『南史』 巻七十九 列伝第六十九 夷貊下

『南史』

巻七十九 列伝第六十九 夷貊下

東夷

東夷の国々の中では、朝鮮が最も大きく、箕子の教化を得て、その器物にはなお礼楽の風があるという。魏の時代、朝鮮以東の馬韓・辰韓の類は、代々中国と通交した。晋が江を渡ってからは、海を渡って使者が来朝し、高句麗・百済があり、宋・斉の間には常に職貢を通じ、梁が興るとさらに加わった。扶桑国は、かつては聞いたことがなかったが、梁の普通年間に道人と称する者がそこから来たと申し出て、その言うところの本源が特に詳しかったので、併せて記録する。

朝鮮

高句麗

高句麗は、遼東の東千里にあり、その先祖の出自については、事は『北史』に詳しい。土地の広さはおよそ二千里、中に遼山があり、遼水がここから出る。漢・魏の時代、南は朝鮮・濊貊、東は沃沮、北は夫餘と境を接する。その王は丸都山下に都し、土地には大山深谷が多く、平野や沼沢がなく、百姓はこれに依って住み、谷川の水を飲む。土着ではあるが、良田がなく、そのため習俗として食を節し、宮室を造るのを好む。住居の左側に大屋を立て、鬼神を祭り、また霊星・社稷を祀る。人柄は凶暴でせっかち、略奪を好む。その官には相加・対盧・沛者・古鄒加・主簿・優台・使者・皁衣・先人があり、尊卑それぞれに等級がある。言語や諸事は、多く夫餘と同じであるが、その性質気質や衣服には異なる点がある。本来五族があり、消奴部・絶奴部・慎奴部・灌奴部・桂婁部である。本来は消奴部が王であったが、微弱となり、桂婁部が代わった。官を置くにあたり、対盧を置けば沛者を置かず、沛者を置けば対盧を置かない。習俗として歌舞を好み、国中の邑落では、男女が毎夜群れ集まって歌い戯れる。その人々は清潔を好み自ら誇り、酒造りを得意とし、跪拝する時は片足を伸ばし、歩く時は皆走る。十月に天を祭る大集会を行う。その公の集会での衣服は皆錦繡や金銀で自らを飾り、大加・主簿の頭に着けるものは幘に似ているが後ろがなく、その小加は折風を着け、形は弁のようである。その国には牢獄がなく、罪ある者は諸加を集めて評議し、重い者はすぐに殺し、その妻子を没官する。その習俗は淫らを好み、男女多くは互いに誘い合って駆け落ちする。嫁娶が済むとすぐに少しずつ葬送の衣を作る。その死葬には、槨はあるが棺はない。厚葬を好み、金銀財貨は全て死者に送るのに尽くす。石を積んで封土とし、松柏を列植する。兄が死ねばその妻(嫂)を娶る。その馬は皆小さく、登山に適する。国人は気力を尊び、弓矢刀矛に熟達し、鎧甲があり、戦闘を習い、沃沮・東濊は皆これに属する。

晋の安帝義熙九年、高麗王高璉が長史高翼を遣わして表を奉り、赭白馬を献じ、晋は璉を使持節・ 都督 ととく 営州諸軍事・征東将軍・高麗王・楽浪公とした。宋の武帝が践祚すると、璉に征東大将軍を加え、その他の官は全て元の通りとした。三年、璉に 散騎常侍 さんきじょうじ を加え、平州諸軍事の督を増やした。少帝景平二年、璉は長史馬婁らを遣わして来朝し方物を献じ、謁者朱邵伯・王邵子らを遣わしてこれを慰労した。

元嘉十五年、馮弘が魏に攻められ、敗れて高麗の北豊城に奔り、表を奉って迎接を求めた。文帝は使者王白駒・趙次興を遣わしてこれを迎え、併せて高麗に資送させるよう命じた。璉は弘が南に帰るのを望まず、将の孫漱・高仇らを遣わして襲撃し殺害した。白駒らは率いる七千余りの兵で漱を生け捕りにし、仇ら二人を殺した。璉は白駒らが専断で殺害したとして、使者を遣わして彼らを捕らえ送還した。上(文帝)は遠国であるためその意に背きたくなく、白駒らを獄に下したが赦した。

璉は毎年使者を遣わした。十六年、文帝が魏を侵そうとし、璉に詔して馬を送らせ、八百匹を献じた。

孝武帝孝建二年、璉は長史董騰を遣わして表を奉り、国の喪(文帝の崩御)が二周忌に及ぶことを慰め、併せて方物を献じた。大明二年、また粛慎氏の楛矢石砮を献じた。七年、詔して璉を車騎大将軍・開府儀同三司に進め、その他の官は全て元の通りとした。明帝の泰始、後廃帝の元徽年間、貢献は絶えず、斉の代を通じて爵位を授けられ、百余歳で死んだ。子の雲が立ち、斉の隆昌年間、これを使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 営平二州・征東大将軍・高麗王・楽浪公とした。

