南齊書

卷五十七 列傳第三十八

卷五十七 列傳第三十八

魏虜は、匈奴の種族であり、姓は托跋氏である。晉の永嘉六年、并州刺史劉琨が屠各胡の劉聰に攻撃された時、索頭の猗盧が子の利孫を派遣して兵を率い太原で劉琨を救援し、猗盧は代郡に入って居住し、これも鮮卑と呼ばれた。髪を振り乱し左前に衣を着るので、索頭と呼んだ。

原文魏虜,匈奴種也,姓托跋氏。晉永嘉六年,并州刺史劉琨為屠各胡劉聰所攻,索頭猗盧遣子曰利孫將兵救琨於太原,猗盧入居代郡,亦謂鮮卑。被髮左衽,故呼為索頭。

猗盧の孫の什翼犍は、字あざなを鬱律旃といい、後に陰山に戻って単于となり、匈奴諸部を統率した。太元元年、苻堅が偽并州刺史苻洛を派遣して犍を討伐し、龍庭を破り、犍を捕らえて長安に連れ帰り、住居を建てて、犍に書物の学問を教えた。その部族を分割して雲中等四郡に置き、諸部の主帥は年末に朝廷に入朝し、皆犍に会うことができ、諸部から差し出した税で彼らを養った。

原文猗盧孫什翼犍,字鬱律旃,後還陰山為單于,領匈奴諸部。太元元年,苻堅遣偽并州刺史苻洛伐犍,破龍庭,禽犍還長安,為立宅,教犍書學。分其部黨君雲中等四郡,諸部主帥歲終入朝,并得見犍,差稅諸部以給之。

苻堅が敗れると、子の珪(字は涉圭)は、舅の慕容垂に従って中山を占拠し、後にその部族を統率して帰還し、次第に強大になった。隆安元年、珪は中山で慕容宝を破り、ついに并州を有し、僭称せんしょうして魏と号し、年号を天賜とした。犍を追諡して烈祖文平皇帝とした。珪が死ぬと、道武皇帝と諡し、子の木末が立ち、年号を太常とした。木末が死ぬと、明元皇帝と諡し、子の燾(字は佛狸)が代わって立ち、年号を太平真君とした。宋の元嘉年間、偽太子の晃が大臣の崔氏・寇氏と不和となり、崔・寇が彼を讒言した。玄高道人という者が道術を持ち、晃が七日七夜祈願させると、佛狸は夢の中で祖父と父が共に怒り、手に刃を向けて言うのを見た。「お前はなぜ讒言を信じて、太子を害そうとするのか!」佛狸は驚いて目覚め、偽詔を下して言った。「王者の大業は、継承が最も重要であり、皇太子が後を継ぐのは、歴代の王の旧例である。今後は、事の大小を問わず、必ず太子を経由してから、朕に上奏せよ。」晃は後に佛狸を殺害しようと謀り、殺された。燾が死ぬと、太武皇帝と諡した。晃の子の濬(字は烏雷直勤)を立て、年号を和平とした。晃を追諡して景穆皇帝とした。濬が死ぬと、文成皇帝と諡した。子の弘(字は萬民)が立ち、年号を天安とした。景和九年、偽太子の宏が生まれたので、年号を皇興と改めた。

原文堅敗,子珪,字涉圭,隨舅慕容垂據中山,還領其部,後稍彊盛。隆安元年,珪破慕容寶於中山,遂有并州,僭稱魏,年號天(瑞)〔賜〕。追諡犍烈祖文平皇帝。珪死,諡道武皇帝,子木末立,年號太常,死,諡明元皇帝。子燾,字佛狸代立,年號太平真君。宋元嘉中,偽太子晃與大臣崔氏、寇氏不睦,崔、寇譖之。玄高道人有道術,晃使祈福七日七夜,佛狸夢其祖父竝怒,手刃向之曰:「汝何故信讒,欲害太子!」佛狸驚覺,下偽詔曰:「王者大業,纂承為重,儲宮嗣紹,百王舊例。自今已往,事無巨細,必經太子,然後上聞。」晃後謀殺佛狸見殺。燾死,諡太武皇帝。立晃子濬,字烏雷直勤,年號和平。追諡晃景穆皇帝。濬死,諡文成皇帝。子弘字萬民立,年號天安。景和九年,偽太子宏生,改年為皇興。

什翼珪は初め平城に都を置いたが、依然として水草を追って移動し、城郭はなかった。木末の代になって初めて定住して居住した。佛狸は梁州・黄龍を破り、その住民を移住させ、大規模に城郭と邑を築いた。平城の西を切り取って宮城とし、四隅に楼閣を建て、女墻を設けたが、門には屋根を架けず、城にも堀はなかった。南門の外に二つの土門を立て、その内側に廟を建て、四つの門を開き、それぞれの方角に応じた色とし、全部で五つの廟があり、一世ごとに一間の瓦屋であった。その西に太社を建てた。佛狸の居所である雲母殿など三つの殿のほか、また重層の建物を建て、その上に居住した。飲食の厨房は「阿真厨」と呼ばれ、西にあり、皇后の可孫は常にこの厨房から食物を求めて出した。初め、姚興が塞外の虜である赫連勃勃を安北将軍とし、五部の胡を統率させて大城に駐屯させたが、姚泓が敗れた後、長安に入った。佛狸は勃勃の子の昌を攻め破り、勃勃の娘を娶って皇后とした。義熙年間、仇池公の楊盛が上表して「索虜の勃勃は、匈奴の正統な後胤である」と言ったのがこれである。可孫はかつて妾の一人であった。殿の西に鎧や武器の倉庫の建物が四十余間、殿の北に絹・綿・布・絹の倉庫の土屋が十余間あった。偽太子の宮殿は城の東にあり、これも四門を開き、瓦屋で、四隅に楼閣を建てた。妃や妾の住まいは皆土屋であった。婢や下女は千余人おり、綾や錦を織って販売し、酒を売り、豚や羊を飼い、牛馬を放牧し、野菜を栽培して利益を追求した。太官には八十余りの窖(地下倉庫)があり、一窖に四千斛こくを収め、半分は穀物、半分は米であった。また、吊り下げ式の食器を置く瓦屋が数十間あり、尚方に鉄や木の工作をさせた。その袍衣は、宮内の婢に作らせた。偽太子には別に倉庫があった。

原文什翼珪始都平城,猶逐水草,無城郭,木末始土著居處。佛狸破梁州、黃龍,徙其居民,大築郭邑。截平城西為宮城,四角起樓,女墻,門不施屋,城又無壍。南門外立二土門,內立廟,開四門,各隨方色,凡五廟,一世一閒,瓦屋。其西立太社。佛狸所居雲母等三殿,又立重屋,居其上。飲食廚名「阿真廚」,在西,皇后可孫恒出此廚求食。初,姚興以塞外虜赫連勃勃為安北將軍,領五部胡,屯大城,姚泓敗後,入長安。佛狸攻破勃勃子昌,娶勃勃女為皇后。義熙中,仇池公楊盛表云「索虜勃勃,匈奴正胤」是也。可孫昔妾媵之。殿西鎧仗庫屋四十餘閒,殿北絲綿布絹庫土屋一十餘閒。偽太子宮在城東,亦開四門,瓦屋,四角起樓。妃妾住皆土屋。婢使千餘人,織綾錦販賣,酤酒,養猪羊,牧牛馬,種菜逐利。太官八十餘窖,窖四千斛,半穀半米。又有懸食瓦屋數十閒,置尚方作鐵及木。其袍衣,使宮內婢為〔之〕。偽太子別有倉庫。

その外郭城は宮城の南を巡って築かれ、全て坊に分けられ、坊には巷が開かれていた。大きな坊は四五百家を収容し、小さな坊は六七十家を収容した。毎年南の坊を捜索検査して、奸悪な者を防いだ。城の西南、白登山から七里のところに、山の傍らに別に父祖の廟を建てた。城の西に天を祀る壇があり、四十九体の木人を立てた。長さは一丈いちじょうほどで、白い頭巾、白絹の裙、馬の尾の被り物を着け、壇の上に立ち、常に四月四日に牛馬を殺して祭祀し、盛大に儀仗を並べ、壇の周りを駆け回り、芸能を奏して楽しんだ。城の西三里のところに、石に五経とその国の歴史を刻み、鄴から石虎の文石屋の礎石六十枚を取って来て、いずれも長さ一丈余りあり、これを用いた。

原文其郭城繞宮城南,悉築為坊,坊開巷。坊大者容四五百家,小者六七十家。每南坊搜檢,以備奸巧。城西南去白登山七里,於山邊別立父祖廟。城西有祠天壇,立四十九木人,長丈許,白幘、練裙、馬尾被,立壇上,常以四月四日殺牛馬祭祀,盛陳鹵簿,邊壇奔馳奏伎為樂。城西三里,刻石寫五經及其國記,於鄴取石虎文石屋基六十枚,皆長丈餘,以充用。

国中では、内側の侍従を「直真」、外側の侍従を「烏矮真」、官庁の文書吏を「比德真」、衣類を担ぐ者を「樸大真」、武器を帯びる者を「胡洛真」、通訳を「乞萬真」、門番を「可薄真」、偽の朝廷の駅伝に使う賤しい者を「拂竹真」、諸州の駅伝に使う者を「咸真」、人殺しを「契害真」、主人に代わって出て訴えを受け取る者を「折潰真」、貴人の食事を作る者を「附真」と呼んだ。三公や貴人は、総称して「羊真」と呼んだ。佛狸は三公・太宰・尚書令・僕射・侍中を置き、太子と共に国事を決裁した。殿中尚書は殿内の兵馬と倉庫を管掌し、楽部尚書は伎楽と角力・伍伯を管掌し、駕部尚書は牛馬驢騾を管掌し、南部尚書は南辺の州郡を管掌し、北部尚書は北辺の州郡を管掌した。また、俟懃地何という官があり、尚書に相当し、莫堤は刺史に相当し、郁若は二千石に相当し、受別官は諸侯に相当した。諸曹府には倉庫があり、全て比官を置き、皆に虜(鮮卑)語と漢語に通じさせ、駅伝の伝達に当たらせた。蘭台には中丞御史を置き、城内の事を管掌した。また、九豆和官を置き、宮城三里以内の民戸で諸軍の戍に属さない者は、全てこれに属させた。

原文國中呼內左右為「直真」,外左右為「烏矮真」,曹局文書吏為「比德真」,檐衣人為「樸大真」,帶仗人為「胡洛真」,通事人為「乞萬真」,守門人為「可薄真」,偽臺乘驛賤人為「拂竹真」,諸州乘驛人為「咸真」,殺人者為「契害真」,為主出受辭人為「折潰真」,貴人作食人為「附真」。三公貴人,通謂之「羊真」。佛狸置三公、太宰、尚書令、僕射、侍中,與太子共決國事。殿中尚書知殿內兵馬倉庫,樂部尚書知伎樂及角史伍伯,駕部尚書知牛馬驢騾,南部尚書知南邊州郡,北部尚書知北邊州郡。又有俟懃地何,比尚書;莫堤,比刺史;郁若,比二千石;受別官比諸侯。諸曹府有倉庫,悉置比官,皆使通虜漢語,以為傳驛。蘭臺置中丞御史,知城內事。又置九豆和官,宮城三里內民戶籍不屬諸軍戍者,悉屬之。

その車輿と服飾には、大小の輦があり、いずれも五層で、下に四輪を付け、三二百人がこれを引き、四方に綱を張って、転倒に備えた。軺車には龍の旗を立て、黒を尊んだ。妃や后には雑色の幌を施したが、幢や絡み飾りはなかった。太后が出るときは、婦女が鎧を着て馬に乗り、輦の左右に近づいた。虜の主や后妃が普段行くときは、銀の彫刻を施した羊車に乗り、帷や幔幕を施さず、皆偏って座り、足を垂らして轅の中にいた。殿上でも、足を投げ出して座った。正殿には流蘇の帳を張り、金の博山、龍鳳の朱漆画屏風、織成の幌を設けた。座には毛氈の敷物を敷いた。前に金の香炉、琉璃の鉢、金の椀を置き、様々な食器を盛った。客用には長盤を一尺、御饌用には円盤を一丈の広さに設けた。四輪車を作り、元会の日には、六七十人がこれを引いて殿上に上った。蜡日の追儺や年の終わりには、城門で雄鶏を裂き、葦の縄や桃の木の枝を立て、漢の儀礼と同じようにした。

原文其車服,有大小輦,皆五層,下施四輪,三二百人牽之,四施絙索,備傾倒。軺車建龍旂,尚黑。妃后則施雜綵幰,無幢絡。太后出,則婦女著鎧騎馬近輦左右。虜主及后妃常行,乘銀鏤羊車,不施帷幔,皆偏坐垂腳轅中;在殿上,亦跂據。正殿施流蘇帳,金博山,龍鳳朱漆畫屏風,織成幌。坐施氍毹褥。前施金香鑪,琉璃鉢,金椀,盛雜食器。設客長盤一尺,御饌圓盤廣一丈。為四輪車,元會日,六七十人牽上殿。蜡日逐除,歲盡,城門磔雄雞,葦索桃梗,如漢儀。

佛狸から萬民に至るまで、代々彫刻や装飾が増えていった。正殿の西に土の台を築き、白楼と呼んだ。萬民が禅譲して位を退いた後、よくこの上に遊覧した。台の南にはまた星を伺う楼があった。正殿の西にはまた祠屋があり、琉璃を瓦とした。宮門には少し屋根を覆ったが、まだ重層の楼閣を作ることを知らなかった。共に泥を削って彩色し、金剛力士を描いた。胡の風俗は水を尊び、また黒い龍が絡み合う図を描き、魔除けとした。

原文自佛狸至萬民,世增雕飾。正殿西築土臺,謂之白樓。萬民禪位後,常遊觀其上。臺南又有伺星樓。正殿西又有祠屋,琉璃為瓦。宮門稍覆以屋,猶不知為重樓。竝設削泥采,畫金剛力士。胡俗尚水,又規畫黑龍相盤繞,以為厭勝。

泰始五年、萬民は子の宏に禅譲して位を譲り、自ら太上皇と称した。宏が立ち、年号を延興元年とした。六年に至り、萬民が死に、献文皇帝と諡した。年号を承明元年と改め、この年は元徽四年である。祖母の馮氏は黄龍の人で、国政を補佐した。初め、佛狸の母は漢人で、木末に殺されたため、佛狸は乳母を太后とした。これ以来、太子が立つと、その母を誅殺するようになった。一説には、馮氏はもと江都の人で、佛狸が元嘉二十七年に南侵した時、馮氏を略奪し、濬が妾としたので、ただ一人生き残ったという。翌年の丁巳の歳、年号を太和と改めた。

原文泰始五年,萬民禪位子宏,自稱太上皇。宏立,號延興元年。至六年,萬民死,諡獻文皇帝。改號為承明元年,是歲元徽四年也。祖母馮氏,黃龍人,助治國事。初,佛狸母是漢人,為木末所殺,佛狸以乳母為太后,自此以來,太子立,輒誅其母。一云馮氏本江都人,佛狸元嘉二十七年南侵,略得馮氏,濬以為妾,獨得全焉。明年丁巳歲,改號太和。

宋の明帝の末年、初めて虜(北魏)と和好した。元徽・昇明の時代には、虜の使者が毎年通交した。建元元年は、偽(北魏)の太和三年である。宏(北魏の孝文帝)は太祖(蕭道成)が禅譲を受けたと聞き、その冬、兵を発して丹陽王劉昶を太師とし、司州・豫州の二州を侵犯させた。翌年、詔により諸軍を派遣して北討させた。宏は大将の郁豆眷・叚長命を派遣して寿陽及び鍾離を攻撃させたが、豫州刺史の垣崇祖・右将軍の周盤龍・徐州刺史の崔文仲らに撃破された。

原文宋明帝末年,始與虜和好。元徽昇明之世,虜使歲通。建元元年,偽太和三年也。宏聞太祖受禪,其冬,發眾遣丹陽王劉昶為太師,寇司、豫二州。明年,詔遣眾軍北討。宏遣大將郁豆眷、叚長命攻壽陽及鍾離,為豫州刺史垣崇祖、右將軍周盤龍、徐州刺史崔文仲等所破。

宏はまた偽の南部尚書の托跋らを司州に向かわせ、兵を分けて兖州・青州の境界から出撃させ、十万の兵で朐山を包囲し、戍主の玄元度が城に籠って固守した。青冀二州刺史の盧紹之は子の奐に兵を率いさせてこれを助けた。城中に食糧がなく、紹之は州南の石頭亭に出て駐屯し、海を隔てて糧秣や薪を運搬して城内に供給した。虜は海路を遮断し、岸沿いに攻め寄せたが、ちょうど潮が大きく満ちてきて、虜は水に溺れ、元度は兵を出して奮撃し、大破した。朝廷は軍主の崔霊建・楊法持・房霊民ら一万余人を派遣し、淮水から海に入り、船艦が夜になるとそれぞれ二つの火を掲げたので、虜の兵はそれを見て、南軍が大挙して来たと思い、一斉に敗走した。

原文宏又遣偽南部尚書托跋等向司州,分兵出兖、青界,十萬眾圍朐山,戍主玄元度嬰城固守。青冀二州刺史盧紹之遣子奐領兵助之。城中無食,紹之出頓州南石頭亭,隔海運糧柴供給城內。虜圍斷海道,緣岸攻城,會潮水大至,虜渰溺,元度出兵奮擊,大破之。臺遣軍主崔靈建、楊法持、房靈民萬餘人從淮入海,船艦至夜各舉兩火,虜眾望見,謂是南軍大至,一時奔退。

初め、元度は自ら「腕に封侯の志(痣のようなもの)がある」と言い、宋の時代に世祖(蕭賾)に見せた。当時世祖は東宮にいたが、元度に手紙を書いて「努力して腕上の相を成就せよ」と言った。虜が退いた後、上(武帝)は封爵を加えることを議したが、元度は功を紹之に帰し、紹之もまた譲ったので、ともに沙汰止みとなった。上はそこで紹之を黄門郎に抜擢した。鬱州では石頭亭を平虜亭と呼んだ。紹之は字を子緒といい、范陽の人で、自ら盧諶の玄孫であると言った。宋の大明年間、広陵攻撃に参加し、勲功を上奏した際、紹之は自ら進み出て、上(武帝)は彼を州の治中とし、心腹の任に当たらせた。官は光禄大夫に至った。永明八年に死去した。

原文初,元度自云臂上有封侯志,宋世以示世祖,時世祖在東宮,書與元度曰:「努力成臂上之相也。」虜退,上議加封爵,元度歸功於紹之,紹之又讓,故竝見寢。上乃擢紹之為黃門郎。鬱州呼石頭亭為平虜亭。紹之字子緒,范陽人,自云盧諶玄孫。宋大明中,預攻廣陵,勳上,紹之拔迹自投,上以為州治中,受心腹之任。官至光祿大夫。永明八年,卒。

三年、領軍将軍の李安民・左軍将軍の孫文顕が虜軍と淮陽で戦い、大いにこれを破った。初め、虜の侵寇が来ると、淮水沿いで略奪を働き、江北の住民はかつての仏狸(北魏の太武帝)の時のことを戒めとして、皆驚いて逃走し、制止できなかった。そこで梁山に二軍、南に三軍、慈姥に一軍、洌州に二軍、三山に二軍、白沙洲に一軍、蔡州に五軍、長蘆に三軍、菰浦に二軍、徐浦に一軍を置き、内外すべてに階級と賞賜を班行し、威刑を示した。

原文三年,領軍將軍李安民、左軍將軍孫文顯與虜軍戰於淮陽,大敗之。初,虜寇至,緣淮驅略,江北居民猶懲佛狸時事,皆驚走,不可禁止。乃於梁山置二軍,南置三軍,慈姥置一軍,洌州置二軍,三山置二軍,白沙洲置一軍,蔡州置五軍,長蘆置三軍,菰浦置二軍,徐浦置一軍,內外悉班階賞,以示威刑。

偽の昌黎王馮莎が司州に向かい、荒人(辺境の民)の桓天生が莎に「諸蛮は皆呼応する」と説いた。莎が到着しても、蛮はついに動かなかった。莎は大いに怒り、淮水の辺りで狩猟をして去った。寿春が敗れ、朐山が陥落せず、虜主(孝文帝)は定州に出て、大いに道路を整備し、南進する気配を見せたが、進むことができなかった。そこで偽の梁郡王と謀って言った。「兵を彭城・泗水の間に出しても、もはや戦う意志はない。要は一両戦して帰還することだ。」淮陽で敗れた後、一時的に敗走した。青州・徐州の間の義に赴く民は、先に虜の輸送車を襲撃し、互いに殺し略奪し合い、しばしば南に帰還する者が数千家に及んだ。

原文偽昌黎王馮莎向司州,荒人桓天生說莎云:「諸蠻皆響應。」莎至,蠻竟不動。莎大怒,於淮邊獵而去。及壽春摧敗,朐山不拔,虜主出定州,大治道路,聲欲南行,不敢進。迺與偽梁郡王計曰:「兵出彭、泗間,無復鬬志,要當一兩戰得還歸。」既於淮陽被破,一時奔走。青、徐間赴義民,先是或抄虜運車,更相殺掠,往往得南歸者數千家。

上(武帝)は外征に余裕がなく、虜がすでに敗れたので、かつて威徳を示そうと思い、後軍参軍の車僧朗を北使として派遣した。虜は僧朗に問うて言った。「斉が宋を輔ける日は浅いのに、どうしてすぐに天子の位に登ったのか。」僧朗は言った。「虞・夏は登用され、自ら禅譲を担当した。魏・晋は匡輔し、その子孫に伝えた。どうして二聖(舜・禹)が天子の位を急ぎ、両賢(魏の文帝・晋の武帝)が独善的に謙虚であろうか。時宜はそれぞれ異なり、どうして一つの尺度で測れようか。もし事が宜しければ、己を屈して物事に応じるのである。」虜はまた問うた。「斉主にはどのような功業があるのか。」僧朗は言った。「主上は聖性寛仁で、天識は弘遠である。若い時に宋の文皇(文帝)に器遇され、禁旅に入って参画した。泰始の初め、四方で寇賊が叛き、東では劉子房・張淹を平定し、北では薛索児を討伐し、軍国を兼ねて掌り、豫司の顧命を受けた。宋の桂陽王・建平王の二王が兵を恃んで内侮すると、一麾のもとに殄滅した。蒼梧王(後廃帝)は道に反し徳を敗り、桀・紂を超える過ちがあり、遠く伊尹・霍光に遵い、廃立の事を行った。袁粲・劉秉・沈攸之が同悪相済し、また旄鉞を執って、大いに凶党を平定した。力を合わせて時を輔け、四十余年、夷険を経綸し、十五六年、この功この徳は、物に異議なきと言えよう。」虜はまた問うた。「南国にはもはや斉の地はないのに、どうして斉と封じたのか。」僧朗は言った。「営丘は海に面し、実に大国である。宋朝が土宇を開いた時、呂尚が先に封じられた地であると言った。今、淮海の間に、自ずから青・斉があり、地がないわけではない。」また問うた。「蒼梧王はどうして遂に斬戮を加えられたのか。」僧朗は言った。「蒼梧王は暴虐で、書契に未だ聞いたことがない。武王が紂を斬り、黄鉞に懸けたのは、共に聞くところであり、どうして義を傷つけようか。」昇明年間、北使の殷霊誕・苟昭先が虜にいたが、太祖が即位したと聞き、霊誕は虜の典客に言った。「宋と魏は通好し、憂患を同じくした。宋が今滅亡したのに、魏は相救わない。どうして和親を用いようか。」虜が豫州を侵犯した時、霊誕は劉昶の司馬となることを請うたが、得られなかった。僧朗が北に至ると、虜は彼を霊誕の下に置いた。僧朗は席に立って言った。「霊誕は昔は宋の使者であったが、今は斉の民である。実に魏主が礼をもって処遇されることを望む。」霊誕が言葉を交わすと、遂に互いに憤り罵り合い、虜をからかって言った。「使臣は本朝に節を立てることができず、誠に自ら慙愧する。」劉昶は客の解奉君を賄って、会合で僧朗を刺殺させた。虜はすぐに奉君を捕らえて誅し、僧朗を殯斂し、喪を送って霊誕らとともに南帰させ、厚く贈賻を加えた。世祖が践祚すると、昭先は詳しく啓上して報告し、霊誕は獄に下されて死に、僧朗には散騎侍郎を追贈した。

原文上未遑外略,以虜既摧破,且欲示以威懷,遣後軍參軍車僧朗北使。虜問僧朗曰:「齊輔宋日淺,何故便登天位?」僧朗曰:「虞、夏登庸,親當革禪;魏、晉匡(戰)〔輔〕,貽厥子孫。豈二聖促促於天位,兩賢謙虛以獨善?時宜各異,豈得一揆?苟曰事宜,故屈己應物。」虜又問:「齊主悉有何功業?」僧朗曰:「主上聖性寬仁,天識弘遠。少為宋文皇所器遇,入參禁旅。泰始之初,四方寇叛,東平劉子房、張淹,北討薛索兒,兼掌軍國,豫司顧命。宋桂陽、建平二王阻兵內侮,一麾殄滅。蒼梧王反道敗德,有過桀、紂,遠遵伊、霍,行廢立之事。袁粲、劉秉、沈攸之同惡相濟,又秉旄杖鉞,大定凶黨。戮力佐時,四十餘載,經綸夷險,十五六年,此功此德,可謂物無異議。」虜又問:「南國無復齊土,何故封齊?」僧朗曰:「營丘表海,實為大國。宋朝光啟土宇,謂是呂尚先封。今淮海之間,自有青、齊,非無地也。」又問:「蒼梧何故遂加斬戮?」僧朗曰:「蒼梧暴虐,書契未聞,武王斬紂,懸之黃鉞,共是所聞,何傷於義?」昇明中,北使殷靈誕、苟昭先在虜,聞太祖登極,靈誕謂虜典客曰:「宋魏通好,憂患是同。宋今滅亡,魏不相救,何用和親?」及虜寇豫州,靈誕因請為劉昶司馬,不獲。僧朗至北,虜置之靈誕下,僧朗立席言曰:「靈誕昔是宋使,今成齊民。實希魏主以禮見處。」靈誕交言,遂相忿詈,調虜曰:「使臣不能立節本朝,誠自慙恨。」劉昶賂客解奉君於會刺殺僧朗,虜即收奉君誅之,殯斂僧朗,送喪隨靈誕等南歸,厚加贈賻。世祖踐阼,昭先具以啟聞,靈誕下獄死,贈僧朗散騎侍郎。

永明元年の冬、驍騎将軍の劉纘・前軍将軍の張謨を派遣して虜に使わした。翌年の冬、虜は李道固を派遣して報聘し、世祖は玄武湖で水軍・歩軍を講武し、龍舟に登って引見した。これより毎年使者が往来し、疆場に事がなかった。

原文永明元年冬,遣驍騎將軍劉纘、前軍將軍張謨使虜。明年冬,虜使李道固報聘,世祖於玄武湖水步軍講武,登龍舟引見之。自此歲使往來,疆埸無事。

三年、初めて隣里党にそれぞれ一長を置くことを命じた。五家を隣とし、五隣を里とし、五里を党とした。四年、戸籍を作成した。州郡を分置し、雍州・涼州・秦州・沙州・涇州・華州・岐州・河州・西華州・寧州・陝州・洛州・荊州・郢州・北豫州・東荊州・南豫州・西兗州・東兗州・南徐州・東徐州・青州・斉州・済州の二十五州が河南にあり、相州・懐州・汾州・東雍州・肆州・定州・瀛州・朔州・并州・冀州・幽州・平州・司州の十三州が河北にある。凡そ魏・晋の旧い司・豫・青・兗・冀・并・幽・秦・雍・涼の十州の地と、宋が失った淮北とを合わせて三十八州となった。

原文三年,初令鄰里黨各置一長,五家為隣,五隣為里,五里為黨。四年,造戶籍。分置州郡,雍州、涼州、秦州、沙州、涇州、華州、岐州、河州、西華州、寧州、陝州、洛州、荊州、郢州、北豫州、東荊州、南豫州、西兖州、東兖州、南徐州、東徐州、青州、齊州、濟州二十五州在河南;(湘)〔相〕州、懷州、(秦)〔汾〕州、東雍州、肆州、定州、瀛州、朔州、并州、冀州、幽州、平州、司州十三州在河北。凡分魏、晉舊司、豫、青、兖、冀、并、幽、秦、雍、涼十州地,及宋所失淮北為三十八州矣。

翌年、辺境の民の桓天生が乱を起こし、虜は歩騎一万余人を派遣してこれを助け、比陽に至ったが、征虜将軍の戴僧静らに撃破された。荒人の胡丘生が懸瓠で義兵を起こしたが、虜に攻撃され、戦いに敗れて南に奔った。偽の安南将軍遼東公・平南将軍上谷公がまた舞陰を攻撃したが、舞陰の戍主である輔国将軍の殷公愍が防いでこれを破った。六年、虜はまた兵を派遣して桓天生を助け、輔国将軍の曹虎と戦ったが、隔城で大敗した。

原文明年,邊人桓天生作亂,虜遣步騎萬餘人助之,至比陽,為征虜將軍戴僧靜等所破。荒人胡丘生起義懸瓠,為虜所擊,戰敗南奔。偽安南將軍遼東公、平南將軍上谷公又攻舞陰,舞陰戍主輔國將軍殷公愍拒破之。六年,虜又遣眾助桓天生,與輔國將軍曹虎戰,大敗於隔城。

七年に至り、使者の邢産・侯霊紹を派遣して再び通好した。先に劉纘が再び虜に使わされ、太后の馮氏が喜んで親しくした。馮氏は計略があり、皇誥十八篇を作り、偽の左僕射の李思沖が史臣と称して注解した。この年、馮氏が死んだ。八年、世祖は隔城で捕虜とした二千余人を返還した。

原文至七年,遣使邢產、侯靈紹復通好。先是劉纘再使虜,太后馮氏悅而親之。馮氏有計略,作皇誥十八篇,偽左僕射李思沖稱史臣注解。是歲,馮氏死。八年,世祖還隔城所俘獲二千餘人。

仏狸(太武帝)以来、次第に中華の典制を僭称し、胡人の風俗と国の習俗が入り混じり乱れていた。宏(孝文帝)は談義を理解し、文章を綴ることができ、軽率で果断であり遠大な謀略を持っていた。河北を遊歴して比干の墓に至り、『比干を弔う文』を作って言う、「もし武王(発)でなければ、誰が墓を封じたであろうか?ああ(分土)〔介士〕よ、どうして我に臣従しないのか!」宏は己巳の年に円丘と方沢を立て、三夫人と九嬪を置いた。平城の南に干水があり、定襄の境界から出て海に流れ込み、城から五十里離れており、世に索干都と号した。土気は寒く凝り、風砂が常に起こり、六月に雪が降った。都を洛京に遷すことが議された。

