南史
卷六十五 列傳第五十五 陳宗室諸王
宗室
永修定侯
永修侯擬は字を公正といい、陳の武帝の疏属である。幼くして孤貧であり、質直で強記であった。武帝が交址を南征したとき、擬はこれに従った。梁の紹泰二年、員外 散騎常侍 ・明威將軍に除せられ、雍州刺史の資をもって、南徐州の事を監した。
武帝が践祚すると、宗室を広く封じ、詔して従子で南徐州を監する擬を永修縣侯に封じ、北徐州刺史の褒を鍾陵縣侯に封じ、晃を建城縣侯に封じ、炅を上饒縣侯に封じた。從孫の明威將軍訬を虔化縣侯に封じ、吉陽縣侯の喧は前の封をそのままとし、信威將軍の祏を 豫 甯縣侯に封じ、青州刺史の詳を遂興縣侯に封じ、貞威將軍の慧紀を宜黃縣侯に封じ、敬雅を甯都縣侯に封じ、敬泰を平固縣侯に封じた。
文帝が位を嗣ぐと、擬は丹陽尹に除せられたが、事に坐して白衣のまま郡を知り、まもなく本職に復した。卒し、諡して定といった。天嘉二年、武帝の廟庭に配享された。子の黨が嗣いだ。
遂興侯
遂興侯詳は字を文幾といい、幼くして出家して沙門となった。書記に長じ、談論は清雅であった。武帝が侯景を討つとき、召し出して還俗させ、兵馬を配して、建鄴平定に従った。永定二年、遂興縣侯に封ぜられた。天嘉三年、累遷して呉州刺史となった。五年、周迪を討ち、戦いに敗れて死んだ。統べるところの軍律を失ったため、贈諡はなかった。子の正理が嗣いだ。
宜黃侯
宜黃侯慧紀は字を元方といい、武帝の從孫である。書史に渉猟し、材を負い気に任せた。武帝に従って侯景を平定した。帝が践祚すると、宜黃縣侯に封ぜられ、黄門侍郎に除せられた。
太建十年、呉明徹が北侵して敗績したので、慧紀を緣江 都督 ・兗州刺史とした。至徳二年、 都督 ・荊州刺史となった。梁の安平王蕭岩・ 晉 熙王蕭瓛らが慧紀のもとに詣でて降を請うと、慧紀は兵をもってこれを迎えた。応接の功により、位は開府儀同三司となった。
禎明三年、隋の師が江を渡ると、慧紀は將士三万人、船艦千餘乗を率い、江に沿って下り、台城に趣かんとした。南康太守呂肅を遣わして兵を率いさせ巫峽を占拠させ、五条の鉄鎖を江に横たえ、肅はその私財を尽くして軍用に充てた。隋の将楊素が奮兵してこれを撃ち、四十余戦し、馬鞍山及び磨刀澗の険を守ることを争った。隋軍の死者五千余人、陳人はその鼻をことごとく取り、功賞を求めた。やがて隋軍はしばしば勝利し、捕らえた陳の士卒を三度釈放した。肅は遁れて延洲を保った。別帥の廖世寵が大舫を領いて偽り降り、隋の艦を焼き、さらに一死戦を決しようとした。そのとき五つの黄龍が衆色を備え、各々長さ十余丈、首を驤けて連接し、流れに順って東に下り、風浪大いに起こり、雲霧晦冥となり、陳人は震駭し、火が自ら焚くを覚えず。隋軍は高艦に乗り、大弩を張ってこれを射ると、陳軍は大敗し、風浪は時に応じて頓に息んだ。肅は余衆を収めて東に走った。
慧紀は時に漢口に至り、隋の秦王俊に拒まれて進むことができなかった。肅の敗北を聞き、公安の儲えをことごとく焼き、偽って兵を率いて東下し、湘州刺史 晉 熙王叔文を推して盟主とした。水軍 都督 周羅睺と 郢州 刺史荀法尚が江夏を守った。建鄴が平定されると、隋の 晉 王広が一つの使者を遣わして慧紀の子正業を連れて来て諭し、また樊毅を遣わして羅睺を諭し、その上流の城戍はことごとく甲を解いた。ここにおいて慧紀及び巴州刺史畢寶はともに慟哭してともに降った。慧紀は隋に入り、例に依って儀同三司を授けられ、卒した。子の正平は、頗る文学があった。
衡陽獻王
衡陽献王昌は字を敬業といい、武帝の第六子である。梁の太清末年、武帝が李賁を南征するにあたり、昌と宣后を沈恪に随わせて呉興に還らせた。武帝が侯景を東討するに及んで、昌は宣后・文帝とともに景の囚虜となった。景が平定されると、長城国世子に拝され、呉興太守となった。時に年十六。
昌は容貌偉麗にして、神情秀朗、雅性聰辯にして、政事に明習していた。武帝は陳郡の謝哲・済陽の蔡景歴を遣わして昌を輔け郡に臨ませ、また呉郡の杜之偉を遣わして経を昌に授けさせた。昌は書を読み一覧して便ち誦し、義理に明るく、剖析流るるが如し。まもなく宣帝とともに荊州に往った。魏が荊州を克つと、また宣帝とともに長安に遷された。
武帝が即位すると、頻りに使を遣わして宣帝及び昌を請うたが、周人は許しながらも遣わさなかった。武帝が崩ずるに及んで、乃ちこれを遣わした。時に王琳が中流に作梗し、昌は還ることができず、安陸に居た。王琳が平定された後、天嘉元年二月、昌は安陸より発ち、魯山より江を済った。巴陵王蕭沇らが百僚を率いて上表し、昌を湘州牧とし、衡陽郡王に封ずることを請うた。詔して曰く「可なり」と。三月甲戌、境に入る。詔して主書舍人に命じ縁道迎接させた。丙子、江を済つ。中流に於いて之に 殞 ち、溺死と告げさせた。四月庚寅、喪柩が都に至る。上親臨して哭した。乃ち詔を下し、仮黄鉞・ 都督 中外諸軍事・太宰・揚州牧を贈り、葬送の儀は、一に漢の東平憲王・斉の 豫 章文獻王の故事に依り、諡して献と曰う。子無し。文帝は第七皇子伯信を以て嗣がせた。
伯信は字を孚之といい、位は西衡州刺史に至る。隋師が江を済つに及び、臨汝侯方慶とともに東衡州刺史王勇に害された。
南康湣王
南康湣王曇朗は、武帝の母弟忠壮王休先の子である。休先は少にして倜儻として大志あり、梁の簡文帝が東宮に在った時、深く知遇を受け、文德主帥となったが、間もなく卒した。敬帝が即位すると、南徐州刺史を追贈され、武康県公に封ぜられた。武帝が禅を受けると、 司徒 を贈られ、南康郡王に封ぜられ、諡して忠壮と曰う。
曇朗は少孤にして、特に武帝に愛された。胆力あり、綏禦に善くした。侯景平定後、著作郎として起家した。武帝が王僧辯を誅するに当たり、曇朗を留めて京口を鎮守させ、留府事を知らせた。
紹泰元年、中書侍郎を除かれ、南徐州を監した。二年、斉兵が建鄴を攻逼し、和を請い、武帝の子姪を人質に求めた。時に四方の州郡は、多く未だ賓服せず、本根虚弱にして糧運継がず、在朝の文武は皆斉と和親することを願った。武帝は之を難じたが、衆議に重ねて違うことを重んじ、乃ち決して曇朗を遣わすこととした。曇朗が行を憚り、或いは奔竄することを恐れ、自ら歩騎を率いて京口に往き之を迎え、斉に質させた。斉は約に背き、蕭軌らを遣わし徐嗣徽に随って江を渡らせた。武帝は之を大破し、蕭軌・東方老らを虜として誅し、斉人もまた曇朗を晋陽に害した。時に陳は斉と絶交しており、之を知らなかった。武帝が践阼すると、猶曇朗を以て南康郡王を襲封させ、忠壮王の祀を奉ぜしめ、礼秩は皇子と同一とした。天嘉二年、斉人が好を結び、始めて其の亡きを知る。文帝は詔して開府儀同三司・南徐州刺史を贈り、諡して湣と曰う。乃ち兼郎中令を遣わし聘使江德藻に随わせて曇朗の喪柩を迎えさせ、三年春に都に至った。
初め、曇朗が未だ斉に質さざる時、子方泰・方慶を生む。斉に適かんとするに及び、二妾を以て自ら随い、北に在りてまた二子方華・方曠を生み、亦同じく還るを得た。
方泰は少より粗獷にして、諸の悪少年と群聚し、遊逸度無し。文帝は南康王の故を以て、特に之を寬宥した。天嘉二年、南康王世子と為す。曇朗の薨ずるを聞くに及び、ここに爵を襲い南康王と為る。太建四年、 都督 ・広州刺史と為る。政を為すに残暴にして、有司の奏する所と為り免ぜられる。六年、 豫 章内史を授かる。郡に在りて政事を修めず。秩満の際、屡々部曲を放ち劫と為し、又火を縱きて邑居に延焼せしめ、因り暴掠を行い、富人を駆録し、財賄を徴求す。代わる者至るも、又淹留して還らず。都に至り、宗正卿と為す。未だ拝せざるに、御史中丞宗元饒の劾する所と為り、官を免ぜられ、王を以て第に還る。十一年、甯遠將軍として起り、直殿省す。尋いで 散騎常侍 を加えらる。其の年八月、宣帝大壯観に幸し、因り大いに武を閲す。 都督 任忠に命じ歩騎十万を領せしめ、玄武湖に陣し、 都督 陳景に楼艦五百を領せしめ瓜歩江より出ださしむ。上玄武門に登り観し、群臣を宴して以て之を観る。因りて樂游苑に幸し、絲竹の会を設く。仍り重ねて大壯観に幸し、衆軍を集め、旅を振って還る。時に方泰従うべかりしも、啓して所生の母疾と称し、行かず。因りて亡命の楊鍾期ら二十人と微行して人間に往き、淳于岑の妻を淫し、州長流の録する所と為る。又人仗を率いて抗拒し、禁司を傷損し、有司の奏する所と為る。上大いに怒り、方泰を獄に下す。方泰初め行淫を承るも、拒格禁司を承けず。上曰く「承けざれば則ち上測せん」と。方泰乃ち列を投じて承引す。ここに兼御史中丞徐君整、方泰の居む官を解き、宗正に下して爵土を削らんことを奏請す。上其の奏を可とす。
禎明初、侍中と為る。陳亡び、後主とともに長安に入る。隋の大業中、掖県令と為る。
方慶は少にして清警、書傳に涉獵す。長ずるに及び幹略有り。天嘉中、臨汝県侯に封ぜらる。至徳二年、累遷して智武將軍・武州刺史と為る。
初め、広州刺史馬靖久しく嶺表に居り、大いに人心を得、士馬強盛、朝廷之を疑い、方慶を以て広州刺史と為し、兵を以て靖を襲わしむ。靖誅せられ、宣毅將軍の号を進む。方慶性清謹、甚だ人和を得たり。
禎明三年、隋師江を済つ。 都督 ・東衡州刺史王勇、方慶に徴兵し、与に台城に赴援せんと欲す。時に隋の行軍総管韋洸兵を帥いて嶺を度り、隋文帝の敕を宣べて云く「若し嶺南平定せば、勇と豊州刺史鄭萬頃を留めて且つ旧職に依らしめよ」と。方慶之を聞き、勇の己を売らんことを恐れ、且つ変を観んと欲し、乃ち従わず。勇、高州刺史戴智烈を使い方慶を広州に斬らしめ、而して其の兵を収む。
鄭萬頃は 滎陽 の人、梁の司州刺史紹叔の始族の子なり。父旻、梁末魏に入る。萬頃通達にして材幹有り、周の武帝の時、司城大夫と為り、出でて溫州刺史と為る。至徳中、司馬消難とともに陳に奔り、 散騎常侍 ・昭武將軍・豊州刺史に拝せらる。州に在りて甚だ恵政有り、吏人表を上り碑を立てんことを請う。詔して許す。初め、萬頃周に在りて、甚だ隋文帝の知遇を受け、隋文帝の践阼するに及び、常に還北を思う。王勇方慶を殺すに及び、萬頃乃ち州兵を率いて勇を拒ぎ隋に降る。隋上儀同を授く。尋いで卒す。
文帝の子
文帝に十三人の男子あり。沈皇后は廃帝と始興王伯茂を生む。厳淑媛は鄱陽王伯山と 晉 安王伯恭を生む。潘容華は新安王伯固を生む。劉昭華は衡陽王伯信を生む。王充華は廬陵王伯仁を生む。張修容は江夏王伯義を生む。韓修華は武陵王伯禮を生む。江貴妃は永陽王伯智を生む。孔貴妃は桂陽王伯謀を生む。二男は早く卒し、名無し。伯信は衡陽王昌の後を継ぐ。
始興王
始興王伯茂は字を郁之といい、文帝の第二子である。初め、武帝の兄始興昭烈王道談は梁に仕えて東宮直閤將軍となった。侯景の乱の際、台城を救援して流れ矢に当たり卒す。太平二年、南兗州刺史を追贈され、長城県公に封ぜられ、諡して昭烈といった。武帝が禅を受けると、重ねて太傅を追贈し、始興郡王に改封された。道談は文帝と宣帝を生んだ。宣帝は梁の承聖末年に長安に遷されていたが、この時、武帝は遠くから宣帝に始興の嗣王を襲封させ、昭烈王の祭祀を奉じさせた。武帝が崩ずると、文帝が帝位を継いだ。当時、宣帝は周に在って未だ帰らず、文帝は本宗の祭祀が欠けることを慮り、宣帝を安成王に徙封し、伯茂を始興王に封じて、昭烈王の祭祀を奉じさせた。天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜う。旧制では、諸王が封を受けても戎号を加えられない者は、佐史を置かなかった。ここにおいて尚書八坐が奏上して伯茂に寧遠將軍を加え、佐史を置き、揚州刺史に任じた。
伯茂は性質聡敏で学を好み、謙恭に士に下り、また太子の同母弟であったため、文帝は深く愛し重んじた。時に軍人が丹徒において晋の郗曇の墓を盗掘し、晋の右軍將軍王羲之の書及び諸名賢の遺跡を多く得た。事が発覚すると、その書は全て官に没収され、秘府に蔵された。文帝は伯茂が古を好むのを以て、多くを彼に賜う。これにより伯茂は大いに草隸書に巧みとなり、右軍の法をよく得た。
東揚州刺史・鎮東將軍・開府儀同三司に遷る。廃帝の時、伯茂は都におり、劉師知らが詔を偽って宣帝を出そうとした際、伯茂はこれを成すよう勧めた。師知らが誅された後、宣帝は伯茂が朝廷を扇動することを恐れ、中衛將軍に号を進め、禁中に入居させ、専ら廃帝と遊び処せしめた。時に四海の望みは咸な宣帝に帰しており、伯茂は深く不平を抱き、しばしば悪言を肆にした。宣帝はその無能を以て、意に介さなかった。建安の人蔣裕と韓子高等が謀反を企てた時、伯茂はひそかにこれに参与した。光大二年、皇太后の令により廃帝は臨海王に廃され、その日また令を下して伯茂を温麻侯に降格させた。時に六門の外に別館があり、諸王の冠婚の場所とし、昏第と称していたが、この時伯茂を出てそこに居住せしめた。宣帝は盗賊を遣わして車中で彼を殺させた。年十八。
鄱陽王
鄱陽王伯山は字を靜之といい、文帝の第三子である。容儀雄偉で、挙止閑雅、喜怒を色に表さない。武帝の時、天下草創で、諸王が封を受ける儀注は多く欠けていた。伯山が封を受けるに当たり、文帝はその事を重んじようとし、天嘉元年七月丙辰、尚書八坐が鄱陽郡王に封ずることを奏上し、度支尚書蕭睿を使者として節を持たせ兼ねて太宰とし太廟に告げさせ、また五兵尚書王質を使者として節を持たせ兼ねて太宰とし太社に告げさせた。その年十月、帝は軒に臨んで策命を下し、策が終わると、王公以下をしてことごとく王の邸で宴をさせた。六年、縁江 都督 ・平北將軍・南徐州刺史となる。宣帝が政を輔けると、伯山を辺境に置くことを欲せず、光大元年、東揚州刺史に徙める。累遷して征南將軍、護軍將軍となり、開府儀同三司を加えられ、鼓吹と扶を与えられる。
伯山は性質寛厚で風儀美しく、また諸王の中で最も年長であったため、後主は深く敬重した。朝廷に冠婚饗宴がある度に、常に主役を務めさせた。生母の喪に遭うと、喪に居て孝で聞こえた。後主がかつて吏部尚書蔡征の宅に行幸した際、ついでに伯山を弔問したところ、伯山は慟哭して気絶しそうになった。そこで鎮衛將軍に起き、群臣に謂って「鄱陽王は至性嘉すべきであり、また西第の長でもある。 豫 章(王叔英)は既に 司空 を兼ねているので、彼もまた太尉に遷すべきである」と言った。詔を発するに及ばず、禎明三年に薨じた。まもなく陳が滅亡したため、遂に贈諡は無かった。
長子の君范は、爵を襲ぐ前に隋軍が到来した。時に宗室の王侯で都にいた者は百余りおり、後主は彼らが変を起こすことを恐れ、ことごとく召し入れて朝堂に屯させ、 豫 章王叔英にこれを総督させ、またひそかに備えをした。六軍が敗れると、相率いて出降し、後主に従って長安に入った。隋文帝は彼らを隴右及び河西の諸州に配し、各々田業を与えて処置した。大業二年、隋煬帝は後主の第六女婤を貴人とし、ことのほか寵愛したため、陳氏の子弟をことごとく召し還して京師に帰らせ、才能に従って叙用した。これにより皆な守宰となり、天下に遍くいた。君范は温県令の位に至った。
新安王
新安王伯固は字を牢之といい、文帝の第五子である。生まれつき亀胸で、目は瞳が通り白目が揚がり、形状は小さいが、俊辯で言論を善くした。天嘉六年、新安郡王に立てられる。太建七年、累遷して 都督 ・南徐州刺史となる。伯固は性質酒を嗜み、積聚を好まず、得る禄奉は用度に節度が無かった。酣酔した後は、多く物を乞い、諸王の中で最も貧窮していた。宣帝は常にこれを哀れみ、特に賞賜を加えた。性質軽率で、鞭捶を行うのを好んだ。州にあって政事を知らず、日が出れば田猟に出た。ある時は眠輿に乗って草むらに至り、すぐに人を呼んで従遊し、動もすれば十日にも及んだ。捕らえた獐鹿は、多くを生きたまま届けさせた。宣帝はこれをかなり知っており、使者を遣わして責めさせたことが数度あった。
十年、国子祭酒となる。かなり玄理を知っていたが、業を堕として通ずる所無く、句を擿げて問難するに至っては、往々にして奇意があった。政は厳苛で、国学に遊び堕して修習しない者がいれば、重く檟楚を加え、生徒はこれを懼れた。これにより学業はかなり進んだ。
十三年、 都督 ・揚州刺史となる。後主が初め東宮にいた時、伯固と甚だ親狎であった。伯固はまた嘲謔を善くし、宣帝が宴集する度に、多く彼を引き立てた。叔陵が江州にいた時、その寵を妬み、ひそかに瑕疵を求め、法をもって中傷しようとした。叔陵が入朝すると、伯固は罪を懼れ、その意を諂い求めて、共に朝賢を誹謗し、歴代の文武を誹毀し、耆年高位であっても、面折して畏れる所が無かった。伯固は性質雉を射るのを好み、叔陵はまた塚墓を発掘するのを好んだ。田野に出遊する時は必ず共に行き、ここに情好大いに協和し、遂に不軌を謀った。伯固は禁中に侍し、密語がある度に必ず叔陵に報せた。叔陵が東府に奔った時、使者を遣わして告げると、伯固は単馬で馳せ赴き、叔陵の指揮を助けた。事が捷たざるを知ると、すぐに逃げようとした。四門が既に閉ざされて出られず、白楊道に向かった。台の馬容が至り、乱兵に殺され、屍は東昌館門にあった。時に年二十八。詔により特に庶人の礼で葬ることを許された。子及び生母の王氏は、共に特に宥されて庶人とされ、国は除かれた。
晉 安王
晉 安王伯恭は字を肅之といい、文帝の第六子である。天嘉六年に封ぜられた。まもなく呉郡太守となった。時に年は十余歳にして、すでに政事に心を留め、官曹を整え治めた。位は尚書左僕射を歴任し、後に中衛将軍・右光禄大夫となった。陳の滅亡後、長安に入る。大業初年、成州刺史・太常少卿となった。
廬陵王
廬陵王伯仁は字を壽之といい、文帝の第八子である。天嘉六年に立てられた。侍中・国子祭酒となり、太子中庶子を領した。陳の滅亡後、長安において卒した。
江夏王
江夏王伯義は字を堅之といい、文帝の第九子である。天嘉六年に封ぜられた。位は金紫光禄大夫に至った。陳の滅亡後、長安に入る。瓜州に遷され、途中で卒した。
武陵王
武陵王伯禮は字を用之といい、文帝の第十子である。天嘉六年に立てられた。太建初年、呉興太守となった。郡において恣に暴掠を行い、後に有司に弾劾された。十一年、代えられて召還されることとなったが、遷延して発たず、御史中丞徐君整に弾劾され、免官された。陳の滅亡後、長安に入る。大業年間、臨洮太守となった。
永陽王
永陽王伯智は字を策之といい、文帝の第十二子である。幼少より敦厚で、器量があり、経史に広く渉った。太建年間に立てられた。累遷して尚書左僕射となり、後に特進となった。陳の滅亡後、長安に入る。大業年間、国子司業となった。
桂陽王
桂陽王伯謀は字を深之といい、文帝の第十三子である。太建年間に立てられた。位は 散騎常侍 に至り、薨じた。子の酆は、大業年間、番禾令となった。
宣帝子
宣帝に四十二男あり:柳皇后は後主を生む。彭貴人は始興王叔陵を生む。曹淑華は 豫 章王叔英を生む。何淑儀は長沙王叔堅・宜都王叔明を生む。魏昭華は建安王叔卿を生む。錢貴妃は河東王叔獻を生む。劉昭儀は新蔡王叔齊を生む。袁昭容は 晉 熙王叔文・義陽王叔達・新會王叔坦を生む。王姫は淮南王叔彪・巴山王叔雄を生む。呉姫は始興王叔重を生む。徐姫は尋陽王叔儼を生む。淳于姫は岳陽王叔慎を生む。王修華は武昌王叔虞を生む。韋修容は湘東王叔平を生む。施姫は臨賀王叔敖・沅陵王叔興を生む。曾姫は陽山王叔宣を生む。楊姫は西陽王叔穆を生む。申婕妤は南安王叔儉・南郡王叔澄・岳山王叔韶・太原王叔匡を生む。袁姫は新興王叔純を生む。呉姫は巴東王叔謨を生む。劉姫は臨海王叔顯を生む。秦姫は新甯王叔隆・新昌王叔榮を生む。その皇子叔叡・叔忠・叔泓・叔毅・叔訓・叔武・叔處・叔封の八人は、いずれも封ぜられるに及ばず。三子は早卒し、名はない。
始興王
始興王叔陵は字を子嵩といい、宣帝の第二子である。梁の承聖年間、江陵に生まれた。魏が江陵を陥とすと、宣帝は関右に遷り、叔陵は穣城に留まった。宣帝の帰還に際し、後主及び叔陵を質とした。天嘉三年、後主に随って朝廷に帰り、康楽県侯に封ぜられた。叔陵は幼少より機知に富み弁舌が立ち、名声を求め、強情で誰をも推し屈することがなかった。太建元年、始興王に封ぜられ、昭烈王の祭祀を奉じた。 都督 ・江州刺史の位にあり、時に年十六、政は自ら出で、僚佐は預かる所がなかった。性質は厳しく酷薄で、部下は畏れ憚った。諸公子・姪および罷免された県令・長らは、皆、強いて己に仕えさせた。 豫 章内史錢法成が府に進み謁見すると、即座にその子季卿を配して馬仗を将領させた。季卿は恥じて時を過ぎても至らなかったので、叔陵は大いに怒り、法成を侵し辱めた。法成は憤怨し、自縊して死んだ。州県はその部内でなくとも、また征発し拘えてこれを案じた。朝貴および下吏で、意に逆らう者があれば、輒ちその罪を誣奏し、重い刑罰に陥れた。
太建四年、 都督 ・湘州刺史に遷る。諸州鎮その至るを聞き、皆震恐して股栗す。叔陵は日に日に横暴となり、夷・獠を征伐して得たるものは皆己に入れ、絲毫も賞賜に用いず。徴求と役使は、紀極無し。夜常に臥さず、燭を執りて暁に達し、賓客を呼び召し、人間の細事を説き、戯謔として為さざる無し。性酒を飲まず、唯多く肴胾を置き、昼夜食噉するのみ。旦より中に及び、方に始めて寝寐す。曹局の文案は、呼ばざれば輒ち白すことを得ず。笞罪の者は皆獄に繫ぎ、動もすれば数年省視せず。瀟・湘以南は、皆逼めて左右と為し、廛裏殆ど遺る者無し。その中脱有て逃竄する者あれば、輒ちその妻子を殺す。州県敢えて上言する者無く、宣帝之を知らず。
太建九年、 都督 ・揚州刺史を除く。十年、都に至り、扶を加え、油幢車を給う。叔陵は東府に居し、事務多く省閣に関渉し、執事の司は、意を承け旨に順えば、即ち上を諷して進用せしむ。微かに違忤すれば、必ず大罪に抵し、重き者は殊死に至る。道路藉藉として、皆その非常の志有りと謂う。叔陵は虚名を修飾し、毎に朝に入るに、常に車中馬上に於て、巻を執りて書を読み、高声に長く誦し、陽陽として自若たり。帰りて斎中に坐し、或いは自ら斧斤を執り、沐猴の百戯を為す。又塚墓の間を遊ぶを好み、塋表に主名の知るべきものに遇えば、輒ち左右を命じて発掘し、その石志・古器並びに骸骨肘脛を取り、持して翫弄と為し、府庫に蔵む。人間の少妻処女、微かに色貌有る者は、並びに即ち逼めて納る。
太建十一年、生母彭氏の憂いに遭い、職を去る。頃之、本職として起用さる。晋世の王公貴人は、多く梅嶺に葬る。彭氏の卒するに及び、叔陵は梅嶺に葬らんことを啓求し、乃ち故太傅謝安の旧墓を発き、安の柩を棄て去り、以てその母を葬る。喪の初めの日、偽りて哀毀を為し、自ら刺血して涅槃経を写すと称す。未だ十旬に及ばず、乃ち日に甘膳を進む。又私かに左右の妻女を召し、之と奸合し、作すところ尤も不軌にして、侵淫として上聞に達す。宣帝は御史中丞王政を責めて挙奏せざるを以てし、政の官を免ず。又その典籤・親事を黜し、仍ち鞭捶を加う。宣帝は素より叔陵を愛し、法を以て縄せず、但だ責譲するのみ。服闋し、又侍中・中軍大将軍と為る。
宣帝の不 豫 に及び、後主諸王並びに入りて疾を侍る。叔陵は陰に異志有り、典薬吏に命じて薬刀を礪切せしむ。倉卒の際に及び、又左右に命じて剣を取らしむ。左右悟らず、乃ち朝服の佩く所の木剣を取りて進む。叔陵怒る。翌日の小斂に及び、後主哀頓して俯伏す。叔陵は銼薬刀を以て後主の中項を斫つ。太后馳せ来りて救う。叔陵又太后を数下斫つ。後主の乳媼楽安君呉氏、時に太后の側に在り、後より肘を掣き、後主因りて起つことを得。叔陵仍ち後主の衣を把持す。後主自ら奮いて免る。長沙王叔堅は手を以て叔陵を搤し、その刀を奪い去り、仍ち牽きて柱に就け、その褶袖を以て之を縛し、池水中に棄て、将に之を殺さんとし、後主に問うて曰く、「即ち尽くすか、待つか」と。時に呉媼已に後主を扶けて賊を避けしむ。叔堅は後主の在る所を求め、将に命を受けんとす。叔陵は力多く、因りて袖を奮いて脱し、突出して雲龍門を過ぎ、車を馳せて東府に還り、その甲士を呼びて青溪橋道を断たしむ。東城の囚を放ち、以て戦士と為す。又人を遣わして新林に往き、所属の兵馬を追わしむ。仍ち自ら甲を被り、白帽を著け、城の西門に登り、百姓を招募し、金銀を散じて賞賜す。外に諸王将帥を召すも、応ずる者無く、唯だ新安王伯固聞きて之に赴く。叔陵兵を聚めて僅かに千人を得、城を拠りて保守せんと欲す。
時に衆軍並びに江に縁りて防守し、台内空虚なり。叔堅は太后に白し、太子舎人司馬申をして急ぎ右衛将軍蕭摩訶を召さしめ、兵を将いて府の西門に至らしむ。叔陵事急しく、記室韋諒を遣わして鼓吹を摩訶に送り、謂いて曰く、「事捷すれば公を以て台鼎と為さん」と。摩訶紿えて報じて曰く、「須らく王の心膂節将自ら来りて、方に敢えて命に従わん」と。叔陵即ち戴洫・譚騏驎の二人を摩訶に詣わしむ。摩訶之を執りて台に送り、閣道の下に斬り、その首を把りて東城に徇し、仍ち朱雀門に懸く。叔陵自ら済わざるを知り、遂に其の妃張氏及び寵妾七人を井中に入れて沈む。叔陵に部下の兵先ず新林に在り。是に於て人馬数百を率い、小航より度り、新林に趣かんと欲し、舟艦を以て北に入らんとす。行きて白楊路に至り、台軍に邀えらる。伯固兵の至るを見て、旋って巷に避け入る。叔陵刀を抜きて之を追う。伯固復た還る。叔陵の部下多く甲を棄てて潰散す。摩訶の馬容陳智深迎え刺して叔陵を刺し、閹豎王飛禽之を数十下斫り、馬容陳仲華就きて首を斬り台に送る。寅より巳に至りて乃ち定まる。尚書八座奏す、「請うらくは宋世の故事に依り、屍を江中に流し、その室を汚瀦し、並びにその生みし彭氏の墳廟を毀ち、謝氏の塋に還すべし」と。後主奏に従う。叔陵の諸子は即日に並び賜死せらる。
豫 章王
豫 章王叔英は字を子烈と云い、宣帝の第三子なり。寛厚仁愛。太建元年に封ぜらる。後に 司空 に至る。隋の大業中、涪陵太守に位し、卒す。
長沙王
長沙王叔堅は字を子成と云い、宣帝の第四子なり。母は本より呉中の酒家の婢にして、相者言う当に貴子を生むべしと。宣帝微時に、飲を因りて通じ、叔堅を生む。貴ぶに及び、召して淑儀に拝す。
叔堅は少にして厳整、又頗る酒を使い、兄弟之を憚る。数術を好み、卜筮・風角・鎔金・琢玉、並びにその妙を究む。初め豊城侯に封ぜらる。太建元年に封ぜらる。累遷して丹陽尹と為る。
初め、叔堅は始興王叔陵と並びに賓客を招聚し、各権寵を争い、甚だ平らかならず。毎に朝会の鹵簿に、肯て先後を為さず、必ず道を分けて趨り、左右或いは道を争いて闘い、死する者有るに至る。宣帝の不 豫 に及び、叔堅は叔陵等と並びに後主に従い疾を侍る。叔陵は陰に異志有り。叔堅之を疑い、微かにその為す所を伺う。逆を行わんとするに及び、叔堅に頼りて以て免る。功を以て驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史に進む。尋いで 司空 に遷り、将軍・刺史は旧の如し。
時に後主創を患い、事を視ること能わず。政の大小無く、悉く叔堅に決し、朝廷に権傾き、後主是に由りて之を疎忌す。孔范・管斌・施文慶等は、並びに東宮の旧臣にして、日夕陰にその短を把持す。至徳元年、乃ち詔して本号に即き三司の儀を用い、江州刺史として出づるを令す。未だ発せず、尋いで以て 司空 と為す。実はその権を奪わんと欲す。又陰に人をしてその厭魅を造らしめ、木を刻んで偶人と為し、道士の服を以て衣せしめ、機関を施し、能く拜跪し、昼夜星月の下に之を醮し、上を祝詛す。又人をして上書してその事を告げしめ、案験して実を令す。後主は叔堅を召して西省に囚え、将に之を黜せんとし、近侍をして敕を宣し数えしむ。叔堅自ら佞人の構うる所と陳す。死の日叔陵を見るを慚ずと。後主その前功に感じ、乃ち之を赦し、居る所の官を免じ、王を以て第に還らしむ。後に中軍大将軍・開府儀同三司・荊州刺史に位す。秩満ちて都に還る。
陳亡びて隋に入り、瓜州に遷る。叔堅は素より貴く、家人の生業を知らず、是に至りて妃沈氏と酒に酣え、耕種を以て事とせず。大業中、遂寧郡守と為り、卒す。
建安王
建安王叔卿は字を子弼といい、宣帝の第五子である。性質は質直で、材器があり、容貌は甚だ偉大であった。太建四年に立てられた。位は 中書監 。陳が滅びて隋に入る。大業年間、都官郎、上党通守となった。
宜都王
宜都王叔明は字を子昭といい、宣帝の第六子である。儀容は美麗で、挙止は和柔、その様は婦人のようであった。太建五年に立てられた。位は侍中。陳が滅びて隋に入る。大業年間、鴻臚少卿となった。
河東王
河東王叔獻は字を子恭といい、宣帝の第九子である。性質は恭謹で、聡敏にして学を好んだ。太建五年に立てられた。位は南徐州刺史。薨じ、 司空 を贈られ、諡して康簡といった。子の孝寬が嗣ぎ、隋の大業年間、汶城令となった。
新蔡王
新蔡王叔齊は字を子肅といい、宣帝の第十一子である。風采は明贍で、経史に広く渉猟し、文を属することを善くした。太建七年に立てられた。位は侍中。陳が滅びて隋に入る。大業年間、尚書主客郎となった。
晉 熙王
晉 熙王叔文は字を子才といい、宣帝の第十二子である。性質は軽険で、虚誉を好み、書史に頗る渉猟した。太建七年に立てられた。位は 都督 、湘州刺史。侍中に徴されたが、還らぬうちに隋軍が江を渡り、隋の秦王が漢口に至った。時に叔文は湘州より朝廷に還る途中、巴州に至り、そこで巴州刺史畢宝らを率いて降伏を請い、秦王に書を致した。王は使者を遣わして巴州に往き、叔文を迎え労った。叔文は畢宝、荊州刺史陳慧紀及び文武の将吏とともに漢口に赴き、秦王は皆厚く彼らを待遇した。京に至ると、隋の文帝は広陽門に坐して観覧し、叔文は後主に従って朝堂に至った。文帝は内史令李徳林に旨を宣せしめ、その君臣が相い弼えることができず、以て喪亡を致したことを責めた。後主とその群臣は皆愧懼して拝伏し、仰ぎ見る者なく、叔文のみ欣然として自得の志があった。後に上表して、巴州において先に款を送ったことを陳べ、常例に異なることを望んだ。文帝はその不忠を嫌ったが、方に江表を懐柔せんとしていたので、遂に開府、宜州刺史を授けた。
淮南王
淮南王叔彪は字を子華といい、宣帝の第十三子である。少より聡慧で、文を属することを善くした。太建八年に立てられた。位は侍中。隋に入り、長安において卒した。
始興王
始興王叔重は字を子厚といい、宣帝の第十四子である。性質は質樸で、伎芸はなかった。宣帝が崩じ、始興王叔陵が逆を為して誅され、その年に叔重を始興王に立て、以て昭烈王の後を奉ぜしめた。位は江州刺史。隋の大業年間、太府少卿となった。
尋陽王
尋陽王叔儼は字を子思といい、宣帝の第十五子である。性質は凝重で、挙止は方正であった。後主が即位して立てられた。位は侍中。隋に入り卒した。
岳陽王
岳陽王叔慎は字を子敬といい、宣帝の第十六子である。幼少より聡明で、十歳にして文章を作ることができた。太建十四年に封ぜられた。至徳年間、丹陽尹となった。当時後主は特に文章を愛し、叔慎は衡陽王伯信・新蔡王叔齊らとともに、日夜侍して詩を賦し、常に賞賛された。
禎明元年、湘州刺史として出向し、 都督 を加えられた。隋の軍が長江を渡ると、清河公楊素の軍が荊門を下り、将の龐暉を派遣して湘州まで攻略させた。州内の将士は期日を定めて降伏を請うた。叔慎は酒宴を設けて文武を集め、酒が酣になると、嘆いて言った、「君臣の義はここに尽きるのか」。長史謝基は伏して涙を流した。湘州助防の遂興侯正理が座に在り、立ち上がって言った、「主辱しめば臣死す、諸君は独り陳国の臣ではないのか。たとえ成らなくとも、なお臣節を見せよう。青門の外で死すとも、今日以後応じる者は斬る」。皆が承諾し、犠牲を捧げて盟を結んだ。人を遣わして偽りの降伏の書を龐暉に奉り、叔慎は甲兵を伏せて待った。暉が入ると、伏兵が起こり、暉らを縛って示し、皆斬った。叔慎は兵士を招集し、数日のうちに兵は五千人に至った。隋は内陽公薛胄を湘州刺史として派遣し、龐暉の死を聞いて兵を増やすよう請うた。隋はまた行軍総管劉仁恩を派遣して救援させた。未だ到らぬうちに、薛胄は叔慎を捕らえ、秦王が漢口で斬った。
義陽王
義陽王叔達は字を子聰といい、宣帝の第十七子である。太建十四年に封ぜられた。位は丹陽尹。隋に入り、大業年間、内史舎人・絳郡通守となった。武徳年間、侍中に位し、江国公に封ぜられ、礼部尚書を歴任し、卒した。
巴山王
巴山王叔雄は字を子猛といい、宣帝の第十八子である。太建十四年に封ぜられた。隋に入り、長安で卒した。
武昌王
武昌王叔虞は字を子安といい、宣帝の第十九子である。太建十四年に封ぜられた。隋に入り、大業年間、高苑令となった。
湘東王
湘東王叔平は字を子康といい、宣帝の第二十子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間、胡蘇令となった。
臨賀王叔敖は字を子仁といい、宣帝の第二十一子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間、儀同三司の位にあった。
陽山王叔宣は字を子通といい、宣帝の第二十二子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間、涇城令となった。
西陽王叔穆は字を子和といい、宣帝の第二十三子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、長安で卒した。
南安王叔儉は字を子約といい、宣帝の第二十四子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、長安で卒した。
南郡王叔澄は字を子泉といい、宣帝の第二十五子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に霊武令となった。
沅陵王叔興は字を子推といい、宣帝の第二十六子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に給事郎となった。
岳山王叔韶は字を子欽といい、宣帝の第二十七子である。至徳元年に封ぜられた。丹陽尹の位にあった。隋に入り、長安で卒した。
新興王叔純は字を子洪といい、宣帝の第二十八子である。至徳元年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に河北令となった。
巴東王叔謨は字を子軌といい、宣帝の第二十九子である。至徳四年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に汧陽令となった。
臨海王叔顯は字を子亮といい、宣帝の第三十子である。至徳四年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に鶉觚令となった。
新會王叔坦は字を子開といい、宣帝の第三十一子である。至徳四年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に涉県令となった。
新甯王叔隆は字を子遠といい、宣帝の第三十二子である。至徳四年に封ぜられた。隋に入り、長安で卒した。
新昌王叔榮は字を子徹といい、宣帝の第三十三子である。禎明二年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に内黄令となった。
太原王叔匡は字を子佐といい、宣帝の第三十四子である。禎明二年に封ぜられた。隋に入り、大業年間に寿光令となった。
後主の子
後主に二十二男あり。張貴妃は太子深と会稽王莊を生み、孫姫は呉興王胤を生み、高昭儀は南平王嶷を生み、呂淑媛は永嘉王彥と邵陵王兢を生み、龔貴嬪は南海王虔と銭唐王恬を生み、張淑華は信義王祗を生み、徐淑儀は東陽王恮を生み、孔貴人は呉郡王藩を生んだ。その皇子総・観・明・綱・統・沖・洽・絛・綽・威・辯の十一人は、いずれも封ぜられるに及ばなかった。
太子深は字を承源といい、後主の第四子である。幼少より聡明で慧く、志操があり、容止は厳然として、左右の近侍は未だその喜びや怒りを見たことがなかった。母の張貴妃の故により、特に後主に愛された。至徳元年に始安王に封ぜられた。揚州刺史の位にあった。禎明二年、皇太子胤が廃されると、後主は深を皇太子に立てた。隋の軍が江を渡ると、隋の将韓擒が南掖門より入り、百官は奔散した。深は時に十余歳であり、閤を閉じて坐し、舎人孔伯魚が侍していた。隋軍が閤を排して入ると、深は命を宣してこれを労うよう言わせて曰く、「軍旅は道中にあり、労わずにはおれぬ」と。軍人は皆これに敬意を表した。隋の大業年間に 枹罕 太守となった。武徳初年に秘書丞となり、官にて卒した。
呉興王胤は字を承業といい、後主の長子である。太建五年二月乙丑、東宮にて生まれた。母の孫姫は出産により卒し、沈皇后は哀しんでこれを養い、己が子とした。後主は年長になっても嗣子がなく、宣帝は嫡孫とすべく命じ、詔して父の後を継ぐ者に爵一級を賜った。十年に永康公に封ぜられた。後主が即位すると、皇太子となった。
胤は性質聡敏で学を好み、経を執り業に習い、終日倦むことなく、大義に博く通じ、兼ねて属文を善くした。時に張貴妃と孔貴嬪は共に愛幸され、沈皇后は寵愛がなく、日夜後主と太子の短所を構成した。孔范の徒は、また外においてその事を合成した。禎明二年、廃されて呉興王とされ、侍中・中衛将軍を加えられた。隋に入り、長安で卒した。
南平王蕭嶷は字を承嶽といい、後主(陳叔宝)の第二子である。方正にして器局あり、数歳の時より、風采挙動は成人の如きものがあった。至徳元年(583年)に封ぜられる。揚州刺史の位に就く。 都督 ・郢州刺史に遷る。隋に入り、長安にて卒す。
永嘉王蕭彦は字を承懿といい、後主の第三子である。至徳元年に封ぜられる。 都督 ・江州刺史の位に就く。隋に入り、大業年間(605-618年)に襄武県令となる。
南海王蕭虔は字を承恪といい、後主の第五子である。至徳元年に封ぜられる。南徐州刺史の位に就く。隋に入り、大業年間に涿県令となる。
信義王蕭祗は字を承敬といい、後主の第六子である。至徳元年に封ぜられる。琅邪・彭城二郡太守の位に就く。隋に入り、大業年間に通議郎となる。邵陵王蕭兢は字を承検といい、後主の第七子である。禎明元年(587年)に封ぜられる。隋に入り、大業年間に国子監丞となる。
会稽王蕭荘は字を承粛といい、後主の第八子である。容貌は蕞陋(みにくく醜い)。性質厳酷にして、数歳の時より、左右の者が意に如かざれば、輒ち其の面を剟刺(突き刺)し、或いは焼爇(焼き焦が)すことを加えた。性酒を嗜み、博奕を愛す。母張貴妃の寵愛により、後主甚だ之を愛した。至徳四年(586年)に封ぜられる。揚州刺史の位に就く。隋に入り、大業年間に昌隆県令となる。
東陽王蕭恮は字を承厚といい、後主の第九子である。禎明二年(588年)に封ぜられる。隋に入り、大業年間に通議郎となる。
呉郡王蕭藩は字を承広といい、後主の第十子である。禎明二年に封ぜられる。隋の大業年間に任城県令となる。
銭唐王蕭恬は字を承惔といい、後主の第十一子である。禎明二年に封ぜられる。隋に入り、長安にて卒す。
江左(南朝)は西 晉 を承け、諸王の開国は、並びに戸数を以て相い差し、大小三品と為す。大国は上・中・下の三将軍を置き、又司馬一人を置く。次国は中・下の二将軍を置く。小国は将軍一人を置く。其の餘の官も亦此を准えて差を為す。武帝(陳霸先)天命を受けてより、永定(557-559年)より禎明に至るまで、唯だ衡陽王陳昌のみは特段に礼命を加えられ、五千戸に至り、自餘の大国は二千を過ぎず、小国は則ち千戸なりという。
論
論じて曰く、陳朝天命を受くるも、疆土日々に 蹙 まるも、然れども封建の典は、先王を革むること無し。永修公(陳擬)等は並びに疏属(遠縁の親族)として列居し蕃屏(藩屏)たり、魯悉達・蕭摩訶・任忠等は功績を以て顕われ、智顕(樊毅)・袁敬(袁枢)は忠義を以て著わる。衡陽王(陳昌)は献王(陳伯山)に及ばず、南康王(陳曇朗)は釈奴(淳于量)に及ばず、桂陽王(陳伯謀)・河東王(陳叔献)は才無く、岳陽王(陳叔慎)・新蔡王(陳叔斉)は幼くして任用せられず、斯れ皆な風教を失い、早く世を去り、其の得失、亦た明らかなり。慧紀(章昭達)は始終の跡、其れ殆ど優れたるか。衡陽・南康は、地皆な懿戚(至親の外戚)なり、提携して殞ちるは、惟だ命なるか。文(文帝陳蒨)・宣(宣帝陳頊)の二帝、諸子一ならず、鄱陽王(陳伯山)・岳陽王は風跡記す可く、古の所謂る維城の磐石、叔慎(岳陽王陳叔慎)其れ之に近きか。