南齊書

巻三十三 列伝第十四

巻三十三 列伝第十四

王僧虔は、琅邪郡臨沂県の人である。祖父の王珣は、晋の司徒であった。伯父の太保王弘は、宋の元嘉年間に宰輔を務めた。賓客が避けるべき諱いみなについて疑ったとき、王弘は「私の家の諱は蘇子高と同じだ」と言った。父の王曇首は、右光禄大夫であった。王曇首が兄弟で集まり子孫たちを集めたとき、王弘の子の王僧達は地面に下りて跳ねて遊び、王僧虔は数歳であったが、ただ一人きちんと座って蝋燭の珠を採り鳳凰を作った。王弘は「この子は結局は長者になるだろう」と言った。

原文王僧虔,琅邪臨沂人也。祖珣,晉司徒。伯父太保弘,宋元嘉世爲宰輔。賔客疑所諱,弘曰:「身家諱與蘇子高同。」父曇首,右光祿大夫。曇首兄弟集會諸子孫,弘子僧達下地跳戲,僧虔年數歲,獨正坐採蠟燭珠爲鳳凰。弘曰:「此兒終當爲長者。」

王僧虔は弱冠にして、温厚で、隷書を得意とした。宋の文帝が彼の書いた白い扇子を見て、嘆じて言った。「ただ筆跡が王献之を超えているだけでなく、器量の雅さも彼を超えるであろう」。秘書郎、太子舎人に任じられた。控えめで沈黙を守り、交際は少なく、袁淑や謝莊と親しかった。義陽王文学に転じ、太子洗馬となり、司徒左西属に昇進した。

原文僧虔弱冠,弘厚,善隷書。宋文帝見其書素扇,歎曰:「非唯迹逾子敬,方當器雅過之。」除祕書郎,太子舍人。退默少交接,與袁淑、謝莊善。轉義陽王文學,太子洗馬,遷司徒左西屬。

兄の王僧綽が、太初(劉劭)に殺害されたとき、親族や賓客は皆、王僧虔に逃亡を勧めた。王僧虔は涙を流して言った。「私の兄は国に奉じて忠貞を尽くし、私を慈愛をもって養育してくれた。今日の事態は、苦しいことに私が及ばなかっただけだ。もし同じく九泉に帰することができるなら、それは羽化したようなものだ」。孝武帝の初め、武陵太守として出向した。兄の子の王儉が途中で病気になったとき、王僧虔は寝食を忘れて看病した。同行の客が慰めた。王僧虔は言った。「昔、馬援は児と姪の間で一つの情けに違いはなく、鄧攸は弟子に対しては実子以上であった。私は実にその心を抱いており、確かに古人と異なることはない。亡き兄の胤は、軽んじてはならない。もしこの子が救われなければ、私はすぐに船を返して官職を辞し、再び官を求めて遊歴する気もなくなるだろう」。都に戻って中書郎となり、黄門郎に転じ、太子中庶子となった。

原文兄僧綽,爲太初所害,親賔咸勸僧虔逃。僧虔涕泣曰:「吾兄奉國以忠貞,撫我以慈愛,今日之事,苦不見及耳。若同歸九泉,猶羽化也。」孝武初,出爲武陵太守。兄子儉於中途得病,僧虔爲廢寢食。同行客慰喻之。僧虔曰:「昔馬援處兒姪之閒一情不異,鄧攸於弟子更逾所生,吾實懷其心,誠未異古。亡兄之胤,不宜忽諸。若此兒不救,便當回舟謝職,無復遊宦之興矣。」還爲中書郎,轉黃門郎,太子中庶子。

孝武帝は書の名声を独占しようとしたので、王僧虔は目立つ筆跡を書かなかった。大明年間には、常に鈍った筆を使って書いたので、これによって容認された。豫章王劉子尚の撫軍長史として出向し、散騎常侍に昇進し、再び新安王劉子鸞の北中郎長史・南東海太守となり、南徐州の事務を代行した。二つの藩王はいずれも皇帝の愛子であった。

原文孝武欲擅書名,僧虔不敢顯迹。大明世,常用掘筆書,以此見容。出爲豫章王子尚撫軍長史,遷散騎常侍,復爲新安王子鸞北中郎長史、南東海太守,行南徐州事,二蕃皆帝愛子也。

まもなく豫章内史に転じた。都に入って侍中となり、御史中丞に昇進し、驍騎将軍を兼任した。名門の家柄は従来多くが憲台(御史台)の官に就かなかった。王氏で烏衣に分かれて住む家系は、官位がやや低かったが、王僧虔がこの官に就くと、言った。「これは烏衣の諸郎が座る場所だ。私も試しにやってみよう」。再び侍中となり、屯騎校尉を兼任した。泰始年間、輔国将軍・呉興太守として出向し、秩禄は中二千石であった。王献之は書をよくし、呉興郡の太守を務め、王僧虔も書に巧みで、また郡太守となったので、論者はこれを称えた。

原文尋遷豫章內史。入爲侍中,遷御史中丞,領驍騎將軍。甲族向來多不居憲臺,王氏以分枝居烏衣者,位官微減,僧虔爲此官,乃曰:「此是烏衣諸郎坐處,我亦可試爲耳。」復爲侍中,領屯騎校尉。泰始中,出爲輔國將軍、吳興太守,秩中二千石。王獻之善書,爲吳興郡,及僧虔工書,又爲郡,論者稱之。

会稽太守に転任し、秩禄は中二千石のままで、将軍の位も変わらなかった。中書舎人の阮佃夫の家は会稽にあり、休暇を取って東に帰省した。客が王僧虔に、阮佃夫は権勢をほしいままにしているから、礼を尽くして接すべきだと勧めた。王僧虔は言った。「私は身を立てるのに一貫した方針がある。どうしてこのような輩に意を曲げられようか。彼が私を嫌うなら、衣を払って去るだけだ」。阮佃夫は宋の明帝に言い、御史中丞の孫敻に上奏させた。「王僧虔は以前に呉興を治めたとき、多くの誤った任命をした。調査によれば、郡に着任してから転任するまでに、功曹・五官・主簿から二礼の吏、三伝および度と弟子に至るまで、合わせて四百四十八人を用いた。また、民の何係先ら一百十家を旧門として認めた。州に委ねて調査・削除させる」。これにより官を免ぜられた。

原文徙爲會稽太守,秩中二千石,將軍如故。中書舍人阮佃夫家在會稽,請假東歸。客勸僧虔以佃夫要倖,宜加禮接。僧虔曰:「我立身有素,豈能曲意此輩。彼若見惡,當拂衣去耳。」佃夫言於宋明帝,使御史中丞孫敻奏:「僧虔前莅吳興,多有謬命,檢到郡至遷,凡用功曹五官主簿至二禮吏署三傳及度與弟子,合四百四十八人。又聽民何係先等一百十家爲舊門。委州檢削。」坐免官。

まもなく白衣(無官)の身分で侍中を兼任し、監として呉郡太守を出向し、使持節・都督湘州諸軍事・建武将軍・行湘州事に昇進し、そのまま輔国将軍、湘州刺史に転じた。任地では寛大で恵み深いことで知られた。巴峡の流民が多く湘州の地にいたので、王僧虔は上表して益陽・羅・湘西の三県の沿江の民を割いて湘陰県を立てることを請い、認められた。

原文尋以白衣兼侍中,出監吳郡太守,遷使持節、都督湘州諸軍事、建武將軍、行湘州事,仍轉輔國將軍,湘州刺史。所在以寬惠著稱。巴峽流民多在湘土,僧虔表割益陽、羅、湘西三縣緣江民立湘陰縣,從之。

元徽年間、吏部尚書に昇進した。高平の檀珪が沅南県令を罷免されると、王僧虔は彼を征北将軍府の板行参軍に任命した。檀珪は俸禄を得られないことを訴え、王僧虔に手紙を送って言った。「五常の始まりは、文と武が先である。文は天地を経緯し、武は乱を撥ねて国を定める。私の一門は文において通じているとは言えないが、かえって武において達していることを恥じている。一族の叔父叔母たちは三度皇室と婚姻し、祖父と兄の二代は身を粉にして国に奉じたのに、子や姪を草むらで餓死させてしまう。去る冬から今春にかけて、二度の詔勅をたびたび頂戴したが、取り次ぐ者もなく、しばしば奪われる目に遭った。五か月を経過し、四か月を過ぎ、十二通の書簡を送り、六、七度面会したが、ついに潤いを受けることができず、かえって鰓を曝すことになった。九流の基準が公平であれば、ただ一つのものだけを苦しめるべきではない。蝉の腹や亀の腸のように、長い間空腹である。飢えた虎は吼えれば、人はすぐに肉を与える。飢えた麒麟は噛みつかないが、誰がその毛を落とすだろうか。去る冬に豫章郡丞を乞うたが、馬超に争われた。今春に南昌県令の任命を蒙ったが、史偃に奪われた。この二人の功績・恩蔭・人材が、何か私より勝っているというのか。もし貧富によって奪い合うなら、分け与えられるものは及ばない。私は孤微な身ではあるが、百代にわたる国の士であり、婚姻や官位も、他の者に後れを取らない。尚書(王僧虔)の同堂の姉は江夏王の妃であり、檀珪の同堂の姑は南譙王の妃である。尚書の妻は江夏王の娘であり、檀珪の祖父の姉妹は長沙景王に嫁いだ。尚書の伯父は江州刺史であり、檀珪の祖父も江州刺史であった。尚書の従兄は後軍参軍から出仕し、檀珪の父も中軍参軍から官途についた。私は尚書と比べ、家柄と地位はもともと懸け離れているが、婚姻と官職については、敢えて特別な差はない。今、通塞は異なっているが、なお同じ気類に恥じている。尚書はどうしてこれほど私を苦しめるのか。泰始の初め、八方がともに逆らったとき、一門二代、骨を粉にして主君を守り、特別な功績を挙げたが、すでに評価されず、常の階梯と旧来の途を歩んでも、また抑圧される」。王僧虔は返書を送って言った。「征北将軍府の板官は近年少し待遇が良い。殷主簿はこの府から崇礼に入り、何儀曹が殷の後を継いだが、苦しいと訴えることはなかった。足下の積もった屈辱は、一朝に超昇するには、まさに少し難しい。泰始の初めに十年間勤苦したが、まだその賞を見ず、いきなり評価を求めるのは、どうして成就できようか。私は足下と元来怨みも恨みもない。どうして互いに侵害し苦しめようか。ただ意見に補佐する者がいるだけだ」。檀珪はまた手紙を送って言った。「昔、荀公達は漢の功臣であったが、晋の武帝はその玄孫に爵位を与えた。夏侯惇は魏の功績ある補佐であり、金徳(晋)が初めて融和したとき、やはりその評価が始まり、その孫に賞を与え、近い一族に封じた。羊叔子は晋の泰始年間に呉を討つ策を建てたが、咸寧の末になって初めて褒賞と寵愛が加えられ、その兄の子を封じた。卞望之は咸和の初めに国難のために命を落としたが、興寧の末になって初めて礼秩が崇められ、その子孫に官職が与えられた。蜀郡の主簿田混は、黄初の末に故君の難に死んだが、咸康年間になって初めてその子孫を抜擢した。どうやら世代が遠いからといって棄てられたり、年数が隔たっているからといって遺漏されたりするものではないようだ。檀珪は百の災難と六極に遭い、造化もめったに比べるものがない。五度の喪に服し、遺骸を露にさらし、百人の口を転じて命をつなぎ、存亡が迫っている。もともとわずかな俸禄を望み、栄達の階梯を意図したわけではない。古来より沐食侯があり、近代には王官がある。府の佐官は沐食の職ではなく、参軍は王官とは言わない。質は瓢箪ではないから、実に空しく懸かることを恥じる。殷・何の二人は、あるいは府主の情味によるものか、あるいは朝廷の意旨によるものか、どうして悠悠たる人々と同口で語れようか。私にこの職に就かせたとして、尚書は郎に転任させてくださるだろうか。もし一日に五升の俸禄を得ることができるなら、鞭を執ることも恥じない」。王僧虔はそこで彼を安城郡丞に任用した。檀珪は、宋の安南将軍檀韶の孫である。

原文元徽中,遷吏部尚書。高平檀珪罷沅南令,僧虔以爲征北板行參軍。訴僧虔求祿不得,與僧虔書曰:「五常之始,文武爲先,文則經緯天地,武則撥亂定國。僕一門雖謝文通,乃忝武達。羣從姑叔,三媾帝室,祖兄二世,糜軀奉國,而致子姪餓死草壤。去冬今春,頻荷二敕,旣無中人,屢見蹉奪。經涉五朔,踰歷四晦,書牘十二,接覲六七,遂不荷潤,反更曝鰓。九流繩平,自不宜獨苦一物,蟬腹龜腸,爲日已久。飢虎能嚇,人遽與肉;餓麟不噬,誰爲落毛。去冬乞豫章丞,爲馬超所爭;今春蒙敕南昌縣,爲史偃所奪。二子勳蔭人才,有何見勝。若以貧富相奪,則分受不如。身雖孤微,百世國士,姻媾位宦,亦不後物。尚書同堂姊爲江夏王妃,檀珪同堂姑爲南譙王妃;尚書婦是江夏王女,檀珪祖姑嬪長沙景王;尚書伯爲江州,檀珪祖亦爲江州;尚書從兄出身爲後軍參軍,檀珪父釋褐亦爲中軍參軍。僕於尚書,人地本懸,至於婚宦,不肯殊絕。今通塞雖異,猶忝氣類,尚書何事乃爾見苦?泰始之初,八表同逆,一門二世,粉骨衞主,殊勳異績,已不能甄,常階舊途,復見侵抑。」僧虔報書曰:「征北板比歲處遇小優,殷主簿從此府入崇禮,何儀曹卽代殷,亦不見訴爲苦。足下積屈,一朝超升,政自小難。泰始初勤苦十年,自未見其賞,而頓就求稱,亦何可遂。吾與足下素無怨憾,何以相侵苦,直是意有佐佑耳。」珪又書曰:「昔荀公達漢之功臣,晉武帝方爵其玄孫。夏侯惇魏氏勳佐,金德初融,亦始就甄顯,方賞其孫,封樹近族。羊叔子以晉泰始中建策伐吳,至咸寧末,方加褒寵,封其兄子。卞望之以咸和初殞身國難,至興寧末,方崇禮秩,官其子孫。蜀郡主簿田混,黃初末死故君之難,咸康中方擢其子孫。似不以世代遠而被棄,年世疏而見遺。檀珪百罹六極,造化罕比,五喪停露,百口轉命,存亡披迫,本希小祿,無意階榮。自古以來有沐食侯,近代有王官。府佐非沐食之職,參軍非王官之謂。質非匏瓜,實羞空懸。殷、何二生,或是府主情味,或是朝廷意旨,豈與悠悠之人同口而語。使僕就此職,尚書能以郎見轉不?若使日得五升祿,則不恥執鞭。」僧虔乃用爲安城郡丞。珪,宋安南將軍韶孫也。

僧虔はまもなく散騎常侍を加えられ、右僕射に転じた。昇明元年、尚書僕射に昇進し、まもなく中書令、左僕射に転じ、二年に尚書令となった。僧虔は文史を好み、音律に通じ、朝廷の礼楽が多く正典に背き、民間では新声雑曲を競って作っているのを見て、当時太祖が政務を補佐していたので、僧虔は上表して言った。「鐘を懸ける楽器は、雅楽のために用いられるべきであり、凱容の礼では八佾が儀式である。今、総章の羽佾は、音楽と服装が混乱している。また歌鐘一組は、女楽と調和し、歌を主としているので、雅楽の器ではない。大明年間には、すでに宮懸で《鞞舞》と《拂舞》を合わせ、節拍数は合っているが、《雅》の体から外れていると懸念され、将来の知音が聖世を批判するかもしれない。もし鐘舞がすでに調和しているとしても、成憲に重ねて背くことになり、さらに歌鐘を立てるのは、旧例に参酌しない。四県が奏でるものは、謹んで《雅》の条に依拠し、理に沿って義を立てる。もし付随できるものがあれば。また今の清商楽は、実は銅爵台に由来し、三祖の風流が遺音として耳に満ち、京・洛で互いに高め合い、江左ではますます貴ばれた。確かに金石や干羽の楽舞は、私室では行われず、桑間・濮上や鄭・衛の音楽は、士大夫の訓戒から隔てられ、中庸で和雅なものは、これ以上ない。しかし情が変わり聴くものが移ると、次第に廃れ、十数年の間に、失われるものが半分になろうとしている。近頃は各家が新しい俗楽を競い、人々は謡俗を好み、焦燥した殺伐な調子に務め、音律の規律を顧みず、流れ漂って際限がなく、どこまで行くか分からず、正しい曲を排斥し、煩わしく淫らなものを崇め長くしている。士には等差があり、理由なく楽を去ることはできない。礼には順序があり、長幼が共に聞くことはできない。だから喧しく醜い音楽の制度が、里巷で日に日に盛んになり、風雅な響きは、衣冠の士だけに尽きている。宜しく有司に命じて、努めて功課を励み、遺逸を整理し、互いに啓発し合い、経過して漏れ忘れたものを悉く補綴すべきである。曲を完全にできる者は禄を厚くし、芸が妙なる者は位を優遇する。利益で動かせば、人は刻み励むことを考える。本に返り源に還れば、やっと踵を上げられるだろう。」この意見は採用された。

原文僧虔尋加散騎常侍,轉右僕射。昇明元年,遷尚書僕射,尋轉中書令,左僕射,二年,爲尚書令。僧虔好文史,解音律,以朝廷禮樂多違正典,民閒競造新聲雜曲,時太祖輔政,僧虔上表曰:「夫懸鍾之器,以雅爲用;凱容之禮,八佾爲儀。今總章羽佾,音服舛異。又歌鍾一肆,克諧女樂,以歌爲務,非雅器也。大明中,卽以宮懸合和《鞞》、《拂》,節數雖會,慮乖《雅》體,將來知音,或譏聖世。若謂鍾舞已諧,重違成憲,更立歌鍾,不參舊例。四縣所奏,謹依《雅》條,卽義沿理。如或可附。又今之清商,實由銅爵,三祖風流,遺音盈耳,京、洛相高,江左彌貴。諒以金石干羽,事絕私室,桑、濮、鄭、衞,訓隔紳冕,中庸和雅,莫復於斯。而情變聽移,稍復銷落,十數年閒,亡者將半。自頃家競新哇,人尚謠俗,務在噍殺,不顧音紀,流宕無崖,未知所極,排斥正曲,崇長煩淫。士有等差,無故不可去樂;禮有攸序,長幼不可共聞。故喧醜之制,日盛於里;風味之響,獨盡於衣冠。宜命有司,務懃功課,緝理遺逸,迭相開曉,所經漏忘,悉加補綴。曲全者祿厚,藝妙者位優。利以動之,則人思刻厲。反本還源,庶可跂踵。」事見納。

建元元年、侍中、撫軍將軍、丹陽尹に転じた。二年、左衛將軍に進号したが、固辞して拝命しなかった。左光禄大夫に改めて授けられ、侍中・尹は元のままとした。郡県の獄では上湯で囚人を殺すことが相承されていたので、僧虔は上疏してこれを言った。「湯は本来病気を救うものだが、実際には冤罪や暴行を行い、あるいは憤りを晴らすために用いられている。もし罪が必ず重いなら、正刑がある。もし悪を去るのが急務なら、まず啓上すべきである。どうして生死の大命を、ひそかに下邑で制することがあろうか。愚かには思うに、治下の囚人が病気になったら、必ずまず郡に刺し、職司と医者が対面して共に診察し、遠い県では家族が面会し、それから処理すべきである。そうすれば死者は恨まず、生者は怨むことがない。」上はその言葉を採用した。

原文建元元年,轉侍中,撫軍將軍,丹陽尹。二年,進號左衞將軍,固讓不拜。改授左光祿大夫,侍中、尹如故。郡縣獄相承有上湯殺囚,僧虔上疏言之曰:「湯本以救疾,而實行冤暴,或以肆忿。若罪必入重,自有正刑;若去惡宜疾,則應先啟。豈有死生大命,而潛制下邑。愚謂治下囚病,必先刺郡,求職司與醫對共診驗;遠縣,家人省視,然後處理。可使死者不恨,生者無怨。」上納其言。

僧虔は雅楽に留意し、昇明年間に上奏したものは、わずかに改訂されたが、まだ多くの遺失があった。この時、上は初めて使者を通じようとし、僧虔は兄の子の儉に手紙を書いて言った。「古語に『中国で礼を失えば、四夷に問う』とある。楽も同じように考えるべきだ。苻堅が敗れた後、東晉は初めて金石楽を備えた。だから完全に否定できないと分かる。北国には遺楽があるかもしれないが、確かにすぐに中夏の欠けを補うことはできず、またその存亡を知ることも一つの道理である。ただ《鼓吹》には旧来二十一曲あったが、今できるのは十一曲だけである。考えでは、北使に散役があれば、今の楽署で一人、大まかに同異を区別できる者を、この使節の任に充てるのがよい。たとえ延州の難を追うことはできなくても、知っていることを知るだけでも、やはり違うはずだ。もしこの理があるなら、私の考えを上聞に申し上げることはできるか?試みに考えてほしい。」結局このことは行われなかった。

原文僧虔留意雅樂,昇明中所奏,雖微有釐改,尚多遺失。是時上始欲通使,僧虔與兄子儉書曰:「古語云『中國失禮,問之四夷』。計樂亦如。苻堅敗後,東晉始備金石樂,故知不可全誣也。北國或有遺樂,誠未可便以補中夏之闕,且得知其存亡,亦一理也。但《鼓吹》舊有二十一曲,今所能者十一而已,意謂北使會有散役,得今樂署一人粗別同異者,充此使限。雖復延州難追,其得知所知,亦當不同。若謂有此理者,可得申吾意上聞否?試爲思之。」事竟不行。

太祖は書を善くし、即位後も深く好んでやまなかった。僧虔と書の勝負をした後、僧虔に言った。「誰が第一か?」僧虔は言った。「臣の書が第一、陛下も第一です。」上は笑って言った。「卿は自らを謀るのが上手いと言える。」僧虔に古跡十一帙を示し、能書の人名を求めた。僧虔は民間にあるもので、帙の中にないもの、呉の大皇帝、景帝、帰命侯の書、桓玄の書、および王丞相導、領軍洽、中書令珉、張芝、索靖、衛伯儒、張翼の十二巻を上奏した。また羊欣が撰した《能書人名》一巻を上った。

原文太祖善書,及卽位,篤好不已。與僧虔賭書畢,謂僧虔曰:「誰爲第一?」僧虔曰:「臣書第一,陛下亦第一。」上笑曰:「卿可謂善自爲謀矣。」示僧虔古迹十一袠,就求能書人名。僧虔得民閒所有,袠中所無者,吳大皇帝、景帝、歸命侯書,桓玄書,及王丞相導、領軍洽、中書令珉、張芝、索靖、衞伯儒、張翼十二卷奏之。又上羊欣所撰《能書人名》一卷。

その年の冬、持節・都督湘州諸軍事・征南將軍・湘州刺史に転じ、侍中は元のままとした。清廉で欲がなく、財産を営まず、百姓は安んじた。世祖が即位すると、僧虔は中風の病気で辞任を願い出ようとしたが、ちょうど侍中・左光禄大夫・開府儀同三司に転じることになった。僧虔が若い時、一族の者たちが集まった際、客に相を見る者がいて言った。「僧虔は年齢と地位が最も高く、仕官して公に至り、他の者は及ばない。」任命された時、僧虔は兄の子の儉に言った。「汝は朝廷で重任を負い、やがて八命の礼があるだろう。私がまたこの任命を受ければ、一門に二人の台司がいることになり、実に畏れ多い。」そこで固辞して拝命せず、上は寛大に許した。侍中・特進・左光禄大夫に改めて授けられた。客が僧虔に固辞の意を尋ねると、僧虔は言った。「君子は徳がないことを憂え、寵がないことを憂えない。私は衣食に事欠かず、栄位はすでに過ぎている。報国する力が薄く恥ずかしいのに、どうしてさらに高い爵位を受け、官への誹りを招くことができようか!」兄の子の儉が朝の宰相となり、長梁斎を建てたが、規模が少し過ぎていた。僧虔はそれを見て喜ばず、ついに戸に入らなかったので、儉はすぐにそれを壊した。

原文其年冬,遷持節、都督湘州諸軍事、征南將軍、湘州刺史,侍中如故。清簡無所欲,不營財產,百姓安之。世祖卽位,僧虔以風疾欲陳解,會遷侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。僧虔少時羣從宗族竝會,客有相之者云:「僧虔年位最高,仕當至公,餘人莫及也。」及授,僧虔謂兄子儉曰:「汝任重於朝,行當有八命之禮,我若復此授,則一門有二台司,實可畏懼。」乃固辭不拜,上優而許之。改授侍中、特進、左光祿大夫。客問僧虔固讓之意,僧虔曰:「君子所憂無德,不憂無寵。吾衣食周身,榮位已過,所慚庸薄無以報國,豈容更受高爵,方貽官謗邪!」兄子儉爲朝宰,起長梁齋,制度小過,僧虔視之不悅,竟不入戶,儉卽毀之。

永明三年、死去した。僧虔は星文をよく理解し、夜座して豫章の分野に事故があると見た。当時僧虔の子の慈が豫章内史であったので、公事があるのを心配した。しばらくして、僧虔が死去すると、慈は郡を棄てて駆けつけた。僧虔は当時六十歳であった。司空を追贈され、侍中は元のままとした。諡は簡穆。

原文永明三年,薨。僧虔頗解星文,夜坐見豫章分野當有事故,時僧虔子慈爲豫章內史,慮其有公事。少時,僧虔薨,慈棄郡奔赴。僧虔時年六十。追贈司空,侍中如故。諡簡穆。

その書論に言う。「宋文帝の書は、自ら王子敬に比せると言い、当時の議者は『天然は羊欣に勝り、功夫は欣より少ない』と言った。王平南廙は右軍の叔父で、渡江以前は最上とされた。亡くなった曾祖の領軍の書は、右軍が『弟の書は遂に我に劣らない』と言った。古制を変えたのは、今では右軍だけである。領軍はそうではなく、今でもなお鍾繇・張芝を法としている。亡くなった従祖の中書令の書は、子敬が『弟の書は騾に乗るが如く、駸駸として常に驊騮の前を渡ろうとする』と言った。庾征西翼の書は、若い時右軍と齊名したが、右軍が後進になっても、庾はまだ分けず、荊州で都の人に手紙を書いて言った。『小児どもは家鶏を軽んじ、皆逸少の書を学んでいる。私が下れば、必ず彼らと比べよう。』張翼は、王右軍が自ら書いた表を、晉穆帝が翼に命じて写し題して後答させたが、右軍は当時区別がつかず、久しくして悟り、『小人がほとんど真を乱そうとした』と言った。張芝・索靖・韋誕・鍾会・二衛は皆前代に名声を得たが、その優劣を辨別することはできず、ただその筆力の驚異を見るだけである。張澄も当時は意があると呼ばれた。郗愔の章草は右軍に次ぐ。郗嘉賓の草書は二王に次ぎ、緊密で美しさはその父を超える。桓玄は自ら右軍の流れと称したが、論者は孔琳之に比した。謝安も能書録に入り、また自ら重んじ、子敬に嵇康の詩を書いた。羊欣の書は一時重んじられ、子敬に直接教えを受け、行書は特に優れ、楷書は名声に及ばない。孔琳之の書は天然で放縦、極めて筆力があり、規矩は羊欣より後かもしれない。丘道護は羊欣と共に子敬に直接教えを受けたので、当然羊欣より後である。范曄は蕭思話と共に羊欣に師事したが、後に少し背き、すでに古い歩みを失い、また少し意があるだけである。蕭思話の書は、羊欣の影であり、風流で趣好はほとんど減らず、筆力が弱いのが残念である。謝綜の書は、その舅が『緊密で生き生きとしており、賞賛を得るが、美しさに欠けるのが残念』と言った。謝霊運は則ち比べるに及ばず、その合う時には、やはり入流できる。賀道力の書は丘道護に次ぐ。庾昕は右軍を学び、また真を乱そうとした。」また《書賦》を著し、世に伝わった。

原文其論書曰:「宋文帝書,自云可比王子敬,時議者云『天然勝羊欣,功夫少於欣』。王平南廙、右軍叔,過江之前以爲最。亡曾祖領軍書,右軍云『弟書遂不減吾』。變古制,今唯右軍。領軍不爾,至今猶法鍾、張。亡從祖中書令書,子敬云『弟書如騎騾,駸駸恒欲度驊騮前』。庾征西翼書,少時與右軍齊名,右軍後進,庾猶不分,在荊州與都下人書云:『小兒輩賤家雞,皆學逸少書,須吾下,當比之。』張翼,王右軍自書表,晉穆帝令翼寫題後答,右軍當時不別,久後方悟,云『小人幾欲亂真』。張芝、索靖、韋誕、鍾會、二衞竝得名前代,無以辨其優劣,唯見其筆力驚異耳。張澄當時亦呼有意。郗愔章草亞於右軍。郗嘉賔草亞於二王,緊媚過其父。桓玄自謂右軍之流,論者以比孔琳之。謝安亦入能書錄,亦自重,爲子敬書嵇康詩。羊欣書見重一時,親受子敬,行書尤善,正乃不稱名。孔琳之書天然放縱,極有筆力,規矩恐在羊欣後。丘道護與羊欣俱面受子敬,故當在欣後。范曅與蕭思話同師羊欣,後小叛,旣失故步,爲復小有意耳。蕭思話書,羊欣之影,風流趣好,殆當不減,筆力恨弱。謝綜書,其舅云『緊生起,是得賞也,恨少媚好』。謝靈運乃不倫,遇其合時,亦得入流。賀道力書亞丘道護。庾昕學右軍,亦欲亂真矣。」又著《書賦》,傳於世。

第九子の蕭寂は、字あざなを子玄といい、性質は機敏で活発、文章を好み、『范滂伝』を読むと、必ず感嘆して敬服した。王融が失脚した後、その賓客の多くが蕭寂のもとに帰った。建武の初め、『中興頌』を献上しようとしたが、兄の蕭志が彼に言った。「お前は裕福な家の若者で、どうして出世できないことがあろうか。静かに落ち着いて行動しなければ、かえって嘲笑を招くだろう。」蕭寂はそれでやめた。初め秘書郎となり、二十一歳で死去した。

原文第九子寂,字子玄,性迅動,好文章,讀《范滂傳》,未常不歎挹。王融敗後,賔客多歸之。建武初,欲獻《中興頌》,兄志謂之曰:「汝膏粱年少,何患不達,不鎮之以靜,將恐貽譏。」寂乃止。初爲祕書郎,卒,年二十一。

王僧虔は宋の時代に、子を戒める書簡を書いたことがあった。

原文僧虔宋世嘗有書誡子曰:

張緒は字を思曼といい、呉郡呉県の人である。祖父の張茂度は会稽太守、父の張寅は太子中舎人であった。

原文張緒字思曼,吳郡吳人也。祖茂度,會稽太守。父寅,太子中舍人。

張緒は若くして名を知られ、清らかで簡素、欲望が少なかった。叔父の張鏡は人に言った。「この子は、今の楽広である。」

原文緒少知名,清簡寡欲,叔父鏡謂人曰:「此兒,今之樂廣也。」

州から議曹従事に招聘され、秀才に挙げられた。建平王護軍主簿、右軍法曹行参軍、司空主簿、撫軍・南中郎二府功曹、尚書倉部郎を歴任した。都令史が郡県の米穀に関する事を諮問したとき、張緒は淡々とまっすぐに見つめるだけで、心にかけようとしなかった。巴陵王文学、太子洗馬、北中郎参軍、太子中舎人、本郡中正、車騎従事中郎、中書郎、州治中、黄門郎に任じられた。

原文州辟議曹從事,舉秀才。建平王護軍主簿,右軍法曹行參軍,司空主簿,撫軍、南中郎二府功曹,尚書倉部郎。都令史諮郡縣米事,緒蕭然直視,不以經懷。除巴陵王文學,太子洗馬,北中郎參軍,太子中舍人,本郡中正,車騎從事中郎,中書郎,州治中,黃門郎。

宋の明帝は張緒を見るたびに、その清談ぶりを嘆賞した。太子中庶子に転じ、本州大中正となり、司徒左長史に昇進した。吏部尚書の袁粲が帝に言った。「臣が観るに、張緒には正始の遺風があります。宮中の官職にふさわしいでしょう。」再び中庶子に転じ、翊軍校尉を兼任し、散騎常侍に転じて長水校尉を兼任し、まもなく侍中を兼務し、吏部郎に昇進して大選(高官の選任)を参掌した。元徽の初め、東宮が廃止されると、選曹は舎人の王儉を格別に記室に擬したが、張緒は王儉が人柄と家柄ともに優れているとして、秘書丞に転じるべきだと主張し、これに従った。張緒はさらに侍中に昇進し、吏部郎はもとのままだった。

原文宋明帝每見緒,輙歎其清淡。轉太子中庶子,本州大中正,遷司徒左長史。吏部尚書袁粲言於帝曰:「臣觀張緒有正始遺風,宜爲宮職。」復轉中庶子,領翊軍校尉,轉散騎常侍,領長水校尉,尋兼侍中,遷吏部郎,參掌大選。元徽初,東宮罷,選曹擬舍人王儉格外記室,緒以儉人地兼美,宜轉祕書丞,從之。緒又遷侍中,郎如故。

張緒は栄禄に無関心で、朝廷と民間の双方がその風格を尊んだ。かつて客と雑談していたとき、一生「諾」と言うことを理解しないと語った。当時、袁粲と褚淵が政権を執っていたが、ある者が張緒のこの言葉を袁粲と褚淵に告げたので、すぐに張緒を外して呉郡太守に出した。張緒は初めそのことを知らなかった。祠部尚書に遷り、再び中正を兼任し、太常に遷り、散騎常侍を加官され、まもなく始安王師を兼任した。昇明二年、太祖(蕭道成)の太傅長史に遷り、征虜将軍を加えられた。

原文緒忘情榮祿,朝野皆貴其風,嘗與客閑言,一生不解作諾。時袁粲、褚淵秉政,有人以緒言告粲、淵者,卽出緒爲吳郡太守,緒初不知也。遷爲祠部尚書,復領中正,遷太常,加散騎常侍,尋領始安王師。昇明二年,遷太祖太傅長史,加征虜將軍。

斉の朝廷が建てられると、散騎常侍、世子詹事に転じた。建元元年、中書令に転じ、散騎常侍はもとのままだった。張緒は話術に優れ、平素からの声望が非常に高かった。太祖は深く敬意と特別な評価を抱いた。僕射の王儉は人に言った。「北方の士人の中から張緒を探しても、江南に渡ってきた者の中には彼ほどの者はいない。陳仲弓や黄叔度が彼に勝るかどうかわからない。」皇帝(太祖)が荘厳寺に行幸して僧達道人の講義を聴いたとき、座席が遠く、張緒の話が聞こえなかった。上(皇帝)は張緒を移動させるのは難しかったので、僧達を近くに移した。

原文齊臺建,轉散騎常侍,世子詹事。建元元年,轉中書令,常侍如故。緒善言,素望甚重。太祖深加敬異。僕射王儉謂人曰:「北士中覔張緒,過江未有人,不知陳仲弓、黃叔度能過之不耳?」車駕幸莊嚴寺聽僧達道人講,座遠,不聞緒言,上難移緒,乃遷僧達以近之。

まもなく驍騎将軍を加えられた。張緒を右僕射に任用しようと考え、王儉に意見を求めた。王儉は言った。「南方の士人は昔からこの職に就くことが少ない。」褚淵が同席しており、上に申し上げた。「王儉は若くて、あるいはすべて覚えていないかもしれません。江左(東晋)では陸玩や顧和を用いましたが、いずれも南方の人です。」王儉は言った。「晋朝の衰えた政治は、基準とすべきではありません。」上はそれでやめた。四年、初めて国学が設立されると、張緒を太常卿とし、国子祭酒を兼任させ、散騎常侍・中正はもとのままとした。張緒が転任した後、上は王延之を代わりに中書令とした。当時の人々はこの人事を適材適所と考え、晋朝が王子敬(王献之)と王季琰(王珉)を用いたことに例えた。

原文尋加驍騎將軍。欲用緒爲右僕射,以問王儉,儉曰:「南士由來少居此職。」褚淵在座,啟上曰:「儉年少,或不盡憶。江左用陸玩、顧和,皆南人也。」儉曰:「晉氏衰政,不可以爲准則。」上乃止。四年,初立國學,以緒爲太常卿,領國子祭酒,常侍、中正如故。緒旣遷官,上以王延之代緒爲中書令,時人以此選爲得人,比晉朝之用王子敬、王季琰也。

張緒は『周易』に長けており、その言説は精緻で道理が深遠であり、一世を風靡した。常々、何平叔(何晏)が理解できなかった『易』の中の七つの事柄、諸卦の中にある「時」と「義」について言及することが、その一つであると語っていた。

原文緒長於《周易》,言精理奧,見宗一時。常云何平叔所不解《易》中七事,諸卦中所有時義,是其一也。

世祖(武帝)が即位すると、吏部尚書に転じ、国子祭酒はもとのままだった。永明元年、金紫光禄大夫に遷り、太常を兼任した。翌年、南郡王師を兼任し、給事中を加えられ、太常はもとのままだった。三年、太子詹事に転じ、王師・給事中はもとのままだった。張緒が朝見するたび、世祖は彼を見送った。王儉に言った。「張緒は地位によって私を尊び、私は徳によって張緒を貴ぶのだ。」散騎常侍に遷り、金紫光禄大夫・王師はもとのままだった。親信二十人を与えられた。再び中正を兼任した。長沙王蕭晃が、呉興の聞人邕を州議曹に任用するよう依頼したが、張緒は資格が適当でないとして、固執して許可しなかった。蕭晃が書佐を遣わして強く請うたが、張緒は厳しい表情で蕭晃の使者に言った。「これは私自身の郷里の州です。殿下はどうして逼迫なさるのですか!」七年、竟陵王蕭子良が国子祭酒を兼任することになったとき、世祖は王晏に命じて言った。「司徒(蕭子良)に祭酒を辞退させて張緒に授けたいと思うが、世間の評判はどうだろうか?」結局、蕭子良は就任しなかった。張緒に国子祭酒を兼任させ、光禄大夫・王師・中正はもとのままとした。

原文世祖卽位,轉吏部尚書,祭酒如故。永明元年,遷金紫光祿大夫,領太常。明年,領南郡王師,加給事中,太常如故。三年,轉太子詹事,師、給事如故。緒每朝見,世祖目送之。謂王儉曰:「緒以位尊我,我以德貴緒也。」遷散騎常侍,金紫光祿大夫、師如故。給親信二十人。復領中正。長沙王晃屬選用吳興聞人邕爲州議曹,緒以資藉不當,執不許。晃遣書佐固請之,緒正色謂晃信曰:「此是身家州郷,殿下何得見逼!」七年,竟陵王子良領國子祭酒,世祖敕王晏曰:「吾欲令司徒辭祭酒以授張緒,物議以爲云何?」子良竟不拜。以緒領國子祭酒,光祿、師、中正如故。

張緒は口に利益のことを言わず、財産があればすぐに人に分け与えた。清談して端座し、あるいは一日中食事をとらないこともあった。門弟が張緒が空腹なのを見て、食事を用意したが、彼自身が求めたことはなかった。六十八歳で死去した。遺言で、葦の茎で作った轜車(霊柩車)を使い、霊柩の上に杯の水と香火を置き、祭祀を設けないように命じた。従弟の張融は張緒を敬愛し、実の兄のように仕え、張緒の霊前に酒を持参して酌み飲み、慟哭して言った。「兄上の風流がたちまち尽きてしまった!」散騎常侍・特進・金紫光禄大夫を追贈された。諡は簡子。

原文緒口不言利,有財輙散之。清言端坐,或竟日無食,門生見緒飢,爲之辨餐,然未嘗求也。卒時年六十八。遺命作蘆葭轜車,靈上置杯水香火,不設祭。從弟融敬重緒,事之如親兄,齎酒於緒靈前酌飲,慟哭曰:「阿兄風流頓盡!」追贈散騎常侍、特進、金紫光祿大夫。諡簡子。

子の張克は、蒼梧王(廃帝)の時代に正員郎となり、邪悪な行いで寵愛を受けたが、罪に坐して官職を剥奪され、出仕を禁じられた。

原文子克,蒼梧世,正員郎,險行見寵,坐廢錮。

張克の弟の張允は、永明年間に安西功曹となり、淫行と殺人を犯し、法により処刑された。

原文克弟允,永明中,安西功曹,淫通殺人,伏法。

張允の兄の張充は、永明元年に武陵王友となったが、尚書令の王儉に送った書簡の文面が激しく高揚していたことで、御史中丞の到撝に弾劾され、官職を免じられ出仕を禁じられた。論者は、王儉に対する恨みがあったのだろうと見なした。

原文允兄充,永明元年,爲武陵王友,坐書與尚書令王儉,辭旨激揚,爲御史中丞到撝所奏,免官禁錮。論者以爲有恨於儉也。

建元の初め、詔が下されて朝臣の序列を定める際、右僕射の職を張岱に擬する案があった。褚淵は「この職は彼には過分である。もし別に忠誠があり、特に進めて引き立てるのであれば、それはまた別の道理であるが、仰せの裁量に委ねる」と言った。詔は「さらに考慮せよ」とされた。論者の意見が分かれたので、ここに両方の説を記しておく。

原文案建元初,中詔序朝臣,欲以右僕射擬張岱。褚淵謂「得此過優,若別有忠誠,特進升引者,別是一理,仰由裁照」。詔「更量」。說者旣異,今兩記焉。

史臣が言う。王僧虔には希声(優れた名声)を求める度量があり、さらに芸業を兼ね備えていた。満ち足りることを戒め、自らを屈して身を処し、諸公と並び立って、まことに平世の良相であった。張緒は襟を正し清らかな気質を湛え、自然と風格を備え、搢紳(官僚)の端然たる姿は、朝廷に帰依する民の望みであった。緒のような風流の士は、名臣と言わずして何と言おうか。

原文史臣曰:王僧虔有希聲之量,兼以藝業。戒盈守滿,屈己自容,方軌諸公,實平世之良相。張緒凝衿素氣,自然標格,搢紳端委,朝宗民望。夫如緒之風流者,豈不謂之名臣!