南齊書

卷三十七 列傳第十八

卷三十七 列傳第十八

到撝は字あざなを茂謙といい、彭城郡武原県の人である。祖父の彦之は、宋の驃騎将軍であった。父の仲度は、驃騎将軍の従事中郎であった。

原文到撝字茂謙,彭城武原人也。祖彥之,宋驃騎將軍。父仲度,驃騎從事中郎。

到撝は建昌公の爵位を継承した。初めて官に就いて太学博士となり、奉車都尉に任じられ、試みに延陵県令を守ったが、好ましくなく、官を去った。新安王の北中郎行参軍に任じられたが、公事に連座して免官された。新安王の撫軍参軍に任じられたが、拝命しないうちに、新安王の子鸞が殺害され、そのまま長兼尚書左民郎中に任じられた。明帝が即位すると、人心を収めようとし、到撝が功臣の子孫であることから、太子洗馬に抜擢した。王景文の安南諮議参軍に任じられた。

原文撝襲爵建昌公。起家爲太學博士,除奉車都尉,試守延陵令,非所樂,去官。除新安王北中郎行參軍,坐公事免。除新安王撫軍參軍,未拜,新安王子鸞被殺,仍除長兼尚書左民郎中。明帝立,欲收物情,以撝功臣後,擢爲太子洗馬。除王景文安南諮議參軍。

到撝は資産が豪富で、自らの生活を厚く養い、邸宅や庭園は都で第一であり、妓妾の容貌や技芸も、すべて上品の極みであった。才知は豊かで、人付き合いをよくし、厨房は豊かで、多くの賓客を招いた。愛妓の陳玉珠を、明帝が求めても与えず、強奪されたため、到撝は大いに恨みを抱いた。帝は役人に命じて到撝の罪をでっち上げて上奏させ、廷尉に付して殺そうとした。到撝が獄に入ると、数日で髭や鬢がすべて白くなった。死罪は免れたが、尚方に拘禁され、封爵は弟の賁に奪われた。到撝はこれにより、音楽や遊びを遠ざけ、さらに質素な生活を心がけるようになった。

原文撝資籍豪富,厚自奉養,宅宇山池,京師第一,妓妾姿藝,皆窮上品。才調流贍,善納交遊,庖廚豐腆,多致賔客。愛妓陳玉珠,明帝遣求,不與,逼奪之,撝頗怨望。帝令有司誣奏撝罪,付廷尉,將殺之。撝入獄,數宿鬚鬢皆白。免死,繫尚方,奪封與弟賁。撝由是屏斥聲玩,更以貶素自立。

帝は到撝を羊希恭の寧朔府参軍に任じたが、劉韞の輔国将軍府参軍、王景文の鎮南将軍府参軍に転任させようとしたが、いずれも病気を理由に辞退して就任しなかった。まもなく板授により仮の明威将軍となり、そのまま桂陽王の征南参軍に任じられ、通直郎に転じたが、職を解かれた。帝が崩御した後、弟の賁が上表して封爵を到撝に返還するよう願い出たところ、朝廷の議論で許された。司徒左西属に転じたが、また拝命しなかった。何年も家にいた。

原文帝除撝爲羊希恭寧朔府參軍,徙劉韞輔國、王景文鎮南參軍,竝辭疾不就。尋板假明威將軍,仍除桂陽王征南參軍,轉通直郎,解職。帝崩後,弟賁表讓封還撝,朝議許之。遷司徒左西屬,又不拜。居家累年。

弟の遁は、元徽年間に寧遠将軍・輔国長史・南海太守となり、広州にいた。昇明元年、沈攸之が反乱を起こすと、刺史の陳顯達が朝廷に応じて兵を起こし、遁は態度をためらったために殺された。遁の家族が都にいて、野原から夜帰ると、二、三人が白土で家の門を塗っているのを見たが、すぐに消え、翌日になって遁の死の知らせが届いた。到撝は慌て恐れて、太祖(蕭道成)に謝罪に赴き、すぐに板授により世祖(蕭賾)の中軍諮議参軍に任じられた。建元初年、司徒右長史に転じ、永嘉太守として出向し、黄門郎となったが、職を解かれた。

原文弟遁,元徽中爲寧遠將軍、輔國長史、南海太守,在廣州。昇明元年,沈攸之反,刺史陳顯達起兵以應朝廷,遁以猶預見殺。遁家人在都,從野夜歸,見兩三人持堊刷其家門,須臾滅,明日而遁死問至。撝遑懼,詣太祖謝,卽板爲世祖中軍諮議參軍。建元初,遷司徒右長史,出爲永嘉太守,爲黃門郎,解職。

世祖が即位すると、太子中庶子に転じたが拝命せず、また長沙王の中軍長史、司徒左長史に任じられた。宋の時代、上(世祖)はたびたび到撝の家に遊びに行き、明帝と共に野原で雉を射た時、のどが渇いて疲れたところ、到撝が早青瓜を得て、上と分けて食べた。上はその旧恩を心に留め、目をかける情が非常に厚かった。このため一年に三度昇進した。

原文世祖卽位,遷太子中庶子,不拜。又除長沙王中軍長史,司徒左長史。宋世,上數遊會撝家,同從明帝射雉郊野,渴倦,撝得早青瓜,與上對剖食之。上懷其舊德,意眄良厚。至是一歲三遷。

永明元年、輔国将軍を加えられ、御史中丞に転じた。車駕が丹陽郡に行幸して宴を開いた時、到撝は旧恩を頼み、酒の上で同僚をなれなれしく侮り、言笑が度を過ぎ、左丞の庾杲之に糾弾され、贖罪の論処となった。三年、再び司徒左長史となり、左衛将軍に転じた。随王の子隆が彭城郡を帯びた時、到撝が挨拶に行ったが、民に対する礼を尽くさず、役人に挙劾され、免官された。しばらくして、白衣の身分で御史中丞を兼ねた。臨川王の驃騎長史、司徒左長史に転じ、五兵尚書に昇進し、輔国将軍・廬陵王中軍長史として出向した。母の喪で官を去り、喪服の期間が終わらないうちに、永明八年に死去した。五十八歳。

原文永明元年,加輔國將軍,轉御史中丞。車駕幸丹陽郡宴飲,撝恃舊,酒後狎侮同列,言笑過度,爲左丞庾杲之所糾,贖論。三年,復爲司徒左長史,轉左衞將軍。隨王子隆帶彭城郡,撝問訊,不修民敬,爲有司所舉,免官。久之,白衣兼御史中丞。轉臨川王驃騎長史,司徒左長史,遷五兵尚書,出爲輔國將軍、廬陵王中軍長史。母憂去官,服未終,八年,卒,年五十八。

弟の賁は、初め衛尉主簿、奉車都尉となった。昇明初年、中書郎、太祖の驃騎諮議となった。建元年間、征虜司馬となり、死去した。

原文弟賁,初爲衞尉主簿,奉車都尉。昇明初,爲中書郎,太祖驃騎諮議。建元中,爲征虜司馬,卒。

賁の弟の坦は、初めて官に就き本州の西曹となった。昇明二年、やはり太祖の驃騎参軍となった。豫章王の鎮西将軍府・驃騎将軍府の二府の諮議を歴任した。坦は美しい髭をたくわえ、世祖の豫章王と旧知の仲であった。坦は引き続き府に従って司空・太尉の参軍に転じた。晉安内史として出向し、帰還してまた大司馬諮議、中書郎となり、死去した。

原文賁弟坦,解褐本州西曹。昇明二年,亦爲太祖驃騎參軍。歷豫章王鎮西驃騎二府諮議。坦美鬚髯,與世祖豫章王有舊。坦仍隨府轉司空太尉參軍。出爲晉安內史,還又爲大司馬諮議,中書郎,卒。

劉悛は字を士操といい、彭城郡安上里の人である。彭城の劉氏はみな楚の元王から出て、三里に分かれ、宋の帝室の一族と区別した。祖父の穎之は、汝南・新蔡の二郡太守であった。父の勔は、司空であった。

原文劉悛字士操,彭城安上里人也。彭城劉同出楚元王,分爲三里,以別宋氏帝族。祖穎之,汝南新蔡二郡太守。父勔,司空。

劉延孫が南徐州刺史であった時、初めて劉悛を従事として召し出した。父の勔に従って広陵で竟陵王の誕を征討し、功により駙馬都尉に任じられ、宗愨の寧蛮府主簿、建安王の司徒騎兵参軍に転じた。再び父の勔に従って寿春で殷琰を征討し、横塘・死虎で連戦連勝した。員外郎、太尉・司徒の二府の参軍を歴任し、世祖に代わって尚書庫部郎となった。振武将軍・蜀郡太守に転じたが、赴任せず、再び父の勔に従って征討に加わり、仮の寧朔将軍となり、鄱陽県侯の世子に任じられた。桂陽王の征北中兵参軍に転じ、世祖と共に殿内に直し、明帝に親しく遇され、これにより世祖と親しく交わるようになった。

原文劉延孫爲南徐州,初辟悛從事,隨父勔征竟陵王誕於廣陵,以功拜駙馬都尉,轉宗愨寧蠻府主簿,建安王司徒騎兵參軍。復隨父勔征殷琰於壽春,於橫塘、死虎累戰皆勝。歷遷員外郎,太尉司徒二府參軍,代世祖爲尚書庫部郎。遷振武將軍、蜀郡太守,未之任,復從父勔征討,假寧朔將軍,拜鄱陽縣侯世子。轉桂陽王征北中兵參軍,與世祖同直殿內,爲明帝所親待,由是與世祖款好。

通直散騎侍郎に転じ、安遠護軍・武陵内史として出向した。郡の南にある長江の古い堤防は、長く廃れて修復されていなかった。劉悛が修復を始めたが完成しないうちに、突然長江の水が押し寄せ、百姓は作業を放棄して逃げ出した。劉悛が自ら率いて励ましたので、ようやく堤防は完成した。漢寿県の邵栄興は六世代同居していたので、その門に表彰した。劉悛は才幹に優れ世間の評判もよく、世俗の交わりを得意とした。蛮族の王の田僮は山中に住み、年齢は百歳に近かった。南譙王の義宣が荊州刺史であった時、僮は出て謁見した。この時また出て劉悛に謁見した。明帝が崩御すると、上表して駆けつけようとしたが、郡を帯びたまま都に戻るよう命じられた。官吏や民衆で見送る者が数千人に及び、劉悛は一人一人と手を握り、涙を流して別れを惜しんだ。百姓はこれに感動し、贈り物は非常に多かった。

原文遷通直散騎侍郎,出爲安遠護軍、武陵內史。郡南江古堤,久廢不緝。悛脩治未畢,而江水忽至,百姓棄役奔走,悛親率厲之,於是乃立。漢壽人邵榮興六世同爨,表其門閭。悛強濟有世調,善於流俗。蠻王田僮在山中,年垂百餘歲,南譙王義宣爲荊州,僮出謁。至是又出謁悛。明帝崩,表奔赴,敕帶郡還都。吏民送者數千人,悛人人執手,係以涕泣,百姓感之,贈送甚厚。

そのまま散騎侍郎に任じられた。桂陽王の乱が起こると、寧朔将軍を加えられ、石頭城の守備を助けた。父の勔が大桁で戦死した時、劉悛は病気であったが、道端に這いつくばり、号泣して勔の遺体を求めた。勔の遺体の首の後ろに傷が欠けていたので、劉悛は自分の髪を切ってそれを補った。墓のそばで喪に服し、冬でも綿入れを着なかった。太祖が勔に代わって領軍将軍となったが、もともと勔と親しかったので、劉悛に手紙を送って諭して言った。「天性の孝心から衰弱し、危険な思いに転じていると承り、深く悲しみ痛んでいる。哀しみを終えて生命を全うすることは、先王の明らかな規範である。どうして綿入れを脱ぎ、温かい寝床を離れ、このように悲しみ泣くことで、孝の本性を全うできるだろうか。かつての教えを深く顧みて、少しでも自分を抑え励ましてほしい。」

原文仍除散騎侍郎。桂陽難,加寧朔將軍,助守石頭。父勔於大桁戰死,悛時疾病,扶伏路次,號哭求勔屍。勔屍項後傷缺,悛割髮補之。持喪墓側,冬月不衣絮。太祖代勔爲領軍,素與勔善,書譬悛曰:「承至性毀瘵,轉之危慮,深以酸怛。終哀全生,先王明軌,豈有去縑纊,徹溫席,以此悲號,得終其孝性邪?當深顧往旨,少自抑勉。」

建平王劉景素が反乱を起こすと、太祖(蕭道成)は諸軍を総指揮して玄武湖に出陣して駐屯した。劉悛は喪が明けたばかりで、太祖は彼に支軍を率いさせようとしたが、劉悛兄弟を召し出して見ると、皆やつれて容貌が変わっていたので、この時は取りやめた。中書郎に任じられ、宋の南陽八王の事務を代行し、南陽王南中郎司馬・長沙内史に転じ、湘州の事務を代行した。赴任しないうちに、覇業(斉王朝創業)が始まり、劉悛はいち早く忠誠を誓った。沈攸之の乱が起きると、輔国将軍を加えられた。世祖(蕭賾)が盆城を鎮守した時、上表して西征を願い出て、劉悛を自分の後任に求めた。世祖が結局行かなかったので、劉悛は黄門郎に任じられ、呉郡の事務を代行した。まもなく晉熙王撫軍中軍二府長史に転じ、揚州の事務を代行した。持節・都督広州諸軍事・広州刺史として出向し、将軍の号はもとのままとした。鄱陽県侯の爵位を継承した。世祖が尋陽から帰還する途中、舟遊びの間に劉悛と出会い、歓宴して旧交を温め、十余日滞在してから出発した。文恵太子と竟陵王蕭子良に命じて衣服を整えさせ、父の友人に対する礼を尽くさせた。

原文建平王景素反,太祖總衆軍出頓玄武湖。悛初免喪,太祖欲使領支軍,召見悛兄弟,皆羸削改貌,於是乃止。除中書郎,行宋南陽八王事,轉南陽王南中郎司馬、長沙內史,行湘州事。未發,霸業初建,悛先致誠節。沈攸之事起,加輔國將軍。世祖鎮盆城,上表西討,求悛自代。世祖旣不行,悛除黃門郎,行吳郡事。尋轉晉熙王撫軍中軍二府長史,行揚州事。出爲持節、督廣州、廣州刺史,將軍如故。襲爵鄱陽縣侯。世祖自尋陽還,遇悛於舟渚閒,歡宴敘舊,停十餘日乃下。遣文惠太子及竟陵王子良攝衣履,脩父友之敬。

太祖が禅譲を受けて帝位につくと、劉悛の封国は廃止された。冠軍将軍に進号した。平西記室参軍の夏侯恭叔が上書し、柳元景は中興の功臣であり、劉勔は王事に殉じたのだから、その封爵を存続させるべきだと述べた。詔勅が下された。「運命の盛衰は、古来よりあることである。朝廷の議論はすでに決まっており、改めて意見を挟むことは許されない」。初め、蒼梧王(劉昱)が廃された時、太祖は中華門で会議を召集し、劉悛を見かけて言った。「君は昨日、当直だったか?」劉悛は答えた。「私は昨日は正しく当直でしたが、急用があって外にいました」。この時、上(太祖)は劉悛に言った。「功名の分かれ目では、人は誰しも忘れがたいものだ。卿はかつて中華門で私に答えたが、どうしてそこまで世事から退こうとしたのか?」劉悛は言った。「臣は代々宋の恩を受け、家門は斉のご眷顧を蒙っております。非常の功績は、臣の及ぶところではありません。進んでは前代への怨みを遠ざけず、退いても聖明をお裏切りすることはありません。どうして実情をもってお答えしないことがありましょうか」。

原文太祖受禪,國除。進號冠軍將軍。平西記室參軍夏侯恭叔上書,以柳元景中興功臣,劉勔殞身王事,宜存封爵。詔曰:「與運隆替,自古有之,朝議已定,不容復厝意也。」初,蒼梧廢,太祖集議中華門,見悛,謂之曰:「君昨直耶?」悛答曰:「僕昨乃正直,而言急在外。」至是上謂悛曰:「功名之際,人所不忘。卿昔於中華門答我,何其欲謝世事?」悛曰:「臣世受宋恩,門荷齊眷,非常之勳,非臣所及。進不遠怨前代,退不孤負聖明,敢不以實仰答。」

太子中庶子に転じ、越騎校尉を兼任した。当時、世祖は東宮におり、しばしば劉悛の邸宅に行幸し、夕方まで雑談し、屏風や帷帳を賜った。世祖が即位すると、前軍将軍を兼任するよう改められ、太子中庶子はもとのままとした。征北将軍竟陵王蕭子良が南兖州を兼帯した時、劉悛を長史とし、冠軍将軍・広陵太守を加えた。

原文遷太子中庶子,領越騎校尉。時世祖在東宮,每幸悛坊,閑言至夕,賜屏風帷帳。世祖卽位,改領前軍將軍,中庶子如故。征北竟陵王子良帶南兖州,以悛爲長史,加冠軍將軍、廣陵太守。

持節・都督司州諸軍事・司州刺史に転じ、将軍の号はもとのままとした。劉悛の父の劉勔は殷琰を討伐し、寿陽を平定したが、何も侵害せず、百姓はその徳を慕い、碑を立てて祀った。劉悛は陸路で寿陽の任地へ赴く途中、父の碑の前を通り、拝礼して涙を流した。初め、義陽の人夏伯宜が剛陵の戍主を殺して淮水を渡り反乱し、虜(北魏)は彼を義陽太守とした。劉悛は討伐と懸賞を設けてこれを誘い、虜の△州刺史謝景が夏伯宜兄弟と北襄城太守李栄公を殺して帰順した。劉悛は州の治所に学校を設立し、古代の礼器である銅罍・銅甑・山罍樽・銅豆鍾をそれぞれ二口ずつ発見して、朝廷に献上した。

原文轉持節、都督司州諸軍事、司州刺史,將軍如故。悛父勔討殷琰,平壽陽,無所犯害,百姓德之,爲立碑祀。悛步道從壽陽之鎮,過勔碑,拜敬泣涕。初,義陽人夏伯宜殺剛陵戍主叛渡淮,虜以爲義陽太守。悛設討購誘之,虜△州刺史謝景殺伯宜兄弟、北襄城太守李榮公歸降。悛於州治下立學校,得古禮器銅罍、銅甑、山罍樽、銅豆鍾各二口,獻之。

長兼侍中に転じた。車駕(皇帝)はたびたび劉悛の邸宅に行幸した。邸宅は山や池を大々的に造営し、甕で作った窓を設けていた。世祖は鹿皮の冠をかぶり、劉悛の兎皮の寝具を身にまとい、窓辺で宴楽し、その冠を劉悛に賜り、夜になってから去った。後に劉悛が従駕して蔣山に登った時、上(世祖)はたびたび嘆息して言った。「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず」。劉悛を振り返って言った。「この言葉は卿のためだ。世間では富貴になると本来の心情を変えやすいと言うが、私はたとえ天下を有していても、今日、卿と布衣の頃のままの気安さを尽くそう」。劉悛は起立して拝礼し感謝した。冠軍将軍、司徒左長史に転じた。まもなく本官のまま北兖州の淮水沿いの諸軍事を代行した。始興王前軍長史・平蛮校尉・蜀郡太守に転任し、将軍の号はもとのままとし、益州府と州の事務を代行した。郡はまもなく内史に改められた。王府に随って安西将軍府に転じた。劉悛は事務を厳格に処理し、それによって上意にかなった。

原文遷長兼侍中。車駕數幸悛宅。宅盛治山池,造甕牖。世祖著鹿皮冠,被悛菟皮衾,於牖中宴樂,以冠賜悛,至夜乃去。後悛從駕登蔣山,上數歎曰:「貧賤之交不可忘,糟糠之妻不下堂。」顧謂悛曰:「此況卿也。世言富貴好改其素情,吾雖有四海,今日與卿盡布衣之適。」悛起拜謝。遷冠軍將軍,司徒左長史。尋以本官行北兖州緣淮諸軍事。徙始興王前軍長史、平蠻校尉、蜀郡太守,將軍如故,行益州府、州事。郡尋改爲內史。隨府轉安西。悛治事嚴辦,以是會旨。

宋代、太祖が輔政していた時、貨幣を鋳造しようと考えたが、禅譲の時期にあたり、実行には至らなかった。建元四年、奉朝請の孔覬が貨幣鋳造と物価均一化に関する建議を上奏し、その論証は非常に詳しかった。その要旨は、「食糧と貨幣は相通じるもので、道理と情勢は自然にそうなる。李悝は『穀物が非常に高ければ民を傷つけ、非常に安ければ農を傷つける』と言った。民が傷つけば離散し、農が傷つけば国は貧しくなる。非常に安いことと非常に高いことは、その害は同じである。三呉は国の要衝であるが、近年水害に見舞われても穀物の価格が高くならないのは、天下の貨幣が少ないのであって、穀物が豊作で安いのではない。これは看過すべきでない。貨幣鋳造の弊害は、その重さがたびたび変わることにある。重い貨幣は使いにくいことを憂え、使いにくいことが軽い貨幣の累いとなる。軽い貨幣の弊害は私鋳を招き、私鋳は禍いを深くする。民が私鋳し、厳法でも禁じられないのは、上(朝廷)が貨幣を鋳造する際に銅を惜しみ労力を愛するからである。銅を惜しみ労力を愛するとは、貨幣は無用の器物で、交易を通じさせるためには、軽くして数を多くし、労力を省きやすく完成させようとし、その禍患を詳しく考慮しないことである。漢が五銖銭を鋳造してから宋の文帝に至るまで、五百余年を経て、制度は時代によって廃興があったが、五銖銭が変わらなかったのは、その軽重が規範とすべきもので、貨幣として適切であることを明らかにしている。泉府を設置し、地方長官に金を貢納させ、大々的に鋳造を行うべきであると考える。貨幣の重さは五銖とし、すべて漢の法に従う。府庫がすでに充実し、国家の用度に蓄えがあれば、俸禄を量り、賦税を軽くし、そうすれば家は豊かで民は足る。近ごろ新銭を私鋳する者は、皆切り取ったり削ったりすることを真似て、大銭を鋳造しない。磨いたり染めたりして、初めはみな古銭に似せているが、交易の後、変質してまた新しくなる。善良な民は皆染めたりしないので、流通しなくなる。売り払う者は、皆ただその物を失うだけである。私鋳する者は、また安く新銭を買い、染め直して使い、反復して詐欺を生み、循環して奸悪を起こす。これは明主が特に禁ずべきで、長く放置すべきでない。もし官銭がすでに民に流通しているなら、ただちに切り取りや削りを厳しく禁じ、小さく軽く破損して周縁のないものは、すべて流通させてはならず、官銭で細かいものは、銖両を合わせて計量し、溶かして大銭とする。貧しい善良な民に利益を与え、奸悪巧妙な者の道を塞ぐ。貨幣が均一になれば、遠近を問わず一つとなり、百姓は業を楽しみ、市場に争いがなく、衣食は豊かになる」。当時、議論する者の多くは、貨幣の流通量が少なくなっているので、さらに広く鋳造し、その銖両を重くして、民の奸悪を防ぐべきだと考えた。太祖は諸州郡に命じて大量の銅と炭を買い集めさせたが、崩御によって事は中止された。永明八年、劉悛は世祖に啓上して言った。「南広郡の境界の蒙山の下に、蒙城という城があり、約二頃の土地に、高さ一丈いちじょう、広さ一丈五尺の溶鉱炉が四基あります。蒙城から水を渡って南へ百歩ほど行った平地で、土を二尺掘ると銅が出ます。また、古代に銅を掘った坑があり、深さ二丈で、住居跡もまだ残っています。鄧通は南安の人で、漢文帝は厳道県の銅山を賜って貨幣を鋳造させました。今、蒙山は青衣水の南に近く、青衣の左側一帯はかつての秦の厳道の地です。青衣県はまた漢嘉と改名されました。また、蒙山は南安から二百里離れております。これを考えると、これは必ず鄧通が鋳造したものでしょう。近ごろ蒙山の獠を呼び出して聞くと、『十分に経営できる』と言います。この建議が採用されれば、利益は計り知れません」。併せて蒙山の銅一片、また銅石一片、平州の鉄刀一口を献上した。上はこれに従った。使者を蜀に入れて貨幣を鋳造させ、千余万銭を得たが、費用が多くかかったので、中止した。

原文宋代太祖輔政,有意欲鑄錢,以禪讓之際,未及施行。建元四年,奉朝請孔覬上鑄錢均貨議,辭證甚博。其略以爲「食貨相通,理勢自然。李悝曰『糴甚貴傷民,甚賤傷農』。民傷則離散,農傷則國貧。甚賤與甚貴,其傷一也。三吳國之關閫,比歲被水潦而糴不貴,是天下錢少,非穀穰賤,此不可不察也。鑄錢之弊,在輕重屢變。重錢患難用,而難用爲累輕;輕錢弊盜鑄,而盜鑄爲禍深。民所盜鑄,嚴法不禁者,由上鑄錢惜銅愛工也。惜銅愛工者,謂錢無用之器,以通交易,務欲令輕而數多,使省工而易成,不詳慮其爲患也。自漢鑄五銖錢,至宋文帝,歷五百餘年,制度世有廢興,而不變五銖錢者,明其輕重可法,得貨之宜。以爲宜開置泉府,方牧貢金,大興鎔鑄。錢重五銖,一依漢法。府庫已實,國用有儲,乃量奉祿,薄賦稅,則家給民足。頃盜鑄新錢者,皆效作翦鑿,不鑄大錢也。摩澤淄染,始皆類故;交易之後,渝變還新。良民弗皆淄染,不復行矣。所鬻賣者,皆徒失其物。盜鑄者,復賤買新錢,淄染更用,反覆生詐,循環起姦,此明主尤所宜禁而不可長也。若官鑄已布於民,便嚴斷翦鑿,小輕破缺無周郭者,悉不得行,官錢細小者,稱合銖兩,銷以爲大。利貧良之民,塞姦巧之路。錢貨旣均,遠近若一,百姓樂業,市道無爭,衣食滋殖矣。」時議者多以錢貨轉少,宜更廣鑄,重其銖兩,以防民姦。太祖使諸州郡大市銅炭,會晏駕事寢。永明八年,悛啓世祖曰:「南廣郡界蒙山下,有城名蒙城,可二頃地,有燒鑪四所,高一丈,廣一丈五尺。從蒙城渡水南百許步,平地掘土深二尺,得銅。又有古掘銅坑,深二丈,竝居宅處猶存。鄧通,南安人,漢文帝賜嚴道縣銅山鑄錢,今蒙山近青衣水南,青衣左側竝是故秦之嚴道地。青衣縣又改名漢嘉。且蒙山去南安二百里,案此必是通所鑄。近喚蒙山獠出,云『甚可經略』。此議若立,潤利無極。」幷獻蒙山銅一片,又銅石一片,平州鐵刀一口。上從之。遣使入蜀鑄錢,得千餘萬,功費多,乃止。

劉悛は引き続き始興王蕭鑑に代わって持節・監益寧二州諸軍事・益州刺史となり、将軍の号はもとのままとした。劉悛はもとからの恩顧に頼り、特に人主(皇帝)に気に入られて従い、権貴に迎合した。賓客や閨房(私生活)のための費用は贅沢で膨大であった。広州・司州の刺史を罷免された後、財産を傾けて貢献し、家に残る蓄えはなかった。蜀では金の浴盆を作り、その他の金製品もこれに匹敵した。任期を終えて本官のまま都に戻り、献上しようとしたが、世祖が崩御し、鬱林王が新たに立った。劉悛が献上するものを減らしたので、鬱林王はこれを知り、役人に暗示して劉悛を収監させ廷尉に引き渡し、誅殺しようとした。高宗(蕭鸞)が救いを請うて上奏し、許されて、終身禁錮となった。廃黜されたとはいえ、賓客は日々訪れた。

原文悛仍代始興王鑑爲持節、監益寧二州諸軍事、益州刺史,將軍如故。悛旣藉舊恩,尤能悅附人主,承迎權貴。賔客閨房,供費奢廣。罷廣、司二州,傾資貢獻,家無留儲。在蜀作金浴盆,餘金物稱是。罷任,以本號還都,欲獻之,而世祖晏駕,鬱林新立,悛奉獻減少,鬱林知之,諷有司收悛付廷尉,將加誅戮。高宗啓救之,見原,禁錮終身。雖見廢黜,而賔客日至。

劉悛の妻の弟の王法顯が、かつて宋の桂陽王の事件に関与したため、劉悛は別居を申し出て、生涯再び彼に会わなかった。

原文悛婦弟王法顯同宋桂陽事,遂啓別居,終身不復見之。

海陵王が即位すると、白衣の身分から兼左民尚書に任じられ、まもなく正任となった。高宗が立つと、驍騎将軍を加官され、元の官職に復帰し、駙馬都尉となった。建武二年、虜の主君が寿陽に侵攻したため、詔により蕭悛は本来の官職のまま仮節を与えられて漅湖に出鎮し、散騎常侍・右衛将軍に転じた。虜の侵攻が盛んになると、蕭悛はまた本来の官職のまま新亭に出屯した。

原文海陵王卽位,以白衣除兼左民尚書,尋除正。高宗立,加領驍騎將軍,復故官,駙馬都尉。建武二年,虜主侵壽陽,詔悛以本官假節出鎮漅湖,遷散騎常侍、右衞將軍。虜寇旣盛,悛又以本官出屯新亭。

蕭悛は歴代の朝廷で皆、恩遇を受けた。太祖は鄱陽王蕭鏘のために蕭悛の妹を妃に迎え、高宗はまた晋安王蕭宝義のために蕭悛の娘を妃に迎え、これ以降、帝室と姻戚関係を結んだ。王敬則が反乱を起こすと、蕭悛は琅邪城を守るために出向き、五兵尚書に転じ、太子左衛率を兼任した。拝命しないうちに、明帝が崩御し、東昏侯が即位すると、散騎常侍に改めて任じられ、驍騎将軍を兼任し、尚書の職は元のままとした。山陵(陵墓)の護送中に死去した。六十一歳であった。太常を追贈され、常侍・都尉の官は元のままとした。諡は敬といった。

原文悛歷朝皆見恩遇。太祖爲鄱陽王鏘納悛妹爲妃,高宗又爲晉安王寶義納悛女爲妃,自此連姻帝室。王敬則反,悛出守琅邪城,轉五兵尚書,領太子左衞率。未拜,明帝崩,東昏卽位,改授散騎常侍,領驍騎將軍,尚書如故。衞送山陵,卒,年六十一。贈太常,常侍、都尉如故。諡曰敬。

虞悰は字を景豫といい、会稽郡餘姚県の人である。祖父は虞嘯父で、晋の左民尚書であった。父は虞秀之で、黄門郎であった。

原文虞悰字景豫,會稽餘姚人也。祖嘯父,晉左民尚書。父秀之,黃門郎。

虞悰は若い頃から謹厳で、誠実な性質を持っていた。父の秀之が都で亡くなると、虞悰は東へ向かって喪に駆けつけ、水さえ口にしなかった。州から主簿に辟召され、建平王の参軍、尚書儀曹郎、太子洗馬、領軍長史、正員郎を歴任し、累進して州の治中、別駕、黄門郎となった。

原文悰少而謹敕,有至性。秀之於都亡,悰東出奔喪,水漿不入口。州辟主簿,建平王參軍,尚書儀曹郎,太子洗馬,領軍長史,正員郎,累至州治中,別駕,黃門郎。

初め、世祖(武帝)が官に就き始めた頃、家はまだ貧しかったが、虞悰は国士としての情けを推し量り、しばしば分け与え、外出の際は必ず上(世祖)を呼んで同車に乗せたので、上は大いにその恩を感じていた。昇明年中、世祖が中軍将軍となると、虞悰を諮議参軍に引き立て、吏部郎の江謐に手紙を持たせて虞悰に言わせた。「今、江吏郎を通じて申し上げるが、君の情け深い配慮に鑑み、どうか屈辱を忍んで就任してほしい。」建元初年、太子中庶子に転じ、後軍長史、領步兵校尉、鎮北長史・寧朔将軍・南東海太守となった。まもなく豫章内史となり、将軍の号は元のままとした。虞悰は家を治めて富を殖やし、奴婢に遊んでいる者はおらず、南の地にいながらも、会稽の海産物は全て手に入れた。輔国将軍・始興王長史・平蛮校尉・蜀郡太守に転じた。司徒司馬に転じ、将軍の号は元のままとした。

原文初,世祖始從官,家尚貧薄,悰推國士之眷,數相分與,每行,必呼上同載,上甚德之。昇明中,世祖爲中軍,引悰爲諮議參軍,遣吏部郎江謐持手書謂悰曰:「今因江吏郎有白,以君情顧,意欲相屈。」建元初,轉太子中庶子,遷後軍長史,領步兵校尉,鎮北長史、寧朔將軍、南東海太守。尋爲豫章內史,將軍如故。悰治家富殖,奴婢無游手,雖在南土,而會稽海味無不畢致焉。遷輔國將軍、始興王長史、平蠻校尉、蜀郡太守。轉司徒司馬,將軍如故。

虞悰は味付けを得意とし、調味や配合にも全て方法があった。豫章王蕭嶷が盛大な宴席を設けて賓客をもてなした時、虞悰に言った。「今日の料理に、何か不足はないか。」虞悰は言った。「黄頷臛がないのが残念です。何曾の『食疏』に載っているものです。」散騎常侍、太子右率に転じた。永明八年、大水害があり、百官は軍服を着て太廟を救護したが、虞悰は朱衣を着て車に乗り、鹵簿を従え、宣陽門外の行馬(通行止めの柵)の内側で人を追い打ち、役人に奏上されたが、許された。上(武帝)は虞悰が布衣の頃からの旧交であることから、気軽に虞悰に言った。「私は卿に先祖の家業(尚書職)を回復させよう。」侍中に転じ、朝廷は皆その美しい任命に驚いた。祠部尚書に転じた。世祖が芳林園に行幸した時、虞悰に扁米を求めた。虞悰は扁米と数十輌の雑多な肴を献上し、太官(宮廷料理人)の鼎の味にも及ばなかった。上は虞悰に様々な飲食の作り方を求めたが、虞悰は秘密にして出さなかった。上が酔って体調が悪くなった後、虞悰はようやく醒酒鯖鮓(酔い覚ましのサバの漬け物)の作り方一つを献上しただけだった。冠軍将軍、車騎長史として出向し、度支尚書に転じ、領步兵校尉となった。

原文悰善爲滋味,和齊皆有方法。豫章王嶷盛饌享賔,謂悰曰:「今日肴羞,寧有所遺不?」悰曰:「恨無黃頷臛,何曾《食疏》所載也。」遷散騎常侍,太子右率。永明八年,大水,百官戎服救太廟,悰朱衣乘車鹵簿,於宣陽門外行馬內驅打人,爲有司所奏,見原。上以悰布衣之舊,從容謂悰曰:「我當令卿復祖業。」轉侍中,朝廷咸驚其美拜。遷祠部尚書。世祖幸芳林園,就悰求扁米。悰獻及雜肴數十轝,太官鼎味不及也。上就悰求諸飲食方,悰秘不肯出,上醉後體不快,悰乃獻醒酒鯖鮓一方而已。出爲冠軍將軍,車騎長史,轉度支尚書,領步兵校尉。

鬱林王が立つと、右軍将軍、揚州大中正を兼任し、大匠卿を兼ねた。休安陵の造営を始め、陵の工事現場で役人から牛と酒を受け取った罪で官を免ぜられた。隆昌元年、白衣の身分で職務を兼任した。鬱林王が廃されると、虞悰はひそかに嘆いて言った。「王(敬則)や徐(孝嗣)が遂に袴を縛って(軽装で武装し)天子を廃した。天下にこんな道理があろうか。」延興元年、再び右軍将軍を兼任した。明帝が立つと、虞悰は病気と称して即位の儀礼に陪席しなかった。帝は尚書令の王晏に廃立の経緯を示す文書を持たせて虞悰に見せ、虞悰が旧臣であることから、佐命の功に参与するよう誘った。虞悰は王晏に言った。「主上は聖明で、公卿は力を合わせている。どうしてこの朽ちた老人を借りて、維新を補佐させる必要がありましょうか。お引き受けするわけにはまいりません。」朝廷の議論では彼を糾弾しようとしたが、僕射の徐孝嗣が「これもまた古に伝わる正直さである」と言ったので、衆議はやんだ。

原文鬱林立,改領右軍將軍,揚州大中正,兼大匠卿。起休安陵,於陵所受局下牛酒,坐免官。隆昌元年,以白衣領職。鬱林廢,悰竊歎曰:「王、徐遂縛袴廢天子,天下豈有此理邪?」廷興元年,復領右軍。明帝立,悰稱疾不陪位。帝使尚書令王晏賫廢立事示悰,以悰舊人,引參佐命。悰謂晏曰:「主上聖明,公卿戮力,寧假朽老以匡贊惟新乎?不敢聞命。」朝議欲糾之,僕射徐孝嗣曰:「此亦古之遺直。」衆議乃止。

虞悰は病気が重いと称して東(故郷)に帰り、上表して言った。「臣の一族は海辺の鄙びた地に住み、身は稽土(会稽の地)の微賤な者でありますが、猥りにも興隆の運に属し、厚い恩寵を蒙りました。ただ星霜を越えるばかりで、終いに報いることを恥じております。養生の道に外れ、病を抱えて固く癒えず、臥病して以来、あっという間に十日、一ヶ月が過ぎ、頻繁に医師を加え治療しましたが、いまだに癒え損なっております。この朽ち果てた体では、道理として再び振るうことは難しく、職務を解き、残りの日々を全て治療に費やさせてください。」詔により百日の休暇を賜った。給事中、光禄大夫に転じ、まもなく正員常侍を加官された。永元元年、死去した。六十五歳であった。

原文悰稱疾篤還東,上表曰:「臣族陋海區,身微稽土,猥屬興運,荷竊稠私,徒越星紀,終慚報答。衞養乖方,抱疾嬰固,寢瘵以來,倏踰旬朔,頻加醫治,曾未瘳損。惟此朽頓,理難振復,乞解所職,盡療餘辰。」詔賜假百日。轉給事中,光祿大夫,尋加正員常侍。永元元年,卒。時年六十五。

虞悰の性質は篤実で、人と知り合うと必ず訪ねて安否を確かめ、親しい者も疎遠な者も終始一貫して接したので、世間はこれをもって彼を称賛した。

原文悰性敦實,與人知識,必相存訪,親疏皆有終始,世以此稱之。

従弟の虞袠は、志を立てて仕官しなかった。王敬則が反乱を起こすと、虞袠を監会稽郡に任じたが、軍事は全て寒門の者である張霊宝に委ねた。郡の民が郡府を攻撃して張霊宝を殺害したが、虞袠は事件に関与していなかったので難を免れた。

原文從弟袤,矢志不仕。王敬則反,取袤監會稽郡,而軍事悉付寒人張靈寶,郡人攻郡殺靈寶,袤以不豫事得全。

胡諧之は、豫章郡南昌県の人である。祖父の胡廉之は、治書侍御史であった。父の胡翼之は、州から辟召されたが就任しなかった。

原文胡諧之,豫章南昌人也。祖廉之,治書侍御史。父翼之,州辟不就。

胡諧之は初め州の従事主簿に辟召され、臨賀王国常侍、員外郎、撫軍行参軍、晋熙王安西中兵参軍、南梁郡太守を歴任した。器量と才覚で称えられた。邵陵王の南中郎中兵に転じ、汝南太守を兼任したが拝命しなかった。射声校尉、州別駕に任じられた。左軍将軍に任じられたが拝命せず、そのまま邵陵王左軍諮議に任じられた。

原文諧之初辟州從事主簿,臨賀王國常侍,員外郎,撫軍行參軍,晉熙王安西中兵參軍,南梁郡太守。以器局見稱。徙邵陵王南中郎中兵,領汝南太守,不拜。除射聲校尉,州別駕。除左軍將軍,不拜。仍除邵陵王左軍諮議。

世祖(武帝)が盆城に駐屯した時、胡諧之に尋陽城を守らせ、江州刺史となった時も、再び胡諧之を別駕とし、事任を委ねた。文恵太子が襄陽を鎮守した時、世祖は胡諧之を腹心とみて、北中郎征虜司馬・扶風太守として出向させ、関内侯の爵位を与えた。任地では補佐に尽力し、非常に心を砕いた。建元二年、都に戻って給事中、驍騎将軍、本州中正となり、黄門郎に転じ、領羽林監となった。永明元年、守衛尉に転じ、中正は元のままとした。翌年、給事中を加官された。三年、散騎常侍、太子右率に転じた。五年、左衛将軍に転じ、給事中を加官され、中正は元のままとした。

原文世祖頓盆城,使諧之守尋陽城,及爲江州,復以諧之爲別駕,委以事任。文惠太子鎮襄陽,世祖以諧之心腹,出爲北中郎征虜司馬、扶風太守,爵關內侯。在鎮毗贊,甚有心力。建元二年,還爲給事中,驍騎將軍,本州中正,轉黃門郎,領羽林監。永明元年,轉守衞尉,中正如故。明年,加給事中。三年,遷散騎常侍,太子右率。五年,遷左衞將軍,加給事中,中正如故。

胡諧之は風貌が立派で豊かで、身の処し方が巧みであり、また旧恩によって遇されたため、朝廷の士人の多くが彼と交遊した。六年、都官尚書に転じた。上(武帝)は胡諧之を昇進させようと思い、かつて気軽に胡諧之に言った。「江州に侍中は何人いたかね。」胡諧之は答えて言った。「近世では程道恵ただ一人だけです。」上は言った。「二人にさせよう。」後にこのことを尚書令の王儋に話すと、王儋は別の考えを持ち、太子中庶子とし、領左衛率とした。

原文諧之風形瓌潤,善自居處,兼以舊恩見遇,朝士多與交遊。六年,遷都官尚書。上欲遷諧之,嘗從容謂諧之曰:「江州有幾侍中邪?」諧之答曰:「近世唯有程道惠一人而已。」上曰:「當令有二。」後以語尚書令王儉,儉意更異,乃以爲太子中庶子,領左衞率。

胡諧之の兄の胡謨之が亡くなると、胡諧之は上表して言った。「臣の私門には罪や禍いがあり、早くから苦難を備えておりました。兄弟三人で互いに養い育て合い、幼い頃病に抱かれながらも、成人することができました。長兄の臣胡諶之はまた早くに亡くなり、亡き次兄の臣胡謨之と共に家庭で悲しみを抱え、訓育を受けて成長し、その情けは極めて深い庇護のようでした。どうして一朝にして突然に見捨てられ、吉凶が分かれてしまい、臨終に奉ることができなかったのでしょうか。職務を解かせてください。」詔は許さなかった。衛尉に改任され、中庶子は元のままとした。

原文諧之兄謨之亡,諧之上表曰:「臣私門罪釁,早備荼苦。兄弟三人,共相撫鞠,嬰孩抱疾,得及成人。長兄臣諶之,復早殞沒,與亡第二兄臣謨之銜戚家庭,得蒙訓長,情同極廕。何圖一旦奄見棄放,吉凶分違,不獲臨奉,乞解所職。」詔不許。改衞尉,中庶子如故。

八年、帝は諧之に禁兵を率いて江陵の巴東王子響を討伐するよう派遣し、長史の職務を兼ねさせた。朝廷軍は子響に敗れたため、役所が官職を免ずるよう上奏したが、軍事の職務は従来通り暫定的に続行させた。その後、再び衛尉となり、中庶子を兼任し、本州の中正を務めた。

原文八年,上遣諧之率禁兵討巴東王子響於江陵,兼長史行事。臺軍爲子響所敗,有司奏免官,權行軍事如故。復爲衞尉,領中庶子,本州中正。

諧之は見識と計略があり、朝廷の官職に欠員が出たり、昇進や交代が必要な際には、密かに帝が任用する人物を推量し、その言う通りになったため、虞悰はこれに感服して称賛した。

原文諧之有識計,每朝廷官缺及應遷代,密量上所用人,皆如其言,虞悰以此稱服之。

十年、度支尚書に転任し、衛尉を兼任した。翌年、死去した。五十一歳であった。右将軍・豫州刺史を追贈された。諡は肅といった。

原文十年,轉度支尚書,領衞尉。明年,卒,年五十一。贈右將軍、豫州刺史。諡曰肅。

史臣が言う。銭を送って二倍の利益を得るという言葉は、これを忘れるなということであり、一つの笥に込めた思いが都尉の官位で報いられ、千金を失うこともありうるが、貴いのは人心にある。謹み深く誠実で、広く人々を愛すれば、その利益は広大である。ましてや先覚者であり潜龍であった者が、布衣の身分の時から厚い縁を結び、才能に応じて地位を得るのは、道理として当然のことである。

原文史臣曰:送錢贏兩,言此無忘,一笥之懷,報以都尉,千金可失,貴在人心。夫謹而信,汎愛衆,其爲利也博矣。況乎先覺潛龍,結厚於布素,隨才致位,理固然也。