建元四年、高帝の山陵に際し、昭皇后を遷祔すべきであった。祠部が疑ったのは、祖祭および遣啓の諸奠、九飯の儀礼があるかどうかであったか。左僕射王儉が議して言った、「奠は大斂の如くすべし。賀循が云う『墓から墓へ皆奠を設け、将に廟朝に葬らんとする礼の如し』と。范寧が云う『将に窆せんとして奠す』と。祖と称されないとはいえ、祭り無きを得ず」。これに従った。
有司がまた奏上した、「昭皇后の神主は廟に在り、今遷祔して葬る。(広)〔廟〕に虞祭ありて以て神を安んず。神既に廟に処するに至り、改葬して霊を出す、豈に虞祭を応ずべきや?鄭玄の改葬の注に云う『廟より廟へ、礼は墓より墓へと同じくすべし』と。事何ぞ異なるを容れん!前代は応に虞無しと謂う」。左僕射王儉が議して言った、「范寧が云う『葬には必ず魂車有り』と。若しその帰する所を為さざれば、神将に何れにか安んぜん?世の中の改葬は、即ち墓所に霊を施し祭りを設く、何ぞ祭らずして毀ち得んや?賀循が云う『既に窆し、墓に奠を設けて以てその事を終う』と。正虞に非ざるも、亦粗相似たり。晋氏が五陵を修復し、宋朝の敬后が改葬した時、皆虞祭有り。今虞を設くるは疑うに足らず」。これに従った。
太子妃の斬草に乗黄を用い、銘旌を建てることを議した。僕射王儉が議して言った、「礼に、棺を塗り終わりし後、祝が銘を取って殯の東に置き、大斂畢わりて、便ち西階の東に建つべし」。
有司が奏上した、「大明の故事に、太子妃の玄宮中に石誌有り。参議す、墓銘は礼典に出でず。近く宋の元嘉中、顔延が王球の石誌を作る。素族に碑策無く、故に以て徳を紀す。爾来以来、王公以下、咸く共に遵用す。儲妃の重き、礼恒列に殊なり、既に哀策有り、石誌を須いずと謂う」。これに従った。
有司が奏上した、「穆妃卒哭後、霊還り道に在り、朔望に遇う、当に須い祭りを設くべきか否か?」王儉が議して言った、「既に虞卒哭し、廟に祭るは、本は昭穆の序を祭るのみ、卒吉の四時の祭りに全く同じからず、故に朔望の殷事有り。蕃国は権制を行わず、宋の江夏王妃卒哭以後、朔望に祭りを設く。帝室は既に卒哭を以て喪を除く、方に朔望の祭り有る縁無し。霊筵未だ廟堂に升らざるも、舫中に即ち行廟を成す、猶お桓玄及び宋高祖の長沙・臨川二国の如く、竝びに移廟の礼有り。豈に復た霊筵途に在りて、便ち殷事を設くると謂わんや?此を推して言えば、朔望は復た祭りを俟たず。宋の懿后の時の旧事は此に及ばず、益々時議を知るべし」。これに従った。
儉又た淵の難に答えて曰く、「閏を含むの義は、通儒の難ずる所。但し祥は本朆に応ず、屈して遂げず。事を語れば則ち名体具存し、哀を論ずれば則ち情異無し。迹は数月と雖も、義は実に年を計う。閏は年の帰余、故に宜しく総べて之を苞むべし。朆にして両祥、尊に縁りて故に屈す。祥は則ち閏を没し、年を象りて申ぶ。屈申兼ねて著わり、二途具挙す。経記の旨、其れ茲に在るか!如し五月を以て小祥と為し、六月乃ち閏と為さば、則ち祥の縞を去ること、事二月を成す。是れ十一月を以て前朆に象り、二朔を以て後歳に放つ。名区域有り、相参ずるを得ず。魯の襄公二十八年『十二月乙未、楚子卒す』。唯だ上月を書き、初め閏を言わず、此れ又た上に附するの明義なり。鄭・射・王・賀は唯だ朆は則ち閏を没すと云う、初め復た杖朆の中祥を区別せず、将に言を俟たずと謂わんとす。成休甫が云う『大祥後禫、閏有れば別に之を数う』と。杖朆の祥は、得て綅縞の末に方うべからざるを明らかにす。即ち恩彼の如く、例に就けば此の如し」。淵又た旧義に拠りて儉を難ずること十余問、儉事に随いて解釈す。
祠部郎中の王珪之が議して言うには、「喪は閏月を以って施行し、功衰以下の小祥が閏月に当たる場合は、略して言わない。今は厭屈しているが、祥の名はなお存し、他の服制とは異なる。月を数えて計算し、追慕の心を屈し、遠きを以って近きと為す。日は既に余分であり、月は正朔ではない。これを含めて全うし制するのは、情において妥当である。僕射の王儉の議は、理拠が詳しく博く、謹んでこれに附同する。今、司徒の褚淵は初めは疑難を抱いたが、再び往反を経て、なお王儉の議に同ぜず。旧に依って八座・丞郎が通じて共に博議するのが妥当である。これにより来る五月晦を小祥とし、その祥禫は自ら常限に依るべきである」。奏上され、内外に下される。詔して「可」とす。
皇太子穆妃の服について、尚書左丞兼著作郎の王逡が左僕射の王儉に問うた。「中軍南郡王の小祥は、聞喜公(の喪)を待つべきか?穆妃は七月二十四日に薨じ、聞喜公は八月に哀を発した。十一月の限を計れば、六月にあるべきである。南郡王は同じく六月を取るべきか?そうすると大祥はさらに一月を申し(延ばし)、八月を用いることになり、正月ではなくなる。存親の義において、もし各自が祥を為すならば、廬と堊(喪屋と白塗り)が相い間わり、玄と素(黒と白)が雑糅する。この疑いがあるかどうか審らかでない」。王儉は言った。「送り往くには終わりがあり、生に復するには節度がある。限りなき(親恩)は服制で申し述べるものではなく、祥縞(祥祭と縞服)は終わりを示す断りである。相待つという義は、経記に聞かない。世人は多く、廬室と衰麻(喪屋と喪服)は異なるべきでないと考え、故に一二月相去る者には、あるいは申し合わせて共に除喪する。これは所謂、情に任せて径行し、礼の旨を達していない。昔、喪記を撰した時、既に嘗てこれを論じた。遠く還る人は、自ら為す有りて未だ祭らず、家に在る子は、何の辞を立てて変わらぬのか?礼に除喪して帰る者有り、これは経記の遺文であり、待たぬことの明らかな根拠である。仮に待つべきならば、相去ること弥年(一年以上)でも必ず待つべきであり、そうなれば衰絰を永服として生を窮め、吉蠲(吉祭と清潔)を宗廟に長く絶つことになる。これは不可である。もし宜しからずと言うならば、旬月の間も容認されない。何故か?礼には倫序があり、義は徒らに設けられるものではない。今、遠ければ待たず、近ければ必ず相須つというのは、礼例に既に背き、即ち心に取る所がない。もし兄弟同居で吉凶が舛雑することを疑うなら、古に異宮の義有り。仮に異宮が無ければ、遠く還る子は自ら別門を開き立て、以って喪事を終えるべきである。霊筵の祭奠は、家に在る人に随い、再朞(二周忌)にして毀す。其の所以然る所以は、奔喪の礼に『位を為して奠せず』とあり、鄭玄が云う『其の精神此れに存せざるを以ってなり』と。哀を聞くこと時ならざるは、実に遠きに在るに縁る。位を為して奠せざるは、益々安んずべき有り。これは自ら為す有りて然るのであり、嫡庶に関わらない。庶子が家に在っても、嫡子を待たない。況んや儲妃は王室の正体、中軍は長嫡の重きを以って、天朝また権制を行い、進退は弥々復た疑うに非ず。相待つべきではないと謂う。中軍が祥縞の日、聞喜公は哀を致すのみで、弔慰を受けない。忌辰に至り変除する時、昆弟も亦宜しく相就いて情を写すべきだが、客に対しない。これは国の大典であり、宜しく八座・丞郎を通関し、共に同異を尽くし、然る後に奏上すべきである」。司徒の褚淵ら二十人、皆王儉の議に同じて妥当とし、永制と為すことを請うた。詔して「可」とす。
また奏上した。「案ずるに喪服経には『妾は君の長子の為に君に従って服す』とあるが、二漢以来、この礼は久しく廃されている。前の準に因循し、復た追行しないことを請う」。詔して曰く、「既に久しく廃されているので、停めるのが便である」。
また奏上した。「伏して尋ぬるに、御服(皇帝の服喪)の文惠太子の朩内では楽を奏さず、諸王は本服は朩であるが、儲皇は宗廟の正体であり、服する者は一同である。服を釈すれば、楽を奏し姻娶すべきであるが、便ち皆通ずべきか。窃かに謂うに、二等(楽奏と婚姻)は誠に皆嘉礼であるが、軽重に異有り。婦を娶り嗣を思うことは、事全く吉ならず、三日楽せず、礼に明文有り。宋の世に朩喪が大功に降る者は、婚礼で楽を廃し、以って私戚を申した。前典を通じて(参照すべきである)」。詔して「議に依う」とす。
また奏上した。「案ずるに礼では、祥除は皆先ず今夕に服を易え、明旦に乃ち祭を設ける。近世を尋ぬると、服臨して然る後に改服するのが例で、礼に背いている。今、東宮の公除の日、もし例に依れば皇太孫は服臨して方(始)めて服を易える。臣ら参議して、先ず哭臨を竟えて然る後に之を祭るのが宜しいと謂う。応に公除すべき者は、皆府第に於いて服を変え、然る後に臨入し、奉慰の礼を行うべきである」。詔して「可」とす。
祠部郎の何佟之が議して言った、「春秋の趣旨は、臣下が君主や親に継ぐものであり、恩義には違いがあっても、その礼は一つであり、それによって資敬の情を厚くし、方喪(君主の喪に服する)の義を篤くするのである。主上は高皇帝(高帝蕭道成)を仰ぎ嗣いではいるが、かつて臣下として北面したことがある。今、聖なる御代が天下を治め、訓戒を垂れて窮まりがない。三(君・父・師)に対する恩は、理として廃すことは許されない。私見では、世宗(文帝)の祥忌には、至尊は弔服を着て殿上に昇り、群臣も共に哀悼の意を表すべきである。事が終わった後、百官は宣徳宮に赴いて上表し、引き続き陵園で哀悼を表し、追慕の思いを広く示すべきである」。尚書令の王晏ら十九人が何佟之の議に同調した。詔して「可」とした。