史記

巻第六 秦始皇本紀 第六

始皇帝

原文始皇帝

秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子である。荘襄王は秦の人質として趙にあり、呂不韋の妾を見初めて娶り、始皇帝を生んだ。秦の昭王四十八年正月に邯鄲で生まれた。生まれると、名を政とし、姓は趙氏といった。十三歳の時、荘襄王が死に、政が代わって秦王に立った。この時、秦の地はすでに巴・蜀・漢中を併せ、宛を越えて郢を有し、南郡を置いていた。北は上郡以東を収め、河東・太原・上黨郡を有し、東は滎陽に至り、二周を滅ぼして三川郡を置いた。呂不韋は相となり、十万戸を封ぜられ、文信侯と号した。賓客・游士を招致し、以て天下を併せんと欲した。李斯は舎人となった。蒙驁・王齮・麃公らが将軍となった。王は年少で、初めて即位し、国事を大臣に委ねた。晋陽が反した。

原文秦始皇帝者,秦莊襄王子也。莊襄王為秦質子於趙,見呂不韋姬,悅而取之,生始皇。以秦昭王四十八年正月生於邯鄲。及生,名為政,姓趙氏。年十三歲,莊襄王死,政代立為秦王。當是之時,秦地已并巴、蜀、漢中,越宛有郢,置南郡矣;北收上郡以東,有河東、太原、上黨郡;東至滎陽,滅二周,置三川郡。呂不韋為相,封十萬戶,號曰文信侯。招致賓客游士,欲以并天下。李斯為舍人。蒙驁、王齮、麃公等為將軍。王年少,初即位,委國事大臣。晉陽反。

元年、将軍蒙驁がこれを撃って平定した。

原文元年,將軍蒙驁擊定之。

二年、麃公が卒を将いて巻を攻め、斬首三万。

原文二年,麃公將卒攻卷,斬首三萬。

三年、蒙驁が韓を攻め、十三城を取る。王齮死す。十月、将軍蒙驁が魏氏の暢・有詭を攻む。歳大いに饑う。

原文三年,蒙驁攻韓,取十三城。王齮死。十月,將軍蒙驁攻魏氏暢、有詭。歲大饑。

四年、暢・有詭を抜く。三月、軍罷む。秦の質子、趙より帰る。趙の太子、出でて国に帰る。十月庚寅、蝗蟲東方より来たり、天を蔽う。天下疫す。百姓、粟千石を内(納)むれば、爵一級を拝す。

原文四年,拔暢、有詭。三月,軍罷。秦質子歸自趙,趙太子出歸國。十月庚寅,蝗蟲從東方來,蔽天。天下疫。百姓內粟千石,拜爵一級。

五年、将軍驁が魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を定め、皆これを抜き、二十城を取る。初めて東郡を置く。冬雷す。

原文五年,將軍驁攻魏,定酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽城,皆拔之,取二十城。初置東郡。冬雷。

六年、韓・魏・趙・衛・楚、共に秦を撃ち、寿陵を取る。秦、兵を出す。五国の兵罷む。衛を抜き、東郡を迫る。其の君角、其の支属を率いて野王に徙り居し、其の山を阻みて以て魏の河内を保つ。

原文六年,韓、魏、趙、衛、楚共擊秦,取壽陵。秦出兵,五國兵罷。拔衛,迫東郡,其君角率其支屬徙居野王,阻其山以保魏之河內。

七年、彗星が先ず東方に出で、北方に見え、五月に西方に見ゆ。将軍驁死す。龍・孤・慶都を攻め、兵を還して汲を攻む。彗星復た西方に見ゆること十六日。夏太后死す。

原文七年,彗星先出東方,見北方,五月見西方。將軍驁死。以攻龍、孤、慶都,還兵攻汲。彗星復見西方十六日。夏太后死。

八年、王の弟長安君成蟜、将軍として趙を撃ち、反し、屯留に死す。軍吏は皆斬られ死し、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死し、卒の屯留・蒲鶴に反する者あり、其の尸を戮す。河魚大いに上り、軽車重馬東に就きて食す。

原文八年,王弟長安君成蟜將軍擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。將軍壁死,卒屯留、蒲鶴反,戮其尸。河魚大上,輕車重馬東就食。

嫪毐を封じて長信侯と為す。之に山陽の地を与え、毐をして之に居らしむ。宮室・車馬・衣服・苑囿・馳獵、毐に恣にす。事の小大無く皆毐に決す。又、河西太原郡を以て更に毐の国と為す。九年、彗星見ゆ。或いは天を竟う。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿る。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作すも覚られ、王のふせ璽及び太后の璽を矯り以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に命じて卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦い、数百を斬首し、皆爵を拝し、及び宦者にして戦中に在る者も亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す:生けて毐を得る者有らば、銭百万を賜う;之を殺す者は、五十万。尽く毐等を得る。衛尉竭・内史ほしいまま・佐弋竭・中大夫令斉等二十人、皆梟首す。車裂して以て徇し、其の宗を滅ぼす。及び其の舎人、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪い蜀に遷す者四千余家、房陵に家す。(四)[是]月寒凍し、死者有り。楊端和、衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋、嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮を将軍と為す。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦、秦王に説いて曰く「秦方に天下を以て事と為すに、而して大王に母太后を遷すの名有り。諸侯之を聞くを恐る、此に由りて秦に倍かんと」と。秦王乃ち雍より太后を迎えて咸陽に入り、復た甘泉宮に居す。

原文嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國。九年,彗星見,或竟天。攻魏垣、蒲陽。四月,上宿雍。己酉,王冠,帶劍。長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衛卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。王知之,令相國昌平君、昌文君發卒攻毐。戰咸陽,斬首數百,皆拜爵,及宦者皆在戰中,亦拜爵一級。毐等敗走。即令國中:有生得毐,賜錢百萬;殺之,五十萬。盡得毐等。衛尉竭、內史肆、佐弋竭、中大夫令齊等二十人皆梟首。車裂以徇,滅其宗。及其舍人,輕者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵。(四)[是]月寒凍,有死者。楊端和攻衍氏。彗星見西方,又見北方,從斗以南八十日。十年,相國呂不韋坐嫪毐免。桓齮為將軍。齊、趙來置酒。齊人茅焦說秦王曰:「秦方以天下為事,而大王有遷母太后之名,恐諸侯聞之,由此倍秦也。」秦王乃迎太后於雍而入咸陽,復居甘泉宮。

大索し、客を逐う。李斯上書して説き、乃ち客を逐うの令を止む。李斯因りて秦王に説き、請う先ず韓を取らば以て他国を恐れしめんと。是に於て斯をして韓を下らしむ。韓王之を患う。韓非と謀りて秦を弱めんとす。大梁の人尉繚来たり、秦王に説いて曰く「秦の彊きを以てすれば、諸侯は譬えば郡県の君の如し。臣但だ諸侯の合従し、翕として意に出ずるを恐る。此れ乃ち智伯・夫差・湣王の亡ぶる所以なり。願わくは大王財物を愛すること毋かれ。其の豪臣を賂して、以て其の謀を乱さしめよ。三十万金を亡うるに過ぎず、則ち諸侯尽くす可し」と。秦王其の計に従い、尉繚を見るに亢礼し、衣服食飲繚と同し。繚曰く「秦王の人と為り、蜂準、長目、摯鳥の膺、豺声、恩少なくして虎狼の心有り。約に居れば易く人下に出で、志を得れば亦軽く人を食らう。我布衣なり。然れども我を見るに常に身自ら我を下す。誠に秦王をして天下に志を得しめば、天下皆虜と為らん。与に久しく游ぶべからず」と。乃ち亡去す。秦王覚り、固く止め、以て秦の国尉と為し、卒に其の計策を用う。而して李斯用事す。

原文大索,逐客,李斯上書說,乃止逐客令。李斯因說秦王,請先取韓以恐他國,於是使斯下韓。韓王患之。與韓非謀弱秦。大梁人尉繚來,說秦王曰:「以秦之彊,諸侯譬如郡縣之君,臣但恐諸侯合從,翕而出不意,此乃智伯、夫差、湣王之所以亡也。願大王毋愛財物,賂其豪臣,以亂其謀,不過亡三十萬金,則諸侯可盡。」秦王從其計,見尉繚亢禮,衣服食飲與繚同。繚曰:「秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。」乃亡去。秦王覺,固止,以為秦國尉,卒用其計策。而李斯用事。

十一年、王翦・桓齮・楊端和、鄴を攻め、九城を取る。王翦、閼与・橑楊を攻め、皆併せて一軍と為す。翦将たり十八日、軍を帰して斗食以下とし、什に二人を推して軍に従い鄴の安陽を取らしむ。桓齮将たり。十二年、文信侯不韋死す。窃かに葬る。其の舎人にして臨む者、晋人は之を逐い出だす。秦人六百石以上は爵を奪い、遷す。五百石以下にして臨まざる者は遷すも、爵を奪わず。今より以来、国事を操りて道ならざる者嫪毐・不韋の如きは其の門を籍し、此を視よ。秋、嫪毐の舎人にして蜀に遷されたる者を復す。是の時に当たり、天下大旱し、六月より八月に至りて乃ち雨ふる。

原文十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼與、橑楊,皆并為一軍。翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。十二年,文信侯不韋死,竊葬。其舍人臨者,晉人也逐出之;秦人六百石以上奪爵,遷;五百石以下不臨,遷,勿奪爵。自今以來,操國事不道如嫪毐、不韋者籍其門,視此。秋,復嫪毐舍人遷蜀者。當是之時,天下大旱,六月至八月乃雨。

十三年、桓齮が趙の平陽を攻め、趙の将扈輒を殺し、斬首十万を数えた。王は河南にいた。正月、彗星が東方に現れた。十月、桓齮が趙を攻めた。十四年、平陽において趙軍を攻め、宜安を取ってこれを破り、その将軍を殺した。桓齮が平陽・武城を平定した。韓非が秦に使いし、秦は李斯の謀を用い、非を留め置き、非は雲陽で死んだ。韓王は臣となることを請うた。

原文十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。韓非使秦,秦用李斯謀,留非,非死雲陽。韓王請為臣。

十五年、大いに兵を起こし、一軍は鄴に至り、一軍は太原に至り、狼孟を取った。地震があった。十六年九月、卒を発して韓の南陽の地を受け、仮守騰を置いた。初めて男子に年齢を記させた。魏が地を秦に献じた。秦は麗邑を置いた。十七年、内史騰が韓を攻め、韓王安を得て、その地をことごとく納め、その地を郡となし、潁川と命じた。地震があった。華陽太后が卒した。民は大いに飢えた。

原文十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。初令男子書年。魏獻地於秦。秦置麗邑。十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。

十八年、大いに兵を起こして趙を攻め、王翦が上地の兵を将いて井陘を下し、端和が河内の兵を将き、羌瘣が趙を伐ち、端和が邯鄲城を包囲した。十九年、王翦・羌瘣がことごとく趙の地東陽を平定して取り、趙王を得た。兵を引きいて燕を攻めんとし、中山に屯した。秦王が邯鄲に至り、かつて王が趙に生まれた時に母の家に仇怨のあった者を皆、坑にした。秦王は還り、太原・上郡より帰った。始皇帝の母の太后が崩じた。趙の公子嘉がその宗族数百人を率いて代に至り、自ら代王と立ち、東は燕と合兵し、上谷に軍した。大飢饉があった。

原文十八年,大興兵攻趙,王翦將上地,下井陘,端和將河內,羌瘣伐趙,端和圍邯鄲城。十九年,王翦、羌瘣盡定取趙地東陽,得趙王。引兵欲攻燕,屯中山。秦王之邯鄲,諸嘗與王生趙時母家有仇怨,皆阬之。秦王還,從太原、上郡歸。始皇帝母太后崩。趙公子嘉率其宗數百人之代,自立為代王,東與燕合兵,軍上谷。大饑。

