南史
巻六十九 列傳第五十九
沈炯
沈炯は字を初明といい、呉興郡武康県の人である。祖父の沈瑀は、梁の尋陽太守であった。父の沈續は、王府の記室参軍であった。
沈炯は若くして才知に優れ、当時の人々に重んじられた。梁に仕えて尚書左戸侍郎・呉県令となった。侯景の乱の時、呉郡太守の袁君正が建鄴を救援するために出向き、沈炯に郡の監察を委ねた。台城が陥落すると、侯景の部将宋子仙が呉興を占拠し、沈炯を召し出して書記の任に当たらせようとしたが、沈炯は病気を理由に辞退した。子仙は怒り、彼を斬るよう命じた。沈炯が衣を解いて斬られようとした時、道端の桑の木に妨げられ、別の場所へ引きずられていったところ、誰かが救い出し、かろうじて死を免れた。子仙はその才能を惜しみ、結局彼を脅して書記を執らせた。子仙が敗れると、王僧辯はかねてよりその名を聞いており、軍中で彼を探し出し、捕らえた者に十万銭の報酬を与えた。これより以後、羽檄や軍書はすべて沈炯の手によるものとなった。簡文帝が殺害されると、四方の諸侯・州牧が上表して即位を勧めたが、僧辯は沈炯に表文を作らせたが、当時これに及ぶ者はなかった。陳の武帝が南下し、僧辯と白茅湾で会して壇に登り盟約を結んだ時、その文章は沈炯が作った。侯景が東へ奔った時、呉郡に至り、沈炯の妻虞氏と子の行簡を捕らえてともに殺害した。沈炯の弟は母を連れて逃れ、難を免れた。侯景が平定されると、梁の元帝はその妻子が幼くして殺戮されたことを哀れみ、特に原郷侯に封じた。僧辯が 司徒 となると、沈炯を従事中郎とした。梁の元帝は彼を召し出して給事黄門侍郎とし、尚書左丞を兼ねさせた。
魏が荊州を占領すると、捕虜となったが、非常に礼遇され、儀同三司を授けられた。母が東方にいるため、常に帰国を思い、文才ゆえに留め置かれることを恐れ、門を閉ざして掃除もせず、人と交際しなかった。時に文章を作っても、すぐに棄てて毀ち、世に広まることを許さなかった。
かつて一人で漢の武帝の通天台を通りかかり、表文を奏上して、己の故郷を思う気持ちを述べた。曰く、「臣は聞く、橋山は掩われたといえども、鼎湖の竈は祠ることができ、魯は遂に荒れ果てたといえども、大庭の跡は泯びないと。伏して惟うに、陛下は徳を猗蘭に降し、霊を豊穀に纂ぎ、漢の道既に登り、神仙望むべし。之罘を海浦に射て、日観に礼し功を称え、中流を汾河に横たえ、柏梁を指して高宴を張る、何ぞ其れ甚だ楽しまざるや、豈に然らざらんや。既にして運上仙に属し、道晏駕に窮す。甲帳珠簾一朝にして零落し、茂陵の玉碗遂に人間に出づ。陵雲の故基は原田とともに膴膴たり、別風の余跡は陵阜に帯びて芒芒たり。羈旅の縲臣、涙を落とさざらんや。昔、承明に見厭われて厳助東に帰り、駟馬乗るべくして長卿西に反る。恭しく故実を聞き、窃かに愚心あり。黍稷馨しからずと雖も、敢えて徼福を望む。但だ雀台の弔いは空しく魏君を愴ませ、雍丘の祠は未だ夏后を光らさず。煙霞を瞻仰し、伏して増すに淒恋を以てす」。奏上し終えると、その夜、宮禁の場所の夢を見、兵衛が非常に厳重であった。沈炯はすぐに事情を陳訴した。誰かが言うのを聞いた、「甚だ惜しむことなく卿を放ち還す、いつ頃至れるか」。数日後、王克らとともに東帰を許された。司農卿、御史中丞を歴任した。
陳の武帝が禅を受けると、通直 散騎常侍 を加えられた。表を奉って帰郷し母を養うことを求めたが、詔は許さなかった。文帝が位を嗣ぐと、また表を奉って去ることを求めた。詔は答えて曰く、「当に所由に勅し、尊累を迎えさせ、卿をして公私に廃ることなからしむべし」。
初め、武帝はかつて沈炯は王佐に居るにふさわしいと称え、軍国の大政は多く謀議に参与させた。文帝もまたその才能を重んじ、寵愛して貴ばせようとした。時に王琳が大雷に侵入し寇し、留異が東境を擁拠した。帝は沈炯にこれによって功を立てさせようとし、中丞の官を解き、明威将軍を加え、郷里に帰らせて徒衆を収めさせた。病気のため呉中で卒した。侍中を追贈され、諡して恭子といった。文集二十巻が世に行われた。
虞荔
虞荔は字を山披といい、会稽郡余姚県の人である。祖父の虞権は、梁の廷尉卿・永嘉太守であった。父の虞檢は、平北将軍始興王諮議参軍であった。
虞荔は幼くして聡明で、志操があった。九歳の時、従伯の虞闡に従って太常の陸倕を訪ねた。倕が五経について十のことを問うと、虞荔は答えに遺漏がなく、倕は大いに異とした。またかつて征士の何胤を訪ねた時、太守の衡陽王もまた彼を訪ねて来た。胤が王に言上すると、王は虞荔に会おうとしたが、虞荔は辞して言った、「板刺(名刺)を持たず、拝謁する容れ物がありません」。王は虞荔に高尚の志があると知り、大いに欽重し、郡に戻るとすぐに主簿に辟召したが、虞荔はまた年少を理由に辞して就かなかった。成長すると、風儀が美しく、広く典籍を博覧し、文章をよくした。梁に仕えて西中郎法曹外兵参軍となり、丹陽詔獄正を兼ねた。
梁の武帝が城西に士林館を設置すると、虞荔は碑文を作って奏上した。帝は命じて館にこれを刻ませ、虞荔を士林学士に任じた。まもなく司文郎となり、通直散騎侍郎に遷り、中書舎人を兼ねた。当時、左右の任にある者は多く権力の中枢に参与し、内外の機務は互いに兼掌していたが、ただ虞荔と顧協のみが淡泊として静かに退き、西省に居て、ただ文史によって知られた。まもなく大著作を領した。
侯景の乱の時、虞荔は親族を率いて台城に入り、鎮西諮議参軍に任じられ、舎人はもとのままとした。台城が陥落すると、郷里に逃れて帰った。侯景が平定されると、元帝は彼を召し出して中書侍郎とした。貞陽侯が僭位すると、揚州別駕を授けたが、いずれも就かなかった。
張彪が会稽を占拠した時、虞荔はそこにいた。文帝が張彪を平定すると、武帝と文帝はともに手紙を送って彼を招いた。切迫して已むを得ず、命に応じて都に至ったが、武帝が崩御し、文帝が位を嗣いだ。太子中庶子に任じられ、引き続き太子に侍読した。まもなく大著作を領した。
初め、虞荔の母は荔に従って台城に入り、台城内で卒去したが、間もなく城は陥落し、情実と礼儀を尽くすことができなかった。このため、荔は生涯、菜食と布衣を通し、音楽を聴かなかった。任遇は重厚であったが、居住は倹素で、淡泊として営みを求めなかった。文帝は深く彼を器とし、常に左右に引き留め、朝夕顧問した。荔の性格は沈密で、言論は少なく、凡そ献替することは、その際を見る者無かった。
第二の弟の寄は、閩中に寓居し、陳宝応に依っていた。荔は言う毎に涙を流した。文帝は哀れんで言うには、「我にも遠方に弟がいる。この情は甚だ切なるもので、他人がどうして知ろうか」と。そこで宝応に命じて寄を求めさせたが、宝応は遂に遣わさなかった。荔はこれによって感疾し、帝は数度臨視しようとし、家口を省中に入れるよう命じた。荔は禁中は私居の所ではないとして、城外に留まることを乞うたが、帝は許さず、蘭台に住まわせた。乗輿は再三臨問し、手勅と中使が道に相望んだ。また、菜食が積もって久しく、羸疾の堪える所ではないとして、勅して言うには、「卿は年事既に多く、気力稍々減じている。まさに委任しようとしているところ、良く壮健であるべきだ。今、卿に魚肉を与える。固より執る所に従ってはならない」と。荔は終に従わなかった。卒去し、侍中を贈られ、諡して徳子といった。喪柩が郷里に還る時、上は自ら出て臨送し、当時これを栄とした。子の世基・世南は、共に少時より知名であった。
虞荔の弟、寄
寄は字を次安といい、少時より聡敏であった。数歳の時、客がその父を訪ね、門で寄に遇い、嘲って言うには、「郎子は虞姓ならば、必ず智無からん」と。寄は声に応じて言うには、「文字を辨ぜず、豈に愚ならざらんや」と。客は大いに慚じた。入ってその父に言うには、「この子は常人に非ず、文挙(孔融)の対も、これを過ぎるものではない」と。
成長すると、学を好み、文を属することを善くした。性格は沖静で、棲遁の志があった。弱冠で秀才に挙げられ、対策は高第であった。起家して梁の宣城王国左常侍となった。大同年中、嘗て驟雨があり、殿前に往々にして雑色の宝珠があった。梁武帝がこれを見て、甚だ喜色があった。寄はこれによって瑞雨頌を上った。帝は寄の兄の荔に言うには、「この頌は典裁清抜で、卿の士龍(陸雲)である。どう擢用しようか」と。寄はこれを聞いて歎じて言うには、「盛徳の形容を美しみ、以て撃壤の情を申すのみ。吾豈に名を買い仕を求むる者ならんや」と。乃ち門を閉じて疾を称し、唯だ書籍を以て自ら娯しんだ。岳陽王蕭詧が会稽太守となると、寄は中記室となり、郡の五官掾を領した。在職中は煩苛を簡略にし、務めて大體を存し、曹局の内は終日寂然であった。
侯景の乱に、寄は兄の荔に従って台城に入ったが、城が陥落すると、遁れて郷里に還った。張彪が臨川に赴く時、寄を強いて俱に行かせた。寄は彪の将の鄭瑋と同舟して載ったが、瑋は嘗て彪の意に忤ったことがあり、乃ち寄を劫いて 晉 安に奔った。時に陳宝応が閩中を拠有し、寄を得て甚だ喜んだ。陳武帝が侯景を平らげると、寄は自ら結ぶよう勧め、宝応はこれに従い、乃ち使を遣わして帰誠した。承聖元年、中書侍郎に除されたが、宝応はその才を愛し、道が阻むことを托して遣わさなかった。毎に寄を引いて僚属とし、文翰を委ねようとしたが、寄は固く辞して免れた。
宝応が留異と婚姻を結び、密かに逆謀を有するに及んで、寄は微かにその意を知り、言説の際、毎に逆順の理を陳べ、微かに諷諫した。宝応は輒ち他事を引いて說き、以てこれを拒いだ。又嘗て左右に漢書を読ませ、臥してこれを聴き、蒯通が韓信に說いて曰く「相君の背は、貴ぶべからずして言う可し」と至ると、宝応は蹶然として起ちて曰く「智士と謂う可し」と。寄は正色して曰く「酈生を覆し韓信を驕らすは、未だ智と称すに足らず。豈に班彪の王命、帰する所を識るに若かんや」と。寄は宝応が諫め難いことを知り、禍の己に及ぶを慮り、乃ち居士の服を為して以てこれを拒絶した。常に東山寺に居り、偽りに脚疾を称して、復た起たなかった。宝応は仮託と思い、人を遣わして寄の臥す屋を焼かせたが、寄は安らかに臥して動かなかった。親近が寄を扶け出そうとすると、寄は曰く「吾が命は懸かる所あり。避けて安くか往かん」と。火を放った者は、旋って自らこれを救った。宝応はここに至って初めて彼を信じた。
留異が兵を称するに及んで、宝応がその部曲を資助すると、寄は乃ち書を因って極諫して曰く、
東山居士虞寄、明將軍使君節下に致書す。寄は流離艱故し、飄寓して貴郷に至る。將軍は上賓の禮を以て待ち、國士の眷を以て申す。意気の感ずる所、何れの日か之を忘れん。而して寄は沈痼彌留し、愒陰将に盡きんとす。常に卒に溝壑に填まり、涓塵も報ゆる莫からんことを恐る。是を以て敢えて腹心を布き、丹款を冒して陳ぶ。願わくは將軍、須臾の慮を留め、少しく之を思察せられよ。則ち冥目の日、懷う所畢らん。
夫れ安危の兆、禍福の機は、獨り天時に非ず、亦た人事に由る。之を毫釐失えば、千里に差す。是を以て明智の士は、重位に據りて傾かず、大節を執りて失わず。豈に浮辭に惑わんや。將軍は文武兼資し、英威俗を動かす。往きて多難に因り、劍を仗して師を興し、旗を援げて衆を誓い、威を抗して千里に及ぶ。豈に四郊多壘、共に王室を謀り、時を匡し主に報い、國を甯んじ人を庇わんとするに非ずや。此れ五尺の童子も、皆戟を荷いて將軍に隨わんと願う所以なり。高祖武皇帝、草昧に基を肇き、初めて艱難を濟わしむ。時に天下沸騰し、人定主無く、豺狼道に當たり、鯨鯢橫撃し、海內業業として、從う所を知らず。將軍は微の鑒を運動し、從衡の辯を折り、名を策し質を委ね、自ら宗盟に托す。此れ將軍の妙算遠圖、衷誠より發する所なり。主上業を繼ぎ、欽明睿聖にして、賢を選び能與え、群臣輯睦し、將軍に維城の重を結び、將軍に裂土の封を崇ぶ。豈に宏謨廟略、赤心を物に推すに非ずや。屢明詔を申し、款篤殷勤たり。君臣の分定まり、骨肉の恩深し。意わざらんや將軍、邪說に惑い、翻然として異計す。寄の疾首痛心し、泣き盡くして血に繼ぐ所以、萬全の策、竊に將軍の爲に之を惜しむ。寄は疾侵み耄及び、言采るに足らざるも、千慮一得、請う愚算を陳べん。願わくは將軍、少しく雷霆を戢め、其の晷刻を賒かにし、狂瞽の說を盡くさしめ、肝膽の誠を披かしめよ。則ち死するの日も、猶ほ生くるの年ならん。
天が梁の徳を厭い、多難が重なり、天下は分崩し、英雄が互いに起こり、数え切れぬほどで、人々は皆自らが天下を得たと思った。しかし、凶暴を除き乱を断ち、溺れる者を救い危うきを扶け、四海が推戴し、三霊が命を眷顧して、揖譲して南面の位に居たのは、陳氏である。これはまさに歴数が定まっており、天が授けたものであり、璧に当たって運に応じたことは、その事が甚だ明らかである、第一の理由である。主上は基を継ぎ、明徳は遠くに及び、天綱は再び張られ、地維は重ねて結ばれた。王琳の強さ、侯瑱の力をもってすれば、進んでは中原を揺るがし天下を争うに足り、退いては江外に屈強に雄張して偏隅を保つに足りた。しかし、ある時は一旅の師を命じ、ある時は一士の説を借りて、琳は即座に瓦解氷消し、異域に身を投じ、瑱は則ち厥角稽顙して、命を闕庭に委ねた。これもまた天がその威を借りて、その患いを除いたのであり、その事が甚だ明らかである、第二の理由である。今、将軍は藩戚の重みをもって、東南の衆を擁し、忠を尽くして上に奉じ、力を合わせて王事に勤めている。これでは竇融よりも勲功高く、呉芮よりも寵遇過ぎ、珪を析き野を判し、南面して孤を称するに至らないであろうか、その事が甚だ明らかである、第三の理由である。かつ聖朝は瑕を棄て過を忘れ、寛厚に人を待ち、過ちを改め自ら新たにすれば、皆叙擢を加えられる。余孝頃、潘純陀、李孝欽、欧陽頠などの者に至っては、悉く心腹として委ね、爪牙として任じ、胸中は豁然として、少しの芥蒂もない。まして将軍の罪は張繡の如くではなく、畢諶の罪とも異なる。危亡を慮うるに当たって何を憂い、富貴を失うに当たって何を失うというのか。これもまたその事が甚だ明らかである、第四の理由である。今、周と斉は隣り合って睦まじく、境外に憂い無く、兵を合わせて一向に進むのは、朝に非ずして夕べであろう。劉邦と項羽が競い逐う機会もなく、楚と趙が連合する事態もない。ゆえに雍容として高く拱し、坐して西伯を論ずることができるのであり、その事が甚だ明らかである、第五の理由である。かつ留将軍は狼のように一隅を顧み、幾度も敗北を重ね、名声と実力は損なわれ、胆気は衰え沮喪している。高瓖、向文政、留瑜、黄子玉、この数名の者は将軍も知る通り、首鼠両端で、ただ利を見るのみであり、その他の将帥もまた推して知るべしである。誰が堅甲を被り鋭鋒を執り、長駆して深く入り、馬を繋ぎ輪を埋め、命を顧みず奮い立ち、士卒に先んじることができようか。これもまたその事が甚だ明らかである、第六の理由である。かつ将軍の強さは、侯景に比べてどうか。将軍の衆は、王琳に比べてどうか。武皇帝は前に侯景を滅ぼし、今上は後に王琳を摧いた。これは天時の致すところであって、再び人力によるものではない。かつ兵革の後、人は皆乱を厭い、誰が墳墓を棄て妻子を捐て、万死を顧みざる計を出し、白刃の間に将軍に従おうというのか。これもまたその事が甚だ明らかである、第七の理由である。歴史上の前古を観察し、往事を鑑みれば、子陽と季孟は相次いで傾覆し、余善と右渠は危亡が続いて及んだ。天命は畏るべく、山川は恃み難い。まして将軍が数郡の地をもって天下の兵に当たり、諸侯の資をもって天子の命に抗おうとする。強弱と逆順を比べれば、同等と言えようか。これもまたその事が甚だ明らかである、第八の理由である。かつ我が族類に非ざれば、その心必ず異なり、その親を愛さなければ、どうして他に及ぼせようか。留将軍自身は国爵に縻され、子は王姫を娶っているのに、なお天属を棄てて顧みず、明君に背いて孤立している。危急の日に、どうして憂いを共にし患いを分かち合い、将軍に背かないことがあろうか。師が老いて力屈し、誅を懼れ賞に利する時には、必ずや韓と智の晋陽の謀、張と陳の井陘の事が起こるであろう。これもまたその事が甚だ明らかである、第九の理由である。かつ北軍は万里を遠征して戦い、その鋒は当たるべからず。将軍は自らの地で戦い、人は多く後顧の憂いがある。梁安は背向を心とし、修忤は匹夫の力に過ぎず、衆寡は敵せず、将帥は匹敵せず、師は名無きを以て出で、事は機無きを以て動く。これをもって兵を称するは、その利を知らざるなり。漢朝の呉楚、晋室の穎顒を以てしても、連城数十、長戟百万、本を抜き源を塞ぎ、自ら家国を図ったが、成功した者があったか。これもまたその事が甚だ明らかである、第十の理由である。
将軍のために計るに、遠からずして復するに如くはなく、留氏との親戚関係を絶ち、秦郎、快郎を随えて人質に遣わし、甲を解き兵を偃げ、一に詔旨に遵うべきである。かつ朝廷は鉄券の要を許し、白馬の盟を申し、朕は食言せず、宗社に誓う。寄が聞くところでは、明者は未だ形ならざるを鑑とし、智者は再び計らず、これが成敗の効験である。将軍は疑うなかれ、吉凶の機は、間髪を容れず。今、藩維は尚少なく、皇子は幼沖、凡そ宗枝に預かる者は、皆寵樹を蒙っている。まして将軍の地、将軍の才、将軍の名、将軍の勢をもって、よく藩服を修め、北面して臣と称すれば、どうして劉澤と同年にしてその功業を語ることがあろうか。身は山河と等しく安らぎ、名は金石と相俟って朽ちるであろう。願わくば三思を加え、これを慮るに忽せざらんことを。
寄は気力綿微にして、余陰幾ばくも無く、恩を感じ徳を懐いて、狂言を覚えず。鈇鉞の誅も、薺の如く甘んずる。宝応は書を覧て大怒した。ある者が宝応に言うには、「虞公は病篤く、言多く錯謬す」と。宝応の意はやや解けた。また寄が人望あることを以て、且つこれを容れた。宝応が敗走し、夜に蒲田に至った時、顧みてその子の扞秦に言うには、「早く虞公の計に従わば、今日に至らざりしものを」と。扞秦はただ泣くのみであった。宝応が既に擒えられると、凡そ諸賓客で微かに交渉ある者は皆誅されたが、寄のみは先識を以て禍を免れた。
初め、沙門の慧標は学問を渉猟し才思あり、宝応が起兵した時、五言詩を作ってこれを送り、曰く、「馬を送りて猶水に臨み、旗を離れて稍風を引く。今夜の月を好看せよ、当に紫微宮を照らさん」と。宝応はこれを得て甚だ悦んだ。慧標が寄に示すと、寄は一覧して便ち止め、正色して無言であった。慧標が退くと、寄は親しい者に謂いて曰く、「標公は既にこれを以て始むれば、必ずこれを以て終わるであろう」と。後に竟にこの事に坐して誅された。
文帝は尋ねて 都督 の章昭達に勅し、寄を発遣して還朝せしめ、至った時に謂って曰く、「管寧無恙なり、甚だ労を慰め懐かしむ」と。頃にして、帝は到仲挙に謂いて曰く、「衡陽王は既に出合した。須らく一人を得て旦夕遊処せしめ、兼ねて書記を掌らしむべし。宜しく宿士にして行業ある者を求むべし」と。仲挙は対すべき所を知らず、帝曰く、「吾自ら之を得たり」と。乃ち手勅して寄を用いた。寄が入謝すると、帝曰く、「卿を暫く屈して蕃に遊ばしむ所以は、只だ文翰を以て相煩わすのみに非ず、乃ち師表を以て相事えしめんとするなり」と。後に東中郎建安王諮議を除し、戎昭将軍を加えられた。寄は乃ち疾を以て辞し、旦夕陪列に堪えずと。王は是に於いて長く公事を停め、疑議ある時は就いてこれを決し、但だ朔旦に箋を修するのみとした。太建八年、太中大夫を加えられ、後に卒した。
寄は少より篤行にして、造次にも必ず仁厚に在り、童豎に至るまで未だ嘗て声色を加えず。危険に臨み節を執るに至っては、則ち辞気凛然として、白刃も憚らなかった。南土に流寓して以来、兄の荔と隔絶し、因って気病を感じた。毎に荔の書を得れば、気は輒ち奔劇し、危殆に陥ること数度あった。前後居官した所、未だ嘗て秩満に至らず、裁ち期月にして、便ち自ら解退を求めた。常に曰く、「足るを知れば辱められず、吾は足るを知れり」と。病を謝して私庭に居るに及び、諸王が州将となる毎に、下車すれば必ず門を造り礼を致し、鞭板を釈めしめ、几杖を以て侍坐せしめた。嘗て近寺に出遊した時、閭里は伝い相告げ、老幼羅列し、道左に望拝した。或いは誓いを言って約する者は、ただ寄を指せば欺かずと言い、その至行の感ずる所、此の如きであった。制作した文筆は、乱に遭って多く散失した。
傅縡
傅縡は字を宜事といい、北地郡霊州の人である。父の傅彝は、梁の臨沂県令であった。傅縡は幼くして聡明で、七歳の時に古詩賦を十余万言まで誦した。成長して学問を好み、文章を綴ることができた。太清の末年に母の喪に服し、兵乱の中にあって喪に服する礼を尽くし、哀しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、士人や友人たちはこれを称えた。後に湘州刺史蕭循に寄寓した。蕭循は大いに士人を好み、広く典籍を集めたので、傅縡は思いのままに探し読み、広く群書に通じるようになった。王琳がその名を聞き、府の記室に引き立てた。王琳が敗れると、王琳の将軍孫瑒に従って都に帰った。時に陳の文帝が顔晃を使者として孫瑒に雑物を賜ると、孫瑒は傅縡に託して謝恩の上奏文を書かせたが、その文理は周到で、一字の加筆もなかった。顔晃が帰って文帝にこのことを言上すると、召し出されて撰史学士に任じられた。再び驃騎将軍安成王の中記室に転じ、撰史の任はもとのままであった。
傅縡は篤く仏教を信じ、興皇寺の慧朗法師について三論を学び、その学問をことごとく通じた。まもなく本官のまま通直散騎侍郎を兼ねて斉に使いし、帰還後、累進して太子庶子、太子僕となった。
後主が即位すると、秘書監、右衛将軍に転じ、中書通事舎人を兼ね、詔誥を掌った。傅縡の文章は典雅で麗しく、性質もまた敏速であり、軍国大事であっても、筆を下せばたちどころに成り、草稿を起こすことはなく、深く考えた者にも勝るところがなかったので、大いに後主に重んじられた。しかし性質は頑固で強情であり、行いを慎む節操がなく、才能を恃んで気ままに振る舞い、人を侮り軽んじたので、朝廷の士人の多くはこれを恨んだ。折しも施文慶、沈客卿が諂いによって寵愛を受け、権勢を専断していたが、傅縡はますます疎んじられた。文慶らは共に讒言し、後主は傅縡を捕らえて獄に下した。傅縡はもとより剛直であったため、憤り恨んで、獄中で上書して言った。「人君たるものは、恭しく上帝に仕え、民を子のように慈しみ、嗜欲を省み、諂佞を遠ざけ、夜明け前に衣を求め、日が暮れても食事を忘れ、こうして恩沢は天下に行き渡り、慶福は子孫に流れるのである。陛下は近ごろ酒色に過度にふけり、郊廟の神々を敬うことなく、専ら淫らで昏い鬼に媚びている。小人が側近にあり、宦官が権力を弄び、忠直を憎んで仇敵の如くし、百姓を見て草芥の如くする。後宮は綺繡を引きずり、厩馬は菽粟を余し、民衆は流離し、転がる屍が野を覆い、賄賂が公然と行われ、国庫は損耗し、神は怒り人は怨み、衆は叛き親は離れる。恐らくは東南の王気、ここより尽きんとす。」上書が奏上されると、後主は大いに怒った。しばらくしてやや怒りが解け、使者に命じて言わせた。「朕は卿を赦そうと思うが、卿は過ちを改めることができるか。」傅縡は答えて言った。「臣の心は顔の如し。臣の顔を改めることができれば、臣の心も改めることができましょう。」後主はそこでますます怒り、宦官の李善度に命じてその事を徹底的に追及させ、獄中で死を賜った。文集十巻がある。
傅縡は強直で才能があったが、毒々しく傲慢であり、当時の人々に憎まれた。死んだ後、悪い蛇が尾を曲げて霊床に上がり来たり、祭壇の前で供物の酒を受け、去ってはまた来ることを百余日も繰り返した。時折、指を弾く音がした。
付録 章華
時に呉興郡の章華という者がいた。字は仲宗。家はもと農夫であったが、章華に至って独り学問を好み、士君子と交遊し、経史に広く通じ、文章をよくした。侯景の乱の時、嶺南に遊び、羅浮山の寺に住み、専心に学業に励んだ。欧陽頠が広州刺史となると、南海太守に任用した。欧陽頠の子の欧陽紇が敗れると、都に帰った。後主の時、太市令に任じられたが、好むところではなかったので、病気を理由に辞退した。禎明の初年、上書して極諫し、その大意は次のようであった。「陛下が即位されてより、今や五年になるが、先帝の艱難を思わず、天命の畏るべきを知らない。寵愛に溺れ、酒色に惑う。七廟を祀るにも出ず、妃嬪を拝するには殿舎に臨む。老臣宿将はこれを草莽に棄て、諂佞讒邪はこれを朝廷に昇らせる。今、国境は日々に狭まり、隋軍が境を圧している。陛下が改弦易張されなければ、臣は麋鹿が再び姑蘇台に遊ぶのを見ることになりましょう。」上書が奏上されると、後主は大いに怒り、即日に斬った。
顧野王
顧野王は字を希馮といい、呉郡呉県の人である。祖父の顧子喬は、梁の東中郎将武陵王府参軍事であった。父の顧烜は、信威将軍臨賀王記室をつとめ、兼ねて本郡の五官掾となり、儒術をもって知られた。
野王は幼くして学問を好み、七歳で五経を読み、大旨をほぼ理解した。九歳で文章を綴ることができた。かつて日賦を作ると、領軍将軍朱異がこれを見て奇異の才と認めた。十二歳の時、父に従って建安に赴き、建安地記二篇を撰した。成長して経史を遍く読み、精しく記憶し暗誦し、天文地理、蓍亀占候、虫篆奇字に通じないものはなかった。臨賀王府記室となった。宣城王が揚州刺史となると、野王と琅邪の王褒とがともに賓客となり、王は大いにその才能を愛した。野王はまた絵画をよくし、王は東府に斎舎を建て、野王に古の賢人を描かせ、王褒に賛を書かせた。時に人はこれを二絶と称えた。
侯景の乱の時、野王は父の喪に服し、本郡に帰った。そこで郷党を召募し、義軍に従って都を救援した。野王は体質がもとより清らかで痩せており、身長わずか六尺、また喪に服して過度に憔悴し、ほとんど哀しみに耐えられなかった。しかし戈を杖し甲を着け、君臣の義、逆順の理を述べ、言葉を抗し顔色を正すと、見る者は誰しもその雄々しさを感じた。城が陥落すると、会稽に逃れて帰った。
陳の天嘉年間、詔により撰史学士に補せられた。太建年間、太子率更令となり、まもなく大著作を領して国史を掌り、梁史の事を知った。後に黄門侍郎、光禄卿となり、五礼の事を知った。死去すると、秘書監、右衛将軍を追贈された。
野王は若い頃、篤学で天性の誠実さをもって知られ、物事に接しても過言したり顔色を変えたりすることはなかった。その容貌を見ると、口が利けないかのようであったが、その精力を励まして行うことは、人の及ぶところではなかった。撰した『玉篇』三十巻、『輿地志』三十巻、『符瑞図』十巻、『顧氏譜伝』十巻、『分野枢要』一巻、『続洞冥記』一巻、『玄象表』一巻は、ともに当時に流行した。また『通史要略』一百巻、『国史紀伝』二百巻を撰したが、完成せずに死去した。文集二十巻がある。
付録 蕭済
時に蕭済という者がいた。字は孝康。東海郡蘭陵県の人である。学問を好み、経史に広く通じた。梁に仕えて太子舎人となった。侯景平定の功に預かり、松陽県侯に封ぜられた。陳の文帝が会稽太守であった時、蕭済を宣毅府長史とした。即位すると、侍中を授けた。太建年間、五兵尚書、度支尚書、祠部尚書の三尚書の官を歴任し、死去した。
姚察
姚察は字を伯審といい、吳興武康の人で、吳の太常卿姚信の九世孫である。父の僧垣は、梁の太醫正であった。元帝が荊州におられた時、 晉 安王の諮議參軍となった。後に周に入り、地位と待遇は甚だ重かった。
姚察は幼い時から至誠の性を持ち、六歳で書を萬餘言誦した。遊び戯れることを好まず、學業に勵み精進し、十二歳で文を綴ることができた。僧垣は醫術に精通し、梁の代に名を知られ、二宮から得た供給と賜物は、すべて姚察兄弟に回して與え、遊學の資とさせた。姚察はそれらを併せて圖書を蓄え聚めたので、これによって見聞は日に日に博くなった。十三歳の時、梁の簡文帝が東宮におられた折、盛んに文義を修められ、直ちに宣猷堂に引いて講義を聽き論難させ、儒者の稱するところとなった。簡文帝が位を嗣がれると、特に禮遇して接せられた。南海王國左常侍として起家し、司文侍郎を兼ねた。後に尚書駕部郎を兼ねた。梁室の喪亂に遇い、二親に隨って鄉里に還った。亂離の間においても、篤く學び廢さなかった。元帝が荊州で即位されると、姚察に原鄉令を授けた。後に佐著作となり、史を撰した。
陳の永定年間、吏部尚書徐陵が大著作を領すると、再び史佐に引いた。太建初年、宣明殿學士を補した。まもなく通直 散騎常侍 となり、周に報聘した。江左の耆舊で先に関右にいた者は、皆相傾慕した。沛國の劉臻が密かに公館を訪れて漢書の疑事十餘條を問うと、併せてこれを剖析し、皆經據があった。劉臻は親しい者に謂って曰く、「名の下に定めて虚士無し」と。西聘道里記を著した。使より還り、東宮學士を補し、尚書祠部侍郎に遷った。
舊く魏の王肅が奏上して天地を祀るに、宮懸の樂を設け、八佾の舞を設けたが、爾後因循して革めなかった。梁の武帝に至り、人に事うる禮は縟にして、神に事うる禮は簡なるを以て、古に宮懸の文無しと為した。陳の初めはこれを受け用い、損益する者無かった。宣帝は設備樂を設けんと欲し、有司に付して議を立てさせ、梁武帝を非と為した。時に碩學名儒、朝端に在位する者は、皆旨に希って注同した。姚察は乃ち博く經籍を引き、獨り群議に違い、梁の樂を據って是と為した。當時驚駭し、慚服せざる者無かった。僕射徐陵は因って改めて姚察の議に同じた。その時に順わず俗に隨わざるは、皆この類である。
後に仁威淮南王、平南建安王の二府の諮議參軍を歴任した。内憂に遭い職を去った。俄かに起きて戎昭將軍と為り、梁史の撰を知った。後主が立つと、東宮通事舍人を兼ね、史の撰を知った。至德元年、中書侍郎を除かれ、太子僕に轉じ、余は併せて元の如くであった。
初め、梁室が淪沒した時、姚察の父僧垣は長安に入り、姚察は蔬食布衣、音樂を聽かず、ここに至って凶問が聘使に因って江南に到った。時に姚察の母韋氏の喪制が丁度除かれたところで、後主は姚察の羸瘠を以て、毀頓を加うるを慮り、乃ち密かに中書舍人司馬申を遣わして宅に就き哀を發せしめ、仍って申に敕して專ら譬抑を加えしめた。まもなく忠毅將軍を以て起きて東宮通事舍人を兼ねさせたが、姚察は頻りに譲って許されなかった。俄かに敕して著作郎事を知らしめた。服闋して、給事黃門侍郎を除かれ、著作を領した。姚察は既に累ねて憂戚に居り、齋素日久しく、因って氣疾を加えた。後主は嘗て別に召し見て、之が爲に動容し、長齋を停め、晚食に從わしむるを命じた。又詔して秘書監を授け、著作を領し、中書表集を奏撰せしめた。度支、吏部の二尚書を歴任した。
姚察は顯要に居ることを自らして、一も交通せず。嘗て私門生が厚く餉ることを敢えず、南布一端、花綀一匹を送ったことがある。姚察は謂って曰く、「吾が衣著する所は、止むるは麻布蒲綀なり、此の物は吾には用無し。既に相款接せんと欲すれば、幸いに爾を煩わす無かれ」と。此の人が遜って請うと、姚察は厲色して驅り出し、此れより敢えて饋遺する者無かった。
陳滅びて隋に入り、詔して秘書丞を授け、別敕して梁、陳の二史を成さしめた。又敕して朱華閣に長參せしめた。文帝は姚察の蔬菲を知り、別日に獨り內殿に召し入れ、果菜を賜い、朝臣を指して謂って曰く、「姚察の學行は當今無比なるを聞く、我が陳を平ぐるに唯だ此の一人を得たり」と。
開皇十三年、北絳郡公を襲封した。姚察は陳に在った時周に聘し、因って父僧垣と相見えることを得たが、別れの際、絕えて復た蘇った。ここに至って承襲するに及び、愈一層悲感し、見る者之が爲に歔欷せざる者無かった。後母杜氏の喪に遭い、職を解いた。服制の中に在って、白鳩が戶上に巢くった。
仁壽二年、詔して員外 散騎常侍 、 晉 王侍讀を除いた。煬帝即位すると、太子內舍人を授けた。衣冠を改易し、朝式を刪定するに及び、對問に預かり參した。大業二年、東都に終った。遺命して薄葬とし、松板の薄棺を以て、纔かに身を容るる可く、土を棺に周らすのみと。葬日の儀は、粗車に止めて即ち舊塋の北に送り厝す。靈を立てるを須いず、小床一つを置き、每日清水を設け、六齋日に齋食菜果を設け、家の有無に任せ、別に經營するを須いずと。
初め、姚察は一藏經を讀まんと欲し、併せて已に究竟し、將に終らんとするに、曾て痛惱無く、但だ西に向かって坐し正念し、云く、「一切空寂」と。其の後身體柔軟、顏色恒の如し。兩宮悼惜し、贈賵甚だ厚かった。
姚察は至孝にして、人倫鑒識有り、沖虛謙遜、以て長とする所を人に矜らず。志を著書に專らし、白首倦まず。著する所に漢書訓纂三十卷、說林十卷、西聘、玉璽、建康三鍾等の記各一卷、文集二十卷有り。撰する所の梁、陳史は、未だ功を畢えざるも、隋の開皇年間、文帝中書舍人虞世基を遣わして本を索め、且つ進めしむ。臨終に、子の思廉に戒めて續け撰ましむ。思廉は陳に在って衡陽王府法曹參軍、會稽王主簿と為った。
論
論じて曰く、沈炯の才思の美は、以て前良に踵を繼ぐに足る。然れども梁朝に仕え、年已に命を知る、主は文ならざるに非ず、而るに位裁りて邑宰たり。運の交喪に逢うに及び、戎馬に驅馳し、在る所稱美せられ、用捨信に時有り焉。虞荔弟兄は、才行兼ねて著しく、崎嶇喪亂、茲の貞一を保ち、併せて時主に貴ばる、豈に虚しく得んや。傅縡は聰警特達、才氣自ら負い、之を行えば平日、其れ猶お殆うき諸か;危邦に處するに、死する其れ宜なるかな。顧、姚は藝文に棲托し、清直を蹈履し、文質彬彬、各通賢の域を踐み、美しいかな。