南史 巻七十五 列傳第六十五 隱逸上

南史

巻七十五 列傳第六十五 隱逸上

『易経』に君子の道四つありとあるが、それは語ると黙することを言うのである。 ことさら に廟堂に入りて出でざる者あり、江湖に殉じて永く帰する者あり。隠遁の様は紛紜として、その心情と行跡は万品に及ぶ。もし道義が内に充足し、希微(有無)の両者が亡く、姿を窮巖に隠し、名を愚谷に蔽い、仁義の桎梏を解き、形神を天壤に示すならば、名教の外に別に風猷がある。故に堯の封ずる所に非聖の人あり、孔門には鶏黍の客を謬る。次には独往の高節を揚げ、去就の虚名を重んずる。あるいは後悔を全うするを慮り、事は知殆に帰し、あるいは道の申さざるあり、山沢を行きて吟ずる。皆、宇宙を用いて心を成し、風雲を借りて気と為す。志を求め道を通さんとするは、未だ或いは然らずとせざるなり。故に須らく貞を含み素を養い、文を以て藝業と為すべし。然らずんば、則ち夫れ山に在る樵者と、何の異なることかあらん。陶潜の徒の如きは、或いは仕えて聞こえを求めず、退いて俗を譏せず。或いは身を全うして幽履し、道に服して儒門にあり。或いは跡を江湖の上に遁らし、或いは名を巌石の下に蔵す。これらは皆、向時の隠淪の徒であろうか。今並びに綴緝して、以て『隱逸篇』を備う。また斉・梁の際に、釈宝志という者あり。顕晦に処するに非ざれども、道は希夷に合し、その行事を求めれば、蓋し亦た俗外の徒なり。故にこれを附す。

陶潜

陶潜、字は淵明、或いは字は深明、名は元 あきら という。尋陽郡柴桑の人、晋の大司馬陶侃の曾孫である。少より高き趣あり、宅の辺に五本の柳樹ありし故に、常に『五柳先生伝』を著して云う。

その自序はかくの如し。蓋し以て自ら況したるなり。時人はこれを実録と謂う。

親老いて家貧しく、州の祭酒として起用されたが、吏職に堪えず、少日にして自ら解いて帰った。州は主簿に召したが、就かず、躬耕して自ら資し、遂に よわ 疾を抱えた。江州刺史檀道済が往きて候うたところ、偃臥し瘠餒すること日ありし。道済謂いて曰く、「夫れ賢者の に処するは、天下道なきときは隠れ、有道のときは至る。今子は文明の世に生まるるに、奈何ぞ自らかくの如く苦しむや」と。対えて曰く、「潜や何ぞ敢て賢を望まん、志及ばざるなり」と。道済は粱肉を饋したが、麾してこれを去らしめた。

後に鎮軍・建威参軍となった。親朋に謂いて曰く、「聊か弦歌せんと欲し、以て三径の資と為さん。可ならんや」と。執事者これを聞き、彭沢令と為した。家累を以て自ら随わず、一力(一人の労力者)を送ってその子に給し、書して曰く、「汝の旦夕の費、自ら給するは難し。今この力を遣わし、汝の薪水の労を助く。此も亦た人の子なり。善く遇うべし」と。公田は悉く吏に命じて秫稻を種えさせたが、妻子固く粳を種えんことを請うたので、乃ち二頃五十畝に秫を種え、五十畝に粳を種えさせた。

郡より督郵が県に至った。吏が白して帯を束ねてこれに会うべきと告げた。潜歎じて曰く、「我は五斗の米の為に腰を折りて郷里の小人に向かう能わず」と。即日、印綬を解き職を去り、『帰去来の賦』を賦して以てその志を遂げ、曰く。

義熙の末、著作佐郎に徴されたが就かなかった。江州刺史王弘は彼と識りたかったが、致すことができなかった。潜嘗て廬山に往かんとしたとき、弘は潜の故人龐通 に酒具を齎らしめ、半道の栗裏でこれを要した。潜は脚疾あり、一門生と二児に籃轝を挙げさせた。至るに及んで、欣然として便ち共に飲酌し、俄頃にして弘至るも、亦た忤うること無かりき。

先だって、顔延之が劉柳の後軍功曹であったとき、尋陽にて潜と情款を通わせた。後に始安郡太守となり、潜の所を経過する毎に、往くこと必ず酣飲して酔いに致した。弘は延之を一座に招かんと欲したが、弥日(一日中)得ず。延之の臨去するに当たり、二万銭を潜に留めた。潜は悉くこれを酒家に送り、稍々就きて酒を取りし。嘗て九月九日に酒無く、宅辺の菊叢の中に出でて坐すること久し。弘の酒を送り至るに逢い、即ち便ち就きて酌み、酔いて後ち帰った。

潜は音声を解さず、而して素琴一張を畜えた。毎に酒 うこと有れば、輒ち撫弄して以てその意を寄せた。貴賤これを造る者、酒有れば輒ち設けた。潜若し先に酔えば、便ち客に語りて曰く、「我酔いて眠らんと欲す。卿去るべし」と。その真率なることかくの如し。郡将が潜を候うたとき、その酒熟するに逢い、頭上の葛巾を取って酒を漉し、畢りて、還た復たこれを著けた。潜は弱年に薄宦し、去就の跡を潔くせず。自ら曾祖が晋世の宰輔たりしを以て、復た後代に屈身するを恥じ、宋武帝の王業漸く隆んずるより、復た肯て仕えず。著す所の文章は、皆その年月を題す。義熙以前は、明らかに晋氏の年号を書き、永初以来は、唯だ甲子を云うのみであった。子に与うる書に以てその志を言い、並びに訓戒として曰く。

元嘉四年、復た徴命せんとす、会して卒す。世は靖節先生と号す。その妻翟氏、志趣亦た同じく、苦節に安んずる能く、夫は前に耕し、妻は後に鋤くと云う。

宗少文

宗少文、南陽郡涅陽の人である。祖父の承は、宜都太守。父の繇之は、湘郷令。母は同郡の師氏、聡明で弁があり学義有り、諸子を教授した。

少文は喪に居ることを善くし、郷里に称せられた。宋の武帝が劉毅を誅し、荊州を領すると、毅の府の諮議参軍申永に問うて曰く、「今日何を施せば可ならんや」と。永曰く、「其の宿釁を除き、其の恵沢を倍にし、門次を貫敘し、才能を顕擢する、此れのみ」と。武帝之を納れ、乃ち少文を辟して主簿と為さんとす、起たず、其の故を問う。答えて曰く、「丘に棲み穀に飲むこと、三十余年」と。武帝其の対を善しとして止む。

少文は琴書図画に妙善にして、言理に精しく、毎に山水に遊び、往きて輒ち帰るを忘る。征西長史王敬弘は毎に之に従うも、未だ嘗て弥日ならざること無し。乃ち下りて廬山に入り、釈慧遠に就きて文義を考尋す。兄臧は南平太守と為り、逼めて俱に還らしむ、乃ち江陵の三湖に宅を立て、閑居して事無し。武帝召して太尉行参軍と為さんとし、驃騎道憐は命じて記室参軍と為さんとす、並びに就かず。

二兄早く卒し、孤累甚だ多く、家貧にして以て相 う無く、頗る稼穡を営む。人の餉遺有るも、並びに之を受く。武帝は南郡長に勅して吏役を給せしめ、又数たび餼賚を致す。後ち子弟禄に従うに及び、乃ち悉く復た受けず。武帝開府して辟召し、書を下して少文を召し、雁門の周続之と並びに太尉掾と為さんとす、皆起たず。宋の受禅及び元嘉中頻りに征す、並びに応ぜず。妻羅氏も亦た高情有り、少文と趣を協う。羅氏没し、少文之を哀しむこと過甚なり、既にして乃ち悲情頓に釈る、沙門釈慧堅に謂ひて曰く、「死生の分は、未だ易くして達す可からず、三たび至教を復するも、方能く哀を遣る」と。衡陽王義季荊州と為り、親しく其の室に至り、之と歓宴し、命じて諮議参軍と為さんとす、起たず。山水を好み、遠遊を愛し、西は荊・巫に陟り、南は衡嶽に登り、因りて衡山に宇を結び、尚平の志を懐かんと欲す。疾有りて江陵に還り、歎じて曰く、「老疾俱に至る、名山恐らくは遍く睹し難からん、唯だ懐を澄まして道を観、臥して以て之を遊ばん」と。凡そ遊履する所は、皆之を室に図す、之を謂ひて「琴を撫で操を動かし、衆山皆響かしめんと欲す」と。古に金石弄有り、諸桓に重んぜられ、桓氏亡びて、其の声遂に絶ゆ、唯だ少文之を伝う。文帝楽師楊観を遣わして就きて之を受けしむ。少文の孫測も亦た祖の風有り。

測は字は敬微、一字は茂深、家は江陵に居る。少より静退にして、人間を楽しまず。歎じて曰く、「家貧しく親老ゆ、官を択ばずして仕ふるは、先哲以て美談と為す、余窃かに惑ひ有り。誠に能く潜かに地金を感ぜず、冥かに江鯉を致さず、但だ当に天の道を用ひ、地の利を分つべし。孰か能く人の厚禄を食み、人の重事を憂へんや」と。

斉の驃騎 章王嶷は征して参軍と為さんとす、起たず、測は府に答えて云く、「何為れぞ謬りて海鳥を傷け、横に山木を斤せん」と。母喪し、身自ら土を負ひ、松柏を植う。嶷復た書を遣わして之を請ふ、辟して参軍と為さんとす。測答えて曰く、「性は鱗羽に同じく、愛は山壑に止まり、松雲を眷恋し、軽く人路に迷ふ。岩流に縱宕し、狂者の若き有り、忽ちとして老の至るを知らず。而るに今鬢已に白し、豈に虚を課し有を責め、魚鳥の慕ひを限らんや」と。

永明三年、詔して太子舎人を征す、就かず。名山に遊ばんと欲し、乃ち祖少文の作れる尚子平図を壁上に写す。測の長子賓は宦に在都し、父の此の旨を知り、便ち禄を求めて還り南郡丞と為り、測遂に家事を付す。刺史安陸王子敬、長史劉寅以下皆之に贈送す、測は受くる所無し、老子、莊子の二書を齎して自ら随ふ。子孫拜辞して悲泣す、測は長嘯して視ず、遂に廬山に往き、祖少文の旧宅に止る。

魚復侯子響は江州と為り、厚く贈遺を遣わす。測曰く、「少より狂疾有り、山を尋ね薬を採り、遠く来りて此に至る、腹を量りて松術を進め、形を度りて薜蘿を衣し、淡然として已に足る、豈に当に此の横施を受けんや」と。子響は命駕して之を造る、測見えず。後ち子響告げずして来り、奄として住む所に至る、測已むを得ず、巾褐を以て之に対ひ、 つい に言を交へず。子響悦ばずして退く。侍中王秀之は弥に欽慕する所有り、乃ち陸探微に命じて其の形を画かしめて己と相対せしめ、又書を貽して曰く、「昔人有りて僑・劄を図画し、軽く以て自ら方ふ耳」と。王儉も亦た雅に之を重んじ、蒲褥筍席を以て贈る。

頃く之を、測は弟の喪を送りて西に還り、 なお ち旧宅永業寺に留まり、賓友を絶ち、唯だ同志の庾易、劉虯、宗人の尚之等と往来して講説す。荊州刺史随王子隆鎮に至り、別駕宗忻を遣わして口を以て労問を致す。測笑ひて曰く、「貴賤理を隔つ、何ぞ以て此に及ばん」と。竟に答へず。建武二年、征して 司徒 しと 主簿と為さんとす、就かず、卒す。

測は画を善くし、自ら阮籍の蘇門に遇ふを図りて行鄣上にし、坐臥之に対ふ。又永業の仏影台を画き、皆妙作と為る。音律を好み、易・老に善く、皇甫謐の高士伝三巻を継ぐ。嘗て衡山の七嶺に遊び、衡山・廬山記を著す。尚之は字は敬文、亦た山沢を好み、征辟に一も就く所無く、寿を以て終る。

彧之は字は叔粲、少文の従父弟なり。早く孤と為り、兄に事ふること恭謹なり。家貧しくて学を好み、文義は少文に逮ばざれども、真澹は之に過ぐ。征辟に一も就く所無し。宋の元嘉初、大使陸子真風俗を観采し、三たび彧之に詣る。毎に疾を辞して見えず、人に告げて曰く、「我は布衣草萊の人、少くより壟畝に長ず、何ぞ宜しく軒冕の客を枉げんや」と。子真還り、表して之を薦む、又征に就かず。家に卒す。

沈道虔

沈道虔は、呉興武康の人なり。少より仁愛にして、老・易を好み、県北の石山下に居る。孫恩の乱後饑荒に、県令庾肅之迎へ出でて県南の廃頭裏にし、宅を立てて溪に臨ましめ、山水の玩有らしむ。時に復た石山の精廬に還り、諸の孤兄子と共に釜庾の資を為し、困して節を改めず。琴を戴逵に受け、王敬弘深く之を貴重す。郡州府凡そ十二命す、皆就かず。

人其の園菜を窃む者有り、外より還りて之を見る、乃ち自ら逃げ隠れ、窃む者の去りたる後を待ちて乃ち出づ。人又其の屋後の大筍を抜く、人をして之を止めしむ、曰く、「此の筍を惜しみて林と成らしめんと欲す、更に佳き者有らば相与へん」と。乃ち人をして大筍を買ひて之に送らしむ、盗者は慚じて取らず、道虔して其の門内に置かしめて還る。常に捃拾を以て自ら資とす、同捃する者或は穟を争ふ、道虔之を諫むるも止まず、悉く其の得る所を以て之に与ふ。争ふ者愧恧し、後ち毎に争ふ輒ち云く、「居士に知らしむる勿れ」と。冬月復た衣無し、戴顒聞きて之を迎へ、衣服を為り、並びに銭一万を与ふ。及び還るに、身上の衣及び銭を分ちて悉く諸の兄弟子の衣無き者に供す。

郷里の少年相率いて学を受く、道虔は常に食無くして以て学徒を立つ。武康令孔欣之厚く相資給し、受業者咸に成るを得たり。宋の文帝之を聞き、使を遣わして存問し、銭三万、米二百斛を賜ひ、悉く孤兄子の嫁娶に供す。員外散騎侍郎を征す、就かず。

累世事仏し、父祖の旧宅を推して寺と為す。四月八日に至りて毎に像を請ふ、像を請ふの日は、輒ち挙家感慟す。

道虔は年老いて菜食し、常に一日を過ごすほどの資産もなかったが、琴と書を楽しみとして、倦むことなく学び続けた。文帝は郡県に命じて時宜に応じて物資を給付させた。死去した。子の慧鋒は父の業を修め、州の辟召には応じなかった。

孔淳之

孔淳之、字は彦深、魯の人である。祖父の惔は尚書祠部郎であった。父の粲は秘書監に徴されたが、就任しなかった。

淳之は若くして高尚な志を持ち、古典籍を愛好し、太原の王恭に称賛された。会稽郡剡県に住んだ。性来山水を好み、遊ぶたびに必ずその幽邃な峻険を極め、あるいは十日も帰るのを忘れた。かつて山に遊んだとき、沙門の釈法崇に出会い、そのまま共に留まって住み、三年間滞在した。法崇は嘆じて言った、「俗世を離れた境地を三十年も思い慕っていたが、今ここで初めて出会い、老いの至らんとするを覚えず」と。淳之が帰るとき、姓を告げなかった。著作佐郎・太尉参軍に任じられたが、いずれも就任しなかった。

喪に服すること極めて孝行で、墓の傍らに廬を結んだ。喪が明けると、徴士の戴顒・王弘之および王敬弘らと共に俗世を離れた交遊をし、さらに婚姻によって結ばれた。敬弘は娘を淳之の子の尚に嫁がせ、烏羊を乗せた車の轅に縛り付け、壺を提げて礼とした。到着すると歓を尽くして共に飲み、日暮れになって帰った。ある人がこのようにするのを怪しんだが、答えて言った、「これもまた農夫田父の礼である」と。

会稽太守の謝方明は苦労して招いたが来られず、使者に言わせた、「もし我が郡に入らないなら、なぜ我が城郭に入るのか」と。淳之は笑って言った、「潜って泳ぐ者はその水を識らず、巣に棲む者はその林を弁えず、飛び沈むところに至れば、どうしてその主を問わんや」と。終に往くことを肯わなかった。茅葺きの家に蓬の戸、庭には草が径を覆い、ただ床上に数帙の書があるのみであった。元嘉の初め、再び散騎侍郎に徴されたが、上虞県の境界に逃れ、家人もその所在を知らなかった。弟の默之が広州刺史となり、出都する際に別れを告げようとしたが、 司徒 しと の王弘が淳之を冶城に集めようとすると、即日に車を東に向けて帰り、遂に顧みなかった。元嘉七年に卒した。

默之は儒学に通じ、穀梁春秋に注を施した。默之の子の熙先については、范曄伝に事績がある。

周續之

周續之、字は道祖、雁門郡広武県の人である。先祖は江を渡り、 章郡建昌県に住んだ。續之は八歳で母を喪い、その哀戚は成人を超え、兄に仕えること父のごとくした。 章太守の范甯が郡に学を立て、生徒を招集すると、遠方から来る者が甚だ多かった。續之は十二歳の時、甯のもとに赴いて学業を受けた。学に居ること数年、五経・五緯に通じ、十経と号し、名は同門に冠たり、顔子と称された。やがて閑居して老子・易経を読み、廬山に入り沙門の釈慧遠に師事した。時に彭城の劉遺人が廬山に遁跡し、陶深明もまた徴命に応じず、これを尋陽の三隠と称した。劉毅が姑孰に鎮すると、撫軍参軍に任じ、太学博士に徴されたが、いずれも就任しなかった。江州刺史がたびたび招請すると、續之は峻厳な節義を尊ばず、しばしばその交遊に従った。常に嵇康の高士伝によって出処進退の美を得たとして、これに注を施した。

武帝が北討するとき、世子が居守し、續之を迎えて安楽寺に館し、礼を講じるよう請い入れたが、一月余りで再び山に帰った。江州刺史の劉柳が武帝に推薦し、まもなく太尉掾に辟されたが、就任しなかった。武帝が北伐し、彭城に還って鎮すると、使者を遣わして迎え、礼遇と賜物は甚だ厚く、常に言った、「真の高士である」と。まもなく再び南に帰った。武帝が践祚すると、再び召し出した。上は東郭外に学館を開き、生徒を招集し、みずから車を降りて行幸し、諸生と共に会い、續之に礼記の「傲不可長」と「我に九齢を与う」「矍圃に射る」の義を問うと、弁析は精妙深遠で、名通と称された。

續之は平素より風痹を患い、もはや講義に耐えられず、病と称して鍾山に移った。景平元年に卒した。毛詩の六義および礼論に通じ、公羊伝に注を施し、いずれも世に伝わった。子はない。兄の子の景遠は續之の風があった。

戴顒

戴顒、字は仲若、譙郡銍県の人である。父の逵、兄の勃は共に隠遁して高名があった。顒は十六歳で父の憂いに遭い、ほとんど身を滅ぼすほどで、これにより長く羸弱な病を抱えた。父が仕えなかったので、その業を修めた。父は琴と書に優れ、顒はこれを伝えた。およそ諸々の音律は、皆手を揮うだけで奏でることができた。会稽郡剡県には名山が多いため、代々剡の地に住んだ。顒と兄の勃は共に父から琴を学び、父が没すると、伝えられた曲は忍びず再び奏でず、それぞれ新たな曲を作った。勃は五部を、顒は十五部を制作し、顒はさらに長弄一部を制作し、いずれも世に伝わった。中書令の王綏がかつて客を連れて訪れたとき、勃らは豆粥をすすっていた。綏が「卿が琴に優れると聞く、試しに一曲聴きたい」と言うと、答えず、綏は恨んで去った。

桐廬県にもまた名山が多く、兄弟は再び共に遊び、そのまま留まって住んだ。勃が病にかかり、医薬が乏しいことを憂えた。顒は勃に言った、「顒は兄に従って閑居を得たのであり、語るも黙するも心に留めていたわけではない。兄が今重篤で、療治する手立てがないなら、顒は禄を求めて自らを救おう」と。そこで海虞令を求め、事が行なわれようとしたときに勃が卒したので、やめた。桐廬は僻遠で、病を養い難く、そこで出て呉の地に住んだ。呉の地の士人たちが共に家を築き、石を積み水を引き、林を植え澗を開くと、間もなく繁茂し、自然のようであった。そこで荘周の大旨を述べ、逍遥論を著し、礼記中庸篇に注を施した。三呉の将守や郡内の士大夫たちが野沢に共に遊ぶよう招くと、行けるときには行き、わざとらしい狷介はせず、衆論はこれをもって彼を称えた。

宋国が初めて建てられたとき、元嘉年間に徴されたが、いずれも就任しなかった。衡陽王の義季が京口に鎮すると、長史の張邵が顒と姻戚関係にあり、迎えて黄鵠山に住まわせた。山の北に竹林精舎があり、林と澗が甚だ美しく、顒はこの澗に憩った。義季はたびたび彼と交遊し、顒は野服を着て、常の態度を改めなかった。義季のために琴を弾き、新声変曲を奏でた。その三調遊弦・広陵・止息の類は、皆世のものと異なっていた。文帝はたびたび彼に会いたがり、黄門侍郎の張敷に言った、「我が東巡の日には、戴公の山下で宴を設けよう」と。その音楽を好むことから、常に正声伎一部を給した。顒は何嘗・白鵠の二声を合わせて一調とし、清曠と号した。

漢代より始めて佛像ありしも、形制未だ巧みならず、戴逵は特に其の事を善くし、戴顒も亦之に参ず。宋の世子、丈六の銅像を瓦官寺に鑄く。既に成りて、面の瘦せたるを恨み、工人改むること能はず、乃ち戴顒を迎へて之を見しむ。顒曰く、「面瘦せしに非ず、乃ち臂胛肥えたるのみ。」臂胛を減ずるに及んで、瘦せの患ひ即ち除かれ、嘆服せざる者なし。十八年に卒す。子無し。景陽山成るに、顒は既に亡し。上歎じて曰く、「恨むらくは戴顒をして之を觀ぜしめざるなり。」

翟法賜

翟法賜は、尋陽柴桑の人なり。曾祖の湯、祖の莊、父の矯、並びに高尚にして仕へず、徵辟を逃避す。法賜は少くして家業を守り、室を廬山の頂に立つ。親喪の後、便ち復た家に還らず、五穀を食はず、獸皮及び結草を以て衣と為し、郷親中表と雖も之を見ることを得ず。徵辟一も就く所無し。後家人石室に至りて尋ね求むるに、因りて復た遠く徙り、徵聘を違避し、跡を幽深に遁れ、岩石の間に卒す。

雷次宗

雷次宗は、字は仲倫、 章南昌の人なり。少くして廬山に入り、沙門釋慧遠に事へ、志を篤くして學を好み、特に三禮・毛詩に明るし。隱退して徵辟を受けず。

宋の元嘉十五年、都に徵せられ、雞籠山に館を開き、徒を聚めて教授し、生を百餘人置く。會稽の朱膺之・潁川の庾蔚之並びに儒學を以て諸生を總監す。時に國子學未だ立たず、上藝文に留意し、丹陽尹何尚之をして玄學を立たしめ、太子率更令何承天をして史學を立たしめ、 司徒 しと 參軍謝元をして文學を立たしめ、凡そ四學並びに建つ。車駕數たび次宗の館に至り、資給甚だ厚し。久しうして廬山に還る。公卿以下並びに祖道を設く。後又た都に徵詣し、鍾山の西巖下に室を築きて之を招隱館と謂ひ、皇太子・諸王の為に喪服經を講ぜしむ。次宗公門に入らず、乃ち華林東門より入りて延賢堂に就きて業を修めしむ。二十五年、鍾山に卒す。子の肅之頗る其の業を傳ふ。

郭希林

郭希林は、武昌の人なり。曾祖の翻、 しん の世高尚にして仕へず。希林は少くして家業を守り、徵召一も就く所無く、卒す。子の蒙も亦隱居して仕へず。

劉凝之

劉凝之は、字は隱安、小名は長生、南郡枝江の人なり。父は期公、衡陽太守。兄は盛公、高尚にして仕へず。

凝之は老萊・嚴子陵の爲人を慕ひ、家財を推して弟及び兄の子に與へ、屋を野外に立て、其の力に非ざれば食はず。州裏其の行ひを重んじ、辟召一も就く所無し。妻は梁州刺史郭銓の女なり。遣送豐麗なるも、凝之悉く之を親屬に散ず。妻も亦榮華を慕はざる能不く、凝之と共に儉苦に居る。夫妻共に蒲笨車に乘り、市に出でて買易し、周用の外は、輒ち以て人に施す。村裏に誣はるる爲め、一年に三たび公調を輸し、求むれば輒ち之に與ふ。又嘗て人其の著くる屐を認むる有り。笑ひて曰く、「僕の著くる已に敗れたり、家中に新しきものを覓めて君に備へしむ。」此人後ち田中所失の屐を得て、送り還すも肯て復た取らず。

臨川王義慶・衡陽王義季江陵に鎮す。並びに使を遣はして存問す。凝之答書に頓首して僕と稱し、百姓の禮を爲さず。人或は之を譏る。凝之曰く、「昔老萊楚王に向ひて僕と稱し、嚴陵も亦光武に禮を抗す。未だ巢・許の堯・舜に臣と稱するを聞かず。」時に戴顒衡陽王義季に與ふる書も亦僕と稱す。荊州年饑す。義季凝之の餒斃するを慮り、錢十萬を餉る。凝之大喜し、錢を將て市門に至り、饑色有る者を觀て悉く之に分ち與ふ。俄頃に立盡く。

性山水を好む。一旦妻子を攜へて江湖に泛び、衡山の陽に隱居す。高嶺に登り、人跡を絕ち、小屋を爲して之に居る。藥を采り服食し、妻子皆其の志に從ふ。年五十九に卒す。

龔祈

龔祈は字は孟道、武陵漢壽の人なり。從祖の玄之、父の黎人、並びに徵辟に應ぜず。祈は風姿端雅、容止觀る可し。中書郎範述之を見て歎じて曰く、「此れ荊楚の仙人なり。」少より長に及び、徵辟一も就く所無し。時に或は詩を賦すも、言世事に及ばず。年四十二に卒す。

朱百年

朱百年は会稽郡山陰県の人である。祖父の凱之は、晋の左衛将軍であった。父の濤は、揚州主簿であった。

百年は若くして高潔な志操を持ち、父母が亡くなり喪が明けると、妻の孔氏を連れて会稽郡の南山に入り、薪を伐り笹の葉を採ることを業とした。常に薪と笹の葉を道端に置くと、すぐに行人に取られてしまうが、翌朝になるとまた同じように置かれているので、人々は少し怪しんだ。長い間経ってから、これが朱隠士の売り物であると知り、必要な者はそれぞれの負担できる分だけ、銭を残して薪と笹の葉を取って去った。ある時寒雪に遇い、薪や笹の葉が売れず、自らを養う術がなくなると、自ら船を操って妻を孔氏の家に送り返し、天気が晴れると迎えに行った。時には山陰に出て、妻のために絹織物を五三尺買うこともあった。酒を好み、酔った時にはそれを失うこともあった。玄理をよく論じ、時に詩を詠じ、しばしば優れた言葉があった。人を避けて隠れ住み、ただ同県の孔覬と親しくした。覬もまた酒を嗜み、意気投合すると酒を酌み交わして心ゆくまで楽しんだ。

百年の家は元より貧しく、母が冬の月に亡くなった時、衣服に綿が全く入っておらず、この時以来綿や絹の衣服を着なくなった。かつて寒い時に覬の家に宿泊したことがあり、衣服はすべて二重の布物で、酒を飲んで酔って眠ると、覬が寝具を掛けてやったが、百年は気づかなかった。目覚めた後、寝具を体から引きはがし、覬に言うには、「綿は確かに格別に温かい。」そこで涙を流して悲しみ慟哭したので、覬もまたそのために感傷にふけった。太子舎人に任ぜられたが、就任しなかった。顔竣が東揚州刺史となった時、教令を発して百年に穀物五百斛を贈ったが、受け取らなかった。

当時、山陰にはまた寒門の出身で姚吟という者もおり、高邁な趣向を持ち、士大夫階級に重んじられた。竣が吟に米二百斛を贈ったが、吟もまた辞退した。

百年は山中で没した。蔡興宗が会稽太守となった時、百年の妻に米百斛を贈った。百年の妻は婢を郡の門に遣わして、固く辞退の意を奉ったので、当時の人々はこれを称賛し、梁鴻の妻に比した。

関康之

関康之、字は伯愉、河東郡楊県の人である。代々京口に住み、南平昌郡に籍を寄せた。若くして学問に篤く、容姿は豊かで立派であった。下邳の趙繹が文義で称えられたが、康之は彼と親しくした。特進の顔延之ら当時の名士十数人が山を訪ねて彼を待ったが、彼が髪を振り乱し黄布の頭巾を被り、松の葉を敷き、一塊の白石を枕にして臥しているのを見て、まったく顧みようとしなかった。延之らはため息をついて退き、敢えて干渉しなかった。晋陵の顧悦之が王弼の易義四十余条を難じたが、康之は王を弁護して顧を難じ、道理にかなっていた。また毛詩義を作り、経籍の疑わしい滞った点を多く論釈した。かつて沙門の支僧納に就いて算術を学び、その術を極めた。徴辟されても一切応じず、人事を絶ち、志を守って閑居した。弟の双之が臧質の車騎参軍となり、質と共に下って赭圻に至り、病没し、水辺に葬られた。康之はその時病気が少し快方に向かっていたが、車を引いて喪を迎えに行き、そのため虚労の病を得、二十余年も寝込んだ。時に暇な日があると、臥したまま文義を論じた。

宋の孝武帝が即位すると、大使を遣わして天下を巡行させた。使者が戻り、康之を徴聘すべきであると推薦したが、聞き入れられなかった。康之の性質は清く質素で、独り一室に処し、めったに妻子と会おうとせず、賓客とも通じなかった。弟子はその学業を伝授され、特に左氏春秋に長じていた。斉の高帝が領軍であった時、元よりこの学を好み、写本を康之に送ると、康之は自ら手を加えて校定した。また礼論十巻を撰し、高帝は非常にこれを賞愛し、崩御の際、遺詔によってこれを玄宮に納めさせた。康之は宋の明帝の泰始初年に平原の明僧紹と共に徴されたが、病気を理由に辞退した。当時また河南の辛普明、東陽の楼恵明がおり、皆篤実な行いで知られた。

普明、字は文達、若くして康之に師事し、天性の誠実さは人並み外れていた。貧しく暮らし、兄と共に一つの帳の中で起居していたが、兄が亡くなると、その帳を霊前に施した。蚊が非常に多く、一晩中寝ることができなかったが、終いに蚊に刺されたとも言わなかった。会稽に寄寓し、会稽の士人はその行いを尊び、兄を葬る際、皆金を贈り物として送ったが、後から来た者はもう受け取らなかった。人がその理由を尋ねると、答えて言うには、「元より兄の墓が十分でないと思い、故に親友の好意に逆らわなかっただけである。今は既に十分足りている。どうして亡き者の残した贈り物を利することができようか。」斉の 章王蕭嶷が揚州刺史となった時、議曹従事に徴したが、就任しなかった。

恵明、字は智遠、性質は堅固で、道術を持っていた。金華山に住み、以前は多くの毒虫の害があったが、恵明が住んでからは、もう辛い刺される苦しみがなくなった。名を隠し跡を匿い、人々は彼を知らなかった。宋の明帝が召しても応じず、斉の高帝が徴してもまた応じなかった。文恵太子が東宮にいた時、苦労してようやく招き寄せたが、すぐにまた辞して帰った。やがて金華から軽舟で西下し、道についた後、豊安に引き返した。十日ほどの間に、唐宇之の妖賊が城に入り塗炭の苦しみを与えたが、ただ豊安だけが無事であったので、当時の人々は彼に先見の明があったと思った。斉の武帝は詔を下して館を建てさせた。

漁父

漁父という者は、姓名を知らず、またどこの者かも知らない。太康の孫緬が尋陽太守であった時、夕日に渚のほとりを逍遥していると、一隻の軽舟が波を越えて隠れ現れるのが見えた。やがて漁父が至り、その神韻は蕭洒として、釣り糸を垂れ長嘯したので、緬は非常に怪しんだ。そこで問うて言うには、「魚を売っているか。」漁父は笑って答えて言うには、「その釣りは釣りにあらず、どうして魚を売る者であろうか。」緬はますます怪しんだ。そこで裳をからげて水を渡り、言うには、「ひそかに先生を拝見するに有道の人である。終日櫂を鼓して、確かにまた労苦も甚だしい。私は聞く、黄金白璧は重利であり、駟馬高蓋は栄勢であると。今まさに王道は文明であり、守りは海外に及んでいる。隠れた賢士は、風になびくように帰依している。あなたはどうして光明の美を助けず、何故このように晦んで用いられるのか。」漁父は言うには、「私は山海の狂人であり、世の務めに通ぜず、賤貧を弁えず、栄貴を論ずることもない。」そこで歌って言うには、「竹竿は長く、河水はゆったりと流れる。互いに忘れて楽しむ、貪って餌を吞み鉤にかかる。伯夷でも柳下恵でもない、ただ憂いを忘れるためである。」そこで悠然と櫂を鼓して去った。

緬、字は伯緒、太子僕興曾の子である。学問義理に通じ、宋の明帝に非常に知られた。位は尚書左丞、東中郎司馬に至った。

褚伯玉

褚伯玉、字は元璩、吳郡錢唐の人である。高祖の含は始平太守であった。父の逿は征虜參軍であった。伯玉は若くして隠遁の操行があり、寡欲であった。十八歳の時、父が彼のために婚儀を整えた。花嫁が前門から入ると、伯玉は後門から出て行った。そして剡に赴き、瀑布山に住んだ。性質は寒暑に耐え、当時の人は彼を王仲都に比した。山中に三十余年、人との交わりを絶っていた。王僧達が吳郡太守となった時、苦労して礼を尽くして招いたところ、伯玉はやむを得ず郡に滞在し二晩過ごしたが、わずか数言交わしただけで退いた。甯朔將軍丘珍孫が僧達に手紙を送って言うには、「褚先生が貴館に出てお住まいになられたと聞きました。この方は影を消して雲に棲み、王侯に仕えず、高節を守り木の実を食して、すでに長い年月になります。あなたが節を折って賢者を好まなければ、どうして招くことができたでしょう。かつて文舉(管寧)が冶城に棲み、安道(戴逵)が昌門に入ったのに続き、これで三度目となります。穀物を断った士、霞を食む人は、一時的に招くことはできても、長く引き留めるべきではありません。あなたは彼の高邁な歩みを遂げさせ、羽化を成就させることを考えるべきです。彼が還って杖を執る日を望み、その清らかな塵埃を一時的に引き受けたいと願い、また私も助けとして譬え話をしたいと思います。」僧達は答えて言った、「褚先生が白雲と遊ぶのは昔からのことです。古の逸人は、あるいは妻子に思いを留め、あるいは華陰を市なすほどに人を集めましたが、この方は索然として、ただ松石を友とし、孤峰絶嶺の間に身を置いて、数十年を積み重ねてきました。近ごろわざわざ彼をここに招いたのは、日夜の慰めを願ってのことです。近頃は芝や桂について談論し、薜荔や女蘿について尋ね借り、あたかもすでに煙液を窺い、滄洲に臨んでいるかのようです。あなたがお会いになりたいとお思いなら、すぐに譬えを申し上げましょう。」

