南齊書

巻三十九 列伝第二十

巻三十九 列伝第二十

劉瓛は字あざなを子珪といい、沛国相の人で、晋の丹陽尹劉惔の六世の孫である。祖父の弘之は給事中であった。父の恵は治書御史であった。

原文劉瓛字子珪,沛國相人,晉丹陽尹惔六世孫也。祖弘之,給事中。父惠,治書御史。

劉瓛は初め州から祭酒主簿に召された。宋の大明四年、秀才に挙げられ、兄の劉璲も名声があり、先に州挙に応じていた。この時、別駕の東海王元曾が劉瓛の父の恵に手紙を送って言った。「近年、賢子が秀才に充てられ、州里はまさに人材を得たと言えよう。」奉朝請に任じられたが、就任しなかった。

原文瓛初州辟祭酒主簿。宋大明四年,舉秀才,兄璲亦有名,先應州舉,至是別駕東海王元曾與瓛父惠書曰:「比歲賢子充秀,州閭可謂得人。」除奉朝請,不就。

若い頃から学問に篤く励み、『五経』に広く通じていた。門徒を集めて教授し、常に数十人がいた。丹陽尹の袁粲が後堂で夜に集まり、劉瓛が座にいた時、袁粲は庭中の柳の木を指して劉瓛に言った。「人はこれを劉尹(劉惔)の時の木だと言い、常にその高潔な風格を思う。今また卿の清らかな徳を見る。まさに衰えていないと言えよう。」秘書郎に推薦したが、用いられなかった。邵陵王の郡主簿、安陸王国常侍、安成王の撫軍行参軍に任じられたが、公務の不手際で免職された。劉瓛はもともと官途に志がなく、これ以降再び仕官しなかった。車騎行参軍、南彭城郡丞、尚書祠部郎に任じられたが、いずれも拝命しなかった。袁粲が誅殺されると、劉瓛は変装して弔問に行き、葬儀の費用を助けた。

原文少篤學,博通《五經》。聚徒教授,常有數十人。丹陽尹袁粲於後堂夜集,瓛在座,粲指庭中柳樹謂瓛曰:「人謂此是劉尹時樹,每想高風;今復見卿清德,可謂不衰矣。」薦爲祕書郎,不見用。除邵陵王郡主簿,安陸王國常侍,安成王撫軍行參軍,公事免。瓛素無宦情,自此不復仕。除車騎行參軍,南彭城郡丞,尚書祠部郎,竝不拜。袁粲誅,瓛微服往哭,並致賻助。

太祖(蕭道成)が即位すると、劉瓛を華林園に召して語らい、「私は天に応じて革命を起こしたが、世間の議論はどう思っているか」と劉瓛に尋ねた。劉瓛は答えて言った。「陛下が前の過ちを戒め、寛厚さを加えられるならば、たとえ危険でも安泰にできます。もしその轍を踏み繰り返すならば、たとえ安泰でも必ず危険になります。」退出した後、帝は司徒の褚淵を顧みて言った。「まさに方正で直諫するとは。学士はやはり常人を超えている。」劉瓛にしばしば入朝するよう命じたが、劉瓛は詔による召しでない限り、宮門に赴くことはなかった。

原文太祖踐阼,召瓛入華林園談語,謂瓛曰:「吾應天革命,物議以爲何如?」瓛對曰:「陛下誡前軌之失,加之以寬厚,雖危可安;若循其覆轍,雖安必危矣。」旣出,帝顧謂司徒褚淵曰:「方直乃爾!學士故自過人。」敕瓛使數入,而瓛自非詔見,未嘗到宮門。

上(武帝)は劉瓛を中書郎に任用しようとし、吏部尚書の何戢にその旨を伝えさせた。何戢は劉瓛に言った。「上は鳳池(中書省)に君を置きたいとお考えだが、君の資歴が軽いことを残念に思われている。しばらく以前に任じられた官(郡丞)に就き、少し日が経てば国子博士に転じ、すぐに後任を授けよう。」劉瓛は言った。「平生、栄達を望む心はありません。今、中書郎を得て拝命するなど、どうして本心でしょうか。」後に母が老いて養いが欠けることを理由に、重ねて彭城郡丞に拝命した。司徒の褚淵に言った。「自分を省みて朝廷を治める才能はなく、願うところはただ彭城丞を保つことだけです。」上はまた劉瓛に総明観祭酒を兼務させ、豫章王の驃騎記室参軍に任じ、郡丞は元のままとしたが、劉瓛は結局就任しなかった。武陵王蕭曅が会稽太守となった時、上は劉瓛に蕭曅のために講義させようとし、会稽郡丞に任じた。学徒で彼に従う者はますます多くなった。