梁の武帝が即位すると、雲を車騎大将軍に進めた。天監七年、詔して撫東大将軍・開府儀同三司とし、持節・常侍・ 都督 ととく ・王は全て元の通りとした。十一年、十五年、累次使者を遣わして貢献した。十七年、雲が死に、子の安が立った。普通元年、詔して安に封爵を継がせ、持節・督営平二州諸軍事・甯東将軍とした。七年、安が卒し、子の延が立ち、使者を遣わして貢献した。詔して延に爵を継がせた。中大通四年、六年、大同元年、七年、累次表を奉り方物を献じた。太清二年、延が卒し、詔してその子の成に延の爵位を継がせた。

百済

百済とは、その先祖は東夷に三韓国があった:一つを馬韓、二つを辰韓、三つを弁韓という。弁韓・辰韓はそれぞれ十二国、馬韓は五十四国ある。大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸で、百済はその一つである。後に次第に強大となり、諸小国を併合した。その国は本来、句麗と共に遼東の東千余里にあり、晋の世に句麗が遼東をほぼ領有すると、百済もまた遼西・晋平の二郡の地を占拠し、自ら百済郡を置いた。

晋の義熙十二年、百済王余映を使持節・ 都督 ととく 百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とした。宋の武帝が践祚すると、号を進めて鎮東大将軍とした。少帝景平二年、映は長史張威を遣わして宮闕に赴き貢献した。元嘉二年、文帝は謁者を兼ねる閭丘恩子と副謁者を兼ねる丁敬子らに詔し、往って旨を宣べ慰労させ、その後毎年使者を遣わして方物を奉献した。七年、百済王余毗が再び貢職を修め、映の爵号をこれに授けた。二十七年、毗は上書して方物を献じ、私的に台使の馮野夫に西河太守の官を仮授し、表して『易林』・『式占』・腰弩を求め、文帝は全てこれを与えた。毗が死に、子の慶が代わって立った。孝武帝大明元年、使者を遣わして除授を求め、詔してこれを許した。二年、慶は上表を遣わし、行冠軍将軍・右賢王余紀ら十一人の忠勤を述べ、併せて顕進を求めた。ここにおいて詔して併せて優進を加えた。明帝泰始七年、また使者を遣わして貢献した。慶が死に、子の牟都を立てた。都が死に、子の牟大を立てた。斉の永明年間、大 都督 ととく 百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王に除した。梁の天監元年、号を進めて征東将軍とした。まもなく高句麗に破られ、衰弱すること数年、南韓の地に遷居した。普通二年、王余隆が初めて再び使者を遣わして表を奉り、累次高麗を破り、今ようやく通好するに至ったと称し、百済はさらに強国となった。その年、梁の武帝は詔して隆を使持節・ 都督 ととく 百済諸軍事・甯東大将軍・百済王とした。五年、隆が死に、詔してまたその子の明を持節・督百済諸軍事・綏東将軍・百済王とした。

その国の都城を固麻と号し、邑を簷魯と称するは、中国の言う郡県に似ている。国土に二十二の簷魯があり、皆子弟や宗族が分かれて拠る。その人の体形は長く、衣服は清潔である。その国は倭に近く、文身する者も多い。言語と衣服の章飾は高麗とほぼ同じで、帽を冠と呼び、襦を複衫と呼び、褲を褌と呼ぶ。その言葉は諸夏の語と交じり、また秦や韓の遺俗であるという。

中大通六年(534年)及び大同七年(541年)、累次にわたり使者を遣わして方物を献じ、併せて涅槃等の経義や毛詩博士、工匠、画師などを請うたが、全てこれを給した。太清三年(549年)、使者を遣わして貢献した。到着すると、城闕が荒廃しているのを見て、号泣して涙を流した。侯景は怒り、彼らを囚禁したが、侯景が平定されてようやく帰国できた。

新羅

新羅、その先代の事は『北史』に詳しい。百済の東南五千余里にある。その地は東は大海に臨み、南北は句麗・百済と接する。魏の時は新盧といい、宋の時は新羅、あるいは斯羅といった。その国は小さく、自ら使者を派遣して聘問することはできなかった。梁の普通二年(521年)、王の姓は募、名は泰という者が初めて使者を遣わし、百済に随って方物を奉献した。

その俗に城を健牟羅と呼び、邑の内にあるものを啄評、外にあるものを邑勒といい、これも中国の言う郡県である。国に六啄評、五十二邑勒がある。土地は肥美で五穀を植えるに適し、桑麻が多く、縑布を作り、牛に服し馬に乗り、男女の別がある。その官名に子賁旱支、壹旱支、齊旱支、謁旱支、壹吉支、奇貝旱支がある。その冠を遺子礼といい、襦を尉解といい、褲を柯半といい、靴を洗という。その拝礼及び歩行の仕方は高麗に似ている。文字がなく、木に刻んで信とす。言語は百済を介して初めて通じる。

倭国

倭国、その祖先の出自及び所在については、事柄は『北史』に詳しい。その官に伊支馬があり、次を彌馬獲支といい、次を奴往鞮という。人々は禾・稻・紵・麻を植え、蠶桑と織績を行い、姜・桂・橘・椒・蘇がある。黒雉・真珠・青玉を産する。山鼠という牛のような獣がおり、またこの獣を呑む大蛇がいる。蛇の皮は堅くて斬れず、その上に孔があり、開いたり閉じたりし、時に光を放つことがあり、これに射中てられると蛇は死ぬ。物産は儋耳・朱崖とほぼ同じである。地気は温暖で、風俗は淫らでない。男女ともに髪を露わにし、富貴者は錦繡や雑采で帽を作り、中国の胡公頭に似ている。飲食には籩豆を用いる。死ぬと棺はあるが槨はなく、土を封じて塚とする。人の性質は皆酒を嗜む。俗に正歳を知らず、長寿の者が多く、ある者は八九十歳に至り、ある者は百歳に至る。その俗は女が多く男が少なく、貴い者は四五人の妻を持ち、賤しい者でもなお二、三の妻を持つ。婦人は淫らでも妬まず、盗みはなく、争訟は少ない。もし法を犯せば、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその宗族を滅ぼす。

晋の安帝の時、倭王の贊が使者を遣わして朝貢した。宋の武帝の永初二年(421年)、詔して「倭の贊の遠方からの誠意は宜しく表彰すべきである。除授を賜うべし」といった。文帝の元嘉二年(425年)、贊はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉り方物を献じた。贊が死ぬと、弟の珍が立ち、使者を遣わして貢献し、自ら使持節・ 都督 ととく 倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、表して除正を求めた。詔して安東将軍・倭国王に除した。珍はまた倭の洧ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍などの号に除正することを求め、詔して全てこれを聴許した。二十年(443年)、倭国王の済が使者を遣わして奉献したので、再び安東将軍・倭国王とした。二十八年(451年)、使持節・ 都督 ととく 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもと通りとし、併せて上奏した二十三人の官職を除した。済が死ぬと、世子の興が使者を遣わして貢献した。孝武帝の大明六年(462年)、詔して興を安東将軍・倭国王に授けた。興が死ぬと、弟の武が立ち、自ら使持節・ 都督 ととく 倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。順帝の昇明二年(478年)、使者を遣わし上表し、言うには「昔より祖禰より、自ら甲冑を擐ぎ、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服し、海北の九十五国を陵平す。王道は融泰し、土を廓きて遐畿とし、累葉朝宗し、歳に愆らず。道は百済を径由し、船舫を装飾す。然るに句麗は道無く、図りて我を呑まんと欲す。臣が亡き考の済は方に大挙せんと欲するに、奄に父兄を喪い、将に成らんとする功を、一簣を得ず。今、兵を練りて父兄の志を申さんと欲し、窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸く各々仮授し、以て忠節を勧めん」。詔して武を使持節・ 都督 ととく 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除した。斉の建元年中(479-482年)、武を持節・ 都督 ととく 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除した。梁の武帝が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。

その南に侏儒国があり、人の長さは四尺である。また南に黒歯国・裸国があり、倭を去ること四千余里、船行で一年かかって至る。また西南万里に海人がおり、身は黒く眼は白く、裸で醜く、その肉は美味しく、行く者が時に射てこれを食う。

文身国は倭の東北七千余里にあり、人体に獣のような文があり、その額に三つの文がある。文が直な者は貴く、文が小さい者は賤しい。土俗は歓楽を好み、物は豊かで安く、行客は糧を齎さない。屋宇はあるが城郭はない。国王の居る所は、金銀珍麗で飾り、屋を繞って塹とし、広さ一丈、水銀を満たし、雨は則ち水銀の上を流れる。市には珍宝を用いる。軽罪を犯す者は鞭杖に処し、死罪を犯す者は猛獣を置いてこれを食わせ、冤罪があれば獣は避けて食わず、一晩経てばこれを赦す。

大漢国は文身国の東五千余里にあり、兵戈がなく、攻戦せず、風俗は文身国と同じであるが言語は異なる。

扶桑国

扶桑国は、斉の永元元年に、その国の沙門慧深が荊州に来て、言うには、「扶桑は大漢国の東二万余里にあり、地は中国の東にある。その土地には扶桑木が多いので、それをもって名とする。扶桑の葉は桐に似て、初生は筍のようであり、国人はこれを食す。実は梨のようで赤く、その皮を績いて布とし、衣と為し、また錦とも為す。板屋を作り、城郭はない。文字があり、扶桑の皮を以て紙と為す。兵甲はなく、攻戦をしない。その国の法には南北の獄があり、もし犯す者あれば、軽罪の者は南獄に入れ、重罪の者は北獄に入れる。赦あれば南獄を放ち、北獄は赦さない。北獄にいる者は男女を相配し、生まれた男子は八歳で奴となり、生まれた女子は九歳で婢となる。犯罪の身は、死に至るまで出さない。貴人に罪あれば、国人が大会し、罪人を坑の中に坐らせ、これに向かって宴飲し分かれること死別の如し。灰を以てこれを繞らし、その一重ならば一身が退き、二重ならば子孫に及び、三重ならば七世に及ぶ。国王を乙祁と名づける。貴人の第一の者を対盧と為し、第二の者を小対盧と為し、第三の者を納咄沙と為す。国王が行くときは鼓角が導従する。その衣の色は年に随って改易し、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の年は黒。牛角が甚だ長く、角に物を載せて、二十斛まで勝つ。馬車・牛車・鹿車がある。国人は鹿を養うこと中国が牛を畜うが如く、乳を以て酪と為す。赤梨があり、年を経ても壊れない。蒲桃が多い。その地には鉄がなく銅があり、金銀を貴ばない。市には租估がない。その婚姻法は、婿が女の家の門外に屋を作り、朝夕灑掃し、一年経って女が悦ばなければ即ちこれを駆り、相悦んで乃ち婚姻を成す。婚礼は大抵中国と同じ。親の喪には七日食さず、祖父母の喪には五日食さず、兄弟伯叔姑姊妹の喪には三日食さず。座を設けて神像と為し、朝夕拝奠し、衰絰を制さない。嗣王が立つと、三年国事に親しまない。その俗は旧来仏法なし。宋の大明二年、罽賓国に嘗て比丘五人あり、その国に遊行し、仏法経像を流通し、出家を教え令し、風俗遂に改まる。」

慧深また云う、「扶桑の東千余里に女国あり、容貌端正、色甚だ潔白、身体に毛あり、髪長く地に委ねる。二三月に至れば競って水に入れば則ち任娠し、六七月に子を産む。女人は胸前に乳なく、項後に毛を生じ、根白く、毛の中に汁ありて以て子に乳す。百日にして能く行き、三四年すれば則ち成人す。人を見て驚き避け、偏に丈夫を畏る。鹹草を食うこと禽獣の如し。鹹草の葉は邪蒿に似て、気香味鹹し。梁の天監六年、晋安の人海を渡り、風に為られて飄び至る一島、岸に登れば、人の居止するあり、女は則ち中国の如く、而言語は曉らくべからず。男は則ち人身にして狗頭、その声吠えるが如し。その食に小豆あり、その衣は布の如し。土を築きて牆と為し、その形円く、その戸は竇の如しと云う。」

西戎

河南・宕昌・鄧至・武興、その本は並びに氐・羌の地と為る。晋の南遷より以来、九州分裂し、此等の諸国は、地は西垂に分かれ、魏に提挈され、時に江左に通ず。今その旧土を采り、西戎に編すと云う。

河南国

河南王は、その先は鮮卑慕容氏より出づ。初め、慕容弈洛幹に二子あり、庶長を吐谷渾と曰い、嫡を廆洛幹と曰う。卒し、廆嗣位す。吐谷渾これを避け、西に徙りて上隴し、 枹罕 ほうかん を度り、涼州の西南に出で、赤水に至りてこれに居す。地は河南にある故、以て号と為す。事は北史に詳し。その界は東は疊川に至り、西は于闐に隣り、北は高昌に接し、東北は秦嶺に通じ、方千余里、蓋し古の流沙の地なり。草木に乏しく、水潦少なく、四時恒に冰雪あり、唯だ六七月は雨雹甚だ盛ん。もし晴れば則ち風沙礫を飄し、常に光景を蔽う。その地には麦ありて穀なし。青海あり方数百里、牝馬をその側に放てば、輒ち駒を生ず、土人はこれを龍種と謂い、故にその国は善馬多し。屋宇あり、百子帳を雑え、即ち穹廬なり。小袖袍・小口褲を著し、大頭長裙帽を被る。女子は髪を被いて辮と為す。

その後、吐谷渾の孫葉延は、頗る書記を識り、自ら謂う、曾祖弈洛幹始めて昌黎公に封ぜられ、吾れ蓋し公孫の子なりと。礼は王父の字を以て氏と為すに因り、姓を吐谷渾とし、亦た国号と為す。その末孫阿豺に至り、始めて江左に通じ、官爵を受く。弟子慕延、宋の元嘉の末、また自ら河南王と号す。慕延死し、従弟拾寅立つ。乃ち書契を用い、城池を起し、宮殿を築く。その小王並びに宅を国中に立つ。仏法あり。拾寅死し、子度易侯立つ。易侯死し、子休留代立つ。斉の永明中、代を以て使持節・ 都督 ととく 西秦河沙三州諸軍事・鎮西將軍・護羌 校尉 こうい ・西秦河二州刺史と為す。

梁興り、代を進めて征西將軍と為す。代死し、子伏連籌爵位を襲ぐ。天監十三年、使いを遣わして金装馬腦鍾二口を献じ、また益州に九層仏寺を立つることを表し、詔して許す。十五年、また使いを遣わして赤舞龍駒及び方物を献ず。その使いは或いは歳に再三至り、或いは再歳に一至る。その地は益州に隣り、常に商賈を通ず。普通元年、また表を奉り方物を献ず。籌死し、子呵羅真立つ。大通三年、詔して以て甯西將軍・護羌 校尉 こうい ・西秦河二州刺史と為す。真死し、子佛輔爵位を襲ぐ。その世子また使いを遣わして白龍駒を皇太子に献ず。

宕昌国

宕昌国は、河南国の東、益州の西北、隴西の地に在り、西羌の種なり。宋の孝武の世、その王梁瑾忽始めて方物を献ず。梁の天監四年、王梁弥博来たり甘草・当帰を献ず。詔して以て使持節・ 都督 ととく 河涼二州諸軍事・安西將軍・東羌 校尉 こうい ・河涼二州刺史・隴西公・宕昌王と為す。金章を佩かしむ。弥博死し、子弥泰立つ。大同七年、復た父の爵位を策授す。その衣服風俗は河南と略同じ。

鄧至国

鄧至国は、西涼州の界に居し、羌の別種なり。世に持節・平北將軍・西涼州刺史と号す。宋の文帝の時、王象屈耽使いを遣わして馬を献ず。梁の天監元年、詔して鄧至王象舒彭を以て督西涼州諸軍事と為し、進めて安北將軍と号す。五年、舒彭使いを遣わして黄耆四百斤、馬四匹を献ず。その俗、帽を突何と呼ぶ。その衣服は宕昌と同じ。

武興国

武興国は本来仇池である。楊難當が自立して秦王と称し、宋の文帝が裴方明を派遣してこれを討つと、難當は魏に奔った。その兄の子の文徳はまた葭蘆に衆を集め、宋はこれに爵位を授けた。魏がまたこれを攻めると、文徳は漢中に奔った。従弟の僧嗣がまた自立し、再び葭蘆を守り、卒した。文徳の弟の文度が立ち、弟の文弘を白水太守とし、武興に屯した。宋の世にはこれを武都王とした。武興の国はここに始まるのである。難當の族弟の広香がまた文度を攻め殺し、自立して陰平王・葭蘆鎮主となった。死ぬと、子の炅が立った。炅が死ぬと、子の崇祖が立った。崇祖が死ぬと、子の孟孫が立った。斉の永明年中、魏の南梁州刺史仇池公楊霊珍が泥功山に拠って斉に帰順し、斉の武帝は霊珍を北梁州刺史・仇池公とした。文洪が死ぬと、同族の集始を北秦州刺史・武都王とした。梁の天監初年、集始を持節・ 都督 ととく 秦雍二州諸軍事・輔国将軍・平羌 校尉 こうい ・北秦州刺史・武都王とした。霊珍を冠軍将軍とした。孟孫を仮節・督沙州諸軍事・平羌 校尉 こうい ・沙州刺史・陰平王とした。集始が死ぬと、子の紹先が爵位を襲った。二年、霊珍を持節・督隴右諸軍事・左将軍・北涼州刺史・仇池王とした。十年、孟孫が死ぬと、詔して安沙将軍・北雍州刺史を追贈した。子の定が封爵を襲った。紹先が死ぬと、子の智慧が立った。大同元年、漢中を回復すると、智慧は使者を遣わして上表し、四千戸を率いて梁に帰順することを求め、詔してこれを許し、直ちにこれを東益州とした。

その国は東は秦嶺に連なり、西は宕昌に接する。その大姓に苻氏・姜氏・梁氏がある。言語は中国と同じである。烏皁の突騎帽を着け、長身の小袖袍、小口の袴、皮の袴を着る。土地には九穀を植える。婚姻は六礼を備える。書疏を知る。桑麻を植える。紬・絹・布・漆・蠟・椒などを産し、山からは銅鉄を産する。

書に云う「蛮夷夏を かき 乱す」と、その害をなすことは既に久しい。宋の盛んなるに及んでも、またしばしば戍役を興した。まさに詩の所謂「 うごめ ける蛮荊、大邦を あだ とす」というものであろうか。今また編録して諸蛮を備えることとする。

