南史
卷六十四より卷六十五
列傳第五十四
江子一
江子一は字を元亮といい、濟陽考城の人、 晉 の 散騎常侍 江統の七世孫である。父は法成、奉朝請であった。
子一は若くして慷慨として大志あり。家は貧しく、孝行をもって知られ、苦労して親の養育に多く欠けるところあり。それゆえ終身菜食を貫いた。梁に仕え、初め王國侍郎・奉朝請に任じられた。上書して事を論じ、権力者に排斥されたため、表を奉って北に入り刺客となることを求めた。武帝はこれを異とした。また秘閣の書を閲覧することを求めると、武帝はこれを許し、勅を下して華林省に直させた。その姑夫である左 衞 將軍朱異は権勢を握って朝廷に当たり、休暇の日には賓客が輻湊した。異は世論の支持を得ず、子一を引き立てて助けとしようとしたが、子一は一度もその門を訪れず、その高潔さはこのようなものであった。遂昌・曲阿の令となり、いずれも美しい治績を挙げた。後に南津 校尉 となった。
弟の子四は、尚書金部郎を歴任した。大同の初め、右丞に遷った。兄弟の性質はともに剛烈であった。子四は右丞の立場から封事を上奏し、得失を極言した。武帝はこれを大いに善しとし、詔して曰く、「屋漏れは上に在り、之を知るは下に在り。尚書に詳しく選択せしめ、時政に施すべし」と。左戶郎の沈炯・少府丞の顧璵がかつて奏事が認められず、帝は厳しい顔色で呵責した。子四は進み出て炯らに代わって応対し、その応対は甚だ激切であった。帝は怒って縛れと叫んだが、子四は地に拠って受け付けなかった。帝の怒りもやがて収まり、釈放したが、なお免職の罪に坐した。
侯景が曆陽を攻め落とし、横江から渡ろうとした時、子一は千余りの舟師を率いて下流で邀撃しようとしたが、副将の董桃生が逃走したため、子一は退いて南洲に還り、残りの兵を収めて歩行で建鄴に赴き、文德殿で謁見した。帝は彼を責めたが、子一は事の次第を詳しく答え、かつ曰く、「臣は身を国に許し、常にその死を得ざるを恐れました。今日の事、何をか再び惜しむことがありましょう。闕前で死なねば、終には闕後で死ぬのみです」と。城が包囲されると、承明門を開いて出戦した。子一と弟の尚書左丞子四・東宮直殿主帥の子五はともに力戦して真っ直ぐに進み、賊は甲を坐して起たなかった。子一は矟を引いてこれを撞くと、賊は突騎を放ち、兵は皆縮んだ。子一はその騎を刺し、騎は倒れ矟は折れた。賊はその肩を解き、時に年六十二。弟は曰く、「兄とともに出で、何の面目あって独り帰らん」と。かくて冑を免じて敵に赴き、子四は矟で胸を貫かれて死に、子五は喉を傷つけ、塹に還って一慟して絶えた。賊は子一の勇を義とし、遺体を返したが、顔は生きているようであった。詔して子一に給事黄門侍郎を、子四に中書侍郎を、子五に散騎侍郎を追贈した。侯景平定後、元帝はまた子一に侍中を追贈し、諡して義子とし、子四に黄門侍郎を追贈し、諡して毅子とし、子五に中書侍郎を追贈し、諡して烈子とした。
子一は黄圖を継ぎ、また班固の「九品」を補い、併せて辞賦文章数十篇があり、世に行われた。
胡僧佑
胡僧佑は字を願果といい、南陽冠軍の人である。若くして勇決あり、武幹があった。魏に仕えて銀青光禄大夫の位にあった。大通三年、爾朱氏の難を避けて梁に帰った。頻りに封事を上奏し、武帝はこれを器として、文德主帥に拝し、項城を戍らせた。魏が項城を陥落させたため、北に入った。中大通元年、陳慶之が魏の北海王元顥を洛陽に入れるに及び、僧佑はまた梁に帰り、徐南天水・天門二郡太守となり、善政があった。性は読書を好み、文章を綴ることを愛したが、文辞は鄙野で、多く嘲謔された。しかし自らは実に巧みであると称し、矜伐することますます甚だしかった。
晩年に梁元帝に仕えた。侯景の乱の時、西沮の蛮が反逆し、元帝は僧佑にこれを討たせ、その渠帥を尽く誅せよと命じた。僧佑が諫めて旨に逆らい、獄に下された。
大寶二年、侯景が王僧辯を巴陵に包囲すると、元帝は僧佑を獄から引き出し、仮節・武猛將軍に拝し、新市県侯に封じ、僧辯を救援させた。出発に際して涙を流し、その子の屺に謂って曰く、「汝は朱と白の二つの門を開くがよい。我が勝たねば死す。吉ならば朱より、凶ならば白より出る」と。元帝はこれを聞いて壮とした。前進して赤沙亭に至り、陸法和が到着したので、軍を併せて、侯景の将任約の軍を大破し、任約を捕らえて江陵に送った。侯景はこれを聞いて遂に遁走した。後に領軍將軍に拝し、厚く自ら封殖した。加えられた鼓吹を常に斎中に置き、これに向かって自ら楽しんだ。人が曰く、「これは羽儀です。公は名望隆重、このようであるべきではありません」と。答えて曰く、「我が性、これを愛し、常に見るを須いるのみ」と。あるいは出遊する時も自ら携え、人士はこれを笑った。
