南史
卷七十七 列傳第六十七 恩幸
鮑魚(塩漬けの魚)と芳蘭(香り高い蘭)は、慣れ親しむところにあり、中人の性質は、上下し得るものである。然るに管仲に謀れば、斉の桓公は邵陵の師(楚との戦い)を起こし、易牙に近づけば、小白(桓公)は陽門の扉を閉ざした。覇者一身をもってすら、なお汚れと盛隆の別がある。ましてこれより下れば、どうして言い尽くせようか。故に古の哲王は、誰もこれを慎んだ。漢氏以来、年すでに千年に近く、近習が権力を用いることは、時に乏しくなかった。官は近親より出で、情は親しみ重んじられることによる。中書の司る所は、機務を掌る。漢の元帝は令・僕を用いて事を為し、魏の明帝は監・令に専権させた。晋の中朝にあっては、常に重い任を託され、故に公曾(荀勗)の嘆きは、失職を恨んだものである。当時、舍人の任は、位は九品にあった。江左では通事郎を置き、詔誥を管掌した。その後、郎は侍郎に戻り、舍人もまた通事と称した。元帝は琅邪の劉超を用い、謹慎をもって職に居らせた。宋の文帝の世、秋當・周赳は共に寒門より出た。孝武帝以来、士人と庶人を雑えて選び、例えば東海の鮑照は才学をもって知名となり、また魯郡の巢尚之を用いたが、江夏王義恭はこれを選に非ずとした。帝は尚之を遣わして尚書に四十余牒を送らせ、宣勅して論弁させたので、義恭は乃ち嘆いて曰く「人主は誠に人を知る」と。明帝の世に至り、胡母顥・阮佃夫の徒は、専ら佞幸となった。斉の初めもまた久労の者及び親信を用い、関讞(審議)表啓、詔勅の発署に当たらせ、頗る辞翰に渉る者もまた詔文を為し、侍郎の局もまた侵されるを見た。建武の世、詔命は始めて中書に関わらず、専ら舍人より出た。省内の舍人は四人、直す所は四省、その下に主書令史あり、旧くは武官を用いたが、宋は文吏に改め、人数は員無く、左右の要密たるに非ざるはなかった。天下の文簿板籍は、その省に入れて副本とし、万機厳秘、尚書の外司の如き有り様であった。武官を領するには制局監・外監があり、器仗兵役を領したが、これも寒人を用いた。梁・陳に及んでも、この風は改まらなかった。この四代に恩幸を受けた者を、今篇を立てて記し、以て前史の作に継ぐこととする。
戴法興
戴法興は、會稽郡山陰県の人である。家は貧しく、父の碩子は紵(苧麻)の販売を業としていた。法興の二人の兄、延壽・延興は共に修業して身を立て、延壽は書を善くし、法興は学を好んだ。山陰に陳戴という者がおり、家は富み銭三千万を有していた。郷人の或いは云う「戴碩子の三児は陳戴の三千万銭に匹敵する」と。
法興は若い頃、山陰の市で葛を売り、後に尚書倉部令史となった。大將軍彭城王義康が尚書中に了了たる令史を求め、法興ら五人を得て、法興を記室令史とした。義康が敗れると、仍って孝武帝の征虜撫軍記室掾となった。江州に移されると、仍って南中郎 典 簽を補した。帝が巴口で義兵を挙げると、法興は典簽の戴明寶・蔡閑と共に転じて参軍督護となった。上が即位すると、共に南台侍御史となり、同様に中書通事舍人を兼ねた。法興らは専ら内務を管し、権は当時に重かった。孝建元年、南魯郡太守となり、舍人の職を解かれて、東宮で太子に侍した。大明二年、南下(孝武帝の即位)に預かり密謀に関与した功により、法興は呉昌県男に封ぜられ、明寶は湘郷県男に封ぜられた。蔡閑はこの時既に卒しており、追って爵封を加えられた。法興は転じて太子旅賁中郎将となった。
孝武帝は自ら朝政を覧て、大臣を任用せず、腹心耳目として委ね寄託すべき者なくてはならなかった。法興は古今に頗る通じ、平素より親しく遇せられ、東宮に出て侍すること雖も、信任は隆く密であった。魯郡の巢尚之は、人士の末席であったが、元嘉年中、始興王劉浚に侍読し、また文史に渉猟し、上に知られた。孝建初め、東海国侍郎を補し、仍って中書通事舍人を兼ねた。凡そ選授・遷転・誅賞の大処分は、上は皆法興・尚之と参懷した。内外の諸雑事は多く明寶に委ねた。上は性質厳暴で、睚眥(些細な恨み)の間にも、動くこと罪戮に至った。尚之は事に臨む毎に解釈し、多く全うして免れるを得させ、殿省は甚だこれを頼りとした。而して法興・明寶は大いに人事に通じ、多く貨賄を受け、凡そ推薦し達する所は、言うこと行われざるはなく、天下から輻湊し、門外は市を成し、家産は共に千金を累ねた。明寶の驕縱は特に甚だしく、長子の敬は揚州従事であったが、上と御物の買い取りを争った。六宮が嘗て出ると、敬は盛服で騎馬し、車の左右を馳驟して去来した。上は大いに怒り、敬に死を賜い、明寶を尚方に拘禁した。尋いで原赦され、委任は初めの如くであった。
孝武帝が崩じ、前廃帝が即位すると、法興は越騎 校尉 に遷った。時に太宰江夏王義恭が録尚書事となり、任は総己と同じであったが、法興・尚之が権を執ること日久しく、威は内外に行き渡り、義恭は積もり積もって畏服し、ここに至っては特に憚り恐れた。廃帝は未だ万機に親しまず、凡そ詔勅施為は、悉く法興の手に決し、尚書中の事は大小となく専断し、顔師伯・義恭は空名を守るのみであった。尚之は甚だ聡敏で、時に百姓が孝武帝の為に寺を立てようとし、その名に疑いを抱いた。尚之は応声して曰く「宜しく天保と名付くべし。詩に云う『天保、下の上を報いるなり』と」と。時にその機敏迅速さに服した。
廃帝の年齢は漸く長ずるに及び、凶悪な心性が転じて成り、為さんと欲する所があったが、法興は毎度これを禁制した。帝に謂って曰く「官(陛下)の為す所この如くでは、営陽王(少帝義符)のようになろうとしているのか」と。帝の心は少し平らかでなくなった。愛幸する閹人の華願兒は盛んな寵愛を受け、賜与する金帛は算えること無かった。法興は常にこれを裁減を加えたので、願兒は甚だこれを恨んだ。帝は嘗て願兒をして市里に出入りさせ、風謡を察聴させたが、道路の言う所は、法興を真の天子とし、帝を贋の天子と謂った。願兒はこれにより帝に告げて曰く「外間では宮中に二天子あり、官は一人、戴法興は一人なりと云います。官は深宮の中に在り、人と接することなく、法興は太宰(義恭)・顔(師伯)・柳(元景)と一体となり、往来する門客は常に数百あり、内外の士庶は畏服せざるはありません。法興は孝武帝の左右であり、また久しく宮闈に在り、今や他人を以て一家と為さんとしています。深くこの座席が再び官の許す所でなくなることを恐れます」と。帝は遂に法興の官を免じ、遠郡に徙付し、尋いで家に於いて死を賜った。法興は死に臨み、庫蔵を封閉し、家人に謹んで鑰牡(鍵)を録させた。死して一宿の後、またその二子を殺し、法興の棺の両和(側板)を截ち、財物を籍没した。法興は文章を為すことができ、頗る世に行われた。
死後、帝は巢尚之に勅して曰く「法興が積釁累愆を重ね、遂にここに至ったとは思わなかった。吾は今自ら万機を覧る。卿等は宜しく誠を竭くし力を尽くすべし」と。尚之は時に新安王子鸞の撫軍中兵参軍・淮陵太守であり、乃ち舍人を解かれ、転じて撫軍諮議参軍となり、太守は元の如くであった。明帝の初め、再び尚之を以て中書通事舍人・南清河太守を兼ねさせた。累遷して黄門侍郎となり、出でて新安太守となったが、病没した。
戴明寶
戴明寶は、南東海郡丹徒県の人であり、また員外散騎侍郎・給事中を歴任した。孝武帝の時、南清河太守を帯びた。前廃帝が即位すると、権任は悉く法興に帰し、明寶は軽んぜられた。明帝の初め、天下反叛し、明寶が旧人であり、屡々戎事を経ていたので、再びこれを委任した。後に貨賄を受け取った罪に坐し尚方に拘禁されたが、尋いで宥免された。位は宣城太守。升明初め、年老いて、太中大夫に拝され、病没した。
武陵国の典書令董元嗣は、法興・明宝らと共に孝武帝の南中郎典籤となり、元嘉三十年、使命を奉じて都に還る。時に元凶が帝位を 簒 奪し、元嗣を南に遣わして、上(孝武帝)に徐湛之らの謀反を報ぜしむ。上は巴口に在り、元嗣は詳細に 弑 逆の状況を述ぶ。上は元嗣を都に下して劉劭に奉表せしむ。既にして上は義兵を挙ぐ。劉劭は詔して元嗣を責む。元嗣は答えて云う、「初め下向した時には未だ反逆の謀は有りませんでした」。劉劭は信ぜず、備えて拷問を加え、服罪せず遂に死す。孝武帝の事が成り、員外散騎侍郎を追贈し、文士蘇宝生に命じてその誄を作らしむ。
大明年間、また奚顕度という者あり。南東海郡郯県の人、官は員外散騎侍郎に至る。孝武帝は嘗て人夫の工事を主領せしむ。而して苛酷で無道、動もすれば捶撲を加え、暑雨寒雪にも暫しの休みを許さず、人は堪え難く、或いは自ら縊死す。時に建康県が囚人を拷問するに、或いは方材をもって額及び踝脛を圧す。世間の謡に曰く、「寧ろ建康の圧額を得んも、奚度の拍を受くる能わず」。又互いに戯れて曰く、「顧みるなかれ、奚度に付すべし」。その酷暴此の如し。前廃帝は嘗て戯れて云う、「顕度の刻虐は百姓に疾まれる、比して当にこれを除くべし」。左右因りて唱えて「爾」とす。即日に宣して殺す。時人はこれを孫皓の岑昏を殺すに比す。
徐爰
徐爰、字は長玉、南琅邪郡開陽県の人なり。本名は瑗、後に傅亮の父と同名なるを以て、亮が啓上して爰と改めしむ。初め晋の琅邪王大司馬府の中典軍となり、北征に従い、微密にして意理有り、武帝に知らる。少帝東宮に在りし時、入りて左右に侍す。文帝の初め、また親任を見、遂に殿中侍御史に至る。元嘉十二年、南台御史に転じ、始興王劉濬の後軍行参軍となる。復た東宮にて太子に侍し、員外散騎侍郎に遷る。文帝は軍を出す毎に、常に兵略を懸けて授く。二十九年、重ねて王玄謨らを遣わし北侵せしむ。爰に五百人を配し、軍に随いて碻磝に至り、中旨を銜み臨時に宣示す。孝武帝新亭に至る。江夏王劉義恭南奔す。爰は時に殿内に在り、劉劭に詐りて義恭を追わしめ、因って即ち南走を得たり。時に孝武帝将に大位に即かんとし、軍府造次にして朝章に通ぜず。爰は素より其事に諳んじ、及んで至るや、喜ばざる者無し。太常丞を兼ねて立儀注を撰す。後に尚書右丞を兼ね、左丞に遷る。
先に、元嘉年間に著作郎何承天をして国史を草創せしめ、孝武帝の初めまた奉朝請山謙之・南台御史蘇宝生をして踵いで成さしむ。孝建六年、また爰に著作郎を領せしめ、その業を終わらしむ。爰は前作に因りながらも、専ら一家の書となす。上表して「元を義熙に起こし、王業の始めと為し、載序して宣力を記し、功臣を断つ」とす。ここにおいて内外博議す。太宰江夏王劉義恭ら三十五人爰に同く、宜しく義熙元年を以て断とすべしとす。 散騎常侍 巴陵王劉休若・尚書金部郎檀道鸞の二人は宜しく元興三年を以て始めとすべしと謂う。太学博士虞和は宜しく開国を以て宋の西元年とすべしと謂う。詔して曰く、「項籍・聖公は二漢に編録し、前史既に成例有り。桓玄伝は宜しく宋典に在るべし。余は爰の議の如し」。
孝武帝崩御し、景寧陵を営む。本官を以て将作大匠を兼ぬ。爰は便辟にして人に善く事え、人主の微旨を得、頗る書伝に渉り、特に朝儀に詳し。元嘉初めより、便ち左右に侍し、顧問に預かり参ず。附会に長じ、又典文を以て飾る。故に文帝に任遇せらる。大明の世、委寄特に重く、朝廷の大礼儀は、爰の議無くして行われず。当時の碩学にしてその解する所これに過ぐる者と雖も、既に異議を立て敢えず、言う所も亦従われず。孝武帝崩御し、公除の後、晋安王劉子勳の侍読博士爰に諮りて宜しく習業すべきか否かを問う。爰答えて曰く、「喪に居りて喪礼を読む、習業何ぞ嫌わん」。少日にして、始安王劉子真の博士爰に諮る。爰曰く、「小功は業を廃す。三年の喪何ぞ読書を容れん」。その専断乖謬皆此の如し。
前廃帝は凶暴無道、殿省の旧人は多く罪せられ黜けらる。唯だ爰は将迎に巧みで、始終忤うこと無し。群公を誅した後、爰を黄門侍郎と為し、射声 校尉 を領し、著作は元の如く、呉平県子に封ず。寵待隆密、群臣これに並ぶ者無し。帝は出行する毎に、常に沈慶之・山陰公主と同輦し、爰も亦これに預かる。
明帝即位し、黄門侍郎を以て、改めて長水 校尉 を領し、尚書左丞を兼ぬ。明年、太中大夫を除き、著作は並びに元の如し。爰は権を執ること日久しく、上(明帝)は藩国に在りし時より素より悦ばず。及び景和の世、屈辱卑約に在りしに、爰の礼敬甚だ簡略なりしを以て、益々これを銜む。泰始三年、詔してその罪を暴き、交州に徙す。及び行かんとするに、又詔して広州統内の郡を除く。有司奏して以て宋隆太守と為すべしとす。除命既に下るも、爰は已に交州に至る。久しくして還るを聴し、仍って南康郡丞を除く。明帝崩御し、都に還り、爰を済南太守と為し、復た中散大夫を除く。元徽三年卒す。年八十二。
爰の子希秀は、甚だ学解有り、亦篆隸に閑なり。正覚・禅霊の二寺の碑は、即ち希秀の書なり。爰の交州に徙されるや、明帝は希秀を召して謂いて曰く、「比して当に卿の父を還さしむべし」。希秀再拝して答えて曰く、「臣が父は年老い、恐らくは後の恩に及ばざらん」。帝大いに嗟賞し、即ち爰を召し還す。希秀は位は 驍 騎将軍・淮南太守。子の泓は甚だ吏職に閑なり。而して事に在りて刻薄、人に少恩。斉に仕え歴位して台郎、秣陵・建康の令、湘東太守。
阮佃夫
阮佃夫は、会稽郡諸曁県の人なり。明帝初めて出閤する時、主衣に選ばれ、後また世子の師を請うて、甚だ信待せらる。景和の末、明帝は殿内に拘えられ、秘書省に住す。帝に疑われ、大禍将に至らんとす。佃夫は王道隆・李道児及び帝の左右琅邪の淳于文祖と謀り共に廃立を図る。時に直閤将軍柳光世も亦帝の左右蘭陵の繆方盛・丹陽の周登之と密謀有り、奉ずる所を知らず。登之は明帝と旧有り。方盛ら乃ち登之をして佃夫を結ばしむ。佃夫大いに悦ぶ。先に、帝が皇后を立てるに、普く諸王の奄人を暫く撤す。明帝の左右の銭藍生も亦例に在り。事畢りて未だ遣わされず。密かに藍生をして帝を候わしむ。事の泄るるを慮り、藍生は自ら出るを欲せず。帝の動止は輒ち淳于文祖に告げ、佃夫に報ぜしむ。
景和元年十一月二十九日晡時、帝は華林園に出づ。建安王劉休仁・山陽王劉休祐・山陰主並びに侍側す。明帝は猶秘書省に在りて召されず、益々懼る。佃夫は以て外監典事東陽の朱幼に告げ、又主衣呉興の寿寂之・細鎧主南彭城の姜産之に告ぐ。産之は又その領する細鎧将臨淮の王敬則に語り、幼は又中書舎人戴明宝に告ぐ。並びに応ず。明宝・幼はその日の向暁を取らんと欲す。佃夫らは開門鼓後の取るを勧む。幼は予め内外を約勒し、銭藍生をして密かに建安王劉休仁らに報ぜしむ。
時に帝(前廃帝劉子業)は南巡を欲し、腹心の直閣将軍宗越らは、その夕方に外に出て装束を整えることを許され、ただ隊主の樊僧整のみが華林閣を守備していた。彼は柳光世の同郷であった。光世が彼を誘うと、直ちに命を受けた。姜産之もまた隊副の陽平の聶慶及び配下の壮士会稽の富霊符、呉郡の俞道龍、丹陽の宋逵之、陽平の田嗣を誘い、共に慶の官舎に集まった。佃夫は力が少ないことを慮り、更に招集しようとしたが、寿寂之が言うには、「謀りごとが広がれば漏れることもある。多くの人を煩わせるには及ばぬ」と。時に巫覡が後堂に鬼がいると言った。その夕、帝は竹林堂の前で巫と共にこれを射ようとし、建安王休仁ら、山陰公主も従った。帝は元来寂之を快く思わず、会うたびに歯ぎしりした。寂之は既に佃夫らと謀議を成し、また禍いが至ることを慮り、刀を抜いて前に進み入り、姜産之がその後につき、淳于文祖、繆方盛、周登之、富霊符、聶慶、田嗣、王敬則、俞道龍、宋逵之又続いて進んだ。休仁は行く音が甚だ急なのを聞き、休祐に言うには、「事が起こった」と。互いに従って景陽山へ奔った。帝は寂之が来るのを見て、弓を引いてこれを射たが、当たらず、逃げた。寂之が追いかけてこれを殺した。事が定まり、宿衛に令を宣して言うには、「湘東王(明帝劉彧)が太后の令を受けて狂主を除いた。今は既に太平である」と。
明帝が即位し、功績を論じ、寿寂之は応城県侯に封ぜられ、産之は汝南県侯、佃夫は建城県侯、王道隆は呉平県侯、淳于文祖は陽城県侯、李道児は新渝県侯、繆方盛は劉陽県侯、周登之は曲陵県侯、富霊符は恵懐県子、聶慶は建陽県子、田嗣は将楽県子、王敬則は重安県子、俞道龍は茶陵県子、宋逵之は零陵県子に封ぜられた。佃夫は南台侍御史に遷った。
薛索児が淮を渡って寇となり、山陽太守程天祚もまた反した。佃夫は諸軍と共に薛索児を破り、天祚を降した。後に太子歩兵 校尉 、南魯郡太守に転じ、東宮で太子に侍した。泰始四年、本官のまま遊撃将軍を兼ね、及び輔国将軍孟次陽と二衛の参員直に参与した。次陽は字を崇基といい、平昌安丘の人である。冠軍将軍の位に至り卒した。
時に佃夫及び王道隆、楊運長は並びに権力を執り、君主に次ぐほどであり、宋の初期の戴法興・巢尚之の大明の世と比べても、はるかに及ばなかった。嘗て正月一日に合朔(朔日と元旦が一致)すべきであったが、尚書が元会(元旦の朝賀)の延期を奏上した。佃夫は言う、「元正の慶賀の会は国の大礼である。どうして合朔の日を延期しないのか」と。彼はこのように古制を考察しなかった。大いに賄賂を取り、何事も重い賄賂がなければ行われなかった。人が絹二百匹を贈ったが、少ないと嫌って返書もしなかった。宅舎・園池は諸王の邸第も及ばなかった。女妓数十人は芸と容貌が当時に冠絶していた。金玉錦繍の飾りは宮廷にも及ばなかった。毎に一つの衣を作り、一つの物を造ると、都下で模倣しない者はなかった。宅内に水路を開いて東に十余里出し、塘岸は整潔で、軽舟を浮かべ、女楽を奏した。中書舎人劉休が嘗て彼を訪ねたが、佃夫が出行するのに出会い、途中で相逢い、休を誘って共に戻った。席に就くと直ちに設けさせ、一時の珍羞は全て備わらぬものはなかった。凡そ火を用いる料理は全て始めて熟したばかりであり、このようなものが数十種あった。佃夫は常に数十人分の饌を用意して賓客を待ったので、突然のことであっても直ちに整い、多くはこのようなものであり、晋の世の王愷・石崇もこれを超えることはできなかった。泰始初め、軍功が既に多く、爵位と官秩に秩序がなく、佃夫の僕従や附隷までもが順序を超えた位を受けた。車を引く者は武賁中郎将となり、馬の傍らにいる者は員外郎となった。朝士の貴賭は、自ら結びつかない者はなく、しかし驕り高ぶってへりくだる様子はなく、その室に入る者はただ呉興の沈勃、呉郡の張澹の数人のみであった。
明帝が崩御し、後廃帝が即位すると、佃夫の権力と職務は一層重くなり、中書通事舎人を兼ね、給事中・輔国将軍を加えられ、その他の官は元の通りであった。張澹を武陵郡太守に用いようとしたが、衛将軍 袁粲 以下は皆同意せず、しかし佃夫は勅命を称して施行した。また廬江の何恢に妓の張耀華という美しく寵愛されている者がいた。広州刺史として出発しようとする時、佃夫を招いて飲み、楽を設け、張氏を見て気に入り、頻りに求めた。恢は言う、「恢は得られようが、この人は得られぬ」と。佃夫は衣を払って戸を出て言うには、「指を惜しんで掌を失うのか」と。遂に有司に諷して公事を以て恢を弾劾させた。凡そこのように、粲らは皆敢えて執拗に反対しなかった。
元徽三年、黄門侍郎に遷り、右衛将軍を領した。翌年、 驍 騎将軍を領するよう改められ、南 豫 州刺史・歴陽太守に遷ったが、なお内任を管轄した。時に廃帝は狂暴で、出遊するのを好んだ。初め宮を出る時は、まだ羽儀隊仗を整えていたが、やがて部伍を捨て、単騎で数人と相随い、或いは郊野に出、或いは市廛に入り、内外憂懼しない者はなかった。佃夫は密かに直閤将軍申伯宗、歩兵 校尉 朱幼、于天宝と謀り、共に帝を廃し、安成王を立てようとした。
五年の春、帝は江乗へ行き雉を射ようとした。帝は毎に出る時、常に隊仗を楽游苑の前に留め置き、捨てて去った。佃夫は太后の令を称して隊仗を呼び戻し、城門を閉じ、人を分けて石頭城と東府を守らせ、人を遣わして帝を捕らえ廃し、自ら揚州刺史として政を輔けようとした。幼らと既に謀議を成していたが、帝が江乗へ向かわなかったため、事は行われなかった。于天宝がその謀りごとを帝に告げたため、帝は佃夫、幼、伯宗を光祿外部で捕らえ賜死させた。佃夫、幼らの罪は一身に止まり、その他は問うところがなかった。
朱幼は泰始初めに外監として衣甲を配り、諸軍の征討に、事を成し遂げる能力があり、遂に官は三品に陟り、奉朝請・南高平太守となり、安浦県侯に封ぜられた。
于天宝
于天宝は、その先祖は胡人であり、竹林堂の功績に与かり、元徽年間に鄂県子に封ぜられた。佃夫の謀りごとを発覚させたため、清河太守・右軍将軍とされた。升明年間、斉の高帝はその反覆を以て賜死させた。
寿寂之は太子屯騎 校尉 ・南泰山太守の位にあり、多く貨賄を受け、請謁は窮まりがなかった。一つでも従わないことがあると、直ちに歯ぎしりして罵詈し、常に言うには、「利刀が手にあれば、何ぞ成し遂げられぬことを憂えようか」と。尉吏を鞭打ち、邏将を斬った。後に有司に奏上され、越州に流送された。 豫 章に至り謀叛を企てたため、これを殺した。姜産之は南済陽太守の位にあった。後に北進して魏を侵し、戦いに敗れて殺された。
王道隆
王道隆は、呉興烏程の人である。兄の道迄は学に通じ書を善くし、形貌もまた美しく、呉興太守王韶之は人に言うには、「子弟に王道迄の如き者がいれば、少しも不足はない」と。道隆もまた書を知り、泰始二年、中書通事舎人を兼ねた。道隆は明帝に委任され、佃夫よりも重用されたが、温和で謹み深く自らを保ち、妄りに人を傷つけ誹ることはなかった。権力を執ること久しく、家産は豊かに積み、豪華美麗は佃夫には及ばなかったが、精緻で整っている点はこれを超えていた。元徽二年、桂陽王休範が挙兵した時、佃夫、道隆及び楊運長を討つことを名目とした。休範は不意に新亭に至り殺された。
楊運長
楊運長は、宣城懐安の人である。元来射を善くし、射師となった。性質は謹直誠実で、明帝に委任信頼された。即位すると、親遇甚だ厚かった。後廃帝が即位すると、佃夫と共に通事舎人を兼ねた。桂陽王休範を平らげた功績により、南城県子に封ぜられた。運長は質朴で廉直、身を修めること甚だ清く、園宅を営まず、餉遺を受けなかった。しかし凡庸で見識がなく、ただ寒門の潘智、徐文盛と厚く親善した。行動や振る舞い、施為は必ず二人と量り議した。文盛は奉朝請となり、桂陽王休範平定に与かり、広晋県男に封ぜられた。順帝が即位すると、運長は宣城太守となったが、間もなく家に還った。沈攸之が反すると、運長は異志を持ち、斉の高帝は驃騎司馬崔文仲を遣わしてこれを誅した。
紀僧真
紀僧真は、丹陽郡建康県の人である。若くして征西將軍蕭思話及びその子の惠開に従い、いずれも賞遇を受けた。惠開は性が苛烈であり、僧真は些細な過ちで罰せられたが、やがて以前のように委任された。益州を罷免されて都に帰還した際、意を得ず、僧真はますます謹んで仕えた。惠開は臨終に嘆いて言うには、「紀僧真はまさに富貴を得るであろうが、私はそれを見られぬ」と。僧真を劉彥節と周顒に託した。
初め、惠開が益州に在った時、土民が反乱し、包囲されて危急であった。ある道人が彼に言うには、「城の包囲はやがて解け、檀越(施主)の貴門は後に大いに興隆する。外賊を憂うるには及ばぬ」と。惠開は密かに僧真に言うには、「我が子弟で現存する者には並ぶべき異才はなく、ただ蕭道成のみである」と。僧真はその言葉を思い出し、斉の高帝(蕭道成)に仕えることを請い、淮陰に従った。暇を見て書題を書き、遠近の書疏に返答することを命じられた。寒官から累進して高帝の冠軍府参軍主簿となった。僧真は夢に蒿艾(蓬と蓬)が江に満ちて生えるのを見て、驚いてこれを報告した。高帝は言うには、「詩人は蕭を采る。蕭は即ち艾である。蕭が生えて流れを断つ。卿は広く言うなかれ」と。その親しく遇せられること、このようであった。後に南台御史・高帝領軍功曹に除せられた。
上(高帝)は廃立を図り、 袁粲 と褚彥回に謀った。僧真は上に啓して言うには、「今、朝廷は狂乱し、人は自ら保つことができない。天下の望みは袁・褚にはなく、明公はどうして黙して坐して夷滅を受けられようか。存亡の機は、熟慮を仰ぎ望む」と。高帝はこれを容れた。高帝が広陵に渡って起兵しようとした時、僧真はまた言うには、「主上はたとえ狂乱の行いがあっても、累代の皇基はなお盤石の如く固い。今、百口(一族)を率いて北渡しても、必ずしも全員が得られるとは限らない。仮に広陵城を得たとしても、天子は深宮に居り、号令を施し、明公を逆と見做すならば、どうしてこれを避けられようか。もし勝たなければ、則ち北に走るべきである。窃かに思うに、これは万全の策ではない」と。上は言うには、「卿は家を顧みるのか。どうして我が行くに従えようか」と。僧真は頓首して二心なきことを称した。
升明元年、員外郎に除せられ、東武城令を帯び、まもなく給事中に除せられた。高帝が東府の高楼に坐して石頭城を望んだ時、僧真は側にいた。上は言うには、「諸将は我に袁・劉を誅するよう勧めるが、我は未だそうしたくはない」と。沈攸之の事が起こると、高帝に従って朝堂に入った。石頭が反した夜、高帝は衆軍を遣わして掩討させた。宮城中から石頭の火光と叫喚声が甚だ盛んなのを望み、人は不測を懐いた。僧真は衆に謂うには、「叫喚声が絶えないのは、必ずや官軍の攻撃によるものである。火光が起こるのは、賊が自らその城を焼くはずがなく、これは必ず官軍の勝利である」と。まもなく石頭平定の啓が上がった。
上は新亭に出て頓駐し、僧真に千人を率いて帳内にいることを命じた。初め、上が領軍府に在った時、僧真に上手の筆跡を学んで署名することを命じ、この時には返答の書疏は全て僧真に託した。上はそれを見て笑い、「我もまたもはや区別できぬ」と言った。
初め、上が淮陰で城を修理した時、古い錫趺(錫製の台座)九枚を得た。下に篆文があったが、識る者はいなかった。僧真は省事(政務を省み)て独り言うには、「何ぞこの文字を弁える必要があろうか。これは自ら久遠の物である。錫にして九あれば、九錫の徴である」と。高帝は言うには、「卿は妄りに言うな」と。上が斉公に拝せられようとした時、既に日を定めたが、楊祖之が臨軒で難を為そうと謀った。僧真は上に更に吉辰を選ぶよう請うた。まもなく祖之の事が発覚した。上は言うには、「卿の言いがなければ、小狼狽を致すところであった。これは何ぞ滹沱の氷(光武帝の故事)と異ならん」と。転じて斉国中書舎人となった。建元初年、東燕令を帯び、新陽県男に封ぜられた。羽林監に転じ、尚書主客郎に遷り、太尉中兵参軍を兼ね、中書舎人を兼ねた。
高帝の病が甚だ重くなり、僧真に遺詔を典ることを命じた。永明元年、父の喪に服した。起復して建威將軍となり、まもなく南泰山太守に除せられ、また舎人となった。僧真の容貌と言吐は、雅に士風があり、武帝(蕭賾)は嘗て彼を見送りながら笑って言うには、「人生、何ぞ必ずしも門戸を計らん。紀僧真は堂堂として、貴人も及ばぬところである」と。諸権要の中で最も眄遇(寵愛)を受けた。後に前軍將軍に除せられた。母の喪に遭い、塚を開くと五色の両頭蛇を得た。武帝が崩じると、僧真は号泣して思慕した。
明帝(蕭鸞)は僧真が歴朝に駆使されたことを以て、建武初年、遊撃將軍に除し、司農を兼ね、旧の如く遇した。僧真に郡を臨ませようとしたが、僧真は啓してその弟の僧猛を鎮蠻護軍・ 晉 熙太守に進めるよう請うた。永泰元年、司農卿に除せられた。明帝が崩じると、山陵の事を掌り、出て廬陵内史となった。官に卒した。僧猛は後に 晉 熙太守の任で卒した。兄弟ともに風姿と挙止があり、並びに隷書を善くした。僧猛はまた飛白書ができ、飛白賦を作った。僧真の子の交卿は、甚だ理解と才用があった。
宋の時に道人楊法持は高帝と旧交があり、元徽末年、密謀を宣伝した。升明年中、僧正と為された。建元初年、道を罷め、甯朔將軍となり、州陵男に封ぜられた。二年、法持を軍主として遣わし、支軍を率いて朐山を救援させた。永明四年、将客を役使し、その鮭稟(俸給)を奪った罪に坐し、封を削られ、卒した。
劉系宗
劉系宗は、丹陽の人である。若くして書画に巧みで、宋の竟陵王劉誕の子の景粹の侍書となった。劉誕が挙兵すると、広陵城内の者は皆死んだが、詔勅により沈慶之が系宗を赦し、東宮侍書とした。泰始年中、主書となり、寒官から累進して勲品に至った。元徽初年、奉朝請に除せられ、中書通事舎人・員外郎を兼ね、始興南亭侯に封ぜられ、秣陵令を帯びた。
斉の高帝が蒼梧王(後廃帝)を廃した時、明け方に正直舎人虞整を呼んだが、酔って起きられなかった。系宗は喜んで勅命を奉じた。高帝は言うには、「今天地が重ねて開く。これ卿が尽力する日である」と。諸処分の勅令及び四方の書疏を書かせた。主書十人、書吏二十人を配属させ、事は皆旨に称した。高帝が即位すると、龍驤將軍・建康令に除せられた。永明初年、右軍將軍・淮陵太守となり、中書通事舎人を兼ねた。母の喪により自ら解任を請うたが、起復して本職に就いた。
四年、白賊の唐宇之が起こり、宿衛兵が東討した。系宗を遣わして軍に随い慰労させた。賊に遭った郡県に遍く至り、百姓で駆り立てられ脅迫された者は、全て問わず、再び人伍させた。系宗が還ると、上は言うには、「この度は征有りて戦無く、時に平蕩し、百姓安怗(安泰)せり。甚だ快い」と。系宗に銭帛を賜った。
上は白下城を修築しようとしたが、動役が困難であった。系宗は啓して、東の人丁で唐宇之に従って逆を為した者を謫役(罰としての労役)に充てることを請うた。上はこれに従った。後に車駕が講武に出た時、上は白下城を巡行して言うには、「劉系宗が国家のためにこの一城を得たのである」と。永明年中、魏の使者の書は常に系宗に題答させ、秘書局は皆これに隷属させた。再び少府となった。郁林王が即位すると、甯朔將軍・宣城太守に除せられた。
劉系宗は長く朝廷に在り、職務に熟達しており、武帝は常に云うには、「学士の輩は国を治めるに堪えず、ただ多く書を読むのみである。国を治めるには、一人の劉系宗で足りる。沈約・王融の数百人も、事に何の用があろうか」と。その吏事を重んずることはかくの如しであった。建武二年、官にて卒す。
茹法亮
茹法亮は、呉興武康の人である。宋の大明年間に、身を起こして小史となり、斉の幹扶侍を歴任す。孝武末年、鞭罰は過度となり、江右に校猟し、白衣左右百八十人を選び、皆顔立ちの良い富家の子弟であり、南州に従い至り、鞭を受くる者は過半に及んだ。法亮は憂懼し、縁を因み出家を啓上して道人となることを得たり。明帝の初め、道を罷め、阮佃夫に事を結び、累ねて斉の高帝冠軍府行参軍に至る。及び武帝が盆城を鎮むると、旧き駆使人を須い、法亮は留まりて武帝の江州典籤となることを求め、南台御史を除され、松滋令を帯ぶ。
法亮は便佞にして事に解け、承奉に善く、稍く委信を見る。建元初め、東宮主書を度り、奉朝請を除され、東宮通事舎人を補す。武帝即位すると、仍って中書通事舎人となり、員外郎を除され、南済陰太守を帯ぶ。会稽の呂文度・臨海の呂文顕と並びに奸佞を以て武帝に諂い事う。文度は外監となり、兵権を専制し、領軍将軍は虚位を守るのみなり。天文寺は常に上将星を以て文度の吉凶を占う。文度は特に委信を見、上嘗て云うには、「公卿の中に文度の如く国を憂うる者あらば、また何ぞ天下の寧からざるを憂えん」と。
文度は既に委用を見るや、大いに財賄を納め、広く宅宇を開き、盛んに土山を起こし、奇禽怪樹を皆其の中に聚め、後房の羅綺は、王侯も及ばざる所なり。又上に啓し、籍を却けられたる者を悉く遠戍に充つることを得、百姓嗟怨し、或いは逃亡して咎を避く。富陽の人唐宇之、此に因り党を聚めて乱を為し、鼓行して東し、乃ち銭唐県に於て僭号し、新城戍を以て偽宮と為し、銭唐県を以て偽太子宮と為し、百官を置くこと皆備わる。三呉の却籍者之に奔り、衆三万に至る。窃かに呉国と称し、偽年号を興平とす。其の源は虞玩之に始まり、而して文度に成る。事は虞玩之伝に見ゆ。
法亮・文度並びに勢天下に傾き、太尉王倹常に人に謂いて曰く、「我れ大位有りと雖も、権寄豈に茹公に及ばんや」と。永明二年、望蔡県男に封ぜらる。七年、臨淮太守を除され、転じて竟陵王 司徒 中兵参軍となる。
巴東王子響、荊州に於て僚佐を殺す。上軍を遣わし西上せしめ、法亮をして旨を宣べ子響を安撫せしむ。法亮江津に至る。子響法亮を呼ぶも、疑畏して肯て往かず。又伝詔を見んことを求むるも、法亮又遣わさず。故に子響怒り、兵を遣わし尹略の軍を破る。事平ぎ、法亮江陵に至り、誅賞処分は、皆勅を称して断決す。軍還り、上子響を誅せるを悔い、法亮責めを受く。少時親任旧の如し。広く宅宇を開き、杉斎光麗にして、延昌殿と相埒す。延昌殿は武帝の中斎なり。宅後は魚池釣台、土山楼館、長廊一里に将たらんとす。竹林花薬の美は、公家の苑囿も及ばざる所なり。郁林即位し、歩兵 校尉 を除す。
時に綦母珍之有り、舎人の任に居り、凡そ論薦する所は、事允からざる無し。内外の要職及び郡丞尉は、皆価を論じて後に施行す。貨賄交至し、旬月の間、累ねて千金に至る。帝珍之に宅を給う。宅辺又空宅有り、従い即ち併せ取り、輒ち材官をして営作せしめ、詔旨に関せず。材官将軍細作、相語いて云く、「寧ろ至尊の勅を拒がんも、舎人の命に違うべからず」と。珍之の母、弟欽之に随い暨陽令と作る。欽之県を罷め還る。珍之母を迎え湖熟に至り、輒ち青氅百人を将いて自ら随い、鼓角横吹す。都下の富人追従する者百数。欽之自ら行佐より県を作り、還りて廬陵王驃騎正将軍を除され、又詐りて勅を宣べ欽之をして青氅を領せしむ。珍之に一の銅鏡有り、背に「三公」の字有り。常に人に語りて云く、「征祥此の如し、何ぞ三公の至らざるを患えん」と。乃ち蒋王廟に就き願い三公を得、郡王に封ぜられんことを乞う。帝に啓し封を求め、朝議未だ許さず。又自ら陳して曰く、「珍之西州に伏し事え、侍従して宮に入り、契闊心膂、誠力を竭くす。王融奸謀潜に構う、自ら珍之の翼衛扶持に非ざれば、事は不測に在り。今千戸侯を惜しむ、誰か官使いを為さん」と。又牒を有りて自ら朝廷に論じて曰く、「当に世祖晏駕の時、内外紛擾す。珍之手に至尊を抱き、口に行い処分す。忠誠契闊、人誰か知らざらん。今千戸侯を希う、分に於て過ちに非ず」と。乃ち三百戸を許す。瞋恚言色に形す。進めて五百戸と為すも、又肯て受けず。明帝之を誅せんと議し、乃ち汝南県に封ずることを許す。
杜文謙
杜文謙なる者有り、呉郡銭唐の人。帝南郡王と為る時、文謙五経文句に侍し、太学博士を歴任す。出でて溧陽令と為るも、未だ之に職せず。会に明帝権を知り、蕭諶用事す。文謙乃ち珍之に謂いて曰く、「天下の事知るべし。灰尽粉滅、朝に匪ずして夕べなり。早く計り為さざれば、吾徒類無からん」と。珍之曰く、「計将に安く出でん」と。答えて曰く、「先帝の故人多く見擯斥せらる。今召して之を使わば、誰か慷慨せざらん。近く聞く、王洪范趙越常・徐僧亮・万霊会と共に語り、皆袂を攘ぎ床を捶つと。君其れ密かに周奉叔に報い、万霊会・魏僧勉をして蕭諶を殺さしめよ。則ち宮内の兵皆我を用うる所とならん。即ち兵を勒して尚書に入り蕭令を斬らんは、両都伯の力のみ。其の次は則ち荊軻・ 豫 讓の徒を遣わし、諮事に因り、左手其の胸を頓てば、則ち方寸の刃以て事を立つるに足らん。亦万世の一時なり。今大事を挙ぐるも死、事を挙げざるも死、二死等し。社稷に死すべけんや。若し猶予断たず、復た少日有らば、君を録し勅を称して死を賜い、父母殉と為さん、眼中に在り」と。珍之用うる能わず。時に徐龍駒亦当に封を得べかりしも、珍之龍駒と共に詔するを恥じ、因り別に立つることを求む。事未だ行わるるに及ばずして事敗る。珍之西州に在りし時一手板有り。相者云く、「貴に当たるべし」と。毎に此の言を以て帝を動かす。又黄門郎を図る。帝嘗て之に問いて曰く、「西州の時手板何くにか在りや」と。珍之曰く、「此れは黄門の手板なり。官何ぞ須い問わん」と。帝大笑す。珍之時に左将軍・南彭城太守と為り、中書通事舎人を領す。正直に宿し、旨を宣べて即ち蒋王廟に往き福を祈らしむ。因り収めて廷尉に送り、周奉叔・杜文謙と同く死す。
文謙は学行有り、言吐に善し。其の父其の死を聞きて曰く、「吾の憂うる所以は、恐らくは其の死地を得ざらんことを耳。今忠義を以て死す、復た何の恨みか有らん。王経の母の経の義を欣ぶ所以なり」と。時に人其の言を美とす。
龍駒は奄人として本より安陸侯に給し、後東宮に度りて斉帥と為る。帝即位の後、便佞を以て寵を見る。凡そ諸の鄙黷雑事は、皆其の誘勧する所なり。位は羽林監・後合舎人・黄門署令・淮陵太守。帝龍駒の為に嬪御妓楽を置く。常に含章殿に住し、黄綸帽を著け、貂裘を被り、南面して案に向い、代わって帝の為に勅を画す。内左右侍直、帝と異ならず。前代の趙忠・張讓の徒、之に比ぶる莫し。恵懐県男に封ぜらる。事未だ行わざるに、明帝之を誅せんことを請う。懇到なるを以て、乃ち許さるるを見る。
曹道剛は、廃帝の日に直閤省に当直しており、蕭諶が先に入って来て、何か論じようとする様子を見せると、兵士がその後から急に進み出て、刀で彼を刺し、胸を貫いて死なせ、そのまま宮内に進んで帝を廃した。直後の徐僧亮は大いに怒り、衆に向かって大声で言った、「我らは恩を受けており、今日は死をもって報いるべきである」と。また殺された。道剛は字を景昭といい、彭城の人であり、性質は質直であった。帝は彼と親しくしていたが、敢えて軽んじることはなかった。帝は市井の雑事を喜び、それを楽しみとした。道剛はこれを避けた。益州の人韓護は馬術に優れていたので、帝はかつて彼を華林園に呼び入れ、馬を走らせさせ、大いに賞賛して親しんだ。道剛は退出して明帝に言った、「主上はまだ小児であり、左右には皆、正しい人物を置き、日々礼儀作法を見せるべきです。近頃聞くところでは、韓護が天子と馬を並べて駆けているとのこと、これは人君を危険な地に導くものであり、道剛は彼を殺したいと思います」と。やがて人を遣わして韓護を刺殺させた。道剛が死んだ時、張融が劉繪に言った、「道剛は諂う者ではなかったようだが、それでも免れなかった」と。答えて言った、「径一寸の珠は、宝ではないわけではないが、蚌が患うところであり、どうしてこれを治療しないことがあろうか、これが道剛の死んだ理由である」と。
明帝が即位すると、高帝・武帝時代の旧臣で存命の者はほとんどいなかったが、法亮は主として文書事務を担当していたので、疑われることなく、位と職務は以前のままだった。先に延昌殿は武帝の陰室(遺品を納める部屋)であり、諸々の服御(衣服や器物)を蔵め、二人の少帝(鬱林王・海陵王)はともに西殿に住んでいた。明帝が東斎に住むようになり、陰室を開けて武帝の白紗帽や防身刀を取り出すと、法亮は歔欷して涙を流した。永泰元年、王敬則の乱が平定されると、法亮はまた詔勅を受けて諸郡を宣撫慰問し、何も受け取らなかった。東昏侯が即位すると、法亮を大司農として出させた。中書省の権利ある職務を、法亮は去ることを好まず、固辞して受けなかった。やがて後任の者が到着すると、法亮は涙を流して出て行き、官のまま死去した。
呂文顯
呂文顯は臨海の人である。升明の初め、斉の高帝に録尚書省事として仕え、累進して殿中侍御史となった。後に秣陵令となり、劉陽県男に封ぜられた。永明元年、中書通事舍人となった。文顯は事に臨んで厳格で細かいことで知られた。三年、南清河太守を兼ね、茹法亮らと交代で出入りして舍人となり、ともに親しく寵愛された。四方からの贈り物が多く、大邸宅を造り、山を築き池を開いた。当時、中書舍人四人がそれぞれ一つの省に住み、世間ではこれを四戸と呼んだ。すでに重権を総べ、その勢いは天下を傾けた。晋・宋の旧制では、地方長官の任期は六年を限りとしていたが、近世では六年は長すぎるとして、また三周(三年)を期限とし、これを小満と呼んだ。しかし遷転交代は、また三周の制に依らず、旧任者を見送り新任者を迎えることで、吏人は道路に疲れた。四方の地方長官からの贈り物は、一年に総計数百万にのぼった。舍人の茹法亮が衆の中で人に語って言った、「どうして外の禄を求める必要があろうか、この一戸の内で年に百万を調達できる」と。おおよそのことを言ったのである。その後、天象が度を失い、史官が祈禳の礼を修めるべきであると上奏した。王儉はこれを聞き、上(武帝)に言った、「天文が乖忤しているのは、この禍は四戸によるものです」と。そこで文顯らが専権を擅にして過失を和らげたことを上奏し、その事を極言した。上はこれを聞き入れたが改めることはできなかった。文顯は累進して左中郎将、南東莞太守となった。
故事では、府州の管内で事を論じる時は、皆、まず前に「簽」と記し、直接に論じる事を述べ、後に「謹簽」と書き、日月の下にまた「某官某簽」と書くので、府州は典簽を置いてこれを主管させた。本来は五品の吏であったが、宋の初めに七職に改められた。宋氏の末期には、多く幼少の皇子を方鎮(地方長官)とし、時の君主は皆、親近の左右の者に典簽を領させ、典簽の権力は次第に重くなった。大明・泰始の時代には、年長の王が蕃国に臨み、素族(皇族でない名族)が出鎮しても、皆、内(朝廷)からの教命が出され、刺史はその任を専らにすることができなかった。宗愨が 豫 州刺史となった時、呉喜公が典簽であった。愨が刑政を施すと、喜公はしばしば多く違反して執拗であった。愨は大いに怒って言った、「宗愨は年も六十に近く、国のために命を尽くし、ようやく斗ほどの大きさの一州を得たのに、また典簽と共に臨むことはできない!」と。喜公が額を地につけて血を流すまでやっと止んだ。この後より、権力の委託はますます盛んになり、典簽は交替で都に還り、一年に数度往復し、時の君主はしばしば暇な時に言葉を交わし、地方の事情を訪ねた。刺史の行う事の善悪は、典簽の口にかかっており、皆、節を折って推戴奉じ、常に及ばないことを慮った。ここにおいて威は州郡に行き渡り、権は蕃君(地方長官)よりも重くなった。劉道済・柯孟孫らの奸悪が露見し、すぐに公開の刑戮に処せられたが、権力と任務の重さは変わらなかった。明帝が輔政すると、深くこれを知り、初めて諸州の急事については密かに論じるべきことを定め、典簽を都に還すことを許さず、典簽の任は軽くなった。後に文顯を少府を守らせ、任用され、建武・永元の世を経て、尚書右丞、少府卿に至り、官のまま死去した。
茹法珍
茹法珍は会稽の人、梅蟲兒は呉興の人であり、斉の東昏侯の時にともに制局監となり、ともに寵愛を受けた。江祏・始安王蕭遙光らが誅殺された後から、左右の応勅や捉刀(刀を持って護衛する者)の徒がともに国命を専らにし、世間ではこれを刀勅と呼び、権力は人主を奪った。都下ではこれについて語って言った、「貴職を求めたいなら刀勅に依れ、富豪を得たいなら禦刀に仕えよ」と。
当時また新蔡の人徐世檦がおり、特に寵信を受け、殿内主帥から直閤 驍 騎将軍となった。凡そ諸々の殺戮は、皆、世檦が勧めたものであった。徐孝嗣を殺した後、臨汝県子に封ぜられた。陳顕達の乱が起こると、輔国将軍を加えられた。護軍崔慧景を 都督 に用いたが、兵権は実際には世檦にあり、当時の権勢は法珍・蟲兒を傾けた。また法珍・蟲兒に言った、「どの世の天子にも要人はいないものか、ただ我が輩が主君の悪を買っているだけだ」と。法珍らは彼と権力を争い、遂にこれを帝に告げ、帝は次第に彼の凶暴で強引なことを嫌うようになった。世檦はひそかに異心を抱こうとし、左右の徐僧重が密かにこれを知り、その事を発覚させ、千余人分の武器や呪詛の文書を押収し、また帝の十余りの画像を描き、ことごとく刑罰や斬首、刻みつけ、射かけ、四肢を切り離す様子を備えていた。そして自分自身の像を描き、通天冠と袞服を着け、「徐氏皇帝」と題していた。永元二年に事が発覚し、遂に族誅された。ここにおいて法珍・蟲兒はともに外監となり、口で詔勅を称し、中書舍人の王咺之が彼らと唇歯の関係となり、文翰を専掌した。その他二十余人は、皆、勢力を持った。崔慧景の乱が平定された後、法珍は餘幹県男に、蟲兒は竟陵県男に封ぜられた。
崔慧景の乱が平定されると、曲赦(一部地域限定の恩赦)が都下及び南兗州に対して行われ、本来は賊の徒党を赦すためであったが、群凶が政務を執り、刑罰は詔書に依らなかった。罪がなく家が富んでいる者は、赦令を論じず、皆、殺戮を受け、その家産を没収された。慧景と深く関わり力を尽くしたが家が貧しい者は、一切問われなかった。始安王・陳顕達の時もすでにこのようであり、慧景の平定後もまた同じであった。ある者が王咺之に説いて言った、「赦書に信はなく、人情は大いに悪い」と。咺之は言った、「まさにまた赦があるだけだ」と。再び赦があり、群小の誅戮もまた以前のようであった。
帝は諸公卿が誅殺されて後は、もはや畏れるところなく、遊興に出ない日はなかった。寵愛する潘妃は本来の姓は俞、名は尼子といい、王敬則の伎女であった。あるいは宋の文帝に潘妃があり、在位三十年であったというので、ここに改めて姓を潘とし、その父の宝慶もまたこれに従って改姓した。帝は宝慶および法珍を阿丈と呼び、虫児および東冶営兵の俞霊韻を阿兄と呼んだ。帝は法珍らとともに宝慶の家に赴き、帝自ら水を汲み、厨人を助けて食事を作り、市井の雑談を真似て戯れ笑いとした。また帝は軽騎で戎服を着て諸々の刀勅の家に遊宴に赴き、吉凶があれば必ず慶弔に赴いた。宦官の王宝孫は年十三、四歳で、倀子と号し、最も寵愛を受け、朝政に参与し、王咺之・虫児の徒もこれに下った。大臣を制御し、勅詔を改易し、ついには馬に乗って殿中に入り、天子を罵るに至った。公卿これを見て、恐れ息を呑まぬ者はなかった。その昏乱を助成した者は、法珍・虫児および王咺之・俞宝慶・俞霊韻・祝霊勇・范亮之・徐僧重・時崇済・芮安泰・劉文泰・呂文慶・胡輝光・繆買養・章道之・楊敬子・李粲之・周管之・范曇済・石曇悦・張悪奴・王勝公・王懐藻・梅師済・鄒伯児・史元益・王霊范・席休文・解滂および太史令の駱文叔・大巫の朱光尚、合わせて三十一人である。また宦官に王宝孫・王法昭・許朗之・許伯孫・方仏念・馬僧猛・盛劭・王竺児・随要・袁系世ら十人があった。梁の武帝が建鄴を平定すると、皆誅殺された。また朱興光は茹法珍に憎まれ、罪を得て拘禁されたが、豊勇之が王珍国と親しくしていたので、処刑を実行して免れた。初め、左右の刀勅の徒は皆「鬼」と号し、宮中に「趙鬼は鴨㔅を食い、諸鬼は皆調に着く」という噂が流れた。当時は誰も理解できなかった。梁の武帝が建鄴を平定し、東昏侯が死ぬと、群小は一時に誅滅されたので、諸鬼と称されたのである。俗間にて細かく刻んだ肉に生姜や桂皮を混ぜたものを㔅といい、凶党は皆細かく刻んで煮るべきだという意味であろう。
周石珍
周石珍は建康の墓守の賤役であり、代々絹の販売を業としていた。梁の天監年間、次第に昇進して宣伝左右となった。身長七尺、応対にかなり熟達し、後に遂に制局監に至り、開陽令を兼ねた。直閤将軍を歴任した。太清三年、南豊県侯に封ぜられ、なお制局を領した。台城が陥落する前、既に矢文を射て侯景と結託し、城門が初めて開かれた時、石珍はなお左右に侍っていた。時に賊はその徒を遣わして殿内に直衛させ、ある者は驢馬を駆って殿庭に出入りした。武帝がちょうど文徳殿に坐しておられ、怪しんで問うと、石珍は「皆丞相の甲士です」と答えた。上が「何物の丞相か」と問うと、「侯丞相です」と答えた。上は怒って叱りつけて「その名は侯景という。何が丞相か」と言われた。石珍は賊に媚びを求めて、その党の田遷を養って己が子とし、遷もまた父としてこれに仕えた。侯景が帝位を 簒 すると、制度や羽儀は皆石珍が考案した。侯景平定後、中書舎人厳亶らとともに江陵に送られた。
亶は本来斎監であり、台省に長く居たので、多くの故事に通じていた。賊の中にあって要職にあり、石珍に次いだ。簡文帝が立てられると、亶は北方人のように靴を履いて殿上に上がり、恭謹の礼がなかった。これを怪しむ者がいると、亶は「我どうして劉禅を畏れようか」と言った。侯景に従って巴陵郡を包囲した時、「荊州はどうして降伏を送らないのか」と叫んだ。江陵に至り、市で刑に処せられようとした時、泣いて石珍に「我々の死もまた罪が満ちたからだ」と言った。石珍はその子の升と抱き合って泣いた。亶は監刑人に「どうか湘東王に伝えてくれ、廃する者なくば、君どうして興ることができようか」と言った。ともに腰斬に処せられた。これ以後、賊党を殺す時は、板で舌を挟み、釘で打ち付け、再び言葉を発することができなくした。
陸験
陸験・徐驎はともに呉郡呉県の人である。験は若くして貧苦に陥り、落魄して品行がなかった。同邑の郁吉卿という者は甚だ富んでおり、験は一身を傾けてこれに仕えた。吉卿が銭や米を貸すと、験はこれを元手に商販に従事し、遂に千金を蓄えた。そこで都に出て、財をばらまいて権貴に仕えた。朱異はその同郷の子であり、かつて恩徳があったので、武帝に推薦して抜擢し、徐驎と二人で少府丞・太市令を交替で務めさせた。験は本来学芸もなく、容貌が特に醜かった。以前、外国が生犀を献上したが、その形が甚だ醜かったので、巷間では皆験を生犀と呼んだ。験・驎はともに苛酷なことを務めとし、多くの商人に恐れられ、異は特にこれらと昵懇で、世人はこれを三蠹と呼んだ。司農卿の傅岐は剛直の士であり、かつて異に「卿は国政に参与し、栄寵このようであるが、近ごろ聞くところによれば、卑猥で狼藉である。もし聖主が悟りを開かれたら、免れることができようか」と言った。異は「外間の誹謗は久しく承知している。心にやましきことがなければ、人の言うことを何ぞ憂えよう」と言った。岐は人に「朱彦和は死ぬであろう。諂媚に頼って容れられんとし、弁舌をほしいままにして諫めを拒み、難を聞いても懼れず、悪を知っても改めない。天がその鑑識を奪うなら、どうして長くいられようか」と言った。験は遂に侵削を能とし、数年で列棘に登り、佩玉を鳴らし貂尾を耳にし、英彦と肩を並べた。太子右衛率に至り、卒すると、右衛将軍を追贈された。遠近その死を聞き、快く思わぬ者はなかった。
驎は平素から邵陵王綸に憎まれており、太清二年、綸に殺害された。
司馬申
司馬申は字を季和といい、河内郡温県の人である。祖父の慧遠は梁の都水使者、父の玄通は梁の尚書左戸郎であった。
申は早くから人物鑑識眼があり、十四歳で既に囲碁を得意とした。かつて父に従って吏部尚書の到溉を訪ねた時、梁州刺史の陰子春・領軍の朱異がそこにいたが、呼んで碁を打たせた。申はしばしば妙手を考え出し、異はこれを見て奇異に思い、そこで申を引き連れて交遊した。太清の難に際し、父母ともに亡くなり、このため自ら誓って、土を担い菜食で終身を過ごした。
梁の元帝が制を承けると、累進して鎮西外兵記室参軍となった。侯景が 郢州 を寇すると、申は 都督 の王僧弁に従って巴陵に拠り、策を進める度に、皆採用された。僧弁は嘆じて「この者は弓矢を帯び汗馬の労をとることは、あるいは長所ではないが、もし衆を撫で城を守らせれば、必ず奇績を挙げるであろう」と言った。僧弁が陸納を討った時、賊の大軍が突然到来し、左右の者は潰走したが、申は身を挺して僧弁を蔽い、楯をかぶって前進し、ちょうど裴之横の救兵が到着したので、賊は退いた。僧弁は振り返って笑い、「仁者には必ず勇あり、とは虚言ではない」と言った。
陳の太建年間、秣陵令に任ぜられ、在職中は清廉有能で称えられ、白雀が県庭に集まった。再び東宮通事舎人となった。叔陵が逆乱を起こした時、事既に成らず、東府を占拠して出たが、申は馳せて右衛将軍の蕭摩訶を召し、兵を率いて先に至らせ、追撃してこれを斬った。後主は深くこれを嘉した。功により太子左衛率に任ぜられ、文招県伯に封ぜられ、中書通事舎人を兼ねた。右衛将軍に遷った。三帝に仕え、内で機密を掌り、頗る威福をほしいままにした。性残忍で害を好み、匿名の文書を用いて讒毀することを好み、朝廷の端直の士は遍くその災いに遭った。謀議に参与すると、外に向かって宣べ伝え、己が力とした。省中の秘事は、しばしば漏洩した。性また果敢で、応対に巧み、主君の顔色を窺うことができた。己に逆らう者があれば、必ず微言を用いてこれを讒し、己に附く者があれば、機会に乗じてこれを推挙した。このため朝廷内外、皆風になびいて従った。
初めに、尚書右僕射沈君理が卒すると、朝廷は毛喜を以てこれに代えんと議した。司馬申は喜が政に預かることを憂慮し、乃ち後主に喜を讒して曰く、「喜は臣が妻の兄なり、高帝の時に陛下に酒徳有りと称し、宮臣を逐い去らんことを請うたり、陛下は寧ろこれを忘れたるか」と。喜は是より廃錮せらる。又施文慶・李脱児と比周し、傅縡を讒殺し、任忠の部曲を奪いて蔡徴・孔範に配し、是を以て文武解体し、覆滅に至る。申嘗て尚書下省に昼寝す、烏有りて其の口を啄み、血地に流る、時の論以て賢を譛るの効と為す。
後に 散騎常侍 を加えられ、右衛・舎人は元の如し。至徳四年に卒す、後主嗟悼すること久し。侍中・護軍将軍を贈られ、爵を進めて侯と為し、諡して忠と曰う。及び葬らるるに、後主自ら志銘を制す。子琇嗣ぐ、官は太子舎人に至る。
施文慶
施文慶は、何れの許の人なるかを知らず。家は元より吏門に在り、文慶に至り好学し、頗る書史に渉る。陳後主の東宮に在らしめし時、文慶これに事ふ。即位するに及び、擢て中書舎人と為す。仍て叔陵の乱を作すに属し、隋師境に臨み、軍国の事務多く倉卒に起こる。文慶は聡敏強記にして、吏職に明閑し、心算口占し、時に応じて条理有り、是を以て大いに親幸せらる。又太建以来、吏道疏簡にして、百司弛縦す。文慶は其の力を尽くして用ひ、縦捨する所無く、官を分ち事を聯ね、振懼せざる莫し。又沈客卿・陽恵朗・徐哲・曁慧景等を引き、吏能有りと雲ひ、後主之を信ず。然れども並びに大體に達せず、督責苛碎にして、聚斂厭ふこと無し、王公大人咸共に之を疾む。後主益々文慶を能と為し、尤更に親重し、内外の衆事、任委せざる無し。累遷して太子左衛率と為り、舎人は元の如し。
禎明三年、湘州刺史 晉 熙王叔文は職に在ること既に久しく、大いに人和を得たり。後主其の上流を拠するを以て、陰に之を忌む。自ら度るに素より群臣に恩少く、用ひられざるを恐れ、任する者無し。乃ち文慶を擢て 都督 ・湘州刺史と為し、精兵を配し、西上せしめんと欲し、仍て叔文を征して朝に還らしむ。文慶深く其の事を喜ぶ、然れども外に居るを懼れ、後に執事者己が短長を挟むを因り、其の党沈客卿を進めて以て自らに代はらしむ。未だ発せざる間に、二人共に機密を掌る。
時に隋軍大挙し、分道して進む。尚書僕射袁憲・驃騎将軍蕭摩訶及び文武の群臣共に議し、京口・採石に各兵五千を置き、並びに金翅二百を出だし、江に縁り上下して、以て防備と為さんことを請ふ。文慶は兵無くして己に従はざるを恐れ、其の述職を廃せんとし、而して客卿又文慶の任己に専権を得るを利し、倶に朝に言して曰く、「必ず論議有らば、面陳を仮らず、但だ文啓を作し、即ち通奏と為すべし」と。憲等然りと以為ふ。二人啓を齎して入り後主に白して曰く、「此れは常の事、辺城の将帥以て之に当つに足る。若し人船を出ださば、必ず驚擾を恐る」と。
隋軍江に臨むに及び、間諜驟至す。憲等殷懃に奏請し、再三に至る。文慶等曰く、「元会将に逼り、南郊の日、太子多く従ふ。今若し兵を出ださば、事便く廃闕せん」と。後主曰く、「今且く兵を出だし、若し北辺事無くば、因りて水軍を以て郊に従はしむ、何を為して不可ならん」と。又対へて曰く、「此くの如くせば、則ち声隣境に聞こえ、便ち国弱しと謂はん」と。又貨を以て江総を動かし、総内に之が為に遊説す。後主重ねて其の意に違ひ、而して群官の請に迫られ、乃ち令して外に付し詳議せしめ、又憲等を抑ふ。是より未だ決せずして隋師江を済す。
後主性怯懦にして、軍事に達せず、昼夜啼泣す。台内の処分、一に之を委ぬ。文慶既に諸将己を疾むを知り、其の功有るを恐れ、乃ち奏して曰く、「此等怏怏として、素より官に服せず、此の事機に迫られて、那ぞ専ら信ぜん」と。凡そ啓請有る所、経略の計、並びに行はれず。尋て文慶に勅して兵を領し楽遊苑に頓せしむ。陳亡び、隋の 晉 王広は文慶の委を受け忠ならず、曲りて諂佞を為し、以て耳目を蔽ひ、党を比する数人、並びに石闕の前に於て之を斬り、以て百姓に謝す。
沈客卿
沈客卿は、呉興武康の人なり。風采美くしく、談論を善くし、群書に博渉し、施文慶と少しく親昵す。陳に仕へ、累遷して尚書儀曹郎に至る。聡明にして口辯有り、頗る故事を知る。毎に朝廷の体式、吉凶の儀注、凡そ疑議有る所、客卿斟酌裁断し、理経ならざる有りと雖も、而して衆能く屈する莫く、事多く施行せらる。
至徳初め、以て中書舎人と為し、兼ねて歩兵 校尉 、金帛局を掌る。旧制に軍人・士人、二品の清官、並びに関市の税無し。後主盛んに宮室を修し、耳目を窮め極む、府庫空虚し、興造有る所、恒に給はざるを苦しむ。客卿毎に異端を立て、唯百姓を刻削するを以て事と為し、奏請して士庶を問はず、並びに関市の估を責め、而又其の旧を増重す。是を以て陽恵朗を太市令と為し、曁慧景を尚書金・倉都令史と為す。二人の家は元より小吏、簿領を考校し、豪厘差へず、糾謫厳急にして、百姓嗟怨す。而して客卿は舎人に居り、総べて之を督す。毎歳の入る所、常格の数十倍を過ぐ、後主大いに悦ぶ。尋て客卿に 散騎常侍 ・左衛将軍を加へ、舎人は元の如し。恵朗・慧景は朝請に奉ず。禎明三年、客卿遂に文慶と倶に機密を掌る。隋師至るに及び、文慶出でて楽遊苑に頓す。内外の事は客卿之を総ぶ。台城失守す。隋の 晉 王は客卿の重賦厚斂、以て上に悦ぶを以て、文慶・曁慧景・陽恵朗等と倶に石闕の前に於て斬らる。徐哲は、何れの許の人なるかを知らず、施文慶引きて制局監と為し、刑法を掌る。亦客卿と同誅せらる。
孔範
孔範は字は法言、会稽山陰の人なり。曾祖景偉は、斉の 散騎常侍 。祖滔は、梁の海塩令。父岱は、歴職清顕。
範は少く好学し、書史に博渉す。陳の太建中、位は宣恵江夏王長史。後主即位し、都官尚書と為り、江総等と並びに狎客と為る。範は容止都雅にして、文章贍麗、又五言詩を善くし、尤も親愛せらる。後主性愚狠にして、過失を聞くを悪む。毎に悪事有れば、範必ず曲りて文飾を為し、称揚讚美す。時に孔貴人絶愛幸せらる。範は孔氏と兄妹を結び、寵遇優渥にして、言聴き従はる。朝廷の公卿咸く範を畏る。範因り驕矜し、文武の才能挙朝及ぶ莫しと以為ふ。従容として後主に白して曰く、「外間の諸将は、行伍より起り、匹夫の敵のみ。深見遠慮は、豈其の知る所ならん」と。後主以て施文慶に問ふ、文慶は範を畏れ、益々然りと以為ふ。是より将帥微かに過失有れば、即ち其の兵を奪ひ、文吏に分配す。
隋師将に江を済さんとす、群官備防を為さんことを請ふ。文慶之を沮壞し、後主未だ決せず。範奏して曰く、「長江は天塹、古来限隔す。虜軍豈に飛度せんや。辺将功労を作さんと欲し、妄りに事急しと言ふ。臣自ら位卑きを恨む。虜若し能く来たらば、定めて太尉公を作さん」と。或いは妄りに北軍の馬死すと言ふ。範曰く、「此れは我が馬なり、何の因りて死去せん」と。後主笑ひて然りと以為ひ、故に深く備へず。
まもなく隋の将軍賀若弼が南徐州を陥落させ、城主の莊元始を捕らえ、韓擒が南 豫 州を陥落させ、水軍 都督 の高文泰を破った。司馬消難は中領軍の魯廣達とともに白塔寺に駐屯した。後主は多く金帛を出して、功を立てる者を募ったが、消難はもとより武士と交わりがなく、赴く者はなく、ただ負販の軽薄な者たちが多く従い、高麗・百済・崑崙などの諸夷も指揮を受けた。時に任蠻奴は戦わず、自らは江を渡って敵の大軍を攻めることを請うた。また司馬消難が後主に言うには、「賀若弼がもし高所に登って烽火を挙げ、韓擒と相応じ、鼓の音が交わって響けば、人心は必ず離反します。急ぎ兵を遣わして北は蔣山を占拠し、南は淮水を断ち、その妻子を人質とし、賞賜を重ねることを請います。陛下は精兵一万人をもって、城を守り出撃なさらぬことです。十日と経たぬうちに食糧は尽き、二将の首を闕下に致すことができましょう」。消難は功を立てんことを望み、戦うことを志したので、言うには、「司馬消難は狼子野心、任蠻奴は淮南の傖士(田舎者)であり、その言葉はともに信ずるに足りません」。事は遂に行われなかった。
隋軍が既に逼迫すると、蠻奴はまた持久の計を為さんとしたが、消難はまた上奏して、「一決を為すことを請い、官のために燕然に石を勒すべし」と言った。後主はこれに従った。翌日、消難はその配下を中央に置き、隋軍に抗したが、陣をなさぬうちに敗走し、消難は身を脱して遁走し免れた。まもなく後主とともに長安に入った。
初め、 晉 王楊廣が誅戮した陳の五佞人のうち、司馬消難と 散騎常侍 の王瑳・王儀・御史中丞の沈瓘は、過悪が未だ顕著でなかったため、免れた。長安に至ると、事はともに露見し、隋の文帝はその奸佞諂惑をもって、ともにその過悪を暴き、四罪人と名付け、遠方の辺境に流して、呉・越の民に謝した。瑳と儀はともに琅邪の人である。瑳は刻薄で貪欲・卑劣であり、才能を忌み害した。儀は意を窺い顔色に従い、傾巧で側媚であり、また二人の娘を献じて、親昵を求めた。瓘は険惨で苛酷であり、発言は邪諂であった。故に同罪となったのである。
【論】
論ずるに、宋の中世以来、朝政を宰禦するに当たり、万機は細密にして、外司に関わらず。尚書八座五曹は、各々恒常の任務があり、九卿六府に連なり、事は副職に存する。冠冕搢紳に至っては、任は疎くして人は貴く、伏奏の務は既に廃れ、趨走の労もまた息んだ。関宣の寄せるところは、事に属する者が帰する所に当たる。内外を通驛し、切に音旨に自る。忠を竭くし節を尽くすは、仕子の恒に図るところ、方に随って用を致すは、明君の盛典なり。旧は本の旧に非ず、新に因りて旧を成すものなり。狎は先の狎に非ず、疎に因りて狎を成すものなり。而して任は疎情を隔て、殊塗一致し、権は近狎に帰し、異世同じ揆り。故に環纓は笏を斂め、晨昏に俯仰し、幄坐を瞻てて躬を竦め、蘭檻に陪して高く眄り、恩色を探求し、威顔を習睹し、蘭に遷り鮑に変じ、久しくして弥く信ず。城社の固きに因り、開壅の機を執る。長主世を君とし、裘を振り領を持ち、賞罰事殷なれば、能く漏れを踰えず、宮省の咳唾、義必ず先知る。故に盈縮を望景に窺い、驪珠を龍睡に獲、坐して声勢を帰し、臥して都鄙を震わす。賄賂日々に積み、苞苴歳々に通じ、富は公侯に擬し、威は州郡に行わる。制局の小司は、専ら兵力を典とし、雲陛天居に、亘に蘭綺を設け、羽林の精卒、重ねて屯し広く衛す。元戎轍を啓き、武候麾を還すに至っては、遮迾し清道し、神行して轡を按じ、往来を督察し、輦轂に馳騖し、分部を駆役し、几案を親承し、領護の摂る所は、成規を総べるを示す。若し兵を徴し衆を動かし、大いに人役を興すには、優劇遠近は、外監の心に断ち、譴辱詆訶は、典事の口に恣にする。符を抑え詔を緩め、奸偽一に非ず、死を書いて生と為し、請謁市を成し、左臂は金を揮い、右手は字を刊し、紙は銅の落ちるが如く、筆は利に染まる。故に門は玉署に同じく、家は金穴と号し、嬙媛侍女は、燕・秦・蔡・鄭の声、琁池碧梁は、魚龍雀馬の翫、錦室に充牣せず、青雲を照徹せざるはなく、政を害し人を傷つくる、斯に於いて切なり。況んや主幼く時昏きにおいてをや、讒慝また何ぞ勝げて紀すべけんや。
校勘記