二十年、燕の太子丹は秦の兵が国に至ることを憂い、恐れて荊軻をして秦王を刺させた。秦王はこれを覚り、軻を体解して徇し、王翦・辛勝をして燕を攻めさせた。燕・代は兵を発して秦軍を撃ち、秦軍は燕を易水の西で破った。二十一年、王賁が(薊)[荊]を攻めた。ここにおいて益々卒を発して王翦の軍に詣らせ、ついに燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首を得た。燕王は東の方遼東を収めて王となった。王翦は病老を謝して帰った。新鄭が反した。昌平君が郢に徙された。大雨雪があり、深さ二尺五寸に及んだ。

原文二十年,燕太子丹患秦兵至國,恐,使荊軻刺秦王。秦王覺之,體解軻以徇,而使王翦、辛勝攻燕。燕、代發兵擊秦軍,秦軍破燕易水之西。二十一年,王賁攻(薊)[荊]。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。燕王東收遼東而王之。王翦謝病老歸。新鄭反。昌平君徙於郢。大雨雪,深二尺五寸。

二十二年、王賁が魏を攻め、河溝を引いて大梁を灌ぎ、大梁城は壊れ、その王は降ふすを請い、その地をことごとく取った。

原文二十二年,王賁攻魏,引河溝灌大梁,大梁城壞,其王請降,盡取其地。

二十三年、秦王は再び王翦を召し、強いて起用して、荊を撃たせた。陳より南を取って平輿に至り、荊王を虜にした。秦王は遊んで郢陳に至った。荊の将軍項燕は昌平君を立てて荊王とし、淮南において秦に反した。二十四年、王翦・蒙武は荊を攻め、荊軍を破り、昌平君は死に、項燕はついに自殺した。

原文二十三年,秦王復召王翦,彊起之,使將擊荊。取陳以南至平輿,虜荊王。秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王,反秦於淮南。二十四年,王翦、蒙武攻荊,破荊軍,昌平君死,項燕遂自殺。

二十五年、大いに兵を興し、王賁を将とし、燕の遼東を攻めて、燕王喜を得た。還って代を攻め、代王嘉を虜にした。王翦はついに荊の江南の地を平定し、越君を降伏させ、会稽郡を置いた。五月、天下に大酺があった。

原文二十五年,大興兵,使王賁將,攻燕遼東,得燕王喜。還攻代,虜代王嘉。王翦遂定荊江南地;降越君,置會稽郡。五月,天下大酺。

二十六年、斉王建はその相后勝とともに兵を発してその西界を守り、秦に通じなかった。秦は将軍王賁をして燕の南より斉を攻めさせ、斉王建を得た。

原文二十六年,齊王建與其相后勝發兵守其西界,不通秦。秦使將軍王賁從燕南攻齊,得齊王建。

秦王が初めて天下を併合し、丞相・御史に命じて言うには、「かつて韓王は地を納れ璽を献げ、藩臣たることを請うたが、後に約に背き、趙・魏と合従して秦に叛いた。故に兵を興してこれを誅し、その王を虜にした。寡人はこれを善しとし、兵革を止めんことを願った。趙王はその相李牧を使わして盟を約させたので、その質子を帰した。後に盟に背き、我が太原に反した。故に兵を興してこれを誅し、その王を得た。趙の公子嘉はすなわち自ら代王と立ったので、兵を挙げてこれを撃ち滅ぼした。魏王は初め服して秦に入ることを約したが、後に韓・趙と謀って秦を襲おうとした。秦の兵吏が誅したので、ついにこれを破った。荊王は青陽以西を献げたが、後に約に叛き、我が南郡を撃った。故に兵を発してこれを誅し、その王を得て、ついにその荊の地を定めた。燕王は昏乱であり、その太子丹はひそかに荊軻に命じてそこなとならしめた。兵吏が誅し、その国を滅ぼした。斉王は后勝の計を用い、秦の使者を絶ち、乱をなさんとした。兵吏が誅し、その王を虜にし、斉の地を平定した。寡人は眇眇たる身をもって、兵を興して暴乱を誅し、宗廟の霊に頼り、六王ことごとくその辜に伏し、天下は大いに定まった。今、名号を改めざれば、成功を称え後世に伝えることができない。帝号を議せよ。」丞相の綰・御史大夫の劫・廷尉の斯らは皆言うには、「昔、五帝の地は方千里、その外は侯服・夷服の諸侯、あるいは朝しあるいはせず、天子は制することができなかった。今、陛下は義兵を興し、残賊を誅し、天下を平定し、海内を郡県となし、法令は一統より出ず。上古以来いまだかつてなく、五帝の及ばざるところである。臣ら謹んで博士と議して曰く、『古に天皇あり、地皇あり、泰皇あり。泰皇最も貴し』と。臣ら昧死して尊号を上る。王を『泰皇』とすべし。命を『制』とし、令を『詔』とし、天子自ら称して『朕』と曰う。」王曰く、「『泰』を去り、『皇』を著し、上古の『帝』の位号を采り、号して『皇帝』と曰う。その他は議のごとくせよ。」制して曰く、「可なり。」荘襄王を追尊して太上皇とす。制して曰く、「朕聞く、太古には号ありて謚なく、中古には号あり、死して行いをもって謚とす。かくのごとくは、子が父を議し、臣が君を議することなり。甚だ謂れなし。朕は取らざるなり。今より以来、謚法を除く。朕を始皇帝とす。後世は数をもって計い、二世・三世より万世に至り、これを伝えて窮まりなからしめん。」

原文秦王初并天下,令丞相、御史曰:「異日韓王納地效璽,請為藩臣,已而倍約,與趙、魏合從畔秦,故興兵誅之,虜其王。寡人以為善,庶幾息兵革。趙王使其相李牧來約盟,故歸其質子。已而倍盟,反我太原,故興兵誅之,得其王。趙公子嘉乃自立為代王,故舉兵擊滅之。魏王始約服入秦,已而與韓、趙謀襲秦,秦兵吏誅,遂破之。荊王獻青陽以西,已而畔約,擊我南郡,故發兵誅,得其王,遂定其荊地。燕王昏亂,其太子丹乃陰令荊軻為賊,兵吏誅,滅其國。齊王用后勝計,絕秦使,欲為亂,兵吏誅,虜其王,平齊地。寡人以眇眇之身,興兵誅暴亂,賴宗廟之靈,六王咸伏其辜,天下大定。今名號不更,無以稱成功,傳後世。其議帝號。」丞相綰、御史大夫劫、廷尉斯等皆曰:「昔者五帝地方千里,其外侯服夷服諸侯或朝或否,天子不能制。今陛下興義兵,誅殘賊,平定天下,海內為郡縣,法令由一統,自上古以來未嘗有,五帝所不及。臣等謹與博士議曰:『古有天皇,有地皇,有泰皇,泰皇最貴。』臣等昧死上尊號,王為『泰皇』。命為『制』,令為『詔』,天子自稱曰『朕』。」王曰:「去『泰』,著『皇』,采上古『帝』位號,號曰『皇帝』。他如議。」制曰:「可。」追尊莊襄王為太上皇。制曰:「朕聞太古有號毋謚,中古有號,死而以行為謐。如此,則子議父,臣議君也,甚無謂,朕弗取焉。自今已來,除謚法。朕為始皇帝。後世以計數,二世三世至于萬世,傳之無窮。」

始皇は終始五徳の伝を推し、周は火徳を得、秦は周の徳に代わるは、勝たざる所に従うと為した。今まさに水徳の始めである。年の始めを改め、朝賀は皆十月朔よりす。衣服・旄旌・節旗は皆上黒とす。数を六を紀とし、符・法冠は皆六寸、輿は六尺、六尺を歩とし、六馬に乗る。河を改めて徳水と名づけ、水徳の始めと為す。剛毅にして戾深く、事は皆法により決し、刻削にして仁恩和義なく、然る後に五徳の数に合う。ここにおいて法を急にし、久しき者は赦さず。

原文始皇推終始五德之傳,以為周得火德,秦代周德,從所不勝。方今水德之始,改年始,朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黑。數以六為紀,符、法冠皆六寸,而輿六尺,六尺為步,乘六馬。更名河曰德水,以為水德之始。剛毅戾深,事皆決於法,刻削毋仁恩和義,然後合五德之數。於是急法,久者不赦。

丞相の王綰らが言うには、「諸侯を初めて破り、燕・斉・荊の地は遠く、王を置かずしてはこれを鎮撫する術がありません。どうか諸子を立てられますよう、願わくば陛下のご裁許を賜りたい」と。始皇帝はその議を群臣に下すと、群臣は皆これを便宜と認めた。廷尉の李斯が議して言うには、「周の文王・武王が封じた子弟同姓は甚だ多く、その後、属は疎遠となり、互いに仇讎の如く攻撃し、諸侯は更に相誅伐し、周の天子はこれを禁止することができなかった。今、海内は陛下の神霊に頼って一統し、皆郡県となっております。諸子や功臣には公の賦税をもって重く賞賜すれば、甚だ制御しやすい。天下に異議がなければ、これこそ安寧の術であります。諸侯を置くことは不便です」と。始皇帝は言うには、「天下が共に戦闘の絶え間ないことを苦しむのは、侯王がいるからである。宗廟に頼り、天下が初めて定まったのに、また国を立てるのは、これ兵を樹てることであり、その寧息を求めるのは、豈に難からざらんや。廷尉の議は是である」と。

原文丞相綰等言:「諸侯初破,燕、齊、荊地遠,不為置王,毋以填之。請立諸子,唯上幸許。」始皇下其議於群臣,群臣皆以為便。廷尉李斯議曰:「周文武所封子弟同姓甚眾,然後屬疏遠,相攻擊如仇讎,諸侯更相誅伐,周天子弗能禁止。今海內賴陛下神靈一統,皆為郡縣,諸子功臣以公賦稅重賞賜之,甚足易制。天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」始皇曰:「天下共苦戰鬬不休,以有侯王。賴宗廟,天下初定,又復立國,是樹兵也,而求其寧息,豈不難哉!廷尉議是。」

天下を分けて三十六郡とし、郡ごとに守・尉・監を置いた。民の名を改めて「黔首」と称した。大酺を行った。天下の兵器を収め、これを咸陽に集め、熔かして鐘鐻とし、金人十二を造り、各々千石の重さがあり、これを朝廷の宮中に置いた。法はか・衡石・丈尺を統一した。車の軌を同じくし、文字を同じくした。地は東は海及び朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北さき戸に至り、北は河を拠りて塞とし、陰山に并せて遼東に至る。天下の豪富を咸陽に移すこと十二万戸。諸廟及び章臺・上林は皆渭水の南に在った。秦は諸侯を破るごとに、その宮室を模写し、これを咸陽の北阪の上に作って、南は渭水に臨み、雍門より以東、涇・渭に至るまで、殿屋・複道・周閣が相連属した。得た諸侯の美人・鐘鼓は、以てこれを充てた。

原文分天下以為三十六郡,郡置守、尉、監。更名民曰「黔首」。大酺。收天下兵,聚之咸陽,銷以為鐘鐻,金人十二,重各千石,置廷宮中。一法度衡石丈尺。車同軌。書同文字。地東至海暨朝鮮,西至臨洮、羌中,南至北向戶,北據河為塞,并陰山至遼東。徙天下豪富於咸陽十二萬戶。諸廟及章臺、上林皆在渭南。秦每破諸侯,寫放其宮室,作之咸陽北阪上,南臨渭,自雍門以東至涇、渭,殿屋複道周閣相屬。所得諸侯美人鐘鼓,以充入之。

