南史

巻六十九 列傳第五十九

巻六十九 列傳第五十九

南史

巻六十九 列傳第五十九

沈炯

原文沈炯

沈炯は字あざなを初明といい、呉興郡武康県の人である。祖父の沈瑀は、梁の尋陽太守であった。父の沈續は、王府の記室参軍であった。

原文沈炯字初明,吳興武康人也。祖瑀,梁尋陽太守。父續,王府記室參軍。

沈炯は若くして才知に優れ、当時の人々に重んじられた。梁に仕えて尚書左戸侍郎・呉県令となった。侯景の乱の時、呉郡太守の袁君正が建鄴を救援するために出向き、沈炯に郡の監察を委ねた。台城が陥落すると、侯景の部将宋子仙が呉興を占拠し、沈炯を召し出して書記の任に当たらせようとしたが、沈炯は病気を理由に辞退した。子仙は怒り、彼を斬るよう命じた。沈炯が衣を解いて斬られようとした時、道端の桑の木に妨げられ、別の場所へ引きずられていったところ、誰かが救い出し、かろうじて死を免れた。子仙はその才能を惜しみ、結局彼を脅して書記を執らせた。子仙が敗れると、王僧辯はかねてよりその名を聞いており、軍中で彼を探し出し、捕らえた者に十万銭の報酬を与えた。これより以後、羽檄や軍書はすべて沈炯の手によるものとなった。簡文帝が殺害されると、四方の諸侯・州牧が上表して即位を勧めたが、僧辯は沈炯に表文を作らせたが、当時これに及ぶ者はなかった。陳の武帝が南下し、僧辯と白茅湾で会して壇に登り盟約を結んだ時、その文章は沈炯が作った。侯景が東へ奔った時、呉郡に至り、沈炯の妻虞氏と子の行簡を捕らえてともに殺害した。沈炯の弟は母を連れて逃れ、難を免れた。侯景が平定されると、梁の元帝はその妻子が幼くして殺戮されたことを哀れみ、特に原郷侯に封じた。僧辯が司徒となると、沈炯を従事中郎とした。梁の元帝は彼を召し出して給事黄門侍郎とし、尚書左丞を兼ねさせた。

原文炯少有俊才,為當時所重。仕梁為尚書左戶侍郎、吳令。侯景之難,吳郡太守袁君正入援建鄴,以炯監郡。台城陷,景將宋子仙據吳興,使召炯,方委以書記,炯辭以疾,子仙怒,命斬之。炯解衣將就戮,礙于路間桑樹,乃更牽往他所,或救之,僅而獲免。子仙愛其才,終逼之令掌書記。及子仙敗,王僧辯素聞其名,軍中購得之,酬所獲者錢十萬,自是羽檄軍書,皆出於炯。及簡文遇害,四方嶽牧上表勸進,僧辯令炯製錶,當時莫有逮者。陳武帝南下,與僧辯會白茅灣,登壇設盟,炯為其文。及景東奔,至吳郡,獲炯妻虞氏及子行簡,並殺之,炯弟攜其母逃免。侯景平,梁元帝湣其妻子嬰戮,特封原鄉侯。僧辯為司徒,以炯為從事中郎。梁元帝徵為給事黃門侍郎,領尚書左丞。

魏が荊州を占領すると、捕虜となったが、非常に礼遇され、儀同三司を授けられた。母が東方にいるため、常に帰国を思い、文才ゆえに留め置かれることを恐れ、門を閉ざして掃除もせず、人と交際しなかった。時に文章を作っても、すぐに棄てて毀ち、世に広まることを許さなかった。

原文魏克荊州,被虜,甚見禮遇,授儀同三司。以母在東,恒思歸國,恐以文才被留,閉門卻掃,無所交接。時有文章,隨即棄毀,不令流布。

かつて一人で漢の武帝の通天台を通りかかり、表文を奏上して、己の故郷を思う気持ちを述べた。曰く、「臣は聞く、橋山は掩われたといえども、鼎湖の竈は祠ることができ、魯は遂に荒れ果てたといえども、大庭の跡は泯びないと。伏して惟うに、陛下は徳を猗蘭に降し、霊を豊穀に纂ぎ、漢の道既に登り、神仙望むべし。之罘を海浦に射て、日観に礼し功を称え、中流を汾河に横たえ、柏梁を指して高宴を張る、何ぞ其れ甚だ楽しまざるや、豈に然らざらんや。既にして運上仙に属し、道晏駕に窮す。甲帳珠簾一朝にして零落し、茂陵の玉碗遂に人間に出づ。陵雲の故基は原田とともに膴膴たり、別風の余跡は陵阜に帯びて芒芒たり。羈旅の縲臣、涙を落とさざらんや。昔、承明に見厭われて厳助東に帰り、駟馬乗るべくして長卿西に反る。恭しく故実を聞き、窃かに愚心あり。黍稷馨しからずと雖も、敢えて徼福を望む。但だ雀台の弔いは空しく魏君を愴ませ、雍丘の祠は未だ夏后を光らさず。煙霞を瞻仰し、伏して増すに淒恋を以てす」。奏上し終えると、その夜、宮禁の場所の夢を見、兵衛が非常に厳重であった。沈炯はすぐに事情を陳訴した。誰かが言うのを聞いた、「甚だ惜しむことなく卿を放ち還す、いつ頃至れるか」。数日後、王克らとともに東帰を許された。司農卿、御史中丞を歴任した。

原文嘗獨行經漢武通天台,為表奏之,陳己思鄉之意。曰:「臣聞橋山雖掩,鼎湖之灶可祠;有魯遂荒,大庭之跡無泯。伏惟陛下降德猗蘭,纂靈豐穀,漢道既登,神仙可望。射之罘於海浦,禮日觀而稱功,橫中流於汾河,指柏梁而高宴,何其甚樂,豈不然歟!既而運屬上仙,道窮晏駕,甲帳珠簾,一朝零落,茂陵玉碗,遂出人間。陵雲故基,與原田而膴膴,別風餘跡,帶陵阜而芒芒,羈旅縲臣,豈不落淚。昔承明見厭,嚴助東歸,駟馬可乘,長卿西反,恭聞故實,竊有愚心。黍稷非馨,敢望徼福。但雀台之吊,空愴魏君,雍丘之祠,未光夏後,瞻仰煙霞,伏增淒戀。」奏訖,其夜夢有宮禁之所,兵衛甚嚴,炯便以情事陳訴。聞有人言:「甚不惜放卿還,幾時可至。」少日,便與王克等並獲東歸。曆司農卿,御史中丞。

陳の武帝が禅を受けると、通直散騎常侍を加えられた。表を奉って帰郷し母を養うことを求めたが、詔は許さなかった。文帝が位を嗣ぐと、また表を奉って去ることを求めた。詔は答えて曰く、「当に所由に勅し、尊累を迎えさせ、卿をして公私に廃ることなからしむべし」。

原文陳武帝受禪,加通直散騎常侍。表求歸養,詔不許。文帝嗣位,又表求去,詔答曰:「當敕所由,相迎尊累,使卿公私無廢也。」

初め、武帝はかつて沈炯は王佐に居るにふさわしいと称え、軍国の大政は多く謀議ぼうぎに参与させた。文帝もまたその才能を重んじ、寵愛して貴ばせようとした。時に王琳が大雷に侵入し寇し、留異が東境を擁拠した。帝は沈炯にこれによって功を立てさせようとし、中丞の官を解き、明威将軍を加え、郷里に帰らせて徒衆を収めさせた。病気のため呉中で卒した。侍中を追贈され、諡して恭子といった。文集二十巻が世に行われた。

原文初,武帝嘗稱炯宜居王佐,軍國大政,多預謀謨。文帝又重其才,欲寵貴之。會王琳入寇大雷,留異擁據東境,帝欲使炯因是立功,乃解中丞,加明威將軍,遣還鄉里,收徒眾。以疾卒于吳中,贈侍中,諡恭子。有集二十卷行於世。

