南史
巻八十 列傳第七十 賊臣
侯景
侯景、字は萬景、魏の懐朔鎮の人である。若くして放縦で、鎮の功曹史となった。魏末に北方が大乱すると、辺境の将軍尓朱栄に仕え、甚だ重用された。初め栄の部将慕容紹宗に兵法を学び、間もなく紹宗は毎度彼に諮問した。後に軍功により定州刺史となった。初め魏の丞相高歓が微賤の時、景と甚だ親しく交わり、及んで歓が尓朱氏を誅すると、景は兵を率いて降伏し、引き続き歓に用いられた。次第に吏部尚書に至ったが、好むところではなかった。常に独り言して曰く、「いつかこの地を離れて古紙(文書)に戻ることができようか」と。まもなく濮陽郡公に封ぜられた。
高歓が沙苑で敗れた時、景は歓に言った、「宇文泰は戦勝に驕り、今必ず怠りが生じるでしょう。数千の精鋭騎兵を率いて関中に至り彼を捕らえることを請います」と。歓はその妃婁氏に告げると、妃は言った、「彼がもし泰を得たならば、また帰って来ないでしょう。泰を得て景を失うことは、事の益と何かありましょうか」と。歓はそこで止めた。後に河南道大行台となり、 司徒 の位に就いた。また歓に言って曰く、「泰を捕らえ得なかったことを恨みます。兵三万を請い、天下を横行し、必ずや長江を渡って蕭衍の老翁を縛り取り、太平寺の主とさせたい」と。歓はその言葉を壮とし、十万の兵を擁させ、河南を専制させ、信任すること己の半身の如くであった。
景は右足が短く、弓馬は得意ではなかったが、在るところではただ智謀を以てした。時に歓の部将高昂・彭楽はいずれも雄勇当世に冠たるものであったが、ただ景は常に彼らを軽んじ、言うには、「猪の突進のようで、勢いどこまで至れようか」と。及んで河南を鎮守しようとする時、歓に請うて曰く、「今、兵を握って遠方に在りますと、奸人が詐偽を生じ易い。大王もし書を賜わるならば、他の者とは異なるものを請います」と。許された。毎度景に書を送る時、別に微かな点を加え、子弟といえどもこれを知らなかった。
及んで高歓の病が篤くなると、その世子澄が偽りの書を作って景を召した。景は偽りと知り、禍を恐れ、そこで王偉の計を用い、すなわち太清元年二月にその行台郎中丁和を遣わして上表し降伏を求めた。帝(梁の武帝)は群臣を召してこれを議し、尚書僕射謝挙らは皆、景を受け入れるのは便ならずと議したが、武帝は従わなかった。初め、帝はこの年の正月乙卯に善言殿で仏経を読み、左右の黄慧弼に謂って曰く、「我は昨晩天下太平の夢を見た。そちはこれを覚えておけ」と。和が至った時、景が実際に正月乙卯の日に計を定めたことを照合し、帝はこれによって彼を受け入れた。ここにおいて景を河南王・大将軍・使持節・河南南北諸軍事を董督する大行台に封じ、詔命を受けて行うことは鄧禹の故事の如くとした。
高澄が後を嗣いで勃海王となり、その将慕容紹宗を遣わして景を長社に包囲させた。景は危急となり、すなわち魯陽・長社・東荊・北兗の割譲を求めて西魏に救援を請い、魏は五城王元慶らを遣わし兵を率いて救援させたので、紹宗は退いた。景はまた司州刺史羊鴉仁に兵を請い、鴉仁は長史鄧鴻を遣わし兵を率いて汝水に至らせたが、元慶の軍は夜遁し、鴉仁はすなわち懸瓠を占拠した。
時に景の将蔡道遵が北帰し、景に悔過の志があると述べた。高澄は真実と信じ、すなわち書を以て景を諭し、もし還るならば、 豫 州刺史を終身保つことを許し、配下の文武官はさらに追及せず、一家無恙で、寵愛する妻と子も皆返すと伝えた。景は返書をして従わなかった。澄は景に帰順の志がないと知り、すなわち軍を相次いで派遣して景を討った。
帝は鴉仁が既に懸瓠を占拠したと聞き、遂に諸将帥に命じて方略を授け、大挙して東魏を攻め、貞陽侯蕭明を 都督 とした。明の軍は敗れて捕虜となった。紹宗は潼州を攻め、刺史郭鳳は城を棄てて逃走した。景はすなわちその行台左丞王偉・左戸郎中王則を遣わし宮闕に赴かせ献策し、元氏の子弟を立てて魏主とすべきことを請うた。詔して太子舎人元貞を咸陽王とし、長江を渡ることを待って即位を許し、乗輿の副次品を資給した。
高澄はまた慕容紹宗を遣わして景を追撃させた。景は退いて渦陽を守り、紹宗に謂って曰く、「客を送ろうとするのか?それとも雌雄を決しようとするのか?」と。紹宗曰く、「決戦しよう」と。すなわち順風に陣を布いた。景は塁を閉じ、しばらくして出撃した。紹宗曰く、「景は詭計多く、人の背後を衝くのを好む」と。備えさせたが、果たしてその言う通りであった。景は戦士に皆、短甲と短刀を着けさせ、ただ低く視て人の脛や馬の足を斬らせ、遂に紹宗の軍を破った。裨将斛律光がこれを咎めると、紹宗曰く、「我は戦多くしたが、この賊の難しさを見たことがない。そちが当たれ」と。光は甲を着けて出撃しようとしたが、紹宗は戒めて曰く、「渦水を渡るな」と。既にしてまた景に敗れた。紹宗は謂って曰く、「どうだ、先の言った通りか」と。相持すること連月、景は食糧が尽き、その兵衆を欺いて家族が皆殺されたと偽った。兵衆は皆これを信じた。紹宗は遠くから謂って曰く、「お前たちの家族は皆無事だ」と。すなわち髪を振り乱して北斗に向かい誓った。景の士卒は皆北方の者で、南渡を好まず、その将暴顕らは各々配下を率いて紹宗に降った。景の軍は潰散し、甲士四万人、馬四千匹、輜重一万余両を失った。すなわち腹心数騎と共に硤石から淮水を渡り、次第に散兵を収め、馬兵・歩兵八百人を得た。南へ小城を過ぎると、人が城壁に登り罵って曰く、「跛脚の奴、何をするか!」と。景は怒り、城を破り言った者を殺して去った。昼夜兼行し、追軍は敢えて逼迫しなかった。紹宗に謂って曰く、「景がもし捕らえられたら、公はまた何の用があろうか?」と。紹宗はすなわち彼を放った。
既にして帰るべき所がなく、馬頭戍主の劉神茂という者が、韋黯に容れられず、そこで馬を伏せて馳せ至り景に謂って曰く、「寿陽はここから遠からず、城池険固で、韋黯は監州に過ぎません。王もし近郊に駐屯されれば、必ず郊迎し、それに乗じて彼を捕らえ、事を成すことができます。城を得た後、徐々に上聞すれば、朝廷は王の南帰を喜び、必ず責めないでしょう」と。景はその手を握って曰く、「天の教えだ」と。至った時、韋黯は甲を授け城壁に登った。景は神茂に謂って曰く、「事は調わない」と。答えて曰く、「黯は懦弱で智少なく、説得して降ろせます」と。すなわち 豫 州司馬徐思玉を遣わし夜に入って説得させると、黯はすなわち門を開いて景を受け入れた。景は黯を捕らえ、幾度か斬ろうとしたが、久しくして釈放した。すなわち于子悦を馳せさせて敗戦を奏聞し、自ら貶削を求めた。優詔して許さず。また資給を求めると、即座に南 豫 州刺史を授け、本来の官職は元の通りとした。
帝は景の兵が新たに破れたため、移易するに忍びず、故に鄱陽王蕭範を合州刺史とし、即座に合肥を鎮守させた。魏人が懸瓠を攻め、懸瓠は糧少なく、羊鴉仁は懸瓠を去り義陽に帰った。
魏人が懸瓠に入り、再び和親を求めたので、帝は公卿を召してこれを謀った。張綰・朱異はともに許すよう請うた。侯景はこれを聞いて信じず、偽って鄴の人々の書を作り、貞陽侯と侯景を交換することを求めた。帝はこれに応じようとした。舍人傅岐が言うには、「侯景は窮して帰順したのであり、これを棄てるのは不吉である。かつ百戦の余り、どうして手を束ねて縛られることを肯んじようか」と。謝挙・朱異は言うには、「侯景は敗走した将軍であり、一介の使者の力に過ぎない」と。帝はこれに従い、返書して言うには、「貞陽侯が朝に至れば、侯景は夕に返す」と。侯景は左右に言うには、「私は呉の小僧の老いぼれの薄情な心根を知っている」と。また王・謝の家に娶ることを請うたが、帝は言うには、「王・謝の門は高くて匹敵しない、朱・張以下の家に訪ねるがよい」と。侯景は憤って言うには、「いずれ呉の子女を捕らえて奴隷に配するであろう」と。王偉が言うには、「今座して聞くも死、大事を挙げるも死、王はこれを図るがよい」と。ここにおいて遂に反逆の計を抱いた。所属する城の住民をことごとく募集して軍士とし、ただちに市場の税や田租の取り立てを停止し、百姓の子女をことごとく将兵に配した。また錦一万匹を請い求めて軍人の袍とし、中領軍朱異は、御府の錦署は賞賜に充てるのみで、辺境の用に供することは許されないと議し、青布を送ってこれに給するよう請うた。また台から給する武器は多く精良でないとして、東冶の鍛工を請い求めて新たに製造しようとし、勅してともにこれを給した。侯景は渦陽で敗れて以来、多くを徴求したが、朝廷は寛大に含み、拒絶したことはなかった。
この時、貞陽侯蕭明が使者を梁に還して、魏人が以前の友好を追及することを請い、彼を放還することを許すと述べた。武帝はこれを見て涙を流し、蕭明の啓に答えて別に使者を遣わすべきであるとした。帝もまた兵を休めようと欲し、魏と和を通じた。侯景はこれを聞いて恐れ、急ぎ啓して固く諫めたが、帝は従わなかった。その後、上表の文は跋扈し、言辞は不遜であった。また伏挺・徐陵を魏に遣わしたと聞き、どうすべきか分からなかった。
元貞は侯景に異志あることを知り、累次啓して朝廷に還ることを請うた。侯景は言うには、「江南を平定せんとしているのに、どうして少しも忍ばないのか」と。元貞はますます恐れ、建鄴に奔り還り、事の次第をことごとく奏聞した。侯景はまた司州刺史羊鴉仁を招いてともに逆を謀ったが、鴉仁はその使者を捕らえて送った。時に鄱陽王蕭範は合肥に鎮し、および鴉仁とともに累次啓して侯景に異志あることを称した。朱異は言うには、「侯景は数百の叛虜に過ぎず、どうして役に立とうか」と。ともに抑えて奏聞せず、侯景の奸謀がますます決行された所以である。侯景は上言して言うには、「高澄は狡猾であり、どうして全く信じられようか。陛下はその詭弁を納れ、連和を求められるが、臣もひそかに笑うところである。臣は行年四十六歳、江左に佞邪の臣あるを聞かず、一朝朝廷に入れば、かえって喧噪と誹謗を招き、どうして骨を粉にして命を讎敵の門に投じられようか。江西一境を請い求め、臣の統制監督を受けさせられたい。もし許されなければ、ただちに甲兵を率いて江に臨み、上って閩・越に向かうであろう。これはただ朝廷自ら恥じるのみならず、三公もまた遅くまで食事をとれなくなるであろう」と。帝は朱異に命じて侯景の使者に答える言葉を宣べさせて言うには、「貧しい家が十客五客を養ってもなお意を得るのに、朕はただ一客あるのみで、忿りの言葉を招くのもまた朕の過失である」と。侯景はまた臨賀王蕭正德が朝廷を怨んでいることを知り、密かに結びつくよう命じた。正德は内応すると約束した。
二年八月、侯景は遂に兵を発して反逆し、 豫 州城内でその将帥を集め、壇に登って血をすすった。この日大地震があった。ここにおいて中領軍朱異・少府卿徐驎・太子左率陸驗・制局監周石珍を誅することを口実とし、奸臣が政を乱すとして、甲兵を帯びて入朝することを請うた。まず馬頭・木柵を攻め、太守劉神茂・戍主曹璆らを捕らえた。武帝はこれを聞き、笑って言うには、「これがどうして為せようか、私は鞭を折ってこれを打つであろう」と。ここにおいて勅して、侯景を斬る者は南北の人を問わず同じく賞し、二千戸を封じ一州刺史を兼ねさせ、その人の主帥で北に還りたい者は州を須いず、絹布二万を賞し、礼をもって発遣するとした。ここにおいて詔して、合州刺史鄱陽王蕭範を南道 都督 とし、北徐州刺史封山侯蕭正表を北道 都督 とし、司州刺史柳仲禮を西道 都督 とし、通直 散騎常侍 裴之高を東道 都督 として、ともに侯景を討ち、歴陽から渡河させた。また侍中・開府儀同三司邵陵王蕭綸に節を持たせ、衆軍を監督統率させた。
侯景はこれを聞き、王偉と謀った。王偉は言うには、「まさしく揚都を掩うに若かず、臨賀王が内で反し、大王が外から攻めれば、天下は定めるに足りない。兵は拙速を聞き、工遅を聞かず、今ただちに進路につくべきであり、さもなければ邵陵王が先んじるであろう」と。九月、侯景は寿春を発し、遊猟と称して、人々は気づかなかった。偽の中軍大 都督 王貴顯に寿春城を守らせ、軍を出して偽り合肥に向かい、遂に譙州を襲った。助防董紹先が降伏し、刺史豊城侯蕭泰を捕らえた。武帝はこれを聞き、太子家令王質に兵三千を率いさせて江を巡り防ぎ止めさせた。侯景は歴陽太守莊鉄を攻め、鉄は弟の均に夜襲させて侯景の営を斬り、戦死した。鉄の母はその子を愛し、鉄に降伏を勧めた。侯景はその母に拝礼し、鉄は侯景に勧めて言うには、「急なれば機に応じ、緩やかならば必ず禍を招く」と。侯景はここにおいて鉄を導き手とした。
この時、鎮戍が相次いで啓して聞かせたが、朱異はなお言うには、「侯景には必ずや江を渡る志はない」と。蕭正德は先に大船数十艘を遣わし、葦を載せると偽称して、実は侯景を渡河させようと図った。侯景は江に至り渡ろうとしたが、王質が障害となることを慮り、やがて王質は丹陽尹に追任され、故なくして自ら退いた。侯景は聞いて信じず、密かに偵察させ、使者に言うには、「王質が退くならば、江東の樹枝を折って証とせよ」と。偵察者は言う通りにして返った。侯景は大喜びして言うには、「我が事は成った」と。ここにおいて自ら採石から渡河し、馬数百匹、兵八千人、都下はこれを覚らなかった。
侯景は出て、姑孰を分襲し、淮南太守文成侯蕭寧を捕らえ、遂に慈湖に至った。南津 校尉 江子一は建鄴に奔り還った。皇太子は事態の急なるを見て、入って武帝に面啓して言うには、「事を垂れ付されることを請い、聖心を労わさぬことを願います」と。帝は言うには、「これはお前自身の事である、どうしてさらに問う必要があろうか」と。太子はここにおいて中書省に留まって指図し、内外は擾乱して互いに劫略し通じなくなった。ここにおいて詔して、揚州刺史宣城王蕭大器を 都督 内外諸軍事とし、都官尚書羊侃を軍師將軍としてこれを副えさせた。南浦侯蕭推を遣わして東府城を守らせ、西豊公蕭大春に石頭を守らせ、軽車長史謝禧に白下を守らせた。
やがて侯景は朱雀航に至り、徐思玉を遣わして入啓させ、甲兵を帯びて入朝し、君側の悪を除くことを乞い、了事舍人を遣わして出て引き受け解決させるよう請うたが、実は城中の虚実を見ようとした。帝は中書舍人賀季・主書郭寶亮を遣わし、徐思玉に随って板橋でこれを労った。侯景は北面して勅を受け、賀季は言うには、「今の挙は、何を以て名とすべきか」と。侯景は言うには、「帝とならんと欲する」と。王偉が進み出て言うには、「朱異・徐驎が諂黷して政を乱すので、奸臣を除かんとするのみである」と。侯景はすでに悪言を出し、賀季を留めて返さず、寶亮は宮に還った。
先に、大同年中に童謡があった。「青絲白馬寿陽より来たる」と。侯景が渦陽で敗れた時、錦を求め、朝廷が給した青布、およびこの時皆袍に用い、彩色はなお青を尚んだ。侯景は白馬に乗り、青絲を轡とし、謡に応じようとした。蕭正德は先に丹陽郡に屯したが、この時に至り率いる所部を以て侯景と合流した。建康令庾信は兵千余人を率いて航の北に屯したが、侯景が至ると航を撤去し、始めて一舶を除くと、賊軍が皆鉄面を着けているのを見て、遂に軍を棄てて走った。南塘の遊軍はまた航を閉じて侯景を渡した。皇太子は乗っていた馬を王質に授け、精兵三千を配し、庾信を救援させた。王質は領軍府に至り賊と遭遇し、陣をなさずして奔った。侯景は勝に乗じて闕下に至った。西豊公蕭大春は石頭城を棄てて走り、侯景はその儀同於子悅を遣わしてこれを占拠させた。謝禧もまた白下城を棄てて走った。
侯景は百道に分かれて城を攻め、火を放って大司馬門・東西華門などの諸門を焼いた。城中は慌てて備えがなく、門楼を穿ち、水を汲んで火を消し、長い時間をかけてようやく鎮火した。賊はまた東掖門を斬り破って入ろうとしたが、羊侃が門扉に穴を穿ち数人を刺し殺したので、賊は退いた。また東宮の塀に登って城内を射た。夜になると、簡文帝は人を募って出撃させ東宮の台殿を焼き尽くし、そこに集められていた図書数百厨もすべて 灰燼 に帰した。以前、簡文帝は人が秦の始皇帝の絵を描く夢を見て、『この人がまた書物を焼く』と言われたが、この時にそれが実現したのである。侯景はまた城西の馬廐・士林館・太府寺を焼いた。翌日、侯景はまた木驢数百を造って城を攻めたが、城上から石を投げつけられ、すべて破壊された。賊はまた尖った頂きの木驢を作り、その形状は 槥 のようで、石では破壊できなかった。そこで雉尾炬を作り、膏蠟を注いで束ねて投下し、焼き払った。
賊は攻め落とせず、士卒の死者が非常に多かったため、攻撃を止め、長い包囲陣を築いて内外の連絡を絶った。また上表して朱異・陸驗・徐驎・周石珍らを誅殺するよう求め、城内もまた賞格を矢文で城外に射て、侯景の首を斬れる者には侯景の地位を与え、併せて銭一億万、布絹各一万匹、女楽二部を与えるとした。莊鉄はそこで歴陽に奔り、侯景がすでに梟首されたと偽って言った。侯景の城守郭駱は恐れ、城を捨てて寿陽に逃げた。莊鉄は城に入り、そこで尋陽に奔った。
十一月、侯景は蕭正徳を立てて帝とし、偽の位に即かせ、儀賢堂に居らせ、年号を正平と改めた。初め童謡に「正平」の言葉があったので、この号を立ててそれに応じたのである。識者は、正徳は結局平定殄滅されるであろうと考えた。侯景は自ら相国・天柱将軍となり、正徳は娘を彼に娶わせた。侯景はまた東府城を攻め、百尺楼車を設け、城の堞を鉤でことごとく落とした。城が陥落すると、侯景はその儀同盧暉略に数千人を率いさせ長刀を持って城門の両側に並ばせ、城内の文武官をすべて裸にして追い出し、兵士に交差して殺させ、死者は三千余人に及んだ。南浦侯蕭推はこの日に害された。侯景は正徳の子蕭見理と盧暉略に東府城を守らせた。
