巻19

南齊書

巻十九 志第十一

五行志の木の伝に言う。「東方は、易経では地上の木を観卦とし、ゆえに木は人においては威儀容貌である。木は春の生気の始まりであり、農の根本である。農時を奪わず、民に年に三日を超える労役を課さず、十分の一の税を行い、貪欲な謀りごとがなければ、木気は従う。もし人君が威儀を失い、木の行いに逆らい、田猟に馳せ回って宮室に戻らず、飲食に沈溺して礼制を顧みず、出入りに度を失い、多くの徭役を発して民の時を奪い、奸詐をなして民の財を奪えば、木はその性を失う。工匠が輪や矢を作るのに多く傷つき敗れるため、木が曲直をなさないというのである。」

宋の泰 元年、京師の祇垣寺の皂莢樹が枯死した。昇明の末、忽然と再び花葉を生じた。京房の易伝に言う。「樹が枯れて冬に生ずれば、二年を出でずして国喪し、君子亡ぶ。」その占いは同じである。宋氏が位を禅譲した。

建元元年、朱爵航の華表柱が枝葉を生じた。

建元初年、李の子実が毛を生じた。

二年、武陵の沅頭都尉の治所に桑の樹があり、冬に葉を生じた。京房の易伝に言う。「木が冬に花を生ずれば、天下に喪あり。」その占いは同じである。後二年、宮車晏駕した。

四年、巴州城西の古楼の脚の柏柱が数百年を経て、忽然と花を生じた。

永明六年、石子崗の柏木が長さ二尺四寸、幅四寸半、石に化した。時に車駕がしばしば遊幸した。本伝の木がその性を失うことに応じたのである。

永明年間、大航の一舶が故なくして自ら沈み、艚中に水はなかった。

隆昌元年、廬陵王蕭子卿の斎屋の梁柱の際から故なくして血が出た。

建武初年、始安王蕭遙光が廟を造営する際、東安寺の屋を截って廟垣を直し、梁を截ると、水が涙のように流れ出た。

五行志の貌の伝に言う。「威儀の制を失い、怠慢驕恣なるを狂と謂い、すなわち肅ならざるなり。下敬せざれば、則ち上に威なし。天下既に敬せず、又其の驕恣を肆う。肆うれば則ち従わず。夫れ其の君を敬せず、其の政に従わざれば、則ち陰気勝つ。故に厥の罰常雨と曰う。」

永明八年四月、己巳より陰雨が起こり、昼は時に暫く晴れたが、夜は時に星月を見、雨が連なり霖雨が積もり、十七日になってやっと止んだ。

十一年四月辛巳朔、去る三月戊寅より起こり、その間暫時晴れたが、四月一日よりまた陰雨となり、昼は時に日を見、夜は突然月を見、陰雨に戻り覆って、七月になってやっと止んだ。

永泰元年十二月二十九日に雨が降り、永元元年五月二十一日になってようやく晴れた。京房の占いによると、「冬に雨が降れば、天下に飢饉が起こる。春に雨が降れば、小規模な戦乱がある」という。この時、敵が雍州を侵し、その他の応兆は本伝に記されている。

伝に言う。「大雪が降るのは、通常の雨と同じく庶徴(兆し)の一つであるが、それよりも甚だしいものである。雨は陰である。大雪が降るのは、陰の蓄積が甚だしいためである。一説には、大水と同じ象徴であり、攻撃が雪となって現れるのだという」。

建元二年閏月己丑、雪が降った。

三年十一月、雪が降り、あるいは曇り、あるいは薄暗く、八十余日続き、四年二月になってようやく止んだ。

伝に言う。「雷は天地において長子であり、万物を先導し、それとともに出入りするので、雷が出れば万物が出、雷が入れば万物が入る。雷は人君の象徴であり、入れば害を除き、出れば利を興す。雷の微かな気は正月に出て、音を発するものは二月に出て、八月に入る。その他の微かなものは九月に入る。冬の三か月に雷が出ないのは、もし陽が陰を閉じ込めなければ、危難に陥って万物を害することになるからである」。

建元元年十月壬午、夜に電光が走り、雷鳴がとどろいた。

十一月庚戌、電光が走り、しばらくして雷鳴がとどろき、長く続いて止んだ。

永明五年正月戊申、夜に西北で雷鳴がした。

六年十月甲申、夜に薄暗く小雨が降り、西北の上空で雷鳴が聞こえ始めた。

七年正月甲子、夜に薄暗く、西南の坤宮で雷鳴がとどろき、轟然と一声で止んだ。

八年正月庚戌、夜に坎宮の水門から雷が起こり、その音は轟々と一声で止んだ。

九年二月丙子、西北に電光があり、雷鳴が轟々と聞こえ、さらに十声続いて止んだ。

十年二月庚戌、夜に南方に電光があり、雷鳴が轟々と続いて聞こえ、丁亥に止んだ。

十月庚子、電光と雷鳴が西北から起こった。

十一月丁丑、西南に光があり、雷鳴が微かに聞こえ、二声で止んだ。西南の坤宮である。

十二月甲申の日、陰雨が降り、電光があり、それに伴って西南および西北の方角で雷鳴が聞こえ、三声続けて頻繁に鳴った。

丙申の日、夜に西北の方角で雷が頻繁に二声続けて鳴った。

辛亥の日、雷雨があった。

伝に言う:「雨や雹は、君臣の象徴である。陽の気が専ら雹となり、陰の気が専ら霰となる。陽が専らで陰がこれを脅かすと、陰が盛んで陽がこれを薄める。雹は、陰が陽を薄める象徴である。霰は、陽が陰を脅かす符である。春秋が霰を記さないのは、月食と同じである。」

建元四年五月戊午の朔日、雹が降った。

永明元年九月乙丑の日、蒜の実ほどの大きさの雹が降り落ち、しばらくして止んだ。

十一年四月辛亥の日、蒜の実ほどの大きさの雹が降り落ち、しばらくして消えた。

貌伝にはまた言う:「上(君主)が節度を失って狂い、下(臣下)が怠慢で敬わず、上下が道を失い、法を軽んじて制度を侵し、君上を顧みないため、それによって飢饉が繰り返し起こる。貌の気が毀損されるので、鶏の災いがある。」一つには言う:「水の年に鶏が多く死に、あるいは怪異となるのも、これである。上下が互いに信じず、大臣が奸宄をなし、民が寇盗となるので、その極みは悪であると言う。」一つには言う:「民が多く刑罰を受け、あるいは形貌が醜悪で、風俗が狂慢で、節度を変え法度を改めると、軽薄で奇怪な服装となるので、時に服妖があると言う。」

永明年中、宮内で服用した射猟の錦文は、騎射と兵戈の象徴であった。建武初年に至り、虜が大いに寇となった。

永明年中、蕭諶が博風帽の後裠の制を開き、破後帽とした。世祖が崩御した後、蕭諶は廃立を建策し、諸王を誅滅した。

永明末、民間で倚勸帽を制作した。海陵王が廃され、明帝が立つと、勧進の事は、倚って立つことを待つばかりであった。

建武年中、帽の裠が頂を覆った。東昏侯の時、裠は下にあるべきなのに、今は上にあるのは不祥であるとして、断ち切った。これは臣下が上に反する象徴である。

永元年中、東昏侯が自ら遊宴の服を造り、花や采の錦繡を綴じたが、詳しくは分からない。群小がまた四種の帽を造り、帽はその形勢によって名付けられた。一つは「山鵲帰林」と言い、詩に「鵲の巣は、夫人の徳」とあるが、東昏侯が寵嬖して淫乱であったので、鵲がその林藪に帰るという。二つは「兔子度坑」と言い、天意は天下に逐兔の事があるであろうと言う。三つは「反縛黄離嘍」と言い、黄離嘍は黄口の小鳥で、反縛は面縛の応である。四つは「鳳凰度三橋」と言い、鳳凰は嘉瑞であり、三橋は梁王の宅のあった所である。

貌伝にはまた言う:「危乱の端が見えると、天地の異変が生じる。木は青いので、青眚と言い、悪い兆しとなる。凡そ貌が傷つくのは、金が木を沴し、木が金を沴し、衝気が相通じるためである。」

延興元年、海陵王が初めて立った時、文恵太子の冢の上に人のような物があり、長さ数丈、青色で、まっすぐ天に上り、雷のような音がした。

火は南方に配当され、光輝を発揚し、炎と焔を出して明るさをなすものである。君主が明るい方向に向かって政治を行うのは、この象を取ったものである。人を見抜くことを職分とし、讒言や巧言を弄する者を遠ざけ、多くの賢者が官位にあれば、それは明るく火の気が従う状態である。君主が疑い惑い、法律を捨て、讒言と邪悪を誅殺しないと、讒言の口が横行し、内では骨肉の間を引き裂き、外では忠臣を疎んじ、ついには世子を殺し、功臣を追放し、妾を妻とするに至れば、火はその本性を失い、上は宗廟に災いをもたらし、下は府庫や楼閣に災いをもたらし、内は朝廷を焦がし、外は宮門や楼観を焦がし、たとえ大軍を起こしても救うことができない。

永明三年正月、甲夜(午後7時から9時)に西北に野火があり、火の上に精(怪しい光)が生じ、西北に四つ、東北に一つ、いずれも長さ七八尺、黄赤色であった。

三月庚午、丙夜(午後11時から午前1時)に北面に野火があり、火の上に精が生じ、長さ六尺、戊夜(午前1時から3時)にまた一つあり、長さ五尺、いずれも黄赤色であった。

四年正月丁亥、夜に火精が三か所あった。

閏月丁巳、夜に火精が四か所あった。

十二月辛酉、夜に東南に野火精が二つあった。

五年十二月丙寅、夜に西北に野火があり、火の上に精が生じ、一つ、長さ三尺、黄白色であった。

六年十一月戊申、夜に西南及び北の三面に野火があり、火の上に精が生じ、九つ、いずれも長さ二尺、黄赤色であった。

九年二月丙寅、甲夜(午後7時から9時)に北面に野火があり、火から精が生じ、二つ、西北にまた一つ、いずれも長さ三尺、しばらくして消えた。

永元二年八月、宮内で火災があり、西斎の璿儀殿および昭陽殿、顕陽殿などの殿舎を焼き、北は華林の垣に至り、西は秘閣に及び、合わせて三千余間の建物を焼いた。京房の易伝に言う、「君主が道を思わなければ、その妖は火が宮殿を焼く」。秘閣の火災は春秋時代の宣榭の火災と同じであり、天の意思は言うようである、すでに綱紀がないのに、どうして典籍や文書を用いようか、と。

二年の冬、都の民間で互いに驚き伝えて言うには、火災が起こるはずだ、と。南岸の家々ではしばしば垣根の間に布で火を包んだものを見つけ、公家がこれで災いを祓うのだと言った。

三年正月、 章郡で天火が三千余家を焼いた。京房の易占に言う、「天火が下って民家を焼くのは、これを乱れた政治が兵を殺して起こるという」。この年、朝廷軍と義師の一部の兵士が南江の諸郡で互いに攻撃し合った。

三年二月、乾和殿の西廂で火災があり、三十間の建物を焼いた。この時、西斎がすでに焼けた後で、帝は東斎に移り住んでいたが、それは高宗(明帝蕭鸞)がかつて住んだ殿であった。宮殿を焼く占いと同じである。

伝にまた言う、「上を犯す者を誅殺しないと、草が霜に犯されても死なない。あるいは時を違えて殺すことがあり、事は生殺の権柄を失うことにある。故に草の妖という」。一説に、「草の妖とは、衆を失う象徴である」。

永元年間、御刀の黄文済の家の斎前(書斎の前)に植えていた昌蒲が、突然花を咲かせ、その光と影が壁に映って五采(五色)を成した。彼の子供だけがそれを見て、他の人は見なかった。間もなく、文済は殺害された。

劉歆は五行伝に羽虫の孽があると見て、鶏禍であると言った。班固は易を案じると鶏は巽に属し、今では羽虫の孽の類としているのはこれであり、劉歆の説に依拠して五行伝に附すという。

