南齊書

卷六 本紀第六

卷六 本紀第六

高宗明皇帝、諱いみなは鸞、字あざなは景栖、始安貞王蕭道生の子である。幼名は玄度。幼くして孤児となり、太祖(蕭道成)に養育され、その恩愛は他の諸子を超えていた。宋の泰豫元年(472年)、安吉県令となり、厳格で有能な名があった。武陵王の左常侍に補されたが、拝命しなかった。元徽二年(474年)、永世県令となった。昇明二年(478年)、邵陵王の安南記室参軍となった。拝命しないうちに、寧朔将軍、淮南・宣城二郡太守に遷った。まもなく輔国将軍の号を加えられた。太祖が即位すると、侍中に遷り、西昌侯に封ぜられ、邑千戸を賜った。建元二年(480年)、持節、都督郢州司州之義陽諸軍事、冠軍将軍、郢州刺史となり、征虜将軍の号に進んだ。世祖(武帝)が即位すると、度支尚書に転じ、右軍将軍を領した。永明元年(483年)、侍中に遷り、驍騎将軍を領した。王子侯は従来、帷を垂らした車に乗っていたが、高宗だけは帷を下ろさず、儀仗や従者は普通の士人のようであった。公事が混乱し、食料を売る者が火を担いで誤って牛の鼻を焼いたことがあり、豫章王(蕭嶷)が世祖に報告すると、世祖は笑った。散騎常侍、左衛将軍に転じ、清道して行進したので、上(世祖)は大いに喜んだ。二年(484年)、征虜将軍、呉興太守として出向した。四年(486年)、中領軍に遷り、常侍の職は従前の通りであった。五年(487年)、持節、監豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事、右将軍、豫州刺史となった。七年(489年)、尚書右僕射となった。八年(490年)、衛尉を加領した。十年(492年)、左僕射に転じた。十一年(493年)、右衛将軍を領した。世祖の遺詔により侍中、尚書令となり、まもなく鎮軍将軍を加えられ、班剣二十人を与えられた。隆昌元年(494年)、本官のまま大将軍となり、鼓吹一部、親兵五百人を与えられた。まもなく中書監、開府儀同三司を加えられた。鬱林王が廃され、海陵王が立つと、使持節、都督揚南徐二州軍事、驃騎大将軍、録尚書事、揚州刺史となり、開府は従前の通り、班剣を三十人に増やされ、宣城郡公に封ぜられ、二千戸を賜った。東府城に鎮した。兵五千人、銭二百万、布千匹を与えられた。九江で乱が起こると、黄鉞を仮授された。乱が鎮まると、上表して返上した。まもなく黄鉞、都督中外諸軍事、太傅を加えられ、大将軍、揚州牧を領し、班剣を四十人に増やされ、幢絡三望車、前後部の羽葆鼓吹を与えられ、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がり、朝廷に入る時は小走りせず、拝礼の際に名を唱えられず、左右の長史、司馬、從事中郎、掾、属を各四人置き、宣城王に封ぜられ、邑五千戸を賜い、持節、侍中、中書監、録尚書はすべて従前の通りとなった。拝命しないうちに、太后の令により海陵王が廃され、上(蕭鸞)が太祖(蕭道成)の第三子として皇統を継ぐこととなり、群臣が三度請うて、ようやく天命を受けた。

原文高宗明皇帝諱鸞,字景栖,始安貞王道生子也。小諱玄度。少孤,太祖撫育,恩過諸子。宋泰豫元年,為安吉令,有嚴能之名。補武陵王左常侍,不拜。元徽二年,為永世令。昇明二年,為邵陵王安南記室參軍。未拜,仍遷寧朔將軍、淮南宣城二郡太守。尋進號輔國將軍。太祖踐阼,遷侍中,封西昌侯,邑千戶。建元二年,為持節、督郢州司州之義陽諸軍事、冠軍將軍、郢州刺史,進號征虜將軍。世祖即位,轉度支尚書,領右軍將軍。永明元年,遷侍中,領驍騎將軍。王子侯舊乘纏帷車,高宗獨乘下帷,儀從如素士。公事混撓,販食人擔火誤燒牛鼻,豫章王白世祖,世祖笑焉。轉為散騎常侍、左衞將軍,清道而行,上甚悅。二年,出為征虜將軍、吳興太守。四年,遷中領軍,常侍竝如故。五年,為持節、監豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事、右將軍、豫州刺史。七年,為尚書右僕射。八年,加領衞尉。十年,轉左僕射。十一年,領右衞將軍。世祖遺詔為侍中、尚書令,尋加鎮軍將軍,給班劍二十人。隆昌元年,即本號為大將軍,給鼓吹一部,親兵五百人。尋又加中書監、開府儀同三司。鬱林王廢,海陵王立,為使持節、都督揚南徐二州軍事、驃騎大將軍、錄尚書事、揚州刺史,開府如故,增班劍為三十人,封宣城郡公,二千戶。鎮東府城。給兵五千人,錢二百萬,布千匹。九江作難,假黃鉞,事寧,表送之。尋加黃鉞、都督中外諸軍事、太傅,領大將軍、揚州牧,增班劍為四十人,給幢絡三望車,前後部羽葆鼓吹,劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名,置左右長史、司馬、從事中郎、掾、屬各四人,封宣城王,邑五千戶,持節、侍中、中書監、錄尚書竝如故。未拜,太后令廢海陵王,以上入纂太祖為第三子,羣臣三請,乃受命。

建武元年(494年)冬十月癸亥、皇帝の位に即いた。詔を下して言った。「皇斉は天命を受け、大業を建て、明鏡を握って宸極に臨み、神武の光が重ねて輝き、欽明の美徳が輝いている。七百代の長きにわたり、盤石のように固くあらねばならない。しかし、王道は中だるみ、天の階梯は繰り返し阻まれ、継承の命は多く違えられ、藩屏の禍いは甚だ急迫している。宏大な図謀と輝かしい暦数は、まさに淵に墜ちんとしている。宣徳皇后は遠く興廃を鑑み、旧典を手本とし、宰相に諮問して、正しく霊策を定め、宝命をわが一身に集められた。私は不肖で浅薄ながら、大業を受け継ぎ、宏大な基業を仰ぎ、億兆の民を顧みて、永遠に先人の構えを思い、春の氷を踏むがごとく、朝に憂え夕に慎み、どうすればよいかわからず、万国と共にこの維新の政を広めたいと思う。天下に大赦を行い、元号を改める。宿衛の者は身分を一階級進め、その他の文武官は位二等を賜う。未納の租税と古い債務、官物の賠償負担で、建武元年以前のものは、すべて免除する。台府にいる賊徒の残党は、すべて赦免して放免せよ。罪を負って流刑・移住した者は、すべて郷里に帰還させる。」太尉王敬則を大司馬とし、司空陳顯達を太尉とし、尚書令王晏に驃騎大将軍を加え、中領軍蕭諶を領軍将軍、南徐州刺史とし、皇子蕭宝義を揚州刺史とし、中護軍王玄邈を南兗州刺史とし、新たに右将軍となった張瓌を右光禄大夫とし、平北将軍王広之を江州刺史とした。乙丑、遠近からの即位祝賀の礼を禁じる詔を下した。丁卯、詔を下して「今後、彫琢や篆刻など、歳時に合わせて新調するものは、すべて停止・削減せよ。藩王・牧守・県令などが献上するものは、その土地の産物でない場合は、厳しく禁断する」とした。安陸昭侯蕭緬を追贈して安陸王とした。己巳、安陸侯の子蕭宝晊を湘州刺史とした。詔を下して言った。「近ごろ職務を守る官吏は、多く旧典に背き、私利を図って公を害し、まさに民の蠹となっている。今、商旅に対する石頭後渚の税や、人夫の借用などは、一切停止する。各地のすべての公的な徴発は、ただちに符牒で停止せよ。主管の曹が詳細に制度を定め、憲司は明らかに監察せよ。」

原文建武元年冬十月癸亥,即皇帝位。詔曰:「皇齊受終建極,握鏡臨宸,神武重輝,欽明懿鑠,七百攸長,盤石斯固,而王度中蹇,天階荐阻,嗣命多違,蕃釁孔棘,宏圖景曆,將墜諸淵。宣德皇后遠鑒崇替,憲章舊典,疇咨台揆,允定靈策,用集寶命于予一人。猥以虛薄,纘戎大業,仰繫鴻丕,顧臨兆民,永懷先構,若履春冰,寅憂夕惕,罔識攸濟,思與萬國播此惟新。大赦天下,改元。宿衞身普轉一階,其餘文武,賜位二等。逋租宿責,換負官物,在建武元年以前,悉原除。劫賊餘口在臺府者,可悉原放。負釁流徙,竝還本鄉。」太尉王敬則為大司馬,司空陳顯達為太尉,尚書令王晏加驃騎大將軍,中領軍蕭諶為領軍將軍、南徐州刺史,皇子寶義為揚州刺史,中護軍王玄邈為南兖州刺史,新除右將軍張瓌為右光祿大夫,平北將軍王廣之為江州刺史。乙丑,詔斷遠近上禮。丁卯,詔「自今彫文篆刻,歲時光新,可悉停省。蕃牧守宰,或有薦獻,事非任土,嚴加禁斷」。追贈安陸昭侯緬為安陸王。己巳,以安陸侯子寶晊為湘州刺史。詔曰:「頃守職之吏,多違舊典,存私害公,實興民蠹。今商旅稅石頭後渚及夫鹵借倩,一皆停息。所在凡厥公宜,可即符斷。主曹詳為其制,憲司明加聽察。」

十一月癸酉、西中郎長史始安王蕭遙光を揚州刺史とし、晋寿太守王洪範を青・冀二州刺史とし、尚書令王晏に太子少傅を領させた。甲戌、大司馬尋陽公王敬則ら十三人が爵位・封邑を進められ、それぞれ差があった。詔を下して新林苑を廃し、以前は民地であった部分はすべて元の所有者に返還し、本来の価値を補償した。庚辰、皇子蕭宝義を晋安王に、蕭宝玄を江夏王に、蕭宝源を廬陵王に、蕭宝夤を建安王に、蕭宝融を随郡王に、蕭宝攸を南平王に立てた。甲申、詔を下して言った。「県令の禄は薄く俸は微かで、耕作に代わるには足りず、その土地の恒常的な貢納もまた労費である。今後はすべて停止する。」また詔して「宣城国の五品以上の者は、すべて満員の叙任とする。これ以下の者は、すべて解任・遣散を聴許する。仕官を望む者は、それぞれの望む所に適わせよ。」乙酉、始安貞王を追尊して景皇とし、妃を懿后とした。丙戌、輔国将軍聞喜公蕭遙欣を荊州刺史とし、寧朔将軍豊城公蕭遙昌を豫州刺史とした。丁亥、詔を下して「細作中署、材官、車府など、すべての工匠は、交代で休暇を開き、順次に休息させよ。」戊子、皇太子蕭宝卷を立て、天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、孝子・従孫、義夫・節婦を広く表彰し、明らかに顕揚する。その門前に表彰し、束帛を賜う。己丑、詔を下して「東宮が創建されたが、遠近から慶礼があっても、すべて停止せよ。」壬辰、新たに征虜将軍となった江夏王蕭宝玄を郢州刺史とした。永明年間(483-493年)、御史中丞沈淵が上表し、百官で年齢七十に達した者はすべて致仕させ、私邸で困窮していると述べた。庚子、詔を下して言った。「かつて諸官庁の高齢者は、自ら陳述することを許し、東西二省(中書省・門下省)の者はなお微禄にありながら、私邸に退いて職務を辞し、栄誉と俸禄を共に失っている。老いを愛する言葉を発するのは、実に哀れみの心があるからである。縉紳で年齢に達した者は、すべて永明七年(489年)以前の選叙の規定に従え。」上(蕭鸞)が輔政中に誅殺した諸王は、今月に宗籍に復し、それぞれ子を封じて侯とした。

原文十一月癸酉,以西中郎長史始安王遙光為揚州刺史,晉壽太守王洪範為青、冀二州刺史,尚書令王晏領太子少傅。甲戌,大司馬尋陽公王敬則等十三人進爵邑各有差。詔省新林苑,先是民地,悉以還主,原責本直。庚辰,立皇子寶義為晉安王,寶玄為江夏王,寶源為廬陵王,寶夤為建安王,寶融為隨郡王,寶攸為南平王。甲申,詔曰:「邑宰祿薄俸微,不足代耕,雖任土恒貢,亦為勞費,自今悉斷。」又詔「宣城國五品以上,悉與滿敘。自此以下,皆聽解遣。其欲仕,適所樂」。乙酉,追尊始安貞王為景皇,妃為懿后。丙戌,以輔國將軍聞喜公遙欣為荊州刺史,寧朔將軍豐城公遙昌為豫州刺史。丁亥,詔「細作中署、材官、車府,凡諸工,可悉開番假,遞令休息」。戊子,立皇太子寶卷,賜天下為父後者爵一級,孝子從孫,義夫節婦,普加甄賜明揚。表其衡閭,賚以束帛。己丑,詔「東宮肇建,遠近或有慶禮,可悉斷之」。壬辰,以新除征虜將軍江夏王寶玄為郢州刺史。永明中,御史中丞沈淵表百官年登七十,皆令致仕,竝窮困私門。庚子,詔曰:「日者百司耆齒,許以自陳,東西二省,猶沾微俸,辭事私庭,榮祿兼謝,興言愛老,實有矜懷。自縉紳年及,可一遵永明七年以前銓敘之科。」上輔政所誅諸王,是月復屬籍,各封子為侯。

十二月壬子、詔を下して言った。「上は見落としやすく、下情は上達し難い。それゆえに甘棠の木が称美され、肺石の上で詠嘆が流れるのである。今後は毎月一度、上奏文を閲覧する。もし冤罪を抱えて申し立てず、正直を懐いて挙げない者がいるならば、民を治める官は、すべてその失態を責められる。」

原文十二月壬子,詔曰:「上覽易遺,下情難達,是以甘棠見美,肺石流詠。自月一視黃辭,如有含枉不申,懷直未舉者,莅民之司,竝任厥失。」

二年春正月辛未、詔を下して「京師に囚われている殊死しゅしの罪人は、五歳刑に降格させることができる。三署で服役中の五年以下の者は、すべて赦免して放散せよ。王公以下は、それぞれ知る者を推挙せよ。王公卿士に随い、内外の群僚は、それぞれ朕の過失を挙げ、心のままに極諫せよ」とした。索虜が司州、豫州、徐州、梁州の四州を侵犯した。壬申、鎮南将軍王広之を派遣して司州の征討を監督させ、右衛将軍蕭坦之を派遣して徐州の征討を監督させ、尚書右僕射沈文季を派遣して豫州の征討を監督させた。己卯、詔を下して京師の二県に墳墓を破壊・発掘したものがあれば、状況に応じて修理せよとした。また詔して曰く「食は民の天であり、その意義は周の典籍に高く掲げられている。蚕は生業の根本であり、その教えは軒轅の経書に重んじられている。前代の哲人の盛んな模範、後世の王者の茂った法則は、命令を布き端緒を審らかにすることであり、必ずこれによる。朕は朝廷に厳かに座し、風教を弘めようとし、八政に深く務め、勤勉にあることを永く鑑とし、静かに言えば日が傾くまで、寝起きを忘れない。守宰は民に親しむ主であり、牧伯は風俗を調える司である。農桑を厳しく督励し、遊惰を許さず、日影を測り力を尽くして、必ず地利を窮め、堤防を固く修築し、成績を考課して優劣を定めよ。もし耕作や養蚕が特に優れている者がいれば、詳細に名を挙げて報告せよ。遊惰で生業を害する者がいれば、ただちに上奏せよ。主管者は詳細に条格を定めよ」。乙未、虜が鍾離を攻撃したが、徐州刺史蕭惠休がこれを撃破した。丙申、太尉陳顯達に使持節・都督西北征討諸軍事を加えた。丁酉、内外に厳戒態勢を布いた。

原文二年春正月辛未,詔「京師繫囚殊死,可降為五歲刑,三署見徒五歲以下,悉原散。王公以下,各舉所知。隨王公卿士,內外羣僚,各舉朕違,肆心極諫」。索虜寇司、豫、徐、梁四州。壬申,遣鎮南將軍王廣之督司州征討,右衞將軍蕭坦之督徐州征討,尚書右僕射沈文季督豫州征討。己卯,詔京師二縣有毀發墳壠,隨宜脩理。又詔曰:「食惟民天,義高姬載,蠶實生本,教重軒經。前哲盛範,後王茂則,布令審端,咸必由之。朕肅扆巖廊,思弘風訓,深務八政,永鑒在勤,靜言日昃,無忘寢興。守宰親民之主,牧伯調俗之司,宜嚴課農桑,罔令游隋,揆景肆力,必窮地利,固脩堤防,考校殿最。若耕蠶殊眾,具以名聞;游怠害業,即便列奏。主者詳為條格。」乙未,虜攻鍾離,徐州刺史蕭惠休破之。丙申,加太尉陳顯達使持節、都督西北征討諸軍事。丁酉,內外纂嚴。

三月戊申、詔を下して「南徐州の僑民と旧民の壮丁で、多くが軍旅に充てられている者は、今年の三課を免除する」とした。己未、司州刺史蕭誕が諸軍とともに虜を撃ち、これを破った。詔を下して「雍州、豫州、司州、南兗州、徐州の五州で寇賊に遭った家は、今年の税調をすべて停止する。虜と交通した者は、過去の罪を問わない」とした。丙寅、青州の麦租を停止した。虜は寿春から退却した。甲申、厳戒態勢を解除した。

原文三月戊申,詔「南徐州僑舊民丁,多充戎旅,蠲今年三課」。己未,司州刺史蕭誕與眾軍擊虜,破之。詔「雍、豫、司、南兖、徐五州遇寇之家,悉停今年稅調。其與虜交通,不問往罪」。丙寅,停青州麥租。虜自壽春退走。甲申,解嚴。

夏四月己亥朔、詔を下して「三百里以内の訴訟は、ともに京師に集め、期日を定めて聴取・審理する。これ以外は州郡に委ねて訊問・調査させる。三署の徒刑囚と奴隷は、差等をつけて赦免・放免する」とした。索虜が漢中を包囲したが、梁州刺史蕭懿がこれを防ぎ退けた。己未、新たに黄門郎に任じられた裴叔業を徐州刺史とした。

原文夏四月己亥朔,〔詔〕「三百里內獄訟,同集京師,克日聽覽。此以外委州郡訊察。三署徒隸,原遣有差」。索虜圍漢中,梁州刺史蕭懿拒退之。己未,以新除黃門郎裴叔業為徐州刺史。

五月甲午、宗廟が完成した。詔を下して「監作の長帥には、位一等を賜う。労役に従事した者は一年の休暇を与えて帰郷させ、労役に従事しなかった者も同じ休暇期間の租税を免除する」とした。

原文五月甲午,寢廟成,詔「監作長帥,可賜位一等,役身遣假一年,非役者蠲租同假限」。

六月壬戌、領軍将軍蕭諶、西陽王蕭子明、南海王蕭子罕、邵陵王蕭子貞を誅殺した。乙丑、右衛将軍蕭坦之を領軍将軍とした。

原文六月壬戌,誅領軍將軍蕭諶、西陽王子明、南海王子罕、邵陵王子貞。乙丑,以右衞將軍蕭坦之為領軍將軍。

秋七月辛未、右将軍晉安王蕭宝義を南徐州刺史とした。壬申、冠軍将軍梁王を司州刺史とした。辛卯、氐の楊馥之を北秦州刺史・仇池公とした。

原文秋七月辛未,以右將軍晉安王寶義為南徐州刺史。壬申,以冠軍將軍梁王為司州刺史。辛卯,以氐楊馥之為北秦州刺史、仇池公。

八月丁未、右衛将軍廬陵王蕭宝源を南兗州刺史とした。庚戌、新たに輔国将軍に任じられた申希祖を兗州刺史とした。

原文八月丁未,以右衞將軍廬陵王寶源為南兖州刺史。庚戌,以新除輔國將軍申希祖為兖州刺史。

九月己丑、南平王蕭宝攸を邵陵王に改封し、蜀郡王蕭子文を西陽王に、広漢王蕭子峻を衡陽王に、臨海王蕭昭秀を巴陵王に、永嘉王蕭昭粲を桂陽王に改封した。

原文九月己丑,改封南平王寶攸為邵陵王,蜀郡王子文為西陽王,廣漢王子峻為衡陽王,臨海王昭秀為巴陵王,永嘉王昭粲為桂陽王。

冬十月癸卯、詔して曰く「世の軌範として奢侈を去ることは、事績の多い哲王の務めであり、物を訓えて倹約させることは、前王の理の鏡である。朕は流弊の末に属し、浮薄な末世を襲っている。たとえ自ら恭しくして教化を弘め、意を刻んで太平を隆めようとしても、礼譲はまだ興らず、侈華がなお競っている。永遠に玄風を覧て、言うごとに兢として愧じる。淳朴に還り風俗を改め、古に返って民を移す方策を思う。東田を廃し、興光楼を毀却せよ」。併せて詔して水衡の量を省き御乗を減らした。乙卯、皇太子妃褚氏を納れ、大赦を行った。王公以下に、等級に応じて班賜を行った。四方からの上礼を断った。

原文冬十月(丁)〔癸〕卯,詔曰:「軌世去奢,事殷哲后,訓物以儉,理鏡前王。朕屬流弊之末,襲澆浮之季,雖恭已弘化,刻意隆平,而禮讓未興,侈華猶競。永覽玄風,兢言集愧,思所以還淳改俗,反古移民。可罷東田,毀興光樓。」并詔水衡量省御乘。乙卯,納皇太子妃褚氏,大赦。王公已下,班賜各有差。斷四方上禮。

十二月丁酉、詔して曰く「旧い国都の邑を望めば、悵然とする。ましてや自ら南面し、宸居に背を負って座し、あるいは功績が当時に及び、徳が一世に及んだ者たちの、塋墓が雑草に埋もれ、封樹が修繕されていないのは、ただ牧童の嘆きが深いとか、信陵君の悲しみに甚だしいというだけではない。昔、中京が陥落し、鼎玉が東遷した。晋の元帝が締構を始めた時、簡文帝の遺詠は民に残っているが、その松門は廃れ、墓道は雑草に覆われている。年代が遠く異なっていても、事に撫でては懐かしむ。晋帝の諸陵はすべて修理を加え、守衛を増員せよ。呉郡、晉陵郡の二郡で凶作に遭った郷には、三調を差等をつけて免除する」。

原文十二月丁酉,詔曰:「舊國都邑,望之悵然。況乃自經南面,負扆宸居,或功濟當時,德覃一世,而塋壠欑穢,封樹不脩,豈直嗟深牧竪,悲甚信陵而已哉。昔中京淪覆,鼎玉東遷,晉元締構之始,簡文遺詠在民,而松門夷替,埏路榛蕪。雖年代殊往,撫事興懷。晉帝諸陵,悉加脩理,并增守衞。吳、晉陵二郡失稔之鄉,蠲三調有差。」

三年春正月丁卯、陰平王楊炅の子の崇祖を沙州刺史とし、陰平王に封じた。北中郎将建安王蕭宝夤を江州刺史とした。己巳、詔を下して守長の六年任期の制度を明らかにした。乙酉、詔を下して「去歳、索虜が辺境を侵犯した際、縁辺の諸州郡の将士で戦陣に臨み、あるいは疾病で死亡した者は、すべて本土に送還せよ」とした。

原文三年春正月丁(酉)〔卯〕,以陰平王楊炅子崇祖為沙州刺史,封陰平王。北中郎將建安王寶夤為江州刺史。己巳,詔申明守長六周之制。乙酉,詔「去歲索虜寇邊,緣邊諸州郡將士有臨陣及疾病死亡者,竝送還本土」。

三月壬午、詔を下して「車府の乗輿で金銀の飾りや装飾があるものは、すべて取り除け」とした。

原文三月壬午,詔「車府乘輿有金銀飾校者,皆剔除」。

夏四月、虜が司州を侵犯したが、戍兵がこれを撃破した。

原文夏四月,虜寇司州,戍兵擊破之。

五月己巳、征虜将軍蕭懿を益州刺史とし、前軍将軍陰広宗を梁・南秦二州刺史とし、新たに寧州刺史に任じられたばかりの李慶宗を寧州刺史とした。

原文五月己巳,以征虜將軍蕭懿為益州刺史,前軍將軍陰廣宗為梁、南秦二州刺史,前新除寧州刺史李慶宗為寧州刺史。

秋九月辛酉、冠軍将軍徐玄慶を兗州刺史とした。

原文秋九月辛酉,以冠軍將軍徐玄慶為兖州刺史。

冬十月、輔国将軍申希祖を司州刺史とした。

原文冬十月,以輔國將軍申希祖為司州刺史。

閏十二月戊寅、皇太子が元服し、王公以下に帛をそれぞれ差等を付けて賜り、父の後継者には爵位一級を賜った。遠近からの祝儀の献上を禁じた。また詔して「今年は新たな光禄(供給)を必要とせず、現銭をもって百官の供給とすることができる」とした。

原文閏十二月戊寅,皇太子冠,賜王公以下帛各有差,為父後者賜爵一級。斷遠近上禮。又詔「今歲不須光新,可以見錢為百官供給」。

四年春正月庚午、大赦を行った。詔して言った。「嘉肴を俎に並べるのは、必ず旨い味を定めるためであり、良玉を琢磨するのは、既に完成した珪璋の美しさを表すためである。よって万物を陶冶するには、根本を務めることを先とし、天下を経緯するには、学問教育を大いなるものとする。かつて時世の平穏に乗じて、学校を崇め建てたが、困難が重なり、やむを得ず廃止を省みた。歌い誦む声が寂しく、あっという間に年月が過ぎた。古昔を永く思い、朝夕を忘れない。今、華夏は安寧であり、辺境の地も慕い向かっている。東序(大学)を整備修繕することは、まさに時宜に適っている。よって旧来の規定に従い、広く国の子弟を招き、大いなる業績を広め、後世の者たちに光を及ぼすべきである。」壬寅、詔して「民が子を産んだ場合、その父母の調役を一年免除し、さらに米十斛こくを賜う。新婚の者は、夫の役を一年免除する」とした。丙辰、尚書令王晏が誅殺された。

原文四年春正月庚午,大赦。詔曰:「嘉肴停俎,定方旨於必甘,良玉在攻,表珪璋於既就,是以陶鈞萬品,務本為先,經緯九區,學斆為大。往因時康,崇建庠序,屯虞荐有,權從省廢,謳誦寂寥,倐移年稔,永言古昔,無忘旰昃。今華夏乂安,要荒慕嚮,締脩東序,寔允適時。便可式依舊章,廣延國冑,弘敷景業,光被後昆。」壬寅,詔「民產子者,蠲其父母調役一年,又賜米十斛。新婚者,蠲夫役一年」。丙辰,尚書令王晏伏誅。

二月甲子、左僕射徐孝嗣を尚書令とし、征虜将軍蕭季敞を広州刺史とした。

原文二月甲子,以左僕射徐孝嗣為尚書令,征虜將軍蕭季敞為廣州刺史。

三月乙未、右僕射沈文季が護軍将軍を兼任した。

原文三月乙未,右僕射沈文季領護軍將軍。

秋八月、景皇帝の生母王氏を恭太后と追尊した。索虜が沔水の北を侵犯した。

原文秋八月,追尊景皇所生王氏為恭太后。索虜寇沔北。

冬十月、また司州を侵犯した。甲戌、太子中庶子梁王、右軍司馬張稷を派遣してこれを討伐させた。

原文冬十月,又寇司州,甲戌,遣太子中庶子梁王、右軍司馬張稷討之。

十一月丙辰、氐族の楊霊珍を北秦州刺史、仇池公、武都公とした。丁亥、詔して「各地で課税される屋宅・田・桑の価格は、旧価格から詳細に減額してよい」とした。

原文十一月丙辰,以氐楊靈珍為北秦州刺史、仇池公、武都公。丁亥,詔「所在結課屋宅田桑,可詳減舊價」。

十二月甲子、冠軍将軍裴叔業を豫州刺史とし、冠軍将軍徐玄慶を徐州刺史とし、寧朔将軍左興盛を兗州刺史とした。丁丑、度支尚書崔慧景に命じて軍勢を率い雍州を救援させた。

原文十二月甲子,以冠軍將軍裴叔業為豫州刺史,冠軍將軍徐玄慶為徐州刺史,寧朔將軍左興盛為兖州刺史。丁丑,遣度支尚書崔慧景率眾救雍州。

永泰元年春正月癸未朔、大赦を行った。四年以前の未納租税と古い債務は、すべて免除する。中軍大将軍徐孝嗣は本官のまま開府儀同三司となった。沔水以北の諸郡が虜に侵され、相次いで陥落した。乙巳、太尉陳顕達を派遣し節を持たせて雍州を救援させた。丁未、河東王蕭鉉、臨賀王蕭子岳、西陽王蕭子文、衡陽王蕭子峻、南康王蕭子琳、永陽王蕭子珉、湘東王蕭子建、南郡王蕭子夏、桂陽王蕭昭粲、巴陵王蕭昭秀を誅殺した。

原文永泰元年春正月癸未朔,大赦。逋租宿債在四年之前,皆悉原除。中軍大將軍徐孝嗣即本號開府儀同三司。沔北諸郡為虜所侵,相繼敗沒。乙巳,遣太尉陳顯達持節救雍州。丁未,誅河東王鉉、臨賀王子岳、西陽王子文、衡陽王子峻、南康王子琳、永陽王子珉、湘東王子建、南郡王子夏、桂楊王昭粲、巴陵王昭秀。

二月癸丑、左衛将軍蕭惠休を派遣し節を持たせて寿陽を救援させた。辛未、豫州刺史裴叔業が淮北で虜を撃破した。辛巳、平西将軍蕭遙欣が雍州刺史を兼任した。

原文二月癸丑,遣左衞將軍蕭惠休假節援壽陽。辛未,豫州刺史裴叔業擊虜於淮北,破之。辛巳,平西將軍蕭遙欣領雍州刺史。

三月丙午、雍州で虜の被害に遭った県の租税と布を免除した。戊申、詔して言った。「仲尼(孔子)は身に聖明を備え、確かに上哲の光を放ち、その雅正な道を広め、民を大いに教化し、百王の師範となり、千載の軌儀となり、人を立てることはこれに仰ぎ、忠孝はここから出る。その玄妙な功績はひそかに及び、至高の徳はますます明らかである。その衣を翻す姿は遠く遥かであるが、祖廟への祭祀は欠けることがなく、時の祭りは旧来の品々であり、その秩は諸侯に比する。近年以来、祭祀の典礼は廃れ、俎豆は寂しく、犠牲の供えも行われない。どうして盛んな功業を明らかにし、風教を永く隆盛にすることができようか。旧来の典拠に従い、祭祀の秩禄を詳細に復活させ、犠牲と穀物で礼を備え、敬い饗宴することを共に行わせよ。」

原文三月丙午,蠲雍州遇虜之縣租布。戊申,詔曰:「仲尼明聖在躬,允光上哲,弘厥雅道,大訓生民,師範百王,軌儀千載,立人斯仰,忠孝攸出,玄功潛被,至德彌闡。雖反袂遐曠,而祧薦靡闕,時祭舊品,秩比諸侯。頃歲以來,祀典陵替,俎豆寂寥,牲奠莫舉,豈所以克昭盛烈,永隆風教者哉。可式循舊典,詳復祭秩,使牢餼備禮,欽饗兼申。」

夏四月甲寅、元号を改め、三署に囚われている者を赦し、免除に差等を付けた。文武の官には位二等を賜った。丙戌、鎮軍将軍蕭坦之を侍中、中領軍とした。己未、武陵昭王の子の蕭子坦を衡陽王に立てた。丙寅、西中郎長史劉暄を郢州刺史とした。丁卯、大司馬会稽太守王敬則が兵を挙げて反乱した。

原文夏四月甲寅,改元,赦三署囚繫原除各有差。文武賜位二等。丙戌,以鎮軍將軍蕭坦之為侍中、中領軍。己未,立武陵昭王子子坦為衡陽王。丙寅,以西中郎長史劉暄為郢州刺史。丁卯,大司馬會稽太守王敬則舉兵反。

五月壬午、輔国将軍劉山陽を派遣し軍を率いて東方を討伐させた。乙酉、敬則を斬り首を伝送し、浙東、呉、晋陵の七郡を部分的に赦した。後軍長史蕭穎冑を南兗州刺史とした。丁酉、北中郎将司馬元和を兗州刺史とした。

原文五月壬午,遣輔國將軍劉山陽率軍東討。乙酉,斬敬則傳首,曲赦浙東、吳、晉陵七郡。以後軍長史蕭穎冑為南兖州刺史。丁酉,以北中郎將司馬元和為兖州刺史。

秋七月、輔国将軍王珍国を青州、冀州の二州刺史とした。癸卯、太子中庶子梁王を雍州刺史とし、太尉陳顕達を江州刺史とした。己酉、帝は正福殿で崩御した。四十七歳。遺詔して言った。「徐令(徐孝嗣)は重ねて八命を申し述べよ、中書監の本官はすべて元の通り。沈文季は左僕射とし、常侍護軍は元の通り。江祐は右僕射とせよ。江祀は侍中とせよ。劉暄は衛尉とせよ。軍政の大事は陳太尉に委ねる。内外の諸事は大小を問わず徐孝嗣、蕭遙光、蕭坦之、江祏に委ね、その大事は沈文季、江祀、劉暄と参画させる。心膂の任は劉悛、蕭惠休、崔慧景に委ねよ。」興安陵に葬られた。

原文秋七月,以輔國將軍王珍國為青、冀二州刺史。癸卯,以太子中庶子梁王為雍州刺史,太尉陳顯達為江州刺史。己酉,帝崩〔于〕正福殿,年四十七。遺詔曰:「徐令可重申八命,中書監本官悉如故,沈文季可左僕射,常侍護軍如故,江祐可右僕射,江祀可侍中,劉暄可衞尉。軍政大事委陳太尉。內外眾事無大小委徐孝嗣、遙光、坦之、江祏,其大事與沈文季、江祀、劉暄參懷。心膂之任,可委劉悛、蕭惠休、崔惠景。」葬興安陵。

帝は明察で官吏としての才能があり、法を運用するにあたり情実を挟まず、側近の寵臣を制御し、臣下は厳粛に清らかであった。寒門の者を使い走らせる際には四幅の傘を用いることを許さず、大いに倹約を保った。世祖(武帝)が造営した新林苑を廃止し、その土地を百姓に返還した。文帝(文恵太子)が築いた太子東田を廃し、売り払った。永明年間の車輿・舟船からは、すべて金銀の装飾を剥ぎ取って主衣庫に返還させた。太官が献上する御食に、包み蒸しがあったが、帝は「私はこれを全部食べきれない。四つに切り分けよ。残りは夕食に充てよ」と言った。しかし、世祖の掖庭や宮殿の服飾・調度については、一切改めなかった。

原文帝明審有吏才,持法無所借,制御親幸,臣下肅清。驅使寒人不得用四幅繖,大存儉約。罷世祖所起新林苑,以地還百姓。廢文帝所起太子東田,斥賣之。永明中輿輦舟乘,悉剔取金銀還主衣庫。太官進御食,有裹蒸,帝曰:「我食此不盡,可四片破之,餘充晚食。」而世祖掖庭中宮殿服御,一無所改。

性質は猜疑心が強く慮りが多かったため、しばしば誅戮を行った。密かに道術を信奉し、術数を用い、行幸する際には先に吉凶を占い、南に出る時には西行すると唱え、東に遊ぶ時には北幸すると唱えた。出入りを簡素にし、ついに南郊の祭天を行わなかった。上(帝)は最初に病気になっても、政務を聴取・覧閲することを止めず、そのことは秘して外に伝えなかった。そして病臥が非常に長くなり、台省・府署の文書簿冊に白魚の治療法を求める勅を下して、ようやく外間がそれを知った。身には緋色の衣を着け、服飾はすべて赤色とし、厭勝まじないとした。巫覡が「後湖の水の流れが宮内を通っているため、帝が病気になっている」と言うと、帝は自ら太官の水溝まで行き、側近が「太官にはこの水がなければ成り立ちません」と啓上したが、帝は決意してこれを塞ぎ、南から淮水を引き入れようとした。ちょうどその時に崩御したため、事は中止された。

原文性猜忌多慮,故亟行誅戮。潛信道術,用計數,出行幸,先占利害,南出則唱云西行,東遊則唱云北幸。簡於出入,竟不南郊。上初有疾,無輟聽覽,祕而不傳。及寢疾甚久,勑臺省府署文簿求白魚以為治,外始知之。身衣絳衣,服飾皆赤,以為厭勝。巫覡云:「後湖水頭經過宮內,致帝有疾。」帝乃自至太官行水溝,左右啟:「太官若無此水則不立。」帝決意塞之,欲南引淮流。會崩,事寢。

史臣が言う。高宗(明帝)は傍系の庶子として帝位を継ぎ、猶子(甥)の立場から論じれば、一朝にしてこの地位に至ったことは、誠に本来の心ではなかったが、遺詔による託された責務であり、免れられなかったのは確かである。殺害や排除といった事柄は、その胸中に様々な理由があり、あるいは雄大な残忍さから出たものもあり、あるいは畏怖から生じたものもある。同じ財産を分かち合うべき親族を、自分より先に捨て去り、引き立てて用いた寵愛も、物事の道理に照らせば必ず背かれるものであった。疑いと怯えが既に深く、外の者を猜疑するようになり、涙を流しながら誅戮を行うのは、義挙とは言えず、事を苟くも安泰に求めれば、内心に恥じるところが無いわけにはいかない。その後、自ら本根(後継者)を立てたが、枝葉の子孫は孤弱で、子孫に繁栄をもたらさず、ついに宗廟社稷を覆した。もしも(先帝の)玉璽を押す徴(継承の兆し)が天命に委ねられ、盤庚の祭祀が陽甲を継いだように、運命に従って公に推し進めたのであれば、何を譏ることがあろうか。

原文史臣曰:高宗以支庶纂曆,據猶子而為論,一朝到此,誠非素心,遺寄所當,諒不獲免。夫戕夷之事,懷抱多端,或出自雄忍,或生乎畏懾。令同財之親,在我而先棄,進引之愛,量物其必違。疑怯既深,猜似外人,流涕行誅,非云義舉,事苟求安,能無內愧。既而自樹本根,枝胤孤弱,貽厥不昌,終覆宗社。若令壓(鈕)〔紐〕之徵,必委天命,盤庚之祀,亦繼陽甲,杖運推公,夫何譏爾。