南史

巻六十八 列傳第五十八

巻六十八 列傳第五十八

南史

巻六十八 列傳第五十八

趙知禮

原文趙知禮

趙知禮は字あざなを齊旦といい、天水郡隴西県の人である。父の孝穆は、梁の候官県令であった。知禮は文史に広く通じ、書翰をよくした。陳の武帝が元景仲を討伐したとき、ある者が彼を推薦し、書記として召し出された。知禮は文章が豊富で速く、軍書を口述で授けるたびに、筆を下ろせばすぐに完成し、おおむね帝の意にかなった。これにより常に左右に侍し、深く信任され、当時の計画には、参画しないものはなかった。武帝が侯景を征討し、白茅湾に至ったとき、梁の元帝に上表し、また王僧辯と軍事について論じた文書は、いずれも知禮が作成したものである。侯景が平定されると、中書侍郎に任じられ、始平県子に封ぜられた。陳が天命を受けると、散騎常侍・太府卿の位にあり、軍事を領知する権限を与えられた。

原文趙知禮字齊旦,天水隴西人也。父孝穆,梁候官令。知禮涉獵文史,善書翰。陳武帝之討元景仲也,或薦之,引為書記。知禮為文贍速,每占授軍書,下筆便就,率皆稱旨。由是恒侍左右,深被委任,當時計畫,莫不預焉。武帝征侯景,至白茅灣,上表于梁元帝及與王僧辯論軍事,其文並知禮所制。及景平,授中書侍郎,封始平縣子。陳受命,位散騎常侍、太府卿,權知領軍事。

天嘉元年、爵位が伯に進んだ。王琳が平定されると、呉州刺史に任じられた。知禮は沈着で謀略があり、軍国大事のたびに、文帝は常に璽書をもって彼に諮問した。再び右将軍に遷り、前軍将軍を兼ねた。死去すると、侍中を追贈され、諡は忠といった。子の元恭が後を嗣いだ。

原文天嘉元年,進爵為伯。王琳平,授吳州刺史。知禮沈靜有謀謨,每軍國大事,文帝輒令璽書問之。再遷右將軍,領前軍將軍。卒,贈侍中,諡曰忠。子元恭嗣。

蔡景曆

原文蔡景曆

蔡景曆は字を茂世といい、済陽郡考城県の人である。祖父の點は、梁の尚書左戸侍郎であった。父の大同は、軽車岳陽王記室参軍であった。景曆は若い頃から俊爽で孝行があり、家は貧しかったが学問を好み、尺牘をよくし、草書・隷書に巧みであった。海陽県令となり、政治に才能ある名声があった。侯景の乱の中にあって、南康嗣王蕭會理と通じ、匡復を謀ったが、事が漏れて捕らえられ、賊党の王偉が保護したため、難を免れ、京口に客遊した。

原文蔡景曆字茂世,濟陽考城人也。祖點,梁尚書左戶侍郎。父大同,輕車岳陽王記室參軍。景曆少俊爽,有孝行,家貧好學,善尺牘,工草隸。為海陽令,政有能名。在侯景中,與南康嗣王會理通,謀匡復,事泄被執,賊党王偉保護之,獲免,因客遊京口。

侯景が平定されると、陳の武帝が朱方に鎮していたが、かねてよりその名声を聞き、書簡で招聘した。景曆は使者に対面して返書を答え、筆を止めず、文に改める所がなかった。武帝は書簡を得て、大いに賞賛し、その日に征北府中記室参軍に任じ、引き続き記室を兼ねさせた。

原文侯景平,陳武帝鎮朱方,素聞其名,以書要之。景曆對使人答書,筆不停綴,文無所改。帝得書,甚加欽賞,即日授征北府中記室參軍,仍領記室。

衡陽献王陳昌が呉興太守となったとき、武帝は郷里の父老であり、尊卑の礼数があるため、陳昌が年少で接応に礼を失うことを恐れ、景曆を派遣して補佐させた。承聖年間、記室を掌る職に戻った。武帝が王僧辯を討伐しようとしたとき、侯安都ら数人だけで謀議ぼうぎし、景曆はそれを知らなかった。部署が整うと、召し出して檄文を起草させた。景曆は筆を取ってすぐに完成させ、文辞と意義は人を奮い立たせ、事柄はすべて帝の意にかなった。禅譲を受けると、秘書監・中書通事舎人に遷り、詔誥を掌った。

原文衡陽獻王昌為吳興太守,帝以鄉里父老,尊卑有數,恐昌年少接對乖禮,乃遣景曆輔之。承聖中,還掌記室。武帝將討王僧辯,獨與侯安都等數人謀之,景曆弗之知。部分既畢,召令草檄,景曆援筆立成,辭義感激,事皆稱旨。及受禪,遷秘書監、中書通事舍人,掌詔誥。

永定二年、妻の弟が周寶安から馬の贈り物を受けたことに連座し、御史中丞沈炯に弾劾され、中書侍郎に降格となったが、舎人の職はもとのままとした。

原文永定二年,坐妻弟受周寶安餉馬,為御史中丞沈炯所劾,降為中書侍郎,舍人如故。

三年、武帝が崩御した。当時、外には強敵があり、文帝は南皖に鎮していたが、朝廷には重臣がおらず、宣后は景曆と江大権・杜棱を呼んで議を定め、喪を発せずに秘し、急ぎ文帝を召還した。景曆は自ら宦官や宮人とともに密かに斂服を準備し、時はすでに暑熱であり、梓宮を準備する必要があったが、斧の音が外に聞こえるのを恐れ、蠟を用いて秘器とし、文書詔勅は従来通り宣布施行した。

原文三年,武帝崩。時外有強寇,文帝鎮南皖,朝無重臣,宣後呼景曆及江大權、杜棱定議,秘不發喪,疾召文帝。景曆躬共宦者及內人密營斂服,時既暑熱,須營梓宮,恐斤斧之聲聞外,乃以蠟為秘器,文詔依舊宣行。

文帝が即位すると、再び秘書監となり、舎人はもとのままとした。策定の功により、新豊県子に封ぜられた。累進して散騎常侍となった。文帝が侯安都を誅殺したとき、景曆はその事を成就するよう勧め、功により太子左衛率に遷り、爵位が侯に進み、常侍・舎人はもとのままとした。妻の兄劉洽が景曆の権勢に依って前後に行った奸詭なこと、および歐陽威から絹百匹の贈り物を受けたことに連座し、免官となった。

原文文帝即位,復為秘書監,舍人如故。以定策功,封新豐縣子。累遷散騎常侍。文帝誅侯安都,景曆勸成其事,以功遷太子左衛率,進爵為侯,常侍、舍人如故。坐妻兄劉洽依倚景曆權勢前後奸詭,並受歐陽威餉絹百匹,免官。

華皎が反乱すると、景曆を武勝将軍・呉明徹の軍司とした。華皎が平定されると、明徹は軍中で安成内史楊文通を勝手に誅殺し、また降伏者の兵馬・武器の受け取りに不明瞭な点があったため、景曆はまたこれを匡正できなかった罪に連座して収監された。久しくして赦免された。

