南史

卷七十二 列傳第六十二 文學

卷七十二 列傳第六十二 文學

南史

卷七十二 列傳第六十二 文學

序

原文序

《易経》に云う、「人文を観て以て天下を化成す」と。孔子曰く、「煥乎として其れ文章有り」と。漢代以来、文辞の士は代々に現れ、大なるものは典誥を憲章し、小なるものは性霊を申し抒ぶ。礼楽を経め国家を緯るに至り、古今を通じ美悪を述ぶるは、これなくしては為し得ざる所なり。ここをもって哲王上に在り、皆これを敦く悦ぶ。故に云う、「言文ならざれば、行遠からず」と。中原沸騰し、五馬南度してより、綴文の士は時に乏しきこと無し。降りて梁朝に及び、その流れは弥く盛んなり。時に主儒雅にして、篤く文章を好むが故に、才秀の士は煥乎として俱に集まる。時に武帝は臨幸する毎に、輒ち群臣に命じて詩を賦せしめ、その文の善き者には金帛を賜う。ここをもって縉紳の士は、皆自ら励むことを知れり。陳の命を受くるに至り、運乱離に接し、励まし奨まするを加うれども、向時の風流は息みぬ。詩に云う、「人の云う亡び、邦国殄悴す」と。豈に金陵の数将に三百年を終えんとするか。然らずんば、何ぞかくの如くならん。宋史は文学伝を立てず、斉・梁は皆その目有り。今これを綴りて序し、以てこの篇を備うるのみ。

原文《易》云:「觀乎人文以化成天下。」孔子曰:「煥乎其有文章。」自漢以來,辭人代有,大則憲章典誥,小則申抒性靈。至於經禮樂而緯國家,通古今而述美惡,非斯則莫可也。是以哲王在上,咸所敦悅。故云:「言之不文,行之不遠」。自中原沸騰,五馬南度,綴文之士,無乏于時。降及梁朝,其流彌盛。蓋由時主儒雅,篤好文章,故才秀之士,煥乎俱集。于時武帝每所臨幸,輒命群臣賦詩,其文之善者賜以金帛。是以縉紳之士,咸知自勵。至有陳受命,運接亂離,雖加獎勵,而向時之風流息矣。詩云:「人之雲亡,邦國殄悴。」豈金陵之數將終三百年乎?不然,何至是也。宋史不立文學傳,齊、梁皆有其目。今綴而序之,以備此篇云爾。

丘霊鞠

原文丘靈鞠

丘霊鞠は、呉興烏程の人なり。祖父は系、秘書監。父は道真、護軍長史。

原文丘靈鞠,呉興烏程人也。祖系,祕書監。父道真,護軍長史。

霊鞠は少しく学を好み、文を属するに善く、州より辟せられて従事と為る。領軍沈演之に詣る。演之曰く、「身昔州職たりし時、領軍謝晦に詣る。賓主坐する処、政まさに今日の如し。卿将来またかくの如くならん」と。累遷して員外郎と為る。

原文靈鞠少好學,善屬文,州辟從事。詣領軍沈演之,演之曰:「身昔爲州職,詣領軍謝晦,賓主坐處,政如今日。卿將來復如此也。」累遷員外郎。

宋の孝武帝の殷貴妃亡きとき、霊鞠は輓歌三首を献じ、云う、「雲は広階に横たわりて闇く、霜は高殿に深くして寒し」と。帝は句を擿げて嗟賞す。後に烏程令と為り、志を得ず。泰始の初め、事に坐して数年間禁錮せらる。褚彦回が呉興太守と為り、人に謂いて曰く、「この郡の才士は丘霊鞠及び沈勃のみ有り」と。乃ちこれを啓申す。明帝は大駕南討記論を著わさしむ。久しくして、太尉参軍を除く。升明の中、正員郎と為り、中書郎を兼ぬ。時に方に禅譲せんとし、斉の高帝は霊鞠をして詔策を参掌せしむ。建元元年、中書郎に転じ、勅せられて東宮手筆を知る。嘗て東に還り、司徒褚彦回に詣りて別れんとす。彦回起たずして曰く、「比来脚疾更に増し、復た能く起つこと能わず」と。霊鞠曰く、「脚疾も亦た大事なり。公は一代の鼎臣たり、復た覆餗を為すべからず」と。その強き切なることかくの如し。形儀を持せず、唯だ笑適を取るのみ。尋いで又た国史を知り掌る。

原文宋孝武殷貴妃亡,靈鞠獻輓歌三首,云:「雲橫廣階闇,霜深高殿寒。」帝擿句嗟賞。後爲烏程令,不得志。泰始初,坐事禁錮數年。褚彥回爲呉興太守,謂人曰:「此郡才士唯有丘靈鞠及沈勃耳。」乃啟申之。明帝使著大駕南討記論。久之,除太尉參軍。升明中,爲正員郎,兼中書郎。時方禪讓,齊高帝使靈鞠參掌詔策。建元元年,轉中書郎,敕知東宮手筆。嘗還東,詣司徒褚彥回別,彥回不起,曰:「比腳疾更增,不復能起。」靈鞠曰:「腳疾亦是大事,公爲一代鼎臣,不可復爲覆餗。」其強切如此。不持形儀,唯取笑適。尋又掌知國史。

武帝即位し、通直常侍と為り、尋いで東観祭酒を領す。霊鞠曰く、「人官に居りて数遷するを願うも、我をして終身祭酒たらしむるも恨みず」と。永明二年、驍騎将軍を領す。霊鞠は武位を楽しまず、人に謂いて曰く、「我は応に東に還りて顧栄の塚を掘るべし。江南の地方数千里、士子の風流皆この中より出づ。顧栄忽ち諸の傖輩を引きて度り、我が輩の塗轍を妨ぐ。死して余罪有り」と。

原文武帝即位,爲通直常侍,尋領東觀祭酒。靈鞠曰:「人居官願數遷,使我終身爲祭酒不恨也。」永明二年,領驍騎將軍。靈鞠不樂武位,謂人曰:「我應還東掘顧榮塚。江南地方數千里,士子風流皆出此中。顧榮忽引諸傖輩度,妨我輩塗轍,死有餘罪。」

霊鞠は酒を飲むことを好み、人物を臧否す。沈深の座に在りて、王儉の詩を見る。深曰く、「王令の文章大いに進む」と。霊鞠曰く、「我の未だ進まざりし時と如何」と。この言は儉に達す。霊鞠は宋の時文名甚だ盛んなりしも、斉に入りて頗る減ず。蓬髪弛縦にして形儀無く、家業に事えず。王儉人に謂いて曰く、「丘公仕宦進まず、才も亦た退けり」と。位は長沙王車騎長史に至り、卒す。江左文章録序を著わし、太興に起こり、元熙に訖る。文集時に行わる。子に遅有り。

原文靈鞠好飲酒,臧否人物,在沈深座,見王儉詩,深曰:「王令文章大進。」靈鞠曰:「何如我未進時。」此言達儉。靈鞠宋時文名甚盛,入齊頗減,蓬發弛縱無形儀,不事家業。王儉謂人曰:「丘公仕宦不進,才亦退矣。」位長沙王車騎長史,卒。著江左文章錄序,起太興,訖元熙。文集行于時。子遲。

霊鞠の子 遅

原文靈鞠子 遲

遅は字あざなを希範とす。八歳にして便ち文を属す。霊鞠常に謂う、「気骨我に似たり」と。黄門郎謝超宗・征士何点並びに見てこれを異とす。斉に在り、秀才を以て累遷して殿中郎と為る。梁武帝建鄴を平らげ、引いて驃騎主簿と為し、甚だ礼遇せらる。時に梁王を勧進し及び殊礼を上るは、皆遅の文なり。践祚に及び、中書郎に遷り、文徳殿に待詔す。時に帝連珠を著わし、群臣に詔して継作する者数十人、遅の文最も美し。事に坐して免ぜられ、乃ち責躬の詩を献ず。上は優辞を以てこれに答う。

原文遲字希範,八歳便屬文。靈鞠常謂「氣骨似我」。黃門郎謝超宗、征士何點並見而異之。在齊,以秀才累遷殿中郎。梁武帝平建鄴,引爲驃騎主簿,甚被禮遇。時勸進梁王及殊禮,皆遲文也。及踐阼,遷中書郎,待詔文德殿。時帝著連珠,詔群臣繼作者數十人,遲文最美。坐事免,乃獻責躬詩,上優辭答之。

後に出でて永嘉太守と為る。郡に在りて職に称せず、有司に糾さる。帝その才を愛し、その奏を寝す。天監四年、中軍将軍臨川王宏魏を北侵するに、諮議参軍と為し、記室を領す。時に陳伯之北に在り、魏軍と来りて拒ぐ。遅は書を以てこれを諭す。伯之遂に降る。還りて中書侍郎を拝し、司空従事中郎に遷り、官に卒す。

原文後出爲永嘉太守,在郡不稱職,爲有司所糾。帝愛其才,寢其奏。天監四年,中軍將軍臨川王宏北侵魏,以爲諮議參軍,領記室。時陳伯之在北,與魏軍來拒,遲以書喻之,伯之遂降。還拜中書侍郎,遷司空從事中郎,卒官。

遅は辞采麗逸たり。時に鍾嶸詩評を著わして云う、「范雲は婉転清便、流風雪を回らすが如し。遅は点綴映媚、落花草に依るに似たり。賤しき文通を取るといえども、敬子よりは秀でたり」と。その称せらるることかくの如し。

原文遲辭采麗逸,時有鍾嶸著詩評云:「范雲婉轉清便,如流風回雪。遲點綴映媚,似落花依草。雖取賤文通,而秀於敬子。」其見稱如此。

霊鞠の従孫 仲孚

原文靈鞠從孫 仲孚

仲孚は字を公信といい、霊鞠の従孫である。幼い頃から学問を好み、読書は常に夜半の鐘の音を限りとした。霊鞠はかつて彼を千里駒と称した。斉の永明の初め、国子生となった。王儉は言った、「東南の美才が、また丘生に見える。」高第に挙げられたが、官に就かず、郷里に帰った。家が貧しかったため、群盗を結んで計略をめぐらし、三呉を劫掠した。仲孚は聡明で智略があり、群盗は畏服し、行うところはみな成果をあげたので、発覚することもなかった。于湖県令となり、有能の名があり、太守の呂文顕は当時の幸臣であったが、属県を陵詆したが、仲孚だけは屈しなかった。

原文仲孚字公信,靈鞠從孫也。少好學,讀書常以中宵鍾鳴爲限。靈鞠嘗稱爲千里駒也。齊永明初,爲國子生。王儉曰:「東南之美,復見丘生。」舉高第,未調,還鄕里。家貧,乃結群盜爲之計,劫掠三呉。仲孚聰明有智略,群盜畏服,所行皆果,故亦不發。爲於湖令,有能名,太守呂文顯當時幸臣,陵詆屬縣,仲孚獨不爲屈。

明帝が即位すると、曲阿県令となり、会稽太守の王敬則が反乱を起こし、朝廷の不備に乗じて、反間の情報が届いたときには前鋒がすでに曲阿に迫っていた。仲孚は長岡埭を穿ち、瀆の水を流し出して、その進路を阻んだ。敬則の軍が到着すると、瀆が涸れているのに遭遇し、果たして兵を頓挫させて進むことができず、ついに敗れた。仲孚は拒守の功により、山陰県令に遷り、職務に就いて甚だ名声があった。百姓は謡った、「二傅・沈・劉も、一丘に及ばず。」前世の傅琰父子・沈憲・劉玄明が相次いで山陰を宰り、ともに政績があったが、仲孚はみな彼らを超えているというのである。斉末に政が乱れ、かなり贓賄があり、有司に挙げられ、収監されようとしたが、密かに逃れて都に帰り、赦令に会って問われなかった。

原文明帝即位,爲曲阿令,會稽太守王敬則反,乘朝廷不備,反問至而前鋒已屆曲阿。仲孚鑿長岡埭,瀉瀆水,以阻其路。敬則軍至,遇瀆涸,果頓兵不得進,遂敗。仲孚以拒守功,遷山陰令,居職甚有聲稱。百姓謠曰:「二傅、沈、劉,不如一丘。」前世傅琰父子、沈憲、劉玄明相繼宰山陰,並有政績,言仲孚皆過之。齊末政亂,頗有贓賄,爲有司所舉,將見收,竊逃還都,會赦不問。

梁の武帝が践祚すると、再び山陰県令となった。仲孚は煩雑な事務を処理するのに長け、権変に適うことを善くし、吏人は敬服し、神明と号され、政績は天下第一とされた。後に衛尉卿となり、恩任は甚だ厚かった。初めて双闕を建てるとき、仲孚に大匠を領させ、累遷して豫章内史となり、郡にあってさらに清節を励んだ。まもなく卒し、給事黄門侍郎を追贈された。喪が帰還するとき、豫章の老幼は号哭して引き留め送り、車輪は前に進むことができなかった。仲孚は左丞として、皇典二十巻、南宮故事百巻を撰し、また尚書具事雑儀を撰して世に行われた。

原文梁武帝踐阼,復爲山陰令。仲孚長於撥煩,善適權變,吏人敬服,號稱神明,政爲天下第一。後爲衞尉卿,恩任甚厚。初起雙闕,以仲孚領大匠,累遷豫章內史,在郡更勵清節。頃之卒,贈給事黃門侍郎。喪將還,豫章老幼號哭攀送,車輪不得前。仲孚爲左丞,撰皇典二十卷,南宮故事百卷,又撰尚書具事雜儀行於世。

檀超

原文檀超

檀超は字を悦祖といい、高平郡金郷県の人である。祖父の嶷之は字を弘宗といい、宋の南琅邪太守であった。父の道彪は字を万寿といい、正員郎の位にあった。超は若くして文学を好み、放誕で気ままにふるまい、州の西曹に初めて官についた。蕭恵開が別駕となると、超はすぐに対等の礼をとった。恵開は自ら地位が前にあるとして、少しずつ陵辱したが、超の挙動は嘯傲として、地勢をもって彼を推すことなく、目を見開いて言った、「我と卿とはともに国家が微賤であったときの外戚に過ぎぬ。どうして一つの爵位をもって人を高しとすることができようか。」蕭太后は恵開の祖姑(父方の祖父の姉妹)であり、長沙景王妃であり、超の祖姑でもあったので、超はこのことをもって議論したのである。恵開は欣然とし、さらに刎頸の交わりとなった。

原文檀超字悅祖,高平金鄕人也。祖嶷之字弘宗,宋南琅邪太守。父道彪字萬壽,位正員郎。超少好文學,放誕任氣,解褐州西曹。蕭惠開爲別駕,超便抗禮。惠開自以地位居前,稍相陵辱,而超舉動嘯傲,不以地勢推之,張目謂曰:「我與卿俱是國家微賤時外戚耳,何足以一爵高人!」蕭太后,惠開之祖姑,長沙景王妃,超祖姑也,故超以此議之。惠開欣然,更爲刎頸之交。

後に国子博士、兼左丞の位にあった。超は酒を嗜み、談詠を好み、自ら晋の郗超に比し、高平に二超ありと言い、また人に言った、「やはり我が優れていると覚える。」斉の高帝は彼を賞愛し、後に司徒右長史となった。

原文後位國子博士,兼左丞。超嗜酒,好談詠,自比晉郗超,言高平有二超,又謂人曰:「猶覺我爲優也。」齊高帝賞愛之,後爲司徒右長史。

建元二年、初めて史官を置き、超と驃騎記室の江淹に史職を掌らせた。上表して条例を立てた:開元の紀号は、宋の年号を取らず;封爵は各々本伝に詳しくし、年表を借りない。また十志を著すことを定めたが、多くは左僕射の王儉と意見が合わなかった。すでに物事と多く忤り、史の事業が未完成のうちに、交州に徙され、路において殺害された。江淹が撰成したが、なお備わっていなかった。

原文建元二年,初置史官,以超與驃騎記室江淹掌史職,上表立條例:開元紀號,不取宋年;封爵各詳本傳,無假年表。又制著十志,多爲左僕射王儉所不同。既與物多忤,史功未就,徙交州,于路見殺。江淹撰成之,猶不備也。

附 熊襄

原文附 熊襄

時に豫章の熊襄という者がおり、斉典を著した。上は十代に起り、その序に云う、「尚書の堯典を虞書というならば、則ち附して述べる所を通じて斉書と謂い、名を河洛金匱とす。」

原文時有豫章熊襄著齊典,上起十代,其序云:「尚書堯典謂之虞書,則附所述通謂之齊書,名爲河洛金匱。」

附 呉邁遠

原文附 呉邁遠

また呉邁遠という者がおり、篇章を作ることを好んだ。宋の明帝は聞いて彼を召した。見て言った、「この人は連絶の外には、再び有るところ無し。」邁遠は自ら誇ることを好み、他人を嗤い鄙しみ、詩を作るごとに、称意の語を得ると、すぐに地に擲って呼んで言った、「曹子建など何ぞ数えるに足らんや。」超は聞いて笑って言った、「昔、劉季緒は才が作者に及ばないのに、人の文章を抵訶することを好んだ。季緒は瑣瑣たるもので、どうして道うに足らん。邁遠に至っては、何を為す者ぞ。」

原文又有呉邁遠者,好爲篇章,宋明帝聞而召之。及見曰:「此人連絶之外,無所復有。」邁遠好自誇而蚩鄙他人,每作詩,得稱意語,輒擲地呼曰:「曹子建何足數哉!」超聞而笑曰:「昔劉季緒才不逮于作者,而好抵訶人文章。季緒瑣瑣,焉足道哉,至於邁遠,何爲者乎。」

超の叔父 道鸞

原文超叔父 道鸞

超の叔父の道鸞は字を万安といい、国子博士・永嘉太守の位にあり、また文学があり、続晋陽秋二十巻を撰した。

原文超叔父道鸞字萬安,位國子博士、永嘉太守,亦有文學,撰續晉陽秋二十卷。

卞彬

原文卞彬

卞彬は字を士蔚といい、済陰郡冤句県の人である。祖父の嗣之は中領軍であった。父の延之は弱冠で上虞県令となり、剛気があった。会稽太守の孟顗が令長として彼を裁いたが、積もって容れることができず、幘を脱いで地に投げて言った、「我が卿を屈する所以は、政としてこの幘のためである。今すでにこれを卿に投げた。卿は一世の勲門をもって、天下の国士を傲る。」衣を払って去った。

原文卞彬字士蔚,濟陰冤句人也。祖嗣之,中領軍。父延之,弱冠爲上虞令,有剛氣。會稽太守孟顗以令長裁之,積不能容,脫幘投地曰:「我所以屈卿者,政爲此幘耳。今已投之卿矣。卿以一世勳門,而傲天下國士。」拂衣而去。

卞彬は険しく抜きん出た才を持ち、しかも物事に多く逆らった。斉の高帝が政を輔けるにあたり、袁粲・劉彦節・王蘊らは皆これに同調せず、また沈攸之も兵を挙げて反した。袁粲・王蘊は敗れたが、沈攸之はなお存続していた。卞彬の考えでは、高帝の事は成る見込みがないとし、そこで帝に言うには、「近頃謡に『憐れむべく念うべし屍は服を著け、孝子は日に在らず代わりに哭き、列管は暫く鳴いて死滅す族』と聞きますが、公は少し聞かれましたか」と。時に王蘊は父の喪に服し、袁粦とともに死んだので、「屍は服を著け」と言うのである。「服」とは衣である。「孝子は日に在らず代わりに哭く」とは、褚の字である。卞彬は沈攸之が志を得れば、褚彦回は敗れるであろうと言い、故に哭くと言うのである。列管とは蕭を指す。高帝は快く思わず、卞彬が退出した後、「卞彬が自らこれを造ったのだ」と言った。後に常に東府で高帝に謁見したが、高帝は当時斉王であった。卞彬は言う、「殿下が東宮を府とすれば、青渓を鴻溝とし、鴻溝以東を斉とし、以西を宋とします」と。なお詩を詠じて云う、「誰か宋遠しと謂わん、跂ちて予これを望む」と。ここに大いに旨に逆らい、これにより数年間排斥され廃され、仕官して進むことができなかった。そこで趙壹の『窮鳥賦』にならって『枯魚賦』を作り、意を喩えた。

原文彬險拔有才,而與物多忤。齊高帝輔政,袁粲、劉彥節、王蘊等皆不同,而沈攸之又稱兵反。粲、蘊雖敗,攸之尚存。彬意猶以高帝事無所成,乃謂帝曰:「比聞謠雲'可憐可念屍著服,孝子不在日代哭,列管暫鳴死滅族'。公頗聞不?」時蘊居父憂,與粲同死,故云:「屍著服。」也。「服」者,衣也。」孝子不在日代哭。」者,褚字也。彬謂沈攸之得志,褚彥回當敗,故言哭也。列管謂蕭也。高帝不悅,及彬退,曰:「彬自作此。」後常於東府謁高帝,高帝時爲齊王。彬曰:「殿下即東宮爲府,則以青溪爲鴻溝,鴻溝以東爲齊,以西爲宋。」仍詠詩云:「誰謂宋遠,跂予望之。」遂大忤旨,因此擯廢數年,不得仕進。乃擬趙壹窮鳥爲枯魚賦以喻意。

後に南康郡丞となった。卞彬は大いに酒を飲み、形骸を擯棄し、仕官も既に遂げられず、そこで『蚤虱賦』『蝸蟲賦』『蝦蟆賦』などを著し、皆大いに指弾を含んでいた。その『蚤虱賦』の序に曰く、「余は貧に居り、布衣十年製せず、一袍の縕、生くる所の托つところ、その寒暑を資け、これと易うるもの無し。人と為りて病多く、起居甚だ疏く、縈寝敗絮、自ら釈く能わず。兼ねて性を摂すること懈墮、皮膚に事うるを懶くし、澡刷謹まず、澣沐時を失う。四體獰獰として、臭穢を加うるに、故に葦席蓬纓の間、蚤虱猥りに流る。淫癢渭濩として、肉を恕する時無く、探揣擭撮して、日に手を替えず。虱に諺言有り、『朝に生まれ暮に孫す』と、吾が虱の如きは、湯沐の慮無く、相吊の憂絶え、晏として久褲爛布の裳に聚まり、また討捕に勤めず、孫孫子子、三十五歳なり」と。その略言は皆実録である。また『禽獣決録』を作った。禽獣に目して云う、「羊は性淫にして佷く、猪は性卑にして率い、鵝は性頑にして傲り、狗は性険にして出づ」と。皆貴勢を指弾した。その羊の淫佷は呂文顯を謂い、猪の卑率は朱隆之を謂い、鵝の頑傲は潘敞を謂い、狗の険出は文度を謂う。その険詣この如し。『蝦蟆賦』に云う、「青を紆え紫を拖き、名けて蛤魚と為す」と。世にこれを令僕に比すと謂う。また云う、「蝌斗唯唯として、群れ闇水に浮かび、唯朝に夕を継ぎ、聿役して鬼の如し」と。令史の諮事に比すのである。文章は閭巷に伝わった。後に尚書比部郎・安吉令・車騎記室を歴任した。卞彬は性酒を好み、瓠壺・瓢勺・杬皮を具とし、帛冠を著け、十二年改易せず。大瓠を火籠とし、什物多く諸々の詭異である。自ら卞田居と称し、婦を傅蠶室と為す。或る人謂う、「卿は全く操を持たず、名器何由か得て升る」と。卞彬曰く、「五木子を擲ち、十擲して輒ち鞬す、豈に復た擲子の拙なるや。吾は擲つを好む、政に此れを極むるのみ」と。後に綏建太守となり、官に卒した。

原文後爲南康郡丞。彬頗飲酒,擯棄形骸,仕既不遂,乃著蚤虱、蝸蟲、蝦蟆等賦,皆大有指斥。其蚤虱賦序曰:「余居貧,布衣十年不制,一袍之縕,有生所托,資其寒暑,無與易之。爲人多病,起居甚疏,縈寢敗絮,不能自釋。兼攝性懈墮,懶事皮膚,澡刷不謹,澣沐失時。四體獰獰,加以臭穢,故葦席蓬纓之間,蚤虱猥流。淫癢渭濩,無時恕肉,探揣擭撮,日不替手。虱有諺言,'朝生暮孫',若吾之虱者,無湯沐之慮,絶相吊之憂,晏聚乎久褲爛布之裳,復不懃於討捕,孫孫子子,三十五歳焉。」其略言皆實錄也。又爲禽獸決錄。目禽獸云:「羊性淫而佷,豬性卑而率,鵝性頑而傲,狗性險而出。」皆指斥貴勢。其羊淫佷,謂呂文顯;豬卑率,謂朱隆之;鵝頑傲,謂潘敞;狗險出,謂文度。其險詣如此。蝦蟆賦云:「紆青拖紫,名爲蛤魚。」世謂比令僕也。又云:「蝌鬥唯唯,群浮闇水,唯朝繼夕,聿役如鬼。」比令史諮事也。文章傳於閭巷。後曆尚書比部郎,安吉令,車騎記室。彬性好飲酒,以瓠壺瓢勺杬皮爲具,著帛冠,十二年不改易。以大瓠爲火籠,什物多諸詭異。自稱卞田居,婦爲傅蠶室。或謂曰:「卿都不持操,名器何由得升?」彬曰:「擲五木子,十擲輒鞬,豈復是擲子之拙。吾好擲,政極此耳。」後爲綏建太守,卒官。

附 諸葛朂

原文附 諸葛朂

永明年中、琅邪の諸葛勖は国子生となり、『雲中賦』を作り、祭酒以下を指して、皆形似の目有り。事に坐して東冶に繋がれ、『東冶徒賦』を作る。武帝これを見て、これを赦した。

原文永明中,琅邪諸葛勖爲國子生,作雲中賦,指祭酒以下,皆有形似之目。坐事系東冶,作東冶徒賦。武帝見,赦之。

附 袁嘏

原文附 袁嘏

また陳郡の袁嘏有り、自らその文を重んじ、人に謂って云う、「我が詩は須らく大材を以て之を迮すべし、然らずんば飛び去らん」と。建武末、諸暨令となり、王敬則の賊に殺された。

原文又有陳郡袁嘏,自重其文,謂人云:「我詩應須大材迮之,不爾飛去。」建武末,爲諸暨令,被王敬則賊所殺。

附 高爽

原文附 高爽

時に広陵の高爽有り、博学多才なり。劉蒨が晋陵県令となった時、高爽は途を経て彼を詣でたが、全く相接せず、高爽は甚だこれを銜んだ。間もなく高爽が劉蒨に代わって県令となると、劉蒨は迎えの贈り物を甚だ厚く遣わした。高爽は餉を受け、答書に云う、「高晋陵自ら答う」と。人がその所以を問うと、答えて云う、「劉蒨が晋陵令に餉したのみ、何ぞ高爽の事に関らん」と。また人が書を高爽に送って躓きを告げ、云う、「比日羊を守り困苦す」と。高爽答えて曰く、「羊を守りて食無くば、何ぞ羊を貨して米を糴かざる」と。

原文時有廣陵高爽,博學多材。劉蒨爲晉陵縣,爽經途詣之,了不相接,爽甚銜之。俄而爽代蒨爲縣,蒨遣迎贈甚厚。爽受餉,答書云:「高晉陵自答。」人問其所以,答云:「劉蒨餉晉陵令耳,何關爽事。」又有人送書與爽告躓,云:「比日守羊困苦。」爽答曰:「守羊無食,何不貨羊糴米。」

附 孫抱

原文附 孫抱

孫抱が延陵県令となった時、高爽またこれを詣でたが、孫抱は全く故人の懐かしみ無し。高爽出でて県の合下より過ぎ、筆を取って鼓に書く、「徒らに八尺の囲有り、腹に一寸の腸無く、面皮かくの如く厚く、打たるる未だ詎んぞ央からん」と。高爽の機悟多く此の如し。事に坐して繋がれ、『鑊魚賦』を作って自ら況え、その文甚だ工なり。後に赦に遇って免れ、卒した。孫抱は東莞の人。父は廉、呉興太守。孫抱は吏職に善く、形体肥壮、腰帯十圍、高爽故に此れを以て之を激した。

原文孫抱爲延陵縣,爽又詣之,抱了無故人之懷。爽出從縣合下過,取筆書鼓云:「徒有八尺圍,腹無一寸腸,面皮如許厚,受打未詎央。」爽機悟多如此。坐事被系,作鑊魚賦以自況,其文甚工。後遇赦免,卒。抱東莞人。父廉,呉興太守。抱善吏職,形體肥壯,腰帶十圍,爽故以此激之。

丘巨源

原文丘巨源

丘巨源は、蘭陵郡蘭陵県の人である。若くして丹陽郡の孝廉に挙げられ、宋の孝武帝に知られた。大明五年、勅して徐爰を助けて国史を撰せしむ。帝崩じ、江夏王義恭が書記を掌ることを取る。明帝即位し、詔誥に参ぜしめ、左右に引く。南台御史より王景文の鎮軍参軍となる。寧喪して家に還る。

原文丘巨源,蘭陵蘭陵人也。少舉丹陽郡孝廉,爲宋孝武所知。大明五年,敕助徐爰撰國史。帝崩,江夏王義恭取掌書記。明帝即位,使參詔誥,引在左右。自南台御史爲王景文鎮軍參軍。寧喪還家。

元徽初、桂陽王休范が尋陽に在り、丘巨源に筆翰有るを以て、船を遣わして之を迎え、銭物を餉る。丘巨源は斉高帝に因り自ら啓し、勅板を以て之を起し、都下に留まらしむ。桂陽の事起こり、中書省に於いて符檄を撰せしむ。事平らぎ、奉朝請を除す。丘巨源は封賞有るを望み、既にして獲ず、乃ち尚書令袁粲に書を送り自ら陳べ、竟に申されず。沈攸之の事、高帝また尚書符を以て荊州に為さしむ、此れを以てまた賞異を望み、此より意常に満たず。

原文元徽初,桂陽王休范在尋陽,以巨源有筆翰,遣船迎之,餉以錢物。巨源因齊高帝自啟,敕板起之,使留都下。桂陽事起,使於中書省撰符檄,事平,除奉朝請。巨源望有封賞,既而不獲,乃與尚書令袁粲書自陳,竟不被申。沈攸之事,高帝又使爲尚書符荊州,以此又望賞異,自此意常不滿。

後に武昌太守を除され、拝し竟りて、江外の行を楽しまず。武帝之を問う、丘巨源曰く、「古人云う、『寧ろ建鄴の水を飲み、武昌の魚を食わず』と。臣年既に老い、寧ろ建鄴に死なん」と。乃ち余杭令と為す。明帝が呉興に在りし時、丘巨源『秋胡詩』を作り、譏刺の語有り、事を以て見殺された。時にまた会稽の孔広・孔逭有り、皆才学知名なり。

原文後除武昌太守,拜竟,不樂江外行。武帝問之,巨源曰:「古人云,'甯飲建鄴水,不食武昌魚'。臣年已老,甯死於建鄴。」乃以爲余杭令。明帝爲呉興,巨源作秋胡詩,有譏刺語,以事見殺。時又有會稽孔廣、孔逭皆才學知名。

附 孔広

原文附 孔廣

孔広は字を淹源といい、容貌や立ち居振る舞いが美しく、談論を吐くことを善くした。王儉や張緒は皆これを称美した。王儉は常に言った、「孔広が来ると人は簿領(文書事務)を廃する。工匠は来るに及ばず、来ても去ることを聴かず」と。張緒はしばしば巾車(軽車)を仕立てて彼を訪ね、毎度嘆じて言った、「孔広は我をして軽薄な祭酒たらしめる」と。仕えて揚州中従事に至った。

原文廣字淹源,美容止,善吐論。王儉、張緒咸美之。儉常云:「廣來使人廢簿領,匠不須來,來則莫聽去。」緒數巾車詣之,每歎云:「孔廣使吾成輕薄祭酒。」仕至揚州中從事。

附 孔逭

原文附 孔逭

孔逭は剛直で才藻があり、『東都賦』を作った。当時の才士はこれを称えた。陳郡の謝瀹が年少の時、会稽に遊び帰ると、父の謝庄が問うた、「東に入って何を見たか、孔逭を見たか」と。このように重んじられた。『三呉決録』を著したが伝わらない。ついに衛軍武陵王東曹掾で終わった。また当時、虞通之、虞龢、司馬憲、袁仲明、孫詵らがおり、皆学問と行いがあり、孔広と名声を等しくした。

原文逭抗直有才藻,制東都賦,于時才士稱之。陳郡謝瀹年少時遊會稽還,父莊問:「入東何見,見孔逭不?」見重如此。著三呉決錄,不傳。終於衞軍武陵王東曹掾。又時有虞通之、虞龢、司馬憲、袁仲明、孫詵等,皆有學行,與廣埒名。

附 虞通之

原文附 虞通之

虞通之と虞龢は共に会稽餘姚の人である。通之は易を語ることを善くし、歩兵校尉に至った。

原文通之、龢皆會稽餘姚人,通之善言易,至歩兵校尉。

附 虞龢

原文附 虞龢

虞龢は中書郎・廷尉の位にあり、少時より学問を好んだ。貧しく住んで屋根が漏れ、典籍が濡れるのを恐れ、そこで布団を広げて書物を覆い、書物は全うしたが布団はひどく濡れた。当時の人はこれを高鳳に比した。

原文龢位中書郎、廷尉,少好學,居貧屋漏,恐濕墳典,乃舒被覆書,書獲全而被大濕。時人以比高鳳。

附 司馬憲

原文附 司馬憲

司馬憲は字を景思といい、河内温の人である。東観に待詔して学士となり、殿中郎に至った。口弁があり才地があり、魏に使いして北において称賛された。

原文憲字景思,河內溫人,待詔東觀爲學士,至殿中郎,口辯有才地,使魏見稱於北。

附 袁仲明

原文附 袁仲明

袁仲明は陳郡の人で、晋史を撰したが、完成せずして卒した。初め仲明は劉融、卞鑠と共に袁粲に賞識され、常に座席にあった。袁粲が丹陽尹となると、卞鑠を取って主簿とした。詩賦を好み、多く世人を譏刺したため、罪を得て巴州に流された。

原文仲明,陳郡人,撰晉史,未成而卒。初仲明與劉融、卞鑠俱爲袁粲所賞,恒在坐席。粲爲丹陽尹,取鑠爲主簿。好詩賦,多譏刺世人,坐徙巴州。

附 孫詵

原文附 孫詵

孫詵は字を休群といい、太原中都の人である。文を愛し、特に泉石を賞した。御史中丞の任において卒した。

原文詵字休群,太原中都人,愛文,尤賞泉石。卒于御史中丞。

王智深

原文王智深

王智深は字を雲才といい、琅邪臨沂の人である。若くして陳郡の謝超宗に従い、文を綴ることを学んだ。酒を飲むことを好み、拙く澁み風儀に乏しかった。斉に仕えて豫章王大司馬参軍、兼記室となった。

原文王智深字雲才,琅邪臨沂人也。少從陳郡謝超宗學屬文。好飲酒,拙澀乏風儀。仕齊爲豫章王大司馬參軍,兼記室。

武帝は太子家令の沈約に宋書の撰述を命じたが、沈約は袁粲の伝を立てるか疑い、武帝に諮った。帝は「袁粲はもとより宋の忠臣である」と言った。沈約はまた孝武帝や明帝の諸々の猥褻な事蹟を多く載せたので、上(武帝)は左右の者を遣わして沈約に「孝武帝の事蹟は急に(多く載せることは)許されない。私はかつて宋の明帝に仕えたことがある。卿は悪を隠す義を考えよ」と言わせた。そこで多くが削除された。また智深に宋紀の撰述を命じ、芙蓉堂に召し出して衣服と邸宅を賜った。智深が豫章王に貧窮を訴えると、王は「卿の書が完成したら、俸禄について論じよう」と言った。書は三十巻で完成した。武帝は後に璿明殿で智深を召し出し、上表文を拝して奏上するよう命じたが、表が奏上されないうちに武帝が崩御した。隆昌元年、その書を求めさせた。智深は竟陵王司徒参軍に転じた。免官された。

原文武帝使太子家令沈約撰宋書,疑立袁粲傳,以審武帝。帝曰:「袁粲自是宋家忠臣。」約又多載孝武、明帝諸褻黷事,上遣左右語約曰:「孝武事蹟不容頓爾。我昔經事宋明帝,卿可思諱惡之義。」於是多所省除。又敕智深撰宋紀,召見芙蓉堂,賜衣服給宅。智深告貧于豫章王,王曰:「須卿書成,當相論以祿。」書成三十卷。武帝后召見智深於璿明殿,令拜表奏上,表未奏而武帝崩。隆昌元年,敕索其書。智深遷爲竟陵王司徒參軍。免官。

家は貧しく世話をする者もなく、かつて五日間飢えて食を得られず、莞根を掘って食べた。司空の王僧虔とその子の志が衣服と食糧を分け与えた。家で没した。

原文家貧無人事,嘗餓五日不得食,掘莞根食之。司空王僧虔及子志分與衣食。卒於家。

崔慰祖

原文崔慰祖

崔慰祖は字を悦宗といい、清河郡東武城県の人である。父の慶緒は永明年間に梁州刺史となった。慰祖は奉朝請として初めて官に就いた。父の喪に服し塩を食べなかった。母が「お前には兄弟もなく、またまだ子孫もいない。身を滅ぼすほどにやつれ果ててはならず、ただ肴を進めないだけでよいのに、どうして塩を絶つのか。私も今から食べない」と言った。慰祖はやむなく従った。父が梁州で得た資産は家財千万で、宗族に分け与えた。漆器には「日」の字を題し、「日」の字の器は遠近に流布した。父の時代の借用証文を整理し、族子の紘に「借りた者がいれば自ずと返してくるだろう。いなければ私が何を言おうか」と言い、すべて火で焼いた。

原文崔慰祖字悅宗,清河東武城人也。父慶緒,永明中爲梁州刺史。慰祖解褐奉朝請。父喪不食鹽,母曰:「汝既無兄弟,又未有子胤。毀不滅性,政當不進肴羞耳,如何絶鹽。吾今亦不食矣。」慰祖不得已,從之。父梁州之資,家財千萬,散與宗族。漆器題爲「日」字,「日」字之器流乎遠近。料得父時假貰文疏,謂族子紘曰:「彼有自當見還,彼無吾何言哉。」悉火焚之。

学問を好み、書物を集めて一万巻に至った。近所の若い好事家が借りに来ると、一日に数十帙にもなった。慰祖は自ら取り出し与え、断ったことはなかった。

原文好學,聚書至萬卷。鄰里年少好事者來從假借,日數十帙。慰祖親自取與,未嘗爲辭。

始安王遙光の撫軍刑獄となり、記室を兼ねた。遙光は囲碁を好み、しばしば慰祖を召して対局させた。慰祖はつねに拙いと辞退し、朔望(一日と十五日)以外は会おうとしなかった。

原文爲始安王遙光撫軍刑獄,兼記室。遙光好棋,數召慰祖對戲。慰祖輒辭拙,非朔望不見也。

建武年間に詔して士を挙げさせると、従兄の慧景は慰祖と平原の劉孝標をともに碩学として推薦した。帝は百里(県令)の職で試そうとしたが、慰祖は辞退して就かなかった。国子祭酒の沈約と吏部郎の謝朓がかつて吏部省で賓客友人を集めたとき、それぞれ慰祖に地理書に載っていない十数事を尋ねた。慰祖は吃りで華やかな言葉はなかったが、応答の根拠は精確で詳細であり、一座の者はみな感服した。朓は嘆じて「たとえ班固や司馬遷が生き返っても、これを超えることはできないだろう」と言った。

原文建武中詔舉士,從兄慧景舉慰祖及平原劉孝標並碩學。帝欲試以百里,慰祖辭不就。國子祭酒沈約、吏部郎謝朓嘗於吏部省中賓友俱集,各問慰祖地理中所不悉十餘事,慰祖口吃無華辭,而酬據精悉,一座稱服之。朓歎曰:「假使班、馬復生,無以過此。」

慰祖が邸宅を売るのに四十五万を必要とした。買い手が「少し値引きはないか」と言うと、答えて「確かに韓伯休とは異なるが、どうして二つの価格があろうか」と言った。買い手がまた「君は四十六万で売り、一万を私に与えてくれ」と言うと、慰祖は「どうして私の本心であろうか」と言った。

原文慰祖賣宅須四十五萬,買者云:「寧有減不?」答曰:「誠異韓伯休,何容二價。」買者又曰:「君但賣四十六萬,一萬見與。」慰祖曰:「豈是我心乎?」

若い頃、侍中の江祀と親しくしていたが、江祀が貴くなってからも、江祀はたびたび訪ねてきたが、慰祖は行かなかった。丹陽丞の劉渢とは平素から親しくしていた。遙光が東府に拠って反乱を起こしたとき、慰祖は城内にいた。城が陥落する前日、劉渢は彼に「卿には老母がいる。出るべきだ」と言い、門番に命じて出させた。慰祖は宮門に赴いて自首し、尚方に拘禁され、病没した。

原文少與侍中江祀款,及祀貴,常來候之,而慰祖不往也。與丹陽丞劉渢素善,遙光據東府反,慰祖在城內。城未潰一日,渢謂之曰:「卿有老母,宜出。」命門者出之。慰祖詣闕自首,系尚方,病卒。

慰祖は『海岱志』を著し、太公から西晉の人物までを扱い、四十巻としたが、半分しか完成しなかった。臨終に際し、従弟の緯に手紙を書き、「常に遷(司馬遷)と固(班固)の二史に注を加え直し、史記・漢書の漏れた二百余事を採録したいと思っていた。台所の籠の中にあるから、探し出して書き写し、大意を留めておいてほしい。『海岱志』はまだ十分でないので、数部書き写して護軍の諸從事に一通ずつ、また友人である任昉・徐寅・劉洋・裴揆に渡し、後世の人に私がわずかに素業(学問)を持っていたことを知らせてほしい」と頼んだ。また棺を直接土に埋め、煉瓦は用いず、霊座を設けないよう命じた。

原文慰祖著海岱志,起太公迄西晉人物,爲四十卷,半成。臨卒,與從弟緯書云:「常欲更注遷、固二史,采史、漢所漏二百餘事,在廚簏,可檢寫之,以存大意。海岱志良未周悉,可寫數本付護軍諸從事人一通,及友人任昉、徐寅、劉洋、裴揆,令後世知吾微有素業也。」又令以棺親土,不須磚,勿設靈座。

祖沖之

原文祖沖之

祖沖之は字を文遠といい、范陽郡遒県の人である。曾祖父の台之は、晉の侍中であった。祖父の昌は、宋の大匠卿であった。父の朔之は、奉朝請であった。

原文祖沖之字文遠,范陽遒人也。曾祖台之,晉侍中。祖昌,宋大匠卿。父朔之,奉朝請。

沖之は古を考究し、機知に富んでいた。宋の孝武帝は彼を華林学省に直させ、邸宅・車・衣服を賜った。初めて官に就き、南徐州従事・公府参軍となった。

原文沖之稽古,有機思,宋孝武使直華林學省,賜宅宇車服。解褐南徐州從事、公府參軍。

元嘉年間の初め、何承天の制定した暦が用いられ、古来の十一家の暦よりも精密であった。沖之はまだ粗疏であると考え、新たな方法を造り、上表して述べた。孝武帝は朝士で暦に詳しい者に反論させたが、屈服させることができなかった。ちょうど帝が崩御したため施行されなかった。

原文始元嘉中,用何承天所制曆,比古十一家爲密。沖之以爲尚疏,乃更造新法,上表言之。孝武令朝士善曆者難之,不能屈。會帝崩不施行。

歴任して婁県令、謁者僕射となった。初め、宋の武帝が関中を平定したとき、姚興の指南車を得たが、外形はあっても内部の機械がなく、行くたびに人が中で回していた。升明年間、斉の高帝が政を補佐していたとき、沖之に古法を研究して修復させた。沖之は銅の機械を改造し、円滑に回転して尽きることがなく、指示する方向は常に一定であり、馬鈞以来これほどのものはなかった。当時、北方の索馭驎という者も指南車を造れると言った。高帝は彼と沖之にそれぞれ造らせ、楽游苑で向かい合わせて試験を行ったが、かなりの誤差があったので、壊して焼かせた。晉の時代、杜預に巧みな思いつきがあり、欹器を造ろうとしたが、三度改めても完成しなかった。永明年間、竟陵王の子良が古を好んだので、沖之は欹器を造って献上したが、周の宗廟のものと変わらなかった。文恵太子が東宮にいたとき、沖之の暦法を見て、武帝に施行を上奏した。文恵太子がまもなく薨去したため、また中止された。

原文歷位爲婁縣令,謁者僕射。初,宋武平關中,得姚興指南車,有外形而無機杼,每行,使人於內轉之。升明中,齊高帝輔政,使沖之追修古法。沖之改造銅機,圓轉不窮,而司方如一,馬鈞以來未之有也。時有北人索馭驎者亦云能造指南車,高帝使與沖之各造,使于樂游苑對共校試,而頗有差僻,乃毀而焚之。晉時杜預有巧思,造欹器,三改不成。永明中,竟陵王子良好古,沖之造欹器獻之,與周廟不異。文惠太子在東宮,見沖之曆法,啟武帝施行。文惠尋薨又寢。

長水校尉に転じ、本職を領す。沖之は安辺論を造り、屯田を開き、農殖を広めんと欲す。建武年中、明帝は沖之をして四方を巡行せしめ、大業を興造し、以て百姓に利するものあらしめんと欲すも、会に連ねて軍事有り、事遂に行われず。

原文轉長水校尉,領本職。沖之造安邊論,欲開屯田,廣農殖。建武中,明帝欲使沖之巡行四方,興造大業,可以利百姓者,會連有軍事,事竟不行。

沖之は鐘律・博塞を解し、当時に独絶し、対するもの能う者無し。諸葛亮に木牛流馬有るを以て、乃ち一器を造る。風水に因らず、機を施して自ら運び、人力を労せず。又千里船を造り、新亭江に於いて之を試み、日行百余里。楽游苑に水碓磨を造り、武帝自ら臨視す。又特に算を善くす。永元二年に卒す。年七十二。易老荘義を著し、論語・孝経を釈し、九章に注し、綴述数十篇を造る。子に暅之有り。

原文沖之解鐘律博塞,當時獨絶,莫能對者。以諸葛亮有木牛流馬,乃造一器,不因風水,施機自運,不勞人力。又造千里船,于新亭江試之,日行百餘里。于樂游苑造水碓磨,武帝親自臨視。又特善算。永元二年卒,年七十二。著易老莊義,釋論語、孝經,注九章,造綴述數十篇。子暅之。

沖之の子、暅之。

原文沖之子 暅之

暅之、字は景爍、少にして家業を伝え、精微を究極し、亦巧思有り。入神の妙は、般・倕も以て過ぐる無し。其の微に詣る時は、雷霆も能く入らず。嘗て行きて僕射徐勉に遇い、頭を以て之に触れ、勉呼びて乃ち悟る。父の改むる所の何承天の暦は時に未だ行われず、梁の天監初め、暅之更に之を修め、是に於いて始めて行わる。位は太舟卿に至る。

原文暅之字景爍,少傳家業,究極精微,亦有巧思。入神之妙,般、倕無以過也。當其詣微之時,雷霆不能入。嘗行遇僕射徐勉,以頭觸之,勉呼乃悟。父所改何承天歷時尚未行,梁天監初,暅之更修之,於是始行焉。位至太舟卿。

暅之の子、皓。

原文暅之子 皓

暅之の子皓、志節慷慨にして、文武の才略有り。少にして家業を伝え、算暦を善くす。大同中に江都令と為り、後に広陵太守を拝す。

原文暅之子皓,志節慷慨,有文武才略。少傳家業,善算曆。大同中爲江都令,後拜廣陵太守。

侯景が台城を陥すと、皓は城中に在りて、将に害せられんとす。乃ち逃れて江西に帰る。百姓其の遺恵に感じ、毎相蔽匿す。広陵人来嶷、乃ち皓に説いて曰く、「逆豎滔天し、王室毀るる如し。正に是れ義夫発憤の秋、志士躯を忘るるの日なり。府君は恩を重世に荷い、又賊に容れられず。今草間に逃竄す。知る者一に非ず、危亡の甚だしきは、累棋も以て喩えず。董紹先は景の心腹と雖も、軽くして謀無し。新たに此の州を克せしめ、人情附せず。襲いて之を殺せば、此れ一壮士の任のみ。今若し義勇を糾率せば、立ちて三二百人を得べし。意は府君を奉戴し、凶逆を剿除せんと欲す。遠近の義徒、自ら投赴すべし。其の克捷する如くんば、桓・文の勲を立つる可く、必ずや天未だ禍を悔いざれば、事生くる外に在りとも、百代の下に猶梁室の忠臣と為らん。如何。」皓曰く、「僕の願う所なり。死すとも且く甘心せん。」勇士耿光等百余を要して襲い、景の兗州刺史董紹先を殺し、前太子舎人蕭勉を推して刺史と為し、東魏と結んで援と為す。檄を馳せて遠近にし、将に景を討たんとす。景大いに懼れ、即日に侯子鑑等を率いて之を攻む。城陥ち、皓見執えられ、縛せられて之を射らる。箭体に遍くし、然る後に車裂して以て徇す。城中少長無く、皆埋めて之を射る。

原文侯景陷臺城,皓在城中,將見害,乃逃歸江西。百姓感其遺惠,每相蔽匿。廣陵人來嶷乃説皓曰:「逆豎滔天,王室如毀,正是義夫發憤之秋,志士忘軀之日。府君荷恩重世,又不爲賊所容。今逃竄草間,知者非一,危亡之甚,累棋非喻。董紹先雖景之心腹,輕而無謀,新克此州,人情不附,襲而殺之,此一壯士之任耳。今若糾率義勇,立可得三二百人。意欲奉戴府君,剿除凶逆,遠近義徒,自當投赴。如其克捷,可立桓、文之勳;必天未悔禍,事生理外,百代之下,猶爲梁室忠臣。若何?」皓曰:「僕所願也,死且甘心。」爲要勇士耿光等百餘人襲殺景兗州刺史董紹先,推前太子舍人蕭勉爲刺史,結東魏爲援。馳檄遠近,將討景。景大懼,即日率侯子鑒等攻之。城陷,皓見執,被縛射之,箭遍體,然後車裂以徇。城中無少長,皆埋而射之。

附、来嶷。

原文附 來嶷

来嶷、字は徳山、幼より奇節有り、兼ねて文武を資す。既に皓と義挙す。邵陵王承制して歩兵校尉・秦郡太守を除し、永寧県侯に封ず。及び皓敗るるに及び、並びに兄弟子姪害に遇う者十六人。子法敏逃れて免れ、陳に仕えて海陵令と為る。

原文來嶷字德山,幼有奇節,兼資文武。既與皓義舉,邵陵王承制除歩兵校尉、秦郡太守,封永甯縣侯。及皓敗,並兄弟子侄遇害者十六人。子法敏逃免,仕陳爲海陵令。

賈希鏡。

原文賈希鏡

賈希鏡は、平陽襄陵の人なり。祖は弼之、晋の員外郎。父は匪之、驃騎参軍。家に譜学を伝う。宋の孝武の時、青州人古塚を発き、銘に云く、「青州世子、東海女郎。」帝学士鮑照・徐爰・蘇宝生に問うも、並びに悉くせず。希鏡対えて曰く、「此れは司馬越の女、苟晞の児に嫁ぐなり。」検訪するに果たして然り。是に由りて見遇せられ、希鏡に勅して郭子に注せしむ。

原文賈希鏡,平陽襄陵人也。祖弼之,晉員外郎。父匪之,驃騎參軍。家傳譜學。宋孝武時,青州人發古塚,銘云:「青州世子,東海女郎。」帝問學士鮑照、徐爰、蘇寶生,並不能悉。希鏡對曰:「此是司馬越女嫁苟晞兒。」檢訪果然,由是見遇,敕希鏡注郭子。

升明中、斉の高帝希鏡の世学を嘉し、取りて驃騎参軍・武陵王国郎中令と為す。歴て大司馬司徒府参軍。竟陵王子良希鏡を使い見客譜を撰せしむ。出でて句容令と為る。

原文升明中,齊高帝嘉希鏡世學,取爲驃騎參軍、武陵王國郎中令。曆大司馬司徒府參軍。竟陵王子良使希鏡撰見客譜,出爲句容令。

是に先立ち、譜学に名家未だ有らず。希鏡の祖弼之、広く百氏の譜記を集め、専心習業す。晋の太元中、朝廷弼之に令史書吏を給し、撰定繕写せしめ、秘閣及び左戸曹に蔵す。希鏡三世学を伝え、凡そ十八州の士族譜、合わせて百帙、七百余巻、該究精悉にして、皆珠を貫くが如し。当時に比ぶるもの莫し。永明中、衛将軍王儉百家の譜を抄次し、希鏡と参懐して撰定す。

原文先是,譜學未有名家,希鏡祖弼之廣集百氏譜記,專心習業。晉太元中,朝廷給弼之令史書吏,撰定繕寫,藏祕閣及左戸曹。希鏡三世傳學,凡十八州士族譜,合百帙,七百餘卷,該究精悉,皆如貫珠,當時莫比。永明中,衞將軍王儉抄次百家譜,與希鏡參懷撰定。

建武初め、希鏡長水校尉に遷る。傖人の王泰宝、買い襲いて琅邪譜を襲う。尚書令王晏以て明帝に啓す。希鏡坐して収められ、極法に当たる。子の棲長謝罪し、稽顙して血流る。朝廷之を哀しみ、希鏡の罪を免ず。後に北中郎参軍と為り、卒す。氏族要状及び人名書を撰し、並びに時に行わる。

原文建武初,希鏡遷長水校尉,傖人王泰寶買襲琅邪譜,尚書令王晏以啟明帝,希鏡坐被收,當極法。子棲長謝罪,稽顙流血,朝廷哀之,免希鏡罪。後爲北中郎參軍,卒。撰氏族要狀及人名書,並行于時。

袁峻。

原文袁峻

袁峻は字を孝高といい、陳郡陽夏の人であり、魏の郎中令袁渙の八世孫である。幼くして孤となり、篤く志して学問を好んだ。家は貧しく書物がなく、常に人から借り受けては必ず書き写し、自ら日課として五十枚を書き、枚数が達しないと止めなかった。言葉は訥弁であったが、文辞に巧みであった。梁の武帝は特に辞賦を好み、当時南闕に文章を献ずる者が相望んでいた。天監六年、袁峻は揚雄の官箴を模してこれを奏上した。帝はこれを嘉し、束帛を賜い、員外郎、散騎侍郎に除し、文徳学士省に直し、『史記』『漢書』をそれぞれ二十巻ずつ抄写させた。また詔勅を奉じて陸倕と共に新闕銘を撰したという。

原文袁峻字孝高,陳郡陽夏人,魏郎中令渙之八世孫也。早孤,篤志好學。家貧無書,每從人假借,必皆抄寫,自課日五十紙,紙數不登則不止。訥言語,工文辭。梁武帝雅好辭賦,時獻文章于南闕者相望焉。天監六年,峻乃擬揚雄官箴奏之。帝嘉焉,賜束帛,除員外郎,散騎侍郎,直文德學士省,抄史記、漢書各爲二十卷。又奉敕與陸倕各制新闕銘云。

劉昭

原文劉昭

劉昭は字を宣卿といい、平原高唐の人であり、晋の太尉劉寔の九世孫である。祖父の劉伯龍は父の喪に服して孝行で知られ、宋の武帝は皇太子と諸王に命じて共に弔問させ、官は少府卿に至った。父の劉彪は、斉の征虜将軍晋安王記室であった。

原文劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並往吊慰,官至少府卿。父彪,齊征虜晉安王記室。

劉昭は幼少より聡明で、老荘の義理に通じた。成長すると、勤勉に学び文章をよくし、従兄の江淹に早くから称賛された。梁の天監年間、累遷して中軍臨川王記室となった。

原文昭幼清警,通老、莊義。及長,勤學善屬文,外兄江淹早相稱賞。梁天監中,累遷中軍臨川王記室。

初め、劉昭の伯父の劉肜が諸家の晋書を集めて干宝の『晋紀』に注を加え四十巻としたが、劉昭に至っては後漢の諸説の異同を集めて范曄の『後漢書』に注し、世に博識と称された。剡県令の任で没した。『集注後漢』一百三十巻、『幼童伝』一巻、文集十巻がある。

原文初,昭伯父肜集眾家晉書注干寶晉紀爲四十卷,至昭集後漢同異以注范曄後漢,世稱博悉。卒於剡令。集注後漢一百三十卷,幼童傳一卷,文集十卷。

劉昭の子 劉絛

原文昭子 絛

子の劉絛は字を言明といい、これまた学問を好み、三礼に通じ、位は尚書祠部郎に至り、『先聖本記』十巻を著して世に行われた。

原文子絛字言明,亦好學,通三禮,位尚書祠部郎,著先聖本記十卷行於世。

劉絛の弟 劉緩

原文絛弟 緩

劉絛の弟の劉緩は字を含度といい、湘東王中録事となった。性格は虚遠で気概があり、風流で洒落ており、一府の中で名声が高かった。常に言った。「名位は必要なく、必要なのは衣食である。死後の誉れは用いず、ただ目前の知見を重んずるのみである」。

原文絛弟緩字含度,爲湘東王中錄事。性虛遠,有氣調,風流疊宕,名高一府。常云:「不須名位,所須衣食。不用身後之譽,唯重目前知見。」

鍾嶸

原文鍾嶸

鍾嶸は字を仲偉といい、潁川長社の人であり、晋の侍中鍾雅の七世孫である。父の鍾蹈は、斉の中軍参軍であった。

原文鍾嶸字仲偉,潁川長社人,晉侍中雅七世孫也。父蹈,齊中軍參軍。

鍾嶸は兄の鍾岏、弟の鍾嶼と共に学問を好み、思理があった。鍾嶸は斉の永明年間に国子生となり、周易に明るかった。衛将軍王儉が祭酒を兼ねると、大いに彼を賞賛して接した。建武初年、南康王侍郎となった。当時、斉の明帝は細務に自ら関与し、綱目もまた細かく、そこで郡県及び六署九府の常行職事は、争って自ら啓上して聞かせ、詔勅によって決裁を求めた。文武の勲旧は皆選部に帰属せず、そこで勢力に憑って互いに通進し、君主の務めは、大略煩瑣細密となった。鍾嶸は上書して言った。「古の明君は才能を量って政を頒ち、能力を量って職を授け、三公は坐して道を論じ、九卿は作って務めを成し、天子はただ己を恭しくして南面するのみである」。上書が奏上されると、上は喜ばず、太中大夫顧暠に言った。「鍾嶸とは何者か、朕の機務を断とうとするのか、卿は彼を知っているか」。答えて言った。「鍾嶸は位は低く名は卑しいが、言うところに採るべきものがあるかもしれません。しかも煩瑣な職事は、それぞれ司存があります。今、人主が総べて親しくこれを行うのは、人主がますます労し、人臣がますます安逸となることであり、いわゆる庖人に代わって宰となり、大匠に代わって斲るようなものです」。上は顧みずに他の話をした。

原文嶸與兄岏、弟嶼並好學,有思理。嶸齊永明中爲國子生,明周易。衞將軍王儉領祭酒,頗賞接之。建武初,爲南康王侍郎。時齊明帝躬親細務,綱目亦密,於是郡縣及六署九府常行職事,莫不爭自啟聞,取決詔敕。文武勳舊皆不歸選部,於是憑勢互相通進,人君之務,粗爲繁密。嶸乃上書言:「古者明君揆才頒政,量能授職,三公坐而論道,九卿作而成務,天子可恭己南面而已。」書奏,上不懌,謂太中大夫顧暠曰:「鍾嶸何人,欲斷朕機務,卿識之不?」答曰:「嶸雖位末名卑,而所言或有可采。且繁碎職事,各有司存,今人主總而親之,是人主愈勞而人臣愈逸,所謂代庖人宰而爲大匠斲也。」上不顧而他言。

永元末年、司徒行参軍に除された。梁の天監初年、制度は改まったが、前代の弊を尽く改めることはできず、鍾嶸は上言して言った。「永元の乱が始まり、天爵を弄んで坐し、勲功は戦いによるものでないのに、官は賄賂によって就いた。一金を揮って九列を取り、一片の書簡を寄せて六校を招いた。騎都尉は市を塞ぎ、郎将は街を満たした。服は既に纓組を帯びながら、なお臧獲の事を行い、職は黄門侍郎・散騎侍郎であっても、なお胥徒の役を躬行した。名と実が混淆紊乱し、これより甚だしいことはない。臣の愚見では、永元の諸軍官で元々素族士人である者は、自ら清い官途があるので、このことに因って受けた爵位は、一様に削除して、軽薄な競争を懲らすべきです。もし吏姓の寒人であれば、その門品の極みに至るまで聴許すべきで、軍功に因って清級を濫りに与えるべきではありません。もし僑居の雑多なる傖楚(北人や楚の民)であれば、綏撫に在るべきで、正に禄力を厳しく断ち、正道を妨げることを絶ち、ただ虚号を乞うのみとすべきです」。詔勅を下して尚書にこれを施行させた。

原文永元末,除司徒行參軍。梁天監初,制度雖革,而未能盡改前弊,嶸上言曰:「永元肇亂,坐弄天爵,勳非即戎,官以賄就。揮一金而取九列,寄片劄以招六校。騎都塞市,郎將填街。服既纓組,尚爲臧獲之事,職雖黃散,猶躬胥徒之役。名實淆紊,茲焉莫甚。臣愚謂永元諸軍官是素族士人,自有清貫,而因斯受爵,一宜削除,以懲澆競。若吏姓寒人,聽極其門品,不當因軍遂濫清級。若僑雜傖楚,應在綏撫,正宜嚴斷祿力,絶其妨正,直乞虛號而已。」敕付尚書行之。

衡陽王蕭元簡が会稽太守として出ると、彼を召して寧朔記室とし、専ら文翰を掌らせた。当時、居士の何胤が若邪山に室を築いていたが、山に洪水が発生し、樹木や岩石が流されたが、この室だけは残存した。元簡は鍾嶸に命じて瑞室頌を作らせてこれを表彰させた。その文辞は甚だ典雅麗美であった。西中郎晋安王記室に遷った。

原文衡陽王元簡出守會稽,引爲寧朔記室,專掌文翰。時居士何胤築室若邪山,山發洪水,漂拔樹石,此室獨存。元簡令嶸作瑞室頌以旌表之,辭甚典麗。遷西中郎晉安王記室。

鍾嶸はかつて沈約に称賛を求めたが、沈約はこれを拒絶した。沈約が没すると、鍾嶸は古今の詩を品評して評を加え、その優劣を論じ、言った。「休文(沈約)の諸作品を観ると、五言詩が最も優れている。斉の永明年間、相王(竟陵王蕭子良)が文を愛し、王元長(王融)らは皆沈約を宗として附いた。当時、謝朓は未だ遒勁でなく、江淹は才尽き、范雲は名声官位もまた低かったので、独歩を称した。故にその文辞は范雲より密であり、意味は江淹より浅い」。これは宿怨を追って、これをもって沈約に報いたのである。間もなく官で没した。

原文嶸嘗求譽于沈約,約拒之。及約卒,嶸品古今詩爲評,言其優劣,云:「觀休文眾制,五言最優。齊永明中,相王愛文,王元長等皆宗附約。于時謝朓未遒,江淹才盡,范雲名級又微,故稱獨歩。故當辭密于范,意淺于江」。蓋追宿憾,以此報約也。頃之卒官。

鍾嶸の兄、鍾岏。

原文嶸兄 岏

岏は字を長丘といい、建康令の位に至り卒した。『良吏伝』十巻を著す。

鍾嶸の弟、鍾嶼。

原文嶸弟 嶼

嶼は字を季望といい、永嘉郡丞となった。

原文嶼字季望,永嘉郡丞。

周興嗣。

原文周興嗣

周興嗣は字を思纂といい、陳郡項県の人である。代々姑孰に住み、博学で文章をよくした。かつて姑孰から歩いて旅宿に投宿したところ、夜に人が言うには、「あなたの才学は世に抜きん出ている。初めは貴臣に見いだされ、ついには英主に知られるであろう」と。言い終わると、どこへ行ったかわからなくなった。斉の隆昌年間、侍郎の謝朏が呉興太守となった時、ただ興嗣と初めて文史を談じただけであった。郡守を罷免された後、大いに相談して推薦した。

原文周興嗣字思纂,陳郡項人也。世居姑孰,博學善屬文。嘗歩自姑孰,投宿逆旅,夜有人謂曰:「子才學邁世,初當見識貴臣,卒被知英主。」言終不測所之。齊隆昌中,侍郎謝朏爲呉興太守,唯與興嗣初談文史而已。及罷郡,因大相談薦。

梁の天監初年、『休平賦』を奏上し、その文は甚だ美しく、武帝はこれを嘉して安成王国侍郎に任じ、華林省に直した。その年、河南から舞馬が献上されると、詔により興嗣は待詔の到沆・張率とともに賦を作り、帝は興嗣のものを優れたものとして、員外散騎侍郎に抜擢し、文徳省・寿光省に直した。時に武帝は三橋の旧宅を光宅寺とし、勅命で興嗣と陸倕にそれぞれ寺碑の文を作らせ、完成してともに奏上すると、帝は興嗣の作ったものを用いた。これより銅表銘・柵塘碣・魏への檄文・王羲之の書千字の次韻など、すべて興嗣に文章を作らせた。奏上するたびに、帝は善しと称し、金帛を賜った。後に国史の撰修を補佐した。興嗣は両手に先に風疽を患い、天監十二年、また癘疾に感染し、左目が失明した。帝はその手を撫でて嘆いて言うには、「この人にしてこの病ありか」と。自ら疽の薬方を書いて賜った。任昉もまたその才を愛し、常に言うには、「興嗣にこの病がなければ、十日で御史中丞に至るであろう」と。天監十七年、給事中となり、西省に直した。周舍が勅命を受けて武帝の作った歴代賦に注釈を加えるに当たり、興嗣をこれに参与させた。普通二年に卒した。撰したところに『皇帝実録』・『皇徳記』・『起居注』・『職儀』など百余巻、文集十巻がある。

原文梁天監初,奏休平賦,其文甚美,武帝嘉之,拜安成王國侍郎,直華林省。其年,河南獻舞馬,詔興嗣與待詔到沆、張率爲賦,帝以興嗣爲工,擢拜員外散騎侍郎,進直文德、壽光省。時武帝以三橋舊宅爲光宅寺,敕興嗣與陸倕各制寺碑,及成俱奏,帝用興嗣所制。自是銅表銘、柵塘碣、檄魏文、次韻王羲之書千字,並使興嗣爲文。每奏,帝稱善,賜金帛。後佐撰國史。興嗣兩手先患風疽,十二年,又染癘疾,左目盲。帝撫其手,嗟曰:「斯人而有斯疾。」手疏疽方以賜之。任昉又愛其才,常曰:「興嗣若無此疾,旬日當至御史中丞。」十七年,爲給事中,直西省。周舍奉敕注武帝所制歷代賦,啟興嗣與焉。普通二年卒。所撰皇帝實錄、皇德記、起居注、職儀等百餘卷,文集十卷。

呉均。

原文呉均

呉均は字を叔庠といい、呉興故鄣県の人である。家は代々寒賤であったが、均に至って好学で俊才があり、沈約はかつて均の文章を見て、大いに称賞した。梁の天監初年、柳惲が呉興太守となった時、召し出して主簿に補し、日々引き合わせて詩賦を作らせた。均の文体は清らかで抜きん出ており、古風な気風があり、好事の者はこれを学び、「呉均体」と称した。均はかつて意を得ず、柳惲に詩を贈って去ったが、久しぶりにまた来ると、惲は以前と同様に遇し、恨みに思わなかった。臨川靖恵王(蕭宏)に推薦すると、王は武帝にこれを称え、即日に召し入れて詩賦を作らせ、喜んだ。待詔著作となり、累進して奉朝請に至った。

原文呉均字叔庠,呉興故鄣人也。家世寒賤,至均好學有俊才,沈約嘗見均文,頗相稱賞。梁天監初,柳惲爲呉興,召補主簿,日引與賦詩。均文體清拔,有古氣,好事者或學之,謂爲「呉均體」。均嘗不得意,贈惲詩而去,久之復來,惲遇之如故,弗之憾也。薦之臨川靖惠王,王稱之于武帝,即日召入賦詩,悅焉。待詔著作,累遷奉朝請。

先だって、均は史書を著して自らの名を成そうとし、斉書を撰しようとして、斉の起居注及び群臣の行状を借りることを求めたが、武帝は許さず、そこでひそかに『斉春秋』を撰してこれを奏上した。その書は帝(梁の武帝蕭衍)が斉の明帝の佐命の臣であったと称したので、帝はその実録を嫌い、その書が事実に合わないとして、中書舎人劉之遴に数十条にわたって詰問させたところ、ついに支離滅裂で答えることができなかった。勅命により省に付して焼き捨てさせ、罪に坐して免職された。まもなく勅命により召し出され、通史を撰することを命じられ、三皇から斉代に至るものとした。均は草稿の本紀・世家をすでに終えたが、ただ列伝が未完成のうちに卒した。

原文先是,均將著史以自名,欲撰齊書,求借齊起居注及群臣行狀,武帝不許,遂私撰齊春秋奏之。書稱帝爲齊明帝佐命,帝惡其實錄,以其書不實,使中書舍人劉之遴詰問數十條,竟支離無對。敕付省焚之,坐免職。尋有敕召見,使撰通史,起三皇訖齊代。均草本紀、世家已畢,唯列傳未就,卒。

均は范曄の『後漢書』九十巻に注釈を加え、『斉春秋』三十巻、『廟記』十巻、『十二州記』十六巻、『銭唐先賢伝』五巻、『続文釈』五巻、文集二十巻を著した。

原文均注范曄後漢書九十卷,著齊春秋三十卷,廟記十卷,十二州記十六卷,錢唐先賢傳五卷,續文釋五卷,文集二十卷。

付載 江洪。

原文附 江洪

先だって済陽の江洪という者がおり、文章をよくし、建陽令となったが、事に坐して死んだ。

原文先是有濟陽江洪,工屬文,爲建陽令,坐事死。

劉勰。

原文劉勰

劉勰は字を彦和といい、東莞郡莒県の人である。父の劉尚は越騎校尉であった。勰は早く孤児となり、志を篤くして好学であった。家が貧しく婚姻せず、沙門の僧祐に寄り添って住み、ついに経論に博通し、部類を区別して、これを書き留め序文を付けた。定林寺の経蔵は、劉勰が定めたものである。

原文劉勰字彥和,東莞莒人也。父尚,越騎校尉。勰早孤,篤志好學。家貧不婚娶,依沙門僧佑居,遂博通經論,因區別部類,錄而序之。定林寺經藏,勰所定也。

梁の天監年間、東宮通事舎人を兼ねた。当時、七廟の饗薦にはすでに蔬果を用いていたが、二郊農社にはなお犠牲があった。勰は表を上って、二郊は七廟と同じく改めるべきであると述べた。詔が下り、尚書に議わせたところ、勰の陳べた通りに従うこととなった。歩兵校尉に遷り、舎人を兼ねることはもとの通りで、深く昭明太子の寵愛と接遇を受けた。

原文梁天監中,兼東宮通事舍人,時七廟饗薦已用蔬果,而二郊農社猶有犧牲,勰乃表言二郊宜與七廟同改。詔付尚書議,依勰所陳。遷歩兵校尉,兼舍人如故,深被昭明太子愛接。

初め、勰は『文心雕龍』五十篇を撰し、古今の文体を論じた。その序に大略こう述べている。「私の齢は三十を越えた。かつて夜、丹漆の礼器を執り、仲尼に随って南行する夢を見た。覚めて喜んで言う。大なるかな、聖人の見え難きことよ、まさにこの小生に夢を垂れたのか。生霊以来、夫子の如き者は未だいない。聖旨を敷賛するには、経に注するに如くはないが、馬融・鄭玄ら諸儒がこれを弘めてすでに精しく、たとえ深解があっても、家を立てるには足りない。ただ文章の用は、実に経典の枝條であり、五礼はこれによって成り、六典はこれによって用を致す。ここに筆を搦み墨を和し、はじめて文を論ずる。その文の用は四十九篇のみである。」完成したが、当時の流輩に称されなかった。勰は沈約に裁定を求めようとしたが、自ら通ずる由がなかった。そこで書を背負い、車の前で約を待ち、物を売る者のようであった。約が取って読み、大いにこれを重んじ、深く文理を得ていると言い、常にこれを机の上に置いた。

原文初,勰撰文心雕龍五十篇,論古今文體,其序略云:「予齒在逾立,嘗夜夢執丹漆之禮器,隨仲尼而南行,寤而喜曰:大哉,聖人之難見也,乃小子之垂夢歟!自生靈以來,未有如夫子者也。敷贊聖旨,莫若注經,而馬、鄭諸儒弘之已精,就有深解,未足立家。唯文章之用,實經典枝條,五禮資之以成,六典因之致用。於是搦筆和墨,乃始論文。其爲文用四十九篇而已。」既成,未爲時流所稱。勰欲取定于沈約,無由自達,乃負書候約于車前,狀若貨鬻者。約取讀,大重之,謂深得文理,常陳諸几案。

勰は文を作るに仏理に長け、都下の寺塔および名僧の碑誌は、必ず勰に文の制作を請うた。勰は慧震沙門とともに定林寺で経の証を撰することを命じられた。功が終わると、遂に出家を求め、先に鬚髪を焼いて自ら誓い、勅許された。そこで服を変え名を改めて慧地と称した。

原文勰爲文長於佛理,都下寺塔及名僧碑誌,必請勰制文。敕與慧震沙門于定林寺撰經證。功畢,遂求出家,先燔鬚髮自誓,敕許之。乃變服改名慧地云。

何思澄

原文何思澄

何思澄は字を元静といい、東海郡郯県の人である。父の敬叔は、斉の長城県令で、有能の名があった。県において清廉で、礼の遺物を受けず、夏の節句に至り、突然門に牓を掲げて饋餉を受け、数日のうちに米二千余斛こくを得、他の物もこれに相応し、すべて貧しい人の租を代わって納めるのに用いた。

原文何思澄字元靜,東海郯人也。父敬叔,齊長城令,有能名。在縣清廉,不受禮遺,夏節至,忽牓門受餉,數日中得米二千餘斛,他物稱是,悉以代貧人輸租。

思澄は若くして学に勤勉で文を巧みにし、『遊廬山詩』を作った。沈約がこれを見て、大いに称賞し、自ら及ばないと思った。約が郊居の宅に新たに閣斎を構えた際、工書の人に命じてこの詩を壁に題させた。傅昭がかつて思澄に釈奠の詩を作るよう請うたが、文辞は典雅で麗しかった。

原文思澄少勤學工文,爲遊廬山詩,沈約見之,大相稱賞,自以爲弗逮。約郊居宅新構閣齋,因命工書人題此詩於壁。傅昭嘗請思澄制釋奠詩,辭文典麗。

天監十五年、太子詹事徐勉に命じて学士を挙げ華林で『遍略』を撰せしめ、勉は思澄・顧協・劉杳・王子雲・鍾嶼ら五人を挙げて選に応じた。八年にしてようやく書が成り、合わせて七百巻となった。思澄は交結を重んじ、書を分けて諸賓朋と校定し、終日造謁した。毎夜、名刺一束を作り、明け方に駕を命じ、朝賢で親しくならぬ者はなく、親しむところでは即座に食事を命じた。ある人が楼護に比したが、欣然としてこれに当たった。日暮れに家に還る頃には、携えた名刺は必ず尽きていた。廷尉正から書侍御史に遷った。宋・斉以来、この職は甚だ軽かったが、天監初年から始めてその選を重んじた。車前には尚書二丞に依って三騶を与え、盛印の青囊を執らせた。旧事として糾弾官の印綬が前にあるためである。後に安西湘東王録事参軍を除され、東宮通事舎人を兼ねた。当時、徐勉・周舍は才具をもって朝廷に当たり、ともに思澄の学を好み、常に日を替えて招致した。後に宣恵武陵王中録事参軍の任で卒した。文集十五巻。

原文天監十五年,敕太子詹事徐勉舉學士入華林撰遍略,勉舉思澄、顧協、劉杳、王子雲、鍾嶼等五人以應選。八年乃書成,合七百卷。思澄重交結,分書與諸賓朋校定,而終日造謁。每宿昔作名一束,曉便命駕,朝賢無不悉狎,狎處即命食。有人方之樓護,欣然當之。投晚還家,所齎名必盡。自廷尉正遷書侍御史。宋、齊以來,此職甚輕,天監初始重其選。車前依尚書二丞給三騶,執盛印青囊,舊事糾彈官印綬在前故也。後除安西湘東王錄事參軍,兼東宮通事舍人。時徐勉、周舍以才具當朝,並好思澄學,常遞日招致之。後卒于宣惠武陵王中錄事參軍。文集十五卷。

初め、思澄は同族の遜および子朗とともに文名を擅にした。当時の人の言葉に「東海の三何、子朗最も多し」と言った。思澄はこれを聞いて言うには、「この言葉は誤りである。もしそうでないなら、故に遜に帰すべきである」と。思澄の意は、己にあるべきだと考えていたのである。

原文初,思澄與宗人遜及子朗俱擅文名,時人語曰:「東海三何,子朗最多。」思澄聞之曰:「此言誤耳。如其不然,故當歸遜。」思澄意謂宜在己也。

附 何子朗

原文附 何子朗

子朗は字を世明といい、早くから才思があった。周舍が毎度談するごとに、その精理に服した。かつて『敗塚賦』を作り、荘周の『馬棰』を擬し、その文は甚だ工みであった。世の人の言葉に「人中爽爽、子朗有り」と言った。国山県令の任で卒し、年二十四。集は世に行われた。

原文子朗字世明,早有才思。周舍每與談,服其精理。嘗爲敗塚賦,擬莊周馬棰,其文甚工。世人語曰:「人中爽爽有子朗。」卒于國山令,年二十四。集行於世。

附 王子雲

原文附 王子雲

王子雲は太原の人であり、江夏の費昶とともに、閭里の才子であった。昶は楽府を作ることを善くし、また鼓吹曲を作った。武帝はこれを重んじ、勅して言うには、「才意新抜、嘉異とするに足る。昔、郎惲は博物、卞蘭は巧辞。束帛の賜は、実に善を勧むるのみ。絹十匹を賜うべし」と。子雲はかつて『自吊文』を作り、甚だ美しかった。

原文王子雲,太原人,及江夏費昶,並爲閭里才子。昶善爲樂府,又作鼓吹曲。武帝重之,敕曰:「才意新拔,有足嘉異。昔郎惲博物,卞蘭巧辭。束帛之賜,實惟勸善。可賜絹十匹。」子雲嘗爲自吊文,甚美。

任孝恭

原文任孝恭

任孝恭は字を孝恭といい、臨淮郡の人である。曾祖父の農夫は、宋の南豫州刺史であった。農夫の弟の候伯は、輔国将軍・行湘州事の位に至り、ともに将帥を任じた。

原文任孝恭字孝恭,臨淮人也。曾祖農夫,宋南豫州刺史。農夫弟候伯,位輔國將軍、行湘州事,並任將帥。

孝恭は幼くして孤となり、母に事えて孝で知られた。精力を尽くして学に勤しみ、家は貧しく書がなく、常に崎嶇として人から借り、毎度一遍読むと、諷誦して略して遺すところがなかった。外祖父の丘它は武帝と旧交があり、帝はその才学あることを聞き、召して西省に入れ史を撰せしめた。初め奉朝請となり、進んで直寿光省し、司文侍郎となり、まもなく中書通事舎人を兼ねた。勅を遣わして建陵寺刹下の銘を制せしめ、また武帝の集の序文を撰するよう啟し、ともに富麗であった。ここより専ら公家の筆翰を掌った。孝恭は文を作るに敏速で、思うに留まらぬようであり、毎度奏上して善しと称され、累ねて金帛を賜った。若くして蕭寺の雲法師に従い経論を読み、仏理を明らかにし、ここに至って蔬食持戒し、信受甚だ篤かった。しかし性は頗る自ら伐り、才能をもって人に尚び、流輩の中で多くはこれを忽略し、世はこれをもって少し見做した。

原文孝恭幼孤,事母以孝聞。精力勤學,家貧無書,常崎嶇從人假借,每讀一遍,諷誦略無所遺。外祖丘它與武帝有舊,帝聞其有才學,召入西省撰史。初爲奉朝請,進直壽光省,爲司文侍郎,俄兼中書通事舍人。敕遣制建陵寺刹下銘,又啟撰武帝集序文,並富麗。自是專掌公家筆翰。孝恭爲文敏速,若不留思,每奏稱善,累賜金帛。少從蕭寺雲法師讀經論,明佛理,至是蔬食持戒,信受甚篤。而性頗自伐,以才能尚人,於流輩中多有忽略,世以此少之。

太清二年、侯景が侵攻して逼迫すると、孝恭は兵を募ることを上申し、蕭正德に隷属した。正德が賊に入ると、孝恭は台城に戻って赴いたが、台門は閉ざされており、侯景に捕らえられ、檄文を作るよう命じられた。私邸に戻って検討することを求め、侯景はこれを許したため、東府に走り入った。城が陥落すると、侯景は彼を斬り殺した。文集は世に行われた。

原文太清二年,侯景寇逼,孝恭啟募兵,隸蕭正德。正德入賊,孝恭還赴台,台門閉,侯景獲之,使作檄。求還私第檢討,景許之,因走入東府。城陷,景斬銼之。文集行於世。

顏協

原文顏協

顏協は字を子和といい、琅邪郡臨沂県の人で、晋の侍中顏含の七世の孫である。父の見遠は、学問が広く志操と行いがあった。初め、斉の和帝が荊州を鎮守した時、彼を録事参軍とした。即位すると、御史中丞を兼ねた。梁の武帝が禅譲を受けると、見遠は食事をとらず、憤りを発して数日後に卒去した。帝はこれを聞き、「朕は自ら天に応じ人に従ったまでで、天下の士大夫のことに何の関わりがあろうか。それなのに顏見遠がここまでするとは」と言った。

原文顏協字子和,琅邪臨沂人,晉侍中含七世孫也。父見遠,博學有志行。初,齊和帝鎮荊州,以爲錄事參軍;及即位,兼御史中丞。梁武帝受禪,見遠不食,發憤數日而卒。帝聞之,曰:「我自應天從人,何豫天下士大夫事?而顏見遠乃至於此。」

顏協は幼くして孤児となり、母方の叔父の家で養われた。若い頃から器量と才覚で称された。広く群書に渉猟し、草書・隷書・飛白に巧みであった。当時、呉の人范懷約は隷書が能く、協はその書を学び、ほとんど本物を超えるほどであった。荊楚の碑碣はすべて協の書によるものであった。当時また会稽の謝善勳は八体六文を能くし、方寸の間に千言を書き、京兆の韋仲は飛白に巧みで、ともに湘東王府にいた。善勳は録事参軍、仲は中兵参軍であった。府中では、協は韋仲より優れているが謝善勳には及ばないとされた。善勳は酒を数斗まで飲み、酔うとすぐに目を見開いて大声で罵り、貴賤親疏を問わず選ばなかったので、当時は謝方眼と呼ばれた。しかし胸襟は平らかで坦んでおり、士君子の操行があった。

原文協幼孤,養于舅氏。少以器局稱。博涉群書,工於草隸飛白。時呉人范懷約能隸書,協學其書,殆過真也。荊楚碑碣皆協所書。時又有會稽謝善勳能爲八體六文,方寸千言,京兆韋仲善飛白,並在湘東王府。善勳爲錄事參軍,仲爲中兵參軍。府中以協優於韋仲而減於善勳。善勳飲酒至數斗,醉後輒張眼大罵,雖復貴賤親疏無所擇也,時謂之謝方眼。而胸衿夷坦,有士君子之操焉。

顏協の家は貧しく質素であったが、身だしなみを整え、車馬がなければ出遊することはなかった。湘東王が荊州鎮守に出ると、記室とした。当時、呉郡の顧協も藩邸におり、協と同名で、才学も互角であったため、府中では二協と称された。母方の叔父の陳郡謝暕が卒去すると、協は養育の恩があったため、伯叔の礼をもって喪に服し、議論する者はこれを重んじた。また家門の事と義理に感じて、顕達を求めず、常に徴辟を辞退し、藩府を遊歴するだけであった。卒去すると、元帝は大いに嘆き惜しみ、懐旧の詩を作ってこれを悼んだ。

原文協家雖貧素,而修飾邊幅,非車馬未嘗出遊。湘東王出鎮荊州,以爲記室。時呉郡顧協亦在蕃邸,與協同名,才學相亞,府中稱爲二協。舅陳郡謝暕卒,協以有鞠養恩,居喪如伯叔禮,議者甚重焉。又感家門事義,不求顯達,恒辭徵辟,游於蕃府而已。卒,元帝甚嘆惜之,爲懷舊詩以傷之。

顏協が撰した『晋仙伝』五篇、『日月災異図』二巻は、世に行われた。その文集二十巻は、火災に遭って湮滅した。子の之儀、之推はともに早くから知名であった。

原文協所撰晉仙傳五篇,日月災異圖兩卷,行於世。其文集二十卷,遇火湮滅。子之儀、之推,並早知名。

紀少瑜

原文紀少瑜

紀少瑜は字を幼瑒といい、丹陽郡秣陵県の人である。本姓は呉であったが、紀氏に養われたため、これによって氏族を定めた。早く孤児となり、幼い頃から志操があり、常に王安期の為人を慕った。十三歳で文章を作ることができた。初め『京華楽』を作ると、王僧孺はこれを見て賞賛し、「この子は才藻が新しく抜きんでて、まさに高名を得るであろう」と言った。少瑜はかつて陸倕が一束の青鏤管筆を授ける夢を見た。陸倕は「私はこの筆はまだ使えるが、卿は自らその善きものを選べ」と言った。その文章はこのためにより力強く進歩した。

原文紀少瑜字幼瑒,丹陽秣陵人也。本姓呉,養于紀氏,因而命族。早孤,幼有志節,常慕王安期之爲人。年十三,能屬文。初爲京華樂,王僧孺見而賞之,曰:「此子才藻新拔,方有高名。」少瑜嘗夢陸倕以一束青鏤管筆授之,云:「我以此筆猶可用,卿自擇其善者。」其文因此遒進。

十九歳で初めて太学に遊学し、六経をくまなく探求した。博士の東海鮑皦は大いに欽慕し喜んだ。当時、皦は病があり、少瑜に代わって講義するよう請うた。少瑜はすでに玄言に妙であり、談吐に巧みで、弁舌が流れるように速かった。晋安国中尉となった。これはすなわち梁の簡文帝であり、深く恩遇を受けた。後に宣城王に侍読した。当陽公が郢州えいしゅうにあった時、功曹参軍とし、軽車限内記室に転じたが、事に坐して免官された。大同七年、初めて東宮学士に抜擢された。邵陵王が郢州にいた時、学士を求める上申をし、武帝は少瑜を行かせた。

原文年十九,始遊太學,備探六經,博士東海鮑皦雅相欽悅。時皦有疾,請少瑜代講。少瑜既妙玄言,善談吐,辯捷如流。爲晉安國中尉,即梁簡文也,深被恩遇。後侍宣城王讀。當陽公爲郢州,以爲功曹參軍,轉輕車限內記室,坐事免。大同七年,始引爲東宮學士。邵陵王在郢,啟求學士,武帝以少瑜充行。

少瑜は容貌が美しく、草書に巧みであった。吏部尚書の到溉はかつて「この人は大才があるが貴い官職に就いていない」と言い、彼を抜擢しようとしたが、溉が去職したため会うことができなかった。後に武陵王記室参軍に任じられ、卒去した。

原文少瑜美容貌,工草書,吏部尚書到溉嘗曰:「此人有大才而無貴仕。」將拔之,會溉去職。後除武陵王記室參軍,卒。

杜之偉

原文杜之偉

杜之偉は字を子大といい、呉郡錢唐県の人である。家は代々儒学を業とし、三礼を専門とした。父の規は、梁の奉朝請であった。之偉は幼い頃から精敏で、優れた才能があった。十五歳で、文史および儀礼故事を遍く観覧し、当時の人々はその早熟を称えた。僕射徐勉はかつてその文章を見て、筆力があることを重んじた。

原文杜之偉字子大,呉郡錢唐人也。家世儒學,以三禮專門。父規,梁奉朝請。之偉幼精敏,有逸才。年十五,遍觀文史及儀禮故事,時輩稱其早成。僕射徐勉嘗見其文,重其有筆力。

中大通元年、梁の武帝が同泰寺に行幸して捨身し、徐勉に儀注を撰するよう勅命した。勉は以前にこの礼がなかったため、之偉を召してその儀式を草案させた。そこで東宮学士を補うよう上申し、学士劉陟らとともに群書を抄撰し、それぞれ題目を定め、撰した『富教』『政道』の二篇は、いずれも之偉が序を書いた。後に太学限内博士を兼ねた。

原文中大通元年,梁武帝幸同泰寺捨身,敕勉撰儀注。勉以先無此禮,召之偉草具其儀。乃啟補東宮學士,與學士劉陟等抄撰群書,各爲題目,所撰富教、政道二篇,皆之偉爲序。後兼太學限內博士。

大同七年、梁の皇太子が国学で釈奠を行った時、楽府に孔子・顔子の登歌詞がなく、之偉に文章を作るよう命じた。伶人が伝習し、故事とした。再び安前邵陵王刑獄参軍に遷った。

原文大同七年,梁皇太子釋奠于國學,時樂府無孔子、顏子登歌詞,令之偉制文,伶人傳習,以爲故事。再遷安前邵陵王刑獄參軍。

之偉の年齢と地位は甚だ卑しかったが、特に強記と俊才によって、当世にかなり有名であった。吏部尚書張纘は深く彼を知り、廊廟の器と認めた。陳の武帝が丞相となった時、平素からその名を聞き、記室参軍に補うよう召した。中書侍郎に遷り、大著作を領した。禅譲を受けると、鴻臚卿に任じ、その他の官職はすべて元のままとした。之偉は著作の職を解くよう求めたが、優詔をもって許さなかった。再び太中大夫に遷り、引き続き梁史を撰するよう勅命され、官のまま卒去した。文集十七巻。

原文之偉年位甚卑,特以強識俊才,頗有名當世。吏部尚書張纘深知之,以爲廊廟之器。陳武帝爲丞相,素聞其名,召補記室參軍。遷中書侍郎,領大著作。及受禪,除鴻臚卿,餘並如故。之偉求解著作,優敕不許。再遷太中大夫,仍敕撰梁史,卒官。文集十七卷。

顔晃

原文顏晃

顔晃は字を元明といい、琅邪郡臨沂県の人である。幼くして孤貧であり、学問を好み、文辞の才があった。初めて官に就き、梁の邵陵王の記室参軍を兼ねた。時に東宮学士の庾信が王府に使者として来た。王は顔晃に応対させた。庾信は彼が若いのを軽んじて言った、「この府の兼記室は何人いるか」。顔晃は言った、「なお宮中の学士より少ないでしょう」。当時、これを善き応答とされた。

原文顏晃字元明,琅邪臨沂人也。少孤貧,好學,有辭采。解褐梁邵陵王兼記室參軍。時東宮學士庾信使府中,王使晃接對,信輕其少,曰:「此府兼記室幾人?」晃曰:「猶當少於宮中學士。」當時以爲善對。

侯景の乱の時、荊州に奔った。承聖の初年、中書侍郎に任じられた。陳の天嘉の初年、累進して員外散騎常侍となり、中書舎人を兼ね、詔誥を掌った。卒し、司農卿を追贈され、諡して貞子といった。

原文侯景之亂,奔荊州。承聖初,除中書侍郎。陳天嘉初,累遷員外散騎常侍,兼中書舍人,掌詔誥。卒,贈司農卿,諡曰貞子。

顔晃の家は代々単門で、傍らに親戚の援助がなく、しかも孤高に修め立ち、当世に知られた。その表奏や詔誥は、筆を下ろせばすぐに成り、しかも事理を得ていた。文集二十巻がある。

原文晃家世單門,傍無戚援,而介然修立,爲當世所知。其表奏詔誥,下筆立成,便得事理。有集二十卷。

岑之敬

原文岑之敬

岑之敬は字を思礼といい、南陽郡棘陽県の人である。父の善紆は、梁の世に経学で知られ、官は呉寧県令、司義郎に至った。

原文岑之敬字思禮,南陽棘陽人也。父善紆,梁世以經學聞,官至呉甯令,司義郎。

之敬は五歳の時、孝経を読み、毎度香を焚いて端座し、親戚は皆これを歎異した。十六歳で、春秋左氏伝と制旨孝経義について策試を受け、高第に挙げられた。御史が奏上して言った、「皇朝には士人多く、例えは明経に止まる。顔回や閔子騫の流れこそ、高第に応ずるべきです」。梁の武帝がその策文を御覧になり、言われた、「朕がまた顔回や閔子騫を持つことが何の妨げがあろうか」。そこで召し入れて面接試験を行った。之敬に講坐に昇らせ、中書舎人の朱異に孝経を持たせ、士孝の章を唱えさせ、武帝自ら論難された。之敬は縦横に剖釈し、左右の者は誰もが歎服した。そこで童子奉車郎に任じ、賞賜は厚かった。

原文之敬年五歳,讀孝經,每燒香正坐,親戚咸加歎異。十六,策春秋左氏、制旨孝經義,擢爲高第。御史奏曰:「皇朝多士,例止明經,若顏、閔之流,乃應高第。」梁武帝省其策,曰:「何妨我復有顏、閔邪。」因召入面試。令之敬升講坐,敕中書舍人朱異執孝經,唱士孝章,武帝親自論難。之敬剖釋從橫,左右莫不嗟服。仍除童子奉車郎,賞賜優厚。

十八歳の時、重雲殿の法会に参列した。時に武帝が自ら行香され、之敬を熟視して言われた、「未だ幾ばくも見ざるに、突として弁(成人の冠)せり」。即日に太学限内博士に任じられた。まもなく寿光学士、司義郎となった。太清元年、吏を試みることを上表し、南沙県令に任じられた。

原文十八,預重雲殿法會,時武帝親行香,熟視之敬曰:「未幾見兮,突而弁兮。」即日除太學限內博士。尋爲壽光學士、司義郎。太清元年,表請試吏,除南沙令。

承聖二年、晋安王宣恵府の中記室参軍に任じられた。時に蕭勃が嶺表を占拠したので、詔により之敬に旨を宣べて慰撫させた。ちょうど西魏が江陵を陥としたため、広州に留まった。陳の太建初年に朝廷に戻り、東宮義省学士を授けられた。累進して南台書侍御史、征南府諮議参軍となった。

原文承聖二年,除晉安王宣惠府中記室參軍。時蕭勃據嶺表,敕之敬宣旨慰喻。會魏克江陵,仍留廣州。陳太建初還朝,授東宮義省學士。累遷南台書侍御史,征南府諮議參軍。

之敬は初め経学の業によって進んだが、広く文史に渉猟し、風雅に文筆があり、醇儒にはとどまらなかった。性質は謙虚で謹直、才学をもって人を見下すことはなく、後進を接引するには、恭順として誠実であった。毎度母の忌日には斎を営み、必ず自ら洒掃し、終日涕泣した。士君子はその篤行をもって称えた。十一年に卒した。文集十巻が世に行われた。

原文之敬始以經業進,而博涉文史,雅有詞筆,不爲醇儒。性謙謹,未嘗以才學矜物,接引後進,恂恂如也。每母忌日營齋,必躬自灑掃,涕泣終日,士君子以篤行稱之。十一年卒。有集十卷行於世。

子の徳潤は父の風があり、中軍呉興王記室の位に至った。

原文子德潤,有父風,位中軍呉興王記室。

何之元

原文何之元

何之元は、廬江郡灊県の人である。祖父の僧達は、斉の南台書侍御史であった。父の法勝は、行いと業績で知られた。

原文何之元,廬江灊人也。祖僧達,齊南台書侍御史。父法勝,以行業聞。

之元は幼くして学問を好み、才思があり、喪に服するに礼を過ごした。梁の天監の末、司空の袁昂が上表して推薦したため、召し出されて謁見することができた。累進して信義県令となった。その同族の敬容は、位も声望も重く、頻りに訪ねてきたが、之元は終いに彼を訪ねなかった。ある人がその理由を尋ねると、之元は言った、「昔、楚の人が観起に寵を得た時、馬を持つ者は皆逃亡した。徳が薄く任が重ければ、必ず覆敗に近い。私はその利を得られずにその禍を招くことを恐れる」。識者はこれをもって彼を称えた。

原文之元幼好學,有才思,居喪過禮。梁天監末,司空袁昂表薦之,因得召見。累遷信義令。其宗人敬容,位望隆重,頻相顧訪,之元終不造焉。或問其故,之元曰:「昔楚人得寵於觀起,有馬者皆亡。夫德薄任隆,必近覆敗,吾恐不獲其利而招其禍。」識者以是稱之。

侯景の乱の時、武陵王が太尉として制を承け、之元を南梁州刺史、北巴西太守に任じた。武陵王が成都より兵を挙げて東下しようとした時、之元は蜀中の人々と共に上表して行かないよう請願した。王はこれが衆の気を沮喪させると考え、之元を艦中に囚禁した。武陵王が敗れた後、之元は邵陵太守の劉棻に従ってその郡に赴いた。まもなく西魏が江陵を陥とし、劉棻が卒すると、王琳が召して記室参軍とした。王琳が蕭荘を立てると、之元を中書侍郎に任じた。王琳が敗れると、北斉の主は之元を揚州別駕とし、その居所は寿春であった。

原文侯景之亂,武陵王以太尉承制,授南梁州刺史、北巴西太守。武陵王自成都舉兵東下,之元與蜀中人庶抗表請無行,王以爲沮眾,囚之元於艦中。及武陵兵敗,之元從邵陵太守劉棻之郡。俄而魏克江陵,劉棻卒,王琳召爲記室參軍。及琳立蕭莊,署爲中書侍郎。王琳敗,齊主以爲揚州別駕,所居即壽春也。

そして諸軍が北伐したとき、湘州刺史始興王叔陵は功曹史柳咸を使わして書を齎らせ、之元を召し寄せた。之元は初め陳朝と隙があったので、書が届くと大いに恐れおののいた。書を読んで「孔璋は罪なく、左車は用いられる」という文句に至り、ついに柳咸に従って湘州に赴いた。再び中衛府諮議参軍に遷った。

原文及眾軍北伐,湘州刺史始興王叔陵遣功曹史柳咸齎書召之。之元始與陳朝有隙,書至大惶恐。讀書至「孔璋無罪,左車見用」,遂隨咸至湘州。再遷中衞府諮議參軍。

叔陵が誅殺されると、之元は人事を屏絶し、『梁典』を著した。斉の永元元年に起こり、王琳が捕らえられるに至るまでの七十五年間の事跡を、三十巻にまとめた。

原文及叔陵誅,之元乃屏絶人事,著梁典,起齊永元元年,迄於琳遇獲,七十五年行事,爲三十卷。

陳が滅亡すると、常州の晋陵県に移り住んだ。隋の開皇十三年、家で卒した。

原文陳亡,移居常州之晉陵縣。隋開皇十三年,卒於家。

徐伯陽

原文徐伯陽

徐伯陽は字を隠忍といい、東海の人である。父の僧権は、梁の東宮通事舎人となり、秘書を領して、書を善くすることで知られた。

原文徐伯陽字隱忍,東海人也。父僧權,梁東宮通事舍人,領祕書,以善書知名。

伯陽は聡明で学問を好み、父母への孝養を善くした。家に史書があり、読んだものは三千余巻に近かった。梁の大同年間、候官令となり、人々の和を得ること甚だしかった。侯景の乱のとき、広州に至り蕭勃に依った。蕭勃が平定されると、都に戻った。陳の天嘉年間、司空侯安都府記室参軍に任じられた。太建初年、中記室李爽・記室張正見・左戸郎賀徹・学士阮卓・黄門郎蕭詮・三公郎王由礼・処士馬枢・記室祖孫登・比部郎賀循・長史劉刪らと文を以て友とし、後に蔡凝・劉助・陳暄・孔範もこれに加わった。皆一時の士である。遊宴して詩を賦し、動くごとに巻軸となった。伯陽がその集の序を書き、世に盛んに伝わった。

原文伯陽敏而好學,善色養。家有史書,所讀者近三千餘卷。梁大同中,爲候官令,甚得人和。侯景之亂,至廣州依蕭勃。勃平,還都。陳天嘉中,除司空侯安都府記室參軍。太建初,與中記室李爽、記室張正見、左戸郎賀徹、學士阮卓、黃門郎蕭詮、三公郎王由禮、處士馬樞、記室祖孫登、比部郎賀循、長史劉刪等爲文會友,後有蔡凝、劉助、陳暄、孔範亦預焉,皆一時士也。游宴賦詩,動成卷軸。伯陽爲其集序,盛傳於世。

後に鎮北新安王府中記室参軍に任じられ、南徐州別駕を兼ね、東海郡丞を帯びた。鄱陽王が江州刺史となると、伯陽は常に使を奉じてそのもとに赴いた。王は府の僚属を率いて伯陽と匡嶺に登り宴を設け、酒酣のとき、筆を命じて劇韻三十を賦させた。伯陽と祖孫登が先に成し、王は奴婢や雑物を賜った。後に鎮右新安王府諮議参軍事に任じられた。姉の喪を聞き、発病して卒した。

原文後除鎮北新安王府中記室參軍,兼南徐州別駕,帶東海郡丞。鄱陽王爲江州刺史,伯陽常奉使造焉。王率府僚與伯陽登匡嶺置宴,酒酣,命筆賦劇韻三十,伯陽與祖孫登前成,王賜以奴婢雜物。後除鎮右新安王府諮議參軍事。聞姊喪,發疾卒。

張正見

原文張正見

張正見は字を見賾といい、清河東武城の人である。祖父の善之は、魏の散騎常侍・勃海長楽二郡太守となった。父の修礼は、魏の散騎侍郎となり、梁に帰順してなお本来の官職を拝し、懐方太守に遷った。

原文張正見字見賾,清河東武城人也。祖善之,魏散騎常侍、勃海長樂二郡太守。父修禮,魏散騎侍郎,歸梁,仍拜本職,遷懷方太守。

正見は幼くして学問を好み、清らかな才能があった。梁の簡文帝が東宮にいたとき、正見は十三歳で頌を献じ、簡文帝は深く賞賛した。梁の元帝が即位すると、彭沢令となった。喪乱に属し、匡俗山に避地した。陳の武帝が禅を受けると、正見は都に戻った。累遷して尚書度支郎となり、撰史著士を務め、卒した。文集十四巻があり、その五言詩は特に優れていた。

原文正見幼好學,有清才。梁簡文在東宮,正見年十三,獻頌,簡文深讚賞之。梁元帝即位,爲彭澤令。屬喪亂,避地匡俗山。陳武帝受禪,正見還都。累遷尚書度支郎,撰史著士,卒。有集十四卷,其五言尤善。

阮卓

原文阮卓

阮卓は、陳留尉氏の人である。祖父の詮は、梁の散騎侍郎となった。父の問道は、梁の岳陽王府記室参軍となった。

原文阮卓,陳留尉氏人也。祖詮,梁散騎侍郎。父問道,梁岳陽王府記室參軍。

卓は幼くして聡明で、経籍に篤志し、特に五言詩を善くした。性至孝であり、父が岳陽王に従って江州に出鎮したとき卒し、卓は時に十五歳で、都から奔赴し、水漿を口にしないこと数日に及んだ。柩を載せて都に還る途中、彭蠡湖を渡り、中流で疾風に遇い、船が沈みそうになること数四に及んだが、卓が天を仰いで悲号すると、俄かに風が止み、人は孝の感応の極みであるとした。

原文卓幼聰敏,篤志經籍,尤工五言。性至孝,父隨岳陽王出鎮江州,卒,卓時年十五,自都奔赴,水漿不入口者累日。載柩還都,度彭蠡湖,中流遇疾風,船幾沒者數四,卓仰天悲號,俄而風息,人以爲孝感之至。

陳の天康元年、新安王府記室参軍となり、府に従って翊右記室に転じ、撰史著士を帯びた。欧陽紇が平定されると、交址の夷獠がしばしば集まって寇抄を働いたので、卓は使を奉じて招慰した。交址は日南・象郡に通じ、金翠珠貝の珍怪の産物が多い。前後の使者は皆これを手に入れたが、ただ卓のみは身を挺して還り、時の論は皆その廉潔を服した。

原文陳天康元年,爲新安王府記室參軍,隨府轉翊右記室,帶撰史著士。及平歐陽紇,交址夷獠往往聚爲寇抄,卓奉使招慰。交址通日南、象郡,多金翠珠貝珍怪之產,前後使者皆致之,唯卓挺身而還,時論咸伏其廉。

後に始興王中衛府記室参軍となった。叔陵が誅殺された後、後主は朝臣に言った、「阮卓は素より逆に与しなかった。宜しく旌異を加うべし」。至徳元年、入朝して徳教殿学士となった。まもなく通直散騎常侍を兼ね、王話に副使として隋に聘した。隋の文帝はかねてよりその名を聞き、河東の薛道衡・琅邪の顔之推らを遣わして卓と談宴し詩を賦させ、賜遺と礼を加えた。

原文後爲始興王中衞府記室參軍。及叔陵誅,後主謂朝臣曰:「阮卓素不同逆,宜加旌異。」至德元年,入爲德教殿學士。尋兼通直散騎常侍,副王話聘隋。隋文帝夙聞其名,遣河東薛道衡、琅邪顏之推等與卓談宴賦詩,賜遺加禮。

南海王府諮議参軍に任ぜられたが、眼病のため赴任せず、里宅に退居して亭宇を改築し、山池や花卉樹木を整え、賓客友人を招き、詩文と酒をもって自ら楽しんだ。陳が滅びて隋に入り、江州まで行ったとき、父の死んだ地を追憶して感慨にふけり、病を得て卒した。

原文還除南海王府諮議參軍,以目疾不之官。退居裏舍,改構亭宇,修山池卉木,招致賓友,以文酒自娛。陳亡入隋,行至江州,追感其父所終,遘疾卒。

論

原文論

論じて曰く、文章とは、およそ情性の風標であり、神明の律呂である。思慮を蘊め筆を含み、心を遊ばせて内に運び、言葉を放ち紙に落とせば、気韻は天成する。生霊を稟けてこれを為さざるはなく、愛嗜によって遷り、機見は門を殊にし、賞悟は紛雑す。感召は象なく、変化は窮まりなし。五声の音響を発して出言は句を異にし、万物の情状を写して下筆は形を殊にする。心霊より暢びて、これを簡素に宣ぶは、輪扁の言も、未だ能く尽くすことあるべからず。然れども縦い天性を仮るも、終には好習に資る。ここをもって古の賢哲は、咸しく心を用いし所なり。丘霊鞠らの至りに及んでは、或いは門業を克荷し、或いは夙に慕尚を懐き、位に窮通有りと雖も、名は滅すべからず。然らば則ち立身の道、務むること無からんや。

原文論曰:文章者,蓋情性之風標,神明之律呂也。蘊思含豪,遊心內運,放言落紙,氣韻天成。莫不稟以生靈,遷乎愛嗜,機見殊門,賞悟紛雜,感召無象,變化不窮。發五聲之音響,而出言異句,寫萬物之情狀,而下筆殊形。暢自心靈,而宣之簡素,輪扁之言,未或能盡。然縱假之天性,終資好習,是以古之賢哲,咸所用心。至若丘靈鞠等,或克荷門業,或夙懷慕尚,雖位有窮通,而名不可滅。然則立身之道,可無務乎。