南史

巻六十七列伝第五十七

巻六十七列伝第五十七

南史

巻六十七列伝第五十七

胡穎

原文胡穎

胡穎、字あざなは方秀、呉興の人である。姿形は雄偉で、性質は寛厚であった。梁の末、陳の武帝が広州にいたとき、胡穎は深く自ら結びついた。武帝に従って元景仲を撃破し、蔡路養・李遷仕を平定するのにいずれも功績があった。武帝が軍を進めて西昌に駐屯すると、胡穎を巴丘県令とし、大皋を鎮守させ、糧食の輸送を監督させた。下って豫章に至り、胡穎に豫章郡を監察させた。武帝が衆を率いて王僧弁と白茅湾で会し、ともに侯景を討つにあたり、胡穎に留府の事務を執らせた。

原文胡穎字方秀,吳興人也。偉姿容,性寬厚。梁末,陳武帝在廣州,穎深自結託。從克元景仲,平蔡路養、李遷仕皆有功。武帝進軍頓西昌,以穎為巴丘令,鎮大皋,督糧運。下至豫章,以穎監豫章郡。武帝率眾與王僧辯會白茅灣,同討侯景,以穎知留府事。

梁の承聖初め、元帝は胡穎に羅州刺史を授け、漢陽県侯に封じた。まもなく豫章内史に任じ、武帝に従って京口を鎮守した。斉が郭元建を派遣して東関から出撃させると、武帝は胡穎に命じて府内の驍勇の兵を率い侯瑱に従わせ、東関においてこれを大破した。後に武帝に従って王僧弁を襲撃し、また周文育に従って呉興において杜龕を討った。武帝が禅譲を受けると、左衛将軍を兼ねた。

原文梁承聖初,元帝授穎羅州刺史,封漢陽縣侯。尋除豫章內史,隨武帝鎮京口。齊遣郭元建出東關,武帝令穎率府內驍勇隨侯瑱,于東關大破之。後從武帝襲王僧辯,又隨周文育于吳興討杜龕。武帝受禪,兼左衛將軍。

天嘉元年、散騎常侍・呉興太守に任じられた。任地で死去し、諡は壮といった。二年、武帝の廟庭に配享された。子の六同が後を嗣いだ。

原文天嘉元年,除散騎常侍,吳興太守。卒官,諡曰壯。二年,配享武帝廟庭。子六同嗣。

徐度

原文徐度

徐度、字は孝節、安陸の人である。若い頃は倜儻で、小節に拘らなかった。成長すると、姿貌は瑰偉で、酒を嗜み博奕を好み、常に僮僕に屠殺や酒売りをさせて生業としていた。

原文徐度字孝節,安陸人也。少倜儻,不拘小節。及長,姿貌瑰偉,嗜酒好博,恒使僮僕屠酤為事。

初め梁の始興内史蕭介に従って諸山洞を征討し、驍勇をもって知られた。陳の武帝が交址を征討したとき、ついに身を委ねた。侯景の乱の際、武帝が広州を平定し、蔡路養を平らげ、李遷仕を破ったが、計画の多くは徐度の出したところであった。侯景平定後、前後の戦功を追録して、広徳県侯に封じられた。

原文初從梁始興內史蕭介征諸山洞,以驍勇聞。陳武帝征交址,乃委質焉。侯景之亂,武帝克廣州,平蔡路養,破李遷仕,計畫多出於度。侯景平後,追錄前後戰功,封廣德縣侯。

武帝が朱方を鎮守したとき、蘭陵太守に任じられた。武帝が衡陽献王を荊州に派遣すると、徐度は率いる所領の兵を率いてこれに従った。江陵が覆亡すると、間道を行って東に帰還した。

原文武帝鎮朱方,除蘭陵太守。武帝遣衡陽獻王往荊州,度率所領從焉。江陵覆亡,間行東歸。

武帝が東進して杜龕を討つにあたり、敬帝を奉じて京口に赴き、徐度に宿衛を統率させ、併せて留府の事務を執らせた。徐嗣徽・任約らが来寇すると、武帝と敬帝は都に還ったが、時に賊はすでに石頭を占拠しており、徐度に命じて軍を冶城寺に駐屯させた。翌年、嗣徽らがまた斉の賊を引きいて江を渡ると、徐度は衆軍に従ってこれを北郊壇で破った。功により郢州えいしゅう刺史に任じられ、呉興太守を兼ねた。

原文武帝東討杜龕,奉敬帝幸京口,以度領宿衛,並知留府事。徐嗣徽、任約等來寇,武帝與敬帝還都,時賊已據石頭,使度頓軍於冶城寺。明年,嗣徽等又引齊寇濟江,度隨眾軍破之於北郊壇。以功除郢州刺史,兼領吳興太守。

文帝が即位すると、累遷して侍中・中撫将軍・開府儀同三司となり、爵位を公に進めた。天嘉元年、王琳を平定した功績により、湘東郡公に改封された。太尉侯瑱が湘州で薨じると、徐度が侯瑱に代わって都督・湘州刺史となった。任期が満ちると、再び侍中・中軍大将軍となった。文帝が崩御すると、徐度は顧命にあずかり、甲仗五十人を率いて殿省に入ることを許された。廃帝が即位すると、司空に進位した。薨じ、太尉を追贈され、諡は忠粛といった。太建四年、武帝の廟庭に配享された。子の敬成が後を嗣いだ。

原文文帝即位,累遷侍中、中撫將軍、開府儀同三司,進爵為公。天嘉元年,以平王琳功,改封湘東郡公。及太尉侯瑱薨於湘州,以度代瑱為都督、湘州刺史。秩滿,復為侍中、中軍大將軍。文帝崩,度預顧命,許以甲仗五十人入殿省。廢帝即位,進位司空。薨,贈太尉,諡曰忠肅。太建四年,配享武帝廟庭。子敬成嗣。

敬成は幼くして聡明で慧く、読書を好んだ。著作佐郎として起家した。永定元年、父の徐度が統率していた士卒を率い、周文育・侯安都に従って王琳を征討したが、沌口で敗北し、王琳に捕らえられた。二年、文育・安都とともに帰還を得た。父の徐度が呉郡太守となったとき、敬成に郡を監察させた。

原文敬成幼聰慧,好讀書。起家著作佐郎。永定元年,領度所部士卒,隨周文育、侯安都征王琳,於沌口敗績,為琳所縶。二年,隨文育、安都得歸。父度為吳郡太守,以敬成監郡。

光大元年、巴州刺史となった。まもなく水軍となり、呉明徹に従って華皎を平定した。二年、父の喪により官を去った。まもなく起用されて南豫州刺史となり、湘東郡公の爵位を襲封した。

原文光大元年,為巴州刺史。尋為水軍,隨吳明徹平華皎。二年,以父憂去職。尋起為南豫州刺史,襲爵湘東郡公。

太建五年、呉興太守に任じられた。都督呉明徹に従って北討し、秦郡から出撃し、別に敬成を都督として派遣し、金翅船に乗って欧陽引埭から江を遡り、広陵を経由した。斉人は皆城を守り、敢えて出撃しなかった。繁梁湖から淮水に下り、淮陰・山陽・塩城の三郡を攻略し、さらに進んで鬱洲を攻略した。壮武将軍の号を加えられ、朐山を鎮守した。軍中において勝手に徴発を行い、併せて新たに帰附した者を誅殺した罪により、官を免ぜられた。まもなく安州刺史に任じられ、宿預を鎮守した。卒し、諡は思といった。子の敞が後を嗣いだ。

原文太建五年,除吳興太守。隨都督吳明徹北討,出秦郡,別遣敬成為都督,乘金翅自歐陽引埭泝江,由廣陵,齊人皆城守,弗敢出。自繁梁湖下淮,克淮陰、山陽、鹽城三郡,仍進克鬱洲。進號壯武將軍,鎮朐山。坐於軍中輒科訂,並誅新附者,免官。尋除安州刺史,鎮宿預。卒,諡曰思。子敞嗣。

杜棱

原文杜棱

杜棱は字を雄盛といい、呉郡銭唐の人である。若い頃は落ちぶれて、当時の人に知られなかった。書伝に広く通じていた。嶺南に遊び、梁の広州刺史新渝侯蕭映に仕えた。蕭映が没すると、陳武帝に従い、蔡路養・李遷仕を平定して功績があった。梁元帝が承制すると、石州刺史・上陌県侯に任じられた。

原文杜棱字雄盛,吳郡錢唐人也。少落泊,不為時知。頗涉書傳。游嶺南,事梁廣州刺史新渝侯蕭映。映卒,從陳武帝,平蔡路養、李遷仕皆有功。梁元帝承制,授石州刺史、上陌縣侯。

侯景平定後、武帝が朱方を鎮守したとき、杜棱に義興・琅邪の二郡を監させた。武帝が王僧辯を誅殺しようと謀り、杜棱と侯安都らを招いて共に議したが、杜棱は難色を示した。武帝は彼が機密を漏らすことを恐れ、手巾で杜棱を絞め、杜棱は地に悶絶したので、別室に閉じ込めた。軍が発すると、召し出して同行させた。王僧辯平定後、武帝が杜龕らを東征したとき、杜棱と安都を留めて居守らせた。徐嗣徽・任約が斉軍を引きいて江を渡り、台城を攻撃すると、安都と杜棱は臨機応変に抵抗し、帯を解くことがなかった。賊が平定され、功により右衛将軍・丹陽尹に任じられた。

原文侯景平後,武帝鎮朱方,以棱監義興、琅邪二郡。武帝謀誅王僧辯,引棱與侯安都等共議,棱難之。武帝懼其泄己,乃以手巾絞棱,棱悶絕於地,因閉於別室。軍發,召與同行。及僧辯平後,武帝東征杜龕等,留棱與安都居守。徐嗣徽、任約引齊師濟江,攻台城,安都與棱隨方抗拒,未嘗解帶。賊平,以功除右衛將軍、丹陽尹。

永定元年、侍中・中領軍の位にあった。武帝が崩御したとき、文帝は南皖にいた。当時、内には嫡嗣がなく、外には強敵があり、侯瑱・侯安都・徐度らは皆軍中にあり、朝廷の宿将で都にいたのは杜棱のみで、ただ一人禁兵を統率していた。そこで蔡景歴らと共に秘して喪を発せず、文帝を奉迎した。文帝が即位すると、領軍将軍に遷り、擁立の功績により永城県侯に改封され、丹陽尹の位にあった。廃帝が即位すると、特進・侍中を加えられた。光大元年、尹を解かれ、佐史を量置され、扶を与えられた。太建元年、外任して呉興太守となった。二年、召されて侍中となった。まもなく特進・護軍将軍を加えられた。三年、公事により侍中・護軍を免じられた。四年、再び侍中・右光禄大夫となり、将軍・佐史・扶は全て以前の通りであった。

原文永定元年,位侍中、中領軍。武帝崩,文帝在南皖。時內無嫡嗣,外有強敵,侯瑱、侯安都、徐度等並在軍中,朝廷宿將,唯棱在都,獨典禁兵,乃與蔡景曆等秘不發喪,奉迎文帝。文帝即位,遷領軍將軍,以預建立功,改封永城縣侯,位丹陽尹。廢帝即位,加特進、侍中。光大元年,解尹,量置佐史,給扶。太建元年,出為吳興太守。二年,徵為侍中。尋加特進、護軍將軍。三年,以公事免侍中、護軍。四年,復為侍中、右光祿大夫,將軍、佐史、扶並如故。

杜棱は三帝に仕え、皆恩寵を受けた。末年は征役に預からず、都下で悠々と過ごした。ほどなくして官で卒した。開府儀同三司を追贈され、諡して成といい、武帝の廟庭に配享された。子の安世が嗣いだ。

原文棱曆事三帝,並見恩寵。末年不預征役,優遊都下。頃之,卒於官。贈開府儀同三司,諡曰成,配享武帝廟庭。子安世嗣。

周鉄武

原文周鐵武

周鉄武は、何処の人か知られていない。語音は荒々しく重く、膂力は人に優れ、馬槊をよくした。梁の河東王蕭誉に仕え、勇敢さで知られた。蕭誉が湘州刺史となると、彼を臨蒸県令とした。侯景の乱のとき、梁元帝が世子方等を遣わして蕭誉を討たせたが、蕭誉は防戦して大勝し、方等は戦死し、鉄武の功績が最も大きかった。王僧辯が蕭誉を討ったとき、陣中で鉄武を捕らえ、煮殺そうとしたところ、鉄武は叫んだ。「侯景が未だ滅んでいないのに、どうして壮士を殺すのか!」僧辯はその言葉を奇とし、許して麾下に戻した。侯景が西上すると、鉄武は僧辯に従って任約を撃破し、宋子仙を捕らえ、戦うごとに功績があった。元帝が承制すると、潼州刺史に任じ、沌陽県子に封じられた。また僧辯に従って建鄴を平定し、謝答仁を降し、湘州で陸納を平定し、前後の功績を記録され、侯に爵位を進めた。

原文周鐵武,不知何許人也。語音傖重,膂力過人,便馬槊。事梁河東王蕭譽,以勇敢聞。譽為湘州,以為臨蒸令。侯景之亂,梁元帝遣世子方等伐譽,譽拒戰,大捷,方等死,鐵武功最。及王僧辯討譽,於陣獲之,將烹焉,鐵武呼曰:「侯景未滅,奈何殺壯士!」僧辯奇其言,宥之,還其麾下。及侯景西上,鐵武從僧辯克任約,獲宋子仙,每戰有功。元帝承制,授潼州刺史,封沌陽縣子。又從僧辯定建鄴,降謝答仁,平陸納於湘州,錄前後功,進爵為侯。

陳武帝が僧辯を誅殺すると、鉄武は配下を率いて降伏し、元の官職に復した。徐嗣徽が斉の賊を引きいて江を渡ると、鉄武はその水軍を撃破した。嗣徽が平定されると、太子左衛率に遷った。まもなく周文育に従って蕭勃を防ぎ、文育は鉄武に別軍を率いて蕭勃を襲撃させ、勃の前軍欧陽頠を捕らえた。また文育に従って沌口で王琳を西征したが、敗北し、文育・侯安都と共に琳に捕らえられた。琳は諸将と会って語ったが、鉄武のみが言辞の気勢が屈せず、それ故に琳は文育の徒を皆許したが、鉄武のみが殺害された。侍中・護軍を追贈された。天嘉五年、文帝はまた詔して武帝の廟庭に配食させた。子の瑜が嗣いだ。

原文陳武帝誅僧辯,鐵武率所部降,因復其本職。徐嗣徽引齊寇度江,鐵武破其水軍。嗣徽平,遷太子左衛率。尋隨周文育拒蕭勃,文育命鐵武偏軍襲勃,禽勃前軍歐陽頠。又隨文育西征王琳於沌口,敗績,與文育、侯安都並為琳所禽。琳見諸將與語,唯鐵武辭氣不屈,故琳盡宥文育之徒,獨鐵武見害。贈侍中、護軍。天嘉五年,文帝又詔配食武帝廟庭。子瑜嗣。

程霊洗

原文程靈洗

程霊洗は字を玄滌といい、新安海寧の人である。若い頃から勇力で知られ、歩行で一日二百里、騎乗をよくし、水泳に長け、元より郷里で畏服されていた。侯景の乱のとき、黟・歙に拠って徒党を集めて侯景に抵抗した。景軍が新安を占拠すると、新安太守湘西郷侯蕭隠が霊洗のもとに奔り依ったので、霊洗は彼を奉じて盟主とした。梁元帝は霊洗に譙州刺史の資格を与え、新安太守を領させ、巴丘県侯に封じた。後に王僧辯を助けて鎮防した。

原文程靈洗字玄滌,新安海寧人也。少以勇力聞,步行日二百里,便騎善遊,素為鄉里畏伏。侯景之亂,據黟、歙聚徒以拒景。景軍據有新安,新安太守湘西鄉侯蕭隱奔依靈洗,靈洗奉以主盟。梁元帝授靈洗譙州刺史資,領新安太守,封巴丘縣侯。後助王僧辯鎮防。

武帝が僧辯を誅殺すると、霊洗は配下を率いて救援に来た。その夜、石頭城西門で力戦し、武帝軍は不利となったが、使者を遣わして招き諭し、長くしてようやく降伏した。帝は深くその義を重んじた。蘭陵太守に任じ、引き続き京口の防備を助けた。徐嗣徽を平定したとき、霊洗に功績があり、南丹陽太守に任じ、遂安県侯に封じられた。後に周文育に従って王琳を西討したが、軍は敗れ、琳に拘束された。まもなく侯安都らと共に逃げ帰った。累進して太子左衛率となった。

原文及武帝誅僧辯,靈洗率所領來援,其夜力戰於石頭西門,武帝軍不利,遣使招喻,久之乃降,帝深義之。授蘭陵太守,仍助防京口。及平徐嗣徽,靈洗有功,除南丹陽太守,封遂安縣侯。後隨周文育西討王琳,軍敗,為琳所拘。尋與侯安都等逃歸。累遷太子左衛率。

武帝が崩御すると、王琳の前軍が東下したので、霊洗は南陵でこれを撃破し、その兵士を虜にし、併せて青龍車十余乗を捕獲した。功により都督・南豫州刺史に任じられた。侯瑱らが柵口で王琳を破ると、霊洗は敗走する敵を追撃し、魯山を占拠した。召されて左衛将軍となった。天嘉四年、周迪が再び臨川を寇すと、霊洗を都督とし、鄱陽から別道を進撃させた。迪はまた山谷の間に逃走した。中護軍に遷り、外任して都督・郢州刺史となった。

原文武帝崩,王琳前軍東下,靈洗于南陵破之,虜其兵士,並獲青龍十餘乘。以功授都督、南豫州刺史。侯瑱等敗王琳於柵口,靈洗逐北,據有魯山。徵為左衛將軍。天嘉四年,周迪重寇臨川,以靈洗為都督,自鄱陽別道擊之,迪又走山谷間。遷中護軍,出為都督、郢州刺史。

廃帝が即位すると、雲麾将軍の号を進めた。華皎が反乱したとき、使者を遣わして霊洗を招いたが、霊洗は皎の使者を斬って報告した。朝廷は深くその忠を嘉し、心を推して彼を待遇し、その子文季に水軍を率いさせて防備を助けさせた。当時、周の将元定が歩騎二万を率いて華皎を助け、霊洗を包囲した。霊洗は城に拠って固守した。華皎が敗れると、軍を出して元定を追撃し、定は江を渡ることができず、その兵衆を率いて降伏した。そこで進攻し、周の沔州を陥落させ、その刺史裴寛を捕らえた。功により重安県公に改封された。

原文廢帝即位,進號雲麾將軍。華皎之反,遣使招靈洗,靈洗斬皎使以聞。朝廷深嘉其忠,因推心待之,使其子文季領水軍助防。時周將元定率步騎二萬助皎,圍靈洗,靈洗嬰城固守。及皎敗,乃出軍躡定,定不獲濟江,以其眾降。因進攻,克周沔州,禽其刺史裴寬。以功改封重安縣公。

霊洗の性格は厳しくせっかちで、部下を統御すること甚だ厳しく、士卒に小さな罪があれば必ず軍法で誅殺した。号令は分明で、士卒と苦楽を共にし、兵衆もまたこのことで彼を徳とした。生来耕作を好み、自ら勤めて耕稼に励み、水陸の適宜や刈り取りの早晚については、老農でさえ及ばなかった。妓妾に遊手の者なく、皆督いて紡績させた。財産を散ずるに至っては、また吝嗇ではなかった。卒すると、鎮西将軍・開府儀同三司を追贈され、諡して忠壮といった。太建四年、武帝の廟庭に配享された。子の文季が嗣いだ。文季は字を少卿といい、幼い頃から騎射を習い、才幹と謀略に富み、果断にして父の風があった。霊洗が周文育・侯安都らと沌口で敗れ、王琳に捕らえられたとき、武帝は賊に陥った諸将の子弟を召して厚遇したが、文季が最も礼容に優れ、深く賞賛された。

原文靈洗性嚴急,禦下甚苛刻,士卒有小罪,必以軍法誅之。號令分明,與士卒同甘苦,眾亦以此德之。性好播植,躬勤耕稼,至於水陸所宜,刈獲早晚,雖老農不能及也。妓妾無遊手,並督之紡績。至於散用貲財,亦弗儉吝。卒,贈鎮西將軍、開府儀同三司,諡曰忠壯。太建四年,配享武帝廟庭。子文季嗣。文季字少卿,幼習騎射,多幹略,果決有父風。靈洗與周文育、侯安都等敗於沌口,為王琳所執,武帝召陷賊諸將子弟厚遇之,文季最有禮容,深見賞。

文帝が位を嗣ぐと、宣恵始興王府限内中直兵参軍に任じられた。累進して臨海太守となった。後に金翅船に乗って父を助け郢城を鎮守した。華皎が平定されると、霊洗と文季は共に防禦の功績があった。霊洗が卒すると、文季はその配下を全て統領した。起用されて超武将軍となり、引き続き郢州の防備を助けた。

原文文帝嗣位,除宣惠始興王府限內中直兵參軍。累遷臨海太守。後乘金翅助父鎮郢城。華皎平,靈洗及文季並有扞禦之功。及靈洗卒,文季盡領其眾。起為超武將軍,仍助防郢州。

文季は性、至孝にして、軍旅に礼を奪わるれども、毀瘠甚だしきに至る。服闋し、重安県公を襲封す。都督章昭達に随ひ軍を率ひ荊州に往きて梁を征す。梁人と周軍は多く舟艦を造り、青泥水中に置く。昭達は文季を遣はし、銭道戢と共に其の舟艦を尽く焚かしむ。既にして周兵大いに出づ。文季は僅かに身を以て免る。功を以て通直散騎常侍を加ふ。

原文文季性至孝,雖軍旅奪禮,而毀瘠甚至。服闋,襲封重安縣公。隨都督章昭達率軍往荊州征梁。梁人與周軍多造舟艦,置於青泥水中,昭達遣文季共錢道戢盡焚其舟艦。既而周兵大出,文季僅以身免。以功加通直散騎常侍。

太建五年、都督呉明徹北討し、秦郡に至る。秦郡の前、江浦塗水に通ず。斉人は並びに大柱を下して杙と為し、水中に柵す。文季乃ち前に驍勇を領し、其の柵を抜き開く。明徹は大軍を率ひ自ら後に至り、秦郡を攻克す。又別に文季を遣はし涇州を攻め、其の城を屠る。進みて盱眙を抜く。仍ひて明徹に随ひ寿陽を囲む。文季は事に臨み謹飭にして、下を禦ぐに厳整なり。前後に克つ所の城壘は、率ね皆迮水して堰を為し、土木の功、動もすれば数万を踰ゆ。陣を置き役人す。文季は必ず諸将に先んじ、夜は則ち早く起き、暮に至る迄休まず。軍中其の勤幹に服せざる莫し。毎たび戦ふに前鋒と為り、斉軍深く之を憚り、程彪と謂ふ。功を以て散騎常侍を除し、新安内史を帯ぶ。累遷して北徐州刺史と為り、都督を加ふ。

原文太建五年,都督吳明徹北討,至秦郡。秦郡前江浦通塗水,齊人並下大柱為杙,柵水中。文季乃前領驍勇,拔開其柵,明徹率大軍自後而至,攻克秦郡。又別遣文季攻涇州,屠其城。進拔盱眙。仍隨明徹圍壽陽。文季臨事謹飭,禦下嚴整,前後所克城壘,率皆迮水為堰,土木之功,動踰數萬。置陣役人,文季必先于諸將,夜則早起,迄暮不休,軍中莫不服其勤幹。每戰為前鋒,齊軍深憚之,謂為程彪。以功除散騎常侍,帶新安內史。累遷北徐州刺史,加都督。

後に明徹に随ひ北侵し、軍敗れ、周に囚はれ、仍ひて開府儀同三司を授く。十一年、周より逃げ帰り、渦陽に至り、辺吏に執へられ長安に送られ、獄に死す。是の時既に周と絶ち、之を知らず。至徳元年、後主之を知り、散騎常侍を贈る。又詔して其の廃絶を傷み、重安県侯に降封し、子響を以て封を襲がしむ。

原文後隨明徹北侵,軍敗,為周所囚,仍授開府儀同三司。十一年,自周逃歸,至渦陽,為邊吏執送長安,死於獄。是時既與周絕,不之知。至德元年,後主知之,贈散騎常侍。又詔傷其廢絕,降封重安縣侯,以子響襲封。

沈恪

原文沈恪

沈恪は字は子恭、呉興武康の人なり。深沈にして幹局有り。梁の新渝侯蕭映の広州と為るに、兼ねて映の府中兵参軍と為る。陳武帝は恪と郡を同じくし、情好甚だ昵し。蕭映卒して後、武帝南討して李賁を討つ。仍ひて妻子を遣はし恪に附して郷に還らしむ。尋ひて東宮直後を補ふ。嶺南の勳を以て、員外散騎侍郎を除す。仍ひて令して宗従の子弟を総集せしむ。

原文沈恪字子恭,吳興武康人也。深沈有幹局。梁新渝侯蕭映之為廣州,兼映府中兵參軍。陳武帝與恪同郡,情好甚昵。蕭映卒後,武帝南討李賁,仍遣妻子附恪還鄉。尋補東宮直後。以嶺南勳,除員外散騎侍郎。仍令總集宗從子弟。

侯景台城を囲み、東西二つの土山を起こして以て城に逼る。城内も亦た土山を作りて之に応ず。恪は東土山の主と為り、昼夜拒戦す。功を以て東興侯に封ぜらる。城陥つるに及び、間行して郷に帰る。武帝景を討つに、使を遣はし恪に報ず。恪は東に於て兵を起こし相応ず。賊平したる後、都軍副を授く。

原文侯景圍台城,起東西二土山以逼城,城內亦作土山應之,恪為東土山主,晝夜拒戰。以功封東興侯。及城陷,間行歸鄉。武帝討景,遣使報恪,恪於東起兵相應。賊平後,授都軍副。

武帝王僧辯を討たんと謀るに及び、恪其の事に預る。武帝は文帝をして長城に還り柵を立て杜龕に備へしめ、恪をして武康に還り兵衆を招集せしむ。僧辯誅せられ、龕果たして副将杜泰を遣はし長城に於て文帝を襲はしむ。恪は時に已に県を出で、龕の党与を誅す。武帝尋ひて周文育を遣はし来りて長城を援けしむ。文育至りて、泰乃ち走る。龕平らぎ、文帝東揚州刺史張彪を襲ふに、恪を以て呉興郡を監せしむ。

原文及武帝謀討王僧辯,恪預其事。武帝使文帝還長城立柵備杜龕,使恪還武康招集兵眾。及僧辯誅,龕果遣副將杜泰襲文帝于長城,恪時已出縣,誅龕黨與。武帝尋遣周文育來援長城,文育至,泰乃走。及龕平,文帝襲東揚州刺史張彪,以恪監吳興郡。

武帝禅を受く。時に恪は呉興より朝に入る。武帝は中書舎人劉師知に恪を引かしめ、兵を勒して入らしめ、因りて敬帝を衛り別宮の如くせしめんとす。恪は闥を排して入り武帝に見え、頭を叩きて謝して曰く、「恪は身蕭家に事へしより来り、今日此の事を見るに忍びず。分を受けて死するのみ。決して命に奉ぜじ」と。武帝其の意を嘉し、復た逼らず、更に蕩主王僧志を以て之に代ふ。

原文武帝受禪,時恪自吳興入朝,武帝使中書舍人劉師知引恪,令勒兵入,因衛敬帝如別宮。恪排闥入見武帝,叩頭謝曰:「恪身經事蕭家來,今日不忍見此事,分受死耳,決不奉命。」武帝嘉其意,不復逼,更以蕩主王僧志代之。

帝践阼し、呉興太守を除す。永定三年、散騎常侍・会稽太守を除す。文帝及び廃帝に歴事し、累遷して護軍将軍と為る。宣帝即位に至り、平越中郎将・都督・広州刺史を除す。恪未だ嶺に至らざるに、前刺史欧陽紇兵を挙げて嶮に拒ぎ、進むことを得ず。朝廷司空章昭達を遣はし紇を討ち平らげ、乃ち州に入ることを得。兵荒の後、所在残毀す。恪は綏懐安輯し、恩恵を以て被ひ、嶺表之に頼る。後主即位し、特進・金紫光禄大夫と為る。卒す。諡して光と曰ふ。子法興嗣ぐ。

原文帝踐阼,除吳興太守。永定三年,除散騎常侍、會稽太守。曆事文帝及廢帝,累遷護軍將軍。至宣帝即位,除平越中郎將、都督、廣州刺史。恪未至嶺,前刺史歐陽紇舉兵拒嶮,不得進。朝廷遣司空章昭達討平紇,乃得入州。兵荒之後,所在殘毀,恪綏懷安輯,被以恩惠,嶺表賴之。後主即位,為特進、金紫光祿大夫。卒,諡曰光。子法興嗣。

陸子隆

原文陸子隆

陸子隆は字は興世、呉郡の人なり。祖は敞之、梁の嘉興令。父は悛、封氏令。

原文陸子隆字興世,吳郡人也。祖敞之,梁嘉興令。父悛,封氏令。

子隆は少しく慷慨にして、功名に志有り。侯景の乱、郷里に於て徒を聚む。時に張彪は呉郡太守と為り、将帥として引き、仍ひて彪に随ひ徙りて会稽に鎮す。文帝彪を討つに及び、彪の将沈泰・呉宝真・申縉等皆降る。而して子隆は力戦して敗績す。文帝之を義とし、復た其の部曲ぶきょくを領せしむ。

原文子隆少慷慨,有志功名。侯景之亂,於鄉里聚徒。時張彪為吳郡太守,引為將帥,仍隨彪徙鎮會稽。及文帝討彪,彪將沈泰、吳寶真、申縉等皆降,而子隆力戰敗績。文帝義之,復使領其部曲。

文帝位を嗣ぎ、子隆は甲仗宿衛を領す。益陽県子に封ぜられ、累遷して廬陵太守と為る。周迪臨川に拠りて反す。子隆は章昭達に随ひ迪を討つ。迪退走す。因りて昭達に随ひ陳宝応を討つ。晋安平らぎ、子隆の功最も、武州刺史に遷り、朝陽県伯に改封せらる。

原文文帝嗣位,子隆領甲仗宿衛。封益陽縣子,累遷廬陵太守。周迪據臨川反,子隆隨章昭達討迪,迪退走,因隨昭達討陳寶應。晉安平,子隆功最,遷武州刺史,改封朝陽縣伯。

華皎湘州に拠りて反す。子隆其の心腹に居るを以て、皎深く之を患ひ、頻りに使を遣はし招く。子隆従はず、攻むるも又克たず。皎郢州に於て敗るるに及び、子隆は兵を出して其の後を襲ひ、因りて大軍と相会す。爵を進めて侯と為す。尋ひて都督・荊州刺史に遷る。荊州新たに置かれ、公安に居る。城池未だ固からず。子隆は城郭を修め立ち、夷夏を綏集し、甚だ人和を得、称職と号せらる。吏人闕に詣りて碑を立て功績を頌美せんことを求め、詔して之を許す。卒す。諡して威と曰ふ。子之武嗣ぐ。

原文華皎據湘州反,以子隆居其心腹,皎深患之,頻遣使招,子隆不從,攻又不克。及皎敗於郢州,子隆出兵襲其後,因與大軍相會。進爵為侯。尋遷都督、荊州刺史。荊州新置,居公安,城池未固,子隆修立城郭,綏集夷夏,甚得人和,號為稱職。吏人詣闕求立碑頌美功績,詔許之。卒,諡威。子之武嗣。

之武は年十六、其の旧軍を領す。後に弘農太守と為り、乃ち呉明徹に隷し、呂梁に於て軍敗れ逃げ帰り、人の為に害せらる。

原文之武年十六,領其舊軍。後為弘農太守,乃隸吳明徹,于呂梁軍敗逃歸,為人所害。

子隆の弟の子才もまた、幹略があった。従子隆に従って征討し功績があり、始平太守に任ぜられ、始康県子に封ぜられた。信州刺史の任で卒した。

原文子隆弟子才,亦有幹略。從子隆征討有功,除始平太守,封始康縣子。卒于信州刺史。

錢道戢

原文錢道戢

錢道戢は字を子韜といい、呉興郡長城県の人である。父の景深は、梁の漢寿県令であった。道戢は若くして孝行で名を知られ、成長すると、頗る才幹があった。陳の武帝が微賤の時、従妹を娶らせた。武帝が政権を輔佐すると、道戢は文帝に従って会稽で張彪を平定し、功績により東徐州刺史に任ぜられ、永安県侯に封ぜられた。

原文錢道戢字子韜,吳興長城人也。父景深,梁漢壽令。道戢少以孝行著聞,及長,頗有材幹,陳武帝微時,以從妹妻焉。武帝輔政,道戢隨文帝平張彪於會稽,以功拜東徐州刺史,封永安縣侯。

天嘉元年、臨海太守となった。侯安都が留異を討伐した時、道戢は軍を率いて松陽から出撃し、その退路を断った。留異が平定されると、功績により都督・衡州刺史に任ぜられ、始興内史を兼ねた。後に章昭達とともに欧陽紇を討伐し、紇が平定されると、左衛将軍に任ぜられた。

原文天嘉元年,為臨海太守。侯安都之討留異,道戢帥軍出松陽以斷其後。異平,以功拜都督、衡州刺史,領始興內史。後與章昭達討歐陽紇,紇平,除左衛將軍。

太建二年、また章昭達に従って江陵を征伐し、功績により散騎常侍を加えられた。後に都督・郢州刺史となった。儀同の黄法奭とともに歴陽を攻め落とし、これにより道戢をそこに鎮守させた。官任で卒し、諡して肅といった。子の邈が後を嗣いだ。

原文太建二年,又隨昭達征江陵,以功加散騎常侍。後為都督、郢州刺史。與儀同黃法奭攻下曆陽,因以道戢鎮之。卒官,諡曰肅。子邈嗣。

駱文牙

原文駱文牙

駱文牙は字を旗門といい、呉興郡臨安県の人である。父の裕は、梁の鄱陽嗣王中兵参軍事であった。文牙が十二歳の時、宗族に善く相を見る者がおり、言うには「この郎は容貌が尋常でなく、必ず遠大な地位に至るであろう」。梁の太清末年、陳の文帝が臨安に避難した時、文牙の母の陳氏は、帝の儀表を見て、常人でないことを知り、賓客として厚くもてなした。帝が呉興太守となると、文牙を将帥に抜擢した。杜龕・張彪の平定に従い、その勇気は諸軍の冠であった。

原文駱文牙字旗門,吳興臨安人也。父裕,梁鄱陽嗣王中兵參軍事。文牙年十二,宗人有善相者,云:「此郎容貌非常,必將遠致。」梁太清末,陳文帝避地臨安,文牙母陳,睹帝儀錶,知非常人,賓待甚厚。及帝為吳興太守,引文牙為將帥。從平杜龕、張彪,勇冠眾軍。

文帝が即位すると、臨安県侯に封ぜられ、越州刺史の位に至った。初め、文牙の母が亡くなった時は、兵乱と飢饉の最中であり、この時に至って初めて葬ることができた。詔して臨安国太夫人を追贈し、諡して恭といった。

原文文帝即位,封臨安縣侯,位越州刺史。初,文牙母卒,時兵荒,至是始葬,詔贈臨安國太夫人,諡曰恭。

太建八年、文牙は累進して散騎常侍となり、殿省に直した。十年、豊州刺史を授けられた。至徳二年に卒し、広州刺史を追贈された。子の義が後を嗣いだ。

原文太建八年,文牙累遷散騎常侍,入直殿省。十年,授豐州刺史。至德二年卒,贈廣州刺史。子義嗣。

孫瑒

原文孫瑒

孫瑒は字を德璉といい、呉郡呉県の人である。父の修道は、梁の中散大夫であり、雅素をもって知られた。瑒は若くして倜儻であり、謀略を好み、経史に広く渉猟し、特に書翰に長じていた。梁に仕えて邵陵王中兵参軍事となった。太清の難に際し、仮節・宣猛将軍・軍主を授けられた。王僧辯が侯景を討伐した時、王琳が前軍となり、琳は瑒と姻戚関係にあったため、上表して宜都太守に推薦した。後に軍功により富陽侯に封ぜられた。敬帝が立つと、累進して巴州刺史となった。

原文孫瑒字德璉,吳郡吳人也。父修道,梁中散大夫,以雅素知名。瑒少倜儻,好謀略,博涉經史,尤便書翰。仕梁為邵陵王中兵參軍事。太清之難,授假節、宣猛將軍、軍主。王僧辯之討侯景也,王琳為前軍,琳與瑒親婭,乃表薦為宜都太守。後以軍功封富陽侯。敬帝立,累遷巴州刺史。

陳の武帝が禅譲を受けると、王琳は郢州で梁の永嘉王蕭莊を立て、瑒を徴して少府卿とし、さらに都督・郢州刺史に転じ、留府の任を総べさせた。周が大将軍史寧を派遣して虚を衝いて攻撃したが、瑒の兵は千人に満たず、城に乗り上げて防ぎ守ったため、周軍は陥落させることができなかった。大軍が王琳を破り、勝ちに乗じて進撃したと聞くと、周軍は解囲した。瑒はここに中流の地をことごとく領有した。やがて使者を派遣して上表し、陳に帰順した。

原文及陳武帝受禪,王琳立梁永嘉王蕭莊於郢州,征瑒為少府卿,仍徙都督、郢州刺史,總留府之任。周遣大將軍史甯乘虛攻之,瑒兵不滿千人,乘城拒守,周兵不能克。及聞大軍敗王琳,乘勝而進,周兵乃解,瑒於是盡有中流之地。既而遣使奉表歸陳。

天嘉元年、湘州刺史を授けられ、定襄県侯に封ぜられた。瑒は内心安からず、固く入朝を請い、侍中・領軍将軍に徴された。拝命しないうちに、文帝が言うには「昔、朱買臣は本郡の太守を願ったが、卿もその意があるか」。改めて呉郡太守を授け、鼓吹一部を与えられた。任期が満ちると、散騎常侍・中護軍に徴された。留異が反乱し、東陽を占拠すると、詔して瑒に舟師を督して進討させた。留異が平定されると、鎮右将軍に遷った。まもなく、建安太守として出向した。