初め、侯景が都に着くと、すぐに「武帝はすでに晏駕した」と唱えた。城内でもそう思われた。簡文帝は人心に変があることを憂い、武帝に輿駕で城を巡行するよう請うた。武帝が城に登ろうとすると、陸驗が諫めて言った。「陛下は万乗の重きをお持ちです。軽々しくお出ましになるべきではありません。」そして涙を流した。帝はその言葉に深く感じ、大司馬門に行幸された。城上で蹕の声を聞くと皆鬨の声を上げ、軍人も涙を流さぬ者はなく、百姓はようやく安堵した。
侯景はまた城の東西にそれぞれ土山を築いて城に臨み、城内もまた二つの山を作ってこれに対応し、簡文帝以下みな自ら箕と鍤を取った。初め、侯景は到着するとすぐに建鄴を平定できると望み、号令は非常に明らかで、百姓を犯さなかった。攻め落とせないうちに人心が離反し、また援軍が総集するのを恐れ、兵士たちが必ず潰散するだろうと思い、兵を放って殺戮略奪を行い、交わった死体が道を塞いだ。富室豪家を恣意に収奪し、子女妻妾をことごとく軍営に入れた。また北方人で以前奴隷であった者を募り、みずから脱出するよう命じ、破格の賞を与えた。朱異の家の黥面の奴隷が仲間とともに城を越えて賊に投降し、侯景は彼を儀同とし、宮闕の下に至らせて城内を誘惑させた。彼は馬に乗り錦の袍をまとって罵って言った。「朱異は五十年仕官して、ようやく中領軍を得た。私は侯王に仕え始めて、すでに儀同である。」そこで奴僕たちは競って出て行き、すべて志を得た。
侯景が石頭の常平倉の食糧を食い尽くすと、すぐに住民を掠奪し、その後は米一升が七八万銭となり、人は互いに食い合い、子を食う者もあった。また土山を築くのに、貴賤を問わず、昼夜休まず、乱暴に鞭打って駆り立て、疲れ弱った者は殺して山に埋め、号哭の声は天地を動かした。百姓は隠れることができず、みな出てこれに従い、十日ほどの間に数万に及んだ。
侯景の儀同範桃棒は密かに重賞を貪り、甲士二千人を率いて降伏し、侯景の首をもって賞に応じようと求め、文徳軍の主帥で前白馬游軍主の陳昕を夜に城を越えて入らせ、密かに状況を啓上させた。簡文帝はこれを武帝に啓上し、上は大いに喜び、桃棒に返答させ、事が定まったら河南王に封ずることを許し、銀券を刻んで与えようとした。簡文帝はその詐りを恐れ、躊躇して決断しなかった。上は怒って言った。「降伏を受け入れるのは常理である。どうして急に疑いを生じるのか。」朱異と傅岐がともにこれを受け入れるよう請うた。簡文帝は言った。「私は堅城を守り、外援を望んでいる。外援がもし至れば、賊など平定に足りない。今もし門を開いて桃棒を受け入れれば、桃棒の意図はなお知り難く、一旦危険に傾けば、後悔しても及ばない。」桃棒はまた言った。「今はただ率いる五百余人だけを連れ、城門に至れば、自らみな甲を脱ぎます。朝廷に容赦を賜るよう乞います。事が成就した時には、必ず侯景を生け捕りにします。」簡文帝はその言葉を見てますます疑った。朱異は手で胸を叩いて言った。「今年、社稷は失われる。」間もなく桃棒の軍人魯伯和が侯景に告げ、ともに烹殺された。
この時、邵陵王蕭綸が西豊公大春・新淦公大成・永安侯蕭確・南安郷侯蕭駿・前譙州刺史趙伯超・武州刺史蕭弄璋・歩兵 校尉 尹思合らを率い、馬歩軍三万を以て京口より出発し、直ちに鍾山を占拠した。侯景の党は大いに驚き、皆逃げ散ろうとし、一万余人を分遣して防戦した。蕭綸は愛敬寺の下でこれを大いに破った。
侯景は初め蕭綸が来ると聞き、恐れの色を顔に表したが、敗軍が戻ると、その勢いを殊更に言い、ますます恐れ、船を石頭に準備して北へ渡ろうとした。任約が言った。「故郷を万里離れて、どこへ逃げようとするのか。戦いに勝たなければ、君臣ともに死ぬ。草の間に乞食して生き延びることは、私の為すところではない。」侯景はそこで宋子仙に陣営を守らせ、自ら精鋭を率いて蕭綸を防ぎ、覆舟山の北に陣を布き、蕭綸と対峙した。暮れになると、侯景は退き還り、南安侯蕭駿が数十騎を率いて挑んだ。侯景は軍を返し、蕭駿は退いた。時に趙伯超は玄武湖の北に陣しており、蕭駿が退くのを見て、やはり軍を率いて前進し走った。諸軍はこれによって乱れ、ついに敗北した。蕭綸は京口に奔った。賊は西豊公大春・蕭綸の司馬莊丘慧達・南合将軍鬍子約・広陵令霍雋らを捕らえて城下に送り、脅して言わせた。「すでに邵陵王を生け捕りにした。」霍雋だけは言った。「王は小敗したが、すでに全軍で京口に還った。城中はただ堅く守り、援軍は間もなく至るであろう。」言葉が終わらないうちに、賊は刀でその口を傷つけ、侯景はその義を感じて釈放した。蕭正徳は捕らえて害した。この日、鄱陽王世子蕭嗣と裴之高が後渚に至り、蔡洲に営を結んだ。侯景は軍を分けて南岸に駐屯させた。
十二月、侯景は諸々の攻城具や飛楼・橦車・登城車・鉤堞車・階道車・火車を造り、いずれも高さ数丈、車輪二十に至るものもあり、宮闕の前に並べて、百道に分かれて城を攻めた。火車で城の南東隅の大楼を焼き、火勢に乗じて城を攻めた。城上から火を放ち、その攻城具をすべて焼き払ったので、賊は退いた。この時、侯景の土山が完成し、城内の土山も完成した。太府卿韋黯に西土山を守らせ、左衛将軍柳津に東土山を守らせた。山には芙蓉の層楼を建て、高さ四丈、錦の罽で飾り、烏笙で防ぎ、両山の峰は近接していた。敢死の士を募り、厚い衣袍と鎧を着せ、「僧騰客」と名付け、二山に配し、矟を交えて戦わせた。鼓の音と叫び声が沸き立ち、朝夕止まなかった。土山での攻防戦は苦しく、人は命に堪えず、柳津は命じて地道を作り、外の山を破壊し、雉尾炬を投げてその櫓や堞を焼いた。外の山が崩れ、賊をほとんど押し潰した。賊はまた蝦蟆車を作り、土石を運んで塹を埋め、戦士を楼車に昇らせ、四面から一斉に攻め寄せた。城内は飛石でその車を砕き、賊の死体は城下に積もった。賊はまた城の南東角を掘り、城内は迂城を作ってその形状は却月のようでこれを防ぎ、賊はついに退いた。
材官将軍宋嶷が賊に降り、そのために策を立て、玄武湖の水を引いて台城を灌漑し、闕前の御街はすべて洪水となった。また南岸の住民の営寺を焼き、ことごとく尽くした。司州刺史柳仲礼、衡州刺史韋粲、南陵太守陳文徹、宣猛将軍李孝欽らが皆救援に赴き、鄱陽王の世子蕭嗣、裴之高もまた江を渡った。柳仲礼は朱雀航の南に営し、裴之高は南苑に営し、韋粲は青塘に営し、陳文徹と李孝欽は丹陽郡に屯し、鄱陽王の世子蕭嗣は小航の南に営し、ともに淮水に沿って柵を造った。夜明けになって、侯景はようやく気づき、禅霊寺の門楼に登ってこれを望んだ。韋粲の営塁がまだ固まっていないのを見て、兵を渡してこれを撃ち、韋粲は敗れ、侯景は韋粲の首を斬って城下にさらした。柳仲礼は韋粲の敗北を聞き、甲を着ける暇もなく、数十人とともにこれに赴いた。賊に遭遇し、数百の首を斬り、なお水に投じて死んだ者は千余人に及んだ。仲礼は深く入り、馬が泥に陥り、また重傷を負った。これより賊は岸を渡ることを敢えてしなくなった。
邵陵王蕭綸はまた臨城公蕭大連らとともに東道から南岸に集まり、荊州刺史湘東王蕭繹は世子蕭方等と兼司馬の呉曄、天門太守樊文皎を派遣して救援に赴かせ、湘子岸の前に営した。高州刺史李遷仕、前司州刺史羊鴉仁もまた兵を率いて続いて到着した。やがて鄱陽王の世子蕭嗣、永安侯蕭確、羊鴉仁、李遷仕、樊文皎が衆を率いて淮水を渡り、賊の東府城前の柵を攻め破り、ついに青渓水の東に営した。侯景はその儀同の宋子仙を遣わし、水の西に沿って柵を立てて相対抗させた。侯景の食糧は次第に尽き、人肉を食う者が十のうち五六に及んだ。
初め、援軍が北岸に至ったとき、その衆は百万と号した。百姓は老幼を連れて王師を待ち望んだが、淮水を過ぎるや、たちまち争って略奪し、金銀を徴責し、列営して立ち、互いに疑いを抱いた。邵陵王蕭綸と柳仲礼は仇敵よりも甚だしく、臨城公蕭大連と永安侯蕭確は水火よりも酷く、闘う心がなかった。賊党で自ら抜け出そうとする者がいても、これを聞いて皆やめた。
賊が初めて至ったとき、城中はかろうじて固守することができ、平蕩のことは援軍に期待していた。やがて内外が断絶し、羊車児が計を献じて、紙鳶を作り長い縄をつけ、その中に勅を隠した。簡文帝は太極殿の前から、西北風に乗せてこれを放ち、書が届くことを望んだ。群賊はこれを驚き、厭勝の術であると言い、またこれを射落とした。その危急このようであった。この時、城中は包囲逼迫されて久しく、肉の味はたちまち絶え、簡文帝の上厨には、わずかに一つの肉の膳があるのみであった。軍士は弩を煮、鼠を燻し、雀を捕えてこれを食った。殿堂にはかつて多くの鳩が群れ集まっていたが、この時に至って殲滅された。初め、宮門が閉ざされたとき、公卿は食を念とし、男女貴賎ともに出て米を背負い、四十万斛を得、諸府庫に蔵する銭帛五十億万を収め、ともに徳陽堂に集めたが、魚塩樵採の取るところは少なかった。この時に至っては、尚書省を壊して薪とし、薦や銭を撤去して馬に飼い、尽きるとまた飯を食った。御甘露厨に乾いた苔があり、味は酸鹹で、戦士に分け与えた。軍人は殿省の間で馬を屠り売り、人肉を混ぜ、食う者は必ず病んだ。賊はまた水竇に毒を置き、ここにおいて次第に腫満の病が流行し、城中で疫病で死ぬ者は大半に及んだ。初め、侯景がまだ江を渡らなかったとき、魏人が檄を遣わし、極めて侯景の反復猜忍を言い、また武帝が智を飾り愚を驚かし、侯景に欺かれるであろうと言った。この時に至って禍敗の状は、皆その述べたところのようであり、南人は皆これを讖と思った。
