巻26

南齊書

卷二十六 列傳第六

王敬則は、 しん 陵郡南沙県の人である。母は女巫であった。敬則が生まれた時、胞衣が紫色であったので、母は人に言った。「この子には鼓角(将軍の相)がある。」敬則が成長すると、両脇の下に乳首のようなものが生え、それぞれ数寸の長さがあった。五色の獅子に乗る夢を見た。二十歳余りの時、拍張(武術の一種)を得意とした。刀戟左右(宮中の護衛兵)に補された。景和帝(劉子業)が敬則に跳刀(刀を投げ上げて受け止める技)をさせると、その高さは白虎幢(旗竿)と同じくらいで、五、六回やらせても、受け止め損なうことはなかった。俠轂隊主に補され、細鎧左右を領した。寿寂之とともに景和帝を殺害した。明帝(劉彧)が即位すると、直閤将軍に任じられた。刀を持って殿中に入り啓事した罪で、尚方(官営工場)に十数日拘束されたが、その後また直閤に復帰した。奮武将軍に除され、重安県子に封ぜられ、封邑三百五十戸を与えられた。敬則は若い時、草むらで狩りをしていたところ、烏豆(黒い豆)のような虫が体に集まり、払いのけようとしても離れず、その部分はみな血が流れた。敬則はこれを嫌い、道士に占ってもらった。道士は言った。「心配するには及ばない。これは封侯の瑞祥である。」敬則はこれを聞いて喜び、故に都に出て功を立てようとし、この時その言葉通りとなった。

泰始初年(465年)、敬則を龍驤将軍・軍主とし、寧朔将軍劉懐珍に従って寿春を征討させた。殷琰が将軍劉従を遣わして死虎に四つの堡塁を築かせた。懐珍は敬則に千人を率いて背後を回り、まっすぐ横塘に出るよう命じた。賊の衆は驚いて退いた。奉朝請に除され、出向して曁陽県令を補った。

敬則が初めて都を出た時、陸主山の下に着いた。同族の者十余りの船が一緒に出発したが、敬則の船だけが進まなかった。そこで弟に水に入って船を押すよう命じたところ、一つの黒漆塗りの棺を見た。敬則は言った。「お前は普通のものではない。もし吉兆ならば、船を速やかに進ませよ。私が富貴を得たら、お前を改葬してやろう。」船はたちまち動き出した。敬則が県に入ると、この棺を収めて葬った。

戦乱の飢饉の後、県内に一部の賊徒が紫山に逃げ込んで民の患いとなっていた。敬則は人を遣わして賊の首領に伝えさせた。全員出頭すれば、必ず上申して取り計らうと。管轄下の廟の神は非常に霊験あらたかで、百姓はこれを信じていた。敬則は神を引き合いに出して誓いを立て、必ず約束を破らないと約束した。賊の首領が出てくると、敬則は廟の中で会合を設け、座席で彼らを捕縛し、言った。「私は先に神に誓った。もし誓いを破れば、神に十頭の牛を返すと。今、誓いに背かない。」すぐに十頭の牛を殺して神に供え、諸々の賊を斬った。百姓はこれを喜んだ。員外郎に遷った。

元徽二年(474年)、太祖(蕭道成)に従って新亭で桂陽の賊(劉休範)を防ぎ、敬則は羽林監陳顕達、寧朔将軍高道慶とともに軽舟に乗って江中で迎撃し、賊の水軍を大破し、その舟艦を焼き払った。事態が収まると、南泰山太守を兼ね、右俠轂主となり、越騎 校尉 こうい 、安成王車騎参軍に転じた。

蒼梧王(劉昱)が狂乱暴虐で、側近たちも身の安全を保てなかった。敬則は太祖に威名があるのを見て、誠意を尽くして仕えた。毎日勤務が終わると、すぐに領軍府(蕭道成の役所)へ行った。夜には青衣(下僕の服)を着て、道に伏せながら、太祖のために蒼梧王の出入りを探り聞きした。太祖は敬則に殿中で機会を伺うよう命じたが、決まった日はなかった。やがて楊玉夫らが危急に迫られて帝(劉昱)を殺害した。敬則はその時家にいた。玉夫が首を持って敬則のもとに投げ込むと、敬則は馬を走らせて太祖のもとへ行った。太祖は蒼梧王の罠かもしれないと疑い、門を開けなかった。敬則は門の外で大声で叫んだ。「敬則です。」門はまだ開かなかった。そこで塀の上からその首を投げ入れた。太祖は水を求めて洗って見た。見終わると、軍服を着て出てきた。

敬則は太祖に従って宮中に入り、承明門に着いた。門番は蒼梧王が戻ったのではないかと疑った。敬則は人に見られるのを恐れ、刀の環で鍵穴を塞ぎ、非常に急いで開門を叫んだ。衛尉丞の顔霊宝が、太祖が外で馬に乗っているのを覗き見て、ひそかに親しい者に言った。「今、領軍(蕭道成)を中に入れなければ、天下は乱れることになるだろう。」門が開くと、敬則は太祖に従って殿中に入った。翌朝、四貴(高官たち)が集まって協議した。敬則は白刃を抜き、御座の傍らで跳びはねて言った。「お上(蕭道成)が処分されるべきだ。誰が異論を唱える者があるか!」昇明元年(477年)、員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・輔国将軍・ ぎょう 騎将軍に遷り、臨淮太守を領し、封邑を増やして千三百戸とし、殿内宿衛兵の事務を管掌した。

沈攸之の乱が起こると、敬則の号を冠軍将軍に進めた。太祖が朝堂を守備している時、 袁粲 えんさん が兵を起こした夜、領軍劉韞、直閤将軍卜伯興らが宮内で呼応し、戒厳令を発しようとしていた。敬則が門を開けて急襲し、皆を殺した。殿内での密かな蜂起がすべて鎮圧されたのは、敬則の力によるものであった。右衛将軍に遷り、常侍はもとのままとした。封邑を二千五百戸に増やし、まもなくさらに五百戸を加えられた。また敬則の子、元遷を東郷侯に封じ、封邑三百七十戸を与えた。齊の臺(朝廷)が建てられると、中領軍となった。

太祖が禅譲を受けようとした時、材官が太極殿の柱を取り替えるよう進言した。従帝(順帝、劉準)は土を避けたいと思い、宮を出て位を譲ることを肯んじなかった。翌日、臨軒(儀式)が行われるはずだったが、帝はまた宮中に逃げ込んだ。敬則が輿を入れて帝を迎え、出るよう諭して説得した。帝は敬則の手を叩いて言った。「必ずや過度の心配は無用だ。輔国将軍(敬則)に十万銭を贈ろう。」

建元元年(479年)、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 南兖兖徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兖州 刺史 しし として出向し、尋陽郡公に封ぜられ、封邑三千戸を与えられた。敬則の妻、懐氏に爵を加えて尋陽国夫人とした。二年、安北将軍に進号した。虜(北魏)が淮水、泗水を侵すと、敬則は恐れをなして任地を捨てて都に戻った。百姓は皆驚き散り散りに逃げた。上(武帝)は彼が功臣であるとして、とがめず、都官尚書・撫軍将軍とした。

まもなく使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・安東将軍・呉興太守に遷った。郡は以前から略奪が多かったが、十歳余りの子供が道で落とし物を拾ったのを捕らえ、殺して見せしめにした。これ以来、道に落ちている物を拾う者もなくなり、郡内に強盗はなくなった。また一人の盗人を捕らえ、その親族を前に呼び出して鞭打ち、盗人自身に街路を長く掃除させた。しばらくしてから、盗人に以前の仲間の盗人を挙げて代わりを務めさせた。諸々の盗人たちは彼に見つかるのを恐れ、皆逃げ出し、管内は清らかになった。外出して市場を通りかかった時、肉を切るまな板を見て嘆息して言った。「呉興には昔、こんなまな板はなかった。これは私が若い時ここにいた時に作ったものだ。」

護軍将軍に遷り、常侍はもとのまま、自宅を役所とした。三年(481年)、母の改葬のために官職を去った。 詔 により敬則の母に尋陽公国太夫人を追贈した。侍中・撫軍将軍に改めて任じられた。太祖の遺 詔 により、敬則は本官のまま丹陽尹を領した。まもなく使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・鎮東将軍・会稽太守に遷った。永明二年(484年)、鼓吹一部を与えられた。

会稽の地は湖や海に接し、民丁は士庶の別なく皆塘(堤防)の役務を負担していた。敬則は労力に余裕があるとして、全てを評価して銭に換え、朝廷の庫に送るのが便宜であるとし、上(武帝)はこれを許した。竟陵王蕭子良が上奏して言った。