虞荔

原文虞荔

虞荔は字を山披といい、会稽郡余姚県の人である。祖父の虞権は、梁の廷尉卿・永嘉太守であった。父の虞檢は、平北将軍始興王諮議参軍であった。

原文虞荔字山披,會稽余姚人也。祖權,梁廷尉卿、永嘉太守。父檢,平北始興王諮議參軍。

虞荔は幼くして聡明で、志操があった。九歳の時、従伯の虞闡に従って太常の陸倕を訪ねた。倕が五経について十のことを問うと、虞荔は答えに遺漏がなく、倕は大いに異とした。またかつて征士の何胤を訪ねた時、太守の衡陽王もまた彼を訪ねて来た。胤が王に言上すると、王は虞荔に会おうとしたが、虞荔は辞して言った、「板刺(名刺)を持たず、拝謁する容れ物がありません」。王は虞荔に高尚の志があると知り、大いに欽重し、郡に戻るとすぐに主簿に辟召したが、虞荔はまた年少を理由に辞して就かなかった。成長すると、風儀が美しく、広く典籍を博覧し、文章をよくした。梁に仕えて西中郎法曹外兵参軍となり、丹陽詔獄正を兼ねた。

原文荔幼聰敏,有志操。年九歲,隨從伯闡候太常陸倕,倕問五經十事,荔對無遺失,倕甚異之。又嘗詣征士何胤,時太守衡陽王亦造之,胤言于王,王欲見荔,荔辭曰:「未有板刺,無容拜謁。」王以荔有高尚之志,雅相欽重,還郡,即辟為主簿,荔又辭以年小不就。及長,美風儀,博覽墳籍,善屬文。仕梁為西中郎法曹外兵參軍,兼丹陽詔獄正。

梁の武帝が城西に士林館を設置すると、虞荔は碑文を作って奏上した。帝は命じて館にこれを刻ませ、虞荔を士林学士に任じた。まもなく司文郎となり、通直散騎侍郎に遷り、中書舎人を兼ねた。当時、左右の任にある者は多く権力の中枢に参与し、内外の機務は互いに兼掌していたが、ただ虞荔と顧協のみが淡泊として静かに退き、西省に居て、ただ文史によって知られた。まもなく大著作を領した。

原文梁武帝於城西置士林館,荔乃制碑奏上,帝命勒之於館,仍用荔為士林學士。尋為司文郎,遷通直散騎侍郎,兼中書舍人。時左右之任,多參權軸,內外機務,互有帶掌,唯荔與顧協泊然靜退,居於西省,但以文史見知。尋領大著作。

侯景の乱の時、虞荔は親族を率いて台城に入り、鎮西諮議参軍に任じられ、舎人はもとのままとした。台城が陥落すると、郷里に逃れて帰った。侯景が平定されると、元帝は彼を召し出して中書侍郎とした。貞陽侯が僭位すると、揚州別駕を授けたが、いずれも就かなかった。

原文及侯景之亂,荔率親屬入台,除鎮西諮議參軍,舍人如故。台城陷,逃歸鄉里。侯景平,元帝徵為中書侍郎。貞陽侯僭位,授揚州別駕,並不就。

張彪が会稽を占拠した時、虞荔はそこにいた。文帝が張彪を平定すると、武帝と文帝はともに手紙を送って彼を招いた。切迫して已むを得ず、命に応じて都に至ったが、武帝が崩御し、文帝が位を嗣いだ。太子中庶子に任じられ、引き続き太子に侍読した。まもなく大著作を領した。

原文張彪之據會稽,荔時在焉。及文帝平彪,武帝及文帝並書招之,迫切不得已,乃應命至都,而武帝崩,文帝嗣位,除太子中庶子,仍侍太子讀。尋領大著作。

初め、虞荔の母は荔に従って台城に入り、台城内で卒去したが、間もなく城は陥落し、情実と礼儀を尽くすことができなかった。このため、荔は生涯、菜食と布衣を通し、音楽を聴かなかった。任遇は重厚であったが、居住は倹素で、淡泊として営みを求めなかった。文帝は深く彼を器とし、常に左右に引き留め、朝夕顧問した。荔の性格は沈密で、言論は少なく、凡そ献替することは、その際を見る者無かった。

原文初,荔母隨荔入台,卒於台內,尋而城陷,情禮不申,由是終身蔬食布衣,不聽音樂。雖任遇隆重,而居止儉素,淡然無營。文帝深器之,常引在左右,朝夕顧訪。荔性沈密,少言論,凡所獻替,莫有見其際者。

第二の弟の寄は、閩中に寓居し、陳宝応に依っていた。荔は言う毎に涙を流した。文帝は哀れんで言うには、「我にも遠方に弟がいる。この情は甚だ切なるもので、他人がどうして知ろうか」と。そこで宝応に命じて寄を求めさせたが、宝応は遂に遣わさなかった。荔はこれによって感疾し、帝は数度臨視しようとし、家口を省中に入れるよう命じた。荔は禁中は私居の所ではないとして、城外に留まることを乞うたが、帝は許さず、蘭台に住まわせた。乗輿は再三臨問し、手勅と中使が道に相望んだ。また、菜食が積もって久しく、羸疾の堪える所ではないとして、勅して言うには、「卿は年事既に多く、気力稍々減じている。まさに委任しようとしているところ、良く壮健であるべきだ。今、卿に魚肉を与える。固より執る所に従ってはならない」と。荔は終に従わなかった。卒去し、侍中を贈られ、諡して徳子といった。喪柩が郷里に還る時、上は自ら出て臨送し、当時これを栄とした。子の世基・世南は、共に少時より知名であった。

原文第二弟寄,寓於閩中,依陳寶應,荔每言之輒流涕。文帝哀而謂曰:「我亦有弟在遠,此情甚切,他人豈知。」乃敕寶應求寄,寶應終不遣。荔因以感疾,帝欲數往臨視,令將家口入省。荔以禁中非私居之所,乞停城外,帝不許,乃令住蘭台。乘輿再三臨問,手敕中使相望於道。又以蔬食積久,非羸疾所堪,乃敕曰:「卿年事已多,氣力稍減,方欲仗委,良須克壯。今給卿魚肉,不得固從所執。」荔終不從。卒,贈侍中,諡曰德子。及喪柩還鄉里,上親出臨送,當時榮之。子世基、世南,並少知名。

虞荔の弟、寄

原文荔弟寄

寄は字を次安といい、少時より聡敏であった。数歳の時、客がその父を訪ね、門で寄に遇い、嘲って言うには、「郎子は虞姓ならば、必ず智無からん」と。寄は声に応じて言うには、「文字を辨ぜず、豈に愚ならざらんや」と。客は大いに慚じた。入ってその父に言うには、「この子は常人に非ず、文挙(孔融)の対も、これを過ぎるものではない」と。

原文寄字次安,少聰敏。年數歲,客有造其父,遇寄於門,嘲曰:「郎子姓虞,必當無智。」寄應聲曰:「文字不辨,豈得非愚!」客大慚。入謂其父:「此子非常人,文舉之對,不是過也。」

成長すると、学を好み、文を属することを善くした。性格は沖静で、棲遁の志があった。弱冠で秀才に挙げられ、対策は高第であった。起家して梁の宣城王国左常侍となった。大同年中、嘗て驟雨があり、殿前に往々にして雑色の宝珠があった。梁武帝がこれを見て、甚だ喜色があった。寄はこれによって瑞雨頌を上った。帝は寄の兄の荔に言うには、「この頌は典裁清抜で、卿の士龍(陸雲)である。どう擢用しようか」と。寄はこれを聞いて歎じて言うには、「盛徳の形容を美しみ、以て撃壤の情を申すのみ。吾豈に名を買い仕を求むる者ならんや」と。乃ち門を閉じて疾を称し、唯だ書籍を以て自ら娯しんだ。岳陽王蕭詧が会稽太守となると、寄は中記室となり、郡の五官掾を領した。在職中は煩苛を簡略にし、務めて大體を存し、曹局の内は終日寂然であった。

原文及長,好學,善屬文。性沖靜,有棲遁志。弱冠舉秀才,對策高第。起家梁宣城王國左常侍。大同中,嘗驟雨,殿前往往有雜色寶珠,梁武觀之,甚有喜色,寄因上瑞雨頌。帝謂寄兄荔曰:「此頌典裁清拔,卿之士龍也,將如何擢用?」寄聞之歎曰:「美盛德之形容,以申擊壤之情耳,吾豈買名求仕者乎?」乃閉門稱疾,唯以書籍自娛。岳陽王察為會稽太守,寄為中記室,領郡五官掾。在職簡略煩苛,務存大體,曹局之內,終日寂然。

侯景の乱に、寄は兄の荔に従って台城に入ったが、城が陥落すると、遁れて郷里に還った。張彪が臨川に赴く時、寄を強いて俱に行かせた。寄は彪の将の鄭瑋と同舟して載ったが、瑋は嘗て彪の意に忤ったことがあり、乃ち寄を劫いて晉安に奔った。時に陳宝応が閩中を拠有し、寄を得て甚だ喜んだ。陳武帝が侯景を平らげると、寄は自ら結ぶよう勧め、宝応はこれに従い、乃ち使を遣わして帰誠した。承聖元年、中書侍郎に除されたが、宝応はその才を愛し、道が阻むことを托して遣わさなかった。毎に寄を引いて僚属とし、文翰を委ねようとしたが、寄は固く辞して免れた。

原文侯景之亂,寄隨兄荔入台,及城陷,遁還鄉里。張彪往臨川,強寄俱行。寄與彪將鄭瑋同舟而載,瑋嘗忤彪意,乃劫寄奔晉安。時陳寶應據有閩中,得寄甚喜。陳武帝平侯景,寄勸令自結,寶應從之,乃遣使歸誠。承聖元年,除中書侍郎,寶應愛其才,托以道阻不遣。每欲引寄為僚屬,委以文翰,寄固辭獲免。

宝応が留異と婚姻を結び、密かに逆謀を有するに及んで、寄は微かにその意を知り、言説の際、毎に逆順の理を陳べ、微かに諷諫した。宝応は輒ち他事を引いて說き、以てこれを拒いだ。又嘗て左右に漢書を読ませ、臥してこれを聴き、蒯通が韓信に說いて曰く「相君の背は、貴ぶべからずして言う可し」と至ると、宝応は蹶然として起ちて曰く「智士と謂う可し」と。寄は正色して曰く「酈生を覆し韓信を驕らすは、未だ智と称すに足らず。豈に班彪の王命、帰する所を識るに若かんや」と。寄は宝応が諫め難いことを知り、禍の己に及ぶを慮り、乃ち居士の服を為して以てこれを拒絶した。常に東山寺に居り、偽りに脚疾を称して、復た起たなかった。宝応は仮託と思い、人を遣わして寄の臥す屋を焼かせたが、寄は安らかに臥して動かなかった。親近が寄を扶け出そうとすると、寄は曰く「吾が命は懸かる所あり。避けて安くか往かん」と。火を放った者は、旋って自らこれを救った。宝応はここに至って初めて彼を信じた。

原文及寶應結昏留異,潛有逆謀,寄微知其意,言說之際,每陳逆順之理,微以諷諫。寶應輒引說他事以拒之。又嘗令左右讀漢書,臥而聽之,至蒯通說韓信曰:「相君之背,貴不可言」,寶應蹶然起曰:「可謂智士。」寄正色曰:「覆酈驕韓,未足稱智,豈若班彪王命識所歸乎?」寄知寶應不可諫,慮禍及己,乃為居士服以拒絕之。常居東山寺,偽稱腳疾,不復起。寶應以為假託,遣人燒寄所臥屋,寄安臥不動。親近將扶寄出,寄曰:「吾命有所懸,避欲安往?」所縱火者,旋自救之。寶應自此方信之。

留異が兵を称するに及んで、宝応がその部曲ぶきょくを資助すると、寄は乃ち書を因って極諫して曰く、

原文及留異稱兵,寶應資其部曲,寄乃因書極諫曰:

東山居士虞寄、明將軍使君節下に致書す。寄は流離艱故し、飄寓して貴郷に至る。將軍は上賓の禮を以て待ち、國士の眷を以て申す。意気の感ずる所、何れの日か之を忘れん。而して寄は沈痼彌留し、愒陰将に盡きんとす。常に卒に溝壑に填まり、涓塵も報ゆる莫からんことを恐る。是を以て敢えて腹心を布き、丹款を冒して陳ぶ。願わくは將軍、須臾の慮を留め、少しく之を思察せられよ。則ち冥目の日、懷う所畢らん。

原文東山居士虞寄致書于明將軍使君節下:寄流離艱故,飄寓貴鄉,將軍待以上賓之禮,申以國士之眷,意氣所感,何日忘之。而寄沈痼彌留,愒陰將盡,常恐卒填溝壑,涓塵莫報,是以敢布腹心,冒陳丹款,願將軍留須臾之慮,少思察之,則冥目之日,所懷畢矣。

夫れ安危の兆、禍福の機は、獨り天時に非ず、亦た人事に由る。之を毫釐失えば、千里に差す。是を以て明智の士は、重位に據りて傾かず、大節を執りて失わず。豈に浮辭に惑わんや。將軍は文武兼資し、英威俗を動かす。往きて多難に因り、劍を仗して師を興し、旗を援げて衆を誓い、威を抗して千里に及ぶ。豈に四郊多壘、共に王室を謀り、時を匡し主に報い、國を甯んじ人を庇わんとするに非ずや。此れ五尺の童子も、皆戟を荷いて將軍に隨わんと願う所以なり。高祖武皇帝、草昧に基を肇き、初めて艱難を濟わしむ。時に天下沸騰し、人定主無く、豺狼道に當たり、鯨鯢橫撃し、海內業業として、從う所を知らず。將軍は微の鑒を運動し、從衡の辯を折り、名を策し質を委ね、自ら宗盟に托す。此れ將軍の妙算遠圖、衷誠より發する所なり。主上業を繼ぎ、欽明睿聖にして、賢を選び能與え、群臣輯睦し、將軍に維城の重を結び、將軍に裂土の封を崇ぶ。豈に宏謨廟略、赤心を物に推すに非ずや。屢明詔を申し、款篤殷勤たり。君臣の分定まり、骨肉の恩深し。意わざらんや將軍、邪說に惑い、翻然として異計す。寄の疾首痛心し、泣き盡くして血に繼ぐ所以、萬全の策、竊に將軍の爲に之を惜しむ。寄は疾侵み耄及び、言采るに足らざるも、千慮一得、請う愚算を陳べん。願わくは將軍、少しく雷霆を戢め、其の晷刻を賒かにし、狂瞽の說を盡くさしめ、肝膽の誠を披かしめよ。則ち死するの日も、猶ほ生くるの年ならん。

原文夫安危之兆,禍福之機,匪獨天時,亦由人事。失之毫釐,差以千里。是以明智之士,據重位而不傾,執大節而不失,豈惑於浮辭哉。將軍文武兼資,英威動俗,往因多難,仗劍興師,援旗誓眾,抗威千里。豈不以四郊多壘,共謀王室,匡時報主,甯國庇人乎。此所以五尺童子,皆願荷戟而隨將軍者也。及高祖武皇帝肇基草昧,初濟艱難,于時天下沸騰,人無定主,豺狼當道,鯨鯢橫擊,海內業業,未知所從。將軍運動微之鑒,折從衡之辯,策名委質,自托宗盟,此將軍妙算遠圖,發於衷誠者也。及主上繼業,欽明睿聖,選賢與能,群臣輯睦,結將軍以維城之重,崇將軍以裂土之封,豈非宏謨廟略,推赤心於物者也。屢申明詔,款篤殷勤,君臣之分定矣,骨肉之恩深矣。不意將軍惑于邪說,翻然異計,寄所以疾首痛心,泣盡繼之以血,萬全之策,竊為將軍惜之。寄雖疾侵耄及,言無足采,千慮一得,請陳愚算。願將軍少戢雷霆,賒其晷刻,使得盡狂瞽之說,披肝膽之誠,則雖死之日,猶生之年也。

天が梁の徳を厭い、多難が重なり、天下は分崩し、英雄が互いに起こり、数え切れぬほどで、人々は皆自らが天下を得たと思った。しかし、凶暴を除き乱を断ち、溺れる者を救い危うきを扶け、四海が推戴し、三霊が命を眷顧して、揖譲して南面の位に居たのは、陳氏である。これはまさに歴数が定まっており、天が授けたものであり、璧に当たって運に応じたことは、その事が甚だ明らかである、第一の理由である。主上は基を継ぎ、明徳は遠くに及び、天綱は再び張られ、地維は重ねて結ばれた。王琳の強さ、侯瑱の力をもってすれば、進んでは中原を揺るがし天下を争うに足り、退いては江外に屈強に雄張して偏隅を保つに足りた。しかし、ある時は一旅の師を命じ、ある時は一士の説を借りて、琳は即座に瓦解氷消し、異域に身を投じ、瑱は則ち厥角稽顙して、命を闕庭に委ねた。これもまた天がその威を借りて、その患いを除いたのであり、その事が甚だ明らかである、第二の理由である。今、将軍は藩戚の重みをもって、東南の衆を擁し、忠を尽くして上に奉じ、力を合わせて王事に勤めている。これでは竇融よりも勲功高く、呉芮よりも寵遇過ぎ、珪を析き野を判し、南面して孤を称するに至らないであろうか、その事が甚だ明らかである、第三の理由である。かつ聖朝は瑕を棄て過を忘れ、寛厚に人を待ち、過ちを改め自ら新たにすれば、皆叙擢を加えられる。余孝頃、潘純陀、李孝欽、欧陽頠などの者に至っては、悉く心腹として委ね、爪牙として任じ、胸中は豁然として、少しの芥蒂もない。まして将軍の罪は張繡の如くではなく、畢諶の罪とも異なる。危亡を慮うるに当たって何を憂い、富貴を失うに当たって何を失うというのか。これもまたその事が甚だ明らかである、第四の理由である。今、周と斉は隣り合って睦まじく、境外に憂い無く、兵を合わせて一向に進むのは、朝に非ずして夕べであろう。劉邦と項羽が競い逐う機会もなく、楚と趙が連合する事態もない。ゆえに雍容として高く拱し、坐して西伯を論ずることができるのであり、その事が甚だ明らかである、第五の理由である。かつ留将軍は狼のように一隅を顧み、幾度も敗北を重ね、名声と実力は損なわれ、胆気は衰え沮喪している。高瓖、向文政、留瑜、黄子玉、この数名の者は将軍も知る通り、首鼠両端で、ただ利を見るのみであり、その他の将帥もまた推して知るべしである。誰が堅甲を被り鋭鋒えいほうを執り、長駆して深く入り、馬を繋ぎ輪を埋め、命を顧みず奮い立ち、士卒に先んじることができようか。これもまたその事が甚だ明らかである、第六の理由である。かつ将軍の強さは、侯景に比べてどうか。将軍の衆は、王琳に比べてどうか。武皇帝は前に侯景を滅ぼし、今上は後に王琳を摧いた。これは天時の致すところであって、再び人力によるものではない。かつ兵革の後、人は皆乱を厭い、誰が墳墓を棄て妻子を捐て、万死を顧みざる計を出し、白刃の間に将軍に従おうというのか。これもまたその事が甚だ明らかである、第七の理由である。歴史上の前古を観察し、往事を鑑みれば、子陽と季孟は相次いで傾覆し、余善と右渠は危亡が続いて及んだ。天命は畏るべく、山川は恃み難い。まして将軍が数郡の地をもって天下の兵に当たり、諸侯の資をもって天子の命に抗おうとする。強弱と逆順を比べれば、同等と言えようか。これもまたその事が甚だ明らかである、第八の理由である。かつ我が族類に非ざれば、その心必ず異なり、その親を愛さなければ、どうして他に及ぼせようか。留将軍自身は国爵に縻され、子は王姫を娶っているのに、なお天属を棄てて顧みず、明君に背いて孤立している。危急の日に、どうして憂いを共にし患いを分かち合い、将軍に背かないことがあろうか。師が老いて力屈し、誅を懼れ賞に利する時には、必ずや韓と智の晋陽の謀、張と陳の井陘の事が起こるであろう。これもまたその事が甚だ明らかである、第九の理由である。かつ北軍は万里を遠征して戦い、その鋒は当たるべからず。将軍は自らの地で戦い、人は多く後顧の憂いがある。梁安は背向を心とし、修忤は匹夫の力に過ぎず、衆寡は敵せず、将帥は匹敵せず、師は名無きを以て出で、事は機無きを以て動く。これをもって兵を称するは、その利を知らざるなり。漢朝の呉楚、晋室の穎顒を以てしても、連城数十、長戟百万、本を抜き源を塞ぎ、自ら家国を図ったが、成功した者があったか。これもまたその事が甚だ明らかである、第十の理由である。

原文自天厭梁德,多難薦臻,寰宇分崩,英雄互起,不可勝紀,人人自以為得之。然夷凶翦亂,拯溺扶危,四海樂推,三靈眷命,揖讓而居南面者,陳氏也。豈非歷數有在,惟天所授,當璧應運,其事甚明,一也。主上承基,明德遠被,天綱再張,地維重紐。夫以王琳之強,侯瑱之力,進足以搖盪中原,爭衡天下,退足以屈強江外,雄張偏隅。然或命一旅之師,或資一士之說,琳即瓦解冰泮,投身異域,瑱則厥角稽顙,委命闕庭。斯又天假之威,而除其患,其事甚明,二也。今將軍以藩戚之重,擁東南之眾,盡忠奉上,戮力勤王,豈不勳高竇融,寵過吳芮,析珪判野,南面稱孤,其事甚明,三也。且聖朝棄瑕忘過,寬厚待人,改過自新,咸加敘擢。至如余孝頃、潘純陀、李孝欽、歐陽頠等,悉委以心腹,任以爪牙,胸中豁然,曾無纖芥。況將軍釁非張繡,罪異畢諶,當何慮于危亡,何失于富貴?此又其事甚明,四也。方今周、齊鄰睦,境外無虞,並兵一向,匪朝伊夕。非有劉、項競逐之機,楚、趙連從之事,可得雍容高拱,坐論西伯,其事甚明,五也。且留將軍狼顧一隅,亟經摧衄,聲實虧喪,膽氣衰沮。高瓖、向文政、留瑜、黃子玉此數人者,將軍所知,首鼠兩端,唯利是視,其餘將帥亦可見矣。孰能被堅執銳,長驅深入,系馬埋輪,奮不顧命,以先士卒者乎?此又其事甚明,六也。且將軍之強,孰如侯景?將軍之眾,孰如王琳?武皇滅侯景於前,今上摧王琳於後,此乃天時,非復人力。且兵革已後,人皆厭亂,其孰能棄墳墓,捐妻子,出萬死不顧之計,從將軍于白刃之間乎?此又其事甚明,七也。曆觀前古,鑒之往事,子陽、季孟傾覆相尋,餘善、右渠危亡繼及,天命可畏,山川難恃。況將軍欲以數郡之地,當天下之兵,以諸侯之資,拒天子之命,強弱逆順,可得侔乎?此又其事甚明,八也。且非我族類,其心必異,不愛其親,豈能及物?留將軍身縻國爵,子尚王姬,猶且棄天屬而弗顧,背明君而孤立,危急之日,豈能同憂共患,不背將軍者乎?至於師老力屈,懼誅利賞,必有韓、智晉陽之謀,張、陳井陘之事。此又其事甚明,九也。且北軍萬里遠鬥,鋒不可當,將軍自戰其地,人多顧後,梁安背向為心,修忤匹夫之力,眾寡不敵,將帥不侔,師以無名而出,事以無機而動,以此稱兵,未知其利。夫以漢朝吳、楚,晉室穎、顒,連城數十,長戟百萬,拔本塞源,自圖家國,其有成功者乎?此又其事甚明,十也。

将軍のために計るに、遠からずして復するに如くはなく、留氏との親戚関係を絶ち、秦郎、快郎を随えて人質に遣わし、甲を解き兵を偃げ、一に詔旨に遵うべきである。かつ朝廷は鉄券の要を許し、白馬の盟を申し、朕は食言せず、宗社に誓う。寄が聞くところでは、明者は未だ形ならざるを鑑とし、智者は再び計らず、これが成敗の効験である。将軍は疑うなかれ、吉凶の機は、間髪を容れず。今、藩維は尚少なく、皇子は幼沖、凡そ宗枝に預かる者は、皆寵樹を蒙っている。まして将軍の地、将軍の才、将軍の名、将軍の勢をもって、よく藩服を修め、北面して臣と称すれば、どうして劉澤と同年にしてその功業を語ることがあろうか。身は山河と等しく安らぎ、名は金石と相俟って朽ちるであろう。願わくば三思を加え、これを慮るに忽せざらんことを。

原文為將軍計者,莫若不遠而復,絕親留氏,秦郎、快郎,隨遣入質,釋甲偃兵,一遵詔旨。且朝廷許以鐵券之要,申以白馬之盟,朕不食言,誓之宗社。寄聞明者鑒未形,智者不再計,此成敗之效,將軍勿疑,吉凶之幾,間不容髮。方今蕃維尚少,皇子幼沖,凡預宗枝,皆蒙寵樹。況以將軍之地,將軍之才,將軍之名,將軍之勢,而能克修蕃服,北面稱臣,甯與劉澤同年而語其功業哉?豈不身與山河等安,名與金石相弊?願加三思,慮之無忽。

寄は気力綿微にして、余陰幾ばくも無く、恩を感じ徳を懐いて、狂言を覚えず。鈇鉞の誅も、薺の如く甘んずる。宝応は書を覧て大怒した。ある者が宝応に言うには、「虞公は病篤く、言多く錯謬す」と。宝応の意はやや解けた。また寄が人望あることを以て、且つこれを容れた。宝応が敗走し、夜に蒲田に至った時、顧みてその子の扞秦に言うには、「早く虞公の計に従わば、今日に至らざりしものを」と。扞秦はただ泣くのみであった。宝応が既に擒えられると、凡そ諸賓客で微かに交渉ある者は皆誅されたが、寄のみは先識を以て禍を免れた。

原文寄氣力綿微,余陰無幾,感恩懷德,不覺狂言,鈇鉞之誅,甘之如薺。寶應覽書大怒。或謂寶應曰:「虞公病篤,言多錯謬。」寶應意乃小釋。亦以寄人望,且容之。及寶應敗走,夜至蒲田,顧謂其子扞秦曰:「早從虞公計,不至今日。」扞秦但泣而已。寶應既禽,凡諸賓客微有交涉者皆誅,唯寄以先識免禍。

初め、沙門の慧標は学問を渉猟し才思あり、宝応が起兵した時、五言詩を作ってこれを送り、曰く、「馬を送りて猶水に臨み、旗を離れて稍風を引く。今夜の月を好看せよ、当に紫微宮を照らさん」と。宝応はこれを得て甚だ悦んだ。慧標が寄に示すと、寄は一覧して便ち止め、正色して無言であった。慧標が退くと、寄は親しい者に謂いて曰く、「標公は既にこれを以て始むれば、必ずこれを以て終わるであろう」と。後に竟にこの事に坐して誅された。

原文初,沙門慧標涉獵有才思,及寶應起兵,作五言詩以送之曰:「送馬猶臨水,離旗稍引風。好看今夜月,當照紫微宮。」寶應得之甚悅。慧標以示寄,寄一覽便止,正色無言。慧標退,寄謂所親曰:「標公既以此始,必以此終。」後竟坐是誅。

文帝は尋ねて都督の章昭達に勅し、寄を発遣して還朝せしめ、至った時に謂って曰く、「管寧無恙なり、甚だ労を慰め懐かしむ」と。頃にして、帝は到仲挙に謂いて曰く、「衡陽王は既に出合した。須らく一人を得て旦夕遊処せしめ、兼ねて書記を掌らしむべし。宜しく宿士にして行業ある者を求むべし」と。仲挙は対すべき所を知らず、帝曰く、「吾自ら之を得たり」と。乃ち手勅して寄を用いた。寄が入謝すると、帝曰く、「卿を暫く屈して蕃に遊ばしむ所以は、只だ文翰を以て相煩わすのみに非ず、乃ち師表を以て相事えしめんとするなり」と。後に東中郎建安王諮議を除し、戎昭将軍を加えられた。寄は乃ち疾を以て辞し、旦夕陪列に堪えずと。王は是に於いて長く公事を停め、疑議ある時は就いてこれを決し、但だ朔旦に箋を修するのみとした。太建八年、太中大夫を加えられ、後に卒した。

原文文帝尋敕都督章昭達發遣寄還朝,及至,謂曰:「管寧無恙,甚慰勞懷。」頃之,帝謂到仲舉曰:「衡陽王既出合,須得一人旦夕遊處,兼掌書記,宜求宿士有行業者。」仲舉未知所對,帝曰:「吾自得之。」乃手敕用寄。寄入謝,帝曰:「所以暫屈卿遊蕃,非止以文翰相煩,乃令以師表相事也。」後除東中郎建安王諮議,加戎昭將軍。寄乃辭以疾,不堪旦夕陪列。王於是令長停公事,其有疑議,就以決之,但朔旦箋修而已。太建八年,加太中大夫,後卒。

寄は少より篤行にして、造次にも必ず仁厚に在り、童豎に至るまで未だ嘗て声色を加えず。危険に臨み節を執るに至っては、則ち辞気凛然として、白刃も憚らなかった。南土に流寓して以来、兄の荔と隔絶し、因って気病を感じた。毎に荔の書を得れば、気は輒ち奔劇し、危殆に陥ること数度あった。前後居官した所、未だ嘗て秩満に至らず、裁ち期月にして、便ち自ら解退を求めた。常に曰く、「足るを知れば辱められず、吾は足るを知れり」と。病を謝して私庭に居るに及び、諸王が州将となる毎に、下車すれば必ず門を造り礼を致し、鞭板を釈めしめ、几杖を以て侍坐せしめた。嘗て近寺に出遊した時、閭里は伝い相告げ、老幼羅列し、道左に望拝した。或いは誓いを言って約する者は、ただ寄を指せば欺かずと言い、その至行の感ずる所、此の如きであった。制作した文筆は、乱に遭って多く散失した。

原文寄少篤行,造次必于仁厚,雖僮豎未嘗加以聲色。至臨危執節,則辭氣凜然,白刃不憚也。自流寓南土,與兄荔隔絕,因感氣病。每得荔書,氣輒奔劇,危殆者數矣。前後所居官,未嘗至秩滿,裁期月,便自求解退。常曰:「知足不辱,吾知足矣。」及謝病私庭,每諸王為州將,下車必造門致禮,命釋鞭板,以几杖侍坐。嘗出遊近寺,閭里傳相告語,老幼羅列,望拜道左。或言誓為約者,但指寄便不欺,其至行所感如此。所制文筆,遭亂並多散失。

傅縡

原文傅縡

傅縡は字を宜事といい、北地郡霊州の人である。父の傅彝は、梁の臨沂県令であった。傅縡は幼くして聡明で、七歳の時に古詩賦を十余万言まで誦した。成長して学問を好み、文章を綴ることができた。太清の末年に母の喪に服し、兵乱の中にあって喪に服する礼を尽くし、哀しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、士人や友人たちはこれを称えた。後に湘州刺史蕭循に寄寓した。蕭循は大いに士人を好み、広く典籍を集めたので、傅縡は思いのままに探し読み、広く群書に通じるようになった。王琳がその名を聞き、府の記室に引き立てた。王琳が敗れると、王琳の将軍孫瑒に従って都に帰った。時に陳の文帝が顔晃を使者として孫瑒に雑物を賜ると、孫瑒は傅縡に託して謝恩の上奏文を書かせたが、その文理は周到で、一字の加筆もなかった。顔晃が帰って文帝にこのことを言上すると、召し出されて撰史学士に任じられた。再び驃騎将軍安成王の中記室に転じ、撰史の任はもとのままであった。

原文傅縡字宜事,北地靈州人也。父彝,梁臨沂令。縡幼聰敏,七歲誦古詩賦至十餘萬言。長好學,能屬文。太清末,丁母憂,在兵亂中,居喪盡禮,哀毀骨立,士友以此稱之。後依湘州刺史蕭循。循頗好士,廣集墳籍,縡肆志尋閱,因博通群書。王琳聞其名,引為府記室。琳敗,隨琳將孫瑒還都。時陳文帝使顏晃賜瑒雜物,瑒托縡啟謝,詞理周洽,文無加點。晃還言之文帝,召為撰史學士。再遷驃騎安成王中記室,撰史如故。

傅縡は篤く仏教を信じ、興皇寺の慧朗法師について三論を学び、その学問をことごとく通じた。まもなく本官のまま通直散騎侍郎を兼ねて斉に使いし、帰還後、累進して太子庶子、太子僕となった。

原文縡篤信佛教,從興皇寺慧朗法師受三論,盡通其學。尋以本官兼通直散騎侍郎使齊,還,累遷太子庶子、僕。

後主が即位すると、秘書監、右衛将軍に転じ、中書通事舎人を兼ね、詔誥を掌った。傅縡の文章は典雅で麗しく、性質もまた敏速であり、軍国大事であっても、筆を下せばたちどころに成り、草稿を起こすことはなく、深く考えた者にも勝るところがなかったので、大いに後主に重んじられた。しかし性質は頑固で強情であり、行いを慎む節操がなく、才能を恃んで気ままに振る舞い、人を侮り軽んじたので、朝廷の士人の多くはこれを恨んだ。折しも施文慶、沈客卿が諂いによって寵愛を受け、権勢を専断していたが、傅縡はますます疎んじられた。文慶らは共に讒言し、後主は傅縡を捕らえて獄に下した。傅縡はもとより剛直であったため、憤り恨んで、獄中で上書して言った。「人君たるものは、恭しく上帝に仕え、民を子のように慈しみ、嗜欲を省み、諂佞を遠ざけ、夜明け前に衣を求め、日が暮れても食事を忘れ、こうして恩沢は天下に行き渡り、慶福は子孫に流れるのである。陛下は近ごろ酒色に過度にふけり、郊廟の神々を敬うことなく、専ら淫らで昏い鬼に媚びている。小人が側近にあり、宦官が権力を弄び、忠直を憎んで仇敵の如くし、百姓を見て草芥の如くする。後宮は綺繡を引きずり、厩馬は菽粟を余し、民衆は流離し、転がる屍が野を覆い、賄賂が公然と行われ、国庫は損耗し、神は怒り人は怨み、衆は叛き親は離れる。恐らくは東南の王気、ここより尽きんとす。」上書が奏上されると、後主は大いに怒った。しばらくしてやや怒りが解け、使者に命じて言わせた。「朕は卿を赦そうと思うが、卿は過ちを改めることができるか。」傅縡は答えて言った。「臣の心は顔の如し。臣の顔を改めることができれば、臣の心も改めることができましょう。」後主はそこでますます怒り、宦官の李善度に命じてその事を徹底的に追及させ、獄中で死を賜った。文集十巻がある。

原文後主即位,遷秘書監、右衛將軍,兼中書通事舍人,掌詔誥。縡為文典麗,性又敏速,雖軍國大事,下筆輒成,未嘗起草,沈思者亦無以加,甚為後主所重。然性木強,不持檢操,負才使氣,陵侮人物,朝士多銜之。會施文慶、沈客卿以佞見幸,專制衡軸,而縡益疏。文慶等因共譖之,後主收縡下獄。縡素剛,因憤恚,於獄中上書曰:「夫人君者,恭事上帝,子愛黔黎,省嗜欲,遠諂佞,未明求衣,日旰忘食,是以澤被區宇,慶流子孫。陛下頃來酒色過度,不虔郊廟之神,專媚淫昏之鬼。小人在側,宦豎弄權,惡忠直若仇讎,視百姓如草芥。後宮曳綺繡,廄馬餘菽粟,兆庶流離,轉屍蔽野,貨賄公行,帑藏損耗,神怒人怨,眾叛親離。恐東南王氣,自斯而盡。」書奏,後主大怒。頃之稍解,使謂曰:「我欲赦卿,卿能改過不?」縡對曰:「臣心如面,臣面可改,則臣心可改。」後主於是益怒,令宦者李善度窮其事,賜死獄中。有集十卷。

傅縡は強直で才能があったが、毒々しく傲慢であり、当時の人々に憎まれた。死んだ後、悪い蛇が尾を曲げて霊床に上がり来たり、祭壇の前で供物の酒を受け、去ってはまた来ることを百余日も繰り返した。時折、指を弾く音がした。

原文縡雖強直有才,而毒惡傲慢,為當世所疾。及死,有惡蛇屈尾來上靈床,當前受祭酹,去而復來者百餘日。時時有彈指聲。

付録 章華

原文附 章華

時に呉興郡の章華という者がいた。字は仲宗。家はもと農夫であったが、章華に至って独り学問を好み、士君子と交遊し、経史に広く通じ、文章をよくした。侯景の乱の時、嶺南に遊び、羅浮山の寺に住み、専心に学業に励んだ。欧陽頠が広州刺史となると、南海太守に任用した。欧陽頠の子の欧陽紇が敗れると、都に帰った。後主の時、太市令に任じられたが、好むところではなかったので、病気を理由に辞退した。禎明の初年、上書して極諫し、その大意は次のようであった。「陛下が即位されてより、今や五年になるが、先帝の艱難を思わず、天命の畏るべきを知らない。寵愛に溺れ、酒色に惑う。七廟を祀るにも出ず、妃嬪を拝するには殿舎に臨む。老臣宿将はこれを草莽に棄て、諂佞讒邪はこれを朝廷に昇らせる。今、国境は日々に狭まり、隋軍が境を圧している。陛下が改弦易張されなければ、臣は麋鹿が再び姑蘇台に遊ぶのを見ることになりましょう。」上書が奏上されると、後主は大いに怒り、即日に斬った。

原文時有吳興章華,字仲宗,家本農夫,至華獨好學,與士君子游處,頗通經史,善屬文。侯景之亂,游嶺南,居羅浮山寺,專精習業。歐陽頠為廣州刺史,署為南海太守。頠子紇敗,乃還都。後主時,除太市令,非其所好,乃辭以疾。禎明初,上書極諫,其大略曰:「陛下即位,於今五年,不思先帝之艱難,不知天命之可畏。溺于嬖寵,惑於酒色。祠七廟而不出,拜妃嬪而臨軒。老臣宿將,棄之草莽,諂佞讒邪,升之朝廷。今疆埸日蹙,隋軍壓境,陛下如不改弦易張,臣見麋鹿復游于姑蘇矣。」書奏,後主大怒,即日斬之。

顧野王

原文顧野王

顧野王は字を希馮といい、呉郡呉県の人である。祖父の顧子喬は、梁の東中郎将武陵王府参軍事であった。父の顧烜は、信威将軍臨賀王記室をつとめ、兼ねて本郡の五官掾となり、儒術をもって知られた。

原文顧野王字希馮,吳郡吳人也。祖子喬,梁東中郎武陵王府參軍事。父烜,信威臨賀王記室,兼本郡五官掾,以儒術知名。

野王は幼くして学問を好み、七歳で五経を読み、大旨をほぼ理解した。九歳で文章を綴ることができた。かつて日賦を作ると、領軍将軍朱異がこれを見て奇異の才と認めた。十二歳の時、父に従って建安に赴き、建安地記二篇を撰した。成長して経史を遍く読み、精しく記憶し暗誦し、天文地理、蓍亀占候、虫篆奇字に通じないものはなかった。臨賀王府記室となった。宣城王が揚州刺史となると、野王と琅邪の王褒とがともに賓客となり、王は大いにその才能を愛した。野王はまた絵画をよくし、王は東府に斎舎を建て、野王に古の賢人を描かせ、王褒に賛を書かせた。時に人はこれを二絶と称えた。

原文野王幼好學,七歲讀五經,略知大旨。九歲能屬文。嘗制日賦,領軍朱異見而奇之。十二,隨父之建安,撰建安地記二篇。長而遍觀經史,精記默識,天文地理,蓍龜占候,蟲篆奇字,無所不通。為臨賀王府記室。宣城王為揚州刺史,野王及琅邪王褒並為賓客,王甚愛其才。野王又善丹青,王於東府起齋,令野王畫古賢,命王褒書贊,時人稱為二絕。

侯景の乱の時、野王は父の喪に服し、本郡に帰った。そこで郷党を召募し、義軍に従って都を救援した。野王は体質がもとより清らかで痩せており、身長わずか六尺、また喪に服して過度に憔悴し、ほとんど哀しみに耐えられなかった。しかし戈を杖し甲を着け、君臣の義、逆順の理を述べ、言葉を抗し顔色を正すと、見る者は誰しもその雄々しさを感じた。城が陥落すると、会稽に逃れて帰った。

原文及侯景之亂,野王丁父憂,歸本郡,乃召募鄉黨,隨義軍援都。野王體素清羸,裁長六尺,又居喪過毀,殆不勝哀。及杖戈被甲,陳君臣之義,逆順之理,抗辭作色,見者莫不壯之。城陷,逃歸會稽。

陳の天嘉年間、詔により撰史学士に補せられた。太建年間、太子率更令となり、まもなく大著作を領して国史を掌り、梁史の事を知った。後に黄門侍郎、光禄卿となり、五礼の事を知った。死去すると、秘書監、右衛将軍を追贈された。

原文陳天嘉中,敕補撰史學士。太建中,為太子率更令,尋領大著作,掌國史,知梁史事。後為黃門侍郎,光祿卿,知五禮事。卒,贈秘書監,右衛將軍。

野王は若い頃、篤学で天性の誠実さをもって知られ、物事に接しても過言したり顔色を変えたりすることはなかった。その容貌を見ると、口が利けないかのようであったが、その精力を励まして行うことは、人の及ぶところではなかった。撰した『玉篇』三十巻、『輿地志』三十巻、『符瑞図』十巻、『顧氏譜伝』十巻、『分野枢要』一巻、『続洞冥記』一巻、『玄象表』一巻は、ともに当時に流行した。また『通史要略』一百巻、『国史紀伝』二百巻を撰したが、完成せずに死去した。文集二十巻がある。

原文野王少以篤學至性知名,在物無過辭失色。觀其容貌,似不能言,其厲精力行,皆人所莫及。所撰玉篇三十卷,輿地志三十卷,符瑞圖十卷,顧氏譜傳十卷,分野樞要一卷,續洞冥記一卷,玄象表一卷,並行于時。又撰通史要略一百卷,國史紀傳二百卷,未就而卒。有文集二十卷。

付録 蕭済

原文附 蕭濟

時に蕭済という者がいた。字は孝康。東海郡蘭陵県の人である。学問を好み、経史に広く通じた。梁に仕えて太子舎人となった。侯景平定の功に預かり、松陽県侯に封ぜられた。陳の文帝が会稽太守であった時、蕭済を宣毅府長史とした。即位すると、侍中を授けた。太建年間、五兵尚書、度支尚書、祠部尚書の三尚書の官を歴任し、死去した。

原文時有蕭濟字孝康,東海蘭陵人也。好學,博通經史。仕梁為太子舍人。預平侯景功,封松陽縣侯。陳文帝為會稽太守,以濟為宣毅府長史。及即位,授侍中。太建中,歷位五兵、度支、祠部三尚書,卒。

姚察

原文姚察

姚察は字を伯審といい、吳興武康の人で、吳の太常卿姚信の九世孫である。父の僧垣は、梁の太醫正であった。元帝が荊州におられた時、晉安王の諮議參軍となった。後に周に入り、地位と待遇は甚だ重かった。

原文姚察字伯審,吳興武康人,吳太常卿信之九世孫也。父僧垣,梁太醫正。及元帝在荊州,為晉安王諮議參軍。後入周,位遇甚重。

姚察は幼い時から至誠の性を持ち、六歳で書を萬餘言誦した。遊び戯れることを好まず、學業に勵み精進し、十二歳で文を綴ることができた。僧垣は醫術に精通し、梁の代に名を知られ、二宮から得た供給と賜物は、すべて姚察兄弟に回して與え、遊學の資とさせた。姚察はそれらを併せて圖書を蓄え聚めたので、これによって見聞は日に日に博くなった。十三歳の時、梁の簡文帝が東宮におられた折、盛んに文義を修められ、直ちに宣猷堂に引いて講義を聽き論難させ、儒者の稱するところとなった。簡文帝が位を嗣がれると、特に禮遇して接せられた。南海王國左常侍として起家し、司文侍郎を兼ねた。後に尚書駕部郎を兼ねた。梁室の喪亂に遇い、二親に隨って鄉里に還った。亂離の間においても、篤く學び廢さなかった。元帝が荊州で即位されると、姚察に原鄉令を授けた。後に佐著作となり、史を撰した。

原文察幼有至性,六歲誦書萬餘言。不好戲弄,勵精學業,十二能屬文。僧垣精醫術,知名梁代,二宮所得供賜,皆回給察兄弟,為遊學之資。察並用聚蓄圖書,由是聞見日博。年十三,梁簡文帝時在東宮,盛修文義,即引于宣猷堂聽講論難,為儒者所稱。及簡文嗣位,尤加禮接。起家南海王國左常侍,兼司文侍郎。後兼尚書駕部郎。遇梁室喪亂,隨二親還鄉里。在亂離間,篤學不廢。元帝於荊州即位,授察原鄉令。後為佐著作,撰史。

陳の永定年間、吏部尚書徐陵が大著作を領すると、再び史佐に引いた。太建初年、宣明殿學士を補した。まもなく通直散騎常侍となり、周に報聘した。江左の耆舊で先に関右にいた者は、皆相傾慕した。沛國の劉臻が密かに公館を訪れて漢書の疑事十餘條を問うと、併せてこれを剖析し、皆經據があった。劉臻は親しい者に謂って曰く、「名の下に定めて虚士無し」と。西聘道里記を著した。使より還り、東宮學士を補し、尚書祠部侍郎に遷った。

原文陳永定中,吏部尚書徐陵領大著作,復引為史佐。太建初,補宣明殿學士。尋為通直散騎常侍,報聘于周。江左耆舊先在關右者,咸相傾慕。沛國劉臻竊於公館訪漢書疑事十餘條,並為剖析,皆有經據。臻謂所親曰:「名下定無虛士。」著西聘道里記。使還,補東宮學士,遷尚書祠部侍郎。

舊く魏の王肅が奏上して天地を祀るに、宮懸の樂を設け、八佾の舞を設けたが、爾後因循して革めなかった。梁の武帝に至り、人に事うる禮は縟にして、神に事うる禮は簡なるを以て、古に宮懸の文無しと為した。陳の初めはこれを受け用い、損益する者無かった。宣帝は設備樂を設けんと欲し、有司に付して議を立てさせ、梁武帝を非と為した。時に碩學名儒、朝端に在位する者は、皆旨に希って注同した。姚察は乃ち博く經籍を引き、獨り群議に違い、梁の樂を據って是と為した。當時驚駭し、慚服せざる者無かった。僕射徐陵は因って改めて姚察の議に同じた。その時に順わず俗に隨わざるは、皆この類である。

原文舊魏王肅奏祀天地,設宮懸之樂,八佾之舞,爾後因循不革。至梁武帝以為事人禮縟,事神禮簡,古無宮懸之文。陳初承用,莫有損益。宣帝欲設備樂,付有司立議,以梁武為非。時碩學名儒,朝端在位,咸希旨注同。察乃博引經籍,獨違群議,據梁樂為是。當時驚駭,莫不慚服。僕射徐陵因改同察議。其不順時隨俗,皆此類也。

後に仁威淮南王、平南建安王の二府の諮議參軍を歴任した。内憂に遭い職を去った。俄かに起きて戎昭將軍と為り、梁史の撰を知った。後主が立つと、東宮通事舍人を兼ね、史の撰を知った。至德元年、中書侍郎を除かれ、太子僕に轉じ、余は併せて元の如くであった。

原文後曆仁威淮南王、平南建安王二府諮議參軍。丁內憂去職。俄起為戎昭將軍,知撰梁史。後主立,兼東宮通事舍人,知撰史。至德元年,除中書侍郎,轉太子僕,余並如故。

初め、梁室が淪沒した時、姚察の父僧垣は長安に入り、姚察は蔬食布衣、音樂を聽かず、ここに至って凶問が聘使に因って江南に到った。時に姚察の母韋氏の喪制が丁度除かれたところで、後主は姚察の羸瘠を以て、毀頓を加うるを慮り、乃ち密かに中書舍人司馬申を遣わして宅に就き哀を發せしめ、仍って申に敕して專ら譬抑を加えしめた。まもなく忠毅將軍を以て起きて東宮通事舍人を兼ねさせたが、姚察は頻りに譲って許されなかった。俄かに敕して著作郎事を知らしめた。服闋して、給事黃門侍郎を除かれ、著作を領した。姚察は既に累ねて憂戚に居り、齋素日久しく、因って氣疾を加えた。後主は嘗て別に召し見て、之が爲に動容し、長齋を停め、晚食に從わしむるを命じた。又詔して秘書監を授け、著作を領し、中書表集を奏撰せしめた。度支、吏部の二尚書を歴任した。

原文初,梁室淪沒,察父僧垣入長安,察蔬食布衣,不聽音樂,至是凶問因聘使到江南。時察母韋氏喪制適除,後主以察羸瘠,慮加毀頓,乃密遣中書舍人司馬申就宅發哀,仍敕申專加譬抑。尋以忠毅將軍起兼東宮通事舍人,察頻讓不許。俄敕知著作郎事。服闋,除給事黃門侍郎,領著作。察既累居憂戚,齋素日久,因加氣疾。後主嘗別召見,為之動容,命停長齋,令從晚食。又詔授秘書監,領著作,奏撰中書表集。曆度支、吏部二尚書。

姚察は顯要に居ることを自らして、一も交通せず。嘗て私門生が厚く餉ることを敢えず、南布一端、花綀一匹を送ったことがある。姚察は謂って曰く、「吾が衣著する所は、止むるは麻布蒲綀なり、此の物は吾には用無し。既に相款接せんと欲すれば、幸いに爾を煩わす無かれ」と。此の人が遜って請うと、姚察は厲色して驅り出し、此れより敢えて饋遺する者無かった。

原文察自居顯要,一不交通。嘗有私門生不敢厚餉,送南布一端,花綀一匹。察謂曰:「吾所衣著,止是麻布蒲綀,此物於吾無用。既欲相款接,幸不煩爾。」此人遜請,察厲色驅出,自是莫敢饋遺。

陳滅びて隋に入り、詔して秘書丞を授け、別敕して梁、陳の二史を成さしめた。又敕して朱華閣に長參せしめた。文帝は姚察の蔬菲を知り、別日に獨り內殿に召し入れ、果菜を賜い、朝臣を指して謂って曰く、「姚察の學行は當今無比なるを聞く、我が陳を平ぐるに唯だ此の一人を得たり」と。

原文陳亡入隋,詔授秘書丞,別敕成梁、陳二史。又敕于朱華閣長參。文帝知察蔬菲,別日獨召入內殿,賜果菜,指謂朝臣曰:「聞姚察學行當今無比,我平陳唯得此一人。」

開皇十三年、北絳郡公を襲封した。姚察は陳に在った時周に聘し、因って父僧垣と相見えることを得たが、別れの際、絕えて復た蘇った。ここに至って承襲するに及び、愈一層悲感し、見る者之が爲に歔欷せざる者無かった。後母杜氏の喪に遭い、職を解いた。服制の中に在って、白鳩が戶上に巢くった。

原文開皇十三年,襲封北絳郡公。察在陳時聘周,因得與父僧垣相見,將別之際,絕而復蘇。至是承襲,愈更悲感,見者莫不為之歔欷。丁後母杜氏喪,解職。在服制之中,有白鳩巢於戶上。

仁壽二年、詔して員外散騎常侍、晉王侍讀を除いた。煬帝即位すると、太子內舍人を授けた。衣冠を改易し、朝式を刪定するに及び、對問に預かり參した。大業二年、東都に終った。遺命して薄葬とし、松板の薄棺を以て、纔かに身を容るる可く、土を棺に周らすのみと。葬日の儀は、粗車に止めて即ち舊塋の北に送り厝す。靈を立てるを須いず、小床一つを置き、每日清水を設け、六齋日に齋食菜果を設け、家の有無に任せ、別に經營するを須いずと。

原文仁壽二年,詔除員外散騎常侍、晉王侍讀。煬帝即位,授太子內舍人。及改易衣冠,刪定朝式,預參對問。大業二年,終於東都。遺命薄葬,以松板薄棺,才可容身,土周於棺而已。葬日,止麤車即送厝舊塋北。不須立靈,置一小床,每日設清水,六齋日設齋食菜果,任家有無,不須別經營也。

初め、姚察は一藏經を讀まんと欲し、併せて已に究竟し、將に終らんとするに、曾て痛惱無く、但だ西に向かって坐し正念し、云く、「一切空寂」と。其の後身體柔軟、顏色恒の如し。兩宮悼惜し、贈賵甚だ厚かった。

原文初,察欲讀一藏經,並已究竟,將終,曾無痛惱,但西向坐正念,云:「一切空寂」。其後身體柔軟,顏色如恒。兩宮悼惜,贈賵甚厚。

姚察は至孝にして、人倫鑒識有り、沖虛謙遜、以て長とする所を人に矜らず。志を著書に專らし、白首倦まず。著する所に漢書訓纂三十卷、說林十卷、西聘、玉璽、建康三鍾等の記各一卷、文集二十卷有り。撰する所の梁、陳史は、未だ功を畢えざるも、隋の開皇年間、文帝中書舍人虞世基を遣わして本を索め、且つ進めしむ。臨終に、子の思廉に戒めて續け撰ましむ。思廉は陳に在って衡陽王府法曹參軍、會稽王主簿と為った。

原文察至孝,有人倫鑒識,沖虛謙遜,不以所長矜人。專志著書,白首不倦。所著漢書訓纂三十卷,說林十卷,西聘、玉璽、建康三鍾等記各一卷,文集二十卷。所撰梁、陳史,雖未畢功,隋開皇中,文帝遣中書舍人虞世基索本,且進。臨亡,戒子思廉撰續。思廉在陳為衡陽王府法曹參軍、會稽王主簿。

論

原文論

論じて曰く、沈炯の才思の美は、以て前良に踵を繼ぐに足る。然れども梁朝に仕え、年已に命を知る、主は文ならざるに非ず、而るに位裁りて邑宰たり。運の交喪に逢うに及び、戎馬に驅馳し、在る所稱美せられ、用捨信に時有り焉。虞荔弟兄は、才行兼ねて著しく、崎嶇喪亂、茲の貞一を保ち、併せて時主に貴ばる、豈に虚しく得んや。傅縡は聰警特達、才氣自ら負い、之を行えば平日、其れ猶お殆うき諸か;危邦に處するに、死する其れ宜なるかな。顧、姚は藝文に棲托し、清直を蹈履し、文質彬彬、各通賢の域を踐み、美しいかな。

原文論曰:沈炯才思之美,足以繼踵前良。然仕于梁朝,年已知命,主非不文,而位裁邑宰。及於運逢交喪,驅馳戎馬,所在稱美,用舍信有時焉。虞荔弟兄,才行兼著,崎嶇喪亂,保茲貞一,並取貴時主,豈虛得乎。傅縡聰警特達,才氣自負,行之平日,其猶殆諸;處以危邦,死其宜矣。顧、姚棲托藝文,蹈履清直,文質彬彬,各踐通賢之域,美矣乎!