原文佛狸已來,稍僭華典,胡風國俗,雜相揉亂。宏知談義,解屬文,輕果有遠略。遊河北至比干墓,作弔比干文云:「脫非武發,封墓誰因?嗚呼(分土)〔介士〕,胡不我臣!」宏以己巳歲立圓丘、方澤,置三夫人、九嬪。平城南有干水,出定襄堺,流入海,去城五十里,世號為索干都。土氣寒凝,風砂恒起,六月雨雪。議遷都洛京。

九年、使者の李道固と蔣少游を遣わして使節に報いた。少游は機巧に長け、密かに京師の宮殿の模範となる様式を観察させた。清河の崔元祖が世祖に啓上して言った、「少游は臣の外甥で、特に公輸般のような考案の才があります。宋の時代に虜に陥り、大匠の官に処せられました。今、副使として、必ずや宮闕を模範としようとしています。どうして氈郷の鄙びた者が、天宮を象取することを許せましょうか。臣はしばらく少游を留め、使者の主のみに返命させるとよいと思います。」世祖は和親通交の意に反するとして、許さなかった。少游は安楽の人である。虜の宮室制度は、皆彼から出たものである。

原文九年,遣使李道固、蔣少游報使。少游有機巧,密令觀京師宮殿楷式。清河崔元祖啟世祖曰:「少游,臣之外甥,特有公輸之思。宋世陷虜,處以大匠之官。今為副使,必欲模範宮闕。豈可令氈鄉之鄙,取象天宮?臣謂且留少游,令使主反命。」世祖以非和通意,不許。少游,安樂人。虜宮室制度,皆從其出。

初め、仏狸が長安で羯胡を討ち、道人(僧侶)をほぼ皆殺しにした。元嘉の南寇の時、道人を捕らえ、鉄籠に入れた。後に仏狸は悪疾を患い、これ以来仏教を畏敬し、塔寺や仏塔を建立した。宏の父の弘(献文帝)が禅譲した後、黄冠を戴き素服を着て、戒律を守り経典を誦し、石窟寺に住んだ。宏の太和三年、道人の法秀が苟児王の阿辱瑰王らと謀反を企て、事が発覚し、法秀を囚え、籠頭と鉄鎖を加えたが、理由もなく自ら解脱した。虜は彼の頸骨を穿ち、呪わせて言った、「もしまた神があるならば、肉を穿つことが入らないようにさせよ。」遂に穿って殉じさせ、三日にして死んだ。偽の咸陽王はまた道人を皆殺しにしようとしたが、太后の馮氏が許さなかった。宏は特に精誠を込めて信じ、義理を粗く渉猟し、宮殿内に仏塔を立てた。

原文初,佛狸討羯胡於長安,殺道人且盡。及元嘉南寇,獲道人,以鐵籠盛之。後佛狸感惡疾,自是敬畏佛教,立塔寺浮圖。宏父弘禪位後,黃冠素服,持戒誦經,居石窟寺。宏太和三年,道人法秀與苟兒王阿辱瑰王等謀反,事覺,囚法秀,加以籠頭鐵鏁,無故自解脫,虜穿其頸骨,使呪之曰:「若復有神,當令穿肉不入。」遂穿而殉之,三日乃死。偽咸陽王復欲盡殺道人,太后馮氏不許。宏尤精信,粗涉義理,宮殿內立浮圖。

宏は既に古い洛陽を経て、この年に偽の詔を尚書の思慎に下して言った、「天が覆い地が載せる教化は、必ず四気がその功を運び、太陽や月もまた五星がその輝きを助けねばならない。仰ぎ思うに聖母(馮太后)は、叡智の識見は天より授かり、業績は遠古を超えて高く、典範を詳らかに稽え、皇度を日々新たにしようとされた。図らずも罪逆が禍を招き、急に窮罰に遭われ、その恩の極まりなきを追慕しても、永遠に及ぶことはない。先の旨に従い、明堂の様式を造るよう勅した。卿の制定した体制は天地四方を含み、事は中古を超え、道理は円満で義は備わり、千載にわたって軌範とすべきである。まことにこれは世に応ずる材であり、先に固めた器である。群臣がその模型を見て、皆一様に速やかに造ることを望んだが、朕は寡昧くらながらも、盛んな礼制を造ろうと思う。卿は即ち今年、宮城の造作を停め、この構えを営建し、皇代の奇制を興し、遠くは先志を成し遂げ、近くは朕の思いに副うようにせよ。」また詔して公卿に刑律を参酌して定めさせた。また詔して臘前の儺を廃し、年に一度の儺のみとした。また詔して言った、「季冬の朝賀は、典拠となる成文がなく、袴褶を用いることは礼敬の謂いではない。もし寒朝服を置くならば、煩わしさと濁りをなすだけである。今より小歳の賀を罷め、歳初の一賀のみとする。」また詔して言った、「王爵は庶姓が僭称すべきではなく、伯の号は五等の常の序列である。烈祖(道武帝)の子孫は、相変わらず王爵のままとし、その他の王は皆公とし、〔公〕は侯に転じ、侯は即ち伯とし、子と男は旧のままとする。名は本来のものより易かわっても、品第は昔と異ならない。公は第一品、侯は第二品、伯は第三品、子は第四品、男は第五品とする。」

原文宏既經古洛,是歲下偽詔尚書思慎曰:「夫覆載垂化,必由四氣運其功;曦曜望舒,亦須五星助其暉。仰惟聖母,睿識自天,業高曠古,將稽詳典範,日新皇度。不圖罪逆招禍,奄丁窮罰,追惟罔極,永無逮及。思遵先旨,勑造明堂之樣。卿所制體含六合,事越中古,理圓義備,可軌之千載。信是應世之材,先固之器也。羣臣瞻見模樣,莫不僉然欲速造,朕以寡昧,亦思造盛禮。卿可即於今歲停宮城之作,營建此構,興皇代之奇制,遠成先志,近副朕懷。」又詔公卿參定刑律。又詔罷臈前儺,唯年一儺。又詔:「季冬朝賀,典無成文,以袴褶事非禮敬之謂,若置寒朝服,徒成煩濁,自今罷小歲賀,歲初一賀。」又詔:「王爵非庶姓所僭,伯號是五等常秩。烈祖之冑,仍本王爵,其餘王皆為公,〔公〕轉為侯,侯即為伯,子男如舊。雖名易於本,而品不異昔。公第一品,侯第二品,伯第三品,子第四品,男第五品。」

十年、上(武帝)は司徒参軍の蕭琛と范雲を北使として遣わした。宏が西郊で行ったのは、以前に天壇を祀った場所である。宏は偽の公卿と共に二十余騎で戎服を着て壇を巡り、宏は一周、公卿は七周し、これを蹋壇と言った。翌日、また戎服を着て壇に登り天を祀り、宏はまた三周、公卿は七周し、これを繞天と言った。縄を交差させて絡ませ、木の枝を紐で結び、青い繒で覆ったもので、形は平らな円形で、下に百人が座れる容量があり、これを「繖」と言い、一説に「百子帳」とも言う。この下で宴をし休息した。次に祠廟と政務を布く明堂を祀り、皆朝廷の使人を引いて観覧させた。使者が来る度に、宏は自ら応接し、言葉の意味を述べた。非常に斉の人を重んじ、常に臣下に言った、「江南には良い臣が多い。」偽の侍臣の李元凱が答えて言った、「江南には良い臣が多いので、一年ごとに主が替わります。江北には良い臣がいないので、百年に一度主が替わります。」宏は大いに慚じ、元凱を雍州長史に出したが、間もなく召し戻して復職させた。

原文十年,上遣司徒參軍蕭琛、范雲北使。宏西郊,即前祠天壇處也。宏與偽公卿從二十餘騎戎服繞壇,宏一周,公卿七匝,謂之蹋壇。明日,復戎服登壇祠天,宏又繞三匝,公卿七匝,謂之繞天。以繩相交絡,紐木枝棖,覆以青繒,形制平圓,下容百人坐,謂之為「繖」,一云「百子帳」也。於此下宴息。次祠廟及布政明堂,皆引朝廷使人觀視。每使至,宏親相應接,申以言義。甚重齊人,常謂其臣下曰:「江南多好臣。」偽侍臣李元凱對曰:「江南多好臣,歲一易主;江北無好臣,而百年一主。」宏大慙,出元凱為雍州長史,俄召復職。

世祖(武帝)の初め、白下を治め、人に言った、「我はこの城を上頓の地としたい。」後に石頭で(霊)〔露〕車三千乗を造り、歩兵で彭城を取ろうとし、その形跡は頗る著しかった。先に八年、北使の顔幼明と劉思斅が返命した時、偽の南部尚書の李思沖が言った、「二国の和は、民を庇うことに義がある。聞くところによると南朝は大いに舟車を造り、淮・泗を侵そうとしているという。真心を推して互いに期するのに、どうしてこのようであるべきか?」幼明は言った、「主上は正に天下に大信を弘め、臣妾を失いません。既に和睦した以上、どうして二心を持つことがありましょう。国境の言葉は、ほとんど信じるに足りません。かつ朝廷がもし必ず(恭恕)〔赫怒〕し、守りを外に置くとしても、また淮の水辺に近づくことはありません。」思沖は言った、「我が国の強さをもって、淮東を経略すれば、どうして海東の岳を蕩平せずにいられましょうか、政は信誓に存するだけです。かつ和好が既に結ばれた以上、どうしてまた信がないことがありましょうか。昔、華元と子反は、戦伐の際にさえ、尚も誠をもって相告げることができました。この心意気は大いに慕わしいものです。」幼明は言った、「卿には子反の急がまだなく、どうして床に登る請いを求めるのですか?」

原文世祖初,治白下,謂人曰:「我欲以此城為上頓處。」後於石頭造(靈)〔露〕車三千乘,欲步道取彭城,形迹頗著。先是八年北使顏幼明、劉思斅反命,偽南部尚書李思沖曰:「二國之和,義在庇民。如聞南朝大造舟車,欲侵淮、泗,推心相期,何應如此?」幼明曰:「主上方弘大信於天下,不失臣妾。既與輯和,何容二三其德?壃埸之言,差不足信。且朝廷若必(恭恕)〔赫怒〕,使守在外,亦不近相淮濆。」思沖曰:「我國之彊,經略淮東,何患不蕩海東岳,政存於信誓耳。且和好既結,豈可復有不信?昔華元、子反,戰伐之際,尚能以誠相告,此意良慕也。」幼明曰:「卿未有子反之急,詎求登床之請?」

この後、宏もまた徐・豫を南侵しようとし、淮・泗の間に馬の秣を大量に積んだ。十一年、露布を発し併せて上書し、南寇するつもりであると称した。世祖は揚州・徐州の民丁を発動し、広く募兵を設けた。北地の人支酉が、数千人を集め、長安城北の西山で起義した。使者を遣わして梁州刺史の陰智伯に告げた。秦州の人王度人が起義して酉に応じ、偽刺史の劉藻を攻め捕らえ、秦・雍の間の七州の民は皆響き震え、衆は十万に至り、各自が壁を保ち、朝廷がその兵を救うのを望んだ。宏は弟の偽河南王の幹と尚書の盧陽烏を遣わして秦・雍の義軍を撃たせ、幹は大敗した。酉は迎え撃ち、咸陽北の濁谷まで進み、偽司空の長洛王の繆老生を包囲し、合戦してまた大いにこれを破り、老生は逃げて長安に戻った。梁州刺史の陰智伯は軍主の席徳仁と張弘林ら数千人を遣わして酉らを応接し、長安に向かって進軍し、行く所皆靡いた。

原文是後宏亦欲南侵徐、豫,於淮、泗間大積馬蒭。十一年,遣露布并上書,稱當南寇。世祖發揚、徐州民丁,廣設召募。北地人支酉,聚數千人,於長安城北西山起義。遣使告梁州刺史陰智伯。秦州人王度人起義應酉,攻獲偽刺史劉藻,秦、雍間七州民皆響震,眾至十萬,各自保壁,望朝廷救其兵。宏遣弟偽河南王幹、尚書盧陽烏擊秦、雍義軍,幹大敗。酉迎戰,進至咸陽北濁谷,圍偽司空長洛王繆老生,合戰,又大破之,老生走還長安。梁州刺史陰智伯遣軍主席德仁、張弘林等數千人應接酉等,進向長安,所至皆靡。

ちょうど世祖が崩御すると、宏は関中が危急であると聞き、喪に服することを聞いて師を退くと称した。太和十七年八月、使持節・安南大将軍・都督徐青斉三州諸軍事・南中郎将・徐州刺史・広陵侯府長史・帯淮陽太守の鹿樹生が斉の兖州府長史府に移書して言った、「行在所の尚書符騰の詔を奉じた、『皇師は雷の如く挙がり、旗を揺るがして南を指し、江の祲気を清めんと誓い、衡山の靄を廓清せんと志す。去月下旬をもって、河洛に渡り駐屯した。前に遣わした使者の邢巒らが至り、彼に大喪(武帝崩御)あることを審らかに知った。春秋の義により、喪を聞いて伐つことを止める。ここに有司に勅し、鑾駕を止め車を停め、華陽で馬を休め、嵩山の北で戈を収める。便ち周の制に始めて経営し、中区に光り住まい、皇基を無窮に永くし、盛業を万祀に恢弘する。(辰)〔宸〕居は重ねて正しく、鴻化は新たに増し、四海は休慶を承け、銘慶せざるはない。』故に以て示すこと律令の如し。」併せて使者を遣わして国喪を弔問した。偽大将の楊大眼と張聰明ら数万人を遣わして酉を攻め、酉と広(王広か)らは皆殺害された。

原文會世祖崩,宏聞關中危急,乃稱聞喪退師。太和十七年八月,使持節、安南大將軍、都督徐青齊三州諸軍事、南中郎將、徐州刺史、廣陵侯府長史、帶淮陽太守鹿樹生移齊兖州府長史府:「奉被行所尚書符騰詔:『皇師雷舉,搖旆南指,誓清江祲,志廓衡靄。以去月下旬,濟次河洛。會前使人邢巒等至,審知彼有大艾。以春秋之義,聞喪寢伐。爰勑有司,輟鑾止軔,休馬華陽,戢戈嵩北。便肇經周制,光宅中區,永皇基于無窮,恢盛業乎萬祀。(辰)〔宸〕居重正,鴻化增新,四海承休,莫不銘慶。』故以往示如律令。」并遣使弔國諱。遣偽大將楊大眼、張聰明等數萬人攻酉,酉、廣等竝見殺。

隆昌元年、司徒参軍の劉斅と車騎参軍の沈宏を使者として派遣し、北朝に返礼の使者として赴かせた。沈宏は字を玄覧と称した。その夏、北虜の平北将軍魯直清が軍勢を率いて降伏したので、彼を督洛州軍事に任じ、平戎校尉・征虜将軍・洛州刺史を兼任させた。この年、元宏(北魏孝文帝)は都を洛陽に移し、姓を元氏に改めた。初め、匈奴の女性で名を托跋という者が李陵に嫁いだ。胡族の習俗では母の名を姓とするため、北虜は李陵の子孫である。北虜はこれを非常に忌み嫌い、自分たちが李陵の子孫だと言う者があれば、すぐに殺害した。この時になってようやく姓を改めたのである。

原文隆昌元年,遣司徒參軍劉斅、車騎參軍沈宏報使至北。宏稱字玄覽。其夏,虜平北將軍魯直清率眾降,以為督洛州軍事,領平戎校尉、征虜將軍、洛州刺史。是歲,宏徙都洛陽,改姓元氏。初,匈奴女名托跋,妻李陵,胡俗以母名為姓,故虜為李陵之後,虜甚諱之,有言其是陵後者,輒見殺,至是乃改姓焉。

元宏は高宗(明帝蕭鸞)が正統な手続きを経ずに即位したと聞き、都を移したばかりでもあり、さらに大いに威力を示そうとした。この冬、自ら大軍を率いて豫州・徐州・司州・梁州の四州に分かれて侵攻した。偽荊州刺史の薛真度と尚書の郗祁阿婆を派遣して南陽から出撃させ、沙堘に向かわせ、堡塁を築き溝を掘ったが、南陽太守の房伯玉と新野太守の劉思忌に撃破された。

原文宏聞高宗踐阼非正,既新移都,兼欲大示威力。是冬,自率大眾分寇豫、徐、司、梁四州。遣偽荊州刺史薛真度、尚書郗祁阿婆出南陽,向沙堨,築壘開溝,為南陽太守房伯玉、新野太守劉思忌所破。

建武二年の春、高宗は鎮南将軍の王広之を司州から、右僕射の沈文季を豫州から、左衛将軍の崔慧景を徐州から出撃させた。元宏は自ら軍勢を率いて寿陽に至った。軍中には黒い氈で作った行殿があり、二十人が座れる広さで、輦の周囲には皆、三郎の曷剌真がおり、矛には白い真の毦(飾り)が多く、鉄騎が群れをなし前後につながっていた。歩兵は皆、烏(黒)の楯と矛を持ち、黒い蝦蟆幡(旗)で連なっていた。牛車や驢・駱駝が軍需物資や妓女を運び、およそ三十万人であった。城を攻めず、八公山に登り、詩を賦して去った。別働隊で鍾離城を包囲したが、徐州刺史の蕭惠休と輔国将軍の申希祖が防戦し、兵を出して奮戦したため、元宏の軍は敗北し、多くが淮水に投身して死んだ。そこで軍を分けて邵陽州を占拠し、柵を設けて水路を遮断し、挟み撃ちにするように二つの城を築いた。右衛将軍の蕭坦之が軍主の裴叔業を派遣して二城を攻撃し、これを陥落させた。蕭惠休はまた人を募って出撃させ、北虜の攻城車を焼き払った。北虜は力尽きて攻略できなかった。

原文建武二年春,高宗遣鎮南將軍王廣之出司州,右僕射沈文季出豫州,左衞將軍崔慧景出徐州。宏自率眾至壽陽,軍中有黑氈行殿,容二十人坐,輦邊皆三郎曷剌真,槊多白真毦,鐵騎為羣,前後相接。步軍皆烏楯槊,綴接以黑蝦蟆幡。牛車及驢駱駞載軍資妓女,三十許萬人。不攻城,登八公山,賦詩而去。別圍鍾離城,徐州刺史蕭惠休、輔國將軍申希祖拒守,出兵奮擊,宏眾敗,多赴淮死。乃分軍據邵陽州,柵斷水路,夾築二城。右衞將軍蕭坦之遣軍主裴叔業攻二城,拔之。惠休又募人出燒虜攻城車,虜力竭不能剋。

王奐が誅殺された時、その子の王粛が北虜に奔った。元宏は彼を鎮南将軍・南豫州刺史に任じた。王粛と劉昶に二十万と号する軍勢を率いさせ、義陽を包囲させた。司州刺史の蕭誕が防戦した。北虜は三重の包囲塹壕と柵を築き、住民の家屋を焼き尽くし、力を合わせて城を攻めた。城内では楯を背負って立っていた。王広之が救援の都督となり、北虜は三万余人を派遣して太子右率の蕭季敞を下梁で迎え撃ち、蕭季敞は戦いに利あらず。司州城内が危急を告げると、王広之は軍主で黄門侍郎の梁王に間道を進ませ先鋒とし、太子右率の蕭誄・輔国将軍の徐玄慶・荊州軍主の魯休烈とともに賢首山を占拠し、北虜の不意を突いた。城内で援軍が来たのを見て、蕭誕は長史の王伯瑜と軍主の崔恭祖を派遣して出撃させ北虜の柵を攻撃し、風に乗じて火を放った。梁王らの諸軍が外から攻撃し、劉昶と王粛は包囲を解いて退却し、追撃してこれを撃破した。

原文王奐之誅,子肅奔虜,宏以為鎮南將軍、南豫州刺史。遣肅與劉昶號二十萬眾,圍義陽。司州刺史蕭誕拒戰,虜築圍壍柵三重,燒居民淨盡,并力攻城,城中負楯而立。王廣之都督救援,虜遣三萬餘人逆攻太子右率蕭季敞於下梁,季敞戰不利。司州城內告急,王廣之遣軍主黃門侍郎梁王閒道先進,與太子右率蕭誄、輔國將軍徐玄慶、荊州軍主魯休烈據賢首山,出虜不備。城內見援軍至,蕭誕遣長史王伯瑜及軍主崔恭祖出攻虜柵,因風放火,梁王等眾軍自外擊之,昶、肅棄圍引退,追擊破之。

輔国将軍の桓和が西陰平から出撃した。偽魯郡公で郯城の戍主である帯莫樓と、東海太守の江道僧が路傍に伏兵を設け、桓和がこれと交戦し、大いにこれを破った。青州・徐州の民で降伏する者が百余家あった。青・冀二州刺史の王洪範は軍主の崔延を派遣して北虜の紀城を攻撃し、これを陥落させた。元宏は先にまた偽尚書の盧陽烏と華州刺史の韋霊智を派遣して赭陽城を攻撃させたが、北襄城太守の成公期が防戦した。北虜は百余日にわたって城を攻め、鉤衝(攻城兵器)を設置して昼夜を問わず攻撃したが、成公期が殺傷した者は数千人に及んだ。朝廷(南斉)はまた軍主の垣歴生と蔡道貴を救援に派遣し、盧陽烏らは退却し、官軍は追撃してこれを破った。夏、北虜はまた司州の櫟城の二つの戍を攻めたが、戍主の魏僧岷と朱僧起が防戦してこれを破った。

原文輔國將軍桓和出西陰平,偽魯郡公郯城戍主帶莫樓、為東海太守江道僧設伏路側,和與合戰,大敗之。青、徐民降者百餘家。青、冀二州刺史王洪範遣軍主崔延攻虜紀城,竝拔之。宏先又遣偽尚書盧陽烏、華州刺史韋靈智攻赭陽城,北襄城太守成公期拒守。虜攻城百餘日,設以鉤衝,不捨晝夜,期所殺傷數千人。臺又遣軍主垣歷生、蔡道貴救援,陽烏等退,官軍追擊破之。夏,虜又攻司州櫟城二戍,戍主魏僧岷、朱僧起拒敗之。

偽安南将軍・梁州刺史の魏郡王元英が十万余の軍勢を率いて斜谷を通り、南鄭を侵攻した。梁州刺史の蕭懿は軍主の姜山安・趙超宗ら数軍一万余人を派遣し、角弩・白馬・沮水に分かれて占拠し防戦したが、大敗した。元英は進軍して南鄭を包囲し、土山や衝車を用いて昼夜を問わず攻撃を止めなかった。蕭懿は東方からの兵二千余人を率いて固守し防戦し、攻撃を次々と撃退した。元英は春から夏にかけて六十余日城を攻めたが陥落せず、死傷者は甚だ多く、軍中の食糧が尽き、麹を搗いて食べ、野菜の葉は千銭の値段がついた。蕭懿は先に軍主の韓嵩らを派遣して獠を征討させていたが、その軍を返して州城を救援させ、黄牛川に至ったところで北虜に破られた。蕭懿は氐族の楊元秀を仇池に帰らせ、氐族を説いて兵を起こし北虜の補給路を断たせた。氐族はすぐに軍勢を挙げて北虜の歴城・睪蘭・駱谷・仇池・平洛・蘇勒の六つの戍を攻め破った。偽尚書で北梁州刺史の辛黒末は戦死した。元英は軍副の仇池公楊霊珍を派遣して泥公山を占拠させた。武興城主の楊集始は弟の楊集朗を派遣し、帰国した氐族の楊馥之および義軍主の徐曜甫とともに黄亘で迎え撃ち、大破して敗走させた。この時、梁州の土豪の范凝と梁季羣が自宅で元英を招いて宴会を開き、伏兵を設けて元英を殺そうとしたが、事が発覚した。元英は梁季羣を捕らえて殺し、范凝は逃げ去った。元英は濁水に退いて守りを固めたが、氐族の軍勢が盛んであると聞き、楊霊珍とともに再び斜谷に退却した。折しも大雨が降り、軍馬は泥にまみれ、竹を切って米を煮、馬上で松明を持ち炊事して食べた。元英が下辨に至ると、楊霊珍の弟の婆羅阿卜珍が反乱を起こし、襲撃した。元英の軍勢は散乱し、元英の頬に矢が当たった。偽陵江将軍の悦楊生が鉄騎を率いて死に物狂いで戦い、彼を救い出し、難を免れた。梁州・漢中は平定された。武都太守の杜霊瑗・奮武将軍の望法憘・寧朔将軍の望法泰・州治中の皇甫耽はいずれも北虜に抗戦して戦死した。杜霊瑗と望法憘は羽林監を、望法泰は積射将軍を追贈された。

原文偽安南將軍、梁州刺史魏郡王元英十萬餘人通斜谷,寇南鄭。梁州刺史蕭懿遣軍主姜山安、趙超宗等數軍萬餘人,分據角弩、白馬、沮水拒戰,大敗。英進圍南鄭,土山衝車,晝夜不息。懿率東從兵二千餘人固守拒戰,隨手摧卻。英攻城自春至夏六十餘日不下,死傷甚眾,軍中糧盡,擣麴為食,畜菜葉直千錢。懿先遣軍主韓嵩等征獠,回軍援州城,至黃牛川,為虜所破。懿遣氐人楊元秀還仇池,說氐起兵斷虜運道,氐即舉眾攻破虜歷城、睪蘭、駱谷、仇池、平洛、蘇勒六戍。偽尚書北梁州刺史辛黑末戰死。英遣軍副仇池公楊靈珍據泥公山,武興城主楊集始遣弟集朗與歸國氐楊馥之及義軍主徐曜甫迎戰於黃亘,大敗奔歸。時梁州土豪范凝、梁季羣於家請英設會,伏兵欲殺英,事覺,英執季羣殺之,凝竄走。英退保濁水,聞氐眾盛,與楊靈珍復俱退入斜谷,會天大雨,軍馬含漬,截竹煮米,於馬上持炬炊而食。英至下辨,靈珍弟婆羅阿卜珍反,襲擊,英眾散,射中英頰。偽陵江將軍悅楊生領鐵騎死戰救之,得免。梁、漢平。武都太守杜靈瑗、奮武將軍望法憘、寧朔將軍望法泰、州治中皇甫耽竝拒虜戰死。追贈靈瑗、法憘羽林監,法泰積射將軍。

この時、偽洛州刺史の賈異が甲口を侵攻したが、上洛太守の李静に撃破された。三年、北虜はまた司州の櫟城を攻めたが、戍主の魏僧岷に防戦されて撃破された。秋、北虜は軍を派遣して漣口を襲撃した。東海太守の鄭延祉は西城を捨てて逃走したが、東城はなお固守した。朝廷は冠軍将軍・兗州刺史の徐玄慶を救援に派遣し、北虜は退却した。鄭延祉は罪に服した。

原文時偽洛州刺史賈異寇甲口,為上洛太守李靜所破。三年,虜又攻司州櫟城,為戍主魏僧岷所拒破。秋,虜遣軍襲漣口,東海太守鄭延祉棄西城走,東城猶固守,臺遣冠軍將軍兖州刺史徐玄慶救援,虜引退,延祉伏罪。

初め、偽太后馮氏の兄である昌黎王馮莎の二人の娘がいた。姉の大馮は美しかったが病気があり、尼となった。妹の小馮は元宏の皇后となり、偽太子の元詢を生んだ。後に大馮の病気が治り、元宏は彼女を昭儀として迎え入れた。元宏が都を移した当初、元詢は気が進まず、桑乾に帰りたいと思っていた。元宏が衣冠(礼服)を作って与えると、元詢はこっそりとこれを破り裂き、髪を解いて編み、左衽の服を着た。大馮は寵愛を受け、日夜元詢を讒言した。元宏が鄴城で馬射(騎射の儀式)を行った時、元詢はこれに乗じて北に帰ろうと反乱を企て、密かに宮中の御馬三千匹を選んで河陰の渚に置いた。皇后(小馮)がこれを聞き、元詢を捕らえ、使者を走らせて元宏に告げた。元宏は元詢を無鼻城に移した。この城は河橋の北二里にあった。まもなく元詢を殺し、庶人の礼で葬った。大馮を皇后とし、すぐに偽太子の元恪を立てた。この年は、偽太和二十年である。

原文初,偽太后馮氏兄昌黎王馮莎二女,大馮美而有疾,為尼,小馮為宏皇后,生偽太子詢。後大馮疾差,宏納為昭儀。宏初徙都,詢意不樂,思歸桑乾。宏制衣冠與之,詢竊毀裂,解髮為編服左衽。大馮有寵,日夜讒詢。宏出鄴城馬射,詢因是欲叛北歸,密選宮中御馬三千疋置河陰渚。皇后聞之,召執詢,馳使告宏,宏徙詢無鼻城,在河橋北二里,尋殺之,以庶人禮葬。立大馮為皇后,便立偽太子恪,是歲,偽太和二十年也。

偽征北将軍・恒州刺史・鉅鹿公の伏鹿孤賀鹿渾が桑乾を守備し、元宏の従叔である平陽王の安寿が懐柵を守備していた。懐柵は桑乾の西北にあった。賀鹿渾は元宏が中国人(漢人)を任用することを良しとせず、偽定州刺史の馮翊公の目隣、安楽公の托跋阿幹児と謀り、安寿を立てて河北を分割占拠しようとした。計画は長く成就せず、安寿は恐れて元宏に告げた。賀鹿渾ら数百人を殺し、安寿は以前と同様に任用した。

原文偽征北將軍恒州刺史鉅鹿公伏鹿孤賀鹿渾守桑乾,宏從叔平陽王安壽戍懷柵,在桑乾西北。渾非宏任用中國人,與偽定州刺史馮翊公目隣、安樂公托跋阿幹兒謀立安壽,分據河北。期久不遂,安壽懼,告宏。殺渾等數百人,任安壽如故。

先に偽荊州刺史の薛真度と尚書の郄祁阿婆が房伯玉に敗れたため、宏は怒り、南陽のような小郡を滅ぼすと誓った。四年、自ら軍を率いて雍州に向かった。宏は先に南陽に到着し、房伯玉は城を守って抵抗した。宏は数万騎を従え、黄色い傘をかざし、城から一里のところにいた。偽中書舎人の公孫雲を遣わして伯玉に言わせた。「私は今、天下を平定し、以前の行軍とは異なる。以前は冬に出て春に帰り、長く留まることはなかったが、今は必ず攻略するまで北に帰らず、ここに留まること三五年もありうると誓う。卿のこの城は我が六龍の首であり、先に攻め取らないわけにはいかない。遠くて一年、中程度なら百日を超えず、近ければ一月を超えず、殲滅は難しくない。もし迷いを改めなければ、卿の首を斬り、軍門にさらすことになろう。城中に二心がなければ、禍を福に変えることができる。しかし卿には三つの罪がある。今、卿に知らせる。卿は先に武帝に仕え、側近として寵遇を受けたのに、前の主君に節を尽くさず、今の主君に節を尽くしている。これが一つの罪だ。前年、偏師の薛真度をここに派遣したところ、卿は彼を破り傷つけた。これが二つ目の罪だ。武帝の子孫は皆誅殺されたのに、少しも報いようとせず、かえって今の主君に節を尽くしている。天に背き道理を害している。これが三つ目の罪だ。容赦できない。卿が三思するのを待つ。城中の者たちを苦しめないようにせよ。」伯玉は軍副の楽稚柔を遣わして答えた。「攻囲しようというお考え、必ず攻略しようというお覚悟、承知しました。卑賤な常人である私が、大いなる威光に抗うことができるとは、まさに死に場所を得たと言えましょう。かつて武帝の抜擢を受け、側近として寵遇を賜りました。犬馬でさえ恩を知るのです。どうして無感覚でいられましょうか。しかし隆昌・延興の時代は、愚かで道理に背き、聖明な方が業を継がれ、家と国は変わりませんでした。これこそ進んでは心に背かず、退いても冥土に恥じないというものです。前年、薛真度が辺境の民を誘導したため、侵攻を受けましたが、国恩を蒙っている以上、軽く掃討したまでです。私の立場から言えば、この責めは大体免れるべきです。」宏は軍を率いて城南の寺の前に進み、駐屯した。東南角の溝橋を渡ろうとしたとき、伯玉が先に勇士数人に斑衣と虎頭帽を着せ、伏せていた穴から突然飛び出させた。宏の兵馬は驚いて退き、数人が殺された。宏は弓の名手の将軍、原霊度に射させると、弦に応じて倒れた。宏はようやく渡ることができた。宏はこの時大挙して南侵し、偽咸陽王の元憘、彭城王の元勰、常侍の王元嵩、宝掌王の元麗、広陵侯の元燮、都督大将軍の劉昶、王粛、楊大眼、奚康生、長孫稚など三十六軍が前後に相継ぎ、その数は百万と号した。諸王の軍は朱色の鼓、公侯は緑色の鼓、伯子男は黒色の鼓を用い、いずれも鼙鼓と角笛を備え、口笛を吹き鳴らして地を沸かせた。

原文先是偽荊州刺史薛真度、尚書郄祁阿婆為房伯玉所破,宏怒,以南陽小郡,誓取滅之。四年,自率軍向雍州。宏先至南陽,房伯玉嬰城拒守。宏從數萬騎,罩黃繖,去城一里。遣偽中書舍人公孫雲謂伯玉曰:「我今蕩一六合,與先(後)行異。先行冬去春還,不為停久;今誓不有所剋,終不還北,停此或三五年。卿此城是我六龍之首,無容不先攻取。遠一年,中不過百日,近不過一月,非為難殄。若不改迷,當斬卿首,梟之軍門。闔城無貳,幸可改禍為福。但卿有三罪,今令卿知。卿先事武帝,蒙在左右,不能盡節前主,而盡節今主,此是一罪。前歲遣偏師薛真度暫來此,卿遂破傷,此是二罪。武帝之胤悉被誅戮,初無報効,而反為今主盡節,違天害理,此是三罪。不可容恕。聽卿三思,勿令闔城受苦。」伯玉遣軍副樂稚柔答曰:「承欲見攻圍,期於必剋,卑微常人,得抗大威,真可謂獲其死所。先蒙武帝(徒)採〔拔〕,賜預左右,犬馬知恩,寧容無感。但隆昌延興,昏悖違常,聖明纂業,家國不殊。此則進不負心,退不愧幽。前歲薛真度導誘邊氓,遂見陵突,既荷國恩,聊耳撲掃。回己而言,應略此責。」宏引軍向城南寺前頓止,從東南角溝橋上過,伯玉先遣勇士數人著斑衣虎頭帽,從伏竇下忽出,宏人馬驚退,殺數人,宏呼善射將原靈度射之,應弦而倒。宏乃過。宏時大舉南寇,偽咸陽王元憘、彭城王元勰、常侍王元嵩、寶掌王元麗、廣陵侯元燮、都督大將軍劉昶、王肅、楊大眼、奚康生、長孫稚等三十六軍,前後相繼,眾號百萬。其諸王軍朱色鼓,公侯綠色鼓,伯子男黑色鼓,竝有鼙角,吹脣沸地。

宏は偽咸陽王の憘に南陽を包囲させておき、自らは新野に向けて進軍した。新野太守の劉思忌もまた抵抗して守った。朝廷は先に軍主で直閤将軍の胡松を遣わし、北襄城太守の成公期を助けて赭陽城を守らせ、軍主の鮑挙を遣わし、西汝南・北義陽二郡太守の黄瑶起を助けて舞陰城を守備させた。宏は新野城を包囲攻撃し、戦闘は止まなかった。城中に人を遣わして言わせた。「房伯玉はすでに降伏した。汝南(の太守)だけがどうして自ら滅びを招くのか。」思忌は人を遣わして答えさせた。「城中の兵糧はまだ多い。お前のような小虜の言葉に従う暇はない。」雍州刺史の曹虎は軍を均口に派遣したが、進軍しなかった。永泰元年、城は陥落し、思忌は縛られ、尋ねられた。「今、降伏するかどうか。」思忌は言った。「南の鬼となることを選び、北の臣下とはならない。」そして死んだ。冠軍将軍・梁州刺史を追贈された。これにより沔水以北は大いに震動し、湖陽の戍主の蔡道福、赭陽城主の成公期および軍主の胡松、舞陰城主の黄瑶起および軍主の鮑挙、従陽太守の席謙は皆、城を捨てて逃げた。虜の追撃軍は瑶起を捕らえ、王粛は人を募ってその肉を切り刻んで食べさせた。冠軍将軍・兗州刺史を追贈した。数日後、房伯玉は城を挙げて降伏した。伯玉は清河の人である。降伏した後、虜は彼を龍驤将軍に任じようとしたが、伯玉は受けなかった。高宗(蕭鸞)はその志を知り、毎月その子の希哲に銭五千、米二十斛を与えた。後に伯玉は虜に願い出て南辺の一郡を求め、馮翊太守となった。子が幼い頃から馬に乗ることを教え、常に南帰を望んでいた。永元の末、希哲が虜に入ると、伯玉は大いに怒って言った。「私は力尽きてここまで来たが、死をもって節を全うできず、それでもなお汝が本朝にいて国恩に報いることを望んでいた。私も心のままに従えば、危険を冒して帰国を求めたであろう。汝はどうして失策したのか。」そして虜の中で亡くなった。

原文宏留偽咸陽王憘圍南陽,進向新野,新野太守劉思忌亦拒守。臺先遣軍主直閤將軍胡松助北襄城太守成公期守赭陽城,軍主鮑舉助西汝南、北義陽二郡太守黃瑤起戍舞陰城。宏攻圍新野城,戰鬪不息。遣人謂城中曰:「房伯玉已降,汝南(為)〔何〕獨自取糜碎?」思忌令人對曰:「城中兵食猶多,未暇從汝小虜語也。」雍州刺史曹虎遣軍至均口,不進。永泰元年,城陷,縛思忌,問之曰:「今欲降未?」思忌曰:「寧為南鬼,不為北臣。」乃死。贈冠軍將軍、梁州刺史。於是沔北大震,湖陽戍主蔡道福、赭陽城主成公期及軍主胡松、舞陰城主黃瑤起及軍主鮑舉、從陽太守席謙竝棄城走。虜追軍獲瑤起,王肅募人臠食其肉。追贈冠軍將軍、兖州刺史。數日,房伯玉以城降。伯玉,清河人。既降,虜以為龍驤將軍,伯玉不肯受。高宗知其志,月給其子希哲錢五千,米二十斛。後伯玉就虜求南邊一郡,為馮翊太守,生子幼,便教其騎馬,常欲南歸。永元末,希哲入虜,伯玉大怒曰:「我力屈至此,不能死節,猶望汝在本朝以報國恩。我若從心,亦欲間關求反。汝何為失計?」遂卒虜中。

虜は沔水以北の五郡を手に入れた。宏は自ら二十万騎を率いて鄧城で太子率の崔慧景らを破り、樊城に進み、沔水に臨んで去った。洛陽に帰還し、太尉の陳顕達が五郡を経略し、馬圏を包囲していると聞くと、宏は再び大軍を率いて南攻し、顕達を破ったが、その戦いで死んだ。遺体が帰還する途中、洛陽に至る四百余里手前で、宏の詔と称し、偽太子の恪を魯陽に会わせるよう召し出した。恪が到着すると、勰は宏の偽りの礼服を着せ、ようやく喪を発した。洛陽に至り、州郡に布告して、哀悼の意を表し喪服を着させ、孝文皇帝と諡した。

原文虜得沔北五郡。宏自將二十萬騎破太子率崔慧景等於鄧城,進至樊城,臨沔水而去。還洛陽,聞太尉陳顯達經略五郡,圍馬圈,宏復率大眾南攻,破顯達而死。喪還,未至洛四百餘里,稱宏詔,徵偽太子恪會魯陽。恪至,勰以宏偽法服衣之,始發喪。至洛,乃宣布州郡,舉哀制服,諡孝文皇帝。

この年、王粛が虜のために官品と百官の制度を制定し、すべて中国のようであった。全部で九品あり、各品に二つの等級があった。粛が最初に虜に奔ったとき、自らの家が誅殺された事情を語ると、宏は涙を流した。第六妹である偽彭城公主を妻として与えた。粛を平原郡公に封じた。邸宅を建て、壁に香を塗った。こうして信用されるようになった。恪が立つと、景明元年と号し、これは永元二年にあたる。

原文是年,王肅為虜制官品百司,皆如中國。凡九品,品各有二。肅初奔虜,自說其家被誅事狀,宏為之垂涕。以第六妹偽彭城公主妻之。封肅平原郡公。為宅舍,以香塗壁。遂見信用。恪立,號景明元年,永元二年也。

豫州刺史の裴叔業が寿春を挙げて虜に降った。先に偽東徐州刺史の沈陵が部曲ぶきょくを率いて降伏していた。陵は呉興の人で、初めは失意して虜に奔り、大いに任用されたが、宏が死んだ後、故に南帰し、頻繁に徐・越二州刺史に任じられた。当時、王粛は偽征南将軍・豫州都督であった。朝廷は大鎮を新たに失い、荒人が往来して、「粛が帰国しようとしている」と偽りの情報を流した。少帝(蕭宝巻)は詔を下し、粛を使持節・侍中・都督豫徐司三州諸軍事・右将軍・豫州刺史・西豊公とし、邑二千戸を与えた。

原文豫州刺史裴叔業以壽春降虜。先是偽東徐州刺史沈陵率部曲降。陵,吳興人,初以失志奔虜,大見任用,宏既死,故南歸,頻授徐、越二州刺史。時王肅偽征南將軍、豫州都督。朝廷既新失大鎮,荒人往來,詐云肅欲歸國。少帝詔以肅為使持節、侍中、都督豫徐司三州、右將軍、豫州刺史,西豐公,邑二千戶。

虜は淮南を手に入れると、その夏、偽冠軍将軍・南豫州刺史の席法友を遣わし、建安城で北新蔡・安豊二郡太守の胡景略を攻撃し、死者は一万余人に上り、百余日経っても朝廷の救援がなく、城は陥落し、虜は景略を捕らえて帰った。その冬、虜はまた将軍の桓道福を遣わし、随郡太守の崔士招を攻撃して破った。

原文虜既得淮南,其夏,遣偽冠軍將軍南豫州刺史席法友攻北新蔡、安豐二郡太守胡景略於建安城,死者萬餘人,百餘日,朝廷無救,城陷,虜執景略以歸。其冬,虜又遣將桓道福攻隨郡太守崔士招,破之。

後に偽咸陽王の憘は恪が年少であるのをよいことに、氐の楊集始・楊霊祐・乞仏馬居および虜の大将の支虎・李伯尚ら十余人とともに、鴻池陂で会合を請い、恪が北芒で狩りに出た隙に襲って殺そうとした。憘は躊躇して実行できず、日を改めようとした。馬居が憘に言った。「殿下がもし北芒に行かれないなら、軍を返して洛城を占拠し、四門を閉ざすべきです。天子(恪)がこれを聞けば、必ず河北(桑乾)へ逃げるでしょう。その時、河橋を断ち切り、河南の天子となられるのです。河を隔てて治めれば、この機会を逃すべきではありません。」憘はまた従わなかった。霊祐は憘が自分を裏切ったのではないかと疑い、すぐに馳せて恪に告げた。憘は事が失敗したと聞き、逃げて黄河を渡ろうとしたが、雨が降り暗くて道に迷い、孝義駅に至ったとき、恪はすでに洛城を手中に収めていた。恪は弟の(度)〔広〕平王に数百騎を率いさせて先に宮中に入らせ、変事がないのを確認してから帰還させた。直衞の三郎兵を遣わして憘を討伐させ、捕らえて殺した。虜の法では、謀反を企てた者は葬ることを許されず、死体は北芒に捨てられた。王粛は病気で亡くなった。

原文後偽咸陽王憘以恪年少,與氐楊集始、楊靈祐、乞佛馬居及虜大將支虎、李伯尚等十餘人,請會鴻池陂,因恪出北芒獵,襲殺之。憘猶豫不能發,欲更剋日。馬居說憘曰:「殿下若不至北芒,便可回師據洛城,閉四門。天子聞之,必走向河北(走)桑乾,仍斷河橋,為河南天子。隔河而治,此時不可失也。」憘又不從。靈祐疑憘反己,即馳告恪。憘聞事敗,欲走渡河,而天雨暗迷道,至孝義驛,恪已得洛城。遣弟(度)〔廣〕平王領數百騎先入宮,知無變,乃還。遣直衞三郎兵討憘,執殺之。虜法,謀反者不得葬,棄尸北芒。王肅以疾卒。

史臣が言う。斉は、虜と分かれて、江南に国を建てて三代を経た。華夏は分かれて崩れ、旧都は分裂し、隙をうかがい兵を阻み、事は東晋の時に起こった。二庾(庾亮・庾翼)は元舅(皇帝の母方の伯叔父)としての盛んな勢力を頼りに、自ら征伐を専断することを許し、元規(庾亮)は邾城に臨んで軍を覆し、稚恭(庾翼)は襄陽に至って旗を返した。褚裒は徐・兗の精鋭兵を率いて、一度に鄒・魯で全滅した。殷浩は楊・豫の兵を駆り立てて、山桑で大敗した。桓溫は弱冠にして雄姿を備え、蜀を平定した勢いに乗じて、歩兵で咸関に入り、野戦で洛・鄴を攻めた。その後、鮮卑は海辺に固まり、羌・虜は秦・代を分割して領有し、自ら敵国となり、情勢は険しく勢力は分かれた。宋の武帝は機に乗じたので、順を追って誅滅することができた。そして魏虜が併呑し、河南は国境を失い、兵馬と土地はもはや昔のようではなかった。宋の文帝は知己を得たとはいえ、敵を予測できず、したがって将帥は功績なく、戦うたびに必ず危うかった。泰始年間には辺境の臣が外に叛き、ついに淮北を失い、経略が振るわず、和親を議するに至った。太祖(蕭道成)が天命を受けて創始したが、遠くを図る暇もなく、戎狄の塵が先に起こり、方牧(地方長官)を侵し暴いた。淮・豫では勝利を収め、青・海では敵を破り敗走させ、逸をもって労を待ち、座して百勝を微した。四州が陥落して以来、民は本朝を恋い慕い、国祚が新たになるや、威徳を奉じて歌い、戈を提げ甲を帯び、人々自ら戦い、深く塁を築き防備を固め、南の旗を望み想った。天子は辺境の事情に通暁し、乱を取って兵律を授けた。もし先の軍が期日を指して、遠く臨・彭を掃討していたならば、しかし督将が逗留し、援軍の接応が遅れたため、義に傾く人々は、巣を傾け家を尽くしてしまった。すでに機会を失い、朝廷の議論は北征をやめ、武を偃やめて文を修め、後の機会を再び考えた。永明の世には、すでに成った策に基づき、職責として往来を問い、関所の禁令は静かであった。辺境の民はみな安堵して隙をうかがうことをやめ、百姓は農桑に従って失業することもなかったのも、これによるものである。荊棘が生ずるのは、武力を用いる弊害であり、寇戎が一度犯せば、傷は回復し難い。まさにこれがその証左ではないか。建武の初め、獯鬻の雄が南に迫り、豫・徐の強鎮は、高い城に籠り、士卒を蓄え、敢えて彼らと武力を競わなかった。胡の馬は淮・肥を踏みにじり、常にその地で戦った。梯衝(攻城具)の害、鼓を鳴らして掠奪された損失は、建元以来、かつてなかったことである。加えて穹廬(遊牧民の天幕)が華夏に移り、旧都に礼を即し、雍・司の北部は、許・洛に近く、平坦な道が数百里続き、駅伝の車軌が通り、漢代の馳道は、直ちに章陵に達し、馬の轡を取って駆け巡れば、朝に出て夕に帰ることができた。虜は弱きを兼ねる威を抱き、広大な土地を計略に挟み、強兵と大衆を率いて、自ら凌ぎ滅ぼし、旗鼓は年を越え、矢石は絶えなかった。朝廷の方針は懦弱で屈服し、救い防ぐことができず、故に南陽の塁は覆り、新野の城壁は崩れ、民戸と開墾田は、すべて狄(北方民族)の保(支配)となった。将兵を分遣しては出したが、ともに淮南に出るだけで、沔北の危機を解かず、すでに渦陽の敗北は深まった。徴税は内で尽き、民命は外で尽き、家ごとに騒然として、生きるに頼るものがない。休むことと動くことの数は、確かに天の機微があるが、得失の跡は、それぞれ人事に帰する。将帥が相臨み、功を貪り賞を昧み、勝敗の急を、互いに救い譲らないからではないか。号令が明らかでないのは、まさに中国の短所である。

原文史臣曰:齊、虜分,江南為國歷三代矣。華夏分崩,舊京幅裂,觀舋阻兵,事興東晉。二庾藉元舅之盛,自許專征,元規臨邾城以覆師,稚恭至襄陽而反旆。褚裒以徐、兖勁卒,壹沒於鄒、魯。殷浩驅楊、豫之眾,大敗於山桑。桓溫弱冠雄姿,因平蜀之聲勢,步入咸關,野戰洛、鄴。既而鮮卑固於負海,羌、虜割有秦、代,自為敵國,情險勢分,宋武乘機,故能以次而行誅滅。及魏虜兼并,河南失境,兵馬土地,非復曩時。宋文雖得之知己,未能料敵,故師帥無功,每戰必殆。泰始以邊臣外叛,遂亡淮北,經略不振,乃議和親。太祖創命,未及圖遠,戎塵先起,侵暴方牧,淮、豫剋捷,青、海摧奔,以逸待勞,坐微百勝。自四州淪沒,民戀本朝,國祚惟新,歌奉威德,提戈荷甲,人自為鬪,深壘結防,想望南旗。天子習知邊事,取亂而授兵律,若前師指日,遠掃臨、彭,而督將逗留,援接稽(曉)〔晚〕,向義之徒,傾巢盡室。既失事機,朝議北寢,偃武脩文,更思後會。永明之世,據已成之策,職問往來,關禁寧靜。壃埸之民,竝安堵而息窺覦,百姓附農桑而不失業者,亦由此而已也。夫荊棘所生,用武之弊,寇戎一犯,傷痍難復,豈非此之驗乎?建武初運,獯雄南逼,豫、徐彊鎮,嬰高城,蓄士卒,不敢與之校武。胡馬蹈藉淮、肥,而常自戰其地。梯衝之害,鼓掠所亡,建元以來,未之前有。兼以穹廬華徙,即禮舊都,雍、司北部,親近許、洛,平塗數百,通驛車軌,漢世馳道,直抵章陵,鑣案所騖,晨往暮返。虜懷兼弱之威,挾廣地之計,彊兵大眾,親自凌殄,旍鼓彌年,矢石不息。朝規懦屈,莫能救禦,故南陽覆壘,新野頹隍,民戶墾田,皆為狄保。雖分遣將卒,俱出淮南,未解沔北之危,已深渦陽之敗。征賦內盡,民命外殫,比屋騷然,不聊生矣。夫休𠘶之數,誠有天機,得失之迹,各歸人事。豈不由將率相臨,貪功昧賞,勝敗之急,不相救讓?號令不明,固中國之所短也。