巻18

南齊書

巻十八 志第十

天の符瑞と命は、遠く遥かである。霊妙な篇籍と秘められた図録は、もとより金匱に蔵められ石室に満ち、契文と決断を明らかにし、緯書と候文を陳べるが、史冊にはまだ記されていない。天人の期を啓き覚まし、帝王の運を扶け奨める、三五の聖業、神明の大宝、二つの謀りごとが協力して助けることは、これによらないものはない。流火や赤雀は、実際に周の世を記し、彫雲や素霊は、漢の氏に祥瑞を発した。光武の中興には、皇符が盛んであり、魏は当塗の讖を受け、晋には石瑞の文があった。史筆が詳しく記すところも、またただ古い事柄である。斉氏が命を受けたことは、事柄が前の典籍に殷盛である。黄門郎の蘇偘が『聖皇瑞応記』を撰し、永明年中に庾温が『瑞応図』を撰した。その他の多くの品目は、史注に記載されている。今、詳しく記録し取捨して、志とすることとする。

老子河洛讖に曰く、「年曆七七水滅緒、風雲俱起龍麟挙」。宋は水徳の王であり、義熙十四年、元熙二年、永初三年、景平一年、元嘉三十年、孝建三年、大明八年、永光一年、泰始七年、泰 一年、元徽四年、昇明三年、合わせて七十七年である。故に七七という。易に曰く、「雲は龍に従い、風は虎に従う」。関尹子に云う、「龍はその風雲に乗じて天に上るを知らず」。

讖にまた曰く、「肅草成、道德懷書備出身、形法治呉出南京」。上とは即ち姓の諱である。南京とは、南徐州の治所である京口である。

讖にまた曰く、「墥堨河梁塞龍淵、消除水災泄山川」。墥堨河梁は、路となる。路は即ち道である。淵塞とは、路の成ることを譬える。即ち太祖の諱である。水災を消すとは、宋氏の患難を除くことを言う。

讖にまた曰く、「上参南斗第一星、下立草屋為紫庭。神龍之崗梧桐生、鳳鳥舒翼翔且鳴」。南斗第一星は、呉の分野である。草屋は、蕭の字である。また簫管の器は、鳳鳥の翼に象る。

讖にまた曰く、「蕭為二士、天下大楽」。二士は、主の字である。

讖にまた曰く、「天子何在草中宿」。宿は、肅である。

尚書中候儀明篇に曰く、「仁人傑出、握表之象、曰角姓、合音之于」。蘇偘が云う、「蕭は、角姓である。また八音の器に簫管がある」。

史臣が曰く、案ずるに晋の光禄大夫何禎は、音之于を解して曹の字とし、魏氏を指すという。王隠の『晋書』に云う、「卯金音于、亦た魏なり」。候書の章句は、本来詮序がなく、二家の称えるところは、既に前の解釈がある。詳らかでないが、偘の言は何を推拠としたのか。

孝経鉤命決に曰く、「誰者起、視名将」。君は群なり、物を理めることを雄とし、優劣相次いで以て興りを期す。将は、太祖の小諱である。征西将軍蕭思話がこれを見て曰く、「これは我が家の諱である」。

王子年の歌に曰く、「金刀治世後遂苦、帝王昏乱天神怒、災異屢見戒人主、三分二叛失州土、三王九江一在呉、余悉稚小早少孤、一国二主天所駆」。金刀は、劉である。三分二叛は、宋の明帝の世である。三王九江とは、孝武帝が九江で興り、晋安王子勛は終わりを全うしなかったが、また大号を称し、後世祖(武帝)がまた九江に覇迹を基とした。これが三王である。一在呉とは、斉氏の桑梓(故郷)もまた南呉に治所を寄せたことを謂う。一国二主とは、太祖の符運が潜かに興り、宋氏のために寇難を駆除したことを謂う。

歌にまた曰く、「三禾摻摻林茂孳、金刀利刃齊刈之」。刈は、翦(滅ぼす)である。詩に云う、「実に始めて商を翦く」。

歌にまた曰く、「欲知其姓草肅肅。糓中最細低頭熟。鱗身甲体永興福」。糓は、道。熟は、成。また諱である。太祖の体には龍鱗があり、斑駮として文を成し、初めは黒い痣と思われたが、治療を極めても文はますます明らかになった。伏羲もまた鱗身である。

『金雄記』に言う、「金を溶かして刀を作るは龍の里にあり、占い眠る上人相まって起つを須い」と。また云う、「まさにまた作有りて蕭、草に入るべし」と。蕭とは字である。『易経』に云う、「聖人これを作す」と。『記』はまた云う、「草門憐れむべし乃ち当に悴すべく、号を建つ成らず易運沸く」と。『詩経』に云う「時ならず」とは、時である。「成らず」とは、成るである。「号を建つ」とは、元号を建てることである。「易運」とは、革命である。

讖に曰く、「周の文王、命を受く、千五百歳、河雒に聖人出で、己未に命を受け、丙子に至るまで十八周、旅は六郡の東南隅に布き、四国安定して久しく留まるべし」と。案ずるに、周が殷を滅ぼして後七百八十年、秦四十九年、漢四百二十五年、魏四十五年、晋百五十年、宋六十年、建元元年に至って、千五百九年である。

武進県の彭山に、古い墓域がある。その山の岡や丘は数百里にわたって連なり、上には五色の雲気があり、龍が現れた。宋の明帝はこれを憎み、墓相を見る者である高霊文を遣わして占わせた。霊文は先に世祖(蕭賾)と親しかったので、帰ってきて偽って答えて言った、「方伯を超えることはありません」と。退いて世祖に言った、「貴きこと言うべからず」と。帝の心は収まらず、墓の左右で人を遣わして狩りをさせ、長さ五六尺の大鉄釘で墓の四隅を打ち付け、厭勝とした。太祖(蕭道成)は後に表柱を立て替えたが、柱が突然龍のように鳴き、響きは山谷を震わせ、父老たちは皆これを記憶していたという。

会稽郡剡県の刻石山は、名が伝わるが、文字の所在は知られていなかった。昇明の末、県民の児襲祖が狩りをしていたところ、突然石の上に文字が三か所あるのを見た。苔がその上に生え、字は読めなかった。苔を削り取ると、大石の文は「この斉なる者は、黄公の化気なり」とあった。立石の文は「黄天星、姓は蕭、字は某甲、賢帥を得て、天下太平」とあった。小石の文は「石を刻む者は誰ぞ、会稽南山の李斯、秦望の封を刻むなり」とあった。

益州の斉后山は、父老が伝えるところでは、その名の由来もわからない。昇明三年、沙門の玄暢がこの山の丘に精舎を建立した日は、太祖が禅譲を受けた日であった。

嵩高山で、昇明三年四月、 滎陽 けいよう の人尹午が山の東南の澗で天から石が降るのを見た。地に墜ちて石が割れ、その中に璽があった。三寸四方で、その文は「戊丁の人と道と倶にし、蕭然として草に入り天符に応ず」とあった。また「皇帝、運を興す」とあった。尹午は璽を奉じて雍州 刺史 しし の蕭赤斧のもとに赴き、蕭赤斧はこれを献上したと上表した。

史臣が案ずるに、昔、大人が臨洮に現れて銅人が鋳造され、臨洮に董卓が生まれて銅人が毀損された。董卓があって世は乱れ、世が乱れて董卓は亡んだ。似たようなことがある。晋の末に嵩高山から玉璧三十二個が出現し、宋はこれを受命の祥瑞とした。今、この山から璽が出たが、水徳が衰えると言われ、終始の徴兆もまた類似している。

元徽四年、太祖が南郊の祭りに従った時、望気者の陳安宝が太祖の身上から黄紫の気が天に属するのを見た。安宝は親しい者である王洪範に言った、「私は幼少の頃から軍の上にこのような気を見たことがない」と。

太祖が十七歳の時、夢に青龍が西へ向かって日を追い、日が山に迫ろうとする時に止まった。目覚めて恐れをなした。家人が占い師に尋ねると、「至貴の象である」と言った。蘇偘は言う、「青は木の色。日が暮れるとは、宋氏の末運である」と。

泰始七年、明帝は前淮南太守の孫奉伯を淮陰に遣わして元会を監視させた。奉伯は太祖と同床して寝たが、夢に上が龍に乗って天に昇り、下から龍の足を掴もうとして得られなかった。目覚めて太祖に言った、「兗州は大いに生民を庇うべきであるが、 弟 はそれを見ないだろう」と。奉伯は宋のうちに亡くなった。

清河の崔霊運が上府参軍であった時、天帝が自分に言う夢を見た。「蕭道成は我が第十九子である。私は去年、既に彼に天子の位を授けた」と。三皇五帝から斉の受命の君主に至るまで、ちょうど十九人である。

宋の泰始年間、童謡に「東城より天子出ず」とあったので、明帝は建安王劉休仁を殺した。蘇偘は言う、「後に従帝(順帝)が東城から即位したので、論者はこれに応じたと言うが、実は武進県の上(蕭道成)が住む東城里のことである」と。熊襄は言う、「上の旧郷に大道があり、伝えられるところでは秦の始皇が通った道で、『天子路』と呼び、後に帝郷となった」と。案ずるに、従帝は実際には擁立されたのであり、晋の懐帝・愍帝のようであり、また徴符もあった。斉の運が既に無くなり、巡幸の路の名は、あるいは秦の旧いものかもしれないが、疑わしくて詳らかにできない。

世祖が十三歳の時、全身に毛が生え、髪が足まで生える夢を見た。また、人が自分の踏んでいる土地を指して「周文王の田」と言う夢を見た。また、虚空を飛ぶ夢を見た。また、孔雀の羽衣を着る夢を見た。庾温は言う、「雀は爵位である」と。また、鳳凰が天から飛び下りて青溪の宅の斎の前に来て、両翼が十余丈離れ、翼の下に紫の雲気がある夢を見た。また襄陽にいた時、桑の木履を履いて太極殿の階を渡って行く夢を見た。庾温は言う、「木履は、運が木に応じるものである」と。臣が案ずるに、桑の字は四十に二点であり、世祖はこの年齢を過ぎて帝位に即いた。木履を履くことを木行とするのである。木履には二つの歯があり音がする。これは明らかに二つの歯が四十二に至って行い、真の天子となることである。また 郢州 にいた時、人が天から飛び下りて来て、頭に筆を挿し、上衣の両側を描いて、言わずして去る夢を見た。庾温は解釈して言う、「描くとは、山・龍・華・虫である」と。

世祖は宋の元嘉十七年六月己未の夜に生まれた。火がなく、婢が灰を吹くと火が自然に燃えた。

世祖が南康郡内で伎楽を行った時、弦楽器はあったが管楽器がなかった。すると空中に篪の音がして、調子が相応じた。

世祖が広興の相であった時、嶺の下は旱魃が続いて水が枯れ、船が通れなかったが、上部隊が到着すると、水が突然急激に増えた。庾溫が言うには、『易の利渉大川の義である』。

世祖が盆城に駐屯した時、城内に水がなく、江の流れを引こうと井戸を掘ってみると、伏流水の泉が九箇所見つかり、すべて湧き出た。

建元元年四月、有司が上奏した。「延陵県令の戴景度が申すには、管轄する季子廟には、もと湧き井戸が二箇所あった。廟の祝が列挙すると、古い井戸の北側で突然金石の音が聞こえ、掘ると深さ三尺で沸騰する泉を得た。その東側で突然錚錚という音がし、また掘ると泉を得て、沸き湧いて波のようであった。泉の中から一枚の銀の木簡を得た。長さ一尺、幅二寸で、浮き彫りの文字に『廬山道人張陵再拝し起居を詣で謁す』とある。木簡は堅く白く、文字の色は黄色であった。」謹んで瑞応図を案ずるに、「浪井は掘らずとも自ら成り、王者が清浄であれば、仙人がこれを司る」とある。孔氏世録に云う、「帝道の精を叶え、孔書は明らかに巧みで、張陵に当たるであろう」。宋均の注に云う、「張陵は封禅を補佐する。一説に陵は仙人である」。

元徽三年、太祖が青溪の邸宅におられた時、斎の前の池で突然波が立ち浪が起こり、水が山のように湧き上がり、金石の響きがあり、しばらくして青龍が池の中から現れ、左右の者たちが皆それを見た。

