五行志の木の伝に言う。「東方は、易経では地上の木を観卦とし、ゆえに木は人においては威儀容貌である。木は春の生気の始まりであり、農の根本である。農時を奪わず、民に年に三日を超える労役を課さず、十分の一の税を行い、貪欲な謀りごとがなければ、木気は従う。もし人君が威儀を失い、木の行いに逆らい、田猟に馳せ回って宮室に戻らず、飲食に沈溺して礼制を顧みず、出入りに度を失い、多くの徭役を発して民の時を奪い、奸詐をなして民の財を奪えば、木はその性を失う。工匠が輪や矢を作るのに多く傷つき敗れるため、木が曲直をなさないというのである。」
建元初年、李の子実が毛を生じた。
四年、巴州城西の古楼の脚の柏柱が数百年を経て、忽然と花を生じた。
永明六年、石子崗の柏木が長さ二尺四寸、幅四寸半、石に化した。時に車駕がしばしば遊幸した。本伝の木がその性を失うことに応じたのである。
永明年間、大航の一舶が故なくして自ら沈み、艚中に水はなかった。
建武初年、始安王蕭遙光が廟を造営する際、東安寺の屋を截って廟垣を直し、梁を截ると、水が涙のように流れ出た。
五行志の貌の伝に言う。「威儀の制を失い、怠慢驕恣なるを狂と謂い、すなわち肅ならざるなり。下敬せざれば、則ち上に威なし。天下既に敬せず、又其の驕恣を肆う。肆うれば則ち従わず。夫れ其の君を敬せず、其の政に従わざれば、則ち陰気勝つ。故に厥の罰常雨と曰う。」
永明八年四月、己巳より陰雨が起こり、昼は時に暫く晴れたが、夜は時に星月を見、雨が連なり霖雨が積もり、十七日になってやっと止んだ。
十一年四月辛巳朔、去る三月戊寅より起こり、その間暫時晴れたが、四月一日よりまた陰雨となり、昼は時に日を見、夜は突然月を見、陰雨に戻り覆って、七月になってやっと止んだ。
伝に言う。「大雪が降るのは、通常の雨と同じく庶徴(兆し)の一つであるが、それよりも甚だしいものである。雨は陰である。大雪が降るのは、陰の蓄積が甚だしいためである。一説には、大水と同じ象徴であり、攻撃が雪となって現れるのだという」。
伝に言う。「雷は天地において長子であり、万物を先導し、それとともに出入りするので、雷が出れば万物が出、雷が入れば万物が入る。雷は人君の象徴であり、入れば害を除き、出れば利を興す。雷の微かな気は正月に出て、音を発するものは二月に出て、八月に入る。その他の微かなものは九月に入る。冬の三か月に雷が出ないのは、もし陽が陰を閉じ込めなければ、危難に陥って万物を害することになるからである」。
十一月庚戌、電光が走り、しばらくして雷鳴がとどろき、長く続いて止んだ。
永明五年正月戊申、夜に西北で雷鳴がした。
六年十月甲申、夜に薄暗く小雨が降り、西北の上空で雷鳴が聞こえ始めた。
七年正月甲子、夜に薄暗く、西南の坤宮で雷鳴がとどろき、轟然と一声で止んだ。
八年正月庚戌、夜に坎宮の水門から雷が起こり、その音は轟々と一声で止んだ。
九年二月丙子、西北に電光があり、雷鳴が轟々と聞こえ、さらに十声続いて止んだ。
十年二月庚戌、夜に南方に電光があり、雷鳴が轟々と続いて聞こえ、丁亥に止んだ。
十月庚子、電光と雷鳴が西北から起こった。
十一月丁丑、西南に光があり、雷鳴が微かに聞こえ、二声で止んだ。西南の坤宮である。
十二月甲申の日、陰雨が降り、電光があり、それに伴って西南および西北の方角で雷鳴が聞こえ、三声続けて頻繁に鳴った。
丙申の日、夜に西北の方角で雷が頻繁に二声続けて鳴った。
辛亥の日、雷雨があった。
伝に言う:「雨や雹は、君臣の象徴である。陽の気が専ら雹となり、陰の気が専ら霰となる。陽が専らで陰がこれを脅かすと、陰が盛んで陽がこれを薄める。雹は、陰が陽を薄める象徴である。霰は、陽が陰を脅かす符である。春秋が霰を記さないのは、月食と同じである。」
建元四年五月戊午の朔日、雹が降った。
十一年四月辛亥の日、蒜の実ほどの大きさの雹が降り落ち、しばらくして消えた。
貌伝にはまた言う:「上(君主)が節度を失って狂い、下(臣下)が怠慢で敬わず、上下が道を失い、法を軽んじて制度を侵し、君上を顧みないため、それによって飢饉が繰り返し起こる。貌の気が毀損されるので、鶏の災いがある。」一つには言う:「水の年に鶏が多く死に、あるいは怪異となるのも、これである。上下が互いに信じず、大臣が奸宄をなし、民が寇盗となるので、その極みは悪であると言う。」一つには言う:「民が多く刑罰を受け、あるいは形貌が醜悪で、風俗が狂慢で、節度を変え法度を改めると、軽薄で奇怪な服装となるので、時に服妖があると言う。」
永明年中、宮内で服用した射猟の錦文は、騎射と兵戈の象徴であった。建武初年に至り、虜が大いに寇となった。
永明年中、蕭諶が博風帽の後裠の制を開き、破後帽とした。世祖が崩御した後、蕭諶は廃立を建策し、諸王を誅滅した。
永明末、民間で倚勸帽を制作した。海陵王が廃され、明帝が立つと、勧進の事は、倚って立つことを待つばかりであった。
建武年中、帽の裠が頂を覆った。東昏侯の時、裠は下にあるべきなのに、今は上にあるのは不祥であるとして、断ち切った。これは臣下が上に反する象徴である。
貌伝にはまた言う:「危乱の端が見えると、天地の異変が生じる。木は青いので、青眚と言い、悪い兆しとなる。凡そ貌が傷つくのは、金が木を沴し、木が金を沴し、衝気が相通じるためである。」
火は南方に配当され、光輝を発揚し、炎と焔を出して明るさをなすものである。君主が明るい方向に向かって政治を行うのは、この象を取ったものである。人を見抜くことを職分とし、讒言や巧言を弄する者を遠ざけ、多くの賢者が官位にあれば、それは明るく火の気が従う状態である。君主が疑い惑い、法律を捨て、讒言と邪悪を誅殺しないと、讒言の口が横行し、内では骨肉の間を引き裂き、外では忠臣を疎んじ、ついには世子を殺し、功臣を追放し、妾を妻とするに至れば、火はその本性を失い、上は宗廟に災いをもたらし、下は府庫や楼閣に災いをもたらし、内は朝廷を焦がし、外は宮門や楼観を焦がし、たとえ大軍を起こしても救うことができない。
三月庚午、丙夜(午後11時から午前1時)に北面に野火があり、火の上に精が生じ、長さ六尺、戊夜(午前1時から3時)にまた一つあり、長さ五尺、いずれも黄赤色であった。
四年正月丁亥、夜に火精が三か所あった。
閏月丁巳、夜に火精が四か所あった。
十二月辛酉、夜に東南に野火精が二つあった。
五年十二月丙寅、夜に西北に野火があり、火の上に精が生じ、一つ、長さ三尺、黄白色であった。
六年十一月戊申、夜に西南及び北の三面に野火があり、火の上に精が生じ、九つ、いずれも長さ二尺、黄赤色であった。
九年二月丙寅、甲夜(午後7時から9時)に北面に野火があり、火から精が生じ、二つ、西北にまた一つ、いずれも長さ三尺、しばらくして消えた。
伝にまた言う、「上を犯す者を誅殺しないと、草が霜に犯されても死なない。あるいは時を違えて殺すことがあり、事は生殺の権柄を失うことにある。故に草の妖という」。一説に、「草の妖とは、衆を失う象徴である」。
劉歆は五行伝に羽虫の孽があると見て、鶏禍であると言った。班固は易を案じると鶏は巽に属し、今では羽虫の孽の類としているのはこれであり、劉歆の説に依拠して五行伝に附すという。
伝に言う:「水が火を害する。」また言う:「赤い災い、赤い祥瑞。」
建武四年、王晏の子の徳元の住む帷屏に、理由なく血が振りかかり、数日で散った。〔王晏はまもなく誅殺された〕。
思心伝に言う:「心は土の象である。思心が聡明でないと、その過ちは目がくらみ乱れて紀を失うことにある。風が陽にあるときは君主の象であり、陰にあるときは大臣の象であり、専横で気が盛んなため、罰は常に風である。心は五事の主であり、土が五行の主であるのと同じである。」一説に言う:「陰陽が互いに迫り、偏った気で陽が多いと風となり、その甚だしいときは常風となる。陰気が多い者は、陰で雨が降らず、その甚だしいときは常陰となる。」一説に言う:「風が夜に起こり昼が暗くなるのは、常陰と同じ象に応じるためである。」
四年十一月甲寅の日、酉の刻に風がやや強く起こり、二更に雪が降り、風が転じて激しくなった。
永明四年二月丙寅の日、巳の刻に風が急速に強まった。十一月己丑の日、戌の刻に風が急速に強まり、西北の戌亥の方角から来た。
五年五月乙酉の日、子の刻に風が急速に強まり、西北の戌亥の方角から来た。
七年正月丁卯の日、陽徴陰賊の日に、時は子を加え、風が急速に起こり、北方の子丑の方角から来て、暴れ疾く激しく、寅の刻に止んだ。
八年六月乙酉の日、〔時〕に子を加え(時)、風が急速に起こり、暴れ疾く激しく、屋を発し木を折り、塵砂が舞い、西南の未の方角から来て、雷雨に因り、しばらくして、風は微かになり雨は止んだ。
九年七月甲寅の日、陽羽廉貞の日に、時は亥を加え、風が急速に起こり、東方から来て、暴れ疾く澎湃として激しく、乙卯の陰賊の時に至って次第に微かになり、名は羽が羽を動かすという。
九月乙丑の日、未の刻に、雷鳴があり、驟雨が降り、風が西北の戌の方角から急に起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗った。
十月壬辰の日、陽羽の姦邪の日に当たり、丑の刻に、風が北方の子・丑の方角から起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、迅急で、塵埃が舞い、五日目の寅の刻に次第に弱まった。これを羽が宮を動かすという。
十年正月辛巳の日、陽商の寛大の日に当たり、寅の刻に、風が西北の方角から起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、迅急で、砂を巻き上げ木を折り、酉の刻に止んだ。
二月甲辰の日、陽徴の姦邪の日に当たり、辰の刻に、風が急に起こり、西北の亥の方角から来て、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、酉の刻に止んだ。
三月丁酉の日、陽徴の廉貞の日に当たり、未の刻に、風が北方の子・丑の方角から起こり、迅急で、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、戌の刻に止んだ。
七月庚申の日、陰角の貪狼の日に当たり、午の刻に、風が東北の丑の方角から起こり、迅急に波が岸を洗い、辛酉の日の巳の刻に次第に弱まった。
十一年二月庚寅の日、陽角の廉貞の日に当たり、亥の刻に、風が西北の亥の方角から起こり、迅疾に波が岸を洗い、丑の刻に次第に弱まった。これを角が角を動かすという。
七月甲寅の日、陽羽の廉貞の日に当たり、巳の刻に、風が東北の寅の方角から起こり、迅疾に波が岸を洗い、屋根を吹き飛ばし木を折り、戊夜に次第に弱まった。これを羽が徴を動かすという。己巳の日、陽角の寛大の日に当たり、未の刻に、風が戌の方角から起こり、激しく吹き荒れ、しばらくして止んだ。これを角が商および宮を動かすという。
およそ、時を選ばずに風が吹き荒れるのは、陰陽が互いに迫り合っている疑いがある。
伝にまたこうある。「山は地において、君主の象徴である。山が崩れるのは、君主の権威が損なわれ、都の丘陵が場所を変え、世の中が変わろうとしていることである。陵が沢に変わるのは、貴人が賤人になることである。」
伝にまた言う、「雷電が撃つのは、およそ感じるところによるものである。すべては思心に過ちがあることによって引き起こされるのである」。
四年五月五日、雲と雹が都を暗くし、雷が楽遊安昌殿を震わせ、電火が焼き尽くした。
永明八年四月六日、雷が鳴り、会稽山陰の恒山保林寺の塔の頂上が四つに破れ、電火が塔を焼き、下の仏面の窓や戸は変わらなかった。
永明年間、雷が東宮の南門を震わせたが、損傷・破壊はなく、食官一人を殺した。
十一年三月、東斎で雷が鳴り、棟が崩れた。左右の者がひそかに修繕しようとしたが、竟陵王の子良は言った、「これはどうして修繕できようか、残して私の過ちを記し、かつ天が私を愛していることを示そう」。翌年、子良は薨去した。
伝にまた言う、「土気が乱れるのは、木・金・水・火がそれを乱すからである」。
九月十九日、地が五回震えた。
金は西方に属し、万物が既に成り、殺気の始まりである。それが王事においては、兵戎戦伐の道である。王者が師を興し衆を動かし、旗鼓を立て、旄を仗し鉞を把って、残賊を誅し、暴乱を止め、殺伐が義に応ずるならば、金気は従う。工匠が鋳造し変化させ、形を革めて器とするのである。人君が侵陵を好み、攻戦を楽しみ、城邑を貪り、百姓の命を軽んじ、人民が安らかでなく、内外が騒動するならば、金はその性を失う。およそ鋳造が化せず、氷のように滞り固く堅くなるので、金は革に従わないと言い、また木が金を害すると言うのである。
言伝に曰く、「言は易の道で、西方は兌といい、口を表す。人君が過差無度で、刑法が一様でなく、徴収が重いものに従い、あるいは師旅があり、炕陽の節があり、もし衆を動かし民を労するならば、これが言が従わないことである。人君が既に衆を失い、政令が従われず、孤陽が治めを維持し、下が君の重刑を畏れると、陽気が勝てば旱の象が至る。故に厥罰常陽と言うのである」。
言伝えに曰く、「下民は君主の行いを悲しみ苦しむとともに、厳しい刑罰を恐れて正しいことを言えず、必ずまず歌謡に現れる。歌謡は口の事である。口の気が逆らえば悪い言葉となり、あるいは奇怪な謡が生じる」という。
宋の泰始年間に彭城を失ってから、江南に初めて消梨という品種が伝わり、以前には無かったもので、百姓は争って植えようとした。識者は言った、「姓が蕭の者が来るであろう」と。十数年後、斉が禅譲を受けた。
元徽年間、童謡に曰く、「襄陽の白銅蹄、郎が荊州の児を殺す」。後に沈攸之が反乱を起こし、雍州刺史の張敬児が江陵を襲撃し、沈攸之の子の元琰らを殺した。
世祖が青溪の旧宮を建てた時、人々は反対して言った、「旧宮とは、窮した厩舎である」と。そして帝が崩御した後、宮人たちがそこに出て住んだ。
世祖が禅霊寺を建てて完成した時、百姓が自由に見物したが、ある者が言った、「禅とは授けることであり、霊は美しい名ではない。授けられる者は必ずその人を得ないであろう」。後に皇太孫が立てられ、廃位された。
永明年間、宮内で座って御食以外のものは、全て客食とされた。世祖は客という名が家族の者ではないとして、別食と呼ぶように改めたが、当時の人々はこれが分離の兆しだと考えた。間もなく、帝は崩御した。
文恵太子が東宮にいた時、両頭纎纎の詩を作り、後の句に「磊磊落落たる玉山崩る」とあった。これ以降、年長の王や宰相が相次いで薨去し、二宮(皇帝と皇太子)が崩御した。
文恵太子が七言詩を作ると、後の句に必ず「愁和諦」とあった。後になって果たして和帝が禅位した。
永明年間、敵国で童謡が歌われた。「黒い水は北に流れ、赤い火は斉に入る」。間もなく京師の家で突然火が生じ、普通の火より赤く、熱さは小さく微かで、貴賤を問わず争って取り、病気を治そうとした。方法はこの火で桃の板を七回灸し、七日で皆治った。詔で禁止されたが、断つことはできなかった。京師に瘻病の者がおり、火で数日灸して治った。隣人が笑って言った、「病気がたまたま自然に治っただけで、火にそんな力があるはずがない」。この人はたちまち顎のあたりが痒くなり、翌日には瘻が元通りになった。後に梁が火徳によって興った。
文恵太子が東田を建てた時、人々は反対して言った、「後には必ず癲童(狂った子供)が現れるであろう」と。果たして皇太孫が位を失うこととなった。
斉・宋以来、民間で「擾攘建武上」という言葉があった。明帝の初め、藩王や外戚を誅害し、京師は危険で恐れおののいた。
斉と宋の交替の際、民間に「和起」という言葉があった。和やかな顔色で変事が起こるという意味である。後に和帝が立った。
崔慧景が台城を包囲した時、五色の幡が一つ、雲中を飛翔し、半日して見えなくなった。人々は皆驚き怪しみ、互いに言った。「幡というのは、事がすぐに覆されることを尋ねるものだ」。数日して慧景は敗れた。
言伝に曰く。「言気が傷つけば民は口舌が多くなり、故に口舌の病がある。金は白であるから、故に白い災いがあり、もし白いものが悪い兆しとなる」。
水は北方に属し、万物を冬に蔵する、気は至陰である。宗廟祭祀の象である。死者の精神が放たれて帰らない(者)があるため、そのために廟を設けて散逸を収め、その容貌を設けて魂神を収め、孝子が礼を尽くすことができるのである。敬いが極まれば、神はそれを饗う。これにより至陰の気が従うと、水気は溝や水路に従って流れ去り、民の害とならない。人君が祈祷祭祀を行わず、宗廟を簡略化し、祭祀を廃し、天時に逆らえば、霧水が突然湧き出し、川水が逆流して溢れ、邑を壊し郷を越え、民人を沈め溺れさせる。故に水は下を潤さずという。
