事は必ず危うい。これを撃ち殺すに如かず。ただ章邯・長史欣・都尉翳とともに秦に入ろう」と。ここにおいて楚軍は夜、新安城南で秦の士卒二十余万人を坑に埋めて殺した。
行きて秦の地を略定せんとす。函谷関に兵が関を守っており、入ることができない。また沛公がすでに咸陽を破ったと聞き、項羽は大いに怒り、当陽君らに関を撃たせた。項羽はついに関に入り、戯西に至った。沛公は軍を覇上に置き、まだ項羽と会うことができなかった。沛公の左司馬曹無傷が人をやって項羽に言うには、「沛公は関中に王たらんとし、子嬰を相とし、珍宝をことごとく有している」と。項羽は大いに怒って言うには、「明朝、士卒に饗を与え、沛公の軍を撃ち破らん」と。この時、項羽の兵は四十万、新豊の鴻門におり、沛公の兵は十万、覇上にいた。范増が項羽を説いて言うには、「沛公が山東にいた時は、財貨に貪り、美姫を好んだ。今、関に入って、財物を取らず、婦女を幸せず、これはその志が小さからざるによる。我が人にその気を望ませたところ、みな龍虎の形をなし、五采を成す。これは天子の気である。急ぎ撃って失うなかれ」と。
楚の左尹項伯は、項羽の季父であり、平素より留侯張良と親しかった。張良はこの時沛公に従っていた。項伯は夜、沛公の軍に馳せ至り、ひそかに張良に会い、事の次第をことごとく告げ、張良を呼んでともに去らんとした。言うには、「従ってともに死ぬな」と。張良は言うには、「臣は韓王のために沛公を送っており、沛公は今事が急である。逃げ去るは不義であり、告げざるを得ない」と。良は入り、ことごとく沛公に告げた。沛公は大いに驚き、言うには、「これをどうしたらよいか」と。張良は言うには、「誰が大王のためにこの計を為した者か」と。言うには、「鯫生が私に言うには『関を距て、諸侯を内に入れず、秦の地をことごとく王とすることができる』と。故にこれを聞いた」と。良は言うには、「大王の士卒が項王に当たるに足るとお考えか」と。沛公は黙然として言うには、「固より及ばない。ではどうしたらよいか」と。張良は言うには、「項伯に往きて謂わんことを請う。沛公は敢えて項王に背かざることを言え」と。沛公は言うには、「君はどうして項伯と旧知なのか」と。張良は言うには、「秦の時に臣と交わり、項伯が人を殺した時、臣がこれを生かした。今事が急であるので、幸いにも来て良に告げた」と。沛公は言うには、「君とどちらが年少か年長か」と。良は言うには、「臣より年長である」と。沛公は言うには、「君、我がために呼び入れてくれ。我は兄としてこれに事えよう」と。張良が出て、項伯を要した。項伯は即ち入りて沛公に会う。沛公は巵酒を奉じて寿を為し、婚姻を約し、言うには、「我が関に入りては、秋毫も敢えて近づく所なく、吏民を籍し、府庫を封じ、将軍を待っている。将を遣わして関を守らせた所以は、他の盗賊の出入りと非常を備えるためである。日夜将軍の至るを望んでおり、どうして敢えて反逆しようか。願わくは伯、臣の敢えて徳に背かざることを具に言え」と。項伯は諾した。沛公に謂って言うには、「明朝、早く自ら来て項王に謝せざるべからず」と。沛公は言うには、「諾」と。ここにおいて項伯はまた夜去り、軍中に至り、ことごとく沛公の言葉を項王に報じた。因りて言うには、「沛公が先に関中を破らなければ、公はどうして敢えて入ることができようか。今、人に大功ありてこれを撃つは、不義である。善く遇うに因るに如かず」と。項王は諾した。
沛公は明朝、百余騎を従えて来たり項王に会い、鴻門に至り、謝して言うには、「臣と将軍は力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦い、臣は河南で戦った。しかし自ら意図せずして先に関を入れて秦を破り、ここで再び将軍にお目にかかることができた。今、小人の言があり、将軍と臣との間に隙を生じさせた」と。項王は言うには、「これは沛公の左司馬曹無傷が言ったことである。そうでなければ、籍 (項羽) はどうしてここまでするだろうか」と。項王は即日、沛公を留めて飲ませた。項王・項伯は東向きに坐す。亜父は南向きに坐す。亜父とは范増である。沛公は北向きに坐し、張良は西向きに侍す。范増はたびたび項王に目くばせし、佩びたる玉玦を挙げてこれに示すこと三たびす。項王は黙然として応ぜず。范増は立ち、出て項莊を召し、謂って言うには、「君王は人となり忍びず。汝、前に入りて寿を為せ。寿を為し終わりて、剣舞を請い、座において沛公を撃ち、これを殺せ。そうでなければ、汝らは皆虜とされるであろう」と。莊は即ち入りて寿を為す。寿を為し終わりて言うには、「君王と沛公が飲まれるのに、軍中に楽しみとするものがない。剣舞を請う」と。項王は言うには、「諾」と。項莊は剣を抜いて舞い始める。項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身をもって沛公を翼蔽し、莊は撃つことができない。ここにおいて張良は軍門に至り、樊噲に会う。樊噲は言うには、「今日の事はどうか」と。良は言うには、「甚だ急である。今、項莊が剣を抜いて舞うは、その意は常に沛公にある」と。噲は言うには、「これは切迫している。臣、入ることを請い、これと命を同じくせん」と。噲は即ち剣を帯び盾を擁して軍門に入る。戟を交わす衛士が止めて入れさせようとしない。樊噲はその盾を側にして撞くと、衛士は地に仆れた。噲は遂に入り、帷を披き西向きに立ち、瞋目して項王を視る。頭髪は上指し、目眥はことごとく裂けんばかりである。項王は剣を按じて跽みて言うには、「客は何をする者か」と。張良は言うには、「沛公の参乗樊噲である」と。項王は言うには、「壮士よ。これに巵酒を賜え」と。則ち斗巵の酒を与える。噲は拝謝し、立ち上がり、立ったままこれを飲む。項王は言うには、「これに彘肩を賜え」と。則ち生の彘肩を与える。樊噲はその盾を地に覆し、彘肩をその上に加え、剣を抜いて切りながらこれを食う。項王は言うには、「壮士よ、また飲むことができるか」と。樊噲は言うには、「臣は死をも避けず、巵酒などどうして辞退しようか。そもそも秦王は虎狼の心を持ち、人を殺すこと挙げられざるが如く、人を刑すること勝たざるを恐れるが如く、天下は皆これに叛いた。懐王が諸将と約して言うには『先に秦を破り咸陽に入る者をこれに王たらしめん』と。今、沛公が先に秦を破り咸陽に入り、豪毛も敢えて近づく所なく、宮室を封鎖し、軍を還して覇上に駐め、大王の来るを待っている。故に将を遣わして関を守らせた所以は、他の盗賊の出入りと非常を備えるためである。このように労苦して功高きに、封侯の賞なく、細説を聴き、功ある人を誅せんと欲する。これは亡秦の続きである。窃かに大王の取らざる所となす」と。項王は応ずる言葉がなく、言うには、「坐せよ」と。樊噲は張良の傍らに坐す。坐することしばし、沛公は立ち上がりて厠に行き、樊噲を招き出した。
沛公は既に出でし後、項王は都尉陳平をして沛公を召させたり。沛公曰く、「今出づるも、未だ辞せざるなり、之を為すに奈何せん」と。樊噲曰く、「大行は細謹を顧みず、大禮は小譲を辭せず。今人方に刀俎と為り、我は魚肉と為る、何ぞ辭せん」と。是に於いて遂に去る。乃ち張良をして留まりて謝らしむ。良問うて曰く、「大王来たるに何を操るや」と。曰く、「我は白璧一雙を持ち、項王に献ぜんと欲し、玉斗一雙を持ち、亞父に与えんと欲す。其の怒るに会い、敢えて献ぜず。公我が為に之を献ぜよ」と。張良曰く、「謹みて諾す」と。是の時に當たり、項王の軍は鴻門の下に在り、沛公の軍は霸上に在り、相去ること四十里。沛公は則ち車騎を置き、身を脱して独り騎り、樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等四人と剣盾を把りて歩走し、酈山の下より、芷陽を道として間行す。沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎず。我が軍中に至るを度りて、公乃ち入れ」と。沛公既に去り、間行して軍中に至る。張良入りて謝して曰く、「沛公は桮杓に勝へず、辞すること能はず。謹みて臣良を使はし、白璧一雙を奉り、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一雙を奉り、再拝して大將軍の足下に奉る」と。項王曰く、「沛公安くにか在る」と。良曰く、「大王意有りて之を督過せんとすと聞き、身を脱して独り去り、既に軍に至れり」と。項王は則ち璧を受け、之を坐上に置く。亞父は玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破り、曰く、「ああ、豎子は与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公なり、吾屬今之が虜と為らん」と。沛公軍に至り、直ちに曹無傷を誅殺す。
数日を居て、項羽兵を引きて西し咸陽を屠り、秦の降王嬰を殺し、秦の宮室を焼く。火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或ひ項王に説きて曰く、「関中は山河に阻まれ四塞たり、地肥饒にして、都として以て覇たるべし」と。項王秦の宮室皆焼けて残破せるを見、又心に東帰を思ひ欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざれば、繍衣を着て夜行くが如し、誰か之を知らん」と。説く者曰く、「人言ふ、楚人は沐猴にして冠すと、果たして然り」と。項王之を聞き、説く者を烹る。
項王人をして致命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めに難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅きを被り鋭きを執りて首事し、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍の力なり。義帝功無きと雖も、故に其の地を分かちて之を王とすべし」と。諸将皆曰く、「善し」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王とす。項王・范増は沛公の天下を有つを疑ひ、業に已に講解し、又約に負くるを悪み、諸侯の之に叛くを恐れ、乃ち陰に謀りて曰く、「巴・蜀の道険し、秦の遷人は皆蜀に居る」と。乃ち曰く、「巴・蜀も亦関中の地なり」と。故に沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中を王とし、南鄭に都す。而して関中を三分し、秦の降将を王として以て漢王を距塞せしむ。項王乃ち章邯を立てて雍王と為し、咸陽以西を王とし、廃邱に都す。長史欣は、故に櫟陽の獄掾たりし者、嘗て項梁に徳有り。都尉董翳は、本より章邯を勧めて楚に降らしむ。故に司馬欣を立てて塞王と為し、咸陽以東より河に至るを王とし、櫟陽に都す。董翳を立てて翟王と為し、上郡を王とし、高奴に都す。魏王豹を徙して西魏王と為し、河東を王とし、平陽に都す。瑕丘申陽は、張耳の嬖臣なり、先んじて河南 (郡) を下し、楚を河上に迎ふ。故に申陽を立てて河南王と為し、雒陽に都す。韓王成因って故都に都し、陽翟に都す。趙将司馬卬河内を定め、数功有り。故に卬を立てて殷王と為し、河内を王とし、朝歌に都す。趙王歇を徙して代王と為す。趙相張耳素より賢なり、又従ひて関に入る。故に耳を立てて常山王と為し、趙の地を王とし、襄国に都す。当陽君黥布は楚将たり、常に軍を冠す。故に布を立てて九江王と為し、六に都す。鄱君呉芮百越を率ひて諸侯を佐け、又従ひて関に入る。故に芮を立てて衡山王と為し、邾に都す。義帝の柱国共敖兵を将ひて南郡を撃ち、功多し。因りて敖を立てて臨江王と為し、江陵に都す。燕王韓広を徙して遼東王と為す。燕将臧荼楚に従ひて趙を救ひ、因りて従ひて関に入る。故に荼を立てて燕王と為し、薊に都す。斉王田市を徙して膠東王と為す。斉将田都共に趙を救ひて従ひ、因りて従ひて関に入る。故に都を立てて斉王と為し、臨菑に都す。故に秦の滅ぼせし斉王建の孫田安、項羽方に河を渡りて趙を救はんとする時、田安済北の数城を下し、其の兵を引きて項羽に降る。故に安を立てて済北王と為し、博陽に都す。田榮は、数へて項梁に負け、又兵を将ひて楚に従ひて秦を撃つことを肯ぜず。以て故に封ぜず。成安君陳餘将印を棄てて去り、従ひて関に入らず。然れども素より其の賢を聞き、趙に功有り。其の南皮に在るを聞き、故に因りて三県を環封す。番君の将梅鋗功多し。故に十万戸侯に封ず。項王自立して西楚霸王と為り、九郡を王とし、彭城に都す。
漢の元年四月、諸侯戯下を罷め、各々国に就く。項王国に出づるに、人をして義帝を徙さしめ、曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上流に居る」と。乃ち使をして義帝を長沙郴県に徙さしむ。義帝の行くを趣け、其の群臣稍々背叛す。乃ち陰に衡山・臨江王を令して之を江中に撃殺せしむ。韓王成軍功無く、項王之をして国に至らしめず、俱に彭城に至り、廃して以て侯と為し、已にして又之を殺す。臧荼国に之き、因りて韓広を遼東に逐はんとす。広聴かず、荼広を無終に撃殺し、併せて其の地を王とす。
田榮項羽の斉王市を膠東に徙し、而して斉将田都を立てて斉王と為すを聞き、乃ち大いに怒り、肯へて斉王を膠東に遣はさず、因りて斉を以て反し、迎へ撃ちて田都を撃つ。田都楚に走る。斉王市項王を畏れ、乃ち亡れて膠東に之き国に就く。田榮怒り、追ひ撃ちて之を即墨に殺す。榮因りて自立して斉王と為し、而して西し済北王田安を撃殺し、三斉を併せて王とす。榮彭越に将軍の印を与へ、令して梁の地に反せしむ。陳餘陰に張同・夏説をして斉王田榮に説かしめて曰く、「項羽天下の宰と為りて、平らかならず。今尽く故王を醜地に王とし、而して其の群臣諸将を善地に王とし、其の故主趙王を逐ひて、乃ち北に代に居らしむ。餘以て不可と為す。大王兵を起すを聞く、且つ不義を聴かず。願はくは大王餘に兵を資し、請ふ常山を撃ちて以て趙王を復せんことを、国を以て捍蔽たらんことを請ふ」と。斉王之を許し、因りて兵を遣はして趙に之かしむ。陳餘悉く三県の兵を発し、斉と力を併せて常山を撃ち、大いに之を破る。張耳走りて漢に帰す。陳餘故趙王歇を代に迎へ、之を趙に反す。趙王因りて陳餘を立てて代王と為す。
この時、漢は三秦を平定して還った。項羽は漢王がすでに関中を併せ、かつ東に向かい、斉・趙がこれに叛いたと聞き、大いに怒った。そこで故呉の令鄭昌を韓王とし、漢を拒がせた。蕭公角らに彭越を撃たせた。彭越は蕭公角らを破った。漢は張良を遣わして韓を巡行させ、項王に書を送って言った、「漢王は職を失い、関中を得たいと願い、約定通りになれば直ちに止め、敢えて東に向かわない」。また斉・梁の反書を項王に送って言った、「斉は趙とともに楚を滅ぼそうとしている」。楚はこの故に西に向かう意思がなく、北に向かって斉を撃った。九江王布に兵を徴発した。布は病と称して行かず、将に数千人を率いさせて行かせた。項王はこれによって布を怨んだ。漢の二年の冬、項羽は遂に北に向かい城陽に至り、田栄も兵を率いて会戦した。田栄は勝てず、平原に走り、平原の民がこれを殺した。遂に北に向かい斉の城郭・家屋を焼き払い、田栄の降卒を皆坑に埋め、その老弱婦女を捕虜とした。斉を巡行して北海に至り、多くを残滅した。斉人は集まってこれに叛いた。ここにおいて田栄の弟田横は斉の亡卒を収めて数万人を得、城陽で反旗を翻した。項王はこれにより留まり、連戦したが下すことができなかった。
春、漢王は五諸侯の兵を統率し、合わせて五十六万人、東に向かって楚を伐った。項王はこれを聞き、直ちに諸将に斉を撃たせ、自らは精兵三万人を率いて南より魯を出て胡陵に向かった。四月、漢軍は皆すでに彭城に入り、その財宝・美人を収め、日々酒宴を設けて大いに会した。項王は西より蕭を経て、朝に漢軍を撃ち東に向かい、彭城に至り、日中に漢軍を大破した。漢軍は皆走り、互いに従って穀水・泗水に入り、漢卒十余万人を殺した。漢卒は皆南に向かって山に走り、楚はまた追撃して霊壁東の睢水の上に至った。漢軍は退却し、楚に押し込められ、多く殺され、漢卒十余万人は皆睢水に入り、睢水はこれによって流れなくなった。漢王を三重に包囲した。ここにおいて大風が西北より起こり、木を折り家屋を壊し、砂石を舞い上げ、暗く昼が晦冥となり、楚軍に向かった。楚軍は大いに乱れ、壊れて散り、漢王はかくて数十騎とともに遁走することができ、沛を過ぎて家族を収め西に向かおうとした。楚もまた人を遣わして沛を追わせ、漢王の家族を取らせた。家族は皆逃亡し、漢王と会うことがなかった。漢王は道中で孝恵・魯元を得たので、車に乗せて行った。楚の騎兵が漢王を追い、漢王は急ぎ、孝恵・魯元を車下に推し落とした。滕公は常に下りて収め乗せた。このようなことが三度あった。言った、「急いでも車を速めることはできないのに、どうして彼らを棄てるのか」。ここにおいて遂に脱することができた。太公・呂后を求めたが会えなかった。審食其が太公・呂后に従い間道を行き、漢王を求めたが、かえって楚軍に遇った。楚軍はこれとともに帰り、項王に報告した。項王は常に軍中に置いた。
この時、呂后の兄周呂侯が漢のために兵を将いて下邑に居た。漢王は間道を行きこれに従い、次第にその士卒を収めた。 滎陽 に至ると、諸敗軍は皆集まり、蕭何もまた関中の老弱で傅籍していない者を悉く発して 滎陽 に詣らせ、再び大いに振るった。楚は彭城より起こり、常に勝に乗じて敗軍を追い、漢と 滎陽 の南、京・索の間で戦い、漢は楚を破り、楚はこの故に 滎陽 を越えて西に向かうことができなかった。
項王が彭城を救い、漢王を追って 滎陽 に至った時、田横もまた斉を収めることができ、田栄の子広を立てて斉王とした。漢王が彭城で敗れた時、諸侯は皆再び楚に与して漢に背いた。漢軍は 滎陽 にあり、甬道を築いて河に連ね、敖倉の粟を取った。漢の三年、項王はしばしば漢の甬道を侵奪し、漢王は食糧が乏しく、恐れて和を請い、 滎陽 以西を漢に割くことを求めた。
項王はこれを聞き入れようとした。歴陽侯范増が言った、「漢は容易く対処できるものです。今これを釈して取らなければ、後必ずこれを悔いるでしょう」。項王は范増とともに急いで 滎陽 を包囲した。漢王はこれを憂い、陳平の計を用いて項王を離間した。項王の使者が来ると、太牢の膳を整え、挙げてこれを進めようとした。使者を見て、偽って驚愕して言った、「私は亜父の使者と思ったが、かえって項王の使者であった」。改めて持って行かせ、粗末な食事で項王の使者に食べさせた。使者は帰って項王に報告すると、項王は范増が漢と私通しているのではないかと疑い、次第にその権力を奪った。范増は大いに怒り、言った、「天下の事はほぼ定まりました。君王ご自身でなさってください。願わくば骸骨を賜り卒伍に帰らせてください」。項王はこれを許した。行くこと彭城に至らず、背中に疽が発して死んだ。
漢の将紀信が漢王に説いて言った、「事はすでに急です。私が王のために楚を誑かして王と為りましょう。王は間道を出ることができます」。ここにおいて漢王は夜、女子二千人に甲を着せて 滎陽 東門より出し、楚兵は四面よりこれを撃った。紀信は黄屋車に乗り、左纛を立てて言った、「城中の食糧は尽きた。漢王は降伏する」。楚軍は皆万歳を叫んだ。漢王もまた数十騎とともに城西門より出て、成皋に走った。項王は紀信を見て問うた、「漢王はどこにいるか」。言った、「漢王はすでに出ました」。項王は紀信を焼き殺した。
漢王は御史大夫周苛・樅公・魏豹に 滎陽 を守らせた。周苛・樅公が謀って言った、「国に叛いた王は、城を守るのは難しい」。そこで共に魏豹を殺した。楚が 滎陽 城を下し、周苛を生け捕りにした。項王は周苛に言った、「我が将となれ。私は公を上将軍とし、三万戸を封じよう」。周苛は罵って言った、「お前は早く漢に降らなければ、漢は今お前を虜にするだろう。お前は漢の敵ではない」。項王は怒り、周苛を烹り、また樅公も殺した。
漢王が 滎陽 を出て、南に向かい宛・葉に走り、九江王布を得て、行きながら兵を収め、再び入って成皋を守った。漢の四年、項王は兵を進めて成皋を包囲した。漢王は逃れ、独り滕公とともに成皋北門より出て、河を渡り修武に走り、張耳・韓信の軍に従った。諸将は次第に成皋より出ることができ、漢王に従った。楚は遂に成皋を抜き、西に向かおうとした。漢は兵を遣わして鞏でこれを拒ぎ、西に向かうことを得させなかった。
この時、彭越が河を渡って楚の東阿を撃ち、楚の将軍薛公を殺した。項王は自ら東に向かって彭越を撃った。漢王は淮陰侯の兵を得て、河を渡って南に向かおうとした。鄭忠が漢王に説き、そこで壁を河内に止めた。劉賈に兵を将いて彭越を助けさせ、楚の積聚を焼かせた。項王は東に向かってこれを撃ち破り、彭越を走らせた。漢王は則ち兵を率いて河を渡り、再び成皋を取り、広武に軍し、敖倉の食糧に就いた。項王はすでに東海を平定して来て、西に向かい、漢とともに広武に臨んで軍し、数ヶ月相守った。
この時、彭越がしばしば梁の地で反旗を翻し、楚の糧食を絶った。項王はこれを憂い、高い俎を作り、その上に太公を置き、漢王に告げて言った、「今急いで降らなければ、私は太公を烹る」。漢王は言った、「私と項羽はともに北面して懐王の命を受け、『兄弟と約す』と言った。我が翁は即ち汝の翁である。必ずや汝の翁を烹ろうとするなら、幸いに我一杯の羹を分け与えよ」。項王は怒り、これを殺そうとした。項伯が言った、「天下の事は未だ知れません。かつ天下を為す者は家を顧みません。これを殺しても益がなく、ただ禍を増すのみです」。項王はこれに従った。
楚漢は久しく相持して決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に疲弊した。項王は漢王に言った、「天下が数年来匈々としているのは、ただ我々二人のためだけである。漢王と挑戦して雌雄を決したい。徒らに天下の民父子を苦しめることはない」。漢王は笑って謝して言った、「私は寧ろ智を闘わすも、力を闘わすことはできない」。項王は壮士を出して挑戦させた。漢に善く騎射する者楼煩がいた。楚が三度挑戦すると、楼煩は毎回これを射殺した。項王は大いに怒り、自ら甲を着け戟を持って挑戦した。楼煩がこれを射ようとすると、項王は目を瞋らせてこれを叱り、楼煩は目を敢えて視ず、手を敢えて発せず、遂に走って壁中に還り入り、敢えて再び出なかった。漢王は人を遣わして間諜に問わせると、それは項王であった。漢王は大いに驚いた。ここにおいて項王は即ち漢王とともに広武の間で相臨んで語った。漢王は項王の罪を数え上げた。項王は怒り、一戦を欲した。漢王は聞き入れず、項王は伏弩で漢王を射た。漢王は傷つき、成皋に走り入った。
項王は、淮陰侯が既に河北を挙げ、斉・趙を破り、かつ楚を撃たんとしていると聞き、そこで龍且を遣わしてこれを撃たせた。淮陰侯はこれと戦い、騎将灌嬰がこれを撃ち、大いに楚軍を破り、龍且を殺した。韓信はそこで自立して斉王となった。項王は龍且の軍が破られたと聞き、恐れ、盱臺の人武渉を遣わして淮陰侯を説かせた。淮陰侯は聞き入れなかった。この時、彭越がまた反し、梁の地を下し、楚の糧道を絶った。項王はそこで海春侯大司馬曹咎らに言った。「成皋を謹んで守れ。漢が挑戦しようとしても、慎んで戦うな。東進させぬだけでよい。我は十五日のうちに必ず彭越を誅し、梁の地を定め、再び将軍のもとに戻る。」そこで東に向かい、進軍して陳留・外黄を撃った。
外黄は下らなかった。数日後、既に降ったが、項王は怒り、十五歳以上の男子をことごとく城東に集め、これを坑に埋めようとした。外黄令の舎人の子で十三歳の者が、項王を説いて言った。「彭越が強いて外黄を脅し、外黄は恐れて、しばらく降り、大王を待っていたのです。大王が来られて、また皆を坑に埋めようとなされば、百姓に帰順の心があろうはずがありません。ここから東、梁の地の十余城は皆恐れ、降ろうとはしないでしょう。」項王はその言葉をよしとし、そこで外黄で坑に埋められるはずだった者を赦した。東へ睢陽に至ると、これを聞いた者たちは皆争って項王に降った。
漢軍は果たしてたびたび楚軍を挑発して戦おうとしたが、楚軍は出てこなかった。人を遣わして辱めると、五六日して、大司馬は怒り、兵を汜水に渡した。士卒が半ば渡った時、漢軍がこれを撃ち、大いに楚軍を破り、楚国の貨賂をことごとく得た。大司馬咎・長史翳・塞王欣は皆、汜水のほとりで自ら剄した。大司馬咎は、もと蘄の獄掾であり、長史欣ももと櫟陽の獄吏であった。二人はかつて項梁に恩徳があったので、項王は彼らを信任したのである。この時、項王は睢陽におり、海春侯の軍が敗れたと聞き、兵を引き返した。漢軍はちょうど鐘離眛を 滎陽 の東で包囲していたが、項王が到着すると、漢軍は楚を恐れ、険阻な地にことごとく逃げた。
この時、漢軍は兵が盛んで食糧が多く、項王の兵は疲弊し食糧が尽きた。漢は陸賈を遣わして項王を説き、太公を請うたが、項王は聞き入れなかった。漢王はまた侯公を遣わして項王を説かせると、項王はそこで漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を漢とし、鴻溝以東を楚とした。項王はこれを許し、ただちに漢王の父母妻子を帰した。軍は皆万歳を呼んだ。漢王はそこで侯公を平国君に封じた。 (侯公は) 身を隠して再び会おうとしなかった。 (漢王は) 言った。「これは天下の弁士で、その居るところ国を傾ける。故に号して平国君とする。」項王は約束を結ぶと、兵を引き解いて東へ帰った。
漢は西へ帰ろうとしたが、張良・陳平が説いて言った。「漢は天下の大半を有し、諸侯は皆これに附いています。楚の兵は疲弊し食糧が尽きています。これは天が楚を亡ぼす時です。機に乗じてこれを取るに如くはありません。今これを撃たずに放っておけば、いわゆる『虎を養って自ら患いを遺す』ことになります。」漢王はこれを聞き入れた。漢五年、漢王は項王を追って陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期日を合わせて楚軍を撃とうとした。固陵に至ったが、韓信・彭越の兵は来なかった。楚が漢軍を撃ち、大いにこれを破った。漢王はまた塁壁に入り、深い塹壕を掘って自ら守った。張子房に言った。「諸侯が約に従わない。どうしたらよいか。」答えて言った。「楚の兵はまさに破られようとしています。韓信・彭越には分地がありません。彼らが来ないのはもっともです。君王が共に天下を分かち与えることができれば、今すぐにでも来させるでしょう。もしできなければ、事の成否は分かりません。君王が自ら陳以東から海に至るまでをことごとく韓信に与え、睢陽以北から穀城に至るまでを彭越に与え、それぞれに戦わせれば、楚は容易く敗れるでしょう。」漢王は言った。「よろしい。」そこで使者を発して韓信・彭越に告げた。「力を合わせて楚を撃て。楚が破られたら、陳以東から海に至るまでを斉王に与え、睢陽以北から穀城に至るまでを彭相国に与える。」使者が到着すると、韓信・彭越は皆答えて言った。「今すぐ進軍を請う。」韓信はそこで斉から進み、劉賈の軍は寿春から並行して進み、城父を屠り、垓下に至った。大司馬周殷が楚に叛き、舒の兵で六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随って皆垓下に会し、項王のもとに迫った。
項王の軍は垓下に塁壁を築いたが、兵は少なく食糧は尽きた。漢軍及び諸侯の兵がこれを数重に包囲した。夜、漢軍の四面から皆楚の歌が聞こえると、項王は大いに驚いて言った。「漢は既にことごとく楚を得たのか。どうして楚の人がこんなに多いのだ。」項王は夜中に起き、陣中で酒を飲んだ。美人がいて名を虞といい、常に寵愛されて従っていた。駿馬がいて名を騅といい、常にこれに騎乗した。ここにおいて項王は悲歌慷慨し、自ら詩を作って言った。「力は山を抜き気は世を蓋う。時に利あらずして騅逝かず。騅の逝かざるを如何にせん。虞や虞や汝を如何にせん。」数闋歌い、美人和した。項王は数行の涙を流し、左右も皆泣き、仰ぎ見ることができなかった。
ここにおいて項王は馬に騎乗し、麾下の壮士で騎乗して従う者八百余人とともに、夜のうちに包囲を突破して南に出て、馳せ走った。夜明けに、漢軍はようやくこれに気づき、騎将灌嬰に五千騎でこれを追わせた。項王が淮を渡った時、騎兵で従うことができたのは百余騎だけであった。項王は陰陵に至り、道に迷い、一人の田父に尋ねた。田父は騙して「左」と言った。左へ行くと、大沢の中に陥った。このため漢軍に追いつかれた。項王はまた兵を引き連れて東へ向かい、東城に至った時には、わずか二十八騎となっていた。漢の騎兵の追う者は数千人であった。項王は自ら脱することができないと覚悟した。配下の騎兵に言った。「我が兵を起こしてから今まで八年になる。身は七十余戦し、当たるものは破れ、撃つものは服し、未だかつて敗北したことはなく、遂に天下を覇有した。しかし今ついにここに困窮する。これは天の我を亡ぼすのであって、戦の罪ではない。今日は固より死を決する。諸君のために快戦し、必ず三たび勝ち、諸君のために包囲を突破し、将を斬り、旗を刈り、諸君に天の我を亡ぼすのであって戦の罪ではないことを知らせよう。」そこで配下の騎兵を四隊に分け、四方に向かわせた。漢軍はこれを数重に包囲した。項王は配下の騎兵に言った。「我は公らのためにあの一将を取ってみせよう。」四面の騎兵に馳せ下るよう命じ、山の東で三か所に集まることを期した。ここにおいて項王は大呼して馳せ下り、漢軍は皆なびき、遂に漢の一将を斬った。この時、赤泉侯が騎将として項王を追った。項王は目を瞋ってこれを叱ると、赤泉侯は人馬ともに驚き、数里も退き、その騎兵と会して三か所となった。漢軍は項王の所在を知らず、軍を三つに分け、再びこれを包囲した。項王は馳せ、また漢の一都尉を斬り、数十百人を殺し、再びその騎兵を集めたが、失ったのはわずか二騎だけであった。そこで配下の騎兵に言った。「どうだ。」騎兵は皆伏して言った。「大王の言う通りです。」
ここにおいて項王は東の烏江を渡ろうとした。烏江の亭長が船を岸につけて待ち、項王に言うには、「江東は小さいとはいえ、土地は千里四方、民は数十万人おり、王となるには十分です。どうか大王は急いで渡ってください。今、私だけが船を持っており、漢軍が来ても渡る手段はありません。」項王は笑って言った、「天が我を滅ぼそうとしているのに、どうして渡ることができようか。かつて項籍は江東の子弟八千人を率いて江を渡り西へ向かったが、今は一人も帰らぬ。たとえ江東の父兄が哀れんで私を王に立てようとも、私はどんな顔をして彼らに会えようか。たとえ彼らが何も言わなくとも、項籍は心に恥じないでいられようか。」そして亭長に言った、「私は貴公が長者であることを知っている。私がこの馬に乗って五年になるが、向かうところ敵なく、かつて一日に千里を行った。これを殺すに忍びず、貴公に与えよう。」そこで騎兵全員に下馬して徒歩で進むよう命じ、短い武器を持って戦いを交えた。ただ項籍一人で殺した漢軍は数百人に及んだ。項王自身もまた十余か所の傷を負った。振り返って漢の騎司馬呂馬童を見ると、言った、「そなたは私の旧友ではないか。」馬童は彼を指さして王翳に言った、「これが項王である。」項王はそこで言った、「私は漢が私の首に千金、邑一万戸を懸けていると聞く。私はそなたのために徳を施そう。」そして自ら刎じて死んだ。王翳がその首を取ると、残りの騎兵は互いに踏みつけ争って項王の体を奪い合い、互いに殺し合った者は数十人に及んだ。最後に、郎中騎の楊喜、騎司馬の呂馬童、郎中の呂勝、楊武がそれぞれその体の一部を得た。五人がその体を合わせてみると、すべて合致した。そこでその地を五つに分けて、呂馬童を中水侯に、王翳を杜衍侯に、楊喜を赤泉侯に、楊武を吳防侯に、呂勝を涅陽侯に封じた。
項王が死ぬと、楚の地はすべて漢に降ったが、ただ魯だけが降らなかった。漢は天下の兵を率いてこれを屠ろうとしたが、その礼義を守り、主君のために節を死守することを重んじ、項王の首を持って魯に見せると、魯の父兄はついに降った。初め、楚の懐王が項籍を魯公に封じ、その死に及んで、魯が最後に降ったので、魯公の礼をもって項王を穀城に葬った。漢王は喪を発し、泣いて去った。
諸項氏の一族は、漢王は皆誅殺しなかった。そこで項伯を射陽侯に封じた。桃侯、平皋侯、玄武侯は皆項氏であり、劉姓を賜った。
評論
太史公が言う。私は周生から聞いたことがある。「舜の目は重瞳子であった」と。また項羽も重瞳子であったと聞く。羽は舜の末裔であろうか。どうしてその興りがこのように急激であったのか。秦がその政を失い、陳涉がまず難を起こすと、豪傑が蜂のごとく起こり、互いに争い合い、数えきれぬほどであった。しかし羽は寸土の基盤もなく、勢いに乗じて隴畝の中から起こり、三年にして五諸侯を率いて秦を滅ぼし、天下を分裂させて王侯を封じ、政は羽より出で、号して霸王と称された。その位は終わりまで続かなかったが、近古以来かつてなかったことである。羽が関中を捨て楚を懐かしみ、義帝を放逐して自ら立ち、王侯が己に背くことを怨んだのは、難事であった。自ら功伐を誇り、その私智を奮い起こして古に師とせず、霸王の業は力征をもって天下を経営しようとした。五年にしてついにその国を亡ぼし、身は東城で死んだが、なお悟らず、自らを責めなかったのは、過ちである。そして「天が我を滅ぼしたのであって、用兵の罪ではない」と言ったのは、まさに誤りではないか。
【索隠述賛】亡秦の鹿走り、偽楚の狐鳴く。雲は沛谷に鬱し、剣は呉城に挺つ。勲は魯甸に開け、勢は碭兵に合す。卿子は罪無く、亜父は誠を推す。始め趙歇を救い、終に子嬰を誅す。約に違いて漢を王とし、関を背き楚を懐く。常に上游に遷り、臣は故主に迫る。霊壁に大いに振い、成皋に久しく拒ぐ。戦い功無きに非ず、天実に与えず。ああ彼の蓋代、ついに凶豎と為る。