承聖二年、車騎將軍・開府儀同三司となった。魏軍が到来すると、僧佑を 都督 城東諸軍事とした。まもなく流れ矢に当たって卒し、城は遂に潰えた。
徐文盛
徐文盛は字を道茂といい、彭城の人である。家はもと魏の将軍であった。父の慶之は、梁の天監初年に北から南に帰順しようとしたが、途中で死去した。文盛は引き続きその配下を統率し、次第に功績を立てた。大同の末年に、寧州刺史となった。州は僻遠の地にあり、群蛮が劫掠を繰り返していたが、前後の刺史はこれを制することができなかった。文盛は誠意をもって慰撫すると、夷人はこれに感じ入り、風俗は改まった。
太清二年、国難を聞くと、召募して数万人を得て赴いた。元帝は彼を秦州刺史とし、 都督 を加え、東討の方略を授けた。東下して武昌に至り、侯景の将任約と遭遇し、これと相持した。元帝はまた護軍将軍尹悦・平東将軍杜幼安・巴州刺史王珣らに命じてこれに合流させ、みな文盛の節度を受けた。貝磯において任約を大破した。約は西陽に退いて守りを固め、文盛は蘆洲を占拠して進み、また相持した。景はこれを聞き、大軍を率いて西上し任約を救援し、西陽に至った。諸将は皆、「景の水軍は軽進し、また甚だ飢え疲れている。これを撃てば必ず大勝するだろう」と言ったが、文盛は許さなかった。文盛の妻石氏は先に建鄴にいたが、この時、景は彼女を載せて返した。文盛は深く景に恩を感じ、密かに使者を通じさせ、まったく戦意がなく、兵士たちは皆憤慨した。杜幼安・宋簉らはそこで配下を率いて単独で進撃し、景を大破し、その舟艦を鹵獲して帰還した。ちょうど景が密かに騎兵を遣わし間道から襲って 郢州 を陥落させたので、軍中は恐れ、大いに潰走し、文盛は荊州に奔還した。元帝はなお彼を城北面大 都督 としたが、また贓物を収奪して甚だ多かったので、元帝は大いに怒り、令を下してその十の罪を数え上げ、官爵を除いた。文盛は内心怨望を抱き、帝がこれを聞くと、投獄した。時に任約が捕らえられ、文盛とともに監禁された。文盛は任約に言った、「どうして早く降伏しなかったのか、私をここまでさせて」。約は言った、「門外に卿の馬の跡が見えなかったので、私がどこで降伏できようか」。文盛は答える言葉がなく、遂に獄中で死んだ。
陰子春
陰子春は字を幼文といい、武威姑臧の人である。晋の義熙の末、曾祖父の襲が宋の武帝に従って南遷し、南平に至り、そこで家を定めた。父の智伯は梁の武帝と隣り合って住み、幼少より親しく交わり、かつて帝の寝所に入り、異なる光が五色を成しているのを見て、帝の手を握って言った、「公は後に必ず大いに貴くなり、人臣の位ではない。天下はまさに乱れようとしている。蒼生を安んずる者は君にあるのではないか」。帝は言った、「どうか多くを言わないでほしい」。ここにおいて情誼はますます密になり、帝が何か求めるものがあると、あたかも外部の倉庫のように(与えた)。帝が即位すると、官は梁・秦二州刺史に至った。
子春は仕えて朐山戍主・東莞太守の位を歴任した。時に青州石鹿山は海に臨み、先に神廟があったが、刺史の王神念は百姓が祈祷に浪費するのを以て、神の像を壊し、屋舎を破壊した。ちょうど棟の上に一匹の大蛇がいて長さ一丈余りあり、役夫が打ち叩いたが捕らえられず、海水に入って行った。その夜、子春は人が名乗って子春を訪ねて来て言う夢を見た、「ある者が苦しめられ、宅舎を破壊された。すでに寄る辺がなく、君の厚い徳を欽慕し、この境に憩いたい」。子春は心に密かにこれを覚えていた。二日経って(神廟破壊のことを)知り、甚だ驚き、以前夢に見た神であると思った。そこで犠牲と酒を整えて請い招き、一箇所に安置した。数日後、また朱衣の人が訪ねて来て、辞謝して言う夢を見た、「君の厚い恵みを得た。一州をもって報いよう」。子春は心喜び、供え祀ることをますます勤めた。一ヶ月余り経って、魏が朐山を襲おうとし、間諜が事前に知ると、子春は伏兵を設けてこれを撃破し、詔により南青州刺史を授けられ、朐山を鎮守した。また 都督 ・梁秦二州刺史に遷った。
