南史
巻七十三 列傳第六十三 孝義上
序
『易経』に曰く、「人の道を立てるは、仁と義とを曰う」と。夫れ仁義とは、君と親とに合する至理であり、実に忠孝の資とするところである。義は心に因って発するとはいえ、情は外感によるものではないが、企て及ぼさんとする旨は、聖哲が言を遺すところである。風俗が漓れ教化が薄れ、礼が違え道が喪われ、忠は国に樹てられず、孝もまた家に愆り、一代の民は権利を以て相引き、仕官は勢いを以て招かれ、栄誉は行いによって立つものではない。飛翔の感なく、含生の分を棄て、霜露も未だ改まらぬうちに、大痛すでに心に忘れられ、名節も変えずして、戎車たちまちその首となる。これらは軌訓の理が未だ弘まらず、汲引の途が多く闕けているためである。若し情が天より発し、行いが己に成る者、躯を捐て命を捨て、主を済い親を安んずる者は、理に乗ずることは暗く至るも、勧賞によるものではないが、世を宰る人は、曾て微かに誘激することもない。事が閭閻に隠れ、視聴に聞こえず、載籍に考うるに、何れの代にか之れ無からん。故に宜しく図篆に被せ、旌勸を存するに用うべきである。今湮落を搜綴し、以て闕文を備うる云爾。
孝義上
龔穎は、遂寧の人である。少くして学を好み、益州刺史の毛璩が辟いて勸學従事とした。毛璩が譙縱に殺害されると、故き佐吏は皆逃亡したが、龔穎は号哭して奔赴し、礼を以て殯送した。譙縱は後に宴を設けて龔穎を招いたが、已むを得ず至った。楽が奏されると、龔穎は涙を流して立ち上がり言うには、「北面して人に事え、亡びて死せず、何ぞ忍びて觴を挙げ楽を聞き、逆乱の跡を蹈まんや」と。譙縱の大将の譙道福が引出して斬らんとしたが、道福の母は即ち龔穎の姑であったので、跣足で出て救い、免れることができた。譙縱が僭号すると、礼を備えて征してもまた至らず、乃ち兵刃を以て脅したが、志を執って終に回改なく、蜀が平らぐに至るまで、遂に節を屈しなかった。その後刺史が至る毎に、輒ち辟引を加えた。府の参軍、州の別駕従事史を歴任した。宋の文帝の元嘉二十四年、刺史の陸徽が龔穎の節義を表したが、遂に朝命を受けず、家に終わった。
劉瑜は、歴陽郡歴陽県の人である。七歳で父を喪い、母に事えて至孝であった。五十二歳の時、また母を喪い、三年間塩酪を進まず、号泣して昼夜声絶えず、身を勤め力を尽くして葬事を営んだ。喪服が除かれて後、二十余年、布衣蔬食、言えば輒ち涙を流し、常に墓の側に居り、暫くも違わなかった。宋の文帝の元嘉初年に卒した。
また元嘉七年、南 豫 州が統べる所の西陽県の人董陽が三世同居し、外に異門無く、内に異煙無きを挙げた。詔して門に榜して曰く「篤行董氏の閭」とし、一門の租布を蠲免した。
賈恩は、会稽郡諸暨県の人である。少くして志行有り。元嘉三年に母が亡くなると、居喪して礼を過ぎた。未だ葬らざる中、隣の火災に逼られ、賈恩及び妻の桓氏は号哭して奔り救い、隣近も赴き助け、棺櫬は免れることができたが、賈恩及び桓氏は共に焼死した。有司が奏して其の里を孝義裏と改め、三世の租布を蠲免した。賈恩を追贈して天水郡顕親左尉とした。
郭世通は、会稽郡永興県の人である。十四歳で父を喪い、居喪して殆ど哀しみに勝えなかった。家貧しく、傭力して継母を養った。妻が一男を生んだが、夫妻は侍養が廃れることを恐れ、乃ち涙を垂れて之を埋めた。母が亡くなると、土を負って墳を成した。親戚或いは共に賻助したが、微かに受けし所有り、葬り畢りて、傭賃して先の直を還した。喪服が除かれて後、終身喪に在る者の如く思慕し、未だ嘗て衣幍を解かなかった。仁孝の風、郷党に行わる。隣村の大小其の名を呼ぶ者無し。嘗て人と共に山陰市で貨物を売り、誤って一千銭を得たが、当時は覚えず、別れて後方に悟り、追いかけて本主に還した。銭主は驚歎し、半直を以て之に与えたが、世通は之を委ねて去った。元嘉四年、大使が天下を巡行し、 散騎常侍 の袁愉が其の淳行を表したので、文帝之を嘉し、勅して門閭に榜表し、其の租調を蠲免し、所居の独楓裏を孝行と改めた。太守の孟顗が孝廉に察したが、就かなかった。
子の原平、字は長恭、また至行を稟け、親を養うには必ず己の力を以てし、傭賃して供養を給した。性甚だ巧みで、毎に人の為に正夫として働き、散夫の価を取った。主人が食を設けると、原平は自ら家貧しく、父母が肴味を備えざるを以て、唯だ塩飯を飡するのみであった。若し家に或いは食無き時は、則ち空腹のまま竟日を過ごし、義として独り飽くことをせず、日暮れに作事が畢り、直を受け帰宅し、里で買い糴し、然る後に爨を挙げた。
父が篤疾で年を跨ぎ、原平は衣帯を解かず、口に塩菜を嘗めず、寒暑を跨ぎ積み、また未だ嘗て睡臥しなかった。父が亡くなると、哭き踴び慟哭して気絶し、数日にして方に蘇った。奉終の義は、情礼自ら畢うべく、塋壙の凶功は、人に仮すことを欲せずと以為い、元来巧みではあるが墓を作ることを解さなかったので、乃ち邑の中に墓を営む者を訪ね、人を助けて力を運び、時を経て勤めを展べ、久しくして乃ち閑練した。また自ら十夫を売って以て衆費に供し、窀穸の事は、倹にして礼に当たった。性、術学無く、心に因って自然なり。葬り畢りて、買い主の所に詣でて役を執り懈ること無く、諸の奴と分務し、逸を譲り労を取った。主人は使うに忍びず、毎に之を遣わした。原平は服勤して未だ嘗て暫くも替えず、傭賃して母を養い、余り有れば聚めて以て自ら贖った。既に塚を構えることを学び、尤善く其の事に長じ、毎に吉歳に至れば、求むる者門に盈つ。原平の起す所は必ず貧しきより始め、既に賤価を取り、又以て夫日を以て之を助けた。父の喪が終わりて後、自ら両間の小屋を起して以て祠堂と為し、毎に節歳に至れば、常に此の数日中に哀思し、飲粥を絶った。父の喪服が除かれて後、復た肉を食わず。高陽の許瑤之が建安郡丞を罷めて家に還るに当たり、綿一斤を以て之に遺したが、受けなかった。瑤之は乃ち自ら往きて曰く、「今年は寒さ過ぎ、而して建安の綿は良し、此を以て尊上の上下に奉るのみ」と。原平は乃ち拝して之を受けし。
母が終わるに及び、毀瘠甚だしく、僅かに乃ち喪を免れた。墓前に数十畝の田有り、原平に属さず、毎に農月に至れば、耕者は恒に裸袒していた。原平は人に其の墳墓を慢からしむるを欲せず、乃ち家資を貿易し、貴く此の田を買い、三農の月には、輒ち帯を束ね涙を垂れ、躬自ら耕墾した。
毎に出でて物を売るに、裁って半価を求め、邑人は皆共に識悉し、輒ち本価を加えて之に与え、彼此相譲り、要は微賤ならしめて、然る後に直を取った。宅上に竹を種う、夜に其の筍を盗む者有り、原平之に遇い見るや、盗人は奔走して溝に墜ちた。原平は乃ち植えた竹の所の溝上に小橋を立てて通わしめ、又筍を採って籬外に置くと、鄰里慚愧し、復た取る者無し。
宋の文帝が崩ずると、原平は号慟し、日に麦鉡一枚を食し、此の如くすること五日。人曰く、「誰か王臣に非ざらん、何ぞ独り此の如くなるや」と。原平は泣いて答えて曰く、「吾が家は先朝に見異され、褒贊の賞を蒙るも、恩に報いる能わず、私心感動するのみ」と。
また瓜を植えて生業としていたが、大明七年に大旱魃があり、瓜瀆はもはや船が通れなくなった。県令の劉僧秀はその貧窮と老齢を哀れみ、瀆の水を下げて彼に与えようとした。原平は言う、「天下が大旱に遭い、百姓は皆困窮しているのに、どうして田を灌ぐ水を減らして、瓜を運ぶ船を通すことができようか」と。そこで別の道を歩いて銭唐へ行き売りに出た。往来の度に、人が埭を引いて渡れずにいるのを見れば、いつもすぐに手を貸して助けた。自分で船を引く時は、他人の力を借りなかった。もし自分の船が渡り終えても、後続の者がまだ渡り終えていない時は、常に立ち止まって待つことを常とした。かつて県南の郭鳳埭で人の船引きを手伝っていた時、喧嘩をする者が役人に捕らえられる事件に遭遇し、喧嘩した者たちは逃げ散ったが、原平だけはその場に留まった。役人は彼を捕らえて県に送った。県令は新任で、事情をよく知らず、厳罰を加えようとした。原平は衣を解いて罪に就き、一言も弁明しなかった。左右の大小の者たちが皆額を地につけて救いを請うたので、ようやく赦免された。それまで官長に謁見することはなかったが、これ以降は敬意を表するようになった。太守の蔡興宗が郡に臨むと、深くその非凡さを重んじ、私米を原平及び山陰の朱百年の妻にそれぞれ百斛ずつ贈った。原平は死んでも受けぬと誓って受け取らず、百年の妻も固く辞退した。
会稽郡では望計及び望孝を重んじ、名門の出身者は秘書郎・著作佐郎に劣らぬ待遇であった。明帝泰始七年、興宗は山陰の孔仲智の子を望計に、原平の次男を望孝に推挙しようとした。仲智は会稽の高門であり、原平は一地方の至高の行いを持つ者で、両者を対等に扱おうとしたのである。ちょうど明帝が別に勅命で人材を任用することとなり、二つの推挙はともに取りやめとなった。興宗が都に召還される際、その特異な行いを上表し、太学博士に推挙した。ちょうど興宗が薨去したため、事は行われなかった。家で没した。三人の子と一人の弟は、いずれも家風にかなう行いがあった。
厳世期は、会稽郡山陰県の人である。性質は施しを好み、同里の張邁ら三人の妻がそれぞれ子を産んだが、凶作の年で、棄てて育てようとしなかった。世期は食糧を分け衣服を解いてその困窮を救い、三人の子はともに成長することができた。同県の俞陽の妻の莊は九十歳、莊の娘の蘭は七十歳で、ともに老病で頼る者なく、世期は二十年にわたり養い、死後はともに葬儀を営んで埋葬した。同族の厳弘、郷人の潘伯ら十五人は、凶作の年にともに餓死し、骸を露わにしたまま収められなかった。世期は棺を買って葬り、幼い子供たちを養い育てた。宋の元嘉四年、役所が奏上して門に掲げさせた、「義行厳氏の門」と。その徭役を免じ、十年間租税を免除した。
呉逵は、呉興郡烏程県の人である。凶作と飢饉が続き、さらに疫病が重なり、父母・兄嫂および従兄弟などの小功の親族で男女十三人が死んだ。逵は当時病気で重態であり、隣里が葦の筵で包み、村の傍らに埋めた。やがて親族は皆亡くなり、ただ逵夫妻だけが生き延びた。家はがらんどうで、冬に掛布団も袴もなく、昼は雇われて働き、夜は木を伐り磚を焼き、妻もまた逵と同じ誠意をもって、怠ることはなかった。逵が夜道を行くと猛獁に遇ったが、猛獁はいつも道を下りて彼を避けた。一年のうちに七つの墓を完成させ、十三の棺を葬った。隣里はこれを称賛した。葬りの日には、皆出かけて手伝い、葬送の事も倹約ながら礼にかなっていた。逵は事前に隣人の人夫代を借り受けていたが、葬りが終わると、人々は皆それを帳消しにしようとした。逵は一切受け取らず、皆労力で報いた。太守の張崇之は三度礼を尽くして招き、太守の王韶之は功曹史に抜擢しようとした。逵は家柄が卑賎であるとして、固辞して就かなかった。孝廉に推挙された。
潘綜は、呉興郡烏程県の人である。孫恩の乱の時、妖党が村邑を攻め破り、綜は父の驃とともに逃れて賊を避けた。驃は年老いて歩みが遅く、賊は次第に驃に迫った。驃は綜に言う、「私は行けぬ。汝は逃れれば助かる。ともに死ぬことなかれ」と。驃は疲労困憊して地に座り込んだ。綜は賊を迎えて叩頭し言う、「父は年老いております。どうか命をお助けください」と。賊が至ると、驃もまた賊に請うて言う、「息子は若く自ら逃げられます。今は老子のために去りません。老子は死を惜しみません。この児を生かしてください」と。賊はそこで驃を斬ろうとした。綜は父を腹の下に抱え込んだ。賊は綜の頭面を四ヶ所斬りつけ、綜はその場で気絶した。一人の賊が傍らから来て言う、「卿は大事を起こそうとしている。この児は死をもって父を救おうとしている。どうして殺せようか。孝子を殺すのは不吉である」と。賊はやめて、父子ともに免れることができた。郷人の秘書監丘系祖・廷尉沈赤黔は綜の非凡な行いを以て、左戸令史に推挙補任し、遂昌県長に任じた。任期満了で家に帰ると、太守の王韶之が郡に臨み、教令を発して州の台に列挙して上奏し、その行跡を述べた。また出発に際しては、餞別の宴を設け、四言詩を贈った。元嘉四年、役所が奏上してその里を純孝里と改め、三世にわたり租布を免除した。
また宋の初め、呉郡の人陳遺は、若くして郡吏となり、母が鍋底の焦げた飯を好んで食べた。遺は役務中、常に一つの袋を持ち歩き、食事を煮る度にその焦げを取って母に贈った。後に孫恩の乱が起こり、数升を蓄え、常に携帯していた。敗走して逃げ惑う中、餓死者が多かったが、遺はこれによって生き延びた。母は昼夜泣き悲しみ、目は失明し、耳は聞こえなくなっていた。遺が家に入り、再拝して号泣すると、母はたちまち目が見えるようになった。
後にまた河南の孝廉秦綿がおり、母の喪に遭い、葬送の後帰るに忍びず、郷人が茅葺きの庵を作り、そこで暮らし続けた。米があれば粥を食べ、米がなければ野菜だけを食べた。哀哭の声は、通りかかる者をして涙を流させた。喪が明けても家に帰らず、病気にかかっても治療せず、没した。臨終に際し、人に告げて言う、「もし死者に知覚がなければ、もとより独り生きるべきではない。知覚があれば、大いに我が志を得たことになる」と。
張進之は、永嘉郡安固県の人である。郡の大族で、若くして志操と行いがあり、五官主簿、永寧・安固二県の領 校尉 を歴任した。家は代々富足であったが、凶作の年には財を散らして郷里を救済し養ったため、貧窮に陥ったが、全うし救われた者は甚だ多かった。太守の王味之が罪を得て、捕縛されそうになった時、進之の家に逃げ込み隠れた。進之は長らく供奉し、誠意と力を尽くした。味之がかつて避難中に水に落ち沈没しかけた時、進之は水に飛び込んで救い出そうとし、ともに沈んだが、久しぶりに免れることができた。
当時は掠奪が横行し、村に侵入しては暴虐を働いたが、進之の家の前まで来ると、いつも互いに戒め合い、侵犯しないようにした。その信義が感化したのはこのようなことであった。元嘉の初め、詔によってその地において彼の徭役を免除した。
また孫恩の乱の時、永嘉太守の司馬逸之が害され、妻子もともに死んだ。兵乱の際、敢えて収容する者もなく、郡吏の俞僉が家財を投げ打って危難を冒し、逸之ら六人の遺骸を棺に納め、都に送り届けた。葬りが終わってから、郷里に帰った。元嘉年間に老病で没した。
当時また益州梓潼郡の人張楚がおり、母が病気で危篤となった。楚は祈禱を苦行の限り尽くし、指を焼いて自ら誓い、精誠が天に通じ、病気はその時に治癒した。門に掲げさせた、「孝行張氏の閭」と。その里を孝行里と改め、三世にわたり租布を免除し、身に旌表の命を加えた。
丘傑は字を偉跱といい、呉興郡烏程県の人である。十四歳で母の喪に遭い、煮た野菜に味があるため、口にしなかった。一年余りして突然夢に母を見て言う、「死はただの別れに過ぎぬ。どうしてかくも苦しむのか。汝が生野菜を食べ、蝦蟆の毒に遇った。霊床の前に三丸の薬があるから取って服せよ」と。傑は驚いて起き上がり、果たして甌を見つけ、甌の中に薬があり、服すと数升の蝌蚪のようなものを下した。丘氏は代々この甌を保有していた。大明七年、火災で焼失した。
師覚授は字を覚授といい、南陽郡涅陽県の人である。従兄の宗少文とともに清貧な学業を持ち、琴と書を以て自ら楽しんだ。道中で突然一人の人が書状一函を持っているのを見た。題して「至孝師君苫前」とあった。たちまち見えなくなった。車を捨てて駆け戻ると、家の哭聲が聞こえ、一声叫んで気絶し、久しぶりに蘇生した。後に『孝子伝』八巻を撰した。宋の臨川王劉義慶が州祭酒・主簿に辟召したが、いずれも就かなかった。そこで上表して推薦したが、ちょうど没した。
王彭は盱眙直瀆の人である。幼くして母を喪い、元嘉の初め、父もまた喪亡した。家は貧しく力弱く、葬りを営む術がなかった。兄弟二人は、昼は力を傭い、夜は号泣し、郷里の人々は皆これを哀れみ、それぞれ夫役を出して磚作りを助けた。磚には水が必要であったが天は旱し、井戸を数十丈穿っても泉は出なかった。墓所は淮水から五里離れており、荷を担いで遠くから汲み、困窮して行き届かなかった。彭は天に号泣して自ら訴え、このように幾日も続けた。ある日大霧が立ち、霧が晴れると、磚竈の前に忽然と泉水が湧いた。郷隣で助けた者たちは皆神異を嘆じ、県邑の近遠から悉く見物に赴いた。葬りが終わると、水は自ら涸れた。元嘉九年、太守劉伯龍が事に依って上表して言上し、その里を改めて通霊里とし、租布を三世にわたって免除した。
蔣恭は義興臨津の人である。元嘉の中ごろ、 晉 陵の蔣崇平が強盗を働いて捕らえられ、恭の妻の弟である吳 晞 張と仲間であったと云った。晞張は先に行っておらず、本村が水害に遭い、妻子が水を避けて移り、蔣恭の家に寄寓していた。時に晞張を捕らえ得ず、恭と兄の協を捕らえて獄に付し罪を科そうとした。恭と協は共に、晞張の家族を自宅に住まわせたことは認めたが、強盗の情は知らないと述べた。恭は、晞張の妻子は妻の親族であり、親族が今罪を犯した以上、恭自身が甘んじて罪を受けると申し立て、兄の協を免じるよう求めた。協は、自分が戸主であると申し立て、弟の恭を免じるよう求めた。兄弟二人は争って罪を受けることを求め、郡県は判決できず、事に依って上詳した。州の議は、共に罪に当たらないとした。後に恭を義成県令に除し、協を義招県令に除した。
徐耕は 晉 陵延陵の人である。元嘉二十一年、大旱魃で人々は飢え、耕は県に赴いて陳辞し、米千斛を以て官を助け賑貸した。県がこれを言上すると、当時の議は耕を漢の卜式に比した。詔書は褒め称え、県令をもって酬いた。
大明八年、東土が飢饉と旱魃に見舞われ、東海の厳成と東莞の王道蓋がそれぞれ私穀五百余斛を以て官を助け賑恤した。
孫法宗は一名を宗之といい、呉興の人である。父は孫恩に従って海辺に入り害され、屍骸は収められず、母と兄は共に餓死した。法宗は幼くして流浪し、十六歳になってようやく帰還した。独身で勤苦し、霜を行き草に宿り、棺槨を営み、塚墓を造り立て、母と兄を葬り送り、倹約ながら礼に適っていた。父の屍が行方知れずであることを以て、海に入り尋ね求めた。世間の論で、至親は血を骨にしたたらせば必ず浸透すると聞き、刀を執って海沿いを歩き、枯骨を見れば肉を刻んで血を注ぎ、このように十余年、臂脛に完膚なく、血脈は枯渇したが、遂に逢うことができなかった。そこで衰絰を終身にわたり、常に墓所に居り、山禽野獣は皆馴れ付いた。毎に麋鹿が網にかかれば、必ずこれを解放し、銭物で償った。後に突然頭の創に苦しむと、夜に女人が来て言うには、「私は天の使いで、お礼に参りました。行創は本来善人に関わるものではなく、使いの者が遠くまで及んだのです。牛糞を取って煮て塗れば即座に効き目があります。」一度塗ればたちまち癒え、一境はこれに頼った。終身娶らず、饋遺は一切受けなかった。宋の孝武帝の初め、揚州が文学従事に辟したが、就かず、卒した。
范叔孫は呉郡銭唐の人である。若くして仁厚であり、窮する者を周り急ぐ者を済した。同里の范法先の父母兄弟七人が同時に疫病で死に、法先だけが残ったが、病もまた危篤で、喪屍は一ヶ月を経ても収められなかった。叔孫は悉く棺器を備え、自ら殯埋した。また同里の施夫が疾病にかかり、父が死んで殯されなかった。范苗父子は共に亡くなった。范敬宗の家の者六人共に病を得、二人が喪没し、親隣は畏れて遠ざかり、敢えて営視する者はいなかった。叔孫は共に殯瘞し、自ら病者を恤い、皆全うさせた。郷曲はその義行を貴び、その名を呼ぶ者はなかった。宋の孝武帝の孝建の初め、竟陵王国中軍に除されたが、就かず。義興の呉國夫もまた義譲の美があり、その稲を盗む者がいたが、引き返して酒食を設け、米を送った。
卜天與は呉興余杭の人である。父の名は祖といい、宋の武帝はその幹力有ることを聞き、召し補って隊主とした。征伐に従い、関中侯に封ぜられ、二県の令を歴任した。
天與は射を善くし、弓力は倍加し、容貌は厳毅で、笑っても顔を解かなかった。文帝はその旧将の子であることを以て、皇子に射を教えさせた。元嘉二十九年、広威将軍となり、左細仗を領した。元凶(劉劭)が入って 弑 逆し、事変は倉卒で、旧将の羅訓・徐罕は皆風を見て屈従した。天與は甲を着ける暇もなく、刀を執り弓を持ち、疾く左右を呼んで出戦した。徐罕が「殿下が入られた、汝は何を為そうとするのか」と言うと、天與は罵って「殿下は常に来去される、どうして今になってこのような言葉を言うのか、只汝が賊の手先だ」と言い、東堂で劭を射て、ほとんど命中させた。逆徒がこれを撃ち、臂を断たれて、乃ち殺された。その隊将の張弘之・朱道欽・陳満は天與と共に出て拒戦し、共に死んだ。孝武帝が即位すると、天與に龍驤将軍・益州刺史を追贈し、諡して壮侯と曰い、車駕は臨哭した。弘之らには各々郡守を追贈した。天與の家に長稟を給した。
子の伯宗は殿中将軍であった。明帝の泰始の初めに幢を領し、赭圻で南賊を撃ち、戦没した。伯宗の弟の伯興は官は南平昌太守・直合に至り、細仗隊主を領した。升明元年、 袁粲 と同謀して誅殺された。
天與の弟の天生は、若くして隊将となり、十人が同火であった。屋後には一つの坑があり広さ二丈余り、十人が共に跳んでも皆渡ったが、唯天生だけが墜落した。天生は乃ち中身の詰まった苦竹を取り、その端を削って鋭くし、坑内に交横に布き、更に同類を呼んで共に跳ばせたが、皆懼れて敢えなかった。天生は乃ち再びこれを跳び、往反十余り、少しも留まる障害はなく、衆は共に嘆服した。兄が節を死したことを以て、孝武帝に心に留められた。大明の末、弋陽太守となった。明帝の泰始の初め、殷琰と共に逆を為して斬られた。
許昭先は義興の人である。叔父の肇之が事に坐して獄に繋がれ、七年判決がなかった。子侄二十人余りの中で、昭先の家が最も貧薄であったが、独り専ら訴えを扱い、家にいる日はなく、肇之に送る食物は、珍しい新しいものでなかったことはなかった。資産が既に尽きると、宅を売ってこれを充てた。肇之の諸子は倦怠したが、唯昭先だけは懈息することがなく、このように七年を経た。尚書の沈演之がその操行を嘉し、肇之の事はこれによって釈放を得た。昭先の舅夫妻が共に疫病で死亡し、家が貧しくて殯送する術がなく、昭先は衣物を売って殯葬を営んだ。舅の子三人は共に幼く、贍護して皆成長させた。昭先の父母は共に老病で、家に僮役がなく、力を竭くして養い、甘旨は必ず従った。宗党はその孝行を嘉した。雍州刺史の劉真道が板を下して征虜参軍としたが、昭先は親が老いていることを以て就かず;迎主簿に補されたが、昭先は叔が未だ仕えていないことを以て、また固く辞した。
余齊人は 晉 陵 晉 陵の人である。若くして孝行があり、邑の書吏となった。宋の大明二年、父の殖が家で病没したが、便りは未だ至らなかった。齊人は人に謂って「近ごろ肉が痛み心が煩わしく、切り刻まれるようだ。常に惶駭しているので、必ず異なる事があるに違いない」と言った。便りが間もなく至り、父の病を報じた。四百余里を一日で至った。門に至って、初めて父の死を知り、号踊慟絶し、良久にして乃ち蘇った。父の遺言を問うと、母は「汝の父は臨終に、汝に会えなかったことを恨んだ」と言った。齊人は即ち「会うこと何の難きことがあろう」と言い、そこで号叫して殯所に至り、須臾にして便ち絶命した。州県が上言し、有司が奏上してその里を孝義里と改め、租布を免除し、その母に穀百斛を賜った。
孫棘は彭城の人である。宋の大明五年、三五丁を徴発したところ、弟の薩が行くべきところに充てられたが、期日に違反して到着しなかった罪に坐した。孫棘は郡に赴き陳述して言うには、「棘が家長として、弟を行かせなかった罪は百死に値します。どうか身代わりに薩の罪を負わせてください」と。薩もまた自らを引き合いに出して陳述した。太守の張岱はその真実を疑い、孫棘と薩をそれぞれ別の場所に置き、伝えて言うには、「互いに代わることを許す」と。二人の顔色は共に喜び、甘んじて死に赴こうとした。孫棘の妻の許はまた言葉を伝えて孫棘に言うには、「あなたが家の主であって、どうして罪を小郎(弟)に委ねられましょうか。それに大家(姑)が臨終の際、小郎をあなたに託されました。彼はまだ妻も娶らず、家も立ちません。あなたには既に二人の子がいます。死んでも何の恨みがありましょう」と。張岱は事実に基づいて上表し、孝武帝は詔を下して特に罪を赦した。州は辟命を加え、共に帛二十匹を賜った。
これに先立ち、新蔡の徐元の妻の許二十一が夫に喪に服し、子の甄は三歳であった。父の攬はその若さを哀れみ、更に同県の張買に再嫁させようとした。許は自ら誓って行かないと言ったが、父は強いて車に載せて張買に送り届けた。許は首を吊って気絶し、家人が駆けつけたが、久しくしてようやく蘇生した。張買は夜に彼女を攬のもとに送り返した。許は徐氏に帰り、徐元の父の季を養った。元嘉年間に、八十余歳で亡くなった。
また明帝の泰始二年、長城の呉慶恩が同郡の銭仲期を殺した。その子の延慶は役務に属して都にいたが、父の死を聞いて馳せ戻り、庾浦埭で呉慶恩に出逢い、自ら手ずからこれを斬殺し、自ら烏程の獄に繋がれた。呉興太守の郗顒が上表して罪を加えないよう請い、許された。
何子平は廬江郡灊県の人である。曾祖父の楷は、晋の侍中であった。祖父の友は、会稽王司馬道子の驃騎諮議参軍であった。父の子先は、建安太守であった。
子平は代々会稽に住み、若くして志操と行いがあり、母に仕えること至孝であった。揚州が辟して從事史としたが、月俸として白米を得ると、すぐに売って粟や麦を買った。人が言うには、「得る利益は僅かで、煩わしいには足りない」と。子平は言うには、「尊老(母)は東(会稽)におり、白米を調達することができません。どうして私一人で白米を食べる気になれましょうか」と。鮮やかな肴を贈る者がいた時、もし家まで届けられないものならば、受け取らなかった。母はもともと側室であり、戸籍の記載が事実と異なり、実際には養うべき年齢に達していなかったが、籍上の年齢が満了したので、すぐに職を去って帰郷した。時に鎮軍将軍の顧覬之が州の上綱であったが、子平に言うには、「尊上の年齢は実際には八十に達しておらず、親族や旧知の知るところです。州中にはわずかな俸禄がありますから、留まるよう取り計らいましょう」と。子平は言うには、「公家は正に黄籍を信頼としております。籍上の年齢が至れば、すぐに扶養すべきであり、どうして苟も栄利を偽って冒すことができましょうか」と。そこで帰郷して力を尽くして母を供養した。
元嘉三十年、元凶(劉劭)が逆を 弑 し、随王劉誕が入って討伐するに及び、子平を行参軍とした。子平は凶逆が道理を滅ぼすゆえに、自らの志を廃して職を受け、事が収まると自ら解任を願い出た。後に呉郡海虞令に任ぜられたが、県の俸禄はただ母一人を供養するのみで、妻子には及ぼさなかった。人はその倹約ぶりを疑ったが、子平は言うには、「俸禄を願うのは本来、親を養うためであり、自分のためではない」と。問うた者は慚じて退いた。母の喪のために官を去り、哀傷のあまり礼を越え、泣き踊る毎に、気絶してようやく蘇った。時に大明末年、東土が飢饉に見舞われ、さらに戦乱が続き、八年間葬りを営むことができなかった。昼夜号哭し、常に喪に服した初めの日のようであった。冬には綿入れを着ず、夏には涼しい場所を避け、一日に数合の米で粥を作り、塩や菜を口にしなかった。住む家は朽ち、風や日差しを防げず、兄の子の伯興が修繕しようとしたが、子平は肯わず、言うには、「私の心情と事情はまだ晴らされず、天地の一罪人に過ぎない。家などどうして覆うべきだろうか」と。蔡興宗が会稽太守となった時、大いに哀れみ賞賛し、彼のために墓穴を営んだ。
子平は喪に服して非常に憔悴し、喪が明けた時には、ほとんど立ち上がれないほどであった。幼い頃から操行を保ち、名と行いを篤く励まし、暗室にいるときも、大賓に接するかのようであった。学問の道理に堅固明らかで、それを沈黙をもって処し、貧しさに安んじて善を守り、栄達を求めなかった。退くことを好む士人はますます彼を貴んだ。六十歳で卒した。
崔懷順は清河郡東武城県の人である。父の邪利は魯郡太守であったが、宋の元嘉年間に魏に捕らえられた。懷順は妻の房氏と篤く愛し合っていたが、父が捕虜となったと聞くと、その日に妻を離縁し、布衣に蔬食、喪に服する礼のように過ごし、時節には北に向かって流涕した。邪利は後に魏に仕え、手紙で懷順を戒め、このようなことをするなと命じた。懷順は手紙を得てさらに号泣した。懷順の従叔の模は 滎陽 太守であったが、これも魏に入った。模の子は居処や節操を改めたが、婚姻や官途を廃さなかった。宋の大明年間、懷順の同族で冀州刺史の元孫が北使として魏に行った時、魏人が彼に問うて言うには、「崔邪利と模は共に力尽くして帰順したが、二家の子や甥の出処は異なる。義はどこにあるのか」と。元孫は言うには、「王尊は駿馬を駆り、王陽は車を回らせた。忠と孝を共に広め、臣と子の両方を全うさせようとしたのです」と。
泰始初年、淮北が魏に入ったため、懷順はこれによって北に帰り、代都に至ったが、邪利は既に死去していた。懷順は気絶して後蘇生し、喪を載せて青州に帰った。裸足で冰雪を踏み、土地の気候は寒酷であったが、手足を傷めず、当時の人は孝の感動によるものとした。喪が終わると、弟が南にいるため、斉の建元初年にまた逃れて帰ったが、弟は既に亡くなっていた。懷順は孤貧であり、宗族や同党は彼を哀れみ、日々に斗米を集めて与えた。永明年間に卒した。
王虛之は字を文静といい、廬江郡石陽県の人である。十三歳で母に喪に服し、三十三歳で父に喪に服し、二十五年間塩や酢を口にしなかった。病気で床に臥せっていた時、忽ち一人の人が来て病を問い、彼に言うには、「あなたの病気はすぐに治るでしょう」と。俄かに見えなくなり、病気は果たしてすぐに治った。庭中の楊梅の樹が厳冬に三度実り、また毎夜、住む所に燭のような光があった。墓上の橘の樹が一冬に再び実り、当時の人は皆、孝の感動によるものとした。斉の永明年間、詔によって門に表彰を掲げ、三世にわたり租税を免除した。
時にまた顧昌衍、江柔之、江軻が共に篤行で知られた。昌衍は呉の人で、喪に服してほとんど滅性に至った。王儉が天子に言上して言うには、「昌衍には既に至行があり、かつ張永の甥です。礼闈に居らせ、郎署を光栄あるものとすべきです」と。そこで尚書庫部郎とした。柔之と軻は共に済陽の人である。柔之は字を叔遠といい、孝悌に通じ明るく、また台郎に至った。軻は字を伯倫といい、貞厳な行いがあった。同族の江概は侍中の位に至り、性格は豪侈であったが、軻に会う時だけは敬って揖した。
呉慶之は字を文悦といい、濮陽の人であるが、呉興に寓居した。宋の江夏王劉義恭が揚州刺史となった時、西曹書佐に召した。劉義恭が誅殺されると、慶之は自ら吏としての無様さを傷み、再び仕えることを肯わず、生涯蔬食を通した。後に王琨が呉興太守となった時、功曹に召そうとした。答えて言うには、「私は元来、人世の情がありません。ただ明府が礼をもって接してくださるので、歳月を走り回っているのです。もし私を吏としようとなさるなら、それは木に魚を蓄え、泉に鳥を棲ませるようなものです」と。辞さずに退いた。王琨は追って謝したが、塵を望むも及ばなかった。
蕭叡明は字を景済といい、南蘭陵の人である。母が風病にかかり、長年床に臥せっていた。叡明は昼夜祈禱し、時は寒く、叡明の流す涙が氷って箸のようになり、額で叩頭して出る血も氷って流れ落ちなかった。忽ち一人の人が小石の函を授け、言うには、「これは夫人の病を治すものだ」と。叡明は跪いてこれを受け取ると、忽ち見えなくなった。函を母に奉ると、函の中にはただ三寸の絹があり、丹書で「日月」の字が書かれていた。母がこれを服すると、すぐに平癒した。
当時、秣陵の朱緒は行いがなく、母は長年病んでいたが、忽ち菰の羹が食べたくなった。朱緒の妻が市に行って菰を買い、羹を作って母に捧げようとしたが、朱緒は言うには、「病気がまたどうして食べられようか」と。先にこれを嘗め、遂に全部食べ尽くしてしまった。母は怒って言うには、「私は病気でこの羹が欲しかったのに、お前はどういうつもりで全部食べ尽くしたのか。天に知るものがあれば、お前を噎せ死にさせるだろう」と。朱緒はこれを聞くと心中に介介たるものを感じ、すぐに血を下し、翌日死んだ。叡明はこれを聞き、大いに悲慟し、幾日も食事をしなかった。朱緒の屍がどこにあるか尋ね、自ら手を下してこれを殺そうとした。既にして言うには、「私の刀を汚す」と。そこで止めた。永明五年、母の喪に服し、哀しみに耐えず、卒した。詔により中書郎を追贈された。
時にまた鮮于文宗あり、漁陽の人、年七歳にして父を喪う。父は芋を植える時に亡くなり、翌年の芋の時節に至り、芋に向かって嗚咽し、かくの如く終生続けた。姉の文英は荀氏に嫁ぎ、七日にして夫に死別し、節を守って再嫁せず。母が亡くなると、昼夜哭泣し、遂に失明した。
蕭矯の妻羊氏、字は淑禕、性至孝にして、父の喪に服する時、泣くごとに血を吐いた。母嘗て疾ありし時、淑禕は夜中に祈禱す。忽ち一人が樹下に在りて自ら枯桑君と称し、曰く「若し人に患無ければ、今気を洩らすは亥に在り、西南の方に白石を求めて之を鎮めよ」と。言い終わって見えず。明日、言う如くにして疾癒ゆ。
また時に羊緝之の女佩任という者あり、烏程の人。母に従い舅の家に還る。母亡くなり、昼夜号哭し、三日間飲食せずして亡くなる。郷里は号して「女表」と曰う。
また 晉 陵の呉康之の妻趙氏あり、父亡く弟幼く、凶年に遇い、母老いて病篤し。趙は郷里に詣でて乞い告げ、言辞哀苦、郷里之を憐み、各々升米を分かち与え、遂に難を免れる。康之に嫁ぎてより、間もなく夫亡くなる。家は更に嫁がせんとすれども、誓って二心無きを言う。
また義興の蔣雋之の妻黄氏、夫亡くなりて再嫁せず、家之を逼るも、自殺せんとす、乃ち止む。建元三年、詔して門閭を表し蠲免す。
また會稽永興の呉翼之の母丁氏、若くして夫を喪う。性仁愛、凶年に遭い、衣食を分かちて里中の飢餓者に飴し、隣里の求借に嘗て違わず。同里の陳攘、父母死に、孤単にして親戚無し。丁之を収養し、長じて為に婚娶を営む。また同里の王禮の妻徐氏、凶年に山陰に客死す。丁が為に棺器を買い、自ら往きて斂葬す。元徽末、大雪、商旅断行し、村裏比室飢餓す。丁自ら塩米を出し、口を計らって分け賦う。同里の左僑の家、四喪露すも以て葬る無し。丁が為に塚槨を弁ず。三調登らざる者あれば、代わって輸送す。丁の長子の婦王氏、寡を守り、志を執りて再醮せず。州郡上言し、詔して門閭を表し、租税を蠲免す。
また會稽の寒人陳氏、三女あり、男児無し。祖父母年八九十、老いて知る所無く、父は篤癃の病に、母は其の室に安からず。凶年に遇い、三女相率いて西湖に菱蓴を采り、日を更えて市に貨売し、嘗て怠り虧くこと無し。郷里之を義門と称し、多く娶らんと欲す。長女自ら煢独を傷み、誓って肯て行かず。祖父母尋いで相継いで卒す。三女自ら殯葬を営み、庵舎を為して墓側に居る。
また永興概中裏の王氏の女、年五歳、毒病を得て、両目皆盲す。性至孝、年二十にして父死す。屍に臨みて一叫び、眼より皆血出づ。小妹の娥其の血を舐めれば、左目即ち開く。時人孝感と称す。
また諸暨東洿裏の屠氏の女、父は失明し、母は痼疾、親戚は相棄て、郷里は容れず。女は父母を移して遠く苧羅に住ましめ、昼は樵を采り、夜は紡績して以て供養す。父母俱に卒す。親しく殯葬を営み、土を負いて墳を成す。忽ち空中に声有りて云く「汝の至性重んず可し、山神汝を使い駆わんと欲す。汝は人の為に病を療す可く、必ず大富貴を得ん」と。女は是を妖魅と謂い、敢えて従わず。遂に病を得て時を積む。隣舍の人に溪蜮の毒に中る者あり。女試みに之を療せば、自ら病便ち差ゆと覚ゆ。遂に巫道を以て人の為に疾を療し、癒えざる無し。家産日に益し、郷里多く之を娶らんと欲す。女は兄弟無きを以て、誓って墳墓を守り嫁がず。山劫に為りて殺さる。
また呉興の乗公済の妻姚氏、二男を生む。而して公済及び兄の公願・幹伯倶に卒す。各々一子有り。姚之を養育し、田宅を売って為に婦を娶らしめ、自らは二男と共に隣家に寄止す。明帝詔して其の二子の為に婚せしめ、門閭を表し徭役を復す。
また呉郡の范法恂の妻褚氏、亦た勤苦して婦業を執る。宋の升明中、孫曇瓘謀反して亡命す。褚其の子僧簡に謂いて曰く「孫越州は先姑の姉の子、汝の父と親しきは則ち従母兄弟、交わりは則ち古人に義重し。逃竄して免れ難からば、汝宜しく之を収むべし」と。曇瓘尋いで法に伏す。褚氏僧簡をして往きて斂葬せしむ。年七十余、永明中に卒す。僧簡都に在りて病を聞き馳せ帰る。未だ至らざるに、褚已に卒す。将に殯せんとして屍を挙ぐるも起たず。尋いで僧簡至る。
公孫僧遠、會稽剡の人なり。父の喪に居りて至孝、母及び伯父に事えて甚だ謹し。凶年に、僧遠は飧を省み食を減らして以て母及び伯父を養う。弟亡し、貧しく以て葬る無し。身自ら販貼して隣里と与に、斂送終の費を供し、躬から土を負い、手ずから松柏を植う。兄姊未だ婚嫁せざるを、乃ち自ら売れて之が為に礼を成す。名郡県に聞こゆ。斉の高帝即位し、兼 散騎常侍 虞炎等十二部の使を遣わして天下を行わしめ、僧遠等二十三人を表列す。詔して並びに門閭を表し、租税を蠲免す。
呉欣之、 晉 陵利城の人なり。宋の元嘉末、弟の慰之は武進県の吏と為る。随王誕の起義に従い、元凶軍主華欽を遣わして之を討たしむ。吏人は皆散るも、慰之独り留まりて執らる。将に死せんとす。欣之欽に詣でて弟の命に代わるを乞い、辞泪哀切、兄弟皆見原さる。斉の建元三年、詔有りて之を表し蠲免す。
永明初、広陵の人童超之の二息、罪を犯して争いて死せんとす。太守劉悛表して以て聞かしむ。
韓系伯、襄陽の人なり、父母に事えて謹み孝なり。襄陽の人隣居、界上に桑樹を種えて志と為す。系伯は桑の枝蔭他地を妨ぐるを以て、界上を開くこと数尺、隣畔随いて復た之を侵すも、系伯は輒ち改めて種う。久しくして、隣人慚愧し、侵す所の地を還し、躬から往きて之に謝す。斉の建元三年、門閭を表し蠲免し、寿を以て終わる。
時に呉興の人聞人敻あり、年十七にして客を結び父の仇を報い、高帝に賞せられ、位は長水 校尉 に至る。
丘冠先は字を道玄といい、呉興烏程の人なり、少より節義あり。斉の永明年中、位は給事中に至る。時に蠕蠕国に使いを求めしに、 尚書令 王儉言う、「冠先は名位未だ昇らずといえども、義行甚だ重し。行人と為さば、則ち蘇武・鄭衆の流なり」と。ここにおいて蠕蠕に使す。蠕蠕は逼りて拝せしむるも、冠先は節を執りて従わず。刃を以て之に臨むに、冠先曰く、「能く我を殺す者は蠕蠕なり、天子の使を以て戎狄に拝せしめざる者は、我なり」と。遂に見殺さる。武帝は冠先の命を辱しめざるを以て、其の子雄に銭一万・布三十匹を賜う。雄受けず、闕に詣でて上書して曰く、「臣が父は節を執ること蘇武の如く、死を守ること谷吉の如し、遂に良史に之を書かず、褒策に之を甄さず、万代の後、誰か社稷に死せん。建元四年、車僧朗は使を銜むるに異ならず、節を抗うるは是れ同なり、詔して正員外郎を贈る、此れ天朝の旧准、臣が父の成例なり。今僧朗は反って塚塋に葬られ、臣が父は絶域に湮棄せらる、忠烈を語れば則ち亦た車に謝せず、荼苦を論ずれば則ち彼優にして此れ劇なり、名位殊ならず、礼数宜しく等しからんことを乞う、哀贈を申さん」と。書奏すれども省みられず。
孫淡は太原の人なり、世に長沙に居す。母に事うること至孝、母疾有れば、眠らず食わず、差ゆるを期とす。母之を哀れみ、後に疾有れば知らしめず。斉の建元三年、門閭を表して蠲す。家に卒す。
華寶は晋陵無錫の人なり。父豪、晋の義熙末に長安を戍る、宝年八歳、臨別に宝に謂ひて曰く、「我の還るを須ちて当に汝が上頭を為さん」と。長安陥ち、宝年七十に至るも婚冠せず。或ひ之を問へば、宝輙ち号慟して弥日、忍びて答へず。
同郡の薛天生、母艱に遭ひて菜食す、天生も亦た菜食す。母喪未だ免れずして死す、天生終身魚肉を食はず。
又た同郡の劉懷胤と弟懷則、年十歳にして父喪に遭ひ、絮帛を衣せず、塩菜を食はず。斉の建元三年、並びに門閭を表す。
解叔謙は字を楚梁といい、雁門の人なり。母疾有り、叔謙夜に庭中に於いて稽顙して福を祈るに、空中の語を聞く云く、「此の病は丁公藤を以て酒と為せば便ち差ゆ」と。即ち医及び本草注を訪ぬるも、皆識る者無し。乃ち求訪して宜都郡に至り、遥かに山中に一の老公の木を伐つを見て、其の用ふる所を問へば、答へて曰く、「此れ丁公藤、風を療すること尤も験有り」と。叔謙便ち拝伏して流涕し、具さに来意を言ふ。此の公愴然として、四段を以て之に与へ、並びに酒に漬く法を示す。叔謙之を受け、顧みて此人を視るに、復た処を知らず。法に依りて酒と為すに、母病即ち差ゆ。斉の建武初、奉朝請を以て征さるるも、至らず。
時に又た宗元卿・庾震・朱文濟・匡昕・魯康祚・謝昌宇有りて皆素履有り、而して叔謙尤も高し。元卿は字を希蔣といい、南陽の人、至行有り。早く孤と為り、祖母に養はる。祖母病めば、元卿遠くに在りて輙ち心痛み、大病すれば則ち大いに痛み、小病すれば則ち小しく痛む、此を以て常と為す。郷里之を宗事し、号して宗曾子と曰ふ。
震は字を彦文といい、新野の人。父母喪し、貧に居りて以て葬る無く、書を賃して以て事を営み、手掌穿るるに至りて然る後に葬事獲て済む。南陽の劉虯此に因りて孝子伝を撰す。
文濟は字を敬達といい、呉興の人。自ら売りて以て母を葬り、太守謝瀹命じて儒林と為さしむるも、就かず。
昕は字を令先といい、廬陵の人、至性有り、金華山に隠れ、服食し俗人と交はらず。母病みて亡すこと既に日を経るも、昕奔り還りて号叫すれば、母即ち蘇る。皆孝感の致す所と為す。
康祚は扶風の人、亦た至行有り。母乳癰を患ふ、諸医療するも愈えず、康祚乃ち跪き、両手を以て癰を捧げて大いに悲泣すれば、母即ち覚ゆるに小寬なり、此に因りて漸く差ゆ。時に人其の冥応有るを以てす。康祚位は屯騎 校尉 に至る。
昌宇は陳郡の人なり、劉悛の広州参軍と為る。孝性甚だ至れり。嘗て一の鵠を養ふ、昌宇病むこと二旬、而して鵠二旬食はず。昌宇亡びて而して鵠遂に飛び去る。
韓霊敏は会稽剡の人なり。早く孤と為り、兄霊珍と並びに孝性有り。母尋いで又た亡ぶ、家貧しく以て凶を営む無く、兄弟共に瓜を種ゑ、朝に瓜子を采り、暮には已に復た生じ、遂に葬事を弁ず。霊珍亡びて子無く、妻朝氏は節を守りて嫁がず、家人其の志を奪はんことを慮り、未だ嘗て告帰せず。霊敏之に事うること母の如し。
劉渢は字を処和といい、南陽の人なり。父紹、宋に仕へて位は中書郎。渢母早く亡ぶ、紹は勅せられて路太后の兄の女を納れて継室と為す。渢年数歳、路氏之を子と為さず、奴婢輩之を捶打すること期度無し。渢母の亡びし日は、輙ち悲啼して食はず、弥く婢輩に苦しめらる。路氏溓を生む、兄渢之を憐愛して忍びて捨てず、恒に床帳の側に在りて、輙ち駆捶せらるれども、終に去らんと肯はず。路氏病むこと年を経るも、渢昼夜左右を離れず、毎に増加有れば、輙ち流涕して食はず。路氏病差ゆ、其の意に感じ、慈愛遂に隆し。路氏富盛なり、一旦渢が為に斎宇を立て、筵席侯王に減ぜず。溓識有り、渢に事うること同産に過ぎ、事大小無く、必ず兄に諮りて後に行ふ。
劉渢の妹は江祏の弟の江禧に嫁ぎ、江祏兄弟とは格別の親交があった。尚書比部郎より出で、後に蕭遙光の諮議となり、ひそかに腹心の任を担った。当時遙光は顧命の任に当たり、朝野の人々は劉渢に雲のごとく趨った。劉渢はこれを忌み、外任を求めて丹陽丞となったが、外遷したとはいえ信任は変わらなかった。遙光が挙兵した時、早朝に劉渢を召し出そうとしたが、劉渢は佐史をすべて呼ぶべきだと考えた。劉渢が丹陽丞に転じた時、遙光は蕭懿の四弟で晋安王の文学であった蕭暢を諮議とし、録事を兼ねさせた。召し入れると、遙光は言った、「劉暄に異志あり、今夜これを捕らえん」。遙光は昨年暴風に遭い、性情が錯乱し、長い時を経てようやく癒えた。蕭暢は言った、「公は昨年ご不例であり、今また発作が起きようとしています」。左右を顧みて急いで医師を呼び脈を見させようとした。遙光は声を厲して言った、「諮議は異を為そうとするのか!」。そこで叱りつけて退出させた。しばらくして劉渢が入ると、蕭暢は言った、「公は往年風疾を患い、今また再発しました」。劉渢は言った、「卿は今夜の処分を見よ、どうしてこのような言葉を発するのか」。やがて垣歴生を迎えると、劉渢とともに夜間に台城を攻めるよう勧めた。採用されないと、劉渢と歴生はともに胸を打って言った、「今賊を為さんとしながらこの城を坐して守るとは、今年公のために滅族するであろう」。遙光が敗れると、劉渢は囲いの中の舎に静かに坐していた。劉溓は度支郎であったが逃亡し、劉渢に遇ってもなお去ろうとしなかった。劉渢は言った、「私は人のために吏となり、自ら死を避けぬ。汝は去れ、共に尽きるを守るなかれ」。答えて言った、「もし先に兄に逢わなければ、草むらに苟くも免れたであろう。今既に相逢う以上、どうして独り生きるを忍ぼうか」。衣帯をもって兄の衣を結び、ともに殺された。何胤はこれを聞き嘆じて言った、「兄は君難に死し、弟は兄禍に死す。美しいかな」。
また柳叔夜、河東の人。父の柳宗は、宋の黄門郎。叔夜は十六歳で新野太守となり、甚だ有名な治績を挙げ、蕭遙光の諮議参軍に補せられた。挙兵が失敗すると、左右が馬に乗せようとし、共に逃亡しようとしたが、答えて言った、「私はすでに始安王(遙光)に死を誓った。どうしてこれを背けようか」。そこで自殺した。
封延伯は字を仲連といい、勃海の人である。代々州郡の著姓であり、東海に寓居し、三世が財を同じくして、北州の人々が宗仰し附いた。延伯は学を好み譲り、寡婦の嫂に仕えること甚だ謹み深かった。垣崇祖が兗州刺史となった時、長史に請うたが就かず、崇祖がその門に軾して礼をしても、肯って相見えなかった。後に崇祖が 豫 州刺史となると、上表して推薦し、詔書をもって優礼を加えられた。初めて官に就き平西長史・梁郡太守となった。政治は清静で、高士の風があった。まもなく病により免官され、東海に帰った。当時四州が魏に入り、士子は皆海辺に依り、争って彼を宗仰したことは、遼東の邴原を仰ぐが如きものであった。
建元三年、大使が天下を巡行した時、義興の陳玄子は四世同居し、一百七口。武陵の邵栄興・文獻叔はともに八世同居した。東海の徐生之・武陵の范安祖・李聖伯・范道根はともに五世同居した。零陵の譚弘寶・衡陽の何弘・華陽の陽黑頭は、疏従(遠縁の親族)で四世同居した。詔して皆その門閭を表彰し、租税を免除した。
また蜀郡の王續祖・華陽の郝道福はともに累世同爨(同じ竈で炊事)した。建武三年、明帝は詔してその門を表彰し、調役を免除した。
呉達之は義興の人である。嫂が亡くなり葬るに資なく、自ら身を売って十夫客となり、塚槨を営んだ。従祖弟の敬伯は、夫婦で凶年に掠め取られて江北に売られたが、達之は田十畝を持っており、これを売って贖い、財を同じくし宅を共にした。郡が主簿に任命したが、固く兄に譲った。また世業の旧田を族弟に譲ったが、弟も受けず、田は遂に閑廃した。斉の建元三年、詔してその門閭を表彰した。
先に蔡曇智という者がおり、郷里では蔡曾子と号し、廬江の何伯璵兄弟は、郷里で何展禽と号し、ともに高士沈顗に重んじられた。常に云う、「蔡曇智の風を聞けば、怯夫も勇み、鄙夫も志を立てる。何伯璵の風を聞けば、偽夫も正しく、薄夫も厚くなる」と。
伯璵は弟の幼璵とともに節操を励み、孤児となった兄の子を養い、成長して婚姻するに及んでは、家業を推譲して全て与えた。貧しく枯槁した生活に安んじ、人を誨いて倦まず、郡守が着任すれば必ず謁見に来た。伯璵が没すると、幼璵は後に仏法を好み、髪を落とし長齋を守り、行いを精苦にし、梁の初年に卒した。兄弟は八十余歳であった。
王文殊は字を令章といい、呉興故鄣の人である。父が魏に没し、文殊は思慕して泣血し、終身蔬食し、帛を衣とせず、麻縕(麻の綿入れ)を服するのみであった。婚姻せず、人物と交わらなかった。呉興太守謝瀹が功曹に招聘したが就かず、県の西に小屋を立て、その中で端拱し、歳時の伏臘、月の朝十五日には、必ず北を望んで長く悲しみ、このように三十余年を過ごした。太守孔琇之がその行いを上表すると、郁林王は詔して門に榜し、その居所を孝行里と改めた。
楽頤之は字を文徳といい、南陽涅陽の人である。代々南郡に居住し、少時より言行が和やかで謹み深かった。京府参軍に仕え、父が郢で病没した。頤之は突然悲恋の情に駆られて泣き、仮を請い帰還したが、途中で果たして父の凶報を得た。そこで徒跣して号慟し、陶家の後渚に出て、商人の船に便乗して西上し、数日間水漿を口にしなかった。かつて病に遇い、母と壁を隔てていたが、病を忍んで言わず、被を噛み砕くほどにし、母が己を哀しむのを恐れたのである。湘州刺史王僧虔が主簿に引き立てたが、同僚が人に非ずとして、官を棄て去った。吏部郎庾杲之がかつて往って訪ねると、頤之は食事を設けたが、枯魚と菜の漬物のみであった。杲之は言った、「私はこれを食すことができぬ」。母がこれを聞き、自ら出て常膳の魚羹数種を持って来た。杲之は言った、「卿は茅季偉に勝り、我は郭林宗に非ず」。官は 郢州 中従事に至った。
弟の楽預は字を文介といい、また至孝であった。父が臨終に際し、手を執って郢州行事の王奐に託した。預は悲感して悶絶し、吐血数升し、遂に発病した。官は驃騎録事参軍に至った。
隆昌末、楽預は丹陽尹徐孝嗣に言った、「外間の伝えるところによれば、伊尹・周公のごとき事があるようだ。君は武帝の殊常の恩を受け、託付の重荷を担う。恐らくはこの事に人と同じくすることはできまい。褚公(褚淵)のことは、今に至るまで人に笑われている。その過ちを繰り返すなかれ」。孝嗣の故吏である呉興の沈升之もまた説いて言った、「升之と君とはともに項領(重要な)の功がある。今一言すれば二つの功ともに解かれる。どうかこれを聞かれたし。君は二祖(武帝・郁林王)の恩を受けながら、さらに惟新(新帝擁立)の政に参じれば、君を反復の人とし、事が成っても咎を逃れる処はない。升之は草萊の百姓、言い出せば禍は已に随う。いずれが超然として病を謝し、高く枕して家園に臥すに如かん。そうすれば松柏に比する操、風霜に等しい烈しさとなり、美しいことではあるまいか」。孝嗣はともに顔色を改めて謝した。
楽預は建武年間に永世県令となり、人々はその徳を懐き、官で卒した。時に一人の老媼、年およそ六七十、檞の葉や蔌の葉を担いで市に造り売っていたが、楽預の死を聞いて大いに泣き、葉を溪中に棄てて言った、「楽令を失えば、我ら孤独の老姥は正に死に就くべきのみ」。市の人も皆泣き、その恵みと教化はこのようであった。
江泌は字を士清といい、済陽考城の人である。父の江亮之は員外郎。泌は少時貧しく、昼は屧(木履)を削ることを業とし、夜は月光に随って読書し、光が斜めになると巻を握って屋上に昇り、眠り極まって地に堕ちると再び登った。性行は仁義に厚く、衣が破れ虱が多かったが、綿で包んで壁の上に置き、虱が飢えて死ぬのを恐れ、また衣の中に置いた。数日のうちに、終身再び虱がなくなった。母が亡くなった後、生前に供養が足りなかったことを思い、鮭(魚)に遇うと忍んで食さず、菜は心(芯)を食わず、それに生意があるからで、ただ老いた葉のみを食った。母の墓が野火に焼かれると、「新宮に災あれば、三日哭す」の礼に依り、涙が尽きると血をもってこれに継いだ。
歴任して南中郎行参軍となり、与えられた募吏が役を去り、時病を得て、これを捨てる者無し。吏が杖を扶けて泌に投ずれば、泌自ら隠恤す。吏死すれば、泌棺を買う。僮役無く、兄弟共に輿してこれを埋む。後に国子助教を領し、牽車に乗りて染烏頭に至り、一の老公の歩行するを見て、車を下りてこれを載せ、躬自ら歩いて染に去る。武帝、南康王子琳の侍読と為す。
建武中、明帝諸王を害し、後に泌子琳を憂念し、志公道人を訪ね、その禍福を問う。志公香炉の灰を覆してこれを示し曰く、「皆尽きて余無し」。子琳の害せらるるに及び、泌往きてこれを哭し、涙尽きて血を以て継ぎ、親しく殯葬の畢るを視て乃ち去る。泌尋いで卒す。族人の兗州中従事たる泌は、黄門郎悆の子なり、泌と同名にして、世は泌を「孝泌」と謂いて以てこれを別つ。
庾道湣は、潁川鄢陵の人、晋の 司空 冰の玄孫なり。孝行有り、頗る能く文を属す。少くして孤悴に出で、時人知る莫し。その生母交州に流漂し、道湣尚ほ繈褓に在り。長じてこれを知り、広州綏寧府の佐と為らんことを求む。南に至りて交州尚ほ遠し、乃ち自ら負担して嶮を冒し、僅かに自達を得たり。交州に至るに及び、母を尋求すること年を経れども、日夜悲泣す。嘗て村に入り、日暮れて雨驟し、乃ち一家に寄止す。旦に一の嫗薪を負いて外より還る有り、而して道湣心動き、因りてこれを訪うれば、乃ち其の母なり。ここに行き伏して号泣し、遠近これに赴く、涙を揮わざる莫し。
道湣は尤も相板に精しく、宋の明帝の時、山陽王休祐屡に言語を以て顔に忤い、道湣を見て、己が板を以て他物に托し、道湣をしてこれを占わしむ。道湣曰く、「此れ乃ち甚だ貴し、然れども人をして多く愆忤有らしむ」。休祐、褚彦回の詳密なるを以て、其の板を換えんことを求む。他日、彦回明帝に侍し、自ら下官と称す。帝多く忌み、甚だ悦ばず。休祐具に状を以て言えば、帝乃ち意解す。
道湣斉に仕え、位は射声 校尉 。族孫の沙弥も亦た孝行を以て著る。
沙弥は、晋の 司空 冰の六世孫なり。父佩玉、宋に仕えて位は長沙内史、升明中、沈攸之の事に坐して誅せらる。時に沙弥始めて生まる。年五歳に及び、生母其の為に采衣を制すれども、輒ち服せず。母其の故を問えば、流涕して対えて曰く、「家門禍酷、何をか用いん」。長ずるに及び、終身布衣蔬食す。中軍田曹行参軍と為る。嫡母劉氏疾に寝す、沙弥晨昏側に侍し、衣帯を解かず。或いは針灸に応ずるに、輒ち身を以て先ず試む。母亡するに及び、水漿口に入れず累日。初め大麦の薄飲を進め、十旬を経て方ち薄粥と為す。喪終るまで塩酢を食わず、冬日綿纊を衣せず、夏日衰絰を解かず。廬戸を出でず、昼夜号慟し、隣人聞くに忍びず。坐する所の薦、涙沾いて爛る。墓は新林に在り、忽ち旅松百許株生じ、枝葉鬱茂、常の松に異なり。劉甘蔗を噉むを好む、沙弥遂に食わず。宗人の都官尚書詠其の状を表言し、純孝の挙に応ず、梁の武帝召見してこれを嘉し、以て歙令を補う。還りて軽車邵陵王参軍事を除かれ、府に随いて会稽に至り、復た生母の憂に丁し、喪都に還り、浙江を済えんとす。中流風に遇い、舫将に覆没せんとす。沙弥柩を抱きて号哭す、俄かに風静まり、咸く孝感の致す所と為す。後に長城令に卒す。子に持有り。
持は字は元徳、少くして孤、性至孝、父憂に居喪して礼を過ぐ。篤志好学、梁に仕えて尚書左戸郎と為り、後に建康監を兼ぬ。陳の文帝、呉興太守と為る時、郡丞と為し、兼ねて書翰を掌る。天嘉初、尚書左丞と為り、崇徳県子を封ず。拝封の日、令史をして客と為らしめ、其の餉遺を受く、文帝之を怒り、因りて坐して免ぜらる。後に臨安令と為り、人を杖殺して坐し封を免ぜらる。還りて給事黄門侍郎と為り、歴任して塩官令、秘書監、国史の事を知る。又少府卿と為り、太中大夫に遷り、歩兵 校尉 を領し、卒す。持は字書に善く、毎に辞を属するに、奇字を好み、文士も亦た此を以てこれを譏る。集十巻有り。
校勘記