二十七年、始皇帝は隴西・北地を巡行し、鶏頭山を出て、回中を過ぎた。ここに信宮を渭南に作る。既にして信宮を更めて極廟と命じ、天極に象った。極廟より道を通じて酈山に至り、甘泉前殿を作った。甬道を築き、咸陽よりこれを連ねた。この歳、爵一級を賜う。馳道を治めた。

原文二十七年,始皇巡隴西、北地,出雞頭山,過回中。焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極。自極廟道通酈山,作甘泉前殿。筑甬道,自咸陽屬之。是歲,賜爵一級。治馳道。

二十八年、始皇帝は東に郡県を行き、鄒の嶧山に登った。石を立て、魯の諸儒生と議し、石に刻んで秦の徳を頌し、封禅と山川を望祭する事を議した。乃ち遂に泰山に登り、石を立て、封を行い、祠祀した。下る途中、風雨が暴かに至り、樹下に休み、因ってその樹を封じて五大夫とした。梁父で禅を行った。立てた石に刻んだその辞は次の通りである。

原文二十八年,始皇東行郡縣,上鄒嶧山。立石,與魯諸儒生議,刻石頌秦德,議封禪望祭山川之事。乃遂上泰山,立石,封,祠祀。下,風雨暴至,休於樹下,因封其樹為五大夫。禪梁父。刻所立石,其辭曰:

皇帝位に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下はこれを修飾す。二十有六年、初めて天下を併せ、賓服せざるは無し。遠方の黎民を親しく巡り、この泰山に登り、東極を周覧す。従臣は跡を思い、事業の本原を求め、謹んで功德を誦す。治道は運行し、諸産は宜しきを得、皆法式有り。大義は休明にして、後世に垂れ、順承して革めざれ。皇帝躬ら聖にして、既に天下を平げ、治に懈かず。夙に興き夜に寐ず、長利を建設し、専ら教誨を隆くす。経を訓じ宣達し、遠近畢く理まり、皆聖志を承く。貴賤分明にし、男女礼順にして、職事を慎み遵う。内外を昭かに隔て、清浄ならざるは無く、後嗣に施す。化は無窮に及び、遺詔を遵奉し、永く重戒を承けん。

原文皇帝臨位,作制明法,臣下修飭。二十有六年,初并天下,罔不賓服。親巡遠方黎民,登茲泰山,周覽東極。從臣思跡,本原事業,祗誦功德。治道運行,諸產得宜,皆有法式。大義休明,垂于後世,順承勿革。皇帝躬聖,既平天下,不懈於治。夙興夜寐,建設長利,專隆教誨。訓經宣達,遠近畢理,咸承聖志。貴賤分明,男女禮順,慎遵職事。昭隔內外,靡不清凈,施于後嗣。化及無窮,遵奉遺詔,永承重戒。

そこで勃海以東を併せて、黄・腄を過ぎ、成山に至り、之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌して去った。

原文於是乃并勃海以東,過黃、腄,窮成山,登之罘,立石頌秦德焉而去。

南に瑯邪に登り、大いにこれを楽しみ、三月留まった。そこで黔首三萬戸を瑯邪臺下に移し、十二歳の賦役を免除した。瑯邪臺を築き、石刻を立て、秦の徳を頌し、得意を明らかにした。その文は次のとおりである。

原文南登瑯邪,大樂之,留三月。乃徙黔首三萬戶瑯邪臺下,復十二歲。作瑯邪臺,立石刻,頌秦德,明得意。曰:

秦王が天下を兼ね併せ、名を立てて皇帝と為し、東土を撫でて、瑯邪に至った。列侯武城侯王離・列侯通武侯王賁・倫侯建成侯趙亥・倫侯昌武侯成・倫侯武信侯馮毋擇・丞相隗林・丞相王綰・卿李斯・卿王戊・五大夫趙嬰・五大夫楊樛が従い、海上において議した。曰く、「古の帝者は、地は千里を過ぎず、諸侯は各々その封域を守り、或いは朝し或いはせず、相侵し暴乱し、残伐止まず、なお金石を刻して、以て自ら紀と為す。古の五帝三王は、知教同じからず、法度明らかならず、鬼神に威を仮り、以て遠方を欺き、実は名に称せず、故に久長ならず。その身未だ歿せざるに、諸侯倍叛し、法令行はれず。今皇帝は海内を併せ一にし、以て郡県と為し、天下平和なり。宗廟を昭明にし、道を体し徳を行い、尊号大成す。群臣相与に皇帝の功徳を誦し、金石に刻し、以て表経と為す。」

原文維秦王兼有天下,立名為皇帝,乃撫東土,至于瑯邪。列侯武城侯王離、列侯通武侯王賁、倫侯建成侯趙亥、倫侯昌武侯成、倫侯武信侯馮毋擇、丞相隗林、丞相王綰、卿李斯、卿王戊、五大夫趙嬰、五大夫楊樛從,與議於海上。曰:「古之帝者,地不過千里,諸侯各守其封域,或朝或否,相侵暴亂,殘伐不止,猶刻金石,以自為紀。古之五帝三王,知教不同,法度不明,假威鬼神,以欺遠方,實不稱名,故不久長。其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。今皇帝并一海內,以為郡縣,天下和平。昭明宗廟,體道行德,尊號大成。群臣相與誦皇帝功德,刻于金石,以為表經。」

既にして、斉の人徐市らが上書し、海中に三神山有り、名を蓬萊・方丈・瀛洲と曰い、僊人これに居ると言う。斎戒を得て、童男女とともにこれを求めんことを請う。そこで徐市に童男女数千人を発させ、海に入りて僊人を求めた。

原文既已,齊人徐市等上書,言海中有三神山,名曰蓬萊、方丈、瀛洲,僊人居之。請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐市發童男女數千人,入海求僊人。

始皇還り、彭城を過ぎ、斎戒祷祠し、周鼎を泗水より出さんと欲した。千人を使い水に没してこれを求めしめたが、得られなかった。そこで西南に淮水を渡り、衡山・南郡に至った。江に浮かび、湘山祠に至った。大風に逢い、ほとんど渡ることができなかった。上博士に問うて曰く、「湘君の神は何か。」博士対えて曰く、「聞くところによれば、堯の女、舜の妻にして、ここに葬るという。」そこで始皇大いに怒り、刑徒三千人を使い、皆湘山の樹を伐たせ、その山をあかくした。上は南郡より武関を経由して帰った。

原文始皇還,過彭城,齋戒禱祠,欲出周鼎泗水。使千人沒水求之,弗得。乃西南渡淮水,之衡山、南郡。浮江,至湘山祠。逢大風,幾不得渡。上問博士曰:「湘君神?」博士對曰:「聞之,堯女,舜之妻,而葬此。」於是始皇大怒,使刑徒三千人皆伐湘山樹,赭其山。上自南郡由武關歸。

二十九年、始皇帝は東に巡遊した。陽武の博狼沙に至り、盗賊に驚かされた。求めて得られず、ここに天下に命じて大いに十日間捜索させた。

原文二十九年,始皇東游。至陽武博狼沙中,為盜所驚。求弗得,乃令天下大索十日。

之罘に登り、石に刻んだ。その文は曰く、

原文登之罘,刻石。其辭曰:

その東観に曰く、

原文其東觀曰:

帰途につき、ついに瑯邪に至り、道は上党を通って入った。

原文旋,遂之瑯邪,道上黨入。

三十年、事なし。

原文三十年,無事。

三十一年十二月、臘を改めて「嘉平」と名づく。黔首に裏六石の米と二羊を賜う。始皇は微行して咸陽にあり、武士四人とともに、夜に出でて盗に逢うこと蘭池、窘しめらるるを見る。武士、盗を撃ち殺す。関中大いに索むること二十日。米一石千六百。

原文三十一年十二月,更名臘曰「嘉平」。賜黔首裏六石米,二羊。始皇為微行咸陽,與武士四人俱,夜出逢盜蘭池,見窘,武士擊殺盜,關中大索二十日。米石千六百。

三十二年、始皇、碣石に至る。燕人盧生を使わして羨門・高誓を求めしむ。碣石門に刻す。城郭を壊し、堤防を決通す。その辞に曰く。

原文三十二年,始皇之碣石,使燕人盧生求羨門、高誓。刻碣石門。壞城郭,決通隄防。其辭曰:

ここに韓終・侯公・石生を使わして、僊人の不死の薬を求めしむ。始皇、北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生、海に入りて使いし還り、鬼神の事を以てし、ここに因りて録図書を奏し、曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」。始皇すなわち将軍蒙恬を使わして兵三十万人を発し、北して胡を撃ち、河南の地を略取せしむ。

原文因使韓終、侯公、石生求僊人不死之藥。始皇巡北邊,從上郡入。燕人盧生使入海還,以鬼神事,因奏錄圖書,曰「亡秦者胡也」。始皇乃使將軍蒙恬發兵三十萬人北擊胡,略取河南地。

三十三年、諸嘗て逋亡の人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海となし、以て適(謫)して戍らしむ。西北、匈奴を斥逐す。榆中より河に并び以て東、これを陰山に属け、以て三十四県となし、河上に城して塞と為す。また蒙恬を使わして河を渡り高闕・陽山・北仮中を取り、亭障を筑きて以て戎人を逐う。謫を徙し、初県に実む。祠うことを得ざるを禁ず。明星、西方に出づ。

原文三十三年,發諸嘗逋亡人、贅婿、賈人略取陸梁地,為桂林、象郡、南海,以適遣戍。西北斥逐匈奴。自榆中并河以東,屬之陰山,以為三十四縣,城河上為塞。又使蒙恬渡河取高闕、陽山、北假中,筑亭障以逐戎人。徙謫,實之初縣。禁不得祠。明星出西方。

三十四年、獄吏不直なる者を適(謫)して治めしめ、長城及び南越の地を筑かしむ。

原文三十四年,適治獄吏不直者,筑長城及南越地。

始皇帝は咸陽宮に酒宴を設け、博士七十人が前に出て寿ぎを述べた。仆射の周青臣が進み出て頌して言うには、「かつて秦の地は千里を過ぎず、陛下の神霊の明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざるはない。諸侯を郡県となし、人々自ら安楽にして、戦争の患い無く、これを万世に伝えんとす。上古より陛下の威徳に及ぶものはない」と。始皇帝は喜んだ。博士の斉人淳于越が進み出て言うには、「臣は聞く、殷周の王たるもの千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下は海内を有しながら、子弟は匹夫と為り、卒然として田常・六卿の臣あらば、輔ふる者無く、何を以て相救わんや。事古に師らずして能く長久たるは、聞かざる所なり。今青臣は又面諛して以て陛下の過ちを重くす、忠臣に非ず」と。始皇帝はその議を下した。丞相李斯が言うには、「五帝は相復せず、三代は相襲わず、各治に以てす、其の相反するに非ず、時変異なり。今陛下は大業を創め、万世の功を建てたまう、固より愚儒の知る所に非ず。且つ越の言は乃ち三代の事なり、何ぞ法と為すに足らんや。異時諸侯並び争い、厚く游学を招く。今天下已に定まり、法令は一より出ず、百姓は当家なれば則ち農工に力を尽くし、士は則ち法令辟禁を学習す。今諸生は今に師せずして古を学び、以て当世を非とし、黔首を惑乱す。丞相臣斯昧死して言う、古者は天下散乱し、之を能く一にするもの莫く、是を以て諸侯並び作し、語は皆古を道いて以て今を害し、虚言を飾りて以て実を乱し、人は其の私学を善しとし、以て上の建立する所を非とす。今皇帝並びに天下を有し、黒白を別ちて一尊を定む。私学して相与に法教に非とし、人令下るを聞けば、則ち各其の学を以て之を議し、入れば則ち心に非とし、出れば則ち巷に議し、主を誇りて以て名と為し、取るを異にして以て高と為し、群下を率いて以て謗を造る。此の如くにして禁ぜざれば、則ち主勢は上に降り、党与は下に成る。之を禁ずる便なり。臣請う、史官秦記に非ざるは皆焼くべし。博士官の職と為さざる所、天下敢えて詩・書・百家の語を蔵する者有らば、悉く守・尉に詣りて雑焼せしむべし。敢えて偶語して詩書する者有らば棄市す。古を以て今を非とする者は族す。吏見知して挙げざる者は同罪とす。令下ること三十日焼かざれば、黥して城旦と為す。去らざる所の者は、医薬卜筮種樹の書なり。若し法令を学ばんと欲する者有らば、吏を以て師と為すべし」と。制して曰く、「可」と。

原文始皇置酒咸陽宮,博士七十人前為壽。仆射周青臣進頌曰:「他時秦地不過千里,賴陛下神靈明聖,平定海內,放逐蠻夷,日月所照,莫不賓服。以諸侯為郡縣,人人自安樂,無戰爭之患,傳之萬世。自上古不及陛下威德。」始皇悅。博士齊人淳于越進曰:「臣聞殷周之王千餘歲,封子弟功臣,自為枝輔。今陛下有海內,而子弟為匹夫,卒有田常、六卿之臣,無輔拂,何以相救哉?事不師古而能長久者,非所聞也。今青臣又面諛以重陛下之過,非忠臣。」始皇下其議。丞相李斯曰:「五帝不相復,三代不相襲,各以治,非其相反,時變異也。今陛下創大業,建萬世之功,固非愚儒所知。且越言乃三代之事,何足法也?異時諸侯并爭,厚招游學。今天下已定,法令出一,百姓當家則力農工,士則學習法令辟禁。今諸生不師今而學古,以非當世,惑亂黔首。丞相臣斯昧死言:古者天下散亂,莫之能一,是以諸侯并作,語皆道古以害今,飾虛言以亂實,人善其所私學,以非上之所建立。今皇帝并有天下,別黑白而定一尊。私學而相與非法教,人聞令下,則各以其學議之,入則心非,出則巷議,夸主以為名,異取以為高,率群下以造謗。如此弗禁,則主勢降乎上,黨與成乎下。禁之便。臣請史官非秦記皆燒之。非博士官所職,天下敢有藏詩、書、百家語者,悉詣守、尉雜燒之。有敢偶語詩書者棄市。以古非今者族。吏見知不舉者與同罪。令下三十日不燒,黥為城旦。所不去者,醫藥卜筮種樹之書。若有欲學法令者,以吏為師。」制曰:「可。」

三十五年、道を除き、道は九原より雲陽に抵り、山を塹り谷を堙め、直ちに之を通ず。ここにおいて始皇帝は咸陽の人多く、先王の宮廷小なるを以て、吾周の文王は豊に都し、武王は鎬に都す、豊鎬の間は帝王の都なりと聞く。乃ち朝宮を渭南上林苑の中に営作す。先ず前殿阿房を作る、東西五百歩、南北五十丈、上には万人を坐することを得、下には五丈の旗を建つることを得。周馳して閣道と為し、殿下より直ちに南山に抵る。南山の顛を表して以て闕と為す。復道を作り、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属け、以て天極閣道の漢を絶ちて営室に抵るを象る。阿房宮未だ成らず、成らば、更に令名を択びて之を名づけんと欲す。宮を阿房に作る、故に天下之を阿房宮と謂う。隠宮徒刑者七十余万人、乃ち分かち作して阿房宮と為し、或いは麗山を作る。北山の石槨を発し、乃ち蜀・荊の地の材を写して皆至る。関中に宮三百を計り、関外四百余。ここにおいて石を東海上朐界の中に立て、以て秦の東門と為す。因りて三万家を麗邑に、五万家を雲陽に徙し、皆復して十歳事せず。

原文三十五年,除道,道九原抵雲陽,塹山堙谷,直通之。於是始皇以為咸陽人多,先王之宮廷小,吾聞周文王都豐,武王都鎬,豐鎬之閒,帝王之都也。乃營作朝宮渭南上林苑中。先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。周馳為閣道,自殿下直抵南山。表南山之顛以為闕。為復道,自阿房渡渭,屬之咸陽,以象天極閣道絕漢抵營室也。阿房宮未成;成,欲更擇令名名之。作宮阿房,故天下謂之阿房宮。隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作麗山。發北山石槨,乃寫蜀、荊地材皆至。關中計宮三百,關外四百餘。於是立石東海上朐界中,以為秦東門。因徙三萬家麗邑,五萬家雲陽,皆復不事十歲。

盧生が始皇帝に説いて曰く、「臣らが芝や奇薬や仙人を求めますが常に遇うことができず、物の類がこれを害するものがあるようです。方術の中に、人主が時に微行して悪鬼を避ければ、悪鬼が避け、真人が至るとあります。人主の居所を人臣が知れば、神に害があります。真人とは、水に入っても濡れず、火に入っても燃えず、雲気を陵ぎ、天地と久長を共にする者です。今、上は天下を治めておられますが、まだ恬倓(安らか)ではありません。願わくは上のおられる宮殿を人に知らせぬようにされ、然る後に不死の薬がおそらく得られるでしょう」と。ここにおいて始皇帝は曰く、「我は真人を慕い、自ら『真人』と称し、『朕』とは称さぬ」と。乃ち咸陽の傍ら二百里の内に宮観二百七十を、複道や甬道で相連ね、帷帳や鐘鼓や美人を充たし、各々案署のままに移徙せしめず。行幸の際、その処を言う者あれば、罪は死とす。始皇帝が梁山宮に幸すと、山上より丞相の車騎の衆を見て、善しとせざりき。中人あるいは丞相に告げ、丞相後に車騎を減らす。始皇帝怒りて曰く、「この中人我が語を泄らせり」と。案問するも服する者なし。この時に当たり、詔して諸々の時に傍らに在りし者を捕え、皆これを殺す。是より後、行幸の在り所を知る者なし。聴事するとき、群臣決事を受くるは、悉く咸陽宮に於いてす。

原文盧生說始皇曰:「臣等求芝奇藥僊者常弗遇,類物有害之者。方中,人主時為微行以辟惡鬼,惡鬼辟,真人至。人主所居而人臣知之,則害於神。真人者,入水不濡,入火不爇,陵雲氣,與天地久長。今上治天下,未能恬倓。願上所居宮毋令人知,然後不死之藥殆可得也。」於是始皇曰:「吾慕真人,自謂『真人』,不稱『朕』。」乃令咸陽之旁二百里內宮觀二百七十復道甬道相連,帷帳鐘鼓美人充之,各案署不移徙。行所幸,有言其處者,罪死。始皇帝幸梁山宮,從山上見丞相車騎眾,弗善也。中人或告丞相,丞相後損車騎。始皇怒曰:「此中人泄吾語。」案問莫服。當是時,詔捕諸時在旁者,皆殺之。自是後莫知行之所在。聽事,群臣受決事,悉於咸陽宮。

侯生と盧生と相与に謀りて曰く、「始皇帝の人となりは、天性剛戾にして自用し、諸侯より起こり、天下を併せ、意を得て欲に従い、以て古より己に及ぶ者なしと為す。専ら獄吏を任じ、獄吏は親幸を得たり。博士は七十人と雖も、ただ備員たるのみで用いられず。丞相諸大臣は皆成事を受け、上に倚りて辨ず。上は刑殺を以て威と為すことを楽しみ、天下は罪を畏れ祿を持ち、敢えて忠を尽くす者なし。上は過ちを聞かずして日に驕り、下は慴伏し謾欺して以て容を取る。秦の法、方術を兼ねて験あらざれば、即ち死す。然るに星気を候う者は三百人に至り、皆良士なれども、畏忌し諛い、敢えて端を言ってその過ちを言わず。天下の事は小大無く皆上に決す。上は衡石を以て書を量るに至り、日夜呈有り、呈に中らざれば休息を得ず。権勢に貪るこの如きに至りては、未だ仙薬を求むべからず」と。ここにおいて乃ち亡去す。始皇帝亡去を聞き、乃ち大いに怒りて曰く、「我前に天下の書の中用せざる者を収めて尽くこれを去る。悉く文学方術士を召して甚だ衆く、以て太平を興さんと欲し、方士は練って以て奇薬を求めんと欲す。今、韓衆の去って報ぜざるを聞き、徐市等の費や巨万を以て計るも、終に薬を得ず、徒らに姦利を相告げて日々聞こゆ。盧生等は我これを尊び賜うこと甚だ厚し、今乃ち我を誹謗し、以て我が不徳を重くす。諸生の咸陽に在る者は、我人をして廉問せしむ。或いは訞言を為して以て黔首を乱す者あり」と。ここにおいて御史をして悉く諸生を案問せしむ。諸生伝相に告引し、乃ち自ら犯禁者四百六十余人を除き、皆これを咸陽に阬い、天下に知らしめ、以て後を懲らす。益々謫を発して辺に徙す。始皇帝の長子扶蘇諫めて曰く、「天下初めて定まり、遠方の黔首未だ集まらず、諸生は皆孔子を誦法す。今、上皆重法を以てこれを縄す。臣天下の安からざるを恐る。唯、上これを察せられんことを」と。始皇帝怒り、扶蘇をして北に蒙恬を上郡に監せしむ。

原文侯生盧生相與謀曰:「始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。上不聞過而日驕,下懾伏謾欺以取容。秦法,不得兼方不驗,輒死。然候星氣者至三百人,皆良士,畏忌諱諛,不敢端言其過。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,未可為求僊藥。」於是乃亡去。始皇聞亡,乃大怒曰:「吾前收天下書不中用者盡去之。悉召文學方術士甚眾,欲以興太平,方士欲練以求奇藥。今聞韓眾去不報,徐市等費以巨萬計,終不得藥,徒姦利相告日聞。盧生等吾尊賜之甚厚,今乃誹謗我,以重吾不德也。諸生在咸陽者,吾使人廉問,或為訞言以亂黔首。」於是使御史悉案問諸生,諸生傳相告引,乃自除犯禁者四百六十餘人,皆阬之咸陽,使天下知之,以懲後。益發謫徙邊。始皇長子扶蘇諫曰:「天下初定,遠方黔首未集,諸生皆誦法孔子,今上皆重法繩之,臣恐天下不安。唯上察之。」始皇怒,使扶蘇北監蒙恬於上郡。

三十六年、熒惑が心宿を守る。墜星が東郡に下り、地に至って石となり、黔首の或る者がその石に刻んで曰く「始皇帝死して地分かる」。始皇帝これを聞き、御史を遣わして逐次問わしむるも、服する者なく、石の傍に居る人を尽く取りてこれを誅し、因ってその石を燔銷す。始皇帝楽しまず、博士に使いて僊真人の詩を作らしめ、及び行く所天下を遊び、令を伝えて楽人に歌弦せしむ。秋、使者が関東より夜に華陰平舒道を過ぐるに、人が璧を持ちて使者を遮り曰く「吾が為に滈池君に遺せ」。因りて言う「今年祖龍死す」。使者その故を問うに、忽ち見えず、その璧を置きて去る。使者璧を奉じて具に以て聞かす。始皇帝黙然として良久し、曰く「山鬼は固より一歳の事を知るに過ぎざるなり」。退きて言う「祖龍とは、人の先なり」。御府に使いて璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡る時に沈めたる璧なり。ここにおいて始皇帝これを卜す。卦に游徙吉を得たり。北河・榆中に三万家を遷す。爵一級を拝す。

