南史
巻七十四 列傳第六十四 孝義下
孝義下
滕曇恭は、 豫 章郡南昌県の人である。五歳の時、母の楊氏が熱病にかかり、寒瓜を食べたいと思ったが、その土地の風土では産出しないものであった。曇恭はあちこち尋ね回ったが得ることができず、悲しみを胸に秘めてひどく嘆き悲しんだ。やがて一人の沙門に出会い、そのわけを尋ねられ、曇恭はことごとく告げた。沙門は言った、「私に瓜が二つある、一つを分けてお与えしよう」。帰って母に与えると、家中の者は驚き怪しんだ。すぐにその沙門を尋ね求めたが、どこにいるのか分からなかった。父母が亡くなると、曇恭は水さえも十日間口にせず、悲しみのあまり血を吐き、気絶してはまた蘇生した。厳冬でも綿入れを着ず、粗食で一生を終えた。毎年命日になると、慕う思いに堪えられず、昼夜を分かたず哀哭した。その門の外に冬生樹が二株あったが、時折突然神光が樹から立ち昇り、やがて仏像と脇侍の姿が見え、容姿の光が明らかにして、門から入って来た。曇恭の家族は大小ともに皆礼拝し、長い間して消えた。遠近の道俗に広く伝えられた。太守の王僧虔は曇恭を功曹に推挙したが、固辞して就任しなかった。王儉が当時僧虔に従って郡にいたが、滕曇恭を滕曾子と称した。梁の天監元年、陸璉が使命を奉じて風俗を巡行し、その様子を上表して言上した。曇恭には三人の子があり、皆品行と学業があった。
時に徐普済という者がいた、長沙郡臨湘県の人である。喪に服してまだ葬らないうちに、隣家で火事が起こり、延焼してその家屋に及んだ。普済は号哭して棺の上に伏せ、身をもって火を防いだ。隣人が救いに行くと、焼け爛れてすでに気絶しており、数日を経てようやく蘇生した。
また建康の人に張悌がいた、家が貧しく供養するに足りず、その事情を隣の富人に告げた。富人は与えず、憤りに耐えかね、ついに四人を結んで強盗を働き、得た衣服・物品は、三人の強盗が持ち去り、実際には一銭も自分に入らなかった。県は悌を死罪に処した。悌の兄の松が訴えて称した、「弟の景と私は前妻の子であり、後妻はただ悌を生んだだけです。松は年長でありながら教え導くことができませんでした。どうか悌に代わって死なせてください」。景もまた言った、「松は嫡出の長子であり、後妻はただ悌を生んだだけです。もし法に従えば、母もまた全うしません」。また代わって死ぬことを請うた。母もまた言った、「悌は死すべきです。どうして弟の罪をもって諸兄を枉げることがありましょうか」。悌もまた身分を引き受け、両兄の供養を全うすることを請うた。県はこれを上奏して裁決を請うと、帝は孝義であるとして、特に死罪を減じ、後世の例としないこととした。
陶季直は、丹陽郡秣陵県の人である。祖父は湣祖、宋の広州刺史。父は景仁、中散大夫。
季直は幼少より聡明で、湣祖は大いに愛し異とし、かつて四函の銀を前に並べて置き、諸孫にそれぞれ一つを取らせた。季直は当時四歳で、ただ一人取らなかった。言うには、「もし賜わるならば、まず父や伯父であるべきで、諸孫に及ぶべきではありません。故に取りません」。湣祖はますます彼を非凡だと思った。
五歳で母を喪い、哀しみは成人のようであった。初め母が病にかかる前、外で衣を染めるよう命じ、死後に家人がようやく贖い戻した。季直はそれを抱いて号哭し、聞く者は誰もが悲しみに感じなかった者はなかった。成長して学問を好み、栄利に淡泊であり、徴召されても起たず、当時の人は聘君と号した。後に望蔡県令となり、病気のため免官された。
時に劉彦節・ 袁粲 は斉の高帝の権勢が盛んなのを以て、彼を除こうと図った。彦節は平素から季直を重んじており、謀り事に加わらせようとした。季直は袁・劉が儒者であるから、必ずや転落するだろうとして、固辞して赴かなかった。まもなく彦節らは敗れた。
斉の初めに尚書比部郎となり、時に褚彦回が 尚書令 であったが、平素から季直と親しく、しばしば 司空 ・ 司徒 の主簿に任じ、府の事務を委ねた。彦回が亡くなると、 尚書令 の王儉は彦回に至高の行いがあるとして、「文孝公」と諡しようとした。季直は言った、「文孝は司馬道子の諡です。その人物が完全な美ではないことを恐れます。文簡の方がよいでしょう」。儉はこれに従った。季直はまた彦回のために碑を立てることを請い、始めから終わりまで営み護り、大いに官吏としての節操があった。再び東莞太守に転じ、郡において清和と称された。後に鎮西諮議参軍となった。
斉の武帝が崩御し、明帝が宰相となり、異分子を誅殺し除いた。季直は意に阿り容れられることができず、明帝は大いに彼を忌み嫌い、輔国長史・北海太守として出させた。辺境の職務の上佐は、素来の士人でこれに就く者は稀であり、ある者が季直に門を造って謝意を表すよう勧めた。明帝は留めて驃騎諮議参軍とし、兼ねて尚書左丞を務めさせ、建安太守に遷した。政治は清静で、百姓はこれを便利とした。
梁の朝廷が建てられると、給事黄門侍郎となり、常に「官は二千石に至って初めて本望が果たされた。長く人間の事に関わる必要はない」と言い、病気を理由に辞して郷里に帰った。梁の天監初年、そのまま太中大夫を拝された。武帝は言った、「梁が天下を有してから、遂にこの人を見なかった」。十年、家で卒去した。季直は平素から清貧苦節が並ぶものなく、また十余年間隠居していた。死んだ時、家には壁ばかりが立ち並び、子孫は殯斂するに足るものもなく、聞く者は誰もがその志と事績を悲しんだという。
沈崇傃は字を思整といい、呉興郡武康県の人である。父は懐明、宋の兗州刺史。崇傃は六歳で父の憂いに遭い、哭して跳びはねる礼を超えた。成長してから、生母に仕えて至孝であり、家が貧しかったため、常に書写の雇い仕事をして養った。天監二年、太守の柳惲が主簿に辟召した。崇傃は惲に従って郡に赴き、帰って母を迎えようとしたが、到着しないうちに母が亡くなった。崇傃は病に侍ることができなかったことを以て、死をもって償おうとし、水さえも口にせず、昼夜号哭し、十日ほどでほとんど絶息しそうになった。兄弟が言った、「殯葬がまだ済んでいないのに、急いで自らを滅ぼすのは、孝道を全うするものではありません」。崇傃は心に悟り、ようやく少し食事を進めた。母を仮に葬り、家から数里離れていたが、悲しみが至るたびにその仮葬の地に行き、雨雪をも避けなかった。毎度墳に寄りかかって哀哭すると、飛ぶ鳥が集まって来た。夜には常に猛獣が来て彼を見守り、嘆息するような声を立てるものがあった。家が貧しく改葬するに足るものもなく、ついに一年余り物乞いをして、ようやく葬ることができた。その後すぐに墓の傍らに廬を結び、初め喪礼を行った時十分でなかったことを自ら思い、さらに葬った後にもう一度三年の喪服を行った。長く麦の屑を食べ、塩や酢を口にせず、薄い敷物の上に坐り臥し、それによって虚腫して起き上がれなくなった。郡県が至孝として推挙した。梁の武帝が聞き、すぐに中書舎人を遣わして慰労し、詔を下して喪服を解くよう命じ、太子洗馬に抜擢して補し、その門閭を表彰した。崇傃は詔を奉じて喪服を解いたが、涙を流して泣くことは喪に服している時と変わらなかった。固辞して官を受けず、永寧県令に任じられた。自ら禄が養うに及ばなかったことを思い、哀しみの思いに堪えられず、県に至らないうちに卒去した。
荀匠は字を文師といい、潁陰の人、晋の太保荀勖の九世孫である。祖父の瓊は、十五歳の時成都の市で父の仇を復讐し、孝行で知られた。宋の元嘉末年に淮を渡り、武陵王の挙義に逢い、元凶の追兵に殺され、員外散騎侍郎を追贈された。父の法超は斉に仕えて安復県令となり、任地で卒去した。匠は号哭して気絶し、身体はすべて冷たくなり、夜になってようやく蘇生した。その後すぐに喪に赴き、毎夜江の渚に宿ると、商人の仲間はその哭く声を聞くに忍びなかった。
梁の天監元年、その兄斐は郁林太守となり、俚賊を征討したが、流れ矢に当たり、陣中にて死す。喪が還るや、匠は 豫 章にて迎え、舟を望んで水に投じ、傍らの人が救い赴き、僅かにして全うす。及び至り、家貧にして時に葬るを得ず、父の憂いと兄の喪服に居り、四年に歴りて廬戸を出でず。自ら括発して再び櫛沐せず、髪は皆禿げ落ち、哭くに時無し。声尽きれば則ち之を泣きに繋ぎ、目眥皆爛れ、形骸枯悴し、皮骨裁ちて連なり、家人と雖も復た識らず。郡県状を以て言上す。武帝詔して中書舎人を遣わし其の服を除かしめ、 豫 章王国左常侍に擢ぐ。匠は即吉すと雖も而も毀悴愈甚しく、外祖父孫謙之を誡めて曰く、「主上は孝を以て天下に臨み、汝の行いは古人を過ぐ、故に汝を此の職に擢ぐ。唯だ君父の命の拒み難きのみに非ず、故にまた後世に名を揚げ、顕わす所は豈に独り汝の身のみならんや」と。匠乃ち拝し、竟に毀に以て卒す。
吉翂、字は彦霄、 馮翊郡 蓮勺県の人なり。家は襄陽に居す。翂幼より孝性有り、年十一にして生母の憂いに遭い、水漿口に入れず、殆ど将に性を滅ぼさんとす。親党之を異とす。
梁の天監初年、父は呉興郡原郷県令たり、吏に誣えられ、廷尉に逮え詣る。翂年十五、衢路に号泣し、公卿に祈請す。行人見る者皆為に涕を隕す。其の父の理は清白と雖も、而も吏の訊を恥じ、乃ち虚しく自ら咎を引き、罪は大辟に当たる。翂乃ち登聞鼓を撾ち、父の命に代わるを乞う。武帝之を異とし、尚其の童幼を以て、人の教えを受けたるを疑い、廷尉蔡法度に勅して厳しく脅誘を加え、其の款実を取らしむ。法度乃ち寺に還り、盛んに徽纆を陳べ、厲色を以て問いて曰く、「爾が父に代わりて死ぬるを求むるは、勅已に相許す、便ち応に法に伏すべし。然れども刀鋸は至って劇し、審らかに能く死ぬるか。且つ爾は童孺、志此に及ばず、必ず人の教うる所ならん、姓名は誰ぞ。若し悔い異なる有らば、亦相聴許す」と。対えて曰く、「囚と雖も蒙弱なり、豈に死の畏憚すべきを知らざらんや。顧みるに諸弟幼藐、唯だ囚を長と為す、父の極刑を見るに忍びず、自ら視息を延ばす、所以に内に胸臆を断ち、上に万乗を幹す。今身を不測に殉せんと欲し、骨を泉壤に委ぬ、此れ細故に非ず、奈何ぞ人の教えを受くべきや」と。法度屈撓すべからざるを知り、乃ち更に和顔を以て誘いて之に語りて曰く、「主上は尊侯の無罪なるを知り、行く当に釈亮せん。君の神儀明秀なるを観るに、足れり以て佳童と称すべし。今若し辞を転ぜば、幸いに父子同じく済わん、奚ぞ此の妙年を以て苦しんで湯鑊を求むる」と。翂曰く、「凡そ鯤鮞螻蟻と雖も尚お其の生を惜しむ、況んや人斯に在りて、豈に願って齏粉たらんや。但だ父は深劾に掛かり、必ず刑書に正さる、故に僕の殞るるを思い、冀くは父の命を延ばさん」と。翂初め囚に見ゆるや、獄掾法に依り備えて桎梏を加う。法度之を矜み、命じて其の二械を脱がしめ、更に令して一小なる者を著けしむ。翂聴かず、曰く、「翂は父に代わりて死ぬるを求む、死囚豈に減ずべきや」と。竟に械を脱がず。法度以て聞く、帝乃ち其の父を宥す。
丹陽尹王志、其の廷尉に在りし故事を求め、並びに郷居を請い、歳首に於いて挙げて純孝に充てんと欲す。翂曰く、「異なる哉、王尹、何ぞ翂の薄きを量る。夫れ父辱しめられて子死す、斯の道固然なり。若し翂に面目を靦る有らば、当に此の挙に其れに当たるべく、則ち是れ父に因りて名を買う、一何ぞ甚だしき辱めぞ」と。之を拒みて止む。
年十七、辟に応じて本州の主簿と為り、出でて万年県を監す。官を摂すること期月、風化大いに行わる。雍より還り郢す。湘州刺史柳忱復た召して主簿と為す。後、秣陵の郷人裴儉、丹陽尹丞臧盾、揚州中正張仄連名して翂を薦め、以て孝行純至、易・老に明通すと為す。勅して太常に付して旌挙せしむ。初め、翂は父の罪に陥るに因り、悸疾を成す。後発に因りて卒す。
