南齊書

卷四十一 列傳第二十二

卷四十一 列傳第二十二

張融、字あざなは思光、吳郡吳の人である。祖父の褘は、晉の琅邪王國の郎中令であった。父の暢は、宋の會稽太守であった。

原文張融字思光,吳郡吳人也。祖褘,晉琅邪王國郎中令。父暢,宋會稽太守。

張融が弱冠の年、同郡の道士陸脩靜が白鷺の羽で作った麈尾扇を張融に贈り、言った。「これはすでに珍しい物である。珍しい人に捧げる。」宋の孝武帝は張融に早くから名声があると聞き、解褐して新安王北中郎參軍とした。孝武帝が新安寺を建立した時、僚佐の多くは錢や帛を寄進したが、張融だけは百錢を寄進した。帝は言った。「張融は非常に貧しい。良い禄で序列を与えるべきだ。」出向して封溪縣令となった。從叔の張永が後渚まで見送りに出て、言った。「朝廷の意向を聞いたところでは、汝はまもなく戻るようだ。」張融は言った。「戻らないことを心配するのではなく、戻った後また去らなければならないことを恐れているのだ。」廣越の険しい山を越える途中、獠賊が張融を捕らえ、殺して食べようとした。張融は神色を動かさず、洛生詠を詠じ始めた。賊はこれを怪しんで害を加えなかった。海を渡って交州に至り、海中で『海賦』を作った。

原文融年弱冠,道士同郡陸脩靜以白鷺羽麈尾扇遺融,曰:「此旣異物,以奉異人。」宋孝武聞融有早譽,解褐爲新安王北中郎參軍。孝武起新安寺,僚佐多儭錢帛,融獨儭百錢。帝曰:「融殊貧,當序以佳祿。」出爲封溪令。從叔永出後渚送之,曰:「似聞朝旨,汝尋當還。」融曰:「不患不還,政恐還而復去。」廣越嶂嶮,獠賊執融,將殺食之,融神色不動,方作洛生詠,賊異之而不害也。浮海至交州,於海中作《海賦》曰:

張融の文辞は奇抜で激しく、ただ一人衆人と異なっていた。後に都に戻り、鎮軍將軍顧覬之に見せた。覬之は言った。「卿のこの賦は確かに玄虚を超えているが、ただ塩について言及していないのが残念だ。」張融はすぐに筆を求め注記して言った。「沙を漉いて白を構え、波を熬いて素を出す。積雪は春の中にあり、飛霜は暑き路にあり。」この四句は、後に付け加えたものである。

原文融文辭詭激,獨與衆異。後還京師,以示鎮軍將軍顧覬之,覬之曰:「卿此賦實超玄虛,但恨不道鹽耳。」融卽求筆注之曰:「漉沙構白,熬波出素。積雪中春,飛霜暑路。」此四句,後所足也。

顧覬之は張融の兄と恩誼があった。覬之が亡くなると、張融は自ら墳土を背負った。南方では交阯太守卞展と旧交があり、展が嶺南で人に殺されると、張融は身を挺して駆けつけた。

原文覬之與融兄有恩好,覬之卒,融身負墳土。在南與交阯太守卞展有舊,展於嶺南爲人所殺,融挺身奔赴。

秀才に挙げられ、対策に及第し、尚書殿中郎に任じられたが、就任せず、儀曹郎となった。泰始五年、明帝は荊、郢、湘、雍の四州の射手を徴発し、反逆者は逃亡した本人と家長を斬り、家族は奚官に没官するとした。元徽の初め、郢州の射手に反逆者がいた。張融は議して、家人や家長の罪は及ばず、逃亡した本人の刑は五年とすべきだと論じた。

原文舉秀才,對策中第,爲尚書殿中郎,不就,爲儀曹郎。泰始五年,明帝取荊、郢、湘、雍四州射手,叛者斬亡身及家長者,家口沒奚官。元徽初,郢州射手有叛者,融議家人家長罪所不及,亡身刑五年。

まもなく叔父の喪に奔るため休暇を請い、道中で幹の錢敬道を鞭杖五十回と罰し、延陵の獄に預けて拘束した。大明五年の制では、二品の清官が僮幹を杖つ場合、十回を超えてはならない。左丞孫緬に奏上され、免官された。まもなく復職し、祠部、倉部の二曹を攝った。領軍劉勉が戦死した時、祠曹が「上は劉勉のために哭すべきか否か」と議した。張融は「哭すべきである」と議した。これにより初めて哀悼の礼を行った。倉曹はまた「正月は俗人の忌むところであるが、太倉を開いてよいか」と議した。張融は「小さな忌みに拘束されるべきではない」と議した。まもなく正廚を兼ねて掌ったが、張融は宰殺を見て、車を回らせて直ちに去り、自ら上表して職を解くことを請うた。