原文三十六年,熒惑守心。有墜星下東郡,至地為石,黔首或刻其石曰「始皇帝死而地分」。始皇聞之,遣御史逐問,莫服,盡取石旁居人誅之,因燔銷其石。始皇不樂,使博士為僊真人詩,及行所游天下,傳令樂人歌弦之。秋,使者從關東夜過華陰平舒道,有人持璧遮使者曰:「為吾遺滈池君。」因言曰:「今年祖龍死。」使者問其故,因忽不見,置其璧去。使者奉璧具以聞。始皇默然良久,曰:「山鬼固不過知一歲事也。」退言曰:「祖龍者,人之先也。」使御府視璧,乃二十八年行渡江所沈璧也。於是始皇卜之,卦得游徙吉。遷北河榆中三萬家。拜爵一級。

三十七年十月癸丑、始皇帝出遊す。左丞相斯従い、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従うを請う。上これを許す。十一月、行きて雲夢に至り、九疑山に於いて虞舜を望祀す。江を浮かび下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪しく、乃ち西百二十里を狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻みて頌す。その文に曰く。

原文三十七年十月癸丑,始皇出游。左丞相斯從,右丞相去疾守。少子胡亥愛慕請從,上許之。十一月,行至雲夢,望祀虞舜於九疑山。浮江下,觀籍柯,渡海渚。過丹陽,至錢唐。臨浙江,水波惡,乃西百二十里從狹中渡。上會稽,祭大禹,望于南海,而立石刻頌秦德。其文曰:

皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、遠方を周覧す。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘なり。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らげ、職任を審別し、以て恒常を立てる。六王専倍し、貪戾傲猛にして、衆を率いて自ら彊し。暴虐恣に行い、力を負いて驕り、数たび甲兵を動かす。陰に間使を通じ、以て事を合従し、行い辟方を為す。内に詐謀を飾り、外より侵辺し来たり、遂に禍殃を起こす。義威これを誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆無し。皇帝宇を并せ、万事を兼聴し、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各その名を載す。貴賤并びに通じ、善否前に陳し、隠情有ること靡し。省を飾り義を宣べ、子有りて嫁ぐは、死に倍するも貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫寄豭を為すは、これを殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻逃嫁を為すは、子母を得ず、咸く廉清に化す。大治濯俗し、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵い、和安敦勉し、順令せざる莫し。黔首修絜にして、人則を同じくするを楽み、太平を嘉保す。後法を敬奉し、常に治めて極無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、この石を刻むを請い、光休銘を垂る。

原文皇帝休烈,平一宇內,德惠修長。三十有七年,親巡天下,周覽遠方。遂登會稽,宣省習俗,黔首齋莊。群臣誦功,本原事跡,追首高明。秦聖臨國,始定刑名,顯陳舊章。初平法式,審別職任,以立恒常。六王專倍,貪戾傲猛,率眾自彊。暴虐恣行,負力而驕,數動甲兵。陰通閒使,以事合從,行為辟方。內飾詐謀,外來侵邊,遂起禍殃。義威誅之,殄熄暴悖,亂賊滅亡。聖德廣密,六合之中,被澤無疆。皇帝并宇,兼聽萬事,遠近畢清。運理群物,考驗事實,各載其名。貴賤并通,善否陳前,靡有隱情。飾省宣義,有子而嫁,倍死不貞。防隔內外,禁止淫泆,男女絜誠。夫為寄豭,殺之無罪,男秉義程。妻為逃嫁,子不得母,咸化廉清。大治濯俗,天下承風,蒙被休經。皆遵度軌,和安敦勉,莫不順令。黔首修絜,人樂同則,嘉保太平。後敬奉法,常治無極,輿舟不傾。從臣誦烈,請刻此石,光垂休銘。

還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海に并びて上り、北に至りて瑯邪に至る。方士徐市ら海に入りて神薬を求むるも、数歳得ず、費多く、譴を恐れ、乃ち詐りて曰く「蓬莱の薬は得べし、然れども常に大鮫魚に苦しまるるを以て、故に至るを得ず。願わくは善射を請いて俱にし、見れば則ち連弩を以てこれを射ん」。始皇帝夢に海神と戦う、人の状の如し。占夢に問う。博士曰く「水神は見るべからず、大魚・蛟龍を以て候と為す。今上祷祠備謹なるに、而してこの悪神有り、当に除き去るべく、而して善神は致すべし」。乃ち海に入る者に巨魚を捕らうる具を齎すことを令し、而して自ら連弩を以て大魚の出るを候いてこれを射つ。瑯邪より北に至りて栄成山に至るも、見えず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并びて西す。

原文還過吳,從江乘渡。并海上,北至瑯邪。方士徐市等入海求神藥,數歲不得,費多,恐譴,乃詐曰:「蓬萊藥可得,然常為大鮫魚所苦,故不得至,願請善射與俱,見則以連弩射之。」始皇夢與海神戰,如人狀。問占夢,博士曰:「水神不可見,以大魚蛟龍為候。今上禱祠備謹,而有此惡神,當除去,而善神可致。」乃令入海者齎捕巨魚具,而自以連弩候大魚出射之。自瑯邪北至榮成山,弗見。至之罘,見巨魚,射殺一魚。遂并海西。

平原津に至りて病む。始皇帝は死を言うを悪み、群臣死の事を言う者なし。上病ますます甚だしく、乃ち璽書を作り公子扶蘇に賜いて曰く、「喪に与り咸陽に会して葬れ」と。書すでに封じ、中車府令趙高の符璽の事を行う所に在り、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇帝沙丘の平台に崩ず。丞相斯は上崩ずる在外を為し、諸公子及び天下の変有るを恐れ、乃ち之を秘し、喪を発せず。棺を輼涼車の中に載せ、故に幸せし宦者を参乗と為し、至る所に上食す。百官奏事こと故の如く、宦者輒ち輼涼車の中より其の奏事を可す。独り子胡亥・趙高及び幸せし宦者五六人のみ上死するを知る。趙高は故に嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教え、胡亥私に之を幸す。高乃ち公子胡亥・丞相斯と謀り陰に始皇の封じ賜う所の公子扶蘇に賜う書を破り去り、而して更に詐りて丞相斯の始皇の遺詔を沙丘に受け、子胡亥を立て太子と為すを為す。更に書を作り公子扶蘇・蒙恬に賜い、数えて罪を以てし、(其れ)死を賜う。語は李斯伝に具す。行き、遂に井陘より九原に抵る。暑に会い、上輼車臭く、乃ち従官に詔して車に一石の鮑魚を載せしめ、以て其の臭を乱す。

原文至平原津而病。始皇惡言死,群臣莫敢言死事。上病益甚,乃為璽書賜公子扶蘇曰:「與喪會咸陽而葬。」書已封,在中車府令趙高行符璽事所,未授使者。七月丙寅,始皇崩於沙丘平臺。丞相斯為上崩在外,恐諸公子及天下有變,乃祕之,不發喪。棺載輼涼車中,故幸宦者參乘,所至上食。百官奏事如故,宦者輒從輼涼車中可其奏事。獨子胡亥、趙高及所幸宦者五六人知上死。趙高故嘗教胡亥書及獄律令法事,胡亥私幸之。高乃與公子胡亥、丞相斯陰謀破去始皇所封書賜公子扶蘇者,而更詐為丞相斯受始皇遺詔沙丘,立子胡亥為太子。更為書賜公子扶蘇、蒙恬,數以罪,(其)賜死。語具在李斯傳中。行,遂從井陘抵九原。會暑,上輼車臭,乃詔從官令車載一石鮑魚,以亂其臭。

行き直道より咸陽に至り、喪を発す。太子胡亥位を襲ぎ、二世皇帝と為る。九月、始皇帝を酈山に葬る。始皇帝初め即位し、酈山を穿ち治め、及び天下を并せ、天下の徒送り詣る者七十余万人、三泉を穿ち、銅を下して槨を致し、宮観百官の奇器珍怪徙れ臧めて之に満つ。匠をして機弩の矢を作らしめ、穿ち近くする者有れば輒ち之を射しむ。水銀を以て百川江河大海と為し、機相灌輸し、上は天文を具え、下は地理を具う。人魚の膏を以て燭と為し、度り滅せざる者久しきを計る。二世曰く、「先帝の後宮子有らざる者は、出ずるは宜しからず」と。皆して従死せしめ、死する者甚だ衆し。葬既に已に下り、或る言う工匠機を為し、臧皆之を知る、臧重なれば即ち泄る、と。大事畢り、已に臧め、中羨を閉じ、外羨門を下し、尽く工匠臧者を閉じ、復た出づる者無し。草木を樹えて以て山に象る。

原文行從直道至咸陽,發喪。太子胡亥襲位,為二世皇帝。九月,葬始皇酈山。始皇初即位,穿治酈山,及并天下,天下徒送詣七十餘萬人,穿三泉,下銅而致槨,宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之。令匠作機弩矢,有所穿近者輒射之。以水銀為百川江河大海,機相灌輸,上具天文,下具地理。以人魚膏為燭,度不滅者久之。二世曰:「先帝後宮非有子者,出焉不宜。」皆令從死,死者甚眾。葬既已下,或言工匠為機,臧皆知之,臧重即泄。大事畢,已臧,閉中羨,下外羨門,盡閉工匠臧者,無復出者。樹草木以象山。

二世皇帝元年、年二十一。趙高郎中令と為り、任用して事を為す。二世詔を下し、始皇の寢廟の犠牲及び山川百祀の礼を増す。群臣をして始皇廟を尊ぶを議せしむ。群臣皆頓首して言いて曰く、「古え天子七廟、諸侯五、大夫三、万世と雖も世々軼毀せず。今始皇を極廟と為し、四海の内皆貢職を献じ、犠牲を増し、礼咸く備わり、以て加うる無し。先王の廟或いは西雍に在り、或いは咸陽に在り。天子の儀当に独り酌を奉り祠り始皇廟すべし。襄公已下より軼毀す。置く所凡そ七廟。群臣礼を以て進み祠り、以て始皇廟を尊び帝者の祖廟と為す。皇帝復た自ら『朕』と称す」と。

原文二世皇帝元年,年二十一。趙高為郎中令,任用事。二世下詔,增始皇寢廟犧牲及山川百祀之禮。令群臣議尊始皇廟。群臣皆頓首言曰:「古者天子七廟,諸侯五,大夫三,雖萬世世不軼毀。今始皇為極廟,四海之內皆獻貢職,增犧牲,禮咸備,毋以加。先王廟或在西雍,或在咸陽。天子儀當獨奉酌祠始皇廟。自襄公已下軼毀。所置凡七廟。群臣以禮進祠,以尊始皇廟為帝者祖廟。皇帝復自稱『朕』。」

二世趙高と謀りて曰く、「朕年少、初め即位し、黔首未だ集附せず。先帝郡県を巡行し、以て彊を示し、威海内を服す。今晏然として巡行せずんば、即ち弱きを見え、以て天下を臣けだものする無し」と。春、二世東に郡県を行き、李斯従う。碣石に到り、海に并び、南は会稽に至り、而して尽く始皇の刻する所の刻石に、石の旁に大臣従者の名を著し、以て先帝の成功盛徳を章す。

原文二世與趙高謀曰:「朕年少,初即位,黔首未集附。先帝巡行郡縣,以示彊,威服海內。今晏然不巡行,即見弱,毋以臣畜天下。」春,二世東行郡縣,李斯從。到碣石,并海,南至會稽,而盡刻始皇所立刻石,石旁著大臣從者名,以章先帝成功盛德焉:

遂に遼東に至りて還る。

原文遂至遼東而還。

ここに至り二世は趙高を用い、法令を申し立てた。かくて密かに趙高と謀りて曰く、「大臣服せず、官吏なお強く、及び諸公子必ず我と争わんとす、之を為すに奈何せん」と。高曰く、「臣固より言わんと願うも未だ敢えてせざるなり。先帝の大臣は、皆天下累世の名貴人にして、功労を積み世を以て相伝うること久し。今高は素より小賤、陛下幸いに称挙し、上位に在らしめ、中事を管せしむ。大臣鞅鞅たり、特だ貌を以て臣に従うのみ、其の心実に服せず。今上出ずるに、此の時に因りて郡県の守尉に罪有る者を案じて之を誅せずんば、上は以て威を天下に振い、下は以て上生平の不可と為す所を除去すべし。今の時は文を師とせずして武力に決す、願わくは陛下遂に時に従いて疑うこと毋かれ、即ち群臣謀を及ぼすに及ばず。明主は余民を収挙し、賤者は之を貴し、貧者は之を富まし、遠者は之を近くすれば、則ち上下集まりて国安んず」と。二世曰く、「善し」と。乃ち大臣及び諸公子を誅し行い、罪過を以て少近官三郎に連逮し、立つを得る者無く、而して六公子は杜に於いて戮死す。公子将閭の昆弟三人は内宮に囚われ、其の罪を議すること独り後る。二世使いをして将閭に令して曰く、「公子臣に非ず、罪死に当たる、吏法を致す」と。将閭曰く、「闕廷の礼、吾未だ嘗て敢えて賓賛に従わざる無く、廊廟の位、吾未だ嘗て敢えて節を失わざる無く、命を受け応対するに、吾未だ嘗て敢えて辞を失わざるなり。何をか臣に非ずと謂うや、罪を聞きて死なんことを願う」と。使者曰く、「臣謀に与るを得ず、書を奉じて事に従う」と。将閭乃ち天を仰ぎて大いに天を呼ぶこと三たびし、曰く、「天なるかな、吾罪無し」と。昆弟三人皆涙を流し剣を抜いて自殺す。宗室振恐す。群臣諫むる者は以て誹謗と為し、大吏は禄を持って容を取る。黔首振恐す。

原文於是二世乃遵用趙高,申法令。乃陰與趙高謀曰:「大臣不服,官吏尚彊,及諸公子必與我爭,為之柰何?」高曰:「臣固願言而未敢也。先帝之大臣,皆天下累世名貴人也,積功勞世以相傳久矣。今高素小賤,陛下幸稱舉,令在上位,管中事。大臣鞅鞅,特以貌從臣,其心實不服。今上出,不因此時案郡縣守尉有罪者誅之,上以振威天下,下以除去上生平所不可者。今時不師文而決於武力,願陛下遂從時毋疑,即群臣不及謀。明主收舉餘民,賤者貴之,貧者富之,遠者近之,則上下集而國安矣。」二世曰:「善。」乃行誅大臣及諸公子,以罪過連逮少近官三郎,無得立者,而六公子戮死於杜。公子將閭昆弟三人囚於內宮,議其罪獨後。二世使使令將閭曰:「公子不臣,罪當死,吏致法焉。」將閭曰:「闕廷之禮,吾未嘗敢不從賓贊也;廊廟之位,吾未嘗敢失節也;受命應對,吾未嘗敢失辭也。何謂不臣?願聞罪而死。」使者曰:「臣不得與謀,奉書從事。」將閭乃仰天大呼天者三,曰:「天乎!吾無罪!」昆弟三人皆流涕拔劍自殺。宗室振恐。群臣諫者以為誹謗,大吏持祿取容,黔首振恐。

四月、二世咸陽に還り至りて曰く、「先帝咸陽朝廷小なるを為し、故に阿房宮を営みて室堂と為す。未だ就かず、会に上崩じ、其の作者を罷め、復た土を酈山にす。酈山の事大いに畢りぬ、今阿房宮を釈して就かずんば、則ち是れ先帝の挙事過つを章すなり」と。復た阿房宮を作す。外は四夷を撫し、始皇の計の如くす。尽く其の材士五万人を徴して咸陽を屯衛せしめ、射狗馬禽獣を教えしむ。食すべき者多く、度るに足らず、下郡県に調して菽粟芻稿を転輸せしめ、皆自ら糧食を齎するを令し、咸陽三百里内は其の穀を食うことを得ず。用法益々刻深なり。

原文四月,二世還至咸陽,曰:「先帝為咸陽朝廷小,故營阿房宮為室堂。未就,會上崩,罷其作者,復土酈山。酈山事大畢,今釋阿房宮弗就,則是章先帝舉事過也。」復作阿房宮。外撫四夷,如始皇計。盡徵其材士五萬人為屯衛咸陽,令教射狗馬禽獸。當食者多,度不足,下調郡縣轉輸菽粟芻稿,皆令自齎糧食,咸陽三百里內不得食其穀。用法益刻深。

七月、戍卒陳勝等故荊の地に反し、「張楚」と為す。勝自ら立ちて楚王と為り、陳に居り、諸将を遣わして地を徇わしむ。山東郡県の少年秦吏に苦しみ、皆其の守尉令丞を殺して反し、以て陳涉に応じ、相い立って侯王と為り、合従して西に向かい、名づけて秦を伐つと為す、勝て数うべからず。謁者東方より使いし、反者を以て二世に聞かす。二世怒り、吏に下す。後使者至り、上問う、対えて曰く、「群盗、郡守尉方に逐捕し、今尽く得たり、憂うるに足らず」と。上悦ぶ。武臣自ら立ちて趙王と為り、魏咎は魏王と為り、田儋は斉王と為る。沛公沛に起つ。項梁兵を挙げ会稽郡に会す。

原文七月,戍卒陳勝等反故荊地,為「張楚」。勝自立為楚王,居陳,遣諸將徇地。山東郡縣少年苦秦吏,皆殺其守尉令丞反,以應陳涉,相立為侯王,合從西鄉,名為伐秦,不可勝數也。謁者使東方來,以反者聞二世。二世怒,下吏。後使者至,上問,對曰:「群盜,郡守尉方逐捕,今盡得,不足憂。」上悅。武臣自立為趙王,魏咎為魏王,田儋為齊王。沛公起沛。項梁舉兵會稽郡。

二年冬、陳涉の遣わす所の周章等将として西に戲に至り、兵数十万。二世大いに驚き、群臣と謀りて曰く、「奈何せん」と。少府章邯曰く、「盗已に至り、衆強し、今近県を発するも及ばず。酈山の徒多し、請う之を赦し、兵を授けて以て之を撃たん」と。二世乃ち天下を大赦し、章邯をして将と為し、周章の軍を撃ち破りて走らしめ、遂に章を曹陽に殺す。二世益々長史司馬欣・董翳を遣わして章邯を佐けしめ盗を撃たしめ、陳勝を城父に殺し、項梁を定陶に破り、魏咎を臨済に滅ぼす。楚の地の盗名将已に死し、章邯乃ち北に河を渡り、趙王歇等を鉅鹿に於いて撃つ。

原文二年冬,陳涉所遣周章等將西至戲,兵數十萬。二世大驚,與群臣謀曰:「柰何?」少府章邯曰:「盜已至,眾彊,今發近縣不及矣。酈山徒多,請赦之,授兵以擊之。」二世乃大赦天下,使章邯將,擊破周章軍而走,遂殺章曹陽。二世益遣長史司馬欣、董翳佐章邯擊盜,殺陳勝城父,破項梁定陶,滅魏咎臨濟。楚地盜名將已死,章邯乃北渡河,擊趙王歇等於鉅鹿。

趙高が二世に説いて曰く、「先帝は天下を統治された期間が長かったので、群臣は敢えて非を為さず、邪説を進めることもなかった。今、陛下は年若く、即位されたばかりである。どうして公卿と朝廷で事を決せられようか。事に誤りがあれば、群臣の短を示すことになる。天子は朕と称し、固より声を聞くことはない。」そこで二世は常に禁中に居て、高と諸事を決した。その後、公卿は朝見を得ることが稀となり、盗賊は益々多くなり、関中から兵卒を発して東の盗賊を撃つことが止むことがなかった。右丞相去疾・左丞相斯・将軍馮劫が進み諫めて曰く、「関東に群盗が一斉に起こり、秦は兵を発して誅撃するも、殺し亡くす者は甚だ多いが、なお止まない。盗が多いのは、皆、戍漕転作の事が苦しく、賦税が大きいからである。どうか暫く阿房宮の作事を止め、四辺の戍転を減省されたい。」二世曰く、「吾は韓子の言うところを聞いている。『堯舜は采椽を刮がず、茅茨を翦らず、土塯に飯し、土形に啜り、監門の養いといえども、これよりひくくはない。禹は龍門を鑿ち、大夏を通じ、河の亭水を決して海に放ち、身自ら筑臿を持ち、脛に毛無く、臣虜の労もこれより烈しくはない。』およそ天下を有つことを貴ぶ所以は、恣意極欲を得、主は法を重んじて明らかにし、下は敢えて非を為さず、以て海内を制御するためである。虞・夏の主は、貴く天子たりながら、親しく窮苦の実に処し、以て百姓に殉ずる。何ぞ法に於いて尚ばんや。朕は万乗を尊ぶも、その実が無い。吾は千乗の駕を造り、万乗の属を為し、吾が号名を充たさんと欲する。且つ先帝は諸侯より起こり、天下を兼ね、天下既に定まり、外には四夷を攘いて辺竟を安んじ、宮室を作りて得意を章らかにした。而して君らは先帝の功業につづき有るを見る。今朕が即位して二年の間に、群盗並び起こるに、君はこれを禁ずることができず、又先帝の為されたことを罷めんと欲する。これは上には先帝に報いることなく、次には朕に忠力を尽くさず、何を以て位に在らんや。」去疾・斯・劫を下して吏に付し、他罪を案じて責めた。去疾・劫曰く、「将相は辱しめられず。」自殺した。斯は遂に囚われ、五刑に就いた。

原文趙高說二世曰:「先帝臨制天下久,故群臣不敢為非,進邪說。今陛下富於春秋,初即位,柰何與公卿廷決事?事即有誤,示群臣短也。天子稱朕,固不聞聲。」於是二世常居禁中,與高決諸事。其後公卿希得朝見,盜賊益多,而關中卒發東擊盜者毋已。右丞相去疾、左丞相斯、將軍馮劫進諫曰:「關東群盜并起,秦發兵誅擊,所殺亡甚眾,然猶不止。盜多,皆以戌漕轉作事苦,賦稅大也。請且止阿房宮作者,減省四邊戍轉。」二世曰:「吾聞之韓子曰:『堯舜采椽不刮,茅茨不翦,飯土塯,啜土形,雖監門之養,不觳於此。禹鑿龍門,通大夏,決河亭水,放之海,身自持筑臿,脛毋毛,臣虜之勞不烈於此矣。』凡所為貴有天下者,得肆意極欲,主重明法,下不敢為非,以制御海內矣。夫虞、夏之主,貴為天子,親處窮苦之實,以徇百姓,尚何於法?朕尊萬乘,毋其實,吾欲造千乘之駕,萬乘之屬,充吾號名。且先帝起諸侯,兼天下,天下已定,外攘四夷以安邊竟,作宮室以章得意,而君觀先帝功業有緒。今朕即位二年之閒,群盜并起,君不能禁,又欲罷先帝之所為,是上毋以報先帝,次不為朕盡忠力,何以在位?」下去疾、斯、劫吏,案責他罪。去疾、劫曰:「將相不辱。」自殺。斯卒囚,就五刑。

三年、章邯等がその卒を将いて鉅鹿を囲む。楚の上将軍項羽が楚の卒を将いて鉅鹿を救わんと往く。冬、趙高が丞相となり、遂に李斯を案じてこれを殺した。夏、章邯等は戦いて数しりぞき、二世は人を遣わして邯を譲る。邯恐れ、長史欣を使わして事を請わしむ。趙高は見ず、又信ぜず。欣恐れ、亡去す。高は人をして捕追せしむも及ばず。欣、邯に見えて曰く、「趙高が中で事を用う。将軍に功有りても誅せられ、功無くても誅せられる。」項羽が急に秦軍を撃ち、王離を虜にす。邯等は遂に兵を以て諸侯に降る。八月己亥、趙高乱を為さんと欲し、群臣の従わぬことを恐れ、乃ち先ず験を設け、鹿を執りて二世に献じて曰く、「馬なり。」二世笑いて曰く、「丞相誤れるか。鹿を馬と謂う。」左右に問う。左右或いは黙し、或いは馬と言いて趙高に阿順す。或いは鹿と言う者あり、高は因って陰に諸の鹿と言う者を中して法に当てた。後に群臣皆高を畏る。

原文三年,章邯等將其卒圍鉅鹿,楚上將軍項羽將楚卒往救鉅鹿。冬,趙高為丞相,竟案李斯殺之。夏,章邯等戰數卻,二世使人讓邯,邯恐,使長史欣請事。趙高弗見,又弗信。欣恐,亡去,高使人捕追不及。欣見邯曰:「趙高用事於中,將軍有功亦誅,無功亦誅。」項羽急擊秦軍,虜王離,邯等遂以兵降諸侯。八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:「馬也。」二世笑曰:「丞相誤邪?謂鹿為馬。」問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。

趙高は以前から幾度も「関東の盗賊は何もできません」と言っていたが、項羽が秦の将軍王離らを鉅鹿の城下で捕虜にし進軍してくると、章邯らの軍は幾度も退却し、上書して増援を請うた。燕・趙・齊・楚・韓・魏はいずれも王を立て、関以東はおおむね秦の官吏に背いて諸侯に応じ、諸侯は皆その兵を率いて西を目指した。沛公(劉邦)は数万の兵を率いて武関を屠り、人を遣わして趙高に内通した。趙高は二世皇帝の怒りを恐れ、誅罰が自身に及ぶのを恐れ、病と称して朝見しなかった。二世皇帝は白虎がその左驂馬(左側の副馬)を噛み殺す夢を見て、心が楽しまず、怪しんで夢占いを問うた。卜筮の結果は「涇水が祟りをなしている」と言った。二世皇帝は望夷宮で斎戒し、涇水を祀ろうとし、四頭の白馬を沈めた。使者を遣わして趙高を盗賊の事で責め詰問した。趙高は恐れ、密かにその婿の咸陽令閻楽とその弟の趙成と謀って言った。「上(皇帝)は諫めを聞かず、今事態が急を告げ、禍を我が一族に帰そうとしている。私は上を替え、公子嬰を立て替えようと思う。子嬰は仁愛で倹約、民衆は皆その言葉を信じている。」郎中令を内応とし、大賊が現れたと偽り、閻楽に命じて官吏を召集し兵卒を発し、閻楽の母を追いかけて趙高の屋敷に置かせた。閻楽に将兵千余人を率いさせて望夷宮の殿門に至らせ、衛令仆射を縛り上げて言った。「賊がここに入ったのに、なぜ止めないのか。」衛令は言った。「周囲の兵舎には兵卒を厳重に配置しており、どうして賊が宮中に入れようか。」閻楽はそこで衛令を斬り、まっすぐに将兵を率いて入り、矢を射かけ、郎官や宦官は大いに驚き、逃げる者もいれば戦う者もいたが、戦う者はすぐに殺され、死者は数十人に上った。郎中令は閻楽と共に入り、皇帝の座る帷帳を射た。二世皇帝は怒り、左右を呼んだが、左右は皆慌てふためいて戦おうとしなかった。傍らに宦官一人がいて、侍っていたが逃げ去らなかった。二世皇帝は内に入り、彼に言った。「あなたはどうして早く私に告げなかったのか。ついにこのような事態になってしまった。」宦官は言った。「臣は敢えて言わなかったので、命を全うできました。もし臣が早く言っていたなら、皆誅殺されていたでしょう。どうして今日まで生きられましょうか。」閻楽が前に進み出て二世皇帝を責めて言った。「足下は驕り放恣で、無道に誅殺を行い、天下が共に足下に背いています。足下は自ら計らいなさい。」二世皇帝は言った。「丞相に会うことはできるか。」閻楽は言った。「できません。」二世皇帝は言った。「私は一郡を得て王になりたい。」許されなかった。また言った。「万戸侯になりたい。」許されなかった。言った。「妻子と共に黔首(平民)となり、諸公子と同じようになりたい。」閻楽は言った。「臣は丞相の命を受け、天下のために足下を誅するのです。足下が多く言っても、臣は敢えて報告できません。」兵に手を振って進ませた。二世皇帝は自殺した。

原文高前數言「關東盜毋能為也」,及項羽虜秦將王離等鉅鹿下而前,章邯等軍數卻,上書請益助,燕、趙、齊、楚、韓、魏皆立為王,自關以東,大氐盡畔秦吏應諸侯,諸侯咸率其眾西鄉。沛公將數萬人已屠武關,使人私於高,高恐二世怒,誅及其身,乃謝病不朝見。二世夢白虎齧其左驂馬,殺之,心不樂,怪問占夢。卜曰:「涇水為祟。」二世乃齋於望夷宮,欲祠涇,沈四白馬。使使責讓高以盜賊事。高懼,乃陰與其婿咸陽令閻樂、其弟趙成謀曰:「上不聽諫,今事急,欲歸禍於吾宗。吾欲易置上,更立公子嬰。子嬰仁儉,百姓皆載其言。」使郎中令為內應,詐為有大賊,令樂召吏發卒,追劫樂母置高舍。遣樂將吏卒千餘人至望夷宮殿門,縛衛令仆射,曰:「賊入此,何不止?」衛令曰:「周廬設卒甚謹,安得賊敢入宮?」樂遂斬衛令,直將吏入,行射,郎宦者大驚,或走或格,格者輒死,死者數十人。郎中令與樂俱入,射上幄坐幃。二世怒,召左右,左右皆惶擾不鬬。旁有宦者一人,侍不敢去。二世入內,謂曰:「公何不蚤告我?乃至於此!」宦者曰:「臣不敢言,故得全。使臣蚤言,皆已誅,安得至今?」閻樂前即二世數曰:「足下驕恣,誅殺無道,天下共畔足下,足下其自為計。」二世曰:「丞相可得見否?」樂曰:「不可。」二世曰:「吾願得一郡為王。」弗許。又曰:「願為萬戶侯。」弗許。曰:「願與妻子為黔首,比諸公子。」閻樂曰:「臣受命於丞相,為天下誅足下,足下雖多言,臣不敢報。」麾其兵進。二世自殺。

閻楽は帰って趙高に報告すると、趙高は諸大臣と公子たちをことごとく召集し、二世を誅殺した次第を告げた。言うには、「秦はもと王国であり、始皇帝が天下を君臨したゆえに帝と称した。今や六国がふたたび自立し、秦の領地はますます狭くなった。空名をもって帝と称するのはよろしくない。もとのように王とすべきである。これが妥当である」と。二世の兄の子である公子嬰を立てて秦王とした。黔首の礼をもって二世を杜南の宜春苑に葬った。子嬰に斎戒を命じ、廟に参拝して王璽を受け取らせようとした。斎戒すること五日、子嬰は二人の子と謀って言った、「丞相の高が二世を望夷宮で殺し、群臣に誅されるのを恐れて、義をもって私を立てるふりをしている。私は聞く、趙高は楚と約束し、秦の宗室を滅ぼして関中に王たらんとしていると。今、私に斎戒して廟に参拝させようとするのは、これ廟の中で私を殺そうとするのである。私は病と称して行かず、丞相は必ず自ら来るであろう。来たならばこれを殺そう」と。高は数回にわたり使者を遣わして子嬰を請うたが、子嬰は行かなかった。高は果たして自ら赴き、「宗廟の重事であるのに、王はどうして行かれないのか」と言った。子嬰はついに斎宮で高を刺し殺し、高の家を三族にわたって誅し、咸陽にさらしものとした。子嬰が秦王となって四十六日目、楚の将軍沛公が秦軍を破って武関に入り、ついに覇上に至り、使者を遣わして子嬰に降伏を約させた。子嬰はただちに組を首にかけ、白馬に素車を引かせ、天子の璽符を奉じて軹道の傍らに降った。沛公はついに咸陽に入り、宮室と府庫を封じ、軍を返して覇上に駐屯した。ひと月余り経つと、諸侯の兵が到着し、項籍が従長となり、子嬰および秦の諸公子と宗族を殺した。ついに咸陽を屠り、その宮室を焼き、その子女を虜にし、その珍宝と貨財を収め、諸侯がこれを分け合った。秦を滅ぼした後、それぞれその地を三つに分け、雍王・塞王・翟王と名づけ、これを三秦と号した。項羽は西楚の霸王となり、天下を分けて諸侯に王たらしめることを主命とした。秦はついに滅びた。その後五年にして、天下は漢によって定まった。

原文閻樂歸報趙高,趙高乃悉召諸大臣公子,告以誅二世之狀。曰:「秦故王國,始皇君天下,故稱帝。今六國復自立,秦地益小,乃以空名為帝,不可。宜為王如故,便。」立二世之兄子公子嬰為秦王。以黔首葬二世杜南宜春苑中。令子嬰齋,當廟見,受王璽。齋五日,子嬰與其子二人謀曰:「丞相高殺二世望夷宮,恐群臣誅之,乃詳以義立我。我聞趙高乃與楚約,滅秦宗室而王關中。今使我齋見廟,此欲因廟中殺我。我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」高使人請子嬰數輩,子嬰不行,高果自往,曰:「宗廟重事,王柰何不行?」子嬰遂刺殺高於齋宮,三族高家以徇咸陽。子嬰為秦王四十六日,楚將沛公破秦軍入武關,遂至霸上,使人約降子嬰。子嬰即系頸以組,白馬素車,奉天子璽符,降軹道旁。沛公遂入咸陽,封宮室府庫,還軍霸上。居月餘,諸侯兵至,項籍為從長,殺子嬰及秦諸公子宗族。遂屠咸陽,燒其宮室,虜其子女,收其珍寶貨財,諸侯共分之。滅秦之後,各分其地為三,名曰雍王、塞王、翟王,號曰三秦。項羽為西楚霸王,主命分天下王諸侯,秦竟滅矣。後五年,天下定於漢。

太史公が言う。

原文太史公曰

太史公が言う。秦の先祖の伯翳は、かつて唐虞の際に勲功があり、土地を賜り姓を授かった。殷と夏の間に至って微かに散じた。周の衰えに至り、秦は興り、西垂に邑した。繆公以来、次第に諸侯を蚕食し、ついに始皇帝を成した。始皇帝は自ら功績は五帝を過ぎ、土地の広さは三王にまさると考え、彼らと同等であることを恥じた。ああ善いかな、賈生の推し言うところである。曰く、

原文太史公曰:秦之先伯翳,嘗有勳於唐虞之際,受土賜姓。及殷夏之閒微散。至周之衰,秦興,邑于西垂。自繆公以來,稍蠶食諸侯,竟成始皇。始皇自以為功過五帝,地廣三王,而羞與之侔。善哉乎賈生推言之也!曰:

襄公が立ち、国をけること十二年。初めて西畤を為す。西垂に葬る。文公を生む。

原文襄公立,享國十二年。初為西畤。葬西垂。生文公。

文公が立ち、西垂宮に居る。五十年で死に、西垂に葬る。靜公を生む。

原文文公立,居西垂宮。五十年死,葬西垂。生靜公。

静公は国を享けずして死す。憲公を生む。

原文靜公不享國而死。生憲公。

憲公は国を享けること十二年、西新邑に居す。死し、衙に葬る。武公・徳公・出子を生む。

原文憲公享國十二年,居西新邑。死,葬衙。生武公、德公、出子。

出子は国を享けること六年、西陵に居す。庶長弗忌・威累・参父の三人、賊を率いて出子を鄙衍に賊い、衙に葬る。武公立つ。

原文出子享國六年,居西陵。庶長弗忌、威累、參父三人,率賊賊出子鄙衍,葬衙。武公立。

武公は国を享けること二十年。平陽封宮に居す。宣陽聚の東南に葬る。三庶長その罪に伏す。徳公立つ。

原文武公享國二十年。居平陽封宮。葬宣陽聚東南。三庶長伏其罪。德公立。

徳公は国を享けること二年。雍の大鄭宮に居す。宣公・成公・繆公を生む。陽に葬る。初めて伏し、以てを御ぐ。

原文德公享國二年。居雍大鄭宮。生宣公、成公、繆公。葬陽。初伏,以御蠱。

宣公は位に十二年あった。陽宮に居住した。陽に葬られた。初めて閏月を定めた。

原文宣公享國十二年。居陽宮。葬陽。初志閏月。

成公は位に四年あった。雍の宮に居住した。陽に葬られた。斉が山戎・孤竹を討った。

原文成公享國四年,居雍之宮。葬陽。齊伐山戎、孤竹。

繆公は位に三十九年あった。天子が覇者の地位を認めた。雍に葬られた。繆公は著人を師とした。康公を生んだ。

原文繆公享國三十九年。天子致霸。葬雍。繆公學著人。生康公。

康公は位に十二年あった。雍の高寝に居住した。竘社に葬られた。共公を生んだ。

原文康公享國十二年。居雍高寢。葬竘社。生共公。

共公は位に五年あった。雍の高寝に居住した。康公の南に葬られた。桓公を生んだ。

原文共公享國五年,居雍高寢。葬康公南。生桓公。

桓公は国を享有すること二十七年。雍の太寢に居す。義裏丘の北に葬る。景公を生む。

原文桓公享國二十七年。居雍太寢。葬義裏丘北。生景公。

景公は国を享有すること四十年。雍の高寢に居し、丘裏の南に葬る。畢公を生む。

原文景公享國四十年。居雍高寢,葬丘裏南。生畢公。

畢公は国を享有すること三十六年。車裏の北に葬る。夷公を生む。

原文畢公享國三十六年。葬車裏北。生夷公。

夷公は国を享有せず。死し、左宮に葬る。惠公を生む。

原文夷公不享國。死,葬左宮。生惠公。

惠公は国を享有すること十年。車里(康景)に葬る。悼公を生む。

原文惠公享國十年。葬車里(康景)。生悼公。

悼公は位に十五年あった。僖公を西に葬る。雍に城を築く。剌龔公を生む。

原文悼公享國十五年。葬僖公西。城雍。生剌龔公。

剌龔公は位に三十四年あった。入里に葬る。躁公、懷公を生む。その十年、彗星現る。

原文剌龔公享國三十四年。葬入里。生躁公、懷公。其十年,彗星見。

躁公は位に十四年あった。受寢に居る。悼公の南に葬る。その元年、彗星現る。

原文躁公享國十四年。居受寢。葬悼公南。其元年,彗星見。

懷公は晉より来る。位に四年あった。櫟圉氏に葬る。靈公を生む。諸臣懷公を囲み、懷公自殺す。

原文懷公從晉來。享國四年。葬櫟圉氏。生靈公。諸臣圍懷公,懷公自殺。

肅靈公は、昭子の子なり。涇陽に居る。位に十年あった。悼公の西に葬る。簡公を生む。

原文肅靈公,昭子子也。居涇陽。享國十年。葬悼公西。生簡公。

簡公は晋より来たりて、国を享くること十五年。僖公の西に葬る。恵公を生む。その七年、百姓初めて剣を帯ぶ。

原文簡公從晉來。享國十五年。葬僖公西。生惠公。其七年。百姓初帶劍。

恵公は国を享くること十三年。陵圉に葬る。出公を生む。

原文惠公享國十三年。葬陵圉。生出公。

出公は国を享くること二年。出公自殺し、雍に葬る。

原文出公享國二年。出公自殺,葬雍。

献公は国を享くること二十三年。囂圉に葬る。孝公を生む。

原文獻公享國二十三年。葬囂圉。生孝公。

孝公は国を享くること二十四年。弟圉に葬る。恵文王を生む。その十三年、初めて咸陽に都す。

原文孝公享國二十四年。葬弟圉。生惠文王。其十三年,始都咸陽。

恵文王は国に在位すること二十七年。公陵に葬る。悼武王を生む。

原文惠文王享國二十七年。葬公陵。生悼武王。

悼武王は国に在位すること四年、永陵に葬る。

原文悼武王享國四年,葬永陵。

昭襄王は国に在位すること五十六年。茝陽に葬る。孝文王を生む。

原文昭襄王享國五十六年。葬茝陽。生孝文王。

孝文王は国に在位すること一年。壽陵に葬る。莊襄王を生む。

原文孝文王享國一年。葬壽陵。生莊襄王。

莊襄王は国に在位すること三年。茝陽に葬る。始皇帝を生む。呂不韋が相となる。

原文莊襄王享國三年。葬茝陽。生始皇帝。呂不韋相。

献公が立って七年、初めて市を行ふ。十年、戸籍を作りて相伍す。

原文獻公立七年,初行為市。十年,為戶籍相伍。

孝公が立つこと十六年。時に桃李冬に華く。

原文孝公立十六年。時桃李冬華。

恵文王は生まれて十九年にして立つ。立つこと二年、初めて銭を行ふ。新たに生まれたる嬰児ありて曰く「秦且に王たらん」と。

原文惠文王生十九年而立。立二年,初行錢。有新生嬰兒曰「秦且王」。

悼武王は生まれて十九年にして立つ。立つこと三年、渭水赤くして三日に及ぶ。

原文悼武王生十九年而立。立三年,渭水赤三日。

昭襄王は生まれて十九年にして立つ。立つこと四年、初めて田に阡陌を開く。

原文昭襄王生十九年而立。立四年,初為田開阡陌。

孝文王は生まれて五十三年にして即位した。

原文孝文王生五十三年而立。

莊襄王は生まれて三十二年にして即位した。即位して二年、太原の地を取る。莊襄王元年、大赦を行い、先王の功臣を優遇し、徳を骨肉に厚く施し、恵みを民に布いた。東周が諸侯と謀って秦を攻めようとしたので、秦は相国呂不韋を使わしてこれを誅し、その国をことごとく併合した。秦はその祭祀を絶やさず、陽人の地を周君に賜い、その祭祀を奉ぜしめた。

原文莊襄王生三十二年而立。立二年,取太原地。莊襄王元年,大赦,修先王功臣,施德厚骨肉,布惠於民。東周與諸侯謀秦,秦使相國不韋誅之,盡入其國。秦不絕其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。

始皇帝は国を享有すること三十七年。酈邑に葬る。二世皇帝を生む。始皇帝は生まれて十三年にして即位した。

原文始皇享國三十七年。葬酈邑。生二世皇帝。始皇生十三年而立。

二世皇帝は国を享有すること三年。宜春に葬る。趙高が丞相となり安武侯となる。二世は生まれて十二年にして即位した。

原文二世皇帝享國三年。葬宜春。趙高為丞相安武侯。二世生十二年而立。

右は秦の襄公より二世に至るまで、六百一十年。

原文右秦襄公至二世,六百一十歲。

史記秦始皇本紀の後に記す(班固)

原文記秦始皇本紀後(班固)

孝明皇帝十七年十月十五日乙丑の日に曰く、

原文孝明皇帝十七年十月十五日乙丑,曰:

周の暦は既に移り、仁は母に代わらず。秦は直ちにその位に就き、呂政(始皇)は残虐であった。しかし諸侯十三を以て天下を併せ兼ね、情を極め欲を縦にし、宗親を養い育む。三十七年、兵の加えざる所なく、制作政令は後王に施された。蓋し聖人の威を得、河神は図を授け、狼・狐に拠り、参・伐を蹈み、政を佐けて駆除し、これをあがなって始皇と称した。

原文周歷已移,仁不代母。秦直其位,呂政殘虐。然以諸侯十三,并兼天下,極情縱欲,養育宗親。三十七年,兵無所不加,制作政令,施於後王。蓋得聖人之威,河神授圖,據狼、狐,蹈參、伐,佐政驅除,距之稱始皇。

始皇既に歿し、胡亥は極めて愚かであり、酈山(陵)未だ畢らず、復た阿房を作り、以て前の策を遂げんとした。云う「凡そ天下を有つことを貴ぶ者は、意を肆にし欲を極め、大臣は先君の為したることを罷めんと欲するに至る」と。斯・去疾を誅し、趙高を任用す。痛なるかな言うや。人頭にして畜の鳴くが如し。威あらずして悪を伐たず、篤からずして虚しく亡び、これを距って留まるを得ず、残虐を以て期を促し、形便の国に居るも、猶お存するを得ず。

原文始皇既歿,胡亥極愚,酈山未畢,復作阿房,以遂前策。云「凡所為貴有天下者,肆意極欲,大臣至欲罷先君所為」。誅斯、去疾,任用趙高。痛哉言乎!人頭畜鳴。不威不伐惡,不篤不虛亡,距之不得留,殘虐以促期,雖居形便之國,猶不得存。

子嬰は次を度って嗣ぐを得、玉の冠を戴き、華紱を佩き、車は黄屋、百司に従い、七廟に謁す。小人非位に乗ずれば、恍惚として守りを失わざるは莫く、日々に安きをぬすむも、独り能く長く念い慮りを卻け、父子権を作し、近く戸牖の間に取り、竟に猾臣を誅し、君の為に賊を討つ。高の死したる後、賓婚未だ尽く相労するを得ず、餐未だ咽に下らざるに及ばず、酒未だ脣を濡らさざるに、楚兵已に関中を屠り、真人は霸上にあがり、素車嬰組、その符璽を奉じて、以て帝者に帰す。鄭伯の茅旌鸞刀、厳王退舍す。河決して復たふさぐべからず、魚爛して復た全うすべからず。賈誼・司馬遷曰く「向に嬰に庸主の才有らしめば、僅かに中佐を得、山東乱るるも、秦の地は全うして有つべく、宗廟の祀未だ当に絶つべからず」と。秦の積衰、天下土崩瓦解し、周旦の材有るも、復た其の巧を陳ぶる所無く、而して以て一日の孤を責むるは、誤れるかな。俗に秦始皇は罪悪を起こし、胡亥は極まれりと伝う、其の理を得たり。復た小子を責め、秦の地は全うすべしと云うは、所謂ち時変を通ぜざる者なり。紀季は酅を以てす、春秋名けず。吾秦紀を読み、子嬰の趙高を車裂するに至り、未だ嘗て其の決をたけとせずんばあらず、其の志を憐れむ。嬰の死生の義備われり。

原文子嬰度次得嗣,冠玉冠,佩華紱,車黃屋,從百司,謁七廟。小人乘非位,莫不怳忽失守,偷安日日,獨能長念卻慮,父子作權,近取於戶牖之閒,竟誅猾臣,為君討賊。高死之後,賓婚未得盡相勞,餐未及下咽,酒未及濡脣,楚兵已屠關中,真人翔霸上,素車嬰組,奉其符璽,以歸帝者。鄭伯茅旌鸞刀,嚴王退舍。河決不可復壅,魚爛不可復全。賈誼、司馬遷曰:「向使嬰有庸主之才,僅得中佐,山東雖亂,秦之地可全而有,宗廟之祀未當絕也。」秦之積衰,天下土崩瓦解,雖有周旦之材,無所復陳其巧,而以責一日之孤,誤哉!俗傳秦始皇起罪惡,胡亥極,得其理矣。復責小子,云秦地可全,所謂不通時變者也。紀季以酅,春秋不名。吾讀秦紀,至於子嬰車裂趙高,未嘗不健其決,憐其志。嬰死生之義備矣。