原文天嘉元年,授湘州刺史,封定襄縣侯。瑒懷不自安,乃固請入朝,徵為侍中、領軍將軍。未拜,文帝謂曰:「昔朱買臣願為本郡,卿豈有意乎?」改授吳郡太守,給鼓吹一部。秩滿,徵拜散騎常侍、中護軍。及留異反,據東陽,詔瑒督舟師進討。異平,遷鎮右將軍。頃之,出為建安太守。

太建四年、都督・荊州刺史となり、公安に出鎮し、隣境に畏れられた。職に在ること六年、公事により免官された。呉明徹の軍が呂梁で敗れると、詔して都督縁江水陸諸軍事を授けられた。まもなく都督・郢州刺史を授けられた。

原文太建四年,為都督、荊州刺史,出鎮公安,為鄰境所憚。居職六年,以公事免。及吳明徹軍敗呂梁,詔授都督緣江水陸諸軍事。尋授都督、郢州刺史。

十二年、国境での交渉の罪に坐して処罰された。後主が位を嗣ぐと、爵位と封邑を回復した。度支尚書、侍中、祠部尚書を歴任した。後主は頻繁にその邸宅に行幸し、詩を賦してその勲功と徳の美を述べた。五兵尚書に遷り、左軍将軍を兼ね、侍中はもとの通りであった。禎明元年、官任で卒し、諡して桓といった。

原文十二年,坐疆埸交通抵罪。後主嗣位,復爵邑。歷位度支尚書,侍中,祠部尚書。後主頻幸其宅,賦詩述勳德之美。遷五兵尚書,領左軍將軍,侍中如故。禎明元年,卒官,諡曰桓。

王瑒は親に仕えることを孝行として知られ、諸弟に対しては非常に篤く睦まじかった。性質は通達して泰然としており、財産があれば親友に分け与えた。家に居る時はやや奢侈に過ぎ、庭園に池を穿ち築山を設け、林泉の趣を極め、歌鐘舞女を備え、当世に比類するものは稀であった。賓客が門を埋め、車の蓋が絶えることがなかった。郢州に出鎮するに及んで、十余りの船を合わせて大船とし、その中に亭池を設け、荷や芰を植え、良辰美景の度に賓客や僚属を集め、長江を泛べて酒宴を開くことも、一時の勝れた賞玩であった。常に山斎に講肆を設け、玄儒の士を集め、冬夏に資を奉じ、学者に称えられた。しかし己を処することは率直で平易であり、名位をもって人に驕ることがなかった。当時、興皇寺の慧朗法師は釈典に通暁しており、王瑒はしばしば講筵に赴き、時に抗論し、法侶はみな傾心した。また巧思は人に過ぎ、起部尚書として、軍国の器械を多く創立した。鑑識があり、男女の婚姻は皆、素より貴い家を選んだ。卒去すると、尚書令の江総がその銘志を撰し、後主はまた銘の後に四十字を題し、左戸尚書の蔡征を遣わして宅に就き宣勅を以てこれを鐫らせた。その詞に曰く、「秋風竹を動かし、煙水波を驚かす。幾人か樵径、何れの処か山阿。今時の日月、宿昔の綺羅。天長く路遠し、地久しく霊多し。功臣未だ勒せず、此の意如何。」と。時の論はこれを栄えと為した。

原文瑒事親以孝聞,于諸弟甚篤睦。性通泰,有財散之親友。居家頗失於侈,家庭穿築,極林泉之致,歌鍾舞女,當世罕儔。賓客填門,軒蓋不絕。及出鎮郢州,乃合十餘船為大舫,于中立亭池,植荷芰,每良辰美景,賓僚並集,泛長江而置酒,亦一時之勝賞焉。常於山齋設講肆,集玄儒之士,冬夏資奉,為學者所稱。而處己率易,不以名位驕物。時興皇寺慧朗法師該通釋典,瑒每造講筵,時有抗論,法侶莫不傾心。又巧思過人,為起部尚書,軍國器械,多所創立。有鑒識,男女婚姻,皆擇素貴。及卒,尚書令江總為之銘志,後主又題銘後四十字,遣左戶尚書蔡征就宅宣敕鐫之。其詞曰:「秋風動竹,煙水驚波。幾人樵徑,何處山阿。今時日月,宿昔綺羅。天長路遠,地久靈多。功臣未勒,此意如何。」時論以為榮。

王瑒には二十一子があり、第二子の王訓は頗る知名で、高唐太守の位にあり、陳が滅びて隋に入った。

原文瑒二十一子,第二子訓頗知名,位高唐太守,陳亡入隋。

徐世譜

原文徐世譜

徐世譜は字を興宗といい、巴東郡魚復県の人である。代々荊州に住み主帥として、蛮蜒を征伐した。徐世譜に至っては特に勇敢で、膂力があり、水戦を善くした。梁の元帝が荊州刺史であった時、徐世譜は郷里の人を将領としてこれに事えた。

原文徐世譜字興宗,巴東魚復人也。世居荊州為主帥,征伐蠻蜒。至世譜尤勇敢,有膂力,善水戰。梁元帝之為荊州刺史,世譜將領鄉人事焉。

侯景の乱に際し、征討に参与し、累遷して員外散騎常侍に至った。まもなく水軍を領し、司徒の陸法和に従って侯景と赤亭湖で戦った。当時、侯景軍は甚だ盛んであったので、徐世譜は別に楼船・拍艦・火舫・水車を造って軍勢を増強した。戦おうとする時、また大艦に乗って前に居り、大いに侯景軍を破り、その将の任約を擒にした。侯景が退走すると、王僧辯に従って郢州を攻め、徐世譜は再び大艦に乗ってその倉門に臨み、賊将の宋子仙が城を拠して降った。功により信州刺史に除され、魚復県侯に封ぜられた。引き続き王僧辯に従って東下し、常に軍の鋒となった。侯景が平定されると、衡州刺史の資格で、河東太守を領した。

原文侯景之亂,因預征討,累遷至員外散騎常侍。尋領水軍,從司徒陸法和與景戰於赤亭湖。時景軍甚盛,世譜乃別造樓船、拍艦、火舫、水車以益軍勢。將戰,又乘大艦居前,大敗景軍,禽景將任約。景退走,因隨王僧辯攻郢州,世譜復乘大艦臨其倉門,賊將宋子仙據城降。以功除信州刺史,封魚復縣侯。仍隨僧辯東下,恒為軍鋒。景平,以衡州刺史資,領河東太守。

西魏が荊州を攻めると、徐世譜は馬頭岸を鎮め、龍洲を占拠した。元帝は侍中・都督江南諸軍事・鎮南將軍・護軍將軍を授けた。魏が江陵を陥すと、徐世譜は東下して侯瑱に依った。

原文西魏攻荊州,世譜鎮馬頭岸,據有龍洲。元帝授侍中、都督江南諸軍事、鎮南將軍、護軍將軍。魏克江陵,世譜東下依侯瑱。

紹泰元年、侍中・左衛將軍として召された。陳の武帝が王琳を拒ぐに当たり、その水戦の具は悉く徐世譜に委ねられた。徐世譜は性質機巧で、旧法に諳解し、造る器械は皆、機に随って損益し、妙思は人に抜きん出ていた。

原文紹泰元年,徵為侍中、左衛將軍。陳武帝之拒王琳,其水戰之具,悉委世譜。世譜性機巧,諳解舊法,所造器械,並隨機損益,妙思出人。

永定二年、護軍將軍に遷った。文帝が即位すると、特進・右光祿大夫を歴任した。疾のために失明し、病を理由に朝参しなかった。卒去し、諡して桓といった。

原文永定二年,遷護軍將軍。文帝即位,曆特進、右光祿大夫。以疾失明,謝病不朝。卒,諡曰桓。

周敷

原文周敷

周敷は字を仲遠といい、臨川郡の人である。郡の豪族であった。周敷は形貌が小さく、衣に耐えぬかのようであったが、胆力は勁く果敢で、時輩を超え出ていた。性質は豪侠で、財を軽んじ士を重んじ、郷党の少年で気性の激しい者は皆これに帰した。

原文周敷字仲遠,臨川人也。為郡豪族。敷形貌眇小,如不勝衣,膽力勁果,超出時輩。性豪俠,輕財重士,鄉党少年任氣者咸歸之。

侯景の乱に際し、郷人の周続が衆を合わせて賊を討つことを事とし、梁の内史始興蕃王の蕭毅が郡を周続に譲ると、周続の部下に蕭毅を侵掠しようとする者があったので、周敷はこれを擁護し、自らその党を率いて、護衛して豫章まで送った。当時、梁の観寧侯蕭永・長楽侯蕭基・豊城侯蕭泰が難を避けて流寓していたが、周敷の信義を聞き、皆これに依ろうとした。周敷はその危惧を憐れみ、身を屈して崇敬し、厚く給恤を加え、西上させた。まもなく周続の部下の将帥が権を争い、周続を殺して周迪に降った。周迪は元より簿閥がなく、また衆心を失い、周敷の族望を倚り頼み、深く交結を求めた。周敷は自ら固めることができず、周迪に事えて甚だ恭しく、周迪は大いにこれを憑仗した。周迪が臨川の工塘を拠ると、周敷は臨川の故郡を鎮めた。侯景が平定されると、梁の元帝は周敷に寧州刺史を授け、西豊県侯に封じた。

原文侯景之亂,鄉人周續合眾以討賊為事,梁內史始興蕃王蕭毅以郡讓續,續所部有欲侵掠毅者,敷擁護之,親率其黨,捍送至豫章。時梁觀甯侯蕭永、長樂侯蕭基、豐城侯蕭泰避難流寓,聞敷信義,皆往依之。敷湣其危懼,屈體崇敬,厚加給恤,送之西上。俄而續部下將帥爭權,殺續以降周迪。迪素無簿閥,又失眾心,倚敷族望,深求交結。敷未能自固,事迪甚恭,迪大憑仗之。迪據臨川之工塘,敷鎮臨川故郡。侯景平,梁元帝授敷甯州刺史,封西豐縣侯。

陳の武帝が禅を受けると、王琳が上流を拠有し、余孝頃が王琳の党の李孝欽らと共に周迪を囲んだ。周敷は周迪を助け、周迪が余孝頃らを擒にしたが、周敷の功が最も多かった。熊曇朗が周文育を殺し、豫章を拠って兵を率いて周敷を襲うと、周敷はこれを大破した。熊曇朗は巴山郡に走り、周敷は周迪・黄法奭らと進兵してこれを屠った。王琳が平定されると、散騎常侍・豫章太守を授かった。当時、南江の酋帥は皆、巣窟に顧恋していたが、周敷のみが独り先んじて入朝した。天嘉二年、闕に詣で、安西將軍の号を進められ、豫章に還鎮することを命ぜられた。周迪は周敷が元より己の下にあったのに、超えて顕達に致ったことを深く不平とし、兵を挙げて反し、弟の周方興を遣わして周敷を襲わせたが、周敷はこれを大破した。引き続き都督の呉明徹に従って周迪を攻め破り、周方興を擒にした。再遷して都督・南豫州刺史となった。周迪がまた余衆を収めて東興を襲うと、文帝は都督の章昭達を遣わして周迪を征し、周敷もまた軍に従った。定川県に至って周迪と相対し、周迪は周敷を欺いて還朝を求め、盟を立てようとしたので、周敷はこれを許した。壇に登ろうとした時、周迪に害せられた。諡して脱といった。子の周智安が嗣ぎ、位は太僕卿に至った。

原文陳武帝受禪,王琳據有上流,余孝頃與琳党李孝欽等共圍周迪,敷助於迪,迪禽孝頃等,敷功最多。熊曇朗之殺周文育,據豫章,將兵襲敷,敷大破之。曇朗走巴山郡,敷因與周迪、黃法奭等進兵屠之。王琳平,授散騎常侍、豫章太守。時南江酋帥,並顧戀巢窟,唯敷獨先入朝。天嘉二年,詣闕,進號安西將軍,令還鎮豫章。周迪以敷素出己下,超致顯達,深不平,乃舉兵反,遣弟方興襲敷,敷大破之。仍從都督吳明徹攻破迪,禽方興。再遷都督、南豫州刺史。迪又收餘眾襲東興,文帝遣都督章昭達征迪,敷又從軍。至定川縣與迪相對,迪紿敷求還朝,欲立盟,敷許之。方登壇,為迪所害。諡曰脫。子智安嗣,位至太僕卿。

荀朗

原文荀朗

荀朗は字を深明といい、潁川郡潁陰県の人である。祖父の荀延祖は梁の潁川太守であった。父の荀伯道は衛尉卿であった。

原文荀朗字深明,潁川潁陰人也。祖延祖,梁潁川太守。父伯道,衛尉卿。

荀朗は若くして慷慨し、将帥の大略があった。侯景の乱に際し、巣湖を拠り、所属するところがなかった。台城が陥落した後、梁の簡文帝は密詔を以て荀朗に豫州刺史を授け、外蕃と共に侯景を討たせた。侯景は儀同の宋子仙・任約らを頻りに征したが、勝つことができなかった。当時、都下は飢えており、荀朗は更に部曲を招致し、衆は数万に至った。侯景が巴陵で敗れると、荀朗はその後軍を遮断して破った。侯景平定後、また別に踟躕山で斉の将の郭元建を破った。魏が荊州を陥し、陳の武帝が輔政に入ると、斉は蕭軌・東方老らを遣わして来寇し、石頭を占拠した。荀朗は宣城より来赴し、侯安都らと共にこれを大破した。

原文朗少慷慨,有將帥大略。侯景之亂,據巢湖,無所屬。台城陷沒後,梁簡文帝密詔授朗豫州刺史,令與外蕃討景。景使儀同宋子仙、任約等頻征之,不能克。時都下饑,朗更招致部曲,眾至數萬。侯景敗于巴陵,朗截破其後軍。景平後,又別破齊將郭元建於踟躕山。及魏克荊州,陳武帝入輔,齊遣蕭軌、東方老等來寇,據石頭,朗自宣城來赴,與侯安都等大破之。

武帝が禅譲を受けると、興寧県侯の爵位を賜り、朗の兄の昂を左衛将軍とし、弟の晷を太子右衛率とした。武帝が崩御すると、宣太后と舎人の蔡景歴は喪を発せずに秘したが、朗の弟の曉は都において密かにこれを知り、家兵を率いて台城を襲おうと謀った。事が露見し、景歴は曉を殺し、さらにその兄弟を拘束した。文帝が即位すると、ともにこれを釈放した。そこで朗を厚く慰撫し、侯安都らとともに王琳を防がせた。王琳が平定されると、都督・合州刺史に遷った。卒し、諡して壮といった。子の法尚が嗣いだ。

原文武帝受禪,賜爵興甯縣侯,以朗兄昂為左衛將軍,弟晷為太子右衛率。武帝崩,宣太后與舍人蔡景曆秘不發喪,朗弟曉在都微知之,謀率其家兵襲台。事覺,景曆殺曉,仍系其兄弟。文帝即位,並釋之。因厚撫朗,令與侯安都等拒王琳。琳平,遷都督、合州刺史。卒,諡曰壯。子法尚嗣。

法尚は若くして倜儻であり、文武の才幹と謀略があった。禎明年間、都督・郢州刺史となった。隋軍が長江を渡ると、法尚は降伏した。隋に入り、邵・観・綿・豊の四州刺史、巴東・敦煌の二郡太守を歴任した。

原文法尚少俶儻,有文武幹略。禎明中,為都督、郢州刺史。及隋軍濟江,法尚降。入隋,曆邵、觀、綿、豐四州刺史,巴東、敦煌二郡太守。

周炅

原文周炅

周炅は字を文昭といい、汝南安成の人である。祖父の強は、斉の梁州刺史であった。父の霊起は、梁の廬・桂二州刺史、保城県侯であった。

原文周炅字文昭,汝南安成人也。祖強,齊梁州刺史。父靈起,梁廬、桂二州刺史,保城縣侯。

炅は若くして豪侠で気性を任せ、将帥の才があった。梁の太清元年、弋陽太守となった。侯景の乱の際、元帝が承制して西陽太守に改めて任じ、西陵県伯に封じた。軍功により累進して都督・江州刺史となり、侯に進んだ。陳の武帝が即位すると、王琳が上流を擁拠したため、炅は州を率いてこれに従った。後に侯安都に捕らえられ、都に送られた。文帝はこれを釈放し、定州刺史とし、西陽・武昌二郡太守を兼ねさせた。

原文炅少豪俠任氣,有將帥才。梁太清元年,為弋陽太守。侯景之亂,元帝承制改授西陽太守,封西陵縣伯。以軍功累遷都督、江州刺史,進為侯。陳武帝踐阼,王琳擁據上流,炅以州從之。後為侯安都所禽,送都。文帝釋之,授定州刺史,帶西陽、武昌二郡太守。

太建五年、都督・安州刺史となり、龍源県侯に改封された。その年、都督の呉明徹に従って北討し、向かうところ克捷し、一月のうちに十二城を獲た。斉の尚書左丞陸騫の軍を破った。巴州に進攻し、これを陥落させた。ここにおいて江北の諸城および谷陽の土人は、ともにその渠帥きょすいを誅して城を降した。和戎将軍の号を進めた。そこで詔を下して炅を朝廷に召還した。

原文太建五年,為都督、安州刺史,改封龍源縣侯。其年,隨都督吳明徹北討,所向克捷,一月之中,獲十二城。敗齊尚書左丞陸騫軍。進攻巴州,克之。於是江北諸城及谷陽土人,並誅其渠帥以城降。進號和戎將軍。仍敕追炅入朝。

後梁の定州刺史田龍升が城を降したため、詔して定州刺史とし、赤亭王に封じた。炅が朝廷に入ると、龍升は江北の六州七鎮を率いて斉に叛いて入ったので、斉は歴陽王高景安を遣わしてこれに応じた。ここにおいて炅を江北道大都督とし、諸軍を統率して龍升を討たせ、これを斬り、江北の地をことごとく回復した。平北将軍の号を進めた。官において卒し、司州刺史を追贈され、武昌郡公に改封され、諡して壮といった。

原文後梁定州刺史田龍升以城降,詔以為定州刺史,封赤亭王。及炅入朝,龍升以江北六州七鎮叛入于齊,齊遣曆陽王高景安應之。於是令炅為江北道大都督,總統眾軍以討龍升,斬之,盡復江北之地。進號平北將軍。卒于官,贈司州刺史,改封武昌郡公,諡曰壯。

魯悉達

原文魯悉達

魯悉達は字を志通といい、扶風郿の人である。祖父の斐は、斉の衡州刺史・陽塘侯であった。父の益之は、梁の雲麾将軍・新蔡義陽二郡太守であった。

原文魯悉達字志通,扶風郿人也。祖斐,齊衡州刺史、陽塘侯。父益之,梁雲麾將軍、新蔡義陽二郡太守。

悉達は幼くして孝行で知られた。侯景の乱の際、郷人を糾合して新蔡を保ち、農耕に力を入れ穀物を蓄えた。当時は兵乱と凶作で、都下および上川では餓死者が十のうち八九に及び、生き残った者は皆、老幼を連れて悉達のもとに帰ったので、悉達が救済して生かした者は甚だ多かった。晋熙など五郡を招集し、その地をことごとく有した。弟の広達に兵を率いさせて王僧辯に従わせ、侯景を討って平定させた。梁の元帝は北江州刺史に任じた。

原文悉達幼以孝聞。侯景之亂,糾合鄉人保新蔡,力田蓄穀。時兵荒,都下及上川餓死者十八九,有得存者,皆攜老幼以歸焉,悉達所濟活者甚眾。招集晉熙等五郡,盡有其地。使其弟廣達領兵隨王僧辯討平侯景。梁元帝授北江州刺史。

敬帝が即位すると、王琳が上流を拠有し、留異・余孝頃・周迪らが各地で蜂起ほうきしたが、悉達は五郡を撫綏し、人心を得ること甚だしかった。王琳は悉達に鎮北将軍を授け、陳の武帝もまた趙知礼を遣わして征西将軍・江州刺史を授けたが、悉達は両方を受けながら、遷延して様子を窺った。武帝は安西将軍の沈泰に命じ、潜んで軍を率いて襲撃させたが、陥落させられなかった。斉は行台の慕容紹宗を遣わして郁口の諸鎮を攻めてきたが、悉達はこれと戦い、斉軍を大破し、紹宗はただ一身を免れたのみであった。王琳が東下を図ろうとしたが、悉達が中流を抑えているため、使者を遣わして招き誘ったが、悉達は終に従わなかった。王琳は下ることができず、そこで斉と連合し、斉は清河王高嶽を遣わしてこれを助けた。ちょうど裨将ひしょうの梅天養らが罪を恐れ、斉軍を引き入れて城に入れたので、悉達は麾下の数千人を率いて長江を渡り、武帝のもとに帰った。帝はこれを見て喜び、「来るのが何と遅かったことか」といった。北江州刺史に任じ、彭沢県侯に封じた。

原文敬帝即位,王琳據有上流,留異、余孝頃、周迪等所在蜂起,悉達撫綏五郡,甚得人和。琳授悉達鎮北將軍,陳武帝亦遣趙知禮授征西將軍、江州刺史,悉達兩受之,遷延顧望。武帝遣安西將軍沈泰潛師襲之,不能克。齊遣行台慕容紹宗來攻郁口諸鎮,悉達與戰,大敗齊軍,紹宗僅以身免。王琳欲圖東下,以悉達制其中流,遣使招誘,悉達終不從。琳不得下,乃連結于齊,齊遣清河王高嶽助之。會裨將梅天養等懼罪,乃引齊軍入城,悉達勒麾下數千人濟江而歸武帝。帝見之喜曰:「來何遲也。」授北江州刺史,封彭澤縣侯。

悉達は気概を仗って任侠を好んだが、富貴をもって人に驕ることはなかった。風雅を好み詞賦を愛し、賢才を招き礼遇し、彼らと賞賛の会を催した。文帝が即位すると、呉州刺史に遷った。母の喪に遭い、礼を過ぎるほどに哀傷して身体を損ない、病気にかかって卒した。諡して孝侯といった。子の覧が嗣いだ。弟に広達がいる。

原文悉達雖仗氣任俠,不以富貴驕人。雅好詞賦,招禮賢才,與之賞會。文帝即位,遷吳州刺史。遭母憂,哀毀過禮,因遘疾卒,諡孝侯。子覽嗣。弟廣達。

弟 広達

原文弟 廣達

広達は字を遍覧といい、若くして慷慨であり、功名を立てる志があり、虚心に士を愛し、賓客は遠方より至った。当時、江表の将帥はそれぞれ部曲を領有し、動けば千数を数えたが、魯氏は特に多かった。梁に仕えて平南当陽公府中兵参軍となった。侯景の乱の際、兄の悉達とともに衆を集めて新蔡を保った。梁の元帝が承制して晋州刺史に任じた。王僧辯が侯景を討つとき、広達は境を出て迎え、軍需物資を供給した。僧辯は沈炯に「魯晋州もまた王師の東道の主人である」といった。そこで衆を率いて僧辯に従った。侯景が平定されると、員外散騎常侍を加えられた。

原文廣達字遍覽,少慷慨,志立功名,虛心愛士,賓客自遠而至。時江表將帥各領部曲,動以千數,而魯氏尤為多。仕梁為平南當陽公府中兵參軍。侯景之亂,與兄悉達聚眾保新蔡。梁元帝承制授晉州刺史。王僧辯之討侯景,廣達出境候接,資奉軍儲。僧辯謂沈炯曰:「魯晉州亦是王師東道主人。」仍率眾隨僧辯。景平,加員外散騎常侍。

陳の武帝が禅譲を受けると、東海太守に任じられた。後に兄の悉達に代わって呉州刺史となり、中宿県侯に封じられた。光大元年、南豫州刺史に遷った。華皎が上流で兵を挙げると、詔して司空の淳于量に進軍討伐させた。軍が夏口に至ると、華皎の水軍が強盛なのを見て、進む者はいなかった。広達がまず驍勇を率いて、直ちに賊軍に突撃した。広達は水に落ち、長く沈んでいたが、救助されて免れた。華皎が平定されると、巴州刺史に任じられた。

原文陳武受禪,授東海太守。後代兄悉達為吳州刺史,封中宿縣侯。光大元年,遷南豫州刺史。華皎稱兵上流,詔司空淳於量進討。軍至夏口,見皎舟師強盛,莫敢進。廣達首率驍勇,直沖賊軍。廣達墮水,沈溺久之,因救獲免。皎平,授巴州刺史。

太建初年、儀同章昭達と共に峽口に入り、安蜀等の諸州鎮を招き定めた。時に周は江左を図り、蜀において大いに舟艦を造り、また青泥に糧を運んでいた。広達は錢道戢等と兵を率いて掩襲し、火を放ってこれを焼き、そのまま本鎮に還った。広達は政を簡要にし、誠を推して下を任せ、吏人はこれを便とした。及び任期が満ちると、皆が闕に詣でて表して請い、そこで詔して二年を延長した。

原文太建初,與儀同章昭達入峽口,招定安蜀等諸州鎮。時周圖江左,大造舟艦於蜀,並運糧青泥,廣達與錢道戢等將兵掩襲,縱火焚之,仍還本鎮。廣達為政簡要,推誠任下,吏人便之。及秩滿,皆詣闕表請,於是詔申二年。

五年、諸軍が北伐し、淮南の旧地を攻略した。広達は斉軍と大峴で会戦し、これを大破し、その敷城王張元範を斬った。進んで北徐州を攻克した。そこで北徐州刺史を授けられた。十年、都督・合州刺史を授けられた。

原文五年眾軍北伐,略淮南舊地,廣達與齊軍會於大峴,大破之,斬其敷城王張元範。進克北徐州。仍授北徐州刺史。十年,授都督、合州刺史。

十一年、周の将梁士彥が寿春を包囲した。詔して中領軍樊毅・左衛将軍任忠等を遣わして分かれて陽平・秦郡に向かわせ、広達は衆を率いて淮に入り、掎角となってこれを撃った。周軍は豫・霍二州を陥落させ、南北兗・晉等はそれぞれ抜け去り、諸将は共に功がなく、淮南の地を全て失った。広達はこれにより官を免ぜられ、侯として邸に還った。

原文十一年,周將梁士彥圍壽春,詔遣中領軍樊毅、左衛將軍任忠等分部趣陽平、秦郡,廣達率眾入淮為掎角以擊之。周軍攻陷豫、霍二州,南北兗、晉等各自拔,諸將並無功,盡失淮南之地,廣達因免官,以侯還第。

十二年、南豫州刺史樊毅と共に北討し、郭默城を攻克した。まもなく平西将軍・都督郢州以上七州諸軍事を授けられ、兵を江夏に頓させた。周の安州総管元景山が江外を征したが、広達は偏師を命じてこれを撃退した。

原文十二年,與南豫州刺史樊毅北討,克郭默城。尋授平西將軍、都督郢州以上七州諸軍事,頓兵江夏。周安州總管元景山征江外,廣達命偏師擊走之。

至徳二年、侍中となり、綏越郡公に改封された。まもなく中領軍となった。賀若弼が鍾山に進軍すると、広達は白土岡に陣を置き、弼と旗鼓を相対した。広達は自ら甲冑を着け、手に桴鼓を執り、敢死の士を率いて励まして進み、隋軍は退走した。このようなことが数度あった。弼が勝に乗じて宮城に至り、北掖門を焼くと、広達はなお余兵を督して苦戦し止まなかった。日が暮れたので、甲を解き、台に向かって再拝して慟哭した。衆に謂って「我が身は国を救うことができず、罪を負うこと深し」と言った。士卒は皆涕泣し歔欷し、そこで捕らえられた。

原文至德二年,為侍中,改封綏越郡公。尋為中領軍。及賀若弼進軍鍾山,廣達于白土岡置陣,與弼旗鼓相對。廣達躬擐甲胄,手執桴鼓,率勵敢死而進,隋軍退走。如是者數四。及弼乘勝至宮城,燒北掖門,廣達猶督餘兵苦戰不息。會日暮,乃解甲,面台再拜慟哭。謂眾曰:「我身不能救國,負罪深矣。」士卒皆涕泣歔欷,於是就執。

禎明三年、例に依って隋に入った。広達は本朝の淪覆を追想して悲愴し、病にかかり治療せず、まもなく憤慨して卒した。尚書令江総は柩を撫でて慟哭し、筆を命じてその棺の頭に題し、詩を作って曰く「黄泉に恨みを抱くとも、白日自ら名を留む、君が義に感じて死するを悲しみ、恩に負くる生を作さず」と。また広達の墓銘を制し、その忠概を述べた。

原文禎明三年,依例入隋。廣達追愴本朝淪覆,遘疾不療,尋以憤慨卒。尚書令江總撫柩慟哭,乃命筆題其棺頭,為詩曰:「黃泉雖抱恨,白日自留名,悲君感義死,不作負恩生。」又制廣達墓銘,述其忠概。

初め、隋の将韓擒が江を渡ると、広達の長子世真は新蔡におり、弟の世雄及び配下を率いて韓擒に奔った。韓擒は使者を遣わして書を致し広達を招いた。広達は時に兵を都下に屯していたが、自ら廷尉に劾して罪を請うた。後主はこれに謂って「世真は中大夫と道を異にするとはいえ、公は国の重臣、吾が恃み頼むところ、どうして自ら嫌疑の間に同じくせんや」と。黄金を加えて賜い、即日に営に還した。

原文初,隋將韓擒濟江,廣達長子世真在新蔡,乃與其弟世雄及所部奔擒,擒遣使致書招廣達。廣達時屯兵都下,乃自劾廷尉請罪,後主謂曰:「世真雖異路中大夫,公國之重臣,吾所恃賴,豈得自同嫌疑之間乎?」加賜黃金,即日還營。

広達に隊主楊孝辯がいた。時に広達に従って軍中におり、力戦して陣に陥り、その子もまた孝辯に随い刀を揮って隋兵十余人を殺した。力尽き、父子ともに死んだ。

原文廣達有隊主楊孝辯,時從廣達在軍中,力戰陷陣,其子亦隨孝辯揮刀殺隋兵十餘人,力窮,父子俱死。

蕭摩訶

原文蕭摩訶

蕭摩訶は字を元胤といい、蘭陵の人である。父は諒といい、梁の始興郡丞であった。摩訶は父に従って郡に赴き、数歳にして父が卒した。その姉婿蔡路養が時に南康におり、そこでこれを収養した。稍々長ずると、果毅で勇力があった。

原文蕭摩訶字元胤,蘭陵人也。父諒,梁始興郡丞。摩訶隨父之郡,年數歲而父卒,其姊夫蔡路養時在南康,乃收養之。稍長,果毅有勇力。

侯景の乱に、陳武帝が建鄴に援けに赴くと、路養は兵を起こして武帝を拒んだ。摩訶は時に十三歳、単騎で出戦し、軍中に当たる者無かった。路養が敗れると、摩訶は侯安都に帰し、常に征討に従い、安都はこれを甚だ厚く遇した。任約・徐嗣徽が斉兵を引きいて寇となると、武帝は安都を遣わして北に斉軍を鍾山龍尾及び北郊壇で拒がせた。安都は摩訶に謂って「卿は驍勇にして名があり、千聞は一見に如かず」と言った。摩訶は対えて「今日、公に見せましょう」と言った。戦いにおいて、安都は馬から墜ちて包囲された。摩訶は独り騎りで大呼し、直ちに斉軍に沖し、斉軍は稍々解けて去り、安都は免れた。留異・歐陽紇を平らげた功により、累遷して巴山太守となった。

原文侯景之亂,陳武帝赴援建鄴,路養起兵拒武帝,摩訶時年十三,單騎出戰,軍中莫有當者。及路養敗,摩訶歸侯安都,常從征討,安都遇之甚厚。及任約、徐嗣徽引齊兵為寇,武帝遣安都北拒齊軍于鍾山龍尾及北郊壇。安都謂摩訶曰:「卿驍勇有名,千聞不如一見。」摩訶對曰:「今日令公見之。」及戰,安都墜馬被圍,摩訶獨騎大呼,直沖齊軍,齊軍稍解去,安都乃免。以平留異、歐陽紇功,累遷巴山太守。

太建五年、諸軍が北伐し、摩訶は都督呉明徹に従って江を渡り秦郡を攻めた。時に斉は大将尉破胡等を遣わして衆十万を率いて来援した。その前隊に「蒼頭」「犀角」「大力」の号があり、皆身長八尺、膂力絶倫で、その鋒は甚だ鋭かった。また西域の胡がおり、弓矢に妙で、弦に虚発無く、衆軍は特にこれを憚った。将に戦わんとする時、明徹は摩訶に謂って「もしこの胡を殪えいせば、彼の軍は気を奪われよう。君に関羽・張飛の名あり、顔良を斬るがごとし」と言った。摩訶は「願わくはその形状を識りたい」と言った。明徹は降人で胡を知る者を召すと、胡は絳衣こういを着け、樺皮で弓を装い、両端に骨の弭があると言った。明徹は人を遣わして覘わせ、胡が陣中にいることを知ると、自ら酒を酌んで摩訶に飲ませた。摩訶は飲み終えると、馬を馳せて斉軍に沖し、胡は身を挺して陣前十余歩に出た。弓を引きしぼって未だ発たず、摩訶は遥かに銑鋧を擲ち、正しくその額に中て、手に応じて倒れた。斉軍の「大力」十余人が出戦したが、摩訶はまたこれを斬り、そこで斉師は退走した。功により廉平県伯に封ぜられた。まもなく侯に進み、位は太僕卿となった。また明徹に従って進み宿預を囲み、斉の将王康得を撃退し、功により晉熙太守を除かれた。

原文太建五年,眾軍北伐,摩訶隨都督吳明徹濟江攻秦郡。時齊遣大將尉破胡等率眾十萬來援,其前隊有「蒼頭」、「犀角「、「大力」之號,皆身長八尺,膂力絕倫,其鋒甚銳。又有西域胡,妙於弓矢,弦無虛發,眾軍尤憚之。及將戰,明徹謂摩訶曰:「若殪此胡,則彼軍奪氣,君有關、張之名,可斬顏良矣。」摩訶曰:「願得識其形狀。」明徹乃召降人有識胡者,雲胡絳衣,樺皮裝弓,兩端骨弭。明徹遣人覘伺,知胡在陣,仍自酌酒飲摩訶。摩訶飲訖,馳馬沖齊軍,胡挺身出陣前十餘步,彀弓未發,摩訶遙擲銑鋧,正中其額,應手而僕。齊軍「大力」十餘人出戰,摩訶又斬之,於是齊師退走。以功封廉平縣伯。尋進為侯,位太僕卿。又隨明徹進圍宿預,擊走齊將王康得,以功除晉熙太守。

九年、明徹が呂梁に進軍し、斉と大戦した。摩訶は七騎を率いて先に入り、手ずから斉軍の大旗を奪い、斉の衆は大いに潰えた。功により譙州刺史を授けられた。

原文九年,明徹進軍呂梁,與齊大戰,摩訶率七騎先入,手奪齊軍大旗,齊眾大潰。以功授譙州刺史。

周の武帝が斉を滅ぼし、その将宇文忻を遣わして呂梁を争わせた。忻は時に精騎数千を有し、摩訶は十二騎を領し、深く周軍に入り、縦横に奮撃し、斬り取った首は甚だ多かった。周が大将王軌を遣わして来赴し、長い包囲陣を呂梁の下流に連鎖して結び、大軍の還路を断った。摩訶は明徹に謂って「軌が下流を鎖し始め、その両頭に城を築くが、今なお未だ立たずと聞く。公もし我を遣わしてこれを撃たせば、彼は必ず敢えて拒まぬであろう。彼の城がもし立てば、我らは虜となる」と言った。明徹は髯を奮って「旗を搴ぎ陣を陥すは、将軍の事なり。長算遠略は、老夫の事なり」と言った。摩訶は色を失って退いた。一句のうちに、水路は遂に断たれ、周兵は益々至った。摩訶はまた請うて「今、戦いを求むるも得ず、進退路無し。もし潜軍して突囲すれば、未だ恥と為すに足らぬ。願わくは公が歩卒を率い馬輿に乗り徐行し、摩訶が前後に馳駆し、必ずや公を安らかに京邑に達せしめん」と言った。明徹は「弟の計は乃ち良図なり。然れども老夫は脤を受けて征を専らにし、今囲逼せられ、慚愧して置く所無し。且つ歩軍既に多し、吾は総督たり、必ず身をその後に居え、相率いて兼行すべし。弟の馬軍は宜しく前に在るべし」と言った。摩訶は夜に発し、精騎八千を選び、率先して衝突し、その後衆騎が継いだ。旦に及んで、淮南に達した。宣帝は征還し、右衛将軍を授けた。

原文及周武帝滅齊,遣其將宇文忻爭呂梁。忻時有精騎數千,摩訶領十二騎,深入周軍,從橫奮擊,斬馘甚眾。及周遣大將王軌來赴,結長圍連鎖于呂梁下流,斷大軍還路。摩訶謂明徹曰:「聞軌始鎖下流,其兩頭築城,今尚未立,公若見遣擊之,彼必不敢相拒。彼城若立,則吾屬虜矣。」明徹奮髯曰:「搴旗陷陣,將軍事也;長算遠略,老夫事也。」摩訶失色而退。一旬之中,水路遂斷,周兵益至。摩訶又請曰:「今求戰不得,進退無路,若潛軍突圍,未足為恥。願公率步卒乘馬輿徐行,摩訶驅馳前後,必使公安達京邑。」明徹曰:「弟計乃良圖也。然老夫受脤專征,今被圍逼,慚置無地。且步軍既多,吾為總督,必須身居其後,相率兼行,弟馬軍宜須在前。」摩訶因夜發,選精騎八千,率先衝突,自後眾騎繼焉。比旦,達淮南。宣帝征還,授右衛將軍。

宣帝が崩ずると、始興王叔陵が殿内において後主を手ずから刃し、遂に東府城に奔った。摩訶は入って勅を受け、馬歩数百を率いて東府城に向かい、これを斬った。功により車騎大将軍を授けられ、綏建郡公に封ぜられた。叔陵が平素から蓄聚した金帛は巨万に累なり、後主は悉くこれを以て賜った。侍中・驠騎大将軍・左光禄大夫に改めて授けられた。旧制では三公の黄合の聴事に鴟尾を置く。後主は特に詔して摩訶に黄合を開かせ、門に施行馬を置き、聴事と寝堂に並びに鴟尾を置かせた。またその女を皇太子妃とした。

原文及宣帝崩,始興王叔陵于殿內手刃後主,遂奔東府城。摩訶入受敕,乃率馬步數百趣東府城,斬之。以功授車騎大將軍,封綏建郡公。叔陵素所蓄聚金帛累巨萬,後主悉以賜之。改授侍中、驃騎大將軍、左光祿大夫。舊制三公黃合聽事置鴟尾。後主特詔摩訶開黃合,門施行馬,聽事寢堂,並置鴟尾。仍以其女為皇太子妃。

時に隋の総管賀若弼が広陵に駐屯すると、後主は蕭摩訶にこれを防がせ、南徐州刺史を授けた。禎明三年の元会の際、摩訶を召還して朝廷に帰らせたところ、弼は虚に乗じて長江を渡り、京口を襲撃した。摩訶は兵を率いて迎撃することを請うたが、後主は許さなかった。弼が鍾山に進軍すると、摩訶はまた言った、「弼は孤軍を懸けて深く侵入し、塁塹も未だ堅固でない。出兵して掩襲すれば、必ず打ち破れましょう」と。またも許されなかった。出戦しようとする際、後主は彼に言った、「公は我がために一戦を決してくれよ」。摩訶は言った、「これまで行陣に臨んでは、国のため、身のためであったが、今日のことは、妻子のためも兼ねています」。後主は多く金帛を出して諸軍に与え、賞賜に充てた。中領軍魯広達に命じて白土岡に兵を陣させ、諸軍の南に位置させ、鎮東大将軍任忠をその次に、護軍将軍樊毅・都官尚書孔范をさらにその次に置き、摩訶の軍は最も北に位置した。諸軍は南北二十里に亘り、首尾進退互いに知らなかった。

原文會隋總管賀若弼鎮廣陵,後主委摩訶禦之,授南徐州刺史。禎明三年元會,征摩訶還朝,弼乘虛濟江,襲京口。摩訶請率兵逆戰,後主不許。及弼進鍾山,摩訶又曰:「弼懸軍深入,壘塹未堅,出兵掩襲,必克。」又不許。及將出戰,後主謂曰:「公可為我一決。」摩訶曰:「從來行陣,為國為身,今日之事,兼為妻子。」後主多出金帛賦諸軍,以充賞賜。令中領軍魯廣達陳兵白土岡,居眾軍南,鎮東大將軍任忠次之,護軍將軍樊毅、都官尚書孔范又次之,摩訶軍最居北。眾軍南北亙二十里,首尾進退不相知。

賀若弼は初め戦いが始まっていないと思い、軽騎を率いて山に登り、諸軍を見ると、馳せ下って陣を布いた。後主は摩訶の妻と私通していたため、摩訶は勁兵八千を率いながらも、初めから戦意がなく、ただ魯広達と田端がその徒衆を率いて力戦した。賀若弼およびその配下の行軍七総管楊牙・韓洪・員明・黄昕・張黙言・達奚隆・張弁らの甲士こうし合わせて八千人、それぞれ陣を整えてこれを待った。弼自ら魯広達に当たり、麾下の戦死者は二百七十三人に及んだ。弼は煙を放って身を隠し、窮地に陥りながらも再び勢いを盛り返した。陳軍は敵の首級を得ると、皆走って後主に献上し、金銀の賞賜を求めた。弼はさらに孔范の陣に向かった。范の兵は一時交戦しただけで敗走した。陳軍は尽く潰走し、死者五千人。諸門の衛兵も皆逃げ、黄昕は馳せて北掖門を焼き、そこから入った。員明は摩訶を生け捕りにして弼に送った。弼が刀をその頸に臨ませると、摩訶の言葉と顔色は撓まず、そこで彼を釈放して礼遇した。

原文弼初謂未戰,將輕騎登山,望見眾軍,因馳下置陣。後主通於摩訶之妻,故摩訶雖領勁兵八千,初無戰意,唯魯廣達、田端以其徒力戰。賀若弼及所部行軍七總管楊牙、韓洪、員明、黃昕、張默言、達奚隆、張辯等甲士凡八千人,各勒陣以待之。弼躬當魯廣達,麾下戰死者二百七十三人,弼縱煙以自隱,窘而復振。陳兵得人頭,皆走獻後主,求賞金銀。弼更趣孔范,範兵暫交便敗走。陳軍盡潰,死者五千人。諸門衛皆走,黃昕馳燒北掖門而入。員明禽摩訶以送弼,弼以刀臨頸,詞色不撓,乃釋而禮之。

城が平定されると、弼は後主を徳教殿に置き、兵士に守衛させた。摩訶は弼に請うて言った、「今や囚虜となり、命は旦夕にあります。旧主に一度お目にかかりたく、死んでも恨みはありません」。弼は哀れに思い許した。摩訶は入って後主に拝謁し、俯伏して号泣し、なお旧来の厨から食物を取って進上し、別れの言葉を述べて出て行った。守衛の者たちは皆、顔を上げて見ることができなかった。隋の文帝は摩訶が賀若弼に抗して答えたことを聞き、「壮士である。これも人の為し難いことだ」と言った。隋に入り、開府儀同三司を授けられた。まもなく漢王諒に従って并州に赴き、諒とともに叛逆を謀り、誅殺された。七十三歳。

原文及城平,弼置後主於德教殿,令兵衛守,摩訶請弼曰:「今為囚虜,命在斯須,願一見舊主,死無所恨。」弼哀而許之。入見後主,俯伏號泣,仍於舊廚取食進之,辭訣而出,守衛者皆不能仰視。隋文帝聞摩訶抗答賀若弼,曰:「壯士也,此亦人之所難。」入隋,授開府儀同三司。尋從漢王諒詣并州,同諒作逆,伏誅,年七十三。

摩訶は言葉訥なり、謹厚きんこうな長者であった。しかし軍陣に臨み寇敵に対する時は、志気奮発し、向かうところ前を遮るものなしであった。弱冠に至らず、侯安都に従って京口におり、性来狩猟を好み、一日として畋猟遊興しない日はなかった。安都が征伐する時、摩訶の功績が多かった。

原文摩訶訥於言,恂恂長者。至於臨戎對寇,志氣奮發,所向無前。年未弱冠,隨侯安都在京口,性好獵,無日不畋遊。及安都征伐,摩訶功居多。

子の世廉は、父の風範があった。性、至孝であり、摩訶が非業の死を遂げた後、喪が明けてからも、追慕の情がますます切実であった。父の時代の賓客故旧が、もし何か言及することがあれば、世廉はそれに対し、哀慟して自らを制することができず、語る者もこれを見て歔欷した。生涯、刀斧を執らなかった。当時の人々はこれを称えた。

原文子世廉,有父風。性至孝,及摩訶凶終,服闕後,追慕彌切。其父時賓故,脫有所言及,世廉對之,哀慟不自勝,言者為之歔欷。終身不執刀斧,時人嘉焉。

摩訶に陳智深という騎士がいた。勇力人に過ぎ、叔陵平定の功により巴陵内史となった。摩訶が誅殺された時、その子は既に籍没されていたが、智深は摩訶の屍を収め、自ら手ずから殯斂し、その哀感は行路の人をも動かし、君子はこれを義とした。

原文摩訶有騎士陳智深者,勇力過人,以平叔陵功,為巴陵內史。摩訶之戮也,其子先已籍沒,智深收摩訶屍,手自殯斂,哀感行路,君子義之。

潁川の陳禹もまた摩訶に従って征討した。聡明で識量があり、経史に渉猟し、風角・兵書を解し、よく文を綴ることができ、騎射に巧みであった。官は王府諮議に至った。

原文潁川陳禹,亦隨摩訶征討。聰敏有識量,涉獵經史,解風角兵書,頗能屬文,便騎射,官至王府諮議。

任忠

原文任忠

任忠は字を奉誠といい、小字を蠻奴という。汝陰の人である。少時孤微で、郷党の歯牙にかけられなかった。成長すると、譎詭で計略多く、膂力人に過ぎ、特に騎射を善くし、州里の少年は皆これに付き従った。梁の鄱陽王蕭範が合州刺史となった時、その名を聞き、左右に置いた。

原文任忠字奉誠,小名蠻奴,汝陰人也。少孤微,不為鄉黨所齒。及長,譎詭多計略,膂力過人,尤善騎射,州裏少年皆附之。梁鄱陽王蕭範為合州刺史,聞其名,引置左右。

侯景の乱の時、忠は郷党数百人を率い、晋熙太守梅伯龍に従って寿春において景の将王貴顕を討ち、戦うごとに敵を退けた。時に土人の胡通が衆を聚めて寇抄したため、範は忠に命じ、主帥梅思立とともに軍を併せてこれを討平させた。引き続き範の世子蕭嗣に従って衆を率いて入援したが、京城陥落に遭い、直ちに晋熙を戍った。侯景平定後、蕩寇将軍を授けられた。

原文侯景之亂,忠率鄉黨數百人,隨晉熙太守梅伯龍討景將王貴顯于壽春,每戰卻敵。會土人胡通聚眾寇抄,範命忠與主帥梅思立並軍討平之。仍隨範世子嗣率眾入援,會京城陷,旋戍晉熙。侯景平,授蕩寇將軍。

王琳が蕭莊を立てた時、忠を署して巴陵太守とした。琳が敗れると、朝廷に帰り、明毅将軍・安湘太守を授けられ、引き続き侯瑱に従って巴・湘を進討した。累遷して豫寧太守、衡陽内史となった。華皎が挙兵した時、忠はその謀に参与した。皎が平定されると、宣帝は忠が先に朝廷に密啓していたことを以て、釈放して問わなかった。

原文王琳立蕭莊,署忠為巴陵太守。琳敗,還朝,授明毅將軍、安湘太守,仍隨侯瑱進討巴、湘。累遷豫甯太守,衡陽內史。華皎之舉兵也,忠預其謀。及皎平,宣帝以忠先有密啟於朝廷,釋而不問。

太建初年、章昭達に従って広州の欧陽紇を討ち、功により直閤将軍を授けられた。武毅将軍・廬陵内史に遷った。任期満了後、入朝して右軍将軍となった。

原文太建初,隨章昭達討歐陽紇于廣州,以功授直合將軍。遷武毅將軍、廬陵內史。秩滿,入為右軍將軍。

五年、諸軍北伐の際、忠は兵を率いて西道より出撃し、大峴において斉の歴陽王高景安を撃退し、敗走を追って東関に至り、その東西二城を攻略した。進軍して蘄・譚を攻め、ともにこれを抜いた。直ちに合肥を襲撃し、その外城に入った。進んで霍州を攻略した。功により員外散騎常侍を授けられ、安復県侯に封ぜられた。呂梁で軍が喪われた時、忠は全軍を率いて帰還した。まもなく忠に寿陽・新蔡・霍州の淮水沿いの諸軍、霍州刺史を都督することを授けた。入朝して左衛将軍となった。平南将軍・南豫州刺史に遷り、都督を加えられた。歩騎を率いて歴陽に向かった。周が王延貴に衆を率いて援軍とさせたが、忠はこれを大破し、延貴を生け捕りにした。

原文五年,眾軍北伐,忠將兵出西道,擊走齊曆陽王高景安於大峴,逐北至東關,仍克其東西二城。進軍蘄、譙,並拔之。徑襲合肥,入其郛。進克霍州。以功授員外散騎常侍,封安復縣侯。呂梁之喪師也,忠全軍而還。尋授忠都督壽陽、新蔡、霍州緣淮眾軍,霍州刺史。入為左衛將軍。遷平南將軍、南豫州刺史,加都督。率步騎趣曆陽。周遣王延貴率眾為援,忠大破之,生禽延貴。

後主が嗣位すると、鎮南将軍の号を進められ、鼓吹一部を給された。入朝して領軍将軍となり、侍中を加えられ、梁信郡公に改封された。出て吳興内史となった。

原文後主嗣位,進號鎮南將軍,給鼓吹一部。入為領軍將軍,加侍中,改封梁信郡公。出為吳興內史。

隋兵が長江を渡ると、忠は吳興より入京し、朱雀門に軍を屯した。後主が蕭摩訶以下を内殿に召して議を定めると、忠は言った、「兵法に客は速戦を貴び、主は持重を貴ぶ。今、国家は食足り兵足りている。宜しく台城を固守し、淮水沿いに柵を立てるべし。北軍たとえ来たりとも、これと交戦せず、兵を分けて江路を断ち、彼らの音信を通じさせぬこと。臣に精兵一万、金翅三百艘を与えられよ。下江して直ちに六合を掩襲する。彼の大軍は必ず、渡江した将士が既に捕えられたと言い、自然に気勢を挫くであろう。淮南の土人は、臣と旧く相知悉している。今、臣の往くを聞けば、必ず皆影のごとく従うであろう。臣はさらに声を揚げて徐州に向かうとし、彼らの帰路を断つ。そうすれば諸軍は撃たずして自ら去るであろう。春の水かさが増すのを待てば、上流の周羅睺らの諸軍が、必ず流れに沿って赴援する。これ良計です」。後主は従うことができなかった。翌日、突然「腹が煩わしくてたまらぬ。蕭郎を呼んで一戦させよ」と言った。忠は叩頭して苦しくも戦わぬよう請うたが、後主は孔范の言に従い、ついに戦うこととし、ここに白土岡に拠って陣を布いた。軍が敗れると、忠は馳せて台城に入り、後主に拝謁して敗戦の状況を言上し、「陛下、どうかご無事で。もはや力を尽くす術がありません」と言った。後主は彼に金二縢を与えて言った、「我のために南岸で人を募集し、まだ一戦できるようにしてくれ」。忠は言った、「陛下はただ舟を整え、上流の諸軍のもとに就かれるべきです。臣は死をもって奉衛いたします」。後主はこれを信じ、忠に出て部署するよう命じた。忠は辞して言った、「臣が処分を終え次第、すぐに奉迎いたします」。後主は宮人に装束を整えさせて忠を待たせたが、久しく待っても来なかった。時に隋の将韓擒虎が新林より進軍してきたので、忠は数騎を率いて石子岡に赴き、これに降った。引き続き擒虎の軍を導いてともに南掖門に入った。台城が平定されると、長安に入り、隋より開府儀同三司を授けられた。七十七歳で卒した。

原文及隋兵濟江、忠自吳興入赴,屯軍朱雀門。後主召蕭摩訶以下於內殿定議,忠曰:「兵法客貴速戰,主貴持重。今國家足食足兵,宜固守台城,緣淮立柵。北軍雖來,勿與交戰,分兵斷江路,無令彼信得通。給臣精兵一萬,金翅三百艘,下江徑掩六合。彼大軍必言其度江將士已被獲,自然挫氣。淮南土人,與臣舊相知悉,今聞臣往,必皆景從。臣復揚聲欲往徐州,斷彼歸路,則諸軍不擊而自去。待春水長,上江周羅睺等眾軍,必沿流赴援,此良計矣。」後主不能從。明日欻然曰:「腹煩殺人,喚蕭郎作一打。」忠叩頭苦請勿戰,後主從孔範言,乃戰,於是據白土岡陣。及軍敗,忠馳入台,見後主,言敗狀,曰:「官好住,無所用力。」後主與之金兩縢曰:「為我南岸收募人,猶可一戰。」忠曰:「陛下唯當具舟烜,就上流眾軍,臣以死奉衛。」後主信之,敕忠出部分。忠辭云:「臣處分訖,即奉迎。」後主令宮人裝束以待忠,久望不至。時隋將韓擒自新林進軍,忠率數騎往石子岡降之。仍引擒軍共入南掖門。台城平,入長安,隋授開府儀同三司。卒,年七十七。

隋の文帝は後に散騎常侍の袁元友が後主に対して直言したことを嘉し、主爵侍郎に抜擢して群臣に謂いて曰く、「陳を平定した初め、我は任蠻奴を殺さなかったことを悔いる。人の栄禄を受け、重寄を兼ねて当たりながら、横屍することなく、『力を用いる所なし』と云い、弘演が肝を納めたるに比べ、何ぞ其れ遠きことか」と。子の幼武は位は儀同三司に至る。

原文隋文帝后以散騎常侍袁元友能直言于後主,嘉之,擢拜主爵侍郎,謂群臣曰:「平陳之初,我悔不殺任蠻奴。受人榮祿,兼當重寄,不能橫屍,雲'無所用力',與弘演納肝,何其遠也。」子幼武,位儀同三司。

樊毅

原文樊毅

樊毅は字を智烈といい、南陽湖陽の人である。祖父の方興は梁の散騎常侍・司州刺史・魚復県侯。父の文熾は梁の散騎常侍・東益州刺史・新蔡県侯。

原文樊毅字智烈,南陽湖陽人也。祖方興,梁散騎常侍、司州刺史、魚復縣侯。父文熾,梁散騎常侍、東益州刺史、新蔡縣侯。

毅は家は元来将門であり、少より武を習い、騎射に長じた。侯景の乱の時、部曲を率いて叔父の文皎に従い台城を救援した。文皎は青溪で戦死し、毅は江陵に赴き、引き続き王僧辯に隷属して河東王蕭誉を討ち、功により右中郎将に除せられた。兄の俊に代わって梁興太守となり、三州の遊軍を領し、宜豊侯蕭循に従って湘州の陸納を討った。軍は巴陵に駐屯し、営陣が未だ整わぬうちに、納が潜軍を以て夜に至り営を薄し、大いに騒ぎ立てた。軍中の将士は皆驚き擾いたが、毅独り左右数十人と共に営門に当たって力戦し、十余級を斬り、鼓を撃って号令を申し、衆乃ち定まった。功により夷道県伯に封ぜられ、尋ねて天門太守に除され、爵を侯に進めた。西魏が江陵を囲んだ時、毅は郡兵を率いて赴援した。会に魏が江陵を克つと、後梁に俘えられ、久しくして遁走して帰った。

原文毅家本將門,少習武,善騎射。侯景之亂,率部曲隨叔父文皎援台城。文皎于青溪戰歿,毅赴江陵,仍隸王僧辯討河東王蕭譽,以功除右中郎將。代兄俊為梁興太守,領三州遊軍,隨宜豐侯蕭循討陸納於湘州。軍次巴陵,營頓未立,納潛軍夜至薄營,大噪,軍中將士皆驚擾,毅獨與左右數十人當營門力戰,斬十餘級,擊鼓申令,眾乃定焉。以功封夷道縣伯。尋除天門太守,進爵為侯。及西魏圍江陵,毅率郡兵赴援。會魏克江陵,為後梁所俘,久之遁歸。

陳の武帝が禅を受けると、毅は弟の猛と兵を挙げて王琳に応じた。琳が敗れて斉に奔ると、太尉侯瑱が使いを遣わして毅を招き、毅は子弟部曲を率いて朝廷に還った。太建初年、豊州刺史となり、高昌県侯に封ぜられた。入朝して左衛将軍となった。

原文陳武帝受禪,毅與弟猛舉兵應王琳,琳敗奔齊,太尉侯瑱遣使招毅,毅率子弟部曲還朝。太建初,為豐州刺史,封高昌縣侯。入為左衛將軍。

五年、衆軍北伐し、毅は広陵の楚子城を攻めてこれを抜き、斉軍を撃退した。呂梁にて軍が喪われると、詔して毅を大都督とし、衆を率いて淮を渡り、清口に対し城を築き、周人と相抗させた。霖雨により城は壊れ、毅は全軍を率いて自ら抜け出た。尋ねて中領軍に遷った。十一年、周の将梁士彦が寿陽を囲むと、詔して毅を都督北討諸軍事とした。十三年、荊州刺史となった。

原文五年,眾軍北伐,毅攻廣陵楚子城,拔之,擊走齊軍。及呂梁喪師,詔以毅為大都督,率眾度淮,對清口築城,與周人相抗。霖雨城壞,毅全軍自拔。尋遷中領軍。十一年,周將梁士彥圍壽陽,詔以毅為都督北討諸軍事。十三年,為荊州刺史。

後主即位後、逍遙郡公に改封された。入朝して侍中・護軍将軍となった。隋軍が江を渡ると、毅は僕射袁憲に謂いて曰く、「京口・採石は共に要所なり、各々鋭卒数千、金翅二百を須い、都下の江中にて上下防捍すべし。もし然らずんば、大事去らん」と。諸将皆其の議に従わんとした。会に施文慶らが隋兵の消息を寝かせたため、毅の計は行われず。台城が平定されると、例に随って関中に入り、卒した。

原文後主即位,改封逍遙郡公。入為侍中、護軍將軍。及隋軍濟江,毅謂僕射袁憲曰:「京口、採石,俱是要所,各須銳卒數千,金翅二百,都下江中,上下防捍。如其不然,大事去矣。」諸將咸從其議。會施文慶等寢隋兵消息,毅計不行。台城平,隨例入關,卒。

毅の弟の猛は字を智武といい、幼より俶儻にして幹略有り。長ずるに及んで弓馬に便じ、胆気人に過ぎた。青溪の戦いでは、猛は旦より暮れに至るまで侯景軍と短兵接戦し、殺傷甚だ多かった。台城陥落後、兄の毅に従って西上した。梁の南安侯方矩が湘州刺史となると、猛を司馬とした。武陵王紀が兵を挙げて漢江より東下するに会い、方矩は猛を都督陸法和に随わせて進軍し之を拒がせた。猛は手ずから紀父子三人を生け捕りにし、鰨中にて斬り、其の船艦器械を尽く収めた。功により安山県伯に封ぜられ、進軍して梁・益を撫定した。還って司州刺史に遷り、爵を侯に進めた。

原文毅弟猛字智武,幼俶儻,有幹略。及長,便弓馬,膽氣過人。青溪之戰,猛自旦訖暮,與侯景軍短兵接戰,殺傷甚眾。台城陷,隨兄毅西上。梁南安侯方矩為湘州刺史,以猛為司馬。會武陵王紀舉兵自漢江東下,方矩遣猛隨都督陸法和進軍拒之。猛手禽紀父子三人,斬於鰨中,盡收其船艦器械。以功封安山縣伯。進軍撫定梁、益。還遷司州刺史,進爵為侯。

陳の永定元年、周文育らが沌口で敗れ、王琳に捕えられた。琳は勝に乗じて南中の諸郡を事とせんとし、猛と李孝欽らを遣わして兵を将い豫章を攻め、周迪に進逼した。軍敗れて迪に捕えられたが、尋ねて遁走して王琳に帰り、琳敗れると朝廷に還った。天嘉二年、永陽太守を授けられた。太建年中、軍功により富川県侯に封ぜられた。散騎常侍を歴任し、荊州刺史となった。入朝して左衛将軍となった。

原文陳永定元年,周文育等敗於沌口,為王琳所獲。琳乘勝將事南中諸郡,遣猛與李孝欽等將兵攻豫章,進逼周迪。軍敗,為迪所執。尋遁歸王琳,琳敗,還朝。天嘉二年,授永陽太守。太建中,以軍功封富川縣侯。曆散騎常侍,荊州刺史。入為左衛將軍。

後主即位後、南豫州刺史となった。隋の将韓擒虎が江を渡る時、猛は都下におり、第六子の巡が州事を行った。擒虎が進軍して之を攻め陥とし、巡と家族は共に捕えられた。時に猛は左衛将軍蔣元遜と共に青龍八十艘を領して水軍と為し、白下にて遊弈し、隋の六合の兵を防禦した。後主は猛の妻子が隋に在るを知り、異志有るを懼れ、任忠をして之に代わらせんとし、蕭摩訶に徐ろに毅を諭させたが、毅は悦ばず。摩訶が之を聞こえると、後主は其の意を重んじて傷み、乃ち止めた。禎明三年、隋に入った。

原文後主即位,為南豫州刺史。隋將韓擒之濟江,猛在都下,第六子巡攝行州事,擒進軍攻陷之,巡及家口並見執。時猛與左衛將軍蔣元遜領青龍八十艘為水軍,于白下游弈,以禦隋六合兵。後主知猛妻子在隋,懼有異志,欲使任忠代之,令蕭摩訶徐喻毅,毅不悅。摩訶以聞,後主重傷其意,乃止。禎明三年,入隋。

史評

原文史評

論じて曰く、梁氏雲季、運は雲雷に属す。陳武帝は旗を杖って難を掃い、経綸始まる。胡穎・徐度・杜棱・周鉄武・程霊洗らは、或いは風雲に感会し、力を畢くして駆馳する日に、或いは降附より擢でられ、乃ち興王の始めを賛け、咸に清廟に配享するを得たり。豈に徒然ならんや。沈恪は己を行うの方、義に非ざる跡を践まず、子隆は身を持するの節、人に事うるの道を失わず、仁なるかな。錢道戢・駱文牙・孫瑒・徐世譜・周敷・荀朗・周炅・魯悉達・広達・蕭摩訶・任忠・樊毅らは、用いられ当年に獲る所以、其の道は異なるも、功名自立するに至っては、亦各々時に因る。金陵覆没の当たり、抑々天数のみならんや。然れども任忠の与に亡くるの義、乃ち致すに虧く無からんや。夫の蕭・魯の行う所と、固より同日に非ず。此の百心を持して二主に事え、信を取らんと欲する、亦た難からずや。首領を獲て全うするも、亦た幸いと為す。

原文論曰:梁氏雲季,運屬雲雷,陳武帝杖旗掃難,經綸伊始,胡穎、徐度、杜棱、周鐵武、程靈洗等,或感會風雲,畢力驅馳之日,或擢自降附,乃贊興王之始,咸得配享清廟,豈徒然哉。沈恪行己之方,不踐非義之跡,子隆持身之節,無失事人之道,仁矣乎!錢道戢、駱文牙、孫瑒、徐世譜、周敷、荀朗、周炅、魯悉達、廣達、蕭摩訶、任忠、樊毅等,所以獲用當年,其道雖異,至於功名自立,亦各因時。當金陵覆沒,抑惟天數,然任忠與亡之義,無乃致虧,與夫蕭、魯所行,固不同日。持此百心,而事二主,欲求取信,不亦難乎?首領獲全,亦為幸也。