建武二年、大きな鳥が建安に集まり、形は水牛の子のようであった。その年、郡は大水に見舞われた。

三年、大きな鳥が東陽郡に集まり、太守の沈約が上表して言った:「鳥の身体は五色を備え、赤色が多くを占めている。」楽緯叶図徵を案ずると、「焦明鳥は質が赤く、至れば水の感である」とある。

永明二年四月、烏が内殿の東の鴟尾に巣を作った。

三年、大きな鳥が会稽上虞に集まった。その年、県は大水に見舞われた。

伝に言う:「水が火を害する。」また言う:「赤い災い、赤い祥瑞。」

建武四年、王晏の子の徳元の住む帷屏に、理由なく血が振りかかり、数日で散った。〔王晏はまもなく誅殺された〕。

思心伝に言う:「心は土の象である。思心が聡明でないと、その過ちは目がくらみ乱れて紀を失うことにある。風が陽にあるときは君主の象であり、陰にあるときは大臣の象であり、専横で気が盛んなため、罰は常に風である。心は五事の主であり、土が五行の主であるのと同じである。」一説に言う:「陰陽が互いに迫り、偏った気で陽が多いと風となり、その甚だしいときは常風となる。陰気が多い者は、陰で雨が降らず、その甚だしいときは常陰となる。」一説に言う:「風が夜に起こり昼が暗くなるのは、常陰と同じ象に応じるためである。」

建元元年十一月庚戌の日、風が夜に暴れ起こり、雲雷が合わさって暗くなり、戌亥の方角から来た。

四年十一月甲寅の日、酉の刻に風がやや強く起こり、二更に雪が降り、風が転じて激しくなった。

永明四年二月丙寅の日、巳の刻に風が急速に強まった。十一月己丑の日、戌の刻に風が急速に強まり、西北の戌亥の方角から来た。

五年五月乙酉の日、子の刻に風が急速に強まり、西北の戌亥の方角から来た。

七年正月丁卯の日、陽徴陰賊の日に、時は子を加え、風が急速に起こり、北方の子丑の方角から来て、暴れ疾く激しく、寅の刻に止んだ。

八年六月乙酉の日、〔時〕に子を加え(時)、風が急速に起こり、暴れ疾く激しく、屋を発し木を折り、塵砂が舞い、西南の未の方角から来て、雷雨に因り、しばらくして、風は微かになり雨は止んだ。

九年七月甲寅の日、陽羽廉貞の日に、時は亥を加え、風が急速に起こり、東方から来て、暴れ疾く澎湃として激しく、乙卯の陰賊の時に至って次第に微かになり、名は羽が羽を動かすという。

九月乙丑の日、未の刻に、雷鳴があり、驟雨が降り、風が西北の戌の方角から急に起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗った。

十月壬辰の日、陽羽の姦邪の日に当たり、丑の刻に、風が北方の子・丑の方角から起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、迅急で、塵埃が舞い、五日目の寅の刻に次第に弱まった。これを羽が宮を動かすという。

十年正月辛巳の日、陽商の寛大の日に当たり、寅の刻に、風が西北の方角から起こり、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、迅急で、砂を巻き上げ木を折り、酉の刻に止んだ。

二月甲辰の日、陽徴の姦邪の日に当たり、辰の刻に、風が急に起こり、西北の亥の方角から来て、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、酉の刻に止んだ。

三月丁酉の日、陽徴の廉貞の日に当たり、未の刻に、風が北方の子・丑の方角から起こり、迅急で、激しく吹き荒れ、波が岸を洗い、戌の刻に止んだ。

七月庚申の日、陰角の貪狼の日に当たり、午の刻に、風が東北の丑の方角から起こり、迅急に波が岸を洗い、辛酉の日の巳の刻に次第に弱まった。

十一年二月庚寅の日、陽角の廉貞の日に当たり、亥の刻に、風が西北の亥の方角から起こり、迅疾に波が岸を洗い、丑の刻に次第に弱まった。これを角が角を動かすという。

七月甲寅の日、陽羽の廉貞の日に当たり、巳の刻に、風が東北の寅の方角から起こり、迅疾に波が岸を洗い、屋根を吹き飛ばし木を折り、戊夜に次第に弱まった。これを羽が徴を動かすという。己巳の日、陽角の寛大の日に当たり、未の刻に、風が戌の方角から起こり、激しく吹き荒れ、しばらくして止んだ。これを角が商および宮を動かすという。