宋の孝建二年、 散騎常侍 さんきじょうじ 樂詢が風俗を行察し、上表して伯玉を推薦した。本州の議曹從事に徴聘を加えられたが、就任しなかった。斉の高帝が即位すると、手詔を下して吳・會の二郡に礼をもって迎え送らせたが、また病気を理由に辞退した。帝はその志に背くことを望まず、剡の白石山に太平館を建てて住まわせるよう命じた。建元元年に死去、八十六歳であった。伯玉は常に一つの楼の上に住んでいたので、そのまま楼のあった場所に葬られた。孔珪は彼から道法を受け、館の側に碑を建てた。

顧歡

顧歡、字は景怡、一字は玄平、吳郡鹽官の人である。家柄は寒賤で、父祖ともに農夫であったが、歡だけは学問を好んだ。六、七歳の時、六甲を推すことを知った。家が貧しく、父が田んぼで雀を追い払うように言うと、歡は『黄雀賦』を作って帰ったが、雀は稲を半分以上食べてしまっていた。父は怒って打とうとしたが、賦を見てやめた。郷里に学舎があったが、歡は貧しくて学業を受けることができず、舎の壁の後ろにもたれて聞き、忘れることはなかった。夜は松明を灯して読書し、あるいは糠を燃やして灯りとした。成長すると、志を篤くして倦むことがなかった。吳興東遷の邵玄之が五経の文句を伝えることができると聞き、書生のふりをして、彼に従い学業を受けた。同郡の顧顗之が県に臨んだ時、彼を見て異才と認め、自分の子供たちを遊ばせ、孫の憲之もともに経を受けた。二十余歳の時、さらに 章の雷次宗に従い、玄学と儒学の諸義について諮問した。

母が亡くなると、水も飲まずに六、七日を過ごし、墓のそばに廬を結び、ついに隠遁して仕えなかった。剡の天臺山に学館を開いて門徒を集め、学業を受ける者は常に百人近くに及んだ。歡は早くに孤児となり、詩を読んで「哀哀父母」に至ると、必ず書を執って慟哭した。これにより学を受ける者は『蓼莪』の篇を廃し、二度と講じなかった。

晩年は服食を行い、人と通じなかった。毎朝戸を出ると、山鳥がその掌に集まって餌を取った。黄老を好み、陰陽書に通暁し、数術を行って多く効験があった。初め、元嘉年間に都に出て、東府に寄寓した。突然、柱に「三十年二月二十一日」と書き記し、それから東に帰った。後に元凶(劉劭)が しい 逆を起こしたのは、まさにその年月日であった。

弟子の鮑靈綬の門前に一本の樹があり、十数囲もあり、その上に精霊がいて、たびたび影を見せた。歡が樹に印を押すと、樹はたちまち枯死した。山陰の白石村には邪病が多く、村人が訴えて哀願を求めたので、歡は村中に行って老子を講じ、地面に区画を設けて獄とした。しばらくすると、狐や狸、黿や鼉が自ら獄に入る者が多く見えたので、すぐに殺すよう命じた。病人は皆癒えた。また邪病にかかった者が歡に尋ねると、歡は言った、「家にどんな書があるか。」答えて言うには、「ただ『孝経』だけです。」歡は言った、「『仲尼居』の部分を取って病人の枕辺に置き、恭敬すれば、自然に癒えるだろう。」その後、病人は果たして癒えた。後になって人がその理由を尋ねると、答えて言った、「善は悪を祓い、正は邪に勝つ。これが病人が癒える理由である。」

斉の高帝が政を輔けていた時、揚州主簿に徴された。帝が即位した後に至ってようやく出仕し、「山谷の臣顧歡、表を上る」と称し、政綱一卷を進呈した。その時、員外郎劉思效が忠言を述べた上表をし、詔を優しくしてともにこれを称美した。歡が東に帰る時、帝は麈尾と素琴を賜った。

永明元年、詔して太學博士に徴されたが、同郡の顧黯が散騎侍郎に任じられた。黯は字を長孺といい、隠遁の操行があり、歡とともに徴に応じなかった。會稽の孔珪がかつて嶺を登って歡を尋ね、ともに四本論について談論した。歡は言った、「蘭石(傅嘏)は危険で密、宣國(李豊)は安泰で疎、士季(鍾会)は似て非、公深(王広)は謬りで是。総じて言えば、その失うところは同じである。曲げて弁ずれば、その道は異なる。なぜか。ともにその本を昧くして、その末を競って談じるのは、まだ辰星と緯星を知らずに南北を意断するようなものだ。群迷は暗闇で争い、得失の基準がなく、情が長ければ伸び、意が短ければ屈する。それゆえ四本はともに通じ、互いに塞ぐことができない。そもそも中理はただ一つ、どうして二つありえようか。四本に正しさがないのは、中を失っているからである。」そこで『三名論』を著してこれを正した。尚書劉澄、臨川王常侍朱廣之はともに論難を立て、彼と往復した。しかし広之の才理は特に精妙であった。広之は字を處深といい、吳郡錢唐の人で、清談を善くした。

初め、歡は仏道二教の教えが異なり、学者が互いに非難し合うのを見て、『夷夏論』を著して言った。

是と非を弁ずるには、聖典に拠るべきである。道経に云う、「老子が関に入り天竺の維衛国に至ると、国王の夫人の名は淨妙といった。老子は彼女が昼寝している時、日精に乗って淨妙の口に入り、翌年の四月八日夜半の時、右の腋を剖って生まれた。地に墜ちてすぐに七歩歩き、ここに仏道が興った。」これは『玄妙内篇』に出る。仏経に云う、「釈迦が仏となるには、塵劫ほどの数がある」と、『法華経』『無量寿経』に出る。あるいは「国師道士となり、儒林の宗となる」と、『瑞応本起経』に出る。

顧歓はこれを論じて曰く、五帝三皇には仏の聞こえたるはなく、国師道士は老・荘に過ぎず、儒林の宗は誰か周・孔より出でん。若し孔・老聖に非ずんば、誰か当たるべき。然れども二経の説く所は符契を合するが如し。道は即ち仏なり、仏は即ち道なり、其の聖は符し、其の跡は反す。或は光を和して近きを明らかにし、或は霊を曜して遠きを示す。道は天下を済う、故に方無くして入らざるはなく、智は万物に周し、故に物無くして為さざるはなし。其の入る所は同じからず、其の為す所は必ず異なり、各々其の性を成し、其の事を易えず。是を以て端委搢紳は諸華の容、剪髪曠衣は群夷の服、擎跽罄折は侯甸の恭、狐蹲狗踞は荒流の粛、棺殯槨葬は中夏の風、火焚水沈は西戎の俗、全形守礼は継善の教、毀貌易性は絶悪の学なり。豈に伊人に同じく、爰に異物に及び、鳥王獣長、往々是れ仏なり。無窮の世界、聖人代興し、或は五典を昭かにし、或は三乗を布く。鳥に在りては鳥鳴き、獣に在りては獣吼え、華を教うれば華言し、夷を化せば夷語するのみ。舟車は均しく致遠に於いて、川陸の節有り、仏道は斉しく達化に於いて、夷夏の別有り。若し其の致す所既に均しと謂ひ、其の法換ふ可しと為さば、而して車は川に渉り、舟は陸を行く可きや。今中夏の性を以て、西戎の法を效ふ、既に全く同じからず、又全く異ならず。下は妻子を棄て、上は宗祀を絶つ。嗜欲の物は皆礼を以て伸べ、孝敬の典は独り法を以て屈す。礼に悖り順に犯す、曾て之を覚ること莫く、弱喪帰るを忘れ、孰か其の旧を識らん。且つ理の貴む可き者は道なり、事の賤む可き者は俗なり、華を捨て夷を效ふ、義将に何をか取らん。若し道を以てせんか、道は固より符合す。若し俗を以てせんか、俗は則ち大いに乖けり。屡々刻舷の沙門、守株の道士を見るに、小大を交諍し、互いに弾射す。或は道を域して以て両と為し、或は俗を混じて以て一と為す、是れ異を牽きて以て同と為し、同を破りて以て異と為す、則ち乖争の由、淆乱の本なり。

聖道を尋ぬるに、同じけれども法に左右有り、端無きに始まり、末無きに終はる、泥洹仙化、各々一術なり。仏は正真と号し、道は正一と称す、一は無死に帰し、真は無生に会す。名に在りては則ち反し、実に在りては則ち合す。但だ無生の教は賒かにして、無死の化は切なり、切法は以て謙弱を進む可く、賒法は以て誇強を退く可し。仏教は文にして博く、道教は質にして精なり、精は粗人の信ずる所に非ず、博は精人の能ふ所に非ず。仏言は華にして引く、道言は実にして抑ふ、抑ふれば則ち明者は独り進み、引けば則ち昧者は競ひ前ぬ。仏経は繁にして顕なり、道経は簡にして幽なり、幽なれば則ち妙門見難く、顕なれば則ち正路遵ひ易し。是れ二法の弁なり。

聖匠は心無く、方円に体有り、器既に用を殊にす、教亦施す易し。仏は悪を破るの方なり、道は善を興すの術なり、善を興せば則ち自然を以て高しと為し、悪を破れば則ち勇猛を以て貴しと為す。仏跡は光大にして、宜しく以て物を化すに適す。道跡は密微にして、利は己を為すに用ふ。優劣の分、大略茲に在り。

夫れ蹲夷の儀、婁羅の弁、各々彼の俗に出で、自ら相聆解す。猶ほ蟲躍ぎ鳥聒くが如く、何ぞ述効すに足らん。歓は二法に同じくすと雖も、意は道教に党す。宋の 司徒 しと 袁粲 えんさん は道人通公に托して之を駁す。其の略に曰く。

白日光を停め、恒星照を隠す、誕降の応、事は老に在りて先なり、関に入るに似て非ず、方に斯の瑞を昭かにす。又西域の記、仏経の説、俗は膝行を以て礼と為し、蹲坐を慕ひて恭と為さず。道は三遶を以て虔と為し、踞傲を尚びて粛と為さず。豈に専ら戎土のみならん、爰亦茲の方なり。襄童帝に謁し、膝行して進み、趙王周に見え、三環して止む。今仏法化を垂るるや、因る有り革る有り。清信の士は容衣改めず、息心の人は服貌必ず変ず。本を変じて道に従ひ、彼の俗に遵はず、俗風自ら殊なり、其の乱るるを患ふること無し。

孔・老・釈迦、其の人或は同じけれども、方を観て教を設くるや、其の道必ず異なり。孔・老は俗を教ふるを本と為し、釈氏は出世を宗と為す、軫を発する既に殊なり、其の帰る亦異なり。又仙化は形を変ずるを上と為し、泥洹は神を陶むるを先と為す。形を変ずる者は白首還りて緇と成るも、未だ死無きに能はず、神を陶むる者は塵惑日を損し、湛然として常に存す。泥洹の道は無死の地、乖詭此の若きは、何をか其の同と謂はん。歓答えて曰く。

道経の作るを案ずるに、西周に著はれ、仏経の来るや、東漢に始まる。年八百を踰え、代数十を懸く。若し黄・老久しと雖も濫りは釈の前に在りと謂はば、是れ呂尚の陳恒の斉を盗み、劉季の王莽の漢を窃むるなり。又夷俗は長跽し、法は華と異なり、左を げ右を跂て、全く蹲踞なり。故に周公之を前に禁じ、仲尼之を後に誡む。又仏は戎に起る、豈に戎俗素より悪しきに非ずや。道は華に出づ、豈に華風本より善きに非ずや。今華風既に変じ、悪は戎狄に同じ、仏来りて之を破る、良に以て有り。仏道実に貴し、故に戒業遵ふ可く、戎俗実に賤し、故に言貌棄つ可し。今諸華の士女、氏族革めずして、露首偏踞し、濫りに夷礼を用ふ。

又若し風を観て教を流すや、其の道必ず異なり。仏は東華の道に非ず、道は西夷の法に非ず、魚鳥川を異にし、永く相関はらず。安んぞ老・釈二教を得て、八表に行はれ交はらん。今仏既に東に流れ、道亦西に邁る、故に俗に精粗有り、教に文質有るを知る。然らば則ち道教は本を執りて以て末を領し、仏教は末を救ひて以て本を存す。請ふ所帰を問はん、異は何許に在る。若し翦落を以て異と為さば、則ち胥靡翦落せり、若し立像を以て異と為さば、則ち俗巫立像せり。此れ帰する所に非ず、帰するは常住に在り、常住の象、常道孰か異ならん。

神仙に死有りは、権便の説なり。神仙は大化の総称にして、窮妙の至名に非ず。至名は名無く、其の名有る者二十七品なり。仙は変じて真と成り、真は変じて神と成り、或は之を聖と謂ひ、各々九品有り。品極まれば則ち空寂に入り、無為無名なり。若し服食茹芝し、寿を延べて万億、寿尽きれば則ち死し、薬極まれば則ち枯る、此れ修考の士にして、神仙の流に非ず。

明僧紹の『正二教論』は、「仏はその宗(根本)を明らかにし、老はその生を全うする。生を守る者は蔽われ、宗を明らかにする者は通ず。今、道家は長生不死を称し、名を補天曹とす、これは大いに老・荘の立言の本理に背く」と論じた。文恵太子と竟陵王蕭子良はともに釈法を好み、呉興の孟景翼は道士であったが、太子は彼を玄圃に召し入れ、多くの僧侶が大会した。子良は景翼に仏を礼拝させようとしたが、景翼は肯じなかった。子良は十地経を彼に与え、景翼は『正一論』を作り、おおよそ次のように述べた。「宝積経に云う、'仏は一音をもって広く法を説く'。老子は云う、'聖人は一を抱いて以て天下の式と為す'。一の妙なるや、空玄は有境を絶し、神化は無窮に贍つ。万物の為にして無為たり、一数に処して数無し。之を名づくる能わず、強いて一と号す。仏に在りては'実相'と曰い、道に在りては'玄牝'と曰う。道の大象は、即ち仏の法身なり。守らざるの守りを以て法身を守り、執らざるの執りを以て大象を執る。但し物には八万四千の行あり、説には八万四千の法あり。法は乃ち無数に至り、行も亦た無央(際無し)に達す。等級は縁に随い、須らく一に導き帰すべし。一に帰するを回向と曰い、正に向かえば即ち邪無し。邪観既に遣わされれば、億善日々に新たなり。三五四六、用いに随いて施し、独立して改めず、学を絶ちて憂い無し。曠劫の諸聖、共にこの一に遵う。老・釈は未だ嘗て分かたず、迷える者これを分けて未だ合わず。億善遍く修め、修め遍くして聖と成る、十号千称と雖も、終に尽くす能わず。終に尽くす能わざるは、豈に思議すべきや」。 司徒 しと 從事中郎の張融は『門律』を作りて云う、「道と仏とは、逗極(究極)に二つ無し。吾、道士の道人と儒墨を戦わし、道人の道士と是非を弁ずるを見る。昔、鴻天首に飛び、積遠にして亮かにし難く、越人は鳧と為し、楚人は乙と為せり。人楚・越に自るも、鴻は常に一のみ」。これを太子僕の周顒に示す。顒これに難じて曰く、「虚無と法性とは、その寂たるは同じけれども、寂たるに位するの方、その旨は別なり。論の所謂'逗極無二'とは、虚無に逗極して、当に法性に二つ無きを為すか。足下の宗とする所の本は一物を鴻乙とするのみ、仏道に駆馳して、二末を免れず、未だ高鑒、何に縁りて本を識るや?軽くしてこれを宗とす、それ旨有るか」。往復の文多く載せず。

顧歓は口弁に長けず、もっぱら論を著すことを善くした。また王弼の易二系を注し、学者に伝えられた。将に終わらんとするを知り、詩を賦して志を言うこと曰く、「五塗に恒宅無く、三清に常舎有り。精気は天行に因り、遊魂は物化に随う。鵬は適く大海に従い、蜩鳩は之く桑柘。達生は去留に任せ、善死は日夜に均し。命を委ねて乗ずる所安く、何方か駕すべからざらん。心を翹げて前覚に企て、融然として此れより謝す」。自ら死日を さだ め、自ら葬時を択び、剡山に卒す。時に年六十四。身体香軟、道家これを屍解仙化と謂う。還って旧墓に葬る。木連理、墓側に生ず。県令の江山図、表状を上る。武帝、顧歓の諸子に詔して歓の文議三十巻を撰ばしむ。

また始興の人、廬度、字は孝章、亦た道術有り。少くして張永に随い北に侵して魏を伐つ。永敗れ、魏人追撃急なり、淮水に阻まれて過ぐるを得ず。度、心に誓いて曰く、「若し死を免るるを得ば、今より後は復た生を殺さじ」。須臾にして両楯流れ来るを見、之に接して過ぐるを得たり。後に廬陵西昌の三顧山に隠居し、鳥獣之に随う。夜に鹿其の壁に触るる有り、度曰く、「汝我が壁を壊す勿れ」。鹿声に応じて去る。屋前に池有りて魚を養う、皆名を呼べば、次第に来りて食を取りて乃ち去る。逆に死の年月を知り、親友と別る。永明の末、寿を以て終わる。

杜京産

杜京産、字は景斉、呉郡銭唐の人なり。祖は運、劉毅の衛軍参軍。父は道鞠、州の從事、弾棋を善くす。

京産は少くして恬静、栄宦を閉ざし意とせず、頗る文義に渉り、専ら黄・老を修む。会稽の孔覬、清剛峻節有り、一見して款交と為る。郡は主簿を命じ、州は從事を辟すも、疾を称して去る。同郡の顧歓と同契す。始寧の東山に於いて舎を開き学を授く。斉の建元中、武陵王蕭曄、会稽に在り、斉の高帝、儒士劉瓛を遣わし東に入りて曄の為に講ぜしむ。瓛、故往きて之と遊び、曰く、「杜生は、当今の台・尚なり」。京産、瓛を請いて山舎に至り書を講ぜしめ、資を傾けて供待す。子の棲、躬自ら屣履し、瓛の生徒の為に食を下す。孔珪・周顒・謝瀹並びに書を致して以て殷勤を通ず。

永明十年、孔珪及び光禄大夫陸澄・祠部尚書虞悰・太子右率沈約・ 司徒 しと 右長史張融、表を上りて京産を薦め、奉朝請に徴す。至らず。会稽の日門山に於いて徒を聚め教授す。建武初、員外散騎侍郎に征す。京産曰く、「荘生の釣を執るは、豈に白璧の回らす所たらんや」。疾を辞して就かず、卒す。

会稽山陰の人、孔道徽、志業を守りて仕えず、京産と友善なり。道徽の父、佑、至行神に通じ、四明山に隠る。嘗て山谷中に数百斛の銭有るを見るも、之を視ること瓦石と異ならず。樵采者競いて取り、手に入れば即ち沙礫と成る。曾て鹿、箭に中りて来たり佑に投ずる有り、佑、其の為に創を養い、愈えて然る後去る。太守王僧虔、張緒に与うる書に曰く、「孔佑は、敬康の曾孫なり。行動幽祗、徳は松桂に しる し、主簿に引きいれんとすれども、遂に屈す可からず。此れ古の遺徳なり」。道徽は少くして高行を ぎ、能く其の家風を世ぐ。南山に隠居し、終身都邑を窺わず。 章王蕭嶷、揚州と為り、西曹書佐を辟すも、至らず。郷里之を宗慕す。道徽の兄の子、総、操行有り、饑寒に遇いて衣食を得可からざるも、県令呉興の丘仲孚之を薦め、竟陵王侍郎を除くも、竟に至らず。

永明中、会稽の鍾山に姓は蔡、名は知らざる人あり、山中に隠れ、鼠数千頭を養う。呼べば即ち来り、遣れば即ち去る。言語狂易、時に之を謫仙と謂う。其の終わる所を知らず。

京産の高祖子恭以来及び子の棲に至るまで、世々五斗米道を伝えて替えず。棲、字は孟山、清言を善くし、琴を弾ずる能し。刺史斉の 章王蕭嶷其の名を聞き、議曹從事を辟し、仍西曹書佐に転ず。竟陵王蕭子良数たび礼接を致す。国子祭酒何胤礼を掌り、又た棲を重んじ、学士と為し、昏冠の儀を掌らしむ。父老を以て帰養す。棲は肥白長壮なりしが、京産の病むに及び、旬日の間便ち皮骨自ら支うるのみ。京産亡くなり、水漿七日口に入れず、晨夜哭くことを罷めず、塩菜を食さず。毎に祭奠を営み買うに、身自ら看視し、号泣自ら持せず。朔望節歳、絶えて復た続き、嘔血数升す。時に何胤・謝朏並びに東山に隠れ、書を遺して敦譬し、毀滅を誡む。祥禫に至り、暮に其の父を見夢み、慟哭して絶ゆ。初め、胤の兄の点、棲を見て歎じて曰く、「卿の風韻此の如し、嘉誉を獲ると雖も、永年せず」。卒する時年三十六、当時咸に嗟惜す。

建武二年、剡県に小児年八歳、母と倶に赤班病を得、母死す。家人小児の猶お悪しきを以て、其の知るを令さず。小児之を疑い、問うて云く、「母嘗て数え我が病を問う、昨来声の羸るを覚ゆ、今復た問わず、何ぞや」。因りて自ら床より投下し、扶匐して母の屍側に至り、頓絶して死す。郷鄰之を県令宗善才に告げ、廬を表するを求む。事竟に行われず。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻075