南齊書

巻五十 列伝第三十一

巻五十 列伝第三十一

文恵太子に四人の男子がいた。安皇后が鬱林王昭業を生んだ。宮人の許氏が海陵恭王昭文を生んだ。陳氏が巴陵王昭秀を生んだ。褚氏が桂陽王昭粲を生んだ。

原文文惠太子四男:安皇后生鬱林王昭業;宮人許氏生海陵恭王昭文;陳氏生巴陵王昭秀;褚氏生桂陽王昭粲。

巴陵王昭秀は字あざなを懐尚といい、太子の第三子である。永明年間中に曲江公に封ぜられ、千五百戸を賜った。十年に寧朔将軍・済陽太守となった。鬱林王が即位すると、臨海郡王に封ぜられ、二千戸を賜った。隆昌元年、使持節・都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・西中郎将・荊州刺史となった。延興元年、車騎将軍として召還され、京師を守衛させ、永嘉王昭粲が代わった。

原文巴陵王昭秀字懷尚,太子第三子也。永明中,封曲江公,千五百戶。十年,爲寧朔將軍、濟陽太守。鬱林卽位,封臨海郡王,二千戶。隆昌元年,爲使持節、都督荊雍益寧梁南北秦七州軍事、西中郎將、荊州刺史。延興元年,徵爲車騎將車,衞京師,以永嘉王昭粲代之。

明帝の建武二年、通直常侍の庾曇隆が上奏して言った。「周が洛邑を定めた時、天子は畿内の民を置いた。漢が咸陽に都した時、三輔は社稷の守りとなった。中晋が南遷すると、事態は移り威勢は弛緩し、近郡の名邦には、多く国食があった。宋の武帝が創業するに当たり、古典に倣い、神州の部内には、別に封ずることはしなかった。しかし孝武帝の末年、寵愛する子を分けて立て、ひたすら私愛を伸ばそうとしたが、訓戒の基準に背いていた。隆昌の元年、特に同母弟に貴重な地位を開いたのは、私は古制に合わないと思う。聖明の天子が天下を治めるにあたり、古い礼制を優先すべきであり、畿内の区切りは、昔の制度に従うべきで、封土を授けることは、すべて外州から出すべきである。」詔を下して尚書に詳しく議論させた。その冬、昭秀を改めて巴陵王に封じた。永泰元年に殺害され、十六歳であった。

原文明帝建武二年,通直常侍庾曇隆啓曰:「周定雒邑,天子置畿內之民;漢都咸陽,三輔爲社稷之衞。中晉南遷,事移威弛,近郡名邦,多有國食。宋武創業,依擬古典,神州部內,不復別封。而孝武末年,分樹寵子,苟申私愛,有乖訓准。隆昌之元,特開母弟之貴,竊謂非古。聖明御宇,禮舊爲先,畿內限斷,宜遵昔制,賜茅授土,一出外州。」詔付尚書詳議。其冬,改封昭秀爲巴陵王。永泰元年見殺,年十六。

桂陽王昭粲は、太子の第四子である。鬱林王が立つと、皇弟として永嘉郡王に封ぜられ、南徐州刺史となった。延興元年、出向して使持節・都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・西中郎将・荊州刺史となった。明帝が立つと、聞喜公の蕭遙欣を荊州にしようと考え、昭粲を転じて右将軍・中書令とした。建武二年、桂陽王に改封された。四年、太常に昇進し、将軍の職はもとのままだった。永泰元年に殺害され、八歳であった。

原文桂陽王昭粲,太子第四子也。鬱林立,以皇弟封永嘉郡王,南徐州刺史。延興元年,出爲使持節、都督荊雍益寧梁南北秦七州軍事、西中郎將、荊州刺史。明帝立,欲以聞喜公遙欣爲荊州,轉昭粲爲右將軍,中書令。建武二年,改封桂陽王。四年,遷太常,將軍如故。永泰元年見殺,年八歲。

明帝に十一人の男子がいた。敬皇后が東昏侯宝巻、江夏王宝玄、鄱陽王宝寅、和帝を生んだ。殷貴嬪が巴陵隠王宝義、晋熙王宝嵩を生んだ。袁貴妃が廬陵王宝源を生んだ。管淑妃が邵陵王宝攸を生んだ。許淑媛が桂陽王宝貞を生んだ。その他は皆早くに夭折した。

原文明帝十一男:敬皇后生東昏侯寶卷,江夏王寶玄,鄱陽王寶寅,和帝;殷貴嬪生巴陵隱王寶義,晉熙王寶嵩;袁貴妃生廬陵王寶源;管淑妃生邵陵王寶攸;許淑媛生桂陽王寶貞。餘皆早夭。

巴陵隠王宝義は字を智勇といい、明帝の長子である。本名は明基といった。建武元年、持節・都督揚南徐州諸軍事・前将軍・揚州刺史となった。晋安郡王に封ぜられ、三千戸を賜った。宝義は幼い頃から廃疾があり、人々の間に出るに堪えなかったので、ただ除授を加えるだけで、やはり始安王の蕭遙光が代わった。宝義を転じて右将軍とし、兵を率いて属官を置き、石頭を鎮守させた。二年、出向して使持節・都督南徐州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史となった。東昏侯が即位すると、征北大将軍に進み、開府儀同三司となり、扶を賜った。永元元年、班劔二十人を賜った。始安王蕭遙光が誅殺されると、都督揚南徐二州諸軍事・驃騎大将軍・揚州刺史となり、持節はもとのままだった。東府が兵火に遭い、屋宇が焼け残ったが、帝はちょうど宮殿を営んでおり、修復する暇がなく、宝義は西州を鎮守した。三年、司徒の位に進んだ。和帝が西台を建てると、侍中・司空とし、使持節・都督・刺史はもとのままとした。梁王が京邑を平定すると、宣徳太后の令により宝義を太尉とし、司徒を兼任させた。詔に「言葉にしない教化が、自然と遠くまで形を現す」とあった。当時の人々は皆、これは実録であると言った。梁が禅譲を受けると、謝沐県公に封ぜられ、まもなく巴陵郡王に封ぜられ、斉の後を奉じた。天監年間に死去した。

原文巴陵隱王寶義字智勇,明帝長子也。本名明基。建武元年,爲持節、都督揚南徐州軍事、前將軍、揚州刺史。封晉安郡王,三千戶。寶義少有廢疾,不堪出人閒,故止加除授,仍以始安王遙光代之。轉寶義爲右將軍,領兵置佐,鎮石頭。二年,出爲使持節、都督南徐州軍事、鎮北將軍、南徐州刺史。東昏卽位,進征北大將軍,開府儀同三司,給扶。永元元年,給班劔二十人。始安王遙光誅,爲都督揚南徐二州軍事、驃騎大將軍、揚州刺史,持節如故。東府被兵火,屋宇燒殘,帝方營宮殿,不暇脩葺,寶義鎮西州。三年,進位司徒。和帝西臺建,以爲侍中、司空,使持節、都督、刺史如故。梁王定京邑,宣德太后令以寶義爲太尉,領司徒。詔云:「不言之化,形于自遠。」時人皆云此實錄也。梁受禪,封謝沐縣公,尋封巴陵郡王,奉齊後。天監中薨。

江夏王宝玄は字を智深といい、明帝の第三子である。建武元年、征虜将軍となり、石頭の戍事を兼任し、江夏郡王に封ぜられた。やがて出向して持節・都督郢司二州諸軍事・西中郎将・郢州刺史となった。永泰元年、還って前将軍となり、石頭の戍事を兼任した。拝命しないうちに、東昏侯が即位し、鎮軍将軍の号に進んだ。永元元年、さらに車騎将軍に進み、晋安王宝義に代わって使持節・都督南徐兖二州諸軍事・南徐兖二州刺史となり、将軍の号はもとのままだった。

原文江夏王寶玄字智深,明帝第三子也。建武元年,爲征虜將軍,領石頭戍事,封江夏郡王。仍出爲持節、都督郢司二州軍事、西中郎將、郢州刺史。永泰元年,還爲前將軍,領石頭戍事。未拜,東昏卽位,進號鎮軍將軍。永元元年,又進車騎將軍,代晉安王寶義爲使持節、都督南徐兖二州軍事、南徐兖二州刺史,將軍如故。

宝玄は尚書令の徐孝嗣の娘を妃に娶ったが、孝嗣が誅殺されて離別し、少帝が二人の若い姫を送ってきたので、宝玄は恨みを抱き、密かに異なる計画を持っていた。翌年、崔慧景が挙兵し、広陵に戻ってきた時、使者を遣わして宝玄を主君として奉じた。宝玄はその使者を斬り、これによって将吏を発して城を防がせた。帝は馬軍主の戚平、外監の黄林夫を派遣して京口の鎮守を助けさせた。慧景が長江を渡ろうとした時、宝玄は密かにこれと呼応し、司馬の孔矜、典籤の呂承緒、および戚平、黄林夫を殺し、門を開いて慧景を迎え入れた。長史の沈佚之、諮議参軍の柳憕に軍衆を分けさせて率いさせ、八掆輿に乗り、手に絳色の麾幡を執り、慧景に従って京師に至り、東城に駐屯した。百姓の多くが集まって来た。慧景が敗れると、朝廷と民間で宝玄および慧景の軍に名を投じた者の名簿が押収されたが、帝はこれを焼くよう命じ、「江夏王でさえこのような有様である。どうしてさらに他の人々を罪に問えようか」と言った。宝玄は数日間逃亡した後、ようやく出頭した。帝は後堂に召し入れ、歩障で包み、数十人の小人たちに鼓角を鳴らしてその外を走り回らせ、人を遣わして宝玄に言わせた。「お前が近頃私を包囲したのもこのようなものだった。」数日後に殺害した。

原文寶玄娶尚書令徐孝嗣女爲妃,孝嗣被誅離絕,少帝送少姬二人與之,寶玄恨望,密有異計。明年,崔慧景舉兵,還至廣陵,遣使奉寶玄爲主。寶玄斬其使,因是發將吏防城。帝遣馬軍主戚平、外監黃林夫助鎮京口。慧景將渡江,寶玄密與相應,殺司馬孔矜、典籤呂承緒及平、林夫,開門納慧景。使長史沈佚之、諮議柳憕分部軍衆,乘八掆輿,手執絳麾幡,隨慧景至京師,住東城,百姓多往投集。慧景敗,收得朝野投寶玄及慧景軍名,帝令燒之,曰:「江夏尚爾,豈復可罪餘人。」寶玄逃奔數日乃出。帝召入後堂,以步鄣裹之,令羣小數十人鳴鼓角馳繞其外,遣人謂寶玄曰:「汝近圍我亦如此。」少日乃殺之。

廬陵王宝源は字を智淵といい、明帝の第五子である。建武元年、北中郎将となり、琅邪城を鎮守し、廬陵郡王に封ぜられた。右将軍に転じ、石頭の戍事を兼任し、やがて出向して使持節・都督南兖兖徐青冀五州諸軍事・後将軍・南兖州刺史となった。王敬則が誅殺されると、宝源を転じて都督会稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事・会稽太守とし、将軍の号はもとのままとした。永元元年、安東将軍の号に進んだ。和帝が即位すると、侍中・車騎将軍・開府儀同三司とし、都督・太守はもとのままとした。拝命しないうちに、中興二年に死去した。

原文廬陵王寶源字智淵,明帝第五子也。建武元年,爲北中郎將,鎮琅邪城,封廬陵郡王。遷右將軍,領石頭戍事,仍出爲使持節、都督南兖兖徐青冀五州軍事、後將軍、南兖州刺史。王敬則伏誅,徙寶源爲都督會稽東陽臨海永嘉新安五郡軍事、會稽太守,將軍如故。永元元年,進號安東將軍。和帝卽位,以爲侍中、車騎將軍、開府儀同三司,都督、太守如故。未拜,中興二年薨。

鄱陽王宝寅は字を智亮といい、明帝の第六子である。建武初め、建安郡王に封ぜられた。二年、北中郎将となり、琅邪城を鎮守した。翌年、出向して持節・都督江州諸軍事・南中郎将・江州刺史となった。東昏侯が即位すると、使持節・都督郢司二州諸軍事・征虜将軍・郢州刺史となった。まもなく前将軍の号に進んだ。永元二年、撫軍将軍として召還され、石頭の戍事を兼任したが、拝命しなかった。三年、車騎将軍・開府儀同三司となり、石頭を鎮守した。

原文鄱陽王寶夤字智亮,明帝第六子也。建武初,封建安郡王。二年,爲北中郎將,鎮琅邪城。明年,出爲持節、都督江州軍事、南中郎將、江州刺史。東昏卽位,爲使持節、都督郢司二州軍事、征虜將軍、郢州刺史。尋進號前將軍。永元二年,徵爲撫軍,領石頭戍事,未拜。三年,爲車騎將軍、開府儀同三司,鎮石頭。

その秋、雍州刺史の張欣泰らが新亭で謀って事を起こし、台内の諸主帥を殺そうとした。事は張欣泰伝にある。難が起こった日、前南譙太守の王霊秀が石頭に駆けつけ、城内の将吏と現有の兵力を率い、車の脚を取り外して宝寅を載せて台城に向かい、数千人の百姓が皆空手でその後について行き、京邑は騒然となった。宝寅が杜姥宅に着いた時、日はすでに暮れようとしており、城門は閉じられ、城上の人が彼らを射たので、衆は宝寅を棄てて逃走した。宝寅は三日間逃亡した後、軍服を着て草市尉のところに出頭した。尉は急いで帝に報告し、帝は宝寅を迎えて宮中に入れ、事情を尋ねた。宝寅は涙を流して言った。「あの日、誰かが私を車に乗せるよう強制し、連れて行き、自由にできませんでした。」帝は笑い、爵位を復した。

原文其秋,雍州刺史張欣泰等謀起事於新亭,殺臺內諸主帥,事在欣泰傳。難作之日,前南譙太守王靈秀奔往石頭,率城內將吏見力,去車脚載寶夤向臺城,百姓數千人皆空手隨後,京邑騷亂。寶夤至杜姥宅,日已欲暗,城門閉,城上人射之,衆棄寶夤逃走。寶夤逃亡三日,戎服詣草市尉,尉馳以啓帝,帝迎寶寅入宮問之。寶夤涕泣稱:「爾日不知何人逼使上車,仍將去,制不自由。」帝笑,乃復爵位。

和帝が即位すると、西臺は宝夤を使持節・都督南徐兖二州軍事・衛将軍・南徐州刺史とした。少帝は彼を使持節・都督荊益寧雍梁南北秦七州軍事・荊州刺史とし、将軍の位はもとのままとした。宣徳太后が臨朝すると、梁王は建安公となり、宝夤は鄱陽王に改封された。中興二年、謀反を企て誅殺された。

原文和帝立,西臺以寶夤爲使持節、都督南徐兖二州軍事、衞將軍、南徐州刺史。少帝以爲使持節、都督荊益寧雍梁南北秦七州軍事、荊州刺史,將軍如故。宣德太后臨朝,梁王爲建安公,改封寶夤爲鄱陽王。中興二年,謀反誅。

邵陵王宝攸は字を智宣といい、明帝の第九子である。建武元年、南平郡王に封ぜられた。二年、封地を改めた。三年、北中郎将となり、琅邪城を鎮守した。永元元年、持節・都督南北徐南兖青冀五州軍事・南兖州刺史となり、郎将の位はもとのままとした。拝命せず、征虜将軍に遷り、石頭戍の事務を管轄した。丹楊尹となり、戍の事務はもとのままとした。陳顕達の事件が平定されると、出向して持節・督江州軍事・左将軍・江州刺史となった。本官の号で京師に戻り、中軍将軍・秘書監を授かった。中興二年、謀反を企て、宣徳太后の命により死を賜った。

原文邵陵王寶攸字智宣,明帝第九子也。建武元年,封南平郡王。二年,改封。三年,爲北中郎將,鎮琅邪城。永元元年,爲持節、都督南北徐南兖青冀五州軍事、南兖州刺史,郎將如故。未拜,遷征虜將軍,領石頭戍事。丹楊尹,戍事如故。陳顯達事平,出爲持節、督江州軍事、左將軍、江州刺史。以本號還京師,授中軍將軍,祕書監。中興二年,謀反,宣德太后令賜死。

晋熙王宝嵩は字を智靖といい、明帝の第十子である。永元二年、冠軍将軍・丹楊尹となった。引き続き持節・都督南徐兖二州軍事・南徐州刺史に遷り、将軍の位はもとのままとした。中興元年、和帝は彼を中書令とした。翌年、謀反を企て誅殺された。

原文晉熙王寶嵩字智靖,明帝第十子也。永元二年,爲冠軍將軍、丹楊尹。仍遷持節、都督南徐兖二州軍事、南徐州刺史,將軍如故。中興元年,和帝以爲中書令。明年,謀反伏誅。

桂陽王宝貞は、明帝の第十一子である。永元二年、中護軍・北中郎将となり、石頭戍の事務を管轄した。中興二年、謀反を企て誅殺された。

原文桂陽王寶貞,明帝第十一子也。永元二年,爲中護軍、北中郎將,領石頭戍事。中興二年,謀反伏誅。

史臣が言う。『春秋』に「鄭伯が段を鄢で打ち破った」と書かれているのは、兄弟の恩愛が離れ、君臣の義が正されたからである。逆らう者と従う者にはそれぞれ勢いがあり、ましてや一体を兼ねる親族であれば、道が尽き数が尽きれば、互いに突き合うこともある。しかし宝玄は自ら干戈を手に取り、家の難を喜んで受けた。まるで斧の柄が指す方向に花の萼が従うように(兄に従うべき道理)を悟らず、これをもって万全を図ろうとしたが、その見当違いは明らかである。

原文史臣曰:《春秋》書「鄭伯克段于鄢」,兄弟之恩離,君臣之義正。夫逆從有勢,況親兼一體,道窮數盡,或容觸啄。而寶玄自尋干戈,欣受家難。曾不悟執柯所指,跗蕚相從,以此而圖萬全,未知其髣髴也。