荊州・雍州の蛮は、盤瓠の後裔である。種族の集落は諸郡県に分布している。宋の時は晋に因り、荊州に南蛮 校尉 こうい を、雍州に寧蛮 校尉 こうい を置いてこれを統率した。孝武帝の初め、南蛮 校尉 こうい を廃して大府に併合したが、寧蛮 校尉 こうい は従前の通りであった。蛮で帰順した者は、一戸あたり数斛の穀物を納め、その他の雑調はない。しかし宋人の賦役は厳しく苦しく、貧しい者はもはや命を保てず、多く逃亡して蛮に入った。蛮には徭役がなく、強者はまた官税を納めない。党を結び郡を連ね、動けば数百千人に及び、州郡の力が弱ければ、盗賊となって起こる。種族は次第に多く、戸口は知ることができない。所在は多く険阻である。武陵に住む者に雄溪・樠溪・辰溪・酉溪・武溪があり、これを五溪蛮という。また宜都・天門・巴東・建平・江北の諸郡の蛮の住む所は皆深山重阻で、人跡は稀である。前世以来、しばしば人の患いとなった。

少帝の景平二年、宜都蛮の帥の石寧ら一百二十三人が宮闕に詣でて献上した。文帝の元嘉六年、建平蛮の張維之ら五十人、七年、宜都蛮の田生ら一百十三人、ともに宮闕に詣でて献見した。その後、沔中の蛮が大いに騒動し、行旅はほとんど絶えた。天門郡漊中の令の宋矯之が徭賦を過重にしたため、蛮は堪えられなかった。十八年、蛮の田向求らが寇となり、漊中を破り、百姓を虜掠した。荊州刺史衡陽王義季が行参軍曾孫念を派遣してこれを討ち破り、矯之の官を免じた。二十年、南郡臨沮・当陽の蛮が反し、臨沮令の傅僧驥を縛った。荊州刺史南譙王義宣が中兵参軍王諶を派遣してこれを討ち破った。

先に、雍州刺史の劉道産は諸蛮をよく撫で、前後して従わない者も皆平地に引き出し、多くは沔水に沿って居住した。道産が亡くなると、蛮はまた反叛した。孝武帝が雍州に出鎮するに至り、群蛮は道を断った。朝廷は軍主の沈慶之を派遣して連年蛮を討ち、向かう所皆平定した。事は慶之伝にある。

二十八年正月、龍山雉水蛮が涅陽県を寇掠し、南陽太守の朱韶が軍を派遣してこれを討ったが、利を得なかった。韶はまた二千人を派遣してこれを追撃すると、蛮は散走した。この年、滍水の諸蛮が険阻に依って寇となり、雍州刺史の随王誕が使者を派遣してこれを説得し、また軍を派遣して沔北の諸蛮を討った。濁山・如口・蜀松の三つの柴を襲い、これを陥落させ、また鬥錢・柏義の諸柴を包囲した。蛮は全力で防戦したが、軍はこれを大破した。

孝武帝の大明年中、建平蛮の向光侯が峡川で暴虐を働き、巴東太守の王済・荊州刺史の朱修之が軍を派遣してこれを討った。光侯は清江に逃れた。清江は巴東から千余里である。当時、巴東・建平・宜都・天門の四郡の蛮が寇となり、諸郡の人戸は流散し、百に一も存しなかった。明帝・順帝の世は特に甚だしく、荊州はこれにより空虚疲弊したという。

州の蛮は、稟君の後裔である。盤瓠・稟君の事績は、ともに前史に詳しい。西陽には巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があり、これを五水蛮という。所在は皆深く険阻で、種族の集落は盛んで、歴世盗賊となった。北は淮・汝に接し、南は江・漢に極まり、地方数千里である。

宋の元嘉二十八年、西陽蛮が南川令の劉台を殺した。二十九年、新蔡蛮が大雷戍を破り、公私の船を略奪して湖に入った。亡命の司馬黒石が蛮の中に逃れ、ともに寇となった。文帝は太子歩兵 校尉 こうい の沈慶之を派遣してこれを討った。孝武帝の大明四年、また慶之を派遣して西陽蛮を討ち、大いに捕獲して帰還した。司馬黒石の徒党三人、その一名は智、黒石はこれを太公と号し、謀主とした。一人の名は安陽、譙王と号し、一人の名は続之、梁王と号した。蛮の文山羅らが続之を討ち捕らえたが、蛮の世財に さん 奪され、山羅らは相率いて世財父子六人を斬った。 州刺史の王玄謨が殿中將軍の郭元封を派遣して諸蛮を慰労し、亡命者を縛って送るよう命じた。蛮は智・安陽の二人を捕らえ、玄謨のもとに送った。孝武帝は寿陽においてこれを斬らせた。

明帝が初めて即位すると、四方が反叛し、南賊が鵲尾で敗れた後、西陽蛮の田益之・田義之・成邪財・田光興らが義兵を起こし、 郢州 えいしゅう を攻めてこれを陥落させた。益之を輔国将軍・都統四山軍事とした。また蛮戸をもって宋安・光城の二郡を立てた。義之を宋安太守とし、光興を光城太守とした。益之を辺城県王に封じ、成邪財を陽城県王に封じた。成邪財が死ぬと、子の婆思が爵を襲ったという。

西域諸国

玉門より西は西海に至るまで、漢史を考うるに、通じて西域と為し、高昌より波斯に至るまで、則ちその区域である。晋・宋以来、時に至ることはあれども、その風土を論ずるに、甚だ詳らかにすることはできなかった。今、西域諸国を略備え、次に編むこととする。

高昌国

高昌国は、初め闞氏が主となり、その後は河西王沮渠茂虔の弟無諱が襲撃してこれを破った。その王闞爽は蠕蠕に奔った。無諱はこれを占拠して王を称し、一世にして魏に滅ぼされた。その国の人々はまた麴氏を推戴して王とし、名を嘉といい、魏は車騎将軍・ 司空 しくう 公・ 都督 ととく 秦州諸軍事・秦州刺史・金城郡公を授けた。在位二十四年で卒し、国諡は昭武王という。子の子堅、子堅が位を嗣ぎ、魏は使持節・驃騎大将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 瓜州刺史・西平郡公・開府儀同三司・高昌王を授けた。

その国は車師の故地であり、南は河南に接し、東は敦煌に近く、西は亀茲に次ぎ、北は敕勒に隣接する。四十六鎮を置き、交河・田地・高寧・臨川・横截・柳婆・洿林・新興・由甯・始昌・篤進・白力などの鎮がある。官には四鎮将軍があり、また雑号将軍・長史・司馬・門下校郎・中兵校郎・通事舎人・通事令史・諮議・諫議・ 校尉 こうい ・主簿を置く。国人の言語は華夏とほぼ同じである。五経・歴代史・諸子集がある。面貌は高麗に似て、辮髪を背中に垂らす。長身の小袖袍・縵襠袴を着る。女子の頭髮は辮るが垂らさず、錦纈・纓絡・環釧を着ける。婚姻には六礼がある。その地は高燥で、土を築いて城とし、木を架して屋とし、土でその上を覆う。寒暑は益州と似ており、九穀を備えて植え、人は多く麺及び牛羊肉を噉う。良馬・蒲桃酒・石塩を産する。草木多く、草の実は繭の如く、繭の中の糸は細纑の如きものがあり、名を白疊子といい、国人はこれを取って織り布とする。布は甚だ軟白で、交易に用いる。朝烏というものがあり、朝ごとに王殿の前に集まり、行列をなし、人を畏れず、日出して後に散じ去る。

梁の大同年中、子堅は使者を遣わして鳴塩枕・蒲桃・良馬・氍獀等の物を献じた。

滑国

滑国は、車師の別種である。漢の永建元年、八滑が班勇に従って北虜を撃ち功があり、勇は八滑を後部親漢侯に上奏した。魏・晋以来、中国と通じなかった。梁の天監十五年に至り、その王厭帯夷栗陀が初めて使者を遣わして方物を献じた。普通元年、使者を遣わして黄師子・白貂裘・波斯錦等の物を献じた。七年、また表を奉り貢献した。

魏が代都に居た時、滑はなお小国で、蠕蠕に属した。後やや強大となり、その旁国の波斯・渴盤陀・罽賓・焉耆・亀茲・疏勒・姑墨・于闐・句般等国を征し、地を千里余り開拓した。土地は温暖で、山川多く、樹木少なく、五穀がある。国人は麺及び羊肉を糧とする。その獣には師子・両脚駱駝、角のある野驢がある。人は皆騎射に善く、小袖長身袍を着け、金玉を帯とする。女人は裘を被り、頭上に木を刻んで角とし、長さ六尺、金銀でこれを飾る。女子少なく、兄弟が妻を共にする。城郭なく、氈屋を居とし、東に向かって戸を開く。その王は金床に坐し、太歳に随って転じ、妻と並んで坐り客に接する。文字なく、木を以て契とする。旁国と通ずるには、則ち旁国の胡を使わして胡書と為し、羊皮を紙とする。職官なし。天神・火神を事え、毎日は則ち戸を出て神を祀りて後に食す。その跪くこと一拝にして止む。葬には木を以て槨とする。父母死すれば、その子は一耳を截ち、葬畢りて即ち吉となる。その言語は河南人の訳を待って後に通ず。

呵跋檀・周古柯・胡密丹等国は、皆滑の旁の小国である。凡そ滑の旁の国は、衣服容貌皆滑と同じである。普通元年、使者を遣わし滑の使に随って来たり方物を貢献した。

白題国

白題国王は姓は支、名は史稽毅、その先は匈奴の別種胡である。漢の灌嬰が匈奴と戦い、白題の騎兵一人を斬ったのはこれである。滑国の東に在り、滑を去ること六日行程、西は波斯に極まる。土地は粟・麦・瓜果を産し、食物は略々滑と同じである。普通三年、使者を遣わして方物を献じた。

亀茲国

亀茲は、西域の旧国である。晋の江を渡って以来通ぜず、梁の普通二年に至り、王尼瑞摩珠那勝が使者を遣わし表を奉り貢献した。

于闐国

于闐は、西域の旧国である。梁の天監九年、初めて江左に通じ、使者を遣わして方物を献じた。十三年、また波羅婆歩鄣を献じた。十八年、また琉璃罌を献じた。大同七年、また外国の刻玉仏を献じた。

渴盤陀国

渴盤陀国は、于闐の西の小国である。西は滑国に隣り、南は罽賓国に接し、北は沙勒に連なる。国都は山谷の中にあり、城の周回は十余里である。国に十二城あり、風俗は于闐と相類する。古貝布を衣とし、長身小袖袍・小口袴を着る。地は小麦に宜しく、これを以て糧と為す。牛馬駱駝羊等多し。良氈を出す。王は姓は葛沙氏、梁の中大同元年、初めて江左に通じ、使者を遣わし方物を献じた。

末國

末國は、漢代の且末國である。兵士を擁する戸数は一万余り。北は丁零、東は白題、西は波斯と境を接する。土人は髪を切り、氈帽をかぶり、小袖の衣を着る。衫(上着)を作る際は襟を開き、前を縫い合わせる。牛・羊・騾・驢が多い。その王安末深盤は、梁の普通五年に初めて江左と通じ、使者を遣わして貢ぎ物を献上した。

波斯國

波斯國は、その先祖に波斯匿王という者がおり、子孫が王父の字を氏としたため、これによって国号とした。国には城があり、周囲三十二里、城の高さは四丈で、いずれも楼観がある。城内には屋宇が数百千間、城外には仏寺が二三百所ある。西へ城を去ること十五里に土山があり、山はそれほど高くはないが、その勢いは遠くまで連なっている。中には鷲鳥が羊を食い、土人はこれを極めて患いとしている。国中には優缽曇花があり、鮮やかで華やかで可愛らしい。龍駒馬を産する。咸池には珊瑚樹が生え、長さ一二尺である。また武魄(琥珀)・馬腦(瑪瑙)・真珠・玫瑰(ルビー)などもあるが、国内では珍重しない。市場での取引には金銀を用いる。婚姻の法は、下聘(結納)の財を納め終わると、婿が数十人を率いて婦を迎える。婿は金線の錦袍、師子(獅子)の錦袴を着け、天冠を戴く。婦もまた同じである。婦の兄弟がすぐに来て手を捉えて渡し、夫婦の礼はここで永遠に終わる。国の東は滑國と、西及び南はともに娑羅門國と、北は泛栗國と境を接する。梁の中大通二年に初めて江左と通じ、使者を遣わして仏牙を献上した。

蠕蠕

北狄の種類は実に多く、蠕蠕という族は、おそらく匈奴の別種である。魏が南遷して以来、その故地を専有した。城郭がなく、水草に従って畜牧し、穹廬(ゲル)に住む。髪を辮(編み)にし、錦の小袖袍、小口袴、深雍韡(深靴)を着る。その地は苦寒であり、七月には流氷が河を横たわる。

宋の升明年間に、王洪範を使者として遣わし、これを導いて共に魏を謀らせた。斉の建元三年に、洪範がようやく到着した。この年に通使し、力を合わせて魏を攻めることを求めた。その相国刑基只羅が返表を奉り、言うには、「京房の讖に云う、'卯金(劉)卒ち、草肅(蕭)応に王たる。'図緯を歴観するに、宋に代わる者は斉である。」また師子皮の褲褶(騎馬服)を献上した。その国は後に次第に侵されて弱まり、永明年間に丁零に破られ、さらに小国となってその居住地を南に移した。梁の天監十四年に、使者を遣わして馬と貂裘を献上した。普通元年に、また使者を遣わして方物を献上した。これ以後は数年ごとに一度来朝した。大同七年に、また馬一匹、金一斤を献上した。

その国は術をもって天を祭り、風雪を招くことができ、前は皎日(明るい太陽)に向かい、後は泥潦が横流するので、その戦いに敗れても追い及ぶことができない。あるいは中華の地でこれを行っても、雨を降らすことができず、その故を問うと、暖かいからであるという。

【論】

論じて曰く、晋氏が南度して以来、江左に介居し、北の荒遠の地、西の辺境は、隔たり妨げられて通じることがなかった。南の辺境、東の辺に至っては、境界の接する所である。宋の元嘉年間に運を撫で、干戈を命じ、象浦の捷は威を冥海に震わした。ここにおいて鞮訳(通訳)が相継ぎ、歳時に絶えることがなかった。斉・梁に至るまで、職貢は秩序があった。侯景の乱に及んで、辺境は日々に逼迫した。陳氏が天命を受けた時には、衰微は既に甚だしく、首を救い尾を救うも、身は幾何ほどあろうか。故に西からの贐(贈り物)、南からの琛(宝物)は、竹素(史書)に聞こえない。これはまさに、徳有れば則ち来たり、道無ければ則ち去る、というものであろうか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻079