南史 巻七十八 列傳第六十八 夷貊上

南史

巻七十八 列傳第六十八 夷貊上

海南諸國

海南諸國は、おおよそ交州の南及び西南の大海中の洲上にあり、相去ること或いは四、五千里、遠きは二、三万里である。その西は西域諸國と接する。漢の元鼎年間に、伏波将軍路博多を遣わして百越を開き、日南郡を置いた。その徼外の諸國は、武帝以来皆朝貢した。後漢の桓帝の世、大秦・天竺は皆この道より使を遣わして貢献した。呉の孫権の時に至り、宣化従事朱応・中郎康泰を遣わしてこれに通じた。その経過し及び伝聞したところには百数十國があり、よって記伝を立てた。晋代に中国に通ずるものは少なかったので、史官に載せなかった。宋・斉より梁に至るまで、その正朔を奉じ、貢職を修め、航海して往々にして至るようになった。今、その風俗の おおむ ね著しいものを採りて海南と列す。

林邑國

林邑國は、本来漢の日南郡象林県であり、古の越裳の界である。伏波将軍馬援が南境を開き、この県を置いた。その地の縦広は六百里ほどである。城は海より百二十里、日南の南界より四百余里、北は九徳郡に接する。その南界は、水陸の道二百余里にして、西図夷あり、また王と称し、馬援の植えたる二本の銅柱は、漢家の界の処を示すものである。その國には金山があり、石は皆赤色で、その中に金が生ずる。金は夜になると飛び出し、その様は蛍火の如し。また玳瑁・貝歯・古貝・沈木香を産する。古貝とは樹の名であり、その花が成る時は鵞の じゅう の如く、その緒を き出して紡ぎて布と作る。布は紵布と異ならない。また五色に染め、斑布に織る。沈木香とは、土人がこれを断ち切り、歳月を積みて朽ち爛れ、心節のみが独り残り、水中に置けば沈む故に沈香と名付け、次に浮くものを棧香という。

漢末の大乱に、功曹の区連が県令を殺し、自立して王となった。数世を経て、その後、王に嗣子なく、甥の范熊が代わって立ち、死して子の逸が嗣いだ。晋の成帝咸康三年、逸が死し、奴の文が立つことを さん う。文は本来、日南郡西巻県の夷帥范幼の家奴であり、かつて山澗で牛を牧していた時、鱧魚二匹を得て鉄に化し、これをもって刀を鋳た。刀が成ると、文は石に向かって祝して言う、「もし石を斬り破るならば、文はこの國に王たらん」と。よって石を斬ると、芻稿を断つが如く、文は心にこれを異とす。范幼はかつて彼をして商賈せしめて林邑に至らせ、よって林邑王に宮室及び兵車器械を作ることを教え、王は彼を寵愛信任した。後に諸子を讒言し、各々余國に奔らせた。王が死して嗣子なきに及んで、文は偽って鄰國に王子を迎え、漿の中に毒を置いてこれを殺し、遂に國人を脅して自立した。時に交州刺史姜莊は、その親しい者韓戢・謝幼をして前後して日南郡を監せしめ、共に貪婪残酷であり、諸國はこれを患いた。穆帝永和三年、朝廷は夏侯覧を太守として遣わしたが、侵刻が特に甚だしかった。林邑は元より田土がなく、日南の地の肥沃を貪り、常にこれを略取せんと欲していた。ここに至り人の怨みに因り、襲って覧を殺し、その屍をもって天を祭った。日南に留まること三年にして、乃ち林邑に還った。交州刺史朱藩は後に督護劉雄を遣わして日南を戍らせたが、文はまたこれを滅ぼし、進んで九徳郡を寇し、吏人を害した。使を遣わして藩に告げ、日南の北境の横山を以て界とせんことを願う。藩は許さず。文は林邑に帰り、尋ねてまた日南に屯した。文が死し、子の仏が立ち、なお日南に屯した。征西将軍桓温は督護滕畯・九真太守灌邃を遣わしてこれを討ち、林邑まで追い、仏は乃ち降伏を請うた。安帝隆安三年、仏の孫の須達がまた日南・九徳諸郡を寇し、歳とせずして至らず、殺傷甚だ多く、交州は遂に虚弱に致った。

須達が死し、子の敵真が立つ。その弟の敵鎧が母を携えて出奔した。敵真は母と弟を容れることができなかったことを追悔し、國を捨てて天竺に至り、その甥に位を禅った。國相の蔵驎は固く諫めたが従わなかった。その甥が立って蔵驎を殺すと、蔵驎の子がまたこれを攻め殺し、敵鎧の同母異父の弟を立てて文敵といった。文敵はまた扶南王の子の当根純に殺され、大臣の范諸農がその乱を平定し、自立して王となった。諸農が死し、子の陽邁が立つ。陽邁は母の胎内にあった初め、その母は児を生む夢を見、ある人が金の席を以てこれを敷き、その色は光り麗しかった。夷人は金の精なるものを陽邁といい、中国で紫磨というようなものである。よって名とした。宋の永初二年、使を遣わして貢献し、陽邁を以て林邑王とした。陽邁が死し、子の咄が立ち、その父を慕ってまた陽邁と称した。

その國の俗は、居処は閣を為し、名づけて幹闌という。門戸は皆北に向く。樹葉に書して紙と為す。男女は皆横幅の古貝を以て腰以下に めぐ らし、これを幹漫といい、また都漫ともいう。耳を穿ち小環を貫く。貴き者は革屣を著け、賤き者は跣行す。林邑・扶南以南の諸國は皆然りである。その王者は法服を著け、瓔珞を加え、仏像の飾りの如し。出ずれば象に乗り、螺を吹き鼓を撃ち、古貝の傘を おお い、古貝を以て幡旗と為す。國は刑法を設けず、罪ある者は象をして踏み殺さしむ。その大姓は婆羅門と号し、嫁娶は必ず八月を用いる。女が先に男を求め、賤男にして貴女による。同姓は還って相婚姻す。婆羅門をして婿を引き婦に見えしめ、手を握りて相付し、祝して「吉利吉利」と言う。これをもって礼を成す。死者は中野に焚き、これを火葬という。その寡婦は孤居し、髪を散らして老いに至る。國王は尼幹道に事え、金銀の人像を鋳て大さ十圍。

元嘉の初め、陽邁が日南・九徳諸郡を侵暴し、交州刺史杜弘文は牙を建ててこれを討たんと欲したが、代わる者あるを聞いて乃ち止んだ。八年、また九徳郡を寇し、四会浦口に入る。交州刺史阮弥之は隊主の相道生を遣わして兵を帥い赴き討たしむるも、区栗城を攻めて克たず、乃ち引き還る。十二年・十五年・十六年・十八年、毎に使を遣わして貢献す。献ずるものも陋薄であるが、寇盗は已まず。文帝はその違傲を忿り、二十三年、交州刺史檀和之・振武将軍宗愨をしてこれを伐たしむ。和之は司馬蕭景憲を遣わして前鋒と為す。陽邁これを聞き懼れ、金一万斤・銀十万斤・銅三十万斤を輸し、略したる日南の戸を還さんと欲す。その大臣の愺僧達が諫めて止む。乃ち大帥の范扶龍を遣わしてその北界の区栗城を戍らしむ。景憲は城を攻めてこれを克ち、勝に乗じて即ち林邑を克つ。陽邁父子は共に挺身して逃奔す。その珍異を獲ること皆是れ未名の宝なり。またその金人を かし、黄金数十万斤を得たり。

和之は、高平郡金郷の人、檀憑之の子である。功により雲杜県子に封ぜられる。孝建三年、南兗州刺史となるが、酣飲と贓貨に坐し、獄中の女子を内に迎え入れたことで免官・禁錮に処せられる。後に病死し、胡神が祟りを為すを見る。左将軍を追贈され、諡して襄子という。

孝武帝の孝建二年(455年)、林邑はまた長史の范龍跋を使者として派遣し貢物を献上したので、龍跋を揚武将軍に任じた。大明二年(458年)、林邑王の范神成はまた長史の范流を派遣し、上表文を奉り金銀器、香、布などの諸物を献上した。明帝の泰 元年(472年)、また使者を派遣して地方の産物を献上した。斉の永明年間(483-493年)、范文贊はたびたび使者を派遣して貢献した。梁の天監九年(510年)、文贊の子の天凱が白い猿を献上したので、詔して持節・督縁海諸軍事・威南将軍・林邑王に任じた。死ぬと、子の弼毳跋摩が立ち、上表して貢物を献上した。普通七年(526年)、王の高戍勝鎧が使者を派遣して地方の産物を献上したので、詔して持節・督縁海諸軍事・綏南将軍・林邑王とした。大通元年(527年)、また使者を派遣して貢献した。大通二年(528年)、行林邑王の高戍律陀羅跋摩が使者を派遣して貢献したので、詔して持節・督縁海諸軍事・綏南将軍・林邑王とした。六年(大同六年、540年)、また使者を派遣して地方の産物を献上した。

広州の諸山にはみな狸獠(蛮族)がおり、種類が多く盛んで、前後たびたび侵掠暴行を働き、歴代これに悩まされた。宋の孝武帝の大明年間(457-464年)、合浦の大帥の陳檀が帰順し、龍驤将軍に任じられた。檀は官軍に未帰順の者を征討するよう求めたので、檀を高興太守とし、前朱提太守の費沈と龍驤将軍の武期を派遣して南伐させ、ともに朱崖道を通らせたが、いずれも功績なく、すぐに檀を殺して反逆し、沈は獄に下されて死んだ。

扶南国

扶南国は、日南郡の南、海西の大湾の中にあり、日南からおよそ七千里の距離である。林邑の西南三千余里にある。城は海から五百里離れており、広さ十里の大江があり、西から流れて東に入海する。その国の広さは三千余里四方で、土地は低湿で平坦広闊であり、気候風俗はおおむね林邑と同じである。金、銀、銅、錫、沈香、象、犀、孔雀、五色の鸚鵡を産する。

その南の境界から三千余里に頓遜国があり、海の岬の上にあり、土地は千里四方である。城は海から十里である。五人の王がおり、みな扶南に属している。頓遜の東の境界は交州の諸商人と通じている。その西の境界は天竺、安息の境外の諸国と接し、往来交易する。その市場は東西の交わる所で、一日に一万余人がいる。珍しい物や宝貨でないものはなく、また酒樹があり安石榴に似て、その花の汁を採って甕の中に貯め、数日で酒となる。

頓遜の外の大海の洲の中に、また毗騫国があり、扶南から八千里である。伝えるところではその王の身長は一丈二尺、首の長さは三尺で、古来より死なず、その年を知る者がない。王は神聖で、国中の人の善悪および将来の事を、王はみな知っているので、これによって欺く者はない。南方では長頸王と号する。国の風俗は、室屋や衣服があり、粳米を食べる。その人の言語は扶南と少し異なる。山があり金を産出し、金の露が石の上に生じ、限りがない。国の法では、人を刑するときは王の前でその肉を食べさせる。国内では商人を受け入れず、行く者があればまた殺して食べるので、商旅は敢えて至らない。王は常に楼に住み、生贄を捧げず、鬼神を祀らない。その子孫の生死は常人と同じで、ただ王だけが死なない。扶南王はたびたび使者を遣わし文書で返答し合った。常に扶南王に純金の五十人分の食器を贈り、形は円盤のようで、また瓦塸のようであり、多羅と名付け、五升を容れ、また碗のようなものは一升を容れる。王はまた天竺の文字を作ることができ、文字は三千言ほどで、その宿命の由来を説き、仏経と似ており、併せて善事を論じる。

また伝えるところでは、扶南の東の境界はすなわち大漲海であり、海中に大洲があり、洲上に諸薄国があり、国の東に馬五洲がある。また東に漲海を千余里行くと、自然大洲に至り、その上に樹が火の中に生え、洲の近くの人がその皮を剥ぎ取り、紡績して布とし、手巾とし、蕉麻と異ならず色は微かに青黒い。もし少し汚れがあれば、火の中に投げ入れ、またさらに清潔になる。あるいは灯心とし、使っても尽きることがない。

扶南国の風俗は本来裸で、文身し髪を振り乱し、衣裳を整えず、女人を王とし、柳葉と号した。年少で壮健、男子に似ていた。その南に激国があり、鬼神に仕える者がいて字は混填といった。夢に神が弓を賜るのを見、商人の船に乗って海に入った。混填は朝起きてすぐに廟に詣で、神樹の下で弓を得、夢に従って船に乗って海に入り、ついに扶南の外邑に至った。柳葉の人々は船が来たのを見て、奪おうとした。混填はすぐに弓を張ってその船を射ると、一面を貫通し、矢は侍者に及んだ。柳葉は大いに恐れ、衆を挙げて混填に降伏した。填はそこで柳葉に布を貫いて頭を通すことを教え、体形が再び露わにならないようにし、ついにその国を治め、柳葉を妻とし、子を生んで七邑に分封して王とした。その後、王の混盤況は詐術と武力をもって諸邑の間を離間させ、互いに疑い阻害させ、兵を挙げて攻め併せた。そこで子孫の中から選んで諸邑に分かれて住まわせ、小王と号した。盤況は九十余歳で死に、中子の盤盤を立てたが、国事をその大将の范蔓に委ねた。盤盤は立って三年で死に、国人は共に蔓を推挙して王とした。蔓は勇健で権謀術数があり、また兵威をもって近隣の国を攻め伐ち、みな服属させ、自ら扶南大王と号した。そこで大船を作って漲海の果てまで行き、十余国を開き、五六千里の地を開拓した。次に金隣国を伐とうとした時、蔓は病にかかり、太子の金生を派遣して代行させた。蔓の姉の子の旃が蔓を さん 奪して自立し、人を遣わして金生を騙して殺した。蔓が死んだ時、乳飲み子がいて名を長といい、人の間に在り、二十歳に至り、国中の壮士を結集し、旃を襲撃して殺した。旃の大将の范尋がまた長を攻め殺して代わりに立った。さらに国内を整え、観閣を建てて遊戯し、朝、昼、夕方の三、四回に客に会った。百姓は芭蕉、砂糖黍、亀、鳥を礼とした。

国の法では、牢獄がなく、訴訟する者がいれば、まず三日間斎戒し、斧を焼いて極めて赤くし、訴訟する者に捧げて七歩歩かせる。また金の環、鶏卵を沸騰した湯の中に投げ入れ、探り取らせ、もし事実でなければ手はただちに爛れ、道理があれば爛れない。また城の堀で鰐魚を飼い、門外に猛獣を囲い、罪ある者はすぐに猛獣や鰐魚に餌として与え、魚や獣が食べなければ無罪とし、三日後に放した。鰐の大きいものは長さ三丈余り、鼉に似ており、四足あり、嘴は長さ六七尺、両辺に刀剣のように鋭い歯があり、常に魚を食べ、鹿や人に出会えばまた食べる。蒼梧以南および外国にみなこれがある。

呉の時代、中郎の康泰と宣化従事の朱応を尋国に派遣した時、国人はなお裸で、ただ婦人だけが貫頭衣を着ていた。泰と応は言った、「国中は実に良いが、ただ人が褻に露わなのは怪しむべきことだ」。尋は初めて国内の男子に横幅を着るよう命じた。横幅とは、今の幹漫(腰布)である。大家は錦を裁ってこれを作り、貧しい者は布を用いた。

晋の武帝の太康年間(280-289年)、尋が初めて使者を派遣して貢献した。穆帝の昇平元年(357年)、王の竺旃檀が上表して馴象を献上したが、詔して労費を理由にやめさせた。その後、王の憍陳如はもと天竺の婆羅門であり、神が語って扶南の王となるべきと言った。憍陳如は心喜び、南に至って盤盤に至った。扶南人がこれを聞き、国を挙げて歓喜して推戴し、迎えて王とした。また制度を改め、天竺の法を用いた。憍陳如が死ぬと、後の王は持災陀跋摩で、宋の文帝の元嘉十一年(434年)、十二年、十五年、上表して地方の産物を献上した。斉の永明年間(483-493年)、王の憍陳如闍邪跋摩が使者を派遣して貢献した。梁の天監二年(503年)、跋摩がまた使者を派遣して珊瑚の佛像を送り、併せて地方の産物を献上したので、詔して安南将軍・扶南王に任じた。

その国の人々は皆、醜く黒く髪は縮れ、住居には井戸を穿たず、数十軒が一つの池を共有して水を汲む。俗に天神を祀り、天神は銅で像を作り、二面のものは四手、四面のものは八手あり、手にはそれぞれ物を持っている。あるいは小児、あるいは鳥獣、あるいは日月である。その王は出入りに象に乗り、嬪侍もまた同じである。王が座るときは偏に踞み膝を翹げ、左膝を地に垂れ、白疊を前に敷き、その上に金盆と香爐を設ける。国の習俗として、喪に服するときは鬚髪を剃り除く。死者には四種の葬り方がある。水葬はこれを江流に投じ、火葬はこれを焚いて 灰燼 かいじん とし、土葬はこれを埋め、鳥葬はこれを野中に棄てる。人の性質は貪婪で吝嗇、礼義なく、男女は奔放に随う。

十年(元嘉十年)と十三年、跋摩は累次使者を遣わして貢献し、その年に死んだ。庶子の留陀跋摩がその嫡弟を殺して自立した。十六年、使者の竺當抱老を遣わして表を奉り貢献した。十八年、また使者を遣わして天竺の旃檀瑞像と婆羅樹葉を送り、併せて火齊珠、郁金、蘇合等の香を献じた。普通元年、中大通二年、大同元年、累次使者を遣わして方物を献じた。五年、また使者を遣わして生犀を献じた。またその国に仏の髪があり、長さ一丈二尺であると言った。詔して沙門の釈雲寶を遣わし、使者に随って往きこれを迎えさせた。

先だって、三年(大同三年)八月、武帝が阿育王の仏塔を改造し、旧塔の下から舎利及び仏の爪と髪を出した。髪は青紺色で、衆僧が手でこれを伸ばすと、手に随って長短し、放すと旋回して屈み蠡の形となる。僧伽経に按ずるに、「仏の髪は青く細く、藕莖の絲の如し」と云う。仏三昧経に云う、「我昔に宮に在りて頭を沐い、尺を以て髪を量るに、長さ一丈二尺。放ちて已に右に旋り、還って蠡文を成す」と。則ち帝の得たる所と同じである。阿育王は即ち鉄輪王、閻浮提を王として一天下を治む。仏滅度の後、一日一夜、鬼神を役して八万四千の塔を造り、此れ即ちその一つである。呉の時に尼有り、其の地に居して小精舍と為し、孫綝尋いでこれを毀ち除き、塔も亦同じく滅ぶ。呉平後のち、諸道人また旧処に於いてこれを建立す。 しん の元帝初めに江を渡り、更にこれを修飾す。簡文帝の咸安年中に至り、沙門の安法程をして小塔を造らしむ、未だ成らざるに及びて亡ぶ。弟子の僧顯継いでこれを修立し、孝武帝の太元九年に至り、上に金相輪及び承露を上ぐ。

その後、西河離石県の胡人劉薩何有り、疾に遇い暴亡すれども、心猶暖かく、其の家未だ敢えて便ち殯せず、七日を経て更に蘇る。説いて云う、「両吏有りて録せられ、西北に向かいて行く、遠近を測らず。十八地獄に至り、報に随って重軽し、諸の楚毒を受く。観世音語りて云う、『汝の縁未だ尽きず、若し活くを得ば沙門と為すべし。洛下・斉城・丹陽・会稽並びに阿育王の塔有り、往きて礼拝すべし。若し寿終われば則ち地獄に堕せず』と」と。語り竟えて高岩より墜つるが如く、忽然として醒め寤る。此れにより出家して慧達と名乗る。遊行して塔を礼し、次いで丹陽に至る、未だ塔の処を知らず、越城に登り四望するに及び、長幹裏に異気有るを見る。因りて就き礼拝す、果たして是れ先の阿育王塔の所なり、屡々光明を放つ。是れにより必ず舎利有ることを定知す。乃ち衆を集めて就き掘ること一丈、三つの石碑を得、並びに長さ六尺。中の一碑に鉄函有り、函の中に銀函有り、函の中に又金函有り、三つの舎利及び髪と爪各一枚を盛る。髪は長さ数尺。即ち舎利を遷し、北に近く簡文帝の造れる塔の西に対し一層の塔を造る。十六年、又沙門の僧尚をして加えて三層と為さしむ。即ち是れ武帝の開きたる所なり。初め土を穿つこと四尺、龍窟及び昔人の捨てし金銀の環・釧・釵・鑷等の諸雑宝物を得る。深さ九尺許りに至りて石磉に及ぶ。磉の下に石函有り、函の内に鉄壺有りて銀坩を盛る。坩の内に金鏤の罌有りて三つの舎利を盛る、粟粒の如く大にして、円正光潔なり。函の内に琉璃碗有り、碗の内に四つの舎利及び髪と爪を得る。爪は四枚有り、並びに沈香色と為す。其の月二十七日に至り、帝又寺に到り礼拝し、無礙大会を設け、大赦す。是の日、金缽を以て水を盛り舎利を泛ぶ。其の最小なるものは隠れて出でず、帝数十拝礼す、舎利乃ち缽の内に於いて光を放ち、旋回すること久しく、乃ち中に当たりて止む。帝、大僧正の慧念に問うて曰く、「不可思議の事を見ずや」と。慧念答えて曰く、「法身常住し、湛然として動かず」と。帝曰く、「弟子一つの舎利を請い還り台に供養せんと欲す」と。九月五日に至り、又寺に於いて無礙大会を設け、皇太子・王侯・朝貴等を遣わして奉迎せしむ。是の日、風景明淨、都を傾けて観属す。設けたる金銀の供具等の物は、並びに寺に留めて供養し、併せて銭一千万を施して寺の基業と為す。四年九月十五日に至り、帝又寺に至り無礙大会を設け、二つの刹を豎つ。各々金罌を以て、次いで玉罌を以て、重ねて舎利及び爪髪を盛り、七宝塔の内に入る。又石函を以て宝塔を盛り、分かちて両刹の刹下に入れ、及び王侯・妃主・百姓・富室の捨つる所の金銀の環・釧等の珍宝充積す。十一年十一月二日、寺僧又帝を請うて寺に於いて般若経の題を発す。爾の夕、二塔倶に光明を放つ。勅して鎮東邵陵王の綸に寺の大功徳碑文を制せしむ。先だって、二年(大同二年)に会稽鄮県の塔を改造し、旧塔の中を開きて舎利を出だす。光宅寺の釈敬脱等四僧及び舎人の孫照を遣わし暫く迎えて還り台す。帝礼拝竟えて、即ち県に送り還し、新塔の下に入る。此の県の塔も亦劉薩何の得たる所なり。

しん の咸和中、丹陽尹の高悝、行きて張侯橋に至り、浦中に五色の光長さ数尺あるを見る。何の怪しいものか知らず、乃ち人をして光の処に於いて金像を得しむ。光趺無し。悝乃ち下車し像を載せて還り長幹巷の首に至る。牛進むことを肯わず。悝乃ち馭人に令して牛の之く所に任せしむ。牛径ち寺に牽き至る。悝因り像を留めて寺僧に付す。毎夜中に至るごとに、常に光明を放ち、又空中に金石の響き有るを聞く。一歳を経て、臨海の漁人張系世、海口に於いて忽ち銅の花趺の浮き出づるを見、取りて県に送る。県人これを台に送る。乃ち像の足に施す、宛然として合う。簡文帝の咸安元年に会し、交州合浦の人董宗之、珠を採りて水底に没し、仏の光焰を得る。交州これを台に送り、以て像に施す、又合う。咸和中に像を得てより、咸安の初めに至るまで、三十余年を歴て、光趺始めて具わる。

初め、高悝像を得たる後、西域の胡僧五人来たりて悝に詣りて曰く、「昔、天竺に於いて阿育王の造れる像を得、鄴下に来たりしに、胡の乱に逢い、河辺に埋む。今尋ね覓むるに所を失う」と。五人嘗て一夜倶に夢に見る、像曰く、「已に江東に出で、高悝の得る所と為る」と。悝乃ち此の五僧を送りて寺に至らしむ。像を見て噓欷涕泣す。像便ち光を放ち、殿宇を照らし燭す。又、瓦官寺の慧邃、像の形を摸写せんと欲す。寺主の僧尚、金色を損ずるを慮り、邃に謂いて曰く、「若し能く像をして光を放ち、身を回して西に向かわしむれば、乃ち相許すべし」と。慧邃便ち懇ろに拝請す。其の夜、像即ち転坐して光を放ち、身を回して西に向かう。明旦、便ち摸することを許す。像の趺、先ず外国の書有り、識る者莫し。後に三蔵の那跋摩之を識り、云う、是れ阿育王が第四女の為に造れる所なりと。

及び大同中、旧塔の舎利を出だす。勅して寺の側の数百家の宅地を市いて以て寺域を広め、諸の堂殿並びに瑞像周回の閣等を造り、輪奐に窮む。其の図する諸経変は、並びに呉人張繇の運手なり。繇の丹青の工は、一時冠絶す。

訶羅陀國

西南夷の訶羅陀国は、宋の元嘉七年に使者を遣わして表を奉りて曰く、「伏して承るに聖主は三宝を信重し、塔寺を興立して、世界に満ちわたる。今故に二人の使者を遣わし、この微心を表す」と。

呵羅単国

呵羅単国は都を闍婆洲とし、元嘉七年に使者を遣わして金剛指環・赤鸚鵡鳥・天竺国の白疊・古貝・葉波国の古貝等の物を献じた。十年、呵羅単国王毗沙跋摩は表を奉りて曰く、「常勝天子陛下、諸仏世尊は常に楽安隠にして、三達六通し、世間の導きとなり、是を如来と名づく、是故に至誠を以て五体敬礼す」と。その後、子に篡奪せらる。十三年、また表を上る。二十六年、文帝詔して曰く、「呵羅単・婆皇・婆達の三国は、頻りに遐海を越えて、款化し貢を納る。遠誠宜しく甄べるべし、並びに除授を加うべし」と。乃ち使者を遣わして策命す。二十九年、また長史婆和沙弥を遣わして方物を献ず。

婆皇国

婆皇国は、元嘉二十六年に国王舍利婆羅跋摩が使者を遣わして四十一种の方物を献じ、文帝は之を策命して婆皇国王と為す。二十八年、また使者を遣わして貢献す。孝武の孝建三年、また長史竺那婆智を遣わして表を奉り方物を献じ、那婆智を振威将軍と為す。大明三年、赤白の鸚鵡を献ず。大明八年・明帝の泰始二年、また使者を遣わして貢献す。明帝は其の長史竺須羅達・前長史振威将軍竺那婆智を並びに龍驤将軍と為す。

婆達国

婆達国は、元嘉二十六年に国王舍利不陵伽跋摩が使者を遣わして方物を献じ、文帝は之を策命して婆達国王と為す。二十六年・二十八年、また使者を遣わして方物を献ず。

闍婆達国

闍婆達国は、元嘉十二年に国王師黎婆達呵陀羅跋摩が使者を遣わして表を奉りて曰く、「宋国大主大吉天子足下、一切を教化し、種智安隠にして、天人師は四魔を降伏し、等正覚を成じ、尊法輪を転じて衆生を度脱す。我遠きに在りと雖も、亦霊潤に霑う」と。

盤盤国

盤盤国は、元嘉・孝建・大明の間に、並びに使者を遣わして貢献す。梁の中大通元年・四年、其の王は使を遣わして表を奉り累ねて仏牙及び画塔を送り、並びに沈檀等の香数十種を献ず。六年八月、また使者を遣わして菩提国の舎利及び画塔図を送り、並びに菩提樹葉・詹糖等の香を献ず。

丹丹国

丹丹国は、中大通三年に其の王が使者を遣わして表を奉り牙像及び画塔二躯を送り、並びに火斉珠・古貝・雑香薬を献ず。大同元年、また使者を遣わして金銀・瑠璃・雑宝・香薬等の物を献ず。

幹陀利国

幹陀利国は、南海の洲上に在り、其の俗は林邑・扶南と略同しく、斑布・古貝・檳榔を出す。檳榔は特に精好にして、諸国の極まりと為す。宋の孝武の世、王釈婆羅那鄰陀は長史竺留陀を遣わして金銀の宝器を献ず。梁の天監元年、其の王瞿曇修跋陀羅は四月八日に一僧の夢に謂う有るを曰く、「中国に今聖主有り、十年の後、仏法大いに興る。汝若し使者を遣わして貢奉礼敬せば、則ち土地豊楽し、商旅百倍す。若し我を信ぜずば、則ち境土自ら安んずるを得ず」と。初め未だ之を信ぜず、既にして又此の僧の夢に曰く、「汝若し我を信ぜずば、当に汝と共に往きて観ん」と。乃ち夢中に於て中国に至り天子を拝覲す。既に覚めて心に之を異とす。陀羅は本より画を工とす。乃ち夢中に見し武帝の容質を写し、丹青を以て飾り、仍ち使者並びに画工を遣わして表を奉り玉盤等の物を献ず。使人既に至り、帝の形を摸写して其の国に還る。本の画に比すれば則ち符同せり。因りて宝函を以て盛し、日に敬礼を加う。後ち跋陀死し、子の毗針邪跋摩立つ。十七年、長史毗員跋摩を遣わして表を奉り金芙蓉・雑香薬等を献ず。普通元年、また使者を遣わして方物を献ず。

狼牙修国

狼牙修国は南海の中にある。その境界は東西三十日の行程、南北二十日の行程であり、北は広州より二万四千里を距る。土気と物産は扶南とほぼ同じであるが、特に棧香・沈香・婆律香などが多い。その習俗は、男女ともに袒裼して髪を垂れ、古貝をもって幹漫(腰布)とし、その王および貴臣はさらに雲霞布を加えて肩を覆い、金の縄をもって絡帯とし、金環をもって耳を貫く。女子は布を被り、瓔珞をもって身を繞らす。その国は磚を累ねて城とし、重門楼閣を設ける。王が出るには象に乗り、幡旄旗鼓を備え、白蓋を罩し、兵衛は甚だ厳重である。国人は言う、立国以来四百余年、後嗣は衰弱し、王族に賢者あり、国人はこれに帰向した。王はこれを聞いて囚執を加えたが、その鎖は故なくして自ら断たれた。王は神であると思い、よって害を加えることを敢えず、ついに境外に逐い、天竺に奔った。天竺は長女を妻とした。やがて狼牙王が死ぬと、大臣は迎えて王とした。二十余年して死に、子の婆伽達多が立った。天監十四年、使いの阿撤多を遣わして表を奉った。

婆利国

婆利国は、広州の東南の海中の洲上にあり、広州より二月日の行程を距る。国界は東西五十日の行程、南北二十日の行程である。一百三十六の聚がある。土気は暑熱にして、中国の盛夏の如し。穀物は一年に二度熟し、草木は常に栄える。海より文螺・紫貝が出る。坩貝羅という名の石があり、初め採る時は柔軟であるが、刻削して物とし、暴き干すと、ついに大いに硬くなる。その国人は古貝を披いて帊(頭巾)の如くし、また都縵(腰布)とする。王は斑絲を用い、瓔珞をもって身を繞らし、頭には金冠を着け高さ一尺余、形は弁の如く、七宝の飾りを綴る。金装の剣を帯び、偏に金の高坐に坐し、銀の蹬をもって足を支える。侍女は皆、金花雑宝の飾りをし、あるいは白毦の拂や孔雀扇を持つ。王が出るには象をもって輿を駕し、輿は雑香をもって作り、上に羽蓋・珠簾を施す。その導従は螺を吹き鼓を撃つ。王の姓は憍陳如、古より中国と通ぜず、その先祖および年数を問うも記すことができない。白浄王の夫人は即ちその国の女であると自ら言う。

天監十六年、使いを遣わして表を奉り金席などを献じた。普通三年、その王頻伽はまた使いの珠智を遣わして白鸚鵡・青虫・兜鍪・瑠璃器・古貝・螺杯・雑香薬など数十種を献じた。

中天竺国

中天竺国は、大月支の東南数千里にあり、地方三万里、一名を身毒という。漢の世、張騫が大夏に使いした時、邛竹杖・蜀布を見て、国人が身毒で市ったと言ったのが、即ち天竺である。月支・高附より西、南は西海に至り、東は盤越に至るまで、数十国を列ね、各国に王を置く。その名は異なれども、皆身毒である。漢の時は月支に羈属した。その習俗は土着にして月支と同じく、しかし卑湿暑熱であり、人は戦いを畏れ、月支より弱い。国は大江に臨み、名を新陶といい、源は崑崙より出る。五つの江に分かれ、総名を恒水という。その水は甘美であり、下に真塩あり、色は正白にして水精の如し。土より犀・象・貂鼠・瑇瑁・火斉・金銀銅鉄・金縷織成の金罽・細靡白疊・好裘・毾㲪が出る。火斉は状は雲母の如く、色は紫金の如く、光曜あり、別つと則ち蝉翼の如く薄く、積むと則ち紗縠の重沓の如し。西は大秦・安息と海中で交市する。大秦の珍物多く、珊瑚・琥珀・金碧・珠璣・琅玕・鬱金・蘇合。蘇合は諸香の汁を合わせて煎じたもので、自然の一物ではない。また大秦人が蘇合を採り、先ずその汁を笮いて香膏とし、その滓を諸国の賈人に売るので、輾転して中国に来た時はあまり香しくないともいう。鬱金は独り罽賓国に出ず、華の色は正黄で細かく、芙蓉の華が蓮に被さるのに似ている。国人は先ずこれを取って仏寺に供え、積日して槀となってから糞棄し、賈人がこれを転売して他国に与えるのである。

漢の桓帝の延熹九年、大秦王安敦が使いを日南徼外より遣わして来献し、漢の世で唯一通じた。その国の人行賈は往々にして扶南・日南・交阯に至る。その南徼の諸国人で大秦に至る者は少ない。孫権の黄武五年、大秦の賈人で字を秦論という者が交阯に来た。太守の呉邈が遣わして孫権に詣らせた。孫権が方土風俗を問うと、秦論は事を具えて答えた。時に諸葛恪が丹陽を討ち、黝・歙の短人を獲た。秦論がこれを見て言うには、「大秦ではこのような人は稀である」。孫権は男女各十人を以て、吏の会稽劉咸に秦論を送らせたが、劉咸は道中で物故し、ついに径ちに本国に還った。

漢の和帝の時、天竺は数度使いを遣わして貢献したが、後西域が反叛して遂に絶えた。桓帝の延熹三年・四年に至り、頻りに日南徼外より来献し、魏・晋の世には絶えて復た通ぜず。ただ呉の時、扶南王范旃が親人蘇勿をその国に使わし、扶南より発って投拘利口に投じ、海の大湾の中を循って正西北に入り、湾辺の数国を歴て、およそ一年余りで天竺の江口に到り、逆水行七千里にして乃ち至った。天竺王は驚いて言うには、「海浜極めて遠きに、なおこの人あるか」。即ち国内を観視させ、仍って陳・宋ら二人を差し、月支の馬四匹を以て范旃に報いさせた。蘇勿は四年を積んで方に至った。その時、呉は中郎康泰を遣わして扶南に使いし、陳・宋らに会い、天竺の土俗を具に問うと、言うには、「仏道の興る国なり。人敦龐、土饒沃、その王の号は茂論。都城する所の城郭は、水泉分流して渠塹を繞り、下は大江に注ぐ。その宮殿は皆、彫文鐫刻す。街曲市里、屋舎楼観、鐘鼓音楽、服飾香華、水陸通流し、百賈交会し、器玩珍瑋、心に恣る所の欲の如し。左右に嘉維・舎衛・葉波など十六の大国あり。天竺より或は二三千里を距り、共にこれを尊奉し、天地の中にあると為す」。

天監の初め、その王屈多が長史竺羅達を遣わして表を奉り、瑠璃唾壺・雑香・古貝などの物を献じた。

天竺迦毗黎国

天竺迦毗黎国、元嘉五年、国王月愛が使いを遣わして表を奉り、金剛指環・摩勒金環などの宝物、赤白の鸚鵡各一頭を献じた。明帝の泰始二年、また使いを遣わして貢献し、その使主の竺扶大・竺阿珍を並びに建威将軍とした。元嘉十八年、蘇摩黎国王那羅跋摩が使いを遣わして方物を献じた。孝武帝の孝建二年、斤陀利国王釈婆羅那鄰陀が長史竺留陀及び多を遣わして金銀宝器を献じた。後廃帝の元徽元年、婆黎国が使いを遣わして貢献した。凡そこれらの諸国は皆、仏道に事える。

仏教は後漢の明帝の時に初めて東に伝わり、それ以来、その教えは次第に広まり、一家の学問として別立てされるようになった。元嘉十二年、丹陽尹の蕭摹之が上奏して言うには、「仏の教化が中国に及んでから、すでに四代を経ているが、近年は奢侈と競争を重んじる風潮が強まっている。今後、銅像を鋳造しようとする者は、すべて台に届け出て許可を得ることとし、塔寺や精舎を建立する者は、皆まず申請し、許可の返答を得てから工事に着手すべきである」と。詔はこれを許可した。また、僧侶を淘汰し、数百人が還俗した。孝武帝の大明二年、曇標という道人と羌人の高闍が謀反を企てたため、帝はこれにより詔を下し、各地で厳しく僧侶を淘汰し、今後違反した者には厳罰を科すとした。そこで種々の条禁を設け、戒律の行いが精厳でない者は、すべて還俗させることとしたが、諸寺の尼僧が宮中に出入りし、妃や后と交際しているため、この制度は結局実行できなかった。以前、晋の時代に庾冰が初めて沙門に王者への敬礼をさせることを提案し、後に桓玄がその意義を繰り返し述べたが、いずれも実現しなかった。大明六年、孝武帝は有司に命じて沙門の接見にはすべて敬礼を尽くさせるよう上奏させ、詔はこれを許可した。前廃帝の初年に旧に復した。

孝武帝の寵姫である殷貴妃が薨じたので、彼女のために寺を建立し、貴妃の子の子鸞が新安王に封ぜられたため、新安を寺号とした。前廃帝が子鸞を殺害すると、新安寺を破壊して廃止し、僧徒を追放した。まもなくまた中興寺や天宝寺などの諸寺を破壊した。明帝が乱を平定すると、修復を命じた。

宋代の名僧に道生道人がいた。彭城の人で、父は広戚県令であった。道生は沙門法大の弟子となり、幼い頃から聡明で悟りが早かった。十五歳で経典を講じることができ、成長すると独特の解釈を持ち、頓悟の義を立て、当時の人々に推服された。元嘉十一年、廬山で没し、沙門の慧琳が彼のために誄を作った。

慧琳は、秦郡秦県の人で、姓は劉氏である。若くして出家し、冶城寺に住した。文才があり、内外の学問を兼ね、廬陵王の義真に知られた。かつて均善論を著し、仏法をかなり貶し裁断して言うには、「白学の先生がいて、中国の聖人は百世にわたり経綸をめぐらし、その徳は広大であり、智は万変にわたり、天人の理は尽きている。道に隠れた主旨はなく、教えに遺漏した手立てはない。聡明で哲に導かれた者が、どうして異論に負けることがあろうか。黒学の道士がこれを陋しんで、幽冥の途を照らさず、来生の化に及ばず、虚心を尊んではいるが、未だ事を虚しくすることはできず、西域の深遠さには及ばないと言う」と。客と主人の問答の形式を取り、その帰結は「六度と五教とを並行させ、信順と慈悲とを並立させる」というものであった。この論は世に行われた。旧来の僧侶は彼が釈氏を貶黜したとして、排斥を加えようとした。文帝はこの論を見て賞賛し、元嘉年間には遂に権要に参与し、朝廷の大事は皆彼と議した。賓客が輻湊し、門前の車は常に数十両あった。四方からの贈賄が相次ぎ、その勢いは一時を傾けた。方筵は七、八を数え、座上は常に満ちていた。慧琳は高屐を履き、貂裘をまとって、通呈の書佐を置き、その権勢は宰輔に等しかった。会稽の孔覬がかつて彼を訪ねた時、賓客が充満しており、挨拶だけであった。孔覬は慨然として言った、「遂に黑衣の宰相あり、冠履の所を失うと言えよう」と。孝経及び荘子逍遥篇の注釈と文論が世に伝わった。

また慧厳、慧議という道人がおり、ともに東安寺に住した。学問と行いが精緻で整っており、道俗に推された。当時、闘場寺には多くの禅僧がおり、都下ではこれについて「闘場は禅師の窟、東安は談義の林」と言った。

孝武帝の大明四年、中興寺で斎会を設けたところ、一人の異僧がおり、誰も彼を知らなかった。名を問うと、明慧と答え、天安寺から来たと言った。忽然として見えなくなった。天下にこの寺名はなく、そこで中興寺を天安寺と改称した。大明年間、外国の沙門摩訶衍は苦節を守り精妙な理を持ち、都下で新経の勝鬘経を出し、特に釈学で重んじられた。

師子国

師子国は、天竺の傍国である。その土地は温和で、冬夏の違いがない。五穀は人の好みに従って種をまき、時節を選ばない。その国はもと人はおらず、ただ鬼神と龍が住んでいた。諸国の商人が来て共に交易すると、鬼神はその姿を見せず、ただ珍宝を出して、その値に見合う価格を示す。商人はその価格に従って取る。諸国の人はその土地の楽しさを聞き、そこで競って来るようになり、あるいは住み着く者もあり、遂に大国となった。

晋の義熙初年、初めて使者を遣わして玉像を献上し、十年を経てようやく到着した。像の高さは四尺二寸、玉の色は清らかで潤いがあり、形制は特別で、およそ人工のものとは思われなかった。この像は晋・宋代を通じて瓦官寺にあり、以前に征士の戴安道が手製した仏像五体と、顧長康の維摩画図があり、世人はこれらを三絶と称した。斉の東昏侯の時に至って玉像を破壊し、まず腕を切り取り、次に胴体を取り、寵妾の潘貴妃の釵釧とした。

宋の元嘉五年、その王の刹利摩訶が使者を遣わして表を奉り貢献した。十二年、また使者を遣わして奉献した。梁の大通元年、後の王の迦葉伽羅訶黎邪が使者を遣わして表を奉り貢献した。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻078