南史
巻六十六(附)巻六十七
列伝第五十六
杜僧明
杜僧明は字を弘照といい、広陵郡臨沢県の人である。体つきは小柄であったが胆気があり、騎射に巧みであった。梁の大同年間、盧安興が広州刺史・南江督護となると、僧明は兄の天合および周文育とともに安興に請われて従軍した。たびたび俚・獠を征討して功績があり、新州助防となった。天合もまた才幹があり、征伐に参与した。安興が死ぬと、僧明は再びその子の子雄を補佐した。交州の豪族李賁が反乱を起こし、刺史の蕭諮を追い払うと、蕭諮は広州に逃げた。朝廷は子雄と高州刺史の孫冏を派遣して李賁を討たせた。時は春草が生い茂り、瘴癘がちょうど起こり始めた頃であった。子雄は秋を待って討つよう請うたが、広州刺史の新渝侯蕭映は聞き入れず、蕭諮もまた催促した。子雄らはやむなく出発した。合浦に至ると、兵の十の六、七が死に、兵衆はみな役務を恐れて潰散し、制止できなかった。そこで残りの兵を率いて退却した。蕭諮は子雄と孫冏が賊と内通し、逗留して進まないと上奏した。梁の武帝は勅を下し、広州において賜死させた。子雄の弟の子略、子烈はいずれも豪侠であり、家族は南江にいた。天合は衆に謀って言った。「盧公は代々我らを厚く遇してくれた。今、彼が無実の罪で死ぬのを見て、報いることができないのは、丈夫のすることではない。我が弟の僧明は万人の敵である。もし州城を包囲し、百姓を召集すれば、誰が従わないことがあろうか。城を破り、二侯(蕭映・蕭諮)を斬った後、朝廷の使者が来るのを待ち、手を縛って廷尉に赴けば、死んでも生きているよりましである。たとえ成功しなくとも、悔いはない。」衆はみな慷慨して言った。「それは我々の願いである。ただあなたの命令に従うのみだ。」そこで周文育らとともに兵衆を率いて盟約を結び、子雄の弟の子略を主として奉じて、刺史の蕭映を攻撃した。子略は城の南に駐屯し、天合は城の北に駐屯し、僧明と文育は東西を分かち占拠した。役人や民衆はみなこれに応じ、一日のうちに数万の衆となった。陳の武帝(陳霸先)は当時高要におり、事の起こりを聞くと、兵を率いて討伐に来て、これを大破し、天合を殺し、僧明と文育らを捕らえた。そして皆を釈放し、主帥に引き立てた。武帝が交阯を征討し、元景仲を討った時、僧明と文育はいずれも功績があった。侯景の乱の時、ともに武帝に従って建鄴の救援に入った。武帝が始興で蘭裕を破った時、僧明は前鋒となり、蘭裕を斬った。また南野で蔡路養と戦った時、僧明の馬が傷ついた。武帝は駆けつけてこれを救い、自ら乗っていた馬を僧明に与えた。僧明は馬に乗り直して進み、数十人を殺し、その勢いに乗って大いに路養を打ち破った。高州刺史の李遷仕がまた大皋を占拠し、灨石に入って武帝を脅かした。武帝は周文育を前軍として派遣し、僧明とともにこれを撃退した。遷仕は甯都の劉孝尚と力を合わせて南康を襲おうとした。陳武帝はまた僧明と文育らに命じてこれを防がせた。相持して百余日にわたり連戦し、ついに遷仕を捕らえ、武帝のもとに送った。武帝が南康を平定すると、僧明を西昌に駐屯させ、安成・廬陵二郡の軍事を監督させた。梁の元帝が承制を行うと、新州刺史・臨江県子を授けられた。
侯景が于慶らを派遣して南江を侵すと、武帝は 豫 章に駐屯し、僧明を前駆と命じた。向かうところことごとく勝利した。武帝は僧明を長史に上表し、引き続き東征に従軍させた。軍が蔡洲に至ると、僧明は麾下を率いて賊の水門の大艦を焼いた。侯景が平定されると、南兗州刺史に任じられ、侯爵に進封され、引き続き晋陵太守を兼ねた。荊州が陥落すると、武帝は僧明に命じて呉明徹らを率い、侯瑱に従って西へ救援に向かわせたが、江州で病死した。 散騎常侍 を追贈され、諡を威といった。陳の文帝が即位すると、開府儀同三司を追贈され、武帝の廟庭に配享された。子の杜晋が後を嗣いだ。
周文育
周文育は字を景德といい、義興郡陽羨県の人である。幼くして孤貧であり、もと新安郡寿昌県に住み、項氏を姓とし、名を猛奴といった。十一歳の時、数里の間を水中で往復し、六尺の高さを跳ぶことができ、子供たちと遊ぶ時、誰も彼に及ばなかった。義興の人で寿昌の浦口の戍主であった周薈は彼を見て非凡と感じ、呼び出して話をした。文育は答えて言った。「母は年老いて家は貧しく、兄弟姉妹も皆成長し、賦役に苦しんでおります。」薈はこれを哀れに思い、文育について家に行き、その母に文育を養子にしたいと請うた。母はついに彼を与えた。薈の任期が満ちると、文育とともに都に帰り、太子詹事の周舎に会い、名と字をつけてくれるよう請うた。周舎はそこで名を文育、字を景德と定めた。兄の子の弘讓に命じて書計を教えさせた。弘讓は隷書に優れ、蔡邕の『勧学』や古詩を書いて与えたが、文育はこれに目もくれず、弘讓に言った。「誰がこんなものを学んで、富貴を得ようとするものか。富貴を得るにはただ大槊(長矛)があればよいのだ。」弘讓はその志に感心し、騎射を教えると、文育は大いに喜んだ。
司州刺史の陳慶之は周薈と同郷で、もとより親しくしていた。慶之は薈を前軍軍主に起用するよう上奏した。慶之は薈に五百人を率いさせ、新蔡の懸瓠に行って白水蛮を慰労させた。蛮は謀って薈を捕らえて魏に入れようとしたが、事が発覚し、薈と文育はこれに抵抗した。当時、賊徒は非常に多く、一日に数十度戦った。文育は前鋒として敵陣に突入し、その勇猛は軍中で第一であった。薈は陣中で戦死した。文育は駆けつけてその屍を奪い返したが、賊は近づくことができなかった。夕方になると、それぞれ引き揚げた。文育は体に九か所の傷を負った。傷が癒えると、帰還して葬ることを請うた。慶之はその節義を称え、厚く贈り物をして送り出した。
葬儀が終わると、ちょうど盧安興が南江督護となっており、文育を同行させるよう上奏した。たびたび征討して功績があり、南海県令に任じられた。安興が死んだ後、文育は杜僧明とともに広州を攻撃したが、陳の武帝に敗れ、武帝は彼を赦した。
その後、監州の王勱は文育を長流参軍とし、深く信任した。勱が交代となると、文育は勱とともに下ることを望んだ。大庾嶺に至り、占い師を訪ねた。占い師は言った。「あなたが北へ下ればせいぜい県令・県長に過ぎないが、南へ入れば公侯となります。」文育は言った。「十分な銭があればそれでよく、公侯など望みません。」占い師はまた言った。「あなたは間もなく突然二千両の銀を得るでしょう。もし信じられないなら、これを験としなさい。」その夜、旅宿に泊まると、商人が文育に博戯を求めてきた。文育はこれに勝ち、銀二千両を得た。朝、王勱に別れを告げると、勱はその理由を尋ねた。文育が告げると、勱はついに彼を行かせた。武帝は彼が帰還したと聞き、大いに喜び、麾下の兵を分けて配属させた。
武帝が侯景を討った時、文育と杜僧明は前軍となり、蘭裕を撃破し、欧陽頠を救援し、いずれも功績があった。武帝が南野で蔡路養を破った時、文育は路養に包囲され、四方数重に囲まれ、矢石が雨のように降り注ぎ、乗っていた馬が死んだ。文育は右手で戦いながら、左手で鞍を解き、包囲を突破して出た。杜僧明らと合流し、力を合わせて再び進撃し、ついに路養を大敗させた。武帝はそこで文育を府司馬に上表した。
李遷仕が大皋を占拠し、その将軍の杜平虜を派遣して灨石の魚梁に城を築かせた。武帝は文育に命じてこれを攻撃させた。平虜は城を捨てて逃走し、文育はその城を占拠した。遷仕は平虜の敗北を聞くと、老弱を大皋に残し、精兵をすべて選んで自ら率いて文育を攻撃した。文育はこれと戦い、遷仕は次第に後退したが、相持して決着がつかなかった。ちょうど武帝が杜僧明を派遣して援軍に来ると、別に遷仕の水軍を破った。遷仕の兵衆は潰走し、大皋を通り過ぎることができず、まっすぐ新淦に逃げた。梁の元帝は文育に義州刺史を授けた。遷仕はまた劉孝尚と謀って義軍に抵抗しようとした。武帝は文育と侯安都、杜僧明、徐度、杜棱に命じて白口に城を築いてこれを防がせた。文育はたびたび出撃して戦い、ついに遷仕を捕らえた。
武帝は南康から出発し、文育に兵五千を率いさせて江路を開通させた。侯景の将の王伯醜が 豫 章を占拠していたが、文育はこれを撃退し、その城を占拠した。功績を重ねて東遷県侯に封じられた。武帝の軍が白茅湾に至ると、文育と杜僧明に常に軍の先鋒となるよう命じた。姑孰に至り、侯景の将の侯子鑒と戦ってこれを破った。侯景が平定されると、南移県侯に改封され、累進して 散騎常侍 となった。
武帝が王僧辯を誅殺すると、文育に命じて諸軍を督させ、文帝と呉興で合流し、杜龕を包囲してこれを陥落させた。また長江を渡って会稽太守張彪を襲撃し、その郡城を手に入れた。文帝が張彪に襲撃された時、文育は城北の香岩寺に駐屯していたが、文帝は夜間にそこへ駆けつけた。張彪がまた攻めて来ると、文育は苦戦しつつ遂に張彪を撃破して平定した。
武帝は侯瑱が江州を擁拠しているのを以て、文育に討伐を命じ、そのまま南 豫 州刺史に任じ、兵を率いて盆城を襲撃させた。未だ陥落せず、徐嗣徽が斉軍を引き入れて長江を渡り、蕪湖を占拠したため、詔が下って文育を都に召還した。嗣徽らは青墩から七磯にかけて艦船を並べ、文育の帰路を断った。夜になると、文育は鬨の声を上げて出発し、嗣徽らはこれを制することができなかった。夜明けには、逆に嗣徽を攻撃し、嗣徽の勇将鮑砰がただ一隻の小艦で殿を務めていたところ、文育は単独の舴艋に乗り、鮑砰の艦に飛び移って鮑砰を斬り、その艦を牽引して帰還したので、賊軍は大いに驚愕した。そこで船を蕪湖に留め置き、自らは丹陽から陸路で進んだ。時に武帝は白城で嗣徽を防いでいたが、ちょうど文育と合流した。戦おうとした時、風が急であった。武帝が「矢は逆風には射られぬ」と言うと、文育は「事態は切迫しております。決断すべきであり、古い法則など用いる必要はありません」と言い、槊を抜いて馬に乗り進み出た。諸軍がこれに従うと、風もやがて転じ、数百人を殺傷した。嗣徽らは陣営を莫府山に移し、文育は駐屯地を移してこれに対した。頻繁に戦って功績が最も大きく、寿昌県公に爵位を進められ、鼓吹一部を与えられた。
広州刺史蕭勃が兵を挙げて嶺を越えて来ると、詔により文育が諸軍を督してこれを討った。時に新呉の洞主餘孝頃が兵を挙げて蕭勃に呼応し、その弟孝勱に郡城を守らせ、自らは 豫 章に出て石頭を占拠した。蕭勃はその子孜に兵を率いさせて孝頃と合流させ、また別将の欧陽頠に苦竹灘に軍を駐屯させ、傅泰に墌口城を占拠させて、官軍を防がせた。官軍の船は少なく、孝頃には舴艋三百艘、艦百余艘が上牢にあった。文育は軍主の焦僧度、羊柬に命じて密かに軍を進めてこれを襲撃させ、全てを奪い取って帰還し、 豫 章に柵を築いた。
時に官軍の食糧が尽き、退却しようとしたが、文育は許さなかった。そこで人を遣わして密かに行かせ、周迪に書簡を送り、兄弟の契りを結び、利害を述べた。周迪は書簡を得て大いに喜び、食糧を送ることを約束した。そこで文育は老幼を分遣し、旧来の船に乗せて流れに沿って下らせ、 豫 章に築いた柵を焼き、偽って退却した。孝頃はこれを見て大いに喜び、よって防備を設けなかった。文育は間道を通り、二晩で芊韶に到達した。芊韶の上流には欧陽頠、蕭勃がおり、下流には傅泰、餘孝頃がいた。文育はその中間を占拠し、城を築いて兵士に饗応したので、賊徒は大いに驚愕した。欧陽頠は泥溪に退き入り、城を築いて自ら守った。文育は厳威将軍周鉄武と長史陸山才を遣わして欧陽頠を襲撃させ、これを生け捕りにした。そこで兵甲を盛大に並べ、欧陽頠と船に乗って宴を開き、傅泰の城下を巡行しながら、ついでに傅泰を攻撃し、これを陥落させた。
蕭勃は南康におり、これを聞くと、配下は皆股を震わせた。その将譚世遠が蕭勃を斬って降伏しようとしたが、人に害された。世遠の軍主夏侯明徹が蕭勃の首級を持って降伏した。蕭孜、餘孝頃はなおも石頭を占拠していたが、武帝が侯安都を遣わして文育を助け攻撃させた。蕭孜は文育に降伏し、孝頃は新呉へ退走した。広州は平定された。文育は 豫 章に駐屯して帰還し、功により開府儀同三司を授けられた。
王琳が上流を擁拠したため、詔により侯安都を西道 都督 とし、文育を南道 都督 として、ともに武昌で合流することとなった。沌口で王琳と戦い、王琳に捕らえられたが、後に逃げ帰り、罪を請うた。詔により問わず、その官爵を復した。周迪が餘孝頃を破ると、孝頃の子公揚、弟孝勱がなおも旧柵を占拠し、南方を攪乱したため、武帝は再び文育及び周迪、黄法奭らを遣わしてこれを討たせた。 豫 章内史熊曇朗もまた兵を率いて合流した。文育は呉明徹を水軍とし、周迪に配して糧食を運ばせ、自らは諸軍を率いて象牙江に入り、金口に城を築いた。公揚は偽って降伏し、文育を捕らえようと謀ったが、事が発覚し、文育はこれを囚えて都に送り、その配下を諸軍に分属させた。そこで船を捨てて歩軍とし、進んで三陂を占拠した。
王琳が将曹慶を遣わして孝勱を救援し、主帥常衆愛を分遣して文育と対峙させ、自らは率いる所領で周迪、呉明徹の軍を攻撃した。周迪らは敗れ、文育は金口に退いて拠った。熊曇朗はその失利に乗じ、文育を害して衆愛に応じようと謀った。文育の監軍孫白象はその事をかなり知っており、先手を打つよう勧めた。文育は「いけない。我が旧来の兵は少なく、客軍が多い。もし曇朗を捕らえれば、人々は皆驚き恐れ、たちまち逃亡するだろう。心を開いて慰撫するに如かず」と言った。初め、周迪が敗れた時、船を捨てて逃走し、所在が知れなかった。周迪からの書簡を得ると、文育は喜び、これを持って曇朗に見せたが、曇朗は座中で文育を害した。武帝はこれを聞くと、即日に哀悼の礼を行い、侍中、 司空 を追贈し、諡して忠湣といった。
初め文育が三陂を占拠した時、流星が地に墜ち、その音雷の如く、地が一丈四方陥没し、中に数斗の碎炭があった。また軍市中で突然小児の啼き声が聞こえ、市全体が驚き、聞けば土中からであった。兵士が掘ると、棺を得た。長さ三尺で、文育はこれを嫌った。間もなく周迪が敗れ、文育は殺害された。天嘉二年、詔があり武帝廟庭に配享された。子宝安が嗣いだ。
文育の本族の兄景曜は、文育の官により新安太守に至った。
文育の子 宝安
宝安は字を安人といい、十余歳で既に騎射を習熟した。貴公子として驕慢で遊び好き、犬馬を好み、駆け回ることを楽しみ、贅沢な衣服と美食に耽った。文育が晋陵にいた時、征討に忙しく郡にいられなかったため、宝安に郡の事務を監督させたが、特に悪少年を集めたので、武帝はこれを憂慮した。文育が西征に敗れ、王琳に囚われると、宝安は態度を改めて書を読み、士君子と交わり、文育の士卒を慰撫統御し、非常に威厳と恩恵があった。文育が帰還すると、再び呉興太守に任じられた。文育が熊曇朗に害されると、宝安を召還し、猛烈将軍に起用し、その旧兵を領させ、引き続き南方討伐を命じた。
文帝が即位すると、深く器重し、心膂として任せ、精鋭の兵卒を多く配属した。王琳を平定するに及び、かなりの功績があった。周迪が熊曇朗を破ると、宝安は南方に入り、その残党を殲滅した。天嘉二年、重ねて呉興太守に任じられ、寿昌県公の封を襲った。三年、留異を征討し、侯安都の前軍となった。留異が平定されると、給事黄門侍郎、衛尉卿に任じられた。再び左衛将軍に遷り、衛尉卿を領した。卒し、諡して成といった。
子屻が嗣ぎ、晋陵、定遠二郡太守の位に至った。
侯瑱
侯瑱は字を伯玉といい、巴西郡充国の者である。父の弘遠は累世にわたり西蜀の酋長豪族であった。蜀の賊張文萼が白崖山を占拠し、一万の兵を有していた。梁の益州刺史鄱陽王蕭範が弘遠に命じてこれを討たせたが、弘遠は戦死した。瑱は固く復讐を請い、毎戦先鋒となり、遂に文萼を斬り、これにより名を知られた。蕭範に仕え、範は将帥の任を委ねた。山谷の夷、獠で従わない者は、全て瑱を遣わして征討させた。功を重ねて軽車府中兵参軍、晋康太守を授けられた。範が雍州刺史となると、瑱は馮翊太守に任じられた。範が合肥に鎮を遷すと、瑱はまたこれに従った。
侯景が臺城を包囲すると、侯瑱は侯瑱を派遣してその世子侯嗣を補佐させ、都に入援させた。城が陥落すると、侯瑱と侯嗣はともに退却して合肥に帰還した。引き続き侯瑱に従って盆城に鎮を移した。まもなく侯瑱と侯嗣がともに死去すると、侯瑱はその兵衆を率い、 豫 章太守莊鐵に身を寄せた。莊鐵は彼を疑い、侯瑱は不安を感じ、謀事を相談すると偽って莊鐵を呼び出し、刃にかけて殺害し、 豫 章の地を占拠した。
後に侯景の将軍于慶に降伏した。于慶は侯瑱を侯景のもとに送ると、侯景は侯瑱が自分と同姓であることを理由に宗族と仮託し、手厚く遇した。妻子と弟を人質として留め置き、侯瑱を于慶に従わせて蠡南の諸郡を平定させた。侯景が巴陵で敗北し、その将軍宋子仙・任約らがともに西軍に捕らえられると、侯瑱は侯景の党与を誅殺して義軍に呼応し、侯景もまた彼の弟と妻子を誅殺した。梁元帝は侯瑱を南兗州刺史・郫県侯に任じた。引き続き 都督 王僧辯に従って侯景を討伐し、常に前鋒を務めた。臺城を回復すると、侯景は呉郡に奔り、王僧辯は侯瑱に侯景を追撃させ、呉松江において大いにこれを破った。功により南 豫 州刺史に任じられ、姑孰に鎮した。
斉が郭元建を濡須に派遣すると、王僧辯は侯瑱を派遣してこれを防がせ、郭元建を大いに破った。魏が荊州を攻撃すると、王僧辯は侯瑱を前軍として救援に赴かせたが、到着する前に魏が荊州を陥落させた。侯瑱は九江に駐屯し、晋安王を護衛して都に帰還した。承制により侯瑱は侍中・江州刺史に任じられ、 都督 を加えられ、康楽県公に改封された。 司徒 陸法和が 郢州 を占拠し、斉兵を引き入れて侵攻してきたため、侯瑱を派遣して西征させたが、到着する前に陸法和は斉に入った。斉が慕容恃徳を夏首に鎮させると、侯瑱はこれを攻撃し、慕容恃徳は食糧が尽きて和を請い、侯瑱は 豫 章に帰還して鎮した。王僧辯はその弟王僧愔を侯瑱とともに蕭勃を討伐させたが、陳武帝が王僧辯を誅殺すると、王僧愔はひそかに侯瑱を図りその軍を奪おうとした。侯瑱はこれを察知し、王僧愔の徒党をことごとく捕らえ、王僧愔は斉に奔った。
この時、侯瑱は中流を占拠し、非常に強勢であり、またもともと王僧辯に仕えていたため、表面上は臣下の礼節を示していたが、朝廷に入ることを肯んじなかった。初め、余孝頃が 豫 章太守であったが、侯瑱が 豫 章に鎮すると、新呉県に別に城柵を築き、侯瑱と対峙した。侯瑱は軍人の妻子を 豫 章に留め置き、従弟の侯奫に後事を任せ、全軍を挙げて余孝頃を攻撃したが、夏から冬にかけても陥落させられなかった。侯奫とその部下の侯方児が不和となり、侯方児が侯奫を攻撃し、侯瑱の軍府の妓妾と金玉を略奪し、武帝のもとに帰順した。侯瑱は根本を失い、軽装で 豫 章に帰還しようとしたが、 豫 章の人々に拒絶され、盆城に急行し、その将軍焦僧度のもとに身を寄せた。焦僧度は侯瑱に斉に投降するよう勧めたが、侯瑱は武帝に度量があると考え、必ず自分を受け入れるだろうとして、宮廷に赴いて罪を請うた。武帝はその爵位を回復させた。永定二年、 司空 に進位した。文帝が即位すると、太尉に進んで任じられた。王琳が柵口に至ると、また侯瑱を 都督 とし、侯安都らをともにその配下に隷属させた。
天嘉元年二月、王琳は合肥・漅湖の兵衆を引き連れ、艦船が相次いで下流に向かった。侯瑱は軍を率いて獣檻洲に進んだ。翌日合戦し、王琳の軍はやや退却した。夕方になると、東北風が吹き、その舟艦はことごとく損壊した。夜中に流星が賊の陣営に墜ちた。夜明けに風が静まると、王琳は浦に入り、鹿角で岸を巡らし、再び出撃しようとしなかった。この時、西魏の将軍史寧が上流に迫っていた。侯瑱はこれを聞き、王琳が長く持ちこたえられないと知り、軍を収めて湖浦を占拠し、その疲弊を待った。史寧が到着して郢州を包囲すると、王琳は兵衆の潰走を恐れ、船団を率いて東下し、蕪湖から十里の地点に停泊した。翌日、斉人が兵を派遣して王琳を援助した。侯瑱は軍中に命じて朝食を早めに炊き、寝床で食事をさせ、蕪湖洲尾に駐屯してこれを待った。戦いが始まろうとする時、微風が東南から吹いてきた。諸軍は拍車を施して火を放ち、定州刺史章昭達が平虜大艦に乗って江中を進み、王琳の軍は大敗し、脱走して免れた者は十二三に過ぎず、王琳はこれにより斉に入った。
その年、詔により侯瑱を 都督 五州諸軍事とし、盆城に鎮させた。周の将軍賀若敦・独孤盛らが巴・湘を攻撃してきたため、また侯瑱を西討 都督 とし、独孤盛の軍を大いに破った。功により湘州刺史に任じられ、零陵郡公に改封された。二年に死去し、大司馬を追贈され、諡を壮粛とし、武帝の廟庭に配享された。子の侯浄蔵が後を嗣ぎ、文帝の娘富陽公主を娶った。
侯安都
侯安都は字を成師といい、始興郡曲江県の人である。郡の著姓であった。父の侯捍は若くして州郡に仕え、忠謹をもって称された。侯安都が貴顕となった後、光禄大夫・始興内史に至った。
侯安都は隷書に巧みで、琴を弾くことができ、書伝に広く通じ、五言詩を作るときわめて清靡であり、また騎射を得意とし、郷里の雄豪であった。侯景の乱の時、兵甲を招集し、三千人に至った。陳武帝が臺城に入援すると、侯安都は兵を率いて武帝に従い、蔡路養を攻撃し、李遷仕を破り、侯景を平定するのに力戦して功績があり、富川県子に封じられた。武帝に従って京口に鎮し、蘭陵太守に任じられた。
武帝が王僧辯を襲撃しようと謀り、ただ侯安都とともに計略を定めた。引き続き侯安都に水軍を率いさせて京口から石頭に向かわせ、武帝はみずから江乗の羅落から進軍してこれと合流した。侯安都が石頭の北に至ると、舟を棄てて岸に登り、王僧辯はこれを察知しなかった。石頭城の北は岡阜に接し、あまり険峻ではなかった。侯安都は鎧を着け、長刀を帯び、兵士に支えられて女垣の内に投げ入れられ、兵衆がこれに続いて入城し、王僧辯の寝室に進んで迫った。武帝の大軍もまた到着し、王僧辯と聽事の前で戦い、侯安都は内側から出て、腹背からこれを撃ち、ついに王僧辯を生け捕りにした。功により南徐州刺史に任じられた。
武帝が東征して杜龕を討つと、侯安都は臺城に留まって守備を担当した。徐嗣徽・任約らが斉の敵兵を引き入れて石頭を占拠し、遊騎が宮闕の下にまで至った。侯安都は城門を閉じて弱さを示し、城中で城壁に登って賊を見る者を斬れと命じた。夕方になると、賊は軍を収めて石頭に帰還した。侯安都は夜に兵士に命じて密かに敵を防ぐ具を準備させた。夜明けに賊騎が到着すると、侯安都はこれと戦い、大いにこれを破り、賊は石頭に退却し、臺城に迫ることを敢えてしなかった。武帝が到着すると、侯安都を水軍とし、中流で賊の糧食輸送を断絶させた。また秦郡を襲撃し、徐嗣徽の柵を破り、その家族を捕らえ、徐嗣徽の愛用する琵琶と飼育する鷹を得て、使者を送ってこれを届けさせ、「昨日、弟の住処に至り、これらを得た。今、返却する」と言わせた。徐嗣徽らはこれを見て大いに恐れ、まもなく和を請うた。武帝は彼らが北に帰還することを許した。徐嗣徽らが長江を渡ると、斉の残軍はなお採石を占拠し、守備は厳重であった。また侯安都を派遣してこれを攻撃させ、多くを捕虜・鹵獲した。
翌年の春、詔により侯安都に兵を率いて梁山に鎮し、斉に備えさせた。徐嗣徽らが再び侵入し、湖熟に至ると、武帝は侯安都を呼び戻してこれを防がせ、耕壇の南で戦った。侯安都は十二騎を率いて敵陣に突入し、これを破り、斉の儀同乞伏無芳を生け捕りにし、また斉の将軍東方老を刺し落馬させたが、賊騎が到着して東方老を救い、捕獲を免れた。賊は北に蒋山を越えた。侯安都はまた斉の将軍王敬宝と龍尾で戦い、従弟の侯暁と軍主の張纂に先陣を突かせた。侯暁は傷を負って落馬し、張纂は戦死した。侯安都は駆けつけて侯暁を救い、その騎士十二人を斬り、張纂の屍を取って帰還し、斉軍はこれに迫ることを敢えてしなかった。武帝が斉軍と莫府山で戦い、侯安都に命じて白下から横撃してその背後を突かせ、大いにこれを破った。功により爵位を侯に進め、また平南将軍の号を加えられ、西江県公に改封された。
引き続き水軍を督して 豫 章より出撃し、 豫 州刺史周文育を助けて蕭勃を討つ。安都の到着前に、文育は既に勃を斬り、その将欧陽頠・傅泰らを捕らえた。ただ余孝頃と勃の子孜のみが 豫 章の石頭に二つの城を築き、孝頃と孜はそれぞれ一つを占拠し、また多くの船艦を設けて水を挟んで陣を布いた。安都が到着すると、夜に枚を銜えてその艦を焼いた。文育は水軍を率い、安都は歩騎を率いて岸に登り陣を結んだ。孝頃は直ちに後路を断ったので、安都は軍士に柵を立てさせ、営を引きながら漸次進み、しばしば勝利を得たので、孜は降伏した。孝頃は新呉に奔り、子を入質とすることを請うたので、これを許した。功により開府儀同三司を加えられた。
引き続き軍を率いて武昌に会し、周文育とともに西へ王琳を討つ。出発に際し、王公以下が新林で餞別したが、安都は馬を躍らせて橋を渡ろうとして、人馬ともに水中に墜落した。また鰨(船室)内で櫓井に墜ちた。当時、不吉とされた。武昌に至ると、琳の将樊猛は城を棄てて逃走し、文育も 豫 章より到着した。時に両将は共に行軍したが、互いに統率権がなく、部下の争いにより次第に不和となった。軍が郢州に至ると、琳の将潘純が城中から遠く官軍を射たので、安都は怒ってこれを包囲した。未だ陥落せず、王琳が弇口に至ったので、安都は郢州を解き、全軍を沌口に進めてこれを防ぎ、風に遭って進めなかった。琳は東岸を占拠し、官軍は西岸を占拠し、数日対峙した後に合戦した。安都らは敗れ、周文育・徐敬成とともに琳に囚われ、一本の長い鎖で繋がれ、鰨の下に置かれ、側近の宦官王子晋に監視させられた。琳が盆城の白水浦まで下ると、安都らは甘言で子晋に賄賂を約束し、子晋は偽って小船で鰨に沿って釣りをし、夜に安都・文育・敬成を岸に載せ、深草に入り、徒歩で官軍に投じた。都に戻って自ら罪を劾し、詔により赦され、官爵を復された。
まもなく丹陽尹となり、出て南 豫 州刺史となり、周文育に代わって余孝勱及び王琳の将曹慶・常衆愛らを攻撃するよう命じられた。安都は宮亭湖より松門に出て、衆愛の後を追った。文育が熊曇朗に害されると、安都は引き返して大艦を取った。琳の将周炅・周協が南帰するのに遭遇し、戦ってこれを破り、炅・協を捕らえた。孝勱の弟孝猷は部下四千家を率いて王琳に就こうとしたが、炅の敗北に遭い、安都のもとに降伏した。安都はさらに禽奇洲に進軍し、曹慶・常衆愛らを破り、その船艦を焼いた。衆愛は廬山に奔り、村人に殺され、残党は全て平定された。
軍を返して南皖に至った時、武帝が崩御した。安都は文帝に従って朝廷に戻り、群臣と議して文帝を奉戴しようとした。時に帝は謙譲して敢えて当たらなかった。太后もまた衡陽王(陳昌)の事情により、未だ命令を下すことを肯んぜず、群臣は決断できなかった。安都は言った、「今四方未だ定まらず、遠きに及ぶ暇あらんや。臨川王(文帝)は天下に功あり、共にこれを立てねばならぬ。今日の事、後に応ずる者は斬る」と。便ち剣を按じて殿に上り、太后に璽を出すよう申し上げ、また自ら文帝の髪を解き、喪次に推し就けた。文帝が即位すると、 司空 に遷り、引き続き南徐州刺史を授けられ、扶を与えられた。
王琳が柵口まで下ると、大軍は蕪湖に出て駐屯した。時に侯瑱が大 都督 であったが、指揮経略は多く安都が出した。王琳が斉に入ると、安都は盆城に進軍し、琳の残党を討ち、向かう所全て陥落させた。引き続き別に中旨を奉じて、衡陽献王昌を迎えた。初め昌が入朝しようとした時、文帝に書を送り、言葉が甚だ不遜であった。帝は快く思わず、安都を召し、従容として言った、「太子(昌)が将に至らんとす。別に一藩を求めねばならぬ。吾は老いん」と。安都は答えて言った、「古より代わられる天子などありましょうか。愚臣は詔を奉ずることを敢えません」と。因みに自ら昌を迎え、中流でこれを殺した。功により清遠郡公に爵を進められた。ここに至って威名甚だ重く、群臣でその右に出る者無し。
安都の父捍は始興内史であり、官で卒した。文帝は安都のために喪を発するよう命じた。まもなく本官に復帰させ、その父に 散騎常侍 ・金紫光禄大夫を追贈し、その母を清遠国太夫人に拝し、引き続き都に迎えようとした。母は固く郷里に留まることを求めたので、上は詔を下し、桂陽郡の汝城県を盧陽郡と改め、衡州の始興・安遠二郡を分け、三郡を合わせて東衡州とし、安都の従弟曉を刺史とした。安都の第三子秘は年九歳、上はこれを始興内史とし、併せて郷里で侍養するよう命じた。安都を桂陽郡公に改封した。
王琳敗亡後、周の兵が巴・湘を占拠したので、安都は詔を奉じて西を防衛した。留異が東陽を擁拠すると、また詔を奉じて東討した。異はもともと台軍が銭唐江より上ると考えていたが、安都は歩いて会稽の諸暨より出て、永康に出た。異は大いに恐れ、桃枝嶺に奔り、岩谷の間に処して柵を立てて拒守した。安都は自ら接戦し、流れ矢に当たり、血が踝にまで流れた。安都は輿に乗って軍を指揮し、容止変わらず。その山の尾根を利用して堰を築いた。夏の洪水で水が漲ると、安都は船を堰に引き入れ、楼艦は異の城と等高となり、拍竿を放ってその楼櫓を砕いた。異は第二子忠臣とともに身を脱して晋安に奔り、その妻子を虜にし、軍を整えて帰還した。侍中・征北大將軍を加えられ、引き続き本鎮に還った。吏民が朝廷に赴き、碑を立てて安都の功績を称え讃えることを上表し請うたので、詔してこれを許した。
王琳平定後より、安都の勲功はますます大きく、また自ら社稷を安んじた功績を以て、次第に驕り高ぶった。文士・武士を招き集め、騎馬で馳せ回り、あるいは詩筆を命じてその高下を評し、差等に応じて賞賜した。文士は褚玠・馬枢・陰鏗・張正見・徐伯陽・劉刪・祖孫登、武士は蕭摩訶・裴子烈らであり、併せて賓客とし、邸内の動きは千人に及んだ。部下の将帥は多く法度を遵ばず、取り調べ逮捕しようとすると、安都のもとに奔り帰った。文帝は性格が厳格で明察であり、深くこれを恨んだ。安都は日増しに驕慢となり、上表文の封を閉じた後、事が未だ尽きないと、封を開いて自ら書き加え、「また某事を啓す」と云った。また宴会に侍って酒酣になると、ある時は箕坐し傾倚した。かつて楽遊禊飲に陪し、帝に言った、「臨川王の時はいかがでしたか」と。帝は答えなかった。安都が再三言うので、帝は言った、「これは天命ではあるが、また明公の力でもある」。宴が終わると、また供張水飾を借りたいと請い、妻妾を載せて御堂で歓会しようとした。帝はその請いを許したが、甚だ快く思わなかった。翌日、安都は御座に座り、賓客が群臣の位置に居て、杯を挙げて寿を祝った。初め、重雲殿が火災に遭った時、安都が将士を率いて甲を帯びて殿中に入ったので、帝は甚だこれを嫌い、これより密かに備えをなした。また周迪の反乱の時、朝廷の期待は安都に討たせようとしたが、安都の第三子秘は年九歳、上はこれを始興内史とし、併せて郷里で侍養するよう命じた。安都を桂陽郡公に改封した。
王琳敗亡後、周の兵が巴・湘を占拠したので、安都は詔を奉じて西を防衛した。留異が東陽を擁拠すると、また詔を奉じて東討した。異はもともと台軍が銭唐江より上ると考えていたが、安都は歩いて会稽の諸暨より出て、永康に出た。異は大いに恐れ、桃枝嶺に奔り、岩谷の間に処して柵を立てて拒守した。安都は自ら接戦し、流れ矢に当たり、血が踝にまで流れた。安都は輿に乗って軍を指揮し、容止変わらず。その山の尾根を利用して堰を築いた。夏の洪水で水が漲ると、安都は船を堰に引き入れ、楼艦は異の城と等高となり、拍竿を放ってその楼櫓を砕いた。異は第二子忠臣とともに身を脱して晋安に奔り、その妻子を虜にし、軍を整えて帰還した。侍中・征北大將軍を加えられ、引き続き本鎮に還った。吏民が朝廷に赴き、碑を立てて安都の功績を称え讃えることを上表し請うたので、詔してこれを許した。
王琳が平定されて以来、侯安都の勲功はますます大きくなり、また自ら社稷を安んじた功績があるとして、次第に驕慢で尊大になった。文人や武士を招き集め、騎馬で馳せ回り、あるいは詩文を命じてその優劣を評し、等級に応じて賞賜を与えた。文士としては褚玠、馬樞、陰鏗、張正見、徐伯陽、劉刪、祖孫登がおり、武士としては蕭摩訶、裴子烈らがいて、ともにその賓客となり、邸内の者はしばしば千人に達した。部下の将帥は多く法度を遵守せず、取り調べようとすると、侯安都のもとに逃げ帰った。文帝は性質が厳格で明察であり、これを深く恨んだ。侯安都は日増しに驕慢になり、上奏文の封を閉じた後、言い尽くせない事があれば、封を開いて自ら書き加え、「また某の事を啓上する」と言った。また宴会に侍って酒が酣になった時、あるいは足を投げ出して倚りかかった。かつて楽遊禊(水辺の宴)に陪従した時、帝に言った、「臨川王(文帝が即位前の封爵)の時と比べてどうですか」。帝は答えなかった。侯安都が再三言うと、帝は言った、「これは天命ではあるが、また明公の力でもある」。宴が終わると、さらに供張(設備)と水飾(水を使った装飾)を借りたいと願い出て、妻妾を御堂に載せて歓会しようとした。帝はその請いを許したが、甚だ不愉快であった。翌日、侯安都は御座に座り、賓客は群臣の席に座って、杯を挙げて寿を祝った。初め、重雲殿が火災に遭った時、侯安都が将兵を率いて甲冑を着けたまま殿中に入ったので、帝は甚だこれを嫌い、これ以来ひそかに備えをした。また周迪が反乱を起こした時、朝廷の期待は侯安都に討伐させることであったが、帝は呉明徹に周迪を討たせた。また頻繁に朝廷の使者を遣わして侯安都の部下を取り調べさせ、逃亡者を検挙したので、侯安都は内心安らかでなかった。天嘉三年(562年)冬、その別駕の周玄実を遣わして、舍人蔡景歴に身を託し、併せて宮中の事情を尋ねさせた。蔡景歴はその様子を記録し、上奏して侯安都が謀反を企てていると称した。帝は彼が召しに応じないことを憂慮した。翌年の春、ようやく侯安都を征南大将軍・江州刺史に任じた。京口から都に帰還し、軍勢を石頭城に入れた時、帝は侯安都を嘉徳殿に招いて宴を催し、またその部下の将帥を尚書朝堂に集めて会合させ、その席で侯安都を捕らえ、西省に囚禁した。またその将帥を捕らえ、馬と武器を全て奪った上で釈放し、蔡景歴の上奏文を朝廷に示して、詔を下してその罪を暴いた。翌日、西省で死を賜った。まもなく詔があり、その妻子と家族を赦し、士礼をもって葬った。初め、武帝(陳霸先)が諸将と宴を催し、杜僧明、周文育、侯安都に寿を祝わせた時、それぞれが自分の功績を称えた。帝は言った、「卿らは皆良将であるが、それぞれ短所がある。杜公は志は大きいが識見が暗く、下には馴れ親しむが尊長には驕り、その功を誇って、その拙さを収めない。周侯は交わりを人選ばず、誠意を傾けるのが過ぎ、危険な立場にありながら猜疑と防備を設けない。侯郎は傲慢ででたらめで飽くことを知らず、軽佻で勝手気ままであり、いずれも身を全うする道ではない」。果たして皆その言葉の通りになった。太建三年(571年)、宣帝は侯安都を追封して陳集県侯とした。子の侯亶が後を嗣いだ。
歐陽頠
歐陽頠は字を靖世といい、長沙郡臨湘県の人である。郡の豪族であり、若い頃から質朴で率直で思慮分別があり、言行によって嶺表に著名であった。父が亡くなると、哀哭して身を損なうほどで、家産の蓄えを全て兄たちに譲り、麓山寺の傍らに廬を結び、専心学業に励み、経史に広く通じた。三十歳の時、兄が強いて官に就くよう命じた。梁の左 衞 将軍蘭欽は若い頃から歐陽頠と親しくしていたので、歐陽頠は常に蘭欽に従って征討し、蘭欽が南方の夷獠を征伐して陳文徹を生け捕りにし、獲得したものが数え切れないほどで、大銅鼓を献上したが、これは累代なかったものである。歐陽頠はその功績にあずかり、帰還して直閤将軍となった。蘭欽が交州を征伐する時、また歐陽頠を同行させるよう願い出た。蘭欽が嶺を越えて卒去すると、歐陽頠は臨賀内史に任じられ、蘭欽の喪を都に送ることを願い出て、その後任地に赴いた。当時、湘州・衡州の境界に五十余りの洞(部族)が従わず、衡州刺史韋粲に討伐を命じた。韋粲は歐陽頠を 都督 に任じて全て平定殲滅させた。
侯景が乱を起こすと、韋粲は自ら職を解いて都に戻り侯景を討とうとし、歐陽頠に衡州を監督させた。臺城が陥落した後、嶺南では互いに併呑し合い、蘭欽の弟で前高州刺史の蘭裕が始興内史蕭昭基を攻撃し、その郡を奪った。兄の蘭欽が歐陽頠と旧知であったので、使者を遣わして招いた。歐陽頠は従わず、使者に言った、「高州(蘭裕)の兄弟は栄えて顕赫であり、これら皆国の恩によるものである。今は難に赴いて都を救援すべきであり、どうして自ら跋扈することができようか」。そして陳武帝が都を救援に入り、始興に到ろうとした時、歐陽頠は深く結びつきを求めた。蘭裕は兵を遣わして歐陽頠を攻撃したが、武帝がこれを救援した。蘭裕が敗れると、武帝は王懐明を衡州刺史とし、歐陽頠を始興内史に転任させた。
武帝が蔡路養と李遷仕を討伐した時、歐陽頠は帝を助けてこれを平定した。梁の元帝が承制(詔を受けて命令を発すること)により始興郡を東衡州とし、歐陽頠を刺史とし、新豊県伯に封じた。
侯景が平定されると、元帝は朝廷の大臣に広く問い、それぞれ知る者を推挙させたが、群臣は答えなかった。元帝は言った、「私はすでに一人を得た。歐陽頠は甚だ公正で、もともと国を匡救する才能があるが、蕭広州(蕭勃)が彼を送り届けようとしないことを恐れる」。そこで武州刺史に任じた。まもなく郢州刺史に任じ、嶺南から出させるつもりであったが、蕭勃が引き留めたので、任命を受けることができなかった。まもなく衡州刺史に任じ、始興県侯に進封した。
当時、蕭勃は広州におり、兵力が強く地位が重かったので、元帝は深くこれを憂慮し、王琳を遣わして刺史の代行とさせた。王琳がすでに小桂嶺に到着すると、蕭勃はその将の孫瑒を遣わして州を監督させ、部下を全て率いて始興に至り、王琳の軍勢の鋒を避けた。歐陽頠は別に一城を占拠し、蕭勃のもとに謁見に行かず、門を閉ざし塁を高くして、また戦いも拒まなかった。蕭勃は怒り、兵を遣わして歐陽頠を襲撃し、その財貨と馬・武器を全て没収した。まもなくこれを赦し、元の所に戻し、再び盟を結んだ。魏が荊州を平定すると、歐陽頠は蕭勃に身を寄せた。蕭勃が嶺を越えて南康に出ると、歐陽頠を前軍 都督 とし、周文育が撃破して生け捕りにし、武帝のもとに送ると、帝は釈放して礼遇した。
蕭勃の死後、嶺南は乱れ、歐陽頠は南方で声望があり、かつ武帝と旧知であったので、安南将軍・衡州刺史に任じ、始興県侯に封じられた。嶺南に到着する前に、歐陽頠の子の歐陽紇がすでに始興を平定していた。歐陽頠が到着すると、嶺南は皆畏服し、そのまま広州に進み、越の地を全て有した。 都督 交広等十九州諸軍事・平越中郎将・広州刺史に改めて任じられた。
王琳が長江中流を占拠すると、歐陽頠は海路と東嶺から使者を奉じて絶えることがなかった。永定三年(559年)、本官のまま開府儀同三司となった。文帝が即位すると、征南将軍の号を進められ、陽山郡公に改封された。
初め、交州刺史の袁曇緩が密かに金五百両を歐陽頠に預け、百両を合浦太守の襲蒍に返し、四百両を子の智矩に渡すよう頼んだが、他の人は知らなかった。歐陽頠はまもなく蕭勃に撃破され、財貨は全て尽きたが、預かっていた金だけは残っていた。袁曇緩もまもなく卒去したが、この時、歐陽頠は全て信義に従って返したので、当時の人は皆歎服した。
当時、歐陽頠は一家門が顕貴となり、威勢は南方を震わせ、また多くの銅鼓と生口(奴隷)を手に入れ、珍しい宝物を献上し、前後して蓄積されたものは、軍国を助けるところ頗るあった。天嘉四年(563年)に卒去し、 司空 を追贈され、諡を穆といった。子の歐陽紇が後を嗣いだ。
歐陽頠の子 歐陽紇
歐陽紇は字を奉聖といい、頗る才幹と謀略があり、父の官爵を襲い、州に十余年在任し、威徳は百越に著しかった。宣帝は歐陽紇が長く南方にいたことをもって、頗る疑った。太建元年(569年)、左 衞 将軍に召還されると、その部下の多くが反乱を勧めたので、ついに兵を挙げて衡州刺史の銭道戢を攻撃した。詔により儀同章昭達が討伐して生け捕りにし、都に送られて誅殺された。子の歐陽詢は幼少のため罪を免れた。
黃法奭
黃法奭は字を仲昭といい、巴山郡新建県の人である。若い頃から強健で敏捷で胆力があり、一日に二百里を歩行し、三丈(約7メートル)跳躍することができた。文書の作成に頗る長け、帳簿や記録に明るく、州郡の中を出入りし、郷里で恐れられた。
侯景の乱の時、彼は郷里で徒衆を集めた。太守賀詡が江州に下ると、法奭は郡の事務を監督した。陳武帝が嶺を越えて建鄴を救援に入ろうとした時、李遷仕が途中で妨害したので、武帝は周文育に西昌に駐屯させ、法奭は兵を派遣して文育を助けた。当時法奭は新淦県に出て駐屯していたが、侯景が行台の于慶を派遣して新淦を襲撃させたので、法奭はこれを撃破した。梁元帝が承制により交州刺史の資格を与え、新淦県令を兼任させ、巴山県子に封じた。敬帝が即位すると、新建県侯に改封された。
太平元年、江州の四郡を割いて高州を設置し、法奭を刺史として巴山に鎮守させた。蕭勃が欧陽頠を派遣して攻めて来たが、法奭はこれを破った。
永定二年、王琳が李孝欽、樊猛、余孝頃を派遣して周迪を攻撃し、かつ法奭を取ろうと謀った。法奭は周迪を救援し、孝頃ら三将を生け捕りにした。功により平南将軍・開府儀同三司を授けられた。熊曇朗が金口で周文育を害したので、法奭は周迪と共にこれを討って平定した。
天嘉三年、周迪が反乱を起こしたので、法奭と呉明徹がこれを討って平定し、法奭の功績が多かった。廃帝が即位すると、爵位を公に進めた。
太建五年、大挙して北へ侵攻した時、法奭は 都督 として歴陽から出撃した。この時、拋車と歩艦を造り、拍竿を立てて城を攻め、砲石をその楼櫓や城壁に加えてこれを陥落させ、守備兵を皆殺しにした。進軍して合肥に至ると、旗を見て降伏した。法奭は略奪を禁じ、自ら労って慰撫し、彼らと盟約を結び、皆北方へ帰還させた。功により侍中を加えられ、義陽郡公に改封された。
七年、 豫 州刺史となり、寿陽に鎮守した。薨去し、 司空 を追贈され、諡は威といった。子の玩が後を嗣いだ。
淳于量
淳于量は字を思明といい、その先祖は済北の人である。代々建鄴に住んだ。父の文成は梁に仕えて将帥となり、梁州刺史の位に至った。量は若い頃から自らの処し方をよくし、姿形は立派で、才幹と謀略があり、弓馬に巧みであった。梁元帝が荊州刺史であった時、文成は量の配下の兵馬を分け、元帝に仕えさせた。軍功により広晋県男に封じられた。
侯景の乱の時、梁元帝は合計五軍を派遣して朝廷を救援したが、量はその一軍に加わった。台城が陥落すると、量は荊州に帰還した。元帝が承制により彼を巴州刺史とした。侯景が西上して巴州を攻撃すると、元帝は 都督 王僧辯を派遣して巴陵を占拠させ、量は僧辯と力を合わせて侯景を防ぎ、大いにこれを破ってその将任約を生け捕りにした。進軍して郢州を攻め、宋子仙を捕らえた。引き続き僧辯に従って侯景を平定した。謝沐県侯に封じられた。まもなく 都督 ・桂州刺史として出向した。魏が荊州を占領すると、量は桂州を保った。王琳が湘州・郢州を割拠し、たびたび量を召し寄せたが、量は表面上は王琳と往来しながらも、別に使者を派遣して陳武帝に帰順した。武帝が禅譲を受けると、位を進めて鎮西大将軍・開府儀同三司となった。
天嘉五年、中撫軍大将軍として召還された。量の配下の将帥の多くは故郷を恋しみ、皆山野に逃れ込もうとして、朝廷に入ることを望まなかった。文帝は湘州刺史華皎に衡州を征討させ、かつ兵を率いて量を迎えさせた。天康元年、都に到着したが、道中で滞在したため、役人に上奏され、儀同の位を免じられたが、その他の官職は元のままだった。華皎が謀反を起こすと、量を征南大将軍・西討大 都督 とし、大艦を総率して郢州の樊浦からこれを防がせた。華皎が平定されると、同時に周の将軍長湖西の元定らを降伏させた。功により侍中・中軍大将軍・開府儀同三司を授けられ、醴陵県公に進封された。拝命しないうちに、南徐州刺史として出向した。
太建元年、征北大将軍の号を進められ、扶(扶持)を与えられた。三年、江陰王蕭季卿から梁の陵墓の中の木を買い、季卿は罪に坐して免官され、量も侍中を免じられた。まもなく再び侍中に復した。
呉明徹が北へ侵攻した時、量はこの事を支持した。また第六子の岑に配下の兵を率いさせて従軍させた。淮南が平定されると、量は始安郡公に改封された。周が呉明徹を捕らえると、量を 都督 水陸諸軍事・車騎将軍・ 都督 ・南兗州刺史とした。十四年に薨去し、 司空 を追贈された。
章昭達
章昭達は字を伯通といい、呉興武康の人である。性格は豪放で、財を軽んじ気概を重んじた。若い時、相見師に会い、「あなたの容貌は非常に良いが、少し欠けるところがあれば、富貴になるだろう」と言われた。梁の大同年間、昭達は東宮直後であったが、酔って馬から落ち、鬢の角を少し傷つけた。昭達は喜んだが、相見師は「まだだ」と言った。侯景の乱の時、昭達は郷里の人々を率いて朝廷を救援し、流れ矢に当たって片目を失明した。相見師がこれを見て、「あなたの相は良くなった。間もなく富貴になるだろう」と言った。
台城が陥落すると、昭達は郷里に帰り、陳文帝と交遊し、君臣の分を結んだ。侯景が平定されると、文帝が呉興太守となったので、昭達は杖を執って来謁した。文帝はこれを見て大いに喜び、将帥の任を委ね、恩寵は同輩を超えていた。陳武帝が王僧辯を討とうと謀り、文帝に長城に帰って兵衆を招集させ、杜龕に備えさせたが、たびたび昭達を京口に派遣して計画を承知させた。僧辯が誅殺された後、杜龕がその将杜泰を派遣して長城を攻撃したので、昭達は文帝に従って呉興に進軍し、杜龕を討った。杜龕が平定されると、また会稽で張彪を討つことに従い、これを陥落させた。功を重ねて定州刺史に任じられた。当時、留異が東陽を擁拠していたので、武帝はこれを憂い、昭達を長山県令として、その心腹の地に置いた。
天嘉元年、長城の功績を追論し、欣楽県侯に封ぜられる。まもなく侯安都に従って王琳を防ぎ、昭達は平虜大艦に乗り、中流を進み、先鋒が拍竿を発し、賊の艦船に命中す。王琳平定後、昭達の策勳は第一等なり。二年、 都督 ・郢州刺史を拝命す。周迪が臨川に拠りて反すと、詔して昭達に便道よりこれを征討せしむ。迪敗走し、護軍将軍に徴ぜられ、邵武県侯に改封さる。
四年、陳宝応が周迪を受け入れ、共に臨川を寇す。また昭達を 都督 として迪を討たしむ。迪走り、昭達は嶺を踰えて陳宝応を討つ。戦いて利あらず、上流に拠りて筏を作り、その上に拍竿を施し、その水柵を破壊す。また兵を出してその歩軍を攻む。まさに大いに合戦せんとする時、文帝が余孝頃を海道より派遣せしめ、ちょうど到着す。ここに力を合わせてこれに乗じ、遂に閩中を平定し、留異・宝応をことごとく擒らう。功により鎮軍将軍・開府儀同三司を授かる。
初め、文帝はかつて昭達が台鉉(三公の位)に昇る夢を見、朝に及び、夢を告げたり。この時に至り、侍宴して酒酣なる時、昭達を顧みて曰く、「卿は夢を憶うか。いかにして夢に報いん」と。昭達対えて曰く、「犬馬の用を効し、以て臣節を尽くすべし。これ以外に奉償すべきものなし」と。まもなく 都督 ・江州刺史として出でる。
廃帝即位し、邵陵郡公に改封さる。華皎の反逆に際し、その移文はことごとく昭達を仮託して言辞とし、また頻りに使を遣わして招く。昭達はその使をことごとく執りて都に送る。秩満し、中撫大将軍に徴ぜらる。宣帝即位し、車騎大将軍に進号す。還朝遅留したるを以て、有司に劾せられ、車騎将軍に降号す。欧陽紇が嶺南に拠りて反すと、詔して昭達に諸軍を 都督 してこれを征討せしむ。紇、昭達の奄至するを聞き、洭口に出でて頓し、沙石を聚め、竹籠に盛りて水柵の外に置き、舟艦を遏むるに用う。昭達はその上流に居り、艦を装い拍竿を造り、以て賊の柵に臨む。また人に刀を銜ませ水中に潜行せしめ、以て竹籠を斬らしむ。籠の篾みな解く。ここに大艦を縦してこれを突かしめ、紇を大いに破り、これを擒らえて都に送る。広州平定し、 司空 に進位す。
太建二年、江陵を征す。時に梁の明帝と周軍は青泥の中に舟艦を大いに蓄えたり。昭達は偏将の銭道戢・程文季を分遣し、軽舟に乗じてこれを焼かしむ。周また峡口の南岸に壘を築き、安蜀城と名付け、江上に大索を横引き、葦を編みて橋とし、以て軍糧を度らしむ。昭達はここに軍士に命じて長戟を作らせ、楼船の上に施し、仰いでその索を割らしむ。索断ち糧絶え、ここに兵を縦してその城を攻め、これを降す。三年、軍中に病みて薨ず。大将軍を贈らる。
昭達の性質は厳刻にして、命を受けて出征する毎に、必ず昼夜道を倍す。然れどもその克つところは、必ず功を将帥に推す。厨膳の飲食は、並びに群下と同じくし、将士もまたこれによりてこれに附す。飲会の毎に、必ず盛んに女伎雑楽を設け、羌・胡の声を備え、音律姿容は並びに一時の妙なり。敵に臨むもこれを廃せず。四年、文帝廟庭に配享さる。
子の大寶、邵陵郡公を襲封し、豊州刺史の位に至る。州において貪欲放縱、百姓怨み酷し。後主、太僕卿李暈を以て代えしむ。ここに暈を襲撃して殺し反す。まもなく擒らえられ、朱雀航に梟首せられ、三族を夷す。
呉明徹
呉明徹、字は通照、秦郡の人なり。父は樹、梁の右軍将軍。明徹幼くして孤となり、性至孝なり。年十四、墳塋未だ修まらざるを感じ、家貧しく以て取給するなし。ここに勤力して耕種す。時に天下亢旱し、苗稼焦枯す。明徹哀憤し、毎に田中に之きて号哭し、天を仰ぎて自ら訴う。数日居りて、田より還る者あり、苗已に更生せりと云う。明徹、その己を欺くかと疑う。往きて言の如くなるに及び、秋にして大いに獲り、葬用に足る。時に伊氏という者あり、墓を占うに善し。その兄に謂いて曰く、「君の葬る日、必ず白馬に乗り鹿を逐う者墳を経る有らん。これは最小の孝子の大貴の徴なり」と。時に至りて果たして応ず。明徹は即ち樹の小なる子なり。
侯景が都を寇すに及び、明徹は粟麦三千余斛有り。而して隣里飢餧す。ここに諸兄に白して曰く、「今の人は久しきを図らず。奈何ぞ郷里と此れを共にせざる」と。ここに計口して平分し、その豊儉を同じくす。群盗聞きて避け、頼りて存する者甚だ衆し。
陳の武帝が京口に鎮するや、深く相要結す。明徹ここに武帝に詣る。帝はそのために階を降り、手を執りて即席す。明徹もまた微かに書史経伝に渉り、汝南の周弘正に就きて天文・孤虚・遁甲を学び、略くその術に通じ、頗る英雄を以て自ら許し、武帝もまた深くこれを奇とす。受禅に及び、安南将軍を授けられ、侯安都・周文育と兵を将いて王琳を討つ。衆軍敗没するに及び、明徹自ら抜けて還都す。
文帝即位し、本官のまま右衛将軍を加えらる。周迪の反するに及び、詔して明徹を江州刺史とし、 豫 章太守を領せしめ、諸軍を総べて以て迪を討たしむ。明徹は雅性剛直にして、統内甚だ和せず。文帝これを聞き、安成王頊を遣わして明徹に代え、本号を以て還朝せしむ。天嘉五年、呉興太守に遷る。辞を引きて郡に之くに及び、帝これに謂いて曰く、「呉興は郡と雖も、帝郷の重きものなり。故に以て相授く」と。
廃帝即位し、領軍将軍を授けらる。まもなく丹陽尹に遷り、仍詔して甲仗四十人を以て殿省に出入せしむ。到仲挙が矯令して宣帝を出さんとするや、毛喜その詐りを知る。宣帝懼れ、喜を遣わして明徹と籌謀せしむ。明徹曰く、「嗣君諒闇、万機多闕。殿下は親実周・召、徳は伊・霍に冠る。願わくは中に留まりて深く計らわれ、慎んで疑いを致すことなかれ」と。湘州刺史華皎が陰に異志有るに及び、詔して明徹に 都督 ・湘州刺史を授け、仍征南大将軍淳于量等とともに皎を討たしむ。皎平らぎ、開府儀同三司を授けられ、公に進爵さる。
太建五年、朝議北征す。公卿互いに異同有り。明徹決策して行くことを請う。詔して侍中・ 都督 征討諸軍事を加え、諸軍十余万を総べて都を発し、江に沿う城鎮、相継いで降款す。軍秦郡に至り、斉の大将軍尉破胡兵を将いて援けんとす。これを破り走らせ、秦郡降る。宣帝、秦郡は明徹の旧邑なるを以て、詔して太牢を具え、祠を拝し塚に上らしむ。文武の羽儀甚だ盛んにして、郷里これを栄とす。進みて仁州を克つ。征北大将軍を授けられ、南平郡公に進封さる。進みて寿陽に逼る。斉は王琳を遣わして拒守せしむ。明徹夜を乗じてこれを攻め、中宵にして潰ゆ。斉兵退きて相国城及び金城に拠る。明徹軍中に命じて攻具を益々修め、また肥水を遏えて城に灌ぎしむ。城中湿に苦しみ、多く腹疾を生じ、手足皆腫れ、死者十の六七に及ぶ。時に斉は大将皮景和を遣わし兵数十万を率いて来援す。寿春を去ること三十里、軍を頓して進まず。諸将皆曰く、「計いずくんぞ出だすべき」と。明徹曰く、「兵は速きを貴ぶ。而して彼は営を結びて進まず、自らその鋒を挫く。吾れその敢えて戦わざるを知る明らかなり」と。ここに躬ずから甲冑を擐ぎ、四面より疾く攻め、城中震恐す。一鼓して王琳等を禽らえ建鄴に送る。景和懼れて遁走す。詔して以て車騎大将軍・ 豫 州刺史とし、封を増し並びて前合わせて三千五百戸とす。謁者蕭淳を遣わし寿陽に就きて策を授けしむ。明徹城南に壇を設け、士卒二十万、旗鼓戈甲を陳べ、壇に登りて拝受し、礼成って退く。
六年、寿陽より入朝す。輿駕その第に幸し、鍾磬一部を賜う。七年、進みて彭城を攻め、軍呂梁に至り、また斉軍を大破す。八年、 司空 に進位し、大 都督 の鈇鉞・龍麾を給わる。まもなく 都督 ・南兗州刺史を授けらる。
周が斉を滅ぼすと、宣帝は徐・兗の地を征討せんとし、九年、明徹に北侵を命じ、その世子慧覚に州事を代行させた。軍は呂梁に至り、周の徐州総管梁士彦が兵を率いて防戦し、明徹はこれをしばしば破った。さらに清水を堰き止めて城に灌漑し、攻撃は甚だ急であり、城下に舟艦を環列させた。周は上大將軍王軌を派遣してこれを救援した。軌は軽装で清水より淮口に入り、流れを横断し木を立て、鉄鎖で車輪を貫き、船路を遮断した。諸将はこれを聞いて甚だ恐れ、堰を破って軍を引き抜き、舫で馬を載せようと議した。馬明戌の裴子烈が言うには、「君がもし堰を決して船を下せば、船は必ず傾倒し、どうして得られようか。前もって馬を出遣わすに如かず」。ちょうど明徹が背中の病に苦しみ甚だ篤く、事の成らぬを知り、遂にこれに従った。そこで蕭摩訶に馬軍数千を率いさせて先に還らせ、明徹は自らその堰を決し、水力に乗じて退軍した。清口に至ると、水力は微かで、舟艦はともに渡ることができず、諸軍は皆潰走した。明徹は窮迫し、捕らえられた。周は彼を懐徳郡公に封じ、位は大將軍とした。憂いにより病を得て、長安で卒し、後に旧吏がその柩を盗んで帰った。至徳元年、詔して邵陵侯を追封し、その子息慧覚に嗣がせた。
附 裴子烈
裴子烈は字を大士といい、河東聞喜の人である。梁の員外 散騎常侍 裴猗の子。少孤にして志気あり、 驍 勇をもって知られた。位は北譙太守、岳陽内史、封は海安伯。
論
論じて曰く、古人云う、「臣を知ること君に若くは莫し」と。書に曰く、「人を知れば則ち哲なり」と。陳武の将を論ずるを観て、周・侯の禍に遇う、以て斯の言の妄ならざるを知る所以なり。若し然らずんば、亦何を以て雄傑を駆駕し、基を創め乱を撥つ者ならんや。故に瑱・頠は並びに自ら奔囚し、翻って乱有るに同じく、奭・量は風景に望みて附き、自ら誠臣に等しきは、良に以て有るなり。昭達の王を勤むるの略は、遠く耿弇に符し、己を行うの方は、頗る呉漢に同じく、既に眇にして貴く、亦黥にして王たり、吉凶の算は、豈に人事ならんや。明徹は運否の期に属し、土を辟くの任に当たり、才は韓・白に非ず、識は孫・呉に暗く、進むを知りて止まるを知らず、得るを知りて喪うを知らず、斯の不韙を犯し、師亡び国蹙る、宜なるかな。