この時、侯景の軍もまた飢え、再び戦うことができなかった。東城に積粟があったが、その路は援軍によって断たれ、かつ湘東王が荊州の兵を下すと聞いた。彭城の劉邈はそこで侯景に説いて言った、「大軍は頓兵すること久しく、城を攻めて抜かず、今衆軍雲集し、容易に破ることはできません。聞くところによれば軍糧は一月を支えず、運漕の路は絶え、野に掠める所なく、嬰児の掌上に在るは、まさに今に在り。和を乞い、全師して返るに如かず」。侯景はそこで王偉と計り、任約を遣わして城北に至らせ、表を拝して偽って降り、河南をもって自ら効を尽くすとさせた。武帝は言った、「我は死あるのみで、寧ろこの議があろうか。かつ賊は凶逆で多く詐りあり、この言をどうして信じることができよう」。やがて城中は日々に逼迫し、簡文帝は武帝に請うて言った、「侯景が囲み逼迫し、既に勤王の師なく、今和を許そうとし、さらに後の計を思います」。武帝は大いに怒って言った、「和は死に如かず」。簡文帝は言った、「城下の盟は、すなわち深き恥であり、白刃が前で交わり、流れ矢も顧みない」。上はしばらく躊躇して言った、「汝自らこれを図れ、千載の笑いを取らせるな」。そこでこれを聞き入れた。
侯景は江右の四州の地の割譲を請い、また宣城王蕭大器の出送を求め、それから囲みを解いて江を渡るとした。そこでその儀同の於子悦、左丞の王偉を入城させて質とすることを許した。中領軍傅岐は、宣城王は嫡嗣の重きあり、軽々しく言う者あれば剣を請うてこれを斬らんと議した。そこで石城公蕭大款の出送を請い、詔はこれを許した。ついに西華門の外に壇を設け、尚書僕射王克、兼侍中上甲郷侯蕭韶、兼 散騎常侍 蕭瑳を遣わし、於子悦、王偉らと壇に登ってともに盟した。右衛将軍柳津は西華門の下に出、侯景はその柵門を出て、柳津と遥かに対し、牲を刑し血をすすった。
南兗州刺史南康嗣王蕭会理、前青冀二州刺史湘潭侯蕭退、西昌侯の世子蕭彧が衆三万を率いて馬卬洲に至った。侯景は北軍が白下から上り、その江路を断つことを慮り、すべて南岸に集めさせてほしいと請うた。勅はそこで北軍を並べて江潭苑に進ませた。侯景はまた啓して称した、「永安侯、趙威方がしきりに柵を隔てて臣を罵り、『天子自ら汝と盟す、我は終に汝を逐わん』と言います。召し入城させてください、すぐに進発します」。勅はともにこれを召し入れた。侯景はそこで東城の米を石頭に運び、食糧はようやく足りた。また啓して言った、「西岸からの手紙が至り、高澄がすでに寿春、鍾離を得たので、安んずる所がなく、権宜に広陵、譙州を借り、寿春、鍾離を征得し次第、すなわち朝廷に奉還します」。
この時、荊州刺史湘東王蕭繹は武成に軍を出し、河東王蕭誉は巴陵に次ぎ、前信州刺史桂陽王蕭慥は江津に頓し、ともに進まなかった。やがて勅があり班師し、湘東王は帰還しようとした。中記室参軍蕭賁が言った、「侯景は人臣として兵を挙げて宮闕に向かい、今もし兵を放てば、江を渡るに及ばず、童子でもこれを斬ることができ、必ずそうはしません。大王は十万の師を以て、賊を見ずして退くとは、どういうことですか」。湘東王は喜ばなかった。蕭賁は骨鯁の士であり、常に湘東王が救援に入らないことを恨んでいた。かつて王と双六を打ち、子を食う下りがなかったとき、蕭賁は言った、「殿下にはまったく下す意思がありません」。王は深くこれを憾み、ついに事に因ってこれを害した。
侯景は既に援軍の号令が統一されず、ついに王事に尽力する効果のないことを知り、また城中で疫病による死者が次第に増え、応じる者があるであろうと聞いた。湘東王らの兵を退けた後、また東城の米を得て、王偉がさらに侯景に説いて言うには、「王は人臣として挙兵し、背き叛き、宮闕を包囲し守って、既に十旬に満ちた。妃主を逼迫し辱め、宗廟を陵辱し穢して、今日このような状態を保って、どこに身を容れられようか。願わくはしばらく変事を観望せられよ」。侯景はこれを然りとして、乃ち上表して武帝の十の過失を陳べた。三年三月丙辰の朔、城内は太極殿の前に壇を設け、兼太宰・尚書僕射の王克らを使わして天地の神祇に告げ、侯景が盟約に背いたことを挙げ、烽火を上げて鼓噪した。初め、城が包囲された日には、男女十余万、甲冑を着けた者は三万であったが、この時には疫病でほぼ全滅し、城壁を守る者はただ二三千人に止まり、皆ことごとく疲れ弱っていた。横たわる屍は道に満ち、これを埋め葬る者なく、臭気は数里にわたり、爛れた汁は溝や堀に満ちた。ここにおいて羊鴉仁・柳仲禮・鄱陽王の世子の嗣が東府城の北に進軍した。柵や塁は未だ築かれず、侯景の将の宋子仙に敗れ、首級を闕下に送られた。侯景はまた于子悦を遣わして和を乞わしめ、城内は御史中丞の沈浚を侯景の所に遣わした。侯景に去る意志がなく、沈浚はこれにより彼を責めた。侯景は大いに怒り、即ち石闕の前の水を決壊させ、百道より城を攻め、昼夜止むことなかった。
丁卯、邵陵王の世子の堅の帳内の白曇朗・董勳華が城の西北楼において賊を納れた。五鼓、賊は四面より飛梯をかけ、衆は悉く上った。永安侯の確はその兄の堅と力を合わせて戦ったが退けることができず、乃ち還って文徳殿に至り状況を言上した。しばらくして、侯景は先に王偉・儀同の陳慶をして殿中に入らせ陳謝させて言わしめた、「臣は既に高氏と隙があるので、帰投したのであり、毎度上奏しても奏聞されなかったので、入朝したのである。しかるに奸佞の輩が誅を恐れ、深く推拒されたので、連日兵を交え、罪は万誅に当たる」。武帝は言った、「侯景は今どこにおるか。召し来たせ」。侯景は入朝し、甲士五百人をもって自衛し、剣を帯びて殿上に昇った。拝礼が終わると、帝は神色を変えず、三公の榻に坐らせ、これに謂って言った、「卿は戎事の間久しく、労多くはないか」。侯景は黙然とした。また問うて、「卿は何州の人か。而してここに来たのか」。また答えなかった。その従者の任約が代わって答えた。また問うて、「初め江を渡った時は幾人か」。侯景は言った、「千人」、「台城を囲んだ時は幾人か」。曰く、「十万」、「今は幾人か」。曰く、「率土の内、己が有に非ざるは莫し」。帝は首を垂れて言わなかった。侯景が出て、その廂公の王僧貴に謂って言った、「我は常に鞍に据えて敵に対し、矢や刃が交えて降りかかっても、意には少しも怖れはなかった。今蕭公に会って、人をして自ずと畏れさせる、豈に天威犯し難きに非ずや。我は再びこれに会うべからず」。出て永福省において簡文帝に会い、簡文帝は坐してこれと相見え、また懼色がなかった。
初め、簡文帝の寒夕の詩に云う、「雪花に蔕無く、冰鏡台に安からず」。また月を詠じて云う、「飛輪轍を了して無く、明鏡台に安からず」。後人、これを以て詩讖と為し、蔕無き者は、是れ帝無きなりと謂い、台安からざる者は、台城安からざるなりと謂い、輪轍無き者は、邵陵の名を綸と為すを以て、空しく赴援の名有るなりと謂う。
既にして侯景は兵を西州に屯し、偽儀同の陳慶に甲兵をもって太極殿を守らせ、乗輿の服玩・後宮の嬪妾を悉く鹵掠し、王侯朝士を収めて永福省に送り、二宮の侍衛を撤かせた。王偉をして武徳殿を守らせ、于子悦をして太極東堂に屯せしめ、詔を矯って大赦し、自ら大 都督 ・ 都督 中外諸軍・録尚書事と為し、その侍中・使持節・大丞相・王は元の如し。
先に、城中の積屍は埋め葬る暇がなく、また既に死して未だ殯せざる者、或いは将に死せんとして未だ絶えざる者あり、侯景は悉くこれを聚めて焚かしめ、臭気は十余里に聞こえた。尚書外兵郎の鮑正は疾篤く、賊はこれを曳き出して焚き、火中に宛転し、久しくして方に絶えた。侯景はまた詔を矯って征鎮牧守に各々本位に復せしめ、ここにおいて諸軍は並びに散った。蕭正徳を降して侍中・大司馬と為し、百官は皆その職に復した。
帝は外跡は屈せざれども、意は猶お忿憤し、侯景は宋子仙を 司空 と為さんと欲したが、帝は言った、「陰陽を調和するは、豈に此の物に在らんや」。侯景はまた文徳主帥の鄧仲を城門 校尉 と為さんことを請うたが、帝は言った、「此の官を置かず」。簡文帝が重ねて入奏すると、帝は怒って言った、「誰か汝を来らしめたるか」。侯景は聞いても敢えて逼ることはなかった。後に毎度徴求するも、多く旨に称せず、御膳に至るまで裁抑された。遂に憂憤を懐いた。五月、疾と飢えを感じ、文徳殿において崩じた。侯景は秘して喪を発せず、暫く昭陽殿に殯し、外の文武は皆これを知らなかった。二十余日して、然る後に梓宮を太極前殿に昇らせ、簡文帝を迎えて即位させた。及び修陵に葬るに及び、衛士を使わして大釘をもって要地にこれを釘せしめ、後世に絶滅せしめんと欲した。詔を矯って北人にして奴婢たる者を赦し、その力を用いんことを冀った。時に東揚州刺史の臨城公の大連は州に拠り、呉興太守の張嵊は郡に拠り、南陵以上より並びに各々拠守した。侯景の制命の行わるるは、唯だ呉郡以西・南陵以北のみであった。
六月、侯景は乃ち蕭正徳を永福省において殺し、元羅を西秦王に封じ、元景襲を陳留王に封じ、諸元の子弟で王に封ぜられた者十余り。柳仲禮を使持節・大 都督 と為し、大丞相に隷属せしめ、戎事に参じさせた。
十一月、百済の使節が至り、城邑の丘墟を見て、端門の外において号泣し、行路の見る者はこれに涙を洒がざるはなかった。侯景は聞いて大いに怒り、小荘厳寺を収め、出入りを禁じて聴さなかった。大寶元年正月、侯景は詔を矯って自ら班剣四十人を加え、前後部の羽葆・鼓吹を給し、左右長史・従事中郎四人を置いた。三月甲申、侯景は簡文帝に楽游苑において禊宴を請い、帳中にて三日飲んだ。その逆党は皆妻子を自ら随え、皇太子以下、並びに馬射を令し、箭中たる者には金銭を以て賞した。翌日の暁方、簡文帝は宮に還った。侯景は拝伏して苦しく請うたが、簡文帝は従わなかった。発するに及び、侯景は即ち溧陽主と共に御床に拠り南面して並び坐し、群臣文武は列坐して宴に侍した。
四月辛卯、侯景はまた簡文帝を召して西州に幸せしめ、簡文帝は素輦に御し、侍衛四百余人。侯景の衆数千は浴鉄して翼衛した。簡文帝が西州に至ると、侯景らは逆拝した。上は白紗帽を冠り、白布の裙襦を服した。侯景は紫紬の褶を服し、上に金帯を加え、その偽儀同の陳慶・索超世らと西向きに坐した。溧陽主とその母の範淑妃は東向きに坐した。上は絲竹を聞き、淒然として涙を下した。侯景は起ちて謝して言った、「陛下何ぞ楽しまざる」。上は笑って言った、「丞相言え、索超世は此れを聞きて何の声と為すか」。侯景は言った、「臣すら知らず、豈に独り超世のみならんや」。上は乃ち侯景に舞を命じ、侯景は即ち席を下りて弦に応じて歌った。上は顧みて淑妃に命じたが、淑妃は固く辞したので乃ち止めた。侯景はまた上に礼を上り、遂に上を逼って舞わしめた。酒闌け坐散じ、上は床において侯景を抱いて言った、「我は丞相を念う」。侯景は言った、「陛下もし臣を念わざれば、臣何ぞ此に至らん」。上は筌蹄を求め、言った、「我公の為に講ぜん」。侯景に席を離れさせ、その唱経をさせた。侯景は超世に何の経が最小かと問うと、超世は言った、「唯だ観世音小なり」。侯景は即ち「爾時無盡意菩薩」と唱えた。上は大笑い、夜に乃ち罷めた。
時に江南は大飢饉となり、江州・揚州は殊に甚だしく、旱魃と蝗害が相次ぎ、穀物は実らず、百姓は流亡し、死者は地を埋めた。父子は手を携えて共に江湖に入り、あるいは兄弟は互いに誘い合って共に山嶽に縁った。菱の実や荇の花は、所在ことごとく尽き、草の根や木の葉さえ、そのために凋み残った。仮に命を繋ぐこと須臾たりとも、結局は山沢に死ぬのである。その穀物を絶って久しい者は、鳥のような顔に鵠のような体つきとなり、床帷に俯伏して、戸牖を出ない者で、羅綺を衣、金玉を懐き、互いに枕藉して、命の終わるのを待たない者はなかった。ここに於いて千里に煙絶え、人跡は稀で、白骨は聚まって丘隴の如くであった。而して侯景は刑を用いるに虐にして、酷忍無道であり、石頭に大なる舂碓を立て、法を犯す者あれば搗き殺した。東陽の人李瞻が兵を起こしたが、賊に捕らえられ、建鄴に送られた。侯景は先ず彼を市中に出し、その手足を断ち、心腹を刻み析き、肝腸を破き出した。李瞻は顔色を正し容を整え、言笑自若としており、その胆を見る者は升の如き大きさであったという。また人々が偶語することを禁じ、大酺を許さず、違反すれば外族にまで刑が及んだ。その官人で閫外を兼任する者は位は必ず行台とし、凶徒に附く者は皆開府と称し、その親寄隆重なる者は左右廂公と号し、勇力兼備の者は庫真部督と名付けた。
七月、侯景はまた詔を矯って自ら相国の位に進み、泰山など二十郡を漢王に封ぜられた。朝に入るに趨らず、拝を讃するに名を称せず、剣を帯び履を履いて殿上に上ることを許され、漢の蕭何の故事に依った。十月、侯景はまた詔を矯って自ら宇宙大将軍・ 都督 六合諸軍事を加え、その詔文を簡文帝に呈した。簡文帝は大いに驚いて言った、「将軍に宇宙の号があるとは」。初め、武帝が崩御した後、侯景は簡文帝を立て、重雲殿に登って仏に礼し盟って言った、「臣は乞う、今後両者疑貳無からんことを。臣は固より陛下に負かず、陛下も亦た臣に負くことなかれ」と。南康王会理の事が起こると、侯景は次第に猜疑と恐れを抱き、簡文帝が自分を謀ろうとしていると思った。王偉がそこで扇動したので、遂に逆謀を懐いたのである。
二年正月、侯景は王克を太宰とし、宋子仙を太保とし、元羅を太傅とし、郭元建を太尉とし、張化仁を 司徒 とし、任約を 司空 とし、于慶を太師とし、紇奚斤を太子太傅とし、時霊護を太子太保とし、王偉を尚書左僕射とし、索超世を右僕射とした。大航に於いて水を跨いで城を築き、名付けて捍国といった。
四月、侯景は宋子仙を遣わして 郢州 刺史方諸を襲撃陥落させた。侯景は勝ちに乗じて西上し、号二十万、旗を連ねて千里、江左以来、水軍の盛んなことこれ無かった。元帝はこれを聞き、御史中丞宗懍に言った、「賊がもし巴陵を分守し、鼓行して西上すれば、荊州・郢州は危うい、これが上策である。身を長沙に頓して、零陵・桂陽の地を徇い、糧食を運んで洞庭に至れば、湘州・郢州は我が有する所ではなくなる、これが中策である。衆を擁して江口にあり、連ねて巴陵を攻め、鋭気は堅城に尽き、士卒は半菽に飢えれば、これが下策である。我は枕を安じて臥し、多く憂うる所無し」と。巴陵に次いだ時、王僧辯は船を沈め鼓を臥せ、既に遁げ去ったかの如くであった。侯景は遂に城を包囲した。元帝は平北将軍胡僧祐と居士陸法和を遣わしてこれを大破し、その将任約を生け捕りにしたので、侯景は夜遁して都に還った。左右に泣く者がいたので、侯景は斬ることを命じた。王僧辯はそこで東下し、ここより衆軍の至る所皆捷した。先に、侯景は毎度出師する際、諸将に戒めて言った、「もし城邑を破れば、浄く殺し去れ、天下に我が威名を知らしめよ」と。故に諸将は人を殺すことを戯笑とし、百姓は死んでもこれに従わなかった。
是の月、侯景は遂に簡文帝を廃し、永福省に幽閉し、 豫 章王蕭棟を迎えて皇帝の位に即かせ、太極前殿に昇らせ、大赦を行い、元号を天正元年と改めた。回風が永福省から吹き、その文物が皆倒れ折れ、見る者驚かざるはなかった。初め、侯景は建鄴を平定した後、早くも 簒 奪の志を抱き、四方を平定する必要があるため、未だ自立しなかった。既にして巴陵にて軍律を失い、江州・郢州にて師を喪い、猛将は外で殲滅され、雄心は内で沮喪したので、速やかに大号を僭称しようとした。また王偉が言うには、「古より鼎を移すには必ず廃立を要す」と。故に侯景はこれに従った。その太尉郭元建はこれを聞き、秦郡から馳せ戻って諫めて言った、「主上は仁明である、どうしてこれを廃することができようか」と。侯景は言った、「王偉が私を勧めたのだ」と。元建は固く陳べて不可とし、侯景の意は遂に翻り、帝位に復そうとして、蕭棟を太孫としようとした。王偉が固く執って不可としたので、蕭棟に禅位したのである。侯景は哀太子の妃を郭元建に賜わったが、元建は言った、「皇太子妃がどうして人妾に降りることがあろうか」と。遂に相見えなかった。侯景の 司空 劉神茂・儀同尹思合・劉帰義・王曄・桑乾王元頵らが東陽を拠って帰順した。
十一月、侯景は蕭棟の詔を矯り、自ら九錫を加え、漢国に丞相以下の百官を置き、庭に備物を陳べた。突然、山鵲に似た鳥が侯景の冊書の上を翔け、赤い足に丹い嘴、都下左右に無いものであった。賊徒は皆驚き、競ってこれを射たが、中てることができなかった。侯景はまた蕭棟の詔を矯り、その祖を大将軍に追崇し、父を大丞相に追崇し、自ら冕に十二の旒を加え、天子の旌旗を建て、出には警し入には蹕し、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、楽舞は八佾、鍾虡宮懸の楽を設け、全て旧儀の如くであった。間もなくまた蕭棟の詔を矯って禅位し、偽りの太宰王克に璽紱を奉じて己に与えさせた。前夜、侯景は大荘厳寺に宿り、即ち南郊にて天に柴燎し、壇に登って禅を受け、大風が木を抜き、旗蓋は尽く偃し、文物は共に旧儀を失った。既に警蹕を唱えると、識者は名を景と言いながら警蹕と唱えるのは、久しき祥びではないと言った。侯景はこれを聞いて悪み、備蹕と改めた。人また曰く、備はここに於いて畢わるのだと。有司は乃ち奏して永蹕と改めた。広柳車に鼓吹を載せ、橐駝に犠牲を負わせ、輦の上に垂脚坐を置いた。侯景の帯びる剣の水精の摽が故無く堕落し、自ら手を下して拾い取ったが、甚だこれを悪んだ。壇に登らんとする時、兎が前から走り去り、俄かに所在を失った。また白虹が日を貫くこと三重、日は青く色無しであった。還って太極殿に登らんとすると、醜徒数万が共に唇を吹き吼え唱えて上った。御床に昇ると、床の脚が自ら陥没した。大赦を行い、元号を太始元年と改めた。群臣を饗しようとした時、宴中に立ち上がり、扆に触れて地に墜ちた。蕭棟を淮陰王に封じ、幽閉した。梁の律を漢の律と改め、左戸尚書を殿中尚書と改め、五兵尚書を七兵尚書と改め、直殿主帥を直寢と改めた。
侯景の三公の官は、動かすこと十数に置き、儀同は特に多かった。ある者は匹馬孤行し、自ら羈絏を執った。宋子仙・郭元建・張化仁・任約を佐命の元功とし、皆三公の位を加え;王偉・索超世を謀主とし;于子悦・彭雋は撃断を主り;陳慶・呂季略・盧暉略・于和・史安和を爪牙とした:これらは皆百姓に対して特に毒害の甚だしい者である。その余の王伯醜・任延和らまた数十人がいた。梁人で侯景に用いられた者は、則ち故将軍趙伯超・前制局監の姬石珍・内監の厳亶・邵陵王記室の伏知命、この四人は尽心竭力した者である。太宰王克・太傅元羅・侍中殷不害・太常姬弘正らは、官は尊いが、ただ人望に従っただけで、腹心の任ではなかった。侯景の祖の名は乙羽周であり、 簒 奪した後、周を廟諱としたので、故に周弘正・石珍の姓を姬と改めたのである。
王偉が七廟の建立を請うと、侯景は言った、「七廟とは何か」。王偉が言った、「天子は七世の祖先を祭るので、七廟を置くのです」。また七世の諱を請い、太常に祭祀の礼を整えさせた。侯景は言った、「前世のことは私はもう思い出せない。ただ父の名は摽で、しかも朔州におり、どうしてここに来てこれを食えるものか」。これを聞いた人々は皆笑った。侯景の党に、侯景の祖父の名が乙羽周であることを知っている者がおり、それ以外はすべて王偉がその名位を定めた。漢の 司徒 侯覇を始祖とし、晋の征士侯瑾を七世の祖とした。そこでその祖父の周を推尊して大丞相とし、父の摽を元皇帝とした。
その時、侯景は台城及び朱雀門・宣陽門などの門を修繕していたが、童謡に言う、「的脰烏、朱雀を払い、また呉に還る」。また言う、「青袍を脱ぎ、芒屩を着け、荊州の天子挺応に著くべし」。当時、都中の王侯庶姓の五等廟の樹木は、皆残毀されているのを見たが、ただ文宣太后廟の四周の柏樹だけが鬱然と茂っていた。侯景が 簒 奪すると、南郊の道路を修築し、偽りの都官尚書呂季略が侯景にこの樹を伐って三橋を立てるよう勧めた。初め南面の十余株を伐ると、二晩で皆切り株から芽が生え、数尺に伸びた。時は既に冬月であったが、翠色茂って春のようであった。賊は大いに驚きこれを忌み、全て伐り殺させた。識者は、昔上林苑で枯柳が蘇ったのは漢宣帝の興隆を表したのであり、今廟樹が再び青くなったのは必ずや陝西(湘東王)の瑞兆を顕すのだと考えた。また侯景の寝台の東側の香炉が故なくして地に堕ちた。侯景は東西南北を皆「廂」と呼び、侯景は言った、「この東廂の香炉がどうして突然地に落ちたのか」。議する者は、湘東王の軍が下る兆しであると考えた。
十二月、謝答仁・李慶等の軍が建徳に至り、元頵・李占の柵を攻撃し、これを大破した。元頵・李占を捕らえて京口に送り、その手足を切断して示衆し、一日経ってようやく死んだ。
侯景の二年(大宝二年)、謝答仁が東陽を攻撃し、劉神茂が降伏した。建康に送ると、侯景は大銼碓を作り、まずその足から進め、一寸ずつ斬り、頭に至ってやっと止めた。衆人に見せて威を示した。
王僧辯の軍が蕪湖に至ると、城主は夜遁した。侯子鑒が歩騎一万余りを率いて州を渡り、水軍を引き連れて共に進んだ。王僧辯が迎え撃ち、これを大破した。侯景はこれを聞いて大いに恐れ涙を流し、顔を覆って衾を引き被って臥し、久しくしてようやく起き上がり、嘆いて言った、「咄咄、咄咄、誤って 乃公 を殺してしまった」。
初め、侯景が丞相であった時、西州に居住し、将帥謀臣は朝には必ず行列門外に集まり、これを牙門と呼んだ。順次に引き入れ、酒食を与え、談笑し論じ、善悪を必ず共にした。 簒 奪してからは、常に内に坐って出ず、旧将はめったに面会できず、皆怨みの心を持った。この時、烽火楼に登って西の軍を望み、一人を見て十人と思い、大いに恐れた。王僧辯及び諸将は遂に石頭城の西から歩いて上り、連なって営を立て柵を建て、落星墩に至った。侯景は大いに恐れ、王僧辯の父の墓を掘らせ、棺を剖いてその屍を焼いた。王僧辯等は石頭城の北に進んで営を立て、侯景は陣を列ねて挑戦したが、王僧辯がこれを大破した。
侯景は既に退き敗れたので、宮中に入ることを敢えず、その散兵を収めて闕下に屯し、遂に逃げ去ろうとした。王偉が剣を押さえ轡を掴んで諫めて言った、「古より叛く天子あらんや。今宮中の衛士は尚ほ一戦に足る。どうしてすぐに逃げ去ることができようか」。侯景は言った、「私は北で賀抜勝を打ち、葛栄を破り、河朔に名を揚げ、高王(高歓)と同様の人物であった。南に来て直ちに大江を渡り、台城を取ること反掌の如く、北山で邵陵王を打ち、南岸で柳仲礼を破ったことは、皆お前の親しく見たところである。今日の事は、恐らくは天が亡ぼすのだ。それならよく城を守り、もう一度決戦すべきだ」。石闕を仰ぎ見て、逡巡し嘆息すること久しかった。遂に皮嚢に二人の子を入れて馬の鞍に掛け、その儀同の田遷・范希栄等百余騎と共に東へ奔った。王偉は遂に台城を捨てて逃げた。侯子鑒等は広陵に奔った。王克が台城の門を開いて裴之横を宮中に引き入れ、兵を放って蹂躙掠奪させた。この夜、残り火が太極殿及び東西堂・延閣・秘署を焼き尽くし、羽儀輦輅に残るものは無かった。王僧辯が武州刺史杜崱に命じて消火させ、辛うじて消し止めた。故に武徳殿・五明殿・重雲殿及び門下省・中書省・尚書省は免れた。
王僧辯が簡文帝の梓宮を迎えて朝堂に上げると、三軍は縞素を着け、哀次に踊った。侯瑱・裴之横に命じて賊を東に追撃させ、偽りの神主を宣陽門で焼き、太廟に神主を作り、図書八万巻を収めて江陵に帰した。杜崱が台城を守ったが、都下の戸口は百に一二を遺すのみで、大航の南岸は極目煙無しであった。老幼互いに扶け合って競い出て、ようやく淮を渡ると、王琳・杜龕の軍人がこれを掠奪し、寇賊よりも甚だしく、号叫の声が石頭まで聞こえた。王僧辯は変事があると思い、城に登ってその故を問うたが、禁じることもしなかった。皆、王師の酷さは侯景よりも甚だしいと言い、君子はこれによって王僧辯の終わりが来ぬことを知った。
初め、侯景が台城を囲んだ時、援軍三十万、兵士は青袍を見れば気消え胆奪した。赤亭の役に至り、胡僧佑が羸卒一千で任約の精甲二万を破り、転戦して東に進み、前に横陣無し。既にして侯瑱が追い及ぶと、侯景の衆は未だ陣せず、皆幡を挙げて降伏を乞い、侯景はこれを制することができなかった。そこで腹心の者数十人と単舸で逃げ、二子を水中に推し落とし、滬瀆から海に入り胡豆洲に至った。前太子舎人羊鯤がこれを殺し、王僧辯に送った。
侯景の身長は七尺に満たず、上が長く下が短く、眉目は疏秀、広い額に高い頬骨、色赤く鬢少なく、目を低くして屡々顧み、声は散じていた。識者は言った、「これを豺狼の声と言う。故に人を食うことができ、また人に食われるであろう」。南に奔った後、魏の相高澄は侯景の妻子の面皮を剥がし、大鉄鑊に油を盛って煎り殺すよう命じた。女は宮中に入れて婢とし、男で三歳の者は皆蠶室に下した。後、斉の文宣帝が獼猴が御床に坐る夢を見ると、侯景の子を鑊で煮殺し、その子の北に在る者は殲滅された。
侯景の性質は猜疑残忍で、殺戮を好み、常に手ずから刃物を用いて戯れた。食事中、面前で人を斬り、談笑自若として、口に食事を絶やさなかった。あるいは先に手足を断ち、舌を切り鼻を削ぎ、一日経ってから殺した。 簒 立して後、時に白紗帽を着け、尚ほ青袍を披き、頭に象牙の櫛を挿し、床上に常に胡床及び筌蹄を設け、靴を履いて足を垂れて坐った。あるいは戸限に倚り、あるいは馬を走らせて遨遊し、鴉鳥を弾射した。天子となってから、王偉が軽々しく外出することを許さず、そこで鬱怏として、更に志を失い、言った、「私は何の事もなくて帝となったが、排斥されるのと変わらない」。義師が転じて近づくと聞くに及び、猜忌は弥深く、床前の蘭錡が自ら廻り、それから客に会った。武帝が常に幸した殿に登る毎に、芒刺が身にあるかの如く、常に叱咄する声を聞いた。また宴居殿にいると、一夜驚いて起き上がり、何かがその心を打つかのようであった。これより凡そ武帝が常に居処した所は、敢えて居処しなかった。多くは昭陽殿の廊下にいた。居る殿屋には、常に鵂鶹の鳥が鳴き呼び、侯景はこれを憎み、毎に人をして山野を窮めて鳥を捕らせた。侯景の乗る白馬は、戦いで勝とうとする時は、常に躑躅して嘶き鳴き、意気駿逸であった。奔衄する時は、必ず頭を低くして進もうとしなかった。石頭の役に至り、精神沮喪し、臥して動こうとしなかった。侯景が左右に拝請させ、あるいは棰策を加えても、終に進もうとしなかった。初め侯景の左足の上に肉瘤があり、形状は亀のようで、戦いに克捷すべき時は、瘤は隠然として起き分明であり、勝たない時は、瘤は低かった。侯景の敗れた日に至り、瘤は肉中に隠れ陥没した。
天監年間、沙門の釈宝志が言うには、「掘尾の狗子自ら狂いを発し、当に死すべく未だ死せず人を齧みて傷つけ、須臾の間に自ら滅亡し、汝陰より起こり三湘に死す」と。また言うには、「山家の小児果たして臂を攘ぎ、太極殿前において虎視を作す」と。狗子は景の小字、山家の小児は猴の状である。景は遂に都邑を覆陥し、皇家を毒害した。懸瓠より起こるは、即ち昔の汝南なり。巴陵に三湘という地名あり、景の奔敗したる処なり。その言皆験す。景は常に人に謂いて曰く、「侯の字は人辺に主を作し、下に人を作す、此れ明らかに人主なり」と。台城既に陥ち、武帝嘗て人に語りて曰く、「侯景必ず帝と為るを得べし、但だ久しからず耳。『侯景』の字を破れば『小人百日天子』と成る、帝と為るに当に百日を得べし」と。案ずるに景は辛未年十一月十九日に位を 簒 し、壬申年三月十九日に敗る、一百二十日を得たり。而して景は三月一日に便ち姑孰に往く、計るに宮殿に在りて足れて十旬を満たす、その言竟に験す。又大同年中、太醫令朱耽嘗て禁省に直し、何ぞ犬羊各々一在りて御坐に在るを夢み、覚めて人に告げて曰く、「犬羊は佳き物に非ず、今御座に拠る、将に変有らんか」と。既にして天子塵を蒙り、景正殿に登る。
景の将に敗れんとするに及び、僧通道人という者有り、意性狂うが若く、酒を飲み肉を噉い、凡等と異ならず。世間に遊行すること已に数十載、姓名郷里、人知る能わず。初めは隠伏を言い、久しくして乃ち方に験す。人並びに闍梨と呼ぶ。景甚だ之を信敬す。景嘗て後堂に於いて其の徒と共に射る、時に僧通坐に在り、景の弓を奪いて景陽山を射、大呼して云く、「奴を得たり」と。景後に又其の党を宴集し、又僧通を召す。僧通肉を取り塩に搵して以て景に進め、問うて曰く、「好まずや」と。景答えて曰く、「恨む所は大いに鹹きなり」と。僧通曰く、「鹹からざれば則ち爛る」と。景の死するに及び、僧辯其の両手を截りて斉の文宣に送り、首を江陵に伝え、果たして塩五斗を以て腹中に置き、建康に送り、市に於いて之を暴く。百姓争い取り屠り膾にして羹に食い皆尽き、並びに溧陽主も亦食の例に預かる。景の骨を焚き灰を揚ぐ、曾て其の禍に罹りし者は、乃ち灰を以て酒に和して之を飲む。首江陵に至り、元帝命じて市に梟すこと三日、然る後に煮て之を漆し、以て武庫に付す。先ず是れ江陵に謡言有り、「苦竹町、市の南に好井有り。荊州の軍、侯景を殺す」と。景の首の至るに及び、元帝諮議参軍李季長の宅に付す、宅の東は即ち苦竹町なり。既に鼎鑊を加うれば、即ち市南の井水を用う。景の儀同謝答仁・行台趙伯超は侯瑱に降り、賊の行台田遷・儀同房世貴・蔡寿楽・領軍王伯醜を生擒す。凶党悉く平らぎ、房世貴を建康市に斬り、余党を江陵に送る。初め、郭元建は皇太子妃に礼有りを以て、将に降らんとす、侯子鑒曰く、「此れ小恵なり、自ら全うするに足らず」と。乃ち斉に奔る。
王偉
王偉、其の先は略陽の人なり。父略、魏に仕えて許昌令と為り、因りて潁川に居す。偉は学び周易に通じ、雅に辞采を高くし、魏に仕えて行台郎と為る。景の叛く後、高澄書を以て之を招く、偉景の為めに澄に報ずる書を作る、其の文甚だ美なり。澄書を覧て曰く、「誰の作する所ぞ」と。左右偉の文と称す。澄曰く、「才此の如く、何に由りて早く知らしめざるや」と。偉既に景の謀謨に協い、其の文檄並びに偉の制する所、及び行い逆を 簒 するは、皆偉の創謀なり。
景敗れ、侯子鑒と俱に走り相失い、潜かに草中に匿る、直瀆の戍主黄公喜擒えて之を送る。王僧辯に見え、長揖して拝せず。執る者之を促す、偉曰く、「各おの臣と為り、何事か相敬せん」と。僧辯之に謂いて曰く、「卿は賊の相と為り、節を死して能わず、而して草間に活きを求め、顛れて扶けず、安んぞ彼の相を用いん」と。偉曰く、「廃興は時なり、工拙は人に在り。向使侯氏早く偉の言に従わば、明公豈に今日の勢有らんや」と。僧辯大笑し、意甚だ之を異にし、命じて出だして以て徇らしむ。偉曰く、「昨朝行に及び八十里、願わくは一驢を借りて歩に代えん」と。僧辯曰く、「汝が頭方に万里を行かん、何ぞ八十里ぞや」と。偉笑いて曰く、「今日の事は、乃ち吾が心なり」と。前尚書左丞虞騭嘗て偉に辱められ、之に遇いて其の面に唾し、曰く、「死虜、庸ぞ復た悪を為る能わんや」と。偉曰く、「君は書を読まず、語るに足らず」と。騭慚じて退く。呂季略・周石珍・厳亶の俱に江陵に送らるるに及び、偉尚ほ全うせられんことを望み、獄に於いて詩を作り元帝の下要人に贈りて曰く、「趙壹能く賦を為し、鄒陽解して書を献ず、何ぞ西江の水を惜しみて、轍中の魚を救わざる」と。又五百字の詩を帝に上る、帝其の才を愛し将に之を赦さんとす、朝士多く忌み、乃ち請うて曰く、「前日偉の檄文を作るに、異なる辞句有り」と。元帝求めて之を視る、檄に云く、「項羽重瞳、尚ほ烏江の敗有り、湘東一目、豈に赤県の帰する所と為らんや」と。帝大いに怒り、使いて以て釘を其の舌に釘し柱に付け、其の腸を剜る。顔色自若たり。仇家其の肉を臠にし、俛いて之を視る、骨に至りて方に之を刑す。石珍及び亶並びに三族を夷す。
趙伯超は、趙革の子なり。初め建鄴に至り、王僧辯之に謂いて曰く、「卿は国の重恩を荷い、遂に復た同逆す」と。対えて曰く、「当今の禍福は、恩は明公に在り」と。僧辯又た謝答仁を顧みて曰く、「聞く卿は侯景の梟将なりと、恨む卿と兵を交えざるを」と。答仁曰く、「公英武蓋世、答仁安んぞ仰ぎ敵せん」と。僧辯大笑す。答仁は簡文に礼を失わざるを以て見宥され、伯超及び伏知命は俱に江陵の獄中に餓死す。彭雋も亦生け捕られ、腹を破きて其の肝臓を抽出す、雋猶死せず、然る後に之を斬る。
熊曇朗
熊曇朗は、 豫 章南昌の人なり、世々郡の著姓と為る。曇朗は跅弛にして羈絆されず、膂力有り、容貌甚だ偉なり。侯景の乱、稍々少年を聚め、豊城県を拠りて柵と為し、桀黠なる劫盗多く之に附く。梁の元帝之を以て巴山太守と為す。魏荊州を克つ、曇朗兵力稍々強く、隣県を劫掠し、居人を縛り売り、山谷の中に於いて、最も巨患と為る。
侯瑱の 豫 章を鎮むるに及び、曇朗は外に服従を示し、陰に瑱を図らんと欲す。侯方児の瑱に反するや、曇朗之が為に謀主と為る。瑱敗れ、曇朗瑱の馬仗子女を獲ること甚だ多し。
蕭勃の嶺を踰ゆるに及び、欧陽頠前軍と為る。曇朗頠を紿して共に巴山に往き黄法奭を襲わしむ。又法奭に報じて期して共に頠を破らんとし、且つ曰く、「事捷すれば我に馬仗を与えよ」と。乃ち軍を出だして頠と掎角して進む。又頠に紿いて曰く、「余孝頃相掩襲せんと欲す、須らく奇兵を分留すべし」と。頠甲二百領を送りて之を助く。城下に至り、将に戦わんとす、曇朗偽りに北し、法奭之に乗ず、頠援を失い、狼々として退き衄る。曇朗其の馬仗を取りて帰る。
時に巴山の陳定も亦兵を擁し砦を立つ、曇朗偽りに女を以て定の子に妻せしめ、又定に謂いて曰く、「周迪・余孝頃並びに此の昏を願わず、須らく強兵を以て来迎すべし」と。定之を信ず。至るに及び、曇朗之を執り、其の馬仗を収め、並びに価を論じて贖を責む。
陳の初め、南川の豪帥として、宜新・ 豫 章二郡の太守を歴任した。王琳に抵抗して功があり、永化県侯に封ぜられ、平西将軍・開府儀同三司の位に至った。周文育が 豫 章において余孝勱を攻めたとき、曇朗は軍を出してこれに合流したが、文育が不利になると、曇朗は文育を害して王琳に応じた。琳が東下すると、文帝は南川の兵を徴発し、江州刺史周迪・高州刺史黄法奭が流れに沿って応援しようとしたので、曇朗は城を占拠し艦船を並べて迪らを遮った。王琳が敗走すると、周迪がその城を陥落させた。曇朗は村中に逃げ込んだが、村人に斬られ、首は建鄴に伝えられ、朱雀航に懸けられ、宗族は少長を問わず皆棄市に処せられた。
周迪
周迪は、臨川郡南城県の人である。若い頃は山谷に住み、膂力があり、強弩を引き絞ることができ、弋射や狩猟を生業としていた。侯景の乱のとき、迪の同族の周続が臨川で兵を挙げ、梁の始興王蕭毅が郡を続に譲ると、迪は郷人を募集してこれに従い、戦うごとに勇気は諸軍の冠であった。続の配下の渠帥は皆郡中の豪族で、次第に驕横となり、続はこれを禁じようとしたので、渠帥らは続を殺して迪を推して主とした。梁の元帝は迪を高州刺史に任じ、臨汝県侯に封じた。紹泰二年、衡州刺史となり、臨川内史を兼ねた。周文育が蕭勃を討ったとき、迪は甲を按じて境を保ち、成敗を観望した。
陳の武帝が禅を受けると、王琳が東下したので、迪は自ら南川を占拠しようと、配下の八郡の守宰を総召集して盟約を結び、入朝して赴くと声言した。朝廷はその変を恐れ、厚く慰撫した。琳が盆城に至ると、新呉の洞主余孝頃が兵を挙げて琳に応じた。琳は南川諸郡は檄を伝えるだけで平定できると考え、配下の将李孝欽・樊猛らを南征させて糧餉を徴発させた。孝欽らは余孝頃とともに迪を攻めたが、迪はこれを大破し、孝欽・猛・孝頃を捕らえて建鄴に送った。功により平南将軍・開府儀同三司を加えられた。
文帝が位を嗣ぐと、熊曇朗が反逆したので、迪は周敷・黄法奭らとともに曇朗を包囲し、これを屠った。王琳敗亡後、文帝は迪を徴発して盆口に出鎮させようとし、またその子を朝廷に入朝させようとしたが、迪は躊躇して顧み望み、共に至らなかった。 豫 章太守周敷は本来迪に属していたが、この時法奭とともに配下を率いて宮廷に赴いた。文帝は熊曇朗を破った功績を記録し、共に官位と賞賜を加えた。迪はこれを聞いて不平を抱き、密かに留異と結びついた。官軍が留異を討つと、迪は疑惧し、弟の方興をして周敷を襲撃させたが、敷はこれと戦い、破った。また別に兵を遣わして盆城の華皎を襲撃させたが、事が発覚し、全て皎に捕らえられた。
天嘉三年、文帝は江州刺史呉明徹に諸軍を 都督 させ、高州刺史黄法奭・ 豫 章太守周敷とともに迪を討たせたが、勝てなかった。文帝は宣帝(陳の宣帝)に総督させてこれを討たせた。迪の軍勢は潰え、身一つで嶺を越えて晋安に逃れ、陳宝応に依った。宝応は兵と物資を迪に与え、留異もまた第二子忠臣を従わせた。翌年の秋、再び東興嶺を越えた。文帝は 都督 章昭達を派遣して迪を征討させたが、迪はまた山谷に散り散りになった。
初め、侯景の乱のとき、百姓は皆本業を捨てて盗賊となったが、ただ迪の管轄する地域だけは侵掠せず、耕作や商売に従事し、それぞれ余剰の蓄えがあり、政令は厳明で、徴税は必ず届いた。性質は質朴で、威儀を飾らなかった。冬は短い身丈の布の袍、夏は紫紗の襪腹(腰巻きのようなもの)を着た。普段は常に跣足で、外には兵衛を列ね、内には女伎を置いていても、縄をより篾を割くなど、傍若無人の様子であった。しかし財を軽んじ施しを好み、周囲を救済する際は、毫釐でも必ず均等にした。言葉は訥弁であったが、胸中は信実を重んじ、臨川の人々は皆その徳を慕った。この時(追捕の際)、人々は皆迪を匿い、たとえ誅戮を加えられても、語る者は誰もいなかった。
昭達は引き続き嶺を越えて陳宝応と対抗した。迪はまた兵を収集して東興から出たので、文帝は 都督 程霊洗を派遣してこれを破った。迪はまた十余人とともに山の洞穴に逃げ込んだ。後に人を潜り出させて臨川郡の市で魚鮭(魚の塩漬け)を買わせたが、臨川太守駱文牙がこれを捕らえ、迪を捕らえて自らの功績とせよと命じた。迪を狩猟に誘い出し、伏兵を置いて斬った。首は建鄴に伝えられ、朱雀航に三日間梟首された。
留異
留異は、東陽郡長山県の人で、代々郡の著姓であった。異は身の処し方が巧みで、言葉は含蓄があり、郷里の雄豪となった。多くの悪少年を集め、貧賤の者を陵侮し、守宰は皆これを患いとした。梁に仕え、晋安・安固二県の県令となった。
侯景の乱のとき、郷里に帰り、士卒を募集した。太守沈巡が台城(建康)を救援するため、郡を異に譲ると、異は兄の子超に郡の事務を監知させ、自らは兵を率いて沈巡に従って都に出た。城が陥落すると、異は梁の臨城公蕭大連に従い、大連は軍事を委任した。異の性格は残暴で遠大な謀略がなく、私的に威福を振るったので、人々は皆これを患いとした。ちょうど侯景の将宋子仙が浙江を渡ると、異は郷里に逃げ帰り、まもなく配下を率いて子仙に降った。子仙は彼を郷導とし、大連を捕らえるよう命じた。邵陵王蕭綸はこれを聞いて言った。「姓は去留の留、名は同異の異と作り、道理としては逆虜に同ずるべきであろう。」侯景は異を東陽太守に任命し、その妻子を収めて人質とした。行台劉神茂が義兵を挙げて景に抵抗すると、異は表向きは神茂に同調したが、密かに景と約束していた。神茂が敗れて景に誅されると、異だけは免れた。
侯景平定後、王僧弁が異をして東陽を慰労させたが、異は依然として険阻な地を保ち占拠し、州郡はこれを畏れた。西魏が荊州を陥落させると、王僧弁は異を東陽太守とした。陳の文帝が会稽を平定すると、異は糧食を送ってはいたが、一郡を擁して擅権し、威福は己にあった。紹泰二年、応接の功により、縉州刺史に任じられ、東陽太守を兼ね、永嘉県侯に封ぜられた。また文帝の長女豊安公主を異の第三子貞臣に配した。
陳の永定三年、異を南徐州刺史に徴発したが、遷延して就任しなかった。文帝が即位すると、改めて縉州刺史に任じ、東陽太守を兼ねた。異は頻繁に長史王澌を使者として朝廷に入朝させた。澌は毎度朝廷が虚弱であると述べたので、異はこれを信じ、常に両端を懐き、王琳と密かに使者を往来させた。王琳が敗れると、文帝は左衛将軍沈恪を派遣して異に代わって郡守とさせ、実は兵をもって襲撃させた。異は恪と戦って敗れ、表を奉って遜謝した。当時、朝廷は湘州・郢州の平定に忙しく、しばらく彼を羈縻した。異は結局討伐されることを悟り、兵を下淮及び建徳に駐屯させて、江路を備えた。
湘州が平定されると、文帝は詔を下してその罪悪を揚げ、 司空 侯安都にこれを討たせた。異は第二子忠臣とともに陳宝応のもとに奔った。宝応が平定されると、異も捕らえられて都に送られ、建康の市で斬られ、子や甥は皆誅殺された。ただ第三子貞臣だけは公主を娶っていたため免ぜられた。
陳宝応
陳寶應は、 晉 安候官の人であり、代々閩中の四姓の一つであった。父の羽は才幹があり、郡の雄豪であった。寶應の性格は反覆し、多く変詐に富んだ。梁の時代、 晉 安はたびたび反乱を起こし、累次郡将を殺害したが、羽は初めは扇動してその事を成し、後にはまた官軍の郷導となってこれを破った。これにより一郡の兵権は皆自らが出すところとなった。侯景の乱の時、 晉 安太守の賓化侯蕭雲は郡を羽に譲ったが、羽は年老いていたので、ただ郡の事を主宰し、寶應に兵を典させた。当時、東境は饑饉に陥り、会稽は特に甚だしく、死者は十のうち七八に及んだが、 晉 安のみは豊沃で、士衆は強盛であった。
侯景が平定されると、元帝はこれにより羽を 晉 安太守とした。陳の武帝が政を輔けると、羽は老いて帰ることを請い、郡を寶應に伝えることを求めた。武帝はこれを許した。紹泰二年、候官県侯に封ぜられた。武帝が禅を受けると、閩州刺史を授け、会稽太守を領せしめた。文帝が即位すると、その父に光禄大夫を加え、なお宗正に命じてその本系を録し、宗室として編纂させた。
寶應は留異の女を娶って妻とした。侯安都が異を討つに当たり、寶應は師を遣わしてこれを助け、また周迪に兵糧を資し、出でて臨川を寇した。 都督 の章昭達が迪を破ると、文帝はこれにより寶應を討つことを命じ、詔して宗正にその属籍を絶たしめた。寶應は建安の湖際に拠って逆に昭達を拒いだが、昭達は深溝高塁を築いて戦わず、ただ簰を作ることを命じた。やがて水が盛んになり、流れに乗ってこれを放つと、その水柵を突き、寶應の衆は潰えた。捕らえて都に送り、建康の市で斬った。
【論】
論じて曰く、侯景は辺服より起こり、艱難を備嘗し、北より南に至り、多く狡算を行った。当時、江表の地には干戈を見ず、梁の武帝は耄期の年にあり、情を釈教に溺らせ、外には藩籬の固きを弛め、内には防閑の心を絶ち、備えず虞わずして、以て国と為すこと難かった。これに奸回の輩が側に在り、貨賄が潜かに通ずるを加え、景は乃ち機に因って詐を騁せ、恣に行いに矯慝を肆にした。王偉がその謀主となり、文辞をもって飾り、武帝は知音に溺れ、この邪説に惑わされた。遂に乗柎して直ちに済わしめ、長江はその天険を喪い、旌を揚げて闕を指し、金墉はその地利を亡くした。生霊は塗炭に陥り、宗社は丘墟と化した。ここにおいて村屯塢壁の豪や、郡邑岩穴の長は、恣に陵侮して暴を為し、剽掠を資として雄と為った。陳の武帝は期に応じて運を撫し、戡定安輯した。熊曇朗、周迪、留異、陳寶應らは、興運に逢いながらも、未だ迷途を改めず、志は乱常に在り、自ら夷戮を致した。またその宜なるかな。
校勘記