巻12

南齊書

卷十二 志第四

易経に言う。「聖人は仰いで天に象を観、俯して地に法を観る」と。天文に関する事柄は、その由来が久しい。太祖(蕭道成)は革命を起こし天命を受け、期運を集めて即位された。宋の昇明三年、太史令兼将作匠の陳文建が天文を上奏し、次のように言った。「孝建元年から昇明三年までに、日食が十回あり、そのうち七回は上部が欠けた。占いでは『亡国して君主を失う象』、また『国命が絶え、君主が危うく亡びる』と言う。孝建元年から昇明三年までに、太白星(金星)が経天(昼間に見える)することが五回あった。占いでは『天下が革まり、民が王を改め、異姓が興る』と言う。孝建元年から昇明三年までに、月が房宿・心宿を犯すことが四回、太白星が房宿・心宿を犯すことが五回あった。占いでは『その国に喪あり、宋がこれに当たる』と言う。孝建元年から永光元年までに、奔星(流星)が紫微宮を出入りすることが四回あった。占いでは『国がその君を去り、空国となって王が遷る』と言う。大明二年から元徽四年までに、天が二度裂けた。占いでは『陽が足りず、白虹が日を貫き、人君これを憎む』と言う。孝建二年から大明五年までに、月が太微垣に入った。泰 元年から昇明三年までに、月がまた太微垣に入った。孝建元年から元徽二年までに、太白星が太微垣に入ることが各八回、熒惑星(火星)が太微垣に入ることが六回あった。占いでは『七曜が軌道を外れて運行するは、危亡の象。貴人が権勢を失い、主もまた衰え、王たる者が入って主となる有り』と言う。孝建二年から昇明二年までに、太白星と熒惑星が羽林星を経ることが各三回あった。占いでは『国が破れて世が改まる』と言う。孝建二年四月十三日、熒惑星が南斗星を守り、句己の形を成した。占いでは『天下が正を易え元を改める』と言う。孝建三年十二月一日、填星(土星)・熒惑星・辰星(水星)が南斗星で合した。占いでは『王公を改めて立てる』と言う。大明二年十二月二十六日、太白星が南斗星において填星を犯した。六年十一月十五日、太白星と填星が危宿で合した。占いでは『天子が土を失う』と言う。景和元年十月八日、熒惑星が太微垣を守り、句己の形を成した。占いでは『王者これを憎み、主命に期無く、主が遷るか、あるいは主が王となり、天下が紀を改める』と言う。泰始三年正月十七日、白気が西南に現れ、東西に半空を覆い、長庚と名付けられた。六年九月二十七日、白気がまた東南に現れ、長さ二丈で、形状は長大で、彗星よりも猛った。占いでは『旧を除き新を布き主を易える象、遠い期は一紀(十二年)』と言う。昇明三年に至って、一紀が終わった。泰始四年四月二十四日、太白星が胃宿において填星を犯した。占いでは『主命これを憎む』と言う。泰始七年六月十七日、太白星・歳星(木星)・填星が東井宿で合した。占いでは『王公を改めて立てる』と言う。元徽四年から昇明二年三月まで、日が頻繁に食した。占いでは『 社稷 しゃしょく まさに亡びんとし、王者これを憎む』と言う。元徽四年十月十日、填星が太微宮を守り、逆行し、四年にわたって運行した。占いでは『亡君の戒め有り、世を易え王を立てる』と言う。元徽五年七月一日、熒惑星・太白星・辰星が翼宿で合した。占いでは『王公を改めて立てる』と言う。昇明二年六月二十日、歳星が斗建を守った。これは陰陽の終始の門であり、大赦や昇平の起こる所、律暦や七政の本源である。徳星がこれを守れば、天下は年を改め、五礼が再び興り、多くの者が突然貴くなる。昇明二年十月一日、熒惑星が輿鬼宿を守った。三年正月七日、熒惑星が両戒の間を守り、句己の形を成した。占いでは『尊者が朝を失い、必ず亡国去王有り』と言う。昇明三年正月十八日、辰星が西方に孟効した。占いでは『天下、王を改む』と言う。昇明三年四月、歳星が虚宿・危宿にあり、玄枵の野を徘徊した。これは斉国に福厚く、慶びを受ける符である。」今、記すところの三辰七曜の変異は、建元から始まり隆昌に至り、もって宋史に続ける。建武の世、太史が事を奏上したが、明帝は天変が外に伝わるのを望まず、すべて秘して公表しなかった。これ以降は欠けている。

建元二年九月甲午の朔、日食があった。

三年七月己未の朔、日食があった。

永明元年十二月 乙巳 いっし の朔、日食があった。

十年十二月癸未の朔、加時は午の半度(正午頃)で、未の初め(午後1時過ぎ)に日食が始まり見え、欠けは西北角から起こり、十分の四が食され、申の時(午後3-5時)に光色が回復した。

隆昌元年五月甲戌の合朔、巳の時(午前9-11時)に日食が三分の一あり、午の時(午前11時-午後1時)に光が回復した。

建元四年七月戊辰、月が危宿で食した。

永明二年四月丁巳、月が南斗宿で食した。

三年十一月戊寅、月が東井宿の曠中に入り、それにより三分の一が食した。

五年三月庚子、月が てい 宿で食した。

九月戊戌、月が胃宿で食した。

六年九月癸巳、月が婁宿九度で食し、加時は寅の少弱(午前3時半頃)で、欠けは東北角から起こり、十五分の十一が食された。

十五日子の時(午前11時-午後1時)、食は東北から始まり、子の時の末(午後1時頃)に完全に皆既となり、丑の時(午後1-3時)に光色が回復した。

七年八月丁亥、月が奎宿で蝕を起こした。

十月庚辰、月が熒惑を掩蔽し蝕を起こした。

八年六月庚寅、月が畢宿左股の第一星を掩蔽し蝕を起こした。

十年十二月丁酉、月蝕が柳度で起こり、加時は酉の少弱にあり、亥時に至って月蝕が東角七分の二から始まり、子時に光色が回復した。

永泰元年四月癸亥、月蝕が起こり、色は血のように赤かった。三日後に大司馬王敬則が兵を挙げ、人々はこれを王敬則の凶兆が感応したものと考えた。

永元元年八月己未、月が完全に蝕し、色は皆赤かった。この夜、始安王蕭遙光が誅殺された。

史臣が言う。日と月は代わる代わる照らし、天の運行において重要なものである。上で交わり下で蝕むのは、同じ度で互いに掩蔽するからである。旧説を調べると「日蝕には五種類ある」と言い、上下左右中央から始まるというのがそれである。交会の旧術によれば、日蝕は東から始まらず、月がその西から東へ進んで太陽に及ぶためである。交会の中において、交わりが外から内に入る場合、先に会って後に交わるものは西南角が欠け、先に交わって後に会うものは西北角が欠ける。交わりが内から出る場合、先に会って後に交わるものは西北角が欠け、先に交わって後に会うものは西南角が欠ける。太陽がちょうど交会の中にある場合は西から欠けるので、東から蝕むことはない。もし太陽の中に欠けがある場合は、それを黒子と呼び、蝕とは呼ばない。漢の 尚書令 しょうしょれい 黄香は言った。「日蝕は皆西から始まり、月蝕は皆東から始まる。上下中央から始まるものはない。」春秋魯の桓公三年の日蝕は、中を貫き下から上へと黒くなった。疑う者は、日と月が正しく等しいなら、月がどうして小さくなって太陽の中に見えるのかと考えた。鄭玄は言う。「月が正しく日を掩蔽する時、日光が四辺から出るので、中から始まると言うのである。」王逸は「月がもし日を掩蔽するなら、日が西で蝕まれるはずである。月の運行はすでに速く、しばらくすれば西の崖を過ぎ去り、再び東の崖を蝕むはずである。今、日蝕を観察すると西の崖が欠け、光がすでに東の崖を過ぎているのに、ただ掩蔽しないだけである」と考えた。王逸のこの考えは、実に大きな疑問である。先儒は「月は望の時に蝕むが、太陽から極めて遠いのに、誰が月を蝕むのか」と難じた。説く者は「太陽には暗気があり、天には虚道がある。常に太陽と衡(対向)して相対し、月が虚道の中を運行すると、気によって掩蔽されるので、月が蝕むのである。たとえ時が夜半に加わり、日月が子午に当たり、正しく地を隔てていても、なお暗気によって蝕まれる。それは天体が大きく地形が小さいからである。暗虚の気は、鏡を日の下に置くようなもので、その光の耀魄が陰の中に現れる。常に太陽と衡(対向)して相対するので、星に当たれば星は亡び、月に当たれば月は蝕むのである。」今、これについて問う。「星と月は同じ天体であり、ともに太陽の光を兆している。月が蝕む時、星は必ずしも亡びない。もし他に当たるものがあるなら、星は蝕まれたことがない。同じ禀性でありながら異なる欠損があるのは、どうしてか。」答えて言う。「月は陰の主であり、陽の位に当たる。体は対等で勢いが交わるので、自ら盈損を招く。星は同類ではあるが、精気と光景が陋狭であり、小さな毀損でも全て亡びてしまう。蝕を受ける余地がなく、わずかな光でも満たされるので、弦や望と同じ形にはならない。」また難じて言う。「日の夜の蝕は、夜の星が亡びることで検証される。昼の蝕が完全に起こった時、昼の星はなぜかえって見えないのか。」これに答えて言う。「光に衝があると言えば、衝がない光もある。当たるものがあると言えば、当たらないものもある。夜の蝕は度が遠く、当たるものとともに没する。昼の蝕は度が近く、衝でないことによって明るさを得るのである。」また問う。「太白が天を経るのは、実は太陽から遠いためである。今、度が近いとさらに明るくなるが、何に喩えればよいか。」答えて言う。「先に論じた二つの蝕の本体は、周衝が同じではない。経るか経らないかは、星の遅速によるものである。蝕に経天を引き合いに出すのは、おそらく得策ではない。」

建元四年十一月午時、日の色が赤黄で光がなく、暮れまで箕宿にあった。

二年閏正月乙酉、日が黄赤色で光がなく、暮れまで続いた。

永明五年十一月丁亥、日出が三竿の高さで、朱色が赤黄で、日 暈 がかかり、虹が 珥 を 抱 き 直 背 した。

建元元年十二月未時、日暈がかかり、周囲を囲み、黄白色で、申時になってようやく消散した。

永明二年正月丁酉、日が交暈を二重に生じた。

三年二月丁卯、日に 半暈 がかかり、暈の上に一つの珥が生じた。

四年五月丙午、日暈が二重にかかり、さらに白虹が日を貫き、東井度にあった。

六年三月甲申、日が蘭雲の中で薄く半暈を帯び、しばらくして周囲を囲み、日の東南の暈の外に一直線があり、ともに黄色だった。壬辰、日暈がかかり、しばらくして、日の西北に虹が生じて日中を貫いた。

八年(永明八年)十一月己亥の日、太陽が半暈を生じ、南面は閉じず、東西に暈を帯び、それぞれ珥が生じた。長さは三尺、白色で、それぞれの珥は長さ約十丈、太陽を正面から衝き、長い時間をかけて消散した。背後に因って 重暈 が形成され、ともに青と緋色であった。

九年(永明九年)正月甲午の日、太陽が半暈を生じ、南面は閉じず、北に帯びた暈から一つの抱が生じ、東西にそれぞれ一つの珥が生じた。抱の北にまた半暈があり、抱と珥はともに黄色であった。北にまた白虹が生じて太陽を貫き、長い時間をかけて消散した。

建元元年六月甲申の日、太陽の南北に二つの珥があり、西に抱があり、黄白色であった。

永明二年十一月辛巳の日、太陽の東北に一つの背があった。

三年(永明三年)十一月庚寅の日、太陽の西北に一つの背があった。

四年(永明四年)正月辛巳の日、太陽の南北にそれぞれ一つの珥が生じ、また一つの背が生じた。

十二月辛未の日、太陽の西北に一つの直が生じ、黄白色であった。戊寅の日、太陽の北に一つの背が生じ、青と緋色であった。

五年(永明五年)八月己卯の日、太陽の東南に一つの珥が生じ、ともに青と緋色であった。

六年(永明六年)二月丁巳の日、太陽の東北に黄色が生じ、北に一つの珥があり、黄赤色で、長い時間をかけてともに消散した。庚申の日、太陽の西に一つの背があり、赤青色で、東西に一つの直が生じ、南北にそれぞれ一つの珥が生じ、ともに黄白色であった。

七年(永明七年)十月癸未の日、太陽の東北に一つの背が生じ、青赤色で、しばらくして消えた。

八年(永明八年)六月戊寅の日、太陽が蒼白い雲の中で南北にそれぞれ一つの珥を生じ、青・黄・緋の雑色で、光沢があり潤い、ともに長さ約三尺、巳の刻から午の刻にかけて消えた。

隆昌元年正月壬戌の日、太陽が青い雲の中で暈を生じ、南北に帯びた暈からそれぞれ一つの直が生じ、同じく長さ一丈、しばらくして消えた。

永元元年十二月乙酉の日、太陽の中に三つの黒子があった。

建元四年十月庚寅の日、月が五車星と参宿の頭部を暈した。

永明元年正月壬辰の日、この日から十五日にかけて、月が三度太微垣と火星を暈した。三月庚申の日から十三日にかけて、月が三度太微垣と火星を暈した。

五年二月乙未、九日からこの日まで、月が三度太微垣を暈した。

六年二月壬戌の甲夜、十三日の甲夜、十五日の甲夜、月はいずれも太微垣を暈した。

永明元年十一月己未、月の南北にそれぞれ一つの珥が生じ、また一つの抱があった。

月が列星を犯す。建元元年七月丁未、月が心宿の大星の北一寸を犯した。丁卯、月が軒轅の中に入り第二星を犯した。

十月丙申、月が心宿の大星の西北七寸にある。

十一月壬戌、月が てい 宿の東南星から五寸のところにある。

十二月乙酉、月が太微垣の西蕃南端の第一星を犯した。庚寅、月が房宿の道中を運行し、何も犯さなかった。癸巳、月が南斗の魁の中に入り、何も犯さなかった。

二年三月癸卯、月が心宿の大星を犯し、また後星を犯した。

五月庚戌、月が南斗に入った。

七月己巳、月が南斗に入った。

三年二月癸巳、月が太微垣の上将を犯した。

四年二月乙亥、月が輿鬼の西北星を犯した。丙子、月が南斗魁の第二星を犯した。辛未、月が心宿の大星を犯し、また後星を犯した。

四月壬辰、月が軒轅の左民星を犯した。庚子、月が箕宿の東北星を犯した。

五月丙寅、月が心宿の後星を犯した。戊寅、月が昴宿の西北星を掩蔽した。

六月乙未、月が箕宿の東北星を犯した。

七月癸亥の日、月が南斗の魁の中を運行し、何にも犯さなかった。庚辰の日、月が軒轅の女主星を犯した。

八月庚子の日、月が昴の西南星を犯した。壬寅の日、月が五車の東南星を犯した。壬申の日、月が軒轅の少民星を犯した。

九月丁巳の日、月が箕の東北星を犯した。壬辰の日、月が営室の度にあり、羽林の中に入った。二十日、月が輿鬼に入り、積尸を犯した。

十一月甲戌の日、月が五車の南星を犯した。

十二月丁酉の日、月が軒轅の女主星を犯し、また女御を掩蔽した。

永元元年正月己亥の日、月が心の後星を犯した。

三月乙未の日、月が軒轅の女主星を犯した。

六月癸酉の日、月が輿鬼の西南星を犯した。

八月乙丑の日、月が南斗の第四星を犯し、また輿鬼星を犯した。

九月庚辰の日、月が太白の左蕃度を犯した。癸巳の日、月が東井の北轅西頭第一星を犯した。

十二月丁卯の日、月が心の前星を犯し、また大星を犯した。己巳の日、月が南斗の第五星を犯した。

二年二月甲子の日、月が南斗の第四星を犯し、また第三星を犯した。

三月丁丑の日、月が東井の北轅北頭第一星を犯した。

四月戊申の日、月が軒轅の右角を犯した。

六月丙寅の日、月が東井の轅頭第一星を犯した。

八月丙午、月が心宿の大星を掩蔽した。戊申、月が南斗の第三星を犯した。戊子、月が東井の北轅西端第一星を犯した。

十一月庚辰、月が昴星を犯した。丙戌、月が軒轅の左角を犯した。

十二月壬戌、月が心宿の前星を犯し、また大星を犯した。

三年二月己未、月が南斗の第五星を犯した。

三月壬申、月は東井にあり、犯すところはなかった。六月丙午、月が心宿の前星を掩蔽した。

八月丙辰、月が東井の北轅第二星を犯した。

九月癸未、月が東井の南轅西端第一星を犯した。

四年正月癸酉、月が東井に入ったが、犯すところはなかった。乙亥、月が輿鬼を犯した。

閏月辛亥、月が房宿を犯した。

二月丁卯、月が東井の鉞を犯した。

三月乙未、月が東井に入ったが、犯すところはなかった。

七月辛亥、月が東井を犯した。

八月戊寅、月が東井を犯した。

九月辛卯、月と太白が尾宿で合宿した。丙午、月が東井に入った。

十一月辛丑、月が東井の曠中に入った。辛亥、月が房宿の北端第二星を犯した。

十二月己巳(十二日)、月が東井北轅の東端第二星を犯した。辛巳(二十四日)、月が南斗第六星を犯した。

五年正月丙午(十三日)、月が房の鉤鈐を犯した。

二月癸亥(一日)、月が東井南轅の西端第二星を犯した。

三月癸卯(十二日)、月が南斗第二星を犯した。

六月乙丑(六日)、月が南斗第六星を犯し、南斗から七寸の位置にあった。丙寅(七日)、月が西の建星の北一尺を犯した。

史臣が言う。月令の昏明中星は、すべて二十八宿である。箕と斗の間は、やや間隔が広い。それゆえ仲春と孟秋には、建星を再び用い、宿度と並列させている。たびたび陵犯が経過し、災いの主管するものは、古い占いにはなかった。石氏星経に言う。「斗は爵禄を主管し、賢者を褒め進士を推挙する。それゆえ建星を置いて補佐としている。もし建星を犯す異変があれば、斗と同じではない」。ならば文に基づいて意味を求めれば、これも宰相の占いである。

七月丁未(十九日)、月が運行して東井の曠中に入り、何も犯さなかった。

八月壬申(十五日)、月は畢にあり、左股の第二星を西北三寸で犯した。

九月戊子(一日)、月は填星の北二尺八寸にあり、合宿となった。

十月戊寅(二十二日)、月が てい に入り、東南星を西北一尺余りで犯した。

十一月戊寅(二十二日)、月が てい に入った。

十二月戊午(三日)、月は東壁度にあり、熒惑の北、相距二尺七寸で、合宿となった。甲子(九日)、月は東壁度の東南九寸にあり、犯となった。癸酉(十八日)、月は歳星の南七寸にあり、犯となった。

六年正月戊戌(十三日)、月は角星の南、相距三寸にあった。

二月丁卯(十三日)、月は てい の西南六寸にあった。

三月乙未(十一日)、月が てい 中に入り、歳星の南一尺一寸にあり、合宿となった。

四月癸丑の日、月が東井の南轅西頭第二星を犯した。壬戌の日、月が てい 宿の西南星の東南五寸にあり、これを犯した。次第に てい 宿の中に入り、歳星とともに てい 宿の度にあり、合宿となった。癸亥の日、月は房宿の北頭第一星の西南一尺を運行し、これを犯した。

六月乙卯の日、月が角星の東一寸にあり、これを犯した。丁巳の日、月は てい 宿に入って運行し、何も犯さなかった。歳星の東三寸にあり、合宿となった。

七月乙酉の日、月が房宿の北頭第二次相星の西北八寸に入り、これを犯した。庚寅の日、月が牽牛の中星の南二寸にあり、これを犯した。庚子の日、月は畢宿の左股第一星の七寸を運行し、これを犯した。また畢宿に入った。

八月壬子の日、月は歳星の東二尺五寸を運行し、ともに てい 宿の中にあり、合宿となった。

九月庚辰の日、月が房宿の北頭第一上相星の東北一尺にあり、これを犯した。また関楗閉星を掩蔽し犯した。丁酉の日、月は東井に入って運行した。甲辰の日、月が左角星の西北九寸にあり、これを犯した。また熒惑の西南一尺六寸にあり、合宿となった。

十月癸酉の日、月が てい 宿の中に入り、西南星の東北三寸にあり、これを犯した。

閏月壬辰の日、月は東井に入って運行した。

十一月丙戌の日、月は羽林の中に入って運行し、何も犯さなかった。乙未の日、月は東井の南轅西頭第二星の南一尺を運行し、これを犯した。丙寅の日、月が左角の北八寸にあり、これを犯した。辛未の日、月は太白の東北一尺五寸を運行し、ともに箕宿の度にあり、合宿となった。

十二月甲申の日、月は畢宿の左股第二星の北七寸を運行し、これを犯した。乙未の日、月は てい 宿の西南星の東北一尺に入って運行し、これを犯した。丙申の日、月が房宿の北頭上相星の北一尺にあり、これを犯した。

七年正月甲寅の日、月が東井の曠野の中に入り、何も犯さなかった。戊辰の日、月が牽牛の中星を掩蔽し犯した。

二月辛巳の日、月が東井の北轅東頭第一星を掩蔽し犯した。

三月庚申の日、月が歳星の西北三尺にあり、ともに箕宿の度にあり、合宿となった。

四月乙酉の日、月が てい 宿の中に入り、何も犯さなかった。丙戌の日、月が房星の北頭第一上相星の北一尺を犯し、楗閉の西北四寸にあり、これを犯した。

六月乙酉の日、月が牽牛の中星を犯した。乙未の日、月が畢宿に入り、左股第二星の東八寸にあり、これを犯した。

七月丁未の日、月が てい 宿の中に入り、何も犯さなかった。戊申の日、楗閉星の東北一尺にあり、これを犯した。

八月甲戌の日、月が てい 宿に入り、西南星の東北一尺の位置で犯した。庚寅の日、月が畢宿の右股第一星の東北一尺の位置で犯した。

九月丁巳の日、月が畢宿の右股第一星を掩蔽し犯した。庚申の日、月が東井宿の北轅東頭第一星の西北八寸の位置で犯した。

十月甲申の日、月が運行して畢宿の左股第三星を掩蔽した。丁酉の日、月が運行して楗閉星の西北八寸の位置で犯した。

十二月壬午の日、月が東井宿の北轅東頭第一星の北八寸の位置で犯した。

八年正月丁巳の日、月が亢宿の南頭第二星の南七寸の位置で犯した。

二月己巳の日、月が運行して畢宿の右股第一星の東北六寸の位置で犯した。

六月甲戌の日、月が亢宿の南頭第二星の西南七寸の位置で犯した。

八月乙亥の日、月が牽牛宿の中星の南九寸の位置で犯した。辛卯の日、月が軒轅宿の女御星の南八寸の位置で犯した。

九月辛酉の日、月が太微垣の左執法星の南四寸の位置で犯した。

十月壬午の日、月が東井宿の曠中に入り、犯すところはなかった。戊子の日、月が太微垣の右執法星の東南六寸の位置で犯した。

十一月戊戌の日、月が運行して填星の北二尺二寸の位置にあり、合宿した。乙卯の日、月が運行して太微垣の右執法星の南二寸の位置で犯した。

十二月庚辰の日、月が運行して軒轅宿の右角星の南二寸の位置で犯した。癸未の日、月が太微垣の右執法星を掩蔽し犯した。

九年正月辛丑の日、月が畢宿の躔西星の北六寸の位置で犯した。庚申の日、月が歳星の西北二尺五寸の位置にあり、ともに須女度にあって合宿した。

二月辛未の日、月が東井宿の曠中に入り、犯すところはなかった。壬申の日、月が運行して東井宿の北轅東頭第一星の北九寸の位置で犯した。

三月丙申の日、月が畢宿に入り、左股第二星の東北六寸の位置にあり、また大星を掩蔽した。

四月庚午、月が軒轅の女御星の南八寸にあり、犯す。癸酉、月が太微の東南頭上相星の南八寸にあり、犯す。癸未、月が歳星の北にあり、犯す。危宿の度に在る。

五月庚子、月が運行して太微を掩い犯す。執法の位置に在る。丁未、月が東建の西星を掩い犯す。

七月癸巳、月が太白の東五寸にあり、犯す。乙未、月が太微東蕃南頭上相星の西南五寸にあり、犯す。壬寅、月が東建星を掩い犯す。癸卯、月が牽牛南星の北五寸にあり、犯す。 乙巳 いっし 、月が歳星の北六寸にあり、犯す。

閏七月辛酉、月が軒轅女御星の西南三寸にあり、犯す。

八月、月が軒轅左民星の東八寸にあり、犯す。

九月乙丑、月が牽牛南星を掩う。癸未、月が太微に入る。右執法の東北四寸にあり、犯す。甲申、月が太微東蕃南頭上相星を掩う。

十月甲午、月が運行して填星の西北八寸にあり、犯す。虚宿の度に在る。戊申、月が軒轅女主星の南四寸にあり、女御を掩い、ともに犯す。辛亥、月が太微左執法の東北七寸に入り、犯す。

十一月壬戌、月が運行して歳星を掩い犯す。己巳、月が畢宿右股の大星の東一寸にあり、犯す。辛未、月が東井南轅西頭第二星の南八寸にあり、犯す。また東井の曠中に入る。丙子、月が軒轅左民星の東北七寸に入り、犯す。丁丑、月が運行して太微西蕃上將星の南五寸にあり、犯す。

十二月庚寅、月が運行して歳星の東南八寸にあり、犯す。丙午、月が太微東蕃南頭上相星を掩い犯す。

十年正月庚午、月が軒轅右角大民星の南八寸にあり、犯す。

二月己亥、月が太微を運行し、右掖門に在る。甲辰、月が運行して てい 宿の中に入り、東北星を掩い犯す。壬子、月が運行して羽林に入る。

三月己卯、月が運行して羽林に入り、填星の東北七寸にあり、犯す。危宿四度に在る。

四月甲午、月が運行して太微に入り、右掖門内に在る。丙午、月が危宿の度を運行し、羽林に入る。

五月己巳、月が南斗第三星を掩う。甲戌、月が危宿の度を運行し、羽林に入る。

六月戊子、月が張宿の度にあり、熒惑星の東三寸にあり、犯す。己丑、月が運行して太微に入り、右掖門に在る。丁酉、月が西建星の西を掩う。丁未、月が運行して畢宿に入り、右股の大赤星を犯す。

七月甲戌、月は畢宿の星の西北六寸を運行し、侵犯した。丁丑、月は東井宿の北轅東頭第二星の西南九寸にあり、侵犯した。

八月辛卯、月は西建星の東一尺を運行し、また東星の西四寸にあり、侵犯した。壬寅、月は畢宿の右股大赤星の東北四寸を運行し、侵犯した。甲辰、月は東井宿の曠中に入り、侵犯するものはなかった。戊申、月は軒轅宿の女主星の西九寸を運行し、侵犯した。辛亥、月は太微垣に入り、左執法星の北二尺七寸にあり、侵犯した。

九月癸亥、月は運行して填星を一寸の距離で掩蔽侵犯し、危宿の度にある。

十月辛卯、月は危宿の度にあり、羽林に入り、侵犯するものはなかった。癸亥、月は東井宿の曠中に入り、侵犯するものはなかった。

十一月甲子、月は畢宿に入り、右股大赤星の西北五寸に進み、侵犯した。壬申、月は太微垣に入り、右執法星の東北一尺三寸にあり、侵犯するものはなかった。丁丑、月は てい 宿に入り、侵犯するものはなかった。

十二月甲午、月は東井宿の曠中に入り、また北轅東頭第二星の四寸に進み、侵犯した。庚子、月は太微垣に入り、右執法星の東北三尺にあり、侵犯するものはなかった。

十一年正月辛酉、月は東井宿の曠中に入り、侵犯するものはなかった。乙丑、月は軒轅宿の女主星の北八寸にあり、侵犯した。壬申、月は てい 宿の星の東北九寸を運行し、侵犯した。

二月甲午、月は太微垣に入り、上将星の東北一尺五寸にあり、侵犯するものはなかった。壬寅、月は運行して南斗第六星を掩蔽侵犯した。癸卯、月は西建中星を掩蔽侵犯し、また東星を掩蔽した。

四月乙丑、月は太微垣に入り、右執法星の西北一尺四寸にあり、侵犯するものはなかった。壬寅、月は危宿の度を運行し、羽林に入り、侵犯するものはなかった。

五月丁巳、月は太微垣の左執法星の北三尺に入り、侵犯するものはなかった。甲子、月は南斗第二星の西七寸を運行し、侵犯した。乙丑、月は西建中星を掩蔽侵犯した。また東星を六寸の距離で侵犯した。

六月辛丑、月は運行して畢宿の左股第三星を掩蔽侵犯した。壬寅、月は畢宿に入った。

七月壬子、月は太微垣に入り、左執法星の東三尺にあり、侵犯するものはなかった。丙辰、月は てい 宿に入り、東北星の西南六寸にあり、侵犯した。己未、月は南斗第六星の南四寸を運行し、侵犯した。庚申、月は西建星の東南一寸を運行し、侵犯した。

九月庚寅、月は哭星の西南六寸を運行し、侵犯した。壬辰、月は営室宿の度を運行し、羽林に入り、侵犯するものはなかった。丁酉、月は畢宿に入り、右股大赤星の西北六寸にあり、侵犯した。己亥、月は東井宿の曠中に入り、侵犯するものはなかった。 乙巳 いっし 、月は太微垣を運行し、右掖門内に当たり、屏星の西南六寸にあり、侵犯した。

十月壬午、月は東建中星の九寸を運行し、侵犯した。

十一月壬子、月は哭星の南五寸にあり、侵犯した。辛酉、月は東井宿の鉞星の南八寸を運行し、また東井宿の南轅西頭第一星の南五寸にあり、ともに侵犯した。井中に進入した。丁卯、月は太微垣に入った。壬申、月は てい 宿に入り、侵犯するものはなかった。

十二月辛巳の日、月が羽林に入り、また東井の曠中に入り、また東井北轅西頭第二星の南六寸に入り、犯となった。乙未の日、月が太微に入り、右執法星の東北二尺にあり、犯すところはなかった。乙亥の日、月が てい に入り、犯すところはなかった。

隆昌元年正月辛亥の日、月が畢に入り、左股第一星の東南一尺にあり、犯となった。

三月辛亥の日、月が東井北轅西頭第二星の東七寸にあり、犯となった。甲申の日、月が太微に入り、屏星の南九寸にあり、犯となった。

六月乙丑の日、月が畢に入り、右股第一星の東北五寸にあり、犯となった。また歳星の東南一尺にあり、犯となった。丁卯の日、月が東井南轅西頭第一星の東北七寸に入り、犯となった。

泰元元年七月、月が心中星を掩った。

この南北朝の作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら、作者の没後100年以上が経過し、かつ作品は1931年1月1日以前に出版されたからである。