およそ、時を選ばずに風が吹き荒れるのは、陰陽が互いに迫り合っている疑いがある。

建武元年三月乙酉の日、未の刻に風が起こり、波が岸を洗い激しく吹き荒れ、北方から来た。これは本伝に記された混乱に応じたものである。

建武二年、三年、四年、毎年秋の七月、八月になると、大風が吹き、三呉の地で特にひどく、屋根を吹き飛ばし木を折り、人を殺した。京房の占いによれば「獄吏が暴虐で、風が人に害をなす」という。この時、帝は厳格で苛烈であった。

永元元年七月十二日、大風が吹き、都の十囲もある大木や官庁・民家の屋根がすべて倒された。これは本伝に応じたものである。

伝にまたこうある。「山は地において、君主の象徴である。山が崩れるのは、君主の権威が損なわれ、都の丘陵が場所を変え、世の中が変わろうとしていることである。陵が沢に変わるのは、貴人が賤人になることである。」

建元二年の夏、廬陵郡石陽県の長い溪流が山麓を激しく洗い、崩壊させた。長さ六七丈で、その下から千本余りの柱が出土した。いずれも十囲あり、長いものは一丈、短いものは八九尺で、頭部に古代文字が記されていたが、識別できなかった。江淹が王儉に問うたところ、王儉は言った。「江東では隷書に詳しくないが、これは秦漢時代の柱である。」後年、宮車(天子の乗り物)が晏駕(天子の崩御)し、世の中が変わる象徴であった。

永明二年の秋、始興郡曲江県で山が崩れ、底の溪流を塞き止めて陂(ため池)を形成した。京房の占いによれば「山が崩れるのは、人主(天子)がこれを忌み嫌うことである。」

伝にまた言う、「雷電が撃つのは、およそ感じるところによるものである。すべては思心に過ちがあることによって引き起こされるのである」。

建元二年閏六月丙戌の日、戊の刻に雷電が鳴った。

四年五月五日、雲と雹が都を暗くし、雷が楽遊安昌殿を震わせ、電火が焼き尽くした。

永明八年四月六日、雷が鳴り、会稽山陰の恒山保林寺の塔の頂上が四つに破れ、電火が塔を焼き、下の仏面の窓や戸は変わらなかった。

永明年間、雷が東宮の南門を震わせたが、損傷・破壊はなく、食官一人を殺した。

十一年三月、東斎で雷が鳴り、棟が崩れた。左右の者がひそかに修繕しようとしたが、竟陵王の子良は言った、「これはどうして修繕できようか、残して私の過ちを記し、かつ天が私を愛していることを示そう」。翌年、子良は 薨去 こうきょ した。

伝にまた言う、「土気が乱れるのは、木・金・水・火がそれを乱すからである」。

建武二年二月丁巳の日、地震があった。

永元元年七月、地が一日に十八回震えた。

九月十九日、地が五回震えた。

金は西方に属し、万物が既に成り、殺気の始まりである。それが王事においては、兵戎戦伐の道である。王者が師を興し衆を動かし、旗鼓を立て、旄を仗し鉞を把って、残賊を誅し、暴乱を止め、殺伐が義に応ずるならば、金気は従う。工匠が鋳造し変化させ、形を革めて器とするのである。人君が侵陵を好み、攻戦を楽しみ、城邑を貪り、百姓の命を軽んじ、人民が安らかでなく、内外が騒動するならば、金はその性を失う。およそ鋳造が化せず、氷のように滞り固く堅くなるので、金は革に従わないと言い、また木が金を害すると言うのである。

建武四年、明帝が旧宮から出て 章王の第二女綏安主を降嫁のため見送り、輦に戻ったとき、輦上の金翅が理由なく自ら折れて地面に落ちた。

言伝に曰く、「言は易の道で、西方は兌といい、口を表す。人君が過差無度で、刑法が一様でなく、徴収が重いものに従い、あるいは師旅があり、炕陽の節があり、もし衆を動かし民を労するならば、これが言が従わないことである。人君が既に衆を失い、政令が従われず、孤陽が治めを維持し、下が君の重刑を畏れると、陽気が勝てば旱の象が至る。故に厥罰常陽と言うのである」。

