南史

巻七十四 列傳第六十四 孝義下

巻七十四 列傳第六十四 孝義下

南史

巻七十四 列傳第六十四 孝義下

孝義下

原文孝義下

滕曇恭は、豫章郡南昌県の人である。五歳の時、母の楊氏が熱病にかかり、寒瓜を食べたいと思ったが、その土地の風土では産出しないものであった。曇恭はあちこち尋ね回ったが得ることができず、悲しみを胸に秘めてひどく嘆き悲しんだ。やがて一人の沙門に出会い、そのわけを尋ねられ、曇恭はことごとく告げた。沙門は言った、「私に瓜が二つある、一つを分けてお与えしよう」。帰って母に与えると、家中の者は驚き怪しんだ。すぐにその沙門を尋ね求めたが、どこにいるのか分からなかった。父母が亡くなると、曇恭は水さえも十日間口にせず、悲しみのあまり血を吐き、気絶してはまた蘇生した。厳冬でも綿入れを着ず、粗食で一生を終えた。毎年命日になると、慕う思いに堪えられず、昼夜を分かたず哀哭した。その門の外に冬生樹が二株あったが、時折突然神光が樹から立ち昇り、やがて仏像と脇侍の姿が見え、容姿の光が明らかにして、門から入って来た。曇恭の家族は大小ともに皆礼拝し、長い間して消えた。遠近の道俗に広く伝えられた。太守の王僧虔は曇恭を功曹に推挙したが、固辞して就任しなかった。王儉が当時僧虔に従って郡にいたが、滕曇恭を滕曾子と称した。梁の天監元年、陸璉が使命を奉じて風俗を巡行し、その様子を上表して言上した。曇恭には三人の子があり、皆品行と学業があった。

原文滕曇恭,豫章南昌人也。年五歲,母楊氏患熱,思食寒瓜,土俗所不產。曇恭歷訪不能得,銜悲哀切。俄遇一桑門問其故,曇恭具以告。桑門曰:「我有兩瓜,分一相遺。」還以與母,舉室驚異,尋訪桑門,莫知所在。及父母卒,曇恭並水漿不入口者旬日,感慟嘔血,絕而復蘇。隆冬不著繭絮,蔬食終身。每至忌日,思慕不自堪,晝夜哀慟。其門外有冬生樹二株,時忽有神光自樹而起,俄見佛像及夾侍之儀,容光顯著,自門而入。曇恭家人大小咸共禮拜,久之乃滅。遠近道俗咸傳之。太守王僧虔引曇恭爲功曹,固辭不就。王儉時隨僧虔在郡,號爲滕曾子。梁天監元年,陸璉奉使巡行風俗,表言其狀。曇恭有子三人,皆有行業。

時に徐普済という者がいた、長沙郡臨湘県の人である。喪に服してまだ葬らないうちに、隣家で火事が起こり、延焼してその家屋に及んだ。普済は号哭して棺の上に伏せ、身をもって火を防いだ。隣人が救いに行くと、焼け爛れてすでに気絶しており、数日を経てようやく蘇生した。

原文時有徐普濟者,長沙臨湘人。居喪未葬,而鄰家火起,延及其舍。普濟號慟伏棺上,以身蔽火。鄰人往救之,焚炙已悶絕,累日方蘇。

また建康の人に張悌がいた、家が貧しく供養するに足りず、その事情を隣の富人に告げた。富人は与えず、憤りに耐えかね、ついに四人を結んで強盗を働き、得た衣服・物品は、三人の強盗が持ち去り、実際には一銭も自分に入らなかった。県は悌を死罪に処した。悌の兄の松が訴えて称した、「弟の景と私は前妻の子であり、後妻はただ悌を生んだだけです。松は年長でありながら教え導くことができませんでした。どうか悌に代わって死なせてください」。景もまた言った、「松は嫡出の長子であり、後妻はただ悌を生んだだけです。もし法に従えば、母もまた全うしません」。また代わって死ぬことを請うた。母もまた言った、「悌は死すべきです。どうして弟の罪をもって諸兄を枉げることがありましょうか」。悌もまた身分を引き受け、両兄の供養を全うすることを請うた。県はこれを上奏して裁決を請うと、帝は孝義であるとして、特に死罪を減じ、後世の例としないこととした。

原文又有建康人張悌,家貧無以供養,以情告鄰富人。富人不與,不勝忿,遂結四人作劫,所得衣物,三劫持去,實無一錢入己。縣抵悌死罪。悌兄松訴稱:「與弟景是前母子,後母唯生悌,松長不能教誨,乞代悌死。」景又曰:「松是嫡長,後母唯生悌。若從法,母亦不全。」亦請代死。母又云:「悌應死,豈以弟罪枉及諸兄。悌亦引分,乞全兩兄供養。」縣以上讞,帝以為孝義,特降死,後不得為例。

陶季直は、丹陽郡秣陵県の人である。祖父は湣祖、宋の広州刺史。父は景仁、中散大夫。

原文陶季直,丹陽秣陵人也。祖湣祖,宋廣州刺史。父景仁,中散大夫。

季直は幼少より聡明で、湣祖は大いに愛し異とし、かつて四函の銀を前に並べて置き、諸孫にそれぞれ一つを取らせた。季直は当時四歳で、ただ一人取らなかった。言うには、「もし賜わるならば、まず父や伯父であるべきで、諸孫に及ぶべきではありません。故に取りません」。湣祖はますます彼を非凡だと思った。

原文季直早慧,湣祖甚愛異之,嘗以四函銀列置於前,令諸孫各取其一。季直時年四歲,獨不取,曰:「若有賜,當先父伯,不應度及諸孫,故不取。」湣祖益奇之。

五歳で母を喪い、哀しみは成人のようであった。初め母が病にかかる前、外で衣を染めるよう命じ、死後に家人がようやく贖い戻した。季直はそれを抱いて号哭し、聞く者は誰もが悲しみに感じなかった者はなかった。成長して学問を好み、栄利に淡泊であり、徴召されても起たず、当時の人は聘君と号した。後に望蔡県令となり、病気のため免官された。

原文五歲喪母,哀若成人。初母未病,令於外染衣,卒後,家人始贖。季直抱之號慟,聞者莫不酸感。及長好學,澹于榮利,徵召不起,時人號曰聘君。後為望蔡令,以病免。

時に劉彦節・袁粲は斉の高帝の権勢が盛んなのを以て、彼を除こうと図った。彦節は平素から季直を重んじており、謀り事に加わらせようとした。季直は袁・劉が儒者であるから、必ずや転落するだろうとして、固辞して赴かなかった。まもなく彦節らは敗れた。

原文時劉彥節、袁粲以齊高帝權盛,將圖之。彥節素重季直,欲與謀。季直以袁、劉儒者,必致顛殞,固辭不赴。俄而彥節等敗。

斉の初めに尚書比部郎となり、時に褚彦回が尚書令であったが、平素から季直と親しく、しばしば司空・司徒の主簿に任じ、府の事務を委ねた。彦回が亡くなると、尚書令の王儉は彦回に至高の行いがあるとして、「文孝公」と諡しようとした。季直は言った、「文孝は司馬道子の諡です。その人物が完全な美ではないことを恐れます。文簡の方がよいでしょう」。儉はこれに従った。季直はまた彦回のために碑を立てることを請い、始めから終わりまで営み護り、大いに官吏としての節操があった。再び東莞太守に転じ、郡において清和と称された。後に鎮西諮議参軍となった。

原文齊初為尚書比部郎,時褚彥回為尚書令,素與季直善,頻以為司空司徒主簿,委以府事。彥回卒,尚書令王儉以彥回有至行,欲諡「文孝公」。季直曰:「文孝是司馬道子諡,恐其人非具美,不如文簡。」儉從之。季直又請為彥回立碑,始終營護,甚有吏節。再遷東莞太守,在郡號為清和。後為鎮西諮議參軍。

斉の武帝が崩御し、明帝が宰相となり、異分子を誅殺し除いた。季直は意に阿り容れられることができず、明帝は大いに彼を忌み嫌い、輔国長史・北海太守として出させた。辺境の職務の上佐は、素来の士人でこれに就く者は稀であり、ある者が季直に門を造って謝意を表すよう勧めた。明帝は留めて驃騎諮議参軍とし、兼ねて尚書左丞を務めさせ、建安太守に遷した。政治は清静で、百姓はこれを便利とした。

原文齊武帝崩,明帝作相,誅鋤異己。季直不能阿意取容,明帝頗忌之,出為輔國長史、北海太守。邊職上佐,素士罕為之者,或勸季直造門致謝,明帝留以為驃騎諮議參軍,兼尚書左丞,遷建安太守。為政清靜,百姓便之。

梁の朝廷が建てられると、給事黄門侍郎となり、常に「官は二千石に至って初めて本望が果たされた。長く人間の事に関わる必要はない」と言い、病気を理由に辞して郷里に帰った。梁の天監初年、そのまま太中大夫を拝された。武帝は言った、「梁が天下を有してから、遂にこの人を見なかった」。十年、家で卒去した。季直は平素から清貧苦節が並ぶものなく、また十余年間隠居していた。死んだ時、家には壁ばかりが立ち並び、子孫は殯斂するに足るものもなく、聞く者は誰もがその志と事績を悲しんだという。

原文梁台建,為給事黃門侍郎,常稱仕至二千石始願畢矣,無為久預人間事,乃辭疾還鄉里。梁天監初,就拜太中大夫。武帝曰:「梁有天下,遂不見此人。」十年,卒於家。季直素清苦絕倫,又屏居十餘載,及死,家徒四壁,子孫無以殯斂,聞者莫不傷其志事云。

沈崇傃は字あざなを思整といい、呉興郡武康県の人である。父は懐明、宋の兗州刺史。崇傃は六歳で父の憂いに遭い、哭して跳びはねる礼を超えた。成長してから、生母に仕えて至孝であり、家が貧しかったため、常に書写の雇い仕事をして養った。天監二年、太守の柳惲が主簿に辟召した。崇傃は惲に従って郡に赴き、帰って母を迎えようとしたが、到着しないうちに母が亡くなった。崇傃は病に侍ることができなかったことを以て、死をもって償おうとし、水さえも口にせず、昼夜号哭し、十日ほどでほとんど絶息しそうになった。兄弟が言った、「殯葬がまだ済んでいないのに、急いで自らを滅ぼすのは、孝道を全うするものではありません」。崇傃は心に悟り、ようやく少し食事を進めた。母を仮に葬り、家から数里離れていたが、悲しみが至るたびにその仮葬の地に行き、雨雪をも避けなかった。毎度墳に寄りかかって哀哭すると、飛ぶ鳥が集まって来た。夜には常に猛獣が来て彼を見守り、嘆息するような声を立てるものがあった。家が貧しく改葬するに足るものもなく、ついに一年余り物乞いをして、ようやく葬ることができた。その後すぐに墓の傍らに廬を結び、初め喪礼を行った時十分でなかったことを自ら思い、さらに葬った後にもう一度三年の喪服を行った。長く麦の屑を食べ、塩や酢を口にせず、薄い敷物の上に坐り臥し、それによって虚腫して起き上がれなくなった。郡県が至孝として推挙した。梁の武帝が聞き、すぐに中書舎人を遣わして慰労し、詔を下して喪服を解くよう命じ、太子洗馬に抜擢して補し、その門閭を表彰した。崇傃は詔を奉じて喪服を解いたが、涙を流して泣くことは喪に服している時と変わらなかった。固辞して官を受けず、永寧県令に任じられた。自ら禄が養うに及ばなかったことを思い、哀しみの思いに堪えられず、県に至らないうちに卒去した。

原文沈崇傃字思整,吳興武康人也。父懷明,宋兗州刺史。崇傃六歲丁父憂,哭踴過禮。及長,事所生母至孝,家貧,常傭書以養。天監二年,太守柳惲辟為主簿。崇傃從惲到郡,還迎其母,未至而母卒。崇傃以不及侍疾,將欲致死,水漿不入口,晝夜號哭,旬日殆將絕氣。兄弟謂曰:「殯葬未申,遽自毀滅,非全孝道也。」崇傃心悟,乃稍進食。母權瘞,去家數里,哀至輒之瘞所,不避雨雪。每倚墳哀慟,飛鳥翔集。夜恒有猛獸來望之,有聲狀如歎息者。家貧無以遷厝,乃行乞經年,始獲葬焉。既而廬於墓側,自以初行喪禮不備,復以葬後更行服三年。久食麥屑,不噉鹽酢,坐臥于單薦,因虛腫不能起。郡縣舉至孝。梁武聞,即遣中書舍人慰勉之,乃詔令釋服,擢補太子洗馬,旌其門閭。崇傃奉詔釋服,而涕泣如居喪。固辭不受官,乃除永寧令。自以祿不及養,哀思不自堪,未至縣,卒。

荀匠は字を文師といい、潁陰の人、晋の太保荀勖の九世孫である。祖父の瓊は、十五歳の時成都の市で父の仇を復讐し、孝行で知られた。宋の元嘉末年に淮を渡り、武陵王の挙義に逢い、元凶の追兵に殺され、員外散騎侍郎を追贈された。父の法超は斉に仕えて安復県令となり、任地で卒去した。匠は号哭して気絶し、身体はすべて冷たくなり、夜になってようやく蘇生した。その後すぐに喪に赴き、毎夜江の渚に宿ると、商人の仲間はその哭く声を聞くに忍びなかった。

原文荀匠字文師,潁陰人,晉太保勖九世孫也。祖瓊,年十五復父仇于成都巿,以孝聞。宋元嘉末度淮,逢武陵王舉義,為元凶追兵所殺,贈員外散騎侍郎。父法超,仕齊為安復令,卒官。匠號慟氣絕,身體皆冷,至夜乃蘇。既而奔喪,每宿江渚,商侶不忍聞其哭聲。

梁の天監元年、その兄斐は郁林太守となり、俚賊を征討したが、流れ矢に当たり、陣中にて死す。喪が還るや、匠は豫章にて迎え、舟を望んで水に投じ、傍らの人が救い赴き、僅かにして全うす。及び至り、家貧にして時に葬るを得ず、父の憂いと兄の喪服に居り、四年に歴りて廬戸を出でず。自ら括発して再び櫛沐せず、髪は皆禿げ落ち、哭くに時無し。声尽きれば則ち之を泣きに繋ぎ、目眥皆爛れ、形骸枯悴し、皮骨裁ちて連なり、家人と雖も復た識らず。郡県状を以て言上す。武帝詔して中書舎人を遣わし其の服を除かしめ、豫章王国左常侍に擢ぐ。匠は即吉すと雖も而も毀悴愈甚しく、外祖父孫謙之を誡めて曰く、「主上は孝を以て天下に臨み、汝の行いは古人を過ぐ、故に汝を此の職に擢ぐ。唯だ君父の命の拒み難きのみに非ず、故にまた後世に名を揚げ、顕わす所は豈に独り汝の身のみならんや」と。匠乃ち拝し、竟に毀に以て卒す。

原文梁天監元年,其兄斐為郁林太守,征俚賊,為流矢所中,死於陣。喪還,匠迎于豫章,望舟投水,傍人赴救,僅而得全。及至,家貧不得時葬,居父憂並兄服,曆四年不出廬戶。自括發不復櫛沐,發皆禿落,哭無時。聲盡則系之以泣,目眥皆爛,形骸枯悴,皮骨裁連,雖家人不復識。郡縣以狀言,武帝詔遣中書舍人為其除服,擢為豫章王國左常侍。匠雖即吉而毀悴逾甚,外祖孫謙誡之曰:「主上以孝臨天下,汝行過古人,故擢汝此職。非唯君父之命難拒,故亦揚名後世,所顯豈獨汝身哉。」匠乃拜,竟以毀卒。

吉翂、字は彦霄、馮翊郡蓮勺県の人なり。家は襄陽に居す。翂幼より孝性有り、年十一にして生母の憂いに遭い、水漿口に入れず、殆ど将に性を滅ぼさんとす。親党之を異とす。

原文吉翂字彥霄,馮翊蓮勺人也。家居襄陽。翂幼有孝性,年十一遭所生母憂,水漿不入口,殆將滅性,親黨異之。

梁の天監初年、父は呉興郡原郷県令たり、吏に誣えられ、廷尉に逮え詣る。翂年十五、衢路に号泣し、公卿に祈請す。行人見る者皆為に涕を隕す。其の父の理は清白と雖も、而も吏の訊を恥じ、乃ち虚しく自ら咎を引き、罪は大辟に当たる。翂乃ち登聞鼓を撾ち、父の命に代わるを乞う。武帝之を異とし、尚其の童幼を以て、人の教えを受けたるを疑い、廷尉蔡法度に勅して厳しく脅誘を加え、其の款実を取らしむ。法度乃ち寺に還り、盛んに徽纆を陳べ、厲色を以て問いて曰く、「爾が父に代わりて死ぬるを求むるは、勅已に相許す、便ち応に法に伏すべし。然れども刀鋸は至って劇し、審らかに能く死ぬるか。且つ爾は童孺、志此に及ばず、必ず人の教うる所ならん、姓名は誰ぞ。若し悔い異なる有らば、亦相聴許す」と。対えて曰く、「囚と雖も蒙弱なり、豈に死の畏憚すべきを知らざらんや。顧みるに諸弟幼藐、唯だ囚を長と為す、父の極刑を見るに忍びず、自ら視息を延ばす、所以に内に胸臆を断ち、上に万乗を幹す。今身を不測に殉せんと欲し、骨を泉壤に委ぬ、此れ細故に非ず、奈何ぞ人の教えを受くべきや」と。法度屈撓すべからざるを知り、乃ち更に和顔を以て誘いて之に語りて曰く、「主上は尊侯の無罪なるを知り、行く当に釈亮せん。君の神儀明秀なるを観るに、足れり以て佳童と称すべし。今若し辞を転ぜば、幸いに父子同じく済わん、奚ぞ此の妙年を以て苦しんで湯鑊を求むる」と。翂曰く、「凡そ鯤鮞螻蟻と雖も尚お其の生を惜しむ、況んや人斯に在りて、豈に願って齏粉たらんや。但だ父は深劾に掛かり、必ず刑書に正さる、故に僕の殞るるを思い、冀くは父の命を延ばさん」と。翂初め囚に見ゆるや、獄掾法に依り備えて桎梏を加う。法度之を矜み、命じて其の二械を脱がしめ、更に令して一小なる者を著けしむ。翂聴かず、曰く、「翂は父に代わりて死ぬるを求む、死囚豈に減ずべきや」と。竟に械を脱がず。法度以て聞く、帝乃ち其の父を宥す。

原文梁天監初,父為吳興原鄉令,為吏所誣,逮詣廷尉。翂年十五,號泣衢路,祈請公卿,行人見者皆為隕涕。其父理雖清白,而恥為吏訊,乃虛自引咎,罪當大辟。翂乃撾登聞鼓,乞代父命。武帝異之,尚以其童幼,疑受教於人,敕廷尉蔡法度嚴加脅誘,取其款實。法度乃還寺,盛陳徽纆,厲色問曰:「爾求代父死,敕已相許,便應伏法;然刀鋸至劇,審能死不?且爾童孺,志不及此,必為人所教,姓名是誰?若有悔異,亦相聽許。」對曰:「囚雖蒙弱,豈不知死可畏憚;顧諸弟幼藐,唯囚為長,不忍見父極刑,自延視息,所以內斷胸臆,上幹萬乘。今欲殉身不測,委骨泉壤,此非細故,奈何受人教邪。」法度知不可屈撓,乃更和顏誘語之,曰:「主上知尊侯無罪,行當釋亮。觀君神儀明秀,足稱佳童,今若轉辭,幸父子同濟,奚以此妙年苦求湯鑊。」翂曰:「凡鯤鮞螻蟻尚惜其生,況在人斯,豈願齏粉。但父掛深劾,必正刑書,故思殞僕,冀延父命。」翂初見囚,獄掾依法備加桎梏,法度矜之,命脫其二械,更令著一小者。翂弗聽,曰:「翂求代父死,死囚豈可減乎。」竟不脫械。法度以聞,帝乃宥其父。

丹陽尹王志、其の廷尉に在りし故事を求め、並びに郷居を請い、歳首に於いて挙げて純孝に充てんと欲す。翂曰く、「異なる哉、王尹、何ぞ翂の薄きを量る。夫れ父辱しめられて子死す、斯の道固然なり。若し翂に面目を靦る有らば、当に此の挙に其れに当たるべく、則ち是れ父に因りて名を買う、一何ぞ甚だしき辱めぞ」と。之を拒みて止む。

原文丹陽尹王志求其在廷尉故事,並請鄉居,欲於歲首舉充純孝。翂曰:「異哉王尹,何量翂之薄,夫父辱子死,斯道固然,若翂有靦面目,當其此舉,則是因父買名,一何甚辱。」拒之而止。

年十七、辟に応じて本州の主簿と為り、出でて万年県を監す。官を摂すること期月、風化大いに行わる。雍より還り郢す。湘州刺史柳忱復た召して主簿と為す。後、秣陵の郷人裴儉、丹陽尹丞臧盾、揚州中正張仄連名して翂を薦め、以て孝行純至、易・老に明通すと為す。勅して太常に付して旌挙せしむ。初め、翂は父の罪に陥るに因り、悸疾を成す。後発に因りて卒す。

原文年十七,應辟為本州主簿,出監萬年縣。攝官期月,風化大行。自雍還郢,湘州刺史柳忱復召為主簿。後秣陵鄉人裴儉、丹陽尹丞臧盾、揚州中正張仄連名薦翂,以為孝行純至,明通易、老。敕付太常旌舉。初,翂以父陷罪,因成悸疾,後因發而卒。

甄恬、字は彦約、中山国無極県の人なり、世々江陵に居す。数歳にして父を喪い、哀感有ること成人の若し。家人其の小なるを矜み、肉汁を以て飯に和し之に飼う。恬肯て食わず。年八歳、嘗て其の母に問い、恨むらくは生れて父を識らずと、遂に悲泣累日す。忽ち若し見る有るが如く、言うに形貌は則ち其の父なり、時に孝感と為す。家貧しくして母を養い、常に珍羞を得。及び喪に居り、墓側に廬す。恒に鳥玄黄雑色有りて廬樹に集まり、恬哭けば則ち鳴き、哭止めば則ち止む。又た白鳩白雀有りて其の廬に棲宿す。州将始興王憺其の行状を表す。詔して門閭を旌表し、爵位を以て加う。恬官は安南行参軍に至る。

原文甄恬字彥約,中山無極人也,世居江陵。數歲喪父,哀感有若成人。家人矜其小,以肉汁和飯飼之,恬不肯食。年八歲,嘗問其母,恨生不識父,遂悲泣累日。忽若有見,言形貌則其父也,時以為孝感。家貧養母,常得珍羞。及居喪,廬於墓側,恒有鳥玄黃雜色集於廬樹,恬哭則鳴,哭止則止。又有白鳩白雀棲宿其廬。州將始興王憺表其行狀,詔旌表門閭,加以爵位。恬官至安南行參軍。

趙拔扈、新城県の人なり。兄震動は財に富み、太守樊文茂之を求めて已まず。震動怒りて曰く、「厭くこと無きは将に我に及ばん」と。文茂其の語を聞き、其の族を聚めて之を誅す。拔扈走りて免れ、亡命して党を聚め、社樹に至りて祝して曰く、「文茂は拔扈の兄を殺す、今之に報いんと欲す。若し事克たば、樹を斫る処更に生え、克たざれば即ち死せん」と。三宿して三たび枿生じ十丈余り、人間伝えて以て神と為し、附く者十余万。文茂を殺し竟り、転じて傍邑を攻む。将に成都に至らんとす、十余日にして戦いに敗れ、新城に退き保ちて降を求む。文茂は、黎州刺史文熾の弟、襄陽の人なり。

原文趙拔扈,新城人也。兄震動富於財,太守樊文茂求之不已,震動怒曰:「無厭將及我。」文茂聞其語,聚其族誅之。拔扈走免,亡命聚黨,至社樹祝曰:「文茂殺拔扈兄,今欲報之,若事克,斫樹處更生,不克即死。」三宿三枿生十丈餘,人間傳以為神,附者十餘萬。既殺文茂,轉攻傍邑。將至成都,十餘日戰敗,退保新城求降。文茂,黎州刺史文熾弟,襄陽人也。

韓懷明、上党郡の人なり。客居して荊州に住す。十歳、母屍疰を患い、発する毎に輒ち危殆なり。懷明夜に星下に於いて稽顙祈禱す。時寒甚だ切なり。忽ち香気を聞き、空中人ありて曰く、「童子の母は須臾の内に永く差えん、労して自ら苦しむ無かれ」と。未だ暁けざるに而も母平復す。郷里此を以て之を異とす。十五にして父を喪い、幾くんか将に性を滅ぼさんとす。土を負いて墳を成し、賻助受けず。喪を免れ、郷人郭麻と俱に南陽の劉虯に師事す。虯嘗て一日講を廃し、独り居りて涕泣す。懷明窃かに虯の家人に問う。答えて云く、是れ外祖父の亡き日なりと。時に虯の母も亦已に亡し。懷明之を聞き、即日に学を罷め、家に還り就きて養う。虯歎じて曰く、「韓生に丘吾の恨み無し」と。家貧しく、力を肆いて以て甘脆を供し、膝下に嬉怡し、朝夕母の側を離れず。母年九十、寿を以て終わる。懷明水漿口に入れず一旬、号哭声絶えず。双の白鳩其の廬上に巣くい、字乳して馴狎し、家禽の若し。服釈して乃ち去る。及び喪を除き、蔬食終身し、衣衾改むる所無し。梁の天監初年、刺史始興王憺表して之を言う。州累ね辟くも就かず、家に於いて卒す。

原文韓懷明,上黨人也。客居荊州。十歲,母患屍疰,每發輒危殆。懷明夜於星下稽顙祈禱,時寒甚切,忽聞香氣,空中有人曰:「童子母須臾永差,無勞自苦。」未曉而母平復,鄉里以此異之。十五喪父,幾至滅性,負土成墳,賻助無所受。免喪,與鄉人郭麻俱師南陽劉虯。虯嘗一日廢講,獨居涕泣,懷明竊問虯家人,答云是外祖亡日。時虯母亦已亡矣,懷明聞之,即日罷學,還家就養。虯歎曰:「韓生無丘吾之恨矣。」家貧,肆力以供甘脆,嬉怡膝下,朝夕不離母側。母年九十,以壽終。懷明水漿不入口一旬,號哭不絕聲。有雙白鳩巢其廬上,字乳馴狎,若家禽焉,服釋乃去。及除喪,蔬食終身,衣衾無所改。梁天監初,刺史始興王憺表言之。州累辟不就,卒於家。

褚修、呉郡銭唐県の人なり。父仲都、周易に善く、当時の冠たり。梁の天監中、歴位して五経博士と為る。修少くして父の業を伝う。武陵王紀揚州と為るや、引きて宣恵参軍と為し、兼ねて限内記室とす。修性至孝、父喪に毀瘠礼を過ぎ、因りて冷気を患う。及び母憂に丁り、水漿口に入れず二十三日、号慟する毎に輒ち血を嘔し、遂に毀に以て卒す。

原文褚修,吳郡錢唐人也。父仲都,善周易,為當時之冠。梁天監中,歷位五經博士。修少傳父業,武陵王紀為揚州,引為宣惠參軍,兼限內記室。修性至孝,父喪毀瘠過禮,因患冷氣。及丁母憂,水漿不入口二十三日,每號慟輒嘔血,遂以毀卒。

張景仁、広平郡の人なり。父は梁の天監初年に同県の韋法に殺さる。景仁時年八歳。及び長じ、志は復讐に在り。普通七年、公田渚に於いて法に遇い、手ずから其の首を斬り以て父の墓に祭る。事竟り、郡に詣り自ら縛し、刑法に依るを乞う。太守蔡天起州に上言す。時に簡文鎮に在り、乃ち教を下して之を褒美し、其の罪を原い、属長に下して其の一戸の租調を蠲き、以て孝行を旌す。

原文張景仁,廣平人也。父梁天監初為同縣韋法所殺,景仁時年八歲。及長,志在復讎。普通七年,遇法于公田渚,手斬其首以祭父墓。事竟,詣郡自縛,乞依刑法。太守蔡天起上言于州,時簡文在鎮,乃下教褒美之,原其罪,下屬長蠲其一戶租調,以旌孝行。

又た天監中、宣城郡宛陵県の女子、母と同床に眠る。母は猛獣に取らる。女啼号して猛獣に随いて挐れ、数十里を行く。獣の毛尽く落ち、獣乃ち其の母を置きて去る。女母を抱けば猶お気息有り、時を経て乃ち絶ゆ。郷里郡県に言う。太守蕭琛表して上る。詔して其の門閭に榜す。

原文又天監中,宣城宛陵女子與母同床眠,母為猛獸所取,女啼號隨挐猛獸,行數十里,獸毛盡落,獸乃置其母而去。女抱母猶有氣息,經時乃絕。鄉里言于郡縣,太守蕭琛表上,詔榜其門閭。

また、霸城王整の姉は衛敬瑜の妻に嫁いだが、十六歳で敬瑜が亡くなると、父母と舅姑は皆彼女を再嫁させようとしたが、誓って許さず、耳を切り取って盤中に置き、誓いとしてやっと止んだ。そこで手ずから亡き夫のために数百本の木を植え、墓前の柏の木が忽然と連理となったが、一年ほどしてまた分散した。女は詩を作って言うには、「墓前一株柏、根連復並枝。妾心能感木、頹城何足奇」。住んでいる家の戸に燕の巣があり、常に二羽で飛び来たり去っていたが、後に突然一羽で飛ぶようになった。女はその片方だけが棲むのに感じ入り、糸で足に印をつけた。後の年、この燕は果たしてまたやって来て、以前の糸をまだ帯びていた。女はまた詩を作って言うには、「昔年無偶去、今春猶獨歸。故人恩既重、不忍復雙飛」。雍州刺史の西昌侯蕭藻はその美しい節操を称え、門に楼を建て、「貞義衛婦之閭」と題した。また朝廷に上表した。

原文又霸城王整之姊嫁為衛敬瑜妻,年十六而敬瑜亡,父母舅姑咸欲嫁之,誓而不許,乃截耳置盤中為誓乃止。遂手為亡婿種樹數百株,墓前柏樹忽成連理,一年許還復分散。女乃為詩曰:「墓前一株柏,根連復並枝。妾心能感木,頹城何足奇。」所住戶有燕巢,常雙飛來去,後忽孤飛。女感其偏棲,乃以縷系腳為志。後歲此燕果復更來,猶帶前縷。女復為詩曰:「昔年無偶去,今春猶獨歸。故人恩既重,不忍復雙飛。」雍州刺史西昌侯藻嘉其美節,乃起樓於門,題曰:「貞義衛婦之閭」。又表於台。

後に河東の劉景昕が母に孝行で慎み深く仕え、母は常に癖の病を三十余年患っていたが、一朝にして癒え、郷里では景昕の誠実が感じ通じたと思った。荊州刺史の湘東王蕭繹が主簿に辟召した。

原文後有河東劉景昕事母孝謹,母常病癖三十餘年,一朝而瘳,鄉里以為景昕誠感。荊州刺史湘東王繹辟為主簿。

陶子鏘は字を海育といい、丹陽秣陵の人である。父の陶延は尚書比部郎であった。兄の陶尚は宋末に幸臣の恨みを買い、捕らえられた。子鏘は公私にわたり訴え、血を流して額を地にすりつけ、道行く人も哀れみ傷んだ。謝超宗が車から降りて訪ねて来るのに出会い、引き返して県に入り建康令の労彦遠に会って言うには、「どうして人の兄弟がこのようであるのを見て心を留めないでいられようか」。労はそれに感じ、兄は釈放された。母が亡くなると、喪に服して礼を尽くした。範雲と隣り合わせで、雲はその哭く声を聞くたびに、必ず表情を動かし顔色を変え、推薦しようとした。会うことなく雲が亡くなった。初め、子鏘の母は蓴を好んだ。母が没した後、常に供え物とした。梁武帝の義軍が初めて到着したこの年の冬、蓴を手に入れることができず、子鏘は痛み恨み、慟哭して気絶し、久しくしてようやく蘇生した。そこで長く蓴の味を断った。

原文陶子鏘字海育,丹陽秣陵人也。父延,尚書比部郎。兄尚,宋末為幸臣所怨,被系。子鏘公私緣訴,流血稽顙,行路嗟傷。逢謝超宗下車相訪,回入縣詣建康令勞彥遠曰:「豈忍見人昆季如此而不留心。」勞感之,兄得釋。母終,居喪盡禮。與範雲鄰,雲每聞其哭聲,必動容改色,欲相申薦。會雲卒。初,子鏘母嗜蓴,母沒後,恒以供奠。梁武義師初至,此年冬營蓴不得,子鏘痛恨,慟哭而絕,久之乃蘇。遂長斷蓴味。

成景雋は字を超といい、范陽の人である。祖父の成興は魏に仕えて五兵尚書となった。父の成安楽は淮陽太守であった。梁の天監六年、常邕和が安楽を殺し、城を挙げて内附した。景雋は復讐を謀り、魏の宿預城主を殺して、その地を南に帰属させた。普通六年、邕和が鄱陽内史となると、景雋は人を買ってこれを刺殺させた。間もなく、重ねて報奨を出して邕和の家族に毒を飲ませてその子弟を殺させ、生き残った者も全て尽きた。武帝はその義を認め、常に法を曲げて許した。景雋は家の仇が既に晴れたので、常に恩に報いようと思い、後に北豫州刺史に任じられ、魏を侵すに当たり、向かうところ必ずその智勇を推し量られ、当時は馬仙琕に比された。また政績があり懐かれ、北豫州の吏民は碑を建ててその徳を記した。卒し、諡して忠烈といった。

原文成景雋字超,范陽人也。祖興,仕魏為五兵尚書。父安樂,淮陽太守。梁天監六年,常邕和殺安樂,以城內附。景雋謀復讎,因殺魏宿預城主,以地南入。普通六年,邕和為鄱陽內史,景雋購人刺殺之。未久,重購邕和家人鴆殺其子弟,噍類俱盡。武帝義之,每為屈法。景雋家讎既雪,每思報效,後除北豫州刺史,侵魏,所向必推其智勇,時以比馬仙琕。兼有政績見懷,北豫州吏人樹碑紀德。卒,諡曰忠烈云。

李慶緒は字を孝緒といい、広漢郪の人である。父が人に害され、慶緒は九歳で孤児となり、兄に養われ、日夜号泣し、志は復讐にあった。州将の陳顕達に身を投じ、その部隊の中で白昼、自ら手ずから仇を斬り、自ら縛られて罪に帰したが、州将はその義を認めて釈放した。梁の天監年間、東莞太守となった。母の喪に服して職を去り、墓の傍らに廬を結び、慟哭するたびに数升の血を吐いた。後に巴郡太守となり、良吏と称された。累進して衛尉となり、安陸県侯に封じられた。益州では三百年間再び貴い官に就く者がなかったが、慶緒は恩寵を受けてこの地位に至り、西に帰りたくなった。間もなく太子右衛率に転じたが、拝受せずに卒した。

原文李慶緒字孝緒,廣漢郪人也。父為人所害,慶緒九歲而孤,為兄所養,日夜號泣,志在復讎。投州將陳顯達,仍于部伍白日手刃其仇,自縛歸罪,州將義而釋之。梁天監中,為東莞太守。丁母憂去職,廬於墓側,每慟嘔血數升。後為巴郡太守,號良吏。累遷衛尉,封安陸縣侯。益州三百年無復貴仕,慶緒承恩至此,便欲西歸。尋徙太子右衛率,未拜而卒。

謝藺は字を希如といい、陳郡陽夏の人で、晋の太傅謝安の八世孫である。父の謝経は北中郎諮議参軍であった。藺が五歳の時、父がまだ食事をしておらず、乳母が先に食べさせようとしたが、藺は終に進まなかった。舅の阮孝緒がこれを聞き、嘆じて言うには、「この児は家にあれば曾子の流れ、君に事えれば藺相如の匹敵である」。よって名を藺とした。少し経史を授けると、目を通せばすぐに暗誦でき、孝緒は常に言った、「わが家の陽元(賢才)である」。父の喪に服すると、昼夜号慟し、やつれ衰えて骨ばかりとなった。母の阮氏が常に見守り諭し慰めた。喪が明けると、吏部尚書の蕭子顕がその至高の行いを称え、王府法曹行参軍に抜擢した。累進して外兵参軍、記室参軍となった。

原文謝藺字希如,陳郡陽夏人,晉太傅安之八世孫也。父經,北中郎諮議參軍。藺五歲時,父未食,乳媼欲令先飯,藺終不進。舅阮孝緒聞之,歎曰:「此兒在家則曾子之流,事君則藺生之匹。」因名曰藺。稍授以經史,過目便能諷誦,孝緒每曰:「吾家陽元也。」及丁父憂,晝夜號慟,毀瘠骨立。母阮氏常自守視譬抑之。服闋,吏部尚書蕭子顯嘉其至行,擢為王府法曹行參軍。累遷外兵、記室參軍。

時に甘露が士林館に降り、謝藺が頌を献上すると、武帝はこれを嘉した。詔があり、北兗州刺史蕭楷の徳政碑を作らせた。また詔を奉じて宣城王が中庸を奉述する頌を作らせた。後に兼散騎常侍となり、魏に使した。侯景が帰附して来ると、国境で兵が交わり、謝藺の母は帰還できないのを憂え、気を病んで卒した。謝藺が帰国し、国境に入って夜に不吉な夢を見ると、朝にはすぐに駅馬を飛ばして帰った。到着すると、号慟して血を吐き、気絶して久しく、水漿も口に入れなかった。哭くたびに、眼耳口鼻から皆血が流れ、一か月余りを経て、夜に臨んで卒した。作った詩賦碑頌は数十篇。子に謝貞がいる。

原文時甘露降士林館,藺獻頌,武帝嘉之。有詔使制北兗州刺史蕭楷德政碑。又奉詔令制宣城王奉述中庸頌。後為兼散騎常侍,使魏。會侯景入附,境上交兵,藺母既慮不得還,感氣而卒。及藺還,入境夜夢不祥,旦便投列馳歸。及至,號慟嘔血,氣絕久之,水漿不入口。每哭,眼耳口鼻皆血流,經月餘日,因夜臨而卒。所制詩賦碑頌數十篇。子貞。

謝貞は字を元正といい、幼くして聡明で、至高の天性があった。祖母の阮氏は以前から風眩に苦しみ、発作があるたびに、一二日飲食できない。謝貞が七歳の時、祖母が食べないと、謝貞も食べず、しばしばこのようであった。母の王氏が論語と孝経を授けると、読み終わればすぐに暗誦した。八歳の時、春日閒居の詩を作り、母方の従舅の王筠はこれを奇異とし、親しい者に言うには、「『風定花猶落』に至っては、謝恵連の後を追うものである」。十三歳で、特に左氏春秋に優れ、草書・隷書・虫書・篆書に巧みであった。

原文貞字元正,幼聰敏,有至性。祖母阮氏先苦風眩,每發,便一二日不能飲食。貞時年七歲,祖母不食,貞亦不食,往往如此。母王氏授以論語、孝經,讀訖便誦。八歲,嘗為春日閒居詩,從舅王筠奇之,謂所親曰:「至如'風定花猶落',乃追步惠連矣。」年十三,尤善左氏春秋,工草隸蟲篆。

十四歳で父の喪に服し、地に倒れて号泣し、気絶して蘇生することを数度繰り返した。初め謝貞の父の謝藺は憂いで身を毀して卒し、家族や賓客はまた謝貞を憂えた。従父の謝洽と族兄の謝暠が共に華厳寺の長爪禅師を請い、謝貞のために説法させた。そこで母が侍養を必要とし、身を毀すべきでないと諭し、ようやく少し粥を進めるようになった。魏が江陵を陥とすと、長安に入った。謝暠は番禺に逃難し、謝貞の母は宣明寺で出家した。陳の武帝が禅を受けると、謝暠は郷里に帰り、謝貞の母を供養すること二十年近くに及んだ。

原文十四,丁父艱,號頓於地,絕而復蘇者數矣。初貞父藺以憂毀卒,家人賓客復憂貞,從父洽、族兄暠乃共請華嚴寺長爪禪師為貞說法。仍譬以母須侍養,不宜毀滅,乃少進饘粥。及魏克江陵,入長安。暠逃難番禺,貞母出家于宣明寺。及陳武帝受禪,暠還鄉里,供養貞母,將二十年。

初め謝貞が周にいた時、周の武帝の愛弟である趙王宇文招に侍読として仕え、招は厚く礼遇した。彼が独りでいる時、必ず昼夜涕泣していると聞き、内々に尋ねて母が郷里にいることを知ると、言うには、「寡人もし藩国に出れば、必ず侍読を家に帰らせよう」。後数年、招は果たして出藩し、その際に辞し、面奏して謝貞を帰国させることを請うた。帝は招の仁愛を奇異とし、聘使の杜子暉に随って帰国させた。この年は陳の太建五年である。

原文初貞在周,嘗侍周武帝愛弟趙王招讀,招厚禮之。聞其獨處,必晝夜涕泣,私問知母在鄉,乃謂曰:「寡人若出居藩,當遣侍讀還家。」後數年,招果出,因辭,面奏請放貞還。帝奇招仁愛,遣隨聘使杜子暉歸國。是歲陳太建五年也。

周から帰国した当初、始興王陳叔陵が揚州刺史となり、祠部侍郎の阮卓を記室に引き、謝貞を主簿に辟召した。間もなく府録事参軍に遷り、丹陽丞を領した。謝貞は叔陵に異志があると知り、阮卓と共に王から自ら距離を置いた。宴遊があるたびに、常に病気を理由に辞し、一度も参与せず、叔陵は彼を大いに重んじ、罪に問わなかった。叔陵が逆を肆うと、ただ謝貞と阮卓だけが連座しなかった。

原文始自周還時,始興王叔陵為揚州刺史,引祠部侍郎阮卓為記室,辟貞為主簿。尋遷府錄事參軍,領丹陽丞。貞知叔陵有異志,因與卓自疏于王。每有宴遊,輒以疾辭,未嘗參預,叔陵雅重之,弗之罪也。及叔陵肆逆,唯貞與卓不坐。

再び南平王友に遷り、記室事を掌った。府長史の汝南周確が新たに都官尚書に任じられ、謝貞に辞譲の表を作らせると、後主はこれを見て奇異とした。尋ねて謝貞の作と知ると、舎人の施文慶に命じて言うには、「謝貞は王家に禄秩がない。米百石を賜え」。母の喪で職を去った。間もなく、詔で府に戻るよう命じられたが、累次固く辞し、詔は許さなかった。謝貞は哀しみで身を毀し痩せ衰え、終に官舎に行くことができなかった。

原文再遷南平王友,掌記室事。府長史汝南周確新除都官尚書,請貞為讓表,後主覽而奇之。及問知貞所作,因敕舍人施文慶曰:「謝貞在王家未有祿秩,可賜米百石。」以母憂去職。頃之,敕起還府,累啟固辭,敕不許。貞哀毀羸瘠,終不能之官舍。

吏部尚書の姚察は貞と親しく交わり、貞が病篤くなった時、後事を問うた。貞は言う、「孤子は禍が集まり、灰土に従わんとす。族子の凱らは粗く自ら成立し、既に疏を付けておる。これは固より厚徳を仰ぎ塵にすることは足らぬ。弱児は年甫六歳、名は靖、字は依仁、情累として忘れられぬ、敢えて託さんとす。」と。この夜卒す。後主は察に問うて曰く、「謝貞に何か親属はあるか。」察は靖を以て答えしに、即ち勅して長く衣糧を給せしむ。初め貞の病むや、遺疏ありて族子の凱に告げて曰く、「気絶の後、もし僧家の屍陀林の法に依らば、是れ吾が願う所なり、正に過ぎて独異と為るを恐る。薄板を用いて周身とし、露車に載せ、草席を以て覆い、坎山の次に埋めよ。又靖は年尚小、未だ人事を閲せず、但し三月の間小床を施し、香水を設け、卿兄弟の相厚き情を尽くすべし。即ちこれを除け、益なき事は為すなかれ。」と。

原文吏部尚書姚察與貞友善,及貞病篤,問以後事。貞曰:「孤子釁禍所集,將隨灰壤,族子凱等粗自成立,己有疏付之,此固不足仰塵厚德。弱兒年甫六歲,名靖,字依仁,情累所不能忘,敢以為托。」是夜卒。後主問察曰:「謝貞有何親屬?「察以靖答,即敕長給衣糧。初貞之病,有遺疏告族子凱:「氣絕之後,若依僧家屍陀林法,是吾所願,正恐過為獨異。可用薄板周身,載以露車,覆以草席,坎山次而埋之。又靖年尚小,未閱人事,但可三月施小床,設香水,盡卿兄弟相厚之情。即除之,無益之事,勿為也。」

殷不害は字を長卿といい、陳郡長平の人である。祖父の汪は、斉の豫章王の行参軍であった。父の高明は、梁の尚書中兵郎であった。不害は性至孝にして、父の憂いに居り礼を過ごし、これにより少にして名を知られた。家世は儉約にして、居ること甚だ貧寠なり。弟五人あり、皆幼弱なり。不害は老母に事え、小弟を養い、勤劇として至らざる所なく、士大夫は篤行を以て之を称す。

原文殷不害字長卿,陳郡長平人也。祖汪,齊豫章王行參軍。父高明,梁尚書中兵郎。不害性至孝,居父憂過禮,由是少知名。家世儉約,居甚貧寠。有弟五人,皆幼弱。不害事老母,養小弟,勤劇無所不至,士大夫以篤行稱之。

年十七にして、梁に仕えて廷尉平となり、政事に長じ、兼ねて儒術を以て飾り、名法に軽重不便なる者あれば、輒ち上書して之を言い、多く納用せらる。大同五年、東宮通事舎人を兼ぬ。時に朝政多く東宮に委ね、不害は舎人の庾肩吾と直日にて奏事す。梁武帝嘗て肩吾に謂いて曰く、「卿は文学の士なり、吏事は卿の長とする所に非ず、何ぞ殷不害を使わざるや。」と。其の知らるること此の如し。簡文は不害の親に善く事うるを以て、其の母蔡氏に錦の裙襦、氈席、被褥を賜い、単復畢く備わる。

原文年十七,仕梁為廷尉平,長於政事,兼飾以儒術,名法有輕重不便者,輒上書言之,多見納用。大同五年,兼東宮通事舍人。時朝政多委東宮,不害與舍人庾肩吾直日奏事,梁武帝嘗謂肩吾曰:「卿是文學之士,吏事非卿所長,何不使殷不害來邪?」其見知如此。簡文以不害善事親,賜其母蔡氏錦裙襦氈席被褥,單復畢備。

侯景の乱に、不害は簡文に従い台城に入る。台城陥落の時、簡文は中書省に在り、景は甲を帯び兵を将いて、朝に陛見し、過ぎて簡文を謁す。左右を衝突し、甚だ不遜なり。侍衛する者驚恐辟易せざるは莫く、唯だ不害と中庶子の徐摛のみ侍側して動かず。簡文は景に幽せられ、人を遣わして不害と居処するを請う。景之を許す。不害は供侍すること益々謹みたり。

原文侯景之亂,不害從簡文入台。及台城陷,簡文在中書省,景帶甲將兵,入朝陛見,過謁簡文,衝突左右,甚不遜,侍衛者莫不驚恐辟易,唯不害與中庶子徐摛侍側不動。簡文為景所幽,遣人請不害與居處,景許之,不害供侍益謹。

梁元帝立つや、不害を以て中書郎と為し、廷尉卿を兼ぬ。魏江陵を平げし時、母の所在を失う。時に甚だ寒雪にして、凍死者溝壑に満つ。不害は行きて哭き求め、声暫くも輟まず。死人溝中に遇うや、即ち身を投げて捧げ視る。挙体凍僵し、水漿口に入れざること七日にして、始めて母の屍を得たり。屍に憑りて哭き、音を挙ぐる毎に輒ち気絶す。行路皆之が為に涕を流す。即ち江陵に権めて殯し、王褒・庾信と倶に長安に入る。是より蔬食布衣、枯槁骨立し、見る者哀しまざるは莫し。

原文梁元帝立,以不害為中書郎,兼廷尉卿。魏平江陵,失母所在。時甚寒雪,凍死者填滿溝壑。不害行哭尋求,聲不暫輟。遇見死人溝中,即投身捧視,舉體凍僵,水漿不入口者七日,始得母屍。憑屍而哭,每舉音輒氣絕,行路皆為流涕。即江陵權殯,與王褒、庾信俱入長安。自是蔬食布衣,枯槁骨立,見者莫不哀之。

太建七年、周より陳に還り、司農卿を除かる。晉陵太守に遷る。郡に在りて疾を感ず。詔して光禄大夫を以て征し還りて疾を養わしむ。後主即位し、給事中を加う。初め、不害の還るや、周其の長子僧首を留め、関中に居らしむ。禎明三年、陳亡び、僧首来り迎う。不害は道に卒す。年八十五。不害の弟に不佞あり。

原文太建七年,自周還陳,除司農卿。遷晉陵太守。在郡感疾,詔以光祿大夫征還養疾。後主即位,加給事中。初,不害之還也,周留其長子僧首,因居關中。禎明三年,陳亡,僧首來迎,不害道卒,年八十五。不害弟不佞。

不佞は字を季卿といい、少にして名節を立て、父の喪に居りて至孝を以て称せらる。書を読み好み、尤も吏術に長ず。梁承聖初め、武康令と為る。時に兵荒饑饉、百姓流移す。不佞は循撫招集し、繈負して至る者千数を以て数う。会うに魏江陵を克つに及び、而して母卒す。道路隔絶し、久しく奔赴を得ず。四載の中、昼夜号泣し、居処飲食、常に居喪の礼を為す。陳武帝禅を受く。婁令を除かる。是に至りて第四兄不齊始めて江陵に於いて母の喪柩を迎え帰葬す。不佞の居処の節、始めて問い聞くが如く、此の若き者又三年なり。身自ら土を負い、手ずから松柏を植え、歳時伏臘の毎に、必ず三日食せず。

原文不佞字季卿,少立名節,居父喪以至孝稱。好讀書,尤長吏術。梁承聖初,為武康令。時兵荒饑饉,百姓流移,不佞循撫招集,繈負至者以千數。會魏克江陵,而母卒,道路隔絕,久不得奔赴。四載之中,晝夜號泣,居處飲食,常為居喪之禮。陳武帝受禪,除婁令。至是第四兄不齊始於江陵迎母喪柩歸葬。不佞居處之節,如始聞問,若此者又三年。身自負土,手植松柏,每歲時伏臘,必三日不食。

文帝の時、尚書右丞を兼ね、東宮通事舎人に遷る。及び廃帝嗣ぎ立ち、宣帝太傅・録尚書として政を輔くるや、甚だ朝望の帰する所と為る。不佞は素より名節を以て自立し、又東宮に委を受けたり。乃ち僕射の到仲挙・中書舎人の劉師知・尚書左丞の王暹等と謀り、詔を矯りて宣帝を出さんとす。衆人猶豫して未だ敢えて先ず発せず。不佞乃ち馳せて相府に詣り、面して詔旨を宣べ、相王をして第に還らしむ。事発するに及び、仲挙等皆誅せらる。宣帝は雅に不佞を重んじ、特に之を赦し、其の官を免するのみ。即位に及び、軍師始興王諮議参軍と為す。後に尚書左丞を兼ね、通直散騎常侍を加え、官に卒す。不佞の兄に不疑・不占・不齊あり、並びに早く亡ぶ。第二の寡嫂張氏に事えて甚だ謹み、得る所の禄奉、私室に入れず。長子梵童、位は尚書金部郎。

原文文帝時,兼尚書右丞,遷東宮通事舍人。及廢帝嗣立,宣帝為太傅、錄尚書輔政,甚為朝望所歸。不佞素以名節自立,又受委東宮,乃與僕射到仲舉、中書舍人劉師知、尚書左丞王暹等謀,矯詔出宣帝。眾人猶豫未敢先發,不佞乃馳詣相府,面宣詔旨,令相王還第。及事發,仲舉等皆伏誅,宣帝雅重不佞,特赦之,免其官而已。及即位,以為軍師始興王諮議參軍。後兼尚書左丞,加通直散騎常侍,卒官。不佞兄不疑、不占、不齊並早亡,事第二寡嫂張氏甚謹,所得祿奉,不入私室。長子梵童,位尚書金部郎。

司馬暠は字を文升といい、河内温の人である。高祖の柔之は、晋の侍中にして、南頓王の孫として斉の文獻王攸の後に紹ぐ。父の子産は、即ち梁武帝の外兄なり。位は岳陽太守。

原文司馬暠字文升,河內溫人也。高祖柔之,晉侍中,以南頓王孫紹齊文獻王攸後。父子產,即梁武帝之外兄也,位岳陽太守。

暠は幼くして聰警、至性あり。年十二、内艱に丁り、哀慕礼を過ごし、水漿口に入れず、殆ど一旬を経る。号慟する毎に、必ず悶絶に至る。父毎に之を諭し、粥を進めしむ。然れども猶お毀瘠骨立す。服闋し、姻戚の子弟として入り問訊す。梁武帝其の羸疾を見て、歎息すること久し。其の小字を字して其の父に謂いて曰く、「昨羅児の面顔憔悴なるを見て、人をして惻然たらしむ。便ち是れ家風を墜とさず、子有るを為すなり。」と。後に累遷して正員郎。父艱に丁り、哀毀愈甚だしく、墓側に廬し、日々薄き麦粥一升を進む。墓は新林に在り、山阜に連接し、旧より猛獸多し。暠廬を結ぶこと数載、豺狼跡を絶つ。常に両鳩有りて廬所に棲宿し、馴狎異常なり。承聖中、太子庶子を除かる。魏江陵を克つ。例に随い長安に入る。而して梁の宗室屠戮せられ、太子の殯瘞する所を失う。周の禅を受くるに及び、暠は宮臣を以て、乃ち表を抗して江陵に還り改葬を求め、辞甚だ酸切なり。周朝優詔を以て之に答え、即ち荊州に勅して礼を以て安厝せしむ。陳の太建八年、周より還る。宣帝特ち殊礼を降す。歴位して通直散騎常侍・太中大夫、卒す。集十巻有り。

原文暠幼聰警,有至性。年十二,丁內艱,哀慕過禮,水漿不入口,殆經一旬。每號慟,必至悶絕,父每喻之,令進粥,然猶毀瘠骨立。服闋,以姻戚子弟入問訊,梁武帝見其羸疾,歎息久之。字其小字謂其父曰:「昨見羅兒面顏憔悴,使人惻然,便是不墜家風,為有子矣。」後累遷正員郎。丁父艱,哀毀愈甚,廬於墓側,日進薄麥粥一升。墓在新林,連接山阜,舊多猛獸,暠結廬數載,豺狼絕跡。常有兩鳩棲宿廬所,馴狎異常。承聖中,除太子庶子。魏克江陵,隨例入長安。而梁宗屠戮,太子殯瘞失所,及周受禪,暠以宮臣,乃抗表求還江陵改葬,辭甚酸切。周朝優詔答之,即敕荊州以禮安厝。陳太建八年,自周還,宣帝特降殊禮。歷位通直散騎常侍、太中大夫,卒。有集十卷。

子の延義は字を希忠といい、少にして沈敏好学なり。初め父に随い関に入り、母憂に丁り、喪礼を過ごす。暠の都に還るに及び、延義は乃ち躬ずから霊櫬を負い、昼は伏し宵に行き、冰霜を履み冒し、手足皸瘃す。都に至り、遂に攣痺を致し、数年にして乃ち愈ゆ。位は司徒従事中郎。

原文子延義字希忠,少沈敏好學。初隨父入關,丁母憂,喪過於禮。及暠還都,延義乃躬負靈櫬,晝伏宵行,冒履冰霜,手足皸瘃。至都,遂致攣廢,數年乃愈。位司徒從事中郎。

張昭は字を徳明といい、呉郡呉の人である。幼くして孝性有り。父の熯は常に消渇を患い、鮮魚を嗜む。昭は乃ち身自ら網を結び魚を捕え、以て朝夕に供す。弟の幹は字を玄明といい、聰敏好学、亦た至性有り。父卒するに及び、兄弟並びに綿帛を衣せず、塩酢を食せず、日唯だ一升の麦屑粥を食す。一たび感慟する毎に、必ず欧血を致し、鄰里之を聞き、皆之が為に涕泣す。父の服未だ終わらざるに、母の陸氏又卒す。兄弟遂に六年哀毀し、形容骨立す。家貧しく、未だ大葬を得ず。遂に布衣蔬食、十有餘年、門を杜み出でず、人事を屏絶す。時に衡陽王伯信州に臨み、幹を挙げて孝廉とす。固く辞して就かず。兄弟並びに毀に因りて疾を成し、昭は一眼失明し、幹も亦た中冷苦癖す。年並びに未だ五十ならず、家に終わる。子の胤俱に絶ゆ。

原文張昭字德明,吳郡吳人也。幼有孝性,父熯常患消渴,嗜鮮魚,昭乃身自結網捕魚,以供朝夕。弟幹字玄明,聰敏好學,亦有至性。及父卒,兄弟並不衣綿帛,不食鹽酢,日唯食一升麥屑粥。每一感慟,必致歐血,鄰里聞之,皆為涕泣。父服未終,母陸氏又卒,兄弟遂六年哀毀,形容骨立。家貧,未得大葬,遂布衣蔬食,十有餘年,杜門不出,屏絕人事。時衡陽王伯信臨州,舉幹孝廉,固辭不就。兄弟並因毀成疾,昭一眼失明,幹亦中冷苦癖,年並未五十,終於家,子胤俱絕。

宣帝の時、太原の王知玄という者が会稽郡剡県に寓居し、家にあっては孝行をもって知られた。父の喪に遭い、哀傷のあまり身を毀して卒した。帝はこれを嘉し、詔してその住む青苦里を孝家里と改めさせた。

原文宣帝時,有太原王知玄者,僑居會稽剡縣,居家以孝聞。及丁父憂,哀毀而卒。帝嘉之,詔改所居青苦裏為孝家裏。

論

原文【論】

論うに、薄俗の風が起こるや、人倫は毀れ薄くなる。およそ抑制と導きの教えは、風俗を導くに先んずるものであり、里を変え門を旌ぐは、勧奨の義を存するのである。これにより漢代の士は身を修めることに務め、忠孝が俗を成し、軒に乗り冕を服するは、これによらざれば得られなかった。晋・宋以来、風は衰え義は欠け、身を刻み行いを励ますことは、膏腴の地の事とは薄くなった。もし孝が閨庭に立ち、忠が史策に被わるならば、多くは溝畎の中より発し、衣簪の下より出ずるものではない。これを以て声教を言うは、また卿大夫の恥辱ではなかろうか。

原文論曰:自澆風一起,人倫毀薄,蓋抑引之教,導俗所先,變裏旌閭,義存勸獎。是以漢世士務修身,故忠孝成俗,至於乘軒服冕,非此莫由。晉、宋以來,風衰義缺,刻身厲行,事薄膏腴。若使孝立閨庭,忠被史策,多發溝畎之中,非出衣簪之下。以此而言聲教,不亦卿大夫之恥乎。