南史 巻六十七列伝第五十七

南史

巻六十七列伝第五十七

胡穎

胡穎、字は方秀、呉興の人である。姿形は雄偉で、性質は寛厚であった。梁の末、陳の武帝が広州にいたとき、胡穎は深く自ら結びついた。武帝に従って元景仲を撃破し、蔡路養・李遷仕を平定するのにいずれも功績があった。武帝が軍を進めて西昌に駐屯すると、胡穎を巴丘県令とし、大皋を鎮守させ、糧食の輸送を監督させた。下って 章に至り、胡穎に 章郡を監察させた。武帝が衆を率いて王僧弁と白茅湾で会し、ともに侯景を討つにあたり、胡穎に留府の事務を執らせた。

梁の承聖初め、元帝は胡穎に羅州刺史を授け、漢陽県侯に封じた。まもなく 章内史に任じ、武帝に従って京口を鎮守した。斉が郭元建を派遣して東関から出撃させると、武帝は胡穎に命じて府内の ぎょう 勇の兵を率い侯瑱に従わせ、東関においてこれを大破した。後に武帝に従って王僧弁を襲撃し、また周文育に従って呉興において杜龕を討った。武帝が禅譲を受けると、左衛将軍を兼ねた。

天嘉元年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・呉興太守に任じられた。任地で死去し、諡は壮といった。二年、武帝の廟庭に配享された。子の六同が後を嗣いだ。

徐度

徐度、字は孝節、安陸の人である。若い頃は倜儻で、小節に拘らなかった。成長すると、姿貌は瑰偉で、酒を嗜み博奕を好み、常に僮僕に屠殺や酒売りをさせて生業としていた。

初め梁の始興内史蕭介に従って諸山洞を征討し、 ぎょう 勇をもって知られた。陳の武帝が交址を征討したとき、ついに身を委ねた。侯景の乱の際、武帝が広州を平定し、蔡路養を平らげ、李遷仕を破ったが、計画の多くは徐度の出したところであった。侯景平定後、前後の戦功を追録して、広徳県侯に封じられた。

武帝が朱方を鎮守したとき、蘭陵太守に任じられた。武帝が衡陽献王を荊州に派遣すると、徐度は率いる所領の兵を率いてこれに従った。江陵が覆亡すると、間道を行って東に帰還した。

武帝が東進して杜龕を討つにあたり、敬帝を奉じて京口に赴き、徐度に宿衛を統率させ、併せて留府の事務を執らせた。徐嗣徽・任約らが来寇すると、武帝と敬帝は都に還ったが、時に賊はすでに石頭を占拠しており、徐度に命じて軍を冶城寺に駐屯させた。翌年、嗣徽らがまた斉の賊を引きいて江を渡ると、徐度は衆軍に従ってこれを北郊壇で破った。功により 郢州 えいしゅう 刺史に任じられ、呉興太守を兼ねた。

文帝が即位すると、累遷して侍中・中撫将軍・開府儀同三司となり、爵位を公に進めた。天嘉元年、王琳を平定した功績により、湘東郡公に改封された。太尉侯瑱が湘州で薨じると、徐度が侯瑱に代わって 都督 ととく ・湘州刺史となった。任期が満ちると、再び侍中・中軍大将軍となった。文帝が崩御すると、徐度は顧命にあずかり、甲仗五十人を率いて殿省に入ることを許された。廃帝が即位すると、 司空 しくう に進位した。薨じ、太尉を追贈され、諡は忠粛といった。太建四年、武帝の廟庭に配享された。子の敬成が後を嗣いだ。

敬成は幼くして聡明で慧く、読書を好んだ。著作佐郎として起家した。永定元年、父の徐度が統率していた士卒を率い、周文育・侯安都に従って王琳を征討したが、沌口で敗北し、王琳に捕らえられた。二年、文育・安都とともに帰還を得た。父の徐度が呉郡太守となったとき、敬成に郡を監察させた。

光大元年、巴州刺史となった。まもなく水軍となり、呉明徹に従って華皎を平定した。二年、父の喪により官を去った。まもなく起用されて南 州刺史となり、湘東郡公の爵位を襲封した。

太建五年、呉興太守に任じられた。 都督 ととく 呉明徹に従って北討し、秦郡から出撃し、別に敬成を 都督 ととく として派遣し、金翅船に乗って欧陽引埭から江を遡り、広陵を経由した。斉人は皆城を守り、敢えて出撃しなかった。繁梁湖から淮水に下り、淮陰・山陽・塩城の三郡を攻略し、さらに進んで鬱洲を攻略した。壮武将軍の号を加えられ、朐山を鎮守した。軍中において勝手に徴発を行い、併せて新たに帰附した者を誅殺した罪により、官を免ぜられた。まもなく安州刺史に任じられ、宿預を鎮守した。卒し、諡は思といった。子の敞が後を嗣いだ。

杜棱

杜棱は字を雄盛といい、呉郡銭唐の人である。若い頃は落ちぶれて、当時の人に知られなかった。書伝に広く通じていた。嶺南に遊び、梁の広州刺史新渝侯蕭映に仕えた。蕭映が没すると、陳武帝に従い、蔡路養・李遷仕を平定して功績があった。梁元帝が承制すると、石州刺史・上陌県侯に任じられた。

侯景平定後、武帝が朱方を鎮守したとき、杜棱に義興・琅邪の二郡を監させた。武帝が王僧辯を誅殺しようと謀り、杜棱と侯安都らを招いて共に議したが、杜棱は難色を示した。武帝は彼が機密を漏らすことを恐れ、手巾で杜棱を絞め、杜棱は地に悶絶したので、別室に閉じ込めた。軍が発すると、召し出して同行させた。王僧辯平定後、武帝が杜龕らを東征したとき、杜棱と安都を留めて居守らせた。徐嗣徽・任約が斉軍を引きいて江を渡り、台城を攻撃すると、安都と杜棱は臨機応変に抵抗し、帯を解くことがなかった。賊が平定され、功により右衛将軍・丹陽尹に任じられた。

永定元年、侍中・中領軍の位にあった。武帝が崩御したとき、文帝は南皖にいた。当時、内には嫡嗣がなく、外には強敵があり、侯瑱・侯安都・徐度らは皆軍中にあり、朝廷の宿将で都にいたのは杜棱のみで、ただ一人禁兵を統率していた。そこで蔡景歴らと共に秘して喪を発せず、文帝を奉迎した。文帝が即位すると、領軍将軍に遷り、擁立の功績により永城県侯に改封され、丹陽尹の位にあった。廃帝が即位すると、特進・侍中を加えられた。光大元年、尹を解かれ、佐史を量置され、扶を与えられた。太建元年、外任して呉興太守となった。二年、召されて侍中となった。まもなく特進・護軍将軍を加えられた。三年、公事により侍中・護軍を免じられた。四年、再び侍中・右光禄大夫となり、将軍・佐史・扶は全て以前の通りであった。

杜棱は三帝に仕え、皆恩寵を受けた。末年は征役に預からず、都下で悠々と過ごした。ほどなくして官で卒した。開府儀同三司を追贈され、諡して成といい、武帝の廟庭に配享された。子の安世が嗣いだ。

周鉄武

周鉄武は、何処の人か知られていない。語音は荒々しく重く、膂力は人に優れ、馬槊をよくした。梁の河東王蕭誉に仕え、勇敢さで知られた。蕭誉が湘州刺史となると、彼を臨蒸県令とした。侯景の乱のとき、梁元帝が世子方等を遣わして蕭誉を討たせたが、蕭誉は防戦して大勝し、方等は戦死し、鉄武の功績が最も大きかった。王僧辯が蕭誉を討ったとき、陣中で鉄武を捕らえ、煮殺そうとしたところ、鉄武は叫んだ。「侯景が未だ滅んでいないのに、どうして壮士を殺すのか!」僧辯はその言葉を奇とし、許して麾下に戻した。侯景が西上すると、鉄武は僧辯に従って任約を撃破し、宋子仙を捕らえ、戦うごとに功績があった。元帝が承制すると、潼州刺史に任じ、沌陽県子に封じられた。また僧辯に従って建鄴を平定し、謝答仁を降し、湘州で陸納を平定し、前後の功績を記録され、侯に爵位を進めた。

陳武帝が僧辯を誅殺すると、鉄武は配下を率いて降伏し、元の官職に復した。徐嗣徽が斉の賊を引きいて江を渡ると、鉄武はその水軍を撃破した。嗣徽が平定されると、太子左衛率に遷った。まもなく周文育に従って蕭勃を防ぎ、文育は鉄武に別軍を率いて蕭勃を襲撃させ、勃の前軍欧陽頠を捕らえた。また文育に従って沌口で王琳を西征したが、敗北し、文育・侯安都と共に琳に捕らえられた。琳は諸将と会って語ったが、鉄武のみが言辞の気勢が屈せず、それ故に琳は文育の徒を皆許したが、鉄武のみが殺害された。侍中・護軍を追贈された。天嘉五年、文帝はまた詔して武帝の廟庭に配食させた。子の瑜が嗣いだ。

程霊洗

程霊洗は字を玄滌といい、新安海寧の人である。若い頃から勇力で知られ、歩行で一日二百里、騎乗をよくし、水泳に長け、元より郷里で畏服されていた。侯景の乱のとき、黟・歙に拠って徒党を集めて侯景に抵抗した。景軍が新安を占拠すると、新安太守湘西郷侯蕭隠が霊洗のもとに奔り依ったので、霊洗は彼を奉じて盟主とした。梁元帝は霊洗に譙州刺史の資格を与え、新安太守を領させ、巴丘県侯に封じた。後に王僧辯を助けて鎮防した。

武帝が僧辯を誅殺すると、霊洗は配下を率いて救援に来た。その夜、石頭城西門で力戦し、武帝軍は不利となったが、使者を遣わして招き諭し、長くしてようやく降伏した。帝は深くその義を重んじた。蘭陵太守に任じ、引き続き京口の防備を助けた。徐嗣徽を平定したとき、霊洗に功績があり、南丹陽太守に任じ、遂安県侯に封じられた。後に周文育に従って王琳を西討したが、軍は敗れ、琳に拘束された。まもなく侯安都らと共に逃げ帰った。累進して太子左衛率となった。

武帝が崩御すると、王琳の前軍が東下したので、霊洗は南陵でこれを撃破し、その兵士を虜にし、併せて青龍車十余乗を捕獲した。功により 都督 ととく ・南 州刺史に任じられた。侯瑱らが柵口で王琳を破ると、霊洗は敗走する敵を追撃し、魯山を占拠した。召されて左衛将軍となった。天嘉四年、周迪が再び臨川を寇すと、霊洗を 都督 ととく とし、鄱陽から別道を進撃させた。迪はまた山谷の間に逃走した。中護軍に遷り、外任して 都督 ととく ・郢州刺史となった。

廃帝が即位すると、雲麾将軍の号を進めた。華皎が反乱したとき、使者を遣わして霊洗を招いたが、霊洗は皎の使者を斬って報告した。朝廷は深くその忠を嘉し、心を推して彼を待遇し、その子文季に水軍を率いさせて防備を助けさせた。当時、周の将元定が歩騎二万を率いて華皎を助け、霊洗を包囲した。霊洗は城に拠って固守した。華皎が敗れると、軍を出して元定を追撃し、定は江を渡ることができず、その兵衆を率いて降伏した。そこで進攻し、周の沔州を陥落させ、その刺史裴寛を捕らえた。功により重安県公に改封された。

霊洗の性格は厳しくせっかちで、部下を統御すること甚だ厳しく、士卒に小さな罪があれば必ず軍法で誅殺した。号令は分明で、士卒と苦楽を共にし、兵衆もまたこのことで彼を徳とした。生来耕作を好み、自ら勤めて耕稼に励み、水陸の適宜や刈り取りの早晚については、老農でさえ及ばなかった。妓妾に遊手の者なく、皆督いて紡績させた。財産を散ずるに至っては、また吝嗇ではなかった。卒すると、鎮西将軍・開府儀同三司を追贈され、諡して忠壮といった。太建四年、武帝の廟庭に配享された。子の文季が嗣いだ。文季は字を少卿といい、幼い頃から騎射を習い、才幹と謀略に富み、果断にして父の風があった。霊洗が周文育・侯安都らと沌口で敗れ、王琳に捕らえられたとき、武帝は賊に陥った諸将の子弟を召して厚遇したが、文季が最も礼容に優れ、深く賞賛された。

文帝が位を嗣ぐと、宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。累進して臨海太守となった。後に金翅船に乗って父を助け郢城を鎮守した。華皎が平定されると、霊洗と文季は共に防禦の功績があった。霊洗が卒すると、文季はその配下を全て統領した。起用されて超武将軍となり、引き続き郢州の防備を助けた。

文季は性、至孝にして、軍旅に礼を奪わるれども、毀瘠甚だしきに至る。服闋し、重安県公を襲封す。 都督 ととく 章昭達に随ひ軍を率ひ荊州に往きて梁を征す。梁人と周軍は多く舟艦を造り、青泥水中に置く。昭達は文季を遣はし、銭道戢と共に其の舟艦を尽く焚かしむ。既にして周兵大いに出づ。文季は僅かに身を以て免る。功を以て通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加ふ。

太建五年、 都督 ととく 呉明徹北討し、秦郡に至る。秦郡の前、江浦塗水に通ず。斉人は並びに大柱を下して杙と為し、水中に柵す。文季乃ち前に ぎょう 勇を領し、其の柵を抜き開く。明徹は大軍を率ひ自ら後に至り、秦郡を攻克す。又別に文季を遣はし涇州を攻め、其の城を屠る。進みて盱眙を抜く。仍ひて明徹に随ひ寿陽を囲む。文季は事に臨み謹飭にして、下を禦ぐに厳整なり。前後に克つ所の城壘は、率ね皆迮水して堰を為し、土木の功、動もすれば数万を踰ゆ。陣を置き役人す。文季は必ず諸将に先んじ、夜は則ち早く起き、暮に至る迄休まず。軍中其の勤幹に服せざる莫し。毎たび戦ふに前鋒と為り、斉軍深く之を憚り、程彪と謂ふ。功を以て 散騎常侍 さんきじょうじ を除し、新安内史を帯ぶ。累遷して北徐州刺史と為り、 都督 ととく を加ふ。

後に明徹に随ひ北侵し、軍敗れ、周に囚はれ、仍ひて開府儀同三司を授く。十一年、周より逃げ帰り、渦陽に至り、辺吏に執へられ長安に送られ、獄に死す。是の時既に周と絶ち、之を知らず。至徳元年、後主之を知り、 散騎常侍 さんきじょうじ を贈る。又詔して其の廃絶を傷み、重安県侯に降封し、子響を以て封を襲がしむ。

沈恪

沈恪は字は子恭、呉興武康の人なり。深沈にして幹局有り。梁の新渝侯蕭映の広州と為るに、兼ねて映の府中兵参軍と為る。陳武帝は恪と郡を同じくし、情好甚だ昵し。蕭映卒して後、武帝南討して李賁を討つ。仍ひて妻子を遣はし恪に附して郷に還らしむ。尋ひて東宮直後を補ふ。嶺南の勳を以て、員外散騎侍郎を除す。仍ひて令して宗従の子弟を総集せしむ。

侯景台城を囲み、東西二つの土山を起こして以て城に逼る。城内も亦た土山を作りて之に応ず。恪は東土山の主と為り、昼夜拒戦す。功を以て東興侯に封ぜらる。城陥つるに及び、間行して郷に帰る。武帝景を討つに、使を遣はし恪に報ず。恪は東に於て兵を起こし相応ず。賊平したる後、都軍副を授く。

武帝王僧辯を討たんと謀るに及び、恪其の事に預る。武帝は文帝をして長城に還り柵を立て杜龕に備へしめ、恪をして武康に還り兵衆を招集せしむ。僧辯誅せられ、龕果たして副将杜泰を遣はし長城に於て文帝を襲はしむ。恪は時に已に県を出で、龕の党与を誅す。武帝尋ひて周文育を遣はし来りて長城を援けしむ。文育至りて、泰乃ち走る。龕平らぎ、文帝東揚州刺史張彪を襲ふに、恪を以て呉興郡を監せしむ。

武帝禅を受く。時に恪は呉興より朝に入る。武帝は中書舎人劉師知に恪を引かしめ、兵を勒して入らしめ、因りて敬帝を衛り別宮の如くせしめんとす。恪は闥を排して入り武帝に見え、頭を叩きて謝して曰く、「恪は身蕭家に事へしより来り、今日此の事を見るに忍びず。分を受けて死するのみ。決して命に奉ぜじ」と。武帝其の意を嘉し、復た逼らず、更に蕩主王僧志を以て之に代ふ。

帝践阼し、呉興太守を除す。永定三年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・会稽太守を除す。文帝及び廃帝に歴事し、累遷して護軍将軍と為る。宣帝即位に至り、平越中郎将・ 都督 ととく ・広州刺史を除す。恪未だ嶺に至らざるに、前刺史欧陽紇兵を挙げて嶮に拒ぎ、進むことを得ず。朝廷 司空 しくう 章昭達を遣はし紇を討ち平らげ、乃ち州に入ることを得。兵荒の後、所在残毀す。恪は綏懐安輯し、恩恵を以て被ひ、嶺表之に頼る。後主即位し、特進・金紫光禄大夫と為る。卒す。諡して光と曰ふ。子法興嗣ぐ。

陸子隆

陸子隆は字は興世、呉郡の人なり。祖は敞之、梁の嘉興令。父は悛、封氏令。

子隆は少しく慷慨にして、功名に志有り。侯景の乱、郷里に於て徒を聚む。時に張彪は呉郡太守と為り、将帥として引き、仍ひて彪に随ひ徙りて会稽に鎮す。文帝彪を討つに及び、彪の将沈泰・呉宝真・申縉等皆降る。而して子隆は力戦して敗績す。文帝之を義とし、復た其の部曲を領せしむ。

文帝位を嗣ぎ、子隆は甲仗宿衛を領す。益陽県子に封ぜられ、累遷して廬陵太守と為る。周迪臨川に拠りて反す。子隆は章昭達に随ひ迪を討つ。迪退走す。因りて昭達に随ひ陳宝応を討つ。晋安平らぎ、子隆の功最も、武州刺史に遷り、朝陽県伯に改封せらる。

華皎湘州に拠りて反す。子隆其の心腹に居るを以て、皎深く之を患ひ、頻りに使を遣はし招く。子隆従はず、攻むるも又克たず。皎郢州に於て敗るるに及び、子隆は兵を出して其の後を襲ひ、因りて大軍と相会す。爵を進めて侯と為す。尋ひて 都督 ととく ・荊州刺史に遷る。荊州新たに置かれ、公安に居る。城池未だ固からず。子隆は城郭を修め立ち、夷夏を綏集し、甚だ人和を得、称職と号せらる。吏人闕に詣りて碑を立て功績を頌美せんことを求め、詔して之を許す。卒す。諡して威と曰ふ。子之武嗣ぐ。

之武は年十六、其の旧軍を領す。後に弘農太守と為り、乃ち呉明徹に隷し、呂梁に於て軍敗れ逃げ帰り、人の為に害せらる。

子隆の弟の子才もまた、幹略があった。従子隆に従って征討し功績があり、始平太守に任ぜられ、始康県子に封ぜられた。信州刺史の任で卒した。

錢道戢

錢道戢は字を子韜といい、呉興郡長城県の人である。父の景深は、梁の漢寿県令であった。道戢は若くして孝行で名を知られ、成長すると、頗る才幹があった。陳の武帝が微賤の時、従妹を娶らせた。武帝が政権を輔佐すると、道戢は文帝に従って会稽で張彪を平定し、功績により東徐州刺史に任ぜられ、永安県侯に封ぜられた。

天嘉元年、臨海太守となった。侯安都が留異を討伐した時、道戢は軍を率いて松陽から出撃し、その退路を断った。留異が平定されると、功績により 都督 ととく ・衡州刺史に任ぜられ、始興内史を兼ねた。後に章昭達とともに欧陽紇を討伐し、紇が平定されると、左衛将軍に任ぜられた。

太建二年、また章昭達に従って江陵を征伐し、功績により 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。後に 都督 ととく ・郢州刺史となった。儀同の黄法奭とともに歴陽を攻め落とし、これにより道戢をそこに鎮守させた。官任で卒し、諡して肅といった。子の邈が後を嗣いだ。

駱文牙

駱文牙は字を旗門といい、呉興郡臨安県の人である。父の裕は、梁の鄱陽嗣王中兵参軍事であった。文牙が十二歳の時、宗族に善く相を見る者がおり、言うには「この郎は容貌が尋常でなく、必ず遠大な地位に至るであろう」。梁の太清末年、陳の文帝が臨安に避難した時、文牙の母の陳氏は、帝の儀表を見て、常人でないことを知り、賓客として厚くもてなした。帝が呉興太守となると、文牙を将帥に抜擢した。杜龕・張彪の平定に従い、その勇気は諸軍の冠であった。

文帝が即位すると、臨安県侯に封ぜられ、越州刺史の位に至った。初め、文牙の母が亡くなった時は、兵乱と飢饉の最中であり、この時に至って初めて葬ることができた。詔して臨安国太夫人を追贈し、諡して恭といった。

太建八年、文牙は累進して 散騎常侍 さんきじょうじ となり、殿省に直した。十年、豊州刺史を授けられた。至徳二年に卒し、広州刺史を追贈された。子の義が後を嗣いだ。

孫瑒

孫瑒は字を德璉といい、呉郡呉県の人である。父の修道は、梁の中散大夫であり、雅素をもって知られた。瑒は若くして倜儻であり、謀略を好み、経史に広く渉猟し、特に書翰に長じていた。梁に仕えて邵陵王中兵参軍事となった。太清の難に際し、仮節・宣猛将軍・軍主を授けられた。王僧辯が侯景を討伐した時、王琳が前軍となり、琳は瑒と姻戚関係にあったため、上表して宜都太守に推薦した。後に軍功により富陽侯に封ぜられた。敬帝が立つと、累進して巴州刺史となった。

陳の武帝が禅譲を受けると、王琳は郢州で梁の永嘉王蕭莊を立て、瑒を徴して少府卿とし、さらに 都督 ととく ・郢州刺史に転じ、留府の任を総べさせた。周が大将軍史寧を派遣して虚を衝いて攻撃したが、瑒の兵は千人に満たず、城に乗り上げて防ぎ守ったため、周軍は陥落させることができなかった。大軍が王琳を破り、勝ちに乗じて進撃したと聞くと、周軍は解囲した。瑒はここに中流の地をことごとく領有した。やがて使者を派遣して上表し、陳に帰順した。

天嘉元年、湘州刺史を授けられ、定襄県侯に封ぜられた。瑒は内心安からず、固く入朝を請い、侍中・領軍将軍に徴された。拝命しないうちに、文帝が言うには「昔、朱買臣は本郡の太守を願ったが、卿もその意があるか」。改めて呉郡太守を授け、鼓吹一部を与えられた。任期が満ちると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・中護軍に徴された。留異が反乱し、東陽を占拠すると、詔して瑒に舟師を督して進討させた。留異が平定されると、鎮右将軍に遷った。まもなく、建安太守として出向した。

太建四年、 都督 ととく ・荊州刺史となり、公安に出鎮し、隣境に畏れられた。職に在ること六年、公事により免官された。呉明徹の軍が呂梁で敗れると、詔して 都督 ととく 縁江水陸諸軍事を授けられた。まもなく 都督 ととく ・郢州刺史を授けられた。

十二年、国境での交渉の罪に坐して処罰された。後主が位を嗣ぐと、爵位と封邑を回復した。度支尚書、侍中、祠部尚書を歴任した。後主は頻繁にその邸宅に行幸し、詩を賦してその勲功と徳の美を述べた。五兵尚書に遷り、左軍将軍を兼ね、侍中はもとの通りであった。禎明元年、官任で卒し、諡して桓といった。

王瑒は親に仕えることを孝行として知られ、諸弟に対しては非常に篤く睦まじかった。性質は通達して泰然としており、財産があれば親友に分け与えた。家に居る時はやや奢侈に過ぎ、庭園に池を穿ち築山を設け、林泉の趣を極め、歌鐘舞女を備え、当世に比類するものは稀であった。賓客が門を埋め、車の蓋が絶えることがなかった。郢州に出鎮するに及んで、十余りの船を合わせて大船とし、その中に亭池を設け、荷や芰を植え、良辰美景の度に賓客や僚属を集め、長江を泛べて酒宴を開くことも、一時の勝れた賞玩であった。常に山斎に講肆を設け、玄儒の士を集め、冬夏に資を奉じ、学者に称えられた。しかし己を処することは率直で平易であり、名位をもって人に驕ることがなかった。当時、興皇寺の慧朗法師は釈典に通暁しており、王瑒はしばしば講筵に赴き、時に抗論し、法侶はみな傾心した。また巧思は人に過ぎ、起部尚書として、軍国の器械を多く創立した。鑑識があり、男女の婚姻は皆、素より貴い家を選んだ。卒去すると、 尚書令 しょうしょれい の江総がその銘志を撰し、後主はまた銘の後に四十字を題し、左戸尚書の蔡征を遣わして宅に就き宣勅を以てこれを鐫らせた。その詞に曰く、「秋風竹を動かし、煙水波を驚かす。幾人か樵径、何れの処か山阿。今時の日月、宿昔の綺羅。天長く路遠し、地久しく霊多し。功臣未だ勒せず、此の意如何。」と。時の論はこれを栄えと為した。

王瑒には二十一子があり、第二子の王訓は頗る知名で、高唐太守の位にあり、陳が滅びて隋に入った。

徐世譜

徐世譜は字を興宗といい、巴東郡魚復県の人である。代々荊州に住み主帥として、蛮蜒を征伐した。徐世譜に至っては特に勇敢で、膂力があり、水戦を善くした。梁の元帝が荊州刺史であった時、徐世譜は郷里の人を将領としてこれに事えた。

侯景の乱に際し、征討に参与し、累遷して員外 散騎常侍 さんきじょうじ に至った。まもなく水軍を領し、 司徒 しと の陸法和に従って侯景と赤亭湖で戦った。当時、侯景軍は甚だ盛んであったので、徐世譜は別に楼船・拍艦・火舫・水車を造って軍勢を増強した。戦おうとする時、また大艦に乗って前に居り、大いに侯景軍を破り、その将の任約を擒にした。侯景が退走すると、王僧辯に従って郢州を攻め、徐世譜は再び大艦に乗ってその倉門に臨み、賊将の宋子仙が城を拠して降った。功により信州刺史に除され、魚復県侯に封ぜられた。引き続き王僧辯に従って東下し、常に軍の鋒となった。侯景が平定されると、衡州刺史の資格で、河東太守を領した。

西魏が荊州を攻めると、徐世譜は馬頭岸を鎮め、龍洲を占拠した。元帝は侍中・ 都督 ととく 江南諸軍事・鎮南將軍・護軍將軍を授けた。魏が江陵を陥すと、徐世譜は東下して侯瑱に依った。

紹泰元年、侍中・左衛將軍として召された。陳の武帝が王琳を拒ぐに当たり、その水戦の具は悉く徐世譜に委ねられた。徐世譜は性質機巧で、旧法に諳解し、造る器械は皆、機に随って損益し、妙思は人に抜きん出ていた。

永定二年、護軍將軍に遷った。文帝が即位すると、特進・右光祿大夫を歴任した。疾のために失明し、病を理由に朝参しなかった。卒去し、諡して桓といった。

周敷

周敷は字を仲遠といい、臨川郡の人である。郡の豪族であった。周敷は形貌が小さく、衣に耐えぬかのようであったが、胆力は勁く果敢で、時輩を超え出ていた。性質は豪侠で、財を軽んじ士を重んじ、郷党の少年で気性の激しい者は皆これに帰した。

侯景の乱に際し、郷人の周続が衆を合わせて賊を討つことを事とし、梁の内史始興蕃王の蕭毅が郡を周続に譲ると、周続の部下に蕭毅を侵掠しようとする者があったので、周敷はこれを擁護し、自らその党を率いて、護衛して 章まで送った。当時、梁の観寧侯蕭永・長楽侯蕭基・豊城侯蕭泰が難を避けて流寓していたが、周敷の信義を聞き、皆これに依ろうとした。周敷はその危惧を憐れみ、身を屈して崇敬し、厚く給恤を加え、西上させた。まもなく周続の部下の将帥が権を争い、周続を殺して周迪に降った。周迪は元より簿閥がなく、また衆心を失い、周敷の族望を倚り頼み、深く交結を求めた。周敷は自ら固めることができず、周迪に事えて甚だ恭しく、周迪は大いにこれを憑仗した。周迪が臨川の工塘を拠ると、周敷は臨川の故郡を鎮めた。侯景が平定されると、梁の元帝は周敷に寧州刺史を授け、西豊県侯に封じた。

陳の武帝が禅を受けると、王琳が上流を拠有し、余孝頃が王琳の党の李孝欽らと共に周迪を囲んだ。周敷は周迪を助け、周迪が余孝頃らを擒にしたが、周敷の功が最も多かった。熊曇朗が周文育を殺し、 章を拠って兵を率いて周敷を襲うと、周敷はこれを大破した。熊曇朗は巴山郡に走り、周敷は周迪・黄法奭らと進兵してこれを屠った。王琳が平定されると、 散騎常侍 さんきじょうじ 章太守を授かった。当時、南江の酋帥は皆、巣窟に顧恋していたが、周敷のみが独り先んじて入朝した。天嘉二年、闕に詣で、安西將軍の号を進められ、 章に還鎮することを命ぜられた。周迪は周敷が元より己の下にあったのに、超えて顕達に致ったことを深く不平とし、兵を挙げて反し、弟の周方興を遣わして周敷を襲わせたが、周敷はこれを大破した。引き続き 都督 ととく の呉明徹に従って周迪を攻め破り、周方興を擒にした。再遷して 都督 ととく ・南 州刺史となった。周迪がまた余衆を収めて東興を襲うと、文帝は 都督 ととく の章昭達を遣わして周迪を征し、周敷もまた軍に従った。定川県に至って周迪と相対し、周迪は周敷を欺いて還朝を求め、盟を立てようとしたので、周敷はこれを許した。壇に登ろうとした時、周迪に害せられた。諡して脱といった。子の周智安が嗣ぎ、位は太僕卿に至った。

荀朗

荀朗は字を深明といい、潁川郡潁陰県の人である。祖父の荀延祖は梁の潁川太守であった。父の荀伯道は衛尉卿であった。

荀朗は若くして慷慨し、将帥の大略があった。侯景の乱に際し、巣湖を拠り、所属するところがなかった。台城が陥落した後、梁の簡文帝は密詔を以て荀朗に 州刺史を授け、外蕃と共に侯景を討たせた。侯景は儀同の宋子仙・任約らを頻りに征したが、勝つことができなかった。当時、都下は飢えており、荀朗は更に部曲を招致し、衆は数万に至った。侯景が巴陵で敗れると、荀朗はその後軍を遮断して破った。侯景平定後、また別に踟躕山で斉の将の郭元建を破った。魏が荊州を陥し、陳の武帝が輔政に入ると、斉は蕭軌・東方老らを遣わして来寇し、石頭を占拠した。荀朗は宣城より来赴し、侯安都らと共にこれを大破した。

武帝が禅譲を受けると、興寧県侯の爵位を賜り、朗の兄の昂を左衛将軍とし、弟の晷を太子右衛率とした。武帝が崩御すると、宣太后と舎人の蔡景歴は喪を発せずに秘したが、朗の弟の曉は都において密かにこれを知り、家兵を率いて台城を襲おうと謀った。事が露見し、景歴は曉を殺し、さらにその兄弟を拘束した。文帝が即位すると、ともにこれを釈放した。そこで朗を厚く慰撫し、侯安都らとともに王琳を防がせた。王琳が平定されると、 都督 ととく ・合州刺史に遷った。卒し、諡して壮といった。子の法尚が嗣いだ。

法尚は若くして倜儻であり、文武の才幹と謀略があった。禎明年間、 都督 ととく ・郢州刺史となった。隋軍が長江を渡ると、法尚は降伏した。隋に入り、邵・観・綿・豊の四州刺史、巴東・敦煌の二郡太守を歴任した。

周炅

周炅は字を文昭といい、汝南安成の人である。祖父の強は、斉の梁州刺史であった。父の霊起は、梁の廬・桂二州刺史、保城県侯であった。

炅は若くして豪侠で気性を任せ、将帥の才があった。梁の太清元年、弋陽太守となった。侯景の乱の際、元帝が承制して西陽太守に改めて任じ、西陵県伯に封じた。軍功により累進して 都督 ととく ・江州刺史となり、侯に進んだ。陳の武帝が即位すると、王琳が上流を擁拠したため、炅は州を率いてこれに従った。後に侯安都に捕らえられ、都に送られた。文帝はこれを釈放し、定州刺史とし、西陽・武昌二郡太守を兼ねさせた。

太建五年、 都督 ととく ・安州刺史となり、龍源県侯に改封された。その年、 都督 ととく の呉明徹に従って北討し、向かうところ克捷し、一月のうちに十二城を獲た。斉の尚書左丞陸騫の軍を破った。巴州に進攻し、これを陥落させた。ここにおいて江北の諸城および谷陽の土人は、ともにその渠帥を誅して城を降した。和戎将軍の号を進めた。そこで詔を下して炅を朝廷に召還した。

後梁の定州刺史田龍升が城を降したため、詔して定州刺史とし、赤亭王に封じた。炅が朝廷に入ると、龍升は江北の六州七鎮を率いて斉に叛いて入ったので、斉は歴陽王高景安を遣わしてこれに応じた。ここにおいて炅を江北道大 都督 ととく とし、諸軍を統率して龍升を討たせ、これを斬り、江北の地をことごとく回復した。平北将軍の号を進めた。官において卒し、司州刺史を追贈され、武昌郡公に改封され、諡して壮といった。

魯悉達

魯悉達は字を志通といい、扶風郿の人である。祖父の斐は、斉の衡州刺史・陽塘侯であった。父の益之は、梁の雲麾将軍・新蔡義陽二郡太守であった。

悉達は幼くして孝行で知られた。侯景の乱の際、郷人を糾合して新蔡を保ち、農耕に力を入れ穀物を蓄えた。当時は兵乱と凶作で、都下および上川では餓死者が十のうち八九に及び、生き残った者は皆、老幼を連れて悉達のもとに帰ったので、悉達が救済して生かした者は甚だ多かった。晋熙など五郡を招集し、その地をことごとく有した。弟の広達に兵を率いさせて王僧辯に従わせ、侯景を討って平定させた。梁の元帝は北江州刺史に任じた。

敬帝が即位すると、王琳が上流を拠有し、留異・余孝頃・周迪らが各地で蜂起したが、悉達は五郡を撫綏し、人心を得ること甚だしかった。王琳は悉達に鎮北将軍を授け、陳の武帝もまた趙知礼を遣わして征西将軍・江州刺史を授けたが、悉達は両方を受けながら、遷延して様子を窺った。武帝は安西将軍の沈泰に命じ、潜んで軍を率いて襲撃させたが、陥落させられなかった。斉は行台の慕容紹宗を遣わして郁口の諸鎮を攻めてきたが、悉達はこれと戦い、斉軍を大破し、紹宗はただ一身を免れたのみであった。王琳が東下を図ろうとしたが、悉達が中流を抑えているため、使者を遣わして招き誘ったが、悉達は終に従わなかった。王琳は下ることができず、そこで斉と連合し、斉は清河王高嶽を遣わしてこれを助けた。ちょうど裨将の梅天養らが罪を恐れ、斉軍を引き入れて城に入れたので、悉達は麾下の数千人を率いて長江を渡り、武帝のもとに帰った。帝はこれを見て喜び、「来るのが何と遅かったことか」といった。北江州刺史に任じ、彭沢県侯に封じた。

悉達は気概を仗って任侠を好んだが、富貴をもって人に驕ることはなかった。風雅を好み詞賦を愛し、賢才を招き礼遇し、彼らと賞賛の会を催した。文帝が即位すると、呉州刺史に遷った。母の喪に遭い、礼を過ぎるほどに哀傷して身体を損ない、病気にかかって卒した。諡して孝侯といった。子の覧が嗣いだ。弟に広達がいる。

弟 広達

広達は字を遍覧といい、若くして慷慨であり、功名を立てる志があり、虚心に士を愛し、賓客は遠方より至った。当時、江表の将帥はそれぞれ部曲を領有し、動けば千数を数えたが、魯氏は特に多かった。梁に仕えて平南当陽公府中兵参軍となった。侯景の乱の際、兄の悉達とともに衆を集めて新蔡を保った。梁の元帝が承制して晋州刺史に任じた。王僧辯が侯景を討つとき、広達は境を出て迎え、軍需物資を供給した。僧辯は沈炯に「魯晋州もまた王師の東道の主人である」といった。そこで衆を率いて僧辯に従った。侯景が平定されると、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

陳の武帝が禅譲を受けると、東海太守に任じられた。後に兄の悉達に代わって呉州刺史となり、中宿県侯に封じられた。光大元年、南 州刺史に遷った。華皎が上流で兵を挙げると、詔して 司空 しくう の淳于量に進軍討伐させた。軍が夏口に至ると、華皎の水軍が強盛なのを見て、進む者はいなかった。広達がまず ぎょう 勇を率いて、直ちに賊軍に突撃した。広達は水に落ち、長く沈んでいたが、救助されて免れた。華皎が平定されると、巴州刺史に任じられた。

太建初年、儀同章昭達と共に峽口に入り、安蜀等の諸州鎮を招き定めた。時に周は江左を図り、蜀において大いに舟艦を造り、また青泥に糧を運んでいた。広達は錢道戢等と兵を率いて掩襲し、火を放ってこれを焼き、そのまま本鎮に還った。広達は政を簡要にし、誠を推して下を任せ、吏人はこれを便とした。及び任期が満ちると、皆が闕に詣でて表して請い、そこで詔して二年を延長した。

五年、諸軍が北伐し、淮南の旧地を攻略した。広達は斉軍と大峴で会戦し、これを大破し、その敷城王張元範を斬った。進んで北徐州を攻克した。そこで北徐州刺史を授けられた。十年、 都督 ととく ・合州刺史を授けられた。

十一年、周の将梁士彥が寿春を包囲した。詔して中領軍樊毅・左衛将軍任忠等を遣わして分かれて陽平・秦郡に向かわせ、広達は衆を率いて淮に入り、掎角となってこれを撃った。周軍は ・霍二州を陥落させ、南北兗・ しん 等はそれぞれ抜け去り、諸将は共に功がなく、淮南の地を全て失った。広達はこれにより官を免ぜられ、侯として邸に還った。

十二年、南 州刺史樊毅と共に北討し、郭默城を攻克した。まもなく平西将軍・ 都督 ととく 郢州以上七州諸軍事を授けられ、兵を江夏に頓させた。周の安州総管元景山が江外を征したが、広達は偏師を命じてこれを撃退した。

至徳二年、侍中となり、綏越郡公に改封された。まもなく中領軍となった。賀若弼が鍾山に進軍すると、広達は白土岡に陣を置き、弼と旗鼓を相対した。広達は自ら甲冑を着け、手に桴鼓を執り、敢死の士を率いて励まして進み、隋軍は退走した。このようなことが数度あった。弼が勝に乗じて宮城に至り、北掖門を焼くと、広達はなお余兵を督して苦戦し止まなかった。日が暮れたので、甲を解き、台に向かって再拝して慟哭した。衆に謂って「我が身は国を救うことができず、罪を負うこと深し」と言った。士卒は皆涕泣し歔欷し、そこで捕らえられた。

禎明三年、例に依って隋に入った。広達は本朝の淪覆を追想して悲愴し、病にかかり治療せず、まもなく憤慨して卒した。 尚書令 しょうしょれい 江総は柩を撫でて慟哭し、筆を命じてその棺の頭に題し、詩を作って曰く「黄泉に恨みを抱くとも、白日自ら名を留む、君が義に感じて死するを悲しみ、恩に負くる生を作さず」と。また広達の墓銘を制し、その忠概を述べた。

初め、隋の将韓擒が江を渡ると、広達の長子世真は新蔡におり、弟の世雄及び配下を率いて韓擒に奔った。韓擒は使者を遣わして書を致し広達を招いた。広達は時に兵を都下に屯していたが、自ら廷尉に劾して罪を請うた。後主はこれに謂って「世真は中大夫と道を異にするとはいえ、公は国の重臣、吾が恃み頼むところ、どうして自ら嫌疑の間に同じくせんや」と。黄金を加えて賜い、即日に営に還した。

広達に隊主楊孝辯がいた。時に広達に従って軍中におり、力戦して陣に陥り、その子もまた孝辯に随い刀を揮って隋兵十余人を殺した。力尽き、父子ともに死んだ。

蕭摩訶

蕭摩訶は字を元胤といい、蘭陵の人である。父は諒といい、梁の始興郡丞であった。摩訶は父に従って郡に赴き、数歳にして父が卒した。その姉婿蔡路養が時に南康におり、そこでこれを収養した。稍々長ずると、果毅で勇力があった。

侯景の乱に、陳武帝が建鄴に援けに赴くと、路養は兵を起こして武帝を拒んだ。摩訶は時に十三歳、単騎で出戦し、軍中に当たる者無かった。路養が敗れると、摩訶は侯安都に帰し、常に征討に従い、安都はこれを甚だ厚く遇した。任約・徐嗣徽が斉兵を引きいて寇となると、武帝は安都を遣わして北に斉軍を鍾山龍尾及び北郊壇で拒がせた。安都は摩訶に謂って「卿は ぎょう 勇にして名があり、千聞は一見に如かず」と言った。摩訶は対えて「今日、公に見せましょう」と言った。戦いにおいて、安都は馬から墜ちて包囲された。摩訶は独り騎りで大呼し、直ちに斉軍に沖し、斉軍は稍々解けて去り、安都は免れた。留異・歐陽紇を平らげた功により、累遷して巴山太守となった。

太建五年、諸軍が北伐し、摩訶は 都督 ととく 呉明徹に従って江を渡り秦郡を攻めた。時に斉は大将尉破胡等を遣わして衆十万を率いて来援した。その前隊に「蒼頭」「犀角」「大力」の号があり、皆身長八尺、膂力絶倫で、その鋒は甚だ鋭かった。また西域の胡がおり、弓矢に妙で、弦に虚発無く、衆軍は特にこれを憚った。将に戦わんとする時、明徹は摩訶に謂って「もしこの胡を殪せば、彼の軍は気を奪われよう。君に関羽・張飛の名あり、顔良を斬るがごとし」と言った。摩訶は「願わくはその形状を識りたい」と言った。明徹は降人で胡を知る者を召すと、胡は絳衣を着け、樺皮で弓を装い、両端に骨の弭があると言った。明徹は人を遣わして覘わせ、胡が陣中にいることを知ると、自ら酒を酌んで摩訶に飲ませた。摩訶は飲み終えると、馬を馳せて斉軍に沖し、胡は身を挺して陣前十余歩に出た。弓を引きしぼって未だ発たず、摩訶は遥かに銑鋧を擲ち、正しくその額に中て、手に応じて倒れた。斉軍の「大力」十余人が出戦したが、摩訶はまたこれを斬り、そこで斉師は退走した。功により廉平県伯に封ぜられた。まもなく侯に進み、位は太僕卿となった。また明徹に従って進み宿預を囲み、斉の将王康得を撃退し、功により しん 熙太守を除かれた。

九年、明徹が呂梁に進軍し、斉と大戦した。摩訶は七騎を率いて先に入り、手ずから斉軍の大旗を奪い、斉の衆は大いに潰えた。功により譙州刺史を授けられた。

周の武帝が斉を滅ぼし、その将宇文忻を遣わして呂梁を争わせた。忻は時に精騎数千を有し、摩訶は十二騎を領し、深く周軍に入り、縦横に奮撃し、斬り取った首は甚だ多かった。周が大将王軌を遣わして来赴し、長い包囲陣を呂梁の下流に連鎖して結び、大軍の還路を断った。摩訶は明徹に謂って「軌が下流を鎖し始め、その両頭に城を築くが、今なお未だ立たずと聞く。公もし我を遣わしてこれを撃たせば、彼は必ず敢えて拒まぬであろう。彼の城がもし立てば、我らは虜となる」と言った。明徹は髯を奮って「旗を搴ぎ陣を陥すは、将軍の事なり。長算遠略は、老夫の事なり」と言った。摩訶は色を失って退いた。一句のうちに、水路は遂に断たれ、周兵は益々至った。摩訶はまた請うて「今、戦いを求むるも得ず、進退路無し。もし潜軍して突囲すれば、未だ恥と為すに足らぬ。願わくは公が歩卒を率い馬輿に乗り徐行し、摩訶が前後に馳駆し、必ずや公を安らかに京邑に達せしめん」と言った。明徹は「弟の計は乃ち良図なり。然れども老夫は脤を受けて征を専らにし、今囲逼せられ、慚愧して置く所無し。且つ歩軍既に多し、吾は総督たり、必ず身をその後に居え、相率いて兼行すべし。弟の馬軍は宜しく前に在るべし」と言った。摩訶は夜に発し、精騎八千を選び、率先して衝突し、その後衆騎が継いだ。旦に及んで、淮南に達した。宣帝は征還し、右衛将軍を授けた。

宣帝が崩ずると、始興王叔陵が殿内において後主を手ずから刃し、遂に東府城に奔った。摩訶は入って勅を受け、馬歩数百を率いて東府城に向かい、これを斬った。功により車騎大将軍を授けられ、綏建郡公に封ぜられた。叔陵が平素から蓄聚した金帛は巨万に累なり、後主は悉くこれを以て賜った。侍中・驠騎大将軍・左光禄大夫に改めて授けられた。旧制では三公の黄合の聴事に鴟尾を置く。後主は特に詔して摩訶に黄合を開かせ、門に施行馬を置き、聴事と寝堂に並びに鴟尾を置かせた。またその女を皇太子妃とした。

時に隋の総管賀若弼が広陵に駐屯すると、後主は蕭摩訶にこれを防がせ、南徐州刺史を授けた。禎明三年の元会の際、摩訶を召還して朝廷に帰らせたところ、弼は虚に乗じて長江を渡り、京口を襲撃した。摩訶は兵を率いて迎撃することを請うたが、後主は許さなかった。弼が鍾山に進軍すると、摩訶はまた言った、「弼は孤軍を懸けて深く侵入し、塁塹も未だ堅固でない。出兵して掩襲すれば、必ず打ち破れましょう」と。またも許されなかった。出戦しようとする際、後主は彼に言った、「公は我がために一戦を決してくれよ」。摩訶は言った、「これまで行陣に臨んでは、国のため、身のためであったが、今日のことは、妻子のためも兼ねています」。後主は多く金帛を出して諸軍に与え、賞賜に充てた。中領軍魯広達に命じて白土岡に兵を陣させ、諸軍の南に位置させ、鎮東大将軍任忠をその次に、護軍将軍樊毅・都官尚書孔范をさらにその次に置き、摩訶の軍は最も北に位置した。諸軍は南北二十里に亘り、首尾進退互いに知らなかった。

賀若弼は初め戦いが始まっていないと思い、軽騎を率いて山に登り、諸軍を見ると、馳せ下って陣を布いた。後主は摩訶の妻と私通していたため、摩訶は勁兵八千を率いながらも、初めから戦意がなく、ただ魯広達と田端がその徒衆を率いて力戦した。賀若弼およびその配下の行軍七総管楊牙・韓洪・員明・黄昕・張黙言・達奚隆・張弁らの甲士合わせて八千人、それぞれ陣を整えてこれを待った。弼自ら魯広達に当たり、麾下の戦死者は二百七十三人に及んだ。弼は煙を放って身を隠し、窮地に陥りながらも再び勢いを盛り返した。陳軍は敵の首級を得ると、皆走って後主に献上し、金銀の賞賜を求めた。弼はさらに孔范の陣に向かった。范の兵は一時交戦しただけで敗走した。陳軍は尽く潰走し、死者五千人。諸門の衛兵も皆逃げ、黄昕は馳せて北掖門を焼き、そこから入った。員明は摩訶を生け捕りにして弼に送った。弼が刀をその頸に臨ませると、摩訶の言葉と顔色は撓まず、そこで彼を釈放して礼遇した。

城が平定されると、弼は後主を徳教殿に置き、兵士に守衛させた。摩訶は弼に請うて言った、「今や囚虜となり、命は旦夕にあります。旧主に一度お目にかかりたく、死んでも恨みはありません」。弼は哀れに思い許した。摩訶は入って後主に拝謁し、俯伏して号泣し、なお旧来の厨から食物を取って進上し、別れの言葉を述べて出て行った。守衛の者たちは皆、顔を上げて見ることができなかった。隋の文帝は摩訶が賀若弼に抗して答えたことを聞き、「壮士である。これも人の為し難いことだ」と言った。隋に入り、開府儀同三司を授けられた。まもなく漢王諒に従って へい 州に赴き、諒とともに叛逆を謀り、誅殺された。七十三歳。

摩訶は言葉訥なり、謹厚な長者であった。しかし軍陣に臨み寇敵に対する時は、志気奮発し、向かうところ前を遮るものなしであった。弱冠に至らず、侯安都に従って京口におり、性来狩猟を好み、一日として畋猟遊興しない日はなかった。安都が征伐する時、摩訶の功績が多かった。

子の世廉は、父の風範があった。性、至孝であり、摩訶が非業の死を遂げた後、喪が明けてからも、追慕の情がますます切実であった。父の時代の賓客故旧が、もし何か言及することがあれば、世廉はそれに対し、哀慟して自らを制することができず、語る者もこれを見て歔欷した。生涯、刀斧を執らなかった。当時の人々はこれを称えた。

摩訶に陳智深という騎士がいた。勇力人に過ぎ、叔陵平定の功により巴陵内史となった。摩訶が誅殺された時、その子は既に籍没されていたが、智深は摩訶の屍を収め、自ら手ずから殯斂し、その哀感は行路の人をも動かし、君子はこれを義とした。

潁川の陳禹もまた摩訶に従って征討した。聡明で識量があり、経史に渉猟し、風角・兵書を解し、よく文を綴ることができ、騎射に巧みであった。官は王府諮議に至った。

任忠

任忠は字を奉誠といい、小字を蠻奴という。汝陰の人である。少時孤微で、郷党の歯牙にかけられなかった。成長すると、譎詭で計略多く、膂力人に過ぎ、特に騎射を善くし、州里の少年は皆これに付き従った。梁の鄱陽王蕭範が合州刺史となった時、その名を聞き、左右に置いた。

侯景の乱の時、忠は郷党数百人を率い、晋熙太守梅伯龍に従って寿春において景の将王貴顕を討ち、戦うごとに敵を退けた。時に土人の胡通が衆を聚めて寇抄したため、範は忠に命じ、主帥梅思立とともに軍を併せてこれを討平させた。引き続き範の世子蕭嗣に従って衆を率いて入援したが、京城陥落に遭い、直ちに晋熙を戍った。侯景平定後、蕩寇将軍を授けられた。

王琳が蕭莊を立てた時、忠を署して巴陵太守とした。琳が敗れると、朝廷に帰り、明毅将軍・安湘太守を授けられ、引き続き侯瑱に従って巴・湘を進討した。累遷して 寧太守、衡陽内史となった。華皎が挙兵した時、忠はその謀に参与した。皎が平定されると、宣帝は忠が先に朝廷に密啓していたことを以て、釈放して問わなかった。

太建初年、章昭達に従って広州の欧陽紇を討ち、功により直閤将軍を授けられた。武毅将軍・廬陵内史に遷った。任期満了後、入朝して右軍将軍となった。

五年、諸軍北伐の際、忠は兵を率いて西道より出撃し、大峴において斉の歴陽王高景安を撃退し、敗走を追って東関に至り、その東西二城を攻略した。進軍して蘄・譚を攻め、ともにこれを抜いた。直ちに合肥を襲撃し、その外城に入った。進んで霍州を攻略した。功により員外 散騎常侍 さんきじょうじ を授けられ、安復県侯に封ぜられた。呂梁で軍が喪われた時、忠は全軍を率いて帰還した。まもなく忠に寿陽・新蔡・霍州の淮水沿いの諸軍、霍州刺史を 都督 ととく することを授けた。入朝して左衛将軍となった。平南将軍・南 州刺史に遷り、 都督 ととく を加えられた。歩騎を率いて歴陽に向かった。周が王延貴に衆を率いて援軍とさせたが、忠はこれを大破し、延貴を生け捕りにした。

後主が嗣位すると、鎮南将軍の号を進められ、鼓吹一部を給された。入朝して領軍将軍となり、侍中を加えられ、梁信郡公に改封された。出て吳興内史となった。

隋兵が長江を渡ると、忠は吳興より入京し、朱雀門に軍を屯した。後主が蕭摩訶以下を内殿に召して議を定めると、忠は言った、「兵法に客は速戦を貴び、主は持重を貴ぶ。今、国家は食足り兵足りている。宜しく台城を固守し、淮水沿いに柵を立てるべし。北軍たとえ来たりとも、これと交戦せず、兵を分けて江路を断ち、彼らの音信を通じさせぬこと。臣に精兵一万、金翅三百艘を与えられよ。下江して直ちに六合を掩襲する。彼の大軍は必ず、渡江した将士が既に捕えられたと言い、自然に気勢を挫くであろう。淮南の土人は、臣と旧く相知悉している。今、臣の往くを聞けば、必ず皆影のごとく従うであろう。臣はさらに声を揚げて徐州に向かうとし、彼らの帰路を断つ。そうすれば諸軍は撃たずして自ら去るであろう。春の水かさが増すのを待てば、上流の周羅睺らの諸軍が、必ず流れに沿って赴援する。これ良計です」。後主は従うことができなかった。翌日、突然「腹が煩わしくてたまらぬ。蕭郎を呼んで一戦させよ」と言った。忠は叩頭して苦しくも戦わぬよう請うたが、後主は孔范の言に従い、ついに戦うこととし、ここに白土岡に拠って陣を布いた。軍が敗れると、忠は馳せて台城に入り、後主に拝謁して敗戦の状況を言上し、「陛下、どうかご無事で。もはや力を尽くす術がありません」と言った。後主は彼に金二縢を与えて言った、「我のために南岸で人を募集し、まだ一戦できるようにしてくれ」。忠は言った、「陛下はただ舟を整え、上流の諸軍のもとに就かれるべきです。臣は死をもって奉衛いたします」。後主はこれを信じ、忠に出て部署するよう命じた。忠は辞して言った、「臣が処分を終え次第、すぐに奉迎いたします」。後主は宮人に装束を整えさせて忠を待たせたが、久しく待っても来なかった。時に隋の将韓擒虎が新林より進軍してきたので、忠は数騎を率いて石子岡に赴き、これに降った。引き続き擒虎の軍を導いてともに南掖門に入った。台城が平定されると、長安に入り、隋より開府儀同三司を授けられた。七十七歳で卒した。

隋の文帝は後に 散騎常侍 さんきじょうじ の袁元友が後主に対して直言したことを嘉し、主爵侍郎に抜擢して群臣に謂いて曰く、「陳を平定した初め、我は任蠻奴を殺さなかったことを悔いる。人の栄禄を受け、重寄を兼ねて当たりながら、横屍することなく、『力を用いる所なし』と云い、弘演が肝を納めたるに比べ、何ぞ其れ遠きことか」と。子の幼武は位は儀同三司に至る。

樊毅

樊毅は字を智烈といい、南陽湖陽の人である。祖父の方興は梁の 散騎常侍 さんきじょうじ ・司州刺史・魚復県侯。父の文熾は梁の 散騎常侍 さんきじょうじ ・東益州刺史・新蔡県侯。

毅は家は元来将門であり、少より武を習い、騎射に長じた。侯景の乱の時、部曲を率いて叔父の文皎に従い台城を救援した。文皎は青溪で戦死し、毅は江陵に赴き、引き続き王僧辯に隷属して河東王蕭誉を討ち、功により右中郎将に除せられた。兄の俊に代わって梁興太守となり、三州の遊軍を領し、宜豊侯蕭循に従って湘州の陸納を討った。軍は巴陵に駐屯し、営陣が未だ整わぬうちに、納が潜軍を以て夜に至り営を薄し、大いに騒ぎ立てた。軍中の将士は皆驚き擾いたが、毅独り左右数十人と共に営門に当たって力戦し、十余級を斬り、鼓を撃って号令を申し、衆乃ち定まった。功により夷道県伯に封ぜられ、尋ねて天門太守に除され、爵を侯に進めた。西魏が江陵を囲んだ時、毅は郡兵を率いて赴援した。会に魏が江陵を克つと、後梁に俘えられ、久しくして遁走して帰った。

陳の武帝が禅を受けると、毅は弟の猛と兵を挙げて王琳に応じた。琳が敗れて斉に奔ると、太尉侯瑱が使いを遣わして毅を招き、毅は子弟部曲を率いて朝廷に還った。太建初年、豊州刺史となり、高昌県侯に封ぜられた。入朝して左衛将軍となった。

五年、衆軍北伐し、毅は広陵の楚子城を攻めてこれを抜き、斉軍を撃退した。呂梁にて軍が喪われると、詔して毅を大 都督 ととく とし、衆を率いて淮を渡り、清口に対し城を築き、周人と相抗させた。霖雨により城は壊れ、毅は全軍を率いて自ら抜け出た。尋ねて中領軍に遷った。十一年、周の将梁士彦が寿陽を囲むと、詔して毅を 都督 ととく 北討諸軍事とした。十三年、荊州刺史となった。

後主即位後、逍遙郡公に改封された。入朝して侍中・護軍将軍となった。隋軍が江を渡ると、毅は僕射袁憲に謂いて曰く、「京口・採石は共に要所なり、各々鋭卒数千、金翅二百を須い、都下の江中にて上下防捍すべし。もし然らずんば、大事去らん」と。諸将皆其の議に従わんとした。会に施文慶らが隋兵の消息を寝かせたため、毅の計は行われず。台城が平定されると、例に随って関中に入り、卒した。

毅の弟の猛は字を智武といい、幼より俶儻にして幹略有り。長ずるに及んで弓馬に便じ、胆気人に過ぎた。青溪の戦いでは、猛は旦より暮れに至るまで侯景軍と短兵接戦し、殺傷甚だ多かった。台城陥落後、兄の毅に従って西上した。梁の南安侯方矩が湘州刺史となると、猛を司馬とした。武陵王紀が兵を挙げて漢江より東下するに会い、方矩は猛を 都督 ととく 陸法和に随わせて進軍し之を拒がせた。猛は手ずから紀父子三人を生け捕りにし、鰨中にて斬り、其の船艦器械を尽く収めた。功により安山県伯に封ぜられ、進軍して梁・益を撫定した。還って司州刺史に遷り、爵を侯に進めた。

陳の永定元年、周文育らが沌口で敗れ、王琳に捕えられた。琳は勝に乗じて南中の諸郡を事とせんとし、猛と李孝欽らを遣わして兵を将い 章を攻め、周迪に進逼した。軍敗れて迪に捕えられたが、尋ねて遁走して王琳に帰り、琳敗れると朝廷に還った。天嘉二年、永陽太守を授けられた。太建年中、軍功により富川県侯に封ぜられた。 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任し、荊州刺史となった。入朝して左衛将軍となった。

後主即位後、南 州刺史となった。隋の将韓擒虎が江を渡る時、猛は都下におり、第六子の巡が州事を行った。擒虎が進軍して之を攻め陥とし、巡と家族は共に捕えられた。時に猛は左衛将軍蔣元遜と共に青龍八十艘を領して水軍と為し、白下にて遊弈し、隋の六合の兵を防禦した。後主は猛の妻子が隋に在るを知り、異志有るを懼れ、任忠をして之に代わらせんとし、蕭摩訶に徐ろに毅を諭させたが、毅は悦ばず。摩訶が之を聞こえると、後主は其の意を重んじて傷み、乃ち止めた。禎明三年、隋に入った。

史評

論じて曰く、梁氏雲季、運は雲雷に属す。陳武帝は旗を杖って難を掃い、経綸始まる。胡穎・徐度・杜棱・周鉄武・程霊洗らは、或いは風雲に感会し、力を畢くして駆馳する日に、或いは降附より擢でられ、乃ち興王の始めを賛け、咸に清廟に配享するを得たり。豈に徒然ならんや。沈恪は己を行うの方、義に非ざる跡を践まず、子隆は身を持するの節、人に事うるの道を失わず、仁なるかな。錢道戢・駱文牙・孫瑒・徐世譜・周敷・荀朗・周炅・魯悉達・広達・蕭摩訶・任忠・樊毅らは、用いられ当年に獲る所以、其の道は異なるも、功名自立するに至っては、亦各々時に因る。金陵覆没の当たり、抑々天数のみならんや。然れども任忠の与に亡くるの義、乃ち致すに虧く無からんや。夫の蕭・魯の行う所と、固より同日に非ず。此の百心を持して二主に事え、信を取らんと欲する、亦た難からずや。首領を獲て全うするも、亦た幸いと為す。

原本を確認する(ウィキソース):南史 巻067