南齊書

巻三十五 列伝第十六

巻三十五 列伝第十六

臨川献王蕭映は、字あざなを宣光といい、太祖(蕭道成)の第三子である。宋の元徽四年(476年)、初めて官に就き著作佐郎となり、撫軍行参軍、南陽王文学に転じた。沈攸之の乱が起こると、太祖は当時南徐州を統率しており、蕭映を寧朔将軍に任じて京口を鎮守させた。乱が鎮まると、中軍諮議・従事中郎・輔国将軍・淮南宣城二郡太守に任じられたが、いずれも拝命しなかった。引き続き仮節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・行南兗州刺史となり、将軍の位はもとのままとした。まもなく給事黄門侍郎に任じられ、前軍将軍を兼ね、やがてまた冠軍将軍・南兗州刺史となり、仮節都督を加えられ、さらに監軍となり、五州都督はもとのままとした。 斉の朝廷が建てられると、宋の皇帝は詔を下して蕭映と弟の蕭晃・蕭曄・蕭暠・蕭鏘・蕭鑠・蕭鑒をいずれも開国県公に封じ、それぞれ千五百戸を与えたが、領地が定まらないうちに太祖が即位した。太祖は蕭映を使持節・都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・平西将軍・荊州刺史とした。臨川王に封じられ、食邑は定例通り二千戸を与えられた。また湘州刺史を兼ねた。豫章王蕭嶷が陝西に留まって鎮守したため、蕭映も赴任しなかった。散騎常侍・都督揚南徐二州諸軍事・前将軍・揚州刺史に改めて任じられ、持節はもとのままとした。国家が創建されたばかりの頃、蕭映は若年で神州(揚州)を治めたが、官吏の統治は聡明で敏速であり、府州の役所は皆、禁令を奉じて重々しく足を踏みしめるように慎重であり、宋の彭城王劉義康以来、このようなことはなかった。

原文臨川獻王映,字宣光,太祖第三子也。宋元徽四年,解褐著作佐郎,遷撫軍行參軍,南陽王文學。沈攸之事難,太祖時領南徐州,以映為寧朔將軍,鎮京口。事寧,除中軍諮議、從事中郎、輔國將軍、淮南宣城二郡太守,並不拜。仍為假節、督南兗兗徐青冀五州諸軍事、行南兗州刺史,將軍如故。尋除給事黃門侍郎,領前軍將軍,仍復為冠軍將軍、南兗州刺史,假節督,復為監軍,督五州如故。 齊台建,宋帝詔封映及弟晃、曄、暠、鏘、鑠、鑒併為開國縣公,各千五百戶,未及定土宇,而太祖踐阼。以映為使持節、都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸 軍事、平西將軍、荊州刺史。封臨川王,食邑例二千戶。又領湘州刺史。豫章王嶷既留鎮陝西,映亦不行。改授散騎常侍、都督揚南徐二州諸軍事、前將軍、揚州刺史,持節如故。國家初創,映以年少臨神州,吏治聰敏,府州曹局皆重足以奉禁令,自宋彭城王義康以後未之有也。

都督荊湘雍益梁巴寧南北秦九州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史として出向し、持節・常侍はもとのままとした。鼓吹一部を与えられた。国喪のため散騎常侍を解任され、征西将軍に進号した。永明元年(483年)、侍中・驃騎将軍として朝廷に入った。二年、油絡車を与えられた。五年、本官のまま開府儀同三司となった。七年、死去した。蕭映は騎射を得意とし、音律を解し、左右の手で書を書き、左右の手で射ることが巧みで、賓客への応対は風韻が美しく、朝廷内外で惜しまれない者はなかった。時に三十二歳。詔により東園の秘器、朝服一具、衣一襲を賜った。司空を追贈された。九人の子は皆、侯に封じられた。長子の蕭子晉は、東陽・呉興二郡太守、秘書監、后軍将軍を歴任した。永元元年(499年)初め、侍中となり、左民尚書に転じた。従妹の祖(先祖を祀る日)の日に拝礼しなかったことで罪に問われ、有司から上奏されたが、事は宮中に留め置かれ、蕭子晉は結局再び拝礼しなかった。梁王(蕭衍)が京邑を平定した時も、彼はなお侍中の服を着ていた。梁に入って輔国将軍・高平太守となった。第二子の蕭子游は州陵侯となった。初めて官に就き員外郎、太子洗馬となり、琅邪・晉陵二郡太守、黄門侍郎を歴任した。音楽を好み、弦楽器・管楽器などの雑芸に通じていた。梁の初め、閨門の淫穢と殺人の罪で有司から上奏され、禁錮を議するよう請われた。蕭子晉が謀反を企てたため、兄弟は共に誅殺された。

原文出為都督荊湘雍益梁巴寧南北秦九州諸軍事、鎮西將軍、荊州刺史,持節、常侍如故。給鼓吹一部。以國憂解散騎常侍,進號征西。永明元年入為侍中,驃 騎將軍。二年,給油絡車。五年,即本號開府儀同三司。七年,薨。映善騎射,解聲律,工左右書左右射,應接賓客,風韻韶美,朝野莫不惋惜 焉。時年三十二。詔賜東園秘器,朝服一具,衣一襲。贈司空。九子皆封侯。長子子晉,歷東陽、吳興二郡太守,秘書監,領后軍將軍。永元初,為侍中, 遷左民尚書。坐從妹祖日不拜,為有司所奏,事留中,子晉遂不復拜。梁王定京邑,猶服侍中服。入梁為輔國將軍、高平太守。第二子子游,州陵侯。解褐員外郎,太子洗馬,歷琅邪、晉陵二郡太守,黃門侍郎。好音樂,解絲竹雜藝。梁初坐閨門淫穢及殺人,為有司所奏,請議禁錮。子晉謀反,兄弟並伏誅。

長沙威王蕭晃は、字を宣明といい、太祖の第四子である。若い頃から武勇に優れ、太祖に愛された。宋の時代に初めて官に就き秘書郎邵陵王友に任じられたが、拝命しなかった。昇明二年(478年)、兄の蕭映に代わって寧朔将軍・淮南宣城二郡太守となった。初め、沈攸之の乱が起こった時、蕭晃は弓馬に長け、多くの武具を従え、都の街を威圧して通り、当時の人々は彼について「煥煥たる蕭四傘」と言った。 その年、持節・監豫司二州郢州之西陽諸軍事・西中郎将・豫州刺史に転じた。太祖が即位すると、蕭晃は政事を上奏しようとしたが、いつも典簽に取り締まられ、蕭晃は彼を捕らえて殺した。上(太祖)は大いに怒り、自ら詔を下して杖罰を与えた。まもなく使持節・都督南徐兗二州諸軍事・后将軍・南徐州刺史に転じた。世祖(蕭賾)が皇太子となった時、武進陵に拝礼し、曲阿の後湖で隊列を競わせ、蕭晃に馬軍を統率させた。上(太祖)はこれを聞いて、また不愉快に思った。侍中・護軍将軍として朝廷に入り、国喪のため侍中を解任され、中軍将軍を加えられた。太祖が臨終の際、蕭晃のことを世祖に託し、輦轂(天子の車駕)の近くの藩国に置き、遠方に出させないようにと言った。永明元年、上(世祖)は南徐州刺史の竟陵王蕭子良を南兗州に転じ、蕭晃を使持節・都督南徐兗二州諸軍事・鎮軍将軍・南徐州刺史とした。散騎常侍、中書監として朝廷に入った。諸王が京都にいる時は、捉刀(護衛)の左右四十人だけを置くこととされていた。蕭晃は武具の装飾を好み、徐州を罷めて帰還する際、私的に数百人分の武器を載せて都に帰ったが、禁司に発覚し、それらは江水に投げ捨てられた。世祖は諸王が私的に武器を蓄えることを禁じており、これを聞いて大いに怒り、法によって糾明しようとした。豫章王蕭嶷が御前で額を地につけて涙を流し、「蕭晃の罪は確かに赦すに足りません。しかし陛下には先朝(太祖)が白象を思われたことを思い出していただきたい」と言った。白象は、蕭晃の幼名である。上(世祖)もまた涙を流した。

原文長沙威王晃,字宣明,太祖第四子也。少有武力,為太祖所愛。宋世解褐秘書郎邵陵王友,不拜。昇明二年,代兄映為寧朔將軍、淮南宣城二郡太守。初,沈攸之事起,晃便弓馬,多從武容,熏赫都街,時人為之語曰:「煥煥蕭四傘。」 其年,遷為持節、監豫司二州郢州之西陽諸軍事、西中郎將、豫州刺史。太祖踐祚,晃欲陳政事,輒為典簽所裁,晃執殺之。上大怒,手詔賜杖。尋 遷使持節、都督南徐兗二州諸軍事、后將軍、南徐州刺史。世祖為皇太子,拜武進陵,于曲阿后湖斗隊,使晃御馬軍,上聞之,又不悅。入為侍中、護軍將軍, 以國憂,解侍中,加中軍將軍。太祖臨崩,以晃屬世祖,處以輦轂近蕃,勿令遠出。永明元年,上遷南徐州刺史竟陵王子良為南兗州,以晃為使持節、都督南徐 兗二州諸軍事、鎮軍將軍、南徐州刺史。入為散騎常侍,中書監。諸王在京都,唯置捉刀左右四十人。晃愛武飾,罷徐州還,私載數百人仗還 都,為禁司所覺,投之江水。世祖禁諸王畜私仗,聞之大怒,將糾以法。豫章王嶷于御前稽首流涕曰:「晃罪誠不足宥。陛下當憶先朝念白象。」白象,晃小字也。上亦垂泣。

太祖が危篤の時、世祖に戒めて「宋の皇室がもし骨肉で互いに謀り合わなければ、他族がどうしてその衰弊に乗じることができただろうか。汝は深く戒めよ」と言った。それゆえ世祖は終始異心を抱かなかった。しかし蕭晃もまた親しく寵愛されることはなかった。当時の論者は、世祖の対応を魏の文帝(曹丕)よりは優れているが、漢の明帝(劉荘)には及ばないと評した。まもなく蕭晃に鎮軍将軍を加え、丹陽尹に転じ、常侍・将軍はもとのままとした。また侍中・護軍将軍となり、鎮軍将軍はもとのままとした。まもなく車騎将軍に進号し、侍中はもとのままとした。油絡車と鼓吹一部を与えられた。八年(490年)、死去した。三十一歳。 東園の秘器、朝服一具、衣一襲を賜った。本官のまま、開府儀同三司を追贈された。

原文太祖大漸時,誡世祖曰:「宋氏若不骨肉相圖,他族豈得乘其衰弊,汝深戒之。」故世祖終無異意。然晃亦不見親寵。當時論者以世祖優於魏文, 減于漢明。尋加晃鎮軍將軍,轉丹陽尹,常侍、將軍如故。又為侍中、護軍將軍,鎮軍 如故。尋進號車騎將軍,侍中如故。給油絡車,鼓吹一部。八年,薨,年三十一。 賜東園秘器,朝服一具,衣一襲。即本號,贈開府儀同三司。

世祖がかつて鐘山に行幸した時、蕭晃が従駕し、馬槊で道端の枯れた切り株を刺した。上(世祖)は左右の者数人に引かせたが、銀の巻きつけた部分が皆、巻き上がってしまい、槊は抜けなかった。そこで蕭晃に再び馬を走らせて抜かせると、手に応じてすぐに抜けた。遠方の州から駿馬が献上されるたびに、上は蕭晃に華林園で調教・試乗させた。太祖は常に「これは我が家の任城王(曹彰)だ」と言った。世祖はこの意に沿って、諡を威としたのである。

原文世祖嘗幸鐘山,晃從駕,以馬槊刺道邊枯櫱,上令左右數人引之,銀纏皆卷 聚,而槊不出。乃令晃復馳馬拔之,應手便去。每遠州獻駿馬,上輒令晃于華林 中調試之。太祖常曰:「此我家任城也。」世祖緣此意,故諡曰威。

武陵昭王蕭曄は、字を宣照といい、太祖の第五子である。母の羅氏は、太祖に従って淮陰にいたが、罪により誅殺され、蕭曄は四歳であったが、成人と変わらないほど慕い悲しんだので、常に愛された。初め冠軍将軍に任じられ、征虜将軍に転じた。蕭曄は剛直で聡明、才気が抜きん出ており、囲碁を得意とし、諸王と共に短句を作り、詩は謝霊運の体を学び、それを上(太祖)に呈したところ、返答があった。「汝の二十字を見たが、諸児の作中で最も優れている。しかし康楽(謝霊運)は放蕩で、作体に首尾一貫したところがない。安仁(潘岳)・士衡(陸機)を深く尊ぶべきであり、顔延之はそれに次ぐものだ」。建元三年(481年)、持節・都督会稽東陽新安永嘉臨海五郡軍事・会稽太守として出向し、将軍はもとのままとした。上は儒者の劉瓛を郡に派遣し、蕭曄に『五経』を講義させた。

原文武陵昭王曄,字宣照,太祖第五子也。母羅氏,從太祖在淮陰,以罪誅,曄年四歲,思慕不異成人,故每見愛。初除冠軍將軍,轉征虜將軍。曄剛穎俊出, 工弈棋,與諸王共作短句,詩學謝靈運體,以呈上,報曰:「見汝二十字,諸兒作中最為優者。但康樂放蕩,作體不辨有首尾,安仁、士衡深可宗尚,顏延之抑 其次也。」建元三年,出為持節、都督會稽東陽新安永嘉臨海五郡軍事、會稽太守,將軍如故。上遣儒士劉瓛往郡,為曄講《五經》。

世祖が即位すると、左将軍に進号し、中書令として朝廷に入り、将軍はもとのままとした。散騎常侍、太常卿に転じた。また中書令となり、祠部尚書に転じ、常侍はもとのままとした。

原文世祖即位,進號左將軍,入為中書令,將軍如故。轉散騎常侍,太常卿。又為中書令,遷祠部尚書,常侍並如故。

蕭曄は世祖に寵愛されず、地方長官として赴任することはなく、しばしば言葉で上意に逆らった。世祖が豫章王蕭嶷の東田で諸王を宴した時、蕭曄だけは呼ばれなかった。蕭嶷が「風景が殊に美しい。今日は武陵王のことをとても思い出す」と言うと、上はようやく彼を呼んだ。蕭曄は射術に優れ、何度も命中させ、周囲を見回して「この腕前はどうか」と言った。上の表情は非常に怪しんだ。蕭嶷が「阿五(蕭曄)は普段はこうではありません。今は天威を仰いで借りていると言えるでしょう」と言うと、帝の怒りは解けた。後に華林園で賭け射をした時、上は蕭曄に重ねて的を破るよう命じ、合わせて六矢放ち、五つは的を破り、一つは皮をかすめた。銭五万を賜った。 また御席で酒を挙げて蕭曄に勧めた時、蕭曄は「陛下はかつてこのような地位を臣に約束されませんでした」と言った。上は顔を背けて答えなかった。

原文曄無寵於世祖,未嘗處方岳,數以語言忤旨。世祖幸豫章王嶷東田宴諸王,獨不召曄。嶷曰:「風景殊美,今日甚憶武陵。」上乃呼之。曄善射,屢發命中,顧謂四坐曰:「手如何?」上神色甚怪。嶷曰:「阿五常日不爾,今可謂仰藉天威。」帝意乃釋。後於華林賭射,上敕曄疊破,凡放六箭,五破一皮,賜錢五萬。 又于御席上舉酒勸曄,曄曰:「陛下嘗不以此處許臣。」上回面不答。

長い間経ってから、外任として江州刺史となり、常侍の職は従前の通りであった。上(武帝)は蕭曄がまさに外鎮に出ることを理由に、蕭曄の邸宅を求め、諸皇子に与えようとした。蕭曄は言った。「先帝が臣にこの邸宅を賜り、臣が歌い泣く場所を与えてくださいました。陛下が州と邸宅を交換しようとなさるなら、臣は邸宅で州と交換しないことをお願いします。」任地に着いて百余日後、典簽の趙渥之が蕭曄の得失について上奏したため、そこで召還されて左民尚書となった。まもなく前将軍、太常卿に転じたが、何度も志を得られなかった。冬節の挨拶の際、諸王は皆出向いたが、蕭曄だけが遅れて来た。上はすでに便殿に戻っていたが、蕭曄が到着したと聞き、引見して尋ねた。蕭曄は牛が痩せ弱っていて、道を進めないと称した。上は車府に命じ、副御牛一頭を与えさせた。主客に命じて、「今後、諸王が来て定例に従わない者は、再び取り次ぎをしてはならない」とした。

原文久之,出為江州刺史,常侍如故。上以曄方出外鎮,求曄宅給諸皇子。曄曰:「先帝賜臣此宅,使臣歌哭有所。陛下欲以州易宅,臣請不以宅易州。」至鎮百 餘日,典簽趙渥之啟曄得失,於是征還為左民尚書。俄轉前將軍,太常卿,累不得志。冬節問訊,諸王皆出,曄獨後來,上已還便殿,聞曄至,引見問之。曄稱 牛羸,不能取路。上敕車府給副御牛一頭。敕主客:「自今諸王來不隨例者,不得復為通。」

公務で帰る途中、竟陵王蕭子良の邸宅に立ち寄った。冬の道中で乞食に会い、自分の上着を脱いで与えた。子良は蕭曄が衣服を薄着しているのを見て、上着を蕭曄に薦めた。蕭曄は言った。「私と先ほどの人と、また何が違うというのか!」尚書令の王儉が蕭曄を訪ねると、蕭曄は王儉を引き留めて食事を用意し、盆の中には白菜と塩漬けの魚だけだった。また、後堂の山を「首陽」と名付けたのは、貧しさを怨んでいるためであった。

原文以公事還過竟陵王子良宅,冬月道逢乞人,脫襦與之。子良見曄衣單,薦襦于曄。曄曰:「我與向人亦復何異!」尚書令王儉詣曄,曄留儉設食,柈中菘 菜䱒魚而已。又名後堂山為「首陽」,蓋怨貧薄也。

まもなく丹陽尹となり、常侍・将軍の職は従前の通りであった。この時初めて行事を置かず、自ら政務を執るようになった。侍中、護軍将軍に転じた。油絡車を与えられた。また、扶侍二人を与えられた。世祖(武帝)が臨終の際、遺詔によって衛将軍、開府儀同三司に任じられ、鼓吹一部を与えられた。

原文尋為丹陽尹,常侍、將軍如故。始不復置行事,得自親政。轉侍中,護軍將軍。給油絡車。又給扶二人。世祖臨崩,遺詔為衛將軍,開府儀同三司,給鼓吹 一部。

大行(武帝)の御霊がまだ殯宮にある時、竟陵王蕭子良が殿内におり、皇太孫がまだ立てられておらず、衆論は喧騒で疑念が渦巻いていた。蕭曄は人々の中で言った。「もし年長者を立てるならば私が相応しく、嫡子を立てるならば皇太孫が相応しい。」郁林王が即位すると、非常に頼りにされた。隆昌元年、二十八歳で薨去した。東園の秘器と朝服を賜った。司空を追贈され、侍中の職は従前の通りであった。節を与えられ、班剣二十人を付された。

原文大行在殯,竟陵王子良在殿內,太孫未立,眾論喧疑。曄眾中言曰:「若立 長則應在我,立嫡則應在太孫。」郁林即立,甚見憑賴。隆昌元年,年二十八, 薨。賜東園秘器,朝服。贈司空,侍中如故。給節,班劍二十人。

安成恭王蕭暠は、字を宣曜といい、太祖(高帝)の第六子である。建元二年、冠軍将軍に任じられ、石頭戍を鎮守し、軍事を統領した。四年、外任として使持節・江州豫州の晉熙諸軍事都督・南中郎将・江州刺史となった。永明元年、征虜将軍の号に進んだ。翌年、左衛将軍となった。まもなく侍中に遷り、歩兵校尉を兼任した。中書令に転じた。五年、祠部尚書に遷り、驍騎将軍を兼任した。六年、外任として南徐州刺史となった。九年、散騎常侍、秘書監に遷り、石頭戍事を兼任した。蕭暠は性質が清らかで温和であったが病弱で、その夏に二十四歳で薨去した。撫軍将軍を追贈され、常侍の職は従前の通りであった。

原文安成恭王暠,字宣曜,太祖第六子也。建元二年,除冠軍將軍,鎮石頭戍,領軍事。四年,出為使持節、督江州豫州之晉熙諸軍事、南中郎將、江州刺史。 永明元年,進號征虜將軍。明年,為左衛將軍。尋遷侍中,領步兵校尉。轉中書令。五年,遷祠部尚書,領驍騎將軍。六年,出為南徐州刺史。九年,遷散騎常 侍,秘書監,領石頭戍事。暠性清和多疾,其夏薨,年二十四。贈撫軍將軍,常侍如故。

鄱陽王蕭鏘は、字を宣韶といい、太祖(高帝)の第七子である。建元四年、世祖(武帝)が即位すると、蕭鏘を使持節・雍梁南北秦四州及び郢州の竟陵、司州の隨郡の軍事都督・北中郎将・寧蛮校尉・雍州刺史とした。永明二年、征虜将軍の号に進んだ。四年、左衛将軍となり、侍中に遷り、歩兵校尉を兼任した。七年、征虜将軍に転じ、丹陽尹となった。まもなく散騎常侍を加えられ、撫軍将軍の号に進んだ。外任として江州刺史となり、常侍の職は従前の通りであった。九年、初めて府・州の政務を親裁した。使持節・江州諸軍事都督・安南将軍を加えられ、佐史を置き、常侍の職は従前の通りであった。これより先の二年に江州府が廃止されていたが、この時に至って復活した。十一年、領軍将軍となり、常侍の職は従前の通りであった。

原文鄱陽王鏘,字宣韶,太祖第七子也。建元四年,世祖即位,以鏘為使持節、督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事、北中郎將、寧蠻校尉、雍州刺史。永明二年,進號征虜將軍。四年,為左衛將軍,遷侍中,領步兵校尉。七年,轉征虜將軍,丹陽尹。尋加散騎常侍,進號撫軍。出為江州刺史,常侍如故。九年,始親府、州事。加使持節、督江州諸軍事、安南將軍,置佐史,常侍如故。先是 二年省江州府,至是乃復。十一年,為領軍,常侍如故。

蕭鏘は温和で美しく善良であり、世祖(武帝)に寵愛され、領軍将軍の任命は、斉室の諸王の中で未だかつてなかったことである。蕭鏘は官にあって事務を処理するのに滞りがなく、当時称賛された。車駕が遊幸する時は、常に武装した衛兵が随従し、恩遇は豫章王蕭嶷に次いだ。その年、油絡車を与えられた。隆昌元年、尚書右僕射に転じ、常侍の職は従前の通りであった。まもなく侍中・驃騎将軍・開府儀同三司に遷り、兵を統領し佐官を置いた。蕭鏘は穏やかで人々の心を得て、鬱林王に頼りにされ信頼された。鬱林王は高宗(明帝)を疑っており、諸王が挨拶に来た時、蕭鏘だけを引き留めて言った。「公は蕭鸞が法身(鬱林王の小字)に対してどう思っているか聞いているか?」蕭鏘は言った。「臣下の蕭鸞は宗戚の中で最も年長で、かつ先帝から託されました。臣下らは皆まだ若く、朝廷の柱石は蕭鸞ただ一人です。願わくば陛下にはご心配なさらないでください。」鬱林王は退いて徐龍駒に言った。「私は公と共に謀って蕭鸞を除こうと思ったが、公が同意しない以上、私一人では成し遂げられない。しばらくまた様子を見よう。」鬱林王が廃位された時、蕭鏘はついに知らなかった。

原文鏘和悌美令,有寵於世祖,領軍之授,齊室諸王所未為。鏘在官理事無壅,當時稱之。車駕游幸,常甲仗衛從,恩待次豫章王嶷。其年,給油絡車。隆昌元年,轉尚書右僕射,常侍如故。俄遷侍中、驃騎將軍、開府儀同三司,領兵置佐。 鏘雍容得物情,為鬱林王所依信。鬱林心疑高宗,諸王問訊,獨留鏘謂之曰:「公聞鸞於法身何如?」鏘曰:「臣鸞于宗戚最長,且受寄先帝。臣等年皆尚少,朝廷之干,唯鸞一人,願陛下無以為慮。」鬱林退謂徐龍駒曰:「我欲與公共計取鸞,公既不同,我不能獨辦,且復小聽。」及鬱林廢,鏘竟不知。

延興元年、司徒に進み、侍中・驃騎将軍の職は従前の通りであった。高宗(明帝)が東府を鎮守し、権勢が次第に異なってくると、蕭鏘が訪ねる度に、高宗は常に履き物を履いたまま車まで出迎えた。家と国のことに言及すると、言葉と涙が共に流れ、蕭鏘はこれによって彼を推し信じた。しかし宮廷内は皆蕭鏘に期待を寄せ、蕭鏘に宮中に入って兵を起こし政務を補佐するよう勧めた。制局監の謝粲が蕭鏘と隨王蕭子隆を説得して言った。「殿下はただ油壁車に乗って宮中に入り、天子を出して朝堂に置き、二王が挟み補佐して号令を発すれば、粲らが城門を閉じて兵仗を上げ、誰が同意しないことがありましょうか。東城の人々はまさに共に縛って蕭令(明帝)に送り届けるだけです。」子隆は計画を決めようとしたが、蕭鏘は、朝廷の兵力が既に全て東府に渡っていること、かつ事が成功し難いことを考慮し、心中非常に躊躇していた。馬隊主の劉巨は、世祖の時代からの旧臣で、蕭鏘を訪ねて密談を請い、叩頭して蕭鏘に挙兵するよう勧めた。蕭鏘は車を命じて入ろうとしたが、また引き返して内室に入り母の陸太妃と別れ、日暮れになっても出発できなかった。数日後、高宗が二千人を遣わして蕭鏘の邸宅を包囲し蕭鏘を殺害し、謝粲らも皆殺された。蕭鏘はこの時二十六歳であった。諸王が殺害される時は、皆夜に兵を遣わして邸宅を包囲し、あるいは斧で門を破り壁を押し倒して叫び騒ぎながら入り、家財は全て封じられ没収された。

原文延興元年,進位司徒,侍中、驃騎如故。高宗鎮東府,權勢稍異,鏘每往,高宗常屣履至車迎鏘。語及家國,言淚俱下,鏘以此推信之。而宮台內皆屬意於鏘,勸鏘入宮發兵輔政。制局監謝粲說鏘及隨王子隆曰:「殿下但乘油壁車入宮,出天子置朝堂,二王夾輔號令,粲等閉城門上仗,誰敢不同?東城人政共縛送蕭 令耳。」子隆欲定計,鏘以上台兵力既悉度東府,且慮事難捷,意甚猶豫。馬隊主劉巨,世祖時舊人,詣鏘請間,叩頭勸鏘立事。鏘命駕將入,復回還內與母陸 太妃別,日暮不成行。數日,高宗遣二千人圍鏘宅害鏘,謝粲等皆見殺。鏘時年二十六。凡諸王被害,皆以夜遣兵圍宅,或斧關排牆叫噪而入,家財皆見封籍焉。

桂陽王蕭鑠は、字を宣朗といい、太祖(高帝)の第八子である。永明二年、外任として南徐州刺史となり、京口を鎮守した。歴代の鎮府であったが、蕭鑠が藩国に出ると、初めて軍府が廃止された。四年、散騎常侍を加えられた。六年、中書令に遷り、度支尚書となった。七年、中書令に転じ、散騎常侍を加えられた。当時、鄱陽王蕭鏘は文章を好み、蕭鑠は名理を好んだので、当時の人は「鄱桂」と称した。十年、太常に遷り、常侍の職は従前の通りであった。蕭鑠は清らかだが病弱で冷え性の持病があり、常に枕に臥せっていた。世祖(武帝)がご覧になり、寝台・帳・衾・褥を賜った。隆昌元年、前将軍を加えられた。油絡車を与えられ、併せて扶侍二人を与えられた。海陵王が立つと、侍中・撫軍将軍に転じ、兵を統領し佐官を置いた。鄱陽王が殺害されると、蕭鑠は中軍将軍、開府儀同三司に遷った。蕭鑠は安心できず、東府に行って高宗(明帝)に会い帰ると、側近に言った。「先ほど録公(明帝)は手厚くもてなしてくれたが、名残惜しくてやめられず、しかも顔に恥じる様子があった。これは必ずや私を殺そうとしているのだ。」三更の中頃、兵が来て殺害された。この時二十五歳であった。

原文桂陽王鑠,字宣朗,太祖第八子也。永明二年,出為南徐州刺史,鎮京口。歷代鎮府,鑠出蕃,始省軍府。四年,加散騎常侍。六年,遷中書令,度支尚書。七年,轉中書令,加散騎常侍。時鄱陽王鏘好文章,鑠好名理,時人稱為「鄱桂。」十年,遷太常,常侍如故。鑠清羸有冷疾,常枕臥。世祖臨視,賜床帳衾褥。隆昌元年,加前將軍。給油絡車,並給扶侍二人。海陵立,轉侍中、撫軍將軍,領兵置佐。鄱陽王見害,鑠遷中軍將軍,開府儀同三司。鑠不自安,至東府詣高宗還, 謂左右曰:「向錄公見接殷勤,流連不能已,而貌有慚色,此必欲殺我。」三更中,兵至見害。時年二十五。

始興簡王蕭鑒は、字を宣徹といい、太祖(高帝)の第十子である。初め広興王に封じられ、後に封国が隨郡に改名されたのに伴い改名した。永明二年、世祖(武帝)は初めて蕭鑒を持節・益寧二州軍事都督・前将軍・益州刺史とした。広漢郡什邡県の民、段祖が錞于を蕭鑒に献上した。これは古代の礼器である。高さ三尺六寸六分、周囲二尺四寸、筒のように円く、銅の色は漆のように黒く、非常に薄い。上に銅の馬があり、縄で馬を吊り下げ、地面から一尺余り離れるようにし、水を注ぎ、また器で下に水を溜め、芒の茎を中心に向けて跪いて注ぎ、手で芒を振ると、その音は雷のようで、清らかな響きが長く続いてやっと絶える。古代に音楽の調子を整えるために用いたものである。五年、蕭鑒は龍角一本を献上した。長さ九尺三寸、色は紅く、文様があった。

原文始興簡王鑒,字宣徹,太祖第十子也。初封廣興王,后國隨郡改名。永明二年,世祖始以鑒為持節、都督益寧二州軍事、前將軍、益州刺史。廣漢什邡民段 祖以錞于獻鑒,古禮器也。高三尺六寸六分,圍二尺四寸,圓如筒,銅色黑如漆,甚薄。上有銅馬,以繩縣馬,令去地尺餘,灌之以水,又以器盛水于下,以 芒莖當心跪注錞于,以手振芒,則其聲如雷,清響良久乃絕。古所以節樂也。五年,鑒獻龍角一枚,長九尺三寸,色紅,有文。

八年、安西将軍の号を進められた。翌年、散騎常侍、秘書監となり、石頭の戍事を領した。上(武帝)は蕭鑒と長らく別れていたため、車駕を石頭に幸せて宴会を開き、賞賜を与えた。まもなく左衛将軍に遷ったが、拝命せず、病に罹った。上は南康王の子琳のために青陽巷に邸宅を新築し、車駕と後宮を率いて邸宅に幸せて楽しみ飲んだが、その日、蕭鑒の病状が非常に重かったため、上は騎兵を派遣して病状を問わせ続け、詔を下して音楽を止めさせた。薨去した。二十一歳であった。中軍将軍を追贈され、本官と新たに任命された官職はすべて従前の通りであった。

原文八年,進號安西將軍。明年,為散騎常侍,秘書監,領石頭戍事。上以與鑒久別,車駕幸石頭宴會 賞賜。尋遷左衛將軍,未拜,遇疾。上為南康王子琳起青陽巷第新成,車駕與后 宮幸第樂飲,其日鑒疾甚,上遣騎問疾相繼,為之詔止樂。薨,年二十一。遣贈 中軍將軍,本官新除悉如故。

江夏王蕭鋒は、字を宣穎といい、太祖(蕭道成)の第十二子である。永明五年、輔国将軍、南彭城・平昌二郡太守となった。散騎常侍に転じた。七年、左衛将軍に遷り、そのまま侍中に転じ、石頭の戍事を領した。九年、徐州刺史として出向した。郁林王が即位すると、散騎常侍を加えられた。隆昌元年、侍中として入朝し、驍騎将軍を領し、まもなく秘書監を加えられた。

原文江夏王鋒,字宣穎,太祖第十二子。永明五年,為輔國將軍,南彭城、平昌二郡太守。轉散騎常侍。七年,遷左衛將軍,仍轉侍中,領石頭戍事。九年,出 為徐州刺史。郁林即位,加散騎常侍。隆昌元年,入為侍中,領驍騎將軍,尋加秘書監。

蕭鋒は琴と書を好み、武勇の才があった。高宗(明帝)が諸王を殺害したとき、蕭鋒は手紙を送って譴責したが、側近たちが取り次がず、高宗は彼を深く恐れた。邸宅で蕭鋒を捕らえることは敢えず、兼ねて祠官として太廟に派遣し、夜に兵を廟に派遣して彼を捕らえさせた。蕭鋒が出て車に乗ろうとすると、兵士たちが車に乗り込んで拘束しようとしたが、蕭鋒は手で数人を撃退し、皆その場で倒れた。そこで敢えて近づく者が遂に彼を害した。時に二十歳であった。

原文鋒好琴書,有武力。高宗殺諸王,鋒遺書誚責,左右不為通,高宗深憚之。 不敢於第收鋒,使兼祠官于太廟,夜遣兵廟中收之。鋒出登車,兵人慾上車防勒, 鋒以手擊卻數人,皆應時倒地,於是敢近者遂逼害之。時年二十。

南平王蕭銳は、字を宣毅といい、太祖の第十五子である。永明七年、散騎常侍となり、まもなく驍騎将軍を領した。翌年、左民尚書となった。朝廷での当直は勤勉で謹厳であり、一度も病気を理由に休むことがなく、上(武帝)は彼を賞賛した。十年、持節・都督湘州諸軍事・南中郎将・湘州刺史として出向し、これをもって蕭銳を賞した。郁林王が即位すると、前将軍の号を進められた。延興元年、諸王が害され、裴叔業が尋陽を平定するために派遣され、そのまま湘州に進軍した。蕭銳の防閣である周伯玉が蕭銳に裴叔業への抵抗を勧めたが、府州の兵力が弱く敢えて動けず、蕭銳は害された。十九歳であった。周伯玉は獄に下されて誅殺された。

原文南平王銳,字宣毅,太祖第十五子也。永明七年,為散騎常侍,尋領驍騎將軍。明年,為左民尚書。朝直勤謹,未嘗屬疾,上嘉之。十年,出為持節、都督 湘州諸軍事、南中郎將、湘州刺史,以此賞銳。郁林即位,進號前將軍。延興元年,害諸王,遣裴叔業平尋陽,仍進湘州。銳防閣周伯玉勸銳拒叔業, 而府州力弱不敢動,銳見害,年十九。伯玉下獄誅。

宜都王蕭鏗は、字を宣嚴といい、太祖の第十六子である。初め游撃将軍に任命された。永明十年、左民尚書に遷った。十一年、持節・都督南豫司二州軍事・冠軍将軍・南豫州刺史となり、姑熟に鎮した。当時、盗賊が晋の大司馬桓溫の娘の墓を発掘し、金の蚕、銀の繭、圭璧などの物品を得た。蕭鏗は長史の蔡約を自ら派遣して修復させ、微細なものまで一切犯さなかった。郁林王が即位すると、征虜将軍の号を進められた。延興元年に害され、十八歳であった。

原文宜都王鏗,字宣嚴,太祖第十六子也。初除游擊將軍。永明十年,遷左民尚書。十一年,為持節、都督南豫司二州軍事、冠軍將軍、南豫州刺史,鎮姑熟。 時有盜發晉大司馬桓溫女冢,得金蠶銀繭及圭璧等物。鏗使長史蔡約自往修復,纖毫不犯。郁林即位,進號征虜將軍。延興元年見害,年十八。

晉熙王蕭銶は、字を宣攸といい、太祖の第十八子である。永明十一年、驍騎将軍に任命された。隆昌元年、持節・督郢司二州軍事・冠軍将軍・郢州刺史として出向した。延興元年、征虜将軍の号を進められた。まもなく害され、十六歳であった。

原文晉熙王銶,字宣攸,太祖第十八子也。永明十一年,除驍騎將軍。隆昌元年, 出為持節、督郢司二州軍事、冠軍將軍、郢州刺史。延興元年,進號征虜將軍。 尋見害,年十六。

河東王蕭鉉は、字を宣胤といい、太祖の第十九子である。隆昌元年、驍騎将軍となった。徐州刺史として出向し、中書令に遷った。高宗(明帝)が諸王を誅殺したとき、蕭鉉は年少で才能が弱いため、害を加えなかった。建武元年、散騎常侍、鎮軍将軍に転じ、兵士と属官を置かれた。

原文河東王鉉,字宣胤,太祖第十九子也。隆昌元年,為驍騎將軍。出為徐州刺 史,遷中書令。高宗誅諸王,以鉉年少才弱,故不加害。建武元年,轉為散騎常 侍,鎮軍將軍,置兵佐。

建武の世(明帝の治世)、高帝・武帝の子孫は憂慮と危険にさらされ、蕭鉉は毎回の朝見で、常に身をかがめてうつむき、まっすぐに並んで直視することができなかった。まもなく侍中・衛将軍に遷った。蕭鉉は年齢がやや長じた。四年、王晏が誅殺され、その謀略が蕭鉉を立てることを名目としていたため、蕭鉉の官職を免じ、王として邸宅に帰らせ、外部の人々との交際を禁じた。永泰元年、上(明帝)の病が突然非常に重くなり、遂に蕭鉉を害した。時に十九歳であった。二人の子は幼児の頃にもかかわらず、やはり殺害された。太祖の諸王の中で、蕭鉉だけが後継ぎがなく、人々は密かに彼を不憫に思った。そこで揚州刺史の始安王蕭遙光、臨川王の子晋、竟陵王蕭昭胄、太尉陳顯達、尚書令徐孝嗣、右僕射沈文季、尚書沈淵、沈約、王亮が上奏して蕭鉉のことを論じたが、帝(東昏侯)は許さずと答えた。再度上奏して、ようやく従った。

原文建武之世,高、武子孫憂危,鉉每朝見,常鞠躬俯僂,不敢平行直視。尋遷侍中、衛將軍。鉉年稍長。四年,誅王晏,以謀立鉉為名,免鉉官,以王還第, 禁不得與外人交通。永泰元年,上疾暴甚,遂害鉉,時年十九。二子在孩抱,亦見殺。太祖諸王,鉉獨無後,眾竊冤之。乃使揚州刺史始安王遙光、臨川王子晉、竟陵王昭胄、太尉陳顯達、尚書令徐孝嗣、右僕射沈文季、尚書沈淵、沈約、王亮奏論鉉,帝答不許,再奏,乃從之。

史臣曰く:陳思王(曹植)の上奏文に「権力の存するところでは、疎遠な者でも必ず重んじられ、勢いの去ったところでは、親しい者でも必ず軽んじられる」とある。もし六代(夏・殷・周・秦・漢・魏)の興亡について言えば、曹冏の論は適切である。圭を分け与え社を命じることは、実に宗族の城(封国)に託すものである。封国に就く典礼は、すでに世とともに変革し、卿士が朝廷に入ることは、蕃輔(藩屏と輔佐)として貴ばれる。皇王(皇帝と諸侯王)は同じ体を託され、ともに尊極の位を稟受するが、官職には常に一定の資質があるわけではなく、官秩には恒常の数がある。礼と地位の双方が重んじられるため、猜疑が生じやすい。世祖(武帝)の遺命は、嫡子を尊ぶことに情深く、深遠な図りと遠大な謀りは、遺漏がないことを意としていた。どうして諸王が年少で弱く、未だ多くの難を経験しておらず、高宗(明帝)が清廉で謹厳であり、ともに布衣から起こったことを慮らなかっただろうか。それゆえに、近親に末命を秘め、疎遠な外戚に重権を託し、子弟を各地に配置して外に強大な勢力を持たせ、疎遠な親族を中立の位置に置いて、覬覦の謀りを止めさせ、表裏相い支え合って、十分に家国を固めようとしたのである。かつて機能(権謀)が衡(権力の均衡)を運び、権力が衆を制することができるとは考えず、宗族が殲滅されること、このような状態に至るとは思わなかった。曹植の言葉は信じるに足るものである。

原文史臣曰:陳思王表云:「權之所存,雖疏必重;勢之所去,雖親必輕。」若夫六代之興亡,曹冏論之當矣。分圭命社,實寄宗城。就國之典,既隨世革,卿 士入朝,作貴蕃輔。皇王托體,同稟尊極,仕無常資,秩有恆數,禮地兼隆,易生猜疑。世祖顧命,情深尊嫡,淵圖遠算,意在無遺。豈不以群王少弱,未更多 難,高宗清謹,同起布衣,故韜末命于近親,寄重權于疏戚,子弟布列,外有強大之勢,疏親中立,可息覬覦之謀,表裡相維,足固家國。曾不慮機能運衡,權 可制眾,宗族殲滅,一至於斯。曹植之言信之矣。