南齊書
巻十七 志第九
昔、三皇は祇車に乗って谷口を出で、夏の氏は奚仲を以て車正と為し、殷には瑞車があり、山車垂句がこれである。『周礼』に匠人が輿を作り、天地を象ったとある。漢の武帝の天漢四年、諸侯を甘泉宮に朝せしめ、輿服の制を定め、天下に公布した。光武帝の建武十三年、公孫述の葆車を得て、輿輦が初めて整った。蔡邕がこの志を創立し、馬彪が漢典を勒成し、晋の摯虞が礼を治め、また五輅の制度を議した。江左の初め、車服は多く欠けており、ただ金戎があるのみで、充庭の儀は省かれた。太興年間、太子が学に臨んだが、高蓋車がなく、元帝は安車に乗るよう 詔 した。元帝・明帝の時、属車はわずか九乗であった。永和年間、石虎の死後、旧来の工人が奔叛して帰国し、徐々に車輿を造った。太元年間、苻堅の敗北後、また偽りの車輦を得て、ここに属車は十二乗に増えた。義熙年間、宋の武帝が関・洛を平定し、姚興の偽車輦を得た。宋の大明年間に輦輅を改修し、時の華美を極め、初めて偽 氐 を備え、また充庭の制を設けた。永明年間、さらに藻飾を増し、以前より盛大となった。『周礼』をもって『漢志』を検べると、名器が異なり、晋・宋の改革により、次第に世と異なるようになったので、今は時事を記すのみである。
玉輅は、漢の金根である。漆で輪を画き、金を塗った縦容後路受福輠。両廂の上の望板の前は優遊で、縁を通して金塗りの鏤鍱、碧色の絞り罽、金薄を彫刻して貼り付ける。両廂の外側は織成の衣、両廂の内側の上には金塗りの鏤面釘を施し、瑇瑁を貼る。望板の廂の上は金薄を貼り、金の博山、登仙の紐、松精。優遊の上には和鸞鳥が立ち花趺に鈴を銜え、銀帯の瑇瑁筒瓦、金塗りの鏤鍱、刀格、織成の手匡に金花鈿の錦衣。優遊の下は、隠膝で、内側に金塗りの鏤面釘を施し、織成の文様。優遊の横前には、瑇瑁を貼り、金塗りの花釘。優遊の前には、金塗りの倒龍、後梢には銀と瑇瑁の亀甲を彫刻し、金塗りの花沓。望板は、金塗りの受福望龍などの諸校飾。抗および諸末は、皆螭龍の首。龍汗板は、車の前にあり、銀帯の花獣、金塗りの受福、縁の内辺、鏤鍱の瑇瑁織成衣。内側は、金塗りの鏤面花釘。外側は、金塗りの博山、辟邪虎、鳳凰が花を銜えるなどの諸校飾。斗蓋は、金塗りの鏤鍱、二十八爪の支子花、黄錦の斗衣、さらに碧絹染布で縁取りした油頂、絳色の系絡、織成の顔芚赭舌孔雀毛復錦、緑の絞り随陰、珠と蚌の佩を懸け、金塗りの鈴、雲朱の結、仙人の綬、雑色の真の孔雀毦。一つの轅、漆画の車衡、銀花の帯、衡の上に金塗りの博山、四つの和鸞鳥が立ち花趺に鈴を銜え、いわゆる「鸞鳥立衡」である。また龍首が軛を銜え、叉髦に翟尾を挿し、上下に花沓、絳緑の系的、望繩八枚。旂は十二旒で、昇龍を画き、竿の首は金塗りの龍が火焔幡を銜え、真毦。棨戟は、織成の衣、金塗りの沓駐および受福、金塗りの雁の鏤鍱。漆案立牀は、車中にあり、錦で覆った黄絞、案立衣とする。錦で覆った黄絞の鄣泥。八幅、長さ九尺、縁は紅錦の芚帯、織成の花芚的。
五輅は、江左で相承して四頭立てとし、左右の騑を加えて六頭とする。絳色の系游御繩を施し、その重轂貳轄飛軨幡は、赤油を用い、紫の真毦がある。左纛は、左の騑馬の軛の上に置く。金鍐は、金を加えて冠とし、玉華の形のようで、馬鍐の上にある。方釳は、鉄で広さ数寸、三つの孔があり、その中に翟尾を挿す。繁纓は、金塗りの紫皮、紫の真毦で、馬の胸前に横たえる。鏤鍚は、金を刻んで馬面の当顱とする。皆古制の通り。世祖永明初年、玉輅に重蓋を加え、また麒麟の頭を作り、采画し、馬の首に戴かせた。竟陵王の子良が啓して言った。「臣は聞く、車旗には章があり、前史に載っており、器は必ず礼に依り、服に法を誤ることはないと。およそ蓋は円く天を象り、軫は方で地を法とし、上に二天の儀はなく、下に両蓋の飾りを設けることは、志録に求めれば、乖衷である恐れがあります。また仮に麟の首とし、馬の頭に加えることは、古に師らず、施すべきものは少ないでしょう。」建武年間、明帝はついに重蓋などを省いた。
金輅。制度と校飾は玉輅のようだが、やや減少し、また金塗りとする。
象輅。金輅のようだが、制飾はさらに減る。
木輅。制飾は象輅のようだが、特に減る。
革輅は、大輅のようである。大麾を建てる。赤旗である。首に火焔幡を施す。
宋の昇明三年、斉王に大輅・戎輅を各一錫した。乗黄の五輅には、大輅・戎輅はない。左丞の王逡之が議した。「大輅は、殷の祭車であるから、周の輅の名には登らず、『明堂位』に『大輅は殷の輅なり』とある。注に『大輅は木輅なり』と。『月令』に『中央土は大輅に乗る』と。注に『殷の輅なり』と。『礼器』に『大輅繁纓一就』と。注に『大輅は殷の祭天車なり』と。『周礼』の五路は、玉路・金路・象路・革路・木路。則ち周の木輅は、殷の大路である。周の革路は大白を建て、以て戎に即く、これが戎路である。思うに国の大事は、祀と戎に在り、故に殷の祭天の車と、周の即戎の路を錫したのであろう。祀には殷を用い、戎には必ず周を用いるのは、郊天の義は遠く、前代の礼を建て、即戎の事は近く、故に今世の制によることを明らかにするためである。『明堂位』に『魯の君は孟春に大路に乗り、十有二旒の日月の章を載せ、帝を郊に祀る』と。天は必ず大輅を以て諸侯に錫するに、良く以てある所以である。今の木路は、即ち大路である。」 太尉 左長史の王儉が議し、金輅九旒を用いるべきとした。当時乗黄に副がなく、五輅を借用し、大朝で臨軒の際、権宜に三輅を列べた。
玉輅・金輅は、碧旂を建てる。象輅・木輅は、赤旂を建てる。永明初年、太子歩兵 校尉 の伏曼容が議し、以て「斉の徳は青を尚ぶ、五路五牛および五色の幡旗は、皆先ず青を以て次とすべきである。軍容戎事に乗るもの、犠牲繭握に薦めるものは、皆尚ぶ色に悉く依るべきである。三代の服色は、姓音を以て尚ぶとし、漢は音を識らず、故に行運の色を尚ぶに還った。今既に善き律なく、則ち大斉の尚ぶところも、漢の道に依るべきである。もし善く吹律する者あれば、便ち姓を尚ぶに還って取るべきである」とした。太子僕の周顒が議した。「三代の姓音は、古に前記なく、音を裁いて尚ぶに配するは、曼容より起こる。則ち曼容は姓声を善く識り、復た方に吹律を仮ることはない。何故に遠代の宮商を識り得て、更に皇朝の律呂に迷い、当今吹律を以て尚ぶところを定むる者無く、漢に附して闕に従うべきと云うのか。皇朝は本より行運を以て尚ぶところとし、音氏に定まらぬに関わらず。かくの如く、設い善律の知音有りとも、声を遵って尚ぶと為すべからず。」 散騎常侍 の劉朗之ら十五人が皆議してこれを駮し、事は行われなかった。
皇太子の象輅。校飾は御と同様、旂は九旒で降龍とする。
皇太后と皇后の重翟車は、金塗りの部材で、白地に人馬の錦を貼り、車箱の隠し膝と後戸には、白い象牙の的帖があり、金塗りの面釘、漆画の輪、鉄の鐺、金塗りの縦容と後路の輠、獅子の轄、抗檐にはすべて金塗りの螭頭や神龍・雀などの装飾が施されている。軛衡の上には金博山を施し、また金塗りの長角巴首がある。蓋は金塗りで、爪支子花が二十八個、青油の俠碧絹黄絞の蓋で、漆布で裏打ちされている。紫の顔芚、黄絞と紫絞が陰に従い、碧の毛。外側の上には絳紫の系絡を施す。碧の旂に九旒、棨戟。宋の元嘉年間の『東宮儀記』には中宮の僕御が重翟金根車に乗るとあるが、金根と呼ばれるに足るかは詳らかでない。
皇太子妃の厭翟車。重翟車と同様だが、装飾がやや簡素である。
指南車。四周の車箱の上に屋根を施し、指南人の衣裙と襦天衣は車箱の中にある。上の四隅にはすべて龍子竿を立て、雑色の真の孔雀の毦を吊るし、烏布の皁復幔、漆画の輪、牛を駕し、すべて銅で部材を飾る。
記里鼓車。制は指南車に似て、上に華蓋子を施し、衣は漆画で、鼓の機構はすべて内部にある。
輦車は、犢車のようで、竹の蓬。車箱の外側は金薄を鑿鏤し、碧紗の衣、織成の芚、錦の衣。車箱の内側と仰頂、隠膝、後戸には、金塗りの鏤面、瑇瑁の帖、金塗りの松精、登仙花の紐、緑の四縁、四望の紗萌子、上下前後の眉は、鏤鍱。轅枕は長角の龍、白牙の蘭、瑇瑁と金塗りで部材を飾る。漆の鄣塵板は蘭の前にあり、金銀の花・獣・玃・天龍・獅子の鏤面、榆花の鈿指子摩尼炎、金の龍虎。扶轅は、銀口の帯、龍板頭。龍轅の軛の上には、金の鳳皇の鈴璅、銀口の帯、星後梢、瑇瑁の帖、金塗りの香沓、銀の星花獣の幔竿杖、金塗りの龍牽、縦横に長く、背に花香を染めた兆牀副。輦以下は、二宮の御車はすべて緑油の幢、絳の系絡。御所が乗るものは、双棟。公主のものは碧油の幢という。『司馬法』に「夏后氏の輦を金車といい、殷を胡奴車といい、周を輜車という」とあり、いずれも輦である。『漢書』叔孫通伝に「皇帝の輦が房から出る」とあり、成帝が輦で後宮を通り過ぎたのは、朝宴ともに用いたためである。『輿服志』に「輦車は金銀丹青の采雘と彫画の蒲萄の文様を具え、人が乗って行く」とある。信陽侯の陰就が井丹に会った時、左右の者が輦を進めたのは、臣下も乗ることができたためである。晋の武帝が安平献王の司馬孚に雲母輦を与えた。晋の中朝にはまた香衣輦があり、江左では御所のみが乗った。
卧輦。校飾は坐輦と同様だが、あまり用いられない。
漆画輪車は、金塗りの校飾は輦と同様だが、やや簡素である。金塗りの鐺、縦容後輠の獅子副。御が群公の挙哀に臨んで哭する際に乗る。皇后と太子妃も乗る。
漆画牽車は、小さくて輿車のようで、金塗りの縦容後路の獅子輠、鉄の鐺、錦の衣。車箱の内側の隠膝後戸と牙蘭、轅枕と梢、幰竿の戍棟樑は、すべて金塗りで校飾。御と皇太子が乗るもので、古の羊車である。晋の泰始年間、中護軍の羊琇が羊車に乗り、司隷 校尉 の劉毅に奏弾された。武帝は 詔 して「羊車には制はないが、質素な者が乗るものではない。免官とする」と言った。『 衞 玠伝』に「総角の時に羊車に乗ると、市の人が集まって見物した」とある。今は羊を駕さないが、なおこの車を牽く者を羊車と呼ぶという。
輿車は、形は軺車のようで、漆画、金の校飾、錦の衣。両側の車箱の後戸と隠膝、牙蘭はすべて瑇瑁の帖、刀格、鏤面の花釘。幰竿が校棟樑となり、下に八本の棡を施し、金塗りの沓、兆牀副。人が担ぐ。一つには小輿といい、小行幸に乗る。皇太子も宮内で乗ることができる。
衣書十二乗は、澬榆の轂輪、箕子壁、緑油の衣、車箱の外側に緑紗の萌、油幢の絡、通幰、竿刺が代わりの棟樑、柮檽の真形の龍牽、支子花。轅の後の伏神抗、承泥、沓は、金塗りの校具。古の副車の象である。今も五時副車という。
青萌車は、いわゆる潝幔車である。
油絡画安車は、公主、王妃、三公・特進の夫人が乗る。漢の制では、皇后と貴人は紫の罽の軿車。晋の皇后は雲母油画安車に乗り、六頭立てで、両轅の安車五頭立てを副車とした。公主の画安車は六頭立てで、両轅の安車三頭立てを副車とした。公主の画安車は三頭立て、三夫人の青交絡安車は三頭立てで、いずれも紫絳の罽軿車三頭立てを副車とした。九嬪と世婦の軿車は二頭立てで、王公の妃と特進夫人の皁交絡を副車とした。漢は軺車を賤しみ軿車を貴び、晋は輜軿を賤しみ軺車を貴んだが、いずれも礼を行う際に乗った。
黄屋車は、碧の旂九旒を立てる。九旒は鸞輅である。『漢輿服志』に「金根車は、蓋を黄繒で裏打ちし、これを黄屋という」とある。今の金輅・玉輅はすべて黄地の錦を用いるが、この車のみ黄繒を用いる。すべて金塗りの校具、黄の隠随陰、青の毛羽、二十八の爪支子花、絳の系絡。九命の上公が乗る。
青蓋安車は、朱の轓と漆班輪、一頭立て、左右に騑馬、通幰車を副車とし、諸王が礼を行う際に乗る。車に轓があるものを軒という。皁蓋安車は、朱の轓と漆班輪、一頭立て、通幰の牛車を副車とし、三公が礼を行う際に乗る。
安車は、黒い耳と皁蓋の馬車、朱の轓、一頭立て、牛車を副車とし、国公・列侯が礼を行う際に乗る。
馬車は一頭立てで、九卿、領軍将軍、護軍将軍、二衛、 驍 騎将軍、游撃将軍、四軍、五校が郊外の陵墓へ行く際に乗る。晋の制度では、三公から九卿まで、それぞれ安車で黒い耳飾りのついた車一輛があり、公は三頭立て、特進は二頭立て、卿は一頭立てで、さらにそれぞれ軺車に黒い耳飾りと後ろの戸、黒い車輪を施したものが一輛あった。
油絡軺車は、 尚書令 、 僕射 、 中書監 、中書令、尚書、侍中、常侍、中黄門、中書侍郎、散騎侍郎が、いずれも牛一頭立てで、朝廷に出仕する際に乗る。晋の制度では、 尚書令 の車には黒い耳飾りと後ろの戸、黒い車輪を施し、 僕射 、 中書監 、中書令の車には直接後ろの戸と黒い車輪を施し、尚書の車には後ろの戸がなく、いずれも車輪の轂に漆を塗った。現在も依然としてそうである。
安車は、赤い屏風があり、一頭立てである。また軺車に後ろの戸を施したものを副車とし、太子の太傅・少傅が礼を行う際に乗る。
四望車は、全体に覆い幕があり、油で塗った幔幕と絡み飾り、斑漆を塗った車輪の轂を持つ。また皁輪とも呼ばれ、礼を加えるべき貴臣に与えられる。晋の武帝は 詔 を下して魏の舒に陽燧四望小車を与えた。
三望車は、制度は四望車と同じである。あるいは夾望とも呼ばれ、これも礼を加えるべき貴臣に与えられる。四望車に次ぐ。
油幢絡車は、制度は三望車に似ているが簡略化されている。王公で礼を加えられる者が常時乗るもので、三望車に次ぐ。
平乗車は、竹で編んだ箕子壁を仰向けにし、榆で車輪を作り、通幰の竿で棟梁の代わりとし、柮檽に真形の龍を牽かせ、金を塗った支子花の紐飾り、轅頭の後ろの梢に沓伏神が泥を受ける。庶人も同様だが、通幰はない。三公と諸王が乗る。四望車から平乗車まで、いずれも銅で校飾されている。
轀輬車は四輪で、金根車のように飾られている。四隅に龍の頭があり、組紐に璧玉をくわえさせ、五色の飾りを垂らし、析羽の葆に流蘇を付け、前後に雲気の模様を描いた帷裳があり、素地を池として黼黻の模様を施す。白い駱馬四頭を立て、太僕が手綱を執る。貴臣が 薨去 した際も同様だが、羽飾りや駕御の装飾はやや簡略化される。
『虞書』に「私は古人の象(模様)を見たい。日、月、星辰、山、龍、華蟲を刺繍し、宗彝、藻、火、粉米、黼、黻を刺繍し、五采を用いて五色に施す」とある。天子の服は日・月以下を備え、公は山・龍以下、侯伯は華蟲以下、子男は藻・火以下、卿大夫は粉米以下を用いる。天子の六冕、王后の六服は、周官に記されている。公侯以下にも皆名称と規定があり、佩玉と組綬は礼文に全て具わっている。後代の沿革は『漢志』『晋服制令』に見え、その冠の十三品は蔡邕の『獨断』に見えるが、いずれも詳しくは繰り返さない。宋の明帝泰始四年、五輅を改めて制定し、五冕を整備することを議し、朝会・饗宴・狩猟にそれぞれ着用する服があり、事は『宋注』に見える。旧来、三公以下は冕の旒が七つで青玉の珠、卿大夫以下は五つで黒玉の珠と受け継がれてきた。永明六年、太常丞何諲之が議を立て、『周礼』の命数に基づき、三公を八旒、卿を六旒に改めることを求めた。 尚書令 王儉は議を立て、漢代の三公の服に倣い、山・龍の九章、卿は華蟲の七章とすることを主張した。これに従った。
平冕に黒い介幘(現在で言う平天冠)。黒い表地に朱の縁取りと裏地、幅七尺、長さ一尺二寸、垂れ下がる珠十二旒、朱組を纓とし、その色は綬と同じ。上衣は黒、下衣は臙脂色、裳は前三幅、後四幅。衣には絵を、裳には刺繍を施し、日、月、星辰、山、龍、華蟲、藻、火、粉米、黼、黻の十二章とする。素帯は幅四寸、朱の裏地、側面を朱と緑で縁取りし、腰の中央は朱、垂れ下がる部分は緑で、長さ三尺。中衣は、その襟と袖口を臙脂色で縁取りする。赤い皮の韍、臙脂色の袴と袜、赤い舄。郊祀・宗廟・朝廷臨御の際に着用する。漢代は冕に白玉の珠を旒とした。魏の明帝は婦人の飾りを好み、珊瑚の珠に改めた。晋初は旧制のままだったが、後に改めた。江左では美玉が得難かったため、遂に琫珠を用い、世間では白琁珠と呼んだ。
袞衣は、漢代に陳留郡襄邑で織られたものが産出した。宋末には刺繍や織成を用いた。建武年間、明帝は織成が重いとして、絵を描いたものに替え、金銀の薄片で飾りを加えた。世間ではこれを天衣とも呼んだ。
史臣が言う。黼黻の設けは、経と緯とが用をなすためであり、故に五色六章十二衣は互いに質を為すのである。歴代の龍袞は、織り成して文様とした。今や体が衣に耐えず、旧法を変易するのは、まさに黻冕を美しくするという謂いであろうか。
通天冠に黒い介幘、金の博山の額飾り、臙脂色の紗の袍、黒い縁取りの中衣。乗輿(天子)が常朝の際に着用する。旧来は駮犀の簪導を用いたが、東昏侯は玉に改めた。その朝服は、臣下も皆同じである。
黒い介幘に単衣、色は定めがない。乗輿が陵墓を拝する際に着用する。白帢に単衣は素服と呼ばれ、哀悼し喪に臨む際に用いる。
遠游冠は、太子と諸王が冠するもの。太子は朱の纓、翠鳥の羽根の緌に珠の節。諸王は玄(黒)の纓で、公侯も皆同じである。
平冕は、それぞれ組を纓とし、王公は八旒、衣に山と龍の九章、卿は七旒、衣に華蟲の七章を施し、いずれも助祭の際に着用する服である。すべて黒と深紅の絹に描いて作る。
進賢冠は、諸開國公・侯、郷・亭侯、卿、大夫、尚書、関内侯、二千石、博士、中書郎、丞・郎、祕書監・丞・郎、太子中舎人・洗馬・舎人、諸府長史、卿、尹・丞、下は六百石の令長・小吏まで、三梁・二梁・一梁の差で区別する。詳細は『晋令』に見える。
武冠は、侍臣は貂蟬を加え、その他の軍校・武職、黄門、散騎、太子中庶子、二率、朝散、都尉は、皆これを冠する。ただ武騎・虎賁は文衣を着用し、武冠の上に雉の尾を挿す。
史臣が言う。応劭の『漢官』で附蟬を解釈し、また司馬彪の志にも、侍中と常侍に違いがあるとは見えず、ただ左右に貂を珥すると言うだけである。項氏の説によると「漢の侍中の蟬は、蟬の像を刻み、常侍はただ璫だけで蟬はない」というが、どの時代に改められたかは詳らかでない。
法冠は、廷尉など諸々の執法者がこれを冠する。
高山冠は、謁者がこれを冠する。
樊噲冠は、殿門の衛士がこれを冠する。
黒介幘冠は文官の冠、平幘冠は武官の冠である。 尚書令 、 僕射 、尚書納言の幘は、後ろの飾りが異なる。
童子の空頂幘は、仮髻を施し、貴賤を問わず同じ服とする。
日蝕を救う際、文武官は皆免冠し、赤介幘を着けて朝服に対す。赤幘は、威武を示すものである。
袴褶は、車駕が親征し、内外が厳戒態勢の際に着用する服である。黒冠、帽に紫の褾を綴じ、絡帯で鞶帯に代える。中官は紫の褾、外官は深紅の褾とする。厳戒態勢の戎服には褾を綴じず、行軍・駐留ともすべて同じである。校猟・巡幸の際、従官は戎服に革帯・鞶帯とし、文官は纓を付けず、武官は冠を脱ぐ。
袿大衣を褘衣といい、皇后が廟に謁する際に着用する服である。公主が会見する際は大首髻とし、その燕服には厳かに雑宝を施して佩瑞とする。袿は刺繍を用いて衣とし、裳に五色を加え、金銀の鎖で校飾する。
綬は、乗輿は黄赤綬、黄・赤・縹・緑・紺の五采。太子は朱綬、諸王は纁朱綬、いずれも赤・黄・縹・紺の四采。妃も同じ。相国は緑綟綬、三采、緑・紫・紺。郡公は玄朱、侯伯は青朱、子男は素朱、いずれも三采。公の世子は紫、侯の世子は青、郷・亭・関内侯は墨綬、いずれも二采。郡国太守・内史は青、 尚書令 ・僕、 中書監 ・令、祕書監は皆黒、丞は皆黄、諸府の丞も黄である。皇后は乗輿と同じく赤、貴嬪・夫人・貴人は紫、王太妃・長公主・封君も紫綬、六宮は青綬、青・白・紅、郡公・侯の夫人は青綬。
乗輿の伝国璽は、秦の璽である。晋の中原の乱で胡に没し、江左には初めなく、北方人は晋家を「白板天子」と呼んだ。冉閔が敗れると、璽は南に還った。別に行信など六璽があり、いずれも金で作り、これも秦・漢の制度である。皇后は金璽、太子・諸王は金璽、いずれも亀鈕。公侯五等は金章、公の世子は金印、侯は銀印、貴嬪・夫人は金章、公主・王太妃・封君は金印、六宮以下公侯の太夫人・夫人は銀印。その公・将軍は金章、光禄大夫、卿、尹、太子傅、諸領護将軍、中郎将、 校尉 、郡国太守内史、四品五品将軍は皆銀章、 尚書令 ・僕、 中書監 ・令、祕書監丞、太子二率、諸府長史、卿、尹、丞、尉、中丞、都水使者、諸州 刺史 は皆銅印。
三臺五省の二品文官は、皆白筆を簪す。王公五等および武官は簪さず、内侍を加えると簪す。
百官が手に持つ手板(笏)は、 尚書令 ・尚書 僕射 ・尚書のものは、手板の頭部にさらに白筆があり、紫の皮で包んでおり、「笏」と呼ばれた。漢末の仲長統は、すべての官庁がこれを持つべきだと述べた。その肩にかける紫の 袷 の袋は「契囊」と呼ばれ、世間では「紫荷」と呼んだ。
佩玉は、天子の乗輿以下、晋・宋の制度と同じである。建元四年、制度として王・公・侯・卿・尹は珠(真珠)と水精(水晶)を用い、その他は象牙と蜯(ハマグリ)を用いることとした。太官の宰人(料理人)は離支(荔枝)の文様の衣を着用し、後に定められた。