昇明元年、青龍が斉郡に現れた。

建元四年、青龍が従陽郡清水県の平泉湖の中に現れた。

永明七年、黄龍が曲江県の黄池の中に現れ、一晩二日間いた。

中興二年、山の上に雲が障り四方を塞ぎ、しばらくして玄黄の五色の龍のようなものが、長さ十余丈で、西北から天に昇った。

宋の泰始の末、武進の古い墓地に獣が現れた。一角で、羊の頭、龍の翼、馬の足を持ち、父老たちが皆見たが、誰もそれを識らなかった。

永明十年、鄱陽郡が一角獣を献上した。麒麟の頭、鹿の形で、龍と鸞の色を兼ねていた。瑞応図に云う、「天子の万福がまさに集まると、一角獣が至る」。

十一年、白象九頭が武昌に現れた。

史臣が言う。記に云う、中を天に升らせると、麟鳳が至り、亀龍が至る。ならば鳳凰は阿閣に巣くい、麒麟は郊藪におり、庭で馴らし、飼いならして畜養するようになるのは、瑞祥としてこのようなものではないか。今、魏・晋以来を見ると、世に霊物と称されるものは少なくないが、乱が多く治まりが少なく、史書に絶えず記されている。故に来儀して沼にいることは、遠く前代の事柄ではなく、現れても至らないのは、それが祥瑞であるかどうか判別できないのである。

昇明三年三月、白虎が歴陽郡龍亢県の新昌村に現れた。新昌村は嘉名である。瑞応図に云う、「王者が暴虐でなければ白虎は仁を示す」。

建元四年三月、白虎が安蛮虔化県に現れた。

中興二年二月、白虎が東平郡寿張県の安楽村に現れた。

昇明二年、騶虞が安東県五界山に現れた。獅子の頭、虎の体、龍の足を持つ。詩伝に言う、「騶虞は義獣であり、白虎に黒い文様があり、生き物を食わず、至徳の世になると出現する」と。

昇明三年、太祖が斉王となった時、白毛の亀が東府の城池の中に現れた。

建元二年、休安陵で玄亀一頭を捕獲した。

永明五年、武騎常侍の唐潜が青毛の神亀一頭を献上した。

七年六月、彭城郡の田んぼで青毛の亀一頭を捕獲した。八月、延陵県の前の沢のほとりで毫亀一枚を捕獲した。

八年四月、長山県の王惠が六目亀一頭を捕獲した。腹の下に「萬歡」の字があり、卦兆もあった。

六月、建城県の昌城の田んぼで四目亀一頭を捕獲した。下に「萬齊」の字があった。

九年五月、長山県で神亀一頭を捕獲した。腹の下に巽兌の卦があった。

中興二年正月、邏将の潘道蓋が山の石穴の中で毛亀一頭を捕獲した。

昇明三年、世祖が人を遣わして宮亭湖の廟に福を祈らせた。帰還の船が渚に泊まると、白魚が二匹、船に躍り込んできた。

永明五年、南 刺史 しし の建安王蕭子真が金色の魚一頭を献上したと上表した。

建元元年八月、男子の王約が白雀一羽を捕獲した。

九月、秣陵県で白雀一羽を捕獲した。

二年四月、白雀が郢州の府館に群がった。

五月、白雀が会稽郡永興県に現れた。

永明元年五月、郢州の丁坡屯で白雀一頭を捕獲した。

三年七月、安城王蕭暠の邸宅で白雀一頭を捕獲した。

九月、南郡江陵県で白雀一頭を捕獲した。

四年七月、白雀が臨汝県に現れた。

七年六月、塩官県で白雀一頭を捕獲した。

八年、天門郡臨澧県で白雀一頭を捕獲した。

九年七月、呉郡銭塘県で白雀一頭を捕獲した。

八月、 州で白雀一頭を捕獲した。

十年五月、斉郡で白雀一頭を捕獲した。

建元元年五月、白烏が巴郡に現れた。

永明四年三月、三本足の烏が南安郡中陶県の役所の庭に巣を作った。

八年四月、陽羨県で白烏一頭を捕獲した。

隆昌元年四月、陽羨県で白烏一頭を捕獲した。

建元二年、江陵県で白鼠一頭を捕獲した。

永明六年、白鼠が芳林園に現れた。

十年(永明十年)九月、義陽郡で白鼠一頭を捕獲した。

永明四年、丹楊県で白兎一頭を捕獲した。

昇明元年六月、慶雲が益都に現れた。

建元元年、世祖(武帝)が皇太子に立てられた日、太陽の傍らに慶雲があった。

三年、華林園の醴泉堂の東に突然瑞雲が現れ、周囲は約十丈、高さは景雲楼と同じくらいで、五色が鮮やかに絡み合い、光が山を照らし、長い間漂った後、南へ移動し、長船を過ぎて華池に入った。

昇明二年、宣城郡臨成県が藉山で紫芝一枝を採った。

永明八年五月、陽城県で紫芝一株を採った。

隆昌元年正月、襄陽県で紫芝一茎を採った。

昇明二年四月、昌国県の徐万年の門前の棠樹が連理となった。

九月、 州の万歳澗(幅数丈)で樹木が連理となり、澗を隔てて枝が伸びてつながり、谷や水を越えて一本の幹となった。

建元二年九月、役人が上虞県の楓樹が連理になったと上奏した。二本の根は九尺離れ、二本の株は均等に聳え立ち、地面から九尺の高さで一本の幹に合わさっていた。

故鄣県の楓樹が連理となり、二本の株は七尺離れ、太さは八囲、地面から一丈の高さで、なおも合わさって一本の木のように一体となった。

山陽県界の若邪村に一株の槻木があり、連理となった。

淮陰県の建業寺の梨樹が連理となった。

建康県の梨樹は耀欀(一本は耀攘と作る)で太さ五囲、連理の枝が六本あった。

永明元年五月、安成郡新喻県で木が連理となって生じた。また南梁郡陳県でも生じた。

閏月、璿明殿の外閣の南にある槐の木が連理となった。

八月、塩官県内の楽村で木が連理となった。

二年七月、烏程県の陳文則の家の木槿の木が連理となった。七月、新冶県で槐と栗の二本の木が異なる根から合わさって連理となり、地面から数尺のところで中央が少し開き、上で再び一つになっていた。

三年正月、安城県の二株の楡の木が連理となった。

二月、安陽県の梓の木が連理となった。

九月、句陽県の穀山で木槿の木が連理となり、異なる根から二本が立ち上がり、梢が一つになっていた。

十二月、永寧左郡の樠の木が連理となった。

四年二月、秣陵県の喬天明の園中の李の木が連理となって生じ、高さ三尺五寸、二本の枝が別々に生え、さらに三尺伸びて、一本の幹に合わさった。

五年正月、秣陵県の華僧秀の園中の四本の木が連理となった。

六年四月、江寧県北界の頼郷斉平里三成邏門外の路の東、太常蕭恵基の園の楥の木二株が連理となり、その高さは二尺離れており、南が大きく北が小さく、小さい方は枝を南に傾けて寄り添い、一つの木に合わさり、枝葉が繁茂して、円く密生し蓋のようであった。

七年、江寧県の李の木二株が連理となり、二本の根は一丈五尺離れていた。

八年、巴陵郡で木が四株連理となった。三月、武陵郡白沙戍の槻の木が連理となり、五尺離れており、ともに高さ三尺、東西の二枝が合わさって枝が通じていた。十二月、柴桑県の陶委天の家の木が連理となった。

永明五年、山陰県の孔広の家の園の檉の木が十二層になった。会稽太守の随王蕭子隆がこれを献上し、芳林園の鳳光殿の西に植えた。

九年、秣陵県の鬬場里の安明寺に古木があり、僧侶たちが屋敷を改築する際、薪にするために伐採し、木の中を割ると、自然に「法大德」の三文字があった。

始興郡にはもともと欓樹がなく、調味料に不足があった。世祖が郡にいたとき、堂屋の後ろに突然一本の木が生えた。

昇明二年十月、甘露が建康県に降った。

十一月、甘露が長山県に降った。

十二月、甘露が彭山の松樹に降り、九日まで続いた。

建元元年九月、甘露が淮南郡の桃と石榴の二本の木に降った。有司が奏上したところ、甘露が新汲県の王安世の園の樹木に降ったという。

永明二年四月、甘露が南郡の桐樹に降った。

四年二月、甘露が臨湘県の李樹に降った。

三月、甘露が南郡の桐樹に降った。

四月、甘露が睢陽県の桃樹に降った。

五年四月、甘露が荊州府の中閤外の桐樹に降った。

六年、甘露が芳林園の故山堂の桐樹に降った。

九年八月、甘露が上定林寺の仏堂の庭に降り、天中から雨のように、地面一面が雪のようになり、その気は芳しく、その味は甘く、日に輝き風に舞い、午後遅くになってやんだ。その後頻繁に鍾山の松樹に降り、四十余日でやんだ。

十月、甘露が泰安陵の樹木に降った。

中興二年三月、甘露が茅山に降り、数里にわたって広がった。

元徽四年三月、醴泉が昌国の白鹿山から湧き出し、その味は非常に甘かった。

永明元年正月、新蔡郡固始県で嘉禾が得られ、一本の茎に五つの穂がついていた。

八月、新蔡県で嘉禾が得られ、二本の茎に九つの穂、一本の茎に七つの穂がついていた。

十一月、固始県で嘉禾が得られ、一本の茎に九つの穂がついていた。

二年八月、梁郡睢陽県の境界の野原の田んぼで嘉禾が得られ、一本の茎に二十三の穂がついていた。

五年九月、莒県で嘉禾一株が得られた。

十年六月、海陵郡斉昌県で嘉禾が得られ、一本の茎に六つの穂がついていた。

十一年九月、睢陽県の田んぼで嘉禾一株が得られた。

昇明二年九月、建寧県建昌村の住民が万歳山で薬草を採っていたところ、突然、谷間に異様な音が聞こえ、銅鐘一つを得た。長さ二尺一寸、縁に古い文字があった。

建元元年十月、涪陵郡の蜑族の住民である田健の住む岩の間には、常に雲気が留まり、龍の吟ずるような澄んだ響きがあったが、何年も探しても見つからなかった。去る四月二十七日、岩から数里のところで夜に突然二つの光が現れ、明け方に行ってみると、古い鐘一つを得た。また淳于という名の器物もあり、蜑族の人々は神物としてこれを祀った。

永明四年四月、東昌県の山ではここ数年、常に異様な響きがしていた。去る二月十五日、一つの岩が崩れ落ち、県民の方元泰が見に行くと、岩の下から古い鐘一つを得た。

五年三月、 寧県長崗山で神鐘一つを得た。

九年十一月、寧蜀郡広漢県で開墾した土地の深さ八尺四寸のところから、古い鐘一つを得た。形は高さ三尺八寸、周囲四尺七寸、鐘の柄の長さ一尺二寸、合わせて高さ五尺、四面にそれぞれ九つの穴があった。さらに陶器を作る場所の瓦の間に白光が見えたが、探しても何もなかった。その後、夜ごとに再び光が現れるようになり、十日ほど経った後、村民の張慶宣が瓦で家を建てようとしたところ、また家の中に光が内外を照らすのを見た。慶宣は怪しみ、孔休先に告げた。そこで一緒に掘り返してみると、玉璽一鈕を得た。璧は八分四方で、上部に鼻があり、文字は「帝真」とあった。

曲阿県の住民である黄慶の家の左側に園があり、園の東南は四方四丈に広がっていた。そこに野菜を植えると、いつも鮮やかで珍しく、採り抜いてもすぐにまた生えてきた。夜中には常に白光があり、明るい光質が天に届き、吊るした絹のように見えた。黄慶は普通ではないと疑い、師を招いて占わせた。道士の傅德が占い、掘るように指示した。深さ三尺で、玉印一鈕を得た。文字は「長承萬福」とあった。

永明二年正月、冠軍将軍周普孫が石頭城の北側の将軍の堂で、地面から城の堞を照らす異様な光があるのを見て、行ってみると玉璽一鈕を得た。七分四方で、文字は「明玄君」とあった。

十一月、虜国(北魏)の民である斉祥が霊丘関に入って帰還する途中、殷然とした音が聞こえたので、仰ぎ見ると、山の側面に紫の気が雲のようにあり、多くの鳥がその間を旋回していた。祥がその気のあった所へ行くと、璽を得た。一寸四分四方で、獣の鈕があり、文字は「坤維聖帝永昌」とあった。彼はこれを虜の太后の師である道人の恵度に送り、虜の主(北魏の皇帝)に献上しようとした。恵度はその文字を見て、ひそかに「今、衣冠と正朔(正統な暦)は斉国にある」と思った。そこで道人の恵蔵に託して京師に送り、羽林監の崔士亮を通じて献上させた。

三年(永明三年)七月、始興郡の住民龔玄宣が言うには、去年の二月、突然一人の道士が施食を乞うて来て、懐中を探り篆書の真経一巻(六枚の紙)を取り出し、また北極を表す紙一枚、羅漢居士に渡す旨の文書一枚を出し、兜率天宮から下り、天子に献上するよう命じられたと言い、やがて道士は所在を失ったという。今年の正月、龔玄宣はまた神人が皇帝の璽を授けたと称し、その璽は亀の形で、長さ五寸、幅二寸、厚さ二寸五分、上に「天地」の字、中央に「蕭」の字、下に「萬世」の字があった。

十年(永明十年)、蘭陵の住民齊伯生が六合山で金の璽一鈕を獲得し、その文は「年予主」とあった。

世祖(武帝)が盆城を治めた時、五尺の刀十口を得たが、これは永明年間の年数に符合する。

昇明三年、左里村の人が宮亭湖で靫戟二枚を得た。傍らに古い文字があったが、文が遠くて識別できなかった。

泰始年間、世祖が青溪の邸宅で銭一枚を得た。文様に北斗七星と双節があり、また人形で剣を帯びたものがあった。また盆城を治めた時、また大きな銭一枚を得て、その文は「太平百歳」とあった。

永明七年、齊興太守劉元宝が郡城を修築した際、堀の中から銭百万を獲得した。形が極めて大きく、朝廷に献じて瑞祥とした。世祖は朝臣以下にそれぞれ差をつけて賜った。

十年(永明十年)、齊安郡の住民王攝が地を掘って四文の大銭一万二千七百十枚を得た。品質・形状はすべて同じであった。

建元元年、郢州監利県の天井湖の水色が突然澄みきり、綿が現れ、百姓がこれを採って糸綿とした。

永明二年、護軍府の門外の桑の木一本に、枝や茎にまで蚕の糸綿が覆いかぶさっていた。

史臣が案ずるに、漢の光武帝の時に野蚕が繭を作り、百姓が衣服を作ることができた。今、波に浮かび木を覆うこの現象も、やはりこの類いであろうか。

永明八年、始興郡昌楽村で白鳩一羽を獲た。

二年(永明二年)、彭沢県で白雉一羽を獲た。

七年(永明七年)、𣡡林で白雉一羽を獲た。

十年(永明十年)、青州洍液戍で白雉一羽を獲た。

五年(永明五年)、望蔡県で白鹿一頭を獲た。

九年、臨湘で白鹿一頭を捕獲した。

六年、蒲濤県亮野村で白麞一頭を捕獲した。

七年、荊州で白麞一頭を捕獲した。

八年、餘干県で白麞一頭を捕獲した。

九年、義陽安昌県で白麞一頭を捕獲した。

十年、司州清激戍で白麞一頭を捕獲した。

十一年、広陵海陵県で白麞一頭を捕獲した。

七年、越州が白珠を献上した。自然に思惟仏像の形を成しており、長さ三寸であった。上(皇帝)は禅霊寺を建立し、その塔の下に置いた。

七年、呉郡太守の江斅が銭塘県で蒼玉璧一枚を獲得し、献上した。

七年、主書の朱霊譲が浙江で霊石を得た。十人がかりでやっと持ち上げられるもので、水深三尺のところにありながら浮かんでいた。世祖(皇帝)が自ら天淵池に投げ入れて試した後、これを刻んで仏像とした。

二年、従陽丹水県の山下で古鼎一枚を得た。

三年、越州南高涼の俚人が海中で魚を網にかけ、銅獣一頭を捕獲した。銘文に「宝鼎を作る、斉の臣、万年、子孫宝を承く」とあった。