子春は他の才能や行いこそなかったが、人に臨むには廉潔をもって称された。閨門は混雑していたが、身には垢や汚れをまとい、足は数年で一度洗うのみで、洗うたびに財を失い事を敗ると言い、梁州にいた時、足を洗ったために梁州が敗れたと言った。太清二年、左衛将軍に徴され、侍中に遷った。侯景の乱に際し、元帝は子春に王僧辯に従って邵陵王を攻撃平定させた。また左衛将軍徐文盛とともに東進して景を討ち、貝磯に至り景と遭遇すると、子春は力戦し、常に諸軍の先頭に立った。ちょうど郢州が陥落し、軍は遂に退き、江陵で卒した。子に鏗がいる。
子春の子 鏗
鏗は字を子堅といい、史伝に広く渉猟し、特に五言詩を善くし、当時に重んじられた。梁の湘東王の法曹行参軍となった。初め鏗は賓客と宴飲していた時、酒を酌む者を見て、酒と炙り肉を回して彼に与えた。座中の者は皆笑った。鏗は言った、「我々は終日酒を楽しむが、爵を持つ者はその味を知らない。人情に非ざるなり」。侯景の乱の時、鏗は賊に捕らえられたが、ある者が救ってくれて免れた。鏗が尋ねると、それは以前に酒を酌んだ者であった。
陳の天嘉年間、始興王中録事参軍となった。文帝がかつて群臣を宴して詩を賦させた時、徐陵が(鏗のことを)言上すると、帝は即日に鏗を召して宴に預からせ、新成安楽宮を賦させた。鏗は筆を取ってすぐに書き上げ、帝は甚だ嘆賞した。累遷して晋陵太守・員外 散騎常侍 となり、まもなく卒した。文集三巻が世に行われている。
杜崱
杜崱は京兆杜陵の人である。その祖先は北から南に帰順し、雍州の襄陽に住み、子孫はそこで家を定めた。父の懷寶は少より志節があり、梁の天監年間に累ねて軍功があり、後にまた南鄭で功を立て、梁・秦二州刺史の位に至った。大同初年、魏軍が再び南鄭を包囲すると、懷寶は第三子の嶷に二百人を率いさせ、魏の前鋒と光道寺で戦わせた。流れ矢がその目に当たり、馬を失い、敵の矛が交差して迫って来たが、嶷はその一騎を斬って馬に乗り、駆けて帰還した。嶷は膂力が人に絶し、馬術に巧みで弓を善くし、一日に七、八合戦った。佩びた霜明朱弓は四石余りの力があり、斑絲で巻いた矛は長さ二丈五尺、同心の敢死の士百七十人を従えた。出撃するたびに数百人を殺傷し、敵はこれを恐れ、杜彪と号した。懷寶は州で卒し、諡して桓侯といった。
嶷は西荊州刺史の位にあった。時に讖言に「独梁の下に瞎天子あり」とあり、元帝は嶷がその人であると思った。ちょうど嶷が父祖を改葬しようとした時、帝は墓の図を作る者に命じて故意に悪くさせ、一年余りして嶷は卒した。崱は嶷の弟である。幼より志気があり、郷里では胆勇をもって称され、後に新興太守となった。太清三年、岳陽王に従って荊州を襲撃しようとしたが、元帝は崱の兄の岸と旧交があり、密書を送って招いた。崱はそこで岸・弟の幼安・兄の子の龕らと夜に元帝に帰順し、武州刺史とされ、枝江県侯に封ぜられ、領軍王僧辯に従って東進し侯景を討つよう命じられた。巴陵に至ると、景は逃げた。侍中を加えられ、爵を公に進められ、引き続き僧辯に従って景を追撃し石頭に至った。景が敗れると、崱は台城を占拠した。景が平定されると、 散騎常侍 ・江州刺史を加えられた。
その月、斉の将郭元建が秦郡において秦州刺史厳超達を攻撃した。王僧辯は崱に救援に向かうよう命じ、陳の武帝もまた欧陽から来て合流した。元建の軍は退却し、崱は兵を縦してこれを大破し、元建は逃げた。時に元帝は江陵で王琳を捕らえ、琳の長史陸納らが長沙で反乱した。元帝は崱を徴し王僧辯とともにこれを討たせた。車輪において陸納らと戦い、これを大敗させた。後に陸納らが降伏すると、崱はまた王僧辯とともに西討し、硤口で武陵王を平定した。まもなく鎮守地で病を得て卒し、諡して武といった。崱には兄弟九人がおり、兄の嵩・岑・嶷・岌・巘・岸及び弟の嵷・幼安はみな知名であった。
崱の兄 岸
杜岸は字を公衡といい、太清年間に、杜崱と共に岳陽王蕭察に従って荊州を攻め、共に元帝に帰順した。元帝は彼を北梁州刺史とし、江陵県侯に封じた。杜岸は五百騎を率いて襄陽を襲撃することを請い、城から三十里のところで、城中に気づかれた。蕭察は夜間にその軍が襄陽を襲うことを知り、杜岸らが襄陽の豪族の首領であるため、その夜に逃げて襄陽に帰った。杜岸らは蕭察が到着したことを知ると、その兄の南陽太守杜巘のもとに広平へと奔った。蕭察は将軍の尹正・薛暉らを派遣してこれを攻め落とし、杜巘・杜岸らとその母・妻子・娘を捕らえ、皆襄陽の北門で斬った。蕭察の母の龔保林が大勢の前で杜岸を責めると、杜岸は言った、「老婢めがお前の息子に叔父を殺させ、忠良を無実の罪で殺すとは」。蕭察は命じてその舌を抜き、肉を切り刻んで煮殺した。杜氏の宗族で親しい者は皆誅殺し、幼弱な者は蚕室に下し、またその墳墓を暴き、骸骨を焼いて灰にし、風に撒き、それをもって漆の椀とした。そして建鄴が平定されると、杜崱兄弟は安寧陵を暴いて焼き、漆椀の残酷な仕打ちに報いたが、元帝も責めなかった。
杜崱の弟、杜幼安。
杜幼安は性質、至孝で寛厚、雄勇は人に優り、兄の杜崱と共に元帝に帰順した。元帝は彼を西荊州刺史とし、華容県侯に封じた。王僧辯と共に長沙で河東王蕭譽を討ち、これを平定した。また徐文盛を助けて東進し侯景を討つことを命じられ、貝磯に至り、侯景の将任約を大破し、その儀同叱羅子通・湘州刺史趙威方らを斬った。引き続き軍を進めて大挙口に至り、別働隊で武昌を攻め落とした。侯景が蘆洲の上流に渡って徐文盛を圧迫すると、杜幼安は諸軍と共にこれを大敗させた。ちょうど侯景が密かに騎兵を派遣して郢州を陥落させ、刺史の方諸を捕らえたため、人心は大いに駭き、徐文盛は漢口から逃げ帰り、諸軍は大敗し、杜幼安は侯景に降った。侯景は彼が何度も裏切ることを恐れ、殺した。
杜崱の兄の子、杜龕。
杜龕は杜岑の子であり、若い頃から 驍 勇で、兵を用いることに長け、諸父と共に元帝に帰順した。元帝は彼を鄖州刺史とし、中廬県侯に封じ、王僧辯と共に河東王蕭譽を討って平定した。また王僧辯に従って軍を下し、徐文盛の軍に続いて巴陵に至った。侯景が郢州を陥落させ西上して来ると聞くと、王僧辯らと共に巴陵を守った。侯景が到着して数旬にわたって包囲したが、陥落させられずに逃走した。太府卿・定州刺史に遷った。そして諸軍が姑孰に至った時、侯景の将侯子鑒が迎え撃つと、杜龕は陳武帝・王琳らと共にこれを撃ち、侯子鑒を大敗させ、遂に石頭に至った。侯景が自ら会戦すると、杜龕は諸軍と共にこれを大破した。功績を論じて最も上とされ、東揚州刺史を授けられた。また王僧辯と共に陸納を降し、武陵王を平定した。
そして西魏が江陵を平定した後、北斉が貞陽侯蕭明を立てて梁の後継者とし、杜龕を震州刺史・呉興太守とし、南 豫 州刺史に遷し、溧陽県侯に封じ、また 散騎常侍 ・鎮南大将軍を加えた。
杜龕は王僧辯の婿であった。初め呉興太守となった時、陳武帝が元々貴い身分ではなかったため、その本郡の長官となると、法をもってその宗族を裁き、少しも寛容にしなかった。武帝はこれを深く恨んだ。そして王僧辯が敗れると、杜龕は呉興を拠点としてこれに抵抗し、たびたび陳文帝の軍を破った。杜龕は酒を好み、終日酔っていることが多く、勇猛ではあったが謀略がなく、部将の杜泰が密かに陳文帝と通じ、杜龕に降伏を勧めると、杜龕はそれを承諾した。その妻の王氏が言った、「霸先(陳武帝)とはこのような仇敵の仲であるのに、どうして和を求めることができようか」。そこで私財を出して賞金をかけ兵を募り、再び陳文帝の軍を大敗させた。後に杜泰が陳文帝に降ると、杜龕はまだ酔って気づかず、陳文帝は人を遣わして彼を背負い出し、項王寺の前で斬った。王氏はそこで髪を切って出家し、杜氏一門は滅んだ。
王琳。
王琳は字を子珩といい、会稽郡山陰県の人である。元は兵家の出身であった。元帝が藩王であった時、王琳の姉妹は共に後宮に入り寵愛を受け、王琳はこれによって弱冠に満たないうちに側近に侍ることができた。若い頃から武を好み、遂に将帥となった。太清二年、元帝は王琳に米一万石を献上させるため派遣したが、到着する前に都城が陥落したため、長江の中流で米を沈め、軽舟で荊州に帰った。次第に岳陽内史に昇進し、軍功により建寧県侯に封じられた。侯景が将軍の宋子仙を派遣して郢州を占拠すると、王琳はこれを攻め落とし、宋子仙を生け捕りにした。また王僧辯に従って侯景を破った。後に湘州刺史に任じられた。
王琳は果断で剛勁、人に抜きん出ており、また身を低くして士を敬うことができ、得た賞賜の品を家に入れず、麾下に一万人、多くは江淮の群盗であった。侯景平定の功績は、杜龕と共に第一であった。寵愛を恃んで建鄴で暴虐をほしいままにし、王僧辯が制止しても聞かず、乱を起こすことを恐れ、誅殺を上奏して請うた。王琳も禍を疑い、長史の陸納に部曲を率いて先に湘州へ赴かせ、自身は軽装で江陵に上り陳謝した。出発に際して陸納らに言った、「私が戻らなければ、お前たちはどうするか」。皆が言った、「死を請う」。泣いて別れた。そして江陵に至ると、元帝は彼を獄吏に下し、廷尉卿の黄羅漢と太舟卿の張載を派遣して王琳の軍に宣諭させた。陸納らと軍人は皆使者に対し泣き、命令を受け入れようとしなかった。そこで黄羅漢を縛り、張載を殺した。張載は性が苛酷で、元帝に信任されていたが、荊州では仇のように憎まれていたので、陸納らは人の望みに乗じ、その腸を抜き出して馬の脚に結びつけ、走り回らせ、腸が尽きて気絶すると、さらに肉を切り刻んで五刑を尽くした上で斬った。
元帝は王僧辯を派遣して陸納を討たせ、陸納らは敗走して長沙に逃げた。この時、湘州は未だ平定されておらず、武陵王の軍勢が下って来るのも甚だ盛んであったため、江陵の朝廷も民間も恐懼し、異心を抱く者がいた。陸納は上奏して王琳に罪がないことを申し立て、元の地位に復することを請い、奴婢となることを求めた。元帝はそこで王琳を鎖につないで王僧辯のもとに送った。その時、陸納が兵を出して戦おうとしていたが、ちょうど王琳が到着したので、王僧辯は楼車の上に上げてこれを見せた。陸納らは戈を投げ出して共に拝礼し、全軍が皆泣いて言った、「王郎が城に入られるならば、我々は直ちに出て行きます」。そこで王琳を城内に入れると、陸納らは降伏した。湘州が平定されると、直ちに王琳を元の地位に復し、武陵王蕭紀を防がせた。蕭紀が平定されると、衡州刺史を授けられた。
元帝は猜疑心が強く、王琳の率いる軍勢が甚だ盛んであり、また衆心を得ているため、彼を嶺外に出した。また 都督 ・広州刺史を授けた。その友人で主書の李膺は、元帝に任用され遇されていたが、王琳は彼に告げて言った、「私は抜擢を受け、常に命を尽くして国恩に報いようと思っておりました。今天下は未だ平定されておらず、私を嶺外に遷すというのは、万一の不測の事態があれば、どうして私の力を得ることができましょうか。推し量るに、朝廷は正に私を疑っているのでしょう。私の分望には限りがあり、どうして朝廷と争って帝位に就くことができましょうか。どうして私を雍州刺史として、武寧を鎮守させないのでしょうか。私は自ら兵を放って耕作し、国のために防禦の任に当たり、もし緊急の事態があれば動静を知らせ合いましょう。どうして遠く嶺南に棄て、万里も離れ、一日でも変事があれば、どうしようというのでしょう。私は長く荊南に座していることを願っているのではなく、国の計らいがこのようであるからです」。李膺はその言葉を正しいと思ったが、敢えて上奏できず、故に王琳はその衆を率いて嶺南を鎮守した。
元帝が西魏に包囲され逼迫すると、王琳を召し出して救援に赴かせ、湘州刺史を授けた。王琳の軍は長沙に駐屯したが、西魏が江陵を平定し、既に梁王蕭察を立てたことを知ると、元帝のために喪に服し、三軍は喪服を着た。別将の侯平に舟師を率いて梁を攻めさせ、王琳は長沙に兵を屯し、諸方に檄を飛ばして、進軍の計画を立てた。当時、長沙の蕃王蕭韶及び上流の諸将は王琳を推して盟主とした。侯平は長江を渡ることはできなかったが、たびたび梁軍を破った。また王琳の兵威が及ばないのを見て、かえって指揮を受け付けなくなり、王琳は将を派遣してこれを討ったが、勝てなかった。また軍は疲れ老兵となり進軍できず、そこで使者を派遣して北斉に奉表し、併せて馴象を献上した。また西魏に降伏を申し出て妻子を求め、梁に対しても臣と称した。
陳の武帝が王僧辯を殺し、敬帝を推戴して即位させると、侍中・ 司空 として琳を召し出した。琳はこれに従わず、大いに楼艦を営み、義挙を図ろうとした。琳の将軍張平宅が乗る一艦は、戦いに勝つたびに野猪のような声を発したので、琳の戦艦は千艘を数え、野猪と名付けた。陳の武帝は将軍侯安都・周文育らを派遣して琳を討たせ、その間に梁の禅譲を受けた。安都は嘆いて言った、「我らは敗れるであろう、師に名分がないからだ」と。沌口で迎え撃った。琳は平肩輿に乗り、鉞を執って指揮し、安都と文育を生け捕りにし、その他は一人も漏らさず、ただ周鉄武一人が恩に背いたとして斬った。安都と文育を鎖でつなぎ、琳の座乗する艦中に置き、一人の宦官に監守させた。琳は湘州の軍府を郢城に移し、甲冑を着けた兵十万を率い、白水浦で練兵した。琳は軍を巡視して言った、「これをもって勤王の師とすることができよう、温太真が何者か!」。南江の渠帥熊曇朗・周迪は二心を抱き、琳は李孝欽・樊猛を派遣し、余孝頃とともにこれを討たせた。三将軍は敗れ、ともに迪の捕虜となった。安都・文育らはことごとく逃れて建鄴に帰還した。
初め、魏が江陵を陥とした時、永嘉王蕭莊はわずか七歳で、人家に逃げ隠れた。後に琳がこれを迎えて湘中に還し、護衛して東下させた。敬帝が立つと、斉に人質として出し、蕭莊を梁の主として受け入れるよう請うた。斉の文宣帝は兵を派遣して援護送還し、兼中書令李騊駼を遣わして琳を梁の丞相・ 都督 中外諸軍・録尚書事に冊拝した。また中書舎人辛愨・遊詮之らを派遣し、璽書を携えて江表に宣労し、琳以下すべてに頒賜があった。琳は兄の子叔宝に命じ、配下の十州刺史の子弟を率いて鄴に赴かせ、蕭莊を奉じて郢州で梁の国統を継がせた。蕭莊は琳に侍中・使持節・大将軍・ 中書監 を授け、安成郡公に改封し、その他はすべて斉朝の前命に従った。
陳の文帝が立つと、琳は蕭莊を輔佐して濡須口に駐屯した。斉は揚州道行台慕容儼を派遣し、軍勢を率いて長江に臨み、その声援とした。陳は安州刺史呉明徹を派遣し、夜間に長江を遡上させて盆城を襲おうとした。琳は巴陵太守任忠を派遣してこれを大破し、明徹はただ一身を免れたのみであった。琳の軍はこれにより東下し、陳は太尉侯瑱・ 司空 侯安都らを派遣してこれを防がせた。瑱らは琳の軍勢が盛んなのを見て、軍を率いて蕪湖に入り避けた。時に西南風が急に吹き、琳は天道を得たと思い、まさに揚州を直取せんとしたが、侯瑱らはゆるやかに蕪湖を出てその後を追った。戦いが始まる頃には、西南風は翻って瑱のために用いられ、琳の兵が火矢を放って瑱の船に投げつけたものは、すべて反って自らの船を焼いた。琳の船艦は潰乱し、兵士の水中に落ちて死ぬ者は十二三に及んだ。その他は皆船を棄てて岸に上がり、陳軍に殺されてほとんど尽きた。
初め、琳は左長史袁泌・御史中丞劉仲威に命じてともに兵を統率し蕭莊を侍衛させたが、軍が敗れると、泌は陳に降った。仲威は蕭莊を歴陽に投じ、さらに寿陽に送った。琳はまもなく蕭莊とともに斉に入り、斉の孝昭帝は琳を合肥に出させ、義故を鳩集させて、さらに進取を図らせた。琳は艦船を修繕し、分遣して淮南の傖楚を募ると、皆力を尽くすことを願った。陳の合州刺史裴景暉は、琳の兄瑉の婿であり、私的な配下を以て斉軍を導くことを請うた。孝昭帝は琳に行台左丞盧潜とともに兵を率いて応援することを委ねた。琳が沈吟して決断しなかったので、景暉は事が漏れることを恐れ、身一つで斉に帰った。斉の孝昭帝は琳に璽書を賜り寿陽を鎮守させ、その部下の将帥はすべて従うことを許し、琳を驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史に任じ、会稽郡公に封じた。さらに兵員と俸禄を増やし、鐃吹(軍楽)をも給した。琳は水陸に戒厳を敷き、隙を窺って動こうとしたが、陳氏が斉と和睦を結んだため、琳はさらに後の図りを待つこととなった。
琳が寿陽にいた時、行台尚書盧潜と不和となり、互いに非難し合い、召還されて鄴に帰った。斉の武成帝はこれを放置して問わず、滄州刺史に任じた。後に琳を特進・侍中とした。住む屋根の棟が理由なく剥がれ破れ、赤い蛆が数升出て、地に落ちて血と化し、蠕動した。門外の池から龍が出て、雲霧が立ち込め、昼も暗くなった。時に陳の将軍呉明徹が斉に侵寇し、斉帝は領軍将軍尉破胡らに命じて出撃し秦州を救援させ、琳にもともに経略することを命じた。琳は親しい者に言った、「今、太歳は東南にあり、歳星は牛斗の分野に居り、太白は既に高く、皆客軍に利あり、我は喪(敗北)あらん」と。また破胡に言った、「呉の兵は甚だ鋭し、長策を以てこれを制すべく、軽々しく戦うことなかれ」と。破胡は従わなかった。戦い、軍は大敗した。琳は単騎で包囲を突破し、辛うじて逃れることができた。彭城に帰還すると、斉は直ちに寿陽に赴くことを命じ、併せて召募を許した。さらに琳を巴陵郡王に進封した。陳の将軍呉明徹が進軍してこれを包囲し、肥水を堰き止めて城に灌いだ。しかし斉の将軍皮景和らは淮西に駐屯したまま、ついに救援に赴かなかった。明徹は昼夜攻撃し、城内は水気が浸透し、人々は皆腫れ物に患い、死病が相枕した。七月から十月にかけ、城は陥落し琳は捕らえられた。百姓は泣きながらこれに従った。呉明徹は彼が変を起こすことを恐れ、城の東北二十里で殺した。時に四十八歳。哭く者の声は雷のようであった。一人の老人が酒と干し肉を持って来て、号泣して哀悼の酒を捧げ、その血を収めて懐に入れ去った。首は建康に伝えられ、市に晒された。
琳の旧吏である梁の驃騎府倉曹参軍朱瑒が、陳の尚書僕射徐陵に書を送り琳の首級を求めて、言うには、
私が考えるに、朝廷と市井は変遷し、時に骨鯁の風は伝わり、運命は推移する中で、間には忠貞の跡が表れる。故に典午(晋)が滅びんとする時、徐広は晋家の遺老となり、当塗(魏)が既に終わった時、馬孚は魏室の忠臣と称された。これによって前の書に美を播き、後の世に名を垂れることができたのである。梁の故建寧公琳は、洛濱の余裔、沂川の旧族であり、代邸に功を立て、中朝に績を効した。離乱の時に当たり、蕃伯の任を総べた。爾来、軽く身を殉じて主に従い、身を以て国に許し、実に往彦の跡を追い、信じて前修の歩を継いだ。しかし天は梁の徳を厭い、なおもこれを匡ぎ継ごうと思い、ただ包胥の念を蘊みながら、終に萇弘の災いに遭った。王業が光り啓き、鼎の祚が帰する所となると、これにより山東に遠跡し、河北に命を寄せた。軽々しく旅臣の嘆きはあれども、なお客卿の礼を懐いていた。この知己に感じ、この捐躯を忘れた。ついに身は九泉に没し、頭は万里を行くに至った。誠にまた馬革に屍を裹む、その生平の志を遂げ、原野に骸を暴く、かの人臣の節に会う。しかし身首異処となるは、悲しむに足る。封樹(墓)を卜するもなく、まことに愴然たるものがある。
王瑒は早くより末僚に列し、下席に参じ、薛君の吐握を降し、魏公の知遇を荷う。ここに於いて巾を沾し袂を雨し、識る可き顔を痛み、腸を回らし首を疾し、猶生の面を切る。伏して惟うに聖恩博厚にして、明詔爰に発し、王経の哭を赦し、田横の葬を許す。瑒は芻賤と雖も、窃かに亦心有り。王琳は寿陽を経蒞し、頗る遺愛を存し、曾て江右に游び、旧徳無きに非ず。東閣の吏に比肩し、西園の賓に踵を継ぎ、願わくは彼の境に帰り、還って窀穸を修めん。庶幾くば孤墳既に築かれ、或いは銜土の燕飛び、豊碑式に樹てられ、時に堕涙の人を留めん。近く故旧の王綰等既に論牒有り、仰ぎ蒙り制議し、陳ぶ所に遂わず。昔、廉公逝を告げ、即ち肥川に塋域を建て、孫叔雲亡し、仍って芍陂に楸檟を植う。此れに由りて言えば、抑も其の例有り。寿春城下に、唯だ報葛の人を伝え、滄洲島上に、独り悲田の客有らしめざらん。昧死して陳祈し、伏して刑憲を待つ。侯安都は其の志節を嘉し、又呉明徹も亦た数え夢む王琳の首を求むるを、並びに啓して陳主に陳べて之を許す。仍って開府主簿劉韶慧等と其の首を持ちて淮南に還り、権に八公山の側に瘞し、義故会葬する者数千人。瑒等は乃ち間道を以て北に帰り、別に迎接を議す。尋いで揚州人茅智勝等五人密かに喪柩を送りて鄴に達し、十五州諸軍事・揚州刺史・侍中・特進・開府・録尚書事を贈り、諡して忠武王と曰い、葬に轀輬車を給う。
王琳は体貌閑雅にして、立つと発は地に委ね、喜怒色に形せず。学業無きと雖も、強記内敏にして、軍府の佐史千数、皆其の姓名を識る。刑罰濫れず、財を軽んじ士を愛し、将卒の心を得たり。少くより将帥たり、屡々喪乱を経て、雅に忠義の節有り。本図遂げずと雖も、斉人も亦此れを以て之を重んじ、待遇甚だ厚し。敗れて陳軍に執らるるに及び、呉明徹之を全くせんと欲すれど、其の下の将領多く王琳の故吏、争いて来たりて請い致し、並びに相資給す、明徹此れに由りて之を忌み、故に難に及ぶ。当時、田夫野老、知ると知らざるとを問わず、之が為に歔欷流泣せざるは莫し。其の誠信物を感ずるを観れば、李将軍の恂恂善く誘うと雖も、殆ど以て加うる無からん。
王琳に十七子有り、長子の王敬は斉に於いて王爵を襲い、武平末に通直常侍。第九子の王衍は、隋の開皇中に開府儀同三司、大業初め、渝州刺史にて卒す。
張彪
張彪は何許の人なるかを知らず、自ら云うに家は本襄陽に在り、或いは云うに左 衞 将軍・衡州刺史蘭欽の外弟なりと。少くして亡命し若邪山に在りて盗を為し、頗る部曲有り。臨城公蕭大連東揚州に出牧するに、張彪率いる所領を以て之に客す。始め防合と為り、後中兵参軍と為り、礼遇甚だ厚し。侯景の将宋子仙東揚州を攻め下すに及び、復た子仙に知らる。後に子仙を去り、還って若邪に入り義を挙げ、子仙を征して捷たず、仍って剡に向かって走る。
趙伯超の兄の子趙棱は侯景の山陰令たりしが、職を去り張彪に従う。後に異心を懐き、偽り張彪に就き計り、酒を請いて盟と為し、刀子を引きて心を披き血を出だし自ら歃す、張彪之を信じ、亦た刀を取り血を刺して之に報ず。刀始めて心に至るや、趙棱便ち手を以て之を案じ、張彪の心に入らんと望むも、刀斜に傷つけて深く得ず。趙棱重ねて刀を取り張彪を刺し、頭面傷つけられ頓に絶ゆ。趙棱已に死せりと謂い、因りて外に出で張彪の諸将に告げ、已に殺し訖れりと言い、富貴を求めんと欲す。張彪の左右韓武入り視るに、張彪已に蘇り、細き声に謂いて曰く「我尚ほ活く、手を与うべし」と。是に於いて韓武遂に趙棱を誅す。張彪死せず、復た表を元帝に奉り、帝甚だ之を嘉す。
侯景平らぎて後、王僧辯之に遇うこと甚だ厚く、爪牙と為し引き、杜龕に相似たり、世之を張・杜と謂う。貞陽侯位に践み、東揚州刺史と為り、並びに鼓吹を給う。室は財に富み、昼夜楽声息まず。剡令王懷之従わず、張彪自ら之を征す。長史謝岐を留めて居守せしむ。会うところ王僧辯害せられ見るや、張彪自ら展拔せず。時に陳文帝已に震沢を据え、将に会稽に及ばんとす、張彪乃ち沈泰・呉宝真を遣わし州に還り謝岐を助けて城を保たしむ。張彪後至り、沈泰等反って謝岐と与に陳文帝を迎え入城す。張彪其の未だ定まらざるに因り、城を踰えて入る。陳文帝遂に走出し、張彪復た城を守る。沈泰陳文帝に説いて曰く「張彪の部曲家口並びに香岩寺に在り、往きて收取すべし」と。
遂に往きて尽く之を獲る。張彪の将申進密かに沈泰と相知り、因りて又張彪に叛く、張彪復た敗走し、敢えて城に還らず。城の西山の楼子を据え、及び暗くして弟の昆侖・妻の楊氏と去ることを得たり。猶ほ左右数人追随す、張彪之を疑い皆発遣し、唯だ常に養う一犬名を黄蒼とする者張彪の前後に在りて、未だ曾て離れ捨てず。乃ち還って若邪山中に入る。
沈泰陳文帝に説きて章昭達を遣わし千兵を領し重ねて之を購い求め、並びに其の妻を図らしむ。張彪眠り未だ覚めず、黄蒼驚き吠えて劫来し、便ち一人の喉を齧みて即ち死せしむ。張彪刀を抜きて之を逐い、火に映して之を識り、曰く「何ぞ悪を挙ぐるに忍びんや。卿我を須うる者は但だ頭を取り得べし、誓って生きて陳蒨を見ず」と。劫曰く「官去ることを肯せず、請う平地に就かん」と。張彪免れ難きを知り、妻の楊に謂いて鄕里と呼びて曰く「我鄕里の佗の処に落つるを忍びず、今当に先ず鄕里を殺し然る後に死に就かん」と。楊頸を引いて刀を受け、曾て辞憚せず。張彪刀を下さず、便ち相随いて嶺を下りて平処に到る。劫に謂いて曰く「卿我が頭を須う、我が身は去らず」と。妻を呼びて訣し、曰く「生死此れよりして別る、若し沈泰・申進等を見ば為に語れ、功名未だ立たず、猶ほ望む鬼道相逢わんと」と。劫生け得ること能わず、遂に張彪並びに弟を殺し、二首を昭達に致す。黄蒼号叫して張彪の屍の側に在り、血中に宛転し、若し哀しむ状有り。
章昭達進軍し、張彪の妻を迎えて便ち拝し、陳文帝の教えとして迎え家主と為すと称す。楊便ち啼を改めて笑と為し、欣然として意悦び、章昭達に請うて張彪の喪を殯らしむ。墳塚既に畢り、黄蒼又た塚間に俯伏し、号叫して離れ肯せず。楊還りて張彪の宅を経るに、章昭達に謂いて曰く「婦人は本容貌に在り、辛苦日久し、請う暫く宅を過ぎて莊飾せん」と。章昭達之を許す。楊屋に入り、便ち刀を以て発を割き面を毀ち、哀哭慟絶し、誓って更に行かず。陳文帝之を聞き、歎息已まず、遂に尼と為ることを許す。後陳武帝の軍人求めて之を取らんとす、楊井に投じて命を決す。時に寒く、比出づるに垂死し、火を積みて温燎す乃ち蘇り、復た起きて火に投ず。
張彪始めて若邪より起り、若邪に興り、若邪に終わる。及び妻・犬皆な時に重んぜらるる異なり。楊氏は、天水の人、 散騎常侍 楊曒の女なり。容貌有り、先づ河東の裴仁林の妻と為り、乱に因りて張彪に納れらる。張彪の友人呉中の陸山才沈泰等の翻背を嗟き、呉昌門を刊して詩一絶す、曰く「田横義士に感じ、韓王主臣に報ゆ、若し意気を留めんと為せば、持して禹川の人に寄せよ」と。
論
論じて曰く、忠義の道は、いずくにか常ならんや。善く言う者は必ずしも能く行わず、これを蹈む者は恒に忽せらるる所にあり。江子一・胡僧祐は、太清の末、名宦蓋し微なり。江は則ち自ら亡軀を致し、胡も亦これに期して命を殞す、然らば則ち貞勁の節は、歳寒自ら性有り。文盛は克終有るも鮮く、詩人の得て誡むる所なり。子春は戦に乃ち先鳴し、幽通に助け有り、及ぶに梁州の敗に至りて、以て濯足を尤と為す。杜氏は終に覆亡を致す、亦た云う、墓を図るの咎なりと。吉凶の兆、二者は豈に易くして知らんや。王琳は朝を乱し忠節を守り、志は仇恥を雪がんとす、然れども天方に陳を相け、義は弘済に難し、斯れは則ち大廈の構を落す、豈に一木の能く支うる所ならんや。張彪は一たび何懷に遇い、死して後已む;唯だ妻及び犬、義悉く人を感ぜしむ、記伝の陳ぶる所、何を以てか此れに加えん、異なるかな。