南齊書
巻七 本紀第七
東昏侯蕭寶巻は字を智蔵といい、高宗(明帝)の第二子である。本名は明賢であったが、高宗が輔政した後に改めた。建武元年、皇太子に立てられた。
永泰元年七月己酉の日、高宗が崩御し、太子が即位した。
八月丁巳の日、 詔 を下して、雍州の将士で虜(賊)と戦って死んだ者には、差等を設けて租税の免除を行うこととした。また 詔 を下して、選挙の順序を弁別して調査し、貧困で屈している者を訪ね求めて探し出すこととした。庚申の日、鎮北將軍 晉 安王蕭寶義は征北大將軍・開府儀同三司の号を進められた。南中郎將建安王蕭寶寅は 郢州 刺史 となった。
冬十月己未の日、 詔 を下して法律の条文を削減・簡略化した。
十一月戊子の日、皇后褚氏を立て、王公以下にそれぞれ差等を設けて銭を賜った。
永元元年春正月戊寅の日、大赦を行い、元号を改めた。 詔 を下して秀才・孝廉の試験を厳密に行い、百官の考課を行った。辛卯の日、天子は南郊で祭祀を行った。 詔 を下して、三品の清資官以上で俸禄を受けるべき者で、父母または祖父母の年齢が七十歳に達した者には、現銭を給付することとした。癸卯の日、冠軍將軍南康王蕭寶融を荊州 刺史 とした。
二月癸丑の日、北中郎將邵陵王蕭寶攸を南兖州 刺史 とした。この月、 太尉 陳顯達が馬圈で敗北した。
夏四月己巳の日、皇太子蕭誦を立て、大赦を行い、民で父の後を継ぐ者に爵一級を賜った。甲戌の日、寧朔將軍柳惔を梁・南秦二州 刺史 とした。
五月癸亥の日、撫軍大將軍始安王蕭遙光を開府儀同三司とした。
六月己酉の日、新たに右 衞 將軍に任じられた崔惠景が護軍將軍となった。癸亥の日、始興内史范雲を広州 刺史 とした。甲子の日、 詔 を下して雍州の今年の三調を免除した。
秋七月丁亥の日、京師で大水害があり、死者が多く出た。 詔 を下して死者に棺桶を賜い、また救済と撫恤を行った。
八月 乙巳 の日、京邑で水害に遭い資財が流された者の今年の調税を免除した。また 詔 を下して、馬圈の戦いで亡くなった将士のために哀悼の意を表した。丙辰の日、揚州 刺史 始安王蕭遙光が東府に拠って反乱を起こした。 詔 を下して京邑を部分的に赦免し、内外を戒厳とした。 尚書令 徐孝嗣以下が宮城を守備した。領軍將軍蕭坦之に命じて六軍を率いて討伐させた。戊午の日、蕭遙光を斬り、その首を伝送した。己未の日、征北大將軍 晉 安王蕭寶玄を南徐・兖二州 刺史 とした。己巳の日、 尚書令 徐孝嗣が 司空 となり、右 衞 將軍劉暄が領軍將軍となった。
閏月丙子の日、江陵公蕭寶覧を始安王とした。虜の偽東徐州 刺史 沈陵が降伏したので、北徐州 刺史 とした。
九月丁未の日、輔国将軍裴叔業を兗州 刺史 とし、征虜長史張沖を 豫 州 刺史 とした。壬戌の日、大臣を頻繁に誅殺したことを理由に、大赦を天下に施行した。辛未の日、太子詹事王瑩を中領軍とした。
冬十月乙未の日、 尚書令 で新たに 司空 に任じられた徐孝嗣と、右 僕射 で新たに鎮軍将軍に任じられた沈文季を誅殺した。 乙巳 の日、始興内史顔翻を広州 刺史 とし、征虜将軍沈陵を越州 刺史 とした。
十一月丙辰の日、 太尉 ・江州 刺史 陳顕達が尋陽で兵を挙げた。乙丑の日、護軍将軍崔慧景に平南将軍を加え、諸軍を督して南討の任に当たらせた。丙寅の日、冠軍将軍王鴻を徐州 刺史 とした。
十二月癸未の日、前輔国将軍楊集始を秦州 刺史 とした。甲申の日、陳顕達が京師に到達し、宮城は厳戒態勢を敷き、六軍が固守した。乙酉の日、陳顕達を斬り、その首を伝送した。丁亥の日、征虜将軍邵陵王蕭宝攸を江州 刺史 とした。
二年春正月壬子の日、輔国将軍張沖を南兗州 刺史 とした。庚午の日、 詔 を下して 豫 州 刺史 裴叔業を討伐せよと命じた。
二月癸未の日、黄門郎蕭寅を司州 刺史 とした。丙戌の日、衛尉蕭懿を 豫 州 刺史 とし、寿春を征討させた。己丑の日、裴叔業が病死し、その兄の子である裴植が寿春を挙げて北魏に降伏した。
三月癸卯の日、輔国将軍張沖を司州 刺史 とした。乙卯の日、平西将軍崔慧景を派遣して軍を率い寿春を討伐させた。(夏四月)丁未の日、新たに冠軍将軍に任じられた張沖を南兗州 刺史 とした。崔慧景が広陵で兵を挙げ、京師を襲撃した。壬子の日、右衛将軍左興盛が京邑の水軍・歩軍の諸軍を督した。南徐州 刺史 江夏王蕭宝玄が京城を開いて崔慧景を迎え入れた。乙卯の日、中領軍王瑩を派遣して諸軍を率い北籬門に駐屯させた。壬戌の日、崔慧景が到着し、王瑩らは敗北した。甲子の日、崔慧景が京師に入城し、宮内は城に拠って抵抗し守備した。 豫 州 刺史 蕭懿が義兵を起こして救援に向かった。
〔夏四月〕癸酉の日、崔慧景は兵を捨てて逃走し、斬首された。 詔 を下して京邑および南徐・兗の二州を限定して赦した。乙亥の日、新たに尚書右 僕射 に任じられた蕭懿を 尚書令 とした。丙子の日、晋熙王蕭宝嵩を南徐州 刺史 とした。
五月 乙巳 の日、北魏の偽 豫 州 刺史 王粛を 豫 州 刺史 とした。戊申の日、桂陽王蕭宝貞を中護軍とした。己酉の日、江夏王蕭宝玄を誅殺した。壬子の日、大赦を施行した。乙丑の日、京邑および南徐・兗の二州を限定して赦した。戊辰の日、始安王蕭宝覧を湘州 刺史 とした。
六月庚寅の日、皇帝の車駕が楽遊苑内で集会を行い、三元の節のように、京邑の女性たちに観覧を許した。戊戌の日、新たに冠軍将軍に任じられた張沖を郢州 刺史 とし、守五兵尚書陸慧曉を南兗州 刺史 とした。
秋七月甲辰の日、驃騎司馬張稷を北徐州 刺史 とした。
八月丁酉の日、新たに驃騎司馬に任じられた陳伯之を 豫 州 刺史 とした。甲申の夜、宮内で火災が発生した。
冬十月己卯の日、 尚書令 蕭懿を害した。
十一月辛丑の日、寧朔将軍張稷を南兗州 刺史 とした。甲寅の日、西中郎長史蕭穎冑が荊州で義兵を起こした。
十二月、雍州 刺史 梁王(蕭衍)が襄陽で義兵を起こした。戊寅の日、冠軍長史劉繪を雍州 刺史 とした。
三年春正月丙申朔、合朔の時刻が寅の刻に漏刻の上八刻を加えた時、儀式が終わり、宮人が閲武堂で元会を行い、皇后が正位に就き、宦官が儀礼を行い、帝は軍服を着て臨席して見物した。丁酉、驃騎大將軍 晉 安王蕭寶義を 司徒 とし、新たに撫軍將軍に任じられた建安王蕭寶寅を車騎將軍・開府儀同三司とした。甲辰、寧朔將軍王珍國を北徐州 刺史 とした。辛亥、帝は南郊で祭祀を行い、 詔 を下して天下に大赦を行い、百官に直言を陳べさせた。
二月丙寅、乾和殿の西廂が火災に遭った。壬午、 詔 を下して羽林兵を派遣して雍州を征討させ、内外に厳戒態勢を敷いた。乙酉、威烈將軍胡元進を廣州 刺史 とした。
三月己亥、驃騎將軍沈徽孚を廣州 刺史 とした。甲辰、輔國將軍張欣泰を雍州 刺史 とした。丁未、南康王蕭寶融が江陵で皇帝の位に即いた。癸丑、平西將軍陳伯之を派遣して西征させた。
六月、京邑に雨水があり、中書舍人と二県の官長を派遣して救済物資を差等に応じて賜った。蕭穎冑の弟蕭穎孚が廬陵で兵を挙げた。戊子、江州の安成・廬陵二郡を限定赦免した。
秋七月癸巳、荊・雍二州を限定赦免した。甲午、雍州 刺史 張欣泰と前南譙太守王靈秀が石頭の文武官を率いて建安王蕭寶寅を奉じて朝廷(臺)に向かい、杜姥宅に至ったが、宮門が閉ざされていたので、散り散りに逃走した。己未、征虜長史程茂を郢州 刺史 とし、 驍 騎將軍薛元嗣を雍州 刺史 とした。この日、薛元嗣は郢城を義軍に降伏させた。
八月丁卯、輔國將軍申冑を 豫 州の監察に任じた。辛巳、光祿大夫張瓌を石頭に駐屯させた。辛未、太子左率李居士を西討諸軍事の総督とし、新亭城に駐屯させた。
九月甲辰、李居士を江州 刺史 とし、新たに冠軍將軍に任じられた王珍國を雍州 刺史 とし、車騎將軍建安王蕭寶寅を荊州 刺史 とした。輔國將軍申冑を郢州の監察に、龍驤將軍馬仙琕を 豫 州の監察に、 驍 騎將軍徐元稱を徐州の監察に任じた。この日、義軍が南州に到着し、申冑の軍二万人が姑熟で敗走して帰還した。戊申、後軍參軍蕭璝を司州 刺史 とし、前輔國將軍魯休烈を益州 刺史 とし、輔國長史趙越嘗を梁・南秦二州 刺史 とした。丙辰、李居士が義軍と新亭で戦い、敗北した。
冬十月甲戌、王珍國が義軍と朱雀桁で戦い、敗北した。戊寅、寧朔將軍徐元瑜が東府城を降伏させた。青・冀二州 刺史 桓和が入衛し、東宮に駐屯したが、己卯、配下の兵を率いて降伏した。光祿大夫張瓌は石頭を放棄して宮中に戻った。ここにおいて宮城の門を閉じて自ら守りを固めた。庚辰、 驍 騎將軍胡虎牙を徐州 刺史 とし、左軍將軍徐智勇を益州 刺史 とし、游擊將軍牛平を梁・南秦二州 刺史 とした。李居士は新亭で降伏し、琅邪城主の張木も降伏した。義師は長い包囲陣を築いて宮城を包囲した。
十二月丙寅、新たに雍州 刺史 に任じられた王珍國と侍中張稷が兵を率いて殿中に入り、帝を廃した。時に年十九歳であった。
帝は東宮にいた頃から遊びを好み、書物や学問を喜ばず、高宗(明帝)もそれを非としなかったが、ただ家族としての行いを励ました。太子に一日に二度の入朝を求めさせたが、 詔 を発して許さず、三日に一度の朝参とさせた。かつて夜通し鼠を捕り、明け方まで続けて、笑い楽しみとした。高宗が臨終の際に後事を託し、隆昌(廃帝蕭昭業)のことを戒めとして、「何事をするにも人後に落ちてはならない!」と言った。それゆえ、群小を信任し、宰臣たちを誅殺すること、意のままにならないことはなかった。
性格は重く鈍く言葉少なく、朝士と交わらず、ただ宦官や左右の御刀・応勅などの側近だけを親信した。江祏と始安王蕭遙光が誅殺されてからは、次第に乗馬にも慣れた。日夜後堂で馬を走らせて遊び、親しい宦官や倡伎とともに太鼓を打ち叫んだ。常に五更(午前4時頃)に就寝し、晡時(午後3~5時)になって起きた。王侯が節や朔日に朝見する際も、晡時過ぎになってから前に出させ、あるいは暗くなってから退出させた。台閣からの上奏文は、十日から数十日経ってから返答し、あるいは所在がわからなくなることもあった。二年の元会では、食事の後になってから出御し、朝賀がようやく終わると、すぐに殿の西廂で寝てしまい、巳の刻から申の刻まで、百官が陪位して、皆ぐったりと倒れ、顔色は青ざめ、起き上がって会合しようとしても、慌ただしく終わらせてしまった。
陳顯達の乱が平定された後、次第に外出して遊び歩くようになり、通る道路では住民を追い払い、万春門から東宮以東、郊外に至るまで、数十里から百里にわたって、家々は空になり、住民は全員立ち退いた。巷には幕を懸けて高い障壁とし、兵士を配置して守らせ、これを「屏除」と呼んだ。ある時は市街の左側を通り過ぎて寵臣の家に立ち寄り、回り道をして曲がりくねり、京邑中をくまなく回った。毎晩三四更(午後11時~午前3時頃)になると、四方から太鼓の音が響き、幡や戟が道路を横切り、百姓は騒ぎながら付き従い、士人と庶民の区別もつかなかった。外出する際は決まった行き先を言わず、東西南北、どこへでも人を駆り立てた。高い障壁の内側には、部隊や羽儀(儀仗兵)を配置し、さらに数部隊もいて、皆鼓吹や 羌 胡の伎楽を奏で、鼓角や横笛を吹いた。夜に出て昼に戻り、火の光が天を照らした。愛姫の潘氏を貴妃に封じ、寝輿に乗せ、帝は馬に乗ってその後を従った。織成の袴褶を着け、金箔の帽子をかぶり、七宝で飾った縛矟を執り、軍服に身を固め、寒暑を問わず、雨雪を冒し、穴や溝も避けず、駆け巡ってのどが渇くと、すぐに馬から降りて腰辺のひさごの器を解き、水を酌んで飲み、また馬に乗って駆け去った。馬具で錦繡を用いた部分は、雨に濡れるのを憂い、色とりどりの彩りに珠を織り込んだ覆いをかけ、あらゆる彫刻の技巧を尽くした。黄門五六十人を騎客とし、また走りの速い無頼の小人を選んで逐馬とし、左右五百人を常に従えさせ、走り回り往来して、ほとんど休む暇がなかった。雉狩りの場を二百九十六ヶ所設け、隠れ蓑の中の帷帳や歩障には、すべて緑や紅の錦を裏地とし、金銀で彫刻した弩や、象牙や玳瑁で飾った箭を用いた。郊外と城郭の四民は皆生業を廃し、薪を採る道も絶え、吉凶の時を失い、乳児を抱えた婦人や婚姻の家は、出産を他に預け、あるいは病気の者を車に乗せて遺体を捨て、埋葬することもできなかった。青溪の辺りに病人を捨てた者がいたが、役人は監司に問われるのを恐れ、水中に押し込み、泥で顔を覆い、たちまち死なせてしまい、ついに遺骨も失われた。
後宮が火災に遭った後、さらに仙華殿・神仙殿・玉寿殿などの諸殿を建て、彫刻を施し彩色を加え、青い(?)金の口帯、麝香を塗った壁、錦の幔幕と珠の簾、極めて華麗を尽くした。工匠を徴発して使役し、夜から明け方まで働かせても、まだ迅速さが足りないと、諸寺の仏刹の殿の藻井にある仙人や騎獣の彫刻を剥ぎ取ってこれを補った。世祖(武帝)の興光楼には青漆が塗られており、世間では「青楼」と呼んでいた。帝は「武帝は巧みでない、なぜ純粋に瑠璃を使わなかったのか」と言った。
潘氏の衣服や車馬の装飾には、極めて珍しい宝物が選ばれ、主衣庫の古い物ではもはや間に合わず、民間の金銀宝物を高値で買い上げ、価格は皆数倍になった。琥珀の腕輪一つが、百七十万の値段がついた。京邑の酒租は、すべて金に換算して納めさせ、金塗りに用いた。それでもまだ足りず、揚州と南徐州の橋・桁・塘・埭の丁夫の労役を功に応じて代価とし、現金を徴収して、太楽や主衣の雑費に充てた。このため、所在の塘や溝渠は多くが廃れた。また、雉頭の鶴氅や白鷺縗を定めて献上させ、寵愛する小人たちは、これに乗じて私利を貪り、一を課して十を納めさせ、郡県で敢えて言う者はなかった。
三年夏、閲武堂に芳楽苑を造営し、山石にはすべて五色を塗り、池水を跨いで紫閣などの楼観を建て、壁には男女の密通の図を描いた。良い樹木や美しい竹を植えたが、盛夏の暑い時節で、一日も経たないうちに、すぐに萎れ枯れてしまった。そこで民家に徴発をかけ、見つけた樹木をすぐに取り立て、塀や家屋を壊して移植させ、朝に植えて夕方に抜き、道路上で続々と行われ、花や薬草、雑草に至るまで、また同じようにした。
また苑中に市を立て、太官が毎朝酒肉や雑多な肴を進め、宮人に屠殺や酒売りをさせ、潘氏を市令とし、帝は市魁となり、罰を執行し、争う者は潘氏のもとで判決を受けた。
帝は膂力があり、白虎の 橦 を担ぐことができ、自ら雑色の錦の伎衣を作り、金の花や玉の鏡など多くの宝物を飾り付け、思いのままにさまざまな姿態を見せた。寵愛した群小の党与は三十一人、黄門は十人であった。初め新蔡の人徐世檦を直閤 驍 騎将軍に任じ、殺戮があるたびに、みな彼が命令を実行した。徐孝嗣を殺した後、臨汝県子に封じた。陳顕達の乱が起こると、輔国将軍を加えられた。護軍の崔慧景を 都督 に任じたが、兵権は実際には世檦が握っていた。乱が平定されると、世檦は人に言った。「五百人の軍主が、一万人 都督 を平定できるとは。」世檦もまた帝の昏乱と放縦を知り、その党与の茹法珍、梅虫児に密かに言った。「どの世の天子にも側近はいるものだ、ただ我々の主君が悪いだけだ。」法珍らは権力を争い、これを帝に告げた。帝は次第に彼の凶暴さを憎むようになり、永元二年正月、禁兵を派遣して彼を殺させた。世檦は抵抗して戦い、死んだ。これ以降、法珍と虫児が権力を握り、ともに外監となり、口で 詔 勅を称した。中書舎人の王咺之は彼らと結託し、文書を専管した。その他二十余人も、みな勢力を持っていた。崔慧景の乱平定後、法珍は余干県男に、虫児は竟陵県男に封じられた。
義師が起こると、江州と郢州の二鎮はすでに降伏したが、帝は以前と変わらず遊び歩き、茹法珍に言った。「敵が白門前に来るまで待ち、そこで一戦交えよう。」義師が近郊に至ると、ようやく兵を集めて固守の計を立てた。王侯や朝貴を召集し、尚書都座や殿省に配置した。また鬼神を信じ、崔慧景の乱の時には、蒋子文の神を仮黄鉞・使持節・相国・太宰・大将軍・録尚書・揚州牧・鍾山王に拝した。この時にはさらに皇帝として尊んだ。神像や諸廟の雑神をみな後堂に迎え入れ、親しい巫の朱光尚に祈禱祭祀させて福を求めた。冠軍将軍の王珍国に三万人を率いさせて大桁を守らせたが、戦う志気はなく、左右直長の宦官の王宝孫を督戦に派遣し、「王長子」と呼んだ。宝孫は諸将帥を激しく罵り、直閤将軍の席豪は憤慨して陣に突撃して死んだ。席豪は勇将であり、彼が死ぬと、諸軍は土崩瓦解し、兵士たちが朱雀観から身を投げたり淮水に飛び込んで死ぬ者が数え切れなかった。そこで城門を閉じて自守し、城内の軍事は王珍国に委ねた。兖州 刺史 の張稷が京師の守備に入り、張稷を副将としたが、実際の甲兵はなお七万人いた。
帝は烏帽に袴褶を着け、羽儀を整え、南掖門に登って臨み望んだ。また鎧馬や斎仗千人を虚設し、みな弓を張り白刃を抜き、東掖門から出て、蒋王が出撃すると称した。もともと軍隊の戦いを好み、初めは宮人を軍とし、後に黄門を用いた。自ら陣に臨み、傷を負ったふりをして、人に輿に乗せて運び去らせた。この時には閲武堂に牙門軍の屯所を設け、毎夜厳重に警戒した。帝は殿内で馬に乗り、鳳荘門から徽明門に入り、馬には銀の蓮葉の具装鎧を着け、雑多な羽や孔雀の羽の飾りを付け、馬の左右を衛従が従い、昼は眠り夜は起きて平常のようであった。外で鼓や叫び声が聞こえると、大紅の袍を着て景陽楼の屋上に登って望み、弩で狙われて危うく当たりそうになった。兵士たちはみな怠け怨み、力を尽くそうとしなかった。兵を募って出戦させると、城門を出て数十歩進んだだけで、みな甲を着たまま座り込んで帰ってきた。城外に伏兵があるのを恐れ、城の傍らの諸府署を焼き、六門の内側はすべて焼き尽くされた。城中の閣道の西掖門の内側では、集まって市を開き、死んだ牛馬の肉を売った。帝は初め群小と計議し、陳顕達は一戦で敗れ、崔慧景は城を包囲したが退却したので、義師は遠くから来たのだから、十日も経たずに散り去るだろうと言い、太官に命じて薪と米を百日分の食糧として準備させただけだった。大桁での敗戦後、人々の心情は凶悪で恐れおののき、法珍らは人々が驚いて逃げ出すのを恐れ、城門を閉じて再び軍を出さなかった。やがて義師の長囲が完成し、塹壕と柵が厳重に固められてから出撃したが、たびたび戦っても勝利できなかった。
帝は特に金銭を惜しみ、賞賜をしようとせず、法珍が叩頭して請うたが、帝は言った。「賊は私だけを取るというのか?なぜ私に物を求めるのか?」後堂には数百本の板が蓄えられていたが、城防に用いるよう申し出ると、帝は殿を作るつもりだと言って、結局与えなかった。また御府の細工三百人に精良な武器を作らせ、包囲が解けたら屏風や除け物に用いるつもりで急がせた。金銀の彫刻や雑多な器物の製作は、平時よりも倍急がせた。
王珍国と張稷は禍が及ぶのを恐れ、兵を率いて殿中に入り、別軍を西上閣から後宮に入らせて遮断し、御刀の豊勇之が内応した。この夜、帝は含徳殿で笙を吹き『女兒子』の歌を歌い、まだ寝入っていなかった。兵が入ってきたと聞き、北戸へ急ぎ出て、後宮に戻ろうとした。清曜閣はすでに閉ざされており、宦官の禁防である黄泰平が刀でその膝を傷つけ、地面に倒れた。帝は振り返って言った。「奴らが反逆したのか?」直後の張斉が首を斬り、梁王に送った。
宣徳太后の令が下った。「皇室は天命を受け継ぎ、祖宗はみな聖人であられた。太祖高皇帝は大業の基を開き、符命を受け、図籙を授かり、世祖武皇帝は聖明を受け継ぎ武功を顕し、高宗明皇帝は盛んな業績を重ねられた。しかし皆、天寿を全うされず、宮車が止まられた。皇統の重みは、まさに儲君に属すべきである。ところが(東昏侯は)生まれつき凶悪愚かで、幼い頃からそれが現れ、乳母の時から成童に至るまで、残忍で凶暴、愚かで頑なであり、行く先々で必ず悪行を著わした。高宗は正嫡に心を留め、嫡子の中の長子を立て、多くの人材で補佐し、賢い外戚を間に置き、内外で支え合い、多くの難を免れんことを願ったが、一年も経たないうちに、早くも殺戮をほしいままにした。近親の親戚、元勲の良き補佐たちを、一族を滅ぼし家門を殲滅させ、十日や一月の間に次々と滅ぼした。任じて頼んだ者はみな、極悪非道の奸物であり、みな兵卒や屠殺人、行商人の類で、容貌は険しく醜く、身は朝権を握り、手は国命を断ち、罪なき者を誅戮し、その財産を奪い、ちょっとした恨みの間に、隣家を滅ぼすほどであった。身は元首にありながら、賤しいことを好み、高い冠に短い服を着け、坐臥ともにそれを身に着けた。朝に出て夜に帰り、際限がなく、民衆を追い立て斥け、巷には住む人もなく、老いも若きも慌てふためき、身を置く所がなく、東へ走り西へ隠れ、北へ出て南へ駆け、病を負い屍を運び、街路を埋め巷を塞いだ。築造や修繕を興し、日夜窮まることなく、朝に構築すれば夕に破壊し、朝に穴を穿てば夕に塞ぎ、随侯の珠で飾っても、これに比べれば粗末であり、璧璫で飾っても、何の足しにもならなかった。暑さが厳しく、金属を溶かし石を砕くような時節に、竹を移し果樹を植え、日も夜もなく、根がまだ植えつかないうちに、葉は先に枯れ、畚や鍬が乱れ飛び、勤労と倦怠が絶えなかった。国庫を浪費し、ひたすら虚飾に専念し、民の財産を強奪し、近くから遠くまで、万民は恐れおののき、路上に流れ彷徨った。府庫の財が尽きると、市場の道で略奪をほしいままにし、工商人や小売商人は、行く先々で泣き叫んだ。この万乗の尊をもって、自ら角抵に従事し、頭を上げ肩をそびやかし、橦木の技を披露し、見物人が壁のように集まっても、少しも恥じる様子がなかった。芳楽苑や華林苑に、ともに市街を立て、店を構えて刀を振るい、自ら軽重を量った。干戈の騒ぎは、朝晩絶えることなく、戦いもないのに城を築くなど、比喩にすらならない。喪中に淫宴にふける過ち、三年の喪中に子供を弄ぶ醜態、道に背き常に違う罪、牝鶏が朝に鳴くような悪事は、事柄としては細かいので、ここでは省略してもよい。楚や越の竹を尽くしても言い尽くせず、殷の辛(紂王)や癸(桀王)のような君主と比べても、匹敵するだろうか。征東将軍(蕭衍)は忠武を奮い起こし、袖を振るって万里を投じ、明聖(和帝)を奉戴し、中興を助け成し遂げた。勝ちに乗じて席巻し、京邑を掃清したが、群小は道理を知らず、城に拠って自らを固め、誅戮を遅らせ、すでに十日余りが過ぎた。速やかに平定し、我が国家を安んずべきである。ひそかに間者を派遣し、密かにこの旨を宣べ、忠勇の士が一斉に奮い立ち、速やかに掃討し、昏凶の者を追放し、外邸に護送せよ。未亡人は不幸にも、このような多くの災いに遭い、存命の者と亡き者を思い、心は切り裂かれるようである。どうしようもないことだ。どうしようもないことだ。」また、漢の海昏侯の故事に倣い、東昏侯に追封するよう命じた。茹法珍、梅虫児、王咺之らは誅殺された。豊勇之は死罪を免じられた。
史臣が言う。漢の宣帝の時、南郡で白虎が捕らえられた。捕らえた者は張武であり、これは武が張り、猛獣が服すことを言ったのである。東昏侯は徳を失い、横暴がはびこった。道は乱を救うことに帰し、自ら討伐に当たり、実に太平を開いた。宦官の名前を推すことも、また天意であった。