原文尋請假奔叔父喪,道中罰幹錢敬道鞭杖五十,寄繫延陵獄。大明五年制,二品清官行僮幹杖,不得出十。爲左丞孫緬所奏,免官。尋復位,攝祠、倉部二曹。領軍劉勉戰死,祠曹議「上應哭勉不」,融議「宜哭」。於是始舉哀。倉曹又以「正月俗人所忌,太倉爲可開不」,融議「不宜拘束小忌」。尋兼掌正廚,融見宰殺,回車徑去,自表解職。

安成王撫軍倉曹參軍となり、転じて南陽王友となった。張融の父暢は以前丞相長史であったが、義宣の事変の際、暢は王玄謨に捕らえられ、殺されようとした。玄謨の子瞻が南陽王前軍長史であったので、張融は官を去ることを願い出たが、許されなかった。

原文爲安成王撫軍倉曹參軍,轉南陽王友。融父暢先爲丞相長史,義宣事難,暢爲王玄謨所錄,將殺之。玄謨子瞻爲南陽王前軍長史,融啓求去官,不許。

張融は家が貧しく禄を願い、初めに從叔の征北將軍張永に手紙を書いて言った。「融はかつて幼学を称し、早くから家風を訓んできた。不敏ではあるが、おおよそ本性となっている。布衣と葦の席は、若い頃から安んじていたもので、簞食瓢飲も、不満や不楽を感じない。しかし世業は清貧であり、人生には多くの待つべきことがある。榛栗や棗脩は、女の贄がすでに長じたし、束帛や禽鳥は、男の礼がすでに大きい。身を励まして官に就き、十年の間に七度仕えたが、代わりに耕作することを望まず、どうしてこのような事態に至ろうか。かつて三吳の一丞を求めたが、たびたび誤りがあった。今、南康に守が欠けていると聞く。それを得たいと思う。融は階級を知らない。階級もまた融を知らなくてよい。融はまさに丞を求めて得られなかったので、郡を求めるのである。郡を求めて得られなければ、また丞を求めてもよい。」また吏部尚書王僧虔に手紙を書いて言った。「融は天地の逸民である。進んでは貴を弁えず、退いては賤を知らない。ぼんやりと造化にあり、忽然として草木のようである。実に家の貧しさが積み重なり、孤寡が心を傷める。八人の姪は皆孤児であり、二人の弟はかなり弱い。これを撫でて感じることは、古人が悲しんだところである。どうして山海の陋い禄で、融の心情の累を述べられようか。阮籍が東平の土風を愛したように、融もまた晉平の閑外を欣ぶ。」当時の議論では張融は民を治める才能がないとされ、結局実現しなかった。

原文融家貧願祿,初與從叔征北將軍永書曰:「融昔稱幼學,早訓家風,雖則不敏,率以成性。布衣葦席,弱年所安,簞食瓢飲,不覺不樂。但世業清貧,民生多待,榛栗棗脩,女贄旣長,束帛禽鳥,男禮已大。勉身就官,十年七仕,不欲代耕,何至此事。昔求三吳一丞,雖屢舛錯。今聞南康缺守,願得爲之。融不知階級,階級亦可不知,融政以求丞不得,所以求郡,求郡不得,亦可復求丞。」又與吏部尚書王僧虔書曰:「融,天地之逸民也。進不辨貴,退不知賤,兀然造化,忽如草木。實以家貧累積,孤寡傷心,八姪俱孤,二弟頗弱,撫之而感,古人以悲。豈能山海陋祿,申融情累。阮籍愛東平土風,融亦欣晉平閑外。」時議以融非治民才,竟不果。

太祖の太傅掾に辟召され、驃騎豫章王司空諮議參軍を歴任し、中書郎に遷ったが、好みではなく、中散大夫を乞うたが許されなかった。張融の風采举止は奇抜で、座ると常に膝を危うくし、歩く時は足を引きずり、身を翹げて頭を仰ぎ、意匠は非常に多かった。例に従って同行しても、常に遅滞して進まなかった。太祖はもとより張融を奇異に愛し、太尉であった時、しばしば張融と懇ろに接し、張融を見ては常に笑って言った。「この人は一人はいてもよいが、二人いてはならない。」即位後、手詔で張融に衣服を賜り、言った。「卿の衣服が粗末で古いのを見る。誠に素懐に本があるからである。しかし、かくも藍縷では、朝廷の声望にも損なう。今、一通の古い衣服を送る。意味は、古くとも新しいものに勝るということだ。これは私が着ていたもので、すでに裁減して卿の体に合わせるように命じた。履も一量添える。」

原文辟太祖太傅掾,歷驃騎豫章王司空諮議參軍,遷中書郎,非所好,乞爲中散大夫,不許。融風止詭越,坐常危膝,行則曳步,翹身仰首,意制甚多。隨例同行,常稽遲不進。太祖素奇愛融,爲太尉時,時與融款接,見融常笑曰:「此人不可無一,不可有二。」卽位後,手詔賜融衣曰:「見卿衣服麤故,誠乃素懷有本;交爾藍縷,亦虧朝望。今送一通故衣,意謂雖故,乃勝新也。是吾所著,已令裁減稱卿之體。幷履一量。」

張融は吏部尚書何戢と親しく、戢を訪ねようとして、誤って尚書劉澄に通じてしまった。張融は車を降りて門に入り、言った。「違う。」戸の外に至り、澄を望んで、また言った。「違う。」席に着いてから、澄を見て言った。「まったく違う。」そして去った。その異様な様はこのようなものであった。

原文融與吏部尚書何戢善,往詣戢,誤通尚書劉澄。融下車入門,乃曰:「非是。」至戶外,望澄,又曰:「非是。」旣造席,視澄曰:「都自非是。」乃去。其爲異如此。

また長沙王鎮軍、竟陵王征北の諮議となり、ともに記室を領し、司徒從事中郎となった。永明二年、總明觀で講義があり、朝臣を集めて聴講するよう敕があった。張融は人に支えられて榻に就き、ひそかに酒を求めて飲んだ。難問が終わると、長嘆して言った。「嗚呼!仲尼はただ一人、何たる人ぞ!」御史中丞到撝に奏上され、免官されたが、まもなく復職した。張融は形貌が短く醜かったが、精神は清澈であった。王敬則が張融の革帯が垂れて緩み、ほとんど骨にまで至ろうとしているのを見て、言った。「革帯が緩すぎる。」張融は言った。「歩吏ではないのだから、帯を締めてどうするというのか。」

原文又爲長沙王鎮軍、竟陵王征北諮議,竝領記室,司徒從事中郎。永明二年,總明觀講,敕朝臣集聽。融扶入就榻,私索酒飲之,難問旣畢,乃長嘆曰:「嗚呼!仲尼獨何人哉!」爲御史中丞到撝所奏,免官,尋復。融形貌短醜,精神清澈。王敬則見融革帶垂寬,殆將至骼,謂之曰:「革帶太急。」融曰:「旣非步吏,急帶何爲?」

張融が仮に東に出た時、世祖は張融がどこに住んでいるかと尋ねた。張融は答えて言った。「臣は陸に住むも屋なく、舟に住むも水にあらず。」後日、上は張融の從兄の緒にこのことを尋ねた。緒は言った。「張融は近ごろ東に出て、居所が定まらず、仮に小船を引き、岸の上に住んでおります。」上は大笑いした。虜の中でも張融の名が聞こえ、上は張融に北使の李道固を接遇させた。席に着くと、道固は張融を見て言った。「張融は宋の彭城長史張暢の子ではないか?」張融はしばらく顔をしかめ、言った。「先君は不幸にも、その名が六夷にまで達しました。」豫章王が大いに賓僚を集めた時、張融は炙り肉を食べ始めてすぐに終わり、肉を運ぶ者が去ってしまった。張融は塩と蒜を求めたいと思ったが、口にはついに言わず、ただ人差し指を揺らし、半日してやっと止めた。朝廷に出入りする者は皆、目を拭って驚き見た。八年、朝臣が衆瑞を賀する公事の際、張融は人に支えられて拝礼し起立したが、またも有司に奏上され、許された。司徒右長史に遷った。

原文融假東出,世祖問融住在何處?融答曰:「臣陸處無屋,舟居非水。」後日上以問融從兄緒,緒曰:「融近東出,未有居止,權牽小船,於岸上住。」上大笑。虜中聞融名,上使融接北使李道固,就席,道固顧之而言曰:「張融是宋彭城長史張暢子不?」融嚬蹙久之,曰:「先君不幸,名達六夷。」豫章王大會賔僚,融食炙始行畢,行炙人便去,融欲求鹽蒜,口終不言,方搖食指,半日乃息。出入朝廷皆拭目驚觀之。八年,朝臣賀衆瑞公事,融扶入拜起,復爲有司所奏,見原。遷司徒右長史。

竟陵の張欣時が諸暨縣令の時、罪に坐して死に当たった。欣時の父興世は宋の世に南譙王義宣を討ち、官軍が張融の父暢を殺そうとした時、興世は袍で暢を覆い、そのそばに座らせたので、これによって免れることができた。興世が亡くなると、張融は高履を履き土を背負って墳墓を築いた。この時、張融は竟陵王子良に啓上し、欣時の死を代わることを乞うた。子良は答えて言った。「これは長史の美事ではあるが、朝廷には常典があるので、長史の懐くところのようにはできまい。」黄門郎、太子中庶子、司徒左長史に遷った。張融は孝義があり、忌月の三旬は音楽を聴かず、嫂に仕えることは非常に謹んだ。宋の丞相義宣が事を起こした時、父暢は同意しなかったため殺されそうになったが、司馬竺超民が諫めて免れた。暢は臨終に諸子に言った。「昔、丞相の事変の時、私は竺司馬によって生き延びた。お前たちは必ずその子弟に報いよ。」後年、超民の孫の微が冬の月に母の喪に遭い、貧しく暮らしていた。張融は弔問に行き、衣服をすべて脱いで賻とし、牛の皮を被って帰った。常に兄として微に仕えた。豫章王嶷、竟陵王子良が薨じると、自らかつて佐吏を経た身として、哭するごとにことごとく慟哭した。

原文竟陵張欣時爲諸暨令,坐罪當死。欣時父興世宋世討南譙王義宣,官軍欲殺融父暢,興世以袍覆暢而坐之,以此得免。興世卒,融著高履負土成墳。至是融啓竟陵王子良,乞代欣時死。子良答曰:「此乃是長史美事,恐朝有常典,不得如長史所懷。」遷黃門郎,太子中庶子,司徒左長史。融有孝義,忌月三旬不聽樂,事嫂甚謹。宋丞相義宣起事,父暢以不同將見殺,司馬竺超民諫免之。暢臨終謂諸子曰:「昔丞相事難,吾緣竺司馬得活,爾等必報其子弟。」後超民孫微冬月遭母喪,居貧,融往弔之,悉脫衣以爲賻,披牛被而反。常以兄事微。豫章王嶷、竟陵王子良薨,自以身經佐吏,哭輙盡慟。

建武四年(497年)、病没した。享年五十四歳。遺言で、白い旌旗に旒(飾り)を付けず、祭祀を設けず、人に麈尾を持たせて屋根に登らせて魂を呼び戻すように命じた。言うには、「私は生前親交のあった者たちは、当然、雲の上で一笑に付すだろう。三千の銭で棺を買い、新しい衾(布団)は作らないでくれ。左手に『孝経』と『老子』を、右手に小品の『法華経』を持たせよ。妾二人は、哀悼の儀式が終わったら、それぞれ実家に帰らせよ。」また言った。「私の平生の風調からして、どうして女たちに行わせて声を上げて泣かせることがあろうか、しばらく閨閤(寝室)に留める必要はない。」

原文建武四年,病卒。年五十四。遺令建白旌無旒,不設祭,令人捉麈尾登屋復魂。曰:「吾生平所善,自當凌雲一笑。三千買棺,無製新衾。左手執《孝經》、《老子》,右手執小品《法華經》。妾二人,哀事畢,各遣還家。」又曰:「以吾平生之風調,何至使婦人行哭失聲,不須暫停閨閤。」

張融の玄義(仏教・老荘の深遠な道理)には師匠の教えはなかったが、神がかった理解力は人並み外れており、僧侶(白)と俗人(黒)の談論において、めったに彼に抗し得る者はなかった。永明年間(483-493年)中、病気にかかり、『門律自序』を著して言った。「私の文章の体(スタイル)は、世間の人々を驚かすことが多いが、あなたは耳で聞いて心で師とすべきであり、耳を心の師匠にしてはならない。そもそも文に常に一定の体があるだろうか、ただ体を持つことを常とするだけで、まさに常にその体を持つようにすべきなのだ。大丈夫たるもの、『詩経』『書経』を削り、礼楽を制定すべきであり、どうして因循姑息に他人の籬まがきの下に寄りかかることなどあろうか。しかも中世(魏晋)の文章は、道の本体が欠け変化し、わずかな助け合いで、古いものを繕っているに過ぎない。私の文章の体は、何ら異なるところがあろうか、どうして温かさと寒さの叙述を転倒させたり、哀楽を総合して歌と哭を横たえたりしたことがあろうか。まさに、言葉を連ねることが多く出て、事柄を並べることに拘束されず、畦道もなく、道でも路でもないだけである。しかしその音を伝え逸韻を響かせ、節を鳴らし韻を高くするのは、あるいはまだ極まっていないかもしれないが、すでにその到達すべきところには極まっている。あなたがもし別に体を得るならば、私は拘らない。私の義(思想・主張)もまた文と同じで、急な時には私に乗り、困窮した時には物に非ず。私は師もなく友もなく、文も句もなく、ただ孤高の精神と独自の逸脱があるだけだ。義の用いられる所は、性(本性)を清波に入れさせ、塵を洗い流してなお沐浴させることにある。名声を釣り利益を同じくし、価値を高く掲げて、この道場を、危険な軍の道のようにしてはならない。私はかつて僧侶の言葉を好み、多く法の弁論をほしいままにしたが、これはすべて言笑の間に遊んだものであり、あなたたちにはその幸いがない。」また言った。「人生の口は、まさに道を論じ義を説き、ただ飲み食いするためだけにある。この他は網を張った木のようなものだ。私はいつもそうでないことを恨みに思っている、あなたたちは綱を振るうべきである。」

原文融玄義無師法,而神解過人,白黑談論,鮮能抗拒。永明中,遇疾,爲《門律自序》曰:「吾文章之體,多爲世人所驚,汝可師耳以心,不可使耳爲心師也。夫文豈有常體,但以有體爲常,政當使常有其體。丈夫當刪《詩》《書》,制禮樂,何至因循寄人籬下。且中代之文,道體闕變,尺寸相資,彌縫舊物。吾之文章,體亦何異,何嘗顛溫敘而錯寒暑,綜哀樂而橫歌哭哉?政以屬辭多出,比事不羈,不阡不陌,非途非路耳。然其傳音振逸,鳴節竦韻,或當未極,亦已極其所矣。汝若復別得體者,吾不拘也。吾義亦如文,造次乘我,顛沛非物。吾無師無友,不文不句,頗有孤神獨逸耳。義之爲用,將使性入清波,塵洗猶沐。無得釣聲同利,舉價如高,俾是道場,險成軍路。吾昔嗜僧言,多肆法辯,此盡遊乎言笑,而汝等無幸。」又云:「人生之口,正可論道說義,惟飲與食。此外如樹網焉。吾每以不爾爲恨,爾曹當振綱也。」

臨終に際し、またその子に戒めて言った。「手沢(父の手の跡)がそこに残っている、父の書を読まないとは!ましてや父の音声と心情は、その韻(文章の調子)に婉然と在る。私の考えはそうではない、別にあなたに音(言葉)を遺す。私の文体は英絶で、変化してはしばしば奇をてらい、すでに漢魏に遠く及ぶことはできないので、晋宋を嘆じて取り上げることはない。どうして私の天与の才能だろうか、家の名声を墜とさないだけである。あなたがもし読まないならば、父祖の意はあなたに見せたいということだ。号哭して読みなさい。」張融は自ら自分の文集を『玉海』と名付けた。司徒の褚淵が『玉海』の名について尋ねると、張融は答えた。「玉は徳に比べ、海は上善(最高の善)を尊ぶ。」文集数十巻が世に行われた。

原文臨卒,又戒其子曰:「手澤存焉,父書不讀!況父音情,婉在其韻。吾意不然,別遺爾音。吾文體英絕,變而屢奇,旣不能遠至漢魏,故無取嗟晉宋。豈吾天挺,蓋不隤家聲。汝若不看,父祖之意欲汝見也。可號哭而看之。」融自名集爲《玉海》。司徒褚淵問《玉海》名,融答:「玉以比德,海崇上善。」文集數十卷行於世。

張氏で名を知られた者は、前に張敷、張演、張鏡、張暢がおり、後には張充、張融、張巻、張稷がいる。

原文張氏知名,前有敷、演、鏡、暢,後有充、融、卷、稷。

周顒は字を彦倫といい、汝南郡安城県の人である。晋の左光禄大夫の周顗の七世の孫である。祖父の周虎頭は員外常侍であった。父の周恂は帰郷の相であった。

原文周顒字彥倫,汝南安城人。晉左光祿大夫顗七世孫也。祖虎頭,員外常侍。父恂,歸郷相。

周顒は若い頃、族祖父の周朗に認められた。初めて官に就き、海陵国の侍郎となった。益州刺史の蕭恵開は周顒を賞賛し異才と認め、連れて蜀に入り、厲鋒将軍とし、肥郷・成都の二県令を兼ねさせた。恵開の輔国府参軍に転じ、将軍・県令はもとのままとした。引き続き府の主簿となった。常に恵開の性格があまりに険峻であると感じ、たびたび諫言したが、恵開は喜ばず、周顒に答えて言った。「天険、地険、王公が険を設ける、ただ険をどのように用いるかを問うだけだ。」恵開に従って都に戻った。

原文顒少爲族祖朗所知。解褐海陵國侍郎。益州刺史蕭惠開賞異顒,攜入蜀,爲厲鋒將軍,帶肥郷、成都二縣令。轉惠開輔國府參軍,將軍、令如故。仍爲府主簿。常謂惠開性太險峻,每致諫,惠開不悅,答顒曰:「天險地險,王公設險,但問用險何如耳。」隨惠開還都。

宋の明帝は言理(哲理・論理)を好み、周顒に文辞と道理があるとして、殿内に引き入れ、側近として宿直させた。帝の行った残酷な事柄について、周顒は公然と諫めることはできず、しばしば経典中の因縁と罪福の話を誦し、帝もそれで少しは止めた。安成王撫軍行参軍に転じた。元徽の初め(473年)、出向して剡県令となり、恩恵を施し、百姓は彼を慕った。戻って邵陵王南中郎三府参軍を歴任した。太祖(蕭道成)が政務を補佐すると、周顒を引き入れて接遇した。周顒は尺牘(手紙文)に長けており、沈攸之が絶交書を送ってきた時、太祖は口述して周顒に返答文を作らせた。斉の台(王府)の殿中郎に転じた。

原文宋明帝頗好言理,以顒有辭義,引入殿內,親近宿直。帝所爲慘毒之事,顒不敢顯諫,輙誦經中因緣罪福事,帝亦爲之小止。轉安成王撫軍行參軍。元徽初,出爲剡令,有恩惠,百姓思之。還歷邵陵王南中郎三府參軍。太祖輔政,引接顒。顒善尺牘,沈攸之送絕交書,太祖口授令顒裁答。轉齊臺殿中郎。

建元の初め(479年)、長沙王参軍、後軍参軍、山陰県令となった。県では以前から滂民(雑役に使役される特定の民)を定め、雑役に供していた。周顒は太守の聞喜公蕭子良に言上した。「ひそかに見るに、滂民の困窮は、まことに極まっています。役務の命令は一定しており、応えるだけの力は次第に尽き、逼迫して駆り立て催促され、安住の地がありません。険しい所に逃げ隠れする者もいれば、困窮した者は溝や水路で自ら命を絶つ者もいます。また腕を折り手を切り、みずから傷つけ落命する者もあり、人を買い子を質に入れ、急場の難に一時的に赴く者もいます。毎度滂の使役が発動する時、常に急かされて赴くことになり、しばしば杖で打たれ記録され、階の下で額を地につけ、涙を流して哀願し、どうすることもできません。下官は食事の際に箸を置き、文書を書く時に筆を伏せ、そのことを長く考え、悲しみを禁じ得ませんでした。事務がうまくいかず、やむを得ず鞭打ちの罰を加えざるを得ず、この辛酸を見るにつけ、時が過ぎ去るのを待てません。山陰は国(郡)の治所であり、他の城よりも事柄が倍多い。しかし諸県の様子をうかがうと、どこも行き詰まっているようです。ただ上虞県だけは百戸に一滂で、非常に余裕があり、この列城を超える凋弊と枯渇はありません。広く倒懸の苦しみを救う方策を設け、流れを開き便宜を図るべきであり、そうすれば患いを転じて功績とし、得ることは遠くないでしょう。」戻って文恵太子の中軍録事参軍となり、府に従って征北に転じた。文恵太子が東宮にいた時、周顒は正員郎に戻り、始興王前軍諮議となった。殿省に直侍し、再び賞遇を受けた。

原文建元初,爲長沙王參軍,後軍參軍,山陰令。縣舊訂滂民,以供雜使。顒言之於太守聞喜公子良曰:「竊見滂民之困,困實極矣。役命有常,祗應轉竭,蹙迫驅催,莫安其所。險者或竄避山湖,困者自經溝瀆爾。亦有摧臂斮手,苟自殘落,販傭貼子,權赴急難。每至滂使發動,遵赴常促,輙有柤杖被錄,稽顙階垂,泣涕告哀,不知所振。下官未嘗不臨食罷箸,當書偃筆,爲之久之,愴不能已。交事不濟,不得不就加捶罰,見此辛酸,時不可過。山陰邦治,事倍餘城;然略聞諸縣,亦處處皆躓。唯上虞以百戶一滂,大爲優足,過此列城,不無凋罄。宜應有以普救倒懸,設流開便,則轉患爲功,得之何遠。」還爲文惠太子中軍錄事參軍,隨府轉征北。文惠在東宮,顒還正員郎,始興王前軍諮議。直侍殿省,復見賞遇。

周顒の音声と言葉は弁舌麗しく、言葉が尽きることがなく、宮商(音律)や朱紫(色彩)のように、口を開けばすぐに句となった。広く百家に渉り、仏理に長けていた。『三宗論』を著した。空仮名を立て、不空仮名を立てた。不空仮名を設けて空仮名を難じ、空仮名を設けて不空仮名を難じた。仮名空で二宗を難じ、また仮名空を立てた。西涼州の智林道人が周顒に手紙を送って言った。「この義の旨趣は、始めて開かれたものではないようで、妙なる声は絶えて六、七十年になります。貧道が二十歳の時、すでにこの義を得て、ひそかにいつも喜び、共にする者がありませんでした。若い頃、長安の古老に会うと、多くが関中の高勝(優れた者)は昔からこの義があったと言い、法集が盛んな時、深くこの趣きを得た者は、もとより多くはありませんでした。江東に渡ってからはほとんど一人もいません。貧道が麈尾を取ってから四十余年、東西で講説し、誤って一時の重きをなしましたが、他の義は宗録にかなり見られますが、ただこの道だけは白黒(僧俗)問わず一人も得た者がおらず、そのために病気になりました。思いがけずこの音声がにわかに耳に入り、まさに真実の行道第一の功德です。」その論がこのように重んじられた。

原文顒音辭辯麗,出言不窮,宮商朱紫,發口成句。汎涉百家,長於佛理。著《三宗論》。立空假名,立不空假名。設不空假名難空假名,設空假名難不空假名。假名空難二宗,又立假名空。西涼州智林道人遺顒書曰:「此義旨趣似非始開,妙聲中絕六七十載。貧道年二十時,便得此義,竊每歡喜,無與共之。年少見長安耆老,多云關中高勝乃舊有此義,當法集盛時,能深得斯趣者,本無多人。過江東略是無一。貧道捉麈尾來四十餘年,東西講說,謬重一時,餘義頗見宗錄,唯有此塗白黑無一人得者,爲之發病。非意此音猥來入耳,始是眞實行道第一功德。」其論見重如此。

周顒は鍾山の西に隠居の家を建て、休暇の日にはそこに帰った。太子僕に転じ、著作を兼ね、起居注を撰した。中書郎に昇進し、著作はもとのまま兼ねた。常に東宮に遊び侍った。若い頃、母方の親族である車騎将軍臧質の家で衛恒の散隷書法を得て、それを学び非常に巧みになった。文恵太子が周顒に玄圃の茅葺きの書斎の壁に書かせようとすると、国子祭酒の何胤が倒薤書(書体の一種)で書いて周顒と交換してほしいと求めた。周顒は笑って答えて言った。「天下に道があれば、丘(孔子)は易えようとしない。」

原文顒於鍾山西立隱舍,休沐則歸之。轉太子僕,兼著作,撰起居注。遷中書郎,兼著作如故。常遊侍東宮。少從外氏車騎將軍臧質家得衞恒散隷書法,學之甚工。文惠太子使顒書玄圃茅齋壁,國子祭酒何胤以倒薤書求就顒換之,顒笑而答曰:「天下有道,丘不與易也。」

賓客や友人が集まるたびに、周顒は席を空けて語り合い、言葉の韻律が流れるようで、聞く者は疲れを忘れた。老荘と易経にも通じ、張融と出会うと、いつも玄言(深遠な議論)で互いに滞らせ、一日中解けなかった。清貧で寡欲で、終日野菜食を続け、妻子はいたが、一人で山の家に住んだ。衛将軍の王儉が周顒に言った。「卿は山中で何を食べているのか。」周顒は言った。「赤米と白塩、緑の葵と紫の蓼です。」文恵太子が周顒に尋ねた。「菜食でどの味が最も勝っているか。」周顒は言った。「春の初めの早い韮と、秋の末の遅い菘(白菜)です。」当時、何胤もまた仏法を深く信じ、妻妾を持たなかった。太子がまた周顒に尋ねた。「卿の精進は何胤と比べてどうか。」周顒は言った。「三途八難(仏教でいう苦難の世界)は、ともに免れられません。しかしそれぞれに煩わしいものがあります。」太子が言った。「その煩わしいものとは何か。」答えて言った。「周(私)には妻がおり、何(胤)には肉があります。」その言葉の応変は、すべてこのようなものであった。

原文每賔友會同,顒虛席晤語,辭韻如流,聽者忘倦。兼善老、易,與張融相遇,輙以玄言相滯,彌日不解。清貧寡欲,終日長蔬食,雖有妻子,獨處山舍。衞將軍王儉謂顒曰:「卿山中何所食?」顒曰:「赤米白鹽,綠葵紫蓼。」文惠太子問顒:「菜食何味最勝?」顒曰:「春初早韭,秋末晚菘。」時何胤亦精信佛法,無妻妾。太子又問顒:「卿精進何如何胤?」顒曰:「三塗八難,共所未免。然各有其累。」太子曰:「所累伊何?」對曰:「周妻何肉。」其言辭應變,皆如此也。

国子博士に転じ、著作郎の兼任は従前の通りであった。太学の諸生は彼の風采を慕い、華やかな弁論を競って事とした。後に何胤が生き物を断つことを言い、なお肉、白魚、干し肉、糖漬けの蟹を食べようとしたが、それは生き物を見ていないからだと考えた。蚶や蠣を食べることについて疑念を抱き、学生に議論させた。学生の鍾岏は言った。『白魚が干し肉になる時は、急に屈伸し、蟹が糖漬けになる時は、騒ぎ立てるのが甚だしい。仁人の心遣いは、深く痛みを思うようなものである。車螯や蚶蠣に至っては、眉目が内に欠け、渾沌の奇に恥じ、殻が外に閉ざされ、金人の慎みではない。枯れず栄えず、かつて草木にも及ばず、香りも臭いもなく、瓦礫と何の違いがあろう。故に長く厨房に充たし、永く口実とすべきである。』竟陵王の子良は鍾岏の議論を見て、大いに怒った。

原文轉國子博士,兼著作如故。太學諸生慕其風,爭事華辯。後何胤言斷食生,猶欲食肉、白魚、脯、糖蟹,以爲非見生物。疑食蚶蠣,使學生議之。學生鍾岏曰:「之就脯,驟於屈伸,蟹之將糖,躁擾彌甚。仁人用意,深懷如怛。至於車螯蚶蠣,眉目內闕,慚渾沌之奇,礦殼外緘,非金人之慎。不悴不榮,曾草木之不若;無馨無臭,與瓦礫其何算。故宜長充庖廚,永爲口實。」竟陵王子良見岏議,大怒。

何胤の兄の何点も、遁世の節操と清らかな信義があった。顒は手紙を送り、菜食を勧めた。言うには、『丈人が未だに極みの遠き踏み行いを極められないのは、あるいは全くの菜食に近づかないことにあるのではありますまいか?洒脱に離れ分析する議論、鼎俎や網罟の興りは、簡策に載せられ、その来たるは実に遠い。誰が敢えて干渉し議することができようか。聖人の膳羞を設けるのを見ると、なおまたそれに品節を為すのは、茹毛飲血が生民と共に始まり、放って裁かなければ、限界がなくなるからであろう。士として善くある者は、己を恕すことを懐としないだろうか?故に各々静かに封疆を守り、互いに侵し越えることはない。況や変ずることの大なるものは、死生に過ぎるものはなく、生において重んずるものは、性命に越えるものはない。性命は彼にとって極めて切実であり、滋味は我にとっては遠ざけることができる。しかるに終身朝晡、それを頼りにして永歳を過ごし、彼は冤残に就いても、自ら列べることができず、我が業は久長である。ああ、恐ろしいことだ。かつて区区たる微卵は、脆く薄くて容易に傷つき、あの弱き麑は、顧み歩むに宜しく挫けるべきである。その飲み喰い飛び沈むのを見れば、人をして憐悼せしめる。ましてや心心に撲ち褫ぎ、さらに恣に忍びて吞み嚼むことを加えるなど、できることか。野牧に群れを盛んにし、閉じ込めて重ねて囲い、肉を量り毛を揣み、枝剝を待つに至っては、土が地に委ねるが如く、皆が常理と言う。愴然として息をつくべきである。事は一つの道筋だけではない。もし三世の理が誣わしいと言うならば、幸いであり大いに快い。もしこの道が然りとするならば、形を受けることが未だ止まず、一往一来、一生一死、輪廻は常事である。雑報は家の如く、人天は客の如し。客に遇う日は少なく、家にいる日は多い。我らは業を信じ、長く免れるには足りず、則ち傷心の惨は、行くもまた自ら及ぶ。丈人は血気の類について、身をもって践むことはないが、晨鳧夜鯉に至っては、屠門に備えを取らずにはいられない。財貝は一度盗人の手に経れば、なお廉士に棄てられる。生性は一旦鸞刀を啓けば、寧ろ慈心の忍ぶところとなろうか。騶虞は飢えていても、自ら死んだ草でなければ食わない。その風を聞けば、人をして多く愧じさせないだろうか。衆生がこの形質を受けて、肌膋を蓄えるのは、皆その積み重なった癡迷によるものであり、沈流して戻らず、穢濁を受けて報い、苦酸を歴て長く、この甘きと肥えたるは、皆無明の報いの集まりである。何ぞ至ってまたこの滋腴を引き、自ら腸胃を汚すに至らん。丈人はこれを得ること素よりあり、聊かまた寸言を以て発起するのみである。』

原文胤兄點,亦遁節清信。顒與書,勸令菜食。曰:「丈人之所以未極遐蹈,或在不近全菜邪?脫灑離析之討,鼎俎網罟之興,載之簡策,其來寔遠。誰敢干議?觀聖人之設膳脩,仍復爲之品節,蓋以茹毛飲血,與生民共始,縱而勿裁,將無〓畔。善爲士者,豈不以恕己爲懷?是以各靜封疆,罔相陵軼。況乃變之大者,莫過死生;生之所重,無踰性命。性命之於彼極切,滋味之在我可賒,而終身朝晡,資之以永歲,彼就冤殘,莫能自列,我業久長,吁哉可畏。且區區微卵,脆薄易矝,歂彼弱麑,顧步宜衄。觀其飲喙飛沈,使人憐悼,況可心心撲褫,加復恣忍吞嚼。至乃野牧盛羣,閉豢重圈,量肉揣毛,以俟枝剝,如土委地,僉謂常理,可爲愴息,事豈一塗。若云三世理誣,則幸矣良快,如使此道果然,而受形未息,則一往一來,一生一死,輪迴是常事。雜報如家,人天如客,遇客日尠,在家日多,吾儕信業,未足長免,則傷心之慘,行亦自及。丈人於血氣之類,雖無身踐,至於晨鳧夜鯉,不能不取備屠門。財貝之一經盜手,猶爲廉士所棄;生性之一啓鸞刀,寧復慈心所忍。騶虞雖飢,非自死之草不食,聞其風豈不使人多愧。衆生之稟此形質,以畜肌膋,皆由其積壅癡迷,沈流莫反,報受穢濁,歷苦酸長,此甘與肥,皆無明之報聚也。何至復引此滋腴,自汙腸胃。丈人得此有素,聊復寸言發起耳。」

顒は官に在る時に卒した。時に王儉が『孝経』を講じて未だ終わらず、曇済を挙げて自ら代わらせた。学者はこれを栄誉とした。官は給事中であった。

原文顒卒官時,會王儉講《孝經》未畢,舉曇濟自代,學者榮之。官爲給事中。

史臣が言う。弘毅は容を存し、至仁は貌に表れる。汲黯の剛直、崔琰の声姿、然る後に雄桀を憚らず、亟に譏犯を成すことができる。張融は心を標し旨を託し、全く塵外に等しく、風雲を吐納し、人物を論ぜず、しかるに君に干え友に会し、義を敦くし忠を納れ、誕にして檢を越えず、常に名教に在り。若し奇偉の称に至っては、則ち虞飜、陸績も前に独り擅にすることを得ず。

原文史臣曰:弘毅存容,至仁表貌,汲黯剛戇,崔琰聲姿,然後能不憚雄桀,亟成譏犯。張融標心託旨,全等塵外,吐納風雲,不論人物,而干君會友,敦義納忠,誕不越檢,常在名教。若夫奇偉之稱,則虞飜、陸績不得獨擅於前也。