原文上欲用瓛爲中書郎,使吏部尚書何戢喻旨。戢謂瓛曰:「上意欲以鳳池相處,恨君資輕,可且就前除,少日當轉國子博士,便卽後授。」瓛曰:「平生無榮進意,今聞得中書郎而拜,豈本心哉!」後以母老闕養,重拜彭城郡丞。謂司徒褚淵曰:「自省無廊廟之才,所願唯保彭城丞耳。」上又以瓛兼總明觀祭酒,除豫章王驃騎記室參軍,丞如故,瓛終不就。武陵王曅爲會稽太守,上欲令瓛爲曅講,除會稽郡丞,學徒從之者轉衆。

永明初年、竟陵王蕭子良が征北司徒記室に請うた。劉瓛は張融と王思遠に手紙を送って言った。「教えを奉じて恭しく召しに従い、公務を止めるべき時ではありますが、ただ平生の素抱が、恩顧に背くことを思います。私は世間との交わりが拙く、仕官して進むことに慣れておらず、かつて行佐を務めた時、公務に及ばず免職されたことがあり、これは皆、ご眷顧の方々のご存知の通りです。己を量り分をわきまえ、栄達を望みません。昔から貧困に苦しみ、それに疎懶さが加わり、衣服や容姿、髪型は、十分に人を驚かせるものがあります。その中で、親が老いて供養が必要となり、裾をからげて徒歩で、かろうじて今日に至り、二代で一紀になります。先朝(高帝)は私に更に自らを修正させ、官位の階梯の中で努め励ませようとされ、私のぼろぼろの衣服を見て、時に衣服を賜り、袁粲や褚淵ら諸公も皆、勧め励まされましたが、結局自ら改めることはできませんでした。一度やめたことを、どうして再び行えましょうか。昔、冠を一度免ぜられた者が再び頭に加えなかった人がおり、私は常にこれが進退の礼儀に適っていると考えます。古くは賢によって爵を定め、ある者は任期が満ちて老いを理由に辞し、功績によって禄を定め、ある者は身の病を理由に帰る者がありました。遠く前の良臣を仰ぎ見て、自分はどうあるべきか。また、上(母)も下(自分)も年をとり、ますます官職に居続けることを望まず、朝夕の孝養を欠くことを望みません。先朝はこの件について、曲げて従うことを許され、故に連年栄誉ある任命を拝命せず、わずかな禄を帯びて貼り付けることができました。この状態に慣れて久しく、また年をとり病が侵している今、どうして河間献王の聴講を主宰し、東平憲王の僚属の中に身を置くことができましょうか。もともと俗を絶つ操りはなく、また高ぶって高慢に振る舞うこともできません。これもまた諸賢が深く察すべきことです。近ごろ初めての教えを奉じ、早くも客遊の末席に身を託すことを望みましたが、固く栄位を辞したのは、その故は何でしょうか。古の王侯大人が、時にこれをもって四方の士を招き、最も優れた者には燕の昭王の道に車が集まり、君王の義を慕い、魏の闕に馬を駆り立てて、公子の仁を高くしたように、続いて申培や白生を追って楚に入り、鄒陽や枚乗を羨んで梁に遊んだ者がいました。私は敢えて昔の賢者に並ぼうとはせず、九九の術の遺跡に従いたいだけです。聞道し学問に集うことは変わらず、幸いにも職務の拘束や妨げがなく、温凊の礼を奉じ、私の計画を展開できることを願い、志はここにあります。」歩兵校尉に任じられたが、やはり拝命しなかった。

原文永明初,竟陵王子良請爲征北司徒記室。瓛與張融王思遠書曰:「奉教使恭召,會當停公事,但念生平素抱,有乖恩顧。吾性拙人閒,不習仕進,昔嘗爲行佐,便以不能及公事免黜,此皆眷者所共知也。量己審分,不敢期榮。夙嬰貧困,加以疏懶,衣裳容髮,有足駭者。中以親老供養,褰裳徒步,脫爾逮今,二代一紀。先朝使其更自脩正,勉厲於階級之次,見其襤縷,或復賜以衣裳,袁、褚諸公咸加勸勵,終不能自反也。一不復爲,安可重爲哉?昔人有以冠一免不重加於首,每謂此得進止之儀。古者以賢制爵,或有秩滿而辭老,以庸制祿,或有身病而求歸者,永瞻前良,在己何若。又上下年尊,益不願居官次,廢晨昏也。先朝爲此,曲申從許,故得連年不拜榮授,而帶帖薄祿。旣習此歲久,又齒長疾侵,豈宜攝齋河閒之聽,廁迹東平之僚?本無絕俗之操,亦非能偃蹇爲高,此又諸賢所當深察者也。近奉初教,便自希得託迹於客遊之末,而固辭榮級,其故何耶?以古之王侯大人,或以此延四方之士,甚美者則有輻湊燕路,慕君王之義,驤鑣魏闕,高公子之仁,繼有追申、白而入楚,羨鄒枚而遊梁,吾非敢叨夫曩賢,庶欲從九九之遺蹤。旣於聞道集泮不殊,而幸無職司拘礙,可得奉溫凊,展私計,志在此爾。」除步兵校尉,並不拜。

劉瓛は姿形が小さく繊細であったが、儒学において当時第一であり、都の士子や貴族の子弟は皆、席を下りて教えを受けた。性格は謙虚で率直、通達して美しく、高い名声を以て自らを誇らなかった。旧知を訪ねる時は、ただ一人の門生が胡牀を持って従うだけで、主人に取り次がれないうちから、座って問答した。檀橋に住み、瓦屋が数間あったが、上は皆、雨漏りがしていた。学徒は敬慕して、敢えて指摘せず、「青溪」と呼んだ。竟陵王蕭子良は親しく往きて謁見した。永明七年、世祖(武帝)に上表して劉瓛のために学館を立てさせ、揚烈橋の故主の邸宅を与えた。生徒は皆、祝賀した。劉瓛は言った。「立派な家屋は人の災いとなる。この華やかな邸宅がどうして私の住まいであろうか。幸いにも講堂として下さればよいが、それでも害を受けることを恐れる。」移り住む前に、病にかかった。子良は劉瓛に学ぶ者である彭城の劉絵、従陽の范縝に命じて蕭曅と共に劉瓛の宅で斎会を営ませた。死去した時、門人で学んだ者は皆、喪服を着て臨み送った。時に五十六歳。

原文瓛姿狀纖小,儒學冠於當時,京師士子貴遊莫不下席受業。性謙率通美,不以高名自居。遊詣故人,唯一門生持胡牀隨後,主人未通,便坐問答。住在檀橋,瓦屋數閒,上皆穿漏。學徒敬慕,不敢指斥,呼爲青溪焉。竟陵王子良親往脩謁。七年,表世祖爲瓛立館,以揚烈橋故主第給之,生徒皆賀。瓛曰:「室美爲人災,此華宇豈吾宅邪?幸可詔作講堂,猶恐見害也。」未及徙居,遇病,子良遣從瓛學者彭城劉繪、從陽范縝將曅於瓛宅營齋。及卒,門人受學者並弔服臨送。時年五十六。

劉瓛は至誠の天性を持ち、祖母が腫れ物を患って一年経った時、手に膏薬を持ち、指が浸されて爛れた。母の孔氏は非常に厳格で明らかな人で、親戚に言った。「阿稱はまさに今世の曾子である。」阿稱は劉瓛の幼名である。四十歳を過ぎても、まだ婚約相手がいなかった。建元年間、太祖(高帝)と司徒の褚淵が劉瓛のために王氏の娘を娶らせた。王氏が壁に穴を開けて履を掛けた時、土が孔氏の寝床に落ち、孔氏が不機嫌になったので、劉瓛はすぐに妻を離縁した。父の喪に服した時、喪屋から出ず、足が曲がり、杖なしでは立てなくなった。今上(梁の武帝)の天監元年、詔を下して劉瓛のために碑を立て、諡を貞簡先生とした。著した文集は全て礼義に関するもので、世に行われた。

原文瓛有至性,祖母病疽經年,手持膏藥,漬指爲爛。母孔氏甚嚴明,謂親戚曰:「阿稱便是今世曾子。」阿稱,瓛小名也。年四十餘,未有婚對。建元中,太祖與司徒褚淵爲瓛娶王氏女。王氏椓壁掛履,土落孔氏牀上,孔氏不悅,瓛卽出其妻。及居父喪,不出廬,足爲之屈,杖不能起。今上天監元年,下詔爲瓛立碑,諡曰貞簡先生。所著文集,皆是禮義,行於世。

初め、劉瓛が『月令』の講義を終えた時、学生の厳植に言った。「江左(東晋)以来、陰陽律数の学は廃れてしまった。私が今これを講じても、かつての面影さえ得られない。」当時、済陽の蔡仲熊は礼学に博識で、人に言った。「およそ鐘律の器は南に在ると、再び調和・平正を得ることは許されない。昔、五音の金石は、本来中土にあった。今すでに南に来て、土気が偏り傾いているので、音律が乖離し調和しない。」劉瓛もこれを正しいと思った。仲熊は安西記室、尚書左丞を歴任した。

原文初,瓛講《月令》畢,謂學生嚴植曰:「江左以來,陰陽律數之學廢矣。吾今講此,曾不得其髣彿。」時濟陽蔡仲熊禮學博聞,謂人曰:「凡鍾律在南,不容復得調平。昔五音金石,本在中土;今旣來南,土氣偏陂,音律乖爽。」瓛亦以爲然。仲熊歷安西記室,尚書左丞。

劉瓛の弟に劉璡がいる。

原文瓛弟璡。

劉璡は字を子璥という。正道を行き、方正で正直であった。宋の泰豫年間、明帝の挽郎となった。秀才に挙げられ、建平王劉景素の征北主簿となり、深く礼遇された。邵陵王の征虜安南行参軍となった。建元初年、武陵王蕭曅の冠軍征虜参軍となった。蕭曅が僚佐と共に飲み、自ら鵞の炙り肉を切った時、劉璡は言った。「刃に応じて俎に落とすのは膳夫の仕事です。殿下が自ら鸞刀を執られるのを、下官は安らかに席に居られません。」そこで立ち上がって退席を請うた。友人である孔澈と同舟して東に入った時、孔澈が岸上の女子を見つめていると、劉璡は敷物を上げて隔て、再び同座しなかった。豫章王の太尉板行佐となった。兄の劉瓛が夜、壁を隔てて劉璡を呼び共に話そうとしたが、劉璡は答えず、ようやく床から下りて衣服を着て立ち、それから応えた。劉瓛がなぜ遅いのかと尋ねると、劉璡は言った。「さっき帯を締め終わっていなかったのです。」その操りを守る姿勢はこのようなものであった。文恵太子が劉璡を召して東宮に侍らせると、上奏文を提出する度に、草稿を削った。まもなく中兵に任命され、記室参軍大司馬軍事、射声校尉を兼務し、官のまま死去した。

原文璡字子璥。方軌正直。宋泰豫中,爲明帝挽郎。舉秀才,建平王景素征北主簿,深見禮遇。邵陵王征虜安南行參軍。建元初,爲武陵王曅冠軍征虜參軍。曅與僚佐飲,自割鵝炙。璡曰:「應刃落俎,膳夫之事,殿下親執鸞刀,下官未敢安席。」因起請退。與友人孔澈同舟入東,澈留目觀岸上女子,璡舉席自隔,不復同坐。豫章王太尉板行佐。兄瓛夜隔壁呼璡共語,璡不答,方下牀著衣立,然後應。瓛問其久,璡曰:「向束帶未竟。」其立操如此。文惠太子召璡入侍東宮,每上事,輙削草。尋署中兵,兼記室參軍大司馬軍事,射聲校尉,卒官。

陸澄は字を彦淵といい、呉郡呉の人である。祖父の陸邵は臨海太守であった。父の陸瑗は州従事であった。

原文陸澄字彥淵,吳郡吳人也。祖邵,臨海太守。父瑗,州從事。

陸澄は幼い頃から学問を好み、広く書物を読み、知らないことはなく、歩くときも座るときも眠るときも食事のときも、手から書物を離さなかった。初めて官に就いて太学博士となり、中軍衞軍府行佐、太宰参軍を経て、太常丞を補任され、郡主簿、北中郎行参軍となった。

原文澄少好學,博覽無所不知,行坐眠食,手不釋卷。起家太學博士,中軍衞軍府行佐,太宰參軍,補太常丞,郡主簿,北中郎行參軍。

宋の泰始初年、尚書殿中郎となり、皇后の諱いみなと外戚への下賜について議論し、いずれも旧例に従って姓を称すべきとした。左丞の徐爰が司馬孚の議を引き合いに出し、皇后は姓を称さないとし、『春秋』では王后を斉に迎えたとあるが、陸澄は典拠を明らかに引用せず、私意で議を立てたとして、官を免ぜられ、白衣の身分で職務を担当した。郎官には従来、杖罰を受ける定めがあったが、有名無実であった。陸澄は在官中に前後して積もった罰を、一日で合わせて千回の杖罰を受けた。通直郎に転じ、中書郎を兼ね、まもなく左丞を兼ねた。

原文宋泰始初,爲尚書殿中郎,議皇后諱及下外,皆依舊稱姓。左丞徐爰案司馬孚議皇后不稱姓,春秋逆王后于齊,澄不引典據明,而以意立議,坐免官,白衣領職。郎官舊有坐杖,有名無實,澄在官積前後罰,一日幷受千杖。轉通直郎,兼中書郎,尋轉兼左丞。

泰始六年、詔により皇太子の朝賀の服は衮冕九章とされた。陸澄は儀曹郎の丘仲起とともに議して言った。「冕服を着て朝賀することは、経文に明記されている。秦は六冕を廃したが、漢の明帝が再び備えた。魏晋以来、臣下に衮冕を着せることを望まず、位が公である者には侍官を加えた。今、皇太子の礼は群臣の上にあり、聖王の盛典に従い、近代の制度を改めるべきである。」まもなく著作正員郎に転じ、兼官はもとのままとした。安成太守に任ぜられたが就任せず、劉韞の撫軍長史に転じ、綏遠将軍・襄陽太守を加えられたが、いずれも拝命しなかった。引き続き劉秉の後軍長史・東海太守に転じた。御史中丞に昇進した。

原文泰始六年,詔皇太子朝賀服衮冕九章,澄與儀曹郎丘仲起議:「服冕以朝,實著經文。秦除六冕,漢明還備。魏晉以來,不欲令臣下服衮冕,故位公者加侍官。今皇太子禮絕羣后,宜遵聖王盛典,革近代之制。」尋轉著作正員郎,兼官如故。除安成太守,轉劉韞撫軍長史,加綏遠將軍、襄陽太守,竝不拜。仍轉劉秉後軍長史、東海太守。遷御史中丞。

建元元年、驃騎諮議の沈憲らが家奴や客が強盗を働いた罪に連座し、子弟が弾劾されたが、沈憲らは平然としていた。左丞の任遐が陸澄が糾弾しなかったことを奏上し、陸澄の免官を請うた。陸澄は上表して自らの無実を訴えた。

原文建元元年,驃騎諮議沈憲等坐家奴客爲劫,子弟被劾,憲等晏然。左丞任遐奏澄不糾,請免澄官。澄上表自理曰:

詔により外廷に詳細な審議を委ねた。尚書令の褚淵が奏上した。「宋の時代、左丞の荀伯子が彭城令の張道欣らを弾劾し、管轄区域内で強盗が頻発したのに捕らえなかった罪で、張道欣らの官を免じた。中丞の王准が糾弾しなかったため、王准も免官となった。左丞の羊玄保が豫州刺史の管義之を弾劾し、譙・梁の群盗について、管義之の官を免じた。中丞の傅隆が糾弾しなかったため、傅隆も免官となった。左丞の羊玄保がまた兖州刺史の鄭從之を弾劾し、布の上納を濫りに行い、租税の綿を加徴した罪で、鄭從之の官を免じた。中丞の傅隆が糾弾しなかったため、傅隆を免官とした。左丞の陸展が建康令の丘珍孫、丹陽尹の孔山士を弾劾し、強盗発生時に捕らえなかった罪で、丘珍孫、孔山士の官を免じた。中丞の何勗が糾弾しなかったため、何勗も免官となった。左丞の劉矇が青州刺史の劉道隆を弾劾し、失火で府庫を焼いた罪で、劉道隆の官を免じた。中丞の蕭惠開が糾弾しなかったため、蕭惠開を免官とした。左丞の徐爰が右衞将軍の薛安都を弾劾し、病気を理由に職務を怠った罪で、薛安都の官を免じた。中丞の張永は糾弾を免れた。陸澄は浅はかな見聞で、後世を惑わせ、上は皇帝の明察を覆い隠し、下は朝廷の識見を欺くものである。ここに現状に基づき、陸澄の現職を免ずることを請う。」詔は言った。「陸澄の上表は根拠に誤りが多いが、深く糾弾するには及ばない。白衣の身分で職務を担当させよ。」

原文詔委外詳議。尚書令褚淵奏:「宋世左丞荀伯子彈彭城令張道欣等,坐界劫累發不禽,免道欣等官;中丞王准不糾,亦免官。左丞羊玄保彈豫州刺史管義之譙梁羣盜,免義之官;中丞傅隆不糾,亦免隆官。左丞羊玄保又彈兖州刺史鄭從之濫上布及加課租綿,免從之官;中丞傅隆不糾,免隆官。左丞陸展彈建康令丘珍孫、丹陽尹孔山士劫發不禽,免珍孫、山士官;中丞何勗不糾,亦免勗官。左丞劉矇彈青州刺史劉道隆失火燒府庫,免道隆官;中丞蕭惠開不糾,免惠開官。左丞徐爰彈右衞將軍薛安都屬疾不直,免安都官;中丞張永結免。澄謏聞膚見,貽撓後昆,上掩皇明,下籠朝識,請以見事免澄所居官。」詔曰:「澄表據多謬,不足深劾,可白衣領職。」

翌年、給事中、祕書監に転じ、吏部に昇進した。四年、再び祕書監となり、国子博士を兼ねた。都官尚書に昇進した。外任として輔国将軍・鎮北鎮軍二府長史、廷尉となり、驍騎将軍を兼ねた。永明元年、度支尚書に転じた。まもなく国子博士を兼ねた。当時、国学では鄭玄・王弼の『易』、杜預・服虔の『春秋』、何休の『公羊伝』、麋信の『穀梁伝』、鄭玄の『孝経』を設置していた。陸澄は尚書令の王儉に言った。「『孝経』は小学の類であり、帝王の典籍に列すべきではない。」そこで王儉に手紙を送って論じた。

原文明年,轉給事中,祕書監,遷吏部。四年,復爲祕書監,領國子博士。遷都官尚書。出爲輔國將軍、鎮北鎮軍二府長史,廷尉,領驍騎將軍。永明元年,轉度支尚書。尋領國子博士。時國學置鄭王《易》,杜服《春秋》,何氏《公羊》,麋氏《穀梁》,鄭玄《孝經》。澄謂尚書令王儉曰:「《孝經》,小學之類,不宜列在帝典。」乃與儉書論之曰:

王儉は答えた。「『易』の本体は微妙で深遠であり、実に多くの典籍を貫いている。施氏・孟氏の異説、周氏・韓氏の異なる趣旨があり、どうして王弼だけを専ら根拠として、これで完備していると言えようか。旧来通り鄭玄を存置し、諸説と同等に扱うのがよい。杜預(元凱)の伝注は前代の儒者を超えている。もし学官に列さなければ、廃れてしまうであろう。賈逵の経注は世に習われることが少ない。『穀梁伝』は小著であり、二つの注を必要としない。麋信の注を存置し范寧の注を略し、旧式に従うのがよい。これらの諸義はすべて、高雅な議論と同じである。『孝経』が鄭玄の注でないことを疑うが、私はこの書が百行の首を明らかにし、実に人倫の先にあるものと考え、『七略』、『藝文志』はいずれもこれを六芸の中に陳列しており、『蒼頡篇』、『凡将篇』の類とはしていない。鄭注の真偽は前代も問題にしなかった。適切であると考え、従来通り設置を維持すべきである。」

原文儉答曰:「《易》體微遠,實貫羣籍,施、孟異聞,周、韓殊旨,豈可專據小王,便爲該備?依舊存鄭,高同來說。元凱注傳,超邁前儒,若不列學官,其可廢矣。賈氏注《經》,世所罕習,《穀梁》小書,無俟兩注,存麋略范,率由舊式。凡此諸義,竝同雅論。疑《孝經》非鄭所注,僕以此書明百行之首,實人倫所先,《七略》、《藝文》竝陳之六藝,不與《蒼頡》、《凡將》之流也。鄭注虛實,前代不嫌,意謂可安,仍舊立置。」

王儉は自ら博聞多識を以て任じ、陸澄よりも多くの書を読んでいた。陸澄は言った。「私は若い頃から何もせず、ただ読書を業としてきた。しかも年齢は今の君の倍である。君は若い頃から王事に忙殺され、たとえ一覧して諳んじたとしても、見た書物の量は私より多くはないだろう。」王儉が学士の何憲らを集めて盛んに議論していると、陸澄は王儉の話が終わるのを待ってから、数百千条に及ぶ漏れていた点を談じ、いずれも王儉が目にしたことのないものばかりで、王儉は感服した。王儉が尚書省で、巾箱や机、様々な服飾品を取り出し、学士たちに故事を挙げさせ、多く挙げた者に与えた。人々はそれぞれ一両品を得たが、陸澄が後から来て、さらに諸人が知らない事柄をそれぞれ数条ずつ挙げ、すべての品物を奪い取って去った。

原文儉自以博聞多識,讀書過澄。澄曰:「僕年少來無事,唯以讀書爲業。且年已倍令君,令君少便鞅掌王務,雖復一覽便諳,然見卷軸未必多僕。」儉集學士何憲等盛自商略,澄待儉語畢,然後談所遺漏數百千條,皆儉所未睹,儉乃歎服。儉在尚書省,出巾箱机案雜服飾,令學士隷事,事多者與之,人人各得一兩物,澄後來,更出諸人所不知事復各數條,幷奪物將去。

散騎常侍、祕書監、吳郡中正、光禄大夫に転じた。給事中を加えられ、中正はもとのままとした。まもなく国子祭酒を兼ねた。竟陵王の蕭子良が古い器物を手に入れた。小口で方形の胴で底が平ら、七、八升を容れることができた。子良が陸澄に尋ねると、陸澄は言った。「北方では服匿といい、単于が蘇武に与えたものである。」子良が後で器物の底を詳しく見ると、かすかに文字が読めるようで、陸澄の言う通りであった。隆昌元年、老病のため、光禄大夫に転じ、散騎常侍を加えられたが、拝命しないうちに死去した。七十歳。諡は靖子。

原文轉散騎常侍,祕書監,吳郡中正,光祿大夫。加給事中,中正如故。尋領國子祭酒。以竟陵王子良得古器,小口方腹而底平,可將七八升,以問澄,澄曰:「北名服匿,單于以與蘇武。」子良後詳視器底,有字髣彿可識,如澄所言。隆昌元年,以老疾,轉光祿大夫,加散騎常侍,未拜,卒。年七十。諡靖子。

陸澄は当世、碩学と称されたが、『易』を三年読んでも文義が理解できず、『宋書』を撰述しようとしたが結局完成しなかった。王儉は冗談めかして言った。「陸公は書厨(本の虫)だな。」家には多くの古書があり、人々がめったに見られないものばかりであった。地理書や雑伝を撰述したが、死後に世に出た。

原文澄當世稱爲碩學,讀《易》三年不解文義,欲撰《宋書》竟不成,王儉戲之曰:「陸公,書廚也。」家多墳籍,人所罕見。撰地理書及雜傳,死後乃出。

陸澄の弟の陸鮮は、宋の時代に罪を得て、死刑に当たった。陸澄が道で舍人の王道隆に会い、頭を地面に叩きつけて血を流し、これによって赦免された。揚州主簿の顧測が二人の奴隷を陸鮮に質入れして金を借りた。陸鮮が死ぬと、その子の陸暐が売券であると偽った。陸澄が中丞であった時、顧測は陸澄と手紙をやり取りし、後にまた太守の蕭緬に書簡を送って言った。「陸澄は子弟の過ちを成し遂げようとし、義方の教えに近づかず、これは行商人でさえしないことであり、ましてや搢紳の領袖、儒宗の勝達たる者がすることでしょうか。」顧測はついに陸澄に排斥され抑圧された。世間はこのことをもって陸澄を軽んじた。

原文澄弟鮮,得罪宋世,當死。澄於路見舍人王道隆,叩頭流血,以此見原。揚州主簿顧測以兩奴就鮮質錢,鮮死,子〓誣爲賣券,澄爲中丞,測與書相往反,後又牋與太守蕭緬云:「澄欲遂子弟之非,未近義方之訓,此趨販所不爲,況搢紳領袖,儒宗勝達乎?」測遂爲澄所排抑,世以此少之。

当時、東海の王摛もまた史学に博識で、尚書左丞を歴任した。竟陵王の蕭子良が諸学士を試験したが、王摛だけは問われて答えられないことがなかった。永明年間、天が突然黄色く照り、地を照らしたが、誰も理解できなかった。王摛は栄光であると言った。世祖(武帝)は大いに喜び、彼を永陽郡に任用した。

原文時東海王摛,亦史學博聞,歷尚書左丞。竟陵王子良校試諸學士,唯摛問無不對。永明中,天忽黃色照地,衆莫能解。摛云是榮光。世祖大悅,用爲永陽郡。

史臣が言う。儒教の風潮が世にあり、人を立てる正道を立てる。聖哲の微言は、百代に通ずる教訓である。洙泗(孔子の教え)が既に去り、七十子の義は乖離し、稷下では横論が行われ、千人を屈服させた。その後、専門の学が興り、命氏の儒が起こり、石渠閣の朋党の事、白虎観の同異の説があり、『六経』五典は、それぞれ師の言を信じ、章句を嗣ぎ守り、失わざることを期した。西京(前漢)の儒士には、独り擅にする者はなく、東都(後漢)の学術では、鄭玄と賈逵が先んじた。康成(鄭玄)は炎漢(漢朝)の末に生まれ、訓義が優れて広く通じ、一世の孔門において、褒成(孔子の子孫への封号)と並び軌を同じくし、故老は前修とし、後生は敢えて異を唱えなかった。しかし王肅は経に依って理を弁じ、碩儒(鄭玄)と相い非とし、ここに『聖證論』を興し、『孔子家語』を用い、外戚の尊さにより、多く晋代に行われた。江左(東晋)の儒門は、参差として互いに現れ、時に絶えることはなかったが、再び専門家は稀であった。晋の世は玄言をもって道とし、宋の氏(南朝宋)は文章をもって間業とし、典芸を服膺するこの風は純粋ではなく、二代以来、教えは衰えた。建元(斉の年号)が運を肇め、戎警(戦乱)未だ平らかでない中、天子(高帝蕭道成)は少くして諸生であり、端拱して儒業を思い、干戈を載せて戢め、急ぎ庠序(学校)に詔した。永明(武帝の年号)が継承し、均校(教育制度)を大いに興し、王儉が輔弼となり、経礼に長じ、朝廷はその風を仰ぎ、冑子(学生)はその則を見、これにより家ごとに孔教を尋ね、人ごとに儒書を誦し、巻を執って欣欣とし、ここにおいてますます盛んとなった。建武(明帝の年号)が継いで立ち、旧緒に因循し、時に文を好まず、輔相に術なく、学校は設けられても、前の軌跡に追いつくのは難しかった。劉瓛は馬融・鄭玄の後に承け、一時の学徒は師範とした。虎門(国学)が初めて開かれ、法駕(天子の車駕)が親臨したが、待問に五更の礼はなく、充庭に蒲輪の御(招請の礼)は欠け、身は終に下秩に終わり、道義は空しく存するのみで、これは進賢の責である。その他の儒学の士は、多く卑位にあり、あるいは世を隠し栄を辞した者は、別の篇に見える。

原文史臣曰:儒風在世,立人之正道;聖哲微言,百代之通訓。洙泗旣往,義乖七十;稷下橫論,屈服千人。自後專門之學興,命氏之儒起,石渠朋黨之事,白虎同異之說,《六經》五典,各信師言,嗣守章句,期乎勿失。西京儒士,莫有獨擅;東都學術,鄭賈先行。康成生炎漢之季,訓義優洽,一世孔門,褒成竝軌,故老以爲前脩,後生未之敢異。而王肅依經辯理,與碩相非,爰興《聖證》,據用《家語》,外戚之尊,多行晉代。江左儒門,參差互出,雖於時不絕,而罕復專家。晉世以玄言方道,宋氏以文章閒業,服膺典藝,斯風不純,二代以來,爲教衰矣。建元肇運,戎警未夷,天子少爲諸生,端拱以思儒業,載戢干戈,遽詔庠序。永明纂襲,克隆均校,王儉爲輔,長於經禮,朝廷仰其風,冑子觀其則,由是家尋孔教,人誦儒書,執卷欣欣,此焉彌盛。建武繼立,因循舊緒,時不好文,輔相無術,學校雖設,前軌難追。劉瓛承馬、鄭之後,一時學徒以爲師範。虎門初辟,法駕親臨,待問無五更之禮,充庭闕蒲輪之御,身終下秩,道義空存,斯故進賢之責也。其餘儒學之士,多在卑位,或隱世辭榮者,別見他篇云。