南史 卷七十六 列傳第六十六 隱逸下

南史

卷七十六 列傳第六十六 隱逸下

臧榮緒

臧榮緒は、東莞郡莒県の人である。祖父の奉先は建陵県令であった。父の庸人は国子助教であった。

榮緒は幼くして孤児となり、自ら園を灌漑して祭祀の供え物を調達した。母の喪の後、『嫡寢論』を著し、堂宇を掃き清め、筵席を設け、朔望(ついたちと十五日)には必ず拝礼して供え物を捧げ、甘美な珍味は未だ先に口にすることはなかった。純朴で篤実に学問を好み、東 しん と西 しん の歴史をまとめて一書とし、記録・志・伝を合わせて百一十巻を撰した。京口に隠居して教授した。

齊の高帝が揚州刺史となった時、榮緒を主簿として徴召したが、赴任しなかった。建元年間、 司徒 しと の褚彥回が高帝に上啓してその美徳を称え、秘閣に置くことを請うた。榮緒は五経を篤く愛し、人に言うには、「昔、呂尚が丹書を奉じ、武王は斎戒して位を降りて迎えた。老子と釈迦の教えの戒めにも、礼敬の儀式がある。それゆえに至道を明らかにするのである」と。そこで『拜五經序論』を著した。常に宣尼(孔子)が庚子の日に生まれたとして、その日に五経を陳列して拝礼した。自ら披褐先生と号した。また、酒を飲むと徳を乱すとして、常にこれを戒めとして語った。永明六年に卒去した。初め、榮緒は關康之と共に京口に隠居し、当時、二隠と号された。

吳苞

吳苞は字を天蓋といい、また一字を懷德といい、濮陽郡鄄城県の人である。儒学に通じ、三禮及び老・莊に詳しかった。宋の泰始年間に江を渡り、門徒を集めて教学した。黄葛の巾を冠り、竹の麈尾を持ち、菜食を二十余年にわたって続けた。劉瓛と共に褚彥回の邸宅で講義した。瓛は禮を講じ、苞は論語・孝経を講じ、諸生は朝に瓛の講義を聴き、夕に苞の講義を聴いた。

齊の隆昌元年、太学博士に徴されたが、就任しなかった。始安王遙光及び江祏・徐孝嗣が共に鍾山の下に学館を建てて教授させ、朝士多くがその門に至り、当時その儒者としての名声を称された。劉瓛の後、門徒を集めて講授した者は、苞ただ一人のみであった。天寿を全うして終わった。時に趙僧岩・蔡薈という者がおり、皆すぐれた行いがあり、苞の為人を慕った。

僧岩は北海の人である。度量が広く常ならず、人は測り知ることができなかった。劉善明と友であった。善明が青州刺史となった時、秀才に推挙しようとしたが、大いに驚き、衣を払って去った。後に突然沙門となり、山谷に棲み遅れ、常に一つの壺を携帯した。ある日、弟子に言うには、「我は今晩死ぬであろう。壺の中の大銭一千は、九泉の路を通ずるためであり、蠟燭一挺は、七尺の屍を照らすためである」と。夜になって亡くなった。当時の人はこれをもって命を知っていたと認めた。

蔡薈は字を休明といい、陳留の人である。清高で抗直し、俗人と交わらなかった。李撝が江學に言うには、「古人は、貧に安んじて清白なることを夷といい、涅すれども緇(黒)ならざることを白という。蔡休明の如きに至っては、夷白と言わずして何と言おうか」と。

また魯国の孔嗣之という者、字は敬伯、宋の時に齊の高帝と共に中書舎人であったが、共に好むところではなかった。廬江郡守の官を去り、鍾山に隠居した。朝廷は太中大夫としたが、卒去した。

徐伯珍

徐伯珍は字を文楚といい、東陽郡太末県の人である。祖父・父は共に郡の掾史であった。伯珍は幼くして孤貧であり、書を学ぶに紙がなく、常に竹の矢・箬の葉・甘蕉の葉及び地面を用いて書を学んだ。山水が暴漲し、家屋を押し流し溺れさせた時、村の隣人は皆奔走したが、伯珍は床を積み重ねてその上に坐り、書を誦して止まなかった。叔父の璠之は顏延之と親しく、祛蒙山に戻って精舎を建て講義したので、伯珍はこれに従って学んだ。十年を積み重ね、経史を究め尋ね、遊学する者は多く彼に依った。太守の琅邪王曇生・吳郡張淹が共に礼を加えて招聘したが、伯珍は召しに応じてもすぐに退き、このようなことが凡そ十二度あった。征士の沈儼が膝を接して談論し、昔からの交わりを重ねた。吳郡の顧歡が尚書の滞った義理を摘出して問うと、伯珍は応答し、甚だ条理があり、儒者は彼を宗とした。釈氏・老・莊を好み、兼ねて道術に明るかった。ある年旱魃があった時、伯珍が筮うと、期した通りに雨が降った。挙動に礼があり、曲がった木の下を通る時は、小走りになって避けた。早くに妻に先立たれ、後年再び娶ることはなく、自ら曾參に比した。

家の南九里に高い山があり、班固がこれを九岩山と呼び、後漢の龍丘萇が隠棲した所である。山には龍鬚檉柏が多く、遠望すると五色に見え、世間では婦人岩と呼んだ。二年、伯珍はここに移り住んだ。階と戸の間に生える木は皆連理となった。門前に梓樹が生え、一年で合抱するほどになった。学館の東の石壁に、夜、突然赤い光が洞のように照らし、俄かに消えた。白雀一対がその戸と窓に棲み、論者はこれを隠れた徳行の感応であるとした。刺史の 章王が議曹従事に辟召したが、就任しなかった。家は甚だ貧しく、兄弟四人は皆白髪で相対し、当時の人は「四皓」と呼んだ。建武四年に卒去し、八十四歳であった。学業を受けた者は凡そ千余人に及んだ。

伯珍の同郡の婁幼瑜、字は季玉、また徒を聚めて教授し、徴辟に応ぜず、特に臨川王蕭映に賞異せられ、『礼捃拾』三十巻を著す。

沈麟士

沈麟士、字は雲禎、呉興郡武康県の人である。祖父は膺期、晋の太中大夫。父は虔之、宋の楽安県令。

麟士は幼くして俊敏であり、七歳の時、叔父の沈岳が玄言を語るのを聴く。賓客が散じた後、語られたことを一つも遺失しなかった。岳はその肩を撫でて曰く、「若し斯文絶えずば、其れ に在らんか」と。長ずるに及んで、経史に博通し、高尚の心あり。親亡くなり、喪に居て礼を尽くす。服闋(喪明け)の後も、忌日には毎に十日余り涙を流す。貧しくして簾を織りながら書を誦し、口と手を休めず、郷里では織簾先生と号す。嘗て人の為に竹を作りて誤って手を傷つけ、直ちに涙を流して帰る。同じく作る者謂いて曰く、「此れ損ずるに足らず、何ぞ涕零するに至らん」と。答えて曰く、「此れ本より痛まず、但だ遺体毀傷するを以て、感じて悲しむのみ」と。嘗て路を行くに、隣人が其の著する屐を認む(自分の物と主張す)。麟士曰く、「是れ卿の屐か」と。即ち跣足にして返る。隣人屐を得て、先の者に送り返すと、麟士曰く、「卿の屐に非ずや」と。笑って之を受けしむ。

宋の元嘉の末、文帝、僕射何尚之に命じて五経を抄撰せしめ、学士を訪挙す。県は麟士を以て応選せしむ。已むを得ず都に至り、尚之は深く相接す。到着するや、尚之は子の偃に謂いて曰く、「山藪故に奇士多し、沈麟士は黄叔度の流なり、豈に淆濁を澄清すべけんや。汝之に師事せよ」と。

麟士嘗て書無きを苦にし、因って都下に遊び、四部を歴観し畢りて、乃ち歎じて曰く、「古人亦た何の人ぞ」と。少時して疾を称して郷に帰り、人物と通ぜず。孤兄の子を養い、義は郷曲に著る。或いは之に仕を勧むるも、答えて曰く、「魚は県(釣り糸にかかる)れ、獣は檻にあり、天下は一契なり。聖人は玄悟す、以て毎に吉先を履む所以なり。吾は誠に景行し坐忘する能わず、何ぞ日損を希企せざらんや」と。乃ち玄散賦を作りて世を絶つ。太守孔山士辟せしむるも応ぜず、宗人の徐州刺史沈曇慶・侍中沈懐文・左率沈勃来りて候すも、麟士未だ嘗て答へず。

余不呉差山に隠居し、経を講じ教授す。従学する学士数十百人、各々屋宇を営み、其の側に依止す。時に之が為に語りて曰く、「呉差山中に賢士あり、門を開きて教授し居ること市を成す」と。麟士は陸機の連珠を重んじ、毎に諸生の為に之を講ず。征北将軍張永、呉興太守たりし時、麟士を請いて郡に入らしむ。麟士、郡の後堂に好山水有ると聞く(即ち戴安道が呉興に遊び、古墓を因りて山池と為せし所なり)。一之を観んと欲し、乃ち往きて数ヶ月停まる。永、功曹と為さんと請う。麟士曰く、「明府は徳履沖素にして、山谷に心を留む。是を以て褐を被り杖を負いて、其の疲病を忘る。必ず渾沌を飾りて蛾眉を以てし、越客に冠せしめて文冕に於かしめんと欲せば、走り(私)は不敏と雖も、請う高節に附せん。東海に蹈んで死する有りとも、此の黔劓(刑罰)を受くるに忍びず」と。永乃ち止む。

升明の末、太守王奐、永明の中、中書郎沈約並びに表して之を薦む。徴すれども皆就かず。乃ち約に与えて書して曰く、「名は実の賓なり、本より こいねが (願)わざる所なり。中央は心無く、空しく南北に勤む。恵を為して反って凶たらん、将に斯に在らん」と。

麟士は営求する所無く、篤学を務めとし、恒に素几に憑りて素琴を鼓し、新声を為さず。薪を負い水を汲み、並日(二日に一度)にして食す。操を守りて終老し、書を読んで倦まず。火災に遭い書数千巻を焼く。年八十を過ぎ、耳目猶お聡明なり。反故(紙の裏)を用いて抄写し、火の下に細書して、復た二三千巻を成し、数十篋に満つ。時人は養身静黙の致す所と為す。黒蝶賦を制して意を寄す。『周易両系』『荘子内篇訓』を著す。易経・礼記・春秋・尚書・論語・孝経・喪服・老子要略数十巻に注す。梁の天監元年、何点と同徴せらるるも、又就かず。二年、家に卒す。年八十五。楊王孫・皇甫謐が生死に深達して終礼をもって俗を矯せしを以て、乃ち自ら終制を為し、遺令して曰く、「気絶すれば被を剔ぎ、三幅の布を取って以て屍を覆え。斂に及びて、 そのまま 布を屍の下に移し、以て斂服と為せ。被を反し左右両際を以て上に周らしめ、復た覆被を製せず。沐浴し珠を唅むを須いず。本の裙衫、先に著くる褌、凡そ二服、其の上に単衣幅巾履枕を加え、棺中は唯此のみ。士安(皇甫謐)に依りて孝経を用いよ。既に殯すれば復た霊座を立つること無く、四節及び祥に、権(仮)に席を地に鋪き、以て玄酒の奠を設けよ。人家相承けて棺を漆す、今は復た爾うせず。亦た旐を須いず。成服後即ち葬し、塚を作りて小ならしめ、後祔の時更に浜に小塚を作れ。合葬は古に非ず。塚は土を聚めて墳を成すを須いず、上をして地と平らからしめよ。王祥の終制も亦た爾り。葬に軟車・霊舫・魌頭を須いず。朝夕下食することを得ず。祭奠の法、葬に至るまで、唯清水一杯のみ」と。子の彝之を奉じて行い、州郷皆称歎す。

阮孝緒

阮孝緒、字は士宗、陳留郡尉氏県の人である。父は彦之、宋の太尉従事中郎、清幹を以て誉れを流す。

孝緒七歳にして出でて従伯の胤之に継ぐ。胤之の母周氏卒す。遺財百余万、応に孝緒に帰すべきも、孝緒は一も納れず、尽く以て胤之の姉(琅邪王晏の母)に帰す。聞く者皆歎異す。乳人は其の伝重辛苦を憐れみ、輒ち窃みて玉羊金獣等の物を之に与う。孝緒見て駭愕し、彦之に啓して王氏に送還せしむ。

幼より至孝、性沈静、童児と遊戯すと雖も、恒に池を穿ち山を築くを以て楽と為す。年十三、遍く五経に通ず。十五にして冠し、其の父彦之に見ゆ。彦之誡めて曰く、「三加は いよいよ 尊し、人倫の始めなり。宜しく自ら つと むるを思い、以て爾が躬を庇え」と。答えて曰く、「願わくは松子の跡を瀛海に追い、許由を穹谷に追わん。庶わくは促生を保ち、以て塵累を免れん」と。是より屏居一室し、定省に非ざれば未だ嘗て戸を出でず、家人其の面を見ること莫く、親友因りて居士と呼ぶ。

年十六、父喪に綿纊(絹綿の衣服)を服せず、蔬菜と雖も味有れば亦之を吐く。外兄の王晏貴顕たり、屡々其の門に至る。孝緒之を度るに必ず顛覆に至らんとし、其の笳管(行列の音楽)を聞けば、籬を穿ち逃匿し、相見ゆること無し。嘗て醬を食して美なり、之を問うに、雲う是れ王家の得たる所と。便ち餐を吐き醬を覆す。晏の誅せらるるに及び、親戚皆之が為に懼る。孝緒曰く、「親にして党せず、何の坐するの及ぼんや」と。竟に免るることを たり。

梁武帝兵を起こし建鄴を囲む。家貧しく以て かし ぐに無く、僮妾隣人の墓樵を窃みて以て火を継ぐ。孝緒之を知り、乃ち食せず、更に屋を撤して炊かしむ。居る所、一の鹿床を以て精舫と為し、樹を以て環繞す。天監の初、御史中丞任昉其の兄の履之を尋ね、造らんと欲して敢えせず、望みて歎じて曰く、「其の室は ちか けれども、其の人甚だ遠し」と。其の名流に欽尚せらるること此の如し。是より風誉を欽慕する者、刺を懐にし衽を斂めて、塵を望みて むこと莫し。殷芸詩を以て贈らんと欲す。昉曰く、「趣捨既に異なり、何ぞ必ず かかわ らんや」と。芸乃ち止む。唯だ比部郎裴子野と交わる。子野之を尚書徐勉に薦め、言う其の「年十余歳、父に随い湘州行事と為り、官紙に書せず、以て親の清白を成す。其の志行を論ずれば ほぼ 管幼安に類し、采章を比するは皇甫謐に似たり」と。

天監十二年、詔して公卿に士を挙げしめし、秘書監傅照上疏して之を薦む。吳郡の範元琰と俱に征せらるれど、並びに到らず。陳郡の袁峻謂ひて曰く、「往者天地閉ざし、賢人隠る。今世路已に清し。而るに子猶ほ遁る、可ならんや」と。答へて曰く、「昔周の德興ると雖も、夷・齊薇蕨を厭はず。漢の道方に盛んなりと雖も、黄・綺山林に悶なし。仁を為すは己に由る、何ぞ人世に関せん。況んや僕は往賢の類に非ずや」と。初め、謝朏及び伏暅徵に應じ、天子以爲らく、隱者苟も虚名を立て、以て顯譽を要するなりと。故に孝緒と何胤と並びに其の高志を遂げ得たり。

後に鍾山に於いて講を聽く。母王氏忽ち疾有り。兄弟之を召さんと欲す。母曰く、「孝緒は至性冥に通ず。必ず自ら到るべし」と。果たして心驚きて反る。鄰里嗟きて之を異とす。藥を合するに生人參を得るを須ふ。舊へ傳ふるに鍾山の出づる所とす。孝緒躬ゝ幽險を歷て、累日逢はず。忽ち一鹿の前行するを見る。孝緒感して後に隨ひ、一つの所に至りて遂に滅す。就きて視るに、果たして此の草を獲たり。母服するを得て遂に愈ゆ。時に皆其の孝感の致す所と謂ふ。

善く筮ふ者張有道有りて曰く、「子の隱跡を見て心明かし難し。自ら龜蓍を考ふるに非ざれば、以て驗ふる無からん」と。及び卦を布く。既に五爻を揲てて曰く、「此れ將に咸たらんとす。應感の法にして、嘉遯の兆に非ず」と。孝緒曰く、「安んぞ後爻上九たらざるを知らんや」と。果たして遯卦を成す。有道歎じて曰く、「此れ所謂『肥遯して利無からず』。象實に德に應じ、心跡並びなり」と。孝緒曰く、「遯卦を獲ると雖も、而上九爻發せず。升遐の道、便ち當に高く許生に謝すべし」と。乃ち高隱傳を著す。上は炎皇より、天監の末に終る。斟酌して三品に分つ。言行超逸し、名氏傳はれざるを上篇とし、始終耗せず、姓名錄す可きを中篇とし、冠を人世に掛け、心を塵表に棲ますを下篇とす。湘東王忠臣傳を著し、釋氏碑銘・丹陽尹錄・研神記を集む。並びに先づ孝緒に簡び而る後に施行す。南平元襄王其の名を聞き、書を致して之を要す。赴かずして曰く、「志富貴に驕るに非ず、但だ性廟堂を畏る。若し麏麚を驂とす可くば、何を以て夫の驥騄に異ならんや」と。

初め、建武の末、青溪宮の東門故無くして自ら崩る。大風東宮門外の楊樹を拔く。或ひは以て孝緒に問ふ。孝緒曰く、「青溪は皇家の舊宅なり。齊は木行と爲り、東は木の位なり。今東門自ら壞る。木其れ衰へん」と。

武帝讖緯を畜ふるを禁ず。孝緒兼ねて其の書有り。或ひは藏まんことを勸む。答へて曰く、「昔劉德淮南の秘要を重んずるも、適ひ更生の禍と爲る。杜瓊の所謂不如不知、此言美なり」と。客之を求むる有り。答へて曰く、「己の欲せざる所、豈に人に禍を嫁す可けんや」と。乃ち之を焚く。

鄱陽忠烈王妃は孝緒の姉なり。王嘗て駕を命じ、就きて之と遊ばんと欲す。孝緒垣を鑿ちて逃げ、卒ひに肯へて見ず。王悵然として歎息す。王の諸子渭陽の情篤く、歲時の貢、受納する所無く、未だ嘗て相見ず、竟に之を識らず。或ひは其の故を問ふ。孝緒曰く、「我本素より賤し。應に王侯の姻戚と爲るべからず。邂逅の逢ふ所、豈に始願に関せんや」と。劉歊曾て米を以て之に饋る。孝緒納れず。歊亦之を棄つ。末年蔬食し酒を斷つ。其の恒に供養する石像先づ損壞有り。心之を補はんと欲し、心を罄きて敬禮す。一夜を經て忽然として完復す。衆並びに之を異とす。

大同二年正月、孝緒自ら卦を筮ひて曰く、「吾が壽は劉著作と同年ならん」と。劉杳の卒するに及び、孝緒曰く、「劉侯逝けり。吾其れ幾何ならん」と。其の年十月卒す。年五十八。梁簡文東宮に在り、隆恩厚贈す。子恕等先志を述べて受けず。顧協以爲らく、恩常の均に異なりと。議して恭に受けしむ。門徒德行を追論し、諡して文貞處士と曰ふ。著す所の七錄・削繁等一百八十一卷、並びに世に行はる。

初め、孝緒撰する所の高隱傳、中篇に載する所一百三十七人。劉歊・劉籲其の書を覽みて曰く、「昔嵇康の贊する所、一を缺きて自ら擬す。今四十の數、將に吾等を待ちて成らんか」と。對へて曰く、「所謂荀君少なきと雖も、後事當に鍾君に付すべし。若し素車白馬の日、輒ち麟を二子に獲ば」と。歊・籲果たして卒す。乃ち二傳を益す。孝緒の亡ぶるに及び、籲の兄絜其の遺する所の行を錄し篇末に次ぎ、絕筆の意を成すと云ふ。

鄧郁

南嶽の鄧先生、名は郁、荊州建平の人なり。少にして仕へず、衡山極めて峻しき嶺に隱居す。小板屋兩間を立て、足を下山せず、穀を斷つこと三十餘載。唯だ澗水を以て雲母屑を服し、日夜大洞經を誦す。梁武帝敬信殊に篤し、爲に帝の爲に丹を合す。帝敢へて服せず、五嶽樓を起して之を貯へ供養し、道家の吉日、躬を往きて禮拜す。白日、神仙魏夫人忽ち來臨降し、雲に乘りて至る。少嫗三十に從ひ、並びに絳紫の羅繡褂褲を著け、年皆な十七八許なる可し。色桃李に豔に、質瓊瑤に勝れ、言語良久くして郁に謂ひて曰く、「君仙分有り。故を以て來る。尋で當に相候はん」と。天監十四年に至り、忽ち二青鳥の悉く鶴の大なる如きを見る。翼を鼓し鳴き舞ひ、晷を移して方に去る。弟子等に謂ひて曰く、「之を求むること甚だ勞し、之を得ること甚だ逸なり。近く青鳥既に來る。期會至らん」と。少日病無くして終る。山內唯だ香氣を聞く。世未だ嘗て有らず。武帝後に周舍をして鄧玄傳を爲らしめ、具に其事を序す。

陶弘景

陶弘景、字は通明、丹陽秣陵の人なり。祖は隆、王府參軍。父は貞、孝昌令。

初め、弘景の母郝氏夢みるに兩天人の手に香爐を執りて其の所に來至る。已にして娠み有り。宋の孝建三年丙申の歲夏至の日に生る。幼より異操有り。年四五歲、恒に荻を以て筆と爲し、灰の中に畫きて書を學ぶ。十歲に至り、葛洪の神仙傳を得、晝夜研尋し、便ち養生の志有り。人に謂ひて曰く、「青雲を仰ぎ、白日を睹る、遠しと爲すを覺えず」と。父妾の爲に害せらる。弘景終身娶らず。長ずるに及び、身長七尺七寸、神儀明秀、朗目疏眉、細形長額聳耳、耳孔各々十餘毛有りて外に二寸許り出づ。右膝に數十の黑子有りて七星の文を作す。書を讀むこと萬餘卷、一事知らざるを以て深き恥と爲す。琴棋を善くし、草隸に工なり。未だ弱冠ならず、齊の高帝相と作る、引いて諸王侍讀と爲し、奉朝請を除く。朱門に在ると雖も、影を閉ぢて外物と交はらず、唯だ披閱を以て務めと爲す。朝儀故事、多く取る所有り。

家貧しく、縣を宰めんことを求めて遂げず。永明十年、朝服を脫ぎて神武門に掛け、表を上りて祿を辭す。詔して之を許し、束帛を賜ひ、敕して所在に月に伏苓五斤、白蜜二升を給し、以て服餌に供せしむ。發するに及び、公卿之を征虜亭に祖す。供帳甚だ盛ん、車馬填咽す。咸に雲ふ、宋・齊以來未だ斯の事有らずと。是に於て句容の句曲山に止る。恒に曰く、「此の山下は第八洞宮、名は金壇華陽の天、周回一百五十里。昔漢に咸陽の三茅君道を得て來り此の山を掌る。故に之を茅山と謂ふ」と。乃ち山中に館を立て、自ら號して華陽陶隱居と曰ふ。人間の書劄、即ち隱居を以て名に代ふ。

初めに東陽の孫游岳に従い符図経法を受け、名山を遍歴し、仙薬を尋ね訪れた。身は既に軽捷であり、性は山水を愛し、澗谷を経るごとに必ずその間に坐臥し、吟詠して盤桓し、已むことができなかった。門人に謂って曰く、「我れ朱門広廈を見るも、その華楽を識るといえども、往かんと欲する心なし。高岩を望み、大沢を瞰れば、これが立ち止まること難きを知り、自ら恒に就かんと欲す。かつ永明の中に禄を求めしも、得ては即ち差舛あり。もし然らずば、豈に今日の事を得んや。豈に唯だ身に仙相あるのみならん、亦た勢いのこれを然らしむるに縁るなり」と。沈約が東陽郡守たりしとき、その志節を高くし、累ねて書をしてこれを要したが、至らなかった。

弘景は人となり円通謙謹にして、出処冥会し、心は明鏡の如く、物に遇えば便ち了す。言に煩舛なく、有っても随って覚ゆ。永元の初め、更に三層の楼を築き、弘景はその上に処り、弟子はその中に居り、賓客はその下に至る。物と遂に絶ち、唯一家僮のみその所に至るを得たり。元来馬に便にして射を善くすれども、晩年には皆な為さず、唯だ笙を吹くを聴くのみなり。特に松風を愛し、庭院には皆な松を植え、その響きを聞くごとに、欣然として楽しみと為す。時に独り泉石に遊び、見る者これを仙人と以為えり。

性は著述を好み、奇異を尚び、光景を顧惜し、老いてますます篤し。特に陰陽五行・風角星算・山川地理・方図産物・医術本草に明るく、帝代年暦を著し、算を以て推知して漢の熹平三年丁丑の冬至は、加時に日中に在りとし、而るに天実は乙亥の冬至に、加時に夜半に在り、凡そ三十八刻を差し、これは漢暦が天に後ること二日十二刻なり。又、歴代皆なその先妣母后を取って地祇に配饗するを以て、神理宜しく然るべしと為し、碩学通儒、咸に悟らざる所なり。又、嘗て渾天象を造り、高さ三尺許り、地は中央に居り、天は転じて地は動かず、機を以てこれを動かせば、悉く天と相会す。云く、「修道の須う所、史官の用いるに止まらず」と。深く張良の為人を慕い、云く、「古の賢人に比ぶるなし」と。

斉の末に歌を作りて曰く、「水丑木」と。「梁」の字なり。梁の武帝の兵が新林に至るに及び、弟子の戴猛之を遣わして道を仮り奉表せしむ。及び禅代を議するを聞き、弘景は図讖を援引し、数箇所皆な「梁」の字と成り、弟子をしてこれを進めしむ。武帝は既に早くこれと遊び、即位の後は、恩礼ますます篤く、書問絶えず、冠蓋相望む。

弘景は神符秘訣を得て、以て神丹成るべしと為すも、苦しくして薬物無し。帝は黄金・朱砂・曾青・雄黄等を給す。後に飛丹を合し、色は霜雪の如く、これを服すれば体軽し。及び帝が飛丹を服して験有り、益々これを敬重す。その書を得るごとに、香を焼き虔に受く。帝は年暦を作らしむるに、己巳の歳に至りて朱点を加う、実に太清三年なり。帝は手勅を以てこれを招き、鹿皮巾を賜う。後に屡々礼聘を加うれども、並びに出でず、唯だ両頭の牛を画き、一頭の牛は水草の間に散放し、一頭の牛は金の籠頭を著け、人ありて繩を執り、杖を以てこれを駆る。武帝笑って曰く、「この人は作らざる所無し。尾を曳く亀に学ばんと欲するか、豈に致すべき理あらんや」と。国家吉凶征討の大事有るごとに、前に諮詢せざること無し。月中常に数信有り、時人これを山中の宰相と謂う。二宮及び公王貴要の参候相継ぎ、贈遺未だ時に脱せず。多くは納受せず、縦え留むる者は即ち功德を作す。

天監四年、積金東澗に移居す。弘景は辟穀導引の法に善く、隠処すること四十許年、年八十を逾えて壮容有り。仙書に云く、「眼の方なる者は寿千歳」と。弘景の末年、一眼時に方なり。曾て夢に仏その菩提記を授くる有りて云く、名を勝力菩薩と為すと。乃ち鄮県の阿育王塔に詣でて自誓し、五大戒を受く。後に簡文が南徐州に臨み、その風素を欽み、後堂に召し至り、葛巾を以て進見せしめ、数日間談論して去り、簡文甚だこれを敬異す。天監の中、武帝に丹を献ず。中大通の初め、又た二刀を献ず。その一名は善勝、一名は威勝、並びに佳宝と為す。

疾無く、自ら逝くべきを知り、逆に亡ぶ日を克ち、仍って告逝の詩を作る。大同二年卒す。時に年八十一。顔色変わらず、屈伸常の如く、香気累日、氛氳山に満つ。遺令す、「既に没すれば沐浴を須いず、床を施すを須いず、止むるに両重の席を地にし、因る所の著る旧衣に、上に生袴裙及び臂衣靺冠巾法服を加う。左肘に録鈴を、右肘に薬鈴を、符を佩して左腋の下に絡わす。腰を繞らして環を穿ち前に結び、符を髻上に釵す。通じて大袈裟を以て衾を覆い首足を蒙る。明器に車馬有り。道人道士並びに門中に在り、道人は左、道士は右。百日の内、夜は常に燈を然し、旦は常に香火す」と。弟子遵いてこれを行う。詔して太中大夫を贈り、諡して貞白先生と曰う。

弘景は術数を妙解し、逆に梁の祚の覆没を知り、預め詩を製して云く、「夷甫は散誕に任じ、平叔は坐して空を論ず。豈に悟らんや昭陽殿、遂に単于宮と作らんとは」と。詩は篋裏に秘し、化後に、門人方やこれを稍や出だす。大同の末、人士競いて玄理を談じ、武事を習わず、後に侯景篡し、果たして昭陽殿に在り。

初め、弘景の母、青龍の尾無く、自ら天に升るを夢み、弘景果たして妻せず子無し。従兄の子松喬を以て嗣がしむ。著す所の学苑百巻、孝経・論語集注・帝代年暦・本草集注・効験方・肘後百一方・古今州郡記・図像集要及び玉匱記・七曜新旧術疏・占候・合丹法式、共に秘密にして伝えず、及び撰して未だ訖らざるもの又十部、唯だ弟子これを得たり。

時に沙門の釈宝志なる者有り、何の許の人なるかを知らず、宋の泰始の中にこれを見る者有り、鍾山に出い入りし、都邑に往来し、年既に五六十なり。斉・宋の交、稍や霊跡を顕わし、髪を被り跣足に徒し、語黙倫を同じくせず。或いは錦袍を被り、飲啖凡俗と同じくし、恒に銅鏡剪刀鑷属を以て杖に掛け負いて趍る。或いは酒肴を征索し、或いは累日食わず、未だ兆さざるを預言し、他心の智を識る。一日の中に分身して所を易え、遠近驚き赴き、居る所噂誻たり。斉の武帝その衆を惑わすを忿り、収めて建康の獄に付す。旦日、咸に市里に遊行するを見る。既にして検校するも、猶獄中に在り。その夜、又た獄吏に語りて曰く、「門外に両輿の食有り、金缽飯を盛る、汝取り得べし」と。果たして是れ文恵太子及び竟陵王の子良の供養する所なり。県令の呂文顯以て武帝に啓し、帝乃ち迎えて華林園に入る。少時忽ち重ねて三布の帽を著く、亦た何に於いてか之を得しを知らず。俄かに武帝崩じ、文恵太子・ 章文献王相継いで薨じ、斉も亦たこの季に於いてなり。

霊和寺の沙門釈宝亮、納被を以てこれに遺さんと欲すも、未だ言う有らざるに、宝志忽ち来たりて被を牽き去る。蔡仲熊嘗て仕えて何所に至るかを問う。了って自ら答えず、直ちに杖頭の左索の繩を解きてこれに擲ち与う。これを解く者無し。仲熊尚書左丞に至り、方に言の験を知る。

永明の中、東宮後堂に住し、平旦門より出入す。末年忽ち云く、「門上に血衣を汚す」と、裳を褰ぎて走り過ぐ。郁林の害を見るに至り、果たして犢車を以て屍を載せてこの門より出で、故閹人徐龍駒の宅に舎し、而して帝の頸血門限に流る。

梁の武帝は特に深く敬い仕え、かつて年祚の遠近を問うた。答えて曰く、「元嘉、元嘉。」帝は欣然とし、享祚が宋の文帝の年数を倍するものと為す。鬚髪を剃りながらも常に冠帽を戴き、下裙に納袍を着けたので、俗に志公と称された。讖記を好んで為し、所謂る志公符これなり。高麗これを聞き、使いを遣わして綿帽を齎らし供養せしむ。

天監十三年に卒す。将に死せんとするに、忽ち寺の金剛像を移して戸外に置き、人に語りて云く、「菩薩まさに去らんとす。」旬日にして疾無くして終わる。先に琅邪の王筠が荘厳寺に至るや、宝志これに遇い、交言歓飲す。亡するに及び、勅命して筠に碑を為さしむ。蓋し先覚なり。

諸葛璩

諸葛璩は字を幼玫と為し、琅邪陽都の人なり。世々京口に住す。璩は幼くして征士関康之に事え、経史に博く渉る。復た征士臧栄緒に師事す。栄緒は晋書を著し、璩に発擿の功有りと称し、之を壺遂に比す。

斉の建武初め、南徐州行事江祀、璩を明帝に薦め、言うに璩は貧に安んじて道を守り、礼を悦び詩を敦くす、其の簡退の如きは、清きを揚げて俗を励ますべしと。議曹従事に辟せんことを請う。帝これを許す。璩は辞して赴かず。陳郡の謝朓は東海太守と為り、教を下して其の風概を揚げ、穀百斛を餉る。梁の天監中、秀才に挙げらるるも、就かず。

璩は性、誨誘に勤み、後生就学する者日に至る。居宅は狭陋にして、以て之を容るる無し。太守張友が為に講舎を起つ。璩は身を処すること清正にして、妻子も喜慍の色を見せず、旦夕孜孜として、講誦輟まず、時人益々此を以て之を宗とす。家に卒す。璩の著す所の文章二十巻、門人劉暾集めて之を録す。

劉慧斐

劉慧斐は字を宣文と為し、彭城の人なり。父は元直、淮南太守。慧斐は少くして博学、文を属する能くし、起家して梁の安成王法曹行参軍と為る。嘗て都に還るに、途尋陽を経て、匡山に游び、処士張孝秀に遇い、相得ること甚だ歓び、遂に終焉の志有り。因りて仕えず、東林寺に居る。又た山北に園を一区構え、号して離垢園と曰い、時人仍ち離垢先生と謂う。

慧斐は特に釈典に明るく、篆隸に工なり。山に在りて手ずから仏経二千余巻を写し、常に誦する所は百余巻。昼夜行道し、孜孜として怠らず、遠近之を欽慕す。簡文、江州に臨み、几杖を以て遺る。論者云く、遠法師の没後将に二百年にして、始めて張・劉の盛有りと。元帝及び武陵王等、書問絶えず。大同三年に卒す。

慧斐の兄慧鏡、安成内史。初め、元直郡に居りて罪を得、慧鏡歴て朝士に詣りて哀を乞い、懇惻甚だ至り、遂に孝を以て聞こゆ。

子曇淨は字を元光と為し、篤行父の風有り、褐を解きて安成王国左常侍と為る。父郡に卒す。曇淨喪に奔り、食飲せざること累日、絶えて又た蘇り、哭する毎に輒ち血を嘔す。服闋し、因りて毀ちて疾と成る。会に詔有りて士姓各四科を挙ぐ。曇淨の叔父慧斐、孝行を以て応ずるに挙ぐ。武帝用いて海寧令と為す。曇淨又た兄未だ県と為らざるを以て、因りて兄に譲る。乃ち安西参軍を除く。

父亡せし後、母に事えること尤も淳至にして、身自ら餐粥を営み、以て人に委せず。母疾有れば、衣帯を解かず、母亡するに及び、水漿を口にせざること殆ど一旬。母の喪を権に薬王寺に瘞す。時天寒く、曇淨身に単布衣を衣、瘞所に廬す。昼夜哭臨し声を絶やさず、哀行路を感ぜしめ、期に及ばずして卒す。

范元琰

范元琰は字を伯珪と為し、一字は長玉、呉郡銭塘の人なり。祖は悦之、太学博士に征せらるるも至らず。父は霊瑜、父の憂に居りて毀ちて卒す。元琰時に童孺、哀慕礼を尽くし、親党之を異とす。長じて学を好み、経史に博通し、兼ねて仏義に精しく、然れども謙敬にして以て其の長を人に驕らず。祖母癰を患う、恒に自ら含吮す。人と言うに常に物を傷つけんことを恐る。家に居て城市に出でず、独居するも賓客に対するが如く、見る者改容して之を憚らざるは莫し。

家貧しく、唯だ園蔬を以て業と為す。嘗て出行し、人の其の菘を盗むを見て、元琰遽かに退き走る。母其の故を問う。具に実を以て答う。母盗者誰なるかを問う。答えて曰く、「向に退きし所以は、其の愧恥するを畏るるなり。今其の名を啓けば、泄らさざらんことを願う。」是に於いて母子之を秘す。或いは溝に渉りて其の筍を盗む者有らば、元琰因りて木を伐りて橋と為し以て之を度らしむ。是より盗者大いに慚じ、一郷復た草窃無し。

斉の建武の初め、曹武平西参軍に召されたが、赴任しなかった。当時、始安王蕭遙光が揚州にあり、徐孝嗣に言った、「曹武の参軍など、礼賢の職であろうか」と。西曹書佐をもって招聘しようとしたが、遙光が敗れたため果たせず、当時の人はこれを恨んだ。沛国の劉瓛は深く器異し、かつて上表して称揚した。天監九年、県令の管慧辯がその義行を上言し、揚州刺史の臨川王蕭宏が辟命したが、赴任せず。家で没した。

庾詵

庾詵は字を彦宝といい、新野の人である。幼い頃から聡明で学問に篤く、経史百家に通暁しないものはなかった。緯候・書射・棋算・機巧は、いずれも当時の絶技であった。しかし性質は簡素を好み、特に林泉を愛し、十畝の宅地のうち、山と池が半分を占めた。粗食と粗衣で、産業を営まなかった。火災に遭った時は、ただ数箱の書を運び出して池の畔に座り、火が迫ってくる者があれば、「ただ竹を損なうのを恐れるのみ」と答えた。船で沮中の山舎から帰る時、米百五十石を積んだ。ある人が三十石を託したが、宅に着くと、託した者が言った、「あなたは三十斛、私は百五十斛だ」と。詵は黙って何も言わず、好きなだけ取らせた。隣人が盗みの誣告を受け、弾劾されて虚偽の自白をした。詵はこれを哀れみ、書物を質に入れて銭二万を得て、門生にその親族を装わせ、代わって償わせた。隣人は赦免され詵に謝したが、詵は言った、「私は天下の無辜を哀れんだのであって、謝礼を期待したわけではない」。

梁の武帝は若い頃詵と親しく、挙兵した時、平西府記室参軍に任じたが、詵は屈しなかった。平生、交遊は少なく、河東の柳惲が交わりを求めても、拒んで受け入れなかった。普通年間、詔により黄門侍郎に任じられたが、病気と称して起たなかった。晚年は特に仏教に帰依し、宅内に道場を設け、礼懺を繰り返し、六時にわたって絶えなかった。法華経を誦し、毎日一遍を読んだ。後にある夜、突然一人の道人(願公と自称)が現れ、容姿が甚だ異様で、詵を上行先生と呼び、香を授けて去った。中大通四年、寝ているうちに突然驚いて覚め、「願公がまた来た。長く留まれぬ」と言った。顔色は変わらず、言い終わって亡くなった。七十八歳であった。家中の者が皆、空中で「上行先生はすでに弥陀の浄土に生まれた」と唱えるのを聞いた。武帝は聞いて詔を下し、貞節処士と諡し、その高潔な節操を顕彰した。

詵の撰したものに、帝暦二十巻、易林二十巻、続伍端休江陵記一巻、晋朝雑事五巻、総抄八十巻があり、世に行われた。

子の曼倩は字を世華といい、早くから良い評判があった。元帝が荊州にいた時、中録事となった。出るたびに帝は常に目で送り、劉之遴に言った、「荊南には確かに君子が多い」と。後に諮議参軍に転じた。著した喪服儀、文字体例、老子義疏、算経及び七曜暦術、並びに作った文章は、合わせて九十五巻である。子の季才は学問と品行があり、承聖年間、中書侍郎の位に至った。江陵が平定されると、例に従って長安に入った。

張孝秀

張孝秀は字を文逸といい、南陽郡宛県の人である。尋陽に移り住んだ。曾祖父は須無、祖父は僧監、父は希で、いずれも別駕従事であった。

孝秀は身長六尺余りで、色白く眉鬢が美しく、州の中従事史に仕えた。刺史の陳伯之が反乱を起こすと、孝秀は州中の士大夫と謀ってこれを襲おうとしたが、事が発覚し、盆水のほとりに逃れた。ある商人が褚(袋)の中に入れ、転々として東林に入った。伯之はその母の郭を捕らえ、蠟を注いで殺した。孝秀は妻妾を去らせ、匡山に入って修行学道した。喪が明けると、建安王が別駕に召したが、職を去って山に帰り、東林寺に住んだ。田数十頃、部曲数百人を持ち、力を田畑に尽くさせ、すべて山の大衆に供給した。遠近から帰依慕う者が、市の如く赴いた。

孝秀の性質は率直で、浮華を好まず、常に穀皮の巾をかぶり、蒲の履を履き、手に並閭皮の麈尾を持ち、寒食散を服用し、厳冬でも石の上に臥した。広く群書に渉猟し、特に仏典に専精した。僧で戒律を破った者がいれば、大衆を仏前に集め、羯磨を行ってこれを鞭打ち、多くは改過した。談論を善くし、隷書に巧みで、あらゆる芸能に通じないものはなかった。普通三年に没し、室内に皆、尋常でない香りがした。梁の簡文帝は甚だ傷悼し、劉慧斐に書を送り、その貞白を述べた。

庾承先

庾承先は字を子通といい、潁川郡鄢陵県の人である。若い頃から沈静で志操があり、是非を言葉にせず、喜怒を顔色に表さず、人は窺い知ることができなかった。弱冠で南陽の劉虯に学び、記憶力が強く識見が鋭敏で、同輩を抜きん出た。玄経(老荘の書)と仏典に通暁しないものはなく、九流七略に精通した。功曹に辟されたが就かず、道士の王僧鎮とともに衡嶽に遊んだ。後に弟の病気のため郷里に帰り、土台山に住んだ。梁の鄱陽忠烈王(蕭恢)が州にいた時、その風味を欽慕し、交遊を求め、老子の講義をさせた。遠近の名僧が皆集まり、論難が鋒を交え、異端の説が競い至ったが、承先はゆるやかに応答し、皆が未だ聞かなかったことを得させた。忠烈王は特に欽重した。

中大通三年、廬山の劉慧斐が荊州に来ると、承先は旧知であったので、これに従って行き、荊陝の学徒が承先に老子を講義するよう請うた。湘東王(蕭繹)が自ら車駕を臨ませて聴講し、論議は終日に及び、一月余り留まってから山に帰った。王は自ら祖道の儀を行い、詩篇を贈り、隠者として称えられた。その年に没し、刺史は厚く贈賻した。門人の黄士龍が辞退して言った、「先師は平生、食は飽くことを求めず、衣は軽いことを求めず、贈られたものは一切受けなかった。臨終の日、家門に戒めて、薄い棺で体を覆い、巾褐をもって納棺するよう言った。賜り物を蒙ったが、軽々しく教えの旨に背き、平生の操りを違えることはできない。銭布は使者に返すよう付す」と。当時の論はこれを高く評価した。

馬樞

馬樞は字を要理といい、扶風郡郿県の人である。祖父の霊慶は、斉の竟陵王の録事参軍であった。

馬枢は数歳にして孤となり、その姑に養育された。六歳にして、孝経・論語・老子を誦することができた。成長すると、経史を博く極め、特に仏経及び周易・老子の義に善くした。梁の邵陵王蕭綸が南徐州刺史となった時、かねてよりその名を聞き、学士として招いた。蕭綸は時に自ら大品経を講じ、馬枢に維摩経・老子・周易を講ぜしめ、同日に題を発し、道俗の聴く者二千人であった。王は極めてその優劣を観ようと欲し、乃ち衆に向かって言った。「馬学士と論義するには、必ず屈服せしめ、空しく客主を立てることを得ざらしめよ。」ここにおいて数家の学者、各々問端を起こす。馬枢は乃ち順次に剖判し、その宗旨を開き、然る後に枝分かれ派別し、転変窮まり無く、論者は拱手黙して聴受するのみで、蕭綸は甚だこれを嘉した。

まもなく侯景の乱に遇い、蕭綸は兵を挙げて台城を援けようとしたが、乃ち書二万巻を留めて馬枢に託した。馬枢は志を肆にして尋ね覧み、殆ど遍くせんとし、乃ち喟然として嘆じて言った。「我聞く、爵位を貴ぶ者は巢父・許由を以て桎梏と為し、山林を愛する者は伊尹・呂尚を以て管庫と為すと。名実を束ねれば則ち芻芥の柱下の言、清虚を翫べば則ち糠秕の席上の説、これを稽うるに篤論も亦各々その好に従うなり。比の志を求むるの士、塗を望みて息む、豈に天の高尚を恵まざるや、何ぞ山林の聞こゆること甚だ無きや。」乃ち茅山に隠れ、終焉の志有り。

陳の天嘉元年、文帝は度支尚書に徴したが、辞して命に応じなかった。時に馬枢の親故は皆京口に居り、毎秋冬の際、時に往きて遊んだ。及んで鄱陽王(陳伯山)が南徐州刺史となると、その高尚を欽み、致すこと能わざるを鄙み、乃ち卑辞厚意を以て、使者をしてこれを邀えしめたが、馬枢は固く疾を以て辞した。門人勧めて請うたので、已むを得ず乃ち行った。王は別に室を築きてこれを処したが、馬枢はその崇麗を悪み、乃ち竹林の間に自ら茅茨を営みて居った。毎に王公の饋餉するも、辞して獲ざるを得ざる者は、率ね十分の一を受けた。

馬枢は少くして乱離に属し、凡そ居処する所、盗賊入らず、依託する者常に数百家であった。目精は黄を洞かし、闇中の物を視る能くした。白晏一雙有り、その庭樹に巣くい、橺廡に馴狎し、時に几案に至り、春来り秋去ること、幾三十年であった。太建十三年に卒した。道覚論を撰して世に行われる。

【論】

論じて曰く、独往の人、皆偏介の性を稟け、志を摧き道を屈して、誉を借り通を期する能わざるなり。若し夫れ信ある主に遇い、時来たる運に逢わば、豈に其れ情を江海に放ち、逸を丘樊に取らんや。已むを得ずして然る故なり。且つ岩壑閑遠、水石清華、復た崇門八襲、高城万雉と雖も、壤を蓄え泉を開き、林澤に髣髴せざるは莫し。故に知る、松山桂渚は素玩に止まらず、碧澗清潭は翻って麗矚を成すことを。冕を東都に掛くるは、夫れ何の難きか之有らん。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻076