始皇帝
秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子である。荘襄王は秦の人質として趙にあり、呂不韋の妾を見初めて娶り、始皇帝を生んだ。秦の昭王四十八年正月に邯鄲で生まれた。生まれると、名を政とし、姓は趙氏といった。十三歳の時、荘襄王が死に、政が代わって秦王に立った。この時、秦の地はすでに巴・蜀・漢中を併せ、宛を越えて郢を有し、南郡を置いていた。北は上郡以東を収め、河東・太原・上黨郡を有し、東は滎陽に至り、二周を滅ぼして三川郡を置いた。呂不韋は相となり、十万戸を封ぜられ、文信侯と号した。賓客・游士を招致し、以て天下を併せんと欲した。李斯は舎人となった。蒙驁・王齮・麃公らが将軍となった。王は年少で、初めて即位し、国事を大臣に委ねた。晋陽が反した。
元年、将軍蒙驁がこれを撃って平定した。
二年、麃公が卒を将いて巻を攻め、斬首三万。
三年、蒙驁が韓を攻め、十三城を取る。王齮死す。十月、将軍蒙驁が魏氏の暢・有詭を攻む。歳大いに饑う。
四年、暢・有詭を抜く。三月、軍罷む。秦の質子、趙より帰る。趙の太子、出でて国に帰る。十月庚寅、蝗蟲東方より来たり、天を蔽う。天下疫す。百姓、粟千石を内(納)むれば、爵一級を拝す。
五年、将軍驁が魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を定め、皆これを抜き、二十城を取る。初めて東郡を置く。冬雷す。
六年、韓・魏・趙・衛・楚、共に秦を撃ち、寿陵を取る。秦、兵を出す。五国の兵罷む。衛を抜き、東郡を迫る。其の君角、其の支属を率いて野王に徙り居し、其の山を阻みて以て魏の河内を保つ。
七年、彗星が先ず東方に出で、北方に見え、五月に西方に見ゆ。将軍驁死す。龍・孤・慶都を攻め、兵を還して汲を攻む。彗星復た西方に見ゆること十六日。夏太后死す。
八年、王の弟長安君成蟜、将軍として趙を撃ち、反し、屯留に死す。軍吏は皆斬られ死し、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死し、卒の屯留・蒲鶴に反する者あり、其の尸を戮す。河魚大いに上り、軽車重馬東に就きて食す。
嫪毐を封じて長信侯と為す。之に山陽の地を与え、毐をして之に居らしむ。宮室・車馬・衣服・苑囿・馳獵、毐に恣にす。事の小大無く皆毐に決す。又、河西太原郡を以て更に毐の国と為す。九年、彗星見ゆ。或いは天を竟う。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿る。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作すも覚られ、王の御璽及び太后の璽を矯り以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に命じて卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦い、数百を斬首し、皆爵を拝し、及び宦者にして戦中に在る者も亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す:生けて毐を得る者有らば、銭百万を賜う;之を殺す者は、五十万。尽く毐等を得る。衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人、皆梟首す。車裂して以て徇し、其の宗を滅ぼす。及び其の舎人、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪い蜀に遷す者四千余家、房陵に家す。(四)[是]月寒凍し、死者有り。楊端和、衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋、嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮を将軍と為す。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦、秦王に説いて曰く「秦方に天下を以て事と為すに、而して大王に母太后を遷すの名有り。諸侯之を聞くを恐る、此に由りて秦に倍かんと」と。秦王乃ち雍より太后を迎えて咸陽に入り、復た甘泉宮に居す。
大索し、客を逐う。李斯上書して説き、乃ち客を逐うの令を止む。李斯因りて秦王に説き、請う先ず韓を取らば以て他国を恐れしめんと。是に於て斯をして韓を下らしむ。韓王之を患う。韓非と謀りて秦を弱めんとす。大梁の人尉繚来たり、秦王に説いて曰く「秦の彊きを以てすれば、諸侯は譬えば郡県の君の如し。臣但だ諸侯の合従し、翕として意に出ずるを恐る。此れ乃ち智伯・夫差・湣王の亡ぶる所以なり。願わくは大王財物を愛すること毋かれ。其の豪臣を賂して、以て其の謀を乱さしめよ。三十万金を亡うるに過ぎず、則ち諸侯尽くす可し」と。秦王其の計に従い、尉繚を見るに亢礼し、衣服食飲繚と同し。繚曰く「秦王の人と為り、蜂準、長目、摯鳥の膺、豺声、恩少なくして虎狼の心有り。約に居れば易く人下に出で、志を得れば亦軽く人を食らう。我布衣なり。然れども我を見るに常に身自ら我を下す。誠に秦王をして天下に志を得しめば、天下皆虜と為らん。与に久しく游ぶべからず」と。乃ち亡去す。秦王覚り、固く止め、以て秦の国尉と為し、卒に其の計策を用う。而して李斯用事す。
十一年、王翦・桓齮・楊端和、鄴を攻め、九城を取る。王翦、閼与・橑楊を攻め、皆併せて一軍と為す。翦将たり十八日、軍を帰して斗食以下とし、什に二人を推して軍に従い鄴の安陽を取らしむ。桓齮将たり。十二年、文信侯不韋死す。窃かに葬る。其の舎人にして臨む者、晋人は之を逐い出だす。秦人六百石以上は爵を奪い、遷す。五百石以下にして臨まざる者は遷すも、爵を奪わず。今より以来、国事を操りて道ならざる者嫪毐・不韋の如きは其の門を籍し、此を視よ。秋、嫪毐の舎人にして蜀に遷されたる者を復す。是の時に当たり、天下大旱し、六月より八月に至りて乃ち雨ふる。
十三年、桓齮が趙の平陽を攻め、趙の将扈輒を殺し、斬首十万を数えた。王は河南にいた。正月、彗星が東方に現れた。十月、桓齮が趙を攻めた。十四年、平陽において趙軍を攻め、宜安を取ってこれを破り、その将軍を殺した。桓齮が平陽・武城を平定した。韓非が秦に使いし、秦は李斯の謀を用い、非を留め置き、非は雲陽で死んだ。韓王は臣となることを請うた。
十五年、大いに兵を起こし、一軍は鄴に至り、一軍は太原に至り、狼孟を取った。地震があった。十六年九月、卒を発して韓の南陽の地を受け、仮守騰を置いた。初めて男子に年齢を記させた。魏が地を秦に献じた。秦は麗邑を置いた。十七年、内史騰が韓を攻め、韓王安を得て、その地をことごとく納め、その地を郡となし、潁川と命じた。地震があった。華陽太后が卒した。民は大いに飢えた。
十八年、大いに兵を起こして趙を攻め、王翦が上地の兵を将いて井陘を下し、端和が河内の兵を将き、羌瘣が趙を伐ち、端和が邯鄲城を包囲した。十九年、王翦・羌瘣がことごとく趙の地東陽を平定して取り、趙王を得た。兵を引きいて燕を攻めんとし、中山に屯した。秦王が邯鄲に至り、かつて王が趙に生まれた時に母の家に仇怨のあった者を皆、坑にした。秦王は還り、太原・上郡より帰った。始皇帝の母の太后が崩じた。趙の公子嘉がその宗族数百人を率いて代に至り、自ら代王と立ち、東は燕と合兵し、上谷に軍した。大飢饉があった。
二十年、燕の太子丹は秦の兵が国に至ることを憂い、恐れて荊軻をして秦王を刺させた。秦王はこれを覚り、軻を体解して徇し、王翦・辛勝をして燕を攻めさせた。燕・代は兵を発して秦軍を撃ち、秦軍は燕を易水の西で破った。二十一年、王賁が(薊)[荊]を攻めた。ここにおいて益々卒を発して王翦の軍に詣らせ、ついに燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首を得た。燕王は東の方遼東を収めて王となった。王翦は病老を謝して帰った。新鄭が反した。昌平君が郢に徙された。大雨雪があり、深さ二尺五寸に及んだ。
二十二年、王賁が魏を攻め、河溝を引いて大梁を灌ぎ、大梁城は壊れ、その王は降伏を請い、その地をことごとく取った。
二十三年、秦王は再び王翦を召し、強いて起用して、荊を撃たせた。陳より南を取って平輿に至り、荊王を虜にした。秦王は遊んで郢陳に至った。荊の将軍項燕は昌平君を立てて荊王とし、淮南において秦に反した。二十四年、王翦・蒙武は荊を攻め、荊軍を破り、昌平君は死に、項燕はついに自殺した。
二十五年、大いに兵を興し、王賁を将とし、燕の遼東を攻めて、燕王喜を得た。還って代を攻め、代王嘉を虜にした。王翦はついに荊の江南の地を平定し、越君を降伏させ、会稽郡を置いた。五月、天下に大酺があった。
二十六年、斉王建はその相后勝とともに兵を発してその西界を守り、秦に通じなかった。秦は将軍王賁をして燕の南より斉を攻めさせ、斉王建を得た。
秦王が初めて天下を併合し、丞相・御史に命じて言うには、「かつて韓王は地を納れ璽を献げ、藩臣たることを請うたが、後に約に背き、趙・魏と合従して秦に叛いた。故に兵を興してこれを誅し、その王を虜にした。寡人はこれを善しとし、兵革を止めんことを願った。趙王はその相李牧を使わして盟を約させたので、その質子を帰した。後に盟に背き、我が太原に反した。故に兵を興してこれを誅し、その王を得た。趙の公子嘉はすなわち自ら代王と立ったので、兵を挙げてこれを撃ち滅ぼした。魏王は初め服して秦に入ることを約したが、後に韓・趙と謀って秦を襲おうとした。秦の兵吏が誅したので、ついにこれを破った。荊王は青陽以西を献げたが、後に約に叛き、我が南郡を撃った。故に兵を発してこれを誅し、その王を得て、ついにその荊の地を定めた。燕王は昏乱であり、その太子丹はひそかに荊軻に命じて賊とならしめた。兵吏が誅し、その国を滅ぼした。斉王は后勝の計を用い、秦の使者を絶ち、乱をなさんとした。兵吏が誅し、その王を虜にし、斉の地を平定した。寡人は眇眇たる身をもって、兵を興して暴乱を誅し、宗廟の霊に頼り、六王ことごとくその辜に伏し、天下は大いに定まった。今、名号を改めざれば、成功を称え後世に伝えることができない。帝号を議せよ。」丞相の綰・御史大夫の劫・廷尉の斯らは皆言うには、「昔、五帝の地は方千里、その外は侯服・夷服の諸侯、あるいは朝しあるいはせず、天子は制することができなかった。今、陛下は義兵を興し、残賊を誅し、天下を平定し、海内を郡県となし、法令は一統より出ず。上古以来いまだかつてなく、五帝の及ばざるところである。臣ら謹んで博士と議して曰く、『古に天皇あり、地皇あり、泰皇あり。泰皇最も貴し』と。臣ら昧死して尊号を上る。王を『泰皇』とすべし。命を『制』とし、令を『詔』とし、天子自ら称して『朕』と曰う。」王曰く、「『泰』を去り、『皇』を著し、上古の『帝』の位号を采り、号して『皇帝』と曰う。その他は議のごとくせよ。」制して曰く、「可なり。」荘襄王を追尊して太上皇とす。制して曰く、「朕聞く、太古には号ありて謚なく、中古には号あり、死して行いをもって謚とす。かくのごとくは、子が父を議し、臣が君を議することなり。甚だ謂れなし。朕は取らざるなり。今より以来、謚法を除く。朕を始皇帝とす。後世は数をもって計い、二世・三世より万世に至り、これを伝えて窮まりなからしめん。」
始皇は終始五徳の伝を推し、周は火徳を得、秦は周の徳に代わるは、勝たざる所に従うと為した。今まさに水徳の始めである。年の始めを改め、朝賀は皆十月朔よりす。衣服・旄旌・節旗は皆上黒とす。数を六を紀とし、符・法冠は皆六寸、輿は六尺、六尺を歩とし、六馬に乗る。河を改めて徳水と名づけ、水徳の始めと為す。剛毅にして戾深く、事は皆法により決し、刻削にして仁恩和義なく、然る後に五徳の数に合う。ここにおいて法を急にし、久しき者は赦さず。
丞相の王綰らが言うには、「諸侯を初めて破り、燕・斉・荊の地は遠く、王を置かずしてはこれを鎮撫する術がありません。どうか諸子を立てられますよう、願わくば陛下のご裁許を賜りたい」と。始皇帝はその議を群臣に下すと、群臣は皆これを便宜と認めた。廷尉の李斯が議して言うには、「周の文王・武王が封じた子弟同姓は甚だ多く、その後、属は疎遠となり、互いに仇讎の如く攻撃し、諸侯は更に相誅伐し、周の天子はこれを禁止することができなかった。今、海内は陛下の神霊に頼って一統し、皆郡県となっております。諸子や功臣には公の賦税をもって重く賞賜すれば、甚だ制御しやすい。天下に異議がなければ、これこそ安寧の術であります。諸侯を置くことは不便です」と。始皇帝は言うには、「天下が共に戦闘の絶え間ないことを苦しむのは、侯王がいるからである。宗廟に頼り、天下が初めて定まったのに、また国を立てるのは、これ兵を樹てることであり、その寧息を求めるのは、豈に難からざらんや。廷尉の議は是である」と。
天下を分けて三十六郡とし、郡ごとに守・尉・監を置いた。民の名を改めて「黔首」と称した。大酺を行った。天下の兵器を収め、これを咸陽に集め、熔かして鐘鐻とし、金人十二を造り、各々千石の重さがあり、これを朝廷の宮中に置いた。法度・衡石・丈尺を統一した。車の軌を同じくし、文字を同じくした。地は東は海及び朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河を拠りて塞とし、陰山に并せて遼東に至る。天下の豪富を咸陽に移すこと十二万戸。諸廟及び章臺・上林は皆渭水の南に在った。秦は諸侯を破るごとに、その宮室を模写し、これを咸陽の北阪の上に作って、南は渭水に臨み、雍門より以東、涇・渭に至るまで、殿屋・複道・周閣が相連属した。得た諸侯の美人・鐘鼓は、以てこれを充てた。
二十七年、始皇帝は隴西・北地を巡行し、鶏頭山を出て、回中を過ぎた。ここに信宮を渭南に作る。既にして信宮を更めて極廟と命じ、天極に象った。極廟より道を通じて酈山に至り、甘泉前殿を作った。甬道を築き、咸陽よりこれを連ねた。この歳、爵一級を賜う。馳道を治めた。
二十八年、始皇帝は東に郡県を行き、鄒の嶧山に登った。石を立て、魯の諸儒生と議し、石に刻んで秦の徳を頌し、封禅と山川を望祭する事を議した。乃ち遂に泰山に登り、石を立て、封を行い、祠祀した。下る途中、風雨が暴かに至り、樹下に休み、因ってその樹を封じて五大夫とした。梁父で禅を行った。立てた石に刻んだその辞は次の通りである。
皇帝位に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下はこれを修飾す。二十有六年、初めて天下を併せ、賓服せざるは無し。遠方の黎民を親しく巡り、この泰山に登り、東極を周覧す。従臣は跡を思い、事業の本原を求め、謹んで功德を誦す。治道は運行し、諸産は宜しきを得、皆法式有り。大義は休明にして、後世に垂れ、順承して革めざれ。皇帝躬ら聖にして、既に天下を平げ、治に懈かず。夙に興き夜に寐ず、長利を建設し、専ら教誨を隆くす。経を訓じ宣達し、遠近畢く理まり、皆聖志を承く。貴賤分明にし、男女礼順にして、職事を慎み遵う。内外を昭かに隔て、清浄ならざるは無く、後嗣に施す。化は無窮に及び、遺詔を遵奉し、永く重戒を承けん。
そこで勃海以東を併せて、黄・腄を過ぎ、成山に至り、之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌して去った。
南に瑯邪に登り、大いにこれを楽しみ、三月留まった。そこで黔首三萬戸を瑯邪臺下に移し、十二歳の賦役を免除した。瑯邪臺を築き、石刻を立て、秦の徳を頌し、得意を明らかにした。その文は次のとおりである。
秦王が天下を兼ね併せ、名を立てて皇帝と為し、東土を撫でて、瑯邪に至った。列侯武城侯王離・列侯通武侯王賁・倫侯建成侯趙亥・倫侯昌武侯成・倫侯武信侯馮毋擇・丞相隗林・丞相王綰・卿李斯・卿王戊・五大夫趙嬰・五大夫楊樛が従い、海上において議した。曰く、「古の帝者は、地は千里を過ぎず、諸侯は各々その封域を守り、或いは朝し或いはせず、相侵し暴乱し、残伐止まず、なお金石を刻して、以て自ら紀と為す。古の五帝三王は、知教同じからず、法度明らかならず、鬼神に威を仮り、以て遠方を欺き、実は名に称せず、故に久長ならず。その身未だ歿せざるに、諸侯倍叛し、法令行はれず。今皇帝は海内を併せ一にし、以て郡県と為し、天下平和なり。宗廟を昭明にし、道を体し徳を行い、尊号大成す。群臣相与に皇帝の功徳を誦し、金石に刻し、以て表経と為す。」
既にして、斉の人徐市らが上書し、海中に三神山有り、名を蓬萊・方丈・瀛洲と曰い、僊人これに居ると言う。斎戒を得て、童男女とともにこれを求めんことを請う。そこで徐市に童男女数千人を発させ、海に入りて僊人を求めた。
始皇還り、彭城を過ぎ、斎戒祷祠し、周鼎を泗水より出さんと欲した。千人を使い水に没してこれを求めしめたが、得られなかった。そこで西南に淮水を渡り、衡山・南郡に至った。江に浮かび、湘山祠に至った。大風に逢い、ほとんど渡ることができなかった。上博士に問うて曰く、「湘君の神は何か。」博士対えて曰く、「聞くところによれば、堯の女、舜の妻にして、ここに葬るという。」そこで始皇大いに怒り、刑徒三千人を使い、皆湘山の樹を伐たせ、その山を赭くした。上は南郡より武関を経由して帰った。
二十九年、始皇帝は東に巡遊した。陽武の博狼沙に至り、盗賊に驚かされた。求めて得られず、ここに天下に命じて大いに十日間捜索させた。
之罘に登り、石に刻んだ。その文は曰く、
その東観に曰く、
帰途につき、ついに瑯邪に至り、道は上党を通って入った。
三十年、事なし。
三十一年十二月、臘を改めて「嘉平」と名づく。黔首に裏六石の米と二羊を賜う。始皇は微行して咸陽にあり、武士四人とともに、夜に出でて盗に逢うこと蘭池、窘しめらるるを見る。武士、盗を撃ち殺す。関中大いに索むること二十日。米一石千六百。
三十二年、始皇、碣石に至る。燕人盧生を使わして羨門・高誓を求めしむ。碣石門に刻す。城郭を壊し、堤防を決通す。その辞に曰く。
ここに韓終・侯公・石生を使わして、僊人の不死の薬を求めしむ。始皇、北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生、海に入りて使いし還り、鬼神の事を以てし、ここに因りて録図書を奏し、曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」。始皇すなわち将軍蒙恬を使わして兵三十万人を発し、北して胡を撃ち、河南の地を略取せしむ。
三十三年、諸嘗て逋亡の人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海となし、以て適(謫)して戍らしむ。西北、匈奴を斥逐す。榆中より河に并び以て東、これを陰山に属け、以て三十四県となし、河上に城して塞と為す。また蒙恬を使わして河を渡り高闕・陽山・北仮中を取り、亭障を筑きて以て戎人を逐う。謫を徙し、初県に実む。祠うことを得ざるを禁ず。明星、西方に出づ。
三十四年、獄吏不直なる者を適(謫)して治めしめ、長城及び南越の地を筑かしむ。
始皇帝は咸陽宮に酒宴を設け、博士七十人が前に出て寿ぎを述べた。仆射の周青臣が進み出て頌して言うには、「かつて秦の地は千里を過ぎず、陛下の神霊の明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざるはない。諸侯を郡県となし、人々自ら安楽にして、戦争の患い無く、これを万世に伝えんとす。上古より陛下の威徳に及ぶものはない」と。始皇帝は喜んだ。博士の斉人淳于越が進み出て言うには、「臣は聞く、殷周の王たるもの千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下は海内を有しながら、子弟は匹夫と為り、卒然として田常・六卿の臣あらば、輔ふる者無く、何を以て相救わんや。事古に師らずして能く長久たるは、聞かざる所なり。今青臣は又面諛して以て陛下の過ちを重くす、忠臣に非ず」と。始皇帝はその議を下した。丞相李斯が言うには、「五帝は相復せず、三代は相襲わず、各治に以てす、其の相反するに非ず、時変異なり。今陛下は大業を創め、万世の功を建てたまう、固より愚儒の知る所に非ず。且つ越の言は乃ち三代の事なり、何ぞ法と為すに足らんや。異時諸侯並び争い、厚く游学を招く。今天下已に定まり、法令は一より出ず、百姓は当家なれば則ち農工に力を尽くし、士は則ち法令辟禁を学習す。今諸生は今に師せずして古を学び、以て当世を非とし、黔首を惑乱す。丞相臣斯昧死して言う、古者は天下散乱し、之を能く一にするもの莫く、是を以て諸侯並び作し、語は皆古を道いて以て今を害し、虚言を飾りて以て実を乱し、人は其の私学を善しとし、以て上の建立する所を非とす。今皇帝並びに天下を有し、黒白を別ちて一尊を定む。私学して相与に法教に非とし、人令下るを聞けば、則ち各其の学を以て之を議し、入れば則ち心に非とし、出れば則ち巷に議し、主を誇りて以て名と為し、取るを異にして以て高と為し、群下を率いて以て謗を造る。此の如くにして禁ぜざれば、則ち主勢は上に降り、党与は下に成る。之を禁ずる便なり。臣請う、史官秦記に非ざるは皆焼くべし。博士官の職と為さざる所、天下敢えて詩・書・百家の語を蔵する者有らば、悉く守・尉に詣りて雑焼せしむべし。敢えて偶語して詩書する者有らば棄市す。古を以て今を非とする者は族す。吏見知して挙げざる者は同罪とす。令下ること三十日焼かざれば、黥して城旦と為す。去らざる所の者は、医薬卜筮種樹の書なり。若し法令を学ばんと欲する者有らば、吏を以て師と為すべし」と。制して曰く、「可」と。
三十五年、道を除き、道は九原より雲陽に抵り、山を塹り谷を堙め、直ちに之を通ず。ここにおいて始皇帝は咸陽の人多く、先王の宮廷小なるを以て、吾周の文王は豊に都し、武王は鎬に都す、豊鎬の間は帝王の都なりと聞く。乃ち朝宮を渭南上林苑の中に営作す。先ず前殿阿房を作る、東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐することを得、下には五丈の旗を建つることを得。周馳して閣道と為し、殿下より直ちに南山に抵る。南山の顛を表して以て闕と為す。復道を作り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属け、以て天極閣道の漢を絶ちて営室に抵るを象る。阿房宮未だ成らず、成らば、更に令名を択びて之を名づけんと欲す。宮を阿房に作る、故に天下之を阿房宮と謂う。隠宮徒刑者七十余万人、乃ち分かち作して阿房宮と為し、或いは麗山を作る。北山の石槨を発し、乃ち蜀・荊の地の材を写して皆至る。関中に宮三百を計り、関外四百余。ここにおいて石を東海上朐界の中に立て、以て秦の東門と為す。因りて三万家を麗邑に、五万家を雲陽に徙し、皆復して十歳事せず。
盧生が始皇帝に説いて曰く、「臣らが芝や奇薬や仙人を求めますが常に遇うことができず、物の類がこれを害するものがあるようです。方術の中に、人主が時に微行して悪鬼を避ければ、悪鬼が避け、真人が至るとあります。人主の居所を人臣が知れば、神に害があります。真人とは、水に入っても濡れず、火に入っても燃えず、雲気を陵ぎ、天地と久長を共にする者です。今、上は天下を治めておられますが、まだ恬倓(安らか)ではありません。願わくは上のおられる宮殿を人に知らせぬようにされ、然る後に不死の薬がおそらく得られるでしょう」と。ここにおいて始皇帝は曰く、「我は真人を慕い、自ら『真人』と称し、『朕』とは称さぬ」と。乃ち咸陽の傍ら二百里の内に宮観二百七十を、複道や甬道で相連ね、帷帳や鐘鼓や美人を充たし、各々案署のままに移徙せしめず。行幸の際、その処を言う者あれば、罪は死とす。始皇帝が梁山宮に幸すと、山上より丞相の車騎の衆を見て、善しとせざりき。中人あるいは丞相に告げ、丞相後に車騎を減らす。始皇帝怒りて曰く、「この中人我が語を泄らせり」と。案問するも服する者なし。この時に当たり、詔して諸々の時に傍らに在りし者を捕え、皆これを殺す。是より後、行幸の在り所を知る者なし。聴事するとき、群臣決事を受くるは、悉く咸陽宮に於いてす。
侯生と盧生と相与に謀りて曰く、「始皇帝の人となりは、天性剛戾にして自用し、諸侯より起こり、天下を併せ、意を得て欲に従い、以て古より己に及ぶ者なしと為す。専ら獄吏を任じ、獄吏は親幸を得たり。博士は七十人と雖も、ただ備員たるのみで用いられず。丞相諸大臣は皆成事を受け、上に倚りて辨ず。上は刑殺を以て威と為すことを楽しみ、天下は罪を畏れ祿を持ち、敢えて忠を尽くす者なし。上は過ちを聞かずして日に驕り、下は慴伏し謾欺して以て容を取る。秦の法、方術を兼ねて験あらざれば、即ち死す。然るに星気を候う者は三百人に至り、皆良士なれども、畏忌し諛い、敢えて端を言ってその過ちを言わず。天下の事は小大無く皆上に決す。上は衡石を以て書を量るに至り、日夜呈有り、呈に中らざれば休息を得ず。権勢に貪るこの如きに至りては、未だ仙薬を求むべからず」と。ここにおいて乃ち亡去す。始皇帝亡去を聞き、乃ち大いに怒りて曰く、「我前に天下の書の中用せざる者を収めて尽くこれを去る。悉く文学方術士を召して甚だ衆く、以て太平を興さんと欲し、方士は練って以て奇薬を求めんと欲す。今、韓衆の去って報ぜざるを聞き、徐市等の費や巨万を以て計るも、終に薬を得ず、徒らに姦利を相告げて日々聞こゆ。盧生等は我これを尊び賜うこと甚だ厚し、今乃ち我を誹謗し、以て我が不徳を重くす。諸生の咸陽に在る者は、我人をして廉問せしむ。或いは訞言を為して以て黔首を乱す者あり」と。ここにおいて御史をして悉く諸生を案問せしむ。諸生伝相に告引し、乃ち自ら犯禁者四百六十余人を除き、皆これを咸陽に阬い、天下に知らしめ、以て後を懲らす。益々謫を発して辺に徙す。始皇帝の長子扶蘇諫めて曰く、「天下初めて定まり、遠方の黔首未だ集まらず、諸生は皆孔子を誦法す。今、上皆重法を以てこれを縄す。臣天下の安からざるを恐る。唯、上これを察せられんことを」と。始皇帝怒り、扶蘇をして北に蒙恬を上郡に監せしむ。
三十六年、熒惑が心宿を守る。墜星が東郡に下り、地に至って石となり、黔首の或る者がその石に刻んで曰く「始皇帝死して地分かる」。始皇帝これを聞き、御史を遣わして逐次問わしむるも、服する者なく、石の傍に居る人を尽く取りてこれを誅し、因ってその石を燔銷す。始皇帝楽しまず、博士に使いて僊真人の詩を作らしめ、及び行く所天下を遊び、令を伝えて楽人に歌弦せしむ。秋、使者が関東より夜に華陰平舒道を過ぐるに、人が璧を持ちて使者を遮り曰く「吾が為に滈池君に遺せ」。因りて言う「今年祖龍死す」。使者その故を問うに、忽ち見えず、その璧を置きて去る。使者璧を奉じて具に以て聞かす。始皇帝黙然として良久し、曰く「山鬼は固より一歳の事を知るに過ぎざるなり」。退きて言う「祖龍とは、人の先なり」。御府に使いて璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡る時に沈めたる璧なり。ここにおいて始皇帝これを卜す。卦に游徙吉を得たり。北河・榆中に三万家を遷す。爵一級を拝す。
三十七年十月癸丑、始皇帝出遊す。左丞相斯従い、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従うを請う。上これを許す。十一月、行きて雲夢に至り、九疑山に於いて虞舜を望祀す。江を浮かび下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪しく、乃ち西百二十里を狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻みて頌す。その文に曰く。
皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、遠方を周覧す。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘なり。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らげ、職任を審別し、以て恒常を立てる。六王専倍し、貪戾傲猛にして、衆を率いて自ら彊し。暴虐恣に行い、力を負いて驕り、数たび甲兵を動かす。陰に間使を通じ、以て事を合従し、行い辟方を為す。内に詐謀を飾り、外より侵辺し来たり、遂に禍殃を起こす。義威これを誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆無し。皇帝宇を并せ、万事を兼聴し、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各その名を載す。貴賤并びに通じ、善否前に陳し、隠情有ること靡し。省を飾り義を宣べ、子有りて嫁ぐは、死に倍するも貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫寄豭を為すは、これを殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻逃嫁を為すは、子母を得ず、咸く廉清に化す。大治濯俗し、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵い、和安敦勉し、順令せざる莫し。黔首修絜にして、人則を同じくするを楽み、太平を嘉保す。後法を敬奉し、常に治めて極無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、この石を刻むを請い、光休銘を垂る。
還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海に并びて上り、北に至りて瑯邪に至る。方士徐市ら海に入りて神薬を求むるも、数歳得ず、費多く、譴を恐れ、乃ち詐りて曰く「蓬莱の薬は得べし、然れども常に大鮫魚に苦しまるるを以て、故に至るを得ず。願わくは善射を請いて俱にし、見れば則ち連弩を以てこれを射ん」。始皇帝夢に海神と戦う、人の状の如し。占夢に問う。博士曰く「水神は見るべからず、大魚・蛟龍を以て候と為す。今上祷祠備謹なるに、而してこの悪神有り、当に除き去るべく、而して善神は致すべし」。乃ち海に入る者に巨魚を捕らうる具を齎すことを令し、而して自ら連弩を以て大魚の出るを候いてこれを射つ。瑯邪より北に至りて栄成山に至るも、見えず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并びて西す。
平原津に至りて病む。始皇帝は死を言うを悪み、群臣死の事を言う者なし。上病ますます甚だしく、乃ち璽書を作り公子扶蘇に賜いて曰く、「喪に与り咸陽に会して葬れ」と。書すでに封じ、中車府令趙高の符璽の事を行う所に在り、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇帝沙丘の平台に崩ず。丞相斯は上崩ずる在外を為し、諸公子及び天下の変有るを恐れ、乃ち之を秘し、喪を発せず。棺を輼涼車の中に載せ、故に幸せし宦者を参乗と為し、至る所に上食す。百官奏事こと故の如く、宦者輒ち輼涼車の中より其の奏事を可す。独り子胡亥・趙高及び幸せし宦者五六人のみ上死するを知る。趙高は故に嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教え、胡亥私に之を幸す。高乃ち公子胡亥・丞相斯と謀り陰に始皇の封じ賜う所の公子扶蘇に賜う書を破り去り、而して更に詐りて丞相斯の始皇の遺詔を沙丘に受け、子胡亥を立て太子と為すを為す。更に書を作り公子扶蘇・蒙恬に賜い、数えて罪を以てし、(其れ)死を賜う。語は李斯伝に具す。行き、遂に井陘より九原に抵る。暑に会い、上輼車臭く、乃ち従官に詔して車に一石の鮑魚を載せしめ、以て其の臭を乱す。
行き直道より咸陽に至り、喪を発す。太子胡亥位を襲ぎ、二世皇帝と為る。九月、始皇帝を酈山に葬る。始皇帝初め即位し、酈山を穿ち治め、及び天下を并せ、天下の徒送り詣る者七十余万人、三泉を穿ち、銅を下して槨を致し、宮観百官の奇器珍怪徙れ臧めて之に満つ。匠をして機弩の矢を作らしめ、穿ち近くする者有れば輒ち之を射しむ。水銀を以て百川江河大海と為し、機相灌輸し、上は天文を具え、下は地理を具う。人魚の膏を以て燭と為し、度り滅せざる者久しきを計る。二世曰く、「先帝の後宮子有らざる者は、出ずるは宜しからず」と。皆して従死せしめ、死する者甚だ衆し。葬既に已に下り、或る言う工匠機を為し、臧皆之を知る、臧重なれば即ち泄る、と。大事畢り、已に臧め、中羨を閉じ、外羨門を下し、尽く工匠臧者を閉じ、復た出づる者無し。草木を樹えて以て山に象る。
二世皇帝元年、年二十一。趙高郎中令と為り、任用して事を為す。二世詔を下し、始皇の寢廟の犠牲及び山川百祀の礼を増す。群臣をして始皇廟を尊ぶを議せしむ。群臣皆頓首して言いて曰く、「古え天子七廟、諸侯五、大夫三、万世と雖も世々軼毀せず。今始皇を極廟と為し、四海の内皆貢職を献じ、犠牲を増し、礼咸く備わり、以て加うる無し。先王の廟或いは西雍に在り、或いは咸陽に在り。天子の儀当に独り酌を奉り祠り始皇廟すべし。襄公已下より軼毀す。置く所凡そ七廟。群臣礼を以て進み祠り、以て始皇廟を尊び帝者の祖廟と為す。皇帝復た自ら『朕』と称す」と。
二世趙高と謀りて曰く、「朕年少、初め即位し、黔首未だ集附せず。先帝郡県を巡行し、以て彊を示し、威海内を服す。今晏然として巡行せずんば、即ち弱きを見え、以て天下を臣畜する無し」と。春、二世東に郡県を行き、李斯従う。碣石に到り、海に并び、南は会稽に至り、而して尽く始皇の刻する所の刻石に、石の旁に大臣従者の名を著し、以て先帝の成功盛徳を章す。
遂に遼東に至りて還る。
ここに至り二世は趙高を用い、法令を申し立てた。かくて密かに趙高と謀りて曰く、「大臣服せず、官吏なお強く、及び諸公子必ず我と争わんとす、之を為すに奈何せん」と。高曰く、「臣固より言わんと願うも未だ敢えてせざるなり。先帝の大臣は、皆天下累世の名貴人にして、功労を積み世を以て相伝うること久し。今高は素より小賤、陛下幸いに称挙し、上位に在らしめ、中事を管せしむ。大臣鞅鞅たり、特だ貌を以て臣に従うのみ、其の心実に服せず。今上出ずるに、此の時に因りて郡県の守尉に罪有る者を案じて之を誅せずんば、上は以て威を天下に振い、下は以て上生平の不可と為す所を除去すべし。今の時は文を師とせずして武力に決す、願わくは陛下遂に時に従いて疑うこと毋かれ、即ち群臣謀を及ぼすに及ばず。明主は余民を収挙し、賤者は之を貴し、貧者は之を富まし、遠者は之を近くすれば、則ち上下集まりて国安んず」と。二世曰く、「善し」と。乃ち大臣及び諸公子を誅し行い、罪過を以て少近官三郎に連逮し、立つを得る者無く、而して六公子は杜に於いて戮死す。公子将閭の昆弟三人は内宮に囚われ、其の罪を議すること独り後る。二世使いをして将閭に令して曰く、「公子臣に非ず、罪死に当たる、吏法を致す」と。将閭曰く、「闕廷の礼、吾未だ嘗て敢えて賓賛に従わざる無く、廊廟の位、吾未だ嘗て敢えて節を失わざる無く、命を受け応対するに、吾未だ嘗て敢えて辞を失わざるなり。何をか臣に非ずと謂うや、罪を聞きて死なんことを願う」と。使者曰く、「臣謀に与るを得ず、書を奉じて事に従う」と。将閭乃ち天を仰ぎて大いに天を呼ぶこと三たびし、曰く、「天なるかな、吾罪無し」と。昆弟三人皆涙を流し剣を抜いて自殺す。宗室振恐す。群臣諫むる者は以て誹謗と為し、大吏は禄を持って容を取る。黔首振恐す。
四月、二世咸陽に還り至りて曰く、「先帝咸陽朝廷小なるを為し、故に阿房宮を営みて室堂と為す。未だ就かず、会に上崩じ、其の作者を罷め、復た土を酈山にす。酈山の事大いに畢りぬ、今阿房宮を釈して就かずんば、則ち是れ先帝の挙事過つを章すなり」と。復た阿房宮を作す。外は四夷を撫し、始皇の計の如くす。尽く其の材士五万人を徴して咸陽を屯衛せしめ、射狗馬禽獣を教えしむ。食すべき者多く、度るに足らず、下郡県に調して菽粟芻稿を転輸せしめ、皆自ら糧食を齎するを令し、咸陽三百里内は其の穀を食うことを得ず。用法益々刻深なり。
七月、戍卒陳勝等故荊の地に反し、「張楚」と為す。勝自ら立ちて楚王と為り、陳に居り、諸将を遣わして地を徇わしむ。山東郡県の少年秦吏に苦しみ、皆其の守尉令丞を殺して反し、以て陳涉に応じ、相い立って侯王と為り、合従して西に向かい、名づけて秦を伐つと為す、勝て数うべからず。謁者東方より使いし、反者を以て二世に聞かす。二世怒り、吏に下す。後使者至り、上問う、対えて曰く、「群盗、郡守尉方に逐捕し、今尽く得たり、憂うるに足らず」と。上悦ぶ。武臣自ら立ちて趙王と為り、魏咎は魏王と為り、田儋は斉王と為る。沛公沛に起つ。項梁兵を挙げ会稽郡に会す。
二年冬、陳涉の遣わす所の周章等将として西に戲に至り、兵数十万。二世大いに驚き、群臣と謀りて曰く、「奈何せん」と。少府章邯曰く、「盗已に至り、衆強し、今近県を発するも及ばず。酈山の徒多し、請う之を赦し、兵を授けて以て之を撃たん」と。二世乃ち天下を大赦し、章邯をして将と為し、周章の軍を撃ち破りて走らしめ、遂に章を曹陽に殺す。二世益々長史司馬欣・董翳を遣わして章邯を佐けしめ盗を撃たしめ、陳勝を城父に殺し、項梁を定陶に破り、魏咎を臨済に滅ぼす。楚の地の盗名将已に死し、章邯乃ち北に河を渡り、趙王歇等を鉅鹿に於いて撃つ。
趙高が二世に説いて曰く、「先帝は天下を統治された期間が長かったので、群臣は敢えて非を為さず、邪説を進めることもなかった。今、陛下は年若く、即位されたばかりである。どうして公卿と朝廷で事を決せられようか。事に誤りがあれば、群臣の短を示すことになる。天子は朕と称し、固より声を聞くことはない。」そこで二世は常に禁中に居て、高と諸事を決した。その後、公卿は朝見を得ることが稀となり、盗賊は益々多くなり、関中から兵卒を発して東の盗賊を撃つことが止むことがなかった。右丞相去疾・左丞相斯・将軍馮劫が進み諫めて曰く、「関東に群盗が一斉に起こり、秦は兵を発して誅撃するも、殺し亡くす者は甚だ多いが、なお止まない。盗が多いのは、皆、戍漕転作の事が苦しく、賦税が大きいからである。どうか暫く阿房宮の作事を止め、四辺の戍転を減省されたい。」二世曰く、「吾は韓子の言うところを聞いている。『堯舜は采椽を刮がず、茅茨を翦らず、土塯に飯し、土形に啜り、監門の養いといえども、これより觳くはない。禹は龍門を鑿ち、大夏を通じ、河の亭水を決して海に放ち、身自ら筑臿を持ち、脛に毛無く、臣虜の労もこれより烈しくはない。』およそ天下を有つことを貴ぶ所以は、恣意極欲を得、主は法を重んじて明らかにし、下は敢えて非を為さず、以て海内を制御するためである。虞・夏の主は、貴く天子たりながら、親しく窮苦の実に処し、以て百姓に殉ずる。何ぞ法に於いて尚ばんや。朕は万乗を尊ぶも、その実が無い。吾は千乗の駕を造り、万乗の属を為し、吾が号名を充たさんと欲する。且つ先帝は諸侯より起こり、天下を兼ね、天下既に定まり、外には四夷を攘いて辺竟を安んじ、宮室を作りて得意を章らかにした。而して君らは先帝の功業に緒有るを見る。今朕が即位して二年の間に、群盗並び起こるに、君はこれを禁ずることができず、又先帝の為されたことを罷めんと欲する。これは上には先帝に報いることなく、次には朕に忠力を尽くさず、何を以て位に在らんや。」去疾・斯・劫を下して吏に付し、他罪を案じて責めた。去疾・劫曰く、「将相は辱しめられず。」自殺した。斯は遂に囚われ、五刑に就いた。
三年、章邯等がその卒を将いて鉅鹿を囲む。楚の上将軍項羽が楚の卒を将いて鉅鹿を救わんと往く。冬、趙高が丞相となり、遂に李斯を案じてこれを殺した。夏、章邯等は戦いて数卻き、二世は人を遣わして邯を譲る。邯恐れ、長史欣を使わして事を請わしむ。趙高は見ず、又信ぜず。欣恐れ、亡去す。高は人をして捕追せしむも及ばず。欣、邯に見えて曰く、「趙高が中で事を用う。将軍に功有りても誅せられ、功無くても誅せられる。」項羽が急に秦軍を撃ち、王離を虜にす。邯等は遂に兵を以て諸侯に降る。八月己亥、趙高乱を為さんと欲し、群臣の従わぬことを恐れ、乃ち先ず験を設け、鹿を執りて二世に献じて曰く、「馬なり。」二世笑いて曰く、「丞相誤れるか。鹿を馬と謂う。」左右に問う。左右或いは黙し、或いは馬と言いて趙高に阿順す。或いは鹿と言う者あり、高は因って陰に諸の鹿と言う者を中して法に当てた。後に群臣皆高を畏る。
趙高は以前から幾度も「関東の盗賊は何もできません」と言っていたが、項羽が秦の将軍王離らを鉅鹿の城下で捕虜にし進軍してくると、章邯らの軍は幾度も退却し、上書して増援を請うた。燕・趙・齊・楚・韓・魏はいずれも王を立て、関以東はおおむね秦の官吏に背いて諸侯に応じ、諸侯は皆その兵を率いて西を目指した。沛公(劉邦)は数万の兵を率いて武関を屠り、人を遣わして趙高に内通した。趙高は二世皇帝の怒りを恐れ、誅罰が自身に及ぶのを恐れ、病と称して朝見しなかった。二世皇帝は白虎がその左驂馬(左側の副馬)を噛み殺す夢を見て、心が楽しまず、怪しんで夢占いを問うた。卜筮の結果は「涇水が祟りをなしている」と言った。二世皇帝は望夷宮で斎戒し、涇水を祀ろうとし、四頭の白馬を沈めた。使者を遣わして趙高を盗賊の事で責め詰問した。趙高は恐れ、密かにその婿の咸陽令閻楽とその弟の趙成と謀って言った。「上(皇帝)は諫めを聞かず、今事態が急を告げ、禍を我が一族に帰そうとしている。私は上を替え、公子嬰を立て替えようと思う。子嬰は仁愛で倹約、民衆は皆その言葉を信じている。」郎中令を内応とし、大賊が現れたと偽り、閻楽に命じて官吏を召集し兵卒を発し、閻楽の母を追いかけて趙高の屋敷に置かせた。閻楽に将兵千余人を率いさせて望夷宮の殿門に至らせ、衛令仆射を縛り上げて言った。「賊がここに入ったのに、なぜ止めないのか。」衛令は言った。「周囲の兵舎には兵卒を厳重に配置しており、どうして賊が宮中に入れようか。」閻楽はそこで衛令を斬り、まっすぐに将兵を率いて入り、矢を射かけ、郎官や宦官は大いに驚き、逃げる者もいれば戦う者もいたが、戦う者はすぐに殺され、死者は数十人に上った。郎中令は閻楽と共に入り、皇帝の座る帷帳を射た。二世皇帝は怒り、左右を呼んだが、左右は皆慌てふためいて戦おうとしなかった。傍らに宦官一人がいて、侍っていたが逃げ去らなかった。二世皇帝は内に入り、彼に言った。「あなたはどうして早く私に告げなかったのか。ついにこのような事態になってしまった。」宦官は言った。「臣は敢えて言わなかったので、命を全うできました。もし臣が早く言っていたなら、皆誅殺されていたでしょう。どうして今日まで生きられましょうか。」閻楽が前に進み出て二世皇帝を責めて言った。「足下は驕り放恣で、無道に誅殺を行い、天下が共に足下に背いています。足下は自ら計らいなさい。」二世皇帝は言った。「丞相に会うことはできるか。」閻楽は言った。「できません。」二世皇帝は言った。「私は一郡を得て王になりたい。」許されなかった。また言った。「万戸侯になりたい。」許されなかった。言った。「妻子と共に黔首(平民)となり、諸公子と同じようになりたい。」閻楽は言った。「臣は丞相の命を受け、天下のために足下を誅するのです。足下が多く言っても、臣は敢えて報告できません。」兵に手を振って進ませた。二世皇帝は自殺した。
閻楽は帰って趙高に報告すると、趙高は諸大臣と公子たちをことごとく召集し、二世を誅殺した次第を告げた。言うには、「秦はもと王国であり、始皇帝が天下を君臨したゆえに帝と称した。今や六国がふたたび自立し、秦の領地はますます狭くなった。空名をもって帝と称するのはよろしくない。もとのように王とすべきである。これが妥当である」と。二世の兄の子である公子嬰を立てて秦王とした。黔首の礼をもって二世を杜南の宜春苑に葬った。子嬰に斎戒を命じ、廟に参拝して王璽を受け取らせようとした。斎戒すること五日、子嬰は二人の子と謀って言った、「丞相の高が二世を望夷宮で殺し、群臣に誅されるのを恐れて、義をもって私を立てるふりをしている。私は聞く、趙高は楚と約束し、秦の宗室を滅ぼして関中に王たらんとしていると。今、私に斎戒して廟に参拝させようとするのは、これ廟の中で私を殺そうとするのである。私は病と称して行かず、丞相は必ず自ら来るであろう。来たならばこれを殺そう」と。高は数回にわたり使者を遣わして子嬰を請うたが、子嬰は行かなかった。高は果たして自ら赴き、「宗廟の重事であるのに、王はどうして行かれないのか」と言った。子嬰はついに斎宮で高を刺し殺し、高の家を三族にわたって誅し、咸陽にさらしものとした。子嬰が秦王となって四十六日目、楚の将軍沛公が秦軍を破って武関に入り、ついに覇上に至り、使者を遣わして子嬰に降伏を約させた。子嬰はただちに組を首にかけ、白馬に素車を引かせ、天子の璽符を奉じて軹道の傍らに降った。沛公はついに咸陽に入り、宮室と府庫を封じ、軍を返して覇上に駐屯した。ひと月余り経つと、諸侯の兵が到着し、項籍が従長となり、子嬰および秦の諸公子と宗族を殺した。ついに咸陽を屠り、その宮室を焼き、その子女を虜にし、その珍宝と貨財を収め、諸侯がこれを分け合った。秦を滅ぼした後、それぞれその地を三つに分け、雍王・塞王・翟王と名づけ、これを三秦と号した。項羽は西楚の霸王となり、天下を分けて諸侯に王たらしめることを主命とした。秦はついに滅びた。その後五年にして、天下は漢によって定まった。
太史公が言う。
太史公が言う。秦の先祖の伯翳は、かつて唐虞の際に勲功があり、土地を賜り姓を授かった。殷と夏の間に至って微かに散じた。周の衰えに至り、秦は興り、西垂に邑した。繆公以来、次第に諸侯を蚕食し、ついに始皇帝を成した。始皇帝は自ら功績は五帝を過ぎ、土地の広さは三王にまさると考え、彼らと同等であることを恥じた。ああ善いかな、賈生の推し言うところである。曰く、
襄公が立ち、国を享けること十二年。初めて西畤を為す。西垂に葬る。文公を生む。
文公が立ち、西垂宮に居る。五十年で死に、西垂に葬る。靜公を生む。
静公は国を享けずして死す。憲公を生む。
憲公は国を享けること十二年、西新邑に居す。死し、衙に葬る。武公・徳公・出子を生む。
出子は国を享けること六年、西陵に居す。庶長弗忌・威累・参父の三人、賊を率いて出子を鄙衍に賊い、衙に葬る。武公立つ。
武公は国を享けること二十年。平陽封宮に居す。宣陽聚の東南に葬る。三庶長その罪に伏す。徳公立つ。
徳公は国を享けること二年。雍の大鄭宮に居す。宣公・成公・繆公を生む。陽に葬る。初めて伏し、以て蠱を御ぐ。
宣公は位に十二年あった。陽宮に居住した。陽に葬られた。初めて閏月を定めた。
成公は位に四年あった。雍の宮に居住した。陽に葬られた。斉が山戎・孤竹を討った。
繆公は位に三十九年あった。天子が覇者の地位を認めた。雍に葬られた。繆公は著人を師とした。康公を生んだ。
康公は位に十二年あった。雍の高寝に居住した。竘社に葬られた。共公を生んだ。
共公は位に五年あった。雍の高寝に居住した。康公の南に葬られた。桓公を生んだ。
桓公は国を享有すること二十七年。雍の太寢に居す。義裏丘の北に葬る。景公を生む。
景公は国を享有すること四十年。雍の高寢に居し、丘裏の南に葬る。畢公を生む。
畢公は国を享有すること三十六年。車裏の北に葬る。夷公を生む。
夷公は国を享有せず。死し、左宮に葬る。惠公を生む。
惠公は国を享有すること十年。車里(康景)に葬る。悼公を生む。
悼公は位に十五年あった。僖公を西に葬る。雍に城を築く。剌龔公を生む。
剌龔公は位に三十四年あった。入里に葬る。躁公、懷公を生む。その十年、彗星現る。
躁公は位に十四年あった。受寢に居る。悼公の南に葬る。その元年、彗星現る。
懷公は晉より来る。位に四年あった。櫟圉氏に葬る。靈公を生む。諸臣懷公を囲み、懷公自殺す。
肅靈公は、昭子の子なり。涇陽に居る。位に十年あった。悼公の西に葬る。簡公を生む。
簡公は晋より来たりて、国を享くること十五年。僖公の西に葬る。恵公を生む。その七年、百姓初めて剣を帯ぶ。
恵公は国を享くること十三年。陵圉に葬る。出公を生む。
出公は国を享くること二年。出公自殺し、雍に葬る。
献公は国を享くること二十三年。囂圉に葬る。孝公を生む。
孝公は国を享くること二十四年。弟圉に葬る。恵文王を生む。その十三年、初めて咸陽に都す。
恵文王は国に在位すること二十七年。公陵に葬る。悼武王を生む。
悼武王は国に在位すること四年、永陵に葬る。
昭襄王は国に在位すること五十六年。茝陽に葬る。孝文王を生む。
孝文王は国に在位すること一年。壽陵に葬る。莊襄王を生む。
莊襄王は国に在位すること三年。茝陽に葬る。始皇帝を生む。呂不韋が相となる。
献公が立って七年、初めて市を行ふ。十年、戸籍を作りて相伍す。
孝公が立つこと十六年。時に桃李冬に華く。
恵文王は生まれて十九年にして立つ。立つこと二年、初めて銭を行ふ。新たに生まれたる嬰児ありて曰く「秦且に王たらん」と。
悼武王は生まれて十九年にして立つ。立つこと三年、渭水赤くして三日に及ぶ。
昭襄王は生まれて十九年にして立つ。立つこと四年、初めて田に阡陌を開く。
孝文王は生まれて五十三年にして即位した。
莊襄王は生まれて三十二年にして即位した。即位して二年、太原の地を取る。莊襄王元年、大赦を行い、先王の功臣を優遇し、徳を骨肉に厚く施し、恵みを民に布いた。東周が諸侯と謀って秦を攻めようとしたので、秦は相国呂不韋を使わしてこれを誅し、その国をことごとく併合した。秦はその祭祀を絶やさず、陽人の地を周君に賜い、その祭祀を奉ぜしめた。
始皇帝は国を享有すること三十七年。酈邑に葬る。二世皇帝を生む。始皇帝は生まれて十三年にして即位した。
二世皇帝は国を享有すること三年。宜春に葬る。趙高が丞相となり安武侯となる。二世は生まれて十二年にして即位した。
右は秦の襄公より二世に至るまで、六百一十年。
史記秦始皇本紀の後に記す(班固)
孝明皇帝十七年十月十五日乙丑の日に曰く、
周の暦は既に移り、仁は母に代わらず。秦は直ちにその位に就き、呂政(始皇)は残虐であった。しかし諸侯十三を以て天下を併せ兼ね、情を極め欲を縦にし、宗親を養い育む。三十七年、兵の加えざる所なく、制作政令は後王に施された。蓋し聖人の威を得、河神は図を授け、狼・狐に拠り、参・伐を蹈み、政を佐けて駆除し、これを距って始皇と称した。
始皇既に歿し、胡亥は極めて愚かであり、酈山(陵)未だ畢らず、復た阿房を作り、以て前の策を遂げんとした。云う「凡そ天下を有つことを貴ぶ者は、意を肆にし欲を極め、大臣は先君の為したることを罷めんと欲するに至る」と。斯・去疾を誅し、趙高を任用す。痛なるかな言うや。人頭にして畜の鳴くが如し。威あらずして悪を伐たず、篤からずして虚しく亡び、これを距って留まるを得ず、残虐を以て期を促し、形便の国に居るも、猶お存するを得ず。
子嬰は次を度って嗣ぐを得、玉の冠を戴き、華紱を佩き、車は黄屋、百司に従い、七廟に謁す。小人非位に乗ずれば、恍惚として守りを失わざるは莫く、日々に安きを偸むも、独り能く長く念い慮りを卻け、父子権を作し、近く戸牖の間に取り、竟に猾臣を誅し、君の為に賊を討つ。高の死したる後、賓婚未だ尽く相労するを得ず、餐未だ咽に下らざるに及ばず、酒未だ脣を濡らさざるに、楚兵已に関中を屠り、真人は霸上に翔り、素車嬰組、その符璽を奉じて、以て帝者に帰す。鄭伯の茅旌鸞刀、厳王退舍す。河決して復た壅ぐべからず、魚爛して復た全うすべからず。賈誼・司馬遷曰く「向に嬰に庸主の才有らしめば、僅かに中佐を得、山東乱るるも、秦の地は全うして有つべく、宗廟の祀未だ当に絶つべからず」と。秦の積衰、天下土崩瓦解し、周旦の材有るも、復た其の巧を陳ぶる所無く、而して以て一日の孤を責むるは、誤れるかな。俗に秦始皇は罪悪を起こし、胡亥は極まれりと伝う、其の理を得たり。復た小子を責め、秦の地は全うすべしと云うは、所謂ち時変を通ぜざる者なり。紀季は酅を以てす、春秋名けず。吾秦紀を読み、子嬰の趙高を車裂するに至り、未だ嘗て其の決を健とせずんばあらず、其の志を憐れむ。嬰の死生の義備われり。