建元三年、大旱があり、その時は虜寇があった。

永明三年、大旱があり、翌年、唐㝢之が蜂起した。

建武二年、大旱魃が起こった。当時、敵の侵攻がちょうど盛んであり、いずれも民衆を動員したことの応報であった。

言伝えに曰く、「下民は君主の行いを悲しみ苦しむとともに、厳しい刑罰を恐れて正しいことを言えず、必ずまず歌謡に現れる。歌謡は口の事である。口の気が逆らえば悪い言葉となり、あるいは奇怪な謡が生じる」という。

宋の泰始年間に彭城を失ってから、江南に初めて消梨という品種が伝わり、以前には無かったもので、百姓は争って植えようとした。識者は言った、「姓が蕭の者が来るであろう」と。十数年後、斉が禅譲を受けた。

元徽年間、童謡に曰く、「襄陽の白銅蹄、郎が荊州の児を殺す」。後に沈攸之が反乱を起こし、雍州 刺史 しし の張敬児が江陵を襲撃し、沈攸之の子の元琰らを殺した。

永明元年の元日、小人が白虎樽を開け、酔った状態で筆と紙を与えられたが、何を言っているのか分からず、ただ「高帝を思い出す」と言った。 詔 によりその罪を赦された。

世祖が青溪の旧宮を建てた時、人々は反対して言った、「旧宮とは、窮した厩舎である」と。そして帝が崩御した後、宮人たちがそこに出て住んだ。

永明初年、百姓の歌に曰く、「白馬が城に向かって啼き、城辺りの草を得んと欲す」。後の句の間に「陶郎来たる」とある。白は金色、馬は兵事を表す。三年、妖賊の唐㝢之が起こり、唐が来て労するという意味である。

世祖が禅霊寺を建てて完成した時、百姓が自由に見物したが、ある者が言った、「禅とは授けることであり、霊は美しい名ではない。授けられる者は必ずその人を得ないであろう」。後に皇太孫が立てられ、廃位された。

永明年間、宮内で座って御食以外のものは、全て客食とされた。世祖は客という名が家族の者ではないとして、別食と呼ぶように改めたが、当時の人々はこれが分離の兆しだと考えた。間もなく、帝は崩御した。

文恵太子が東宮にいた時、両頭纎纎の詩を作り、後の句に「磊磊落落たる玉山崩る」とあった。これ以降、年長の王や宰相が相次いで 薨去 こうきょ し、二宮(皇帝と皇太子)が崩御した。

文恵太子が七言詩を作ると、後の句に必ず「愁和諦」とあった。後になって果たして和帝が禅位した。

永明年間、敵国で童謡が歌われた。「黒い水は北に流れ、赤い火は斉に入る」。間もなく京師の家で突然火が生じ、普通の火より赤く、熱さは小さく微かで、貴賤を問わず争って取り、病気を治そうとした。方法はこの火で桃の板を七回灸し、七日で皆治った。 詔 で禁止されたが、断つことはできなかった。京師に瘻病の者がおり、火で数日灸して治った。隣人が笑って言った、「病気がたまたま自然に治っただけで、火にそんな力があるはずがない」。この人はたちまち顎のあたりが痒くなり、翌日には瘻が元通りになった。後に梁が火徳によって興った。

文恵太子が東田を建てた時、人々は反対して言った、「後には必ず癲童(狂った子供)が現れるであろう」と。果たして皇太孫が位を失うこととなった。

斉・宋以来、民間で「擾攘建武上」という言葉があった。明帝の初め、藩王や外戚を誅害し、京師は危険で恐れおののいた。

永元元年、童謡に曰く、「洋洋たる千里の流れ、流れ 翣 東城の頭。烏馬に烏皮の袴、三更に相告訴す。 腳跛 にして起つを得ず、誤って老姥の子を殺す」。千里の流れとは江祏である。東城は蕭遙光である。遙光が夜に挙事した時、垣歴生という者が烏皮の袴褶を着て駆けつけた。跛腳もまた遙光を指す。老姥の子は孝の字の象で、徐孝嗣である。

永元年間、童謡にこう歌われた。「野猪は嗃嗃と鳴くも、馬子は閭渠に空しく。龍と虎を知らず、江南の墟に飲食す。七九六十三、広莫の人余り無し。烏は伝舎の頭に集い、今汝は寛休を得たり。但だ三八の後を見よ、景陽楼を摧折す」。識者は「陳顕達は猪に属し、崔慧景は馬に属す」と解釈したが、それは誤りである。東昏侯は猪に属し、馬子は未詳、梁王は龍に属し、蕭穎冑は虎に属す。崔慧景が台城を攻撃し、広莫門に頓挫して死んだ時、年は六十三であった。烏が伝舎に集まるとは、いわゆる「瞻烏爰止、于誰之屋(烏を見よ、いずくに止まらん、誰が家の屋根に)」である。三八二十四、建元元年から起算し、中興二年まで、二十四年である。景陽楼を摧折するとは、また高台が傾く意味でもある。天下が去らんとする時に、ようやく休息を得るというのである。

斉と宋の交替の際、民間に「和起」という言葉があった。和やかな顔色で変事が起こるという意味である。後に和帝が立った。

崔慧景が台城を包囲した時、五色の幡が一つ、雲中を飛翔し、半日して見えなくなった。人々は皆驚き怪しみ、互いに言った。「幡というのは、事がすぐに覆されることを尋ねるものだ」。数日して慧景は敗れた。

言伝に曰く。「言気が傷つけば民は口舌が多くなり、故に口舌の病がある。金は白であるから、故に白い災いがあり、もし白いものが悪い兆しとなる」。

宋の昇明二年、建康県南塘里に暴風が起こり、絹布一匹を吹き上げて雲の中に入れ、風が止むと、御路に落下した。紀僧真が太祖に啓上したところ、宋氏に禅譲する者がおり、それは匹夫が居を占めることになるという。

水は北方に属し、万物を冬に蔵する、気は至陰である。宗廟祭祀の象である。死者の精神が放たれて帰らない(者)があるため、そのために廟を設けて散逸を収め、その容貌を設けて魂神を収め、孝子が礼を尽くすことができるのである。敬いが極まれば、神はそれを饗う。これにより至陰の気が従うと、水気は溝や水路に従って流れ去り、民の害とならない。人君が祈祷祭祀を行わず、宗廟を簡略化し、祭祀を廃し、天時に逆らえば、霧水が突然湧き出し、川水が逆流して溢れ、邑を壊し郷を越え、民人を沈め溺れさせる。故に水は下を潤さずという。

建元二年、呉郡・呉興郡・義興郡の三郡で大水があった。

二年の夏、丹陽郡・呉郡の二郡で大水があった。

四年、大水があった。

永明五年の夏、呉興郡・義興郡で水雨が作物を損なった。

六年、呉興郡・義興郡の二郡で大水があった。

建武二年の冬、呉郡・晋陵郡の二郡で水雨が作物を損なった。

永元元年七月、波濤が石頭城に入り、淮水沿いの住民を漂流させて殺した。本伝に応ずる。

荊州城内に沙池があり、常に水が漏れていた。蕭穎冑が長史となると、水は漏れなくなった。穎冑が亡くなると、再び枯渇した。

伝に曰く。「極陰の気が動くため、魚の妖がある。魚の妖とは、常に寒さによる罰の符である」。永明九年、塩官県石浦に海魚が潮に乗って来て、水が引いて帰れなくなり、長さ三十余丈、黒色で鱗がなく、まだ死んでおらず、声は牛のようであった。土地の人はこれを海鷰と呼び、その肉を取って食べた。

永元元年(499年)四月、大きな魚十二頭が会稽郡上虞県の江に入り、大きいものは二十丈余りに近く、小さいものは十丈余りであった。一頭は山陰県の称浦に、一頭は永興県の江に入り、皆岸辺で干上がり、民衆が取って食べた。

伝に曰く、「聡明でない兆しが現れると、妖が耳に生じ、類をもって互いに動く。故に鼓妖があるという」。一説には、声は鼓妖に属する。

永明元年(483年)十一月癸卯の日、夜に天の東北に声がし、戊夜まで続いた。

伝に曰く、「皇が極まらない、これを不建という。その咎は蒙昧で聴くことを失うことにある。故にその咎は蒙である。思心の咎もまた霧である。天は万物の始まりを正し、王者は万事の始まりを正す。中を失えば天気を害し、類をもって互いに動く。天は下で転じ上で運び、雲は山に起こって天に満ちる。天気が動けばその象が応じる。故にその罰は常に陰である。王者が中を失い、臣下が盛んに強くなり、君の明を蔽うと、雲陰もまた衆多となり天光を蔽う」。

建元四年(482年)十月丙午の日、日が入った後、土霧が勃勃として火煙のようであった。

永明二年(484年)十一月己亥の日、四方から土霧が人の眼鼻に入り、辛丑の日まで止んだ。

永明二年(484年)十一月丙子の日、日出後および日入後、四方から土霧が勃勃として火煙のようであった。

永明六年(488年)十一月庚戌の日、丙夜に土霧が天を覆い、暗く塞がれ濃厚で、六日の未時になって少し晴れ、甲夜になってもなお濃密で、勃勃として火煙のようであり、辛く惨たらしく人の眼鼻に入った。

永明八年(490年)十月壬申の日、夜に土霧が天を覆い、濃厚で勃勃として火煙のようであり、気が人の眼鼻に入り、九日の辰時になって晴れた。

永明九年(491年)十月丙辰の日、昼夜を通じて常に昏い霧が勃勃として火煙のようであり、その気は辛く惨たらしく人の眼鼻に入り、日に赤黄色を帯び、四日の甲夜になって晴れた。

永明十年(492年)正月辛酉の日、酉の初めに四方から土霧が勃勃として火煙のようであり、その気は辛く惨たらしく人の眼鼻に入った。

伝に曰く、「易に『乾は馬となる』とある。天気に逆らえば、馬が多く死ぬ。故に馬禍があるという」。一説には、馬は兵の象である。寇戎の事あらんとすれば、故に馬が怪となる。

建武四年(497年)、王晏が出て草市に至った時、馬が驚いて走り、鼓歩が車に従って帰った。十余日後、王晏は誅殺された。

建武年間(494-498年)、南岸に一頭の蘭馬がおり、路上の女子を走って追いかけ、女子は窮地に陥り、人家の床下に走り入ってこれを避けたが、馬は終に諦めず、床を発いて女子の股脚の間の肉をことごとく食い尽くした。禁司がこれを聞き、勅命でこの馬を殺した。この後、頻りに寇賊があった。

京房の易伝に曰く、「子を生んで二つの胸以上あれば、民その主を謀る。三つの手以上あれば、臣その主を謀る。二つの口以上あれば、国は兵をもって驚かされるを見る。三つの耳以上あれば、これを多聴といい、国事定まらず。二つの鼻以上あれば、国の主久しく病む。三つの足三つの腕以上あれば、天下に兵あり」。その類は甚だ多く、象をもって占うものである。

永明五年、呉興郡東遷県の住民である呉休の家の女性が双子を産み、胸から下、へそから上が合体していた。

京房の易伝に言う。「野獣が邑に入るは、その邑大いに虚なり」。また言う。「野獣が故なくして邑の朝廷の門及び宮府の中に入る者は、邑逆にして且つ虚なり」。

永明年中、南海王蕭子罕が南兗州 刺史 しし であった時、麞が広陵城に入り、井戸に落ちて死んだ。また象が広陵に来たことがあった。その後、 刺史 しし の安陸王蕭子敬が任地で殺害された。

建武四年の春、郊祀のため円丘を整備し、前夜の設営がすでに完了した時、夜中に虎が人を襲って傷つけた。

建武年中、鹿が景皇帝(蕭道生)の廟に入ったことがあった。これらは皆、君主の崩御や禅譲による王朝交代の前兆であった。凡そ占いの対象とならない事象は、いずれも本伝に応じるものではない。