上は受け入れなかった。

三年、征東将軍に進号した。宋の広州 刺史 しし 王翼の子の妾の路氏は、剛暴で、たびたび婢を殺した。翼の子の法明が敬則に告げると、敬則は山陰の獄に付してこれを殺した。路氏の家が訴え出たため、有司から奏上され、山陰県令の劉岱は棄市の刑に処せられた。敬則が朝廷に入ると、上は敬則に言った。「人命は最も重いものだ。これは誰の考えで殺したのか?まったく啓上して聞かせなかったな!」敬則は言った。「これは臣の愚かな考えです。臣はどんな科法があるか知りませんが、背後に節があるのを見て、人を殺すべきだと言ったのです。」劉岱も罪を認めたので、上は彼らを赦した。敬則は官を免じられたが、公の位のまま郡を領した。

翌年、侍中・中軍将軍に遷った。まもなく王倹とともに本号のまま開府儀同三司となったが、王倹が固辞したので、敬則もすぐには受けなかった。七年、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 州 郢州 之西陽司州之汝南二郡軍事・征西大将軍・ 刺史 しし として出向し、開府はもとの通りとした。驃騎将軍に進号した。十一年、 司空 しくう に遷り、常侍はもとの通りとした。世祖が崩御し、遺 詔 によって侍中に改めて加えられた。高宗が政を補佐し、密かに廃立の意思を持っていた。隆昌元年、敬則を出して使持節・ 都督 ととく 会稽東陽臨海永嘉新安五郡軍事・会稽太守とし、本官はもとの通りとした。海陵王が立つと、 太尉 たいい に進位した。

敬則は名声と地位は高かったが、富貴をもって自らを遇することはなく、危うく拱手して傍徨い、ほとんど座ろうとせず、士庶を接遇するときは皆呉語を用い、ねんごろで周到であった。初め散騎として虜(北魏)に使いしたとき、北館に楊柳を植えた。後に員外郎の虞長耀が北使から帰還すると、敬則は尋ねた。「私が昔植えた楊柳の木は、今どのくらいの大きさか?」長耀は言った。「虜の中では甘棠のようだとされています。」敬則は笑って答えなかった。

世祖が御座で詩を賦したとき、敬則は紙を執って言った。「臣はほとんどこの奴の計略に落ちるところでした。」世祖が「これはどういう意味か?」と尋ねると、敬則は言った。「臣がもし書をよく知っていたなら、せいぜい尚書都令史になるくらいで、どうして今日の地位を得られましょうか。」敬則は書をあまり識字しなかったが、性質は非常に機敏で賢く、州郡に臨むときは、省事に辞を読ませ、教えを下して判決を下させたが、すべて道理を失わなかった。

明帝が即位すると、大司馬に進み、邑千戸を増やされた。台使が拝授の日に来ると、大雨が激しく降り注いだ。敬則の文武の官は皆顔色を失ったが、一人の客が傍らで言った。「公はもともとこういうことがあります。昔、丹陽や呉興に拝されたときも同じでした。」敬則は大いに喜び、「私は宿命で雨を得るべきなのだ」と言った。そこで羽儀を列ね、朝服を整え、道を引き出して聴事で拝受したが、気持ちはまだ満足せず、しばらく舌を出していた。事が終わるまでそうしていた。

帝は殺害を多く行ったので、敬則は自らを高帝・武帝の旧臣として、心に憂いと恐れを抱いた。帝は外では礼を厚くしたが、内では疑い備え、たびたび敬則の飲食や体調が適しているかどうかを尋ねさせ、その衰老を聞き、また内陸に居住しているので、少し安心できた。三年のうちに、蕭坦之に斎仗五百人を率いさせ、武進陵に行かせた。敬則の諸子は都にいて、憂い恐れて策がなかった。上はこれを知り、敬則の世子の仲雄を東に入らせて慰めさせた。仲雄は琴を弾くのが上手で、当時新たに絶妙とされた。江左に蔡邕の焦尾琴があり、主衣庫にあった。上は五日ごとに仲雄に与えるよう命じた。仲雄は御前で琴を弾き『懊 儂 曲歌』を作って歌った。「常に嘆く負情の儂、郎は今果たして行くことを許す!」帝はますます猜疑心を抱き、恥じた。

永泰元年、帝は病気になり、たびたび危篤に陥った。張瑰を平東将軍・呉郡太守とし、兵佐を置き、密かに敬則を防がせた。内外に異なる処分があるだろうという噂が流れた。敬則はこれを聞き、ひそかに言った。「東には今誰がいる?ただ私を討伐したいだけだ!」諸子は怖がり、第五子の幼隆は正員将軍の徐嶽を密かに遣わし、その情勢を徐州行事の謝朓に告げて策を講じさせ、同意するならば敬則に報告に行かせようとした。謝朓は徐嶽を捕らえて急ぎ啓上した。敬則の城局参軍の徐庶の家は京口にあり、その子が密かに徐庶に報告した。徐庶はこれを敬則の五官の王公林に告げた。公林は敬則の族子で、常に信任されていた。公林は敬則に急いで啓上を送って息子(幼隆)に死を賜り、単身の舟で星夜都に還るよう勧めた。敬則は司馬の張思祖に啓上を草稿させたが、やがて言った。「もしそうするなら、諸郎(息子たち)は都にいるのだから、必ずや手紙があるはずだ。一晩は我慢しよう。」その夜、僚佐の文武を呼んで樗蒲で賭けをし、衆に言った。「卿たちは私にどんな計略をさせたいのか?」誰も先に答えようとしなかった。防閤の丁興懐が言った。「官はただ行動すべきです。」敬則は声を出さなかった。翌朝、山陰県令の王詢と台侍御史の鍾離祖願を召し出した。敬則は刀を横たえ、足を開いて座り、王詢らに「丁男を徴発すれば何人得られるか?伝庫(駅伝の倉庫)には今いくらの銭物があるか?」と尋ねた。王詢は「県の丁男はすぐには徴発できません」と答え、祖願は「伝物は多くまだ納入されていません」と称した。敬則は怒り、出して斬ろうとした。王公林がまた敬則を諫めて言った。「官、このようなことはすべて後悔できますが、ただこのことだけは後悔できません!官はもう一度考えられませんか!」敬則はその顔に唾を吐きかけて言った。「小僧め!私が事を行うのに、お前のような小僧に関わりがあるか!」そこで兵を起こした。

上は 詔 を下して言った。「謝朓の啓事が徐嶽の列挙したことを上申したのは右の通りである。王敬則は凶悪で狡猾な性質を受け継ぎ、もともと人倫の綱紀から外れている。ただ宋の末の多難な時期に、かなり膂力があったため、駆り立て推奨されるところに至り、栄華と顕職に昇った。皇運が始まるにあたり、末議に預かり、功は国を匡すものではなく、賞は実に主君を震わせるものであった。爵は執圭の冠にあり、身は衣袞に登ったが、固より『風雅』に刺され、縉紳は側目した。しかし溪谷は満ちやすく、鴟梟は改まり難く、猜疑の心は内に駭き、醜い言葉は外に布かれた。永明の朝には、霜を履むに漸あり、隆昌の世には、堅氷将に著からんとし、従容として附会し、朕は力を有した。景歴(明帝の年号)が新たになり、誠意を推し尽くし礼を尽くした。中使は相望み、軒冕は陰を成した。しかし嫌悪の跡はますます興り、禍の図りはここに構えられ、亡命の徒を収め合わせ、党を結び群を聚め、外では辺境の警報を窺い、内では国の隙を伺った。元遷兄弟は、中に萃まり淵藪となり、奸悪の契りは潜かに通じ、密かに発動を謀った。謝朓は即ち姻戚の家であり、徐嶽はまた邑子(同郷の子)である。取って拠るところ他ならず、明らかに信ずべきである。方叔・邵虎のような美は聞かず、韓信・彭越のような禍の兆しは既に積もっている。これを容赦できるなら、誰を刑典に寄せようか!直ちに収捕し、国憲を粛明せよ。大辟を加えるのは、その父子のみである。凡そ諸々の詿誤(巻き添え)に陥った者は、一様に洗い清める。」敬則の子の員外郎の世雄、記室参軍の季哲、太子洗馬の幼隆、太子舎人の少安らを収捕し、邸宅で殺した。長子の黄門郎の元遷は、寧朔将軍として、千人を率いて徐州で虜を撃っていたが、徐州 刺史 しし の徐玄慶に殺すよう 詔 を下した。

敬則は配衣(兵士)を招集し、二、三日で出発し、前中書令の何胤を劫いて還らせ 尚書令 しょうしょれい にしようとしたが、長史の王弄璋と司馬の張思祖が止めた。そこで実甲一万を率いて浙江を渡り、張思祖に言った。「檄文を作る必要がある。」思祖は言った。「公は今自ら朝廷に還るのです。どうしてこれを作る必要がありましょうか。」敬則はやめた。

朝廷は輔国将軍・前軍司馬の左興盛、後軍将軍・直閤将軍の崔恭祖、輔国将軍の劉山陽、龍驤将軍・直閤将軍で馬軍主の胡松ら三千余人を遣わし、曲阿の長岡に塁を築かせた。右 僕射 ぼくや の沈文季を持節 都督 ととく とし、湖頭に屯して京口路に備えさせた。

敬則は旧将として挙兵し、民衆が竹竿を担ぎ鍤を背負ってこれに従い、十余万の衆となった。晋陵に至ると、南沙の人范脩化が県令の公上延孫を殺してこれに応じた。敬則は武進の陵口に至り、慟哭して肩輿に乗って前進した。興盛、山陽の二つの砦に遭遇し、全力でこれを攻撃した。興盛は兵士に命じて遠くから敬則に告げさせた。「貴公の息子たちはすでに死に絶えました。貴公は一体何をしようとしているのですか?」官軍は敵わず退却しようとしたが、包囲は解けず、それぞれ死に物狂いで戦った。胡松が騎兵を率いてその背後を突き、白丁は武器を持たず、皆驚いて散り散りになり、敬則の軍は大敗した。敬則は馬を求め、二度乗ろうとしたが乗れず、興盛の軍の袁文曠がこれを斬り、首を伝送した。この時、上(明帝)の病はすでに重く、敬則が慌ただしく東方で挙兵したため、朝廷は震え上がった。東昏侯は東宮におり、反乱を企てようと議論し、人を屋根に登らせて見張らせたところ、征虜亭が火事になっているのを見て、敬則が来たと思い、急いで装備を整えて逃げ出そうとした。これを敬則に告げる者がいたが、敬則は言った。「檀公三十六策、逃げるが上策。お前たち父子は急いで逃げるしかない。」敬則が来た時の勢いは非常に盛んだったが、わずか数日で敗れ、その時七十余歳であった。

左興盛を新呉県男に、崔恭祖を遂興県男に、劉山陽を湘陰県男に、胡松を沙陽県男に封じ、それぞれ四百戸を領地とし、敬則平定の賞とした。また公上延孫を 射声校尉 しゃせいこうい に追贈した。

陳顕達は、南彭城の人である。宋の孝武帝の時代、張永の前軍の幢主となった。景和年間、功労により使者を歴任した。泰始初年、軍主として徐州 刺史 しし 劉懐珍に属して北征し、累進して東海王の板行参軍、員外郎となった。泰始四年、彭沢県子に封じられ、三百戸を領地とした。馬頭、義陽の二郡太守、羽林監、濮陽太守を歴任した。

太祖(蕭道成)に属して新亭の塁で桂陽の賊(劉休範)を討ち、劉勔が大桁で敗れると、賊は杜姥宅に進んだ。休範が死ぬと、太祖は宮城に戻って守ろうとしたが、ある者が太祖に諫めて言った。「桂陽(休範)は死んだが、賊の徒党はなお勢い盛んです。人心は固まり難く、軽々しく動くべきではありません。」太祖はそれでやめた。顕達に 司空 しくう 参軍高敬祖を率いさせ、査浦から淮水を渡り、石頭の北道に沿って承明門に入り、東堂に駐屯させた。宮中は動揺していたが、顕達が到着したので、ようやく少し落ち着いた。顕達は杜姥宅から出て、大戦して賊を破った。矢が左目に当たり、矢を抜いたが鏃は出てこなかった。地黄村の潘という老女が呪術に長けており、まず釘を柱に打ち込み、老女が禹歩で気を込めると、釘は即座に出てきた。そこで顕達の目の中の鏃に呪術をかけて出させた。豊城県侯に封じられ、千戸を領地とした。游撃将軍に転じた。

まもなく使持節・広交越三州および湘州の広興軍事を 都督 ととく する・輔国将軍・平越中郎将・広州 刺史 しし となり、号を冠軍に進めた。沈攸之の乱が起こると、顕達は軍を派遣して朝廷を救援した。長史の到遁、司馬の諸葛導が顕達に言った。「沈攸之は百万の兵を擁し、勝敗の形勢はまだ分かりません。国境を守り兵力を蓄え、使者や駅伝を分遣して、密かに互いに連絡を取る方がよいでしょう。」顕達は座中で手ずから二人を斬り、上表文を送って太祖に帰順の意を示した。使持節・左将軍に進んだ。軍が巴丘に至った時、沈攸之はすでに平定されていた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・左衛将軍に任じられ、前将軍・太祖の 太尉 たいい 左司馬に転じた。斉の朝廷が建てられると、 散騎常侍 さんきじょうじ 、左衛将軍となり、衛尉を兼任した。太祖が即位すると、中護軍に遷り、領地千六百戸を加増され、護軍将軍に転じた。顕達が辞退を申し出ると、上(武帝)は答えて言った。「朝廷が人に爵位を与えるには順序がある。卿の忠誠は万里の彼方から発し、誓約は期日通りであった。たとえ城を屠り国を滅ぼすほどの功勲があっても、これに勝るものはない。これを賞さないなら、典章はどこにあるというのか!もしどうしてもそれにふさわしくないというなら、私は決して妄りに授けない。卿と数人の士に対しては、気持ちは家族同様であり、君臣の関係に止まるものではない。明日、王(王敬則か)、李(李安民か)と共に召し出そう。」上は即位後、御膳に生贄の肉を用いなかったが、顕達が熊の蒸し物一皿を献上すると、上はそれを食事に充てた。

建元二年、虜(北魏)が寿陽を寇し、淮南・江北の民衆が騒動した。上は顕達を使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・南兗兖徐青冀五州諸軍事 都督 ととく ・平北将軍・南兖州 刺史 しし とした。任地に赴くと、虜は退いた。上は顕達に 詔 して言った。「虜は敗退散乱した後は、再び関を犯す道理はないだろう。しかし国家の辺防としては、やはり備えを十分にしておくべきだ。宋の元嘉二十七年以後、江夏王(劉義恭)が南兗州を治め、鎮守を盱眙に移し、沈 司空 しくう (沈慶之)も孝建初年にそこを鎮守したが、まさに淮上(淮水流域)が広陵より重要だからだ。卿は前代のこの処置をどう思うか?今、衆議は皆、卿がその地を占拠すべきだと言っているが、私は決めかねている。それは文武の官を動かして煩わせることになるからだ。もし公のための計略であるなら、それを厭うべきではない。」結局この件は実行されなかった。

益寧二州軍事 都督 ととく ・安西将軍・益州 刺史 しし に遷り、宋寧太守を兼任し、持節・常侍はもとの通りとした。世祖(武帝)が即位すると、号を鎮西に進めた。益州の地域は山が険しく、多くは帰服していなかった。大度村の獠(少数民族)は、前後の 刺史 しし が制御できず、顕達は使者を遣わして租税と贖罪の財(賧)を要求した。獠の首長は言った。「両眼の 刺史 しし (普通の 刺史 しし )でさえまだ我々を徴発しようとはしないのに!」そして使者を殺した。顕達は部将や官吏を分遣し、狩りに出ると言っておき、夜襲撃をかけ、男女老少を問わず皆斬り殺した。これ以来、山の夷族は震え上がって服従した。広漢の賊司馬龍駒が郡を占拠して反乱を起こしたが、顕達はまたこれを討って平定した。

永明二年、侍中・護軍将軍として召し出された。顕達は累任して外にいたが、太祖(高帝)の喪に服し、世祖(武帝)に拝謁すると、涙を流して悲しみ嗚咽した。上も泣き、心からこれを称賛した。

五年、荒れ地の民桓天生が自ら桓玄の一族と称し、雍州・司州の境界の蛮族や虜と結託して扇動し、南陽の故城を占拠した。上は顕達に仮節を与え、征虜将軍戴僧静らの水軍を率いて宛・葉に向かわせ、雍州・司州の諸軍は顕達の指揮を受けることとした。天生は虜の兵一万余りを率いて舞陰を攻撃したが、舞陰の戍主である輔国将軍殷公愍がその副将の張麒麟を撃ち殺し、天生は傷を負って退却した。そこで顕達を使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・雍梁南北秦郢州の竟陵および司州の随郡軍事 都督 ととく ・鎮北将軍とし、寧蛮 校尉 こうい ・雍州 刺史 しし を兼任させた。顕達は舞陽城を占拠して進み、僧静らを先に進ませ、天生および虜と再戦して大破し、官軍は帰還した。数か月後、天生は再び出撃して舞陰を攻めたが、殷公愍がこれを破り、天生は荒れ地の中に逃げ込み、遂に遂城・平氏・白土の三城の賊は次第に降伏・離散した。

八年、号を征北将軍に進めた。その年、侍中・鎮軍将軍に遷り、まもなく中領軍を加えられた。出向して使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・江州諸軍事 都督 ととく ・征南大将軍・江州 刺史 しし となり、鼓吹一部を与えられた。顕達は謙虚で厚く、知略があり、自分は身分が低いのに地位が重いと思い、官職が昇進するたびに、常に恥じ恐れる様子を見せた。十余人の子がおり、彼らを戒めて言った。「私の本来の志はここまで及ばなかった。お前たちは富貴を頼んで人を侮ってはならない!」家はすでに豪富であり、諸子は王敬則の諸子と共に、車や牛を競い、服飾を華美にした。当時、速い牛として称えられたのは陳世子(顕達の子)の青、王三郎(敬則の子)の烏、呂文顕の折角、江瞿曇の白鼻である。顕達はその子に言った。「麈尾の扇は王・謝の家のものである。お前はこれを持って自分から追いかける必要はない。」

永明十一年の秋、北魏が動き、 詔 により樊城に駐屯した。世祖(武帝)の遺 詔 により、本官のまま開府儀同三司となった。隆昌元年、侍中・車騎将軍に昇進し、開府は従前通り、兵士と補佐官を置くことを許された。鬱林王廃立の功績により、延興元年、 司空 しくう となり、爵位は公に進み、封邑を千戸増やされ、武装兵五十人が殿中に入ることを許された。高宗(明帝)が即位すると、 太尉 たいい に進み、侍中は従前通り、鄱陽郡公に改封され、封邑三千戸、兵士二百人を加増され、油絡車を与えられた。建武二年、北魏が徐州・司州を攻撃したため、 詔 により顕達は出陣して駐屯し、新亭と白下の間を往来して、威勢を示した。

帝(明帝)は高帝・武帝の諸孫を皆殺しにしようと考え、遠回しに顕達に尋ねた。答えて言った、「この連中など、気にかけるに足りません」。帝はやめた。顕達は建武年間(明帝の治世)、心中不安で、深く自らを貶めて目立たぬようにし、車は朽ちた古いものを使い、先導や儀仗の行列も皆、弱く小さい者を用い、十数人を超えなかった。宴会に侍る時、酒の後に帝に申し上げて言った、「臣はもう年老い、富貴は十分に得ました。ただ枕で死ぬことが少し足りないだけです。特に陛下にお願いしてそれを頂きたい」。帝は顔色を変えて言った、「公は酔っておられる」。年老いたことを理由に引退を願い出たが、許されなかった。

この時、北魏が頻繁に雍州を侵し、諸軍は勝利せず、沔水以北の五郡を失った。永泰元年、ついに顕達を派遣して北方を討伐させた。 詔 に言った、「晋王朝が中ごろ衰え、宋の徳もまさに尽きようとした時、藩臣は外で叛き、辺境の民は内で侮った。天はまだ禍を悔い改めず、夷狄が中華を乱し、神州に巣食い、年を経て逆臣となった。朕は大業を継ぎ受け、前の王者の跡を踏み、静かに隆盛と衰退を考え、天下を治めようと思う。しかし多くの難事がようやく治まり、恩徳と教化が初めて行き渡ろうとしているところで、兵を起こし民を煩わすことは、政治で優先すべきことではない。遠大な計画を収めるため、北方への経略を一時緩め、戎夷が義を知り、我が善き音信を慕うことを望んだ。しかし凶悪な輩はすばしこく、専ら侵略略奪に事とし、異民族を駆り扇動し、蟻のように西の辺境に集まった。彼らが自ら来た資質に乗じ、天が滅ぼそうとする機会をとらえれば、軍は二度出兵せず、民は重ねて労苦せず、檄文を伝えて三秦を平定し、一たび旗を振れば禹の足跡を臣従させることができる。それはこの一挙にある。かつ中原の士人庶民は、久しく皇帝の威光を待ち望み、援軍を請い師を乞う者が、道に車の跡を連ねている。信義を失ってはならず、時機は永遠に続くものではない。方岳(地方長官)に命を分けて、この大義名分に基づかせるべきである。侍中 太尉 たいい 顕達は、しばらく朝廷を離れ、諸将帥を指揮せよ」。朝廷内外は戒厳体制となった。顕達に使持節を加え、襄陽に向かわせた。

永元元年、顕達は平北将軍崔慧景の諸軍四万を督率し、南郷界の馬圏城を包囲した。襄陽から三百里の距離で、四十日間攻撃した。北魏軍は食糧が尽き、死人肉や木の皮を食べた。包囲がすでに厳しくなると、北魏軍は突破して逃走し、斬首・捕虜は千を数えた。官軍は城中の絹を競って奪い、再び追撃しようとはしなかった。顕達はその城を占拠し、軍主の庄丘黒を派遣して南郷県を攻略させた。ここはかつての順陽郡の治所である。北魏の主(孝文帝)元宏自ら十余万騎を率いて急襲して来た。顕達は軍を率いて水を渡り西進し、鷹子山を占拠して城を築いたが、兵士の士気は挫け敗北した。北魏軍の攻撃は非常に激しく、軍主の崔恭祖・胡松が烏布の幕で顕達を包み、数人で担いで、分磧山を通り抜け均水口から出た。朝廷軍は道沿いに敗走し、死者は三万余人に上った。左軍将の張千は戦死し、遊撃将軍を追贈された。顕達はもともと威名が蛮族や北魏に知られていたが、この大敗で大きく損なわれた。御史中丞の范岫が顕達の官職免除を上奏したが、朝廷の議論では寛大な 詔 で答えて言った、「昔、衛青・霍去病が塞外に出ても、往々にして功がなく、馮異・鄧禹が関中に入っても、時に敗北したことがある。ましてや公は計画が厳正に実行され、期待と委任が共に深かった。困難を知って退いたとしても、威略を損なうものではない。今まさに遠大な計画を振るい、北方の地を清めようとしている。たとえ法令執行に常道があるとしても、これについて議論すべきことではない」。顕達は上表して職務解除を願い出たが、許されず、称号降格を求めたが、これも許されなかった。

顕達を 都督 ととく 江州軍事・江州 刺史 しし とし、盆城に鎮守させ、持節と本官は従前通りとした。初め、王敬則の乱が起こった時、始安王蕭遙光が明帝に、顕達が変事を起こすことを懸念し、軍を召還すべきだと進言したが、事件はすぐに平定されたので、取りやめになった。顕達もまた危惧と恐怖を抱いていた。東昏侯が立つと、ますます都に戻るのを好まず、この任命を得て、非常に喜んだ。まもなく征南大将軍を兼任し、三望車を与えられた。

顕達は都で大規模な殺戮が行われていると聞き、また徐孝嗣らが皆死んだことを知り、兵を派遣して江州を襲撃するという噂が伝わると、顕達は禍を恐れ、十一月十五日、兵を挙げた。長史の庾弘遠・司馬の徐虎龍に命じて朝廷の貴人に書簡を送らせ、言った。

朝廷は後軍将軍胡松・ ぎょう 騎将軍李叔献に水軍を率いさせ梁山を占拠させた。左衛将軍左興盛は仮節・征虜将軍を加えられ、前鋒軍事を督率し、新亭に駐屯した。輔国将軍 ぎょう 騎将軍徐世摽は兵を率いて杜姥宅に駐屯した。顕達は数千の兵を率いて尋陽を出発し、採石で胡松と戦い、大破した。京師は震え恐れた。十二月十三日、顕達は新林に到着して城塁を築いた。左興盛は諸軍を率いて防戦の構えをとった。その夜、顕達は岸辺に多くのかがり火を置き、密かに軍を渡河させて石頭を奪い、北上して宮城を襲撃しようとしたが、風に遭い夜明けを誤った。十四日の明け方、数千人が落星崗に登った。新亭の軍はかがり火を見て、顕達がまだそこにいると考え、やがて駆けつけて救援に向かい、城南に駐屯した。宮中は大いに驚き、門を閉めて守備した。顕達は馬に乗り槊を手に、歩兵数百人を従えて西州の前で朝廷軍と戦い、二度交戦して大勝し、自ら数人を斬り殺したが、槊が折れた。官軍が続々と到着し、顕達は抗しきれず、退却して西州の烏榜村に至り、騎兵の官である趙潭に槊を突きつけられて落馬し、籬の傍らで斬り殺された。血が湧き出て籬を染め、淳于伯が刑に処された時のようであった。時に七十二歳。顕達は江州にいた時、病気にかかったが治療せず、まもなく自然に治ったが、気分は非常に優れなかった。この冬は雪が続き、首級は朱雀桁にさらされたが、雪はそこに積もらなかった。諸子は皆誅殺された。

史臣が言う。光武帝の功臣たちがその身と名を全うできた理由は、ただ職務に任じられなかったからだけでなく、また明帝・章帝を継いで奉じ、正嫡を心から尊び、君は上で安らぎ、臣は下で慣れ親しんだからである。王敬則・陳顕達が抜きん出て奮い立ったのは、建元・永明の治世においてであり、その身が将相の極位に至ったのは、建武・永元の朝廷においてであった。勲功は往時に及ばないのに、地位は昔の功臣たちを超え、礼儀に則った任命は重かったが、情誼と分際は交わらなかった。それに主君の猜疑心と政治の混乱が加わり、危亡の憂いが及び、手を挙げて頭を守るように、人は皆自らの免れを考えた。干戈が用いられれば、確かに犯上の跡を残すことになる。敵国は同舟の間から起こる。ましてやこれよりも疎遠な関係においてはなおさらである。