原文華皎反,以景曆為武勝將軍、吳明徹軍司。皎平,明徹於軍中輒戮安成內史楊文通,又受降人馬仗有不分明,景曆又坐不能匡正被收。久之獲宥。

宣帝が即位すると、累進して通直散騎常侍・中書通事舎人となり、詔誥を掌り、封邑も回復した。

原文宣帝即位,累遷通直散騎常侍、中書通事舍人,掌詔誥,仍復封邑。

太建五年、都督呉明徹が北侵し、向かうところ勝利し、呂梁で周の梁士彥を大破し、彭城を包囲しようと進軍した。当時、宣帝は河南を鋭意攻略し、指揮ひとつで平定できると考えていたが、景曆は軍は疲れ将は驕っているとして、遠方に過度に攻略を広げるべきではないと称した。帝は彼が衆の士気をくじくのを憎み、大いに怒ったが、朝廷の旧臣であることを考慮し、深く罪を問わず、豫章内史として出させた。出発しないうちに、匿名の弾劾文により、省に在職していた日、贓物で汚れ狼藉であったとされ、帝は有司に審問させたところ、景曆はその半分だけを認めた。そこで御史中丞宗元饒が奏上して景曆の現職を免じ、会稽に移住させた。

原文太建五年,都督吳明徹北侵,所向克捷,大破周梁士彥于呂梁,方進圍彭城。時宣帝銳意河南,以為指麾可定,景曆稱師老將驕,不宜過窮遠略。帝惡其沮眾,大怒,猶以朝廷舊臣,不加深罪,出為豫章內史。未行,為飛章所劾,以在省之日,贓汙狼籍,帝令有司案問,景曆但承其半。於是御史中丞宗元饒奏免景曆所居官,徙居會稽。

呉明徹が敗れた時、帝は蔡景曆の以前の言葉を思い出し、その日に追い返して召還し、征南鄱陽王諮議とした。数日後、員外散騎常侍に遷り、兼ねて御史中丞を務め、本来の爵位と封邑を回復し、入朝して度支尚書を守った。旧式では官職拝命は午後に行われたが、景曆が拝命した日、ちょうど輿駕が玄武観に行幸し、在職の者たちは皆侍宴していた。帝は景曆が参列できないことを恐れ、特に早朝の拝命を命じた。彼がこのように重んじられたのである。

原文及吳明徹敗,帝追憶景曆前言,即日追還,以為征南鄱陽王諮議。數日,遷員外散騎常侍,兼御史中丞,復本爵封,入守度支尚書。舊式拜官在午後,景曆拜日,適逢輿駕幸玄武觀,在位皆侍宴,帝恐景曆不預,特令早拜,其見重如此。

官職のまま死去し、太常卿を追贈され、諡は敬といった。十三年、改葬が行われ、重ねて中領軍を追贈された。禎明元年、武帝の廟庭に配享された。二年、車駕が自らその邸宅に臨幸し、重ねて景曆に侍中・中撫将軍を追贈し、諡を忠敬とし、鼓吹一部を与え、墓所に碑を建立した。

原文卒官,贈太常卿,諡曰敬。十三年,改葬,重贈中領軍。禎明元年,配享武帝廟庭。二年,車駕親幸其宅,重贈景曆侍中、中撫將軍,諡曰忠敬,給鼓吹一部,於墓所立碑。

景曆は文章を作るに当たり、彫琢や華美を尊ばず、叙事に長け、機に応じて敏速であり、当時に称えられた。文集三十巻がある。子の蔡征が後を嗣いだ。

原文景曆屬文,不尚雕靡,而長於敘事,應機敏速,為當時所稱。有文集三十卷。子征嗣。

江大権は字を伯謀といい、済陽考城の人であり、少府の位に至り、四会県伯に封ぜられた。太建二年、通直散騎常侍の任中に死去した。

原文江大權字伯謀,濟陽考城人,位少府,封四會縣伯。太建二年,卒於通直散騎常侍。

蔡征は字を希祥といい、幼少より聡明で、識見に精しく記憶力が強かった。六歳の時、梁の吏部尚書河南の褚翔のもとを訪れ、その穎悟を嘆賞された。七歳で母の喪に遭い、喪に服する礼は成人のようであった。継母の劉氏は性格が悍ましく猜忌心が強く、彼を道理に外れた方法で扱ったが、征は供養と侍奉を一層謹んで行い、初めから怨む様子はなかった。征は本名を蔡覧といったが、景曆は彼に王祥のような性質があるとして、名と字を改めさせた。

原文征字希祥,幼聰敏,精識強記。年六歲,詣梁吏部尚書河南褚翔,嗟其穎悟。七歲丁母憂,居喪如成人禮。繼母劉氏,性悍忌,視之不以道,征供侍益謹,初無怨色。征本名覽,景曆以其有王祥之性,更名字焉。

陳の武帝が南徐州刺史であった時、召し出して迎主簿に補し、まもなく太学博士に任じた。太建年間、累進して太子中舍人となり、東宮領直を兼ね、新豊侯の爵位を襲封した。至徳年間、太子中庶子・中書舎人の位に至り、詔誥を掌った。まもなく左戸尚書に任じられ、僕射の江総と共に五礼の編纂を知行した。後主はその才幹を重んじ、任せ寄せる日々が重くなった。吏部尚書に遷ると、十日ごとに一度東宮に赴き、皇太子の前で古今の得失や当時の政務について論述した。また詔勅により廷尉寺の獄事は、事の大小を問わず、蔡征の議決を取ることとなった。やがて詔勅により蔡征を派遣して兵士を募集させ、自らの部曲ぶきょくとした。征はよく撫恤し、人心を得たので、十日一ヶ月の間に、衆は一万人近くに及んだ。地位と声望が重くなるにつれ、名声と地位が人を焼き焦がすようになり、世間の議論は皆彼を忌み憚った。まもなく中書令に転じた。中書省は清閑で事が少なかったが、或る者が征に怨言があると云うのを、後主は聞いて大いに怒り、彼の配下の人馬を没収し、誅殺しようとしたが、側近の者が諫めて、免れることができた。

原文陳武帝為南徐州,召補迎主簿,尋授太學博士。太建中,累遷太子中舍人,兼東宮領直,襲封新豐侯。至德中,位太子中庶子、中書舍人,掌詔誥。尋授左戶尚書,與僕射江總知撰五禮事。後主器其才幹,任寄日重。遷吏部尚書,每十日一往東宮,于皇太子前論述古今得喪及當時政務。又敕以廷尉寺獄,事無大小,取征議決。俄敕遣徵收募兵士,自為部曲,征善撫恤,得物情,旬月之間,眾近一萬。位望既重,兼聲位熏灼,物議咸忌憚之。尋徙中書令。中書清簡無事,或云征有怨言,後主聞之大怒,收奪人馬,將誅之,左右致諫,獲免。

禎明三年、隋軍が長江を渡ると、後主は蔡征に実務能力があるとして、中領軍事を権知するよう命じた。征は日夜勤苦し、心力を尽くして備えたので、後主はこれを嘉し、彼に言った。「事が平穏になったら、必ず報いよう」。そして鍾山の南岡で決戦するに当たり、詔勅で征に宮城西北の大営を守らせ、まもなく衆軍の戦事を督させるよう命じた。陳が滅亡すると、例に従って長安に入った。

原文禎明三年,隋軍濟江,後主以征有幹用,令權知中領軍事。征日夜勤苦,備盡心力,後主嘉焉,謂曰:「事寧有以相報」。及決戰于鍾山南岡,敕征守宮城西北大營,尋令督眾軍戰事。陳亡,隨例入長安。

蔡征は容姿が美しく、弁舌に優れ、多くの事柄を詳細に究明した。士流の官宦、陳の宗室や外戚の一族、および当朝の制度、憲章や儀軌、戸口や風俗、山川や土地について、問えば答えられないことはなかった。しかし性格は甚だ便佞で進取に走り、退いて質素に身を立てることを為せなかった。初めて吏部尚書に拝命した時、後主に鼓吹を借りるよう上奏した。後主は担当官署に言った。「鼓吹は軍楽であり、功績があって初めて授けるものだ。蔡征は自らの力量を量らず、我が朝の規程を乱す。しかしその父の景曆には既に創業の功績がある。宜しく暫く彼の上奏の通りとし、拝命が終われば直ちに回収せよ」。征が廉隅を修めなかったことは、皆この類いである。

原文征美容儀,有口辯,多所詳究。至於士流官宦,陳宗戚屬,及當朝制度,憲章儀軌,戶口風俗,山川土地,問無不對。然性頗便佞進取,不能以退素自業。初拜吏部尚書,啟後主借鼓吹,後主謂所司曰:「鼓吹軍樂,有功乃授,蔡征不自量揆,紊我朝章。然其父景曆既有締構之功,宜且如啟,拜訖即追還。」征不修廉隅,皆此類也。

隋の文帝は彼の敏捷で豊かな知識を聞き、召し出して顧問とし、言葉は常に帝の意に叶った。しかし数年も昇進せず、久しくして太常丞に任じられた。尚書戸部儀曹郎を歴任し、給事郎に転じ、死去した。子の蔡翼は司徒属の位に至った。隋に入り、東宮学士となった。

原文隋文帝聞其敏贍,召見顧問,言輒會旨。然累年不調,久之,除太常丞。曆尚書戶部儀曹郎,轉給事郎,卒。子翼,位司徒屬。入隋,為東宮學士。

宗元饒

原文宗元饒

宗元饒は、南郡江陵の人である。若くして学問を好み、孝行で知られた。梁に仕えて征南府外兵参軍となった。司徒王僧辯の幕府が初めて建てられた時、元饒は沛国の劉師知と共に主簿となった。陳の武帝が禅譲を受けると、次第に昇進して廷尉卿・尚書左丞となった。宣帝の初め、軍国事務が広範になり、事の大小を問わず、全て彼に諮問したので、台省では称職と号された。

原文宗元饒,南郡江陵人也。少好學,以孝聞。仕梁為征南府外兵參軍。及司徒王僧辯幕府初建,元饒與沛國劉師知同為主簿。陳武帝受禪,稍遷廷尉卿、尚書左丞。宣帝初,軍國務廣,事無巨細,一以咨之,台省號為稱職。

御史中丞に遷り、五礼の事を知行した。当時、合州刺史の陳褒は贓汚が狼藉を極め、使者を遣わして渚で魚を徴収し、また人を六郡に遣わして米を乞わせ、百姓はこれを甚だ苦しんでいた。元饒は弾劾上奏して彼を免官させた。呉興太守の武陵王陳伯礼、豫章内史の南康嗣王陳方泰らは、驕慢で横暴であったが、元饒が取り調べて上奏すると、皆削除・左遷された。元饒は性格が公平で、法をよく守り、故事に詳しく、政体に明るく練達していた。官吏に法を犯す者、政務が時宜に適わない者、および名教に足りない者がいれば、事に随ってこれを糾正し、裨益するところが多かった。南康内史に遷ると、秩米三千余斛こくを以て人々の租税の助けとし、高齢者を慰問し、困窮者を救済したので、百姓は大いに頼りとした。考課が最上で入朝すると、詔により散騎常侍を加えられた。後に吏部尚書となり、死去した。

原文遷御史中丞,知五禮事。時合州刺史陳褒贓汙狼籍,遣使就渚斂魚,又令人於六郡乞米,百姓甚苦之,元饒劾奏免之。吳興太守武陵王伯禮、豫章內史南康嗣王方泰等,驕蹇放橫,元饒案奏,皆見削黜。元饒性公平,善持法,諳曉故事,明練政體,吏有犯法,政不便時,及於名教不足者,隨事糾正,多所裨益。遷南康內史,以秩米三千餘斛助人租課,存問高年,拯救乏絕,百姓甚賴焉。以課最入朝,詔加散騎常侍。後為吏部尚書,卒。

韓子高

原文韓子高

韓子高は、会稽山陰の人である。家は元より微賤であった。侯景の乱の時、都に寄寓していた。侯景が平定されると、陳の文帝が呉興太守として出鎮した。子高は十六歳で、髪を総角に結い、容貌美麗で、婦人のようであった。淮渚で部隊に付き従い便乗して郷里に帰ろうとしていたところ、文帝が見て問うた。「我に仕えることができるか」。子高は承諾した。子高は本名を蠻子といったが、帝が改名した。性格は恭謹で、常に備身刀を執り、酒や炙り肉を伝えた。帝は性急であったが、子高は常にその意図を理解した。次第に成長すると、騎射を習い、頗る胆力と決断力があり、将帥となることを願った。杜龕を平定した時、士卒を配属された。文帝は彼を甚だ愛し、未だかつて側を離さなかった。

原文韓子高,會稽山陰人也。家本微賤。侯景之亂,寓都下。景平,陳文帝出守吳興,子高年十六,為總角,容貌美麗,狀似婦人,於淮渚附部伍寄載欲還鄉里,文帝見而問曰:「能事我乎?」子高許諾。子高本名蠻子,帝改名之。性恭謹,恒執備身刀及傳酒炙。帝性急,子高恒會意旨。稍長,習騎射,頗有膽決,願為將帥。及平杜龕,配以士卒。文帝甚愛之,未嘗離左右。

帝はかつて夢に馬に乗って山を登り、道が危険で落ちそうになったが、子高が推し支えて昇った。

原文帝嘗夢騎馬登山,路危欲墮,子高推捧而升。

文帝が張彪を討伐したとき、沈泰らは先に降伏し、帝は州城を占拠した。周文育は北郭の香厳寺を鎮守していたが、張彪が剡県から夜帰りして城を襲撃した。文帝は北門から出たが、慌ただしい暗夜で軍人は混乱し、ただ子高のみが側にいた。文帝は子高を乱兵の中に遣わして文育に会わせ、返命と応答をさせ、暗闇の中でまた諸軍を慰労させた。文帝の散兵が次第に集まり、子高は文育の陣営に導き入れ、共に柵を立てた。翌日、張彪を破り、彪は松山に奔り、浙東は平定された。文帝は麾下の多くを子高に配属し、子高もまた財を軽んじ士を礼遇したので、帰附する者は甚だ多かった。

原文文帝之討張彪也,沈泰等先降,帝據有州城,周文育鎮北郭香岩寺,張彪自剡縣夜還襲城,文帝自北門出,倉卒闇夕,軍人擾亂,唯子高在側。文帝乃遣子高自亂兵中往見文育,反命酬答,於闇中又往慰勞眾軍。文帝散兵稍集,子高引入文育營,因共立柵。明日敗彪,彪奔松山,浙東平。文帝乃分麾下多配子高,子高亦輕財禮士,歸之者甚眾。

文帝が位を嗣ぐと、右軍将軍に任じられ、文招県子に封ぜられた。王琳が平定されると、子高の統べる所は益々多くなり、将士はこれに依附し、その論進する所は、帝は皆任用した。天嘉六年、右衛将軍となった。文帝が不豫のとき、入って医薬に侍した。

原文文帝嗣位,除右軍將軍,封文招縣子。及王琳平,子高所統益多,將士依附之,其有所論進,帝皆任使焉。天嘉六年,為右衛將軍。文帝不豫,入侍醫藥。

廃帝が即位すると、散騎常侍を加えられた。宣帝が輔政に入ると、子高は兵権が重すぎることを深く自ら不安とし、好んで台閣を参訪し、また出て衡・広諸鎮となることを求めた。光大元年八月、前上虞県令陸昉及び子高の軍主がその謀反を告げた。宣帝は尚書省におり、文武の在位者を召して皇太子を立てることを議し、子高もこれに参与したが、捕らえられ廷尉に送られた。その夜、到仲挙と共に死を賜わった。父延慶及び子弟は併せて赦された。

原文廢帝即位,加散騎常侍。宣帝入輔,子高兵權過重,深不自安,好參訪台閣,又求出為衡、廣諸鎮。光大元年八月,前上虞縣令陸昉及子高軍主告其謀反,宣帝在尚書省,因召文武在位議立皇太子,子高預焉,執送廷尉。其夕與到仲舉同賜死。父延慶及子弟並原宥。

華皎

原文華皎

華皎は、晉陵郡暨陽県の人である。代々小吏であった。皎は梁の代に尚書比部令史となった。侯景の乱のとき、景の党王偉に仕えた。陳の武帝が南下すると、文帝は侯景に囚われたが、皎は文帝に甚だ厚く遇した。侯景が平定されると、文帝は呉興太守となり、皎を都録事として深く委任された。文帝が杜龕を平定すると、甲兵を配属された。部下を統御すること分明で、撫接することに長け、衣を解き食を推すこと、多少必ず均しくした。天嘉元年、懐仁県伯に封ぜられた。

原文華皎,晉陵暨陽人也。世為小吏。皎梁代為尚書比部令史。侯景之亂,事景之党王偉。陳武帝南下,文帝為景所囚,皎遇文帝甚厚。及景平,文帝為吳興太守,以皎為都錄事,深見委任。及文帝平杜龕,仍配以甲兵。禦下分明,善於撫接,解衣推食,多少必均。天嘉元年,封懷仁縣伯。

王琳が東下すると、皎は侯瑱に従ってこれを拒いだ。王琳が平定されると、江州の事を知った。後に都督呉明徹に従って周迪を征し、迪が平定されると、功により爵を侯に進められ、都督・湘州刺史を授けられた。皎は下吏から起り、産業を営むことを善くし、また川洞を征して、多く銅鼓及び生口を得て、併せて都下に送った。廃帝が即位すると、重安県公に改封された。

原文王琳東下,皎隨侯瑱拒之。琳平,知江州事。後隨都督吳明徹征周迪,迪平,以功進爵為侯,仍授都督、湘州刺史。皎起自下吏,善營產業,又征川洞,多致銅鼓及生口,並送都下。廢帝即位,改封重安縣公。

韓子高が誅された後、皎は内に自ら安からず、光大元年、密かに啓して広州を求め、以て時の主の意を観ようとした。宣帝は偽ってこれを許したが、詔書は未だ出でなかった。皎もまた使者を遣わして周の兵を引き入れ、また梁の明帝を崇奉し、士馬は甚だ盛んであった。詔して呉明徹を湘州刺史とし、実は軽兵を以てこれを襲おうとした。皎が先に発することを慮り、先に明徹に三万の衆を率いさせ、金翅船に乗って直ちに郢州えいしゅうに向かわせ、また撫軍大将軍淳于量に五万の衆を率いさせ、大艦に乗ってこれに継がせた。

原文韓子高誅後,皎內不自安,光大元年,密啟求廣州,以觀時主意。宣帝偽許之,而詔書未出。皎亦遣使引周兵,又崇奉梁明帝,士馬甚盛。詔乃以吳明徹為湘州刺史,實欲以輕兵襲之。慮皎先發,乃前遣明徹率眾三萬,乘金翅直趣郢州,又遣撫軍大將軍淳于量率眾五萬,乘大艦繼之。

時に梁の明帝は水軍を遣わして皎の声援とし、周の武帝は衛公宇文直を遣わして魯山に頓させ、また柱国長湖西の元定を遣わして郢州を攻囲させた。梁の明帝は皎に司空を授け、巴州刺史戴僧朔・衡陽内史任蠻奴・巴陵内史潘智虔・岳陽太守章昭裕・桂陽太守曹宣・湘東太守銭明は、併せて皎に隷属した。また長沙太守曹慶らは元来皎の下に隷属し、これがために用いられた。帝は上流の宰守が併せて皎に扇動されることを恐れ、詔を下して曲赦湘・巴二州とし、その賊の主帥節将は、併せて恩を開き出首することを許した。

原文時梁明帝遣水軍為皎聲援,周武帝遣衛公宇文直頓魯山,又遣柱國長湖西元定攻圍郢州。梁明帝授皎司空,巴州刺史戴僧朔、衡陽內史任蠻奴、巴陵內史潘智虔、岳陽太守章昭裕、桂陽太守曹宣、湘東太守錢明,並隸於皎。又長沙太守曹慶等本隸皎下,因為之用。帝恐上流宰守並為皎扇惑,乃下詔曲赦湘、巴二州,其賊主帥節將,並許開恩出首。

皎は大艦に薪を載せ、風に因りて火を放ったが、俄かに風が転じて自ら焚かれ、皎は大敗し、戴僧朔と共に江陵に奔った。元定らは再び船渡りすることができず、歩いて巴陵に向かったが、巴陵城は既に陳軍に占拠されていたので、降伏して建鄴に送られた。皎は遂に江陵で終わり、その党は併せて誅され、ただ任蠻奴・章昭裕・曹宣・劉広業のみが免れた。

原文皎以大艦載薪,因風放火,俄而風轉自焚,皎大敗,乃與戴僧朔奔江陵。元定等無復船渡,步趣巴陵,巴陵城已為陳軍所據,乃降,送於建鄴。皎遂終於江陵,其黨並誅,唯任蠻奴、章昭裕、曹宣、劉廣業獲免。

劉師知

原文劉師知

劉師知は、沛国相県の人である。家は元来素族であった。祖父奚之は、斉の淮南太守となり、善政をもって聞こえた。父景彥は、梁の司農卿であった。

原文劉師知,沛國相人也。家本素族。祖奚之,齊淮南太守,以善政聞。父景彥,梁司農卿。

師知は本名を師智といったが、敬帝の諱いみなと同じため改めた。学を好み、当務の才があり、書伝に博く渉り、文筆に工で、儀体に善く、台閣の故事に詳悉であった。紹泰初め、陳の武帝が輔政に入ると、師知を中書舎人とし、詔誥を掌らせた。時に兵乱の後、朝儀は多く欠けており、武帝が丞相となり及び九錫を加えられ並びに禅を受ける儀注は、多く師知の定めるところであった。

原文師知本名師智,以與敬帝諱同,改焉。好學,有當務才,博涉書傳,工文筆,善儀體,台閣故事,多所詳悉。紹泰初,陳武帝入輔,以師知為中書舍人,掌詔誥。時兵亂後,朝儀多闕,武帝為丞相及加九錫並受禪,其儀注多師知所定。

梁の敬帝が内殿におられたとき、師知は常に左右に侍した。害を加えようとするに及んで、師知は帝を騙して出させようとした。帝は気づき、床を巡って走り「師知は我を売り、陳霸先は反した。我は本来天子となる必要はなかったのに、何の理由で殺されようとするのか」と言った。師知は帝の衣を執り、行事の者が刃を加えた。既にして陳の武帝に報じて「事は既に済みました」と言うと、武帝は「卿は我に忠であった。後には再びこのようなことをするな」と言った。師知は答えなかった。武帝が天命を受けると、仍って舎人を兼ねた。性は疎簡で、物と多く忤い、位宦は遷らなかったが、任遇は甚だ重く、その献替することは、皆弘益があった。

原文梁敬帝在內殿,師知常侍左右。及將加害,師知詐帝令出,帝覺,遶床走曰:「師知賣我,陳霸先反。我本不須作天子,何意見殺。」師知執帝衣,行事者加刃焉。既而報陳武帝曰:「事已了。」武帝曰:「卿乃忠於我,後莫復爾。」師知不對。武帝受命,仍兼舍人。性疏簡,與物多忤,雖位宦不遷,而任遇甚重,其所獻替,皆有弘益。

武帝が崩ずると、六日で成服した。時に朝臣が共に大行皇帝の霊座の侠御人の衣服の吉凶の制を議し、博士沈文阿は吉服を着るべきと議し、師知は議して云うに「既に成服と称するは、本来喪礼を備えるものである。案ずるに梁の昭明太子が薨じ、成服したとき、侠侍の官は悉く衰斬を著し、ただ鎧を著すことは異ならなかった。これに擬すべきである。愚かに謂うに、六日成服では、霊座に侠する者は衰絰を服すべきである」。中書舎人蔡景曆・江德藻・謝岐らは師知の議に同じた。時に二つの議が異なるため、啓して左丞徐陵に決断を取った。陵は云うに「案ずるに山陵の鹵簿の吉部伍の中では、公卿以下導引する者は、爰に武賁・鼓吹・執蓋・奉車に及び、併せて吉服である。豈に侠禦のみ衰絰を為すことを容れようか。若し公卿胥吏は併せて衰絰を服すと言うなら、これは梓宮の部伍と何の差別があろうか。若し文物は併せて吉で、司事者は凶だと言うなら、豈に衽絰をして華蓋を奉じ、衰衣をして玉路に升ることを容れようか。博士の議に同ずる」。謝岐は議して曰く「霊筵は宗廟に祔し、梓宮は山陵に祔する。実に左丞の議の如し。但し山陵の鹵簿は、吉凶を備え、霊輿に従う者は儀服に変わりなく、梓宮に従う者は皆苴衰を服す。爰に士礼に至るまで、悉くこの制と同じである。これは自ら山陵の儀であって、成服に関わらない。今、梓宮霊扆は共に西階にあり、成服と称するも、亦鹵簿はなく、直に爰に胥吏より上は王公に至るまで、四海の内、必ず衰絰を備える。案ずるに梁の昭明太子の薨じたときは、略成例であり、豈に凡百の士庶が悉く重服を着て、侍中より武衛に至るまで、最も近官である者が、反って玉を鳴らし青を紆し、平吉と異ならないことを容れようか。左丞は既に山陵の事を推しているが、愚意は或いは成服とは異なると謂う」。陵は重ねて答えて云うに「老病纊に属し、多く説くことができない。古人の争議は、多く怨府を成し、傅玄は晋代に見尤められ、王商は漢朝に取って陷れられた。謹んで自ら三緘し、敬って高命に同じ。若し万一死なずば、猶言を展べ得て、庶くは群賢と更に揚榷を申さん」。文阿は猶所見を執り、衆議決することができず、乃ち二議を具に録して奏聞し、上は師知の議に従った。

原文及武帝崩,六日成服,時朝臣共議大行皇帝靈座俠御人衣服吉凶之制,博士沈文阿議宜服吉,師知議云:「既稱成服,本備喪禮。案梁昭明太子薨,成服,俠侍之官,悉著衰斬,唯著鎧不異,此即可擬。愚謂六日成服,俠靈座須服衰絰。」中書舍人蔡景曆、江德藻、謝岐等同師知議。時以二議不同,乃啟取左丞徐陵決斷。陵云:「案山陵鹵簿吉部伍中,公卿以下導引者,爰及武賁、鼓吹、執蓋、奉車,並是吉服,豈容俠禦獨為衰絰?若言公卿胥吏並服衰絰,此與梓宮部伍有何差別?若言文物並吉,司事者凶,豈容衽絰而奉華蓋,衰衣而升玉路邪?同博士議。」謝岐議曰:「靈筵祔宗廟,梓宮祔山陵,實如左丞議。但山陵鹵簿,備有吉凶,從靈輿者儀服無變,從梓宮者皆服苴衰,爰至士禮,悉同此制。此自是山陵之儀,非關成服。今謂梓宮靈扆,共在西階,稱為成服,亦無鹵簿,直是爰自胥吏,上至王公,四海之內,必備衰絰。案梁昭明太子薨,略是成例,豈容凡百士庶,悉皆服重,而侍中至於武衛,最是近官,反鳴玉紆青,與平吉不異?左丞既推以山陵事,愚意或謂與成服有殊。」陵重答云:「老病屬纊,不能多說。古人爭議,多成怨府,傅玄見尤于晉代,王商取陷於漢朝。謹自三緘,敬同高命。若萬一不死,猶得展言,庶與群賢,更申揚榷。」文阿猶執所見,眾議不能決,乃具錄二議奏聞,上從師知議。

鴻臚卿に遷り、舎人は元の如くであった。天嘉元年、事に坐して免ぜられた。尋いで中書舎人として起用され、再び詔誥を掌った。天康元年、文帝が不豫のとき、師知は尚書僕射到仲挙らと入って医薬に侍した。帝が崩ずると、顧命に預かった。宣帝が輔政に入ると、師知は仲挙らと共に舎人殷不佞を遣わし、詔を矯って宣帝に東府に還ることを命じたが、事が覚り、北獄で死を賜わった。

原文遷鴻臚卿,舍人如故。天嘉元年,坐事免。尋起為中書舍人,復掌詔誥。天康元年,文帝不豫,師知與尚書僕射到仲舉等入侍醫藥。帝崩,豫顧命。宣帝入輔,師知與仲舉等遣舍人殷不佞矯詔令宣帝還東府,事覺,於北獄賜死。

初めに、文帝は師知に起居注を撰述するよう命じ、永定二年の秋より天嘉元年までを十巻とした。

原文初,文帝敕師知撰起居注,自永定二年秋至天嘉元年為十卷。

謝岐

原文謝岐

謝岐は会稽郡山陰県の人である。父の達は、梁の太学博士であった。

原文謝岐,會稽山陰人也。父達,梁太學博士。

岐は幼少より機知に富み、学問を好み、梁に仕えて山陰県令となった。侯景の乱の際には東陽に流寓した。侯景が平定されると、張彪に身を寄せた。彪が呉郡及び会稽に在った時、諸事を岐に委ねた。彪が征討に出る度に、常に岐を留めて郡を監理させ、後事を執らしめた。彪が敗れると、陳の武帝は岐を召し出して機密に参与させ、兼尚書右丞とした。当時は軍旅が頻繁に興り、糧食の備蓄が多く欠乏していたが、岐が任に当たって処理し、深く知遇された。永定元年、給事黄門侍郎・中書舎人となり、兼右丞は元の如くであった。天嘉二年に卒去し、通直散騎常侍を追贈された。

原文岐少機警,好學,仕梁為山陰令。侯景亂,流寓東陽。景平,依于張彪。彪在吳郡及會稽,庶事委之。彪每征討,恒留岐監郡知後事。彪敗,陳武帝引參機密,為兼尚書右丞。時軍旅屢興,糧儲多闕,岐所在幹理,深被知遇。永定元年,為給事黃門侍郎、中書舍人,兼右丞如故。天嘉二年卒,贈通直散騎常侍。

弟の嶠は学問に篤く、博識の儒者であった。

原文弟嶠,篤學,為通儒。

毛喜

原文毛喜

毛喜は字を伯武といい、滎陽郡陽武県の人である。祖父の称は梁の散騎侍郎であった。父の棲忠は中権司馬であった。

原文毛喜字伯武,滎陽陽武人也。祖稱,梁散騎侍郎。父棲忠,中權司馬。

喜は若くして学問を好み、草書・隷書に優れた。陳の武帝は平素より彼を知っていた。京口を鎮守するに及んで、喜に命じて宣帝と共に江陵に赴かせ、宣帝に彼に諮問して従うよう命じた。梁の元帝が即位すると、宣帝を領直とし、喜を尚書功論侍郎とした。魏が江陵を平定すると、喜は宣帝と共に長安に遷された。文帝が即位すると、喜は周より帰還し、和好の策を進言した。陳朝はこれにより周弘正らを通聘させた。宣帝が帰国すると、また喜を周に遣わし、家族の帰還を請わせた。周の塚宰宇文護は喜の手を取って言った、「二国の友好を結ぶことの出来る者は、卿である」と。そこで柳皇后及び後主を迎え還した。天嘉三年に都に至り、宣帝は当時驃騎将軍であったが、喜を府諮議参軍とし、中記室を領させた。府中の文翰は全て喜の詞であった。

原文喜少好學,善草隸。陳武帝素知之。及鎮京口,命喜與宣帝往江陵,仍敕宣帝諮稟之。及梁元帝即位,以宣帝為領直,喜為尚書功論侍郎。及魏平江陵,喜與宣帝俱遷長安。文帝即位,喜自周還,進和好之策,陳朝乃遣周弘正等通聘。及宣帝反國,又遣喜入周,以家屬為請。周塚宰宇文護執喜手曰:「能結二國之好者,卿也。」仍迎柳皇后及後主還。天嘉三年至都,宣帝時為驃騎將軍,仍以喜為府諮議參軍,領中記室,府朝文翰,皆喜詞也。

文帝はかつて宣帝に言った、「我が諸子は皆'伯'の字を名に用いている。汝の諸子は'叔'の称を用いるがよい」と。宣帝が喜に諮ると、喜は直ちに古来の名賢である杜叔英・虞叔卿ら二十余人を列挙して上奏した。文帝はこれを称善した。

原文文帝嘗謂宣帝曰:「我諸子皆以'伯'為名,汝諸子宜用'叔'為稱。」宣帝以訪喜,喜即條自古名賢杜叔英、虞叔卿等二十餘人以啟之,文帝稱善。

文帝が崩御し、廃帝は幼少であったため、宣帝が尚書を録して政務を補佐した。僕射の到仲挙らが太后の詔を偽り、宣帝を東府に還らせようとした。当時は疑惧が渦巻き、敢えて言う者もなかった。喜は直ちに馳せ参じ、宣帝に言った、「今日の言葉は、必ずや太后の本意ではあるまい。宗廟社稷は最も重きことである。どうか三思を加えられたい」と。果たしてその策の通りとなった。

原文文帝崩,廢帝沖昧,宣帝錄尚書輔政,僕射到仲舉等矯太后令,遣宣帝還東府,當時疑懼,無敢厝言。喜即馳入,謂宣帝曰:「今日之言,必非太后之意,宗社至重,願加三思。」竟如其策。

右衛将軍韓子高は初め仲挙と共謀していたが、その事は未だ発覚していなかった。喜は宣帝に言った、「人馬を選んで子高に配し、併せて鉄と炭を賜り、兵器甲冑を修繕させるとよいでしょう」と。宣帝は言った、「子高を捕らえようとしているのに、どうして更にこのようなことをするのか」と。喜は言った、「先帝の山陵が終わったばかりで、辺境の寇賊はなお多い。しかるに子高は前朝より委任を受け、順臣を名乗っている。心を推し量って安んじ誘い、自ら疑わないようにさせ、これを図るのは一壮士の力で足ります」と。宣帝はついにその計を実行した。

原文右衛將軍韓子高始與仲舉通謀,其事未發,喜謂宣帝曰:「宜簡人馬配與子高,並賜鐵炭,使修器甲。」宣帝曰:「子高即欲收執,何更如是?」喜曰:「山陵始畢,邊寇尚多,而子高受委前朝,名為杖順,宜推心安誘,使不自疑,圖之一壯士之力耳。」宣帝卒行其計。

宣帝が即位すると、給事黄門侍郎に任じ、中書舎人を兼ね、軍国の機密を掌った。宣帝が北侵を議すると、喜に命じて軍制十三条を撰述させ、詔を下して天下に頒布した。文は多く載せない。策定の功を論じ、東昌県侯に封じられ、太子右衛率・右将軍として江夏・武陵・桂陽の三王府の国事を行った。母の喪に服して職を去ったが、詔して喜の母の庾氏を東昌国太夫人に封じ、員外散騎常侍の杜緬を遣わしてその墓田の図を描かせた。上は自ら緬と図を案じ指画し、その重用されることこの如くであった。御史中丞、五兵尚書を歴任し、選事を参掌した。

原文及帝即位,除給事黃門侍郎,兼中書舍人,典軍國機密。宣帝議北侵,敕喜撰軍制十三條,詔頒天下,文多不載。論定策功,封東昌縣侯,以太子右衛率、右將軍行江夏、武陵、桂陽三王府國事。母憂去職,詔封喜母庾氏東昌國太夫人,遣員外散騎常侍杜緬圖其墓田,上親與緬案圖指畫,其見重如此。歷位御史中丞,五兵尚書,參掌選事。

淮南の地を得ると、喜は辺境安定の術を上奏した。宣帝はこれを容れ、即日に施行した。帝はさらに彭城・汴州に進軍しようと考え、喜に問うた。喜は「淮左は新たに平定されたばかりで、辺境の民は未だ安んじていない。周氏は斉国を併呑したばかりであり、鋒を争うことは難しい。民を安んじ境を保つのが、長久の術である」と考えた。上は従わなかった。呉明徹はついに周に捕虜とされた。

原文及得淮南之地,喜陳安邊之術,宣帝納之,即日施行。帝又欲進兵彭、汴,以問喜,喜以為「淮左新平,邊人未輯,周氏始吞齊國,難與爭鋒,未若安人保境,斯久長之術也」。上不從。吳明徹卒俘于周。

喜は後に丹陽尹、吏部尚書を歴任した。宣帝が崩御すると、叔陵が叛逆を企てた。中庶子の陸瓊に旨を宣するよう命じ、南北の諸軍は皆喜の処分に従うこととした。賊が平定されると、侍中を加えられた。

原文喜後曆丹陽尹,吏部尚書。及宣帝崩,叔陵構逆,敕中庶子陸瓊宣旨,令南北諸軍皆取喜處分。賊平,加侍中。

初め、宣帝は喜に政務を委ねた。喜は幾度も諫争し、事柄は皆聞き入れられた。明徹が敗れた後、帝はその言を用いなかったことを深く悔い、袁憲に言った、「一度喜の計を用いなかったばかりに、このような事態を招いてしまった」と。これにより一層親重され、喜は言うに回避することがなくなった。当時、皇太子は酒を好み、常に親しい幸臣と共に長夜の宴を催していた。喜はかつて宣帝にこれを言上し、太子はこれを恨みに思った。即位後、次第に疎遠にされた。始興王に傷つけられ、傷が癒えると、酒宴を設けて江総以下を引き入れ、音楽を奏で詩を賦し、酔い酣れて喜を召し出した。当時は先帝の山陵が終わったばかりで、一年も経ておらず、喜はこれを見て快からず、諫めようとしたが後主は既に酔っていた。喜は心疾を訴え、階下に倒れ、省中から運び出された。後主が醒めると、江総に言った、「毛喜を召したことを悔いる。彼に病はないと知っている。ただ我が歓宴を阻もうとしているだけで、我が為すべきことではない」と。そこで司馬申と謀って言った、「この者は気性が強い。我は彼を鄱陽王兄弟に与え、その報仇を許そうと思うが、よろしいか」と。申は答えて言った、「終には官に用いられません。聖旨の通りにされることを願います」と。傅縡が争って言った、「もし報仇を許すならば、先皇を何処に置かれますか」と。後主は言った、「一小郡を与え、人事に関わらせぬようにするだけである」と。

原文初,宣帝委政於喜,喜數有諫爭,事並見從。自明徹敗後,帝深悔不用其言,謂袁憲曰:「一不用喜計,遂令至此。」由是益見親重,喜乃言無回避。時皇太子好酒德,每共親幸人為長夜之宴,喜嘗言之宣帝,太子遂銜之,即位後稍見疏遠。及被始興王傷,創愈,置酒引江總以下,展樂賦詩,醉酣而命喜。于時山陵初畢,未及踰年,喜見之不懌,欲諫而後主已醉。喜言心疾,僕於階下,移出省中。後主醒,乃謂江總曰:「我悔召毛喜,知其無病,但欲阻我歡宴,非我所為耳。」乃與司馬申謀曰:「此人負氣,吾欲將乞鄱陽兄弟,聽其報讎,可乎?「對曰:「終不為官用,願如聖旨。」傅縡爭之曰:「若許報讎,欲置先皇何地?」後主曰:「當與一小郡,勿令見人事耳。」

至徳元年(583年)、永嘉内史に任ぜられる。喜は郡に至り、俸禄を受けず、政治は寛大で清静であり、人吏は安んじた。豊州刺史章大寶が挙兵して反乱を起こすに及び、郡は豊州と接し、かつて備えがなかったため、喜は城壁と器械を修築し、また兵を派遣して建安を救援した。賊が平定されると、南安内史に任ぜられる。禎明元年(587年)、光禄大夫に召され、左驍騎将軍を兼ねたが、赴任途中で死去した。文集十巻あり。子の処沖が後を嗣いだ。

原文至德元年,授永嘉內史。喜至郡,不受奉秩,政弘清靜,人吏安之。遇豐州刺史章大寶舉兵反,郡與豐州接,而素無備,喜乃修城隍器械,又遣兵援建安。賊平,授南安內史。禎明元年,徵為光祿大夫,領左驍騎將軍,道卒。有集十卷。子處沖嗣。

沈君理

原文沈君理

沈君理は字を仲倫といい、呉興の人である。祖父の僧畟は、梁の左戸尚書であった。父の巡は、元帝の時に少府卿の位にあった。魏が荊州を平定すると、梁の宣帝は金紫光禄大夫に任命した。

原文沈君理字仲倫,吳興人也。祖僧畟,梁左戶尚書。父巡,元帝時位少府卿。魏平荊州,梁宣帝署金紫光祿大夫。

君理は風采が美しく、広く学問に通じ識見があった。陳の武帝が南徐州を鎮守した時、巡は君理を遣わして謁見させたが、深く器重され、会稽長公主に娶せられることを命ぜられた。帝が禅譲を受けると、駙馬都尉に任ぜられ永安亭侯に封ぜられ、呉郡太守となった。当時は戦乱が未だ収まらず、民衆は疲弊していたが、君理は士卒を集め、器械を整備し、その統治能力を深く称えられた。

原文君理美風儀,博涉有識鑒。陳武帝鎮南徐州,巡遣君理致謁,深見器重,命尚會稽長公主。及帝受禪,拜駙馬都尉,封永安亭侯,為吳郡太守。時兵革未甯,百姓荒弊,君理總集士卒,修飾器械,深以幹理見稱。

文帝が位を嗣ぐと、累進して左戸尚書となった。天嘉六年(565年)、東陽太守となる。天康元年(566年)、父の喪のため官を去り、自ら荊州へ赴き柩を迎えたいと請うた。朝廷の議論では、在職中の重臣をして境外に出させるのは難しいとして、長兄の君厳を遣わした。帰還し、葬ろうとした時、詔して巡に侍中・領軍将軍を追贈し、諡して敬子といった。

原文文帝嗣位,累遷左戶尚書。天嘉六年,為東陽太守。天康元年,以父憂去職,自請往荊州迎柩。朝議以在位重臣,難令出境,乃遣長兄君嚴往焉。及還,將葬,詔贈巡侍中、領軍將軍,諡曰敬子。

太建年間(569-582年)、太子詹事、吏部尚書の位を歴任した。宣帝は君理の娘を皇太子の妃とし、君理に望蔡県侯の爵位を賜り、侍中・尚書右僕射の位に就けた。死去すると、翊左将軍・開府儀同三司を追贈され、諡して貞憲といった。君理の弟に君高、君公がいる。

原文太建中,歷位太子詹事,吏部尚書。宣帝以君理女為皇太子妃,賜爵望蔡縣侯,位侍中、尚書右僕射。卒,贈翊左將軍、開府儀同三司,諡曰貞憲。君理弟君高、君公。

君高は字を季高といい、若くして名を知られ、性質は剛直で、官吏としての才能があった。衛尉卿、平越中郎将・都督・広州刺史の位にあり、人心を得ること甚だしかった。死去し、諡して祁子といった。

原文君高字季高,少知名,性剛直,有吏能。位衛尉卿,平越中郎將、都督、廣州刺史,甚得人和。卒,諡祁子。

君公は梁の元帝が敗れた後、常に江陵にいた。禎明年間(587-589年)、蕭瓛・蕭岩とともに隋に叛いて陳に帰順し、後主は彼を太子詹事に抜擢した。君公は博学で才弁があり、談論を善くし、後主は深く彼を器重した。陳が滅んで隋に入ると、文帝はその叛亡を理由に、建康において斬刑に処すことを命じた。

原文君公自梁元帝敗後,常在江陵。禎明中,與蕭瓛、蕭岩叛隋歸陳,後主擢為太子詹事。君公博學有才辯,善談論,後主深器之。陳亡入隋,文帝以其叛亡,命斬于建康。

君理の五番目の叔父の邁もまた、方正で統治の才幹があり、通直散騎常侍の位にあり、東宮に侍した。

原文君理第五叔邁,亦方正有幹局,位通直散騎常侍,侍東宮。

陸山才

原文陸山才

陸山才は字を孔章といい、呉郡呉県の人である。祖父の翁宝は、梁の尚書水部郎であった。父の泛は、中散大夫であった。

原文陸山才字孔章,吳郡吳人也。祖翁寶,梁尚書水部郎。父泛,中散大夫。

山才は風采が優れ、文史を好み、范陽の張纘およびその弟の張綰はともに彼を欽重した。

原文山才倜儻,好尚文史,范陽張纘、纘弟綰並欽重之。

紹泰年間(555-556年)、都督周文育が南豫州に出鎮したが、文書に通じていなかったため、山才を長史とし、政事をすべて彼に委ねた。文育が南方を討伐し、蕭勃を撃破し、欧陽頠を捕らえたが、その計画の多くは山才の出したものであった。後に文育が豫章金口に重く鎮すると、山才は再び鎮南長史・豫章太守となった。

原文紹泰中,都督周文育出鎮南豫州,不知書疏,以山才為長史,政事悉以委之。文育南討,克蕭勃,禽歐陽頠,計畫多出山才。後文育重鎮豫章金口,山才復為鎮南長史、豫章太守。

文育が熊曇朗に害されると、曇朗は山才らを囚え、王琳のもとに送った。未だ到着せぬうちに、侯安都が王琳の将軍常衆愛を破ったため、これによって山才は帰還することができた。累進して度支尚書となったが、宴席で蔡景歴と言葉遣いが過ぎたことを咎められ、有司に奏上されて官を免ぜられた。まもなく散騎常侍を授けられ、西陽・武昌二郡の太守に遷った。死去し、諡して簡子といった。

原文文育為熊曇朗所害,曇朗囚山才等,送于王琳。未至,而侯安都敗琳將常眾愛,由是山才獲反。累遷度支尚書,坐侍宴與蔡景曆言語過差,為有司所奏,免官。尋授散騎常侍,遷西陽、武昌二郡太守。卒,諡曰簡子。

【論】

原文【論】

論ずるに、趙知禮・蔡景曆は陳の武帝が経綸を始める日に属し、文房書記の任に居り、これはすなわち宋・斉の初めの傅亮・王儉の職である。もしその才用を校ぶれば、理は同年ならず、しかもついに務めに膺り時を済わすことを得たのは、蓋しその遇いによる。希祥は労臣の子にして、才名は自ら致すところ、跡は便佞に渉り、貞介の羞ずるところなり。元饒は始終任遇に、公道を虧くことなく、名位は自ら卒し、その殆ど優れたるか。子高は権重くして戮せらる、またその宜しきなり。華皎は経綸の雲始め、既に元功を蹈み、殷憂の辰、自ら勁草に同じくし、奔敗を致すと雖も、未だ以て非とすべからず。師知は送往に多く闕け、新主に忌まれるを見る、人を謀るの義、慎しまざるべけんや;然れども晩に誅夷に遇う、その過ちに非ず。毛喜は時に逢い主に遇い、好謀にして成り、昏朝に見廢せられ、公輔に致らず、惜しむべし。沈・陸の重んぜらるる所以は、固よりまた雅望の致すところなるか。

原文論曰:趙知禮、蔡景曆屬陳武經綸之日,居文房書記之任,此乃宋、齊之初傅亮、王儉之職。若乃校其才用,理不同年,而卒能膺務濟時,蓋其遇也。希祥勞臣之子,才名自致,跡涉便佞,貞介所羞。元饒始終任遇,無虧公道,名位自卒,其殆優乎。子高權重為戮,亦其宜也。華皎經綸雲始,既蹈元功,殷憂之辰,自同勁草,雖致奔敗,未足為非。師知送往多闕,見忌新主,謀人之義,可無慎哉;然晚遇誅夷,非其過也。毛喜逢時遇主,好謀而成,見廢昏朝,不致公輔,惜矣。沈、陸所以見重,固亦雅望之所致焉。