四年、大水があった。
永明五年の夏、呉興郡・義興郡で水雨が作物を損なった。
六年、呉興郡・義興郡の二郡で大水があった。
荊州城内に沙池があり、常に水が漏れていた。蕭穎冑が長史となると、水は漏れなくなった。穎冑が亡くなると、再び枯渇した。
伝に曰く。「極陰の気が動くため、魚の妖がある。魚の妖とは、常に寒さによる罰の符である」。永明九年、塩官県石浦に海魚が潮に乗って来て、水が引いて帰れなくなり、長さ三十余丈、黒色で鱗がなく、まだ死んでおらず、声は牛のようであった。土地の人はこれを海鷰と呼び、その肉を取って食べた。
伝に曰く、「聡明でない兆しが現れると、妖が耳に生じ、類をもって互いに動く。故に鼓妖があるという」。一説には、声は鼓妖に属する。
伝に曰く、「皇が極まらない、これを不建という。その咎は蒙昧で聴くことを失うことにある。故にその咎は蒙である。思心の咎もまた霧である。天は万物の始まりを正し、王者は万事の始まりを正す。中を失えば天気を害し、類をもって互いに動く。天は下で転じ上で運び、雲は山に起こって天に満ちる。天気が動けばその象が応じる。故にその罰は常に陰である。王者が中を失い、臣下が盛んに強くなり、君の明を蔽うと、雲陰もまた衆多となり天光を蔽う」。
建元四年(482年)十月丙午の日、日が入った後、土霧が勃勃として火煙のようであった。
永明六年(488年)十一月庚戌の日、丙夜に土霧が天を覆い、暗く塞がれ濃厚で、六日の未時になって少し晴れ、甲夜になってもなお濃密で、勃勃として火煙のようであり、辛く惨たらしく人の眼鼻に入った。
永明八年(490年)十月壬申の日、夜に土霧が天を覆い、濃厚で勃勃として火煙のようであり、気が人の眼鼻に入り、九日の辰時になって晴れた。
永明九年(491年)十月丙辰の日、昼夜を通じて常に昏い霧が勃勃として火煙のようであり、その気は辛く惨たらしく人の眼鼻に入り、日に赤黄色を帯び、四日の甲夜になって晴れた。
永明十年(492年)正月辛酉の日、酉の初めに四方から土霧が勃勃として火煙のようであり、その気は辛く惨たらしく人の眼鼻に入った。
伝に曰く、「易に『乾は馬となる』とある。天気に逆らえば、馬が多く死ぬ。故に馬禍があるという」。一説には、馬は兵の象である。寇戎の事あらんとすれば、故に馬が怪となる。
建武四年(497年)、王晏が出て草市に至った時、馬が驚いて走り、鼓歩が車に従って帰った。十余日後、王晏は誅殺された。
建武年間(494-498年)、南岸に一頭の蘭馬がおり、路上の女子を走って追いかけ、女子は窮地に陥り、人家の床下に走り入ってこれを避けたが、馬は終に諦めず、床を発いて女子の股脚の間の肉をことごとく食い尽くした。禁司がこれを聞き、勅命でこの馬を殺した。この後、頻りに寇賊があった。
京房の易伝に曰く、「子を生んで二つの胸以上あれば、民その主を謀る。三つの手以上あれば、臣その主を謀る。二つの口以上あれば、国は兵をもって驚かされるを見る。三つの耳以上あれば、これを多聴といい、国事定まらず。二つの鼻以上あれば、国の主久しく病む。三つの足三つの腕以上あれば、天下に兵あり」。その類は甚だ多く、象をもって占うものである。
永明五年、呉興郡東遷県の住民である呉休の家の女性が双子を産み、胸から下、へそから上が合体していた。
京房の易伝に言う。「野獣が邑に入るは、その邑大いに虚なり」。また言う。「野獣が故なくして邑の朝廷の門及び宮府の中に入る者は、邑逆にして且つ虚なり」。
永明年中、南海王蕭子罕が南兗州刺史であった時、麞が広陵城に入り、井戸に落ちて死んだ。また象が広陵に来たことがあった。その後、刺史の安陸王蕭子敬が任地で殺害された。
建武四年の春、郊祀のため円丘を整備し、前夜の設営がすでに完了した時、夜中に虎が人を襲って傷つけた。
建武年中、鹿が景皇帝(蕭道生)の廟に入ったことがあった。これらは皆、君主の崩御や禅譲による王朝交代の前兆であった。凡そ占いの対象とならない事象は、いずれも本伝に応じるものではない。