甄恬、字は彦約、中山国無極県の人なり、世々江陵に居す。数歳にして父を喪い、哀感有ること成人の若し。家人其の小なるを矜み、肉汁を以て飯に和し之に飼う。恬肯て食わず。年八歳、嘗て其の母に問い、恨むらくは生れて父を識らずと、遂に悲泣累日す。忽ち若し見る有るが如く、言うに形貌は則ち其の父なり、時に孝感と為す。家貧しくして母を養い、常に珍羞を得。及び喪に居り、墓側に廬す。恒に鳥玄黄雑色有りて廬樹に集まり、恬哭けば則ち鳴き、哭止めば則ち止む。又た白鳩白雀有りて其の廬に棲宿す。州将始興王憺其の行状を表す。詔して門閭を旌表し、爵位を以て加う。恬官は安南行参軍に至る。
趙拔扈、新城県の人なり。兄震動は財に富み、太守樊文茂之を求めて已まず。震動怒りて曰く、「厭くこと無きは将に我に及ばん」と。文茂其の語を聞き、其の族を聚めて之を誅す。拔扈走りて免れ、亡命して党を聚め、社樹に至りて祝して曰く、「文茂は拔扈の兄を殺す、今之に報いんと欲す。若し事克たば、樹を斫る処更に生え、克たざれば即ち死せん」と。三宿して三たび枿生じ十丈余り、人間伝えて以て神と為し、附く者十余万。文茂を殺し竟り、転じて傍邑を攻む。将に成都に至らんとす、十余日にして戦いに敗れ、新城に退き保ちて降を求む。文茂は、黎州刺史文熾の弟、襄陽の人なり。
韓懷明、上党郡の人なり。客居して荊州に住す。十歳、母屍疰を患い、発する毎に輒ち危殆なり。懷明夜に星下に於いて稽顙祈禱す。時寒甚だ切なり。忽ち香気を聞き、空中人ありて曰く、「童子の母は須臾の内に永く差えん、労して自ら苦しむ無かれ」と。未だ暁けざるに而も母平復す。郷里此を以て之を異とす。十五にして父を喪い、幾くんか将に性を滅ぼさんとす。土を負いて墳を成し、賻助受けず。喪を免れ、郷人郭麻と俱に南陽の劉虯に師事す。虯嘗て一日講を廃し、独り居りて涕泣す。懷明窃かに虯の家人に問う。答えて云く、是れ外祖父の亡き日なりと。時に虯の母も亦已に亡し。懷明之を聞き、即日に学を罷め、家に還り就きて養う。虯歎じて曰く、「韓生に丘吾の恨み無し」と。家貧しく、力を肆いて以て甘脆を供し、膝下に嬉怡し、朝夕母の側を離れず。母年九十、寿を以て終わる。懷明水漿口に入れず一旬、号哭声絶えず。双の白鳩其の廬上に巣くい、字乳して馴狎し、家禽の若し。服釈して乃ち去る。及び喪を除き、蔬食終身し、衣衾改むる所無し。梁の天監初年、刺史始興王憺表して之を言う。州累ね辟くも就かず、家に於いて卒す。
褚修、呉郡銭唐県の人なり。父仲都、周易に善く、当時の冠たり。梁の天監中、歴位して五経博士と為る。修少くして父の業を伝う。武陵王紀揚州と為るや、引きて宣恵参軍と為し、兼ねて限内記室とす。修性至孝、父喪に毀瘠礼を過ぎ、因りて冷気を患う。及び母憂に丁り、水漿口に入れず二十三日、号慟する毎に輒ち血を嘔し、遂に毀に以て卒す。
張景仁、広平郡の人なり。父は梁の天監初年に同県の韋法に殺さる。景仁時年八歳。及び長じ、志は復讐に在り。普通七年、公田渚に於いて法に遇い、手ずから其の首を斬り以て父の墓に祭る。事竟り、郡に詣り自ら縛し、刑法に依るを乞う。太守蔡天起州に上言す。時に簡文鎮に在り、乃ち教を下して之を褒美し、其の罪を原い、属長に下して其の一戸の租調を蠲き、以て孝行を旌す。
又た天監中、宣城郡宛陵県の女子、母と同床に眠る。母は猛獣に取らる。女啼号して猛獣に随いて挐れ、数十里を行く。獣の毛尽く落ち、獣乃ち其の母を置きて去る。女母を抱けば猶お気息有り、時を経て乃ち絶ゆ。郷里郡県に言う。太守蕭琛表して上る。詔して其の門閭に榜す。
また、霸城王整の姉は衛敬瑜の妻に嫁いだが、十六歳で敬瑜が亡くなると、父母と舅姑は皆彼女を再嫁させようとしたが、誓って許さず、耳を切り取って盤中に置き、誓いとしてやっと止んだ。そこで手ずから亡き夫のために数百本の木を植え、墓前の柏の木が忽然と連理となったが、一年ほどしてまた分散した。女は詩を作って言うには、「墓前一株柏、根連復並枝。妾心能感木、頹城何足奇」。住んでいる家の戸に燕の巣があり、常に二羽で飛び来たり去っていたが、後に突然一羽で飛ぶようになった。女はその片方だけが棲むのに感じ入り、糸で足に印をつけた。後の年、この燕は果たしてまたやって来て、以前の糸をまだ帯びていた。女はまた詩を作って言うには、「昔年無偶去、今春猶獨歸。故人恩既重、不忍復雙飛」。雍州刺史の西昌侯蕭藻はその美しい節操を称え、門に楼を建て、「貞義衛婦之閭」と題した。また朝廷に上表した。
後に河東の劉景昕が母に孝行で慎み深く仕え、母は常に癖の病を三十余年患っていたが、一朝にして癒え、郷里では景昕の誠実が感じ通じたと思った。荊州刺史の湘東王蕭繹が主簿に辟召した。
陶子鏘は字を海育といい、丹陽秣陵の人である。父の陶延は尚書比部郎であった。兄の陶尚は宋末に幸臣の恨みを買い、捕らえられた。子鏘は公私にわたり訴え、血を流して額を地にすりつけ、道行く人も哀れみ傷んだ。謝超宗が車から降りて訪ねて来るのに出会い、引き返して県に入り建康令の労彦遠に会って言うには、「どうして人の兄弟がこのようであるのを見て心を留めないでいられようか」。労はそれに感じ、兄は釈放された。母が亡くなると、喪に服して礼を尽くした。範雲と隣り合わせで、雲はその哭く声を聞くたびに、必ず表情を動かし顔色を変え、推薦しようとした。会うことなく雲が亡くなった。初め、子鏘の母は蓴を好んだ。母が没した後、常に供え物とした。梁武帝の義軍が初めて到着したこの年の冬、蓴を手に入れることができず、子鏘は痛み恨み、慟哭して気絶し、久しくしてようやく蘇生した。そこで長く蓴の味を断った。
成景雋は字を超といい、范陽の人である。祖父の成興は魏に仕えて五兵尚書となった。父の成安楽は淮陽太守であった。梁の天監六年、常邕和が安楽を殺し、城を挙げて内附した。景雋は復讐を謀り、魏の宿預城主を殺して、その地を南に帰属させた。普通六年、邕和が鄱陽内史となると、景雋は人を買ってこれを刺殺させた。間もなく、重ねて報奨を出して邕和の家族に毒を飲ませてその子弟を殺させ、生き残った者も全て尽きた。武帝はその義を認め、常に法を曲げて許した。景雋は家の仇が既に晴れたので、常に恩に報いようと思い、後に北 豫 州刺史に任じられ、魏を侵すに当たり、向かうところ必ずその智勇を推し量られ、当時は馬仙琕に比された。また政績があり懐かれ、北 豫 州の吏民は碑を建ててその徳を記した。卒し、諡して忠烈といった。
李慶緒は字を孝緒といい、広漢郪の人である。父が人に害され、慶緒は九歳で孤児となり、兄に養われ、日夜号泣し、志は復讐にあった。州将の陳顕達に身を投じ、その部隊の中で白昼、自ら手ずから仇を斬り、自ら縛られて罪に帰したが、州将はその義を認めて釈放した。梁の天監年間、東莞太守となった。母の喪に服して職を去り、墓の傍らに廬を結び、慟哭するたびに数升の血を吐いた。後に巴郡太守となり、良吏と称された。累進して衛尉となり、安陸県侯に封じられた。益州では三百年間再び貴い官に就く者がなかったが、慶緒は恩寵を受けてこの地位に至り、西に帰りたくなった。間もなく太子右衛率に転じたが、拝受せずに卒した。
謝藺は字を希如といい、陳郡陽夏の人で、晋の太傅謝安の八世孫である。父の謝経は北中郎諮議参軍であった。藺が五歳の時、父がまだ食事をしておらず、乳母が先に食べさせようとしたが、藺は終に進まなかった。舅の阮孝緒がこれを聞き、嘆じて言うには、「この児は家にあれば曾子の流れ、君に事えれば藺相如の匹敵である」。よって名を藺とした。少し経史を授けると、目を通せばすぐに暗誦でき、孝緒は常に言った、「わが家の陽元(賢才)である」。父の喪に服すると、昼夜号慟し、やつれ衰えて骨ばかりとなった。母の阮氏が常に見守り諭し慰めた。喪が明けると、吏部尚書の蕭子顕がその至高の行いを称え、王府法曹行参軍に抜擢した。累進して外兵参軍、記室参軍となった。
時に甘露が士林館に降り、謝藺が頌を献上すると、武帝はこれを嘉した。詔があり、北兗州刺史蕭楷の徳政碑を作らせた。また詔を奉じて宣城王が中庸を奉述する頌を作らせた。後に兼 散騎常侍 となり、魏に使した。侯景が帰附して来ると、国境で兵が交わり、謝藺の母は帰還できないのを憂え、気を病んで卒した。謝藺が帰国し、国境に入って夜に不吉な夢を見ると、朝にはすぐに駅馬を飛ばして帰った。到着すると、号慟して血を吐き、気絶して久しく、水漿も口に入れなかった。哭くたびに、眼耳口鼻から皆血が流れ、一か月余りを経て、夜に臨んで卒した。作った詩賦碑頌は数十篇。子に謝貞がいる。
謝貞は字を元正といい、幼くして聡明で、至高の天性があった。祖母の阮氏は以前から風眩に苦しみ、発作があるたびに、一二日飲食できない。謝貞が七歳の時、祖母が食べないと、謝貞も食べず、しばしばこのようであった。母の王氏が論語と孝経を授けると、読み終わればすぐに暗誦した。八歳の時、春日閒居の詩を作り、母方の従舅の王筠はこれを奇異とし、親しい者に言うには、「『風定花猶落』に至っては、謝恵連の後を追うものである」。十三歳で、特に左氏春秋に優れ、草書・隷書・虫書・篆書に巧みであった。
十四歳で父の喪に服し、地に倒れて号泣し、気絶して蘇生することを数度繰り返した。初め謝貞の父の謝藺は憂いで身を毀して卒し、家族や賓客はまた謝貞を憂えた。従父の謝洽と族兄の謝暠が共に華厳寺の長爪禅師を請い、謝貞のために説法させた。そこで母が侍養を必要とし、身を毀すべきでないと諭し、ようやく少し粥を進めるようになった。魏が江陵を陥とすと、長安に入った。謝暠は番禺に逃難し、謝貞の母は宣明寺で出家した。陳の武帝が禅を受けると、謝暠は郷里に帰り、謝貞の母を供養すること二十年近くに及んだ。
初め謝貞が周にいた時、周の武帝の愛弟である趙王宇文招に侍読として仕え、招は厚く礼遇した。彼が独りでいる時、必ず昼夜涕泣していると聞き、内々に尋ねて母が郷里にいることを知ると、言うには、「寡人もし藩国に出れば、必ず侍読を家に帰らせよう」。後数年、招は果たして出藩し、その際に辞し、面奏して謝貞を帰国させることを請うた。帝は招の仁愛を奇異とし、聘使の杜子暉に随って帰国させた。この年は陳の太建五年である。
周から帰国した当初、始興王陳叔陵が揚州刺史となり、祠部侍郎の阮卓を記室に引き、謝貞を主簿に辟召した。間もなく府録事参軍に遷り、丹陽丞を領した。謝貞は叔陵に異志があると知り、阮卓と共に王から自ら距離を置いた。宴遊があるたびに、常に病気を理由に辞し、一度も参与せず、叔陵は彼を大いに重んじ、罪に問わなかった。叔陵が逆を肆うと、ただ謝貞と阮卓だけが連座しなかった。
再び南平王友に遷り、記室事を掌った。府長史の汝南周確が新たに都官尚書に任じられ、謝貞に辞譲の表を作らせると、後主はこれを見て奇異とした。尋ねて謝貞の作と知ると、舎人の施文慶に命じて言うには、「謝貞は王家に禄秩がない。米百石を賜え」。母の喪で職を去った。間もなく、詔で府に戻るよう命じられたが、累次固く辞し、詔は許さなかった。謝貞は哀しみで身を毀し痩せ衰え、終に官舎に行くことができなかった。
吏部尚書の姚察は貞と親しく交わり、貞が病篤くなった時、後事を問うた。貞は言う、「孤子は禍が集まり、灰土に従わんとす。族子の凱らは粗く自ら成立し、既に疏を付けておる。これは固より厚徳を仰ぎ塵にすることは足らぬ。弱児は年甫六歳、名は靖、字は依仁、情累として忘れられぬ、敢えて託さんとす。」と。この夜卒す。後主は察に問うて曰く、「謝貞に何か親属はあるか。」察は靖を以て答えしに、即ち勅して長く衣糧を給せしむ。初め貞の病むや、遺疏ありて族子の凱に告げて曰く、「気絶の後、もし僧家の屍陀林の法に依らば、是れ吾が願う所なり、正に過ぎて独異と為るを恐る。薄板を用いて周身とし、露車に載せ、草席を以て覆い、坎山の次に埋めよ。又靖は年尚小、未だ人事を閲せず、但し三月の間小床を施し、香水を設け、卿兄弟の相厚き情を尽くすべし。即ちこれを除け、益なき事は為すなかれ。」と。
殷不害は字を長卿といい、陳郡長平の人である。祖父の汪は、斉の 豫 章王の行参軍であった。父の高明は、梁の尚書中兵郎であった。不害は性至孝にして、父の憂いに居り礼を過ごし、これにより少にして名を知られた。家世は儉約にして、居ること甚だ貧寠なり。弟五人あり、皆幼弱なり。不害は老母に事え、小弟を養い、勤劇として至らざる所なく、士大夫は篤行を以て之を称す。
年十七にして、梁に仕えて廷尉平となり、政事に長じ、兼ねて儒術を以て飾り、名法に軽重不便なる者あれば、輒ち上書して之を言い、多く納用せらる。大同五年、東宮通事舎人を兼ぬ。時に朝政多く東宮に委ね、不害は舎人の庾肩吾と直日にて奏事す。梁武帝嘗て肩吾に謂いて曰く、「卿は文学の士なり、吏事は卿の長とする所に非ず、何ぞ殷不害を使わざるや。」と。其の知らるること此の如し。簡文は不害の親に善く事うるを以て、其の母蔡氏に錦の裙襦、氈席、被褥を賜い、単復畢く備わる。
侯景の乱に、不害は簡文に従い台城に入る。台城陥落の時、簡文は中書省に在り、景は甲を帯び兵を将いて、朝に陛見し、過ぎて簡文を謁す。左右を衝突し、甚だ不遜なり。侍衛する者驚恐辟易せざるは莫く、唯だ不害と中庶子の徐摛のみ侍側して動かず。簡文は景に幽せられ、人を遣わして不害と居処するを請う。景之を許す。不害は供侍すること益々謹みたり。
梁元帝立つや、不害を以て中書郎と為し、廷尉卿を兼ぬ。魏江陵を平げし時、母の所在を失う。時に甚だ寒雪にして、凍死者溝壑に満つ。不害は行きて哭き求め、声暫くも輟まず。死人溝中に遇うや、即ち身を投げて捧げ視る。挙体凍僵し、水漿口に入れざること七日にして、始めて母の屍を得たり。屍に憑りて哭き、音を挙ぐる毎に輒ち気絶す。行路皆之が為に涕を流す。即ち江陵に権めて殯し、王褒・庾信と倶に長安に入る。是より蔬食布衣、枯槁骨立し、見る者哀しまざるは莫し。
太建七年、周より陳に還り、司農卿を除かる。 晉 陵太守に遷る。郡に在りて疾を感ず。詔して光禄大夫を以て征し還りて疾を養わしむ。後主即位し、給事中を加う。初め、不害の還るや、周其の長子僧首を留め、関中に居らしむ。禎明三年、陳亡び、僧首来り迎う。不害は道に卒す。年八十五。不害の弟に不佞あり。
不佞は字を季卿といい、少にして名節を立て、父の喪に居りて至孝を以て称せらる。書を読み好み、尤も吏術に長ず。梁承聖初め、武康令と為る。時に兵荒饑饉、百姓流移す。不佞は循撫招集し、繈負して至る者千数を以て数う。会うに魏江陵を克つに及び、而して母卒す。道路隔絶し、久しく奔赴を得ず。四載の中、昼夜号泣し、居処飲食、常に居喪の礼を為す。陳武帝禅を受く。婁令を除かる。是に至りて第四兄不齊始めて江陵に於いて母の喪柩を迎え帰葬す。不佞の居処の節、始めて問い聞くが如く、此の若き者又三年なり。身自ら土を負い、手ずから松柏を植え、歳時伏臘の毎に、必ず三日食せず。
文帝の時、尚書右丞を兼ね、東宮通事舎人に遷る。及び廃帝嗣ぎ立ち、宣帝太傅・録尚書として政を輔くるや、甚だ朝望の帰する所と為る。不佞は素より名節を以て自立し、又東宮に委を受けたり。乃ち僕射の到仲挙・中書舎人の劉師知・尚書左丞の王暹等と謀り、詔を矯りて宣帝を出さんとす。衆人猶 豫 して未だ敢えて先ず発せず。不佞乃ち馳せて相府に詣り、面して詔旨を宣べ、相王をして第に還らしむ。事発するに及び、仲挙等皆誅せらる。宣帝は雅に不佞を重んじ、特に之を赦し、其の官を免するのみ。即位に及び、軍師始興王諮議参軍と為す。後に尚書左丞を兼ね、通直 散騎常侍 を加え、官に卒す。不佞の兄に不疑・不占・不齊あり、並びに早く亡ぶ。第二の寡嫂張氏に事えて甚だ謹み、得る所の禄奉、私室に入れず。長子梵童、位は尚書金部郎。
司馬暠は字を文升といい、河内温の人である。高祖の柔之は、晋の侍中にして、南頓王の孫として斉の文獻王攸の後に紹ぐ。父の子産は、即ち梁武帝の外兄なり。位は岳陽太守。
暠は幼くして聰警、至性あり。年十二、内艱に丁り、哀慕礼を過ごし、水漿口に入れず、殆ど一旬を経る。号慟する毎に、必ず悶絶に至る。父毎に之を諭し、粥を進めしむ。然れども猶お毀瘠骨立す。服闋し、姻戚の子弟として入り問訊す。梁武帝其の羸疾を見て、歎息すること久し。其の小字を字して其の父に謂いて曰く、「昨羅児の面顔憔悴なるを見て、人をして惻然たらしむ。便ち是れ家風を墜とさず、子有るを為すなり。」と。後に累遷して正員郎。父艱に丁り、哀毀愈甚だしく、墓側に廬し、日々薄き麦粥一升を進む。墓は新林に在り、山阜に連接し、旧より猛獸多し。暠廬を結ぶこと数載、豺狼跡を絶つ。常に両鳩有りて廬所に棲宿し、馴狎異常なり。承聖中、太子庶子を除かる。魏江陵を克つ。例に随い長安に入る。而して梁の宗室屠戮せられ、太子の殯瘞する所を失う。周の禅を受くるに及び、暠は宮臣を以て、乃ち表を抗して江陵に還り改葬を求め、辞甚だ酸切なり。周朝優詔を以て之に答え、即ち荊州に勅して礼を以て安厝せしむ。陳の太建八年、周より還る。宣帝特ち殊礼を降す。歴位して通直 散騎常侍 ・太中大夫、卒す。集十巻有り。
子の延義は字を希忠といい、少にして沈敏好学なり。初め父に随い関に入り、母憂に丁り、喪礼を過ごす。暠の都に還るに及び、延義は乃ち躬ずから霊櫬を負い、昼は伏し宵に行き、冰霜を履み冒し、手足皸瘃す。都に至り、遂に攣痺を致し、数年にして乃ち愈ゆ。位は 司徒 従事中郎。
張昭は字を徳明といい、呉郡呉の人である。幼くして孝性有り。父の熯は常に消渇を患い、鮮魚を嗜む。昭は乃ち身自ら網を結び魚を捕え、以て朝夕に供す。弟の幹は字を玄明といい、聰敏好学、亦た至性有り。父卒するに及び、兄弟並びに綿帛を衣せず、塩酢を食せず、日唯だ一升の麦屑粥を食す。一たび感慟する毎に、必ず欧血を致し、鄰里之を聞き、皆之が為に涕泣す。父の服未だ終わらざるに、母の陸氏又卒す。兄弟遂に六年哀毀し、形容骨立す。家貧しく、未だ大葬を得ず。遂に布衣蔬食、十有餘年、門を杜み出でず、人事を屏絶す。時に衡陽王伯信州に臨み、幹を挙げて孝廉とす。固く辞して就かず。兄弟並びに毀に因りて疾を成し、昭は一眼失明し、幹も亦た中冷苦癖す。年並びに未だ五十ならず、家に終わる。子の胤俱に絶ゆ。
宣帝の時、太原の王知玄という者が会稽郡剡県に寓居し、家にあっては孝行をもって知られた。父の喪に遭い、哀傷のあまり身を毀して卒した。帝はこれを嘉し、詔してその住む青苦里を孝家里と改めさせた。
論
論うに、薄俗の風が起こるや、人倫は毀れ薄くなる。およそ抑制と導きの教えは、風俗を導くに先んずるものであり、里を変え門を旌ぐは、勧奨の義を存するのである。これにより漢代の士は身を修めることに務め、忠孝が俗を成し、軒に乗り冕を服するは、これによらざれば得られなかった。晋・宋以来、風は衰え義は欠け、身を刻み行いを励ますことは、膏腴の地の事とは薄くなった。もし孝が閨庭に立ち、忠が史策に被わるならば、多くは溝畎の中より発し、衣簪の下より出ずるものではない。これを以て声教を言うは、また卿大夫の恥辱ではなかろうか。
校勘記